2010 devotion ◆ 力戦奮闘 りきせんふんとう 力を尽くして、自分の能力をふるうこと。 力戦=全力を注いで努力する。 奮闘=気力を奮い立たせて戦う。 go home go to top 箴言14:26 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。 【今週のポイント】 良い動機は、きよい良心を意識することによってもたらされ、将来の安全を保証する。 1.(箴言14:26) 「主をおそれることにあり」 ⇒ きよい良心の領域のこと。 「力強い」 ⇒ あることに心を集中し続けること。 「信頼は」 ⇒ 良くなろうとする動機をもたらすもの。 「子たち」 ⇒ 次世代、家族、付き従う者たちのこと。 「避けどころ」⇒ 安全安心な場所。身を守る。健全さを保つ。 前向きな向上心を保つ努力は、目的達成のための努力につながる。 心がなえていては、努力を続けることはできない。 【敬聴と適用】 2.動機を取り戻す ヨハネ5:2〜9 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 1)どうして動機が失われたのか? 病人は、イエス様の質問に対していやされない理由を説明した。それは動機が失われている状態である。イエス様の質問は動機を探られたのである。 a) 問題点に意識がとらわれて、解決できない問題であると思い込んでいることが、動機を失う原因となっている。 b) 自分を良く見せるための言い訳である「一生懸命やりました」という自己義のポーズが動機を失わせている。 【敬聴と適用】 イエス様の質問に対して、あなたはどのように答えますか? 2)何が動機をもたらすのか? 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」というイエス様のことばが、病人の心に動機をもたらした。 a) イエス様が語られたことばは、霊でありいのちです。 (ヨハネ6:63)病人にいのちのことばを与えることによって、「良くなろう」という動機がもたらされた。 b) 起きて ⇒ 目を覚ませ。問題点から目を離せ。 床を取り上げ ⇒ 自己義を片付けよ。 歩きなさい ⇒ 今、持っている力で努力しなさい。力戦奮闘。 【敬聴と適用】(主題聖句を参考に) みことばを聞いても、良い動機がもたらされるか、もたらされないかの違いはどこにあるのでしょう。 ★動機付けとなるみことば ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 【内容観察】 【敬聴と適用】
go home go to top 箴言14:26 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。 【今週のポイント】 良い動機は、きよい良心を意識することによってもたらされ、将来の安全を保証する。 1.(箴言14:26) 「主をおそれることにあり」 ⇒ きよい良心の領域のこと。 「力強い」 ⇒ あることに心を集中し続けること。 「信頼は」 ⇒ 良くなろうとする動機をもたらすもの。 「子たち」 ⇒ 次世代、家族、付き従う者たちのこと。 「避けどころ」⇒ 安全安心な場所。身を守る。健全さを保つ。 前向きな向上心を保つ努力は、目的達成のための努力につながる。 心がなえていては、努力を続けることはできない。 【敬聴と適用】 2.動機を取り戻す ヨハネ5:2〜9 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 1)どうして動機が失われたのか? 病人は、イエス様の質問に対していやされない理由を説明した。それは動機が失われている状態である。イエス様の質問は動機を探られたのである。 a) 問題点に意識がとらわれて、解決できない問題であると思い込んでいることが、動機を失う原因となっている。 b) 自分を良く見せるための言い訳である「一生懸命やりました」という自己義のポーズが動機を失わせている。 【敬聴と適用】 イエス様の質問に対して、あなたはどのように答えますか? 2)何が動機をもたらすのか? 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」というイエス様のことばが、病人の心に動機をもたらした。 a) イエス様が語られたことばは、霊でありいのちです。 (ヨハネ6:63)病人にいのちのことばを与えることによって、「良くなろう」という動機がもたらされた。 b) 起きて ⇒ 目を覚ませ。問題点から目を離せ。 床を取り上げ ⇒ 自己義を片付けよ。 歩きなさい ⇒ 今、持っている力で努力しなさい。力戦奮闘。 【敬聴と適用】(主題聖句を参考に) みことばを聞いても、良い動機がもたらされるか、もたらされないかの違いはどこにあるのでしょう。 ★動機付けとなるみことば ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 【内容観察】 【敬聴と適用】
箴言14:26 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。 【今週のポイント】 良い動機は、きよい良心を意識することによってもたらされ、将来の安全を保証する。 1.(箴言14:26) 「主をおそれることにあり」 ⇒ きよい良心の領域のこと。 「力強い」 ⇒ あることに心を集中し続けること。 「信頼は」 ⇒ 良くなろうとする動機をもたらすもの。 「子たち」 ⇒ 次世代、家族、付き従う者たちのこと。 「避けどころ」⇒ 安全安心な場所。身を守る。健全さを保つ。 前向きな向上心を保つ努力は、目的達成のための努力につながる。 心がなえていては、努力を続けることはできない。 【敬聴と適用】 2.動機を取り戻す ヨハネ5:2〜9 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 1)どうして動機が失われたのか? 病人は、イエス様の質問に対していやされない理由を説明した。それは動機が失われている状態である。イエス様の質問は動機を探られたのである。 a) 問題点に意識がとらわれて、解決できない問題であると思い込んでいることが、動機を失う原因となっている。 b) 自分を良く見せるための言い訳である「一生懸命やりました」という自己義のポーズが動機を失わせている。 【敬聴と適用】 イエス様の質問に対して、あなたはどのように答えますか? 2)何が動機をもたらすのか? 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」というイエス様のことばが、病人の心に動機をもたらした。 a) イエス様が語られたことばは、霊でありいのちです。 (ヨハネ6:63)病人にいのちのことばを与えることによって、「良くなろう」という動機がもたらされた。 b) 起きて ⇒ 目を覚ませ。問題点から目を離せ。 床を取り上げ ⇒ 自己義を片付けよ。 歩きなさい ⇒ 今、持っている力で努力しなさい。力戦奮闘。 【敬聴と適用】(主題聖句を参考に) みことばを聞いても、良い動機がもたらされるか、もたらされないかの違いはどこにあるのでしょう。 ★動機付けとなるみことば ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 【内容観察】 【敬聴と適用】
箴言14:26 力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。
1.(箴言14:26)
「主をおそれることにあり」 ⇒ きよい良心の領域のこと。 「力強い」 ⇒ あることに心を集中し続けること。 「信頼は」 ⇒ 良くなろうとする動機をもたらすもの。 「子たち」 ⇒ 次世代、家族、付き従う者たちのこと。 「避けどころ」⇒ 安全安心な場所。身を守る。健全さを保つ。
前向きな向上心を保つ努力は、目的達成のための努力につながる。 心がなえていては、努力を続けることはできない。
【敬聴と適用】
2.動機を取り戻す
★動機付けとなるみことば
ローマ14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
【内容観察】