2001 July Weekly Bible Message

 2001/7/1 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
(第一テサロニケ4:3 )

罪について10
〜的はずれとは何か 3〜
 

<聖くなることから離れること>
 私たちは聖さに対する苦手意識を持つことがあります。そこで今日のテーマは「聖さから離れることや、拒絶することは的はずれである」です。(第一テサロニケ4:3) を説明していきましょう。

『神のみこころ』=人間に対して向けられた神の御意志
 御意志とは、ただ単にこころの内に想像したのではなく、意識的にものごとを成し遂げていこうという意志力が働いています。『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。』とありますから私たちが聖くなることがみこころです。では神の御意志とは何でしょう。

『神の御意志』=[〜しよう」という計画と行動

 計画だけに止まらず、行動も伴うのが意志です。ですから意志の弱い人は行動できません。けれども神様は意志の強いお方ですから、計画すると共に、行動も起こされます。
 ですから、(第一テサロニケ4:3) をまとめるとこうなります。

「人間を造られた神の計画と行動は、人間を聖いものとする。
すなわち、聖くなることが存在の目的である。」

 私たちが生まれてきたのは聖くなるためであって、生まれたときから聖いのではありません。神様との関わりの中で聖くなっていくのですから、今、聖くなくて当然です。しかし、日々の歩みの中で一つづつ聖められていく望みがあり、それが神様のご計画なのです。『神のみこころは、私たちが聖くなることです。』アーメン!

<聖書の言う「聖さ」とは>
 新約聖書はギリシャ語で書かれていますから、ギリシャ語から見ていくと2つの「きよさ」があります。日本語でも、「清い」と「聖い」が聖書の中で使い分けられています。つまり「きよい」の意味が違うのです。

(1) 清い(カザロス)=あらゆる社会での交わりの条件
 「清い」のあらゆる社会とは人間関係のことです。どの様な人間関係においても清さは交わりのための条件です。健全な人間関係を保つのに必要なのは清さだということでしょう。正しいことを行い、歪んだことをしない、悪い思いを持たないなど、澄んだ水のようなまっ直ぐな道を歩むと言う意味の「きよさ」です。

(2) 聖い(ハギオス)=神に近づく条件
 これは人間関係ではなく、神様との関係における「きよさ」を表し、(第一テサロニケ4:3) の『聖くなる』はハギオスで、神様と関係をもてる聖さを身に付けることが神のみこころであるということでしょう。このハギオスを定義するとこうなります。

「この語は、神および神と関係のあるものと、そうでないものとを区別する語である。聖(ハギオス)とは、ヤハウエとヤハウエとの関係にある一切のもののことをいう。」
 ヤハウエは聖書の三位一体の神様のことで、このヤハウエご自身がハギオスなのです。また、ハギオスであられる神と関係のあるものはすべて聖なるものであるとみなされます。 つまり、私たちがどんなに汚れ、完全な者となっていなくても神様との正しい関係が持てた時から私たちは聖なるものとされるということです。実際的な行いによる「清さ」とは大きく違います。行いの清さよりも、優れた聖さ(神と等しい聖さ)を持つためには、神に属する者になることが条件です。
 旧約時代には罪があれば神と関係を持つことができませんでした。(レビ20:7)はイスラエルの民が神との正しい関係を持つための条件が書かれています。この箇所を見て、一般的にイメージしがちなのは「清さ」の方です。これを「聖さ(ハギオス)」から考えると、『聖別』とあるように区別するという意味に取ります。
  (レビ20:7)は、「神様と関係を持つものとして自分を区別しなければならない」となります。私たちはこの世の価値観ではなく、神様の価値観で者ごとを判断する者であることを受け入れて、神と共に生きると決心し、この世と区別することが必要だということです。
 聖別を考える時、私たちはテレビを見ない、断食などの行いを先に考えます。それも必要ですが、それだけでは心構えがはっきりしません。私たちはこの世のものから切り離して、神様につながることが聖別の動機なのです。しっかりとした動機を持たずに行いを正そうとすると挫折します。まずこころから聖別することが大切です。
 こころを神に向けるために断食するのではありません。こころを神にしっかりと向けるのだと決心し、こころを聖別してから実際的な行動に移すのです。順番を間違っていることが多いので、気をつけたいものです。
 結果的には行いも正しいものになっていくのですが、行いが先走りすると、してはいけないという律法によって、罪が生き返り、私たちをとりこにしてしまいます。ですから、行いを考える前に、こころの動機を決心する必要があるのです。
 では、行いもままならない私たちが、どうして聖くなることができるのでしょうか。旧約時代は律法を守ることで聖なる者と定められました。けれども律法を完璧に守らなければ聖とされないのなら、地上のだれも聖なるものとなることはできません。
 そこで、イエスの十字架の救いのみわざが、全世界の人々と神様が良い関係を持つために与えられました。人間は罪を犯したために神様と大きな隔たりを作ってしまいました。罪が処罰されれば神様との関係は修復できます。ですから神はイエスの十字架によって、私たちの罪を処罰され、神様との関係を妨げる壁を取り除いてくださったのです。
 私たちの行いが今どうであれ、神様との関係を持つことができます。1才の子供と親の関係において、1才の子供が未熟だから人間失格だという親はいません。行いの未熟さをいつも責めているようでは良い人間関係は築けませんし、理解し合うこと、こころのコミュニケーションがうまくとれることが、正しい人間関係の根本です。
 私たちと神様も同じです。聖書を読む時間や祈りの時間の多さで、神様は私たちを測られることはありません。イエス・キリストによって妨げが取られた私たちのこころが、いかに神様に向けられ、関係を保とうとしているのか、神を理解しようとしているのかという姿勢が、大切なのです。謙虚さは必要ですが行き過ぎると、こころが離れていく結果を招きます。正しい謙虚さは、できていなくても赦されていることを感謝し勝利できるよう前向きに願う態度です。
 主をおそれるこころを持ち、主に対する信頼を持ち続けることは聖さを保つ結果をもたらすことになります。主をおそれ、信仰によって決断していくことが秘訣なのです。

<「聖なる者になれ」とは?>(ガラテヤ3:27)
 洗礼を受けることによって、私たちはキリストにつくものとされました。キリストは神に属するお方ですから、キリストについた私たちも神に属するものとされたのです。
 それは行いによらず、神をおそれ、神がつかわされた救い主を信じる信仰によって、キリストと良い関係(イエス様を信頼する心)を持つことができたことによるのです。行いは聖くなくても、神に属するゆえに立場は聖なる者とされています。
 (ローマ5:10) に神との和解はイエス様の死によってもたらされたとあります。いつまでも、行いが清くならないことは、神様のみこころではありません。これは行いが完成されるまでのすべての罪をイエス様が負って下さっているということです。
 こころも行いも聖くなることが神様がご計画されたゴールです。まず、こころが聖なるものとなり、さらに清い生活(カザロス)に入っていくようにと望まれています。今できていなくても、一つづつあきらめずチャレンジしていくことです。失敗したときも変わらず聖なる者としての立場を取り続けることが大切です。あきらめてしまうことは関係を断ち切ることです。たとえ失敗し続けても聖なる者とされている恵みをいただいていることを忘れず、あきらめず、神様にこころをつないでいきましょう。

   



 2001/7/8 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
(第一ヨハネ4:21)

罪について11
〜的はずれとは何か 4 兄弟を愛さない〜
 

 聖書が言う「兄弟」とは、イエス・キリストに対する信仰をもっている人のことです。(隣人はどんな人でもあてはまります)
 この兄弟に限定したキリストの教えというものがあります。それは、キリストを信じる者達はひとつの社会をつくっており、その社会が秩序を保つためにルールが必要だからです。(このキリストを信じる社会は神の国とも言います)
 このルールが(ヨハネ13:34)にあるように「互いに愛し合う」ことです。これが唯一のイエス・キリストの命令であり、これゆえに神の国の平和が確立します。 
 それでは、どのように愛し合うのでしょうか。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われました。その愛を具体的に学んでいきましょう。

(1)互いの重荷を負い合う(ガラテヤ6:2)
 イエス様は、私たちが背負いきれない罪の処罰という重荷を身代わりに負って十字架にかかってくださいました。各々が負うべき重荷があります。それは負うべき責任であったり、苦しみや辛さであったりします。私たちは、これらの重荷を負って目的地に到達した時、キリストの姿に変えられるという報いがありますが、決して軽い荷ではないので、その重荷に耐え切れず、途中で座り込んでしまったり、倒れてしまうことがあります。そういう時に、その人の重荷を負うのを助けることが必要です。この助けを互いに与え合うことが、クリスチャン社会のルールなのです。(ガラテヤ6:5)に、人は各々重荷をもっているとありますが、自分自身重荷を負っているゆえに、相手を思いやり、互いに負い合うことができます。そしてそれは世の中の人がしていること以上のものであるべきです。相手の兄弟が、神に対する健全な信仰を保つために、その人の重荷を負ってあげることが大切です。(甘やかしとは違います。相手がキリストにあってしっかり立つようにと配慮することが必要です。)

(2)カインのようであってはならない(第一ヨハネ3:11〜15)
 カインは弟の方が正しかったので、弟を殺しました。これが罪の落とし穴です。重荷を負い合う時に、このことに気をつけないとなりません。カインは弟のささげ物の方が神に受け入れられたことに怒ったのです。この心の動きの過程に注目してください。カインは自分がまちがっているということを受け入れられなかったのです。彼は、自分より正しい者を認めることができず、自分の考えを決して変えようとしない、かたくなな心をもっていました。兄弟の重荷を負う時、自分の考えを主張し、相手に押しつけて自分に合わさせようとするなら、互いに愛し合うという律法を成就できません。
 もしカインが正しい人であったなら、弟が神に受け入れられたのを見て、自分も弟を見習っていたでしょう。しかし彼は、弟と兄弟の関係を断ち、自分が中心で、自分が支配者で、自分に利益をもたらしたいという自分中心に陥っていたのです。
 教会の中で、「私」を集中して自分の考え方にまわりを合わさせようとするなら、互いに重荷を負い合うことはできなくなります。(押しつけるなら、押しつけられることも受け入れなければならないからです。)

<どのようにしてキリストの命令を全うできるのか>
(1)神の種が私たちの内にとどまっている(第一ヨハネ3:9)

 これが私たちの希望です。生きた種をもっているということは、将来の実りを期待することができるということです。私たちはこの神の種を育てるということを考える必要があります。罪の種よりも神の種は強いのですから、神の種が成長していく時に、義を行なうことができるように私たちは変えられていきます。
 過去をふり返ってみる時に、私たちはその種がいかに私たちを成長させてくださっているかを知ることができます。以前は好き嫌いが激しくても、好みとは別に相手を愛することができるようになってきます。
 神は義人の方を罪人より好いておられるはずなのに、罪人を愛してくださっています。好みと愛することとは別なのです。しかし私たちは、単に愛されるよりも、好まれるようになりたいと願ってしまいます。しかし、相手に好まれるようになりたいと切望する時、私たちは失望してしまいます。なぜなら、その好みとは、条件づけであって、存在そのものを愛するアガペの愛とは全く異なるからです。キリストへの信仰が種です。それを大切に育てていきましょう。

   




 2001/7/15 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
(エペソ1:11〜12)

罪について12
〜的はずれとは何か 5 神をほめたたえない〜
 

<みことばに矛盾を感じる時>
 聖書を読んでいると、書かれてあることはすべて真理なのに矛盾を感じることがあります。それは自分の経験などの狭いところから、みことばを判断するからです。
 こんな話があります。
 ある旅人がとある小さな街の市場で果物を買いました。リンゴ10個7ドル、バナナ10本7ドルだったので計14ドル支払うと、店の女性にこの街では7+7=11なので3ドル多いと返されたのです。変だと言い張る旅人に彼女は説明します。
 私は4人の子供を連れて再婚しました。再婚相手も4人の子連れです。彼との間に3人の子供が生れ、私の子供は7人、彼の子供も7人になりましたが、子供は全員で11人です。ですから7+7=11でしょう。それで、旅人はなるほどと納得したのでした。
 彼女は偽りやごまかしを言っているのでしょうか。いいえ、これは真実です。聖書のみことばにも、これと同じことが言えます。みことばは私たちが計り知れないほど深く、またち密です。ですから理解できなくても幼な子のように素直に真実なのだと受け止めていく姿勢が必要ですし、的をはずさない秘訣でもあります。

<神をほめたたえないことは的はずれ>
 神様は私たちが神の栄光をほめたたえる者となるようにとの目的を持っておられます。私たちが神の国を受け継ぐものとなることは神様があらかじめ定められたご計画で、私たちが完成された状態とは神の栄光をほめたたえる者となることです。そのために私たちは毎日前進し、生きていくのです。
 ところが、「ほめたたえる」には神様と私たちの関係が深いものでなければなりません。なぜなら、よく知らない人をほめるとき、見た目以外でほめることができないように、見えない神様のことを良く知りもしないのにほめることはできないからです。
 つまり神様は、ほめたたえることができるほどの関係を私たちと築こうとされています。それはイエス・キリストを通しての神様と私たちの関係を示しています。これに気付いていくことで、私たちは神をほめたたえる者になっていくことができるのです。
 詩というのは素晴らしい出来事や出会いに感動した時か苦しく辛い時に生れます。ダビデは繁栄した王でしたが、イスラエルの初代王サウルに妬みから命を狙われ、荒野での長い逃亡生活を余儀無くされました。
ダビデが詠んだ詩(詩篇27:4〜6 )を見ましょう。この詩は逃亡生活の最も苦しい時期に詠まれたものです。ダビデは『いのちの日の限り、主の家に住むこと』以外何も求めないほどに、主に願いました。
 私たちが神様と共に住むことを想像してください。完全なるお方と共にいることは喜びですが、一時も離れずというのは少し窮屈な感じがしませんか。でもダビデはそれを願っています。ここに私たちが思う神とダビデの思う神との差があります。
 何に差があるのでしょうか。それは神様との関係です。私たちが神様について悟っている以上に深くダビデは神様について悟り、太い信頼関係を築いていたことを示しています。ダビデが最もリラックスできると感じたその神と私たちが信じる神は同じです。
 ではどこで差がつくのでしょう。(詩篇27:5)に『・・・隠れ場に隠し、・・・かくまい、岩の上に私を上げてくださる』とあります。彼が逃亡した荒野は想像を絶する過酷な土地(粘土土の荒野で一度雨が降ると鉄砲水が出るような危険地帯)ですが、そこでダビデは実際に主の守り(神様のぬくもり、深い愛情とふれあい)を多く体験しました。
 ダビデの言う救いとは危険をすぐに取り去ってもらうことではなく、保護し養っていただいたということ、つまり愛情を注がれた救いです。それを理解したダビデと神様との関係もまた愛情深いものですから、神様は私たちにもそのように愛情ある関係を持ってくださっていることを気付く必要があります。
 結婚の誓いを神様の前でする意味は、人の価値観によらず神の価値観でその結婚を見守ることです。その約束を破る者は神ご自身が裁かれます。この誓いは神の前でなされた契約ですから意志的に守るべきものです。状況によって感情は左右されたとしても愛すべき相手に意志的に愛を向けることで感情は後からついてきます。それは間違った感情の動きを正すために必要なことですし、契約した意味はそこにあります。
 イエスの十字架は救われる人を限定していません。アダムの子孫すべて、つまりキリスト以前の人々も、キリストと共に生きた人々も、それ以降に生まれ出た、また生まれ来る人々すべての人間の罪を十字架で身代わりに負って下さいました。これは感情的な約束ではなく、確固とした契約です。そしてそれを揺るぎないしるしとするために、十字架で貴い神の御子イエスの血潮が流されました。
(血の契約は必ず守ることを意味する)神様は感情ではなく、どんな人でも救いたいという意志を働かすほどに、私たちは深く愛されています。
 ダビデはこの愛に気付いたからこそ神の愛にとどまりたいと願い、(詩篇27:6)のように歌ったのです。この歌は強いられた歌ではなく心から溢れ出る歌です。そしてダビデは神をほめたたえる者となりました。

<ルツ記に見る私たちとキリストの関係>
 旧約聖書にルツ記がありますが、このルツとボアズは教会とキリストを表しています。
ルツはナオミの息子の嫁です。ナオミの家族はユダヤ人ですがイスラエルが飢饉になったのでモアブの地に逃れ、そこで2人の息子はモアブの女性と結婚しました。
 ところが主人も息子たちもモアブで死に、残されたナオミは嫁に里に帰るように言います。しかし、ルツはナオミの側にいたいと、ナオミとともにイスラエルに帰ります。
 女やもめの2人に仕事があるはずもなく、しかもルツはよそ者です。しかたなく落ち穂拾いで細々とルツが生活を支える日々が続いていました。ルツが落ち穂拾いに出掛けていた畑は偶然にもナオミの親戚筋のボアズの所で、ルツの誠実な働きぶりに目を止めたボアズはルツをさりげなく保護していきます。
 それでも女2人の生活も行き詰まり持っていた土地を手放さなくてはならなくなった時、ユダヤ人の習慣でまず親戚の者が買い取りの権利を主張できるので、親戚同士で話し合われました。ナオミの土地を買うことはモアブ人のルツと結婚し、ナオミの家系を存続させることを意味します。1番の権利を持っていた親戚は断りました。2番目がボアズです。彼は裕福で誠実で多くの女性の羨望の的である独身男性でした。ルツとの結婚は自分の家系をも犠牲にすることになりかねません。でもボアズはルツの賢く誠実な人柄を見込んで、あえてリスクの多いナオミの土地を買い取ったのでした。
 私たちと神様はまさにこの関係です。
 ボアズは大きな犠牲を払い、本来何の関わりもないモアブ人ルツとの結婚を含む土地の買い取りを決意しました。罪人である人間は神の聖さから言えば忌み嫌われる存在であるにも関わらず、神はアダムの子孫であるがゆえに変わらぬ愛を注いでくださいました。
 そしてボアズのように自分の地位も名誉も犠牲にして人となり、いのちまで捧げて私たちをあがなって下さったのです。ナオミとルツは住む場所がなかったのにボアズによって与えられました。私たちもイエス様によって滅びるだけの者から神にとって価値ある存在に変えられました。
 その後ルツはどのように暮らしたのでしょう。おそらく前の主人以上に誠実につかえたのではないでしょうか。人は良くしてもらえば、答えようとするもので、自然に感謝とほめたたえる気持ちが湧いてくるものです。人が私の事を何と言おうとも神は私に価値を見出だし、あきらめずチャンスを与え続けて下さるのだと分かれば、ほめたたえる者となれます。それには一つの共通の条件があります。

<苦しみがもたらす学び>
 (詩篇119:71)の通り苦しみは多くの学びをもたらします。苦しみを通してキリストの十字架の苦しみの大きさに目覚め、守りを感じ、ぬくもりを知っていくことができます。そしてダビデのように主の家に住みたいと思うほどの気持ちになるのです。
 今苦しみにあっている人は的を得た人生を歩んでいるのであって、間違っていません。今こそ神のご計画によって多くを学び、神の深い愛に触れる時だからです。神をほめたたえる者となるチャンスです。そしてあなた自身に神がどんなに素晴らしい事をして下さったかを知る時なのです。

   




2001/7/22 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
(ローマ13:8)

こころの不況と愛の流通
 

<こころの不況>
 社会全体が不況の真っ直中にいますが、不況になるとはやる商売の方法があります。それは食べ放題のバイキングです。店では人件費の削減ができますし、客は金額を気にせずに飲食できる安心感があります。お互いの欲をうまく満たした商売なのでしょう。
 経済はお金が滞りなくうまく流れているときは好景気で停滞しだすと不景気になります。そのキーとなるのは需要と供給のバランスです。活発な消費傾向にあると供給する側も盛んに生産しますからお金の流れがスムーズですが、何等かの社会的な不安が高まると、お金は貯蓄され消費されずらくなり、流れが滞ります。

 この経済の動きは私たちのこころの動きと似たものがあります。こころの交流が盛んであれば、こころ豊かに生活できますが、個々のこころが閉鎖的になれば、人間関係も不況に似て貧しくなります。経済ではお金の流れでしたが、こころの場合は何の流れで景気の差がでるのでしょうか。

 こころの流通を盛んにするのは、人間関係における愛です。(ローマ13:8) を見ましょう。物質的な貸し借りと愛のやりとりは同じような動きをします。愛のない人に、ある人が愛を注ぎます。愛を注がれて回復した人は、愛を与えてくれた人との信頼関係を築くだけでなく、さらに愛のない人に愛を注ぐようになってきます。つまり、真実の愛を使っていくことには盛んな流通によって景気がよくなるように、社会全体の人間関係を良くしていくことになります。
 個々が欲によって保守的になればなるほど景気は悪化し、利益を有効に運用していくことのできる企業ほど、どんな状況においても活動的で成長するものです。同様に愛を上手に使える人は生き生きしてきます。しかし自分のためだけに愛をとどめてしまうと、愛を注ぎ出すことができなくなり、流れが止まります。そこで愛の需要と供給に私たちが答えていける者となれるためにどうすれば良いかを考えていきましょう。

<真実の愛の流通とは>
 (第一コリント13:4〜7)は結婚式で有名な箇所ですが、これこそ神の言われる愛であり、需要と供給のやりとりがされることで社会を良くしていける愛です。私たちはどんなに豊かでも誰かに支えられることが必要です。神は『赦しなさい』と言われますが、それは赦されるためです。同様に愛を注いでくのは、愛がさらに注がれるためなのです。そして愛を動かしていかなければ、良い社会生活は築けません。
 (ローマ13:8) は愛の流通について書かれています。物質的負債を持たないように気をつけて生活すべきですが、愛の負債は積極的に負うべきだとパウロは勧めています。

 親切な人は親切をし続けることができますが、逆に人から親切を受けることを拒む場合があります。この時、愛の流れが止まります。私たちは与えるばかりではなく、受けることもしなくては流れができません。その逆で甘えるばかりで、流し出す愛がない場合も、流れが止まってしまいます。愛において私たちは与えることと受けること、貸すことと借りることが必要で、これらがそろってこそ流れができることを知っておきましょう。

 (第一コリント13:4〜7)の愛はクリスチャンでなくても誰もが認め、求めるものです。誰もがこのような愛を示したいし、与え、受けたいと願います。クリスチャンですらこの箇所のみことば通り完璧な愛は難しいと感じます。けれどもこのような愛に飢え渇き、求めている人は大勢います。そしてこの愛を注ぎ出せる人があまりにも少なすぎるので問題は当然のように起こってきます。
 ところがこの愛を流通させているグループがあります。それが教会です。なぜなら基本的に真実の愛を神から与えられ、手に入れる特権を持っている人々がクリスチャンだからです。

 (第一ヨハネ4:7〜11) を見ましょう。神に愛された者は互いに愛し合うことができるのではないでしょうか。なぜなら神が愛だからです。真実の愛であられる方から私たちは愛を注がれています。その愛を受け止めて互いに愛し合うのが教会なのです。
 驚くべきことに(第一コリント13:4〜7)に書かれてある愛が私たちに注がれています。その愛をもって互いに愛の貸し借りをすると愛の流通が起こるのです。この世の人は肉からの愛しか知らないため、愛を自分に貯めこもうとする上に居心地が悪いので流通が起こりません。ですから刹那的な満足しか得られないのです。
 真実の愛を注がれているクリスチャンの立場は、愛を必要とする側でしょうか。それとも必要を満たす側でしょうか。当然、供給者です。ではなぜこの世は良くならないのでしょうか。どこで愛が停滞しているのでしょうか。私たち真実の愛を持つ教会が、愛を供給していかないからこの世が変わっていかないのです。

 イエス様は私たちのことを『地の塩、世の光』(マタイ5:13) と言われました。塩は食生活に欠かせない調味料であり、体に必要な物で、光もまた生き物が生きていく上で重要な物です。私たちの生活で効果的な働きをする、これらのものにたとえられたのには意味があります。それは世において愛の流通を起こすかなめを私たちが担っているからです。私たち一人一人が流し出さなければ、世の中は変わりません。なぜなら、この世の人は、流通させるべき愛を持っていないからです。
 神の愛を持っているのはクリスチャンです。神様は私たちの空の器に惜しみ無く注いで下さいます。溢れるほどに注がれますから、溢れるギリギリのところで注ぐのを止められ、再び器に隙間が空くのを待っておられます。私たちが流しだし、愛を使えばまた神はギリギリまで注いで下さり、使わずためるとそれ以上は注がれなくなります。
 使われなければ愛が神から注がれなくなり、流れのない池の水が腐るのと同じになるでしょう。流れるというのは大切なことです。地上の水は動いているからいのちを保つことができます。愛も使わなければ死んだものとなるのです。

<具体的な方法は>
 では具体的に愛を流通させるとはどういうことでしょう。(第一コリント13:4〜7)に戻りましょう。まず教会内からこの流通を始めなければ社会には流し出すことはできません。『愛は寛容であり、親切です』とあります。あなたの気分を害するような態度を取った人がいたとして、そこで気分のまま腹を立てれば、愛は止まります。ところが腹立たしく思った相手に笑顔で挨拶し、その人が笑顔になれるまで親切に愛をもって関わっていけたら、あなたは愛を流したことになり、さらに神から愛を注がれることになります。
 私たちは完全ではありませんから、ある人には愛を貸し、またある人からは借りることもあります。
 完全でなければ愛せないのではなく、愛の貸し借りのあるところに愛は流通していくものなのです。『ねたまず』とは、ねたみが起こった時にねたみを止めることです。また『自慢せず、高慢にならず』とは、人を見下す態度が生まれた時、常に人は自分より優れたところを持っていると認めようとすることでしょう。『礼儀に反せず』は愛を持って、人にやさしくすることです。

 教会という社会の中で、これらのことを実践するチャンスは常にあります。愛を使っていこうではありませんか。お金は自分のためだけに使うと価値を下げますが、人のために使うと価値が上がります。愛も利己主義に利用すると価値はありませんが、人のために使うと想像以上の価値が生まれます。金融社会と愛の流通は似ています。私たちは愛をこのように大いに流通させ、ここちよい社会を造り上げていきましょう。ここちよさは楽ではありません、時には忍耐も必要です。けれども愛の流通がたゆまず起こっていれば、多くの価値ある実を結ぶ結果が待っています。神様はその実を見たいと願われているのではないでしょうか。私たちの信仰生活はためるだけではなく、流し出すほうも考えていきましょう。

   


 

 
2001/7/29 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 それで、主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
(ヨハネ13:14)

こころの不況と愛の流通2
〜互いに足を洗い合う〜
 

 日本で最も古い経済政策は、仁徳天皇が行った免税です。(減税ではありません)毎日、高台から都の様子をながめていた仁徳天皇は、ある夕方、かまどから煙が立ちのぼっている家が減っていることに気付きました。これは民の生活が苦しくなっているというしるしです。彼はただちに免税を実施し、実に3年に渡って税のとりたてをやめました。それによって3年目に、民の生活は再び豊かになったのです。不景気は放っておくとますます悪くなります。しかしこういった革新的な政策によって変化します。同様に、私たちの愛の流通をよりよくしていくために,イエス様は「互いに足を洗い合いなさい」と教えられました。イエス様は十字架にかかられる前に、師であるご自身が弟子たちの足を洗われました。これは「互いに愛し合う」ことの具体的な表現です。愛を行動で表すことはとても大切なことです。「互いに足を洗い合う」ということが、何を示しているのかを知るために、まず、「足」について5つの特徴を見てみましょう。

  <「足」の特徴>
(1)一番よく汚れる所
(2)体の中で一番低い所にある
(3)重荷や負担が一番かかる所
(4)全身が移動するために必要な器官
(5)一番つまずきやすい所
この5つの特徴に対し、どのように愛を表していくのかを考えてみましょう。

(1)「一番よく汚れている所」に対して、(ヤコブ5:16)から、
     互いに罪を告白し合うようにしましょう。

 個人的に神の前に罪を告白することは、誰にでもできることです。しかし、ひとりで罪を告白するよりも、互いに罪を言い表し、祈り合う方が、罪から離れやすくなります。
そして愛のこもったとりなしの祈りによって、互いにいやされきよめられるのです。これは、一方的なものではなく、お互いに祈り合うということ、つまり、洗ったり洗われたりし合えるということが大切です。(告白し合える関係が大切)隠していては成長できませんし、やがて信頼を失うことになります。

(2)「体の中で一番低い所にある」に対して(ピリピ2:3)から、
  相手よりも低くならないと足は洗えません。
           へりくだりこそ、大切です。

 足を洗うには、ひざを曲げ、頭を下げなければできません。同様に、相手の罪を負ってあげるには、へりくだりが必要です。優越感をもって相手の罪を負うことはできません。私たちは無意識に自分を人よりも優れた位置に置きたくなります。それによって、ある人にはへりくだれても、ある人にはへりくだれないという状況がでてきます。しかし、へりくだらなければ愛を流し出すことはできません。
(ガラテヤ5:26)には互いにいどみ合ったり、そねみ合って虚栄に走らないよう注意しています。又、(コロサイ3:13)のように、互いに忍び合い、不満を抱いても、赦し合うことこそが大切なのです。

(3)「重荷や負担が一番かかる所」に対して、
            (エペソ4:2,3)から、
   柔和の限りを尽くし、寛容を示し、      
        相手の重荷を負ってあげることです。

 「足」は最も苦しく、負担のかかる所です。相手の重荷を負うには、かなりの柔和さと寛容さが必要になります。痛みをともなう覚悟が必要なのです。

(4)「全身が移動するために必要な器官」に対して、
            (第一テサロニケ5:11)から、
  互いに励まし合い、互いに徳を高め合うことです。

 移動→信仰の歩みのことです。兄弟姉妹の信仰の歩みに問題が起きてきた時、注意することも必要ですが、それ以上に励ましと、徳を高めることが必要です。(ヘブル10:24)にも、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんかとあります。注意や批判は、見下すこと、ダメだと決めつけられることではありません。励ましと徳を高めることですから、責める言い方にならないよう気をつけましょう。

(5)「一番つまずきやすい所」(第一ペテロ4:9,10)から、
   つぶやかないで、親切にもてなし合いましょう。

 つまずきを受けやすい所とは、その人の弱点です。私たちはよく人を見てつまずきます。つまずきは避けられないものですが、つまずきを与えないよう細心の注意をすることが必要です。つまずきやすい人々に、私たちはつぶやかないで親切にもてなし合うことが大切です。親切は、弱さに対する助けの手です。
(例)教会で、年輩の方が荷物を重そうに持って階段を上がっておられるのをあなたが見たとします。この方は、エレベーターに乗ったら教会の経済に良くないから、歩こうと心に決めておられるとします。あなたはどのように接するでしょうか?
 「エレベーターに乗って下さい」と言いますか?それとも一緒に、荷物を持って階段を上がってあげますか?
親切とは、その方の思いを感じとって、共に荷物を持って階段を上がってあげることです。
 これらの5つのポイントから、愛を流し出す方法を学びました。こういった足を洗い合う状況に遭遇するのはいつでしょうか?それは、あなたが決断した時です。無意識の時は、すれ違っていてもわかりませんが、誰かの足を洗いたいと決断する時、その人と遭遇します。
 誰かのために、一日に一度でも、足を洗い合う時を持ちましょう。皆がそのようにしていく時、愛の流通が起きてきます
 




  

JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA