■2019年11月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

春の雨、後の雨

主題聖句(ゼカリヤ10:1)
後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。

 

 イスラエルの季節は、雨季と乾季に分かれています。10月終わりころ、秋の雨(初めの雨)と呼ばれる大雨と共に雨季が始まります。農夫は土を耕し種を蒔き始めます。その後も、随時雨が降りながら、翌年3月にはまた激しく雨が降り(春の雨、後の雨)、雨季が終わって作物は収穫を迎えます。

 今年の主題聖句(ヤコブ5:7-8)に、「秋の雨や春の雨が降るまで耐え忍びなさい、主の来られるのが近いから」と言われているのは「聖霊の雨の季節」を意味しています。聖霊の雨が降り始めたら魂の収穫が近い、主が再び来られるから、ということで初代教会の人たちは、雨を求める農夫のように、聖霊の雨の降り注ぎを、待ち望みました。
 先週は秋の雨(初めの雨)についてお話しいたしました。ペンテコステの祭りの日に、初代教会の人々の上に聖霊(神の霊)が注がれて、ヨエル書に預言されていたように、すべての人に聖霊が注がれるという霊的雨季が始まりました。
 今、私たちも、その聖霊の雨の季節の中におります。秋の雨(初めの雨)は、私たちの魂をきよめ、私たちの心を砕き、神のみことばが蒔かれて、それが育って実が実るということの準備のための雨でした。
 今日は「春の雨、後の雨」について、お話いたします。

1.収穫への段階(マルコ4:26~29)  
「また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』」

秋の雨、初めの雨が降る(雨季の始まり)  
 第一段階)種が蒔かれる
 第二段階)芽が出る
 第三段階)苗へと成長
 第四段階)穂がつく
 第五段階)穂の中に実が入る

春の雨、後の雨が降る(雨季が終わる)   
 第六段階)実が熟する
 第七段階)かまを入れる
 
 イエス様は収穫に至るまでの種の変化についてお話しされました。
「地は人手によらず」と記されているのは、天からの雨により土が十分水を含んで潤っていることを意味しています。ですから、種が蒔かれる前に、季節が乾季から雨季へと移行して、まず秋の雨(初めの雨)が降って土が柔らかくなっていることが前提となっています。
 また、雨は初めと終わりだけでなく、雨季の5か月の間にも適度に降って土を潤し続けます。
 そうして種は芽、苗、穂、穂の中に実、そして実が熟する、というふうに姿を変えて成長します。収穫の鎌を入れる前に、「実が熟する」という段階がありますが、それが春の雨(後の雨)の時期です。
 
 このように種が植えられ育ち実が入り実が熟するというこの期間は、初代教会からキリストの再臨までの教会の成長の期間を表しています。それはまた、私たちの個人的な体験でもあります。
 神様の霊(聖霊)に初めて触れられて、そこから新しい人生が始まります。神様に向かって心を開き、そこに聖霊の雨を注いでいただき、心きよめられ、くだかれて、へりくだって敬虔な心が整えられ、そこにみことばの種がまかれて成長し、収穫の時を待つという流れです。
 
 私たちの魂の救い、収穫のためには、最初の雨の体験と終わりの雨の体験という二つの聖霊体験が必要なのですが、その間にあっても繰り返し何度も何度も聖霊に触れられ満たされ成長していく過程が大切であることが、種の成長の様子から見てわかります。
 
 何度も聖霊の雨を受けることが必要なのです。その経験をするたびに、私たちは新しい変化を自分の内に感じて更にキリストの姿に変えられていきます。内側にそれを実感しながら、キリストの再臨を待つことが出来るようになるのです。
 
 内なる変化が十分に実感できないクリスチャンがいるならば、この雨季の間に聖霊の雨を受けていない状況があるかもしれません。芽のまま、苗のまま、穂のままで留まっているのではないかと振り返ってみる必要があります。クリスチャン生活の形はできたけれど、内なる人徳的なところでの聖霊の実が見られない、ノンクリスチャンの時とさほど変わらないとしたら、それは聖霊の雨を受けることが少なすぎるということです。
 種(信仰)の成長のどの段階にあっても、聖霊の雨の注ぎを充分にいただく体験を求めていきましょう。
2.これから起こる春の雨、後の雨(ローマ11:25~27)
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』」

 (ローマ11:25~27)には,これから起こる神様のご計画が書かれてあります。
 2千年前にイエス・キリストを拒んで今に至るまで、一部の改心者を除いて、イスラエルはかたくなにユダヤ教に留まっています。
 イエス・キリストを受け入れた異邦人教会は、キリストの花嫁としてきよく成長し、成熟して、栄光の教会として天に迎え入れられます。
 そして救われるべき異邦人がすべて救われた後、イスラエルはイエス・キリストを信じて罪赦され、信仰による義をいただいて、皆救われます。これがアブラハムに与えられた神の約束の成就であり、それが春の雨(後の雨)が降ったことのしるしです。 
 
 イスラエルはまだイエスをキリストとは認めていません。ですから春の雨(後の雨)はまだ降っていません。
 イスラエルが民族的に国家的に聖霊に触れられて、「イエスはキリストだ」と目が開かれて、イスラエルが皆救われる、という出来事が、これから歴史の上に目に見える形でおこりますので、私たちはイスラエルによく目を向けておく必要があります。
 色々な預言書において、キリストを信じる教会が携挙され、イスラエルは地上において皆救われて、残された全世界の人々にキリストの福音を宣べ伝えるということが語られています。壮大な神様のご計画を語り尽くすことはできませんが、大事な今日のポイントは、

A)春の雨(後の雨)の降ったしるしは、教会が完成しキリストのもとに引き上げられる携挙であること。
 
 私たちはこれに預かりたいと願う者です。神様の霊、おこころである聖霊様が触れてくださり、一つとなってくださるような体験、御霊に歩む日々を求めていきましょう。

B)春の雨(後の雨)が降ったもう一つのしるしは、イスラエルが、「イエスはキリスト」と国家的に宣言する時です。
 
 神の選民であるイスラエルが、キリストを信じ受け入れるという民族の救いが実現することが大きなしるしです。目で見ることのできる歴史的瞬間です。
 彼らイスラエルが信じる前に、聖霊体験を通して世界的なリバイバルが起きて、世界中の教会が初代教会のように主の再臨を待ち望む時が来ますから、私たちはもっともっと聖霊様を体験することを求めていきましょう。

3.春の雨、後の雨の個人的体験の証し  
 春の雨(後の雨)の個人的体験とはどういうものでしょうか。私たちはまだ誰も体験していませんので、聖書の中からその証を見てみましょう。

A)イエス様(ヨハネ14:10)
「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」
 イエス様は、父なる神様と、思いも言葉も行いも100%一体です。
これが成熟したクリスチャンの姿であると言えるでしょう。
B)エノク(創世記5:22~24)      
「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
 
 エノクの「後の雨」の個人的体験の証しは、生きたまま天に携え挙げられるという「携挙」の出来事です。後の雨の予表としてあらわされています。そして「神と共に歩んだ」ということが、最後の聖霊体験である「携挙」に至るための条件ということができます。
 
 私たちは携挙されることを望んでいます。この地上にやってくる大患難、神の裁きの様々の災難に合う前に、神のあわれみによって引き上げられるという携挙を信じています。
 ですから、今の信仰の戦い、試練の苦しみは、それを十分に体験して信仰が成熟して、携挙にあずかれるようにという、クリスチャンへの神様のお取り扱いだと言えるでしょう。
 その苦しみの中で、聖霊を求めて、触れられて、きよめられて、イエス様のもとに引き上げられる準備がなされるのです。
 今どんなに苦しくても信仰の戦いを避けないように、真正面から進んでいきましょう。苦しみの中でこそ神を求める飢え渇きの心が湧きあがるのです。
 
 今日の主題聖句に「後の雨のときに、主の雨を求めよ」とあります。今後クリスチャンがこの地上を歩むにあたって、生きにくい社会状況に変わっていきます。それが後の雨の時期です。いまこの日本においては、信仰という言葉、宗教的言葉には一切耳を貸さないという状況があります。本当に真実に生きたいと思っているけれど、宗教は信じられない、という空気があります。
 この壁を打ち破るには、神の前における正しい良心によって生きるという姿勢を通して、本物はここだということを証ししていく、今はそういう時期にきています。
 そのためには多少の苦しみを通らなければならないことを覚悟してください。その苦しみは雨を求めるための飢え渇きにつながるのです。

【デボーションポイント】          
◎今は後の雨の時期です。豊富な聖霊体験によって「老成円熟」(ろうせいえんじゅく)を目指しましょう。

★「老成円熟」の意味
豊富な経験に裏打ちされて、人格・知識・技能・教養などが十分に熟達していること。「老成」は経験を十分に積んで物事にたけていること。「円熟」は人格や技量などが十分に発達していて、豊かな内容をもつこと。

【俳句】
落葉は  熟した柿の  しるしかな

 店で売られている柿は、まだ青い頃に取られて色づいたものですが、落葉が始まるころまで枝につながった柿は、本当に熟して美味しいものです。私たちも熟したクリスチャンを目指して歩んでいきましょう。