■2021年11月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)


善の種を蒔き続ける

 

主題聖句(ガラテヤ6:9)
善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

 

 種まきの話が続いております。今日は(ガラテヤ6:9)から、「善の種を蒔き続ける」と題してお話いたします。

「飽いてはいけません」
 これは、「うまずたゆまず」「怠けずにおれば」「うみ疲れてはならない」とも訳されています。まとめると「報われない無駄なことのように思って嫌になり、疲れ果て、やめてしまってはなりません。」という意味に捉えることが出来ます。

「時が来て」
 これは「良いことがもつ、それ固有の時に」という意味があり、「時が来ると必ず」「良いおりに」とも訳されています。

 善を行うというのは、あまりに大きな良い種まきなので、それが実を結び刈り取るまでには時間がかかりますが、一番最適な時に「必ず刈り取りの時がやって来るのですから、諦めず善の種を蒔き続けましょう。」と、諦めかけている人への励ましの言葉となっています。

 「人は種を蒔けば必ず刈り取りをすることになる」という種まきの原則は、良いことに関しても神様の約束として信仰を働かせることができるのです。

 クリスチャン生活の中にみことばが実現しないことが多い、と考える人もいると思います。それぞれの神のことばに対して、私たちの人生にそのみことばが実るためには、時間が定まっているのです。ですから時がくれば必ずそのみことばが実現すると信じて歩んでいきましょう。

「失望せずに」
 なぜ、「失望せずに」と勧めることが出来るのか、聖書から少しご紹介して、皆さんが少しでも「時が来る」ということに対して希望をもって刈り取りを待っていただきたいと思います。

◎(第1ペテロ1:21)
「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

時を定められた神に信頼と望みを持つ
 私たちが神様のおことばを信じ約束を信じるのは、神様が本当におられるからです。私たちは時を定められた神に信頼と望みを持っているので、待つことが出来、また失望しないでいられます。自分の判断で期待する「時」ではなく、神様のおこころに合わせて神様のお定めになった「時」を信頼して委ねて待つならば、決して失望することはありません。その根拠を(ローマ5:5)から見てみましょう。

◎(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

歴史に刻まれた私たちへの神の愛が根拠
 イエス・キリストは歴史上の人物としてお生まれになり、そして聖書に書かれてある救いの御業を完全に成就してくださいました。この歴史的事実は誰にも否定できません。
 
 十字架の御業は、神が私たちを愛しておられる証です。私たちが罪のために罪とともに滅びてほしくない、という神様の愛のゆえに、罪のないひとり子イエス・キリストの上に私たちの罪を負わせて、私たちの身代わりに御子を十字架の上で裁かれたのです。そんな大きな犠牲をもって神の愛を現わしてくださったのが十字架の出来事です。
 
 旧約聖書の預言の成就であるこの歴史的な一つの出来事のゆえに、私たちは聖書のおことば全部を信じ、信頼し、希望を持ちます。現実にどのような神に反するようなものが現れても、神のおことばは必ず実現すると信じて歩むことができるのです。

◎(第1テモテ1:15)
「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にこられた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

多くの証言によるイエス・キリストの生涯
 パウロ先生はなぜ、キリスト・イエスが罪人を救うためにこの世に来られた、ということが真実であると判断できたのでしょうか。それは多くの証言者によりイエス様の生涯が語られ続けていたからです。多くの証人がいたのです。
 
 私たちは少数ですが、真理だから真理に基づいて歩むという道を選びました。偽りの間違った考え方や人生から、神の創造された世界であることを前提に神を信じ神の教えに歩む人生を生きています。

 多くの人は欲望を満たすために神様を無視してきて、このような罪の世界、理不尽な矛盾した世界が生まれていることに何となく気付いていても、それでも貪欲を自制出来ないでいるのが現状です。
 
 クリスチャンも、悪い虚しい歩み方であることに気付き始めて、イエス・キリストに出会って、今に至っています。たとえ最初は病気や苦難によって、少しでも楽になるように助けて頂いたとしても、そこでクリスチャン生活が終わるわけではありません。そこからが始まりです。神が私たちにそのような御力を現わされたのは、私たちが善をもって悪に打ち勝つクリスチャン生活を歩むためなのです。
 
(ローマ12:21)
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 このみことばは実現可能な神のおことばです。その姿勢を崩してしまっては悪と妥協してしまうことになります。
 
 (第1ペテロ3:9)「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」
 クリスチャンはしっかりこれを心掛け、自分の生きざまの信念とすべきです。いますぐ100%は出来なくても、一つでも多くできるようになろうと目指すべきです。
 
 私たちは正義の宿る神の国という祝福を受け継ぐためにイエス様に救われたのですから、今日からでも遅くありません。悪に対し正義を貫くように努めましょう。あきらめてはいけません。私たちの国籍は天にあるのです。天に国籍のある者たちの生き方を、神様は見てくださっておられます。
 
 イエス様の生涯は、ご自分の働きを始められたときから、多くの反対者に囲まれ、多くの苦しみとストレスを受けられました。それでも罪をおかされなかったので、私たちの救い主となることがお出来になりました。イエス様の楽しみは、この地上にはありませんでした。死を超えた先の永遠の世界を見ておられたのです。
 
 私たちも最後にはこの地上での苦しみを忘れるほどの喜びが待っています。そこに望みを持って生きるのがクリスチャンです。私たちはその望みをもって、この悪の世界で善を行って生きる者なのです。

◎特徴的重要ポイント
善を行い続けることは、主イエス・キリストを信じ続ける者たちがもつ特徴の一つである。

 あなたがイエス・キリストを信じて、神の国を信じて、死後の世界を信じて、新しい天と新しい地とが創造されることを信じているならば、善を行い続けることが、その信仰の証しです。

 死後の世界があり、新しい天と地がやってくる、そのためにこの古い罪の世界は裁かれるのです。正義を全うする者たちの希望は、神の国、新しい天と地が創造されるという希望です。この希望があればこそ、私たちがこの地上で善を行い続ける意味があります。

 未来に神のことばが100%成就する時を私たちは信じているので、悪を持って悪に報いず、侮辱を持って侮辱に報いず、悪に対して善をもって打ち勝つという姿勢と信仰を持って歩むのです。
 
 神様は私たちが罪を犯すことをご存じですが、善を行うことをも期待しておられます。

 ダビデは、神様から選ばれ、預言者サムエルから油注ぎも受けて、次期王様に任命されていました。しかし、現実に王として振る舞い、国を支配していたのは初代サウル王様で、ダビデを殺そうと追いかけ回していました。
 
 ですから、サウル王様に反旗を翻して、戦って倒してもよかったのですがしかし、ダビデはひたすら逃げて争わず、サウル王様を手にかける機会があっても決して悪に悪をもって報いることはしませんでした。かえって祝福しました。サウル王も神様から油注ぎを受けた王様だからです。神にさばきをゆだねたのです。
 
 また、後に王となったダビデは、ある日バテ・シェバに姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤに殺人の罪を犯します。この罪は死罪です。しかし不思議なことに、預言者ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった。あなたは死なない。」と告げて、ダビデは赦されて死刑を免れたのです。

 しかし、「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。」と、赦されても、蒔いた種の刈り取りはしなくてはなりませんでした。
 
 ダビデがなぜ死罪を赦されたのかを考えてみますと、神に対して敬虔であったダビデは、かつてサウル王様のいのちを手にかけることをせず善の種を蒔きました。その刈り取る実として神様はダビデを憐れんでくださり、ダビデのいのちを手にかけないでくださったのです。
 
 善の報いには、天に宝を蓄えられる場合と、この地上で大きな罪を犯して律法的には処分を受けなくてはならないのに、その善行のゆえに軽減されるということもあるということです。

 だからといって、蒔いた悪い種は刈り取らねばならないことも忘れてはいけません。蒔いた種は実を結びます。実を結んだときに、それがいのちにかかわる大きな問題であれば、神は善を行ったことに対する憐みを注いでくださるということをダビデを通して知ることができるでしょう。
 
 ただし、永遠の死、永遠のいのち、というような永遠に関する決定はキリストへの信仰によってしか得ることはできません。その違いはありますので油断することなく、悪から遠ざかり善に親しむことを求めて進んでいっていただきたいと思います。

【俳句】

風巻くとき  冬の到来  身にしみる
     
 北風の吹く本格的な冬の到来が身にしみます。私たちの人生においても、それぞれの人生の季節というものがあります。今は皆さんにとって春でしょうか。冬でしょうか。

 人生の嵐が吹き荒れて、しんどいな、苦しいなと思われる時があります。しかし、時が来ると春も巡ってきますから、信じてあきらめないで進んでいただきたいと思います。