■2006年2月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   屋烏之愛 おくうのあい  up 2006.2.26


愛が深まると、その人に関係するものにまで愛情が及ぶことのたとえ。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15:9) 


 

 

屋烏…家の屋根に烏(からす)がとどまっている
仏教文化では、烏は本来縁起の悪い鳥でした。
愛する人が家の中にいる。その家の屋根にとどまっている烏さえもうるわしく思える。つまり、愛する者に属するすべてのものが麗しく見えるように、愛が注がれている。愛は人を盲目にすると言いますが、それはその人しか見えないという表現です。しかしこの『屋烏之愛』はもっと視野が広く、大きな愛が向けられているという意味です。神様は私たち罪人に対して、この大きな愛で包んでくださっています。私たちの罪にではなく、私たちそのものに目を向けてくださっているのです。
今週はその三つの愛をみていきたいと思います。

(1)守り支える愛(詩篇18:2〜3)
神様は私たちを条件付きで愛されるのではなく、あなたそのものを丸ごと包み込む愛を持っておられます。
詩篇18:2〜3
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」
ダビデが神様との深い関係の中で、自分の人生体験から表したものです。
私たちはこの罪の社会に生きている中で、突然の病になることもあります。また、交通事故など命の危険にさらされることもあります。
私自身、教会からの帰りに衝突事故に遭いました。しかし神様は私の盾、やぐらになってくださいました。車が向こうから突っ込んでくるというのが一瞬に示されてスピードを落としました。箱形の車に乗っていたのですが、箱形というのはフロントの強度が低く、もし正面衝突になれば大変な事故になっていたでしょう。不思議なことに、示されてスピードを落としたタイミングが、ちょうど最も強度の高い角部に相手の車がぶつかってきて、私は無傷で助かったのです。それ以外にも何度も神様は危険から私を守ってくださいました。このように神様は、愛をもって私たちを包んでくださっているにもかかわらず、私たちはそこから出ようとするわがままさがあります。神様のご計画中にある限りは、私たちは地上でするべきことが残っているので必ず守られます。そのように、神様が大きな愛で包んでくださっていることを信頼して歩んでいきましょう。

(2)教え導く愛(詩篇32:8)
乳飲み子や幼子は親の守りがなくては、自然の様々な危険にさらされてしまいます。ですから常に子供を手の届く範囲において育てていきます。守る愛です。しかし成長してくると、だんだんしつけをする段階に入ります。しつけは教え導く愛です。人間は、互いに関係を持ち合って生活していく社会生活が基本的にあります。親はそれを教え、社会の中に入っていく備えをしていくわけです。
孤立せず、良い人間関係が持てるように、人生はどういうものかを教え、諭し、示していく。そしてまた将来の仕事、どんな人生を歩むかについても、親はどのような教育を与えたら子供の才能を引き出すことができるのか、その人生の導きを探っていくわけです。
天のお父様も同じです。その時私たちは『聞く』という姿勢が大切になります。この教え導く愛の中にとどまるためには、聞く耳が必要です。しかしわがままさとか反抗期というのは聞く耳を持たない、感情の起伏が激しい時、大変つらい時期かもしれません。ただそういう中で、冷静に聞く耳を養う訓練が始まるわけです。
私たちが自分の願い通りになるまでずっとわがままを言い続ける場合にも、神様は最終的にそれを聞いてくださることもあります。旧約聖書のヤコブのように。しかし私たちは、いらぬ葛藤や思い煩いの中に入らないためにも、神の子としての姿勢、素直な気持ちで聞くことが必要です。私たちがどうしたらいいか迷った時に、神様の前にじっくりと聞くという姿勢で待っているなら、神様は教え導く愛をもって応えてくださいます。
アブラハムは、どこに行くのかを知らないで神様の示される地に歩んで行った時に、約束の地に導かれました。私たちも、将来がはっきりわからなくても、今日明日、この一年、この5年という、神様の示される方向に従っていくなら必ずゴールへ到達できるわけです。神様の教え導く愛を信じて、迷う時には聞く耳をもって、どうぞ神様の前に祈り求めていただきたいと思います。

(3)友愛(箴言22:11)
次に必要な愛は友情、友です。それは良き相談相手です。一人の最高の友を得ることは、人生において大きな喜び、支え、成功に導かれる一つの条件でもあります。
『心のきよさを愛する者は、王がその友となる。』この王とは天地万物を造られた私たちの主の主、王の王、イエス・キリストです。王様というと、国民を支配し治める方というイメージですが、そのお方が私たちの良き友、相談相手になってくださると思う時、それはどれほど私たちにとって力強いものとなることでしょう。
王様は国全体を見ることのできる様々な経験と知識を持っています。またいろいろな問題を解決するための知恵も備えています。天地の王であるイエス様が友となって、最高の愛をもって相談相手になってくださる。これは成長してきた子供にとって、成人、成熟という段階にとってどうしても必要な愛です。この友に、絶対に親にも、鼻から息をするどんな人にも相談することのできない問題、心の深い所の悩みを相談することができます。人間の友には、どんなに気持ちを伝えてもすべて理解することはできません。しかしあなたの内におられるイエス様の御霊は、あなたの霊と一緒にそれを分かち合うことのできる、最高に身近な親友です。この友はあなたのために命を捨てることができる友です。いえ、もうすでに約2000年前にそれを実現してくださいました。『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(ヨハネの福音書15:13)弟子たちに語られたイエス様のおことばです。
親友という関係は信頼関係が必要です。もしあなたがわがままを貫こうとして、親友の助言に耳を傾けようとしない自己中心や、自我やかたくなさがあるならば、友になりたくてもなることができません。
心のきよさを愛する、すなわちそれは正しい良心を大切にする生き方。まだ正しい良心が十分に育っていなかったとしても、それを愛するという姿勢を持つなら、主がその友となってくださいます。私はそこを強調します。なぜなら、多くの人は「きよくならなければ主の友となれない」と思っているからです。きよさを愛するとは、実現に至っていなくても、あきらめずにそれを求めて努力し続けることです。
『神のみこころはあなたがたが聖くなることです。』(第1テサロニケ人への手紙4:3)と語られています。心のきよさを実現したい人には、心をきよくすることのできる、王なるイエス・キリストが最高のコーチになってくださいます。
スポーツ選手も、本人があきらめてしまったなら、どんな名コーチでも技術を教えることはできません。しかしどんなに下手でも続けていきたいという選手には、コーチが全力で教えることによって、ある程度引き上げることができます。
この3つの愛は、罪人であり、未熟でまだ完成されていない、烏のような、神様の目から見たら忌まわしい私たち、そんな私たちにも注がれています。感謝なことに多くの歴史的証明があるが故に、イエス様が本当に歴史上に現れた方であることがわかります。この3つの愛を信じるに足る証拠があるわけです。ですからどうぞ、不安な心があったとしても、イエス様の愛の中から飛び出すことのないように気をつけてください。悪魔はあなたにいろいろな不信仰な出来事を見せて恐怖を与え、疑いを与えて、イエス様の愛の中からあなたが飛び出すように追い立てていきます。そして飛び出したとたん死の矢が来て、致命傷の不信仰に陥らされるわけです。どんなに恐怖心があっても、疑う感情があっても、愛の中から飛び出さないようにイエス様の十字架の愛を信じ続けていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年2月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   自暴自棄 じぼうじき  up 2006.2.19


失望・放縦などのために、自分の境遇や前途を破壊して顧みないこと。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
(マタイ5:17) 


 

 

「自暴自棄」の「暴」とは粉々に砕く、「棄」とは自分を捨てて見放すことを意味します。人が「自暴自棄」という心情に陥るのは、大きな失敗をし失望した時や、わがままで自己中心の思いが強く、自分の思い通りにならない時です。
その反応として内向的な人はウツ状態になり極度の自己卑下に陥り、外交的な人は自分を壊すように周りの人に対しても破壊行動をし、殺人まで犯してしまうことがあります。
しかし私たちが「自暴自棄」から救い出されるために、イエス様はすばらしい希望をもたらしてくださいましたので、共に見ていきたいと思います。
マタイ5:17のみことばはユダヤ人に語られたことばですが、私たち異邦人にとっても、良い意味で大きな影響を与えることばです。
「自暴自棄」は、希望と信頼が心の内にない時起こりやすい心情ですが、希望と信頼する心の姿勢をしっかり持った人は、人生で成功の道を歩んでいます。見えるものに頼らず、何らかの目指すものに希望を持ち、信じ続けているからです。
今冬期オリンピックが開催されていますが、日本の選手の中に、腰を痛めて再起不能といわれながらも自暴自棄に陥ることなく見事に選手として再起した人がいます。
なぜできたのでしょう?望みを持って信じ続け、あきらめなかったからです。「自分の人生の希望はオリンピックに出ること。それが自分の人生そのもの。そのために生きているんだ。」という意識をしっかり持ち続けていたのです。
どうにもならないと思える現実を前にして、希望と共にそれをささえる信じる心が、不可能と思えることを可能にしたのです。
クリスチャンは信仰があると言いながら、なぜ失望する人が多いのでしょう?
宗教的信仰に留まり、希望を持って信じ続ける(=あきらめない)という姿勢に乏しいからです。クリスチャンが信じているイエス様は人格のある方ですから、正しく希望を持てるように導いてくださいますが、どのようにして信頼するのでしょう。
ローマ人への手紙10:17に「そのように信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」とあります。
聞いたことばに希望を持つと期待する心がふくらんで自発的に喜んで従いたいという姿勢になり、その心に顕然な信頼する心が生まれてきます。ですから希望と信頼の持てる神のことばにできるだけ多く出会うことが必要です。みことばは黙想してじっくり味わうことが大切ですが、信仰が沸き立つことばに多く出会う確率は、できるだけ聖書を読むことで増えていきます。みことばに触れることによって、神の子としての本来の自分に気付いていくのです。自暴自棄を脱出するには、いのちのことばがあなたに触れることです。
また祈りの生活をすることによって御霊に触れ、神の愛が注がれることによって信仰が成長していきます。そしてみことばを食し、御霊に触れられ、力を得て、人と交わること(行動・実践・働き・鍛練)によって豊かな実を結ぶことができるのです。
イスラエルの民にとって律法が与えられたことは神の選民であるしるしとなり、誇りを持つことができましたが、律法を守ることはとても難しく、儀式として行うことはできても心が伴わなかったため、律法を成就することはできず、失望・落胆し苦しんでいました。
そこで、救い主であるイエス様が人として地上に来られ、しるしといやしを裏付けとして律法を成就してくださいました。律法を丈夫されたイエス様というお手本があることによって、私たちにもできるという希望が生まれ、イエス様に対する信頼を持つことができたのです。エペソ人への手紙3:6で語られているように、ユダヤ人だけでなく異邦人も共にキリスト・イエスにあってその約束にあずかる者とされました。
神の民として完成されることは人としても完成されることで、健全ないのちの輝きがあるので、何があっても自暴自棄になることなく、落胆してもすぐ立ち上がることができます。イエス様だけではなく、十二弟子もパウロも人として律法を成就することができたのですから、お手本があることに励まされて、信仰と希望を沸き立たせる者となりましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年2月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   堅忍不抜 けんにんふばつ  up 2006.2.13


固い意思で耐え忍び、確固として動じないこと。

絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
(第1テサロニケ1:3) 


 

 

(1)信仰の働き
(2)愛の労苦
そして今回は(3)希望の忍耐についてです。
信仰の働きも愛の労苦も、イエス・キリスト様への望みの忍耐がなければ続けることはできません。
赦し続けること、神を信じ続けること、これらができるのは主イエス・キリスト様への望みがあるからです。望みに対して確信が強ければ強いほど、動かされることはありません。神様の約束のおことばに希望を持つことが必要です。希望があれば忍耐を働かせ、成就するまで信仰と愛の労苦を続けていくことができるのです。

 忍耐を働かせる三つの希望
私たちに与えられているイエス・キリスト様への望みの中で、三つ選び出しました。
1.永遠の存在としての望み(第1ペテロの手紙1:3)
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
私たちクリスチャンに与えられていることは、新しく生まれさせて「生ける望み」を持つようにしてくださったことです。死ぬために生まれてきたのではありません。すべての人に生きる望みをもたらされるのは、イエス・キリスト様の福音によってだけなのです。すなわち、肉体の死以後も御国で存在し続け、それが永遠に続くという希望をイエス・キリスト様は十字架をとおして私たちに与えてくださったのです。神の子として新しい人生を歩み、御国を相続する者、神の世継ぎとして約束されているのです。
この世ばかりに目を留めることのないように、周りの人々をうらやましがることのないように、御国の相続者として生きるべきです。
失望している人、むくわれないと思っている人、希望を持ってください。御国で報われるのです。永遠を考えて、今を忍耐して生きましょう。

2.この世における救いの望み(第2コリント人への手紙1:10)
「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」
永遠の望みに対してばかり語っていると、生きている今の世において希望が持てなくなってしまいます。しかし、パウロはこの地上においても生きている限り救い出し続けてくださる望みを持っていると語っています。
イエス様は手本として、生まれて死ぬ時まで愛の労苦をなされた方です。パウロもイエス様を信じてから、さまざまな困難に遭いながらも、神は救い出してくださり、人生を全うしたすばらしい器でした。
あなたにはこの地上で果たすべき役割があるのです。それが終わるまで神は救い出し続けてくださるのです。つらいことはあるけれども、あなたのするべき役割のため、神が計画されたことを行うため置かれているのです。それが終わるまで天に帰ることはできません。また、何ができるかできないかではなく、そこにいるというだけでも役割があり、神はよしとしてくださるのです。

3.みこころの完成への望み(第1ヨハネの手紙3:2〜3)
キリストが再臨されて、すべての人がよみがえり、キリストの前に立ってキリストを見た時にあなた(クリスチャン)もキリストに似た者と変えられるというのです。キリストの再臨を待ち望む者は、キリストに似た者となるために、キリストが清くあられたように、自分を清くします。清くとは汚されないようにということです。正しい良心(神への畏れの心)を保ち続けることが大切です。
不信仰の思いは罪が宿っているからとパウロは言っています。罪の思いが私たちの感情、知性に自分を表現してくるのです。それはあたかも私たち自身の思いのようにみせかけてきます。しかし、イエス・キリストを信じた私たちは自由になっているのです。永遠の存在の望みによって罪から切り離されている者となったのだと、そして、この地上で働き、役目が終わるまで神は奇跡的に救い出し続けてくださるという希望と共に、キリストの姿に変えられるという自分自身の最高の望みを持つことができるようにと、イエス・キリスト様は福音(良き知らせ)をもたらしてくださったのです。
最終目的は、イエス・キリスト様に似た者となることです。(イエス様の内側の強さを見続けることです)
イエス様は苦難の中でも喜びを感じておられたのです。十字架の上でも「父よ彼らを赦してください」と祈られるほどまでに希望を持っておられました。
三つの望みは神から与えられるものです。「堅忍不抜」の姿勢は、キリストへの望みによって不動のものとなるのです。この望みがどんなにすばらしいか、聖霊様との関係において、祈りの中で悟らせていただきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年2月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   粒粒辛苦 りゅうりゅうしんく  up 2006.2.5


お米を作る農民の苦労をいうところから、物事を完成させるために、こうこつと労苦を重ねることを意味する。

絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
(第1テサロニケ1:3) 


 

 

先週に引き続き、テサロニケの教会に宛てられた手紙から学んでいますが、それは周りの人々にいいイメージを与えていたテサロニケの教会に、私たちの教会も似たものとなりたいからです。
特にこのテサロニケの教会のすばらしかった点を、今回シリーズで学んでいますが、先週は「信仰の働き」について学びました。今日は「粒々辛苦」という四文字熟語から「愛の労苦」について学びます。
愛の労苦は、農家の人たちがお米や作物をつくる労苦によく似ています。
昨今は何でもスピード化され、時間の短縮が最重要視されていますが、お米を作る時間は短縮することはできません。きちんと自然の流れに沿って世話をしていかないと、実を収穫することはできません。この半年間の労苦は決して楽なものではなく、お米の一粒一粒に労働の辛さと苦しさがこもっているかのようです。「愛の労苦」は3つのポイントからなります。この3つは決して別々のものではないので、毎日この3つのポイントから実践していただきたいと思います。

(1)あわれみという愛情(ピレモンへの手紙1:10〜12)
これは愛の労苦の動機になります。パウロは、ピレモンのもとから逃げてきた奴隷のオネシモと獄中で出会い、オネシモを信仰に導きました。ピレモンは、パウロと大変親しい間柄であったので、パウロはオネシモを救いたいと願い、クリスチャンとなったオネシモを、やはりクリスチャンであるピレモンのもとに、再び送り出そうとしています。ここに至るまでに、パウロの深い愛の労苦があるのです。
パウロが、この和解を呼びかける手紙を書くきっかけとなったのは、ピレモンへの深い信頼と、オネシモへのあわれみのゆえです。パウロはオネシモを信仰に導き、獄中で我が子のように愛し、ついには全き改心によってオネシモをクリスチャンの兄弟としてピレモンに送り返せるまでに成長させました。これは短時間ではなしえない愛の労苦です。
もし私たちが平和をつくり出すにあたって、相手の人にあわれみという愛情を持つことができなかったら、愛の労苦を積み重ねていくことはできません。農家の人は、お米を作るのに毎年毎年虫の害や天候など様々な対策を練りながら、いろいろな手間暇をかけて作っていきます。これだけの労苦をかけるのは、お米一粒一粒に愛情をもっているからです。このお米で人々が生きていけるという感謝の気持ちが、その労苦を乗り越えさせます。
毎日毎日、草刈りから水の管理等々、大変な作業です。
私たちも、平和をつくる人とは、人に対する愛情、あわれみを向けていくことが何よりも大切です。ピレモンに対し、パウロはオネシモのことを「私の心(ギリシャ語で『腸はらわた』の意)そのもの」と言っています。それぐらいの深い愛情を込めて、オネシモを導いてきたのです。ピレモンにとってはオネシモは犯罪者であって裏切り者の奴隷です。しかし、パウロにとっては、今は最高の福音の僕となっています。パウロはこの愛するオネシモを手放し、ピレモンへと送り返すことによって、またピレモンへの深い友情も示しました。
神にとって私たち人類は、オネシモのように神を裏切った不敬虔な罪深い者です。しかし神は、私たちの存在をあわれみ、救いの購いをしてくださいました。私たちの周りにもいろいろな人たちがいます。裁きたくもなるでしょう。しかし本来、正しく歩むべきであったその人が、罪のゆえに歪められ、今のような罪深い歩みをするしかなくなったと見る時にあ、同じように神からあわれみをかけられた私たちは、たとえ相手がいかに罪深く思えても、あわれみの心を向けずにいられるでしょうか。
それは大変困難なことであり、身を引いてしまいたくなることかもしれません。しかし少しずつでも、あきらめずにあわれみを持ち続け、祈りによって心を整えて神の御前に愛の労苦をし続けていくなら、必ず身を収穫することができます。そして、あなた自身が平和をつくる者、神の子と呼ばれる者になるまでに成長していくことができるのです。

(2)赦しという親切(エペソ人への手紙4:32)
これは心の働きです。あわれみという心の力は、赦しという親切をしていくことで表していくようになります。このエペソ書で使われている赦しは、本来は親切ということばで使われるものです。どのような時に親切が生まれてくるでしょう。たとえば、高齢の方が重い荷物をもって階段を上がっているのを見たとします。あなたの心に、その人に対するあわれみの愛情が湧き上がり、親切にしたいと願い、その人の重い荷物を持ってあげるでしょう。ただ見送ってしまったのでは親切にはなりません。その人の荷物を自分が代わって負ってあげた時に親切となるのです。これは「罪を赦す」という心の負担を負うことと同じです。赦しとは、人の罪の負担を負い、少しでも軽くしてあげることです。赦しとは最高の親切です。神は私たちにこの最高の親切をしてくださいました。不敬虔な私たちの罪を全く赦して、罪がない者として受け入れてくださったのです。しかし、この神の和解を不要だと断る人には、赦しは向けられません。赦しは、赦してほしいという気持ちと、赦そうという気持ちがお互いの間にあって初めて成立します。どちらかの気持ちが欠けると成立しません。赦そうとしても、相手が赦してほしいという気持ちを持たず、むしろ争いをしかけてくるなら、その関係は完全にこじれてしまいます。赦さないという心も問題ですが、赦してほしいとへりくだることをせず、相手の赦さない態度に怒っているなら、それも問題です。相手が赦してくれるよう、自分の悔い改めた心を、へりくだって相手に伝えていく態度は大切です。相手の心がわからず、自分の基準で、これくらいならいいじゃないという態度であやまるなら、誠意が伝わるはずがありません。
神はこの世の人々を赦し、救いたいと願っておられます。そのためにあなたの心の誠意は、イエス・キリストを罪から贖ってくださった唯一の救い主として受け入れることでのみ示されます。これが、神が与えられた和解のただ一つの条件です。神を認めない生き方は、神の存在を否定する神殺しの罪です。親がいるのにいないとしているのと同じです。
しかし神は、この罪をイエス・キリストの十字架によって処分し赦すという親切を示してくださっています。
私たちもあわれみを持った後、この赦しを示していくことが大切です。赦しは損ではありません。赦しという親切をしていくことで、あなたの人格は高まり、そのいのちに大きな価値を与えていきます。各々の人の存在の価値は同じでも、親切をし続けている人のいのちの値打ちは違います。赦しという愛の労苦をし続けていきましょう。

(3)交わりという施し(第2コリント人への手紙9:13)
「惜しみなく与えている」の「与える」はギリシャ語では「交わり」を意味しています。交わりとは施しです。あわれみという愛情を見えるかたちで表したのが施しという関係です。物質的施し、時間的施し、精神的施し。これは交わりを持つこと、関係を持つことを意味しています。ただ通りで出会った貧しい人に千円あげたからといって、それは聖書では施しとは言いません。施しとは交流することです。一度施したなら、それを続けることが本来の意味です。関わったなら、その人が自立できるまで、最後まで関わることが本当の施しです。良いコミュニケーションの交わりは、心のキャッチボールをすることです。心を相手に注ぎだし、相手の心も受け止め、与え、与えられるというこの関係が成立する時、良い交わりが生まれます。家族でも心のキャッチボールができなかったら、一つ屋根の下に住んでいても家族の交わりはできていません。施しとは、あわれみの愛情の中に相手の負担を自分に負うという覚悟をもって、与えていくことです(物を、時間を、心を、人生を…)。そして与えたその人からまた新しいことを、いろいろ与えられていきます。そこに交流が始まります。
愛の労苦は負担を負うことです。施しをするとはお互いに関与することです。たとえば国際飢餓対策機構で「世界食糧デー」という日があります。それはその日、一度でも二度でも抜かすことで、食糧の貧しい人々を思いやる心をもつ日です。その人たちのことを忘れないで心に留め続けていくことが本当の施しです。一度二度募金して、後は全く忘れてしまったら、それは本来の施しの意味から離れています。また食べ物を粗末にしないという姿勢も同様に大切です。
私たちの人生から愛の労苦を取ってしまったら、人生はひからびてしまい、空しくなってしまいます。損得や優劣で考える人生は、愛の労苦を拒みます。今私たちは、愛の労苦がいかに人生に価値を与えるかを、正しい良心をもって気付く必要があります。私たちも愛の労苦を積み重ねていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年1月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   剛毅果断 ごうきかだん  up 2006.1.29


意思がしっかりしていて、決断力があるさま。物事にひるむことなく、決めたことは勇気を持って実行すること。

絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
(第1テサロニケ1:3) 


 

 

 私たちの人生の中で、決断力が将来を大きく左右するものです。決断が弱いと、中途半端な人生になってしまいます。しっかりとした裏付けのある意志力を持って、神の前に良い決断をしていけるように、それが信仰の働きだということを学んでいきたいと思います。
 パウロが、テサロニケにある教会に、書き送った手紙の中で、その働きを3つのポイントで賞賛しています。
  (1)信仰の働きのすばらしさ
  (2)愛の労苦
  (3)主イエス・キリストへの望みの忍耐
 パウロは神様に祈るたびに思い起こしながら、感謝を捧げていたわけです。今週は、このすばらしい働きの一つ目のポイントである、信仰の働きということを描きながら実行していけるように、信仰のチャレンジをしていきましょう。

●1/30(月)2/2(木)「信仰の義の働き」(ローマ人への手紙5:1,11)
 イエス・キリストは十字架の贖いによって、私たちを罪人から義人へと変えてくださったので、私たちは神様との平和を持っています。このような状況にあるならば、私たちは神様を大いに喜ぶべきだと気付くことが必要です。これが信仰の義の第一歩です。信仰とは私たちの内なる心の動機の部分姿勢のことです。自発的に喜んで神のおことばを尊重して従っていくという姿勢、その信仰が正しいとみなされて、信仰の義が与えられました。その働きが、信仰の義の働きです。
 私たちは、神様に仕えることができるようになって、自分の必要を求めることは一生懸命に祈りますが、そのように祈ることができるようになったことを感謝する人は少ないのではないでしょうか。神様と平和な関係が今与えられているおかげで、祈ることができ、罪が赦され、悔い改めたらもう一度やり直すことができる。そのようにしてくださった神様の存在を喜ぶ表現を、あなたはクリスチャン生活の中でどれくらい表しているでしょうか。
 神様からの全能の力が表されたら喜び、もし、神様に懲らしめられたら、「もうこんな神様はイヤだ」と思ってしまうことはありませんか。もしそうなら、それは信仰の義ではなく、的はずれの応答です。それは神様を私たちの思い通りに動かそうとしているだけになってしまします。
 私たちと神様との正しい関係が回復されるまでは、神様がおられてもむしろ悲しい関係でした。なぜなら、裁かれる立場だったからです。今はイエス様を通して御国を相続する神の子という立場を与えられています。愛する子として見てくださっている、そのことだけでも、私たちはなんと幸いなことだろう、なんと幸せ者だろうかと思いませんか。
 テサロニケの人々はギリシャという哲学の街で、ローマという強い圧制の圧迫の政治の中で、クリスチャンとして信仰の働きを表しました。熱心になればなるほど、迫害を受けなければならない困難の中で、どうして喜べたのでしょうか。貧しくても、お互いの存在を喜び合う家族がいるということは、それが喜びに変わるように、神の存在を喜ぶことは、どんな困難や苦難をも乗り越える喜びに支えられているということです。神の存在そのものを喜ぶ人は、神に懲らしめられても、喜ぶことができる関係。それは親子、家族です。お互いを喜び合う存在として認め合っているからです。
 今の経済社会ではお金は何でもできる力を持っています。しかし私たちは、お金は道具に過ぎないという気持ちをしっかりと持って、与えられているこの大自然と命を、神様からのものとして感謝する、神様がおられるから私たちは支えられているという、神との正しい関係、信仰の義をまずしっかりと持って働きをしていくということです。
 神様を喜ぶということをこの一週間、あなたはどのように表現されるでしょうか。

●1/31(火)2/3(金)「神の召しに対する行動」(ヘブル人への手紙11:8)
 昭和21年、東京の日本橋に一つの電機工場が建てられました。その町工場が世界の電機メーカー、ソニーです。最初、世界に進出するために、今までにない超小型ラジオを開発しました。それを売り込みに、アメリカとヨーロッパに営業マンを遣わしました。この時、ソニーを建て上げた初代の社長は、設立するための目標の一行目に、「日本再建」と書いたそうです。この心構えが営業マンにも伝わって、敗戦後の何もない日本の製品を、海外にも通じるものにしようと出て行ったわけです。しかしその当時、敗戦国の製品など買う国は一つもありませんでした。そんな中、10年もの歳月をかけて開発し、小型のトランジスタラジオを完成させました。
 ヨーロッパを担当した小松さんという営業マン。彼は20代後半でした。初めは西ドイツでしたが、ドイツの製品は性能が良く、一緒に行った部下が一年後には病気で日本へ帰国してしまうほど、難しい状況。「北極で氷を売るようなものだ」と思われるこの状態を、彼は「しかしおいしい氷だったら北極でも売れるはずだ」と前向きな考えに変えました。
 それは敗戦国の日本の何もない状況を建て直すという愛国心から、剛毅果断の志をもって開拓を進めたのです。そして彼は、「コーヒー店に入って『ソニーください』と言うと、店員が『それはラジオでしょう』と返事が返ってくる」までがんばろうと決心したそうです。
 ある時若いドイツ人に「ドイツ人はプライドが高いので、高級店に置きなさい」というアドバイスをもらい、ドイツで一番の高級店、ハンブルグにあるスタンウェイ(世界最高級のピアノメーカー)のショウルームに行ったそうです。最高級店に日本の安物のラジオが置けるかと頭からバカにされても、お金を払うからと頼み込んでようやく一週間置かせてもらえるチャンスが訪れました。さらにドイツ人の大学生にラジオの性能を試してもらい、「気に入ったなら店に行って買って欲しい。代金はこちら持ち、さらにバイト料も払う」という約束までしました。大学生たちはそのラジオの品質を認め、十数人が買いに行きました。これが成功した後、クリスマスシーズンに社運をかけて新聞に全面広告を出しました。 いずれも超一流店取り扱いです。すると、クリスマスイブまでに全店のラジオが売り切れてしまったのです。
 正月が過ぎ、ある日のコーヒー店で「ソニーください」と言うと、ついに「ソニーはラジオでしょう?」という返事が返ってきた、その時の感激は一生忘れないとのことでした。
 私たちはいかがでしょうか。主によって救われ、永遠のいのちをイエス様のいのちと引き換えにいただいているこの恵み。神は私たちを神の子として召してくださった。未信者の人でも愛国心の故に志を貫き通したのだったら、まして永遠のいのちを私たちのために与えてくださった方のために神の子としての誇りを持って、何を言われても、どんな目に遭っても貫き通すことが必要ではないでしょうか。私たちにはちゃんとした裏付けがあります。歴史上に現れたイエス・キリストの十字架の救いの故に、みことばをしっかりと信じて、強い意志を持ってその信仰の行動を一歩一歩歩んでいきましょう。

●2/1(水)2/4(土)「信仰の働きにならう」(ヘブル人への手紙13:7)
 信仰の先駆者であるすばらしいクリスチャンたちはどのような体験をしたのか、まず知る必要があります。ぜひ、そのようなクリスチャンの伝記を読んでください。
 『高山右近』16世紀戦国時代のクリスチャン。彼の信仰姿勢は封建的な武士の世界の中でリバイバルを起こしました。村の人々が右近を本当に良い殿様として、自ら進んで洗礼を受けていきました。
 『長野政雄』明治時代の信仰者。あの三浦綾子さんの「塩狩峠」のモデルになった人。彼は国鉄職員であり、塩狩峠で今まさに脱線しようとする客車を止めるために、その身を投じて乗客たちを救った信仰の人です。「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」というみことばが彼の心に燃え続け、身をもって実践したすばらしいクリスチャン。
 『斉藤宗次郎』宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩のモデルになった人。彼はその地域で第一号のクリスチャン。彼は子どもが事故死してしまうような迫害を受けました。しかしその姿勢は、宮沢賢治が「ソウイウ人ニワタシハナリタイ」と詩の最後を締めくくるほどでした。
 『森永太一郎』森永製菓を建て上げた企業家であり、すばらしい伝道者でした。社員に聖書を語り、引退後は聖書の話をするために全国を講演して回りました。
 海外から日本に来た宣教師の中にもすばらしい人々がいます。宣教師『デーン・リーパー』昭和29年、青函連絡船洞爺丸の事故、彼は率先して人々に救命具をつけさせ、自分は船と一緒に沈んでいったのです。
 そして、私たちが忘れてはならないのが、クリスチャンの総督『蒋介石』彼は聖書の精神に乗っ取って、「隣り人を愛する、罪を赦す」ということを国の代表でありながら実践したすばらしいクリスチャン。日本が戦争責任の賠償金を請求された時、一番被害を受けた中国の総督であった彼が「日本からの賠償金は一切取りません。聖書に、罪を赦しなさい、汝の敵を愛せよ、と書いてある」と堂々と演説して実践したのです。すばらしい指導者でした。
 テサロニケの人々も、いつでも主のために自分の人生を捧げ、永遠のいのちに至るための働きの姿勢を持った人々でした。ですから彼らは自分でキリストを伝えなくても、周りの人々が彼らの信仰を心から尊敬して、アカヤ、マケドニヤ地方にまで広まっていったのです。
 私たちのために十字架にかかって罪の赦しを与えてくださったキリストのために生きるという剛毅果断の姿勢が、多くの人々に感動を与えるのです。そのような行動へと私たちは駆り立てられ、イエス様の愛、神様の愛のゆえに信仰の働きをしていきましょう。無理にではありません。気持ちが駆り立てられたならそれを素直に表しましょう。そして神の霊があなたの内側に今語るべきこと、今するべきことを教えてくださったなら、それを実行してください。

 

 

 

 

 

 
■2006年1月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   危急存亡 ききゅうそんぼう  up 2006.1.22


目前に危機が迫っていて、生き残れるか滅びるかの瀬戸際にあること。

また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
(マタイ13:47〜50) 


 

 

約2千年前に、このことが語られています。神の国とは、海におろしてある網のようなもので、網の中には魚がいっぱい引き揚げられていて、良いものと悪いものに分けられます。すなわち網の中に入っているとは危急存亡のときと言えます。今、世界は神様の収穫の時であって、良いものは器である神の国に、悪いものは捨てられるという時期にあるのだよと,イエス様は言われているのです。今人類が、そしてあなたが、生き残れるか滅びるかという時なのです。では、生き残れる良いものとは、どういうことなのでしょうか。
「危急存亡の秋」と言うそうです。秋と書いて「とき」と読みます。中国では、秋の大収穫の時を大切な時としてきましたので、秋というのは大事な時という意味があります。この言葉を言ったのは、かの有名な三国志の知恵者である諸葛孔明です。彼がこの「秋」という言葉を使って、いかに自分の国である蜀が、今危機に瀕しているかを皇帝に伝えたと言われています。三国志には、「魏、蜀、呉」の国があり、その中で一番大きいのが「魏」でした。魏は非常に活発で、中国統一という野望を持っていましたが、蜀の国に劉備玄徳と,帳飛、関羽、そして諸葛孔明という名立たる兵士達がいたときには、そう簡単に攻め落とすことは出来ませんでした。しかし、関羽と帳飛が敗れ、劉備玄徳が戦いの途上で病死し一人息子である劉禅が跡を継ぐことになります。残された諸葛孔明が軍師として采配を振るっていたのですが、そんな中で3つの国がある程度バランスをとって中国を支配していました。その時劉禅が孔明に、今戦いが落ち着いた時期であることを言った時、孔明が「出師表」というのを持って来て、その冒頭に「危急存亡の秋(とき)」と書かれてありました。なぜ今戦いもなく、3つの国が安定して中国を治めているのに、危急存亡の秋なのか。それは、魏は蜀よりも領土が倍以上あり、人工も数倍あり、軍力も何倍もあり、いつでも攻めて来ることが出来る、いやもう攻めて来ようとしている。その時戦ったのでは、魏に負けてしまうであろう。だから今戦いを仕掛けて、こちらが優位に立たなければ、蜀の将来はない、というふうに語ったということです。そう簡単に魏が攻めて来れないのは、この知恵者である諸葛孔明がいたからです。その彼が、若い皇帝である劉禅に、安心して国に住んでいるけれども、今は生き残れるか,滅びるかの瀬戸際にある時なのですと、この作戦の表を劉禅に差しのべたという「危急存亡の秋」 私たち一人一人は神様の前に生き残れるか滅びるかの瀬戸際にある時なのです。クリスチャンだからといって、生き残れるわけではないのです。何が生き残れるポイントなのでしょうか。

●1/23(月)26(木)「キリストによる和解」(第2コリント5:18)
神は私たちと和解するために、キリストを遣わされました。滅びるか生き残れるかの違いは、キリストによる神の和解を持っているか否かであります。どんなに善良な人でも、キリストによる神との和解を得ていなければ、その人は救われません。矛盾を感じる人がいるでしょう。しかし、世界中に多くの宗教があり、素晴らしい人がいますが、神様との和解のために働きをして下さったのは、キリスト以外にありません。どんなに素晴らしい働きをした人がいたとしても、神との間の和解を実現して下さったのはキリストだけなんだと、クリスチャンは胸を張って信じてください。どんな和解を成立して下さったのでしょうか。神様との間の罪という問題、それは敵対関係をもったという意味です。罪は神様に反抗すること、すなわち不敬虔です。権威あるものを認めない、その秩序に従わない,治めるものを認めない。要するに自己中心です。自分を支配者とし、神とする態度、それが罪を犯す者の態度です。だから天地を造られたお方がおられるにも関わらず、その中で生きていくあなたがもし、天地を造られた方を認めず、あたかも自分が世界の中心であるかのように生きていくことは、大変失礼なことです。親を親と認めないような生き方、それは不道徳です。だから、どんなに良いことをしても、それによって支配者との関係が良くなるのではありません。この世でどんなに善良な人でも、天地創造の神との間に和解を持たなければ、意味のないことです。天地創造の神を認めないほうが、自己中心でいられます。自分が中心でありたいので、神を認めない人が多いのです。そのような状態は、まさに「危急存亡の秋」です。神様はいつまでもそれを放っておかれるわけではありません。イエス様が、どのようにして神様に対する罪、敵対心を取り除いて下さったのでしょう。キリストは、神に敵対する者達の罪の身代わりに、裁きを十字架で受けられました。そこまでして、神の子たちが神のもとに立ち返ることが出来るように、神との和解の御業を成し遂げられました。神はこのキリストの言うことであれば何でもきこうと決心されたのです。だから私たちはキリストにお願いをするのです。キリストが父なる神様に取り次いでくださり、祈りは聞かれるのです。私たちのような罪深い自己中心な者の祈りでも、キリストを通して神の前に祈れば、神はきいてくださるのです。これがキリストによる和解の結果です。だからキリスト以外に救われる名は、天下に誰にも与えられていないのです。このキリストの和解を持っている人、すなわちキリストを救い主として信じて、その教えに従っていく人が、天国という器に入れられるのです。


●1/24(火)27(金)「罪過の責任」(第2コリント5:19)
私たちはよく人の犯した罪に対して責めてしまいます。それが悔い改める動機づけのために責めるならいいのですが、感情的に責めてはかえって効果が薄れています。
どうして神様は私たちに罪の責めを私たちに負わせなかったのでしょうか。罪の責めを私たちに負わせるということは余計に苦しめることになります。神様の目的は、罪の償いを苦しんでし続けなさいということでしょうか。それとも、本心に立ち返って神の子としての歩みを全うすることでしょうか。当然、私たちが造られた最初の目的である、神の子として完成させられることです。罪の責めを持ち続けていたら、いつまでも神の子として生きることが出来ません。神様は前に進むことを願っておられるのに、どうしてあなたは前に進もうとしないのですか。あなたの目的は、罪の責めを充分に負ってから前に進むことですか。そうだとしたら、永遠にそれを負い続けなければなりません。それほどの罪を神の前に犯しているのです。神はイエス・キリストの死を通して、罪の責めを負わせることをなさいませんでした。それでも罪の責めの気持ちがとれないのはなぜですか。神様が認めておられるにも関わらず、自分で自分を認めようとしないのです。出来ない自分を受け入れられないのです。その感情をとり除くために、キリストと共に葬るのが、洗礼の意味です。悔い改めたら、過去はキリストと共に葬られたとみなして、一からやり直すことを神は認めてくださるのです。神は罪の責めを持ち続けるお方ではありません。それなのに罪の責めを自分で持ち続けるのは、権威ある方の判断を認めないことであり、傲慢なのです。神様は私たちが目標を目指して、目標に到達するために、罪の責めを負わせられませんでした。神様のこの願い、目的をしっかりと捉えて、過去を振り返らず、前進していくことが大切です。

●1/25(水)28(土)「神の懇願」(第2コリント5:20)
1600年に、有名な関ヶ原の戦いがありました。豊臣秀吉が一旦天下を治めましたが、彼が亡くなってから徳川家康が力を持ち勝利しました。そのあと豊臣家は徳川家に滅ぼされるのですが、家康は心に大きな憂いを持っていました。それは秀吉にこんこんと頼まれた、「秀頼を頼む」という言葉でした。それを受け入れたので、秀頼をどう処分するか、徳川家安泰のために非常に悩みました。家康は大阪城を攻めましたが、無駄な戦いを好まない家康は、全てを滅ぼすことはしないで和睦を持ちかけ、三つの条件を出しました。(一)豊臣家が徳川家の家臣になること。(二)秀頼の母である淀君が人質になること。(三)大阪城を出ること。しかし徳川家は豊臣家の家臣であったので、それが逆になるということはプライドが許さないことでした。それは豊臣家の危急存亡の秋(とき)でした。私たちも神なんか認めないという自我を持っているなら、滅ぼされてしまいます。和睦がもたらされた時には、生き残るため、未来のために今は一歩引くということが必要な時です。しかし豊臣家はそれを受け入れなかったので、全部滅ぼされてしまいました。家康は秀吉との約束のために秀頼を生かすことを考え、和睦を自ら持ちかけました。しかしそれを拒絶されたため、豊臣家は滅んでしまいました。
この和解が与えられている時に、それを受け入れなければ、あとは滅びしかないのです。だから神は懇願されているのです。普通は罪を犯した方が懇願するのですが、罪を赦す方が懇願されるのです。その理由はただ一つ、生き延びて欲しいという気持ちです。相手がどんなに悪い者であっても、和解を成立することによって生き延びて欲しいと願っておられるのです。家康も本当は秀頼が自分の家臣の一人になって、平安に暮らして欲しいと願っていたのですが、それを断ったので、心を鬼にして天下安泰のために豊臣家を滅ぼしました。神様は私たちをどんな気持ちで、イエス・キリストという和解の使者を遣わし、和解を受け入れるようにと願っておられるのでしょうか。それは単なる願いではなく、真実を持っての懇願なのです。その和解を受け入れた者たちが、網の中から器に移されるのです。ここまでした和解を成立して下さったこの和解を受け入れなかったなら、もうあとはありません。父なる神様は、私たちが造られた目的である神の子としてやり直すことが出来るように、和解をイエス・キリストを通して持ちかけて下さいました。私たちは心を感動させながら、生かされていることの感謝を神の前にささげていきましょう。もし、神の和睦に対する不敬虔な心を持っていたなら、危急存亡の秋です。しかし、キリスト対する謙遜な心を持ってその言葉を受け入れるなら、平安の内に永遠の命を得ていくことが出来るのです。

 

 

 

 

 

 
■2006年1月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   医食同源 いしょくどうげん  up 2006.1.15


医薬と食事は、元々は同じものだという東洋医学の思想。病気の予防にも食生活が大事ということ。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
(マタイ4:4) 


 

 

「人が生きる」とは、食物により肉体が保たれているだけではなく、神に似せて造られた人格者として心が生かされてこそ、本当に生きていると言えます。
今年、私たちの教会は『平和をつくること』を目標にしていますが、平和の使者は健康でなければなりません。
主題であるマタイの福音書4:4のことばは、クリスチャン生活の土台となることばですが、どのように神のことばを食していくのか、今週は3つのポイントから学んでいきたいと思います。

●1/16(月)19(木)「私を生かす」
『どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』(詩篇119:49、50)
感謝なことに、私たちの国は今様々な食べ物があふれているので、いつでも好きな食材を取り入れた食事を楽しむことができます。しかしそのために、かえって「健康のための食事」という意識が薄れているのではないでしょうか?
イエス様は救い主としての生涯を始められるにあたって、聖別のため荒野において40日40夜断食した後で、悪魔の試みを受けられましたが、誘惑を断ち切るために「神のみことば」をもって立ち向かっていかれました。
私たちも罪の誘惑を受けた時、神の道徳心を基準とした「神のみことば」によって立ち向かうのです。
私はクリスチャンになる前は三無主義の空しい生き方をしていましたが、ヨハネの福音書6:63の「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。…」というみことばによって心に回復が与えられるという、不思議な体験をしました。
罪の誘惑は感染していくものですから、クリスチャンもダイナミックヘルス(=どんな病原菌が入っても病気にならない抵抗力を持つこと)をめざし備えてこそ、罪の誘惑にあっても屈することのない健全な心になり、ピースメーカーとして、まことの神の平和を生み出す者としての働きを全うする事ができるのです。
正しい良心の健全さを保つために、みことばをしっかりと受け取りましょう。

●1/17(火)20(金)「いやしと救い」
『主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。』(詩篇107:20)
東洋医学では、自然の食物の中から薬を見つけだし、食事こそが医療の根本だと考えられてきました。同じように、私たちの心の中心である正しい良心が悩み苦しんでいる時には、心の食物である神のみことばがいやしと救いをもたらしてくれます。
食物を口に入れて何十回も咀嚼すると、体内に栄養として十分に吸収することができるように、みことばもひとつひとつのことばをじっくり味わい、深く心の中で黙想(デボーション)すると、聖霊様が教え諭してくださり、悪の誘惑に立ち向かうための正しい良心を強めてくださいます。そうすれば知・情・意を支配することができ、あらゆる欲望に勝利することができるのです。
週一回の礼拝だけで心の健康を保つことはむずかしいので、毎日のデボーションでみことばを深く黙想し、みことばによって日々強められ、導かれることがとても大切です。
私たちは、ただ動物のように目的のない進化論に委ねる人生を選ぶか、人格者として、神に似せて造られた者として目的のある人生に委ねるか、選択して生きなければなりません。
現状を変えたい!正しい良心のうめきに応えたい!と願うならば、正しい良心の働きのための、ひとつひとつのみことばをもって、大いに悩む体験をしてください。
神の前に敬虔な、神を畏れる姿勢を持つことによって、人々に認められ、尊敬される人生を歩むことができます。

●1/18(水)21(土)「乳飲み子のように」
『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(第1ペテロの手紙2:2)
イスラエルの民がエジプトの地を出て、カナンの地に向かう旅の途中で、水も食料も尽きた時、神は天から「マナ」を降らせて、民を養われました。「マナ」は全ての栄養素が含まれている不思議な食べ物で、民は「マナ」だけを食べて、健康を維持することができました。
同じように、神のみことばには、神の子として新しく生まれ変わった私たちの正しい良心が育つために必要な全てが含まれています。それはまるで、乳飲み子が育つために必要な栄養の全てが母乳にあるようなものです。
赤ちゃんは乳を飲みたい時、いつも泣いて母親に知らせます。母親の都合を考えて待つ、というようなことはしません。神は子としてくださっている私たちに「乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(第1ペテロの手紙2:2)」と語っておられます。
みことばを読みたいと思う時、読まなければ正しい良心が衰弱していき、欲望の心だけが強くなり、全てに否定的な心の状態になってしまいます。世の中は色々な不敬虔なことがはびこり、正しいことが認められないような時代ですから、クリスチャンの正しい良心は傷つき、いつも渇いているはずです。「祈りたい!みことばを聞きたい!教会に行きたい!」と思う時、止めてはいけません。どんな犠牲を払ってでも神のもとに行きましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年1月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   金科玉条 きんかぎょくじょう  up 2006.1.8


尊ぶべき大切な決まり、法則。貴重な法律、または規定。転じて、自分の主義主張を守るための信条のこと。

平和をつくる者は幸いです。
その人は神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5:9) 


 

 

新年の礼拝で、まず平和のイメージを描くことが、平和をつくるためには大切であるということを語りました。皆さん、どのような平和をイメージできたでしょうか。
なかには、現実の生活があまりにも厳しくて、平和のイメージを浮かべることも難しいという方がおられるかもしれません。
今週はそういった方も、平和のイメージを描けるようになるための大切なポイントをいくつか学んでいきます。
「金科玉条(尊ぶべき大切なきまり、法則。貴重な法律、または規定。転じて、自分の主義主張を守るための信条のこと。)
金と玉…尊ぶべき大切なもの
科と条…定め、掟
自分の人生をしっかりと歩んでいる人は、自分自身の信念、信条をはっきりと持っている人が多いものです。悪く言えば強情になるのかもしれませんが、「自分はこういう風に生きる」という信条を持ち、何事もその信条を中心に成していくなら、その人にとってその信条は金科玉条になります。
クリスチャンはどんな金科玉条を持っているでしょうか。たくさんのみことばがありますが、その中であなたにとって金科玉条としていつも心に持っているみことばは何でしょうか。そのような信条となるみことばがあると、どんな困難にも立ち向かっていけます。
クリスチャンには平和をつくる者としての信条、金科玉条があります。それを学んでいきましょう。

●1/9(月)12(木)「平和を与える」(レビ記26:3〜6)
このみことばは、イスラエルの民が約束の地(カナン)に入って律法が与えられてからの約束のことばです。
“わたし(神)はまたその地に平和を与える”と、このところがポイントです。なぜ平和は神様が与えてくださるものということが、平和をつくる者と関係してくるのでしょう。どうして、平和をつくる者は主を畏れる敬虔な人といえるのでしょう。
私たちは平和をつくろうと努力します。その努力は自分の力(才能、性格、能力、考え方、経験)でつくろうとするのです。私たちは能力的努力によって平和をつくり出そうとして挫折感を味わうことがあります。しかし、平和は神が与えてくださるものだと知るべきです。神が平和を与えてくださる方なのです。
“平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。”
平和は神から与えられるものなのです。
神の子と呼ばれる私たちは、平和が与えられているので、あなたが行く困難な状況の中に入って行っても、平和が広がっていくのです。平和が与えられている者として自覚することです。
“あなたがたがわたし(神)のおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、”そういう人々が住んでいる地に平和を与えると神は言われました。命令を守り、それを行うとは、主を畏れる敬虔な人のなすことです。ピースメーカーとして大切なことは、この主を畏れる敬虔な心です。
クリスチャンが人生においての生き様、信条として持つことは、主を畏れる心を失わないことです。主を畏れる心は、私のイエス様は良き神様であると信じ続ける行動をとることが大切です。イエス・キリスト様は私たち罪人のために十字架にかかって尊いいのちを犠牲にされた、という歴史的事実を通して、御子を犠牲にしてまでも、私たちを罪の滅びから救い出そうとされた神が、どうして私たちを見捨てられることがあろうか、問題を解決されないことがあろうか、この問題は神の栄光が現れるためなのだと、神に全き信頼をおくことなのです。
“主を恐れることは、知恵の初め。(詩篇111:10)”
“主を恐れることは知識の初めである。(箴言1:7)”
上記にあるように、これこそが「金科玉条」なのです。

●1/10(火)13(金)「人とは何者なので」(詩篇8:3〜5)
この詩篇の記者は、「いかに神は偉大な方か」と神を畏れる心を持って「人とは何者なのでしょう。」と言っています。宇宙、天を見て、あまりにも計り知れない神様の偉大さが伝わってきて、それに比べ、こんなちっぽけな自分、全宇宙からみればアリにも満たない、塵に等しい一人の人間に、関心を持ってくださっているのを考えたら、「主を畏れる心」が生まれてきます。神の偉大さに触れると敬虔さが生まれるのです。
人生の様々な悩み、苦しみ、この世のしがらみに悩まされた疲れた心を回復させるため、空を見るのも良いものです。宇宙規模の神様の創造のすばらしさは、言葉に表せない不思議さが伝わって、心が洗われます。ふと我に立ち返り、正しい良心が元気づいてきます。
私たちは聖書を通して創造主なる神様がどのような方か知っています。万物はキリストのために造られた…それも教会のために…。教会とは私たちのこと…。花婿は花嫁を迎えるために最善の準備をします。教会がキリストの花嫁として受け入れられる時のために用意された天地万物。すべては良きもの、私たちのために造られたものです。私たちのために大空の星々の輝きがあり、銀河系も太陽系も地球のために造られたのです。全銀河が地球の環境を造るために存在しなければならなかった=人とは何者で、これほどまでに神が心に留められるとは、と思わざるを得ません。
この記者は、この地球を宇宙の遠くから見つめて言っているに違いありません。神秘的宇宙観をもって、「いったい人とは何者か」と思うわけです。偉大な方に会って、自分の小ささを知るとへりくだることができます。

●1/11(水)14(土)「くちびるの汚れた者」(イザヤ書6:5)
神様の偉大さを実感すると、へりくだることができると共に、また自分は汚れた心の醜い罪人であり、自分の未熟さを自己受容できた人は、神の前にへりくだることができます。
主を畏れる心は、主の前に謙虚になります。謙虚とは、自分を差し控えて、神様より前に出ず、差し出がましくなく、出過ぎません。自分が神より偉大だとは思いもしません。自分の心の醜さを自己受容できるかどうかが、主を畏れるかどうかの大切なカギとなります。
神と競争するような大それた人はまずいません。しかし、能力があり、ほとんど失敗がなく、たとえ失敗しても立ち上がり、自分の努力で上りつめてきた人は、「人は努力すれば必ず良くなる」と言って、自己受容することはできません。すなわち、「ダメな自分」を自己受容してしまうと、おしまいだからです。
それは傲慢の鎧を身に付けていく醜さがあることに気付いていないからです。
神様と勝負しようとすること自体、非常識です。しかし、この世の人々は、自分が罪人であり、神の前に裁かれる者であることが受け入れられません。理屈でわかっても、神の前にへりくだることができません。頭を下げたくありません。頭を下げるとは、色々な傷ついた心があって、負けを意味します。潜在意識に複雑な気持ちがあり、頭を下げられないのです。自分が醜い者、小さい者であることを受け入れられないのです。これが民主主義のもたらした教えです。
私たちはそういう考えの中で生活してきました。しかし「主を恐れるとは、自分の醜さ、弱さを認めて神の前にへりくだること」であり、これが「平和をつくる者、神の子」と呼ばれるための土台です。そういう人に神は平和を与えます。自分の醜さ、弱さを自己受容できる人は、鼻から息をする人間に頼ろうとはしません(神にも頼らなかったらもっと悪いですが)。そして神の子と呼ばれる祝福をいただくわけです。努力ではありません。与えられるべきものなのです。平和は神が与えてくださる…「アドナイ・シャローム(主は平和の神の意)」平和の君は私たちのところに平和をもたらす方であり、平和ご自身です。
そのお方が私たちと共にいてくだされば、まわりに平和が広がります。主があなたのもとに来てくださるためには、あなたが「主を畏れる心」を持っていなければなりません。この「主を畏れる」という聖書の金科玉条をどのように日々表していかれますか。平和を描く時も「主を畏れる」ことを忘れないでください。そうすれば、自分の否定的な考えでなく、「主は良き方だから大丈夫」と肯定的な映像へと変えていけます。これは努力ではなく、主が共におられれば平和がもたらされるという考えです。あなたが主を嫌わなければ、主は共にいてくださいます。主が嫌われるようなことをするのは良くないことですが、主はそんな私たちでもお嫌いにはなりません。だからこそ、滅びることを願われず、滅んでいく人を悲しまれるのです。もし嫌っておられれば、悲しまれるはずはありません。愛してくださっているのです。
汚れた醜い者だから神に嫌われていると言って、否定的にならないでください。それを認めて受け入れることができたら、主を畏れる心を持つことができているのですから。良き神様が醜い不道徳なあなたを愛して、食い改めの生活を導き助けてくださいます。どんなに努力しても離れることができなかった罪から救い出してくださるのが、私たちの救い主イエス様です。
自分の罪深さを認めることは決して神に嫌われることではなく、むしろ神を畏れる心の状況が整ったと言えます。そして、十字架を思い起こし、神はこんな私を今もあきらめず、悔い改めに導いてくださっている、と前向きに自分の人生を考え直すことができます。そういう人の周りに、神の平和は流れていくのです。すばらしいピースメーカーとして金科玉条の「主を畏れる」-「イエス様は絶対良き神様だ」という信条を持ち続けましょう。

 

 

 

 

 

 
■2006年1月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   琴瑟相和 きんしつそうわ  up 2006.1.8


夫婦の仲がむつましいことのたとえ。

平和をつくる者は幸いです。
その人は神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5:9) 


 

 

今年は「正しい良心をもって平和をつくる」をモットーとして心がけて歩むことを、昨年祈りの中で御霊によって示されました。これは、昨年示された広島エルサレムプランを受けて与えられた、2006年度の目指すべき方向性です。
平和の象徴であるエルサレムの町は、今はあまり平和ではありません。神様は、世界すべてをエルサレムの町に例えて私たちに教訓を示しておられると思います。また、神様の計画がエルサレムの歴史的歩みを通してエルサレムに示されていくのを見ながら、私たち全人類に対しても、エルサレムになされたようになされるのを見ることができるように、見える形で神様の時や計画を示される貴重な町だと言われています。
神が願っておられるのは、神の平和な国です。それを目指す私たちの人生であることをさらに印象づける一年でありたいと願います。
そこで平和をつくっていく第一歩として、この四字熟語の内容を心に描く一週間としてください。
「琴瑟相和」の『琴きん』は琴(こと)、『瑟しつ』は琴より大きく、弦が倍近くある中国の楽器で、この二つの楽器が合奏する時、何とも言えない美しい音色を奏でることから、夫婦の仲睦まじい様子を例えています。夫婦は違う音色を持ちながら、一緒に弾くとすばらしい音色を奏でるという、夫婦仲が良いことの最高の表現です。この夫婦の仲睦まじさをたたえた麗しさの中に、本当の平和が実っていることに気付いていただきたいのです。
あなたは平和をどのようにイメージしておられますか。平和は漠然としたものでなく、個々の別々の人格者が相和するときできるものです。「琴瑟相和」は平和の麗しさを表しており、具体的に夫婦の仲睦まじさをイメージしていただいたらいいと思います。
この一週間、平和をつくる者(ピースメーカー)として、イメージを描いてください。イメージがあってこそ設計図ができあがり、それに従って物が造られていくように、平和をつくり出す者として描いたイメージを私たちはつくり出していきます。3つのポイントに分けてイメージを描き、ぜひ達成したいビジョンとして意識して描く夢をみことばから考えてください。

●1/2(月)5(木)「悪を離れる」(詩篇34:14)
平和を「実行する」のではなく、良いイメージを描くことを強調したいと思います。良いイメージは強い願いとなって変えられていきます。現実にCM(コマーシャル)は言葉だけでなく、写真として、さらにTVの動く画面を通して、イメージが忘れられなくなり、手にしようとさせます。音楽家、芸術家、建築家も、イメージが浮かばなければ作品ができないといいます。イメージを描くことは、物事を作る第一歩です。
平和をつくる者として、「悪を離れた平和」を考えていかなければなりません。クリスチャンになると、良心が目覚め、悪に対して咎めを持ち始めるので、たくさんの悪を行っていることに気付かされます。しかし、気付いていない人もおり、大きな悪が取れたのでもう良いと思い、安心して小さな悪に目を留めなくなり、それ以上きよめられなくなってしまいます。
そうすると悪から離れた平和が実現しにくくなります。悪と平和は共存できません。平安が味わえない人は、悪を行っていることにどれほど気付いていますか。気付かなければ悪から離れられません。正しい良心がくもっていると、小さな悪に気付きにくくなります。正しい良心が成長し磨かれることと、主なる神様を畏れる
度合いは比例します。
また、あまりに悪に気付きすぎて、精神的に混乱を招くのではと心配する人は、自分の力で悪から離れようとしています。悪から離れるために必要なことは気付くことと、悔い改めの決心(決意)です。私たちの側がする努力は悔い改めです。この努力が実るための神の助けが、イエス・キリストの十字架の力です。
イエス・キリストを信じて神の愛を心に返されると、そのキリストの血が良心をきよめ、死んだ行いから離れさせると、聖書に書いてあります。神の愛が良心に注がれると良心が強くなります。これは努力によりません。愛は私たちの心に力を与えて行いの実を結ばせます。ですから、神の愛がわかるにつれて、死んだ行いである悪から離れるための悔い改めを強く決心し、悔い改めにふさわしい実を結ぶ力が湧き上がってきます。この力は神の愛を信じることでしか得られません。この愛を疑えば力は弱まり、否定的な思いさえ抱くようになります。疑いは愛を滅ぼす原因になります。しかし、神は私たちが神の愛を疑うことのない史実を刻んでくださいました。キリストの十字架は疑いの言葉を払いのける証拠です。神はあなたを愛し、御子イエス・キリストを地上に遣わし、あなたの罪を赦してくださっている−これほどの愛は信じるしかないのです。
悪から離れたクリスチャン生活、誘惑に勝利するクリスチャン生活、弱点を克服した自分の姿。
同じ失敗を繰り返した昨年のイメージを全部捨てて、新しいイメージ、良い自分、悪癖から解放された自分の姿を描くのです。どうぞ悪から離れた平安な自分の姿をイメージし、落ち着いた人生を歩みたいという願いが起こるような良いイメージを描いていただきたいと思います。

●1/3(火)6(金)「義がともにある」(詩篇85:10)
悪から離れることと、義が伴っていることは全く違います。この義は存在の目的に添った状態にあることで、悪から離れていても自分中心に物事を進めるなら、義の状態にありません。自分本位の平和は神が願っておられる平和にはなりません。義のある平和は「自分はこのために神によって生かされている」ことを理解します。休みも、上司や苦手な人にどう配慮するか、祈りの中で考え備えていきます。存在の目的をしっかり受け止め、堅く立って生きていこうとする人は、マイナスイメージで終わらず、問題に対して意欲が湧いてきます。
この義と平和が「口づけする」とあるように、両者はよほど密接な親しい特別な関係があり、離れられない関係にあります。平和を考える人は、義も同時に考えます。自己義を持つ人は平和を無視することが多く、自分に合わさせようとし、力づくで服させます。これは本当の平和ではありません。互いに受け入れ合う心がないと平和になりません。私たちの中に義がもたらされることでどんな平和がもたらされるかを描いて事を始めましょう。
また、義は法と秩序に添った営みとありますが、違反をしない正しいルールの中で過ごすので、問題は少なくなります。自己義は問題が起こりやすくなります。(社会の交通ルールを守るなら交通事故は起こりにくくなるはずです)互いのルールを押しつけると、必ず問題が起こります。
私たちが合わせるべき人生の法は創造主のルールであり、義と平和が伴うすばらしい人生が実ります。家庭でも夫婦でも、みことばから和解すれば、義が伴っているので不動の平和となります。
悪から離れているのに平安の実が結べない人は、義のない平和を求めてないか、義を点検してみてください。

●1/4(水)7(土)「持ち物によらない」(箴言17:1)
お金がないと不幸だと洗脳されている世の中の人が多いです。しかし幸福の基準は持ち物ではありません。物があると取り合いし、悩みが増えます。物に頼った幸福、平和は問題がおきます。
平和は人間関係によるのであって、物質によって人間関係を良くしても崩れます。人格的人間関係の確かさは崩れません。そういう相互の愛がもたらされる平和を神は願っておられます。一方的でなく、相手も同じように返してくれるというものです。一方的な平和作りは実現しにくいもので、互いに協力しなければ真の平和はできにくいのです。平和は人格と人格の中に生まれてくるもので、よい人間関係を結ぼうとし、自分の心を相手に伝えようとし、相手を理解しようとします。
「剣をもたらすために来た」とイエス様が言われた箇所があります。不敬虔な者と一方的に平和を結ぼうとすると剣(問題)が起こり、平和を作り出す「互い」という土壌を準備させることになります。クリスチャンは譲れないものを譲っては、偽りの平和になります。神を畏れる敬虔な心を絶対に奪われないように。あなたの生活に相互の愛がもたらされたら、どんなに良い関係ができるだろうかを描いてください。
この一週間、良いイメージを描くことから始めてください。そして「そういう者になりたい」という願いを強く持ってください。