■2019年8月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の沈黙  

主題聖句(イザヤ57:11)
あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。

 

 「耐え忍ぶ」ということにおいて私たちが一つ、心騒ぐことは、神が沈黙を保たれるという状況があることです。
 
 神様が預言者を通したり、幻や夢を通して何も語られなくなってしまうと、人の心に色々な思いが出てきます。 
 
 平穏無事でいると、あまり神様の声を聴くことは少ないのですが、どんな状況であっても、神様の沈黙が長く続くと、私たちは神様から良い影響を受けることを好まないで、周りのものからの影響を受けてしまうことがあります。
 それでも沈黙されていると、「黙認されている」と勘違いしたりします。黙っておられるから認められている、とは限りません。神様の沈黙にはどんな意味があるのでしょうか。
 
 「祈っても応えられない。」「信仰を働かせているのだけれど、信仰の実が実現しない。」「神様に祈り求めているのに何も声として応答がない。」等、神が沈黙される時、何を考えておられ、何をしようとしておられるのか、今日は聖書の二人の人物から、それを学びたいと思います。

1.ヒゼキヤ王に対する沈黙(第2歴代32 :31 )   
「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、その地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」

●心にあることをことごとく知るために沈黙される
 「捨て置かれた」というのは「沈黙された」ということです。神様は心にあることをことごとく知るために、沈黙されます。
 
  私たちの心の奥底には、自分でもわからないような隠れた暗闇の部分があります。また、以前は良い心であったのに、今はそうではないことを神様が明らかにするため、ということもあります。ヒゼキヤ王の場合は後者であったかもしれません。 

 ヒゼキヤ王は、ダビデ王から数えて12代目のユダ王国の王様です。ダビデ王と同じように、神様を敬う善い王様でした。
 
 アッシリアの脅威の前に絶体絶命の時、またそのあと不治の病に侵されて死に瀕した時も、彼は心注いで主の前に祈り、大声で泣いて神に助けを願い求めました。それで神様は、奇跡的な助けをヒゼキヤ王に与えてくださいました。アッシリアとは戦わずして勝利し、病もいやされるという人目にも知られる奇跡を起こしてくださいました。
 その結果、イスラエルの神は、周囲の異邦人の国からも恐れられ、王国は栄え、王も尊敬を集めるほどになりました。そして(Ⅱ歴32:31)にあるように、バビロンの使いの者が、貢ぎ物をもってやってきたのです。

 神様はその時ヒゼキヤ王を「試みられた」とあります。箴言の中に「銀にはるつぼ、金には炉、人を試すのは主である。」また、「人は称賛によって試される。」とも書いてあります。 

 心の中に湧いてくる良くないものを神様は見ておられて、それを明らかにするために、神様はヒゼキヤ王の行動を黙って見ておられたのです。

 ヒゼキヤ王は、将来は敵となるバビロンに、宝物倉から食糧庫、武器庫まで、得意げに何もかも見せてしまうという、傲慢高慢が招いた大失敗をしてしまいました。

 絶体絶命の時にはへりくだって主の前に助けを乞うたヒゼキヤ王でしたが、助かった後、順風満帆になると、おごり高ぶりが出てきて、神様への敬虔な気持ちがなくなってしまうということがあらわにされたのです。   

 ヒゼキヤ王に対する神様の「沈黙」は、私たちにも度々なされることがあります。祈っても応えられない、聖書を読んでも何も教えられない、説教を聞いても心にピンと響かない、私たちもそんな状況が襲ってくることがあります。たいていの場合、私たちの心に不純なものが出て来ているしるしとして、神様が沈黙を守られることがあるのです。

 神様の恵みの中にずっと暮らしていると、私たちはいつのまにか神様の奇跡的な恵みに慣れて、横柄に、また傲慢になります。繁栄と豊かさというのは信仰を堕落させる大きな要因です。信仰を働かせなくても必要なものが手に入る環境であるために、形だけの神への信仰となってしまって、神様のみことばよりも、世間の目や世間のことばに耳を傾けてしまうことが多くなります。

 主題聖句に「あなたは、だれにおじけ、だれを畏れて、まやかしを言うのか。」とあるように、人を恐れ、世の中を恐れ、人の意見や多数決を重んじるようになり、そして人に褒められることで傲慢になります。神様が一番お嫌いなのは傲慢です。自分の心に、傲慢、高ぶり、不敬虔が出来てきてないか、私たちも吟味することが必要です。

 そのためにも毎週の聖餐式は大事です。いつも十字架を思い起こしながら、神様あっての幸せ、繁栄であることを覚えて、いつも心をへりくだらせましょう。

 痛み苦しみのある時ほど、人はよくへりくだることができて、それは「恵み」でありますが、痛みがあってもなくても、願いが聞かれようが聞かれまいが変わりなく、主の前にへりくだりを保つことを心がけることが、ヒゼキヤ王を通して私たちが教えられるところではないでしょうか。

2.ヨブに対する沈黙(ヨブ34 :36 ) 
「どうか、ヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。」

●諭しを与えるための沈黙 
 ヨブは財産を奪われ、家族を奪われても、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と神への信仰を失いませんでした。

 そして更に自分の健康を奪われ、3人の友人たちから「なにか罪を犯したのだろう」と責められたとき、ヨブの隠されていた本音が引き出されます。

 「私はちゃんとやってきた。落ち度はない。どうしてこうなったのか神様に問いただしたい。神様は私の言い分を無視されている。私の義は踏みにじられた」と、ヨブは友人たちに言い返します。

 そして4人目の友人エリフが言ったことばは、「どうか、ヨブが最後までためされるように。」(ヨブ記34:36)でした。

 最後まで神様は沈黙を保って、ヨブがこの苦しみと葛藤の中でどのように悟りを持つのか、じっと見ておられるという状況でした。

 神様のこのお取り扱いに対してヨブはじっと忍耐して、神への信仰を失うことなく、神様の御声を待ち続けました。

 友人たちとの討論では悟りきることの出来なかったヨブでしたが、最後に神様が現れてくださり、ヨブに語りかけてくださった時、ヨブは自分の未熟さ、自分が被造物にすぎないこと、創造主である神様の存在の大きな違いに触れて、自分はなんと愚かなことを神様の前にしていたのだろうかと悟るのです。

 私たちも、神様が何もされないでいる時は 何か自分に悟るべきことがある、ということに心を向けていただきたいと思います。

 主人の方からこうしなさい、ああしなさいとハッキリわかることをするというのは奴隷と主人の関係です。

 神様はそれだけでなく、夫と妻の関係も私たちに求めておられます。主人に何かを言われる前に主人の心を悟って事を行なうように、主人の心を心とするように、それを悟るようにと、神様は沈黙を長く保たれる事があるのです。最初に神様はするべきことを私たちに教えられます。

 神様からの御声や応答がなかったとしても、みこころをあらわされた聖書を読めば、神様が沈黙を守られても何の問題もありません。
 神様の御声を聞けない人でも、神のみこころを行なうことが出来るようにと、聖書が与えられているのです。

 御声、幻、天使、そのようなものにばかり気を取られて大事なことを忘れてはいけません。神様があなたの心や思いや耳に何か語られるのを待っていたら、それはひょっとして神様の言葉ではないかもしれません。

 沈黙はかえって聖書に示された動かざる永遠の神のみこころに心を留めるチャンスです。聖書こそ変更されることのない神のことばが記されたものです。

 現象、奇跡、超自然なことにばかりに目をむけるのでなく、神様が私たちを愛して私たちのために、するべきことや、してはいけないことを記してくださった聖書の言葉を忠実に守る、ということが大事なのではないでしょうか。

 神様のあわれみと慈しみを通して与えられていたヨブの繁栄でしたが、自分の義を主張したところにヨブの問題がありました。

 皆さんもヨブ記を読んでいただいて、特に32章のエリフの登場から読んでいただいて、ヨブの問題点はどこか、そのことを通して皆さんも自分の気付かないでいる罪を神様の前に見いだしていただければと思います。

  へりくだった心を持って、神様が沈黙されている理由を見つけることも大事であると思います。

【デボーションポイント】   
神が沈黙される中でも「方正謹厳」(ほうせいきんげん:行いが正しくまじめで、慎み深いようす)である。
(マタイ23:23)
「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要な者、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」

 「誠実」という言葉は、「信仰」「忠実」「信頼」という意味を含む言葉です。表面的な神への信仰ではなく、心からの誠実をもって方正謹厳に神に仕える、その姿勢が大事です。

【短歌】 
蟻を見て  神の沈黙   続く中
最初の定め  忠実に守る
 
 蟻はいじめられてもいじめられても、列を作り直し列に加わり直して餌をとりにいきます。蟻は、最初の定め(習性)を神に与えられてから今日に至るまで、神の沈黙は続いていますが、怒ることなく飽きることなく、神の最初の言葉、掟、習性を忠実に守り続けています。
 
 それを見る時、「神の沈黙」というのは、私たちに心からの忠実さ、誠実さを試しておられるのではないかと教えられます。 いくら待っても逆境、環境が変わらない、その時に私たちの心は神への誠実さを捨ててしまうような心の状況が起こるのではないでしょうか。罪が働きかけてきて、いくら祈っても神様は答えてくれないと、忠実さを失わせるような心の葛藤が出てくるかもしれません。

 しかし、二千年前に私たちの罪のために十字架で御子イエス・キリストが血潮を流された、この出来事一つをもってしても、これ以上神様から何を応えていただきたいことがあるでしょうか。それだけで十分、という神様の贖いの御業を見て、最後まで神を敬う敬虔な歩みを続けていく、そういうことを神様は見ておられると思います。