自分育て10回シリーズです

 

1自分育て
2自分育て〜自分で自分を育てる〜
3自分育て〜自分を変える
4自分育て〜習慣化
5自分育て〜わきまえ
6自分育て〜気持ちを育てる
7自分育て〜いのちの輝き
8自分育て〜人を建てあげる力
9自分育て〜どんな自分になりたいですか
10自分育て〜自信


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自分育て 〜10〜

 

「自信」が人を育てます。

良いコーチは相手に自信を持たせます。

しつけにおいて、しばしば否定的なことばをなげかけ、相手に自信をなくさせてしまいます。本来、しつけとは、相手を否定することではなく、善悪を教えることです。自信を失わせないしつけができたら素晴しいですね。

さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
〜ヨシュア1:1〜9〜
 

ここで、ヨシュアに強調された励ましのことばがあります。『強くあれ。雄々しくあれ。』です。

なぜ、ヨシュアに「強くあれ、雄々しくあれ」といわれたのでしょうか?

ヨシュアは偉大な指導者モーセの従者でした。彼はモーセの偉大さをいつも近くで見ていました。
モーセの死後、彼がリーダーとして選ばれたのですが、彼の中には野望はなく、ただ、モーセという偉大な指導者の姿を見ていたので、選びに対して、心に大きな動揺があったのです。

つまり、ヨシュアには、自信がなかったのです。

この、ヨシュアの自信のなさは、私たちのクリスチャン生活の自信のなさと同じです。
選ばれるにふさわしくないのに、選ばれているということに「自信」が出てこないのです。
 

では、自信のない時、私たちはどうしてもらったら自信が出るでしょうか?

1 愛する者からの励まし

兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
〜ヘブル3:12、13〜

不信仰とは、自信のなさの現れです。
それを隠すために、ごう慢になり、自信のなさを隠します。
自信のなさによって、人は自分をカバーし防御するように働くか、高慢によって自分を守るようになります。
 
これが罪の惑わしです。
しかし、私たちはいつも正直であることが大切です。

自信のなさを感じる時に、日々互いに励ましあいしょう。神さまはふさわしくないのに選んでくださっていることを思い出しましょう。

神さまは、私たちが不信仰になったから離れていくようなお方ではありません。
私たちがどれだけ自信がなくても、一緒にいてくださるお方です。神さまは、今の私たちがどのような状態であっても、それで、ともにいるかいないかを決められるのではありません。もうすでに、選んでくださり、ともにいると決めてくださっているのです。私たちの将来を見てくださって、信頼してくださっているのです。


2 権威者で信頼できる人からの後押し

ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
〜ガラテヤ4:9〜

ある開発をする時、投資する9割が無駄になっても、必ず1割は成功すると見込んで、社長は開発社員にその事業をゆだねます。何百といる社員の中で、あなたは社長に知られていて、その開発社員に選ばれたとしたら、それは、大きな自信につながるのではありませんか?

それと同様に、神さまは私たちを選んでくださった時から、私たちを知ってくださっているのです。もちろん、私たちの欠点をもご存じです。あらかじめ、失敗やミスがあることを知っておられながら、必ず大丈夫だと信じて、選んでくださっておられるのです。
また、そればかりでなく、神さまはその失敗やミスをカバーし、益とさえしてくださいます。

 
3 あくまでも自分を信じ続ける
 
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。
〜ローマ12:6〜8〜

神さまが私たちに与えてくださった賜物を信じ続けることも大切です。
与えられた能力を、自分の力量にふさわしく使っていきましょう。


自信は人を育てます。
自信は内側から湧いてくるものです。

健全な自信はその人の徳を建てあげます。




 

 2009.12.15 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜9〜

 

あなたはどんな自分を育てようとしていますか。
どのような自分になりたいですか?

それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
〜コロサイ3:12〜
 
深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけるようにいっていますが、あなたがなりたい自分と同じ姿でしょうか?

これらすべては、相手を思いやる心の姿勢です。どれも、相手を対象としていて、自分を対象としていません。

私たちは時々、こんな自分になりたいと、相手のことを考えずに、自己達成的に自分の理想像を持ってしまうことがあります。しかし、「互いに愛しあう」というイエスさまのおことばは理想的な人間関係をいっています。

人間関係の中で、相手を愛する自分、相手から愛される自分へと成長していくことが大切です。

自分をよくするとは、隣人を愛するということです。
そして、自分が成長していくとは、相手を思いやる心が大きくなっていくということなのです。

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
〜第1ペテロ2:1、2〜

もしあなたがこのように成長したいと願って、関心を持つならば、それは自然に欲求となります。

あなたが相手を思いやることに関心を向けるならば、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけることが欲求になります。その欲求を満たすためにみことばの乳を慕い求めましょう。
乳は、すぐに力になり身につきます。栄養素も十分にあります。それを素直にあきらめずに求め続けることが大切です。

悪意、ごまかし、偽善や妬み、悪口を捨てるとは、それらの心の動きを自分の中で素直に認めることからはじまります。その動きを見つけたのならば、それを認め、この罪のためにイエスさまが十字架で身代わりに死んでくださったことを感謝し、それを捨て、離れる決心をすることです。

この悪い心の動きを認めて落ち込むだけで終わってはいませんか?
また、この罪に汚れた心を認めず、隠していませんか?

罪を認めて、ゆるされるから、感謝できるのです。

罪の思いと正しい良心の思いを線引きする時に、心が責められます。

その時にこそ、心を落ち込ませる罪のわなにかかることなく、この罪さえもゆるされることを感謝して、新たにチャレンジしていきましょう。





 

 2009.11.17 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜8〜

 

知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
〜第1コリント8:1〜
 
知識を多く持つと、高ぶりに陥る危険性があります。

知識に愛を加える重要性がここにあります。

ギリシャ語の意味から言葉を調べると面白い発見があります。
「高ぶり」…息を吹く、ふくらませる、破裂する
      自然な、ふつうにする
      何もないかのように通り過ぎる
 たしかに、高ぶりは、息をふくらませたような表情をもちますね。また、その行き着くところは自分自身の精神状態の破壊であったり、家庭の破壊、破滅です。また、何もないかのように、自然に、ふつうに通り過ぎるとは、ある人に対して高ぶる思いを持っていたりする時、その人に対して声をかけられても、また存在を認めても、まるでいないかのように通り過ぎるような態度です。本当は、何かを持っているのに、持っていないかのようにするのです。
 また、ふくらませることができるけれども、中身は空です。知識は人を尊大にして、破壊させるのです。

 しかし、「愛」は人の徳を建てます。
「建てる」…大きな建物(宮殿、寺院などのような複雑な建物、組織)を建てる
 建てるとは、低いところから積み上げて、完成させるのです。また、中身は着実に組み合わされ、形づくられて、完全な到達に至ります。
 
 建物でいうのであれば、知識は設計図であり、愛が施行といえます。
 知識があれば、いくらでもよい図案をかくことができます。知識も大切です。
 しかし、この知識を生かすのが、施行である愛なのです。
 聖書を知識としてだけ受けとめているならば、施行に至っていないのです。どのように具体的に施行に移っていくかがポイントです。
 画期的な図面であったりすればするほど、施行するのは難しい、できない、無理だと思うでしょう。
 しかし、難しいと感じる時、それは、新しい技術、能力、力を引き出すスタートラインに立ったと受け止めたらいかがでしょうか

 罪の生活の自分の中に、きよい神の子としての新しい人生を切り開いていくことは難しいことです。
 やったことのないことばかりです。しかし、やったことがないから、やってみましょう!
 
 愛の実践は、自分のペースですすめると、相手に伝わらないだけでなく、相手を傷つけてしまうことさえあるのです。そのために知識が必要です。多くの知識によって、愛が伝わるようになります。

 また、ここで記されている「愛」はアガペーの愛ですが、英語訳では、思いやり、慈愛となっています。

 人は弱いもので、自分が正しくできている時、人の間違いを、「それは間違っている」という知識によって指摘してしまいます。そうすることによって、実は、自分も相手をも建てあげるチャンスを失っているのです。
 思いやり、慈愛のない忠告は、人を傷つけるだけです。愛のない知識は人を傷つけるのです。
 間違いは、自分が気づけば、直そうと思うものです。まだ気づいていない、知らずにやっているんだなという思いやりを持って、相手を助けようと接すると、相手を建てあげることを助けられるし、また、自分自身は愛を行うことができるのです。
 
 あなたの心を騒がせる人がいますか?もし、そのような人がいたら、その人に会うとわかっているならば、その前に、神様によく祈ってみましょう。
 うまくいけば、あなたはその人に愛を持って接することができるでしょう。失敗したら、そこからどこが悪かったのか、その知識をえるチャンスになります。そのようにして、愛は人を育成するという実践をしてみましょう。


 

 2009.10.20 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜7〜

 

いのちの輝きは、もっと成長したい、前に進みたいと沸き上がってきます。ひとの体は病気になると、それを克服しようと自然に働きます。いのちが息づいているのです。

では、なぜいのちの輝きが燃え尽きたような、やる気のない心になってしまうのでしょう。日本では今、一年に三万人近くの人が自らいのちを断っているのです。

私たち本来の人間のいのちを輝かせるのを押しとどめる人生の環境が今の日本社会にあるということです。

一体何が欠けているのでしょうか?

いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
〜使徒20:32〜
 
みことば、すなわち、聖書のおことばは私たちを育成すると記されています。食事を取らないと、体に元気が出ないのと同様に、たましいにみことばが不可欠です。

育成するとは、つくりあげる、徳をたてるという意味です。
徳をたてるの、『徳』とは、直ぐな心を行うという意味を持っています。
徳の高い人というのは、善悪をわきまえ、善を真直ぐに行っている人のことをいいます。

現代社会をふりかえると、徳の高い人をどれくらい見つけだせるでしょうか?

物質が溢れるばかり豊かになり、精神文化が崩れ、経済社会構造の影響で、善悪という判断基準の中に、損得勘定が入り込んできています。私たちの価値観は、善だとわかっていても損だから行わないとか、悪だとわかっていても得になるからやってしまうというようなものになってしまっています。実は、この間違った考え方が、私たちの気力を失わせ、やる気をなくしてしまう原因なのです。

聖書の『徳』について
(1)第1コリント13:4〜8
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

『徳』とは愛のことをさしています。また、この愛はいつまでも残るものです。財産や、この世の富のようになくなるものではありません。神さまの愛にふれ、神さまの愛を求める時に、私たちの霊は息づくのです。

(2)マタイ5:38〜42
『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

第1ペテロ2:19〜21
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

聖書の『徳』はただのお返しや親切だけではなく、余分によいことをすることを教えています。また、不等な苦しみを受けることも教えています。

相手に対して、自分が不当な苦しみを受ける時、そこにはどんな気持ちが働くのでしょう。イエスさまが十字架にかけられた時の私たちへの気持ちです。自分が不当な苦しみを受けることを通して、どれだけ愛しているかを知らせるためです。しかし、気づいてもらえないかもしれません。ばかにされ、無視されるかもしれません。それでもなお、苦しみを受け続けられることを選び続けられた、崇高なきよい愛がそこに存在するのです。

その愛を受け取る時、その相手の立場からすれば全く不当な苦しみの状態を受け続けているその姿から、自分に対するいつくしみ深い愛を見いだすことができれば、愛されているすばらしさを体験するのです。

愛されていることを知った人は、愛を生み出すことができるのです。

そして、みことばが愛を育てるのです。愛を身につけるためのみことばの働きは、ここにあります。

ヨハネ1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハネ6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。


私たちの霊に直接触れるのは、ことばです。ことばを大事にしましょう。まず私たちがいのちの源である聖書のことばに触れることが大切です。

そして、私たちはことばを大事に使っていきましょう。
間違っている人を注意して、その人がやる気をなくすならば、それは死んだことばです。
しかし、間違っている人を注意して、相手の気持ちが向上するならばいのちのことばです。

また、私たちは、愛の行いが必要な状況、すなわち、不当な苦しみを自分が受けなければならない状況に置かれます。悪に負けるのではなく、善を持って悪に打ち勝つ愛の行動へのチャレンジです。

このように、愛を身につける課題が私たちの前に出されるのです。

いのちのことばをいただくこと、ことばを大事にして相手を建てあげることばを使うこと、そして、善を持って悪に打ち勝つこと、正義を貫くこと、不当な苦しみでも愛のゆえに受けることは難しいことです。
しかし、それを積み重ねていくことが大切です。失敗しても、そこから何か学んでいます。最後には成功できるようになります。

ただ、愛の行動は、強制されて、義務的にできるものではありません。愛を受け、愛されることをよく知らなければ、愛は生み出せません。聖書のおことばを通して、愛に触れ、心にやる気が生まれてきた人に、この愛の課題が出されていることを覚えてください。

 2009.9.29 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜6〜

 

成長したいという気持ちを持っていますか?
実は、その気持ちこそ、やる気をもたらし、モチベーションをあげる大切なポイントです。

「成長しなさい」と強制されて、気持ちがひきだされるわけでもありません。
また、成長したいという気持ちがあっても、行動にはうまくあらわれないこともあります。

気持ちを汲み取り、わかってくれる人がいたら、人はそれに力をえて、チャレンジできたりするものなのです。

気持ちが育てば、あなたも育つのです。

では、その気持ち、いいかえれば、成長したいという目標、目的、願いについて聖書ではどのように語られているでしょう。

幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。
〜箴言29:18〜
 
幻とは、ビジョンであり願いです。ここで、この幻を「成長したい気持ち」「自分育ての願い」といいかえることもできるでしょう。

もし、私たちの心に願いがあると、ほしいままにふるまうわがままを自制できると読み取れます。

2〜3才の幼子は、自分の願いをすぐにかなえたいので、思い通りになんとか人を動かそうとする時期です。自我の芽生えてくる時期ですから自然なことです。例えば、ききたいCDをプレイして音楽を楽しみたいという幼子は、相手の都合を考えずに、自分の聞きたい時に聞きたいので、いつでもどんなときでもCDの再生を大人に要求くるでしょう。願いをかなえるために行動している姿です。それに対して、親や大人は、願いをかなえるために、「ほしいままにふるまう」ことを自制することを、子どものできる範囲で教えてあげることが大切です。

2〜3才の幼子に大人の都合を説明してもまだ分かりません。であるなら、CDの再生のために幼子にもお手伝いをさせて願いをかなえてあげることが大切です。そこで、その幼子は願いをかなえるために、忍耐を働かせて、願いのために自分も準備することを学んでいきます。

頭ごなしに「だめ」といわれつづけると、幼子はCDを聞きたいという願い自体を捨ててしまうことさえあります。親や大人は自分の願いを聞いてくれないという意識をもってしまうかもしれません。やる気のない、願いを持たない、あきらめた心を育ててしまうことになるかもしれません。

幻がないとは、目的、目標がないということです。やる気を持たなければ、人は欲望のままに生きてしまうものです。人格的に生きるというよりも、動物的な生き方に甘んじてしまうのです。

目標、目的や願いをあなたはどれだけ強くもっていますか?
「だめ」といわれ続けて、あきらめていませんか?

自分ではできないと思っていたことでも、心の奥底の本音ではしたいと思っていたことがありませんか?
何度も何度もやり直して、くじけそうになって休んでも、またやり直して、できるようになったことがありませんか?
そんな時、あなたの近くには、やり直す度に、励まし続け、気持ちをわかってくれた存在がいたのではありませんか?

何かを達成した時に、達成できた喜びは大きいでしょう。その喜びが次のチャレンジへの力となるでしょう。
しかし、なによりも、やり続けることに対して支えてくれた人と、支えられた人との心のつながりが人を育てたということを忘れてはいけません。
 
人は、人間関係の中で育っていくのです。人格的関係の中で、人としての心が育っていくのです。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
〜エペソ4:16〜
 
私たちは愛のうちに建てられていく存在なのです。

キリストのからだとは、人格者の集合体です。

子どもが、家庭の中で、愛のうちに育まれて、強く、たくましく、善悪をわきまえて育っていくのは素晴らしいことです。お金も大切だけれども、お金にはかえられない大切なものもあるということを子どもが学んでいける、そんな人間関係をもちたいものです。

願いは大切です。
あきらめてしまうよりも、願って、忍耐して、その願いに近づく者になりたいです。

あなたの周りにはだれがいますか?子ども、夫、両親…。人は身近な人々との関係によって育っていきます。

神さまはあなたの心を汲み取られ、励まし、わかってくださる方です。くじけそうになっても、支えてくださる真実な方です。だから、どんなに人間関係で傷ついても、神さまがあなたの心を癒し、また立ち向かう力を与えてくださいます。そうすることによって、また、人間関係の中に希望をもって関わることができ、あなたは研がれ、磨かれ、そして、あなたが育っていくのです。

そして、最後に、人間関係での一つのコツをここに紹介しておきます。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
〜ピリピ2:3〜

自己中心や虚栄の動機からの関係作りはこわれていきます。
しかし、相手を尊敬する心はあなたを育てます

 2009.7.27 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
     

 

 

  

  

 

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自分育て 〜5〜

 

私たちは、周りの人を見て、「あの人はお金持ちでいいなあ」と思ったりします。
そして、「どうして自分はお金持ちではないんだろう?」とも思ったりします。
 
私たちは、自分や他人に対して、無意識に、「評価」しています。
自分の心の中でどう感じるかは自由です。しかし、相手の行動をあなたの主観で評価して、相手を動かすことは思うべき限度をこえてしまうことになります。

自分を育てるために、自分自身を知り「わきまえる」ことが大切です。そうすると、相手を理解することもできるのです。
 
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
〜ローマ12:3〜
 
(1)自分に与えられた恵み
 私たちにはいろいろな立場、賜物が与えられています。
 主婦であり、母親であり、妻である立場。
 先天的に与えられているいろいろな能力。
 
 私たちはいろんな種を持っているのです。どの種を育てていくのかは、自分で選ぶことができます。

 あなたは今の自分の状況を受けとめることができますか?
 今を恵みとして受けとめられますか?
 恵みとは、本来与えられるはずのない者に与えられるものです。

 状況や環境すべてを恵みとして感謝していく時、自分育ての出発点に立つことになります。
 
 
(2)思うべき限度=評価すること
 私たちは個人の主観によって物事を評価する生活をしています。
 しかし、いつも、評価の限度をわきまえる必要があります。
 
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
〜詩編8:5〜
 
 
私たち人間は神様に似せて造られた存在であって、神様と同等ではないことを認めることが大切です。
 人が理解できないことがあって当たり前です。分かる時がくるまで、私たちは成長する時間が与えられているのです。「神様、どうしてですか?」と自分の理解できないことを、無理やり自分の考え通りに動かそうとするのではなく、神様が悟らせてくださるまで、分かる時がくるまで待つことも必要なのです。神様を畏れるこころが知恵や知識のはじめなのです。
 

 
(3)信仰の量りにふさわしく
 人はだれでも欠点があるし、成長段階であるということを忘れてはいけません。
 
 自分の分をわきまえる自分育てとは、力量に合わせた成長を計画するということです。
 罪人とは病人です。そして病人の成長とは、健康に向かうということです。
 私たちは、未熟なものとして、各々のペースに合わせた計画をたてることが大切です。
 それは、しんどくならないように計画することです。
 目標に向かわなくてもいいというわけでもなく、途中でやめてしまわないような計画を持つということです。
 
 例えば、自分育てで「思いやり」という目標を持つとします。
 「思いやり」というこころを育てるために、具体的にどうしたら良いかを計画します。
 
 ・自分にしてほしいことを人にする
 ・自分より困っている人を助ける
 ・相手の必要に気がつくように心掛ける
 ・できない自分を受け入れる
     など具体的に考えます。 

 そして、これらに取り組みます。
 例えば、自分にしてほしいことを相手にするということをチャレンジする時に、自分の思い通りに動いてくれている相手はしんどいんだということに気がつくでしょう。相手が、周りの人がどれだけ自分に合わせてくれていたのかを理解する必要があります。そうすることで相手の気持ちを理解することができるようになるでしょう。これらを、続けてもしんどくないペースでやり続けていくのです。自分のペースを見極めて、時間をかけて自分を育てていきましょう。ゆっくりでいいから、すぐに結論を出してあきらめたりしないようにしましょう。

 2009.6.30 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜4〜

 

成長=変化し続けること


成長を妨げるものに、習慣化があります。固定化された習慣が無意識化し、そのパターン化が成長を妨げます。

では、私たちはどのようなものに習慣化されているのでしょうか?
 
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
〜エペソ2:1〜3〜
 
(1)この世の流れに従うこと
 人の目を気にしたり、多数決を優先したり、違うと思っていても全体の流れに逆らえなかったりしていませんか?無意識の固定化された考え方が私たちの成長を妨げます。
 
(2)空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従うこと
 神はいないという考え方、奇跡はありえないという思考パターンがありませんか?
 
(3)自分の肉の欲の中に生きること
 動物的な生き方をしていませんか?それは人格的生き方ではありません。
 
(4)肉と心の望むままを行なうこと
 (3)は自然界に順応した動物的生き方のことをさしますが、これは、自然界のルールを破ってでも、望みを叶える生き方です。

これら4つに習慣化されていませんか?
習慣化は、あなたの考え方、気持ち、言葉遣い、行動にうつしだされます。
成長のために、これらを吟味することが大切です。
 
同じことに悩み続ける人がいます。その人は問題が解決することは願っていますが、固定化された自分の生活習慣を変えようとはしません。根本的に考え方を変えなければ、問題は解決しません。たとえ、その問題が解決したとしても、考え方が変わってなかったら、似たような状況が起きた時、それが問題となリ、以前と同じように悩むことになります。しかし、考え方が変わっていたら、以前と同じような見方をしなくなるので、今まで問題となったことは、もう問題ではなくなることが多いのです。それは、糖尿病の人が、その病をいやされたいと願いながら、自分の食生活を変えるか?変えないか?とよく似ています。
 
私たちは新しい習慣をもつことができるのです。
気がついた分だけ、変わるチャンスがあるのです。
脳科学からすると、人の脳は年を重ねても、固定化されない柔軟さがあるそうです。
「もう年だから、自分は変えれない」ことはないのです。
むしろ、「私には自分を変えたり習慣をかえるのは、ムリ!イヤ!ダメーーー!」という固定化された考え方があなたの成長の可能性をとどめているのです。「新しい習慣はいくつになっても持つことができる!」と知ったのならば、素直に「変えられるのなら、やってみよう!」と意志をもってやり続けることです。何事でも、初めからうまく変えられるものではありません。しかし、やり続けるのならば、必ず新しい道ができてきます。

 
パターン化のチェック

 あなたはどのようなパターンをもっているでしょうか?チェック項目をあげます。

(1)自己評価
 あなたの中に劣等感があるとして、それを自分の中に見つけた時に、ダメだと落ち込んでいませんか?ネガティブに落ち込んでしまう考え方を固定化していませんか?神はあなたを素晴らしいといってくださっているのに、あなたの自分への評価は厳しく、神の評価を自分の評価と重ねてしまって、自分をダメだと決定し続けるならば、あなたは「自分の評価が神の評価と同じである」とパターン化した考え方に気づいていないのです。
 何かに対する結果や表現をする前に、あなたの心がどう動くかを見据えましょう。問題は、どんな結果や表現が出せたか?ではなく、どのようにその結果や表現を出すに至ったのか?です。

(2)夫、子ども、親、他の人への評価
 あなたは自分の周りにいる人をどのように評価していますか?相手に6〜7個の良いところがあっても、1つの気になる欠点を責め、厳しい評価を出していませんか?

(3)出来事

(4)将来に対する評価

 これらを通して、私たちはセルフチェックができます。自分のうちに潜んでいるパターン化された行動、考え方、価値観を見つけだして、新しい習慣をつけていきましょう。

新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
〜コロサイ3:10〜

 
 私たちは、キリストと同じ姿に変えられていきます。それは、同じへアースタイルで、同じファッション、同じ顔、同じ表情になるということではありません。キリストと同じ姿とは、あなたらしい創造主の姿があらわれるということです。
 今年もミスワールドが選ばれましたが、その美しさには基準があり、その基準に達していなければ選ばれません。
 神はすべての人に創造主の美しさを与えておられます。ミスワールドのように基準に達しているから美しさが認められるのではなく、もともとすべての人に美しさがあるのです。神さまの目には固定化された美しさの概念はありません。あなたはあなたの美しさを見つけだすことができますか?
 
 固定化された否定的な考え方をただ前向きにするだけでも、人生は随分すばらしいものになります。

 さらに、私たちにはキリストと同じ姿に変えられていくというゴールが明確にしめされています。聖書には、私たちのゴール、全体の方向性が明確に描かれています。一方、具体的なアプローチについてはくわしくふれていません。それは、ある意味で、私たちが固定化されないためなのです。私たちが成長するために、神さまは詳細なマニュアルを与えるのではなく、自由と自発を与えてくださいました。
 
 固定化に自分が縛られてしまうことなく、自分をよく吟味し、自由に、成長をもとめていきましょう。

 2009.5.19 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て〜自分を変える〜 〜3〜

 
育てる=成長する
成長=変化していく


私たちが人を変えようとすると大変なエネルギーがいります。人を変えるより、自分が変わったほうが早いですし、自分の成長にもつながります。

私たちは変わっていくことに否定的なイメージを持っているかもしれません。今がダメで、間違っていると自分を否定されたり、直さないといけないとプレッシャーに感じたり、負けたような気持ちになったりしてしまいます。間違いを正すということに、ネガティブな考え方を持たないようにしましょう。それは、前進するためのステップです。変化、悔い改めは私たちの宝です。

 
目ざす人間像は?
あなたには目ざす人間像がありますか?そのために日々努力していますか?
主人、子ども、地域の事で忙しい毎日です。しかし、自分を整えることによって、すべてのことに良い影響を及ぼすことになります。日常生活の忙しさのなかで、自分が変わっていきたい理想像を見失ったり、努力するのを忘れてしまったりすることのないようにしたいですね。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
〜第2コリント3:18〜

聖書には栄光から栄光へ変えられていくと、以前よりもよくなっていく前向きな表現で変化が表現されています。変えられることは、自分が成長することです。

新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
〜コロサイ3:10〜

また、私たちは、造り主のかたちにむかって、変化していきます。チューリップの球根がチューリップの花を咲かせるように、私たちには成長の方向があり、それが「造り主のかたちになる」ことです。

スポーツ選手が努力して練習をつめば記録がのびるように、私たちも努力すれば必ず造り主のかたちへと成長していくのです。私たちが成長のために努力をしようとする時、チューリップが桜になろうとしたり、チューリップと桜を比較するような世の中の考え方に影響されるので、変わることにネガティブになってしまうのです。成長のための努力に、周りに勝つという目標はありません。神さまの考え方は、あなたがあなたの頂点にいく努力を望んでおられるのです。あなたが桜であれば、桜として美しく花を咲かせることです。それはチューリップと比較したり競争するものではないのです。

もし、それでも、自分らしく成長することにおそれを持つとするのであるならば、「みんなと同じになることが幸せである」という考えを持っていませんか?「出る杭は打たれる」と、日本的常識の範囲で自分をおさめようとしていませんか?私たちは普通とは違っても幸せなのです。

思考パターンの変革
ネガティブをポジティブ回路で変換する!

たとえば、「あい」という文字は「愛」と変換できたり、「アイ」とも変換できます。しかし、「あい」から「黒」とか全く別のものに変換することはできません。
ネガティブをポジティブに変換するということは、言い変えれば、ネガティブとポジティブは全く別物ではなく、関係が深いものであるから、変換できると考えられるのです。ネガティブがポジティブになるために、全く違うものに変わらなければと思うから難しいのです。

脳科学の進歩により、人の前頭葉には楽観回路と呼ばれるものが備わっていることが明らかになっています。楽観回路とは、否定的な考え方を楽観的に受け止めていくという機能なのです。

ポジティブな人を見る時に、あんなに楽に考えられて幸せだなあと感じるかもしれません。しかし、ポジティブな人はネガティブを通っているのです。ネガティブを通り抜ける時に多く涙していることが多いのです。ネガティブを通るから、ポジティブを得ることができるのです。

ネガティブの役割
思考変革の時
脳の適応力活発化

もう前に進むことのできないひどい落ち込みや挫折は、実は、思考変革の時なのです!
今までの思考パターンでは乗り越えられない状況の中で、そこを乗り越えるために今が私の変革の時だと受け止めることが大切です。脳は、このような状況の時に適応力が活溌に機能し、打開の道を活溌に探していることが研究によって分かってきました。
 
脳は、前に進めない状況に直面すると、次のステップにいけるためにどうしたら良いのか、今の困難を乗りこえていこうと、自然に働くそうです。それが、もともとつくられた脳の自然な機能、性質なのだそうです。
 
では、なぜ、その困難を乗りこえていこうと働く脳の働きとは別に、あきらめたり、ネガティブで留まり続けてしまうことが起こるのでしょう?世の価値観がその自然な働きをふさいでしまうのです。
落ちこぼれは負け組である、もう努力しても無駄だ、そのままでいなさい…等、そのような考えを私たちが握ってしまうので、脳の働きがふさがれ、不健全にネガティブで留まる状況が生み出されてしまうのです。

私たちがネガティブに落ち込んでしまった時、今こそ思考変革の時!と、受け止めていきましょう。
 
ポジティブ発想
同じ失敗、同じ後悔をしないためには?

もう前に進むことができない挫折や落胆は、今までの思考パターンから新たな思考パターンを見つけていく思考変革の大事な時であるということを学びました。もし、新たな思考パターンを見つけずにその挫折や落胆を通り過ぎると、また次に同じような問題がやってきた時に、同じ失敗をしてしまうのです。

普段からポジティブ発想ができるように、発想力を養うことが大切です。
発想力は単純なことから連想していくことです。
もし、ネガティブが根にあるのならば、否定的な考えが根本にあることばを発想したりしていることが分かります。発想力を養うためには、反射神経的に、何の考えも持たずに、ことばを思い浮かべていくことが大切です。良い悪いは、思い浮かべてから先の問題です。
 
発想、ひらめきを養いましょう。神さまがもともと備えてくださっている脳の自然な機能を生かして、ポジティブに、そして「造り主のかたちへ変化する」成長のために努力しましょう。


 

 2009.4.28 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て〜自分で自分を育てる〜 〜2〜

 
自分で自分を育てるとは、自分を鍛えることです。

鉄はうちたたいて鍛えて、馬のひづめになります。それは1000円ぐらいの価値です。さらに打ちたたいて鍛えると、針となります。それは30000円程度の価値です。さらにうちたたいて鍛えると、はがねに、そしてもっと鍛練すると、ゼンマイとなります。ゼンマイの価値は200000円ぐらいです。鍛えるか、鍛えないかの違いだけで、成分は変わらない、同じ鉄なのです。
 
鍛えていくことで、価値のあるものへと造り変えられていくのです。
人も同じことがいえるのです。

敬虔のために自分を鍛練しなさい。 新約聖書 第1テモテ4:7

苦労をしてきた人には品性が備わり、強さがあり、忍耐強くやり通す力があります。また、苦労をしてきた人程、人は一人で生きているのではなく、多くの人の助けによって支えられていると、謙虚な気持ちを持つものです。
 
鍛練は人をみがきます。また、敬虔のために鍛練すると、そこに、物事の分別をわきまえる、神を畏れるへりくだった人格が生み出されていくのです。

まず、私たちは敬虔さの価値に気づいていきましょう。

たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、
私はわざわいをおそれません。
あなたが、わたしとともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。    詩篇23:4
 

死の陰の谷とは、落胆、失望、挫折です。
むちとは、注意、意見、叱責であり、杖とは、権威の圧迫、理不尽です。

あなたの神の子としての性質があらわれ、磨かれていくために、痛み、苦しみの死の陰の谷を通ることは価値があるのです。死の陰の谷を通り抜ける時に私たちは強くなります。大切なのは、強くなることよりも、強くなっている行程を通ること、経験です。何を感じ、どう考え、どう応答していくか、そのプロセスが大事です。

オリンピックの吉田選手は北京オリンピック前まで連勝続きでした。しかし、連勝がストップした時に、彼女は苦しみました。北京オリンピックで勝利をおさめましたが、彼女は「負ける度に強くなりました」といっていました。負けた中で、自分を振り返り、自分の弱さを知り、自分を変えることにチャレンジしたのです。
 
死の陰の谷にあゆむとき、私たちに負荷がかかります。その負荷を打ち破り、乗り越えること、それが忍耐です。忍耐は私たちを完全にします。
 
負荷がかかると誰でもストレスがたまります。しかし、その負荷を肯定的に受け止め、神さまにおゆだねして自分を変えれば、そのストレスはなくなります。上司のことばを辛いと感じるのは、自分を変えたくないという動機が隠れているかもしれません。もしも、上司を尊敬し、自分のために語ってくださっていると受け止めるのならば、あなたは自分を変えようとするでしょう。
 

鍛えることは自分を変えることなのです。死の陰の谷で、いつまでもストレスに感じるのは、自分を被害者だと考え、自分を守ろうとしているのではありませんか?自分が正しいと思って、自分が変わることをかたくなに拒んでいませんか?ストレスがいつまでもたまる状態は、自我を砕かない状態です。プライドを捨てない状態なのです。
 
神さまの前にあなたの人生をへりくだらせることが大切です。自分が変わった後は以前の自分よりもずっとすばらしいのです。部屋の模様替えが以前よりもすばらしくなるのならば、その途中の苦労はストレスにはなりません。
 
変化をおそれず、鍛練によってますます磨かれていくことの楽しみをみつけだしていきましょう。
 

 2009.4.7 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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自分育て 〜1〜

 

子育ては 人育て
まず、自分育てから
 
子どもを育てるとは、人を育てることです。

人は互いに育てあっています。これが社会生活です。
今の社会は、自分の利益を先に求めるので、「育てあう」関係が薄れています。

互いに育てあえる健全な社会生活の土台は、自分を育てることにあります。

養 生 喪 死
生ある者を十分に養い、死んだ者を手厚く弔うこと。

この四字熟語から、ひとりひとりの存在そのものを大事にする、という意味が読み取れます。

自分を大事にするときに、自分を育てることが始まります。

少子化の日本社会で、子どもを産むことをためらう理由として、80%近くの女性が経済的負担とこたえています。そのようにこたえた人の70%近くがその負担がなければ育てるとこたえているそうです。
お金がなかったら、子どもが育てられないと考えてしまうのです。福祉のある日本社会では、何とかやりくりし、犠牲すれば、決して育てていけないことはありません。それをしたくないと考えるのは、自分の思いどおり、今のゆとりのある、好きなように生きていける生活を崩したくないという、根本的な理由があるのではないでしょうか?
 
自分の思いどおりの生活にプラスになるか、マイナスになるか、という価値観の中では、子どもを産み育てることは、マイナスをもたらすばかりなのです。「自分の思いどおり」という基準や考えをもっていると、いつの間にか人を、利益をもたらす存在であるかどうか?という尺度で図ってしまうのです。
 
存在そのものを大事にする、自分を大事にする時、まず、この「自分の思いどおり」「自分にとって得か損か?」という価値観から離れる必要があります。

そして、自分の存在そのものが価値あるものであることを認めていくことが大切です。他人や、損得、世の中の価値観で自分をはかるのではありません。あなたは世界で唯一の特別な存在であることを認めることが大切です。

なぜなら、天地創造の神が、あなたを他の誰とも違う存在として創造されたからです。さらに、その神は、あなたの罪をイエスの十字架でゆるし、あなたを愛し、あなたが生きることを望んでおられるのです。

あなたが自分を大事にできていないのならば、あなたは自分をよく見て、自分を理解していないのかもしれません。人は、そのすばらしさを十分に理解していないと、大事にできない時があります。よく見て、理解していくことが大事です。自分を尊ぶ見方をしましょう。自分を尊ぶことの大切さを見つけ出すことができれば、人を尊ぶことができるようになっていくのです。
 
自分を見る時、自分はそんなに良いものではなく、欠点ばかりが目につく、と思うかもしれません。
 
今まで大事に生きていなかったので、あなた自身に傷やゆがみや怪我もあるのかもしれません。

しかし、神は「心の打ち砕かれた者の傷をいやす」とあるように、治療をあたえ、回復をくださる方です。
 

自分はこんな人間だと否定的に考えてしまうかもしれません。

 
しかし、人の行動の90%は習慣によるものだそうです。自分自身を否定的に決めつける前に、何かをきっかけにいまの行動や考え方が習慣づいてしまったと思い直してみましょう。

自分を見つめていく時に、習慣化された否定的考え方を、肯定的な考え方に入れ替えていくことが必要です。
 
自分自身の価値を認め、尊びましょう。そして、自分を大事に見て、理解していきましょう。否定的に見えるものも、肯定的に受け取る習慣をつけていきましょう。そうすると、あなたは、自分自身が育っていく姿を見ることができるのです。
 
あなた自身が育ちはじめる時、あなたの周リの人もあなた自身を見て、育っていくのです。あなたの中にある、育つために必要な姿勢をみるからです。

大切なのは…成長させてくださる神なのです。
        新約聖書 第1コリント3:6〜7

 

 2009.3.24 ジーザスフェローシップ広島ハンナ会 辻 秀彦 牧師 より
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