■2018年12月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
鶴立企佇(かくりつきちょ) 

主題聖句(詩篇39:7)
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

 

『鶴立企佇』
(かくりつきちょ)
「心から待ち望むこと。鶴がつま先で立ち、首を伸ばして遠くを見る姿から。」
 
 「待ち望む」という心には、必ず約束は守られるという大きな期待と確信があります。私たちは、よみがえられたイエス様が私たちの目に見える姿で再び地上に来られることを待ち望んでいます。イエス様が再び来られるという約束が、私たちの地上での唯一の喜びであり楽しみであり望みであり、この地上で罪と戦い闇の力と戦い抜くための支えであるからです。
 「私の望み、それはあなたです。」この告白が今日のメッセージです。
ポイントは「鶴立企佇」。鶴がつま先で立ち首を伸ばして、まるで遠くを望み見るかのように、私たちも心から待ち望む気持ちを失わないようにして、4回のアドベントのお勧めをさせていただきたいと思います。
 今日はこの「待ち望む」という心に至るための最初のポイントを、「イスラエルへの神のあわれみ」というところからお話しさせていただきます。

1.イスラエルへの神のあわれみ(出エジプト2:23) 
「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。」
 
 創世記の最後にヨセフ物語として、アブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)の家族70人ほどが、カナンの地からエジプトに移り住むことになった経緯が書かれてあります。
 ヤコブの愛する子ヨセフは、色々あって先にエジプトで、パロに次ぐ地位の者になっていましたから、初めはイスラエル人も好意をもってエジプトに迎えられました。
 しかし、出エジプト記では、ヨセフも亡くなり、パロも亡くなって、時代が変わり、ヨセフの功績を知らない新しいパロは、増え広がったイスラエル民族に脅威を感じます。そしてその力を削ぐために、生涯を奴隷の身分として働かせました。それでも民族は弱る気配がなかったので、労役は過酷さを増していきました。
 そしてイスラエル人は「うめき、わめいた」とあります。彼らの心の状況は苦役と悲しみと失望でグチャグチャに砕かれていました。
 彼らの労役の叫びが神に届きます。神様は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束を思い起こし、モーセをお遣わしになり、彼らをエジプトから救い出されたのです。神様が心動かされた理由を、二つのみことばから見ることができます。 

★詩篇34:18   
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
★詩篇147:3
「主は心の打ち砕かれた者を癒し彼らの傷を包む。」 
 汝の敵を愛せよと言われた神様は、信仰熱心か不信仰か、神を賛美する人なのか神に不平不満ばかり言っている人なのか、そういうこととは関係なく、病んでいる人、苦しんでいる人を見捨てられない、あわれみ深い神様であります。
 エジプトで長く奴隷状態だったイスラエルは、一部を除いてほとんどが不信仰だったことでしょう。ただ彼らが悔いくずおれ、悲しみ苦しんでいるから、神は彼らを深くあわれまれたのです。
 アブラハムとの約束はもちろんありましたが、神様の動機は、彼らへの「深いあわれみ」です。
 神のあわれみによるイスラエルの救いの体験は、異邦人である私たちにも適用できます。

2.罪の奴隷への神のあわれみ    
A)罪の奴隷(ヨハネ8:34)
「イエスは彼らに応えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」

B)罪の奴隷から救い出された(ガラテヤ5:1)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

 イスラエルはエジプトでの奴隷状態から逃げられませんでした。能力はあっても利用されるだけで報いはありません。どんなに頑張っても奴隷以外のものにはなれませんでした。
 私たちも同じです。罪から逃れられず、罪の力に抵抗して正しいことをしようとしても長続きしません。所詮ムリ、こんなものとあきらめて流されて行くほかありません。
 しかし、私たちは真理を知りました。私たちは神のかたちにつくられたもので、罪の奴隷として創造されたのではありません。だから、元のあるべき姿に戻る希望をもってイエス・キリストを信じたのです。
 イスラエルがモーセによってエジプトから脱出し約束のカナンの地に向かったように、私たちもキリストを通して神の国の相続者として、あるべき道へと進んで行っている途上です。
 この時、私たちは、自分の罪を嘆き悲しみわめくということが大事です。イエス様に近づけば近づくほど沢山の罪が見えてくる、失望と絶望、迷いと不安に心の底からうめくのです。
 そういうところを通って、神の深いあわれみを体験して、「本当に神様はおられる、私たちは罪の奴隷状態から解放されているのだ、罪と向き合って戦うことができるんだ。」と知るのです。
 「自分にはサタン(罪)の鎖がついている。勝利するなんて、自制するなんて私にはできない。」などと思わないでください。それは、そう思わせているサタンの洗脳です。真理は違います。
 信じる者にはイエス様の代価の力が施行されます。神の奴隷としての権利が行使されます。信じないから行使できないのです。
 イエス様が、その尊い命の代価を払って私たちを買い取ってくださったのです。私たちの主人はイエス様なのです。信じ続けることが大事です。
 救われる資格も望みも何の良い所もないのに、神はただあわれみのゆえに恵みによって私たちの罪を贖ってくださいました。
 罪の奴隷であった私たちを、神様はご自分の義の奴隷へと買い取って、私たちに自由を与えてくださったのです。
 そのような体験をすると、私たちはもう、うめきわめかなくてもよくなるのです。

3.今、待ち望むことは?(テトス2:11-13)  
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

★「待ち望む」とは、一度あわれみを受けた者が神を信頼している心の現われのことである。
 ここでパウロは、キリスト・イエスの栄光ある現われを、うめきわめいて待て、とは書いていません。
 神は信じる者に無条件に救いを与えてくださったという、神の「あわれみ深さ」をあなたは知ったのだから、ただ信じて、待ち望むだけでいいんですよとパウロは教えています。
 聖書の教える「待ち望む」とは、神のあわれみを体験し、神を信頼する者に生まれる心の姿勢なのです。イスラエルは荒野の旅で何回もわめきました。
 神様は、民が水が苦いと言えば甘くし、水がないと言えば水を出し、パンが食べたいと言えば毎朝マナを降らせてくださいました。肉が食べたいといえば、ウズラが飛んで落ちてきました。
 何度もこの奇跡を体験しながら、それでもイスラエルはまだ、わめき続けて、「待ち望む」ことができなかったのです。なぜでしょうか。
それは、神様の深いあわれみを信じられなかったからです。信頼を持たなければ待ち望むことはできないのです。信じていないから、イライラするのです。
 十字架で罪の赦しを成し遂げて、「あわれみ深さ」を疑いなく信じることができるようにと歴史に神様が刻んでくださったのならば、私たちは待ち望むことができます。
 一度神様が約束を守られたなら、二度目の約束を守られないことがあるでしょうか。神様は100回約束されたなら100回必ず守られる方です。だから、キリストの再臨も、私たちはうめきわめかずに待ち望むことが出来るのです。そのような待ち望み方を、私たちはこれからしていくのです。
 ですからパウロは、救いのためにいけにえの肉体をもってこの地に来られたイエス様の初臨はすでに成就したのだから、次は二回目に来るという約束をしてくださったので、そのことを全ての教会に教えさとすのだと言ったのです。
 キリストの再臨を待ち望む方法は、「安心して」です。約束してくださった方は確かな方ですから、神様が約束してくださったのですから、「安心して」私たちは待ち望みます。
 たとえ私たちが生きている間に来られなくとも、キリストの再臨は必ずあるのです。地上で成就しなくても天で成就するのです。
 この世の時間だけに心を奪われず、永遠という時間を神の前に信じて待ち望むのです。
 私たちはイエス様が再びおいでになるのを期待して、みことばに励まされ、兄弟姉妹との交わりに励まされて、「あなたがたは、この世では苦しみがある。しかし勇敢でありなさい。私は世に勝ったのです」という力強い歩みを受けるために、教会に来ています。
 砕かれ救われた体験をした者は待ち望みます。「私が与える平安はこの世のものとは異なる」と言われたその平安を、神は体験させてくださったので今の自分がここにおり、キリストの再臨を待ち続けているわけです。
 「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」とパウロが言うように、再臨の希望を持って、天国に続く道を外れずに歩んでいきましょう。
 キリスト・イエスの栄光の現われの時に、神は大いに報いてくださいます。「あきらめずに信じて待ち続けて良かったー!」と、必ずそう言える日が来るのです。
【俳句】

冬の朝 きょうから始まる アドベント

 私たちは主を待ち望むという喜びのゆえに、冬の朝の寒い中でも礼拝に行きます。主の到来を楽しみに、寒い冬でも心を奮い立たせて礼拝に行くという喜びの気持ちを詠んでみました。そういう期待感を持って、これからもご一緒に主の前に礼拝を捧げていきましょう。