2001 September Weekly Bible Message


 2001/9/2 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

そこでイエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
(マルコ5:34)

あなたの信仰 3
〜困難・苦しみを乗り越える信仰〜
 

 <絶望から希望へ>
 シリーズの3回目ですが、今回は12年間女性の病に苦しめられていた女性の信仰から困難や苦しみを乗り越える信仰を学んでいこうと思います。
 長血の女と呼ばれる彼女が過去どの様な状態であって、どうしていやされたのかを考えてみましょう。(マルコ5:25〜34)当時15才前後で結婚していましたから、出血が続くこの病気から言って、彼女の年齢は15才〜50才くらいの間に発病したであろうと考えられます。また幾人もの医者に診てもらえるほどの財産があったようですから、社会的にしっかりした女性だったのでしょう。家族についての記述はありませんから、どういう事情からか一人暮らしだと想像できます。彼女が10代で発病したのであれば、それからの12年という歳月は女性として結婚をして子供を生み育てるという時期にあたりますから、人生の華やかな時期を失っていた可能性があります。当時は結婚こそ女性の生きていくすべてでしたから、財産も女性としての時間も失い、ひとりぼっちになった彼女の絶望は、はかり知れません。 彼女はユダヤ人ですから当然祈り、祭司にも祈ってもらったでしょうが良くなりませんでした。彼女は神からも見放されたような、信仰を失った状態ではなかったかと思います。 では、絶望のどん底にいた彼女が心の暗さと体の不自由さを乗り越えて、イエス様に会いに行くことがどうしてできたのでしょうか。絶望している人を前向きな心に変えるのは困難を極めます。絶望の淵にある人はすべてを否定的にしか考えられないからです。彼女の場合、12年間の病気によって人生のすべてを無駄にしてしまったのです。この事実は彼女の心を堅く閉ざし、かたくなさをもたらしました。
 しかし彼女は、歩くのすらままならない状態にもかかわらず、イエス様に会いに行こうと決心し、行動しました。絶望の彼女を一変させたものは何だったのでしょう。それほどのエネルギーはどこから湧き出てきたのでしょう。

<困難を乗り越える3つのポイント>
 彼女を変えたものを3つのポイントに絞って見ていきましょう。この3つこそイエス様が『あなたの信仰があなたを直したのです。』と言われた大きなキーポイントとなります。  
  (1) イエスのことを耳にした。(27節)
  (2) イエスの着物にさわった。(27節)
  (3) 告白し続けていた(28節 『考えていた』の注釈参照)

 
 困難を乗り越える場合、(1) のポイントが最も重要な役割を持ってきます。それは絶望の暗闇しかない心に光を与え、行動してみようと思わせるほどのイエス様に関する情報を彼女は耳にしたということです。
 『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』(ローマ10:17)とあります。神がイエスのことをどのように表現しておられるかを聞くことによって信仰が与えらるとパウロはローマの教会にメッセージしました。
 では、彼女はどのような情報を得たのでしょう。彼女の絶望の根源は、病気が治らないという事実でした。この病気が自分の人生すべてをむなしいものするだけで、何の役にも立たないものだという否定的な考えを彼女が持ち続けている以上、前向きにはなれません。たとえいやされても過去に失ったものへの後悔で前向きにはなれないのです。
 否定的な考えを根こそぎ転換させるイエス様の情報とは何でしょう。それは次の言葉で表されるようなことだったと思います。(これは聖書のことばではありません。)

 『転禍為福』・・・禍い(わざわい)転じて福となす
          (禍=神のたたりによって穴に落ちる)
意味・・・身に受ける災難を活用して幸せになるようにすること。

 なぜ、12年間も患いが治らないのかという否定的な考えをくつがえすには、禍い(わざわい)転じて福となすお方こそイエス・キリストであるという福音が必要です。今まで、役立たずで、すべてをだめにするだけだった病気(否定的考えの根源)があるがゆえに、あなたは幸せになれる、『苦難を持っている人よ。さあ、来なさい。』とイエス様は呼んでおられます。これほどの福音があるでしょうか。つまり十字架こそ『転禍為福』であると言えます。
 十字架は私たちの呪いと災いを活用して私たちを幸せにするのです。山上の説教(ルカ6:20〜49,マタイ5:1〜7:28) を思い出してください。救い主は私たちの罪の呪いを転じて福として下さる。罪人であるがゆえに私たちは幸を得られるのです。
 『医者を必要とするのは丈夫な者はなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』(ルカ5:31〜32) とイエス様は言われました。彼女はここに気が付いたのです。病気が治るだけならば彼女はイエス様の元には行かなかったでしょう。しかし今の自分の状態が幸せになるのに最も近い条件にあてはまるとしたら、最後の力をふりしぼってでもイエス様に会いに行きたいと思わないでしょうか。「彼の衣のすそにでも触れるまでは死ねない。何とかして彼に触れたい。」という思いが、「着物にさわることでもできれば、きっと直る。幸せになれる。」と告白し続け、よろめきながらも歩かせ続け、ついにはイエス様の衣を触らせるに至ったのです。
 だれが、彼女にそれを告げたのかは記述がありません。天使でしょうか。しかし、この情報は彼女の心を一変させ、自分を奮い立たせ、イエスの元まで歩かせました。彼女には中風の男のようにイエス様の所に連れて行ってくれる友達も(マルコ2:1〜12) イエス様の方から出向いてくださることもなかったのです。父なる神は、彼女についてイエス様に知らせてはおられなかったのでしょう。それは、彼女が困難を乗り越える信仰を持つためだったのではないでしょうか。
 困難の内にある時は、孤独なものです。けれども、そんな時だからこそ神の奇跡を体験できる、すばらしいチャンスの時でもあります。まず、救い主に関する素晴らしい情報に心を向けるという気持ちを起こします。飢え渇きがあったからこそ、歩くことさえ不可能な彼女はイエスのもとにたどりつき、不可能を可能にしました。

<なぜ衣だけに触れたのか?>
 そこまでしてイエス様に会いに行った彼女は、ずいぶん控え目な態度で衣のすそにそっと触れただけでした。死に物狂いで歩いて行ったのです。抱きついてでもいやされたいと思いませんか。ここに神様の深い配慮が隠されています。
 彼女がイエス様のお体に触れていたなら、私たちに希望はありません。なぜなら、現代の私たちには、イエス様のお体に実際に触れることが不可能だからです。では、衣に触れることになぜ希望が持てるのでしょう。
 イエス様の衣とは、神の栄光と臨在です。賛美の内に神は臨在なさいます。そして私たちはその中に入ることができ、神の臨在があるから私たちは祈ることができます。聖霊様がともにいてくださるので、私たちはイエス様を隣りに感じ、話しかけることすらできるくらい近い存在です。
 ところが神の臨在の中にあり、神との接点を持ちながら、何も感じない人もいます。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」(マルコ5:31) と弟子たちが言ったようにです。衣に触れても何も起こらない人もいます。その違いは、飢え渇きです。水は渇いた所に流れ込んで行きます。
 ここでおもしろいのは、イエス様のお力がイエス様の意志に関係なく飢え渇く人に流れている点です。渇いた心で臨在に触れるとき、私たちはいやされます。
 困難の中にあって絶望している人、幸福だと思えない人そんなあなたのために、イエス様の十字架はあるのです。そういう状況だからこそ神の愛に満たされることができるのです。幸せ、満足の内にあっては体験できない神の愛、知ることのできなかったキリストの救いがあります。
 否定的な逆境と呼べる状態の時こそイエス様に信頼し、これを乗り越えることこそ幸せへの近道であると気づき、イエス・キリストへの信仰を高めていきましょう。

   



 2001/9/9 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
(ヨハネ9:3)

あなたの信仰 4
〜イエスは救世主〜
 

 俳句や短歌の季語に「新涼」ということばがあります。
夏の猛暑を乗り越えて、初秋を思わせる風が吹き始めると、格別の心地よさを感じます。それは息を吹き返すような涼しさです。
 このことばを使って、一句つくってみました。
    「我が人生に 神のことばは 新涼のごと」

 私たちの人生は、忍耐を働かせないとなかなか進めないような多くの苦しさがあります。しかし、そのような中で出会う神のことばは、格別の心地よさを私たちにもたらし、回復を与えてくださるという意味です。
 福音は、私たちの人生に心地良さをもたらし、回復を与えてくれます。もうだめだと思った時に、私たちの心を変える新鮮さをもたらしてくれるのです。そういう意味をもって、今日は、目の開かれる福音「開眼」(かいげん)について語ります。
開眼とは、宗教用語で真理をもたらすという意味です。
 ヨハネの福音書9章にでてくる盲人のいやしを通して、私たちは、心の目が開かれるということについて学ぶことができます。
(ヨハネ9:39〜41)に「私は真理がわかる」と言い張っている人の罪はそのまま残り、かえって「私には真理も人生もわからない}と認める人の方が、罪がないと書いてあります。
 「真理が見えない」という方が幸なのです。先週学んだ長血の女の話で用いられた「転禍為福」と同じで、今見えなくても必ず見えるようになるからです。

・当時の盲人のおかれていた状況 (9:1〜3)
 障害をもった者は罪深いという偏見が、社会の風潮としてありました。それゆえ、盲目に生まれついたということは、彼の人生は無意味であると回りから見下されているようなものだったのです。ここで、生まれつきの盲人とはひとつの比喩であり、生まれつきの罪人という意味として考えてみます。
この出来事を通して、神は、真理が見えるようになることを願っておられます。

・どうして見えるようになったのか (9:4〜6)
 目に泥をぬるということが重要なのではなく、実は、シロアムの池に行って洗うということが重要です。
 シロアムの池=遣わされた者
シロアムの池に行って洗うということは、遣わされた者のところへ行って、きよめてもらうということです。そうすれば、真理が見えるようになるのです。

・いやされた後の回りの議論 (9:7〜35)
彼らは「目をいやした人は誰か」ということを議論しています。それは、彼がいやされたのが安息日であったので、いっさいの労働をしてはならなかったからです。
「イエスは何者であるか」について、なぜこれほど議論されたのでしょう。それは「目が開かれる」ということと深い関係があるからです。
 会堂を追い出された、もと盲人であった彼は、語りかけてこられたイエスの声に、自分をいやしてくださった方であるとわかったはずです。しかし、ここで彼は「あなたは人の子を信じますか。」というイエスの問いに「私がその方を信じることができますように。」という答え方をしています。
 イエスが使われた「人の子」とは、「救世主、メシヤ」という意味です。

・いやされた男の心情 (9:36)
 人は奇跡的にいやしてもらったからといって、その人に自分の人生の主権をゆだねたりはしません。(もちろん、感謝はします。)
 救世主 メシヤと、いやしてくれた人とはイコールではないのです。特に彼のような人生を送った者にとって、なぜ自分が盲目に生まれついたのかという、神への不信は、長いしいたげの中で生じてもおかしくないでしょう。それゆえ、救世主がおられても、すぐに信頼するという敬虔な心を果たしてもてるかどうか、彼自身迷いがあったはずです。なぜなら、それまでの彼にとって、自分の人生は見捨てられたものであり、呪われたものであって、救い主が自分のためにおられるということは、信じづらいものであったはずだからです。メシヤ信仰は、ユダヤ人としてもっていたにも関わらず、現実にメシヤが現れた時、信じることが難しいのです。これは人間の弱さです。つまり、期待をしているのに、祈りが応えられるとすぐには信じられない弱さがあるのです。

・イエスの励まし (9:37)
 イエスは、生まれつき目の見えない彼をいやした者と、救世主は同じであると告げられました。それゆえ、彼は信じることができたのです。しかし、目のいやしだけでは、彼にとってなぜ自分が生まれつき盲目でなければならなかったのかという解決にはなりません。
救い主は、過去の傷をもいやされるのです。私たちは現在の救いだけでなく、自分の人生のすべての疑問に解決を与えてくれる、神の良き知らせを聞くことによって、イエスが油注がれた、神から使わされた者であるということに、目覚める必要があります。ここで、彼はこの福音のことばを聞いていたたことに注目してください。

・与えられた福音 (9:3)
 この「誰のせいでもない。神のわざがその人の人生に現れるためです。」という、彼の人生の否定的なものをすべてプラスに変える福音が、彼のいやしの前に、すでに語られていたのです。
 イエスは、盲人としての存在を否定しませんでした。むしろプラスに変えられました。このことばが、イエスを救世主として受け入れるきっかけとなったのです。福音こそイエスを救い主として見させる力です。そして、これが真理です。
 ピラトはイエスに「真理とは何か。」と問い、去って行って会衆の前で「私はこの人に罪は認めない。」と告げました。
ピラトはイエスを善人としては認めましたが、救世主としては受け入れられなかったのです。ゆえに、真理がわかりませんでした。
 しかし、盲人であった彼は、肉の目と心の目を両方とも開かれるという体験をしたのです。
どちらが幸でしょうか。

・福音→「イエスは神が遣わされた方である。」 
 イエスはシロアムの池と同じです。盲人はそこに行って、目を洗っていやされました。私たちはこの方のもとに行って、きよめられていやされるのです。
 イエス・キリストはメシヤであって、神が遣わされた方であると信じて受け入れるなら、あなたは開眼します。あなたは今まで、自分の人生を呪ったことがないでしょうか。しかし、救い主を信じ受け入れた時に、すべてはプラスに変えられるのです。
ピラトは身分も高く富もありましたが、それゆえイエスを救い主とは見ることができませんでした。
しかし、この盲人は人生の苦しみを通して、イエスこそ救い主であるとわかったのです。
 どちらの人生が幸といえるでしょうか。
 みことばを読んでも、メシヤとしてのイエス・キリストに対して目が開かれなかったら、あなたにとってみことばは、ただの格言になってしまいます。なぜなら聖書全体は「イエスは救い主である」ということを指し示しているからです。これが中心メッセージです。
 今、自分の人生を呪ったことを悔い改めましょう。なぜならあなたが困難であればあっただけ、神のみわざがあらわれるからです。そして、この救い主と出会うみことばをしっかりとつかみましょう。そのみことばをしっかりとつかむことによって、イエスへの信仰が湧き上がり、みことばが実現してきます。

 信仰が後退してしまう原因は、みことばを通して、イエスが救世主であるということに結びついていないからです。
1.悔い改める
   ↓
2.みことばをいただく
   ↓
3.キリストを救世主と認める

 この3つのポイントを大切にしてください。
 あらゆる不信仰に打ち勝つ力となります。

   




 2001/9/16 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
(ルカ13:1〜3 )

泥中の蓮のように
〜この世の出来事とクリスチャンのアイデンテティー〜
 

<泥中の蓮>
 9月11日アメリカで考えられないような同時多発テロが発生しました。このような衝撃的な出来事が起こる日常にあって、クリスチャンも信仰が保ちにくい時代です。そんな私たちがこうあるべきだとうなづける次のような言葉があります。

『泥中の蓮』(でいちゅうのはちす)
意味:泥の中に生える蓮の花のことで、汚れた境遇にあっても、これに染まらず清らかさを保つこと

 世の汚れの中にクリスチャンは染まりがちに見られますが、決してそうではありません。汚れの中で、それをイエスによって純化させ、イエスの光の花を咲かせていくものですし、そのようでありたいと願っています。しかし、容易にはそうできない現実があります。

 アメリカの同時多発テロでの被害者は人数が確定できない状態で、救助に向かった警察官、消防士たちもビルの倒壊に巻き込まれ300 人以上の行方不明者を出しました。ニューヨークのカトリック教会で行われた合同の哀悼集会では政府高官が列席する中、カトリックの枢機卿、ビリー・グラハム、米大統領が演説し、印象としてはアメリカはキリスト教国です。しかしそんな彼らが報復を宣言していることは、キリスト教的考え方と矛盾があります。聖書には、だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関するかぎり、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐は わたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:17、18,19,21)とあるからです。さらにテロを行ったのはイスラム教徒の過激派であり、宗教戦争の様相まで呈しています。
 この人的災難の被害者はアメリカ人だけでなくセンタービルやその周辺に勤めていた世界各国の人々に及びました。このような争いに巻き込まれたこの遺族の怒り、悲しみはどれほどでしょう。宗教に対する嫌悪や神に対する不信感をつのらせた方は多いはずです。今回のテロ事件に限らず、突発的に起こる大惨事、殺人、暴行など目も耳もおおいたくなるようなできごとは多くあります。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。

 イエス様はこの質問に答えておられます。(ルカ13:1〜3 ) はガリラヤ人を治めていたローマの総督ピラトがガリラヤ人の神殿の捧げものに犯罪を犯したガリラヤ人の血を混ぜて捧げさせ、強行にローマの主権を誇示した出来事についてです。
 この災難にあったガリラヤ人は他の人の目に神の裁きを受けたとうつったのですが、イエス様は、彼らが特別罪深かったわけではないと言われました。(ルカ13:4〜5)では人的災害だけでなく自然災害においても同様であると言われます。
 人的災害に合う時、神がいるならなぜこの事件を止めてくださらなかったかと人は思います。また、自然災害に合えば人はこれこそ神の裁きだと感じるでしょう。
 イエス様は『悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』とことばを続けられました。私たちが様々な災難にあい、命を落とすのはなぜなのか。その中に神の愛と恵みは本当にあるのかを確認していきましょう。

<いちぢくのたとえから>(ルカ13:6〜9)
 (ルカ13:6〜9)からどんな災難に合おうとも神は愛とあわれみに満ちたお方であると確認していただけます。
 『悔い改めないなら、みな同じように滅びます。』といちぢくの木が切り倒されるのは同じ意味であることが分かります。いちぢくの木とは人類を表しています。ぶどう園はある領域を表していますが、これは神の国です。ぶどう園には通常ぶどうの木しか植えないものですが、あえていちぢくを植えたということはふさわしくないもの、つまり罪人を表しています。神の国に罪人である人類が置かれたのです。
 いちぢくは3年間実を結びませんでした。いちぢくが自力で実を結べないとは、人は自分の力で罪をきよめ、神を喜ばす者にはなり得ないということです。罪は罰せられなければ消えないものです。
 戦争がわかりやすい例でしょう。戦争中日本はアジア各国に癒し難い傷を負わせました。戦争体験のない世代の人々が多くなってきていますが、アジア各国では今だその傷の痛みから反日感情は根強く残っています。先人の犯した罪が消えていないことを明らかに表しています。歴史に汚点として刻まれ日本人である以上背負っていかなければならない罪として厳然とそこにあり続け消えることがありません。今現在も世界各地で続く紛争、民族戦争などは同様の傷の負わせ合いにほかなりません。まさにここは罪の世界なのです。 
 先日のペンテコステ・聖霊運動百年祭において、パウロ・チョー・ヨンギ先生はこの様な争いを治めるのに、人のどんな英智も富も役には立ちません。争いをなくすのに必要なもの、それは赦し合うという愛のみですと言われました。

<1.この世は罪の世界。人類が罪を引き起こしている>
 第一にこの世は罪の世界であり、罪人の世界であることを認識しておく必要があります。アダムが罪を犯した時、アダムだけでなく地も呪われました。(創世記3:14〜19)人類の罪のために呪われた地ですから自然災害が起こるのは当たり前です。
 また、アダムから罪の性質を受け継いでいますから、罪をあらわにする人もいれば、表さない人もいます。クリスチャンは罪のない者だといわれますが、それは神の前にキリストの救いとして罪のないものとみなされているというだけで、現実に罪が心から消えたわけではありません。あくまでも私たちは罪人ですが、ただ赦されている存在であるということなのです。これを忘れてはいけません。

<2.神の愛とあわれみといつくしみによって保たれている世界>
 なぜ?と問いたくなる災害がある中、神の愛はないように思えるかも知れません。けれども、神の愛とあわれみによってこの世が保たれていないのであれば、もっと激しい災害と殺し合いで人類はとうに滅びていたでしょう。なぜなら罪を犯した者は滅ぼされるからです。天文学的確率から事故に合う場合があります。有り得ないことで人は命を失います。これは罪からくる呪いの力が人類を滅ぼしているからです。けれども全滅せずに人類が生き続けているのは神が愛とあわれみといつくしみとで地上の秩序を守っておられるからです。滅ぶべき者たちが最小限の災いで守られて維持されていることがわかれば感謝です。

<3.悔い改める者たちが救われるため>
 なぜそれほどまでに守られるのでしょう。それは神ご自身が遣わす救い主を通して、心を改めることのできる者たちを救うためです。もしイエス・キリストが来られなかったなら、悔い改める者も滅びるより他に道はありませんでした。
 しかし神はアダムの子孫に悔い改めて神を敬う者たちが出ることをご存じでした。ですから罪を犯したアダムを滅ぼすことをなさらずに、最初のご計画通りに子孫を増やすことをゆるされたのです。アダムが滅ぼされなかったのも、イエス様を遣わされたのも、あなたを救うためだったのです。ですから常に神の前に悔い改める心を持ち続けて行きましょう。それを失うと、いちぢくの木のように切り取られてしまいます。
 いちぢくのたとえで番人は「木の回りを掘って、肥やしをやって見ますから」と主人に答えました。これはいちぢくが自力でできることではありません。私たち罪人も自分の罪を自分で拭うことはできません。番人であるイエス・キリストの救いが私たちに神の愛という肥料を与えて下さいます。神の愛という肥料を吸収すれば必ず実がなるということです。神の愛を吸収するとは悔い改めて神の愛を信じることで、それは互いに赦し合うという神に喜ばれる実を結ぶことになります。しかし拒絶すれば切り取られてしまうのです。

<理不尽に思える出来事の中で>
 罪の支配する世の中にあって、肝心なのは神の前に悔い改めているかどうかです。悔い改めてさえいれば、どの様な災害で命を失おうと、肉体から解き放たれて神の御国で永遠の命を生きる恵みを得ているので幸いです。いつ死んでも感謝だと言える恵みです。福音を聞けない人はどうするのかという問いがあります。本来滅びて当然の存在に神がわざわざ手を差し伸べる必要はないのです。けれども、一人も滅びることがないようにと福音という情報を人類に提供されました。今日本全国で福音の聞けない地域はありません。求めればどこででもイエスの話を聞けます。自分のいのちのために聞くか聞かないかは個々の責任です。(子供に関しては親の信仰によって救われると一般的に考えられています。) 
 ラザロと金持ちのたとえ(ルカ16:19〜31)でラザロはこの世で良い物を受けなかったから天国で良い物を受けたとあります。この世の報いを追い求めれば人生は失望に終わるでしょう。なぜならこの世では報われない事が多いからです。この世で報われることより天で報われる方を私たちは求めたいものです。
 神が最も喜ばれる実を結べるよう、悔い改めるこころを保ち続け、泥中の蓮のごとくクリスチャン人生を歩んでいきましょう。

   




2001/9/23 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
(1テモテ6:17〜19)

未来に対する備え
 

 私たちの人生は何のためにあるのでしょう。(气eモテ6:19)には「未来に備えて良い基礎を築き上げるため」とあります。
 私たちがただ無益に、この地上の人生の時間を過ごしてしまうなら空しいばかりです。未来に備えて人生をしっかりと生きるようパウロは語りました。特に、このことは命令として、この世で富んでいる人々、経済的に豊かな人々に語られています。
 私たちの未来はこの人生によって決まるからです。豊かな人はそれだけ誘惑が多くなります。特に、資本主義社会ではどんな人でも富んでいると言えます。なぜなら世界には餓死と隣り合わせに暮らしている極度の貧しい人々が40億人近くいるからです。(日本はいくら不況と言っても、餓死する人はいません)
 私たちに与えられている富をどのように使うかは、私たちに任されています。自由意志が与えられているのです。それゆえ自分で選んだその責任は神の前に自分で負わねばなりません。(貧しく弱い人々は選ぶこともできません。ですから神は無条件で彼らを憐れんでくださいます)
 どうか今日、真剣にパウロの忠告を受け止めてください。
〈未来に備えて良い基礎を築くためのポイント〉

^高ぶらない(17節)
 明らかに高ぶった態度をとる人はまれです。高ぶりは自分でも自覚しづらいものです。しかし次のようにして自分のうちに高ぶりがあるかどうか知ることができます。
 つまり、どんな人にでも、誰に対しても、尊敬する心を持てているかどうかです。人を敬う気持ちを持てていなかったら、そこには高ぶりがあります。
 心をへりくだらせるとは、他の人を重んじると言うことです。聖書は「他の人(すべての人)を自分よりすぐれていると思いなさい。」自分の心を探ってみましょう。
 能力や地位で人を尊ぶというのが尊ぶことにはなりません。すべての人はその命自体、その存在自体が大切な個々として尊ばれるべきものなのです。

_神に望みを置く(17節)
 ここでは、「すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神」に望みを置くとあります。この「すべてのもの」を「自分の願い通りのすべてのもの」ととらえてしまい、一つでも願い通りでないと楽しめない、与えられていないと考えてしまう人がたくさんいます。
 しかし、この「すべてのもの」とは、神があなたにとって永遠のいのちに益になると考えられる「すべてのもの」なのですから、あなたの願いと異なることも入るのです。喜びも苦しみも、すべてはあなたの益となるよう神は与えておられます。それゆえ、苦しみも試練もついには神にあって楽しめるものなのです。

`人の益を計る(18節)
 永遠のいのちの魅力を知ると、誰でも欲しくなりますが、魅力がわからないと無関心なままです。しかし、無関心な人にも、永遠のいのちに至るための、なんらかの親切や益を計ることが必要です。人に対してプラスになることを計ること自体が永遠のいのちに至る道です。(ただし自己満足でやっていないかどうか、自分を吟味することが大切です)

a良い行ないに富む(18節)
 道徳的に優れているということです。礼儀に反しない社会常識以上の道徳心を養うことは、永遠のいのちにプラスになります。

b惜しまずに施す(18節)
 相手から見返りを期待しないことです。相手に感謝されたりお礼をいわれなくても、相手の役に立つことをしてゆくことが、施すという意味です。

c喜んで分け与える(18節)
 お互いに分け与えるということです。相手にないものを自分が与え、自分にないものを与えてもらうという、助け合い協力しあうことです。神の国の確立のためお互いに協力を怠らないようにしましょう。
 これらの基礎造りは決して簡単ではありません。いい建物を造るためには、簡単な基礎造りはできないのと同じです。自分の人生、難問が出てきても、これを通り抜けなければ素晴らしい未来となるということを望みみてがんばりましょう。

〈未来とは何か〉
 地上的未来ではなく、肉体を卒業して神の国に入ることです。この世界はいずれ裁かれ処分されます。地上の成功はそれ自体がゴールではなく、肉体を越えた死後の世界にこそ真実に報われる未来があります。その未来を望みみて、多くのクリスチャン達はひどい迫害の中殉教してゆきました。
未来に対してあなたはどんな期待をもっているでしょうか。
(黙20:4〜6)には、私たちはキリストとともに全世界を王として支配するという立場が待っているとあります。
 あなたをしいたげ支配してきた者たちを、未来にあなたは逆に支配するのです。キリストにあって、あなたの未来は勝利に輝いています。又、(黙21:1〜4)にも、未来永遠に二度と涙することはないとあります。
 私たちはこの未来のために日々努めてゆくことができます。そういう未来があるという証拠はイエス・キリストの人生です。イエス・キリストは天から下ってこられたただひとりの御方で、彼は地上の33年間、少しも自分を楽しませず。ただすべて周りの人々の益となるために自分の人生を費やされました。
 なぜそのように生きることができたのでしょうか。
 それは、未来を父なる神によって明確に示され、よみがえって神の右の座につくことを確信しておられたからです。
 イエス様は歴史的人物です。この方の生きざまを見る時、私たちは自分に与えられる未来を信じることができます。私たちはこの未来をしっかりと信じ、今日語られた6つのポイントをどんな犠牲を払ってもやり通してゆきましょう。

   


 

 
2001/9/30 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
(第一コリント7:31)

この世の有様は過ぎ去る
 

<この世の富>
 今日は『この世の有様は過ぎ去る』という点に重点を置きたいと思います。この世で幸せを考える時、経済的に豊かであることを条件の一つと考えがちです。経済社会に生きている以上それは無視することのできないことですが、この世のものに固執しすぎると、もっと大切なものを見失ってしまいます。
 確かにある程度の豊かさは必要です。けれども『用いすぎないように』気をつけなければいけません。なぜならこの世のものは過ぎ去るからです。過ぎ去りなくなる所にどんなに富を積んでも、それはむなしいものだと(第一コリント7:31)でイエス様は警告されます。では神の祝福で与えられた各自の経済力は何のためで、どの様に用いることが神様の望まれる最も効率の良い方法なのでしょうか。

<この世で富み、栄えることが目的ではない>
 私たちは貧しくあるべきなのでしょうか。それは神様のみこころではありません。クリスチャンは豊かであることに罪悪感を持つ場合がありますが、それも間違いです。ただ忘れてはならないことは、この世であなたが富み栄えたとしても、それは人生の目的ではないという点です。富み栄え成功することの目的はこの世にあるのではないのです。なぜなら、この世は過ぎ去りなくなるものだからです。
 (マタイ6:19〜21)でイエス様は天に宝を蓄えなさいと言われます。天とは未来のことです。(先週の週報参照) クリスチャンが天の御国が来ることに期待をしなかったならば、心をこの地上に置き、この世での成功だけを願ってしまいます。私たちが信じているのは、この天と地は裁かれ、新しい天と地が来るということです。そして新しい天地で新しい体と永遠のいのちをいただいて、さらに前進していくのが私たちが期待する未来です。
 この世では何もしなくてもお金がいりますから、生活に必要な分を使うことは問題ありませんが、用い過ぎないように気をつけたいものです。この世が人生のすべてであるような錯覚は危険です。天に宝を蓄えるとは将来あなた方が行くべき所に備えをしなさいという事です。そのためには新しい天地に対する確信が必要で、その保証はイエス・キリストは天から下り、神が人となられたお方であるということです。
 イエス・キリストは30才でキリスト教の教祖となる悟りを得たのではありません。悟りを持って、処女マリアから生まれた方です。私たちと全く同じように女性から生まれ、人間であることの苦しみ、痛みを人生を通して体験して下さいました。処女から生まれた理由はただの人間ではないというしるしとして神が与えられたものです。イエス様は新しい天と地を目の前に見て、この世に下って来られました。この方の歴史的存在があるからこそ後の世である未来がやってくることが信じられるのです。

<どのように天に宝を蓄えるのか>(ルカ12:33 )
 天に宝を積む方法は、持っているものを売って施すことだとみことばにあります。この世の富は施しのためであり、そうすることで天に宝を積むことができます。施しとは自分以外の必要としている人に無償で自分のものを分け与える事で、自分を犠牲にして相手を助けることを意味します。それは財産だけでなく、才能、時間、命も含めて私たちの持てる力すべてを使って施すことも対象となります。
 これは私たちが老後を考えるのに似ています。私たちは年老いて収入がなくなったときを見越して必ず来る老後の備えをします。同様に私たちが新しい天地に確信があるなら、行くべき所の備えもすべきではないでしょうか。
 天の国に入る方法をイエス様にたずねた金持ちの青年がいました。(マルコ10:17 〜23)彼は律法をすべて守っていましたが、欠けたところが一つあるとイエス様は言われました。彼に財産を売って施すことを勧めます。ところが彼は悲しんで去っていきました。たしかに全てを施すことは難しいことです。(初代教会は驚くべきことに全財産を使徒の足元に置き、共同生活をしていました。(使徒2〜3章))
 この青年は顔を曇らせ去って行きました。ここが彼の問題点です。彼の心は地上にあり、地上の宝に支えられて律法を守ることができていました。大切なのは彼の命で、このままでは地上だけの命で終わってしまうことをイエス様はご存じでした。ユダヤ人は天の御国の存在を知っています。ですから本来、天に宝を積めるという話は朗報なのですが、こころが地上にあったために彼は失意の内に去っていくほかなかったのです。
 この話は私たちにもこころ探られるものがあり、痛みさえ覚えます。けれども、その痛みには価値があります。無理だ、惜しいという気持ちが働くからこそ天に宝が蓄えられるのです。持ち物を売って施すことは、並大抵の犠牲ではありません。大きな痛みと葛藤が起こります。同様に惜しむ気持ちが働くからこそその施しに価値があり、全財産を施すのと同様の原則が成り立つのです。なぜなら犠牲のともなう施しは愛の施しとなるからです。そうするためには未来に対する確信と未来への土台造りだという意識が不可欠です。
 イエス様が神殿に行かれた時、金持ちが大金の入った袋を献金し、その後で貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金しました。イエス様は金持ちは皆有り余る中からの捧げたが、この貧しいやもめは生活費全部を入れたので誰よりも多く献金したと言われました。(ルカ21:1〜4)明らかにイエス様は金額ではなく犠牲の大きさを御覧になられています。この世の富をどう用いるかは個々の自由です。ただ目的を間違えないように気をつけたいものです。

<天に宝を積む場所は?>
 天に宝を積むためには保管場所となる口座が必要になります。人はどんなに善行を重ねても口座がなければ天に宝を積むことはできません。あなたの口座はあるでしょうか。
 70人の弟子が福音を伝えるために各地に遣わされて帰ってきました。悪霊どもがイエス様の御名に服従する様子に弟子たちは大喜びをしてた時、イエス様は弟子たちに『(そのことに)喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』(ルカ10:20) と言われました。弟子たちは神のみわざを自分たちの手を通して行えたことで浮き足立ち、心が地上に置かれました。その様子にイエス様はこのみことばをもって戒められたのです。
 イエス・キリストを信じた者は天に名前が記されるだけでなく、天に宝を積む口座が開かれます。私たちは永遠のいのちの備えができる口座を持っているのです。そして私たちの欲深さは無駄ではありません。なぜなら欲を制して施す犠牲の大きさはそのまま天に宝として蓄えられます。また自分以外の人のためにしたことはすべて加算されていくのです。それは口座を持っているからこそできる楽 しみです。 
 私たちは天の口座開設者として名が記されているだけではありません。『神は・・・イエス・キリストによってご自分の子にしようと・・・』(エペソ1:5)とあるとおり、神の子としての名前が記されているのです。つまり神の無限の富の相続者として名を連ね、相続分が振り込まれることを意味します。そのすばらしさを思ってください。
 この人生は蓄えることのできる時間です。もちろん自分のもてる力、財産、才能、時間、いのち、すべてをどのように使うかの自由は私たちに与えられています。けれども期間は限られています。今すぐ全財産を売って施せというのではありません。それぞれの力に応じて少しづつでも未来のために備えていきましょう。そして天の御国で会った時、互いに富めるものであることを喜び合いたいものです。
 




  

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