(9)健康的人生への変革 健康とは、本来あるべき姿です。 また、自分が持っている力を充分に発揮できる状態です。 人類にとっての健康的人生とは、いったいどんな状態なのでしょう?
聖書は、私たち自身が自分を変える必要があることを語っています。つまり、神様がいくら私たちを変えようとして下さっても、その御心に合わせなかったら変わることはないということです。例えばいくらサッカーの名コーチがいても、選手がその指導を受け入れず、無視するなら、その選手の力は伸びていきません。同様に神は私たちを神の子として完成させるために、成長を導いておられます。しかし私たちがその導きに従わず、拒んでゆくなら、私たちは少しも変わっていきません。「心の一新によって自分を変える」とは、神様に心を合わせなさいということです。 成長しない原因…自分の考えを頑固に守り、神の考えを受入れない 欲望を満たしたいし、天国にも行きたいという わがまま→2人の主人に仕えることは不可能 私たちは天の父なる神に従い、神の国がこの地に来ますようにと心から願っています。神の国は、自分の命を犠牲にしても相手を助けたいという深い隣人愛のあふれた国です。この神の国の実現を求めてゆきましょう。この世の生き方は、自己の欲を求めて気ままに生きることです。しかし私たちの願いは、神の国を求めて生きることです。 (1)価値観の変革(第二コリント5:17) これが土台であり、最も大切なものです。人は自分の価値観の上に生きているからです。神はすでに、新しい価値観を持った新しいあなたを造られました。洗礼によってそのようにされたのです。 私たちの生まれながらの価値観は罪の影響を受けてしまっています。しかし、洗礼を通して、罪に影響されない神に似た者として今は造り変えられました。ただ、その新しい価値観を押し入れに隠してしまい、今までの慣れた価値観に戻ってしまうクリスチャンもいます。それでは生活は変わりません。しっかりと、新しい価値観を用いてください。以前の価値観は、神の国にふさわしくないからです。どちらの価値観で生きるかによって、あなたの生活は全く違ってきます。 新しい価値観で生きるために必要なことは、ただ「信じる」だけです。神の形は私たち自身では造り出せず、ただ神によってのみ造り出されるからです。 新しい価値観→みことばに感動し、喜ぶ心 ただ私たちの内には、葛藤する心が出てきます。それは以前の価値観です。どちらを選びますか? 又、あなたの価値判断の基準を、はっきりさせておくことも大切です。「神の愛に生きる」「神の愛にとどまる」ことが基準であれば、親切と施しに気を使っていきます。「神のきよさ」が基準であれば、きよいことに関心を持ち、罪や汚れに触れないようにします。もし「この世で成功したい」という古い価値観を大切にしていたら、それはとても困難なことで、新しい価値観「神の国にふさわしい者になる」ということと矛盾してきます。私たちはこの世でどんな仕事、立場であっても、神の国にふさわしい者になることが目的なのです。これがクリスチャンのゴールです。このゴールをしっかりともって、新しい価値観で生きるなら、どんな仕事でも、祈って神の知恵を得ることができます。神は、クリスチャンとしてふさわしい生き方ができるよう導いてくださいます。 私たちは自分をどう見ているでしょうか(セルフイメージ)クリスチャンは悩んできた人が多いので、否定的なセルフイメージを持っている人が多いようです。このマイナスのイメージは新しい価値観に悪い影響を与えてしまいます。私たちの持つセルフイメージは、(第二コリント3:18)にあるように、「自分の品性と人格はキリストのように変えられてゆく」というものです。つまり「私はキリストのように変えられてゆく、良い者である」というセルフイメージです。無理だとか、不可能とかいう考えは捨てましょう。要は、あなたがキリストのように変えられることを願うかどうかです。キリストのように変えられるなら、どんな誘惑や問題にも勝利できるようになります。すばらしいことです。過去の自分のイメージに引っぱられることをやめ、明日の新しい自分のイメージ、変えられ続けている良いイメージを、みことばの約束によって持ち続けましょう。神が導いておられます。 これは、あなたを取り巻く環境のことです。価値観の違うものと触れ合うことによって、悪い影響を受けないようにしましょう。特に心に影響を与えるものは、目や耳から入ってきます。見るもの、聞くものに気を付けて下さい。特に古い価値観を引き出されるものには、触れないようにしましょう。誘惑に弱い人の原因の多くは、古い価値観が引き出されるようなものを、見たり聞いたりすることに在ります。完全に遠ざかってしまえば、いつの間にか記憶がうすれて関心がなくなってくるものです。賭けごと、マージャン等に負けてしまう人は、そういうものに目や耳を向けてしまうからです。(例:刑務所に入ればどんな人でも、タバコも酒もきっぱりとやめられ、願望もうすれてしまいます。) (4)交流関係の変革(第一コリント15:33) 特に、心を開いた時点での交わりを交流といいます。相手を尊敬したり、好意を持つと、心を開くものです。そういう時に私たちは、相手の言葉や考え方の影響を受けてしまいます。それゆえ交流する相手の価値観をしっかりと見抜かないといけません。(ただ会社で一緒に働いているとか近所の人だからといって影響を受けるわけではありません。)安易に心を開いてしまったために、イエス様への純真な愛がゆがめられてしまうことがあります。神の子としてもっと成長したいなら、成熟を目指して前向きに歩んでいるクリスチャン達と交わって良い影響を受けることが大切です。 何を私たちは口にしているでしょうか。告白の基準は「人の徳を養うのに役立つ」言葉です。神の子として、あらゆる困難や苦しみに打ち勝つために、励みとなるような言葉を、相手に語っていきましょう。感情的なものをぶつけるだけの言葉は極力ひかえましょう。相手の心の弱さを認めてあげることも大切ですが、その人が立ち直り、試みに打ち勝っていけるような、みことばをベースとした励ましのことばをかけられるようになりましょう。そうしていくとき、聖霊様がどのように語ったらよいか、時に応じて助けて下さいます。 (6)行動の変革(第一ペテロ2:16) 神の奴隷としてです。その意味は、旧約のモーセの書から理解できます。旧約の奴隷は全て、7年目に必ず解放されました。そして、解放されて出て行くか、主人の元にとどまるかを奴隷自身が自由に決めることができました。神の奴隷とは、神の愛の内に、ずっと とどまりたいと、心から願って自発的にとどまる人々のことです。強制ではありません。自由人とは、自発的に物事を行なう人です。私たちの行動は、全て自発から出ています。献金も、奉仕もすべて、自分がしたいからしているというのが自由人の特徴です。しかし、この自由人の心が生まれてこなかったら、どんなことも「〜しなければならない」という律法に縛られたきゅうくつなものになってしまいます。行動の変革とは、自分の神への行動はすべて自発であり、したいからするという心から出ていることを、しっかりと認めることです。ただし罪に対しては、自由という訳ではありません。なぜなら、私たちは神の秩序に生きているのですから、罪の秩序に対して自由という訳ではないのです。もしそうするなら、それはただの放縦になってしまいます。 自分自身を吟味して、すばらしい健康的な人生を味わっていきましょう。 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦 牧師)より |