■2009年2月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一陽来復 いちようらいふく  up 2008.2.22


悪いことが続いた後、ようやく良いほうに向かうこと。
また冬が去り、春が来ること。


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ー主の御告げ。ー それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29:11)


 

 

 私たちはあれがなければ幸せになれない、これがないと不幸だと、環境によって幸せか不幸かを決めてしまいます。しかし本当は、環境や持ち物によって幸せかどうかを決めるのではないそうです。
 最近の脳科学の発達により、幸せは目の前に起こっている出来事に対して、脳がどう評価するかによって、幸せか不幸せであるか判断するそうです。脳の感じ方で、幸せかどうか決まるのです。ですから、お金があるからといって幸せだと感じるのではないのです。何か足らない、幸せはこんなものではないと、更に幸せを求めていくのです。
 私たちの頭の中には『楽観回路』というのがあるそうです。
「最近、脳の『楽観回路』についての研究が進んでいます。前頭葉を中心にした楽観的に物事を考える回路があるというのです。この前頭葉の働きが活発になると、幸せをたくさん感じるようになり、何事においてもプラスの行動がとれるようになります。つまり、不信仰(ネガティブ)から信仰(ポジティブ)へと、良いほうに向かうのです。この『楽観回路』の働きを活発にするのが、いのちのみことばなのです。」
 脳には、信仰を働かせるために必要な機能が備わっているのです。希望の神様に私たちが心を向ければ、『楽観回路』が活発になり、前向き、肯定的、ポジティブにすべて受け止めていくことができるようになります。
 人生の成功者というのは、どんな苦境の中にあっても全部前向きにとる人です。松下幸之助さんは良い例です。悪いこともすべて良い方にとり、新しいアイディアが生まれてくるのです。人間にはそういうポジティブな回路があるのです。不況になると宝くじがはやるのは、楽観回路が働くからです。
 しかしこの世的な楽観と、クリスチャンの楽観は違います。クリスチャンの楽観は、前向きに変えることであって、問題を見ずに物事を進めることではありません。足元を見ずに進んでいけば、当然つまずくことが多くなります。問題を見て、それをいかに幸せだと感じるか、これが楽観回路の働きです。
 世の中の楽観は、問題を見ようとせず、いいことばかりを見ようとするので、実現しないのです。橋のない川を渡ろうとして、「向こうはいいなー」とそのまま進もうとしても、そこには川という問題があるのです。しかし楽観回路は、「川の向こうに行きたい。でも橋がない。そうだ、橋を作ろう!」という発想ができるのです。これを、神様は私たちの脳に機能として与えておられるのです。
 その考えのきっかけを作るのが、創造的神のみことば、約束のみことばです。マイナスをプラスに、冬が春に変わるように、苦しみが幸せに変わるのです。これが私たちの脳の働きの中にあるのです。

『楽観回路活性化』1(エレミヤ書29:11)
“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
ー主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”
 あなたのネガティブな考え方をポジティブに変えるきっかけのみことばを、何回も黙想していく内に、みことばには力があるので、否定的な思いが変えられるのです。黙想の中で、聖霊様が脳に働きかけて、みことばの前向きな捉え方を啓示してくださいます。

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「主は、私たちのために立ててくださった計画を、よく知ってお  られる。」
 誰がこのことばを語っているのでしょう。天地を造られた全能の神様が、私たちに語られているのです。あなたのために神が計画を立てられたのなら、それを必ず、その計画通りに進めていかれるお方です。そのような神への信仰が聖霊によって啓示されると「私の力や努力ですることではなく、神様に協力していくことなんだ。」とわかってきます。すると、自分の無能さは問題ではなく、神様に協力していくかどうかが問題なのだ、ということがわかるのです。
神様と共にしていけば、必ず計画は進んでいくのです。

「私たちのために立てられた計画に悪いものはない。」 
 神様は、私たちをいじめるために造られたのでしょうか。神様が悪いものを、私たちのために計画されたはずがありません。

「未来を見据えた、入念な計画に失敗はない。」
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている」と神様は言われます。例えばバイオリンを習っていて、芸大に行きたいとします。しかし、なぜこんなつまらない練習曲ばかりしないといけないのかと生徒は思いますが、先生は「私はあなたのために立てた計画をよく知っている。」と言います。それは、必ず希望の大学に入れるためのプランを立てていて、あなたに合った練習方法を計画しているということです。「よく知っている」というのは、その通りにしたら必ず願いがかなうということです。それに気づいたら、喜んで練習をします。
 クリスチャン生活もそうです。神様のご計画があなたにあるにも関わらず、その計画に気づかなければ、クリスチャン生活は辛いばかりです。しかし、神の目的は、私たちを造り主のかたちに似せてて、ますます新しくすることです。単にご利益宗教的にキリストの元に来て、そこで留まっていたら損です。もし、バイオリンで生活が立てられるという才能があるのに、そのままで留まっていたとしたら、もったいないことです。神様はあなたの将来に対して、念入りな計画を立てておられ、自信を持っておられるので、「よく知っている」と宣言しておられるのです。ついてきたら大丈夫だよ、と言われているのです。
 これらの裏付けを通して、いやだなーと思うことがあっても、喜びに変えていくことができます。神様についていけばいいのです。あなたが何かする必要はないのです。言われた通りにしていけば、1つ1つ進んでいくのです。
「神様の計画は、『冬』で終わるものではありません。ですから、みことばを黙想し、聖霊様によって「楽観回路」を活発にしていただき、『一陽来復』の人生を楽しみましょう。」

『楽観回路活性化』2(ローマ人への手紙8:32)
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「ご自分の御子をさえ惜しまずに、私たちの罪を贖うための十字架を歴史に刻まれた父なる神様。」
 この歴史的事実があるからこそ、神の計画を信じて、楽観的に受け止めることができるのです。私たちの信仰は、空虚なものを信じているのではありません。神様の立てられた計画が歴史的事実として刻まれているということは、神様の実行力に対する信頼が高まります。実行力のある人についていくと、安心できます。神様についていくだけで良いのです。ここで、気をつけなくてはいけないのは、神様がやってくれるので、神様にまかせて、自分は罪の欲望を満たす、という考え方です。本当の楽観とは、物事に対して強い信頼を持つことができるから、安心して物事を前向きに考えられるのです。裏付けがあるからです。イエス・キリストは預言通り、この世に遣わされた神の御子、救い主です。これは事実です。
 ついていくとは、みことばにチャレンジすることです。できるかできないかではなく、やってみることがついていくことです。
「言葉や口先だけの神様ではない証拠としての預言の成就は、神への信頼を高め、「楽観回路」の活発化によって、あなたを「一陽来復」としてくださるのです。」

『楽観回路活性化』3(ヨハネの黙示録2:5)
“それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。”

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「どこから落ちたかを知らなければ、何をどのように戻せばよいのかわからない。問題から目をそむけることが楽観ではない。」
 悔い改めのポイントは、どこから落ちたかを知ることです。道を外れたら、その途中から方向を変えても、根本から直さないと元に戻りません。そのためには、思い出しなさいと言われています。時間がかかります。しかし思い出す中で一つ一つ改めていけば、最後は必ず根本的な問題に到達するのです。聖霊様は必ず助けてくださいます。その作業が大事なのです。過去を思い出すことは、悔い改めてもっと悲しい思いをせよと言われているのではなく、ずれた地点を正確に認めて、そこから直せば、もっと正確に悔い改めができるからです。
そこで必ず「難しい」という思いが出てきます。
「わたしの『難しい』という思いには、どのような意味が含まれているのか。いつから持つようになったのか。」
 チャレンジする前から、無理だ、私にはできない、という意味です。「難しい」ということは、できないことではないのです。
 難しいとごまかして取り組まないのではなく、できないなら「できません」と神様にハッキリと言ってください。神様は必ずみことばによって働いてくださり、計画を用意してくださっています。神様についていけば、必ず成るのです。楽観とは、ついていくことです。

「悔い改めは季節の変わり目と同じ。「一陽来復」のときです。そこには未来への希望があります。「楽観回路」が活動し始める時です。」
 悔い改めを通して、迷いの道を通して、冬から春に変わるのです。
 私(辻師)は以前は、春が来るとまた冬が来るというネガティブな考え方をしていました。いいことがあったら必ず悪いことが来るから、楽しいことをしたくありませんでした。しかし、聖霊の働きによって楽観回路が働き、冬が来ると必ず春が来る、苦しければ必ず楽しい時がやってくる、とまったく変えられたのです。
 私たちの脳には、悪いことがあるけど、必ず良いことに変わるという機能があるのです。それが罪によって逆にされ、的外れになってしまったのです。しかしイエス・キリストの十字架によって、冬から春になるというポジティブな元々の神様のご性質、能力を取り戻せるのです。
 どうぞ、悔い改めは、悩んでください。苦しんでください。でも春が来ます。ネガティブな人は、心がいやされることが必要です。そのいやしのみことばも聖書にあり、その実現は歴史の中に刻み込まれています。
 あなたはどちらに留まりたいのですか。神様は全部十字架で完成しておられるので、あとはついていくだけです。

 

 

 

 

 

 

■2009年2月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   決河之勢 けっかのいきおい  up 2008.2.15


抑えようとしても抑えることができない激しい勢いのこと。

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
(コロサイ3:10 )


 

 

 私たちは、罪赦され救われたというだけではなく、「ますます新しくされ、真の知識に至る」という、到達すべき領域が示されています。
 救われて問題がなくなってしまった時、クリスチャン生活の目的を見失い、堕落してしまうという可能性が出てきます。仕事がないと、人はだんだんやる気自体なくなってしまいます。人間はそういう愚かなところがあります。しかし、私たちはまだまだ成長し、到達すべきところがあるのです。そしてそれこそが、神が私たちに対し願っておられることです。問題解決やいやしはゴールではありません。むしろゴールに行くためのしるしとして与えられる恵みに過ぎないのです。
 本来の私たちの目的は、「造り主のかたちに似せてますます新しくされる」ことです。これが存在の目的、ゴールです。どうしてこんな自分が、イエス様のように、神のようになれるだろうか…、あまりに程遠く感じても、これがゴールなのです。 
 ゴールはしっかりと用意されています。しかし私たちは度々そのゴールを見失い、あきらめ、怠けてしまいます。そして、その都度神様は、いろいろな問題を通して、私たちが目覚めるようにしてくださいます。
 ゴールにしっかりと目を据えて向かえない状況になってしまう理由は、私たちの内に湧き上がってくる「勢い」がないからです。この「勢い」とは聖霊の満たしです。この勢いを手に入れることが大切です。
「決河之勢」は、大雨で川が溢れて堤防が崩れようとしているその勢いのことで、一旦この勢いが来ると、もはや何ものもこれを止めることはできません。神の国を求めることにあまり関心のないクリスチャンでも、一旦内側からこの勢いが溢れてくると、神の国とその義を求める心が当たり前になってしまいます。しかしこの勢いがないと、いつの間にか、肉の欲の方に心が向いてしまうようになります。
 私たちが神と同じような状況まで成長し、成熟するために、イエス様は十字架で、すべての妨げとなる罪を処分してくださったのです。この世の問題は、いくら心が騒いでも、この世に生きている間だけのことですが、罪は生きている間だけでなく、死後にも残り続けます。いくら肉体を去っても、罪の苦しみは取り去られないのです。その根本的な罪の苦しみから、イエス様は私たちを解放してくださいました。

<「勢い」を内側にいただくために>
1.神の救いによって新しくされた自分を知る
A)以前と全く異なる、新しい存在とされた。(ガラテヤ3:26)
“あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもです。”
「神の子」と私たちは変えられました。それまでは存在の目的から外れていた、罪の奴隷でした。意味のない空しい存在であったのです。「神の子」は私たちの存在の意味であり、真のアイデンティティーです。ここから自分の存在目的をしっかりとつかむことが大切です。それは行いではなく、信仰によって、神がしてくださったことです。

B)以前と全く反対の新しい世界観を持っている。(エペソ5:8)
“あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。”
 世界観とは、価値観、倫理観、歴史観の3つに分けることができます。
 私たちは物事を判断する基準を、育ってきた環境などによって各々持っています。しかし、イエス・キリストを信じ、神の子とされた私たちは、今までと違った新しい世界観を持つようになったのです。
 それは作り上げてきたものではなく、与えられたものです。それゆえ経験はいりません。すべて新しく、神から新しい良心の内に与えられました。この尺度は肉の欲望の中にはありません。肉の欲望の尺度は、常に自分の都合のいいように変化していくものです。
この尺度、世界観は、努力ではなく、信仰によって、正しい良心の内に与えられたものですから、この世界観をもって、私たちはいつも神と同じ基準をもって物事を判断していくことができます。

C)以前と全く繋がりのない、新しい人生が与えられた。(ローマ人への手紙6:4)
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
 救い主は、神によって召命された者のみがなることができます。誰でもなれるわけはありません。イエス・キリストは救い主として
神によって選ばれ、私たちのもとに来てくださり、救いに必要なすべての手続きを行ってくださいました。私たちがすることは信じることのみです。今、信じた私たちは、全く新しい人生を歩んでいるのです。過去に囚われる必要はありません。過去の一切の罪を断ち切る手続きを、イエス様はすでにしてくださっているのです。
新しい人生を楽しみましょう。
 イエス様を信じることによって神がしてくださった3つのポイントを、自分のこととしてしっかり受け止めましょう。

2.新しい自分であり続けるために
A)新しくされる=新しく生まれる(ヨハネによる福音書3:3〜5)
“イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」”
 新しくされるとは、毎日新しく生まれ変わるということと同じ意味を持っています。水(洗礼)と御霊(神の霊)によって生まれるというのは法則です。洗礼は、神に対して180°自分の姿勢を方向転換したことを表し、また日々の悔い改めによって、その方向を神に向け続けることができます。悔い改めによって心の方向を神に向ける決心は、自分でするべきことであり、それによって洗礼の法則が自分の内に生きたものとなってきます。
悔い改めは、方向転換することであり、幸いなことです。

B)毎日、聖霊に満たされることを求める(エペソ人への手紙5:18)
“また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。”
 お酒を飲む時とは、一日の疲れを癒したかったり、リラックスしたい時でしょう。しかし、酔うと放蕩に走ってしまうという罠があります。
 むしろ、私たちは聖霊に満たされ、リラックスし、リフレッシュするようにしましょう。聖霊に満たされるすばらしさを味わってください。一日を喜んで力強く歩む力が豊かに与えられます。
 毎日新しく始められるよう、神は一日一日の区切りを与えてくださっています。それゆえ、水と霊という法則をもって、朝のデボーションによって昨日との見切りをつけて、今日という新しい自分を生きることができます。これを毎日続けていくことが「ますます新しくされ」ということです。

C)求めることは、交わること(第1コリント人への手紙6:17)
“しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。”
 何かをもらうには、その相手との関係がなければ難しいものです。親に対して子どもが何かを要求する時、親はその理由などを聞き、子どもは一生懸命説明するものです。そのように私たちも、神様に求める時、神様に自分の心を知っていただき、神様の御心を知るためにも、交わりを持つことがとても大切になります。
 神はあわれみ深く、愛に満ちた方です。デボーションを一日の初めに行うことによって、この神様との交わりを深めていきましょう。

聖霊に満たされるデボーション(コロサイ人への手紙3:9〜10)
“互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。”
 このみことばを黙想し、神様から悟りを与えられましょう。黙想していくうちに、私たちの心は神様の霊に触れられ、新鮮な喜びが与えられてきます。最初は少しずつであっても、日々続けていくうちに大きな流れとなり、「決河之勢jとなっていきます。毎日のデボーションを続けていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年2月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一望千里 いちぼうせんり  up 2008.2.8


風景が広々していること。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(第2コリント5:17 )


 

 

 「一望千里」とは、ひと目で千里の向こうまで見渡せるほど広がった世界です。その自然の美しさは、見た瞬間に、苦しみや辛さが取り去られてしまうほどです。その偉大さには、希望が含まれています。
 私たちの人生にも「一望千里」という希望が見い出せたなら、今の苦しみは一時的であり、永遠という未来に対する見通しが明るく、否定的な思いは消えるほどの心境になれます。「一望千里」の風景に目がとらわれ心奪われるように、イエス・キリストにある希望を見れば、今の苦しみは消えてしまい、その希望に頼って生きることがクリスチャン人生だと気づくことができます。この「一望千里」のクリスチャン人生を表したのが(第2コリント人への手紙5:17)です。

1.「過去を赦す」〜キリストの内にあるなら〜
 心が過去につながっている人は、どんなに目の前にすばらしい光景があっても、過去の不幸や辛さに思いが引き戻され、見なくなってしまいます。キリストは、そういう嫌な過去から、私たちを解放してくださいました。すばらしい未来があるにも関わらず、過去によって失望してしまうことのないように、過去を清算してくださったのです。これがキリストのうちにある、ということです。
 罪を赦すとは、罪があなたから切り離され、処罰されて、罪を犯していない者とされ、罪と分離されることです。過去の出来事(恨み、心の傷etc…)があると、前に進めません。過去の清算は神にしかできません。イエス・キリストの十字架は、被害者であろうと加害者であろうと、罪との関わりにおいてすべてを清算する完全な救いを与えてくださいました。神がご自分の栄光を捨てて、人となられ、私たちの罪のために苦しんで裁きを受けられたことは、信頼に足る歴史的事実です。そして神は、過去の一切の出来事を納得できるように公平に裁かれる方だと信頼できる時、あなたは過去から解放され、未来に向かって歩むことができます。これがイエス・キリストの罪の赦しの力です。過去を清算できるのは、イエス・キリストの十字架だけということを悟っていただきたいと思います。

・ノアが見た一望千里(創世記8:4)
 大洪水の後、神から言われて箱舟から出たノアの前に、一望千里の風景が広がりました。それは、大洪水の前の、箱舟を作るノアへの人々のあざけり、また大洪水に遭っていた人々の叫び…それらの過去を忘れさせてしまう新しい世界、新しいイメージでした。過去に戻れない、すなわち罪が切り離されて(赦されて)新しいものが目の前にある、というのがノアの思いでした。
 洪水前の罪深い世界に生きていたくなかったノアは、神の前に祈り求めていたのです。神はノアの心を見抜かれ、罪の世界から救われるために、箱舟を作るように命じられたのでした。罪の世界から救い出されるのがキリストの救いですが、逃げるのではなく、罪との関わりを一切断ち切るというものであり、罪を処分したという意味があります。
 あなたの今の人生は、罪とまったく関係のない、まったく新しい人生だと認める必要があります。そこから、神への感謝をささげる礼拝となるのではないでしょうか。キリストによって、日ごとに新しい一日が与えられており、ノアが見たように、毎日一望千里の光景を見た印象を持つことができるのです。
 過去をいつも切り離す救いを神は与えてくださり、ノアはそれを悟って礼拝をささげたのです。また、そのいけにえは、イエス・キリストの十字架を象徴しており、そのいけにえのなだめのかおりをかがれた神は、人々の罪を思い起こさないと言われました。つまり、救い主イエス・キリストが十字架で人々の身代わりに裁きを受け、罪の赦しを完成されることを象徴したいけにえのささげ物であり、すでに神の心に計画された、救い主が人々の罪のために死ぬ光景があったので、罪をいけにえの象徴のキリストの十字架で処分することで、安心されたのです。
 神の心にさえ、過去の罪が思い起こされないキリストの十字架は、あなたの罪の切り離しを意味していることを、どうぞ深く黙想していただきたいと思います。
『赦し』とは過去を切り離し、清算できたことを表します。それは、最初からやり直しができる希望を持つことなのです。

2.「今を受け入れる」〜新しく造られた者〜
 キリストが処分してくださった以上、罪が残っていないあなたは、常に義人です。仮に今罪を犯しても、キリストがその罪を処分してくださったので、義人として生きられるのです。ですから、「義人として生きていこう」という姿勢が、今の自分を受け入れることです。「罪を犯す者だから、クリスチャンとして失格だ」というのは、今の自分を受け入れていないことになります。義人である自分を受け入れることが、未来に向かって歩むポイントです。
 二千年前に、歴史的に十字架が成就した以上、神は義人としてあなたを見てくださっており、義人として自覚すると、罪を犯すことに注意するようになります。
 今を受け入れるとは、「イエス・キリストによって罪赦されて、神の目には罪のない義人である」ことを受け入れることです。これは真理であり、現実です。自分が義人だとわかれば、存在に自信が持てます。過去の赦しだけでなく、義人として生きられる身分が与えられていることは、明るい未来がもたらされています。

・アブラハムが見た一望千里
 神が自分に見せられた一望千里の場所で、現実には実子が一人もいないアブラハムは、「子孫が増える場所だ」と思いました。現実を受け入れる人は、「子どもがいない現実」を受け入れるからこそ、神の約束に対して希望を持つという、神への信仰が働きます。しかし、どんなに良い神の約束でも、子どもがいない現実のゆえに無理だという人は、実は現実を拒絶していることがわかりますか。子どもがいない環境を受け入れられないので、未来が見えないのです。現実を受け入れているから信仰を持てない、というのは、本当は見方が間違っています。
 神を信じるとは、現実を受け入れ、それが変えられることを信じることです。子どもが生めない不可能な状況を、神は可能にされるという神への信仰を働かせることによって「子どもが生めるんだ」と変えられていくのです。これは信仰の大切な原則です。人によって、どういうことに信頼を持てるかは違いますが、「神には不可能はない」と聞いたならば、アブラハムのように、あなたの未来を見てください。
 現実を受け入れるには、「変えられる」という約束が必要です。イエス・キリストの十字架は、その約束が間違いのないことを表してくださっています。この証拠のゆえに、「私は変わることができる」と言えるのです。現実を変えられる神への信頼のゆえに、今は子どもがいなくても、神は奇跡を通して、今見渡す限りのこの地上に私の子孫が増え広がるようにしてくださると喜べるのです。
 現実を受け入れられない人は、せっかく未来を約束されても、現実を見て失望します。しかし現実を受け入れる人は、現実を見ながら、「子どもができるんだ」と未来を見た告白ができるのです。
 みことばを聞いてすばらしいと思っても、現実を見て失望するのは、本当の信仰ではありません。「こんな自分が変えられる」と神の約束を通して、未来の自分に今の自分を重ね合わせられるのが、現実を受け入れている証です。アブラハムは神の約束を信じていたから、年老いても「子どもができる」と捉えることができたのです。 神は現実になる夢を見させてくださいます。みことばをチャレンジしていけば、必ず神があなたを変えられます。妨げるものは何もありません。「神は必ず変えてくださる」というのが、今を受け入れる一望千里の神への信仰です。不信仰のトリックを見破ってください。

3.未来を望む〜すべてが新しくなりました〜
 「すべてが新しくなりました」とは、希望にあふれたことばです。毎朝、一望千里の光景を見るような思いでスタートできるということです。「今日も新しい一日が始められる」と未来への神の約束を受け止めていくことができます。

・モーセが見た一望千里
 モーセの使命は、イスラエルの民を約束の地へ導くことであり、自分が入ることではありませんでした。ですから、カナンの地を見渡せる場所で、神にこの地に自分が入れないことを言われても、モーセは失望しませんでした。モーセは自分がここで地上の生活を終えた時、残されたイスラエルの民が、約束の地に入れるかどうかが心配でした。神は死ぬ直前のモーセに、「あなたがここまでイスラエルの民を導いてきたのだから、民がこの地に入る様子を思い浮かべなさい。あなたは使命を果たしたよ。」と一望千里の光景を見せられ、希望を与えられたのです。モーセは悔いなく天に召されることができると思ったに違いありません。
 もしあなたが、クリスチャン生活で自分の願いを果たすことが中心ならば、できなかったり、思い通りにならなかったりすると、失望して不信仰になることでしょう。なぜなら、自分のことしか考えていないからです。
 しかし、あなたには、神から与えられた地上での使命があるのです。それに気づいた人は、この地上でのすべての労苦が、使命達成のために神がなされていることだと思って、自分の人生を終えられるのです。自分の使命をぜひ見い出してください。その使命を持って生きることが、未来をどんなに希望を持って見ることができるかにつながります。

 福音は、神の恵みの最高峰です。そこからの『一望千里』の光景は、私たちに感無量をもたらします。それは過去から解放され、恵みの内にある自分を感謝し、永遠の未来を望み見る喜びの人生です。
第2コリント5:17のみことばは、あなたに『一望千里』の未来を見せてくれることでしょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年2月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   前途洋々 ぜんとようよう  up 2008.2.1


今後の人生が大きく開けいて、希望に満ちあふれているさま。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
(第1ペテロ1:3)


 

 

「望みの神が、前途洋々の未来のためにどのような救いを完成してくださっているのかを知ることによって、私たちは、生ける望みを持って歩むことができます。」

 私たちの人生における現状を見た時に、必ずしも「良い」とはいえない場合があると思います。しかし、未来は必ず良いものになると、神様は約束してくださっています。
 今、苦しみの中にいる人、辛いことの連続である人ほど、未来は明るいものになると言えるでしょう。
 この地上における神のご計画は、私たちを通して実現されるのが、神のご意志だからです。そして神には失敗はありません。ゆえに、私たちの未来は必ず良いものになるのです。これを胸に据えれば、日々のクリスチャン生活に生ける望みが生まれます。生まれた望みは意欲を生み出します。意欲は辛さ、苦しみから私たちを解放させます。
 人は心の持ち方によって何もかも変わるものですが、心に抱いた希望が現実的なものとして確信されるかどうかが、重要になります。空しく辛いクリスチャン生活からのチェンジはここがポイントです。生ける望みを持つために、一緒に見ていきましょう。

1.第1ペテロの手紙1:3「生ける望み」
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”

A)B)C)は、生ける望みを持つことができるために、神が用意してくださったものです。

A)神の大きなあわれみによる(エペソ人への手紙2:4〜5)
“しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、〜あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。〜キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。”
 あわれみ豊かな神の大きな愛は、何をもたらすのでしょうか。
まず、愛されているという実感は、人の生きる力の源です。また、どんな相手から愛されているのか、相手のすばらしさを知れば知るほど、その生きる気持ちの大きさは増していきます。愛されている人は、今楽しいか辛いかが人生の目的ではありません。神に愛されているという確信は、苦しみ、悲しみを力に変えることのできる希望を生み出すのです。
さらに、恵み=神からの一方的な贈り物、としての愛は、私たちの存在そのものに対して向けられています。良い者でも悪い者でも、大事なことに変わりはありません。しかし、大事なものであるがゆえに、汚れや悪に染まることは神にとって非常な痛みと悲しみです。どうか忘れないでください。

B)イエス・キリストの復活による(ローマ人への手紙6:4)
“私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。”
 神の前に罪なき者として共に歩むための法的手段がイエス様の十字架の御業です。十字架の、死と葬りと復活によって、信じる者を無罪にするこの法律が成立しました。そして、イエス様により完成された救いは、私たちも永遠の御国に連なることができるという約束の、絶対保証です。
「なぜ信じるという言葉だけではダメで、洗礼が必要なのか」という疑問を持たれる方も多いのですが、洗礼は、この救いの契約書への記名、サインです。同意するというしるしが必要なのです。そうして成立した契約は、罪を犯しても悔い改めれば赦され、道をそれたとしてもまた戻ることができる、しかも無限の回数を保証されています。さらに永遠の御国までもが与えられるというすばらしいものなのです。

C)聖霊による(テトスへの手紙3:5)
“神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。”
 理屈や文字や規則などの記録ではなく、実際に触れる、体験することのできるものを、神様は与えてくださいました。これは聖霊様によってのみ可能なことです。
 この方から溢れる泉は他のすべてのものの影響を退ける力を持っています。ぐらつく思いも押し流していくことができます。聖霊様によって与えられる実感、新生と更新は、神の御霊と直接触れあう瞬間でもあり、揺るがない信頼と喜びのために欠かせません。

2.どうして「前途洋々」なのか?
A)死の領域から、いのちの領域へ(ヨハネによる福音書5:24)
“まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。”
 死の領域は、何をしても否定的であり、何をしてもやる気がなくなり、そして最終的には全部無駄になるという、悪い結末が待っています。
 いのちの領域は文字通りいのちが満ちあふれていますから、否定的で病んでいて、暗い沈んだ心の状態であっても、周りじゅうに満ちているいのちの影響を受けて、回復されて、健全ないのちに戻ることができます。
 クリスチャンたちは、どんなに辛いことも悲しいことも、喜びと楽しみの良い状況に移されていきます。「そんなことはない。自分は不幸だ。」と言い続けている人は、それを認めず、いのちを受け入れていないだけなのです。こんな私でも大丈夫なんだと言える良い世界、いのちの領域をよく見てください。

B)暗やみの圧制から、御子の支配下へ(コロサイ1:13)
“神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。”
 暗やみが王様の国と、イエス様が王様の国があります。ここで注意してください。暗やみの支配者であるサタンは、神が支配者であるイエス様の国を攻めるなんて、とうていできません。
 私たちの居場所は、神の主権に守られた国ですから、自分は弱くてどうしようもなくても心配ありません。悪い事柄に関するものは、古い習慣として意識して捨てていくことができます。もはや罪の力の支配はないのですから、自分の意志で切り離していけるのです。イエス様を信じている正しい良心を責めてくる、様々な悪い思いとも戦うことができます。もし負けても、イエス様の国にいることは変わりません。再び立ち上がることもできます。
 たとえあやふやな状態でいるとしても、それができるのはイエス様の国の自由にいるおかげです。暗やみの国なら、束縛されて圧倒されたまま、自由が利かないはずです。
 念を押しますが、神の国にサタンの力は通じません。私たちはただ、生きる望みを失わないようにしましょう。それは、「神は私を愛してくださっている」「救いに必要な手続きは終わった」「私は聖霊に触れられている」と心に留め続けるだけで十分です。
今日の自分に失望しても、明日の自分には望みを持つことができます。望みの神がいてくださるのですから。

C)貧しい者から、御国の相続人へ。(ヤコブの手紙2:5)
“よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。”
 貧しい者には権利がありません。要求することもできず、与えられる分も存在しません。だから貧しいのです。
 相続者は、継ぐ者としての権利があります。当然、後継者としての要求もできますし、受け取る分もしっかりあります。
 私たちはいのちの領域に入れられ、そこには神の主権があり、更に自分が受け取るべき財産まで存在します。この自分に与えられた権利に目覚めると、人は変わります。ちなみに、御国の後継者の受け取る分は、この地上にも要求できるものがたくさんあります。この特権を聖書から探し出してください。
 みなさんの欲しいものはなんですか?必要はなんですか?飢え乾きが、この特権の価値を人に見出させます。
 希望は喜びを見い出し、喜びは希望を連れてきます。これは互いを呼び合うのです。さあ、この人生を希望と喜びに満ちて、今の困難を乗り越えていきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年1月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   日進月歩 にっしんげっぽ  up 2008.1.25


月日とともに、絶え間なく進歩していくこと。

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
(ヘブル7:24〜25)


 

 

「救いの喜びは、過去のものとなってしまうのではなく、今も救われ続ける喜びであることを忘れないようにしましょう。」

 今週は、喜びは信じた時だけのものではないことを、共に学んでいきたいと思います。
 私たちはイエス様を信じて救われましたが、まだ完成には至っていません。ですから、私たちの信仰生活は「日進月歩」に表せます。信じた時がスタートで、完成というゴールに向かって歩んでいく救いなので、救いの喜びは日々増し加えられていくということが、神様の計画しておられる信仰生活なのです。ゴールに向かって救いは進歩していくのです。以前よりも更に新鮮な、すばらしい救いを体験することができるのです。

1.救いは今も進んでいる。
A)キリストは変わることのない祭司
1)その役割は、神と人との仲保者
 神と人との間に立つ人を仲保者と言います。仲保者は両方を結びつける役割で、イエス様はそのような方です。

2)その務めは、人が義とされるために律法を全うする祭司。
 人は神様の言われることを完全にはできないので、祭司が代わりにそれを完全に行うのです。それゆえ、一般の人が祭司にお願いをして、祭司が仲介者として取り持つのです。ですから、祭司の務めは神様の命令を完璧に行うということです。1つでも犯してしまうと、祭司の役割ができなくなるのです。
 イエス様は、モーセの律法を完璧に行うことのできた、ただ一人のお方でした。だからイエス様を通して、私たちは神様にお願いできるのです。
 イエス様が来られるまでは、いけにえのルールを完璧に守ったら願いを聞いてくださったのですが、このいけにえはイエス・キリストを象徴したもので、全ての律法を守られ、ご自身をいけにえとしてささげられ、贖いのみわざを完成されたので、このイエス様を通して救いを得ることができるのです。

3)その働きは、人の願いを神に伝えてとりなす。
 神様は本来、罪人の願いを聞き入れることのできない聖いお方ですが、仲保者であり義と認められた祭司であるキリストを通して、願いを聞くことができる道を備えられました。
 とりなすとは、単に伝えるだけではありません。願ったことを必ず聞き届けてくれるようにと、交渉してくれるのがとりなしです。
イエス様は、私たちの願いをよく理解してくださり、私たちの代わりに、父なる神様が応えてくださるまで交渉してくださるお方です。
イエス様は願いがかなえられるために動機を修正してくださり、必ず聞き届けられるようにしてくださいます。それが祈りの時間です。 しかし、それには時間がかかり、私たちの方があきらめてしまって、祈りの答えを受け取れないことがあるので、気をつけていきたいと思います。私たちは不完全なので、イエス様はとりなし続けてくださるのです。

2.救いのスタート(第1ペテロの手紙3:21)
“そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。”

A)大洪水は新しい時代のスタートでもあった。
B)バプテスマもその人の人生再スタートである。
C)そのスタートは、正しい良心による神への誓いで始まる。

 神様はノアの箱船の時、以前のものは全て滅ぼされ、全く新しい世界を一から始められました。洗礼は同じ意味を持っています。今まで神様と共に歩むことをしていなかった人生は終わって、神と共に歩む人生を始めることです。洗礼とは罪を取り除くことではなく、新しいスタートをきる、神への誓いであるということです。
 スタートなので、ゴールを目指して進んでいく必要がありますが、山あり谷ありで、いろんな辛いことがあるでしょう。そんな時にイエス様に祈って元気づけられ、励まされて進んでいくのです。
 マラソンはゴールに近づけば近づくほどしんどくなります。クリスチャン生活も長くなればなるほどしんどいと感じるのですが、それはゴールに近づいている証拠なのです。

3.救いの完成(エペソ人への手紙4:13)
“ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。”
 キリストのようになるために、私たちは造られました。キリストに近づくために救われ、日々成長させられているのです。アダムが罪を犯したのは、神の子として完成するためのスタートだったと言えます。
 罪を犯して罪の苦しみを味わう経験をするからこそ、罪に打ち勝つ神の子と成長することができるのです。これを悟った人は、神を畏れて、神の子として成熟することが人生の目的なんだと、どんなに辛いことが起きても、それは神の子としての性質が引き出されるためだと受け止めて、前進していくことができるのです。それはゴールに向かって歩んでいるからです。

●01/26(月)「罪の赦しによる救い」(ルカによる福音書1:77)
“神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。”
1)罪が赦されて、何から救われるのでしょうか。
 罪の裁きから救われることが、罪赦されるということです。

2)人の罪を赦すために、神はどのような手続きをされたのでしょう。
 あなたが罰せられないということは、代わりに誰かが罰を受けたのだということを思い起こしてください。

●01/27(火)「曲がった時代から」(使徒の働き2:40)
“ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。”
1)今の時代は、どのように曲がっているのでしょう。
道徳的に正しいことが軽んじられ、悪いものが重んじられています。

2)それから救われるとは、どのような意味でしょう。
 曲がった時代の中には生きていますが、それに合わせることはなく、神が用意されたまっすぐな道を歩むことです。

●01/28(水)「看守が願った救い」(使徒の働き16:30)
“そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには何をしなければなりませんか。」と言った。”
1)看守の求めている救いとは何かを考えてみましょう。
2)人はどのような救いを求めているのでしょうか。
 この超自然的なことを体験した看守は、どんな救いを求めたのでしょうか。単に病気がいやされることや問題解決ではなく、全ての根本は一体何から救われたいのか考えてみましょう。

●01/29(木)「今の悪の世界から」(ガラテヤ人への手紙1:4)
“キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。”
1)今の悪の世界とは、どういう意味でしょうか。
2)そのような悪の世界から救い出されるとは?
 私利私欲のために生きている人が多くいて争いが起こり、弱い者が犠牲になっている世界です。本来は、弱い者の重荷を負うことが、強い者の存在の意味です。
 この世の価値観からクリスチャンは解放されないといけません。私たちは互いに助け合い、愛し合うために救われたのです。

●01/30(金)「暗闇の圧制からの救い」(コロサイ人への手紙1:13)
“神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。”
1)暗やみの圧制とは何かを考えてみましょう。
2)その圧制から救われているとは、どのような状況のことでしょうか。
 この暗やみの圧制とは、目に見えない力、権威、霊的存在者のことです。霊は言葉であり、考え方です。霊的現象よりも、悪い言葉を自分の中に入れてしまうことが問題です。怒りや欲望等に囚われることです。その暗やみの圧制はイエス・キリストの御名によって打ち砕くことができます。

●01/31(土)「神の怒りから」(第1テサロニケ人への手紙1:10)
“また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。”
1)神の御怒りはどのような人に向けられるのでしょうか。
2)神の御怒りは、どのようにして鎮めることができるのでしょうか。
3)神の御怒りから、私たちはどうして救われるのでしょうか。
 神の怒りとは、最後の審判のことです。それは神を無視する人、不敬虔な人に対して向けられます。その罪を取り除いたら、神の怒りは鎮められます。それはイエス・キリストの贖いのみわざによって成就されました。そのことを信じる人は救われます。
 今、私たちと神様との間には平和があります。それは罪の赦しが成就したからです。大きな犠牲を払われたことを忘れず、救われている喜びを毎日忘れず、ゴールに向かって歩んでいることを覚えて進んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年1月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   移木之信 いぼくのしん  up 2008.1.18


必ず約束を実行すること。


あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(第1ペテロ1:8〜9)


 

 

『私たちの救いの喜びと確信は、必ず約束を実行される神様である という信頼からのものです。それは、救い主についての預言が成 就したからです。このことをしてくださった神様に望みを持ちましょう。』

 この手紙が書かれた頃、初代教会の人々は、国家規模の迫害を受けていました。弟子たちは次々と殉教していき、イエス様に直接会ってはいない人々が大半になる中、クリスチャンがますます増え広がっていったのはなぜだったのでしょう?信じた人々が喜びに満ちた人生を送っていたからです。それは彼らの、魂の救いにあずかった喜びに、人々が影響された結果だと言えるでしょう。環境的苦しみなどはねのけるほどの喜びが、クリスチャンたちの中に溢れていたのです。
 私たちも教会内だけでなく、日々の社会生活の中で、神に愛されている存在としての喜びをもって生きていきたいものですね。
愛されている存在としての喜びは、魂が感じることのできるものです。これがあれば、どんな困難も乗り越えていけます。今弱っている人は、五感のみに頼った生き方をしてはいませんか。
 ではどのような正しい良心の持ち方をしたら、喜びにおどる日々を送ることができるのでしょうか。

「移木之信」
古代中国の戦国時代。ある国の政治家が、「北の門にある木を、南門に移した者に賞金を与える」とのおふれを出した。「そんな簡単なことで多額の賞金が出るなんてあり得ない」と多くの者は疑い、信じなかったが、その約束を信じた一人の者が木を北門から南門に移しかえた。するとその政治家は、約束通りに賞金を与えた。

 正しい良心からの神への信頼は喜びの源となります。私たちにとっては、イエス様の十字架の死と葬りと復活を信じることが木を移すことであり、そして来たるべき裁きの日が賞金にあたります。
 神を信じたくない人々は、どんな証拠を見ても逆に信じません。すべてのものを疑うのです。

1.「信じる」とは?
「信じる」心の流れを見てみましょう。
まず、自分が今持っているものは信じる必要がありませんね。
今持っていないもの、実現してないことがあるとします。そうすると、欲しい、実現したいと思いますね。さらに、望んでいることの実現を保証してくれる誰かがいれば、うれしくなってきませんか?その誰かが絶対に信頼できる相手ならなおさらのことです。
すると、喜びが湧き上がってくるのです。既に持っているかのように、うれしくてたまらなくなり、約束がかなう日を指折り待ち望みます。そして約束は必ず実現するのです。

2.「たましいの救いを得ている」とは?
 あなたは救われる必要を感じたことがありますか?人生にはいろんな悩みや問題がありますね。世の人々は、「しょうがない」とそれらの問題を放り出し、目隠しをして生きています。しかし、それらの苦しみに対して、神に答えを求めているからこそ、皆さんはここにいらしたはずです。
「でも苦しみはなくならなかった。」と言われる方もあるでしょう。苦しみがなくなったら、私たちは神に何を求めるのでしょうか。今、私たちがこの世界で悩み苦しみのある人生を送っている理由は、神に期待し、求め続ける信仰のある人生であり続けるためです。そして、希望がかなうことを期待するなら、大きな喜びが湧いてくるのです。
「救われた」とは、真実なる神が約束してくださったということを信じ、約束が成就する日を待っている状態のことです。
 神はひとり子=すべてをかけて、私たちを贖ってくださいました。十字架はその証拠として歴史に刻まれています。ならば、自分が現在どのような状況、状態にあろうとも、神の誠実を信じるがゆえに、すべてをプラスに前向きに受け取ることができるのです。
 苦しいから辛いからこそ、探して、求めて、見つけ出して期待するのです。期待すれば心に喜びの泉があふれて、知・情・意に働く不信仰が流れ去っていきます。望んでいる事柄に対する大きな期待と、約束してくださった方への信頼。これらがあれば、「いつなのか、まだなのか」と不平をもらすことなく、「神が一番良い時に与えてくださる」と信じて待つことができます。
むしろ私たちは、神がいつ与えてくださってもいいように、しっかりと下準備をしておくべきです。
 たとえば広島エルサレムプランも、手をこまねいているばかりではしかたがありません。自分はどんな計画があるのか、どのような用意が必要かなど、はっきりとしたビジョンをもって準備をしておくのが私たちの仕事であり、信仰の行動です。
いざ神が人々と予算を与えてくださっても、私たちがいいかげんな状態では、世の人々に振り回されて、一時的な熱で終わってしまいます。そうならないために、自分を省みて、信仰を整理して、人々に証と指導ができるようになっておきましょう。

●1/19(月)「交わる喜び」(使徒の働き2:46)
“そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、”

神への信仰を通して、同じ信仰を持つ者同士の交わりができます。

●1/20(火)「神の栄光への期待」(ローマ人への手紙5:2)
“またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。”

 これから神は、聖書の約束をこの世界においてどのように実現してくださるのでしょうか。人ではあり得ない神の奇跡と栄光を待ち望みましょう。

●1/21(水)「家族の喜び」(使徒の働き16:34)
“それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。”

 共通の話題を持つ家族は楽しいものですね。特にクリスチャンの家族は、「生きる」ことを常に語り合うことができます。親子で、夫婦で、人生に一番大事なことについて語り合えるのはすばらしいですね。

●1/22(木)「聖霊による喜び」(第1テサロニケ1:6)
“あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。”

 すばらしい人格者であられる神の御霊にお会いした時の喜びを覚えておられますか。まだお会いしたことのない方はぜひお会いしてください。この方には、みことばを聞く時に会うことができます。聖霊様はみことばを通して働かれます。聖霊様が、みことばを通して触れてくださいます。この方によって悟りが開かれる時に、喜びがあふれます。聖霊様に出会うために、日々のデボーションを大切にしてください。

●1/23(金)「福音による喜び」(使徒の働き13:48)
“異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。”

 『イエス・キリストの罪の赦し』という良き訪れについて、クリスチャンは毎日考える必要があります。この偉大なみわざの重要さ、ありがたさは、人生の日々の途上で、少しずつ感じていくことができます。十字架が歴史に刻まれた事実であることの意味をかみしめていきましょう。

●1/24(土)「試練に対する喜び」(ヤコブの手紙1:2〜4)
“私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。”

 試練は忍耐を生み、忍耐は完全な者を作り出します。
約束には一方的なものもありますが、自分にも守るべき事柄が与えられる時もありますね。この場合は、私たちが試練を忍耐すれば、完全な者へと神が変えてくださるという、双方に守るべき事柄がある約束です。自分が試練を受けるたびに、完全な者になっていけるという喜びと期待がそこにあるのです。
「なぜこんなに試練が続くのだろう」と思われる方は、先のことを考えてみてください。宝石はあちらこちらの面を磨きます。全部の面を磨き終わるまで、研磨は続きます。しかし、完成したその輝きは人々を魅了するのです。あなたの人格も、磨き終わった時の輝きは、どんな宝石よりも美しいものになるでしょう。
 もう一度言いますが、十字架のみわざをいつも思いみてください。これが神話ではなく事実であることの意味を、よく考えましょう。神を信じている人はもちろんですが、信じていない人も、歴史上の事実を変えることはできません。これは揺るぎない事実なのです。
 ただ、クリスチャンたちにとっては、多くの預言者たちを通して約束された救い主を現実にされた神が、今度は自分への後の約束をどう実現してくださるか、ということに対しての大きな期待を寄せるために、大事な支えとなります。神は本当におられ、約束を実現される方なのです。
 さて、今度は皆さんを通して、神がどのような栄光を現してくださるのでしょうか。自分に与えられたすべてのものを使って、その召しにお応えしていきたいものですね。

 

 

 

 

 

  

■2009年1月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   箕山之志 きざんのこころざし  up 2008.1.11


俗世間から離れて、自分の節操を守ること。


私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。
(ヘブル13:18)


 

 

 『現実の世界である俗世間から離れることはできません。しかし、神の前における正しい良心を持っている私たちは、心を俗世間から遠ざけ、みこころにかなった正しい行動をする志を行うことを目指して行きましょう。』

 この俗世間にあってこそ、すべての事について、正しい事を行動する価値があります。そして、望みの神を信じているからこそ、この意欲が湧き上がってくるのです。
 そうして、私たちの願いが一つ一つ実現されていけば、世の中の人々も目を向けはじめるのではないでしょうか。

1.肉の欲と正しい良心による願い
 欲求は願いを起こし、願いは欲求を生みます。しかし、正しいものと正しくないものとがあります。
 聖書では欲求と願いは違うものとして表現されています。それは正しいものと正しくないものを、それぞれ指しているのです。

A)肉の願いは欲望(エペソ人への手紙2:3)
“私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”

『欲望は、ただ欲を満たすことにのみ心が動くので、理性的考えや良心的考えを無視する。』
 肉の欲は自分中心です。欲望を満たすことのみが大事なのです。知・情・意に至るあたりまでは肉の欲望が働く場所になります。理性的考えや良心的考えは、正しい良心から出て来るものですから、肉の欲望が根本にある場合、それを受け付けることができません。このことを、自分の心を判断するために応用してみてください。

B)正しい良心による願いは善(ローマ人への手紙7:18)
“私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。”

『肉の欲求と善に対する願いとは区別されている。善に対する願いは正しい良心によるものであって、肉から出ていないことを知っておくこと。』
 善をしたいという願いを持つ心の部分と、それをかけらも思わない欲求のみの部分。私たちの中には二つの部分があります。世の人はそれらをどちらも自分だと思っていますが、聖書によれば、善をしたい方が本当の自分なのです。
 見分けるためには、忠告や意見を聞き入れるかどうかをみてみましょう。感情などが波立つことがあっても、忠告や意見を聞き入れることができるのは正しい良心からくる願いであり、反抗心が出て受け入れられないものは肉の欲から出ています。

 「箕山之志」の、心を俗世間から遠ざけるとは、正しい良心から出る正しい行動に心を向けることです。たとえば、糖尿病の人は、いつも食事に気を配ります。自分の体を保つための、正しい良心から出る気配りです。私たちも、自分をきよく正しく保ちたいという願いを心から持っているなら、志を保ち続けることができます。
 「本気できれいごとに取り組む」という今年一年の目標も、「箕山之志」で、少しでも正しいことを自分は実行していくんだという気持ちで歩んでいくなら、そのうち周りの人々に、大きな変化・反応が出て来るはずです。強い願いが自分の良心にあることを信じて、実行してみてください。

2.正しい良心による願いにチャレンジ

A)善をもって悪に対応する(ローマ人への手紙12:21)
B)機会のあるたびに善を行なう(ガラテヤ人への手紙6:10)
C)善を行なうことが神へのいけにえ(ヘブル人への手紙13:16)
D)不敬虔な人々を黙らせる善行(第1ペテロの手紙2:15)
E)善行のために苦しみを受ける(第1ペテロの手紙2:20)
F)神にゆだねる姿勢をもって善を行なう(第1ペテロの手紙4:19)

 A〜Fの項目は、それぞれ月〜土に振り分けてあります。一週間のチャレンジの参考にしてください。

●1/12(月)「悪に対して」(ローマ人への手紙12:21)
“悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

 善をもって返すことのみが、本当の勝利を与えます。イエス様は十字架上でさえ、あざける人々のためにとりなしの祈りをされました。これが真の勝利の姿です。悪はイエス様に髪の毛一筋ほどの影響も与えられなかったのです。

●1/13(火)「機会のあるたびに」(ガラテヤ人への手紙6:10)
“ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。”

 この「機会」は自分の都合ではありません。自分のしたい時ではなく、相手が必要としている時が、善を行うチャンスです。兄弟姉妹をよく見て、祈って、交わって、必要を満たせるように関わっていきましょう。

●1/14(水)「いけにえとしての善行」(ヘブル人への手紙13:16)
“善を行なうことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。”

 善を行うという犠牲を払うことを、神は喜ばれます。しかし、注意点があります。他の人と自分とを比べないでください。あの人はどうだ、この人はどうだ、と人を判断したり、自分の順位を考えないでください。自分の力に応じた善が最も良いものであり、神がお喜びになるものです。

●1/15(木)「愚か者を黙らせる」(第1ペテロの手紙2:15)
“というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。”

 基本的な考え方が違う者同士が相容れることはできません。しかし、考えは違っても善を行うなら、それは喜ばれることであり、皆に理解できることです。そして善を行う人の信じるものは、尊敬されるでしょう。

●1/16(金)「善を行なう苦しみ」(第1ペテロの手紙2:20)
“罪を犯したため打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。”

 善を行う者へのねたみ、嫉妬が起こると迫害になります。しかし、ここであえて苦しみを受けつつ、善を行い続ける事には、とても大きな価値があります。

●1/17(土)「善を行うにあたって」(第1ペテロの手紙4:19)
“ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。”

 あらゆる誹謗(ひぼう)、中傷がくるかもしれません。絶望するほどの苦しみがあるかもしれません。裏切りを何回も受けるかもしれません。しかし、ヨセフもそうでしたが、神にすべてを委ねていたから、自分の最後を報いてくださる方を信じていたから、じっと忍耐することができるのです。
 善を行うにあたって、イエス・キリストの十字架の保証のゆえに、神のご計画を信じて突き進んで行きましょう。

 

 

 

 

 

 

■2009年1月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   鼓舞激励 こぶげきれい  up 2008.1.4


人を励まし、心を奮い立たせること。


どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
(ローマ15:13)


 

 

 今日のみことばは、今年のモットーとなるみことばです。ですから、今週学ぶ事柄は、今年一年のデボーションの土台となりますので、しっかりと今日のポイントを受け止めてください。
 この手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いたもので、パウロがローマの教会に対してとりなして祈っていることばです。
「望みにあふれさせてくださいますように。」ということばこそ、中心的なことばであって、誰でも希望がなければ、人生は空しくなってしまいます。希望は目標やビジョンという目指すべきものがあってこそ、持てるものです。それは目先の欲望を満たすという単なる欲求ではなく、魂の望みです。精神的なものよりも更に深い、私たちの霊からでる「望み」について、しっかりと考えていく一年にしましょう。そして、互いのために「望みにあふれさせてくださいますよう」と祈り合いたいものです。
「鼓舞激励」は昔の習慣で、今から戦いに行く時や、また、いろいろな人生の門出にあたって、人々が太鼓を鳴らし、踊りを舞って、励ましを送ったことから出た言葉です。
 この四字熟語によって「互いに」励まし合うことを心掛けていきましょう。望みが心に溢れてくると、心が強められ、何事も前向きに捉えていくことができるようになります。

1.いのちの木である望みの神(箴言13:12)
“期待が長引くと心は病む。望みがかなうことはいのちの木である。”
 「いのちの木」とは、創世記にあるエデンの園の中心に植えられていました。中心とは、国に例えるならば首都のようなもので、政治、経済あらゆるものの中心であることを示します。そして、エデンの園の中心とは、まさに神の御座のある権威の中心を指します。「いのちの木」は中央にある大切な重要なものと言えるでしょう。
ですから、「望みがかなうことは、いのちの木である。」とは、それだけ大事なことであるということです。いのちの木は、望みの神ご自身です。期待が長引くことによって心が病まないよう、この望みの神ご自身に心を向け、信頼して歩みましょう。
 私たちは「神は必ず、私たちの内に与えられた望みをかなえてくださる」という信仰を、神に対して持っています。信仰とは、望んでいる事柄が必ずなると確信することです。神が望みをかなえてくださるのですから、たとえ今望みがかなえられているようには見えなくても、必ずかなえてくださると信じて、もうかなえられたような喜びを持って、待ち望むことができます。そのように平安を持って日々を過ごしていれば、時が来て、それが実現しますから、心が病むことはありません。あせる必要はありません。神は御心を必ず成し遂げてくださる方であり、決して偽ることのない方です。
 また「願いがかなえられる」ということにばかり心が集中してしまい、誰がかなえてくださるのか…を忘れないようにしましょう。かなえてくださる方に心を向けましょう。神はご計画の通りに成就してくださいます。この神にしっかり目を向けてゆくなら、失望することはなく、あきらめることもなくなります。そしてそのことを互いに告白しあい、励まし合っていきましょう。

2.どうして望みの神なのか。
(1)1/5(月)死の危険から救い出してくださる望みを持てる神様。
(第2コリント人への手紙1:10)
“ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。”
 パウロは様々な災難や危険の中で、神の働き人として生活してきました。このような大変な状況に直面したからこそ、そこから救い出してくださる神に、しっかりと望みを持つことができたのです。
 出産の時から、人は死の危険に遭遇しています。それから今までに、どれほど死の危険から守られたことでしょう。その時その時に死の危険から救い出してくださる神にどれほど救い出され、守られてきたことでしょう。
 救い出され、生かされているということは、自分に与えられたやるべきことがあるとも言えます。ですから、亡くなる時は、それはその人にとっての神の時なのですから、すべてをゆだねて大胆にチャレンジしていくことが必要かと思います。
ただ、暴飲暴食等、自己管理をせずに自分で死を早めてしまう場合は別です。

(2)1/6(火)想像上の神様ではなく、現に生きて存在されておられる神様だから希望が持てる。
(第1テモテへの手紙4:10)
“私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。”
 生ける神…とは、ご自分の意志で存在し、働かれているということです。神の存在の大きさを、日々のデボーションで知ることが必要です。自分のまわりの自然の中や、いろいろな場面で神の偉大さを思い巡らすことは、正しい良心を眠らせないために大切なことです。空気の存在、また、様々な自然現象の中に、私たちは神の様々なすばらしさを見いだし、励まされます。
そしてその発見を互いに語り合い、互いに励まし合いましょう。

(3)1/7(水)富があるから、力があるから、成功しているから人生が楽しいのではなく、生きていること自体を楽しませてくださる神様だから。
(第1テモテへの手紙6:17)
“この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。”
「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる」人生を送っているでしょうか。
 富だけではありません。全世界は御子のため、キリストのために造られました。それは御子を信じるすべての人、私たちのためとも言えます。神はキリストのために、すべてを造られました。それは御子を愛しているすべての人のために造られたということです。
そして、人生のすべてのことにおける喜怒哀楽も、神が与えてくださったものと感謝すべきです。
 聖書の価値観は、神はすべてを良いものとして造られたということです。たとえ悲しむことがあっても、それらすべては、人生を楽しむために必要なものなのです。そう考える時、どのような感情が湧いても、前向きに受け止められるようになってきます。
 イエス様も地上でたくさんの感情を経験されました。(ラザロの死の時の涙、救いの喜び、等)神の様々な面を知っていくことが、私たちの成長の糧になります。

(4)1/8(木)失敗で人生を終わることがない救いを完成してくださった神様だから。
(第1ペテロの手紙1:3)
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。”
 クリスチャンにとっての「生きていることの望み」とは何でしょう。ぜひ考えてみてください。どんな時でも望みを見いだすために必要なものです。
 私(辻師)にとって、生きていることの望みとは「神様を知っていく」ということです。ある人々は「人生は出会いによって決まる」と言います。みことばを学び、黙想し、そのみことばを人生に適用していくと、神を知っていくことができます。そして、楽しいこと、うれしいこと以上に、苦しみにあった時の方が、より神を知っていくことができます。生きる望みは、私にとっては、神様を知っていくことです。
 福音を伝えること、イエス様を証すること、あなたにとって地上で生きていることの望みは何でしょう。
それがはっきりするほど、今日生きていることが楽しくなります。

(5)1/9(金)天に迎えるために、再び来られる約束をしてくださった神様だから。
(ヨハネによる福音書14:2〜3)
“わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。”
「場所を備えたら、迎えに来られる」と言われた意味は、今私たちがいる所よりも、さらに良い所に迎えてくださるという約束です。ですから、忍耐して待ち望むことができます。
 親が子どもに留守番をさせて家を出る時に、「いいものを買って帰るから、良い子で待っていてね。」と言うようなものです。
 イエス様は私たちのために、天国で居場所を用意してくださっています。だから、今は仮の住まいで忍耐して待ち望むことができます。「迎えに来られる」というイエス様の約束のことばをもって、互いに励まし合いましょう。何が出来たかどうか、人と比べて良い悪いを評価するのではなく、ただ楽しみに待ち望めばいいのです。

(6)1/10(土)最後の審判によって、すべてを公平にさばかれる神様だから。
(第2テサロニケ人への手紙1:6〜7)
“つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。”
 最後の審判に対して、私たちはどのような考えを持っているでしょうか。本当に真剣に考えているなら、そのことのゆえに少しでも罪から離れようとするはずです。そしてそのように真剣に生きるあなたの姿を見て、まわりの人々は、最後の審判があるということを示され、キリストの救いに心を動かされていくのです。
神の前に正しいことをしている時、本気でやるほど、周りの人々からねたみや妨げが起きてきます。そういう人々が「あなたを苦しめる者」です。人が問題ではありません。神の前に正しい良心を働かせることが大切です。
 あなたの純粋な熱心さは、世の中の人々からはおかしいと評価されたり、変人だと言われることもあるかもしれません。しかしいくらそのように言われても、あなたの目指しているものは、もっと大切なすばらしいものなのですから、臆すことなくやり続けることができます。「熱心過ぎる」という、この世の間違った価値観に影響されないようにしましょう。ただその度合いは、あなたと神の前のプライベートな判断によります。100%完全でありなさいと、メッセージで言っているのではありません。ただ、正しいことにおいて過ぎるということはあり得ません。神の前にどのように正しく歩むかは、あなたが選び取ることができます。その自由を、イエス様は十字架ですべての罪を赦してくださることで、与えてくださいました。
 神の前にあなたらしく生きるために「決心」しましょう。「決心=失敗しない」ではありません。神は望みの神であって、あなたが決心して神に近づこうとするなら、あなたを助けて導いてくださいます。
 去年よりも今年、さらに来年と、一歩ずつでもあきらめずやり続けていく人は幸いです。神は望みをいつも与えてくださいます。能力や環境にはよりません。すべての人が神の子として達成できるよう、神は願ってくださいます。そしてついには、キリストのようになることです。
 この世の価値観を決して自分の中に入れないようにしましょう。私たちの価値観は、聖書にある神のことばです。
自分の心を決めることがこの一年あなたを成長させることになります。そのために互いに励まし合って、望みの神に目を向けていきましょう。