■2023年3月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

人は『尊愛赦人』のために救われた

 

主題聖句(ガラテヤ2:20)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 


【ガラテヤ2:20】の4つのポイント
(1)キリストと共に十字架につけられた
神の愛による罪の赦しが与えられた

 罪の人生を歩んでいた私たちは、罰せられるべき者でした。
しかし、キリストが十字架で罪人として処分されたときに、私たちの罪もそこで同時に処分されました。

 ですから今、たとえ私たちに罪人の現実が見えたとしても、神様はキリストの十字架というフィルターを通して私たちを見てくださるので、私たちの罪は処分済、私たちは罪赦された者とみなされます。
 
 そしてそのことは、キリストの名による水のバプテスマという、キリストと一つに合わされる儀式を受けることを通して現実に成就します。私たちはキリストの死と葬りと復活に一つに合わせられた者です。
 
 キリストと共に十字架につけられて、私たちの罪は処分され、キリストがよみがえられたように、私たちもキリストのいのちによってキリストと共に復活させられて、新しく造り変えられた自分が今ここに生きているのです。

(2)キリストが私のうちに生きておられる
神の愛によって新創造された私に、いのちであるキリストが宿られる

 罪赦された私たちは、新しく創造された者です。すなわち、ここにいる私たちは、赦される以前のいのちによって生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられ、キリストのいのちによって生かされている、新しく創造された者なのです。

(3)肉にあって生きている
 罪の宿る肉体のうちに、罪に支配されない新しい私の魂が生きている
 キリストのいのちは、罪に支配されることがありません。ですから、キリストのいのちに生きている私たちは、肉に宿っている罪の力、誘惑や貪欲に支配されることはありません。
 
 しかし、影響は受けます。一時的に罪の影響は受けますが、それに縛られて罪から離れられない、ということはありません。心を入れ替えることができます。これがキリストのいのちを頂いている者の良き知らせです。
 
 欲を手放せず、心を入れ替えることができないのは、貪欲という罪です。クリスチャンであっても、自分はキリストのいのちを宿しているのだということを認めていないと、そのようになります。
 
 クリスチャンであるあなたのいのちは、キリストご自身です。
キリストは罪の結果、一度死なれましたが、死に勝利してよみがえられました。私たちクリスチャンも一時的に罪や欲望に影響されることがあっても、それを切り離す力、キリストのよみがえりのいのちが宿っていますから、罪に立ち向かえば止められるのです。
 
 立ち向かえないのは、離れたくないという隠れた本性があるからです。罪を手放したくない、と自分で掴み続けているので、キリストのいのちが宿りません。キリストを信じていない時の自分のいのちが生き続けているのです。

 信じるだけでキリストのいのちは宿ってくださいます。強い貪欲よりも更に強く私たちを支配してくださるキリストのいのちが、内に宿られていることを信じましょう。

(4)神の御子を信じる信仰
罪のもたらす貪欲に打ち勝ち、神の愛に頼る互いに赦し合う人生
 神の御子を信じるとは、全面的に神様に頼るということです。
神に頼らないでは、罪と戦って勝利することも、真理に歩むこともできません。私たちは弱いのです。
 
 世捨て人のように人里離れて住むのではなく、誘惑の多いこの世で、罪と戦って生きることが出来るのがクリスチャンです。これは奇跡です。神の力がなければ絶対にできません。この罪の世で、キリストが清く生きられたように、私たちもそのように生きるようにと、神様はご計画されているのです。罪人の救いとはそういう意味です。
 
 自分の願望が叶えられるためにイエス様が十字架にかかられたのではありません。まず神様の私たちへの愛、罪人が救われた目的が第一に優先されて、次に私たちの願いがそこに組み込まれて、かなえられる(こともある)のです。

【ガラテヤ2:20】内容観察とまとめ
 私の罪はキリストと共に十字架で処分されました。今の私の命はキリストの命です。新しい命が罪の宿る肉体のうちに生きているのは、神の愛を最も重要なものとして互いに赦し合う、罪と貪欲に打ち勝つ神の子として生きるための人生なのです。

【デボーションポイント】
 罪に縛られた世界から救い出してくださった神様の愛には、はっきりとした目的や計画があるのです。

 神様の救いは、単に溺れている人をかわいそうに思った、というのではありません。罪の奴隷として生きるのではなく、神のかたちとして生きるようにという願いをもって罪人を救われます。
 
 神のかたちとはキリストであり、キリストとは(エペソ4:32) 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、これがこの地上を歩まれたイエス様の姿です。

 教会のすべてのクリスチャンたちは、これを目指してクリスチャン生活を進めていくようにと神様は願って、あなたを罪の奴隷から解放し、罪の裁きから救い出して、今導いてくださっておられるのです。

(エレミヤ29:11)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

【俳句】
罪人に   春光注ぐ   赦しの愛

 罪人にとって、神様の赦しは春の光、希望です。
 
 寒い冬のようだった罪の人生が、イエス・キリストを通して春光が注がれ、心温かく明るく変えられていきます。そして季節が進んでいくように、私たちの心も清められ成長していくのです。