2001 November Weekly Bible Message

 2001/11/4 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
(マタイ5:11、12)

永遠の報いを受けられる対応の仕方
〜 1.迫害を耐え忍ぶ 〜
 

 先週は、私たちが永遠の報いを受けるための対応のしかたを7つあげましたが、今週からそれらひとつひとつを学んでゆきます。
 今週は、その第一ポイントである「迫害を耐え忍ぶ」ことについて学びましょう。
迫害とは、不当な苦しみを受けることです。その原因は、ねたみや嫉妬があります。昔からキリスト教は、ねたみや嫉妬によって迫害されてきました。
日本では、今は国家的迫害はありませんが、もっと小さな迫害をクリスチャン生活の中で受けます。

(1)キリストのゆえに迫害を受ける。
1.入信する時に迫害を受ける。

 イスラム圏であるパレスチナでさえ3%のクリスチャンがいるにもかかわらず、自由諸国の日本では0.6%くらいのクリスチャンしかいません。それだけ日本はキリスト教に改宗しにくいと言えます。留学先で信仰をもった若い人々が帰国して、いざ教会に行き、洗礼を受けようとすると親や回りの人々から強く反対されます。日本の文化風習は、なぜかクリスチャンになりにくいのです。

2.クリスチャンとして、神を第一としてゆく時迫害される。
 たとえば、日曜礼拝を厳守しようとする時、学校や会社、又家族から反対がおきます。特に日本は皆同じことをしていないと嫌がられて、仲間はずれにされる傾向があります。
ある共産圏の国で、ひとりの詩人が、自分の書いた一編の詩のゆえに10年もの長い間強制労働に服せられました。
彼はこう書いたのです。
「お祈りするのは自由だけれど、でも…神様だけしか聞こえないように」と。
これが、秘密をもつ反社会主義的なものだと判断されたのでした。彼らは共産主義の上に神を置くことを決して許せなかったのです。
 これから忘年会の季節です。熱心なクリスチャンたちは、忘年会に出席しても決してはめをはずしません。それを回りの人々は面白くない人間だとか、つき合いが悪いと皮肉るかもしれません。これも小さな迫害と言えるでしょう。キリストのゆえにこういった非難にも耐えるなら、それは永遠の人生において報われます。天国に行った時、そういった辛さを神は知っていてかださり、必ず報いてくださるのです。
 しかし、人生を荒波立てず穏便にと、人を恐れて神を第一とせずに過ごしてゆくなら、永遠の報いは余り期待できないでしょう。
 それゆえ、自分の人生は第三者の意見に左右されるべきものではなく、神の前に自分で決定してゆくべきものです。

(2)クリスチャン同志からの迫害
 キリスト教の中でも各々の派があり、その分派同志で争って迫害し合うことがあります。それは世の中の迫害より残酷だったりします。例えば、カトリックは昔キリストの名においてプロテスタントの人々を殺してゆきました。さらに熱心な女性は魔女としてむごい拷問の上、火あぶりにされました。それが今も民族闘争として残っている所があります。
 又、ペンテコステも今から30年くらい前には、キリスト教ではなく異端とみなされ迫害されました。しかし、今や世界中の成長し続けている教会は、ほとんどがペンテコステ系であり、そうでなくても聖霊の働きを認めている教会です。それゆえ、誰もペンテコステ系はキリスト教ではないと言えなくなっています。
それで今はこういった分派からの迫害はありません。
 しかし、一つの教会の中でのクリスチャン同志の迫害があります。それは、迫害の主な原因である「ねたみ、嫉妬」からくるいじめです。しかしこうしたいじめに会うことは幸いです。教会は罪のない完全な人々の集まりではありません。各々が弱さをもっています。しかしそのいじめすらも、永遠の報いが与えられるのですから感謝しましょう。幸いなことなのです。もちろん、ねたむよりもねたまれる者になりましょう。ねたまれても許してゆけるのは、永遠の報いがあるからです。

 このようにみてゆくなら、日常生活で迫害に直面することは少なくないはずです。もしあなたが、そういった状況であまりに辛いと思われているなら(1ペテロ2:19〜23)を読んでください。
 迫害を受けるということは、キリストと同じ歩みをすることだとあります。つまり、後の世においてはキリストと同じように復活し、神の右の座について、後の世を支配する神の王位を継ぐ者となるのです。
迫害に耐えているあなたは、まちがった歩みをしていません。キリストと同じ道を歩んでいると確信してください。不当なことを耐え忍ぶからこそ報いがあります。
(1ペテロ2:23)に、この忍耐の力がどのように湧いてくるかが書いてあります。
 もしあなたが不当な苦しみを受けた場合、怒ってつぶやき、仕返しをしたらその報いはなくなります。しかし、少しでも忍耐して言い返すことばを控えてゆくなら、少しは報いが残るかもしれません。
 イエス様は忍耐する時、「正しく報われる方にお任せになりました。」とあります。これが忍耐する時の心構えであり、忍耐力が湧いてくる秘訣です。
神が永遠に、すべてを正しく報いてくださるのです。

 今までいろいろ考えてきましたが、迫害のないクリスチャン生活は、永遠の報いが与えられるチャンスがないとも言えます。むしろ迫害してくる人がいたなら、チャンスだと感謝しましょう。
 今の日本の教会が弱いのは、迫害を受けていないからだとも言えます。

最後に(ヘブル11:24〜26)を読みます。
 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。


   



2001/11/11 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは素晴らしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。                         
(ルカ6:35)

永遠の報いを受けられる対応の仕方
〜 2.自分の敵を愛する 〜
 

 地上で報われることばかりを追い求めて行動すると、失望、矛盾、不信仰などが湧き上がって来ます。そのような状態の解決策は、永遠の報いから目をそらさないことです。今日は、永遠の報いを得るために自分の敵を愛しなさい。そうすることで天に宝が蓄えられていくのだということを学びましょう。
 では永遠の報いにつながる、敵の愛し方とはどういうものなのか、みことばから神様のお考えを見ていきましょう。

<愛すべき相手 (ルカ6:32)>
 自分を愛してくれる者を愛すのは当然の行為であって、天に宝を積むようなものでも、報いとして天から与えられるような行為でもないということです。ここで『愛』という言葉が4回出てきますが、これはすべて同じギリシャ語が使われています。
 ギリシャ語では『愛』を表す言葉に、エロス(肉体的な愛)、フィリオ(精神的、肉親的な愛)、アガペ(神の領域の愛)の3種類あり、32節では4回ともアガペが使われています。ではどうして罪人がアガペの愛を持ち得るのでしょうか。
 愛とは本来、報いを期待するものですし、報いを期待しない愛は存在し得ません。なぜなら、愛とは報いを期待しなければ働かないものだからです。愛とは人格同士の相互関係によって成り立つものですから一方的な愛というのは愛とは呼べません。
 ところで神の愛とはどのようなものなのでしょう。神は敵対する私たちを罪人や敵としてではなく、友としてまた、子として愛を注いでくださいました。敵を愛する愛こそが神の愛です。では、神は何の報いも望まれずに、むなしく御一人子イエスを十字架にかけたのでしょうか。決してそうではありません。人類が神の愛を信じること、神を愛し答えてくれることを期待されたのです。神でさえ、ご自分の犠牲に対する報いを期待しておられるのですから、報いを期待しない愛はありえません。
 みことばにある罪人が持つアガペは身内のために犠牲を払う、または命を捨てることを意味します。マフィアでさえ組織のために命を捨てます。神も私たちを身内と思い命を捨ててくださったことを思えば、ここでアガペが使われていても納得できます。
 罪人でさえ身内のために、命をかけるほどの決断をします。クリスチャンとして神の愛をあかしする愛し方とは、敵を含む身内以外の人に対し、身内と同様の犠牲を払って愛し、信頼していくことです。天に宝を積む愛し方は、敵を愛すること以外にはありえません。

<とるべき態度 ルカ6:33>
 自分に良くしてくれる人に良いもので返したとしても当然のことで、クリスチャンとしての行動とは言えません。たとえば、正当な評価をしてくれない上司のもとで働いていたとします。当然のように不満はおこりますが、不当な評価程度の仕事ではなく、できるかぎり精一杯仕事をしていくことで上司の評価が受けられなくても、天では報いがあるのです。これがクリスチャンのとるべき態度です。
<報いのないところに天の報いあり ルカ6:34>
 返してもらうつもりで貸すのは当然のことですし、目減りして返してもらうのを知って貸す人はいません。けれどもこれでは天の報いは期待できません。
 たとえばAさんがBさんに物を借りにいきましたが、Bさんが貸してくれなかったとします。数日後BさんがAさんに物を借りにいくと、先日貸してくれなかったから貸さないと言われてしまいました。これは復讐です。
 また、AさんがBさんに物を借りにいきましたが、Bさんは貸してくれませんでした。数日後BさんがAさんに物を借りにいくと、先日貸してくれなかったが、私はクリスチャンだから貸してやろうと言いました。これは憎悪です。
 クリスチャンとして気をつけるべき点はここにあります。相手に借りがなくても、みことば通りに行動しようと恩着せがましく貸してしまうことがあるのです。残念ながらこれも天で報われない貸し方です。相手から報われない貸し方こそ天で報われるのだと知りましょう。

<なぜ敵を愛することは難しいのか>
 今まで見てきたことはすべて敵に対して愛し、善い行いをし、貸すことで天で報われることを示していました。ところが、これは難しいことだと感じます。敵とは、自分に害を及ぼす相手をさす言葉です。そんな相手に善いことをしていくことは容易ではありません。 
 しかし、神が、クリスチャンの愛のレベルはそうしていけるものだと言われます。(ルカ6:36)敵を愛することができなければ、御国を相続するものとしての知恵と力はないということでしょう。
 わかっているのに難しいのはなぜなのか、自分のこころを探ってみる必要があります。敵に対して私たちは、どの様な考えを持っているでしょうか。
 敵は自分に善いことを決してしてくれないと知っています。
 自分の善い行いは正当に評価されませんから、かえって害を受けるのではという危険を感じています。つまり難しく感じる根底には、敵から正しい報いが受けらないという不信感があります。
 ここでしっかり知っておくべきことは、良いものが返って来ないからこそ敵であるという点です。報いが返って来ないからこそ天に報いが蓄えられるのです。このことに期待し、こころを向けていなければ、敵を愛することなど不可能でしょう。この世は永遠の世界への出発点であり、永遠への土台となります。この世での損失は天において報われるのですから、気に病む必要はありませんし、むしろ感謝すべきことに変わります。まず私たちは、敵を愛せるか否かではなく、永遠の存在である自分の保証をどこに置くかを見定める必要があり、保証していける生き方ができるのが現世なのです。

<神様が愛される理由 第一テモテ2:4>
 神様が罪人と関わりを持たれる理由はただ一つ、すべての人が救われ、真理を知るためです。私たちが敵を愛するとき、このみことばと照らし合わせて考える必要があります。敵に貸すことで、さらなる罪を重ねるなら敵を滅びに向かわせることになり、天の報いはありません。愛すること、善い行い、貸すことすべてが、救われることにつながらなければならないのです。

<神は誘惑されない ヤコブ1:13 >
 神は滅びにいたる誘惑は決してもたらすことはありません。誘惑はサタンからくるもので、神が許可されたのではなく、あなた自身が許可したのです。神が許可なさるのは、信仰を試す時の災いのみで、罪の誘惑は許可されてないのです。ですから、敵が罪に陥るような愛し方は間違っています。
 敵は私たちを利用して罪の泥沼の深みにさらに進もうとするでしょう。その時、偽られた生き方に光をあてるのがクリスチャンの愛の行為であり、そのために必要があれば、貸し、助けていくことが大切なのです。
 見きわめていくことは難しいことですが、常に祈り、知恵を神に求めて行動していきましょう。そして、いつも自分の本心がどこにあるのかを吟味していくことが必要です。私たちの本心は、いつもイエス・キリストのみことばにあるのですから。

   




2001/11/18 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイ1:1〜4)

永遠の報いを受けられる対応の仕方
〜 3.謙虚な善行は報われる 〜
 

 人生において私たちは善行に対し報われないという現実があることに矛盾を感じ、心が傷つき空しさを覚えることが多くあると思います。しかしこの世は罪の世界ですから、善行に対し報われないのは当然なのです。
 そんな中でクリスチャンはどうして神の前に正しく生きることができるのでしょうか? それは永遠の世界において報われる人生だからです。そのために私たちはこの世の人生で一生懸命働くことができるのです。きょうは永遠の報いを受けるための謙虚な善行についてお話したいと思います。
 聖書の言う謙虚な善行とは神の目を意識して行う善行のことです。
 人々から報われるのを望むのではなく隠れたところで見ておられる神様が報いてくださることを信じ期待して施し(善行)をする時に生まれるものです。
 それではどのような点で神の前に施しをしていったらよいのでしょうか。二つの点で考えてみましょう。

 
施 し と は 
(1)貧しい人に差し伸べる援助の事です
 その貧しさとは生活必需品(人間として尊厳を守ることのできる最低のもの)さえ持つことのできないほどのものであり、その方々に自分の持っているものの中から分け与えることです。
 それは与えるものにとっても必要なものなのですから、必ず犠牲と痛みを伴うものです。
 施しについての具体的な記述が(使徒9:36〜40)にあります。ドルカスの下着や上着(生活必需品)をつくって施したのです。やもめ達にとってドルカスの存在は神の使いかと思わせるほどの大きな期待と感謝の心を持たせるものでした。
 ただ単にものを与えたと言うのではなく困っているやもめ達を見て愛を目に見える形としてあらわし、世の中で軽んじられているやもめ達に愛のシャワーを注いだのです。
 このようなドルカスの施しこそ天に宝をたくわえるものです。
 それでは実際に日本社会において私たちにできる施しにはどのようなことがあるでしょうか。
 私たちの教会には体が御不自由で一人で教会に来ることのできない方々があります。その方々のために時間と労働を犠牲して送迎をして差し上げること、また遠方から来られる方はバス代がとても大きな負担となりますので少し遠回りをしてでも車にのせて差し上げること、それらの行為が神の前で喜ばれる施しとなります。
 又、心が病んでいて胸の内にある、様々な思いを吐き出したいと思っている方の為に時間を犠牲にして愛と忍耐を持って聞いてあげること、これも施しです。
 私たちがやり辛い嫌だ、と思う時、その思いを乗り越えて犠牲を持って施しをする時、それは天に宝をたくわえることになるのです。

(2)善行に対しお返しを期待しない(ルカ14:12〜14)
 日本文化の中では、善行に対し、お返しをするということが定着しています。お互いに親切にし、お返しをし合う関係を持つことは悪いことではありません。しかし、それは天に永遠のいのちをたくわえることにはなりません。
 親切にされてお返しをしたくてもできない人に施しをすることこそ、天に宝をたくわえることになるのです。
 私たちが善行をして人からお返しを期待するのは自然な心の動きです。しかし、その思いを持ち地上で報われてしまうと、天においては報われないのです。
 ですからこの地上で報われることは忘れましょう。
 そうすることで、私たちクリスチャンは、かえって人生の楽しさを味わうことができるのです。そのうえ、隠れている所で見ておられる神様が、天において報いてくださるのですから、これほど素晴らしいことはありません。

 私たちが、やり辛い嫌だ、と思う時こそ、施しをする多くのチャンスが備えられているのです。
 天に望みをおいて、神様に喜ばれる施しに勇気を持ってチャレンジしていきましょう。

   



2001/11/25 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
(ヨハネ12:26 )

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その火がそれを明らかにするのです。というのはその日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
(第一コリント3:12〜14)

永遠の報いを受けられる対応の仕方
〜 4.キリストに仕える 〜
〜 5. クリスチャン生活を全うする、あきらめない 〜
 

(4) キリストに仕える(ヨハネ12:26 )
 イエス様に仕えることは、天に宝を積むことで、天の父が報いてくださいます。理論的にわかっていても、この世でも報われたいというジレンマを感じることもあります。そこでイエス様に仕えることについて理解を深めていきましょう。
 『仕える』とは心の形を実際的な行動として表していくことを意味する言葉です。つまり具体的に言えば、執事の仕事だといえます。執事は主人ができない実際的な仕事を代行する役目です。ですから私たちがイエス様に仕えるというのは、賛美を捧げるだけでなく、イエス様が成されようとされていることの実際的な助けをしていくことにほかなりません。

<仕えるとは? 2つのポイント>
a.(マタイ25:34 〜40)
 『これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(40節) これがイエス様に仕えることです。私たちは天におられるイエス様に直接的に仕えることはできません。でもこの世でイエス様の兄弟と呼ばれる人達や、社会的に軽んじられ、あわれみが必要な人々に仕えることがイエス様に仕えることになるのだと、このみことばからわかります。
 ところが最初の動機があわれみからのものであっても、自分中心に考えて行動する時、仕えることはできなくなります。たとえば、年老いた母の気分転換にと旅行を計画したとします。老人ですから若い人のように早く歩くことができません。何度か電車に乗り遅れそうになって、旅行を計画した子供達は母にいらだってきました。動機は母を喜ばせたいという純粋なものだったのに、子供達の自己中心的な考えが、母へのいたわりを忘れさせ、仕える行動が取れなくしてしまったのです。
 あわれみをもって仕えるとは、不自由を感じている人の気持ちを受け止めて、助けを必要としている人のペースに自分を合わせていくことです。自分のできるペースに人を合わせるのは一見仕えているようでも自己中心的行動です。
 また『小さい者たち』とは、ギリシャ語で、まだ一人で歩けない1才前後の幼児を指す言葉です。これくらいの幼児は、自分で身の回りのことも、多くの危険から自分を守ることもできませんし、無知で、理解力に乏しいものです。けれども幼児の良さは純真に何でも受け入れられるところです。
 みことばの『小さい者たち』は実際的な幼児も含めた、信仰の面でまだまだ一人では決断や判断ができない人々や、信仰を持ち始めても肉の欲に負けやすい人々のことなどを表しています。聖書を深く理解している人は、このような人々がみことばを理解できないことに対してイラだちをおぼえたり、無関心になったりすることがありますが、これも自己中心的行動です。わかる立場からでなく、わからない立場からのアドバイスが必要です。 小さい者たちに仕えるとき、私たちは忍耐強く、あわれみを持って接していかなくてはなりません。時には重荷に感じることもあるでしょう。しかし、あわれみを持って積極的にすこしづつでも関わり、仕えていこうとするとき、イエス様に仕えることになるのです。

b.(ヨハネ4:31〜34)
 5人の夫と結婚した後、結婚せずに同棲をしているという社会的にさげすまれている罪深い女性と会うために、イエス様はサマリアの地を通られました。彼女はイエス様から生ける水の話を聞き、救われたのです。その時、弟子たちはイエス様の食事を整えるために出かけていましたから、彼女が救われたことを弟子たちは知りません。
 弟子たちは肉体の食物をイエス様にさし出しましたが、イエス様は「あなたがたの知らない食物があります。」と言われ、すでに満足されている様子でした。では、イエス様は何に満足されていたのでしょう。(34節) にある通り、この女性が救われたことでイエス様は満足されたのです。罪人を救うことが天の父のみこころで、そのためにイエス様は来られました。こころの満足感は、肉体の空腹感を満たします。
 天におられるイエス様のお食事を整え、満足していただくような、給仕の役目を私たちクリスチャンは持っています。なんらかの宣教活動、福音を伝え、イエス様をあかししていくことがイエス様のお食事を整え、給仕することになるのです。

(5) クリスチャン生活を全うする、あきらめない
                  (第一コリント3:12〜14)
 ここで重要なのは天で報われる信仰を持ち続けることです。パウロは家を建てることになぞらえて、地上の信仰生活の在り方を示しています。
 家に土台が必要なように、人生にも土台が必要です。家はしっかりとした土台を基に建てられます。同じように私たちもイエス様の教えを土台にしっかり据え、自分の人生を建て上げていくのです。土台にふさわしい家を建てるのが望ましいのですが、みことばに、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるとありますから、必ずしも立派なものが建つとは限らないようです。
 この会堂は二十数本の鉄の杭が土台に据えられて建っています。土台は、建屋と同額か、それ以上のお金をかけて造るのが普通です。この土台に、わらや木造の建物が建ててあったらどうでしょう。土台をしっかり据えた意味がありません。キリストを人生の土台に据えたということは、大きな犠牲を伴う決断です。それほどまでの決断をした理由は、立派な人生を建て上げたいからではないでしょうか。
 さて私たちが、わら、草、木、宝石のように火、つまり試練に耐えられないような信仰しか持っておらず、イエス様の土台の上に、これらの家を建てていたとしたらどうでしょう。燃やされても土台は残りますから、天国にはいけます。しかし終りの日には、すべて燃え尽きて、何も残らず天の報いはありません。 
 救いは恵みとしていただけても、天の報いは、この世の歩みで積んでいくしかないので、報われる信仰が必要なのです。天の御国では信仰に応じて段階があります。御国に住める者、出入りする者、入ることのできない者です。(黙示録21:24〜22:5) これは神様が区別されたのではなく、私たちの地上の歩みによって与えられた報いの違いです。せっかく立派な土台を頂いたのですから、ふさわしく建て上げていきたいものです。
 (マタイ24:9〜13)で世の終りについてイエス様が説明しておられます。最後まであきらめず、キリストという土台にふさわしい家を建て上げていくものは救われ、完成させることができるのです。一度しかない人生です。最高のものを目指して歩んでいきましょう。
 (第一テモテ6:12) にある通り、永遠のいのちを獲得するために、試練と戦い続ける必要があります。その戦いが消極的であれば、防衛的戦いですが、神様は、勝利することをあきらめず勇敢に戦うことを願っておられます。それはギリギリの勝利ではなく、永遠のいのちを獲得する圧倒的な勝利です。この勝利こそ神様が私たちを救ってくださった目的なのです。
 ですから、私たちはこれからも迫害に耐え、敵を愛し、謙虚に善行を重ね、小さき者に仕え、あきらめず大勝利を目指し、歩んでいきましょう。

 

   



  

JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA