2009  devotion

採薪汲水 さいしんきゅうすい

自然の中で生活をすること、自然の中で質素に暮らすこと。

 

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イザヤ12:1〜3
その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。

人間の知恵は生活のより便利さを求めて。様々な文明の利器を創り出してきました。しかし、物質文明に執着した結果、創造主から与えられた自然の中の造られたものが本来もっているすばらしさを見失ってきてはいないでしょうか。同時に創造主なる方と私たちの関係が薄れてしまっていないでしょうか。

1.神の怒りが去り、慰められて感謝(1節)

●私たちは御怒りを受けるものだった(エペソ2:3)
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

神様は、神の被造物である私たちが、真理から迷い出てしまい、ご自分から遠く離れてしまったことに心を痛められました。

●神自ら、ひとり子を私たちのために差し出せれ、怒りをお去らせになった(ローマ9:22)
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

神怒りを鎮める方法は、罪のない方が罪人の代わりに罰を受けることでした。神は罪人の私たちには神の怒りから免れるすべがないことを知っておられ、イエス・キリストを私たちの身代わりに十字架にかけられ、ご自分の怒りをなだめられました。

●ゆるされたことへの感謝をささげる(詩篇51:17)
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

ダビデのこの祈りから、どんなことを思われますか。

2.主への信頼(2節)

●私たちと神様との関係は切れない(ロ−マ8:38〜39)
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

御子イエスのいのちを差し出せるほどに神に愛されている私たちは、決して神に見捨てられることはありません。私たちがどんなに悲惨にみえる状態であっても、です。

神様との関係の回復を得た私たちは、主への揺るがない信頼のゆえに、神への賛美が絶えず口におかれるのです。

主への信頼のことばを告白しましょう(これが主への賛美です)

3.救いの泉から水を汲む(3節)

●イエス様から与えられる水を求めましょう(ヨハネ4:14)
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

参考:なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(第1コリント12:13)

うわべだけでなく、私たちの霊を満たすことができる泉を見つけて、その水を飲みたいですね。

今の自分は、何を求めているのか、また何を飲んでいるかを考えてみましょう。

神様は、私たちが本来受けるべきはずの御怒りを去らせるために大切なイエス様を身代わりに十字架にかけられたほど、私たちを愛してくださっています。常に神様の前におかれている自分をわきまえるために、神様だけを見上げる時間を持ちたいですね。そして、救いの泉の水を汲んで、飲んでいく一週間といたしましょう。

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