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  (10)医食同源

 「人が生きる」とは、食物により肉体が保たれているだけではなく、人格者として心が生かされてこそ、本当に生きていると言えます。神に似せて造られた人は神のおことばを食することで人格が成長していくのです。
 

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
(マタイ4:4)
 
●「私を生かす」
『どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』(詩篇119:49、50)
 
 感謝なことに、私たちの国は今様々な食べ物があふれているので、いつでも好きな食材を取り入れた食事を楽しむことができます。しかしそのために、かえって「健康のための食事」という意識が薄れているのではないでしょうか?
 イエス様は救い主としての生涯を始められるにあたって、聖別のため荒野において40日40夜断食した後で、悪魔の試みを受けられましたが、誘惑を断ち切るために「神のみことば」をもって立ち向かっていかれました。
私たちも罪の誘惑を受けた時、神の道徳心を基準とした「神のみことば」によって立ち向かうのです。
 私はクリスチャンになる前は三無主義の空しい生き方をしていましたが、ヨハネの福音書6:63の「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。…」というみことばによって心に回復が与えられるという、不思議な体験をしました。
 罪の誘惑は感染していくものですから、クリスチャンもダイナミックヘルス(=どんな病原菌が入っても病気にならない抵抗力を持つこと)をめざし備えてこそ、罪の誘惑にあっても屈することのない健全な心になり、ピースメーカーとして、まことの神の平和を生み出す者としての働きを全うする事ができるのです。
正しい良心の健全さを保つために、みことばをしっかりと受け取りましょう。

●「いやしと救い」
『主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』(詩篇107:20)
 
 東洋医学では、自然の食物の中から薬を見つけだし、食事こそが医療の根本だと考えられてきました。同じように、私たちの心の中心である正しい良心が悩み苦しんでいる時には、心の食物である神のみことばがいやしと救いをもたらしてくれます。
 食物を口に入れて何十回も咀嚼すると、体内に栄養として十分に吸収することができるように、みことばもひとつひとつのことばをじっくり味わい、深く心の中で黙想(デボーション)すると、聖霊様が教え諭してくださり、悪の誘惑に立ち向かうための正しい良心を強めてくださいます。そうすれば知・情・意を支配することができ、あらゆる欲望に勝利することができるのです。
 週一回の礼拝だけで心の健康を保つことはむずかしいので、毎日のデボーションでみことばを深く黙想し、みことばによって日々強められ、導かれることがとても大切です。
 私たちは、ただ動物のように目的のない進化論に委ねる人生を選ぶか、人格者として、神に似せて造られた者として目的のある人生に委ねるか、選択して生きなければなりません。
 現状を変えたい!正しい良心のうめきに応えたい!と願うならば、正しい良心の働きのための、ひとつひとつのみことばをもって、大いに悩む体験をしてください。
 神の前に敬虔な、神を畏れる姿勢を持つことによって、人々に認められ、尊敬される人生を歩むことができます。

●「乳飲み子のように」
『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(第1ペテロの手紙2:2)
 
 イスラエルの民がエジプトの地を出て、カナンの地に向かう旅の途中で、水も食料も尽きた時、神は天から「マナ」を降らせて、民を養われました。「マナ」は全ての栄養素が含まれている不思議な食べ物で、民は「マナ」だけを食べて、健康を維持することができました。
 同じように、神のみことばには、神の子として新しく生まれ変わった私たちの正しい良心が育つために必要な全てが含まれています。それはまるで、乳飲み子が育つために必要な栄養の全てが母乳にあるようなものです。
 赤ちゃんは乳を飲みたい時、いつも泣いて母親に知らせます。母親の都合を考えて待つ、というようなことはしません。神は子としてくださっている私たちに「乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(第1ペテロの手紙2:2)」と語っておられます。
 みことばを読みたいと思う時、読まなければ正しい良心が衰弱していき、欲望の心だけが強くなり、全てに否定的な心の状態になってしまいます。世の中は色々な不敬虔なことがはびこり、正しいことが認められないような時代ですから、クリスチャンの正しい良心は傷つき、いつも渇いているはずです。「祈りたい!みことばを聞きたい!教会に行きたい!」と思う時、止めてはいけません。どんな犠牲を払ってでも神のもとに行きましょう。

2006/1/15キリスト教会ジーザスフェローシップ広島
 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より

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