2001 December Weekly Bible Message
2001/12/2 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には努めがゆだねられているのです。
(气Rリント9:17)つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。
(テサロニケ1:6,7)永遠の報いを受けられる対応の仕方
〜 6.自発的に喜んでする 〜
〜 7. 神にゆだねる 〜
今回、シリーズで7つのポイントから学んでいますが、今日はその最後のポイント6番目と7番目を学びます。
神を信じるとは「永遠」を信じることであり、死後の世界を信じることです。つまり、永遠の世界のために、この現世の人生があり、この現世の人生が土台となって、永遠の世界があるということを信じることです。この死後を考えるのが宗教であり、現世のみを考えるのが心理学、哲学です。
しかし、その心理学、哲学も、最近では宗教を考えざるをえない状況になってきています。神は永遠という計画をもって、あらゆるものを創造されました。その中の一部が私たちです。もし永遠について何も考えないで生きるなら、死が近づく程むなしくなってゆき、正しく清く生きる価値がわからなくなってしまいます。
「神がおられる」「永遠が存在する」という観点から見てゆく時、私たちの人生のあらゆる矛盾は解決されてゆくのです。<(6)のポイント〜自発的に喜んでする〜>
(气Rリ9:17)で、パウロは自分は伝道師の努めの肩書きを持ってはいるが、努めだからというのではなく、自発的に喜んでしているということを書いています。これが大切なポイントです。努めとしてではなく、自発的に喜んでしてゆくなら、神は必ず報いてくださいます。人は各々、その立場によってするべき努めがあります。(学生は勉強が努めでしょう。)
あなたが「自分の人生は報われていない」とつぶやくのは、あなた自身が自分の人生をつまらないと思っているからではないでしょうか。人生に対する拒絶感があると、義務的に人生を生きているだけなので、報われることはありません。人間関係も、義務的にしか思えなかったら、そこには何ら喜びも自発的な働きがいもなくなってしまうでしょう。
「自発の心」を、もし失ってしまったら、決して良い結果を生み出すことはなく、その人生に対する神様の報いも何もありません。義務や努めは、して当然のことなのですから報いはないのです。神の報いは「結果」ではなく、いかに自発の心でしたかに対する報いです。〈自発の心が湧いてくるために〉
自発心が湧いてくるための重要な要素は、努めを与えてくれ相手との人間関係です。親子の関係に例えるなら、親子の関係が健全であれば子供は親を助けたいと、自発的に喜んで手伝うようになります。=4つの心の持ち方(心理学)=
1.私はOk、あなたはダメ
自分が誉められないと嫌。
2.私はダメ、あなたはOk
控えめ。誉められるほど悲観的になる。謙遜に見えるが自分に
対する基準が高いということであり、本心は高慢。
3.私はダメ、あなたもダメ
排他的。すべてを否定的にとる。
4.私はOk、あなたもOk
自分のみならず、相手のありのままの姿を受け入れられる。4が最も、自発的な心が湧いてくる状態です。
自発的な心が最も自然に湧いてきやすい関係は「私はOk、あなたもOk」と思える人同士の関係です。相手の基準を気にせず、又自分の基準に従わせず、各々の基準を生かし合うことができるからです。又、そういう人から努めをもらうと、成績がたとえ悪くても一生懸命やっていると評価してもらえるので、自発的に喜んで務めることができます。
イエス・キリストは、罪の奴隷となって苦しんでいる私たちの気持ちを、しっかりと分かってくださる方です。それゆえ、私たちクリスチャンが望みをもつことができ、この方に喜んで仕えてゆくことができます。<(7)のポイント〜 神にゆだねる〜>
(テサ1:6,7)テサロニケの教会の人々は、キリストに忠実な生き方をしていたゆえに、社会的に迫害を受け続けました。
身に覚えのないことで、不当な目に会わされることは大変辛いことです。世の中には、不当な扱いを受けて、いくら正したくても正すことができず泣き寝入りをせざるをえないことがたくさんあります。この地上では報われないことが多いのです。
こういう時、私たちはどういう対応をしたらよいのでしょうか。イエス・キリストが再び地上に来られ、この世のすべての人々が神の御前に裁かれる最後の審判の時に、神はすべての仕業に応じて報いてくださいます。それゆえ、その時まで報われないことがあっても、希望を持ち続けることができます。
(ルカ16:25)に「ある金持ちと貧しいラザロの話」がありますが、ここで神の考え方は、生前いいものを受けたなら死後苦しみを受け、生前苦しみを受けたなら死後慰めを受けるというものです。
人生は楽するためではなく、働くための時間です。働くべき時間の時に働かなかったら、その働きは必ず別の時に働かなければならないということです。これは公平な考え方です。苦労によって生み出されるものに、良いものがあります。
しかしこれら7つのポイントが、理屈ではわかってもなかなか実行できないという方に、次の実話を教訓として話します。〜千葉周作の話から〜
ある晩、彼は弟子たちを連れて舟で夜釣りに出かけました。しばらく夢中になって釣りをしてからふと気がつくと、回りは真暗で自分たちが一体どのくらい沖に来てしまったのか、どちらに陸地があるのか見当もつかなくなっていました。焦った彼は弟子たちにありったけのたいまつを全部つけさせますが、何一つ陸らしき目印は見えず、ついにはすべてのたいまつが燃え尽きてしまいました。
そして、何一つ明かりが見えなくなった時、彼らは黒い大きな影が横たわるようにのびているのを発見し、無事に陸地にたどり着くことができたのです。
彼が後日その話を知り合いの漁師にしたところ、その漁師は笑いながら「私たち漁師は、釣りをする時こそたいまつをつけますが、方角を見定める時はたいまつを消すものです。そうしないと、たいまつの光が遠くの山々の影を消してしまって、かえって迷ってしまうものなのですよ。」と教えました。
つまり、目の前に大きな光があると、遠くにある弱い光が見えなくなってしまうのです。
この世の光が大きく足下を照らすような、今さえよければという人生を送っていると、永遠という光を見ることができなくなります。それゆえ多くの人々が、永遠を信じることができないのです。存在していても見えないからです。
見えない世界があるということをふまえて、私たちは人生を送る必要があります。そして、もっと現実的に永遠の世界を信じているなら、この7つのポイントをしっかり心に留めて生きていきましょう。〜7つのポイント〜
1.迫害を耐え忍ぶ(マタイ5:12)
2.自分の敵を愛する(ルカ6:32〜36)
3.謙虚な善行(マタイ6:1〜4)
4.キリストに仕える(ヨハネ12:26)
5.クリスチャン生活を全うする、あきらめない
(气Rリント3:10〜14)
6.自発(气Rリント9:17)
7.神にゆだねる(テサロニケ1:6〜7)
2001/12/9 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
(ルカ2:11)イエス様の誕生と私たちの存在
このみことばは、クリスマスに必ず用いられる箇所です。ローマの圧制に独立を妨げられていたイスラエルに、旧約時代からの約束である救い主がお生まれになったという、喜ばしいニュースが伝えられた場面です。
社会情勢も経済も、すべてにおいて不安定さを感じる現代です。その中で自分の存在を見失わず、迷いや不安な心を取り去るイエス様の誕生についてお話していきましょう。<私たちの存在意義〜きょうダビデの町で〜>
ダビデの町とは地上に実在する場所です。そして救い主なる神は系図ではダビデの子孫ですが、肉体を持つために処女の胎を通してお生まれになられました。
神が地上に来られることは旧約時代にも度々ありましたが、それは肉体を持たないかたちで、人々の前に姿をあらわされるというものです。(ダニエル3:25,創世記18:2etc.参照)
この肉体は聖書で魂の幕屋と呼ばれ、幕屋を持たれるとは、ある程度、定住することを意味します。
世の中が混沌としている現在、自分の存在を位置付けることが難しくなっています。けれども神は肉体をもって地上に住まわれました。だからこそ私たちにも存在の意義があるということを(第一コリント8:6) から見ていきましょう。すべてのものは父なる神から出ていて、すべてのものは主によって存在していると書かれてあります。神から出たものであるから私たちの存在に意義があります。そのあかしが、神が肉体を持って、誰にでもわかる形で現れてくださったということです。
なぜなら、神は、意義のない無駄なことをなさらないからです。
ですから、私たちの存在は偶然や間違いでは決してなく、どんな境遇に生まれ出ようと、存在する意義があって生まれてきたと、はっきり言えるものなのです。浜名湖でペンテコステの集会があった時のことです。浜名湖に行くのは、その時が初めてでした。高速道路のような大きな道は、迷うことなく車を走らせることができましたが、だんだん道が狭くなり、目的地のホテルがいつまでたっても見えてこないと不安になってきました。そんな時、ふと前の車を見ると、この集会の世話役である村上先生が乗っておられたのです。その時、道は間違ってなかったという確信と安心を感じました。
同じように、イエス様が肉体をもって地上にお生まれになったことから、私たちは、生まれてきて良かったのだと、イエス様を道標として、確信することができるのです。生まれ方や境遇は問題ではありません。この生まれてきたことに意義があるのです。
イエス様は処女から生まれ、社会的には不義の子と思われるような状態でしたし、旅の途中、宿屋ではなく馬小屋で生まれられ、その状態になんら意義を見付けられない状況でした。しかし、神のご計画のうちに、地上に来られたのです。現実的な境遇によって存在の意義を見つけられない時、このようにお生まれになったイエス様を思い出し、生まれてきたことに間違いはなかったのだと確信していきたいものです。<存在の目的〜あなたがたのために〜>
イエス様が生まれられたのは、わたしたちのためという、存在の目的を持たれていました。これを私たちに当てはめるとどうなるでしょう。私たちは、イエス様のために生まれてきたということになります。
(第一コリント6:13)を見てみましょう。食物と腹の関係を考えると、食物は食べられるために存在し、こなすための腹がなければ存在目的はありませんし、腹もこなすべき食物がなければ存在目的はありません。どちらの存在も支えあっています。
同じように体は不品行をして汚していくためにあるのではなく、主なる神のためにあるのだと続きます。そして、主もまた体のために存在されていると書かれています。神様だけ存在していても意味がありません。創造主と被造物が相互関係をもって支えあっているのです。私たちがいるからイエス様は生まれてくださいました。神様の存在だけが大切なのではなく、私たちの存在も同様に大切なのです。能力や働きの差はあります。でも、存在そのものはどちらも大切です。こんな話があります。一匹の蛇がいました。ある日、しっぽが頭に「頭よ。あなたはいつも私を従えて歩いているが、たまには代わってくれないか。いつも、あなたのいいように振り回される人生はむなしい。」と言いました。すると頭は「いつも、私は、あなたの事を考えて動いているのに、何を言うのです。あなたには見るべき目も聞くべき耳もないじゃないですか。」と答えました。ところが、しっぽは引き下がりません。そこで、頭はしっぽの言う通りにしてやることにしました。意気揚々としっぽが先に立って歩き始めてまもなく、気が付くといばらの中に入り込んでいたのです。体は傷付き、身動きがとれなくなったしっぽは、途方に暮れました。そこで頭は、しっぽに、いばらを抜け出す道を教え、どうにかそこを脱出しました。ところが今度は大きな岩に行く手を阻まれ身動きできません。先ほどと同様にまた頭がしっぽにアドバイスし、そこを抜け出しました。そんなことが何度も繰り返されたある日、しっぽは火の中に入り込んでしまいました。頭はなんとか脱出しよと試みましたが、時すでに遅く、頭もしっぽも焼けて死んでしまいました。 存在の重要性をはかりにかけると、度々このような問題が起こります。神様と私たちのどちらが大切かではなく、どちらも大切であり、どちらも支えあっているのだということを忘れてはいけません。イエス様にとって私たちが大切だから「あなたがたのために」と書かれているのです。
<存在の価値〜救い主がお生まれになりました〜>
イエス様は救い主という存在価値を持ってお生まれになりました。救い主という存在は大きくて価値が十分に認められる存在です。
では私たちの価値はどれほどのものでしょう。 (エペソ1:5)に『神はイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた』とあります。神様の目から見た私たちの価値は、愛すべきわが子という価値です。だれかが、あなたを捨て去るように離れていったとしても、あなたは神の子とされるために定められ、生まれてきたという価値は変わりません。それは容姿、能力、などに関係なく、いつまでも変わりない価値を神は見出だしてくださっているのです。存在するものにとって愛されることほど存在の価値を位置づけるものはありません。これはまだ赤い公衆電話があった頃の話です。ある父子家庭の家に育った、知的障害を持つ女の子がいました。女の子は施設に預けられ、毎日、公衆電話を使って、お父さんの声を聞くのを楽しみにしていました。この施設は18才になると自立して施設を出なければならない規則があり、この子もその年が近づいてきました。先生方はこの子の自立のためにとはいえ、難しいことは覚えられないだろうから、せめてお金の価値を教えようと、小銭を使って、1円玉から金額順に並べていく訓練を始めました。ところが、施設を出る日が来ても、女の子は一番高く大切な小銭は100円玉でも500円玉でもなく10円だといい続けました。先生は出ていく女の子に「どうして10円が一番大切なお金なの?」と聞いたところ、女の子は、にっこりと微笑んで「お父さんの声が聞けるから。」と答えたのでした。女の子がお父さんに愛されていることを確認できる唯一の方法は赤電話です。10円こそ愛される喜びを感じられる大切なものだったのです。
人には愛される以上の幸福はありえません。私たちは神に子供として愛していただける価値ある存在として生まれてきました。これ以上の幸せがあるでしょうか。ですから(ルカ2:11)のみことばをこのように、ご自分のために読み直し、宣言しましょう。
『今この世に、主イエスのために、愛される神の子として
生まれた。それが私(ご自分の名前)です。』
2001/12/16 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) 「見よ、処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
(マタイ1:23)イエス様の誕生その2
〜インマヌエルなる神〜
ふつうどんなに素晴らしい神の器に対しても、このような言い方をしません。
「あの方と神は共におられる」と言っても、「神が私たちとともにおられる」とは言わないでしょう。しかし、イエス様とともに生活した人々はイエス様を見てインマヌエル、「神が私たちと共におられる」と告白したのです。
これは本当に偉大な啓示であり、奥義です。
全宇宙の創造主であり支配者なる方が、こんなに矛盾の多い罪に満ちた地上に来られ、しかも留まってくださるとは、何という驚きであり、又素晴らしいことでしょう。
しかし多くの人は、神が共におられると都合が悪いと考えます。堅苦しい、つまらない、リラックスできないと思うからです。
クリスチャンは神をよく知っているので、そのようには思いません。むしろ、一生共に歩んでくださることは素晴らしいと思います。それは、助けてくださるというだけでなく、もっと深い意味があるからです。<インマヌエルなるイエスが来られた理由>
十字架につき、私たちの罪をあがなってくださるためとクリスチャンは皆、言うでしょう。確かにそうです。そして何かを与えようとされました。何でしょうか。それは永遠のいのちですが、(ガラテヤ5:1)には別の言い方で現わしています。「自由を得させるため」です。<自由がふさわしい人>
それでは、この自由はどういう人間にふさわしいものでしょうか。人殺しや悪いことばかりする人々や、まだ未熟な幼い人たちにはふさわしくありません。それは、人格的に成長した人々にふさわしいものです。
自分中心に好き勝手にしたいための自由は、本当の自由ではなく、「放縦」にすぎません。
聖書では、「悪を捨て去り、善に親しむ」ことのできる分別を持った強い意志を持っている人格者こそ、自由をもつにふさわしいと言っています。
(气yテロ2:16)でペテロは、クリスチャンは自由人として行動せよと言っています。悪を行う者たちは本当は自由人ではなく、罪の奴隷です。私たちが成熟した自由人となるためには段階があります。<自由人となるための段階>
(1)相続人の子どもとして、養育係のもとにおかれる
(ガラテヤ4:1〜2、3:23〜24)
決められた規則に従わないとなりません。この時期は躾の時期なので、後見人や管理者の下で、厳しく制限された範囲内で生活させられます。私たちは天国の相続人です。時期が来るまでは、律法を嫌がる人がいますが、躾がされないと自分で善悪の判断がつけられるようになりません。それでは天国にふさわしい相続人にはなれません。(2)親が直接教える
後継ぎの主人としての人格形成がなされる時期です。
リーダーシップをとってゆくための心の教育が中心となります。今まで執事やメイドから躾けられてきたことを実際に自分が応用して善悪の判断がきちんとできるかどうかの自立の段階に入りこの自立のために、判断できる自由が与えられるようになり、執事達は注意しなくなります。
そして例えばお客さんが来られている時に、知らずに部屋に入っても、父親の表情を見るだけで、静かに歩くべきだと判断し、自分でそのようにふるまえるようになるのです。<イエス様の役目>
イエス様は、私たちが自立できるように自由を与えるために来られました。それは、執事や管理人としてではなく、「父親」としてやって来られたのです。そして、見守ってくれる父親が与えてくれた自由の中で、失敗や成功を学びとりながら、もっと積極的に、もっと秘められた才能を引き出すことができるようになります。
そのためにインマヌエルなるお方、「神が私たちとともにおられる」と呼ばれるお方が来てくださいました。神様はあなたをいつもじっと見守っていてくださいます。
私たちは自分の未熟さゆえに失敗しても「天の父よ、こんなわたしをも愛してくださってありがとうございます。」と祈ることができるのです。
そして再び励ましを受けて、成熟を目指して歩むことができます。
最後に、(ルカ18:15〜16)を読みましょう。
この箇所はイエス様が人々にメッセージを語られていた時、途中で、入ってきた女性が連れてきた子供達が突然イエス様のもとに走り寄ってきたので、集会のじゃまをしてはいけないと、それを叱りつけ、とどめた弟子達に対し、イエス様がとられた態度です。
イエス様は弟子達を叱りつけず、かえって、子供達も弟子達も受け入れられました。
弟子達はイエス様の執事です。イエス様がスムーズに働けるよう務めがありました。それゆえ弟子達が子供をとどめたのは正しいことであり、又、子供達がしたことも正しい大切なことでした。それは、イエス様が「主人」であったからです。
主人の許可が与えられたゆえに、子供達は祝福を受け、弟子達も正しいことをしたとみなされたのです。そして、この場面はどういう時に子供が来ることを許したら良いのかという良い学びになったはずです。
「神と共にいる」と、どういう特権があるのでしょうか。それは幼子達(弟子達にとめられた)と同じ特権です。
神が与えられた十戒がありますが、そういったものをきちんと守らなくても、主人である神の許しの範囲内で、許され、裁かれません。
憎しみや怒りも、神は受け入れてくださり、その中で葛藤している人々と共におられ、その悪い感情を打ち破るようにチャレンジするよう促してくださるのです。そして、だんだんそういった感情に勝利できるようになってゆきます。これは主人である神がおられるのでできることです。
今、聖霊様が共におられ、縛りつける律法から解放して、自立してゆくために教えられている教えを守ってチャレンジしてゆくことを励ましてくださいます。
私たちが自立して成人となるために、共に歩んでくださいます。インマヌエルなる神と共に歩みましょう。
2001/12/23 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)「ユダの王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
(マタイ2:2 )クリスマスメッセージ
〜救い主の星に導かれて〜
<救い主の星(マタイ2:1〜6 )>
おそらく天文学の発達したバビロニアの博士だったのでしょう。3人の博士たちは、救い主の星に導かれて救い主の所まで到達することができました。今回は、この『救い主の星』に注目して見ていきたいと思います。
星には大きく3つのイメージがあります。
(1) 星の位置から方角を知ることができ、自分の位置を確認することができる。
(2) 栄光と繁栄の象徴、あこがれの的としてのスター
(3) 運命の星(占星術など)
これら3つのイメージの通り、イエス・キリストこそ私たちを導く星です。<闇に輝くイエス・キリスト(ヨハネ8:12)>
混沌とした世の中で、私たちは、しばしば自分の人生や存在価値について考えさせられます。そして自分の存在が無意味であるように感じることさえあります。けれどもイエス・キリストを星として見上げれば、『決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ』ことができます。それは暗闇の人生行路で方向を指し示す星としてのイエス・キリストです。
明治42年の北海道の札幌や旭川で、多くの方がクリスチャンになるという出来事が起こりました。そのきっかけとなったのが三浦綾子さんの「塩狩峠」で知られる、鉄道員・長野政雄さんの殉職です。
時は、日露戦争の勝利に沸き立ち、植民地計画を押し進めようと日本が勢い付いてた時代でした。時代の大きなうねりのなかで彼は自分の存在や生き方について考えていました。そんな時、聖書に出会い、内村鑑三などの影響も受け、クリスチャンとして人生を歩む決心をし、鉄道員としての仕事を全うしていきます。
北海道の鉄道関係者のなかでも、そのまじめで誠実な仕事振りは有名で、信頼の厚かった彼は、常に遺書を持ち歩いていました。それは、愛のためなら、いつでも死ねるという覚悟の現れでした。彼の給料の大半は、教会の子供達のために寄付され、慎ましやかに生活した人で、あなたの隣人を愛せというキリストのことばを実行していました。それができていたのは、キリストを人生の方向として、しっかり定めていたからでしょう。
そんな彼の乗った汽車に突然の事故が襲います。旭川から札幌に向かった客車の連結が、塩狩峠で外れ、脱線しかけるという事態でした。離れた客車には手動のブレーキが付いていましたが、加速した客車を止めとこはできません。そこで長野氏は、自分の身を客車の前に投げ出して、脱線寸前の客車を止めたのです。(詳しくは小説「塩狩峠」参照) 明治42年2月28日のできごとでした。
列車の中で、パニックを起こす客を落ち着かせ、飛び下りる時には乗客にうなづいたという彼の落ち着いた姿に、多くの方が感銘を受けた結果、何十人という人々が洗礼を受け、愛に生きる生き方を手にしました。人生の終りを見詰めて生きる人と、終りを考えないで生きる人とでは、その生き方に差があります。それに答えを与えてくれるのが、私たちの道標としてのイエス・キリストの星です。<目指すべき栄光の星(コロサイ1:15,19)>
ここに表されているキリストの姿とは、どの様なものでしょう。『見えない神のかたち』であり、『神の本質』が『満ち満ちた』お方。つまり完璧な、非の打ち所のない人がイエス・キリストだといえます。『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。』(創世記1:27) とありますから、私たちも神のかたちに造られたものです。
同じように神のかたちに造られたのに、私たちとイエスさまとでは違いがあります。決定的な違いはイエスさまが『満ち満ちた神の本質を宿らせ』ているという点です。不完全な私たちが、目指すべき人間としての姿は、神の本質が満ち満ちた状態でしょう。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」という詩の最後に「そういう者に私はなりたい」と書かれています。賢治の目指した人の姿が、この詩にあり、花巻市に、この詩のモデルとなった人物がいました。
花巻の禅寺の三男として生まれた齊藤宗次郎がその人です。彼は内村鑑三の本に出会い1900年12月12日午前6時、雪の積もった花巻の豊沢川で洗礼を受けました。早朝にもかかわらず、見物人で周囲はいっぱいだったと伝えられています。ヤソ教の信者だと村中から迫害を受け、教職を追われ、迫害の手は家族にも及び、9才だった長女も天皇を崇めないからという理由で級友から腹を蹴られ、死にました。クリスチャンになっただけで、彼に何ら非はありませんでしたが、このような迫害を受けたのです。
齊藤宗次郎は生活のため、早朝3時から夜9時までの間、新聞配達から始まって、村中を奔走して働きました。新聞配達が一段落すると学校までの通学路の雪かきをし、病人を見舞い、手伝い、倒れそうな人のために身を粉にして働き、夜9時以降は自分と神との時間を確保するという毎日です。それでも迫害はなくなりません。1926年東京へ家族と共に引っ越すことになり、旅立ちの汽車を見送ろうと花巻の駅は齊藤宗次郎に助けられた人々であふれかえったそうです。そこに宮沢賢治の姿もありました。
齊藤宗次郎と賢治は一緒にクラシック音楽を聞くような間柄だったようです。齊藤が上京した5年後、賢治は「雨ニモ負ケズ」を発表しました。それは齊藤宗次郎の姿を彷彿とさせます。そして齊藤宗次郎の目指した人としての姿はイエス・キリストでした。賢治は法華教信者ですが、そんな彼から見ても齊藤の姿は、あまりにも美しく、素晴らしく、自分もあの様になりたいと思わせるような姿だったのです。
イエスさまこそ、私たちが目指すべき栄光の星なのです。<運命の星としてのイエス・キリスト(詩篇148:1〜6 ,エペソ1:4〜5 )>
『主が命じて、彼らが造られた。主は彼らを、世々限りなく立てられた。主は過ぎ去ることのない定めを置かれた。』(詩篇148:5〜6) とは、御使いも、日、月、星、この地上にあるすべてのものは、神に造られ、世々限りなく(変わることなく)、日は日として、月は月としてそこに存在することとされたということです。
つまり、神に造られたものは生まれ変わることなく、人は人として、月は月として永遠に定められとどまり続けるのです。ですから、私が人間であるというのは永遠に変わらない神の定めです。両親が誰であれ、国がどこであれ、神はあなたをそこから世に送り出すことを定められました。変えることのできない事実、それは神が定められたことにほかなりません。しかし、何より、私たちは、この世に生まれ出ることができたことと、人間であることに感謝しなくてはなりません。ところが、この世の中で、人と比較をしてみると差があり過ぎるという、不公平感はぬぐえません。
(エペソ1:4〜5 )を見ましょう。環境は問題ではありません。どこに、どの様に生まれようとも、神は『私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』私たちは、神の子として生まれ出てきました。それは神が定められた運命です。そのあかしが、イエス・キリストが地上に来られた事実です。 キリストが地上に来られたことによって、私たちの存在は、神に愛されるために生まれてきたのだと明確になりました。自分を卑下したり、親を恨んだり、能力の有無で自分を判断しないでください。それは問題ではありません。神はあなたを愛する子として育てたいと、共に歩み、永遠を過ごしたいと、あなたを生み出したのですから。
この運命の星であるイエス・キリストに出会った人は、それに目覚め、すべての過去を忘れ去り、神に愛される人生を歩んでいこうという決断ができて、人生が変わっていきます。しかし、信じることができなければ比較社会の中で、傷付きながら生きていくより他ありません。私たちの人生は死で終わることのない、神の子として永遠を生きるために生れ出てきたのです。
私たちと神を隔てていたものは罪でした。しかし、イエス・キリストが、ご自身の十字架の血潮によって、やり直すことのできる新しい道を開いて下さいました。これは神が私たちを愛しているがゆえになされた、みわざです。それぞれの場所で、精一杯、愛されている神の子としての人生を歩んでいくことが必要です。東方の博士たちが星に導かれたように、私たちもイエスの救いの星を見上げて、永遠の御国まで到達できるよう、神に愛されている人生を歩んでいきましょう。
この後、イエスは出て行き、取税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。するとパリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
(ルカ5:27〜32)医者であるイエス様
今日は、イエスが医者として地上に来られたことを語ります。
イエスは取税人レビの家で食事をしていましたが、取税人は当時、義理も情けもなく税を取り立てると一般の人々から最も嫌われていた職業の人々でした。
イエスは、こういった一般の人々から嫌われている人々に歓迎され人気がありましたが、政治の指導者たちや金持ちたちからは嫌われていました。そして、パリサイ人たちは、いつも罪人と呼ばれている人々に囲まれているイエスに批判的でした。そういう批判に対して、イエスが答えられたことばがこの箇所です。
罪人を病人に例え、救いを与えるご自身を医者に例えておられます。多くの医者が私たちの回りにいますが、却って医療ミスのニュースで見るように恐ろしい結果をもたらせたり、悪い箇所と健康な箇所も見分けられないやぶ医者もいます。
しかし、イエスは完璧な医者であり、唯一、罪を取り除くことができる専門医なのです。〈医者であるイエスを必要としない人々の共通点〉
☆罪はないと言い張る(ヨハネ9:41)
イエスは、ひとりの生まれつきの盲目の人を安息日にいやされました。パリサイ人や律法学者たちは、いやされたことを喜ぶのでなく、安息日を破ったということを憤りました。その時語られたことばです。
イエスは彼らに、「罪人であるのに罪がないと言い張るゆえに、罪はいやされることなく残る。」と言われたのです。イエスは罪をゆるされる医者です。もし罪人である患者が、自分には少しも悪いところはなく健康であると医者の前で言い張るなら、医者は何の治療も施すことはできません。そして、そういう人々は決して医者の所に行かず、いずれは死んでしまいます。
しかし、この盲目の人は、自分は盲目であり、人々から罪人としてのレッテルを貼られた人生を歩んできました。ゆえに、イエスの前に出た時、「私は罪人です。私をいやしてください。」と正直に自分を表せたのです。
罪を犯し続け、乗り越えることができない原因は、自分が罪人であるということを正直に認めないゆえに、医者であるイエスの治療を受けることを妨げているからです。
クリスチャンも同じです。
皆さんは、今日何を求めて礼拝に来られているでしょうか。様々な人生の問題の解決を求めて来られていますか?しかし、それらのあなたの回りの問題が解決されたとしても、もしあなた自身の病(罪)がいやされていなかったら、何の意味もないということに気付いてください。イエス様は便利屋ではありません。罪を取り除く医者です。身の回りの問題が取り去られることよりも、それを乗り越えることができる 霊的健康=罪のゆるし こそ第一に求めるべきものであり、それこそ神のみこころにかなった祈りです。〈罪の病気の症状〉(ルカ18:9〜14)
(1)自分は他の者より優れた者でありたいという願望があふれてくる。
パリサイ人も取税人も、神の前には罪を犯したアダムの子孫であり罪人です。パリサイ人がいくら献金したり断食したりしても、そういった行ないによって、自分の罪を清めることはできません。それを忘れて、パリサイ人は取税人を見下したのです。一見へりくだりに見えても、それは自分の中の高慢さを見られたくない、引き出されたくないという思いからきていることもあります。
罪が存在している限り、高慢という誘惑は必ずあります。その高慢さを認めないで、神の前に自分を人より優れている者としてしまう気持ちは(一見へりくだりに見えたとしても)罪の症状です。(2)良心の呵責、とがめを持つ
取税人は人々から罪人と言われ続け、自分自身もそれを認め、そこから抜け出せない弱さに苦しんでいたので、神の前に正直に自分の良心を表すことができました。
罪を正直に言い表すとは、医者の前に正直に自分の症状を言い表すことと同じです。イギリスのことわざに、「牧師と弁護士と医者には正直に話せ。そうでなけば自分の得にならない。」というものがあります。もし罪を隠し続けているなら、それはマンネリ化し、自分の良心がマヒし、却って人の犯す小さな罪をも裁くようになります。しかし、罪を認めている人々は他人の罪に同情できます。クリスチャンとして私たちは、罪をゆるされていても、罪をもっていることを忘れてはなりません。
又、日々新たな罪が発生していることも自覚すべきです。牧師であるということは、自分自身語る立場ですから、その点大変辛いものがあります。良心の呵責を覚えることも多いです。それゆえ、神の前に自分自身をはっきり言い表し、罪がゆるされいやされる必要を強く感じるのです。
又、皆さんも、もし今罪を犯しているから神様のもとに来づらいと思って礼拝に来られなかったら、その罪はいやされることはありません。
しかし、もし病気だったらどうでしょう。あなたが病人で教会が病院だったら、病気が治ってから病院に行こうと思いますか?
もしそうなら、イエス様をお医者さんと認めていないことになります。イエス様は罪をいやす方なのですから、教会に来て、一週間の罪を取り去っていただきましょう。
他の宗教は確かに経済の繁栄等、約束してくれるものはたくさんあるかもしれません。
しかし、罪をゆるし治してくださる方はイエス様のみです。罪のゆるしを教える宗教は、他には全く無いのです。私たちは、自分が罪人であることを知ることができた幸いを感謝し、医者なるイエス様をいつも求めてゆきましょう。
![]()
JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA