■2018年5月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 福音の喜び  up 2018.5.13


主題聖句(イザヤ35:1)
荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。

 

 

【内容観察】
「なんの役にも立たない死んだような地である荒野や砂漠、荒地にサフランが一面に咲き、喜びと楽しみに溢れるように、主が生き返らせる。」

 「喜び」をテーマにして、今日はその5回目になります。クリスチャンにとって「喜び」はトレードマークのようなものです。神様に愛され赦されている、救われているという喜びが、いつも私たちの内にあるからです。   
 福音とは「良き知らせ」という意味です。「福音の喜び」とは、良い知らせによってもたらされる喜びのことです。
 唯一の義なる聖い神が、罪深い愚かな私を愛してくださっている、見捨てることなく無視することなく愛し続けて下さっている、この便りが私たちにとっては何よりも大きな「良き知らせ」なのです。
 この世では、取るに足りない愚かなもの、才能も力もないものは、皆無視され除外されていきます。勝ち組、負け組と分けられて、多くがそれを受け入れて暮らしています。
 しかし、クリスチャンにとっては勝ち負けは問題ではありません。愛されているということに気がつくと、全ては益ととらえることが出来るように心が変えられて行くからです。そういう「良き知らせ」を私たちは聞いているのです。
 
 (イザヤ35:1)を読みますと、荒野、砂漠、荒地が死地であるにもかかわらず、楽しみ喜んでいます。サフランの花を咲かすと神様が約束してくださったから、その良き知らせのゆえに喜んでいます。
 サフランは薬草にも香料にも調味料にも使われる利用価値の高い花です。今のあなたの人生、今のあなたの心、今のあなたの環境は、荒野、砂漠、荒地のようであるかもしれません。しかし、イエス・キリストの救いによって、サフランのような花が一面に咲き誇る、そんな人生、心、環境に、神様は変えて下さいます。そんな約束の良き知らせが、聖書には多く書かれてあるのです。
 私たちはクリスチャン生活の最後に「ああ、自分の人生は荒野、砂漠、荒地のようであったけれども、まるでサフランの花がいっぱい咲いてる土地のように変えられた!!」と喜んで天に帰って行けるのです。
 そんな「福音の喜び」として、今日は4つの「良き知らせ」をご紹介したいと思います。

1.死地のための福音(イザヤ41:18)
「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」

◎無関心、無気力、無感動な心に水が与えられる。 
 死地――死んだような役に立たない土地――無関心、無気力、無感動、そんな私たちの心にこそ、神様の福音は必要です。
 世の流れに流されて、惰性で生きて希望も目標もなく、すべてが面倒くさくて何もやる気がしない、そんな心の人にキリストの救いの福音が与えられているというのが、ここでのポイントです。

2.渇けるもののための福音(ヨハネ7:37-38)
「祭りの最後の大祭の日に、イエスは立って叫ばれた、『渇く者はわたしの所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているように、『そのお腹から、清水が川となって流れ出るであろう。』」(新共同訳)

◎すぐに投げ出してしまう人に、湧き上がる清水が与えられる
 「渇いてる人!私の所に来て飲みなさい。私から飲む人は聖書の約束通り、腹から命の水が川々となって流れ出るほどに大きな満たしと喜びがあふれてきますよ!」 ――そんな大きな救いを与えてくださるのが、イエス・キリストの福音であります。それは神様に愛されているということを実感したときの喜びです。
 愛のない生活には喜びがありません。あるのは湧き上がる喜びではなく、何かを体験し願望が与えられて願いが叶ったことの喜びでしょう。
 しかし、神様の約束しておられる喜びは愛の喜びですから、心の底から無意識に湧き上がってくるような喜び、そして川のように流れ出るような喜びであります。
 クリスチャンたち!愛する兄弟姉妹たち!あなたたちは今、湧き上がってくるような喜びが、内側にあるでしょうか?もし無ければ、こんな素晴らしい福音があることを忘れてしまっているか、自分が渇いていることに気付いていないのか・・・。
 クリスチャンは神様の愛に渇くということが無くなるものでしょうか?満たされていたら、その愛に喜んでいるはずなのです。清水が川となって流れ出ているはずなのです。
 私にはそんな喜びがないと言う兄弟姉妹がいたら、あなたにも渇けるもののための福音として、イエス・キリストの十字架の御業は必要な良き知らせだと受け止めて、また自分の心を吟味してみてください。
 特に、すぐに投げ出してしまう人、集中力がなく長続きしない人。愛を感じて愛の心が与えられると不思議と長続きするものです。清水が川となって流れ出るという状況が起こるからです。
 イエス・キリストの救いを通して、神が私を愛してくださっているということに気づいて心が開かれると、神様の愛が注がれているということのゆえに嬉しくなってきます。
 皆さんが神様の愛を知っていくことを、神様は願っておられます。神の愛に渇ける者のために、良き知らせが聖書の中には詰まっているのです。

3.真の神に渇く者のための福音(詩編63:1,8) 
「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、わたしをささえてくださいます。」

◎不敬虔な世界で、唯一の神である創造主を求める者に出会ってくださる
 真の神――真理ですね。「我々は何のために生まれてきたのか、なぜここにいるのか、なぜ世界があるのか」と、私たちには生きることへの葛藤や存在の疑問があります。それは魂が真理を求めている証拠です。そのように真理に渇く人々の為に神様が与えて下さったイエス・キリストの良き知らせを、詩編63編から見てみましょう。
 
 ダビデは、イスラエルのために尽力した挙句にサウル王様にねたまれて、何も王様に悪いことはしていないのに命を狙われて、ユダの荒野で逃亡生活を強いられました。この理不尽な仕打ちに対してダビデは「なんで?!」と神様に当たりませんでした。神様を信頼していたからです。祈りの中で、支えてくださるのは神様だけだと知って、人に頼るのではなく神に頼ったのです。
 神を信頼し続ける者、真に神に渇く者のために、神は現れてくださる、祈りに応えて下さる、そういう良き知らせをこの詩編に見ることが出来ます。
 私たちも不敬虔な世界の中で、唯一の神である創造主を求めるものに神は出会ってくださるという良き知らせ(福音)を聞いています。
 人に何かを求めても何も得られません。人は罪人ですから、期待されても応えることはできないのです。それよりも、確かに答えて下さる救いの神がおられます。
 私たち罪人は直接神様にお願いできなくても、私たちのためにいのちを捨てるほどに愛してくださったイエス・キリストが、父なる神様と私たちとの間に立ってとりなして下さいますから、その愛のゆえに必ずきいていただけるのです。
 神を求める者に、神は近づいてくださいます。そういう約束が聖書の中にたくさん書かれてあります。

4.罪人のための福音(ルカ5:31-32)
「そこで、イエスは応えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」

◎罪という病気のために苦しんでいる人をいやしてくださる。
 神様は私たちが悪いことをしたからとすぐに裁かれる方ではなく、心を入れ替えるチャンスを与えてくださっています。
 それを可能にしてくださったのがイエス様です。イエス様が十字架で私たちの身代わりのさばきを受けて下さったからです。そのあがないの御業のおかげで、罪人の私たちが少しでも罪から離れることが出来るようにと、裁きの執行の猶予を与えてくださっておられます。これが十字架の救いのメッセージです。私たちはイエス様の再臨の時まで裁きが猶予されているのです。
 この世の執行猶予は、その間に罪を犯すと終わります。私たちは神の前に何度も罪を犯してしまいますが、神様は私たちのそんな罪な性質を分かったうえで、「それでも、よくなりたい」という気持ちを失わない者に、恵み深くあられるのです。
 自分はだめだ、もういいわ、とあきらめて開き直ることは、神の赦しの愛をないがしろにする考え方です。医者の助言を聞かないで、生活習慣を改めないならば、その末路はみじめです。私たちも罪を軽々しく思って放っとくと、神様の愛とあわれみをないがしろにしたということで、最後の審判の時は裁かれます。
 今私たちには罪人に残された時間があるのです。今は恵みの時、今は救いの日。神様の愛とあわれみに応えて、少しでも良くなりたいと思って罪から離れていきましょう。その心を神様は信じて、たとえ完成されていなくても天国に入れてくださるのです。
 治りたいという気持ち、それは信じ続けるという心です。「神様はあきらめずに私を治療し続けてくださる、病人を救う良いお医者様」と信じ続けてイエス様のもとに通い続ける者に、神様の恵みの働きが成就すると言えると思います。

【デボーション参考ポイント】
  「道心堅固」=道義心を堅く守ること
 私たちを赦し、罪から離れるのを待ち続けてくださる神様の良いニュースを軽んじることなく、神の愛に応えていく道心堅固な心をもって、クリスチャン生活を歩んでいただきたいと思います。

【俳句】
 
福音は  神愛の滝  天よりの

 
 上から下へと豊かな水が流れ落ちる滝のように、神様は私たちをイエスキリストを通して愛してくださっておられます。この福音の言葉を、神様は滝のように、天より今も降り注いでくださっています。