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からだと心の健康、大切にしたいですね。
このコーナーは健康にプラスになるメッセージを掲載しています。
 
更新情報
彊食自愛 2010.10

 

(1)炭水化物 (11)彊食自愛
(2)タンパク質
(3)脂肪
(4)ミネラルとビタミン
(5)食物繊維
(6)食べ方
(7)  
(8)楽観回路
(9)健康的人生への変革
(10)医食同源

 



 
 


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(1)炭水化物のはたらき

 以前は成人病と呼ばれていたものが、今は年齢にかかわらず子供にも現れるようになってきました。それで、厚生省では成人病という名を改めて、生活習慣病と呼ぶことに決定しました。
 糖尿病、肥満、高血圧、循環器の病気、癌(大腸癌)等が子供や若い人々にもでてきています。
 この病気は生活習慣を変えない限り直ることはなく、直っても再発してしまいます。
 つまり、どんなに神様に祝福を祈っても、生活習慣をかえなければ、また病状が出てしまうということです。これらは食習慣や運動習慣、また喫煙、飲酒などの生活習慣によってかかる病気だからです。
 アメリカではこの生活習慣病を取り除くために、5つの「S」を生活習慣から取り除こうと健康キャンペーンを行っています。

5つのS
 1.ソルト(塩)
 2.シッティング(座りっぱなし)
 3.スナックス(スナック菓子)
 4.スモーキング(たばこ)
 5.シュガー(砂糖)

 以上から、食生活が大きく影響を与えていることがわかります。
 同様に心の食習慣も偏よっていると不健康になってきます。健康な力を維持するためには、聖書のことばをバランスよく心の糧とすることに秘けつがあります。
 聖書のことばを心の糧とすることを、食生活と関連させて、考えてみたいと思います。

〈心の食生活〜霊的食生活〜〉
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(新約聖書 マタイによる福音書4:4)
 人は霊的存在者であり、聖書のことばひとつひとつが糧となります。肉の食欲にのみ、ひかれてしまってはなりません。

 これは以下の旧約聖書の箇所から語られたものです。
 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(旧約聖書 申命記8:3)
 神は何もない荒野で、300万人ものイスラエル人を40年間守られました。これは奇跡です。神はこれを通して、神の聖書のことばに従ってゆくなら必要なものはすべて与えられるということを教えようとされています。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(新約聖書 マタイによる福音書6:33)
 聖書のことばにも各々栄養素があります。この栄養素をどのような時にどのように食したらよいかを学びましょう。

【炭水化物→動機づけとなる聖書のことば】
 三大栄養素にはタンパク質、炭水化物、脂肪があります。その中の炭水化物はエネルギーとして使われるものであり、心が生かされるための動機づけとなる聖書のことばがこれに当たります。

(1)神の愛に生きる決心の聖書のことば
 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。(新約聖書 ヨハネによる手紙1:6)
 「心が生かされていく」ということは、ひと言で言えば「愛の内を歩む」ということです。神の愛の内を歩むことがクリスチャンとして生きる動機となり、心の大きなエネルギーをもたらします。

1.神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネによる福音書3:16)
 この聖書のことばは大変有名であり、ゴスペルということばは、この聖書のことばの各々の頭文字をとって作られました。この聖書のことばから、神がご自身のひとり子をささげてくださるほどに私を愛してくださったということを、痛切に感じることができます。

2.私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(新約聖書 ローマ人への手紙5:6〜8)
 すばらしい方から愛されるということは、自分に存在価値を与えてくれます。私たちは弱く不敬虔であり、罪人であったのに、神はあえて喜んで犠牲を払ってくださいました。それほどに関心を寄せてくださるという神の愛から、自分の存在感を認める勇気が与えられます。

3.しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(新約聖書 コリント人への手紙1 1:27,28)
 この世の中で無に等しい者、恥ずかしい者、取るに足らないと思われている人々を神は集めてくださいます。この世においては、どうしても弱いものは強い者によってしいたげられてしまいます。しかし、神は命の存在そのものの大切さを証明してくださっています。

4.わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(旧約聖書 イザヤ書43:4)
 神の目には、私は高価で尊いのです。神は私を愛してくださっています。

5.主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(旧約聖書 エレミヤ書31:3)
 神はいつも私に誠実であり、真実を尽くしてくださっています。どんなにわがままで不平をもっている時でも、神の愛は変わらず、私の良心に悪を行って滅びないよういつも真実をつくして語り続けてくださっています。

 これらの神の愛のことばを読む時、私たちの心は燃え続けることができます。それは、モーセの燃える柴のようなものです。神の愛の炎は、決して燃え尽きることはありません。それは又、十字架の愛の炎です。今も消えずに、人々に対して神の愛は燃え続けています。この神の愛の光を受けて、私たちは生まれ変わってゆくことができます。
 そしてこの愛は、永遠の都の明かりとして燃え続けます。
 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(新約聖書 黙示録22:5)

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(新約聖書 ヨハネによる福音書1:1〜4、1:9)
 人を照らすまことの光は、神の愛の光です。
 この神の愛の光を受ける時、私たちは生かされます。
 
 聖書のことばが心にないと感情に左右され、すぐに喜びも消えてしまいます。聖書のことばをしっかり心に植えつけましょう。又、これらの聖書のことばだけでは、動機づけ、エネルギー源のみになり、霊的脂肪がたくさんついてしまいます。

2000/8/20キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(2)タンパク質のはたらき

 前回は霊的栄養として、栄養素でいえば炭水化物(エネルギー源)である、心を生かす動機づけとなる聖書のことばについて学びました。私たちのエネルギー源は神の愛であり、神の愛に燃えることこそ霊の主食です。
 黙示録で神がエペソの教会に言われた事は初めの愛に立ち返りなさいということでした。
 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』(新約聖書 黙示録2:1〜7)
 素晴らしい働きをし、知恵に満ちていても、愛の炎が消えていたなら神の道から外れていると忠告されました。それほど神の愛を動機とすることは重要なのです。
 今日は三大栄養素の第二番めのタンパク質です。タンパク質はからだの肉、筋、皮膚、内臓などをかたち作る栄養素です。ですから良質のタンパク質をとることが必要だといわれます。

<霊的タンパク質とは>
 霊的タンパク質=神の愛を動機としたビジョンを持つ
 ビジョンとは、あなたが何のためにここにいるのかという存在理由を表します。これを私たちは聖書のことばを通していただきます。
 聖書のことばによらないビジョンは個人的野心や自己達成です。
 私たちは罪赦され救われて、すぐ天国に行きません。それは霊的成長のためだともいえますが、神様のご計画の一部を担うためでもあります。これが私たちが天から一人一人に与えられた生きる目的です。
 そのビジョンを具体的に描けるような聖書のことばが、個人個人に与えられています。
 なぜ、聖書のことばが私たちの血となり肉となるのかをまず以下の旧約聖書から見てみましょう。
 主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。(旧約聖書 エゼキエル書37:1〜10)
 これは自然のイスラエルと教会に対する預言です。教会史をふりかえると干からびた骨のように聖書から離れた時代もありました。骨となった教会が生き返るために神のことばを語りなさいと預言者を遣わされました。教会が再び生き返り、神の働きを行えるようになるためにエゼキエルにこの幻を見せられたのです。『骨に預言して言え。・・・骨よ。主のことばを聞け。』(エゼキエル37:4) とあるとおり骨が生き返るきっかけは、神の聖書のことばを聞くことでした。ヘブル語では預言という言葉を幻の意味にも使います。幻のない民はわがままにふるまうので、ビジョンをしっかり持つ必要があるのです。
 幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。(旧約聖書 箴言29:18)
 どんなに愛に燃えていても目標がなければそれは無駄になってしまいます。正しく愛のエネルギーを使っていくためにもビジョンを持つべきです。

<自分のビジョンを持つために>
 具体的にビジョンを自分のものとしていくために、この教会(キリスト教会 ジーザスフェローシップ広島)のビジョンを例にあげて見ていきましょう。

1.教会のアイデンティティーとなる土台の聖書のことば
 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(新約聖書 ヨハネの手紙?1:3)
 私たちのビジョンは神との交わりです。交わりとは人格どうしの関係のことです。では、どのような交わりを目標にしているのでしょう。
 罪から完全に離れることのできない不完全な者どうしであっても、その間に神様がいてくださるので、完全な者としての交わりができるということです。キリストのような完全な者に今すぐなる必要はありません。
 クリスチャンが2人または3人が集まる所にイエス様はともにいてくださり、すべての誤解や互いのたりなさを仲裁してくださるのです。完全な交わりを成就させる唯一の方法は、互いにキリストにあって赦しあうことです。 そしてこれが神様に喜ばれる秘訣でもあります。

2.土台をもとに具体的なビジョンを持つための聖書のことば
(1)
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(新約聖書 エペソ4:13)
 神様が私たちに求めておられる交わりは、子供との交わりではありません。キリストの身たけにまで成長した、対等の交わりを教会に求めておられます。ですから私たちもそれを目標にすることができます。具体的には次の2つになります。
 a.教会の働き手としてのスタッフを育てる。
 b.チャーチ・アンド・ホームスクールの実現
  (教会や家庭で子供達を聖書的解釈をもとにした教材を用いた学校教育
   と同様な学習させながら子供の心を育てていく)

(2) 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ15:1)
 クリスチャンはキリストにあって強く、助ける側の人です。力のあるものとして力ないものの弱さを担うことを目標に具体的ビジョンは次の4つです。
 a.海外援助(後進国への金銭的、人材的援助)
 b.障害者や老人が施設などで神の家族として受け入れられた
   ケアが受けられるよう働きかけをしていく
 c.みなしごを引取り、神の大家族をつくる
 d.何らかの理由で仕事ができない人やリストラされた人々を
   集めた会社の設立

<神様がしたいことを実行した人々>
 私は神様が教会を通してしたいと望まれていることをしていきたいと考えています。それを実際にした人達がいます。

 マザー・テレサは38才のとき、修道院という守られた、社会と隔離された場所で祈っていました。そして貧しい人々に仕えることこそキリストに仕えることだというビジョンを持ち、修道院を出て、実行に移しました。
 それは困難と苦難を伴う決断でした。修道院内からの批判もありました。 けれどもその働きに人々は心打たれ、援助の手が世界中から差し延べられ、テレサ1人で始めた働きは全世界に及びました。そこには彼女のビジョンを支えた多くの人の存在があります。

 神様は1つのビジョンに対して、現場で働く者だけでなく、それを支える人々など多くの働き人を起こされます。ですから、ことの大きさに関わりなく、個人個人のできる範囲での具体的なビジョンを持ち、自分の人生を投資していくようにしたいものです。

 インドの宣教師第一号といわれるウイリアム・ケアリは靴の修理職人でした。彼は100以上の学校をインドにつくり、大きな大学を3つも建てました。彼はインドに伝道をするビジョンを持ち、当時5〜6ケ国語をマスターしなければ合格できない牧師の資格を独学でとり、わずかな資金を手にインドに渡りました。宣教活動をしてる間、次男は死に、それが原因で奥さんは心を病み亡くなりました。個人的に多くの戦いがあり、神にこの道で良かったのかと尋ねながら進む毎日でした。
 母国イギリスは協力してくれませんでしたが、デンマークが彼の援助を申し出ました。伝道しても聖書を読むことができないインドの人々を目の前にした彼は、新たに学校をつくるビジョンを持ち、聖書をインドの言葉に翻訳し、印刷し、配布しました。
 当時インドでは夫が死ぬと妻もともに火葬される因習があったので、彼はそれを止めさせる運動をし、ヒンズー教の支援もとりつけ、その因習を止めさせました。神のビジョンを掲げて行動するとき、これほどの大きな働きが成されます。

 彼ほどの働きをすべての人ができるわけではありませんから、しりごみする必要はありません。ただ、聖書のことばに基づいた私のするべきことは何なのか、今与えられている環境を通して神様に私は何をしたら良いのか、どのように弱さを担うべきかをぜひ求めてください。そしてクリスチャンとして、あなたが持つべきビジョンを受けとって前進して行きましょう。

2000/8/27キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(3)脂肪のはたらき

<脂肪は必要なの?>
 イエス様の再臨の預言とされるこのたとえ話しは13節まで続きます。愚かな娘と賢い娘の違いは余分な油を持っているのか、いないのかでした。そのささいとも思える違いはイエス様の再臨のとき、結果として大きな違いをもたらすというのです。
 さて、霊的栄養素について学んできていますが、今日は『賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに入れ物に油を入れて持っていた。』(マタイ25:4) に注目して、霊的脂肪について考えていきましょう。

 肉体の脂肪について関心のある方は多いでしょう。

 脂肪は体に取り入れた糖質を燃やす補助燃料としての役割があります。

 体内の脂肪は寝ているだけでその40% が消費されるそうです。

 ところが同じ量の食事をしても太る人と、そうでない人がいます。その差は、基礎代謝(命を保つ最低限の消費カロリー)の違いにあり、筋肉質の人ほど代謝が多く、脂肪質の人ほど代謝が少ないといわれています。蓄えた脂肪が良く燃える新陳代謝がよい状態は健康です。

 新陳代謝がよければ、古い細胞が新しくなる働きが活発に行われます。

 脂肪質には蓄えるという性質があります。定期的に食べられるときがあれば、一日何も口にしない日もあるかもしれません。その備えとして、燃料を蓄えられるような体の仕組みになっています。ですから、脂肪は、なくてはならないものですが、多すぎても生活習慣病の原因となってしまう厄介なものでもあります。

<霊的脂肪の持つ意味>
 では霊的脂肪とは何でしょう。ビジョンを持ち走り続けるために、聖霊の炎といのちのともしびを燃やし続ける燃料が必要です。その燃料が霊的脂肪といえます。
 聖書のことばを参照します。
 そこで天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。(新約聖書 マタイによる福音書25:1〜4 )
 花婿を出迎える十人の娘は全員いねむりをしました。いねむりをしている間も感謝なことにともしびは消えませんでした。遅れていた花婿が到着しそうだとの知らせに飛び起きた娘たちは、後どれくらいで花婿が到着するのかを知りません。ただ、もうすぐだということだけは確かでした。そこで、賢い娘は、用意しておいた油をともしびの皿につぎたし、ともしびを整えます。愚かな娘はともしびを絶やさないために、油を買いに出掛けました。帰ってみるとすでに花婿は到着していて、門は堅く閉じられ、入ることができませんでした。(マタイ25:5〜12参照)
 イエス様を迎える準備をしていた娘たちは、待ちくたびれて、いねむりをしましたが、ともしびは消えませんでした。これは、いねむりをするような信仰生活であっても、いのちのともしびは消えないことを表しています。
 けれども、同じようにみえるともしびの違いは、イエス様が来られるときに現れます。それが、備えの油のある、なしです。
 現実の生活では、熱心なクリスチャンとそうでないクリスチャンは生活レベルに差が生じるでしょうか。熱心なクリスチャンが、裕福になり、そうでない人が貧しくなることはなく、どんな信仰生活を送っていても神様は同じように祝福を与え、信仰の熱心さで差をつけられることはありません。

 しかし、差が出てくるときが来ます。イエス様の再臨のとき、御国の内と外に分けられてしまうのです。ですから門の内側にいるためにも霊的食物の蓄えをしておく必要があります。

<備えの油を用意する3つのポイント>
(1)神の愛をなおざりにしない

 だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。(新約聖書 ルカによる福音書11:42 )
 パリサイ人はイスラエルの指導者であり、律法を守る模範者です。彼らは人から後ろ指をさされることのないように、モーセが与えられた律法をしっかり守っていました。聖書のことばにある収入の十分の一を宮に納めることは象徴的な行為です。形式だけ律法を守っている彼らにイエス様は公義と神の愛をなおざりにしていると忠告されました。
 律法を守ることは大切です。しかし、守ろうとする動機の方がもっと大切です。神様の優先順位はまず、心からの動機であって、その結果としての行動がおこされるのを待っておられます。外側をとりつくろうことはできますが、神様の前に、心をとりつくろうことはできません。神様は私たちのはだかの心をご存じです。
 備えの油を準備するために、神様の愛をなおざりにしてはいけないとイエス様は言われます。第一にするべき神様の愛を二の次にして、感謝をささげても神様を喜ばせることはできません。それは神様を軽くあしらっていることと同じだからです。
 日々、心から神様に感謝できる人は油が心に蓄えられ、迫害にあっても、試練があっても揺らぐことがなく、さらに感謝を捧げることができるようになります。そのために、神の愛と聖書のことばをしっかりと関連付けて、聖書のことばにたくさん触れていく必要があります。

(2)神様のしてくださったことを忘れない
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(旧約聖書 詩篇103:2 )
 過去に様々な神様のめぐみを体験されたことと思います。それを『何一つ忘れるな。』とあります。それは過去に神様がしてくださったことは、今日も未来も同じようにしてくださると信じることができるからです。でもそれだけではありません。過去のめぐみを脂肪として蓄えておくことによって、新たな神様の愛に燃えることができるのです。
 神様はどんなお気持ちで、過去にあなたに良くしてくださったのかを考えてみてください。答えは一つです。ただ、ただ、あなたを愛しているからです。あの時もこの時もと、たくさん愛されていた経験を思い起こすことができれば、神様を愛さずにはいられません。
 たとえ人からは不幸に見えるできごとでも、神様の愛の経験を持って考えれば、すべては感謝に変わり、悩むことも、愚痴をこぼすこともなくなります。

(3)互いに信仰に燃やされるための交わりをする
 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(新約聖書 第1テサロニケ5:11)
 これはパウロがテサロニケの教会に送った賛辞です。テサロニケの教会の素晴らしさは、霊的な実である交わりにありました。それは励まし合い、徳を高め合うクリスチャンどうしの関係が実のっていたからです。教会に行ったら励まされ、元気になれるのであれば、行きたくてしかたがないでしょう。そんな交わりの実現がこの教会にはあったのです。(第1テサロニケ1:5 〜6 参照)
 では、この教会には弱った人や不信仰な人はいなかったのでしょうか。そうではありません。『高められ』とあるからには最初は低いのです。『励まされ』とあるというのは最初は弱っていたのです。ところが交わりを通して低いものは高められ、弱っていたものは励まされ、強められたのです。
 ここで気をつけなければならないのは、影響を受けやすい人との不信仰な交わりは避けるということです。それは、互いを引き摺り下ろす結果を生むからです。不信仰な告白を受け止められないのであれば、愛をもってその人との交わりは避けるべきでしょう。悪いことを言うチャンスを相手に与えない、自分も悪いことをきかないというのも立派な愛の態度です。そして弱さを利用して、罪を容認することがないよう注意しましょう。
 どうか弱っている人はそれを受け止める強い信仰を持った人との交わりを通して励まされ、徳を高めていただきたいと思います。そしてその交わりをもって罪から離れることを目的としていただきたいのです。そうして互いに信仰を燃やされる交わりをしていきましょう。

<霊的肥満は、やっぱり危険>
 備えの油をたっぷりと蓄えておくと、忙しすぎて聖書のことばを聞くチャンスが多少減っても、大きな迫害を受けても揺らぐことのない信仰を燃やし続けることができます。
 しかし、体の肥満が不健康なように、霊的肥満もやはり不健康です。霊的肥満になると自分だけの満足にひたり、神様の愛を外に伝え流すことをしません。これは一種の霊的病気です。
 運動不足が、肥満の原因にあげられているように、霊的な運動つまり、神様の愛をあかししていくことも、霊的肥満対策として重要なことなのです。 これらをふまえて、肉の飽食にくらべ、霊の糧の乏しい日本にあって、しっかりと備えの油を用意していきましょう。
 また、神様の愛を軽んじてはいないか常に点検し、すべてのことは益となって、吸収されているのだと受け止められる信仰生活に導かれていただきたいと思います。

2000/9/3キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(4)ミネラルとビタミン

<ミネラルとビタミン>
 ミネラルとビタミンについてお話しします。5大栄養素というとき、炭水化物、タンパク質、脂質とミネラル、ビタミンが入ります。このミネラルとビタミンは少量で体が健康であるために様々な調整をする役目があります。 体のバランスをとるために不可欠なこの2つの栄養素は、体内で作り出すことができませんから、毎日外から取り入れる必要があります。海外では、食事と一緒にビタミン剤をとる習慣がありますし、日本でも最近は栄養補助食品がたくさん売られています。
 主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」…。(旧約聖書 イザヤ書28: 13)
 上記の聖句の前半部分に注目して聖書のことばを見て行きましょう。ここに『戒めに戒め、規則に規則』を二回もくりかえして言われていますから、よほど神様は強く言いたいことがおありなのだと想像できますが、少し窮屈な感じを受けます。
 当時のイスラエルの民は律法を自分達の守りやすいように解釈し、安易に守れるものだけを行うという状態にありました。神様は私たちをなまけ者にするために救われるわけではありません。神様は私たちが、賢い者となるために様々な戒めを置いてくださいました。ではなぜ、戒めにさらなる戒めが必要なのでしょう。それは一つの規則を守るためには補助となる規則が必要だからです。
 日本は民主主義国家です。民主主義とは、それぞれの人権を尊重することですが、それを守るために六法全書という厚い書物に書かれてある膨大な法律が必要です。一つのことを完全に守るためには、様々な角度から見た規則がいります。それは、その規則が極端な解釈によって、かたよらないために必要だからです。ですから『戒めに戒め、規則に規則』と不都合が生じれば、それを補うための新たな法律が増えていき、それらの法律によって、公平な判断のもと正しい道に止まっていくことができます。
 聖書全体は神様の戒めです。けれども自分の好きな聖書のことばだけを握っていては、それを極端な方向へ解釈して進んで行く危険性があります。それは糖分のとりすぎで、糖尿病になったり、脂肪のとりすぎで肥満になるのに似ています。そうならないためにも、私たちはバランスのとれた聖書のことばを受けとめていくことが必要です。

<信仰生活のバランスをとるための聖書のことば>
(1) 神の愛に燃え続けることを助ける聖書のことば

 あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(新約聖書 ヘブル人への手紙10:32〜39)
 これはローマ帝国の迫害を受け、心を弱らせているクリスチャンに向けた励ましの聖書のことばです。周囲の人からクリスチャンであることは犯罪だと言われ続ければ、心は次第に弱ってきます。自由社会の中では犯罪だという迫害はありませんが、罪への誘惑は常にあります。この世に調子を合わせる方が楽なので、罪の誘惑と戦い続けるとやはり心は弱ってきます。では、この聖書のことばはどのようにミネラルとなるのでしょう。

a.いつまでも残る財産を持っていることを知る(34節)
 彼らは財産をすべて奪われても喜んでいられました。それは、いつまでも残る財産があることを知っていたからです。いつまでも残る財産に私たちが心を向けていなければ、この世の財産の増減で私たちの信仰は高くなったり低くなったりの波を生じやすくなります。ではいつまでも残る財産とは何でしょう。それは信仰、希望、愛(新約聖書 第一コリント13:13参照) です。
 この財産が信じられれば、この聖書のことばによって、霊的ミネラルを受け、神の愛に燃え続けることができます。人は裸で生まれて、裸でこの世を去ります。けれどもクリスチャンは裸で生まれて、虫に食われることのない多くの財産を持って天に帰って行くのです。
 財産への欲求はそれが、この世のものなのか、霊的なものなのかの違いこそあれ、誰にでもあります。霊的財産があることを確認できる聖書のことばは、ときどきへそくりが増えていくのを確認するのに似ているかも知れません。この霊的財産を信じられれば、これらの聖書のことばは信仰生活のビタミン剤になり、この世の富に振り回されることもなくなります。

b.確信を投げ捨てない(35節)
 私たちに疑いを持たせる様々なことがこの世にはあふれています。神様だけは裏切ることがない真実な方であると確信し続けることが必要です。

c.信じていのちを保つ者だということを知る(39節)
 神様だけが真実なお方で、変わらぬ愛を注いでくださっていることを信じ続けることがいのちを保ち、神への愛の火を燃やしつつける秘訣でもあります。信じることこそ霊的ミネラルだといえます。

(2) ビジョンの確立を助ける聖書のことば
 
さらに、私に次のような主のことばがあった。「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。??神である主の御告げ。??」さらに、私に次のような主のことばがあった。それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』??神である主の御告げ。??」(旧約聖書 エゼキエル書12:21〜28)
 イスラエルの民が偶像礼拝に走り、神に背を向けている状態のときに、悔い改めなければ滅びると預言を受けました。受けた時は、おびえていた民も、その時がすぐに来なかったので、預言の日はもっと先のことなのだとか、預言は嘘だったと思い始めました。神様は悔い改めるチャンスを与えておられるのに、民は安易な考えにとどまり、悔い改めようとはしませんでした。そんな民への最後通告としての預言が、この聖書のことばです。
 イエス様の再臨に対して私たちはどんな感覚でいるでしょうか。再臨が近いということは、私たちが不信仰に陥って、滅んでしまう時よりも先に主の再臨は来るということです。言い換えれば、生きている限り、私たちは信仰を失うことがないのです。信仰が弱ってくれば、イエス様が励まし、聖霊様が内から支えてくださいます。それは一人も滅びることなく強くたくましいクリスチャンになって欲しいと神様が願っておられるからです。
 『…わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』(28節) 神が語られたすべてのことは、必ず成就するということは私たちの信仰のビタミン剤です。
 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(新約聖書 使徒行伝2:43〜47)
 上記の聖書のことばは初代教会の現実の姿で、これは神の預言(旧約聖書アモス9:11参照) が成就した状態です。そして現在の私たちのこの教会にも地上のすべての教会にも成就すると預言されています。
 神の語られたことは必ず成就すると信じることのできる人は、神からの幻を崩すことなく、実現に向かって歩むことができます。この教会(キリスト教会ジーザスフェローシップ広島)の5つのビジョン(タンパク質のコーナー参照)は初代教会の姿を現代に置き換えたものですから、これらが必ず成就すると信じています。
 (28節) の聖書のことばは私たちにとって大きな励ましであり、腐敗防止のビタミン剤です。
(3) 新しくされていくための聖書のことば
 
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(新約聖書 コロサイ人への手紙3:9〜10)
 この世では、年を重ねれば重ねるほど老化していきます。この聖書のことばによると日々、ますます新しくされていくというのですから、この世とは矛盾していますが真理です。

a.『互いに偽りを言ってはいけません。』(9節)
 神様の真理に対して偽りを語ってはいけないということです。聖書のことばの成就がまだ現実に起こっていなくても聖書のことばにある以上、それを偽りだと言えません。たとえ目に見えて新しくなっていなくても、私は新しくないと言うことは偽りを言うことになります。本来与えられていた永遠の肉体は、年を重ねるごとに新しくされ、かがやくものであったでしょう。この聖書のことばを信じたなら、あなたの霊は年を重ねるごとに生き生きと若々しくなっていきます。

b.『新しい人を着たのです。』(10節)
 キリストにしたがっていく人生が新しいあなた自身です。新しい人生を歩むことに心を向け、常に立ち返ることが必要です。お肌の手入れは外側からが3割、内側からが7割のケアが必要なのだそうです。霊の手入れも内側からのケアが不可欠です。外から見て立派な信仰でも内側がさびついているようでは困ります。聖書のことばは私たちのいのちのことばです。聖書のことばを信じることは、聖書のことばを食することです。ますます新しくされることをあなたが信じるなら、あなたの霊的老化は止まり、そこから回復が始まります。

 ビタミンは13種類、ミネラルは10種類あるといわれ、それぞれに違ったはたらきをします。聖書のことばはすべての人に多方面にわたって対応できる力を持っています。ひとつの聖書のことばにこだわらず、様々な聖書のことばをとりいれる心を持って、聖書を読んでいきましょう。そして、健全な神の子としての歩みを続けていきましょう。

2000/9/10キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(5)食物繊維のはたらき

 以前は、食物繊維は重要なものとして考えられませんでしたが、今では六大栄養素として数えられています。

       水溶性のもの………体内で吸収され、ビタミンやミ
                ネラルと同じような働きをする
 食物繊維   
       非水溶性のもの……便通を良くし、有害物質を吸着
                して外に出す

 特に非水溶性の繊維はガンのもとになるダイオキシンを外へ排出する重要な働きをします。これが不足すると、便秘がちになり、糖尿病、動脈硬化、胆石、高血圧の原因になります。
 しかし、食べ過ぎると、ビタミンやミネラルの吸収を妨げてしまいます。成人者の平均摂取量は一日20〜25gと言われています。
 体の健康のため、こういった栄養素について世の中の関心は高まっていますが、私たちは永遠のいのちのための、霊の食物(聖書のことば)にも、もっと関心を持つ必要があります。

<霊の食物繊維の働き>
 それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。(新約聖書 テモテヘの手紙2 2:19-21)
 福音が伝わってゆくにつれ、又、惑わしも多く入ってきました。
 そしてだんだん正しく聖書のことばを伝えず異端となる人々がでて来ました。そういった混乱の中で、主に信頼する人々は不義を離れなさいと神は促しておられます。
 魂に有害な物-不義、罪、汚れ このような物を吸着し、心の中から取り除いてゆく聖書のことばを取り込んでゆくことが大切です。
 不義を離れることは大変重要なことです。20節にある大きな家とは全宇宙のことであり、天国と地獄が存在します。尊い者達は天国に入り、卑しい者達は地獄へ行くしかありません。
 不義を離れな人は卑しい者として地獄へ行くことになるのです。これはとても恐ろしいことです。神は常に私たちを尊い器に用いようときよめの働きかけを私たちにしてくださっています。このきよめをしっかりと受けとめるなら、神にとって有益なもの、きよめられたものとなり、尊い器となることができます。
 それゆえ、食物繊維的な聖書のことばを受けとめてゆくことが大切です。食べやすい聖書のことばばかりを受け取っていては健康がそこなわれてしまいます。

<食物繊維の聖書のことば>
(1)悔い改めの聖書のことば
 
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(新約聖書 ローマ人への手紙2:1〜5)
 私たちが人を裁く時、気をつけないといけないことは、自分も罪を犯し悔い改めが必要な者であるということをわきまえることです。
 熱心に信仰生活に励んでいる人も、中途半端な人も何も違っていない、神の恵みは等しく注がれていると思ってしまう時、私たちは熱心にすることがばからしく思えてしまうことがあります。 
 しかし神の慈愛は、自主的な悔い改めを待っておられるからです。
 何か起こってからではもう遅いのです。悔い改めは裁きの前のチャンスです。神の慈愛にいつまでも甘えているのではなく、自らすすんで早く悔い改めて悪い心を改めてゆきましょう。

(2)訓戒と叱責の聖書のことば
 
訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。(旧約聖書 箴言15:32)
 叱責は悪から離れるためのものです。それゆえ心を閉ざすことなく訓戒と叱責を受け入れましょう。

(3)肉の欲を遠ざける聖書のことば
 
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(新約聖書 第1ペテロの手紙2:11)
 罪の誘惑に陥りやすい環境を改善しましょう。例えばテレビを見ることに気をつけ、遠ざける方法として、見たいときにすぐ見られないようにするという方法があげられます。自分の弱点となる誘惑は、できるだけ遠ざけ、すぐに手がつけられないくふうをすることが大切です。

(4)心をかたくなにしない
 
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。(新約聖書 ヘブル人への手紙3:12〜15)
 かたくなになるというのは不信仰になるということで。悪いものを外に出せない状況です。かたくなさを砕いて、祈ることが大切です。

(5)イエスの血の聖書のことば
 
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(新約聖書 ヘブル人への手紙9:14)
 イエスの血は私たちの良心をきよめ、死んだ行いから離れさせます。
 それは、そこに、神の私たちへの情熱的な愛が表されており、その愛にふれる時、私たちの心は燃やされ、罪から離れようという決心をもたらせるからです。
 その血に象徴されたイエスさまのきよらかな情熱的な愛を思い浮かべる時、私たちは罪から離れたいと心から思えるようになります。
 霊的便秘にならないよう、日々の霊的食物繊維をしっかりととってゆきましょう。

2000/9/17キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(6)食べ方

 前回まで、栄養素に合わせて聖書のことばを学び、聖書のことばをバランスよくとることの大切さを学んできました。
 今回は、その食べ方について学びます。
 食事は大きく分けて、家庭で作るものと外食のふたつに分けられます。食生活の中心は家庭料理であり、外食は主に楽しみのためであり中心とはなりません。

       礼拝、集会等 … ファミリーレストラン的
 外食
       特別の聖会  … 高級レストラン的
        (世界的器)

 外食は、毎日できるものではありません。日常の自分の家庭の食生活が、私たちにとってより大切なものです。つまり、普段の自分の心の霊的管理が大切なのです。自分を大切にしていなっかたら、他の人を大切にすることはできません。  

<食事の仕方>
(1)
また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(新約聖書 エペソ人への手紙5:2)
 主食である神の愛に燃える聖書のことばを、いつも思い起こす。
 あなたに、そのような神の愛を感じてくる聖書のことばがあるでしょうか。それを持っていなかったら、力が出ません。信仰生活のすべては、神の愛の内を歩むことであり、そこから出てしまうならキリストを捨てたこと
になります。
 自分が神の愛を感じられる聖書のことばを、何度でも思い起こすことによって、この世で疲れた魂が癒されてきます。

(2)あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(新約聖書 ルカによる福音書6:41,42)
 自分の状態を見極め、必要なものを見つける。
 まず自分の目にある梁に気づいて取り除かなっかたら、人のこともよく見えるはずがありません。自分がどういう状態であるかをしっかりと見極め、霊的に健康さを保ち、力を保つことが大切です。
 人間関係に疲れていたり、否定的感情に毒されていないでしょうか。あるいは調子にのってうわついてしまっていないでしょうか。自分がどれだけ健康なのか、全くわからない人は一番危険です。何故なら、わからないと何もしないからです。又、年数を経るほど老化現象を起こしていないかどうか点検し、聖書のことばをしっかりと読むことが必要です。

(3)私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ(旧約聖書 詩篇62:5〜8)
 必要を満たす聖書のことばを見つけ、祈りの中で黙想する。
 これが、現実に「食べる」ことになります。
私たちの神はことばなる神ですから、聖書のことばをしっかり心にとどめていないと、私たちは答えがきた時に、それが神からのものか、悪魔からのものか、又は自分自身の考えなのかわからなくなってしまいます。
 聖書のことばがしっかり土台となっているなら、その聖書のことばが生きて働いて私たちの心を判別し、すべての問題に対し効果が表れます。
 自分が必要な聖書のことばがみつかったら、神から啓示をいただけるよう祈って、聖書のことばを瞑想しましょう。

 この三つを信仰生活にしっかりと組み入れて、生活のリズムを整えてゆきましょう。聖書のことばを得ても、瞑想しないと消化不良になってしまいます。
 良く噛むとだ液がでて消化しやすくなり、脳が刺激されて健康になります。聖書のことばも同様に何度でもかんで、しっかり瞑想してください。聖霊のバプテスマを受けた人は、聖霊が私たちに聖書のことばの悟りを与えてくださいます。聖書のことばを聞いたなら、しっかりとそれをこなしてください。その時啓示されるのは、あなた自信が必要としているものです。

2000/9/24キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(7)水

水の作用として、3つの点があげられます。

  ・新陳代謝作用
  ・希釈作用
  ・鎮静作用
 
川で魚が勢いよく飛び跳ねたり、鮭が力強く川上りをしたりする情景は水に力をえたいのちの躍動を感じます。良い水は私たちに元気をもたします。 

また聖書のなかで、「生ける水」は良い水、生きている水、私たちを生かす水、という意味があります。神様が、私たちの霊・魂が健全さを保ち、クリスチャン生活が力強く生き生きとして若若しく過ごすために、この水を与えてくださっています。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネ7:38)

救い主イエス・キリストを信じる人は、神が約束してくださっている通り心の奥底、つまり霊の部分から生ける水が川のように流れ出るようになるというのです。

この生ける水が私たちにどんなすばらしいものをもたらしてくださるかを、3つのポイントに分けてお話しします。

1.新陳代謝作用…永遠のいのちへの水

“しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。”(ヨハネ4:14)

 私たち(成人者)の体は、じつに全体重の65%が水分でできています。そのうちたったの4%が失われる−すなわち渇く、と体に異常をきたし、気分が悪くなる、吐き気、感情マヒ、手足のしびれなど不健康な状態になるそうです。心に神のみことば・霊という生ける水が入ると、健康が保たれます。それらは私たちの内で泉となって、乾きを潤し続けます。この生ける水は食欲を満たすのではなく、正しい良心の内にある主を畏れる心を満たします。

 この世はみな死が待っています。この世に留まり続ける以上は、永遠のいのちを持つことはできません。しかしイエス様は、この世界が裁かれた後もたらされる新しい天と地、すなわち永遠の世界へ導く水、この世界に住んでいながらも、永遠の御国における生活をも保障するいのちを私たちにもたらす水を持っておられます。


 この世で疲れ、失望し、脱水症状を起こしている私たちに、この世の労苦がすべて報われるという希望を与えられます。また貪欲に悩まされたり、つらさを感じたりするからだの人生が終わり、新しいからだが与えられ、永遠の世界で今までと違う希望の人生が待っていると、みことばから約束されています。

 自然的にも、水には新陳代謝を促進する働きがあります。私たちの体は細胞分裂をし、古い細胞から新しい細胞へと新陳代謝をしていますが、それには水が不可欠です。水が不足すると、細胞が老化し、死んでしまい、新陳代謝が起こりません。良い水をいただくことで、常に細胞に活気を与え、健康な状態を維持し、細胞分裂をして、いつも新鮮な力が保たれているのです。あなたの正しい良心が弱っているなら、水が不足しています。

 神の永遠のいのちへのみことばの水は、私たちにこの地上における生活の労苦を回復させる希望を与えます。毎日でも、できるだけ多く、永遠に対する希望のみことばを目にし、耳にし、心に受け止め、御霊によって悟らせていただき、この地上で永遠という望みを切り開いていくことができることを、見つけ出していきましょう。

2.希釈作用…救いの泉の水

“あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。”(イザヤ12:3) 

 水には薄めるという希釈作用があり、そこに毒があっても、その影響力を少なくし、毒を受けないようにします。イエス様がくださる水は、罪という毒素から私たちを救い出します。すなわち、十字架のことばは、罪という毒素を薄めて、私たちの生活に影響をもたらせにくくします。もし水を飲まなかったら、罪の力によって、信じる以前と同じような罪の奴隷になっていたかもしれません。罪にむしばまれ、罪の力に対して弱くなっていると感じるなら、水が足りないのです。薄めることをしていないのです。十字架を見上げ、理解し悟ることがおろそかになっているのではないでしょうか。

 信じた時だけ十字架に感謝し、その後は日常生活の中で十字架を見上げなかったら、水を飲まないのと同じことです。最初だけはイエス様の十字架を受け入れ、罪が赦され、解毒作用によって喜びを実感していても、それ以上十字架を悟ろうともせず、他のみことばを見ても十字架に関することから一切離れてしまったなら、罪の毒素が強くなってしまいます。そして徐々に新しい魂が罪の毒素に影響され、また罪のとりこに引き戻されてしまう状況が起こってしまいます。救いの泉の水を飲むことが必要です。十字架の重要性、十字架の贖いをしっかり受け止めて参りましょう。だから、御霊とみことばの水を得るデボーションは大切です。

3.鎮静作用…いこいの水

“主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます”
(詩篇23:2)

 いこいは平安をもたらし、安心感を与えます。私たちは世の交わりでは緊張感、気遣い、ストレスの中に置かれており、いこいがなければ疲れは回復しません。水には鎮静作用があって、緊張、興奮状態の人が水を少し口にすると落ち着きます。神のおことばは私たちの地上の生活における様々なストレス、緊張感などを落ちつかせるいこいの水です。聖書を読む時に、その人の心の状態に合わせてみことばがいこいをもたらし、正しく物事を判断する冷静さを与えます。内におられる聖霊様によって、メッセージを聞いた時も、あなたの霊に悟りが与えられて、あなたの魂はリフレッシュされていくのです。

 主は私たちの牧者で、いこいの水のほとりに伴われるとありますので、ついていくことが大事です。そのおことばを心から尊敬し、味わって、あなたに語られているメッセージを汲み取っていけば、快くついていけます。いこいの水を飲みたいと思うならば、主との良い交わり方を身につけ、信頼し、ついていくことです。信頼関係をしっかりと神との間に築くことが大切です。

 このように、日常生活には水が欠かせないのと同じように、信仰生活にもみことばと聖霊様は欠かせません。聖書のおことばを何回も黙想し、悟らせていただくこと−これが神様とのおつきあいです。飲んだというしるしは、みことばが開かれ、いこいを感じられ、新鮮さが感じられ、救いの喜びがいつも感じられます。十字架を見上げることは大切なことです。イエス様が与えてくださる水を真剣に求めてまいりましょう。

2008/5/11キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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(8)楽観回路

 私たちはあれがなければ幸せになれない、これがないと不幸だと、環境によって幸せか不幸かを決めてしまいます。しかし本当は、環境や持ち物が幸せかどうかを決めるのではないようです。
 
 最近の脳科学の発達により、幸せは目の前に起こっている出来事に対して、脳がどう評価するかによって、幸せか不幸せであるか判断するそうです。脳の感じ方で、幸せかどうか決まるのです。ですから、お金があるからといって幸せだと感じるのではないのです。何か足らない、幸せはこんなものではないと、更に幸せを求めていくのです。
 
 私たちの頭の中には『楽観回路』というのがあるそうです。
「最近、脳の『楽観回路』についての研究が進んでいます。前頭葉を中心にした楽観的に物事を考える回路があるというのです。この前頭葉の働きが活発になると、幸せをたくさん感じるようになり、何事においてもプラスの行動がとれるようになります。つまり、不信仰(ネガティブ)から信仰(ポジティブ)へと、良いほうに向かうのです。この『楽観回路』の働きを活発にするのが、いのちのみことばなのです。」
 
 脳には、信仰を働かせるために必要な機能が備わっているのです。希望の神様に私たちが心を向ければ、『楽観回路』が活発になり、前向き、肯定的、ポジティブにすべて受け止めていくことができるようになります。
 
 人生の成功者というのは、どんな苦境の中にあっても全部前向きにとる人です。松下幸之助さんは良い例です。悪いこともすべて良い方にとり、新しいアイディアが生まれてくるのです。人間にはそういうポジティブな回路があるのです。不況になると宝くじがはやるのは、楽観回路が働くからです。

  しかしこの楽観は、前向きに変えることであって、問題を見ずに物事を進めることではありません。足元を見ずに進んでいけば、当然つまずくことが多くなります。問題を見て、それをいかに幸せだと感じるか、これが楽観回路の働きです。
 
 問題を見ようとせず、いいことばかりを見ようと、実現しません。橋のない川を渡ろうとして、「向こうはいいなー」とそのまま進もうとしても、そこには川という問題があるのです。しかし楽観回路は、「川の向こうに行きたい。でも橋がない。そうだ、橋を作ろう!」という発想ができるのです。これを、神様は私たちの脳に機能として与えておられるのです。
 
 その考えのきっかけを作るのが、創造的神のみことば、約束のみことばです。マイナスをプラスに、冬が春に変わるように、苦しみが幸せに変わるのです。これが私たちの脳の働きの中にあるのです。

『楽観回路活性化』1(エレミヤ書29:11)
“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
ー主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”
 
 あなたのネガティブな考え方をポジティブに変えるきっかけのみことばを、何回も黙想していく内に、みことばには力があるので、否定的な思いが変えられるのです。黙想の中で、聖霊様が脳に働きかけて、みことばの前向きな捉え方を啓示してくださいます。

☆『楽観回路活性化』のみことばからのポイント
「主は、私たちのために立ててくださった計画を、よく知っておられる。」
 誰がこのことばを語っているのでしょう。天地を造られた全能の神様が、私たちに語られているのです。あなたのために神が計画を立てられたのなら、それを必ず、その計画通りに進めていかれるお方です。そのような神への信仰が聖霊によって啓示されると「私の力や努力ですることではなく、神様に協力していくことなんだ。」とわかってきます。すると、自分の無能さは問題ではなく、神様に協力していくかどうかが問題なのだ、ということがわかるのです。
神様と共にしていけば、必ず計画は進んでいくのです。

「私たちのために立てられた計画に悪いものはない。」 
 神様は、私たちをいじめるために造られたのでしょうか。神様が悪いものを、私たちのために計画されたはずがありません。

「未来を見据えた、入念な計画に失敗はない。」
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている」と神様は言われます。例えばバイオリンを習っていて、芸大に行きたいとします。しかし、なぜこんなつまらない練習曲ばかりしないといけないのかと生徒は思いますが、先生は「私はあなたのために立てた計画をよく知っている。」と言います。それは、必ず希望の大学に入れるためのプランを立てていて、あなたに合った練習方法を計画しているということです。「よく知っている」というのは、その通りにしたら必ず願いがかなうということです。それに気づいたら、喜んで練習をします。
 神の目的は、私たちを造り主のかたちに似せてて、ますます新しくすることです。単にご利益宗教的にキリストの元に来て、そこで留まっていたら損です。もし、バイオリンで生活が立てられるという才能があるのに、そのままで留まっていたとしたら、もったいないことです。神様はあなたの将来に対して、念入りな計画を立てておられ、自信を持っておられるので、「よく知っている」と宣言しておられるのです。ついてきたら大丈夫だよ、と言われているのです。
 これらの裏付けを通して、いやだなーと思うことがあっても、喜びに変えていくことができます。神様についていけばいいのです。あなたが何かする必要はないのです。言われた通りにしていけば、1つ1つ進んでいくのです。
「神様の計画は、『冬』で終わるものではありません。ですから、みことばを黙想し、聖霊様によって「楽観回路」を活発にしていただき、『一陽来復』の人生を楽しみましょう。」

『楽観回路活性化』2(ローマ人への手紙8:32)
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”

☆『楽観回路活性化』のみことばからのポイント
「ご自分の御子をさえ惜しまずに、私たちの罪を贖うための十字架を歴史に刻まれた父なる神様。」
 この歴史的事実があるからこそ、神の計画を信じて、楽観的に受け止めることができるのです。私たちの信仰は、空虚なものを信じているのではありません。神様の立てられた計画が歴史的事実として刻まれているということは、神様の実行力に対する信頼が高まります。実行力のある人についていくと、安心できます。神様についていくだけで良いのです。ここで、気をつけなくてはいけないのは、神様がやってくれるので、神様にまかせて、自分は罪の欲望を満たす、という考え方です。本当の楽観とは、物事に対して強い信頼を持つことができるから、安心して物事を前向きに考えられるのです。裏付けがあるからです。イエス・キリストは預言通り、この世に遣わされた神の御子、救い主です。これは事実です。
 
 ついていくとは、みことばにチャレンジすることです。できるかできないかではなく、やってみることがついていくことです。
「言葉や口先だけの神様ではない証拠としての預言の成就は、神への信頼を高め、「楽観回路」の活発化によって、あなたを「一陽来復」としてくださるのです。」

『楽観回路活性化』3(ヨハネの黙示録2:5)
“それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。”

☆『楽観回路活性化』のみことばからのポイント
「どこから落ちたかを知らなければ、何をどのように戻せばよいのかわからない。問題から目をそむけることが楽観ではない。」
 悔い改めのポイントは、どこから落ちたかを知ることです。道を外れたら、その途中から方向を変えても、根本から直さないと元に戻りません。そのためには、思い出しなさいと言われています。時間がかかります。しかし思い出す中で一つ一つ改めていけば、最後は必ず根本的な問題に到達するのです。聖霊様は必ず助けてくださいます。その作業が大事なのです。過去を思い出すことは、悔い改めてもっと悲しい思いをせよと言われているのではなく、ずれた地点を正確に認めて、そこから直せば、もっと正確に悔い改めができるからです。
そこで必ず「難しい」という思いが出てきます。
「わたしの『難しい』という思いには、どのような意味が含まれているのか。いつから持つようになったのか。」
 チャレンジする前から、無理だ、私にはできない、という意味です。「難しい」ということは、できないことではないのです。
 難しいとごまかして取り組まないのではなく、できないなら「できません」と神様にハッキリと言ってください。神様は必ずみことばによって働いてくださり、計画を用意してくださっています。神様についていけば、必ず成るのです。楽観とは、ついていくことです。

「悔い改めは季節の変わり目と同じ。「一陽来復」のときです。そこには未来への希望があります。「楽観回路」が活動し始める時です。」
 悔い改めを通して、迷いの道を通して、冬から春に変わるのです。
 私(辻師)は以前は、春が来るとまた冬が来るというネガティブな考え方をしていました。いいことがあったら必ず悪いことが来るから、楽しいことをしたくありませんでした。しかし、聖霊の働きによって楽観回路が働き、冬が来ると必ず春が来る、苦しければ必ず楽しい時がやってくる、とまったく変えられたのです。
 私たちの脳には、悪いことがあるけど、必ず良いことに変わるという機能があるのです。それが罪によって逆にされ、的外れになってしまったのです。しかしイエス・キリストの十字架によって、冬から春になるというポジティブな元々の神様のご性質、能力を取り戻せるのです。
 どうぞ、悔い改めは、悩んでください。苦しんでください。でも春が来ます。ネガティブな人は、心がいやされることが必要です。そのいやしのみことばも聖書にあり、その実現は歴史の中に刻み込まれています。
 あなたはどちらに留まりたいのですか。神様は全部十字架で完成しておられるので、あとはついていくだけです。

2009/2/22キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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