■2020年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神のことばによるきよめ  

主題聖句(ヨハネ15:3)
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

 

【内容観察】
今日までわたしについて来たあなたがたは、わたしがあなたがたに語って来た「神のことば、教え、キリスト」によって、きよくされて来たのです。

 イエス様と生活を共にした弟子たちは、ずっと「神のことば、教え、キリスト(油注がれた救い主)」についてイエス様の語られることを聞いてきました。
 その弟子たちにイエス様は「ずっと聞いてきたあなたたちはきよくされてきました。一つ一つ汚れが取り除かれてきて、あなたがたはきよいのです」と言われました。
 今日は6つの質問を通して「神のことばによるきよめ」とはどういうことかをしっかり握っていただきたいと思います。

1.このことば(主題聖句)は、いつ、どのような状況で語られたものですか?(ヨハネ18章を参照)
 ヨハネ18章はゲッセマネの園でイエス様が捕えられて大祭司の所に連れて行かれるところが書かれています。 
 そして、13章から17章までは、イエス様が3年半の公生涯の最後に、神様のみこころを濃厚に語られたまとめの章、イエス様の遺言の章とも言われています。
 その中の(15章3節)は、「ぶどうの木とその枝」の話の中の1節で、十字架にかかられる日の前夜という状況で、イエス様が語られたおことばです。

2.「もうきよい」に当てはまる人々は、どういう人々ですか?
 内容観察にありますように、「今日までわたしについて来たあなたがた」、すなわちこの最後の夜に至るまで、ずっと生活を共にしてきた弟子たちに、イエス様は「もうきよい」とお話をされました。
 ヨハネ6章には、「イエス様の血を飲み、肉を食べる」という話につまづいて、多くの者が離れていったことが書かれてあります。
 イエス様の血を飲むとは神様の愛を信じる事、肉を食べるとは霊の糧として神のことばを霊的に食することです。しかし、目に見える血や肉のこととして聞いた人々や、それまで弟子としてついて来ていた人々さえも「ひどい言葉だ」と言って離れ去って行ったのです。
 しかし、12人の弟子たちは、わかってもわからなくても、疑いや失敗があっても、あきらめず最後のその時までイエス様について行きました。
 そういう人たちにふさわしいことばとしてイエス様は「わたしが話したことばによって、もうきよいのです。」「罪や汚れの一つ一つが洗い落されてきよくなっているのです。」と、ここでお語りになったと解釈できます。

3.3年半のあいだ弟子たちは、イエスと共にどのように過ごして来たかを福音書を参考に想像してみましょう
 イエス様はユダヤ人として普通の生活をされていたと思われます。特別なことと言えば、早朝また夜通し、よく祈られたということが記されています。
 弟子たちはどれほどイエス様に合わせることが出来ていたのでしょうか。出来ていないからと言って、イエス様が叱責や注意をされたという記事も見当たりません。
 大事なことは何でしょうか。失敗しても祈っていなくてもイエス様についていくこと、これが一番の基本です。従っていくことは信頼の実、証しです。
 この闇の世界、罪の世界の中で、光なることばによって歩むということは、私たちの学びであり訓練であり、成長していくためのテストです。弟子たちが3年半、どんな教えがあり、どんな迫害や反対があっても、最後までついて行ったように、私たちも天に召されるまで、しっかりとイエス様に従っていくということが大事です。
 イエス様が捕えられた時、弟子たちは皆逃げてしまったと書かれてありますが、それは預言の成就ですから、逃げることもみこころを行うことであり、みことばによって動かされたと言えるでしょう。
 イエス様と共に歩むとは、イエス様のお言葉に動かされるということです。イエス様の行く所について行ったというのは、みことばが語られる内容についていった、という意味にもなるのです。
 福音書の中に記された弟子たちとイエス様との過ごし方を参考にして、普通の生活の中で神のことばと共に過ごすとはどういうことか、皆さんも考えて悟らされていただきたいと思います。

4.もし、あなたが彼らの中にいたなら、どのように過ごしていたと思いますか?
 弟子たちも初めの頃は「イエス様の言ってることは、さっぱりわからない」という状態で、奇跡やしるしを見てついて行く気になったり、地位や名誉を求めていたかもしれません。人間的な肉的な弟子たちだったと思います。
 3年半をイエス様と共に過ごしてきて、弟子たちは十字架の前夜にはイエス様のおこころを少しでも感じ取ることが出来て、「あなた方はもうきよいのです」と言われるほどに心が変えられていました。
 イエス様に従ってきた、キリストに属してきた、これが「きよい」ことの最低限の条件です。

 私たちも大事なことは、「礼拝に行こう」という気持ちになることです。それが「あなたはもうきよい」といってくださるイエス様のお気持です。感謝ですね。
 ただ、それを当たり前のこととしていたのでは、イエス様の思いが無駄になってしまいます。こんな私をきよいと言ってくださる神様の寛容と柔和さを心から感謝して、至らない自分を受け止めながら、神様に従っていく心を持って、神のことばであるイエス様と共に過ごすチャレンジをされてみてはいかがでしょうか。

5.「ぶどうの木とその枝」の話と「きよめ」との関連性を考えてみましょう。(ヨハネ15:1~5参照)
 3節の主題聖句は、1~5節のぶどうの木とその枝のたとえ話の中間で語られたみことばで、話の流れからすると大変不自然です。このようなことがヨハネ伝には多いのですが、むしろ、そのような個所こそ神様のお気持ち、意図的なお考えが短いことばで語られていると見るべきで、それを聖霊によって理解し読み取ることが必要です。
 
 1~5節をひも解くキーワードは「とどまる」です。皆さん、チャレンジしてみてください。

6.キリストと共に過ごすとは、みことばと共に過ごすことです。
(詩篇119:105)をヒントに、みことばと共に過ごすことを具体的に考えてみましょう。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩編119:105)

 私たちは暗闇の世界に歩んでいます。道を誤らないためには、今日の足元を照らすみことばと、将来の行くべき道を照らすみことばが必要です。
 あなたの生活の中で、みことばが足のともしびになっているでしょうか。将来を進んでいく光となっているでしょうか。
 みことばを持っていなければ足元も照らされず、行くべき道もわからない、暗闇を手探りで歩むようなクリスチャン生活になっていないでしょうか。
 具体的にどんなみことばがあなたの今日の歩みを照らし、つまずくことがないように歩めているでしょうか。
 自分の将来についての神様のご計画が、みことばを通して見えているでしょうか。
 あなたのクリスチャン人生の中で、少し先にある目的目標を語ってくださっているみことばを持っているでしょうか。
 そのように、みことば(光)と共にすごす生活とはどんな生活なのかを、自分の生活に合わせて考えてみてください。
  
【俳句】 
 春景色と  霊のきよめは  神のわざ

 満開の桜を見ると本当に美しくきよらかさを感じます。神のみわざです。同じように私たちのきよめも、神様のみわざです。