2001 August Weekly Bible Message

 2001/8/5 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

公義を水のように、正義をいつも流れる川のように流れさせよ。
(アモス5:24)

愛の流れを生み出すために
 

 神は私たちがすべてを正直に告白し、何でも語り合えるような良い信頼関係を持ち続けたいと願っておられます。
 そのためには、両者の間に愛の流れが存在することが必要です。
 それは良い人間関係を保つためにも言えることです。

 そのことを(アモス5:24)から学んでいきましょう。
 アモスの時代、イスラエルは表面的には神を信じていましたが、偶像礼拝もしていたので、欲望を満たすためだけの信仰となり、正義が行われていませんでした。そこには、愛が生まれることなく人間関係は損得感情を重んじ、行き詰まった状態にありました。
 そこで、神は羊飼いであるアモスに(5:24)の言葉を託されたのです。
 人の心の交流は損得感情では決してつながらず、愛が必要です。この愛の流れをいかに生み出していくかによって、良い人間関係が築かれていきます。

 それでは、愛の流れをつくり出すための二つのポイントをお話しましょう。
 それは、高さと低さをつくることです。

 第一に高さとは(エペソ4:13)にあるように、徳の高さ(品性)において、キリストの身丈にまで成長することです。
 それはまた、神のことばに合わせて自分自身が変えられていくことでもあります。
 たとえば、結婚生活にあてはめて考えてみましょう。結婚とは、独身の時それぞれが自分の生活スタイルを持っていた者どうしが合わさって新しい一つの生活スタイルを生み出すのですから、お互いがけずりあって自分を変えなければ、良い家庭をつくることはできません。決して楽なことではありませんが、とてもやりがいのある作業です。

 第二に低さとは(ローマ12:10)にあるように自分をへりくだらせ、謙遜になることです。それが、互いに愛しあうことのはじめであり、そこから愛の流れがはじまります。低くすることは自分をみじめにすることではなく、相手を尊重し、大切に扱うことです。私たちはキリストの身丈に近づき、高くなればなるだけ、自分を低くすることができます。
 キリストは万物の上におられ、いちばん高い位置におられた方ですが、人の姿をとって地上に来られ、十字架の死にいたり、罪人が行く暗闇の世界にまで下ってくださいました。最高の位におられた方が、最低の位に下られたのです。
 この十字架における最初の第一歩が、全世界において愛の流れを生み出し続けているのです。
 私たちクリスチャンはその流れを受けているのですから、受け取るだけにとどまらず、流し出す者になりましょう。そのためにいつも高さと低さを持ち続けて、さらに高く、さらに低くなるように、成長し続けていきたいと思います。


   



2001/8/12 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
(ヘブル11:6)

信仰に立つ 〜信頼について〜
 

 「信仰」といっても、意外に漠然としていてはっきりととらえづらいものがあります。
私たちは「信仰に立つ」というテーマで夏期聖会をしますが、今日はそれに先がけて、信仰の基本的な面を考えてゆきます。
 まず、信仰についてひとつの例話を見てみましょう。

〈例話〉
 イスラエルののどかな田舎を、ふたりの男が歩いていた。そのうちのひとりモシェは、自然の素晴らしさを見て、それを造られた神の偉大さをほめたたえていた。しかし、そのうちにモシェは友人に「ただひとつだけ、俺にはわからんことがある。」とつぶやいた。友人が「いったい何だね?」と聞くと、モシェは「神様は本当に賢いすばらしい御方だがね、なんで小鳥には翼を与えられたのに、牛には与えてやらなかったんだろうと思うんだ。」と言った。「小鳥はあんなに小さいからエサもたいしていらんだろうに、羽をもって自由に空からエサを探せる。しかし牛はあの大きい体でエサもたくさん必要なのに、空を飛んで探すこともできないんだからなあ。」友人は「なるほど。」とつぶやいた。
 その時、小鳥がふたりの頭をかすめて飛び、モシェの額の上にふんを落とした。ふんをぬぐっていたモシェの顔は輝いた。「わかったぞ!神様はやっぱりすごい御方だ!これが牛だったら、とんでもないことになったもの!」

 この例えと、信仰を理解するというのは似ています。理屈ではわからないのですが、体験することによって初めてわかるのです。

〈信仰とは、神様との関係〉
 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11:6)とあります。
 信仰とは神と私たちを結びつけるものであり、良い関係を築くために必要なものです。この良い関係を保ってゆくことが「信仰に立つ」ということです。それゆえ信仰とは、信頼とも言えます。今日は、信頼ということばで考えてゆきます。
 信仰=信頼
信頼関係は相互の関係であり、一方のみでは成り立ちません。神様と私たちの両方から、この信頼について考えてみましょう。

(A)神は 私たちをどのように信頼しておられるか 
神の私たちへの信頼は安定した信頼であり、決して動かされません。(ヘブル13:8)に「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。

(B)私たちは 神をどのように信頼しているのか
私たちの信頼は、気分や状況によっても動かされやすい不安定なものです。
 つまり、信頼関係を保つためには、私たち自身のことをしっかり考えさえすればいいということです。

〈信頼する心を養い育てるために〉
 変化の激しい私たちの心が、しっかりと安定して信頼し続けられるようになるためには、どうしたらよいのでしょうか。自分の態度と相手に対する思いの、二つの面がポイントになります。
 もし信頼している相手から、思いがけない態度が見られたとします。それでも尚、信頼し続けるためにはどうしたらいいでしょうか。相手の信頼できる面を見出し、それをしっかりと見つめてゆくことで、自分の信頼する気持ちを強め、信頼し続けてゆくことができます。
 それでは、今度は自分が信頼され続けるために、どのうような態度をとってゆくことが必要でしょうか。
自分の信念としているものを変えない、つまり態度を変えないことです。
このようにして、人間関係においても信頼を強めてゆくことはできます。
神と私たちに関係を、それに当てはめてみましょう。
 神は、私たちに対する信頼の態度を少しも変えられることはありません。それをどこで確認できるでしょうか。
 それは、十字架です。「神は、実に 〜 永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
神は、私たちを決してあきらめずに信頼し続けておられる証拠として、そのひとり子を、私たちの罪をゆるすために与えられました。しかし、そのひとり子が神にとっていかに価値ある大切な存在であるかがわからなかったら、神の私たちへの信頼がどのように大きなものであるかがわかりません。
(1ヨハネ4:9〜11)にも、神が私たちに向けられている信頼、愛の深さがしるされています。
ひとり子を世に遣わして、私たちにいのちを得させてくださったということに、どれほど神の愛の深さが示されていることでしょう。
(ローマ5:6〜8)神は、正しくない不敬虔な人々のために大きな犠牲を払ってくださいました。
神は、私たちがどのような状態であっても決して変わらずに信頼してくださり、真実を尽くしてくださっているのです。
(イザヤ42:16)では、罪人として盲目に人生を歩んでいる私たちを、神は義人としてまっとうに歩むように導かれるとあります。つまり、決してあきらめずに私たちの人生を整えてくださっているのです。
私たちは、目が見えないような歩み方をしてしまう者です。
そのような私たちを、神は以前から、又これからも、導き続けてくださいます。
(マラキ1:2)には、神の私たちへの信頼の仕方について書いてあります。
 神は、私たちが何かができるから、どういう者だからということではなく信頼すると、ただ御自身が、心に決めてくだっさっているのです。つまり罪人である私たちを、義人として受け入れるという信頼をしてくださっています。

 私たちは、神の変わらない信頼のしるしとして、十字架を見続けることができます。
これが、信頼を強めてゆく方法です。
例え、自分の回りにどのような出来事が起きても、十字架のゆえに、私たちは神の変わらぬ信頼を知り、自分自身も神を信頼してゆくことができます。
 十字架こそ、信頼関係を保ち続けてゆく唯一のしるしです。

   




2001/8/19 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
(ルカ7:50)

信仰について 〜あなたの信仰〜
 

 今日は(ルカ7:36-50)の話から「あなたの信仰」について考えてみましょう。イエスさまはすべての人が救われることを願っておられます。しかし、あなた自身が救われたいと心を開かなければ救われません。この女性は自分の心を開き、その行いによって自分の信仰を表明しました。信仰表明とはイエスさまが自分にとってどのような御方であるかを表すことです。多くの人は、宗教は自分の心の中だけでもっていればいいと言います。しかし、イエスさまが言われた「あなたの信仰」とは何であるのかを深く探ってゆくと、心の中だけではなく、見える形で表されなければ、その信仰はなきに等しいものであると言えるのです。
 信仰とはイエスさまに対する自分の心を表現することです。この女性を通して、私たちはどのように自分を表現していったらよいのかを学んでみましょう。まず、この女性の行いについて考える前に、この地域の習慣について知る必要があります。

<客のもてなし方>〜習慣として〜
 (1)まず足を洗う水を出す
 (2)歓迎のしるしとして口づけをする
 (3)特別の客の場合は頭に香油を塗る
 この3つの習慣からパリサイ人と罪深い女性を比較して、イエスさまは、罪のゆるしというものはその信仰の表明によって確認されるということを教えられました。つまり、皆さんが罪を許されたと言われるなら、その信仰をどのように日常生活に表明されているかによって、その信仰が本当に実のあるものなのかどうかがわかってくるということです。実がなるまで、神は私たちの信仰を育てたいと願っておられます。

<3つのポイントから学ぶ信仰表明>
 (1)足を洗う(ルカ7:44)

 これはこの地域では一般的に行われていた習慣です。しかし、この女性は、水の代わりに涙でイエスの足をぬらし、髪の毛でふきました。パリサイ人は水さえ出さなかったのに対し、この差は何からでたのでしょうか。パリサイ人はイエスを夕食に招きましたが、その理由は、イエスが有名人だったので、その有名人を自宅に呼ぶことによって自分の人気と知名度を高めたかったからで、心からイエスをもてなそうと思って招いたわけではありませんでした。
 しかし、彼女は普通の客以上の気持ちでイエスをもてなしたかったゆえに、涙でイエスの足を洗いました。常識ではとても汚くて嫌なことです。しかしイエスはその行ないにある彼女の思いに目をとめ、彼女を賞賛されました。それは、涙で足を洗うなどという不可能なことに、彼女はイエスへの思いのゆえにチャレンジし、自分のもっているものをもって精一杯表現したからです。
 私たちなら無理だとあきらめないでしょうか。ないけれどもあるものでしようとした精一杯の行いが彼女のイエスへの信仰表現です。

 (2)口づけ(7:45)
 ごく普通のお客さんにたいしてはしませんが、家族のようなごく親しい客に対しては必ず行なわれました。相手との関係の深さによってあいさつの仕方は変わります。パリサイ人は同じユダヤ人であり、先生と呼ばれる者同志であり、普通なら口づけしてもてなすべきであったにも関わらずそれさえしませんでした。それはイエスをねたみ心の中で嫌っていたからです。
 しかし風俗業で当時見下げられていたこの女性は、普通に口づけをしたら周りの人々からイエスが誤解されることを恐れ、イエスの足元に口づけしました。それはイエスを本当に大切な方と思い、自分の罪深さを自覚していたからです。彼女はへりくだり、謙虚な心でイエスを尊ぶ心を表しました。この姿勢は最近欠けているものです。自分を低くしイエスを尊ぶ気持ちは本当に必要なものです。
 私たちは親しさと無遠慮な、なれなれしさとの違いをわきまえないとなりません。

 (3)頭に香油を塗る(7:46)
 これは親友以上の方、目上の方、最も尊敬する方へのもてなし方です。
 この女性は最高の尊敬の心を表しました。香油は女性にとって大変貴重で役立つものです。それを頭にではなく足に塗るというのは、彼女の尊敬する心が、どれほど大きかったかを表しています。
 ふつう大切なものを足元に使われたら、それは侮辱されたことになり、持ち主は     怒ります。しかし彼女は自分の大切なものをイエスの足に塗ることによって、自分は侮辱されるような者であることを受け入れ、そのような自分がどれほどイエスを敬っているかを示しました。
 イエスはその心を見られたゆえに彼女を賞賛されました。
 私たちは彼女のような信仰表明を、そんなことは足が汚れるだけでいい結果にならないからとか、そんな恥ずかしいことはできないとか、無駄にしてしまうだけで役に立たないからとかの理由をつけて否定してしまい、せっかくのイエスへの素直な信仰表明を押さえてしまって、できなくなっていないでしょうか。私たちは彼女を見習って、自分だけにできる精一杯のことを勇気をもってイエスさまの前にしてゆくことが必要ではないでしょうか。
 彼女は決してきれいにならないやり方で足を洗い、人が見て自分をいかにさげすんでいてもその恥ずかしさを振り切り、無駄と言われるやり方で香油を用いました。彼女はそれほど大きな心の変化をイエスによって受けたことを表しました。
 イエスは彼女に「あなたがそう決心した時に、あなたは赦されたのだ。」と語られました。あなたも自分にできる範囲で、力一杯、イエスさまへの信頼の心を表してゆきましょう。
 勇気をもってあなたのやり方で、素直な心でイエスさまへの信仰表現をしてゆきましょう。

   



2001/8/26 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。
(ルカ18:35〜43)

あなたの信仰 2
〜奇跡をもたらす信仰〜
 

 先週は救われた喜びと感謝と信頼を表明する信仰について語りました。
 今日は「あなたの信仰No2」として、(ルカ18:35〜43)の生まれながら、盲目であった人の例から、奇跡をもたらす信仰、あるいは願いが聞かれる信仰について学びます。つまり、あなたが今不可能と思われる状況の中で、祈って神に答えていただくための信仰を、三つのポイントから学んでゆきましょう。

(1)ダビデの子に対する期待を持つ(ルカ18:37〜38)
 エリコの町の外で、当時多くの盲目の人が物乞いをしていました。ある日、いつになく人が多く、騒がしいので、生まれながら盲目であったこの男性は、周りの人に、一体何が起きているのかを聞きます。すると、聞かれた人は「ナザレのイエスが来られる」と教えました。
 しかし、この男性は「ナザレのイエス」と叫ばず、「ダビデの子イエスさま!」と叫び声をあげました。
 なぜそのように呼んだのでしょうか。聞かれた人は、イエスの出身地を言うことによって、イエスを単に人間イエスとしてしかとらえていなかったことが分かります。
 しかし、この盲目の男性は、自分を救うことのできるダビデの子イエスとしてとらえました。
 つまり、ユダヤ人たちはいつかモーセやエリヤのような偉大な預言者がダビデの血筋から現れるというメシア信仰を持っていますが、イエスこそこのメシアに違いないと彼は信じたのです。(メシアとは救い主という意味)
(注)ユダヤ人たちのメシア信仰はとても強く、この信仰こそ国が 
  滅ぼされてから2000年経っても、民族の国語と文化を失わずに
  これた秘訣です。「救い主が来られる」という強い期待と信仰
  のゆえに、彼らはヘブル語を守り続け、民族の習慣を守りつづ
  けることができたのです。
 人間的救いではなく、神からの救いを待ち望んでいたことが彼に奇跡をもたらしました。つまり、超人的存在であるイエスへの期待こそ、奇跡をもたらす信仰の秘訣です。

(2)どんな妨害にも屈しない、決して諦めないこと(ルカ18:39)
 このような状況は変だと思われないでしょうか。なぜならこの盲目の男性の叫び声に、イエスはすぐには反応されず、しかもうるさいからと彼を黙らせようとしたのは、いつもイエスの愛のメッセージを聞いていた弟子達だったからです。
 もし私たちがこの盲目の男性のような目にあったらどうしていたでしょうか。おそらく、なんて愛がないのだと怒り、すぐに叫ぶのをやめてしまうのではないでしょうか。
 当時、イスラエルの人々は、障害のある人は罪人であるという社会的偏見を持っていました。普段イエスのメッセージを聞いていた弟子達も、そのような偏見的は行動をとってしまったのかもしれません。
 しかし、彼はそのような妨害にも屈せず、叫びつづけることをやめませんでした。
 誰でも無視されることは嫌なものです。しかし、あきらめてしまったら奇跡を見ることはできません。本当にイエスこそいやし主であり、奇跡を行なえる方だと信じているなら、決して諦めず、求め続けるはずです。
 この神への期待の姿勢こそ、奇跡をもたらすのです。神はあなたの信仰を試されます。

(3)直してもらえるという確信を持つ(ルカ18:41)
 これは、絶対に聞いてもらえるという素直な確信、信頼であって思い込みやマインドコントロールとは違います。このような素直な信頼は、良い親子関係のうちに見られるものです。子供は親に対して、自分の欲しいものを安心して求めることができます。それは自分に対する親の愛を信じており、また、親がやさしく愛情を持って接してくれることを信じているからです。
 同様に、この男性は、神に対して救い主を自分達に送ってくださる愛情深い優しい方だというイメージを持っていました。それゆえ子供が親に対して要求するようになんら遠慮せず自分の願いを言い表すことができました。

 私たちはこのような素直なイエスさまへの信頼を持てているでしょうか。日本人は、断わられたり、邪見にされても、なお、求めるというのは卑しい嫌なことであるというイメージを持っています。
 しかし、この盲目の男性は、自分が卑しい者であると人から見られていることを十分知っていました。そして、むしろそのような立場であることを受け入れていたので、周りの人々の反対の声にも恐れることなく、恥じることなく叫びつづけることができたのです。
 私たちも、人の前にいい格好をしたり、恥じたりする必要はありません。むしろ神の前に、自分の願いを素直にあらわせる信仰を持とうではありませんか。
 人がどう思うかでなく、神の前に出ることこそ大切です。あなたの願いの強さは妨害に屈してしまう程度のものですか?
 あなたが期待し、あきらめないで求め続けるなら、そのような負けない、不可能を可能にする信仰をあなたのうちに育てたいと願っておられます。
 不可能を可能にし、一般的な自然の法則を変えてしまうほどの奇跡を行う大きなエネルギーは、あなたの信仰からくるのです。それだからこそ、少しの妨害であきらめるような信仰ではだめです。
 奇跡を期待するあなたの信仰こそ、今、必要です。神に期待しましょう。

 

   



  

JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA