2001 October Weekly Bible Message
2001/10/7 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ 3:16)永遠のいのち
人の世には、関心を引く様々なできごとがあります。
年代ごとに関心事は違いますが、人生の最終的な関心事は死ではないでしょうか。
さて、父なる神がひとり子を地上に遣わされたのは、イエス様を信じる者が永遠のいのちを持つためです。決してこの世の病気、災い、苦難から逃れさせるためではありません。
十字架は、私たちが永遠のいのちを得るための大きな代価ですから、クリスチャンはこの永遠のいのちに最大の関心が向けられているはずです。
では、永遠のいのちとは何でしょう。みことばを大事にできない。この世のものにすぐ引き付けられてしまう。熱く信仰を燃え立たせることができない。そのように思うことはないでしょうか。
人は知らないことに関心を寄せることはできません。同様に信仰を強く保ち、永遠のいのちに関心を持ち続けるには『永遠のいのち』とは何なのかを知らなくてはならないのです。<私たちの関心はどこにある?>
まず、私たちがどれほど永遠のいのちに関心があるのかを吟味するために(マルコ12:38〜44) を見てみましょう。
律法学者には気をつけなさいとは、人々の注目を集め、賞賛をあびることに関心を置いているので、その価値観に影響されないようにという意味です。律法学者ですら関心事は地上のことにありましたから、イエス様を妬み、敵対心を持ちました。
金持ち達も同じです。当時神殿における金持ちの献金時間は決まっていて、金持ち達がどれほど献金するかを多くの人が見物しています。金持ち達は献金するたびに見物人から沸き起こる歓声に酔い、見栄から誰よりも多く捧げることを競い合いました。
そんな時、貧しいやもめが銅貨2枚だけを捧げに来たのです。金額の差は歴然でした。まして金持ちの献金時間にわずか銅貨2枚を捧げるのは、多くの見物人の視線を考えただけで身がすくみます。けれども彼女はそんなことを顧みず、全財産である銅貨2枚を捧げました。
金持ち達の関心事は、人からの賞賛と高い地位や重要な人物であることを人々に誇示することだけです。(ヤコブ3:14〜15)に苦いねたみや敵対心は地、肉、悪霊に属するものだとあります。他者と比較して優越感を得たいと願うこころには、ねたみと敵対心が渦巻いていて、地、肉、悪霊に心奪われている状態です。
では、貧しいやもめが多くの冷たい視線にさらされてまでも捧げに行ったのはなぜなのでしょう。それほどの信仰心はどこから来るのでしょうか。
当時女性は生活を維持するほどの仕事がありませんから、結婚こそ安定した生活を保証してくれるものでした。やもめになるということは、保証をなくした状況です。加えて貧しいと書かれているということは、食べていくことすらままならない社会的弱者であることを示しています。
収入も頼るべきものもなく、彼女の生活は希望を持てる状況ではありませんでした。そんな彼女の手の中に銅貨が2枚だけ握られています。一握りの小麦に換えて空腹を紛らわすこともできました。どう使ってもなくなるものです。彼女は希望のない今の一瞬に使うことよりも、天の御国に希望を置くことを選び捧げたのでした。
つまり彼女の関心は報われないこの世にはすでになく、天にあったということです。(現在も一日4万人の人々が世界中で餓死しています。)<重要な関心事は『永遠のいのち』>
今の私たちを考えてみましょう。
この世には関心を寄せるべき様々なことがあります。けれども、もっとも重要な関心事は『永遠のいのち』に至ることです。なぜなら、この世は過ぎ去るからです。なくなってしまうこの世で多くの人々から賞賛されるより、永遠のいのちを得て神から賞賛されるほうがすばらしいことではないでしょうか。
キーポイントは、永遠のいのちに対する関心の有無です。関心があれば、自分の持てるものを捧げていこうとする姿勢が生まれてきます。それが永遠のいのちにつながるとわかっているからできる行動です。
この地上での成功は、あなたのすべてではありません。成功できなくても、大富豪になっても、天においてそれらは問題にはならないのです。
要は、あなたがどこに関心をもって人生を歩んできたかということにあります。
神様の願いは、イエス様を信じた人がどの様な人生を歩んでも、永遠のいのちを持つという一点にあります。<『永遠のいのち』って何?>
(ヨハネ17:3) に、永遠のいのちとは唯一まことの神とイエス・キリストを知ることだとあります。それは神の御人格を知ることです。
永遠のいのちと書かれているのはこの世の限りある命と区別するためで、永遠とは神様に属するご性質です。ですから永遠とは神様の一部で、永遠のいのちとは、神様の一部そのものであるといえます。
神様を知るには、人格的コミュニケーションを持つことが必要です。人格者同士のコミュニケーションは、いのちを共有します。
親友に励まされて落ち込んでいた状態から立ち直ることができたというのは、親友のいのちが落ち込んだ友人に流れた結果です。
聖書にも1人は千人を倒し、2人は万人を倒すとありますが、2人がいのちを共有しあうと10倍の働きができるのです。人と人とのコミュニケーションでもこのようなことが起こるのですから、永遠であられる神とのコミュニケーションがどんなに素晴らしいものであるかがわかるでしょう。
神のいのちがあなたに注がれるということは、あなたが理想とすることが実現する可能性が最も高い状態です。けれども、全能の神のお力をこの世のものだけに用いるのは愚かなことです。地上で暮らす100 年のためだけのいのちではありません。
永遠の働きのための準備期間である人生なのですから、永遠につながるよう私たちの関心を向けて備えていきたいものです。
永遠のいのちに関心を向けた上で、この世の関心事に目を向けていくという基本的姿勢を忘れないで歩んでいきましょう。
2001/10/14日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
(ヘブル11:13〜16)天の故郷へのあこがれ
この箇所で言っている「彼ら」とは、旧約聖書にでてくる信仰の勇者達のことです。彼らと私たちは同じ信仰をもっています。
それは「天の故郷にあこがれた信仰」です。このあこがれこそ、最優先すべき私たちの心の願いなのです。「信仰は〜確信させるものです。」(ヘブル11:1)は信仰についての定義が書いてあります。旧約の人々は目に見えない天国を望み、そこに帰ることを確信して歩みました。私たちも同じ歩みをするよう、神は私たちに願われています。
聖書に放蕩息子の話がありますが、末の息子は家で父親と一緒にいた時は、その良さが全くわかりませんでした。しかし、出ていって様々な苦しみに会いどん底になった時、父親と共にいたことへのあこがれが強くなり、弱った足をふる里へ向けました。私たちの魂は、父なる神、天の故郷から出てきています。神から離れた者として罪をもって生まれてきました。しかし、魂の奥底は神のふところである天にあこがれています。それゆえ、地上のどんなものも、心の空しさを本当には埋めることはできません。私は初めて教会に来た時、ここが私の魂のふる里だ、帰るべき所に帰ったのだと心から安心しました。旧約時代の信仰の人々は様々な人生を送りましたが、この地上のことに自分の人生の目的を見い出しませんでした。もし、地上のことばかりに心を向けていると、様々な不公平や比較の中で不満があふれて、神への信仰も妥協の多い中途半端なものになってしまいます。
又、(ヘブル11:13)に、「約束のものを手に入れることはありませんでした。」とありますが、信仰が働くのは、まだ望んでいる事柄が事実となって手に入ってはいない間です。約束のものを手にしないまま、この地上を去るということに失望する人は、この地上で成し遂げることに心を奪われているからです。この地上で成功するかしないかは永遠のいのちにとって問題ではありません。私たちの一番の願いは永遠の御国にはいることです。そして、この天の故郷にはいることは地上では実現しません。それゆえ約束のもの(天の故郷)は地上では手に入れられず、肉体の死を通して始めて手に入れることができます。私たちが、信仰を働かせ続けるためには、天の故郷へのあこがれをいだき続けることが秘訣になります。このあこがれを失うと天の御国に入ることができなくなります。
私たちは信仰によって義とされ、信仰によって救われるからです。この地上にのみ成功を求めていると、それが達成した時空しくなります。
そして絶えず目標をつくらないとならなくなります。天の故郷に対するあこがれが強いほど、強い信仰を働かせることができます。
そして地上における罪との戦いの大きな支えとなります。信仰の先輩達も、このあこがれゆえにどんな迫害にも辛さにもくじけることはなかったのです。<地上での心構え>
旅人であり、寄留者としての生き方です。私は今まで、この地上を中心にクリスチャンとしての生き方についてたくさん語ってきました。しかし、神は、私たちが天の故郷にあこがれる人生の歩みをするよう求めておられます。そしてそのように歩むことによってこの世の人々に、天の故郷、御国は本当にあるということを証しできます。
ローマの大迫害時代、何故多くの人々がクリスチャンになり続けたのでしょうか。それはローマの支配体制に失望し、御国に希望をもったからです。ライオンに食べられたり、火で焼かれるというむごい刑にすらひるまないクリスチャン達の姿に、回りの人々は御国の存在をリアルに示されたのです。今、私たちが天の御国へのあこがれをもった生き方をしなかったら、日本の人々はこの世のことのみを思って、永遠の御国に入ることができなくなります。
私たちが地上に置かれている存在理由は、神がおられることと、永遠の御国があることを証しするためです。イエスさまは、私たちが御国に帰れるという福音を語って下さり、十字架というパスポートをくださいました。それゆえ、このあこがれは信仰の働いているあこがれです。このことを一ケ月くらい前から、神は私に強く示してくださっています。今一度永遠への望みと確信をしっかりともつ必要があります。(テトス1:1,2)が私に強く迫って来ています。この永遠のいのちのメッセージが心に沸き上がってくる理由は、地上の成功を求めることは悪いことではありません。しかし、その結果でクリスチャンとしての価値は決して左右されません。
貧しさで餓死したラザロも、悔い改めて貧しい人々に施しをした金持ちのザアカイも、神の前には等しい尊い神の子です。
最後に(ヘブル13:14)を読んで終わります。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」天の故郷のすばらしさを確信しましょう。
2001/10/21 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
(ヘブル11:24 〜27)モーセと同じ信仰を持つ者として
<モーセの時代背景>
永遠をテーマに話を続けていますが、今日は人生の焦点をこの世ではなく天に置くことを考えていきましょう。まず、このみことばの背景を少し知っておきたいと思います。(創世記37:1〜50:26,出エジプト1:1〜14:31参照)
イスラエル人の祖アブラハムから3代目のヤコブには12人の息子がいました。ヤコブが年老いてできたヨセフを溺愛したことで他の息子たちはねたみヨセフを奴隷商人に売ってしまいます。奴隷としてエジプトの地に移ったヨセフは無実の罪で牢につながれました。
ヨセフには夢を解き明かす力があり、あるきっかけで悩むエジプト王の夢の解き明かしエジプトの7年の豊作と7年の干ばつを告げました。みごとな解き明かしで王の信頼を受けたヨセフは摂政の地位を獲得し、干ばつに備えました。豊作の後の大干ばつは激しく、父ヤコブの家も干ばつによって食料が底をついてきた時、息子たちに命じてエジプトに食料を買い付けに行かせ、エジプトの高官になったヨセフと再会します。その後ヤコブ一家はエジプトに移住し、イスラエル人はエジプトで大いに栄え増え広がりました。
ところが時がすぎ、ヨセフの功績を知らない王がエジプトに立ったとき、エジプトの民より多くなったイスラエル人を恐れ、奴隷にしてしまいました。苦役を課しても増え続けるイスラエルの民の勢力を縮小させるために、男の赤ちゃんはすべて殺す命令が出ます。そんな時代に生まれたのがモーセです。愛しいわが子を殺すことができず育てられていましたが隠しきれず、防水加工したカゴにモーセを入れて両親はナイル川に流しました。
流れついた先にいたのはパロ(エジプト王) の娘で、彼女は拾った子供がイスラエル人であることを知りながらわが子として育てたのです。ですからモーセは王子としての地位がありました。奴隷と違い自分の思うように生きられるチャンスに満ちた状態だったのです。でも、地位も富もすべてを捨ててイスラエルの民と行動を共にすることを彼は選びました。 大金持ちになろうとしている人はいなくても、そこそこ安定した生活が送れてゆとりがあり、社会的にもある程度認められたいという欲は誰にでもあります。その欲の根本はできれば苦労したくないという願望です。モーセは苦労など味わうことなく楽に生活できる環境にいましたが、苦しい方を選びました。その決断はどこから来たのでしょう。
ヘブル書は信仰とはこういうものだと旧約時代の人々の信仰を通して教えてくれます。私たちはモーセと同じ信仰を持つ者ですから彼と同じような決断が必要です。<比べてみる>(ヘブル11:25)
彼は比べてみました。そして王子として生きることが『はかない罪の生活』だと気付き『むしろ神の民とともに苦しむことを選び取』ったのです。言い換え.れば神の民との苦しみは『はかない罪』と正反対の生き方であるということです。
ゆとりある楽な生活の中で無理なく信仰生活を送りたいという願いは、『はかない罪』に陥る危険性があります。『罪』の本来の意味は「的をはずす」ことです。たとえ数え上げるほどの悪いことをしなくても、私たちがこの世で幸せになることに価値を見出だしていたとすれば、それは的がはずれた罪の状態だと言えます。
モーセは王子でいれば、才能、能力を役立てられる環境がありました。人々のために才能を生かすことは罪ではありませんが、彼にとっては的はずれな生き方でした。幸せを望むことが罪なのではありません。照準をどこに合わせるかが問題なのです。
たとえば、ゆとりのある生活ができている内は問題なく信仰生活が送れても経済的に苦しくなり祈っても以前の生活に戻れない状態になった時に愚痴や不満不平を言ってしまうようであれば、私たちの価値基準はこの世に置かれていて、的はずれな状態です。
私たちの照準は天の御国に合わせていなければなりません。なぜなら聖書に書かれているすばらしい報いは、すべて天の御国に行ってからのことだからです。地上の祝福も天に至るまでの一部の報酬として神は祝福してくださいますが、それがすべてではありません。<照準を合わす(目を離さない)>(ヘブル11:26)
ここに出てくるキリストは救い主の意味で、旧約時代の救い主はヤーウェの神です。(ヤーウェの神が人となられたのがイエスです。) 救い主を信じ、貧しい人々と共に生きることがどんなに人からそしられようとも、エジプトの宝にまさる大きな富だとモーセは考えました。
私たちも同じ信仰を持つことが神の前に正しい信仰であると言えます。クリスチャンゆえに受けるそしりをこの世の幸せにまさる、大きな幸せだと受け止めていくことがモーセと同じ信仰を受け継いでいることになるのです。
モーセはキリストゆえのそしりを受けることで得られる報いから目を離しませんでした。神を信じて奴隷として一生をすごす覚悟は、この世で決して報われることがありません。私たちの生活もこの世で報われることを望んでばかりいたならば的をはずしてしまいます。<そしりから得る報いとは>(ヤコブ2:5)
ヤコブは教会内の金持ちと貧しい人という差別を強く責めいましめました。貧しい人々という意味は、繁栄を目的としているこの世において存在価値がなく、見下されている人々という意味です。
『神はこの世の貧しい(軽んじられている)人たちを選んで信仰に富む者とし』てくださいました。教会に来たきっかけは人それぞれでしょう。神はこの世の成功者で神を必要としない人のためではなく、この世の価値観からはみ出し軽んじられている人、この世に希望を持つことのできない人々のために救いをお与えになられ、あなたがたが『御国を相続する』のですと希望ある報いを用意してくださいました。この世で貧しく不幸のままで終わったとしても大丈夫だよと神がこの世で報われない分を御国で報いてくださるのです。 モーセはこの世で報われる一瞬よりも永遠に報いを受けられる方に目を向け離しませんでした。ですからイスラエルの民と共に貧しく苦しむ方を選べたのです。富み栄えることは罪ではありません。けれどもこころを見張って吟味することを怠れば、この世の富に固執してしまう危険性があり、いつしか的をはずしていることになりかねません。
祈って答えられないとき、愚痴、不平を言うことなく感謝しましょう。なぜなら答えられない報いは必ず御国にあるからです。失望する必要は何一つないのです。モーセのように永遠に目を向け、目を離さないでいきましょう。<報いの時>(黙示録22:12)
ヨハネが受けた神の啓示が黙示録ですが、ここに『わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』とあります。イエス様が再臨される時は今ある天地が取り去られ新しい天地が来るときです。そのときを私たちは目指して生きていくべきなのです。そしてイエス様が携えて来られる報いの中に、私たちがこの世で報われなかったすべてのものが入っているから、望みは膨らみます。
照準が天の御国に合っていれば、この世における不満はありません。なぜなら必ず報われることを私たちは知っているからです。私たちの存在はこの世のものだけではないのだということをよくこころに刻んで、永遠に報いを得られるよう目を離さないでいましょう。
2001/10/28 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
コリント5:10永遠の報いについて
「永遠」という言葉は、「神」と同じ意味を持っています。永遠の報いとは、神の報いのことです。
「永遠に対して目を向ける」ことをテーマに何週間かに渡って話してきましたが、今日は「報われる」ということにポイントをおいて共に学んでゆきましょう。
永遠の報いの基準…肉体にあってした行為
「肉体にあって」とパウロは言いましたが、それは人生すべてにおいてなされたこと、善も悪もすべてを指します。
又、「行為」とはあらゆる周りに起きる出来事に対する各自の反応のことです。
例)夫が夕食を楽しみに帰宅した。しかし妻は何もつくっていなかった。
夫の反応(対応)→怒る
→怒らず寛容にゆるす
これらの反応に神は報いられる
地上では、いちいち報いられない全ての行為に対して、神は永遠に報いてくださいます。それを信じて人生を歩むことができます。
もしも
100年の辛い人生→永遠の報い
100年の楽な人生→永遠の滅び
だとしたら、あなたはどちらを選びますか?
今日は、この永遠の報いを受けるための地上での対応の仕方を七つ聖書からあげてみてみましょう。<永遠の報いを受けられる対応の仕方>
^迫害を耐え忍ぶ(マタイ5:12)
神を畏れ、その教えにとどまろうとする時、社会的に迫害されることがあります。いじめや仲間はずれもあります。しかしそれを耐え忍び、永遠の友である神を友とすることは幸いなことです。永遠に報いてくださいます。_自分の敵を愛する(ルカ6:32〜36)
これは憐れみを施すと言う愛を指します。勘違いしてはいけません。自分を殺そうとする者に自分の命を差し出すことでは愛ではありません。なぜなら、それは相手に罪をおかさせることになるからです。
しかしその敵が困り、助けを必要とする状態になった時、その助けを惜しまず与えるのが敵を愛するということです。`謙虚な善行(マタイ6:1〜4)
人の前でラッパを吹くような良い行ないには永遠の報いはありません。なぜなら既に地上で報われてしまっているからです。
神は、この地上で報われるよりも、永遠で報われる方を重視しておられます。私たちは人に見られるよりも、神に見られることを願いましょう。そうでないと、地上で報われることにばかり、気持ちがいってしまいます。(例:無記名の献金も謙虚な善行です)aキリストに仕える(ヨハネ12:26)
キリストは目に見えません。しかし、キリストのからだとしての教会があります。私たちは教会に仕えることによって、キリストに仕えます。イエスさまのみ心、働きをしてゆくために教会に仕え、奉仕することが大切です。(福音を伝えることがその中心になります)bクリスチャン生活を全うする、あきらめない(气Rリント3:10〜14)
私たちの人生と言う建物を建てあげるための土台は、イエス・キリストです。この方が決断や判断の土台となります。
そして、建て上げてゆくために、いろいろな素材があります。(金、銀、宝石、木、石、わら等)それは建物の強さを示します。いくらいい土台があっても、素材が弱かったら、嵐によって倒れてしまいます。しかし、この建物が残れば報われます。c自発(气Rリント9:17)
人生を自発的に生きると報われます。もしも、務めだからといやいやしているなら報われません。同じ仕事でも報われるかどうかの境目は、自発的であるかどうかです。d神にゆだねる(テサロニケ1:6〜7)
自分の努力ではどうすることもできない能力や環境を、私たちはよくうらやみます。あるいは姑にいじめ続けられ相手が死んでしまったので仕返しできない、そのうらみを自分の嫁に向けるとか。こういうどうしようもないことを神にゆだねることが大切です。もし自分で何とかしよう、報いてやろうとするなら、逆に永遠の報いを失ってしまいます。七つのポイントをあげましたが、難しい、自分にはできないと感じられるかもしれません。なぜ、この七つの対応をできないのでしょうか。(マタイ4:17)にあります。ここで「悔い改めなさい。天国が近づいているから。」と言われています。
天国が近づくとは、イエスさまが報いを携えてこられることを意味しています。
私たちは、「この地上で報われたい」という考え方を悔い改め、永遠の報いこそ期待すべきです。
私たちの人生は地上のみでなく、永遠のものです。
永遠を信じるとは神を信じることであり、神を信じている人は永遠を信じることができます。
心を地上に置かず、永遠の神のご計画に置きましょう。
この世で報われたいという価値観を悔い改め、永遠に神に報われることを期待しましょう。それが幸いな生き方です。今苦労したら後で楽できます。
たとえば、暮れの忙しさは年始のお休み、楽しみのためです。地上で苦しんだからこそ、永遠の楽しさがあります。自殺したら報われません。
永遠の楽しさのゆえに私たちは人を愛し親切にします。永遠の報いを求める生き方をしてゆきましょう。
![]()
JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA