■2008年6月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   猿猴捉月 えんこうそくげつ  up 2008.6.29


猿たちが井戸の水に映った月を取ろうとして木の枝にぶら下がり、互いに尾をつかんで数珠つなぎになったところ、枝が折れみんな落ちて死んだ故事から、欲を起こしてよく考えもせずに行動し、命を失ったり災難を招いたりすること。身のほどをわきまえないと身を滅ぼすたとえ。


高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。
(箴言11:2)


 

 

 高ぶりが身を滅ぼす。災難を招く原因にもなります。恥をかきながらなおその高ぶりを続ける時に、身を滅ぼしてしまうと言えるのではないでしょうか。私たちは猿のような愚かな者ではありません。決して自分のものとして取ることのできないものを手に入れようとするような、分を超えたわきまえのないことをやめて、知恵深く、すなわち自分の分をわきまえる。それはへりくだることだと受け止めましょう。この一週間、へりくだった心を持って、知恵ある歩みをしましょう。

1.辛さをとおしてへりくだる(ダニエル書4:37)
“今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。”

 大バビロン帝国を築いたネブカデネザル。アジアからアフリカ、ヨーロッパに至る文明の栄えているところは、バビロン帝国によって完全に支配されていました。
『すべての権威は神によって造られたものである』と聖書に書いてあります。神を敬わない未信者が権威を持ったとしても、それは神がお与えになったものだと聖書は言っています。その権威をどう使うかによって、神はその人に対する裁きと報いをもたらすわけです。
 ネブカデネザルはその権威を自分の力だとし、自分に栄光を取っていました。人の力では到底できないことを自分の力のように受け止めてしまう、高慢さ高ぶりが出たわけです。それで神様は、彼を諭すために、一つの病気を与えました。それは大変な精神的な病でした。獣のような状態、牛が草を食べるように草を食べ、爪は伸び放題、服は着替えずボロボロのまま。ある宮殿の中庭で、彼は7年間動物のように過ごしたと書いてあります。
 精神的な病気だとしても、霊は健全な意識を持っています。その苦しみを知っていて、辛さを味わうことができます。その中で霊は葛藤し、7年間の苦しみが彼の高慢を打ち砕いて、そしていやされたわけです。「天の王がいることがわかった」という悟った気持ちが、「今、私ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる」ということばに表されています。
 強制的に砕かれることは非常につらいものです。普段から、神の前に私はなきに等しい者であるという謙虚な心が、知恵をあなたの心にもたらされるのではないでしょうか。

2.へりくだりの証し(第2歴代誌12:5〜6)
“そのとき、預言者シェマヤが、レハブアムと、シシャクを前にしてエルサレムに集まったユダのつかさたちのもとに来て、彼らに言った。「主はこう仰せられる。『あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。』」
すると、イスラエルのつかさたちと王とはへりくだり、「主は正しい。」と言った。”

 レハブアム王は、神様がイスラエルの国を祝福してくださっていたので、敵が攻めてくることもなく、平安の内に繁栄して、新しい街が建てられていました。彼はネブカデネザルのように、自分の業績だという気持ちになっていたのでしょう。この時、権力者たちはみな高慢になっていました。
 神様への礼拝は続けながらも、王やその司たちの心がすでに神様から離れていることを指摘されました。つまり、神の助けを必要とせず、高慢になっていたということです。神はそれを気づかせるために、敵国の王シシャクを遣わされました。そしてこの状況を預言差シェマヤを通して、王とその司たちに語られた時に、彼らはへりくだりました。まだ神を敬う心が残っていたということです。神様が悔い改める時期を見計らって預言者を遣わされたのではないかと思います。そして彼らは「主は正しい」と告白しました。
 へりくだったことの証しがこのことばに込められていると思います。
本当にへりくだっているか3つのポイント
(1)自分の間違いを全面的に認める
(2)神様の主権を全面的に認める
(3)神様の裁きに服する
本当にへりくだったしるしは、神がどのように取り扱われようとしても、それに委ねますという心です。

3.へりくだりのポイント(箴言3:6)
“あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”

『主は正しい』という姿勢が心にできてきた人は、人生において行くところどこにおいても主を認める。主の言われることはすべて正しいと認めるということです。
 14年ほど前にインドに行った時のことでした。最初はいやでいやで仕方ありませんでした。不衛生だし、常識も価値観もまったく違います。食事は何でもカレー味で苦手でした。しかし神様がスタンレー先生を通して導かれたわけです。そして乗っていた車が、走行中にタイヤが外れるという体験をしました。「もうこのようなことが起こったら困ります。降参です。主を認めます。」このようにして平安の内に、もう何が起こっても大丈夫だという気持ちになりました。その後も命に関わる危険がありましたが、主は守ってくださいました。
 主を認めて歩むその道は『主はあなたの道をまっすぐにされる』安全にその道を歩むことができるという約束があるからです。ぜひ皆さんも、あらゆる人生のできごとに対して主を求め、その歩みに「主は正しい」という心を持ち続けていただきたいと思います。

●06/30(月)(第1ペテロの手紙5:6)
“ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。”

 へりくだる者には、ちょうど良い時に高くしてくださる、というのは、あなたがクリスチャンとして生活している中で、どんなに社会においても非難されるような、また虐げられるような状況にあったとしても、ちょうど良い時に神はあなたを高くしてくださる。このちょうど良い時というのは、まるで野球の最終回に満塁逆転ホームランを打って勝利を得るようなものです。神の力強い御手を信じてその時を待ちましょう。

●07/01(火)(ゼパニヤ書3:12)
“わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。”

 『ただ主の御名に身を避ける』神さまの側から見れば、へりくだった者を守るということですね。この世のものに何一つ頼ることができない状況において、主だけに望みを置く。自分の努力以上のことをしても良い結果が得られない、その理由は神の守りから出てしまっている。その原因は高ぶりへとつながっていくわけです。

●07/02(水)(イザヤ書57:15)
“いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。”

『ともに住む』ということばで思い起こすみことばが1つあります。
『神はイスラエルの賛美を住まいとされる』このイスラエルの賛美の中に、へりくだりという意味が含まれていることを知らない人がたくさんいます。イスラエル人はエジプトから必死で逃げてきました。とうてい人間の力では救うことのできない状況の中にあって、神さまがその道を開いて救い出してくださった。そこには何の高ぶりも高慢もありません。
 本当に神を畏れるへりくだった心を持って、ミリアムは神を賛美したのです。どんなに高度ですばらしい賛美でも、その中に神がおられるかどうかを見分ける方法があります。そのメンバーたちがへりくだっているかどうかです。
 本当に大切なのは、賛美し礼拝した後に、人の罪を赦せる心に変えられているかどうかです。

●07/03(木)(第2歴代誌34:27)
“あなたが、この場所とその住民についての神のことばを聞いたとき、あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。−主の御告げです−”

 へりくだる者の願いを神は聞き入れられる。祈りに速やかに応えてくださるということです。あなたの人生において、願いが聞き届けられることに対して、これ以上忍耐できないと思うほど待っておられるなら、もう一度点検してみてください。ヨシヤのように、自分が悪くなくても神の前に気づいていない違反がないか、また道がそれていないだろうかと。ぜひヨシヤのようにへりくだって「主よ私は道を外しました」ヨシヤは泣いて自分の非を認め、祈りました。この出来事は34章にあります。ぜひゆっくり読んで瞑想してください。

●07/04(金)(箴言3:34)
“あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。”

 へりくだる者には恵みを授ける。この時恵みを施される方がどのような方であるかを、しっかりと認めてください。あなたよりも地位の高い方、それだけではなく、宇宙万物を支配されておられる統治者。そのような方から恵みが授けられるということは、とてもラッキーなことです。そのためにはへりくだることです。

●07/05(土)(ヨナ書3:10)
“神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。”

 へりくだる者には災いさえも思い直してくださる。へりくだるということは、悪の道から立ち返るための努力をすることです。その努力を始めた時からが悔い改めの実なのです。神は人の心を見られる方。へりくだった者の努力を実として評価してくださるお方です。それは結果として実を結んでいなくても、です。このような考えの神様だからこそ、私たちは救われたのです。すぐに結果を出すことのできない罪深い者たちだから、イエス・キリストの悔い改めの福音が与えられたのです。へりくだった努力は認められるということを、みなさんぜひ心に留めてください。

 

 

 

 

 

  
■2008年6月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   有耶無耶 うやむや  up 2008.6.22


あるのかないのかはっきりしないようす。そうなのか、そうでないのかあいまいなようす。


良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
(ルカ6:45)


 

 

 聖書において「良い人は良い倉から、悪い人は悪い倉から」というふうに限定していることから意味をとるならば、クリスチャンは神を信じ、敬虔な人生を歩む良い人と言えます。しかし、その確信がないために、悪い心が多く感じられると、自分は悪い人間だ、救われていないのだというように考えて、中途半端なクリスチャン生活を送ってしまうことがあります。
 黙示録において神様は、「熱いか冷たいかであって欲しい」と語られています。また「生ぬるければ、口から吐き出す」とも表現しておられます。これは合格か不合格かを決めるために言われたのではなく、態度をはっきりさせなさいということなのです。全ての人は、イエス・キリストの十字架の贖いによって愛され、熱い心が注がれている。だから、あなた方は熱い心の持ち主なんだよ、はっきりと熱い心を感じ取りなさい、という励ましのことばだと思います。
 私たちの語る言葉が人々の助けになるように、また私たち自身にとっても希望の持てるものであるような、良い人としてのはっきりとした態度を示すことのできるクリスチャン生活を歩んで行こうという狙いをもって、(ルカの福音書6:45)から「有耶無耶」にならないクリスチャン生活を目指したいと思います。
 
1.語る言葉の大切さ(ヤコブの手紙3:6)
“舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。”

 告白する言葉には、人生全体に影響を及ぼす力がある。
 ここでの火は、燃えつくし、灰にしてしまう。すなわち、無駄なもの、空しいものとなってしまうという、否定的な意味で使われています。舌は言葉を語る器官ですが、この言葉によってからだ全体が汚され、人生の車輪を焼くとあります。車輪が焼かれるとどうなるでしょう?前進することができなくなってしまいます。
 語る言葉は、人に対しても自分に対しても大きな影響力を持ち、たった一言で人生をダメにしてしまうことさえあるということを、肝に銘じておく必要があります。
 また、あなたの人格を高めたり、低くしたりすることもできるのが、舌によって語られる言葉なのです。
 その言葉は(ルカの福音書6:45)によって、心に満ちているものを口が語るというわけですから、つい出てしまう言葉でも、自分で意識していなかったとしても、心にあるものだということになります。

2.良い倉か悪い倉か(エペソ人への手紙2:10)
“私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。”

 さて、私たちは良い人か悪い人か?それによって、あなたの心にある倉が良い倉になるか、悪い倉になるかが決まります。
 私たちが「神の作品である」ということは、神が直接関わり、手がけたものであるということを強調しています。神はあなたの人生において、イエス・キリストを信じ、悔い改めて洗礼を受けることができるように導かれました。そして、洗礼の水から上がってきた時には、神ご自身が直接手を下して、良い行いをするための作品として造られた者となりました。そのことを、洗礼を受けたクリスチャンは確信してください。
 神がお造りになったものは良いものです。あなたは良い人として生まれ変わったのです。これは一歩積極的な信仰が必要です。なぜなら、現実的には悪い心も感じるからです。それでも、あなたは良い人として造られたのだということを疑ってはなりません。迷って有耶無耶な思いでいるから、欲望に引っ張られてしまい、私は悪い者だと受け入れてしまうのです。現実には悪い実が見られたとしても、「私は良い行いをするために造られた」という確信を持って物事を判断し、行動していけば、少しずつ悪い行いの実を結ばなくてもすむようになります。現実はイエス様のようになっていなくても、神は私たちを義人として認めて、接してくださっているので、私たちは義人として成長していくことができるのです。
 子育てにおいても、良い子、賢い子、優しい子と親がそのように信じて接していくなら、子どもは優しい親切な部分を引き出されてきます。多少荒っぽい子であっても、「あなたはおとなしい良い子ですよ。」という気持ちで接していくと、やんちゃな部分は続いたとしても、おとなしい、良い部分が引き出されていきます。ところが、良いことをしたらほめ、悪いことをしたらけなす、というようにしていくと、子どもは裏表の心を持ち始めます。すなわち、悪いことをしても、それを上手に隠したら叱られずに済むという知恵が働いてきます。
 神様は私たちに対していつも良い作品なんだ、良い神の子だ、義人だという気持ちで接してくださり、信用し続けてくださっています。だから私たちは安心して、たとえ失敗しても悔い改めて、次に進んでいくことができると思うのです。
 私たちは神の作品であり、良い人だから、良い倉から良いものを出すことができるのだということを、しっかりと確信していきましょう。
 ではその倉である心に何を入れたら良いのでしょう。

3.良い倉に納めるもの(ヨハネの福音書4:14)
“しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。”

 イエス様は私たちに、永遠のいのちへの水がわき出る泉を与えてくださると言われました。
 良い倉に良いものを入れようと、世の中の様々な出来事から良いものを取り入れていこうとするクリスチャンがいます。しかし私は、この世の中のすべての経験や体験が、神の前に受け入れられる聖いものとは限らないと思うのです。不敬虔な人々の善意や親切さえもあるからです。そこで私が泉のすばらしさを改めて教えられたことは、泉さえ私たちの良い倉に置いておけば、放っておいても心に満ちるということです。得よう得ようとしなくてもよいのです。
 私はイエス様を信じた19の時、神様について、また人生に対して、さまざまな疑問を感じていました。神は全宇宙に何を計画しておられるのだろうか? 三位一体の神とはどういうことなのか?神の臨在とはどのようなものなのか?等々、いろんな思いを神に告白し、祈り、黙想する時期が1〜2年ありました。まだ聖書も全部読んでいなかったのですが、神様はそれら一つ一つに対して、自分では考えもつかないような理論や悟りを心の中に沸き立たせてくださり、それらを理解することができるようにしてくださいました。
また、私が経験したことのないことさえも悟らせてくださったので、伝道や訪問で60〜70代の人生の大先輩の方とも対等にお話をすることができました。むしろ私の方が悟りが深い場合もあり、私が語った言葉に私自身が教えられるという不思議な体験もしました。
 この「泉」「いのちの水」とは、聖霊様のことです。神の御霊が私たちの正しい良心の内に宿られると、その聖霊様は泉のごとく私たちの内に存在し、私たちの心を神のみことばの悟り、良いもので満たしてくださるのです。そして心に満ちているものを口が語るとあるように、神様についての悟りのことばが次々と出てくるのです。この泉を持てば最高です。真に敬虔な人は、泉から語られることばを聞くと安心し、納得し、尊敬するようになります。これは私の体験ですが、皆さんもぜひ、神様の用意してくださっている泉である聖霊様を心にしっかりと迎え入れて、湧き上がる良いもので心を満たしていただきたいと思います。
 それでは、この泉をいただくために、私たちがすべきことは何でしょう?

4.私たちがすべきこと(詩篇81:10)
“わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。”

 「大きく開ける」とはどういう意味でしょうか。
 卵からかえったひな鳥が、親鳥からえさをもらう時の様子はどうでしょう。どのひなもみんな大きく口を開けています。それは求めている姿であり、「ほしいー、満たしてー」という飢え渇いた姿です。
また私たちは信頼している人や尊敬する人に対しては、心を大きく開くことができます。
「大きく開けよ」とは、飢え渇いて、100%信頼して、疑うことなく神の恵みを待ち望みなさいということです。大きく開かないと入りきらないほど大きなもの、これが神のくださる聖霊の泉です。あなたの心の玄関まで来ていて、神様が入れたいと思っているのに、心を全面的に開こうとしないから、委ねる心を表さないから、入って来られないのです。あなたが悪いのではなく、ただ入口が狭いだけなのです。
 そこで、100%信頼することのできるしるしがあれば心を開くことができるはずですが、そのしるしとは何でしょう。それは、イエス・キリストの十字架です。なぜなら神は、そのひとり子ということばで表されているように、心の内のすべてをもって、私たちの罪を赦すために十字架のわざを完成してくださったからです。
 すべて、ということは、神ご自身が私たちを信じて、私たちに期待して、すべて心を開いてくださったということです。この歴史的事実が、何百年も前に預言されている通りに私たちの前に示されたということは、信じなければおかしいほどのしるしです。
 神は私たちが救われ、いやされ、立ち上がるために、救い主を遣わされました。それならばどうして、私たちの人生に苦しいことが起こるのでしょう。
 神様は傷つけるけれど、またいやす方。そこには理由があるということです。傷つけても放っておかれる方ではありません。失望することがあっても、必ず希望で終わらせてくださる方です。私はこの神様を信じてみようと思い、信じてみました。そして今、失望することがあっても決して失望で終わることなく、更なる希望を与えてくださり、その大きな希望の一つが「広島エルサレムプラン」です。平和の街として象徴される広島が、真に神の平和の街に変えられる、その事を待ち望みつつ、エルシャダイの働き、神を賛美すること、また小グループの交わり、それらを通して、この広島の人々に、キリストの証人として、良い倉から良い言葉を出して良い影響を与えていく者としての人生を進めているんだと、それは希望です。使命です。
 一人一人がこの神のご計画のために目的を持って造られたということに目覚めると、使命感が湧いてきます。しかし、不敬虔な人々との交わりの中で葛藤するわけです。ですから、しるしをいただいてください。良い倉に永遠のいのちに至る水を沸き立たせる泉をいただくことです。十字架の歴史的事実と共に、今のあなたが現実的なものとして受け入れることのできるしるしとなるのが、この聖霊のバプテスマであるということです。

 

 

 

 

 

  
■2008年6月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   取捨選択 しゅしゃせんたく  up 2008.6.15


多くのものの中から、良いものを選び取り、悪いものを捨てること。


正しい者の報酬はいのち。悪者の収穫は罪。
(箴言10:16)


 

 

 正しい者の報いは、「いのち」ということばに象徴される、生き生きとした力強い、あらゆる良いものです。逆に「悪者の収穫は罪」とは、悪者が悪いものの種を蒔くと、すべて罪=的外れの結果が出てくるということです。当然のことながら、何を蒔けば何を収穫するかが決まるように、またどのような働きをするかによって報酬も決まってきます。私たちの人生も、正しい者として歩むか悪者として歩むかによって、人生の報いが決まってきます。
 私たちの心には正しい思いと罪の思い(悪者の思い)が存在します。正しい良心のもとに生きるか、それを無視した悪者(自己中心、神を敬わない心)の心で生きるかを、自分の意志で選んで決定しています。 先週お話した憎しみという悪い心は、相手との争いという実を刈り取ります。正しい者の心をもってその報酬であるいのちを得ていきましょう、というのが今週のテーマです。そして「取捨選択」という四字熟語に表されているように、できうる限り正しい心に意識を置いて、判断・行動していきましょう。

●6/9(月)「悔い改めにふさわしい」(使徒の働き6:20)
“ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。”

 ユダヤ教のパリサイ人で、熱心な律法学者であったパウロは、クリスチャンを迫害する者でした。ダマスコに行く途上で、よみがえられたイエスと出会い、自分の信じている神が遣わした救い主を迫害していることを悟らされ、クリスチャンに改宗し、そしてすべての人々に悔い改めることと悔い改めにふさわしい行いをするように宣べ伝えていきました。
 私たちクリスチャンは、キリストを通して悔い改めた結果、神を畏れ敬う敬虔な者となりました。自分の上に立つ人を敬うと言うならば、その人の言葉、権威を尊び守るはずです。しかし多くの人々は神概念が低く、自分の願い通りになる神が良い神という、不敬虔な捉え方しかできません。神とは、全宇宙を治める方です。私たちクリスチャンは、イエス様が地上に来られたことを通して、聖書に書かれていることが天地を造られた神から来たことを信じるようになりました。
 「信じる」とは「不敬虔」から「敬虔」へと心を変えること、「根本的悔い改め」とは、単に神の存在を認めるだけでなく、存在を尊ぶところまで意識を高めることです。
 過去私は、対向車線の車が警察の取り締まりが先にあることをパッシングで知らせてくれたのに気づいて、法定速度を守って運転しました。しかし同乗していた友人は、見えない警察にスピードを落としたことにいらつきました。正しい心の者と悪い心の者とでは、結果はどのように出るでしょうか。先ほどの車の話は、やはり先の方で警察の車が待っていました。仮に警察がいなくても、何ら害は受けません。私は知らせによって警察の車の存在を認め、また権威を畏れたので法定速度に落とし、罰金を免れるという良い結果を得たわけです。
 キリストがこの地上に来られたという歴史的事実は、神がおられるというしるしです。目に見てはいなくても、しるしがあれば存在を認めることができ、尊ぶことが大切です。
 クリスチャンは不敬虔な生活から神の存在を敬う敬虔な生活へと悔い改めたことを忘れてはいけません。罪が赦されるためにイエス様を信じたというあやふやな信じ方でなく、罪を赦してくださる方を尊ぶ信じ方をしましょう。「信じたらいい」という安易な姿勢ではなく、「悔い改めにふさわしい行い、生活」を心掛けることが必要です。このために、敬虔な心と不敬虔な心が存在しますので、どちらかをはっきり選び取って一日を歩むことが大切です。出来事が起こるたびに、神がおられ、良いものを報いてくださるからどういう態度をとるかチャレンジし、一日を振り返って反省し、次へと希望をつないでいただきたいと思います。

●6/10(火)「いっさいを愛をもって」(第1コリント人への手紙16:14)
“いっさいのことを愛をもって行ないなさい。”

 第1コリントの13章には、「愛がなければすべてはむなしい」と書かれています。すべての行いを価値づけるのは、「善意、親切、正義」ではなく、愛によるということです。そこで愛ということを真剣に考えることが必要です。
 おおよそ人はその価値を外面の美しさで評価してしまったり、内面的に性格の善し悪しで判断したりします。クリスチャンは何を基準にして、人の存在を尊ぶかということを考えるでしょうか。皆さんも自分なりに考えてみてください。私(辻師)はこう考えます。敬虔な心から人を尊ぶ基準は「神が尊ぶものを尊いとする」ことです。神はすべての人を愛しておられる証しとして、神が人となってこられたイエス・キリストが、十字架で罪の贖いのみわざを実行されました。神を知らない人であってもその存在も尊いと思われています。ご自分のかたちに似せて造られた人はすべて尊いのです。たとえ自分の価値観と合わない人であっても、神が尊いと言われているならば、自分もそう見るのが不敬虔から敬虔な心に入れ変えた人の姿勢と信じています。 相手の反応に関係なく、神がこの人の存在を尊んでおられるので親切をしていくのです。この心の持ち方が「いっさいを愛をもって行なう」動機です。正しい良心をもって神の基準に従っていくなら、「いっさいを愛をもって行なう」ことができるように変えられていきます。

●6/11(水)「つぶやかず、疑わず」(ピリピ人への手紙2:14)
“すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。”

 今は情報過多の時代で、まるごと信じると損をすることも多く、それだけ悪い時代だと言わざるを得ません。そこでたいていの場合、人を疑う時はその行動を見て疑い、人格までも疑います。そして行いと人格を一つに考えてしまい、つぶやき、不信感、横柄さが出てきます。当然のこと、神様は完全な人格を持たれた方なのに、神のなされたことを理解できず、神の人格を疑うことはないでしょうか。「神がすべてのことをなされているのに、なぜこんなことが起こるのか。」と理解できないわざがあっても、神の人格を信じ続けることで、悟らされる時まで耐え忍ぶことができます。
 どちらがいのちの報酬を得るでしょうか。完全な神が私たちへの愛をキリストを通して示され、歴史に刻まれたなら、疑うようなことがあってもなお、神の深いお考え、知恵があり、主権者としての思いがあることを信じ続けることができます。そして私たちも、キリストを信じている者同志として、互いを信じ合うことが大切です。言葉のまずさがたとえあったとしても、それは人格を表しているのではないと考え、人格を信じ続けることにより、すべてをつぶやかず疑わず行うことができます。ちょっとした失敗を捉えて全部を疑いつぶやくなら、悪者の心の方に意識がいっています。人格まで疑うことのないよう気をつけていくなら、すべてのことを疑わずつぶやかず行っていけるのではないでしょうか。

●6/12(木)「知恵にふさわしい」(ヤコブの手紙3:13)
“あなたがたのうち、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。”

 知恵のある賢い人とは、主なる神を敬う人のことです。自分の正しさを主張しすぎないように、気をつけなければいけません。相手の意見を認めるには、柔和さが必要です。そのためには知恵にふさわしい取捨選択が必要です。あなたが支配者なる神を認めておられるならば、自分がするべき分と、してはいけない分がわきまえられていることでしょう。神に委ねられない心は、柔和さを取り去ってしまいます。逆に怒り、短気、裁き心が生まれてしまいます。人を裁くのは神がされること、あなたの意見と他の人の意見をどう判断されるかは神がなさること…と考えていく時、柔和さが生まれる秘訣があるのではないでしょうか。

●6/13(金)「悪から遠ざかる」(第1ペテロの手紙3:11)
“悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。”

 悪から遠ざかりたいという心は、神を畏れる正しい者の心であり、神を畏れる正しい良心からのみ湧き上がってくるものです。自分の気が済むかどうか、利益になるかどうかと考えるのは悪者の心です。
 損をしても悪から遠ざかるのは良心的な判断です。なおさら、神の前における正しい良心が悪から遠ざかる判断は、もっとシビアで厳密になるでしょう。悪から遠ざかろうとする気持ちは、人には必ずありますので、ぜひ見つけ出してください。それを見つけ出さない限り、遠ざかるより満足させたい気持ちがまさって、遠ざかりたい気持ちをさがそうともしないでしょう。クリスチャンは、イエス・キリストによって正しい良心をもって神の前に生きることを決心したのですから、正しい良心の内に湧き上がってくる良い思いを大事に守っていただきたいと思います。そうすれば、いのちの報酬を必ず受け取るでしょう。

●6/14(土)「行いと真実」(第1ヨハネの手紙3:18)
“子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。”

 私たちの周りに与えられる情報は、言葉だけのものが多いです。それらは形になり行動となって表れなければ意味がありません。同様に聖書のことばも、行いが伴わないと何の実も結んでいないことになります。ことばだけで終わらせている人は、何の報いも得られません。 良い知識を得ただけで終わらせないようにしてください。良いことばを語れば語るほど、何もしなくても、良い行いが伴わないために信頼を失っていきます。しかし言葉通りの結果を出そうとする人は、いずれ人に伝わります。
 クリスチャンはことばや口先だけにならないよう、気をつけましょう。礼拝に来てみことばを聞くだけなら、「ことばや口先」だけの範囲です。聞かれたことを新しい一週間でチャレンジしていく時、変わっていきます。変わらないのはチャレンジが少ないからではないでしょうか。神を信じて、あきらめずチャレンジしていきたいと思います。その時常に取捨選択が必要になります。どうぞ神を畏れる心をもって、正しい良心によって何が良いか悪いか見極め、「正しい者の報酬はいのち」といわれることばの体験を、ぜひこの一週間でしていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

  
■2008年6月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   切歯扼腕 せっしやくわん  up 2008.6.8


歯ぎしりをし、自分の腕をにぎりしめることから、感情をおさえきれずにはなはなだしく憤り残念がること。


憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。
(箴言10:12)


 

 

 私たちは、残念がったり、憤りを覚えるような感情を押さえにくい状況に何度か出くわすでしょう。その時、憎しみの方にいくなら争いを引き起こし、あなたも相手も共に傷つき、滅びにいたる破滅の方に働いてしまいます。しかしその悔しさ、思いを受け止めて神の前に持っていき、正しい良心をもって愛の方へ働くか。皆さん次第です。
 今日は、憎しみに至らないように、愛の方向へ向けることができるように、3つのポイントでこの一週間チャレンジしていただきたいと思います。

●6/9(月)10(火)愛と憎しみの分かれ目(箴言9:8)
“あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。”

 愛と憎しみの分かれ目とは、あざける者であるか、知恵ある者であるかの違いでわかります。
 あざける者とは高慢な人、自分を義とする自己中心、神を認めない、認めたとしても主権を認めない愚かな者です。それは憎しみの方に囚われやすい心の状態であることに気づくことです。
 知恵ある者とは正しい良心を持ち、神を畏れて、人からの忠告や責めを神様からの愛の懲らしめとして受け止める人です。そういう人は、忠告してくれた人に対する更なる尊敬をもって愛するであろうということです。
 知恵を働かせるように、カインとアベルの話を教訓として例に挙げます。(創世記4:3〜8)
 カインの悪い点は、自己中心のささげ物です。受け取る神様に対する配慮があまりにも少なかったということです。神様は自分よりも権威ある目上の方、治めるべき指導者である方です。その方へのささげ物には礼儀があります。自分の分をわきまえず、相手の立場も軽んじて一方的にささげ物をすることは、大変失礼なことです。神様は物が欲しいのではなく、ご自分に対する尊敬の心を非常に重んじられるお方です。愛があれば、決して失礼なことはしません。しかし軽んじる心があるからこそ、受け入れられなかった時にくやしい残念な思いが湧いてきます。カインはそれを憎しみに変えてしまいました。彼はあざける者だったからです。
 みなさんがもしこのような状況の時、知恵ある者になってほしいと思います。正しい良心を持って自分の配慮、分別の足らなさに気づくということが大切だということに目を向けてください。『なぜ受け入れられなかったのか、私に気づかない無礼があったのだろうか。』と。かえって知恵をもたらすきっかけになったと感謝することができると思います。

●6/11(水)12(木)憎むべきものは『悪』(詩篇97:10)
“主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。”

 イエス様が十字架にかけられた時に、暴言やつばきをかけられ「おまえはそれでもキリストか」とあざけられたと聖書に記されています。 あれだけ貧しい人や困っている人に手を差し伸べて神の恵みとしるしをなされたのに、また奇跡をもって病がいやされ、貧しさから解放され、心が入れ替わったにもかかわらず、十字架にかかったイエス様の姿を見て失望したわけです。「それでもキリストか。人は救うことができても、自分を救うことはできないのか。」など悪口雑言を浴びせ、苦しんでいるイエス様になお精神的ダメージを与えたのです。
 もしイエス様がそれに対して憎しみに心を向けてしまったら、どうだったでしょうか。天の12軍団を呼んで、一度にその人々を滅ぼすこともできるお方です。しかし神を畏れる正しい良心をもって人を憎まず、悪の存在を憎む神の子イエス・キリストのお気持ちから、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23:34)」と、このような愛のことばが出たわけです。イエス様は十字架で、愛はすべてのそむきの罪をおおうということを現されています。みなさん、私たちは悪の存在を憎みましょう。憎しみの心を神に探求するエネルギーとして訴えるのです。そうすれば、人と争うことはなくなります。人を責める時に、自分はどうなのか考えましょう。『私も同じように罪に動かされてしまう、弱く悟りの浅い者です。この罪の存在する世界から、一日も早く救い出してください主よ。』と、自分の罪が示されてくる度に訴えがだんだんへりくだってきて、人を憎む段階から、救いを求める段階へと変わっていきます。罪をもたらす悪に対する憎しみをもって、神様に救いを求め祈る時、自分自身も罪から離れる決心ができ、また、憎しみに囚われず人と争うこともありません。ただ主に近づく思いをもって祈ることができます。そして、あなたのストレスが取り去られていく体験をすることができます。

●6/13(金)14(土)争わないために(ローマ人への手紙12:19〜21)
“愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。”

 上のみことばは、憎しみという悪に負けてはいけません、かえって善をもって愛によって、その憎しみに勝利しなさいということです。そのためには、復讐は神がなされることをしっかりとわきまえておくことです。
 申命記に『報復と報いはわたしのもの』と書いてあります。復讐とは裁きを下すという意味です。私たちは被害者であったとしても、復讐する権利はありません。権利は裁き主にあります。被害者が復讐すると、憎しみが強まり、正しく復讐することができないからです。自制心を働かせて正しく裁くことは不可能です。
 神は創造主、天地の秩序を支えられた法律の方であられます。神そのものが法則です。すべてを正しく裁かれるお方です。みんながそれぞれ自己中心の復讐の権利を持っていたら、世の中は地獄のように復讐の世界になってしまいます。この地上でしか復讐する時がないと考えてしまっているから、神様に委ねきれないということです。
 なぜ懲罰と言われ、死者の行くところであるハデス、永遠の火の池という二つの苦しみの場所が設けられているのでしょうか。神は裁き主であるからです。不公平をすべて公平に戻すために、二つの場所が用意されているのです。私たちは憎しみの心を切り離して、神を畏れる心をもって、神の裁きの時を待つことが必要です。パウロは(ローマ人への手紙12:20)で「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。」と言っています。神が裁き主であることを信じない人にはできないと思います。「親切にしなさい。そうすることによって、彼の頭の上に燃える炭火を積むことになるのです。」とは、あなたがその人に親切にすればするほど、親切を無駄にする者に対して神が激しい復讐を下されるということを思って、憎しみを取り除きなさいと、パウロを通して皮肉として言われているのです。
 死後、神がすべてを正しく裁かれ、復讐を下されるお方だと、イエス様の歴史的事実をもって信じ、堪え忍んでほしいと思います。イエス様の再臨、その時が裁きの時です。その時までしっかりと主を畏れる心を持ち続けてください。憎しみに囚われて見失うことがないように気をつけて歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年6月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一所懸命 いっしょけんめい  up 2008.6.1


主君から賜った一箇所の領地を命を懸けて守るという意味から、物事を命がけですること。必死になって、一心にすること。


心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。
(箴言10:8)


 

 

 「むだ口をたたく」とは、いろいろな命令を受けた時、いろいろな言い訳や文句を言って従おうとしない、自分が納得しないなら従わないという姿勢の表れです。反対に、心に知恵のある人は、たとえすぐには理解できなくても、自分より経験も知識も豊富な人の命令に対して、心から素直に従います。「命令」という言葉に私たちは育った環境によって、悪いイメージを持ってしまいがちですが、命令を受け入れるということは、とても大事なことです。神様が私たちに与えられる命令は、神様の計り知れない知恵とお考えがあってなされるものです。今週は、神様の大切な命令を受け入れるために、心に知恵を得るための学びをしていきましょう。

 「一所懸命」の意味は「一生懸命」とは違います。一所懸命は、主君から賜った領地を命を懸けて守るという意味です。
 神様から賜った領地、「人生」を闇の力や罪の力に奪われることがないように、一生懸命守ることを意味します。その時心に知恵がもたらされます。私たちは自分の人生を自分の思い通りにしたいと思っていますが、実は自分ではなく、貪欲の力に動かされてはいないでしょうか。神が私たちに与えてくださった命は、好き勝手に欲望のままに人生を送るためではありません。神の国、神の家族が形作られるために、私たちは生まれました。その神の家族という領域を命がけで守ることが、神の命令であって、人生の意義です。

1.心に知恵を得るためにはどうすればいいか

A)イザヤ書11:1〜2
“エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごと と能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。”

 これは救い主イエス・キリストの預言です。イエス様は私たちと同じ人間のかたちをとられましたが、イエス様の内には、神の霊が留まっていました。それは、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊です。主の霊が私たちの上に宿ると、知恵と悟りの霊がもたらされます。この知恵は、自分の利益や欲望のために用いる知恵とは違い、敬虔な公義と正義を行うためのものです。
 私たちはこの霊をいただくことによって、心を健全にコントロールすることができます。私たちは自分の意志や努力でいくらがんばっても、自分の心をコントロールするのには限界があります。しかし、神の力が心に宿り、神の霊に私たちが満たされると、知性も感情も意志も力強く働き、自制心を働かせて健全な欲求を保つことができます。まさにイエス様のような歩みが、自分の人生に実現するのです。
 イエス様を信じ救われ、聖霊のバプテスマを受け、御国の保証を受けても、それだけで終わってはいないでしょうか。この知恵と悟りの霊を生かしていないために、罪の罠にはまったり、同じ失敗を繰り返してしまうということがあります。いつも主の霊と共に歩む歩み方をしていけば、知恵が神からもたらされます。あなたの贖われたきよいいのちを死守するために、御霊に満たされることを、日々求め続けましょう。
B)第2ペテロの手紙3:3〜14
“まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざけ る者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるの か。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのま まではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としていま す。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水か ら出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水によ り、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみ ことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者ど ものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。  しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはい けません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千 年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているよう に、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえっ て、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも 滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでお られるのです。
 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は 大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と 地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのも のはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど 聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。その ようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めな ければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくず れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。  しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新し い地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このよ うなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者 として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。”

 神はすべての罪を裁く、最後の裁きの日を定めておられます。その日がやって来るということを心に留めて、裁きから救われるようにイエス・キリストを信じて、神の前に敬虔な歩みをすることが、心に知恵のある人です。危険が迫っているのに何の対処もせず、放っているのは愚かな人です。私たちが住んでいる世界は罪の世界であって、神はこの世界を一新されます。そして罪のない世界に全く新しく造り変えられるということを、イエス・キリストを通して、神は私たちに証明しておられます。また、ノアの大洪水という地球的規模の水による裁きも、最後の裁きが来るという予表といえます。このノアの洪水は、世界の多くの国で神話として語り伝えられています。そして今は地質学的にも、科学的にも、この大洪水は証明されています。このようなはっきりとした証明があるのですから、私たちはもっと心を引き締め、きよい敬虔な歩みをするよう努めるべきではないでしょうか。危険を回避するための手段を、知恵によって選んでいく必要があります。人は危険が迫ったら何とか対処しようと考え、工夫します。ここで知恵を働かせます。神が、イエス・キリストを通して私たちに示してくださっている、安全な道への導きを無駄にしないように、与えられた毎日を大切に歩んでいきましょう。これは難しいことではありません。危険を回避することは、しつけられるなら、幼子でもできることです。

2.心に知恵がある者の反応のしかた (ガラテヤ人への手紙2:11〜14)
“ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあ ったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある 人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をして いたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと 異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダ ヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバま でもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。  しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見 て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分が ユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のよう に生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を 強いるのですか。」”

 ユダヤ人には、異邦人と交わると汚れるという考え方がありました。しかしイエス・キリストは、そういった表面的な形式化した考えを否定され、その本質を説かれ、異邦人も救われて、きよくなれるということを示されました。しかしユダヤ人のクリスチャンの中に、モーセの教えを強く持っている人々が来て、せっかく異邦人と親しくしていたユダヤ人クリスチャンたちが、その人たちの影響を受け、批判されることを恐れて、異邦人から身を引いてしまうということが起きました。ペテロとバルナバまでその影響を受けてしまったために、パウロは厳しく注意しています。
 この三人の人間関係を考えてみましょう。パウロは迫害者からクリスチャンに転身した人で、しかもまだクリスチャンになってそう長くはありませんでした。ところがペテロはイエス・キリストに直接ついて歩いていた12弟子の一人で、パウロの大先輩にあたります。バルナバは12弟子の中には入っていませんが、パウロを導いた人で、信仰の導き手です。この大先輩の2人に対して、パウロは抗議しました。これは神の教えであって、パウロ個人の考えではないと、パウロは言っています。この後の2人の反応について聖書ははっきりとは書いていません。しかし、この2人は神の霊に満ちた人ですから、パウロの言葉を人間的基準で考えず、その背後にある神の御心をしっかりと受け取り、悔い改めて、神のおことばゆえに従ったはずです。心に知恵ある人は、社会的地位や基準で計ることはせず、常に神のことばを優先して従うことができます。へりくだって前向きに捉えることができます。私たちはどうでしょうか。人から注意された時、注意されたということに腹を立て、その内容を省みなかったりしていないでしょうか。メッセージをへりくだって聞き取り、聖書のことばに素直に従い、お互いの注意を神からのものと信じ受け入れ、悔い改めて悟ることが大切です。
 私たちは失敗する者で、コースを外れてしまうような者です。しかし心に知恵のある人はそのことに気づき、悔い改めて方向転換することができます。
☆3つのチャレンジ
◎互いに愛し合う
◎みことばを宣べ伝える
 「時が良くても悪くても」→これを誤解しないようにしましょう。 伝え方には知恵がいります。世の中の人とのつき合い方にも知恵が いります。ただ律法的なかたくなさで拒むのではなく、むしろノン クリスチャンの方に良い影響を与えられるチャンスをうまく生かし て用いるように、工夫することも大切です。
◎きよくしなさい
 永遠のいのちが得られるよう、しっかりチャレンジしましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年5月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一心発起 いっしんほっき  up 2008.5.25


あることを成し遂げようと決心すること。


無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。
(箴言10:4)


 

 

 無精者とは、するべきことがわかっていながらしようとしない、いつも楽な方をとろうとする者です。私たちも疲れや空しさを感じたとき、やる気を失い、何もしたくない、という状況に陥ることがあるかもしれません。しかし、神様は私たちを勤勉な者として、ひとり一人の人生を用意して下さっています。勤勉な者の手は、自分だけでなく、周りの人々をも富ますものです。皆さんは、物理的にも精神的にも霊的にも富む者となりたいですか?そうであれば勤勉さが必要です。楽をして豊かさを手に入れる生活は、勤勉さがないために、経験や体験を通してそこで学び取るべきよいものを得ることができません。勤勉さには、無精者には決して手に入れることのできない宝があるのです。
 何の目標もなく、勤勉さを保つことはできません。目標のない勤勉さは欲望によるものです。神様はひとり一人に人生の目標、目的を用意しておられます。それをしっかり見出し、「一心発起」、勤勉さに心を向けて取り組んで行きましょう。

●5/26(月)・27(火) 熱意と熱心さ(ローマ8:25)
“もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。”

「待ちます」、というのは何もしないでじっと待つ、ということではありません。勤勉な歩み中で、主がこれに報いて約束を成就して下さるのを待つのです。主が願っていることを実現して下さるように忍耐強く、勤勉さを保ちつつ、熱心に待ち望むことをこのみことばは教えています。

A)神様からのビジョンを確認する
 熱意と熱心さがなければ、勤勉さに取り組む姿勢、力が湧いてきません。熱意と熱心さは、神様からのビジョンに対する使命感からもたらされます。神様からのビジョンを確認することが必要です。私たちの教会に神様が願っておられることは、この広島が神に愛される町に変えられるように、神の平和がここから全世界に広められていくように、ということです。平和を作り出す者としての私たちの生活を世の人々に示し、「ともにこの平和の中に歩んでいきましょう」という輪を広げることであり、福音につながるものです。ことばだけではなく、行いと真実をもって、もっと私たちが実際の生活の中で現して行くことが必要です。私たちの身近なところから平和を作り出し、平和の輪が広がっていくようにビジョンを持ちましょう。そうなりたい、とあなた自身が思うことから勤勉さ、熱意と熱心さは沸いてくるのです。

B)正しい良心を持って使命感を持つ
 これが神様が私に与えて下さった人生なのだ、これを達成することが私が生きていく目的なのだ、という使命感を持つことが熱意を保ち続ける大切なポイントです。使命感は人から与えられて持つものではなく、あなたが自ら応答することによって持つ心の変化、意志決定です。最近、責任感は自己防衛、自分を守るために使われることが多くなりました。自己犠牲を伴ってでも社会的責任を果たす、という人はほんとうに少なくなりました。このような意味での責任感には、使命感と同じような心の姿勢があります。
 意味無くクリスチャン生活を送るというのは少し寂しい気がします。神様はどんなことのために自分をこの地に生かして下さっているのか。決して大きなことを考えるのではなく、あなたのできることを使命としてやり遂げようという気持ちで受けとめるとき、そこに熱意と熱心さが生まれてきます。

C)神様の愛に応える気持ちを持って追求する
 神様の愛に応える気持ちを持って求め続けていきましょう。

●5/28(水)・29(木) 探求心(マタイ7:7)
“求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”

 あきらめないで求め続けることは大切です。しかし、単に熱心さだけで求め続けるというのは愚かなことです。探し求める、ということには工夫が必要です。壁を何時間たたき続けても、壁が開くはずはありません。開けてもらえるところ、ドアを探してたたくことが必要なのです。たとえドアが開いても、それはあなたのたたいているところではありません。神様が「ここだよ」と言われていても、「いや、神様、ここを開けて下さい!」というのは愚かなことです。
「求めても得られない」、求め方をもう少し考えてみましょう。
「探しても見出せない」、同じところばかりを探していませんか。
 どうしたら早く与えられるだろうか・見つかるだろうか・開かれるだろうか、探求心を持って知恵を働かせ、いろいろ試してみること、経験を積み重ねることが必要です。経験は知識をもたらします。多くの知識から多くのよい考えが生まれてきます。
 毎日のクリスチャン生活で探究心を高め、どうしてみことばが成就しないのだろうか、と主の御前に研究し続けていきましょう。失敗も覚悟してあきらめず、ひとつひとつの体験を整理しながら、探究心をもって神様に求めていきましょう。たとえ失敗しても、そこから学んだことをしっかりと記録し、次に生かしていく。これが勤勉さです。

●5/30(金)・31(土) 計画性ある実行力(第2コリント1:12)
“私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。”

 パウロは「神の恵みによって行動している」ことを誇りとしています。「神の恵みによって行動する」とは、「人間的な知恵によらず、神の知恵によって行動する」ということです。
 なぜパウロは「神の知恵によって」と言わず「神の恵みによって」と言ったのでしょうか。すべては神様がお創りになったものであって、神様から与えられていないものは何ひとつ無い、考える能力・力も、すべては神様の恵みである、ということをパウロは悟っていたのです。 この神の恵みを感謝して受けとめる心に変えられたのは、主イエス・キリストの十字架の救いによるものです。主イエス様の十字架がなければ、神の恵みを見ることはできなかった、だからこそ神の恵みをもって行動することを誇ります、と言っているのです。すなわち「イエス・キリストの十字架以外に誇りとしてはいけない」と同じ意味なのです。
 神の恵みに目が開かれる人は、イエス・キリストの十字架の救いを理解している人です。すべては神の恵み、イエス様の十字架のおかげ、この感謝の気持ちが私たちの正しい良心をいやし、心の目を開かせます。すべては神様の恵み、この気持ちを持って計画を立てていきましょう。この計画も神様の恵みによります、恵みによって順調に進みますように、そんな思いが、客観的に、冷静に賢く計画を立てることを可能にします。貪欲にかき立てられた計画ではなく、神様の御手の中にある自分の人生を確実に前に進めることのできるような計画は、神を畏れる、へりくだった心によって生み出されてくるのです。
 高齢者対策も、政府や自治体だけではなかなか行き届かないところが多くあります。であるならば私たちが互いに助け合おう、とさまざまなNPO活動がなされています。クリスチャンである私たちがそれを 無視して「信仰、信仰」と言っていてよいのでしょうか。ことばだけではなく、私たちのできる範囲で、私たちの関係している社会の中でやり始めよう、私たちでなければ届かないところがあるのに、私たちがしなければ誰がするのだろう、そんな思いをもって行動を起すことが必要です。これには勤勉さが必要です。介護事業というビジョンが与えられ、どんな困難をも乗り越えるために探求心をもって準備していき、「すべては神様の恵みによってなされるものなのだ」というへりくだった心で勤勉に進めていくなら、神様は必ず祝福して下さいます。「勤勉な者の手は人を富ます」と箴言にあります。「富ます」とは、その通りになる、実を結ぶ、ということです。「すべては神様の恵み」という心からへりくだった気持ちで、人生設計を立てていきましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年5月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   簡単明瞭 かんたんめいりょう  up 2008.5.18


ものごとや表現が簡単で、はっきりしていてわかりやすいこと。


主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。
(箴言9:10)


 

 

 今週は「主を畏れる」ことを身につけるために、必要なことを学んでいきます。「神を畏れること」「知恵」「悟り」とはどういうことでしょう。ある人は自分ではわからないと決めつけるかもしれません。しかしそれは難しいことではなく、実は簡単なことなのです。
 例えば「畏れる」を例えてみると、いたずらばかりしているやんちゃな小学生がいたとします。彼は先生がいない時はしたい放題していますが、先生が教室に入ってこられたら、とたんにいたずらをやめます。それは、彼が先生を畏れているからです。これは誰にでもわかることでしょう。
「主を恐れることは知恵の初め」の「知恵」とは、先生の前では悪さをしないという、彼の知恵と同じものです。そして「聖なる方を知ることは悟りである」は、この少年が先生のことをよく知っていることと同じです。彼は、先生の前で悪さをしたらどうなるかを、よく悟っているのです。しかし私たち人類は、その簡単明瞭なことが悟れていません。神がいないかのように、自分の私利私欲のために、戦争や殺人など、好き勝手にしているのです。まるで、後ろで担任が見ているのに気づかないで、いたずらをしている少年のようです。

●5/19(月)20(火)主を畏れる学び(第1テモテへの手紙1:19〜20)
“ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。”

 ヒメナオとアレキサンデルはクリスチャンでした。彼らは、イエス・キリストが地上を歩まれた時と同じ時代を生きていた人たちです。彼らはイエス・キリストを信じ、神を畏れる生活に入ったにもかかわらず、途中で正しい良心を捨て、道を外していきました。(正しい良心=創造主を敬う心)なぜ彼らはそのように道を外し、ついにはサタンに引き渡されるという状況にまでなってしまったのでしょうか。
 それは彼らが主を畏れなくなり、貪欲の人生に引き込まれていったからです。パウロは2人をすぐにサタンに引き渡したわけではありません。彼は愛の人でしたから、できる限りのとりなしをし、彼らに助言、忠告を与え続けたはずです。しかしある箇所で、アレキサンデルはパウロを非常に悩ませる存在であったとあります。彼らは反抗的になっていったのです。正しい良心を捨てたゆえです。
 そしてついにパウロは、もはや手に負えなくなったことを悟り、神の前に祈り、決断しました。「サタンに引き渡す」(皆さんはしないように)には目的があります。それは彼らが、神をけがしてはならないことを悟るようになるためです。
 パウロがここまで宣言せざるを得なかったというのは、この2人がいかに強情で反抗的であったかがうかがわれます。
 しかし、この宣言は決して冷たい心から出たのではなく、彼らがいつか神を畏れることを知って欲しいという願いから出ています。なぜなら、神の願いは「ひとりも滅びないで、救われること」だからです。
<主を畏れることをどのように学ぶのか>
 アダムの失敗から学べます。神はなぜ食べてはいけない木を園の中央に置かれたのでしょう。善悪を知る木の実は、それ自体が毒ではなかったのです。アダムは造られてからあまり人生経験もなく、善悪さえ知ることができないような守られた環境の中で生活していました。そこでは主を畏れるという必要もありませんでした。
 実自体に毒はなくても、「取って食べてはならない」という神の戒めがあった時、そのみことばに従うかどうかで、アダムが主を畏れているかどうかが試されたのです。相手を心から敬っていたら、その人の言うことに従えるはずです。
 神はご自身を敬い畏れるということをアダムに学ばせるために、戒めを与えられました。誘惑する者は「食べる」という欲求に彼の意識を集中させて、神を敬うという心から意識を外させるよう、巧妙にアダムに語りかけました。そして大切な神のおことばを守るという気持ちから、食べたいという欲望をそそることで、気持ちがその欲望に完全に向いてしまうように仕向けたのです。
 では、どうして死ぬことになったのでしょう。それは神のみことばに従わなかったからです。人が死ぬのは、みことばに従わない、つまり目的に沿った歩みから外れたために、役に立たなくなるからです。 健全な生命維持のための欲求から、不健全な貪欲という領域に入っていった時、人は良心を失います。そして死ぬという状態に陥るのです。アダムはこの失敗から、神を畏れることの大切さを学びました。神を軽んじたために起こった様々の苦しみから悟ったのです。そして彼はその後の人生で、同じような失敗は繰り返しませんでした。尊敬し愛する人のことばに従うというのは、自然なことです。私たちも早く悟りましょう。

●5/21(水)22(木)知恵の初め(第1ペテロの手紙2:11)
“愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。”

 ペテロは私たちが定着し、定住する所は神の国であると言っています。しかし地上に定着させようと、肉の欲が働いてきます。ここで、「肉の欲を遠ざけなさい」とあります。捨てるのではなく遠ざけるというのは、ちょうど良い加減に肉の欲と距離を保てということです。 すべての肉の欲が悪いのではありません。食欲など生きるのに必要な欲があります。しかし欲は行き過ぎると死をもたらすのです。
 欲求との距離をうまく保つのが「知恵」です。欲にひきずられ、欲を満たすためなら何でもしてしまう。こういう事件が最近頻発しています。彼らに共通なのは、創造主を認めないという不敬虔さです。
 カインとアベルから考えてみます。アダムは彼らに主を畏れることの大切さを教えました。そして主を畏れることの表れとして、祭壇を築き、各々神への供え物をしました。しかし二人のささげ物は違っていました。やることさえやればいいだろうという、少しも相手への感謝も愛もこもっていないやり方をしたのがカインです。そしてカインは、兄弟を殺してしまいました。
 私たちの肉と心は離れられません。それで、肉との距離をしっかり保っておかないと、私たちの魂の正しい良心は肉によって引っ張られ、アベルのように殺されてしまうのです。正しい良心が鈍感にならないよう、肉を遠ざけましょう。それが自制であり、知恵の初めです。
 「主を畏れるとは悪から離れることである」とあります。この適度な距離を保つために、祈りの時間を増やしたり、テレビを見る時間を減らしたり、自然を散策して心を落ちつかせたり、工夫はいくらでもできます。簡単なことです。とにかく欲望が起こらないよう、普段から気をつけていることが大切です。一旦強まった欲望を捨てるのは大変難しいからです。
欲望は感覚であり、人格ではありません。洗礼の真理を思い出しましょう。

●5/23(金)24(土)懲罰のもとに置く(第2ペテロの手紙2:5、9)
“また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。”

 地獄へ生きたくないというだけで神を畏れるのは、神と距離を置いてしまうだけです。もっと神と近くなり、神を畏れるために、神の私たちへの愛の深さに気づくことが必要です。
 ノアの時代、ノアの家族以外は欲望に支配された悪い時代でした。ノアの家族8人以外、誰も助かりませんでした。では彼らは永遠の火の池に行ってしまったのでしょうか。聖書はそのように言っていません。「さばきの日まで、懲罰のもとにおく」とあります。懲罰とは「将来を戒めるために罰を科すること」とあります。つまり、制裁を加えることで、将来悔い改めて、神に立ち返るようにするためです。彼らは神への不敬虔の結果、懲罰を受けることで、もう二度と同じ罪を繰り返すまいと決心するのです。そこはハデスと呼ばれる所であり、「歯ぎしりする所」とも記されています。
 クリスチャンになったら自動的に天国へ行けるわけではありません。ヒメナオとアレキサンデルみたいに途中で不敬虔に落ちていく人もいます。熱心に神を求めるのではなく、世の中にすっかり入りこんでしまうクリスチャンたちが、熱心に神を求め、敬虔に生きているクリスチャンたちと全く同じ報いを受けるわけがありません。熱心に歩んでいるクリスチャンはすぐにパラダイスに上げられますが、この世で楽しみ、欲望のままに生きているクリスチャンは、すくにパラダイスには入れません。ハデスで苦しむことで、悔い改めに導かれるのです。しかし、ここでも悔い改めず呪い続けるなら、そのような魂は永遠の火の池に行ってしまいます。
 このように、ゲヘナとハデスの二つが設けられたのは、懲罰によって悔い改めに導かれ、ひとりも滅びないよう、神は願っておられるからです。
 イエス・キリストを信じ、敬虔な生活を送り続けるなら、懲罰の所に行く必要はありません。その人は永遠のパラダイスに行けます。ですからしっかりと報いてくださる神を信じ、しっかりと走り続けることが大切です。愚かにならず、賢いクリスチャンの歩みをしましょう。神は生きておられ、すべてを見ておられるのです。

 

 

 

 

 

  
■2008年5月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   活溌溌地 かっぱつはっち  up 2008.5.11


生気にあふれて元気な様子。「溌発」は、魚が水の中から勢いよくはねる様子を意味する。


わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(ヨハネ7:38)


 

 

 今日はペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステとはギリシャ語で50という数字を表し、日本語訳で五旬節といいます。イスラエルの3大祭り(過越、ペンテコステ、仮庵)の1つです。イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、よみがえられて、ご自分の復活を弟子たちに証しされた40日間と、イエス様が天に上られた後、弟子たちが父の約束である御霊を待ち望んだ10日間を合わせた50日を表しています。
 しかしペンテコステは教えだけにとどまるものではありません。罪深い私たち人間が神の霊と1つになるのは奇蹟ですが、その神の霊に満たされる体験が大切なのです。しかもそれはずっと持続するものです。
<ヨハネの福音書7:38>
 救い主イエス・キリストを信じる人は、神が約束してくださっている通り心の奥底、つまり霊の部分から生ける水が川のように流れ出るようになるというのです。380kmもあるアマゾン川の河口は対岸がまったく見えず、海と間違えるほど広いそうですが、そのように尽きることなく私たちの器からまるで川のように豊かにあふれ出ている様子を表しています。
 また「生ける水」とは良い水、生きている水、私たちを生かす水、という意味があります。神様が、私たちの霊・魂が健全さを保ち、クリスチャン生活が力強く生き生きとして若若しく過ごすために、この水を与えてくださっています。
 今日の四字熟語「活溌溌地」は、川で魚が勢いよく飛び跳ねたり、鮭が力強く川上りをしたりする情景を表します。生ける水は私たちに元気をもたらす水です。聖書では、神の愛は生ける水と象徴され(39節)イエス様が「ことばは霊」と言われたように、神のことばと神の霊が生ける水だということです。この生ける水が私たちにどんなすばらしいものをもたらしてくださるかを、3つのポイントに分けてお話しします。

1.永遠のいのちへの水…新陳代謝作用(ヨハネ4:14)
“しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。”

 私たち(成人者)の体は、じつに全体重の65%が水分でできています。そのうちたったの4%が失われる−すなわち渇く、と体に異常をきたし、気分が悪くなる、吐き気、感情マヒ、手足のしびれなど不健康な状態になるそうです。心に神のみことば・霊という生ける水が入ると、健康が保たれます。それらは私たちの内で泉となって、乾きを潤し続けます。この生ける水は食欲を満たすのではなく、正しい良心の内にある主を畏れる心を満たします。
 この世はみな死が待っています。この世に留まり続ける以上は、永遠のいのちを持つことはできません。しかしイエス様は、この世界が裁かれた後もたらされる新しい天と地、すなわち永遠の世界へ導く水、この世界に住んでいながらも、永遠の御国における生活をも保障するいのちを私たちにもたらす水を持っておられます。
 この世で疲れ、失望し、脱水症状を起こしている私たちに、この世の労苦がすべて報われるという希望を与えられます。また貪欲に悩まされたり、つらさを感じたりするからだの人生が終わり、新しいからだが与えられ、永遠の世界で今までと違う希望の人生が待っていると、みことばから約束されています。
 自然的にも、水には新陳代謝を促進する働きがあります。私たちの体は細胞分裂をし、古い細胞から新しい細胞へと新陳代謝をしていますが、それには水が不可欠です。水が不足すると、細胞が老化し、死んでしまい、新陳代謝が起こりません。良い水をいただくことで、常に細胞に活気を与え、健康な状態を維持し、細胞分裂をして、いつも新鮮な力が保たれているのです。あなたの正しい良心が弱っているなら、水が不足しています。
 神の永遠のいのちへのみことばの水は、私たちにこの地上における生活の労苦を回復させる希望を与えます。毎日でも、できるだけ多く、永遠に対する希望のみことばを目にし、耳にし、心に受け止め、御霊によって悟らせていただき、この地上で永遠という望みを切り開いていくことができることを、見つけ出していきましょう。

2.救いの泉の水…希釈作用(イザヤ12:3)
“あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。” 

 水には薄めるという希釈作用があり、そこに毒があっても、その影響力を少なくし、毒を受けないようにします。イエス様がくださる水は、罪という毒素から私たちを救い出します。すなわち、十字架のことばは、罪という毒素を薄めて、私たちの生活に影響をもたらせにくくします。もし水を飲まなかったら、罪の力によって、信じる以前と同じような罪の奴隷になっていたかもしれません。罪にむしばまれ、罪の力に対して弱くなっていると感じるなら、水が足りないのです。薄めることをしていないのです。十字架を見上げ、理解し悟ることがおろそかになっているのではないでしょうか。
 信じた時だけ十字架に感謝し、その後は日常生活の中で十字架を見上げなかったら、水を飲まないのと同じことです。最初だけはイエス様の十字架を受け入れ、罪が赦され、解毒作用によって喜びを実感していても、それ以上十字架を悟ろうともせず、他のみことばを見ても十字架に関することから一切離れてしまったなら、罪の毒素が強くなってしまいます。そして徐々に新しい魂が罪の毒素に影響され、また罪のとりこに引き戻されてしまう状況が起こってしまいます。救いの泉の水を飲むことが必要です。十字架の重要性、十字架の贖いをしっかり受け止めて参りましょう。だから、御霊とみことばの水を得るデボーションは大切です。

3.いこいの水…鎮静作用(詩篇23:2)
“主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます”

 いこいは平安をもたらし、安心感を与えます。私たちは世の交わりでは緊張感、気遣い、ストレスの中に置かれており、いこいがなければ疲れは回復しません。水には鎮静作用があって、緊張、興奮状態の人が水を少し口にすると落ち着きます。神のおことばは私たちの地上の生活における様々なストレス、緊張感などを落ちつかせるいこいの水です。聖書を読む時に、その人の心の状態に合わせてみことばがいこいをもたらし、正しく物事を判断する冷静さを与えます。内におられる聖霊様によって、メッセージを聞いた時も、あなたの霊に悟りが与えられて、あなたの魂はリフレッシュされていくのです。
 主は私たちの牧者で、いこいの水のほとりに伴われるとありますので、ついていくことが大事です。そのおことばを心から尊敬し、味わって、あなたに語られているメッセージを汲み取っていけば、快くついていけます。いこいの水を飲みたいと思うならば、主との良い交わり方を身につけ、信頼し、ついていくことです。信頼関係をしっかりと神との間に築くことが大切です。
 このように、日常生活には水が欠かせないのと同じように、信仰生活にもみことばと聖霊様は欠かせません。聖書のおことばを何回も黙想し、悟らせていただくこと−これが神様とのおつきあいです。飲んだというしるしは、みことばが開かれ、いこいを感じられ、新鮮さが感じられ、救いの喜びがいつも感じられます。十字架を見上げることは大切なことです。イエス様が与えてくださる水を真剣に求めてまいりましょう。

 

 

 

 

 

  
■2008年5月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   知足安分 ちそくあんぶん  up 2008.5.4


自分の境遇を満足のものと思い、自分の分際に安んじることから、高望みしないことをいう。


わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい。
(箴言9:6)


 

 

 まず「高望みをする」ことと「目標に向かって進む」ことの違いを理解しなければなりません。すなわち、何も考えずに単に願望として目標を設定するのは「高望み」をしていることになるでしょうし、全てのことをわきまえて目標を設定するならば、自分の分に合わせた、「目標に向かって進んでいる」といえます。しかし、何でもかんでも高望みをすると捉えてしまうと、目標を設定することができなくなります。目標は、今より高い領域に進むために持ちますから、クリスチャンは、神様が自分に望んでおられると感じたものを目標とするのは高望みにはなりません。神様が考えてもおられないことを自分が望むときに、高望みになります。

私たちは分を越えた高望みをしないように、わきまえを持って悟りある道をしっかりと進めていくことが大切です。
 まだ身に付いていない知恵・悟りは、失敗という痛みを通して案外身に付くものかもしれません。失敗を通して多くを学んでいくことができると思います。私たちは神様の前にまだまだ未熟であることを認めて、謙虚な心で教えられる心から始めていきましょう。それで初めて、わきまえのなさを捨てることができるのかもしれません。その悟りの道をまっすぐに歩んでいきましょう。今週は具体的に3つのポイントに分けて、ご一緒に考えていきたいと思います。

●5/5(月)8(木)主が歩みを定められる(詩篇37:23)
“人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。”

 『一歩一歩定められる』という意味を、赤ちゃんが歩き始めるときの親が、その歩行を助け導く様子を通して考えてみましょう。
 生まれてから、寝返りをうてるようになり、そして自分の体重を支えられる力がだんだんついてきて少しずつはうことができるようになっていきます。やがて自然に立ち上がり、伝い歩きをし始めます。そして支えを持たずに歩けるように成長していくわけです。しかし赤ちゃんは、落ちるということをまだわからずどこへでも歩いていきます。そのまま行けば高い所から落ちてしまう、そんな子どもを親は黙って見ているでしょうか。親は赤ちゃんの歩く方向、場所に対してよく考えて、安全に歩けるように補助していきます。なぜ行ってはいけないか、赤ちゃん本人は理解していませんが、親は危険がよくわかっているからです。
 赤ちゃんの成長に、私たちの霊的成長の段階と同じようなところを見ることができます。ぜひ皆さんも、神様がなぜあなたの人生を思い通りにさせてくださらないのかを考えてみてください。それは『確かにされる』ということばに表されている安全な歩みができる方向へと、神があなたを導いておられるのです。
 もう一点、『悟る』ということ。かなわない願いの内容には、必ず問題があります。これを悟らなければ、不信感と不信仰が心に湧いてきて、神様の前に良くない態度が出てきます。そしてそれは人に対しても出てしまいます。なぜ物事が順調に進まないのか。方向を変えることを神が願っておられるかもしれません。
 もう一つは、進む方向に危険な状況があっても、それを回避するのではなく、乗り越える力があるかどうかということも、神様はお考えになっておられるということです。ただし、どんなに成長した者でも、耐えることのできない危険に気づかずに進んでいくなら、神様がそのことを感じ取られたらストップされるわけです。『大丈夫大丈夫、神様が共におられるから』という愚かな考え方で、自分の高望みな願望を勝手に実行していくと、大変な怪我をしてしまうことがあり得ます。
 どうぞ皆さんも、今行き詰まった状況を感じておられるなら、そこでじっくり考えてみてください。わきまえのないことは捨てて、悟りの道を選んでください。幼い子どもが行ってはいけない場所へ行きたい時に親の顔を伺うように、私たちも神様の御顔をじっと見上げて、このまま行ってもいいのかどうか、祈りの中で教えていただくことが必要です。

●5/6(火)9(金)高くされるのは主(ヤコブの手紙4:10)
“主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。”

 誰しも、自分の存在に対して、価値あるものと評価されたい、すなわち愛されるものでありたい、良いものだと認められたいのです。これは生きる命の自然な欲求で、神様が与えられたものです。生きている命は必ず前向きに成長していこうという、命の躍動があります。 『愛されたい』という気持ちは、神様が全ての人に与えられた成長の欲求です。
 日本社会、儒教の社会では、謙虚さというのは、人から尊敬され信頼される一つの人徳です。控えめ、配慮というものは、心がへりくだっているところから出てきます。つまり寛容さがあり、心に余力があるということです。それは自然においても社会においても人々から愛され、尊敬される要素です。そういう姿勢が自然に表現できれば、知らないうちに人々はあなたを高く評価していくわけです。
 人の前にへりくだることは、とかく裏表を作ってしまいがちですが、神様の前にへりくだるなら裏表を作ることはできません。
 愛されたい心は、神がお与えになった命の本能ですから、神様ご自身も私たちから愛されたいというお気持ちを持っておられます。その愛が満たされる相手として、滅ぶべき私たちを救い出してくださいました。そして私たちから愛されることを実現してくださいました。神は私たちをご自身に似せて造られたわけですから、神様の愛されたいけど愛されていないというさびしい気持ちは、私たちと同じです。
 では主の御前にへりくだるとは具体的にはどういうことかですが、それは人によって違います。一般的に『神様の前にすべてのことを感謝することは、へりくだることですよ』と言いますが、そうとは限りません。なぜなら、高慢な人でも、横柄な人でも、感謝するべきことに気づいたなら、神様に感謝するものです。
 それではへりくだっている感謝とはどのようなものでしょうか。その人の価値観から考えて感謝できない状況の時に『それも神様の恵みなんだ』と感謝できる心が、砕かれた、へりくだった心ではないでしょうか。
 聖書のおことばが、あなたの心を映し出します。『赦せない』という思いが心に残っている人、『神様もイエス様を通してあなたを赦されたのですから、赦せない人を赦しなさい。』と聖書に書いてあります。私には赦せないことですが、神が私を赦してくださっているので私も赦します、とチャレンジしていく、赦そうとする姿勢。へりくだってなければ、そのような決断はできません。
 ある人にとっては、神様の御教えに対してこれは今の私には無理だという状況の時に、それに立ち向かうことがへりくだりになるということです。
 ペテロを思い出してみましょう。朝早くから漁に出て、一匹も取れませんでした。日が昇って漁をする時間ではありません。しかしイエス様が「舟を沖に出しなさい、そして舟の右側に網をおろしなさい」と言われました。プロの漁師が経験上絶対に漁はできないと確信しているのにもかかわらず、「おことばですから、やってみましょう」と彼は言いました。それがへりくだりです。
 主の前にへりくだる人は、主があなたを高く上げてくださり、まわりの人を通してひきあげてくださいます。愛される者、信頼される者へと主があなたを導かれるということです。チャレンジしてみてください。

●5/7(水)10(土)自分の道を守る(詩篇39:1)
“私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。”

 『舌に罪を犯さないために、口輪をはめる』口は失敗しがちなものです。そこで自分の道に気をつけるという気持ちが大切だということです。
「気をつける」という言葉には「慎む」という意味が含まれています。また「自分の道を守る」自分の道の分を超えない、自分に与えられている分をわきまえることが、慎むということです。これが、「知足安分」につながるのです。私たちが口で罪を犯す時には、案外、自分の分を超えた発言が多いと言えるかもしれません。
 自分の分、立場、例えば妻が、夫を敬うという立場なのに裁判官の口調で言ってしまったら、それは分を超えてしまうわけです。夫を敬う立場からの批判、意見、これが罪を犯さない言い方です。
 私たちはつい、たとえ上司でも相手の間違いに気づいた時、自分の方を上の立場にして批判してしまうことがあるのではないでしょうか。上司が間違ったとしても、部長と課長の秩序が逆になるでしょうか。
自分より権威があり力がある者が間違うから、自分たちが損をするんだという横柄な態度と姿勢が、たとえ主張自体は正しくても、本来の立場からすれば間違った態度と姿勢であるために、問題は大きくなり、自分も傷を多く受けてしまうのです。
 神様は自分の道の分をしっかり守って、口の言葉に気をつけるように語っておられると思います。下手に出ることは、部長の間違いを認めることにはなりません。部長に対する正しい裁き、判断は、部長の上の人がするのです。
 分をわきまえるということは大変難しいことかもしれません。しかし成熟した知恵深いクリスチャンへと成長していくために、チャレンジしていきましょう。
神様はしみもしわもその類の一つもない、花嫁のような教会を御前に立たせたいと思っておられます。自分一人だけのためだったらそこまで思わなくても、私を愛してくださっている方のためだったら、少しのしみもないような神の子として成長していこうと、自己犠牲を払う気持ちが出てくると思います。そのようにして「知足安分」わきまえのないことを捨てて生きる、悟りのある道をまっすぐに歩む、その歩みにこの一週間もぜひ、黙想しながらチャレンジしていただきたいと思います。