■2018年2月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 キリストのあわれみ 

主題聖句(ローマ5:6)
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 
 先日は父のあわれみ、親の愛について、伝道師の先生方が語られました。父と子の関係で結ばれる愛は「決して忘れない」という愛です。父として神は私たちを手の平に刻んだと言われています。それは、決して忘れることはないし、何かあったら手をにぎるように私たちを危険から守ってくださるという意味です。
 また、先々週「神のあわれみ」で語ったように、ぶどう園の主人が5時から雇った人にも、朝から雇った人と同じ金額の賃金を払ったことから、主人は雇い主という立場からというよりも、ただこの遅く雇われた人々へのあわれみによって心動かされており、このあわれみこそが神様のみこころであることを学びました。
 神のあわれみ、父のあわれみと、同じ神であってもそのあわれみの対応の仕方は異なります。それは主人として、父として、そして今週学ぶキリストとしての違いです。キリストは救い主、救世主としてのあわれみを示してくださいました。
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(ローマ5:6)
 ここにキリストとしての弱い者、不敬虔な者へのあわれみが示されています。

1.不敬虔な者へのあわれみ(ルカ23:34)
「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 」
 このような祈りを十字架でささげられているイエス様のそばで、その高級な着物をくじ引きしている兵士たち。死に直面に苦しんでいる人の前で、その人の持ち物を自分の物にしようと画策している不敬虔な人々、イエス様はなぜこのような人々のために赦しを請う祈りをされたのでしょうか。

A)無知な神への背信
◎幼子は、自分が何をしているのかわからずに動く。
 イエス様はすべてをご存知でした。しかし、彼らはイエス様のことも、これから何が起こるのかも、さらに自分たちの行いがいかに不敬虔であるかも全くわからない、無知ゆえにこのようなことをしているのだと、彼らの無知をイエス様はあわれみ、とりなして祈ってくださったのです。無知とは幼子です。何をしているのかわからずに行動しているので、しつけなければなりません。そんな幼子の無知な状況はあわれむしかありません。

B)あわれみによる赦し
 無知ゆえにあわれみによる赦しを与えられました。
◎赦すとは、未来を与えること。
◎赦さないことは、ピリオドを打つこと。
 裁くとは結論を出すことで、その未来はありません。しかし、例えどんなに背信の状況があっても、無知だからという理由がわかったら私たちはあわれみをもって受け入れて、正しい知識を得て無知でなくなり悟りを持てるようにと願いをもって赦します。
 義も救いも滅びも何もわからない私たちのために、イエス様は救いの道をまず備えてくださいました。私たちが悔い改めたので、イエス様が地上に来られたのではなく、私たちがまだ無知で幼くて、罪も義も救いも滅びも全く理解していない状況の中に、まずイエス様は私たちをあわれんで、どんな人でも救いを得ることができるようにと、まず備えの救いの道を開いてくださいました。信じることが出来ない状況の地上の人たちを信じて、まず救いの道を備えてくださったのです。これが救い主の罪人へのあわれみであり、不敬虔な者をあわれむことが救世主の務めなのです。

【デボーション参考ポイント】
★不敬虔な者をあわれむことが救世主の務め
 罪人を救うとは罪人をあわれむことであり、イエス様は十字架で死ぬことを目的としてお生まれになり、33年間のご生涯を歩まれました。
 キリストにとって務めは救いであり、その動機はあわれみでした。それゆえ無知な罪人に対して常にあわれみの心を向けられましたが、無知でない人々、律法を理解している律法学者やパリサイ人に対しては厳しく接せられました。
 彼らは律法を理解していても感情的にイエス様を救い主と認めたくありませんでした。本当は聖書通りであると知っており、そのためのしるしがいくつもあるのにもかかわらず、自分たちの立場を守り、救い主にその地位を奪われたくないという妬みからイエス様を受入れませんでした。それゆえイエス様は彼らをあわれまれませんでした。そして、彼らに対しては裁きのことばを語られました。彼らの不敬虔は知識で知っていてもそれを認めようとしない不敬虔であり、無知の不敬虔とは違います。しかし、無知であるゆえの不敬虔はあわれみをもって赦しが与えられるのです。

2.弱い者へのあわれみ(ヘブル4:15)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
A)弱さを知っているから
◎肉体を持っていることの弱さを経験している。
 イエス様はただ同情するだけではなく、 同じようなことを経験している者として共感して同情してくださるのです。しかし、罪との戦いや葛藤はあったとしても、罪は犯されませんでした。私たちの肉の弱さ辛さを理解するために、イエス様は肉体をもって地上に来てくださいました。その弱さが最も明らかに示されたのが、イエス様のゲッセマネの祈りです。
 私たちの弱さ、特に死に束縛されるというすべての人が逃れられない死の恐怖の体験をイエス様はゲッセマネでしてくださいました。これは非常に大切な意味深いことです。
 イエス様も私たちと同じ肉体の苦しみを経験されました。しかし私たちはイエス様ほどの罪や死に対しての肉体的、霊的な戦いは経験していません。イエス様は汗が血のようにしたたるほどの極度の精神的な衰弱と圧迫とに陥られたのです。それほどの肉体の弱さの中でも、父なる神の前にしっかりと祈られました。弱さを出すことは罪ではありません。弱さのゆえに引っ張られて行動して、その弱さから逃れようとしてしまうことで罪を犯してしまいます。
 クリスチャンは悩み続けてこそ健全なクリスチャンと言えます。一切悩みがないというのは嘘です。この地上で肉体をもっている限りは悩みを持ち続けます。それはきよい良心を与えられたからです。きよい良心における内なる葛藤を無視してはいけません。それから逃げようとしないでください。その葛藤を経験することで、自分の弱さを認め受入れ、神のあわれみ父のあわれみ、そして救い主キリストのあわれみを受け、そのあわれみによってこそ生かされているという敬虔なへりくだった悟りの心をもつことが、神様の願いなのです。

B)弱い者の魂の叫びを知っているから
◎神のかたちに創造された人の本性からの叫び
 イエス様のゲッセマネの祈りは単なる感情的なものではなく魂の叫びでした。
 「この杯を去らせてください。」とは、受入れたくないという魂の叫びでした。これは個人的な存在としてのイエス様の弱さであり、本当に心砕かれた人しか悟れない領域です。プライドが少しでも残っているとわからない領域です。
 私たちは自分の存在を支えるためにプライド、自尊心を持っています。譲れない自尊心を持っています。それは自分が無であるちりに等しいということを覆い隠す隠れたプライドです。なきに等しいとは人間にとって一番の恐怖なのです。ただ神の愛だけを受けるために私たちは造られたのです。
 人はルシファーのように美しくもなく、ルシファーのように楽器を巧みに奏でられるわけでもなく、ルシファーのように9つの宝石を持つわけでもなく(宝石とは尊い賜物を表します)、ただちりで造られました。しかも誘惑に負けて罪に束縛されてボロボロになった雑巾のようなものです。ボロボロになった雑巾は誰も惜しみません。そういう私たちに唯一価値を与えるのは神のあわれみの愛だけです。もったいないからではなくただあわれみを受けるために、神は私たちをあわれみの器としてお造りになられました。それゆえちりで造られたのです。ただ神の愛とあわれみ以外に誇るところがないようにです。極端に言えば神を信じたら百点満点で、拒んだら0点というように、造られたのです。
 私たちの本能的な魂の叫びは、こういう神のきよい愛という本性を神のかたちとして内に持っているからです。それゆえ「自分はなんて弱いのだろう。」と叫ぶのです。それは神のかたちの本性があなたの内に宿っているからです。その悔しさや惨めさを癒せるのは神の愛とあわれみだけです。
 本当に神の愛とあわれみを知るのは、そこまで心が惨めな状況になってこそで、その惨めさの中で初めて、十字架でこんな私のために命を捨てて罪の赦しを与えてくださったという、その大きな犠牲の愛が分かるのです。
 あの5時に雇われた人たちのように、誰も雇ってくれないこんな自分を雇ってくれるのかという主人の愛に感動し、また反抗して親の財産を湯水のように使い果たしてしまった息子を決して忘れずに思い続け祈り続け待ち続けてくださった父のような神の愛を悟るのです。
 キリストは私たちの本性の魂の叫びを知っておられたのでご自身を犠牲にして、私たちに救いの道を開いてくださいました。
 イエス様はあわれみ以外持たれません。無知な罪人の私たちをあわれみの目でしか見られないのです。それが救い主としての存在です。
 今まで学んできた創造主なる神様の愛とあわれみに心を向けて今週も過ごしていきましょう。