2003年2月23日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  神の被いの中に


ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
(ルカ13:34)


 エルサレムとは、イスラエルの民のみでなく、神に愛されている人々を表わし、教会を象徴しています。イスラエルの民が、神に愛されながらも、何度も神の御心に背いて神から離れてしまったように、クリスチャンたちも、教会の兄弟姉妹や、指導者、みことばの忠告が来る時に、それを無視する態度をとって、神の御心を痛めてしまうことがあります。今週は、「めんどりがひなを翼の下にかばうように」という神の私たちに対する御心を理解して、それはどういうことなのかをレビ記から学んでゆきましょう。
 神の祭司として神に仕えることが、翼の下に入るということです。

●24日(月)「祭司のための全焼のいけにえ」
         (レビ記8:18〜21)(ローマ3:23〜24)
 神は私たちを回りの人々と比べて選んでくださったのではありません。
 しかし、私たちは無意識に回りの人々と自分を比較して生きてしまいます。そのために、クリスチャンになってからも、劣等感、優越感、ねたみなどで悩まされることがあります。こういう比較した生き方をすることは、神の御心ではありません。私たちが救えわれたのは恵みであり、偶然と言ってもよいものです。救われた時の偶然の出来事、偶然の心境がぴったりと合ったのです。それゆえ、救いにおける神の奇跡的な偶然を忘れてはなりません。この恵みをもう一度思い起こし、比較の中に生きるのはやめましょう。

●25日(火)「任職のためのいけにえ」
           (レビ記8:22〜29)(第1コリント10:31)
 祭司たちが任命される時、任職のためのいけにえがささげられますが、これは一般の人々にはないいけにえです。血は契約の証しとして用いられます。ここで、耳、手、足に血が塗られるとは、私たちの全人生において、神と契約をかわしたことを意味しています。神の御翼の下に入ってきた時に、もうここから出て行きません。あなたのもとに留まり続けますという決心と契約を表しています。
    耳に血を塗る ----- 神に従う決心
    手に血を塗る ----- あらゆる手の業(仕事)は、
                神のために用いるという決心
    足に血を塗る ----- 人生のすべての歩みを、   
                神と共に歩むという決心
 私たちは自分の人生を通して、神の栄光が表されますようにという決心をした時に、耳、手、足にイエス様の血潮を塗られて、祭司となりました。
 あなたは、いつもイエス様に従ってゆくという決心をされましたか?
 自分の仕事はどのようなものであっても、どんなに小さく思える仕事でも、神のために、神を喜ばせるためにしてゆきたいという決心をされましたか?
 又、あなたの人生は誰と共に歩む人生であるのかを理解されていますか?これらの3つの点をもう一度、しっかりと点検し、決心しましょう。

●26(水)「血と油注ぎによる聖別」
           (レビ記8:30)(ヨハネ4:23〜24)
 神は礼拝者を求めておられます。礼拝とはなんでしょうか。
 人間関係で見るならば、妻が夫を愛するという関係によく似ています。つまり、守られる、保護されるという立場の妻が、夫を心から敬い、信頼し、夫について行きたいという心を持つ、その思いが礼拝に近い意味と言えます。夫を心から愛し、従って行きますという気持ちは、礼拝者の気持ちによく似ています。ただ、神は霊なので、神を愛する=礼拝する方法も、霊とまことによって、つまり、きよい状態で礼拝することが大切です。
 まず、イエス様の血潮によってきよめられ、心の目がこの世の貪欲から、神の愛に向けられます。さらに、聖霊様の油注ぎにより、その導きと助けによって、神のもとにとどまり続けることができるようになります。
 血 ---- イエス様の血潮。神に目を向けられるよう、  
       きよめの働きをする。
 油注ぎ--- 聖霊様の働き。神のもとにとどまり続けるよう助ける。
 血と油注ぎ(聖霊様の働き)のきよめによって、私たちは神の被いの中に礼拝者としてとどまり続けることができるのです。

●27(木)「任職のための期間」
           (レビ記8:31〜36)(第1ペテロ1:15〜16)
 任命されても、その役職についてゆくためには、学びの期間が必要です。私たちも永遠の御国で祭司の働きをしてゆくための、準備の期間として、この人生が与えられています。
 私たちはこの人生において神にどのように仕え、どのように賛美し、どのように神を理解してゆくかを学んでいます。私たちはすでに祭司として任命されました。この人生は任職のための期間です。
 今は学ぶ期間であり、様々なことを覚え、身に着ける期間ですから、いろいろな失敗もあり得ます。「今完璧でなければならない」という考えは捨てましょう。必ず、完璧になって、主の祭司として立てるようになるのですから、今は訓練と受け取り、どんな失望、落胆にも陥らないようにしましょう。

●28(金)「主の栄光の現れのために」
         (レビ記9:1〜7)(第2コリント4:15)
 レビ記の9章は今までのまとめであり、様々ないけにえの細かい規定が結果的に何を表すかが書かれています。それは主の栄光の現れのためです。
 いけにえの規定をことごとく守って行ったら、神の栄光、神の臨在、神の素晴らしさにふれ、それを見ることができるということであり、それは、イエス様を心の隅に追いやったり、あまり重要視しなかったら、あなたの人生において、神の栄光があまり表されないということを示しています。神の栄光は、奇跡という形でも現れます。又、あなたが今まで体験したことのない、喜びや平安という形で訪れることもあります。あるいは体のいやしという形で現れる場合もあります。超自然的な体験は、主の栄光が現れた状態です。
 このようなすばらしい神の栄光の現れを体験するために、イエス キリストはいけにえとしてほふられました。それゆえ、この方を信じるなら、誰でも神の栄光が現われる条件が整っているということになります。ただ「信じる」だけです。ただ信じるだけで、神の御霊が私たちの内に来て住まわれるというすばらしい奇跡を体験します。イエス キリストの十字架を忘れないようにしましょう。

●3/1(土)「主の栄光が現れる」
            (レビ記9:8〜24)(使10:44)
 イエス キリストの十字架は3つのいけにえが表されています。
 そのことに心を開くなら、神の臨在にふれることができます。ペテロはこの3つのいけにえをふまえ、メシアなるイエス キリストの十字架のあがないを説いたので、それを聞いていたイタリア人の兵卒であったコルネリオと、その家に集まっていたすべての人々に聖霊さまが下られたのです。メッセージ中にそういった、臨在にふれたら、自分をとどめることなく聖霊様のうながしに従って、自由に異言を語ったり賛美できたらどんなにすばらしいでしょう。
 しかし、日本人はどうしても自分を押さえてしまいます。「今は説教中だから」とか、「人にじゃまになるから」と考えてしまうのです。
 ロドニー師の教会では、突然「ハレルヤ」と叫びながら走り回ったり、踊り出す人までいましたが、その様子は、聖霊さまに満たされて、すばらしいものでした。私たちは、聖霊さまが来られて、その導きによって解放されてゆくことを、もっともっと求めてゆきましょう。神の栄光が内に現れ、人生に現れることこそ、最高の出来ごとであり、聖霊に満たされる以上の喜びは他にありません。
 聖霊に満たされたいなら、必ず、イエス様の十字架のあがない、3つのいけにえに心を向け、心から感謝をささげてゆきましょう。
 神の被いの中にとどまり、神の栄光の現れるクリスチャン生活を求めてゆきましょう。


 
2003年2月16日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  神に選ばれた者


神に愛されている兄弟たち。
あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
第1テサロニケ1:4


 レビ記はクリスチャン生活に大切なことを教えています。
パウロがギリシャのテサロニケの教会に対して尊敬とたくさんのほめ言葉を手紙に託しています。
テサロニケの人々の信仰生活を見てパウロは「あなたがたは神に選ばれている人々」と言えるほどに、彼らの神に対する信頼と永遠のいのちへの希望というものが、生活ににじみ出ていたのです。
選ばれて良かったと言う気持ちと同時に、神の選びの確かさをここで見ることができたのです。
神は私たちが御国を相続するために選ばれたのです。  

●17日(月)レビ記8:1〜6
 「祭司の任命のためにアロンとその子らが呼ばれる」
 新約聖書よりヨハネ1:13
 アロンの家系が祭司の役職を受け継いだ。
 私たちはキリストの家系に生まれた神に仕える祭司です。神によってキリストの家系に生まれたことの素晴らしさを考えてみましょう。
 任命=信頼をもってその人を選ぶ
神がアロンとその子らを神に仕える仕事につかせたということは、それだけ信頼を見抜いて選ばれました。アロンを選ばれたように、私たちもキリストにあって生まれた者であると言うことが(ヨハネ1:13に書かれてあります。
 「この方(ことばなる神、人を照らすまことの光イエス・キリスト)を受け入れた人たちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ3:12)これらの人々は神によって生まれた人々であると書いてあります。
 神は私たちをただ単に選んだのでなく、任命というかたちで選んで下さいました。それは、「あなたは出来る。神の子として立派に育つことが出来る」という信頼をもって選んで下さっているのです。神のみことばに沿ってキリストのように素晴らしい神の子となれると見抜いて、あなたは祭司として任命されたのです。神に選ばれた自分として自信をもって下さい。

●18日(火)レビ記8:7〜9
 「大祭司の衣」
 新約聖書よりコロサイ3:1
 大祭司は復活のイエス様の姿です。その衣は、大祭司の力と栄光を現しています。
キリストのからだとしてともによみがえらされた私たちの求めるものを考えてみましょう。
 イエス様は私たちの罪のために十字架で身代わりに裁きを受けて死んで葬られました。そのことによって、私たちの一生の罪は赦され、神の子として成長してゆくのです。
死という束縛の力を打ち破ってイエスはよみがえられました。死の力を打ち破ってこそ、神の子としての完全な姿となるのです。私たちの将来もキリストのような姿になるということです。
 大祭司の衣とは服(身体に付ける物)
 私たちはキリストの身体。
大祭司であるキリストの身体が教会。その教会とは大祭司の力と繁栄の象徴である衣が着せられています。すなわち教会は大祭司の持っている権威と繁栄で覆われているというこす。
 キリストの身体である教会は大祭司の力、繁栄が着せられているのです。すなわち、天で行われていることがこの地上でも行われるために権威が与えられているのです。
神の国(義と平和と聖霊による喜び)がこの地に来ますように。キリストの愛がクリスチャンを通して流れていくとき、人々はそれに渇いてやって来るのです。神はあなたを通して働かれます。あなたに大祭司の衣が与えられているのです。

●19日(水)レビ記8:10〜12
 「油注ぎの聖別」
 新約聖書よりhペテロ1:2
 御霊による聖別は、自らすすんでキリストに従うものに与えられるもの。
キリストに従うことを一番の喜びとしているでしょうか。その人は、きっと聖霊に満たされておられることでしょう。
 油とは聖霊(神による聖め)
「御霊の聖めによってイエス・キリストに従うように」と書かれています。(hペテロ1:2 )御霊の聖めはキリストに従う者に与えられるもの。自ら進んでキリストに従いたい。また神を敬い尊敬する心を持った人に聖霊様がやってくるのです。実際出来ていなくても出来た者とみなして神の霊がその人の内に宿るのです。聖めの印としてあなたは神に従う心を持っていたら、神の御霊がやって来てあなたを聖め、キリストに従うようになるのです。

●20日(木)レビ記8:13
 「祭司の衣」
 新約聖書よりガラテヤ3:27
 キリストを着るとはどういうことかを考えてみましょう。
 「 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(ガラテヤ3:27)
キリストを着るとは、私たちが服を着る時、なにかしら意識して服装を選びます。礼拝に行く時、外出する時等何処に行き何をするか、目的と考えに合わせて服装を決めて出かけます。キリストを着るとは目的があるのです。服装のスタイルによって何の仕事かがわかります。キリストを着たら、あなたはイエス・キリストのように変えられるのです。全ての祭司(クリスチャン)はキリストを着ているのです。

●21日(金)レビ記8:14〜15
 「アロンとその子らのためのいけにえ」
 新約聖書よりエペソ3:12
 心から喜びを持って神に従うものたち(祭司)の罪を贖うために犠牲となられたキリスト。
 いけにえはすでにほふられています。
 神の祭司として大胆な人生を描いてみましょう。
 「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです」 (エペソ3:12) 大胆に神に近づくことのできる確信は、キリストによってもたらされるものです。キリストとは(いけにえの姿で象徴されています)神に近づいて務めをする祭司たちは、いけにえを捧げなければ神に近づくことは出来ません。罪の赦しを受けて務めをしました。そのいけにえを捧げたら、確信をもって神の臨在の象徴である天幕に入ることが出来ました。
 イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪のために死なれたということは、神の前に堂々と(大胆に)生きることが出来るようになりました。神の前を歩む人生はイエス様の和解のいけにえ、罪のいけにえが捧げられているので、何度でもチャレンジして人生を歩むことが出来るのです。

●22日(土)レビ記8:16〜17
 「祭壇で焼くものと宿営の外で焼くもの」
 新約聖書よりローマ8:10
 祭壇で焼かれるものと、宿営の外で焼かれるものとははっきり区別しなければなりません。「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きている」と書いてあります。
 祭壇で焼かれるものは神に受け入れられるささげもの。
 宿営の外で焼かれるものは罪のための裁き。
 肉とともに裁かれないように。  
祭壇で捧げられるものは全て神に受け入れられるもの。
内臓=私たちの心の部分、信仰の部分
心だけは神に仕えると言う強い決心を持つことが重要です。しかし、これらの決心よりも実際は神に喜ばれないことをしてしまうことがあります。この時クリスチャンは悩みます。「神に喜ばれないこと(肉に伏してしまった)をしてしまった・・・」と。そのことは、罪が宿っているからだが裁かれる時に一緒に裁かれてしまいます。しかし「いや、自分はもう一度やり直すんだ」と心を改め、神の前に決心していくことが大切です。祭壇の上で自分の心(内臓)をささげることになるのです。 心は常に神にささげ続けることが大切です。神は私たちの心(内臓)を受け入れて下さる方なのです。
 私たちの内に住んでおられる御霊が罪の奴隷となっている身体の行いを心の気持ちと同じように神に従わせることが出来るようにしてくださるのです。(ローマ8:11)聖霊を迎え入れる時、罪に勝利する力が与えらえるのです。聖霊が死ぬべき身体を生かして下さるのです。


 
2003年2月9日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  健康的人生への変革


この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
ローマ12:2



 健康…・あるべき姿 
     ・自分が持っている力を充分に発揮できる状態 
 人類にとっての健康的人生…神の子として歩む人生
 神は、私たちを神の子として造ってくださいました。それゆえ、神の形の私たちが、悪魔の形の人生を送っていては不健全です。どんなに金もうけをし、仕事を成功し、名声を得たとしても、闇の支配者であるサタンからくる貪欲に引きずられた人生を送っていては意味がありません。今日は、健康な人生に変えられるための6つのポイントを学びます。
(ローマ12:2)では、私たち自身が自分を変える必要があることを語っています。つまり、神様がいくら私たちを変えようとして下さっても、その御心に合わせなかったら変わることはないということです。例えばいくらサッカーの名コーチがいても、選手がその指導を受け入れず、無視するなら、その選手の力は伸びていきません。同様に神は私たちを神の子として完成させるために、成長を導いておられます。しかし私たちがその導きに従わず、拒んでゆくなら、私たちは少しも変わっていきません。「心の一新によって自分を変える」とは、神様に心を合わせなさいということです。
成長しない原因…自分の考えを頑固に守り、神の考えを受入れない
        欲望を満たしたいし、天国にも行きたいという
        わがまま→2人の主人に仕えることは不可能
 私たちは天の父なる神に従い、神の国がこの地に来ますようにと心から願っています。神の国は、自分の命を犠牲にしても相手を助けたいという深い隣人愛のあふれた国です。この神の国の実現を求めてゆきましょう。この世の生き方は、自己の欲を求めて気ままに生きることです。しかし私たちの願いは、神の国を求めて生きることです。
(1)価値観の変革(第二コリント5:17)
 これが土台であり、最も大切なものです。人は自分の価値観の上に生きているからです。神はすでに、新しい価値観を持った新しいあなたを造られました。洗礼によってそのようにされたのです。
私たちの生まれながらの価値観は罪の影響を受けてしまっています。しかし、洗礼を通して、罪に影響されない神に似た者として今は造り変えられました。ただ、その新しい価値観を押し入れに隠してしまい、今までの慣れた価値観に戻ってしまうクリスチャンもいます。それでは生活は変わりません。しっかりと、新しい価値観を用いてください。以前の価値観は、神の国にふさわしくないからです。どちらの価値観で生きるかによって、あなたの生活は全く違ってきます。
 新しい価値観で生きるために必要なことは、ただ「信じる」だけです。神の形は私たち自身では造り出せず、ただ神によってのみ造り出されるからです。
    新しい価値観→みことばに感動し、喜ぶ心  
ただ私たちの内には、葛藤する心が出てきます。それは以前の価値観です。どちらを選びますか? 又、あなたの価値判断の基準を、はっきりさせておくことも大切です。「神の愛に生きる」「神の愛にとどまる」ことが基準であれば、親切と施しに気を使っていきます。「神のきよさ」が基準であれば、きよいことに関心を持ち、罪や汚れに触れないようにします。もし「この世で成功したい」という古い価値観を大切にしていたら、それはとても困難なことで、新しい価値観「神の国にふさわしい者になる」ということと矛盾してきます。私たちはこの世でどんな仕事、立場であっても、神の国にふさわしい者になることが目的なのです。これがクリスチャンのゴールです。このゴールをしっかりともって、新しい価値観で生きるなら、どんな仕事でも、祈って神の知恵を得ることができます。神は、クリスチャンとしてふさわしい生き方ができるよう導いてくださいます。

(2)自分に対する意識の変革(第二コリント3:18)
 私たちは自分をどう見ているでしょうか(セルフイメージ)クリスチャンは悩んできた人が多いので、否定的なセルフイメージを持っている人が多いようです。このマイナスのイメージは新しい価値観に悪い影響を与えてしまいます。私たちの持つセルフイメージは、(第二コリント3:18)にあるように、「自分の品性と人格はキリストのように変えられてゆく」というものです。つまり「私はキリストのように変えられてゆく、良い者である」というセルフイメージです。無理だとか、不可能とかいう考えは捨てましょう。要は、あなたがキリストのように変えられることを願うかどうかです。キリストのように変えられるなら、どんな誘惑や問題にも勝利できるようになります。すばらしいことです。過去の自分のイメージに引っぱられることをやめ、明日の新しい自分のイメージ、変えられ続けている良いイメージを、みことばの約束によって持ち続けましょう。神が導いておられます。

(3)触れるものへの変革(第二コリント6:16〜18)
 これは、あなたを取り巻く環境のことです。価値観の違うものと触れ合うことによって、悪い影響を受けないようにしましょう。特に心に影響を与えるものは、目や耳から入ってきます。見るもの、聞くものに気を付けて下さい。特に古い価値観を引き出されるものには、触れないようにしましょう。誘惑に弱い人の原因の多くは、古い価値観が引き出されるようなものを、見たり聞いたりすることに在ります。完全に遠ざかってしまえば、いつの間にか記憶がうすれて関心がなくなってくるものです。賭けごと、マージャン等に負けてしまう人は、そういうものに目や耳を向けてしまうからです。(例:刑務所に入ればどんな人でも、タバコも酒もきっぱりとやめられ、願望もうすれてしまいます。)

(4)交流関係の変革(第一コリント15:33)
 特に、心を開いた時点での交わりを交流といいます。相手を尊敬したり、好意を持つと、心を開くものです。そういう時に私たちは、相手の言葉や考え方の影響を受けてしまいます。それゆえ交流する相手の価値観をしっかりと見抜かないといけません。(ただ会社で一緒に働いているとか近所の人だからといって影響を受けるわけではありません。)安易に心を開いてしまったために、イエス様への純真な愛がゆがめられてしまうことがあります。神の子としてもっと成長したいなら、成熟を目指して前向きに歩んでいるクリスチャン達と交わって良い影響を受けることが大切です。

(5)告白の変革(エペソ4:29)
 何を私たちは口にしているでしょうか。告白の基準は「人の徳を養うのに役立つ」言葉です。神の子として、あらゆる困難や苦しみに打ち勝つために、励みとなるような言葉を、相手に語っていきましょう。感情的なものをぶつけるだけの言葉は極力ひかえましょう。相手の心の弱さを認めてあげることも大切ですが、その人が立ち直り、試みに打ち勝っていけるような、みことばをベースとした励ましのことばをかけられるようになりましょう。そうしていくとき、聖霊様がどのように語ったらよいか、時に応じて助けて下さいます。

(6)行動の変革(第一ペテロ2:16)
 神の奴隷としてです。その意味は、旧約のモーセの書から理解できます。旧約の奴隷は全て、7年目に必ず解放されました。そして、解放されて出て行くか、主人の元にとどまるかを奴隷自身が自由に決めることができました。神の奴隷とは、神の愛の内に、ずっと
 とどまりたいと、心から願って自発的にとどまる人々のことです。強制ではありません。自由人とは、自発的に物事を行なう人です。私たちの行動は、全て自発から出ています。献金も、奉仕もすべて、自分がしたいからしているというのが自由人の特徴です。しかし、この自由人の心が生まれてこなかったら、どんなことも「〜しなければならない」という律法に縛られたきゅうくつなものになってしまいます。行動の変革とは、自分の神への行動はすべて自発であり、したいからするという心から出ていることを、しっかりと認めることです。ただし罪に対しては、自由という訳ではありません。なぜなら、私たちは神の秩序に生きているのですから、罪の秩序に対して自由という訳ではないのです。もしそうするなら、それはただの放縦になってしまいます。
 今週、6つのポイントから、しっかりと自分自身を吟味して、すばらしい健康的なクリスチャンライフを味わっていきましょう。



 
2003年2月2日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  イエスから目を離さない


信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル12:2



 イエス様は私たちの先頭をいかれる導き手であって、私たちが目指している神の御国に向かって歩んでゆくためには、この道先案内人というべきイエス様の跡に従っていくことが大切と教えられています。
 方向はしっかりとイエス様を見て、ついていくにあたって、周りの人々と協力していくと考えたらいいと思います。そして導き手は指導者ではなくイエス様です。私たちは共に仲間であり、指導者は良きお手本です。しっかりイエス様を見上げてついていきましょうというのが今週のテーマです。

●3日(月)レビ7:17〜18
 「いけにえの肉は3日以上残してはならない」
 新約聖書ローマ8:23〜24
 和解のいけにえの3つの意味(1)感謝(2)誓願(3)自発
 先週は感謝のいけにえを学びました。(その日の感謝はその日の内にささげましょう)今日は誓願、自発のいけにえは3日以上残してはいけませんと書いてあります。「3」というのは聖書では大切な数字。特に3日間というのはイエス様が十字架で死なれ、そして墓に葬られて3日間墓にとどまり、3日目が過ぎた後によみがえられたと示されています。この3日間はイエス様の復活と関係があるととらえます。
 ローマ8:23〜24は私たちの救いの完成について書かれてあります。イエス様を信じた時に私たちの魂と霊は信仰によって救われます。神様の前に罪なきものとして受け入れられ霊は聖められました。次に心の部分は毎日の信仰生活の中で、色々な苦しみや体験を通して神様に従っていくようにと聖められていくわけです。そして最後にイエス様が再臨される時にはこの肉体がイエス・キリストの復活のからだと同じ姿に変えられるということが約束されています。霊と心と体が完全にあがなわれて救いの完成です。魂の聖めの中にあって、肉体からもたらされるあらゆる悩みうめきを全部取り去られる時がやってきます。肉体からの解放の望みをもってよみがえられたイエス様から目を離さないようにしましょう。

●4日(火)レビ7:19〜21
 「汚れた身で和解のいけにえの肉を食べてはならない」
 新約聖書第1テサロニケ4:7
 神が私たちを召されたのは汚れを行わせるためではなく、聖潔を行うためである。
 私たちと神様との罪のへだてが取り除かれて和解が成立して関係が正しくつながれたということです。
 神はあなたをきよい聖潔な者としたいために、イエス様の十字架を与えてくださいました。聖くなるとは、神様に属する者になるということです。私たちは罪を犯しますが、聖いのです。なぜならイエス様を信じて神に属する者となったからです。「だから、何をしてもいい」と考える人が問題です。神様に属し、聖さの中にとどまると必然的に罪を犯さなくなっていきます。逆に、罪を犯したい人は自然と神様から離れていきます。しかし、私たちはとどまり続ける者なので悩みます。それでもっと完全な聖さに到達したいという願いをもって、悔い改めて神様に属し続けるよう努めるわけです。聖められることをあきらめてはいけません。悔い改め続けることが神様につながるということを悟ることです。
 また、神様が不完全な者を完全な聖さをもった者と同じように認めてくださるのは、イエス様の十字架の身代わりの罪のゆるしの犠牲があるからです。私たちがこの体に宿っている罪の中に立ち向かう姿勢を失わない限り、神様に属する聖い者として受け入れられるわけです。
 神に属する者であり続けるためにイエス様から目を離さないようにしましょう。

●5日(水)レビ7:22〜25
 「動物の脂肪を食べてはならない」
 新約聖書ユダ25
 脂肪ー最良のもの、繁栄、栄誉、栄光、名声
 私たちが霊的に最も良いものとは、その魂に栄誉が与えられることです。
 あなたの素晴らしさが、そこに栄誉という形で称賛される、それはあなたの力の結果につながるわけです。ユダ書にはこれはすべて神様のものと表されています。
 サッカー選手のビスマルクはシュートしてゴールした時、必ずひざまずいて神様に祈りました。それは、人々が称賛している中で、彼は神に感謝し、その栄光を神にお返ししたわけです。その意思表示。これは動物の脂肪をすべて神様にささげているということです。
 私たちは神様がお造りになったものを使ってしか何もできません。どんなに科学や医学が進歩しても、バイオテクノロジーが発達したからといって人の細胞を造られたのは神様です。その細胞に工夫することを通して色々なものをつくり出すことも素晴らしい科学ですが、すべて神様のいのちの法則に従って細工をしなければ、それは何の良い結果もでないわけです。
 神様の造られたものを利用して、文化、文明の発達が成し遂げられたわけです。ですから、神様に栄光をお返しすることを忘れてはいけません。
 あなたの才能を引き出すためにも、イエス様は十字架による和解のいけにえをささげてくださいました。自分を誇らず、イエス様の敬虔な態度から目を離さないでまいりましょう。

●6日(木)レビ7:26〜27
 「血を一切食べてはならない」
 新約聖書第一テサロニケ4:3〜6
 旧約聖書の律法において、神様は衛生上の問題から私たちの自然的健康を守るためにも教えておられます。神様は、ただ単に、必然的なことだけを教えておられるのではありません。
 血→いのち→その人を生かす
 私たちの魂に関して考えると、「誠実な心」(生きている心、いのちある心)こそ、神様が喜ばれるものであり、神様が生かしてくださる心、神様への純真な心といえます。そして、それがいのちであるということです。この心を食い物にして自分の利得のために利用して貪欲なものにならないようにしましょう。
 私たちはこのような貪欲の渦巻く世の中にあって、存在を傷つけられてきました。人間無意識の内に、自分が用いられることに対して願望が強くなってしまいます。それで用いられないと腹を立てたり、批判的になったり、不信仰になるわけです。教会に来る目的を間違ってしまうことになります。私たちは互いに聖められるために教会に来ています。この意識を忘れないようにすることが血を食べてはならないということの意味です。それぞれのいのちを大切にしましょう。

●7日(金)レビ7:28〜30
 「奉献物の胸を主の前で揺り動かす」
 新約聖書ヨハネ13:34〜35
 「胸を揺り動かす」なんらかの霊的な神様に対する信仰の意味がそこに表されています。
 ヨハネ13:34〜35で「ひとつの新しい戒めを与える」とイエス様はいわれました。この「互いに愛し合いなさい」という戒めが一番大切であるとイエス様は強調しておられます。これはイエス様の胸の内に溢れている私たちへの気持ちであるということです。神様の御心もこれと同じです。
 神様の前に胸を揺り動かすとは、神様の御心に対して、祭司である私たちが同意し、感動し、それを受け取り、自分のものとしますという意思表示であります。この胸は祭壇では焼きません。神様の御心は祭司である私たちのものとするべきだということです。
 「互いに愛し合う」ということこそ、神様が一番願っておられる御心です。それは自分の利得のためにではなく、お互いの利益のために助け合うことです。それも自分のいのちを犠牲にしてでもその人が救われて欲しいという気持ちで助けてあげなさいというものです。イエス様は天からながめているのではなく、地に下って来られました。ご自身は絶対に罪を犯さず、汚れることが絶対あり得ないのに、自ら、人の汚れを受けるという大きな犠牲を払ってまでも、私たちを救い、助けたいと願われたのです。そのような愛をもって、お互いに愛し合いなさいといわれています。神様は人格を持たれたお方です。罪なきイエス様を罪の塊として罰したという心の痛みは私たちには計り知れないものです。
 ミッションバラバの人々は、罪深い生活をしていた中にあって、キリストの赦しというものを実際的に体験しました。それによって神様への感謝が溢れて、証を人々の前にしています。
 お互いに赦し合い、愛し合うという結果が、お互いの成長を助けるということを覚えておきましょう。

●8日(土)レビ7:31〜38
 「奉納物の右のももは祭司のもの」
 新約聖書第1ペテロ2:21
 右のももを奉納物としてささげ、それを祭司のものとしなさいとあります。
 右もも=力強い歩み=イエス様の力強い人生
 祭司である私たちの人生はイエス様の御足に従う人生、それは神様への奉納物であり、神様に喜んでもらえる、神様に納めるべき人生です。
 第1ペテロ2:19〜20で、イエス様の人生は善を行って打ちたたかれるような人生であったことが分かります。それを耐え忍ばれた地上でのイエス様の歩みは力強いものでした。
 右足はきき足で力があるということです。ももというのは特に力がある部分で、歩みの力の象徴です。
 イエス様の右もも、力強い歩みとは、悪をもって悪に報いず、かえって善をもって悪に打ち勝つものでした。しかし、これは一番難しいことです。
 悪をもって悪に報いると、それは果てしない終わりのない争いとなります。これは神様の御心ではありません。
 イエス様の人生を弱々しく見る人がたくさんいます。十字架にかかって死なれる時も、何の抵抗もされなかったわけですから。また、クリスチャンも弱々しいイメージをもたれます。
 本来、赦すということは物凄いエネルギーを精神的に使うということを忘れている人がたくさんいます。復讐しないで、その人を赦し堪えるということは、気が狂わんばかりの精神力が必要です。
 明らかに良いことしかしていないイエス様が、妬まれて十字架にかかり苦しみを受けることは、本当に悔しいことです。しかし、その悔しさをイエス様は善をもって立ち向かって、大きな愛の心でそれを受け止められました。ただ神様を信じて、忍耐し赦し続けること、これが悪に対して善をもって立ち向かう力強い人生です。その人生を神への奉納物として今歩んでいるわけです。辛いと思えるような人生かも知れませんが、素晴らしい輝いた宝石や純金以上に価値あるいのちの輝きをもった歩みをしていることに誇りをもちましょう。そのためにイエス様から目を離さないようにしましょう。


 
2003年1月26日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  神の御前に出る

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはできません。
ヨハネ14:6

 イエス・キリストは私たちが神のもとに行くための道しるべとなる方です。また、私たちの存在が役に立つ者、活用される者としていく生きるために歩む道でもあられます。
 私たちは、イエス・キリストが十字架でご自身をささげて下さったので、神様と親しくお交わりをすることができるようになりました。天地万物の創造主である神様と交流が持てるという事は、何という光栄で感謝なことでしょうか。しかし、権威ある偉大な神の前に出るためには、いろんな条件が必要になります。例えば、私の家内の伯父さんが、科学の研究をしているのですが、その成果が認められ天皇陛下から勲二等を受けることになりました。高貴で尊敬すべき方にお会いできることは光栄なことです。しかし、天皇陛下にお会いするためにはモーニングという特別な正装をすることを求められるそうです。
 高貴な方の前に出る時、なぜ正装する必要があるのでしょうか。正装することは相手の立場と権威を認めていることの心の表明となるからです。そうすることで快く受け入れていただけるのです。同じように、神様の前に出る時も私たちの心の身なりを整えることが必要です。でも実際にはそれほど深く考えなくても神様に賛美をささげ、臨在の中に入っていくことのできる恵みがあるのは、イエス様が神様との和解をなして下さったからです。まるでジーパン姿で天皇陛下の前に出ることが赦されているように、当たり前のように神様と交流を持つことの出来る私たちですが。神様の前に出ることの出来る感謝の心を、いつも自発的に表していくことが出来るように、レビ記を通じて学びこの一週間も神の前に出るための必要性について考えてみましょう。

●27日(月)「全焼のいけにえの皮は祭司のもの」
    レビ記7:1〜8  新約聖書よりローマ13:14

 アダムとエバが罪を犯して、エデンの園を追放された時、裸だったので神様は動物の皮で衣を作り二人に着せて下さいました。動物の皮は寒さや、外の刺激から身を守る上でとても役に立つ高級品です。全焼のいけにえは罪の為に死なれた、復活されたイエス・キリストを意味していますが、皮は地上で生活されたイエス・キリストを表しています。皮が祭司のために残されたということは、私たちが地上で信仰生活を送るためにイエス・キリストという衣が与えられているということです。
 私たちはイエス・キリストを信じ愛することで、キリストを
着ていることになります。それは神を畏れかしこむという霊の正装となり、神の前に出ることができる正装をしていることになります。

●28日(火)「穀物のささげ物はすべて祭司のもの」
    レビ記7:9〜10 新約聖書よりコロサイ3:11

 穀物のささげ物は、一部を取り分けてささげられ、残りはすべて祭司がいただくことができました。穀物のささげ物は、みことばであるイエス・キリストを表わします。
 聖書のみことばは、人種、血筋、身分、能力などによる差別や区別は全くなく、どんな人にもすべてが与えられています。キリストは私たちのすべてとなっておられるからです。ですから、信仰が弱くてもいろんな聖書の学びをすることができます。 今、共に学んでいるレビ記も霊的には固い食物と言われるほど理解することがむつかしいところですが、誰でも聞くことができます。自分の力に応じてわからないなら、わからないなりに理解することが大切です。一週間のデボーションの中にも、いろんなみことばが用意されていますが、あなたの力と好みに合わせて受け止めていかれたら良いと思います。だからといって同じ神様の祝宴に招かれた人達であり何の差別もありません。自分で自分を区別して離れていくことのないようにしましょう。

●29日(水)「和解の感謝のささげ物」
   レビ記7:11〜14  新約聖書よりローマ5:11
 和解のいけにえには、1.感謝のささげ物 
           2.誓願のささげ物
           3.自発のささげ物の3つがあります。
 私たちは、イエス様がご自身をいけにえとして下さったので、神様と和解ができ交流を持つことができるようになりました。だから、イエス様に感謝し、神様の存在を大いに喜ぶことができるのです。しかし、神様が自分にとってどのような存在であるかが理解できないと感謝も喜びもわいて来ないでしょう。
 私たちの霊の友であり、力を与えて下さるイエス様を通して、もっと偉大な父なる神様と関係を持つことができることは素晴らしいことです。私たちはそのことを理解しているので、教会に来て賛美をささげ、持てるものを持って感謝を表しています。 世の中の宗教は罪をお金で赦してもらうという考えですから、お金を払って祈ってもらいます。祈りに対して価値を持たせ、信仰を持たせるためです。私たちの教会では、どんな問題に対しても無料でお祈りしますが、牧師と話して神様は祈りに答えて下さるという気持ちになってからお祈りします。そのように神様に対する信仰が無いと祈ってもらっても、聞かれないし、祈りに対して安易な考えになってしまいます。私たちが必ず聞いて下さるという期待と信仰を持って神の前に出る時、神様は働きやすくなるのです。また祈りに答えて下さったからというよりは、「必ず答えて下さる」という信仰をもってする献物を神は喜んで下さいます。このような信仰を持つためにも、一度胸がドキドキして手が震えるほどの献物をして体験してみて下さい。 

 レビ記の和解のささげ物は(輪型の油を塗ったパン)でした。これは神様との平和(輪型)をもつためには、神が遣わされた聖霊(油)とみことば(パン)に心を開くことが必要だということです。みことばに心を開くとは、パンを食するということです。

●30日(木)「感謝のいけにえの肉はその日のうちに食べる」                   レビ記7:15 新約聖書より第1テサロニケ5:18
 和解のいけにえとしてささげられた肉で、食べてもよい部分の肉は、その日のうちに食べなければなりませんでした。神は1日1日太陽を昇らせ、そして沈めておられるように1日をひと区切りとしておられます。だから、私たちもその日1日の感謝はその日のうちにすることが大切です。私は感謝と刺身は新しいほうが良いと考えます。感謝も遅れると新鮮さが失われて日が経つほど気持ちが薄れてしまうからです。その日のすべての出来事に対して神は良いお方という思いをもって新鮮な感謝をささげていきましょう。そうすれば感謝すべきことを忘れることなく、すべてのことについて感謝することになります。

●31日(金)「和解による誓願のささげ物」
  レビ記7:16 新約聖書第1ヨハネ5:14
 誓願の祈りとは、必ず聞いてほしいという願いで、断食したり髪を切ったりして祈ることですが、神様に対する願いの祈りは、すべて誓願の祈りとなります。だから、神様のご計画を知り必ず聞いて下さるという確信を持って祈りをすることが大切です。聖書全体を通して、神様の考えをよく知ってから、神と一致した願いをする時に必ず聞いて下さると確信することができます。神様のしたいと思われていることを願うのですから聞かれて当然です。しかし、そこに隠れた肉の欲があると、神様は嫌われて祈りを聞いて下さいません。私たちが聖められるための期間として、この時期を忍耐しなければなりません。神様は私たちが肉から離れて、みことばのうちを歩むことを願っておられます。このように、神様は自由意志を持って私たちが成長するために臨機応変に判断と決断をされる方です。自分の思いどおりにならないことも多いということを知っておかないといけませんね。アーメン。
 でも、ただ純粋に素直に神の国のために人生を用いられたいと思って願いを祈っていくときには、答えられる確率が高いので積極的に祈って下さい。

●2月1日(土)「和解による自発のささげ物」
    レビ記7:16 新約聖書より第2コリント8:3
 マケドニヤの教会の人達は、神様との関係が回復された喜びが動機となり、神様の喜ばれることに自発的に協力しました。神様が喜ばれるのは、自発の心からの行動です。神様との和解がどんなに素晴らしいことかに目覚めると、神様のために役に立ちたいという自発的な思いがわいてきます。
 神様は私たちを助けることのできる力強い方です。この神様のために自発によって隣り人を許し、自発によって貧しい人にささげて下さい。神はあなたのいざという時、即座に答えて下さいます。
 以上のように、神様との和解があってこそ自発が成り立ち、願いが届き感謝が溢れます。これをイエス様の十字架によってすべて実現して下さったのです。
 今週も神との和解の素晴らしさを心にとめた一週間を送っていきましょう。


 
2003年1月19日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  私たちにとってのキリスト

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのす。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

第一コリント1:30

今レビ記を学んでいますが、私たちは自分のうちにある罪を指摘されることでつらさをおぼえると思います。しかし、罪を多くやどしていることがわかればわかるほど、それでも赦し続けて下さる神の深い愛を知ることができるのではないでしょうか。
レビ記はむつかしいと感じる方がいらっしゃるかと思いますが、新約聖書の御言葉と関係づけて学んでいますので、あきらめずにレビ記を通して語られる神の愛を知る為に共に学んで行きましょう。

●20日(月)「祭司に与えられる分け前」 レビ記 6:14〜18
新約聖書より第1コリント10:21
   小麦粉(イエス・キリストを象徴)は祭司の食物として与えられた。祭司=神と直接交わりを持つことができる人。
 毎週行っている聖餐式は主が用意して下さった食卓で「親しい人と交わる」という意味があります。祭司は神と直接交わることが出来たので、イスラエル人は祭司をとおして神と交わっていました。しかし、私たちクリスチャンはイエス様の十字架をとおして直接交わり(主の御言葉を食する)を持てるよう神から招かれた者です。ですから、悪霊の食卓にあずかる事はできないと第hコリント10:21 で語られています。イエスの十字架に表された神の愛を知るため御言葉をさらに前向きに味わっていきましょう。

●21日(火)「任命の為のささげる物」 レビ記 6:19〜23                    新約聖書よりヘブル13:15
  祭司=主と直接交わりができる者
 祭司であることの恵みを忘れないように、朝夕にいけにえをささげる。神様との特別な関係は、イエス様の十字架ゆえです。
 祭司は神から任命された事を意識づける為、朝夕の献げものをします。霊的祭司であるクリスチャンは神と関係をもてるのは十字架のおかげであるという事を忘れない為に、絶えず賛美(御名をたたえるくちびるの果実)のいけにえを献げるのです。神の特別の選びの中に招かれたことの素晴らしさゆえに変わらない神の真実の心に対し献げましょう。 賛美も出来ないと思うほどに苦しい状態の時こそ、自分の「苦しい」という感情を犠牲にするのですから、ささげる賛美により大きな価値が生まれます。

●22日(水)「主の前でほふられる」 レビ記 6:24〜25                     新約聖書よりヘブル9: 27〜28
 罪の裁きは神の御前でなされる。
 十字架の贖いは、神の御前でなされた私たちの罪のための裁きです。
 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られます。
 クリスチャンはすでに罪が赦されていますから、神の前に立つ時はクリスチャンになってからした良い事に対する報いを受け取る時なのです。これは素晴らしい恵みです。ですから自分の失敗ばかりに目を向け落胆するのでく、恵みを与えて下さるイエス・キリストに目を向けて、喜んで神の御心を行う者になりましょう。

●23日(木)「罪過のいけにえを食する」 レビ記 6:26
   新約聖書より第hコリント1:18
  罪過のいけにえに表された神の愛は、私たちの生きる力です。
 十字架の言葉は、「罪人が罪を赦され神の子としての特権を回復し、神の国を相続する者となった。」という素晴らしい知らせ(福音)です。世の中の人は欲望を満たすため、欲望の強さをエネルギーとし、人生を切り開き成功しようとしますが、クリスチャンは隣人を愛する為、神の愛の強さをエネルギーとして人生を切り開くことができます。ですからもっとしっかり神の愛を受け取りましょう。

●24日(金)「はねかかった血を洗う」 レビ記 6:27〜28
新約聖書よりガラテヤ3:13
 罪の呪いの一切をイエス様が受けてくださった血潮。
 罪の呪いとは一切関わりたきないものです。
 人々の罪を(手を置いて)移されたいけにえの動物をささげるとき(殺すとき)その動物の血がはね返ってくることは避けられませんでした。この箇所はそのてんできた血に対する聖めの必要を意味しています。同じように非常に罪深いクリスチャンのために、とりなしの祈りをするとき、その罪の影響を受けて汚されてしまうことがあります。霊を聖めることを怠ると自分自身の聖別が出来なくなり、逆にとりなして祈った罪のとりこになってしまうこともあるのです。罪の呪い影響されないように、十字架の血潮で聖めていただくことを常に心がけていきましょう。

●25日(土)「会見の天幕にもっていかれた血」レビ記 6:29〜30                 新約聖書より9:25
 まことの聖所で務めをしておられるイエス様は、私たちの希望です。
 イエス様は十字架の上で血を流し全人類の罪を負って下さいました。そしてよみがえられた後、天に帰り今度は全人類の罪のとりなし手として祈り続けて下さっています。イエス様にはこの2つの務めがあるのですから、とりなし手として今天におられるイエス様を覚え感謝しましょう。


 
2003年1月12日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  神の真実

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

第1テサロニケ5:23〜24



 ここは、神は真実な方ですから、主イエス キリストの再臨まで、私たちを全く聖なる者、責められるところのない者としてくださるという約束です。私たちの霊は、イエス様を信じたことによって救われ完全にされていますが、魂は肉の欲望に揺さぶられやすく、体は罪が宿り、神のみこばを行なえる時と肉の欲望に従う時があります。そんな私たちが、霊も魂も体も罪の指摘をされることのない者とされる約束です。「完全な者になる」「完成される」ということです。現時点の自分には、はるか先のようにみえても、私たちを百点まで引き上げる神の働きかけがあるという約束です。自分に期待し、自分の力で百点とろうとすれば不可能でしょう。しかし、変えてくださるのは神です。約束を守らないことは一つもない真実な神は、きっとそのことをしてくださいます。
 こんな私でも救われ、変えられ、完成されると神の真実に頼って希望を持ちましょう。
 大切なことは、この神の真実に、信頼し続けることです。そうでないと神の取り扱いを受け入れようとしなくなるため完成されません。真実な神に委ねて歩む姿勢が完成に向かわせます。神の真実への信頼は、私たちの成長の鍵ともいえます。

●13日(月)「主の聖なるものに対する罪」
 「主の聖なるもの」とは抽象的ですが、ローマ7:12から「律法」を取り上げることが出来ます。
 律法に対する罪とは(マタイ23:23)大工出身のイエス様が律法の専門家相手に「ささげものはルール通りでも、ささげる考え方がまちがっている。神は正義とあわれみと誠実をもって仕えることを教えておられる。」と確信をついた言葉を話されました。
 この世は、正義を軽んじます。あわれみを優先していては商売も成り立ちません。まともな誠実では成功しません。律法学者たちは、欲望の世界にはまり込んでいたので、イエス様が忠告されたのです。「聖なるものを犯す」とは、律法の精神、神のお心を無視することが一番大きいと思われます。正義やあわれみ、誠実を軽んじないでください。この罪を犯すことがあっても、イエス様がいけにえとなられ、ゆるしてくださっているので、悔い改めるなら、やり直せます、永遠のいのちを失わないように心がけていきましょう。

●14日(火)「聖なるものへの罪の償い」 
 償いとは埋め合わせをすることです。罪過のいけにえのイエス様は、神が用意されたので、私たちは何もしていません。 
 その感謝を償いとして一人一人表現することが求められています。<コリント8:14>はマケドニアの教会のすばらしい証しが記されています。迫害のため困難に陥ったエルサレムの教会への募金の声かけがコリントの教会から小アジアの諸教会へされました。当のコリントの教会はもたつきましたが、マケドニアの教会は極度の貧しさにもかかわらず、施すことに意欲的でした。貧しい地域なので商業都市のコリントの教会と比べると金額的には劣っていたでしょうが、神の前に大きな価値がありました。
 彼らは現金はなくても、何とかして罪許された感謝の気持ちを表わせないかと、自分自身をささげたのです。私たちが準備できなかった罪のゆるしのためのいけにえは、何をもってしても償えません。 
 しかし、その穴埋めとして今の時点で精一杯の行動をすることは大切ではないでしょうか。神の御子が罪にまみれることはあり得ないことですが、罪人の救いのために神は「罪をもたない」という自分の思いを崩す痛みをおして、それを表現されました。そこまでしても私たちを救いたかったのです。その穴埋めに私たちと「父と子」の関係をつなぐことを見い出されました。私たちが父なる神を「天のお父様」と信頼することによって償いができるのです。ただ「ありがとう。ばいばい。」ではあまりに恩知らずではありませんか。   
 ですから、父なる神の犠牲に対して、献金、奉仕を通してその穴埋めをしていくわけです。償いは「〜しなければならない」と強制されるものでなく、神のお心に対してするものです。神の心に通じる償いならば、たとえ一円でも、神はささげた心をみられ、安心されます。神が心の痛みをもっておられることに目を向け、償いの大切さに、気づいていただきたいと思います。

●15日(水)「過失の罪」
 過失とは、知らずに犯した罪で、交通ルール違反をしてパトカーにつかまるようなものです。一方通行違反は知らなかったでは済まされず、罰されます。罪は過失であろうとなかろうと処罰されます。警官は取り締まる権限はあっても、ゆるす権限はありません。しかし、代わりにあわれみをもって罰金を払ってくれた警官がイエス様です。他宗教のように修行や生まれ変わりで罪は消えません。罪の処罰を他のものでゆるそうとするのは矛盾があります。罪の罰金を神ご自身が肩代わりされたキリスト教は、正しい救いを与えています。「いのちにはいのち」を実行したのがキリスト教です。私たちの罪のために、犠牲になられたのは、罪なきイエス様だけです。日本人は人情を重んじますが、人情で罪は消えません。 
 ゆるした人が代わりに罪の刑罰を受けなければ、罪は消えないのです。これを理解しないとイエス様が自分の身代わりに死んでくださったありがたさはわかりません。過失だけでなく故意に犯した罪すらも悔い改める者のために肩代わりしてくださる救いを神は与えてくださいました。感謝の気持ちを神に表現することが必要なのではないでしょうか。

●16日(木)「不実の罪」
 不実の罪=約束したことを守らない、欺く、偽る、口先だけで陥れるようなことをする
 不実の罪は信頼をなくします。神の愛への埋め合わせは、みことばを守ることですが、自分で納得する以上に犠牲することで、信頼を早く回復できます。罪の代償は神が用意してくださいましたが、信頼が回復したわけではありません。
 第1ヨハネ4:11によると神がこれほどまでに愛してくださった(価値ある御子の犠牲をしてくださった)なら、互いに自分の考え以上の償いをもって(ゆるせない罪もゆるしていこう)というものです。 
 神が望まれるように、私たちが一つになるためには、不完全な者同志がゆるし合うことが必要です。ゆるせない者をゆるすことは、私たちの思い以上に大きな犠牲ですが、これによって神も回りの人も、あなたへの信頼が早く回復されます。
 ミッションバラバの人たちは、過去の状態が再び出てくることはないことを信頼してもらうために180度変わった価値観が表明されることが必要でした。大阪の金沢師は、二つの神学校を卒業され、非行少年の更正のための集会やその保護者とのコンタクトも続けられ、多くの信頼を得られています。
 私たちも不実の罪を犯しやすいものですが、犯した後の信頼の回復のために、神がこれほど愛してくださったなら「出来ないことにチャレンジする」ことが重要なポイントです。

●17日(金)「一晩中祭壇の火を絶やさない」
 <第2テモテ4:2>は、リーダーとして失敗していたテモテに、パウロは「夜昼関係なくみことばを伝えるべき」と励ましました。みことばを伝えられない環境の中でイエス キリストの十字架に表わされた神の愛の火を消してはいけないということです。

●18日(土)「一日中祭壇の火を絶やさない」
 <第1テサロニケ5:8>私たちクリスチャンは昼間歩むものです。 
 クリスチャンがつけている胸当ての胸は、誇りとすべきものであり、心を燃やすということが含まれます。炎は心の部分です。すなわち、イエス キリストの十字架を通して神への信仰の心を燃やし、祭壇の火に表わされている十字架によって神の愛を知ったので、愛の炎を燃やすということです。休みの日でも信仰と愛の炎は燃やし続けましょう。


 
2003年1月5日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
  義のために生きる

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

第1ペテロ2:24



 私たちの生きる目的、存在目的は「義のために生きる」ことです。この目標を見失ってしまったら、私たちの人生はむなしくなります。しかし、アダムとエバの堕落により、肉のために生きるようになった私たちを救い出し、再び義のために生きるようになるために、イエス・キリストは十字架のあがないを成し遂げてくださいました。
 今日、ここに来ているのも「義のために生きる」力を得るためであり、仕事も財産も、人生はすべて、いかに「義のために生きる」かにかかっています。神の聖い命が私たちに与えられたのは、私たちがこの命を生かすためです。世界は肉の欲望を満たすために生きている人々のために、いまだに多くの争いが絶えることがありません。神の御心を知り、義のために生きることを決心しましょう。私たちに与えられた自由意志を神の御心に向けてゆきましょう。闇を愛する人々のことばに惑わされてはなりません。神の全能は私たちの自由意志を尊重して働かれます。それゆえもし神の御声を無視し、欲に従って突き進んでゆくなら、自らトラブルの中に入ってゆきます。それは神の責任ではなく、自由意志をもつその人の責任です。神は今も語り続けておられます。しかし欲にひかれる人々はせっかくの神の啓示を自分勝手に利用して、自らが教祖となるような宗教を作り上げてきました。こうした高慢さは人々を惑わし、罪から逃れられないようにするのです。
 私たちはレビ記の教えを尊び、そういった世の中の流れに同調してゆかぬようわきまえる必要があります。

●6日(月)レビ記5:1「黙認の罪」
  新約聖書より第1ヨハネ1:3
私たちはキリストの証人として、福音について証言する者であることを控えてしまわないように気をつけましょう。
 言うべき事実を知っているのに、それを言わないのは罪です。神は、私たちに、イエス・キリストについての証人となるよう願っておられます。それは、あなたがたが人生の中で、イエス・キリストについて体験したことを人々に伝えてゆくことです。
 私たちはことばのみでなく生活すべてを通して証しすることができます。賛美やスポーツ、芸術、文学を通して色々な形で証言できます。
 特に、私たちは、人生の苦しみの中で、キリストを体験します。
 苦しみにあうことによって、救い主イエス・キリストに出会うのです。この世の楽な生活で、神を見い出すことは難しいものです。(親の心子知らずで、安易な生活の中で親の心を知ることは難しいように)
 しかし、試みや苦しみの中で、神を呼び求めるとき、私たちは神に出会います。そうした人々の証しは、多くの場合、超自然的な体験以上に人々の心をうつものです。イエス・キリストと私たちとの関係の素晴らしさは、人々に語らなければ罪になるほど、素晴らしいものなのです。

●7日(火)レビ記5:2〜3「汚れに触れる罪」
  新約聖書より第1コリント5:11
罪の原因が自分になくても、人の罪の汚れに触れるなら、罪を犯したことになる。人の汚れによって自分の心が汚されないようにしましょう。
 クリスチャンで、救いの中に入れられ、恵みを受けつつも罪を止めようとしない人は、霊的には死んだ人です。こういう人と親しくつきあってはなりません。
 罪はウイルスと同じように感染してゆくからです。しかも風邪のように潜伏期間があります。
 罪の欲望に対し何故かひかれ始め、ある人は怒りが出、ある人は裁く心が出ると言った、悪い感情が出始めます。これが罪の症状の出始めです。すぐにはそうなりませんから、自覚症状なく、罪のウイルスを受け取ってしまうのです。
 もし、間違った交わりをしたことが分かったら、イエス・キリストの十字架によって悔い改めて、罪から離れなければなりません。そうでないと霊的死者の影響を受けてしまいます。自分の心をよく見張りましょう。
 自分では負い切れないと思える相手(クリスチャン)は、神に委ね、教役者に任せ、自らはその人のために離れてとりなしの祈りをしてください。

●8日(水)レビ記5:4「軽々しく誓う罪」
  新約聖書よりヤコブ5:12
自分の正しさを主張するために誓うのではなく、必ず実行するために誓うものです。神のあわれみに支えられて、自分の間違いを認める勇気をもちたいものです。
 ペテロはイエスが捕らえられたとき、「イエスのことは知らない」と3度も誓ってしまいました。見境がなくなり、自分を守るため、あるいは自分の正しさを主張する時ほど、私たちは強く誓ってしまうことがあります。親しい人から注意されて素直に認められない時もです。こういう罪に気をつけましょう。
 しかし、結婚の誓いだけは、しっかり誓いましょう。それは、「実行します」という保証だからです。神の前に誓ってそれを破ると、神が裁かれます。それゆえ生涯守り通すという強い決心がなければ誓えないのです。

●9日(木)レビ記5:5〜6「罪の告白とあがない」
  新約聖書よりエペソ5:11〜14
罪のゆるしのためのあがないの効力は、告白された罪に対して有効であると言える。
 告白しなくても神はご存知です。しかし、告白しなければ、どの罪のためのいけにえを今日ささげるのかわかりません。
 あなたの中の暗闇を、告白によって光のもとに明るみに出す必要があります。信頼できるクリスチャンの前で、あるいは牧師の前で、罪を言い表わすことは大切です。闇を捨てるために罪を告白してゆきましょう。

●10日(金)レビ記5:7〜10「鳩のひな二羽による罪過のいけにえ」
  新約聖書より第1テモテ2:4
生活能力に応じた罪過のいけにえ→慈愛と正義の神によるひとりひとりへの配慮。私たちが滅びないことを切に願われる神の愛が伺える。
 やぎや羊など高額で買えない貧しい人々のためにこのような決まりがあります。このひな二羽は、イエス・キリストの象徴です。普通律法は人によって罰が軽減されたりはしません。(交通違反等)しかし、神は慈愛によって、すべての人が救われるように配慮してくださいます。神の愛に感謝しましょう。

●11日(土)レビ記5:11〜13「小麦粉による罪過のいけにえ」
  新約聖書よりローマ6:15
容量3.6Pの小麦粉でも貧しい人にとっては大変な犠牲となる。貧しいからいけにえなしに罪が赦されるわけではない。罪に対するきびしい姿勢を忘れてはならない。
 神は寛大であり、罪を赦してくださる方です。しかしそうだからといって、罪が赦されることを当たり前のように思ってはなりません。なぜなら罪は、愛とあわれみだけでは消えないからです。愛と共に罪のいけにえ、代償が必要です。「小麦粉」は最も貧しい人々がささげられるように、定められました。(貧しいから何もささげなくてもいいのではありません。)罪のためのいけにえは、何とかして罪から離れ、義に生きたいと一心に求めている人々のためにあります。
 イエス・キリストの十字架は、罪に甘んじ、そこから離れようという心のないもののためではなく、むしろ罪に悩み、そこから離れたいともだえている人々のためにあります。
 サタンは悪の父です。ルシファー(サタン)は、もう正しく生きようという心のないものであり、悔い改めることのないものです。イエスの十字架はサタンのためではありません。罪の奴隷となって悩んでいる神の子どもたちを見て、神はイエス・キリストをお遣わしになりました。
 それゆえ、私たちは「義のために生きよう」という志を決して捨ててはなりません。イエス様の十字架はあきらめずくじけず生きるよう、あなたを励まし続けています。