■2024年11月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
新しい人を着る歩み【3】
主題聖句(黙示録3:18)
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
今日の中心のメッセージは「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい」という部分です。
〈前回までのメッセージのポイント〉
●御霊によって歩む→新しい人を着る歩み→キリストを着る
●キリストを着るとは、主権者の服を着せられること
〈今日のメッセージのポイント〉
●主権者の服は、裸をおおう白い衣
【みことば川柳】
キリストは 裸をおおう 白い衣
恥と裸は関係が深いものです。白い衣とは汚れていない、きよい、義を表します。
Ⅰ.『裸』と『恥』
①(創世記2:25)
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
裸を恥ずかしいと思わない時期がありました。それは、エデンの園にいた時です。
【デボーション】
『恥ずかしい』とは、青ざめる、失望する、困惑するという意味合いがヘブル語にあります。
善悪の知識の木から取って食べる以前は、『裸』が恥ずかしいとおもわなかったのはなぜだと思いますか?
②(創世記3:7)
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」
【デボーション】
目が開かれて、自分たちの裸を隠そうとしたのはなぜでしょう?
人は神の形に似せて造られました。神は衣を必要とする体を持たれず、もし、見えない神が見えたらこのような形であったというのがアダムでした。
エデンの園で神はただ一つのルールをつくられました。それは園の中央にある善悪を知る木の実を取って食べてはならない、食べたら死ぬというものでした。
アダムは930歳で亡くなります。神にとっては千年も一日とありますから、アダムは千年経たない、神にとっては「その日のうちに」亡くなったことになります。
ふたりは自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしい、そのままにしていてはいけないと思い、いちじくの葉でおおいました。自分でおおうとは、隠すということです。
他の人から見られたくないものを隠すときには聖書では「おおう」といいます。
罪を犯してから、彼らは自分で裸を隠しました。それは罪の結果として裸に気づき、恥ずかしいと思い隠したのです。
私たちも、罪を犯したら恥ずかしいと思い、無意識に隠そうとします。
罪を犯すことは恥ずかしいことなのです。神に似せて造られているので、善悪の知識を得て、善と悪の基準を持ったのです。
しかし、正しい神の善悪の基準ではなく、人は個々にその基準をもつことになってしまいました。
私たちは聖書をしっかり読み、神の基準を知る必要があります。
正しい神の善悪の基準がいのちの木であったと思いますが、彼らはそれに興味を持ちませんでした。
むしろ彼らは「食べてはいけない」というものに興味を持ったのです。興味を持つことは悪くはありません。しかしそこに欲求が生まれ、その欲にヘビが誘惑を持ってきました。
この誘惑は自分の欲求に対する外からの働きかけです。欲求が湧いても自分の意志で留めることはできます。
しかし、そういう自制心を打ち破るように、エバの欲求を増幅させたように、外から誘惑がやってきます。ここにクリスチャンの戦いがあります。
興味をもってしまったら誘惑がやってくるということを、しっかり知っておかないといけません。
恥とは罪の結果です。最近は罪を罪と認めない社会になってきました。
肌をあらわにするファッションが流行ってきています。肌の露出度と罪の認知度が平行しているかもしれません。
関東で強盗事件がありましたが、逮捕されても罪意識がありません。お金が欲しいという欲求が強すぎると理性的な判断を狂わせてしまいます。
人はその罪、裸を隠そうとします。しかし罪を犯すことは恥ずかしいことだという認識すら、最近はなくなってきています。
③(創世記3:21)
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
【デボーション】
『裸』は『そむきの罪』を象徴しています。
裸の二人に、なぜ皮の衣を着せられたのでしょう?
神はアダムとエバを憐れみ、園の外に出される前に、身を守る安全のため皮の衣を作り着せてくださいました。これが親の愛です。神はご自分の子として、人を育ててくださっています。
なぜこのような衣が必要な柔らかい肌をもつように人は造られたのでしょうか。神の憐れみと救い、愛を知るためです。
神に助けてもらうことがなかったら、神がどのような方かを知ることができません。
裸は神へのそむきの罪に気づかせます。神は憐れみを感じて、裸をおおう皮の衣を作ってくださいました。人類は決して滅びません。しかし、そむきの罪を改めようともしない人は滅びにいたるのです。
Ⅱ.『そむきの罪』をおおう『愛』
(箴言10:12)
「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」
子育てで、子どもは何回も親に反抗してきます。しかし親は見捨てません。神はアダムという人類をご自分の形に造られました。我が子として見てくださっています。
その愛のゆえに、人類がそむき続けているのにもかかわらず、なおも神に立ち返るのを待ち続けていてくださるのです。
【デボーション】
皮の衣は十字架の贖いを象徴しています。それは『白い衣』のことです。
皮の衣は十字架を表しています。皮は動物の皮で、血が流されています。
いのちの象徴である血を流すことなしに罪のゆるしはないのです。私たちのそむきの罪のために身代わりにその血を流してくださったのが、イエス・キリストです。この贖いの十字架の犠牲は、創世記からすでに計画されていたということです。
なぜ「白い衣」かというと、黒は聖書では罪を表します。白はきよめられたしるしです。
キリストの服は罪人の黒さを白い衣でおおい見えなくして、義としてくださったのです。
中身は黒いままです。それは、私たちが自分の罪をいかにキリストが十字架の贖いでゆるしてくださったかの恩義を忘れないためです。
この恩義を決して忘れてはいけません。神は私たちの罪をおおうために、イエス様の血潮で洗われた白い衣を着せてくださったのです。