■2020年9月20日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
 
目をさましていなさい・バルテマイの叫び

 

主題聖句
(マタイ25:1~13)
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

(マルコ10:46~52)
彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

【辻和希伝道師メッセージ】

 皆さんご存知の通り、私は普段お好み焼き店を経営しています。
 先日テレビに取り上げられたこともあり、ここ数週間はありがたいことに忙しい日々を送っております。
 ある時、予想以上の注文が入り、準備していた食材を切らすことがありました。恥ずかしいことに、このようなことは一度や二度ではなく、
なんとかなる精神で準備を怠る悪いクセがあって、同じ失敗を何度もしてしまうのです。
 そんなとき、ふとイエス様の再臨のことが頭に浮かびました。日頃から準備を怠る自分が、イエス様を迎える準備なんて出来るのだろうかと。
そう考えると、とてもこわくなりました。
 マタイの25章1節から13節に、花婿を迎える10人の娘の例え話があります。
花婿の到着が遅れてしまう状況で、10人のうち5人は万が一に備え予備の油を用意していたので、無事花婿を出迎えることができましたが、
 残りの5人は予備の油を用意していなかったので、ともしびの油が持たなくて、花婿を迎えることができず、祝宴に参加できなかったという内容です。

マタイ25:1−13
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 イエス様は、この例え話のポイントとして、目をさましていなさい、と教えられました。
 目を覚ますと訳されているギリシア語は、英語ではwatchと訳されています。watchの意味は、注意して見る、意識して見るという意味です。
 この例え話の中で、予備の油を用意した5人の娘と、用意しなかった5人の娘はの違いは、花婿への関心の度合いの違いだと言えるでしょう。
 万が一遅れることがあるかもしれないという花婿の動向への意識の高さが、予備の油を備えるという行動に移させたのです。
 一方で他の5人の娘は、花婿がもし遅れても、その時はその時でなんとかなると考えたのか、もしくは遅れるということが想定できなかったのか、
 いずれにせよ、花婿への意識が低かったと言えるでしょう。

 このことから、私たちも普段から神様に関心を持つことはもちろん、普段の生活から物事に備える習慣を身に付けておく方が、
 万が一の時には大きく役立つことがあるのです。
 まして、イエス様の再臨がいつどのように起こるのかを知る人は一人もいないのですから、いざイエス様が再臨されても、意識が低ければ、気付かないことだってありえるのです。そうなれば本当にこわい話です。なので、私は普段から備えるということを習慣化させたいと冒頭の失敗を通して気付かされたのです。
 日常のことができないのに、霊的なことをすることは難しいことです。ですから、普段から物事に備える習慣を身に付け、常に心に余裕を持たせていきましょう。
その余裕が神様に目を向けることに自然とつながっていくのですから。

【横路伝道師デボーション】

 このバルテマイという男性は、盲目の障害があり、貧困で疎外され、絶望状態にある人でした。見捨てられた者と感じていたと思います。その中で彼は救い主に希望を持っていました。絶望的な中で、へりくだった心を持っていたのだと思います。

 バルテマイはイエス・キリストのうわさを聞きました。多くの人が癒されて救われていることを聞いたのです。そして「この方こそメシヤである」と確信し、いつかここに来られることを待っていました。そして、ついにイエス様が来られたことを聞きました。

 彼は目が見えないので、走って行って近づくこともできませんでした。唯一の方法は叫ぶことでした。彼は「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と大きな声で叫びました。あまり大きな声で叫び続けるので、周りの人がたしなめ、制止しました。しかし彼はなお叫び続けました。

 イエス様はその叫び声を聞かれました。私たちの願いと切なる祈りはいつもイエス様に届きます。バルテマイは「私の目をあけてください」ではなく「私をあわれんでください」と叫びました。「ダビデの子のイエス様」という言葉は賛美であり、イエス様に対しては最高の誉め言葉でした。それはメシヤであり王であることを表わす言葉で、イエス様の心を動かす言葉でした。

 また、「あわれんでください」という言葉は、イエス様の愛の心をつかみました。イエス様は歩みを止めて、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。ここに、たった一人の魂のために目を留めてくださるイエス様のお姿をここで見ることができます。自分は見捨てられているのではないかと思うような方もおられるかもしれませんが、イエス様はその心の叫びを聞いてくださり、目を留めてくださるお方なのです。

 そこで、弟子たちは「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と彼に手を差し伸べました。それは、先輩のクリスチャンが、苦しみ悩んでいる人に手を差し伸べ助ける姿のようです。

 バルテマイはこれを聞いて、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来ました。この上着は、彼の財産のすべてであったと思います。上着とは、自分の欲や自己中心や、自分にまつわるじゃまなものだったかもしれません。罪に汚れた古い自分です。それを脱ぎ捨ててイエス様の所に近づいてきました。

 「すぐに立ち上がって」という箇所をリビングバイブル訳では「喜び勇んで」とあり、新共同訳では「踊り上がって」と書いてあります。それほどにうれしかったのです。

 イエス様は、彼と顔と顔を合わせて、一対一の交わりをされます。「わたしに何をしてほしいのか」とバルテマイに言われました。バルテマイは、「お金をください」とは言いませんでした。「目が見えるようになることです。」と言いました。神様は私たちの願いを具体的に聞いてくださるお方なので、私たちも具体的に祈るべきです。神様は個人的な交わりをしてくださり、祈りを聞いてくださるお方です。そして、その人に最善なものを与えてくださるお方です。

 ある例え話をします。漂流船の中に、三人の男が生き残っていました。いつ死ぬかわからない中で、一つのビンが海を流れてきました。その中の紙に、「この紙を読んで願うことを、一人に一つずつ叶えよう」と書いてありました。最初の男は、「ふるさとに家族が残っているのでそこに戻って元通りの生活をしたい」と願った時に、ふるさとに戻ったそうです。もう一人の男も、「私もふるさとに友だちがいるので、戻って元通りの生活をしたい」と願うと、その通りにふるさとに戻りました。三人目の男は、家族もいない一人身でした。彼は「この漂流生活は三人で励まし合ってとても良かった。どうか今まで通り三人で漂流生活をさせてください」と願ったそうです。すると、二人が帰ってきたということです。また漂流生活が始まりました。

 私たちの神様は、私たちに良いことをしてくださろうとしています。しかし、この話のようにまじないや占い等の偶像の神様は、なんでも叶えてくれるように見えますけれど、それが必ずしも良くないのです。わがままを全部叶えてしまうと、わがままな世界になってしまいます。

 バルテマイは、「目が見えるようになることです」と言いました。目が見えるようになるということは、主を見ることができるように、また、自分の罪が見えるように、隣人の必要が見えるように、主について行くことができるように、という意味があります。

見えるとは本当に大切なことです。

 イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。バルテマイは、真実の癒しはイエス様にしかできないと信頼しました。その信頼によって癒されたのです。

 今日、このみことばから適用をしたいと思います。すべてのことに時があります。祈りつつそれを忍耐して待つことが必要です。今は苦しくて、心の中がバルテマイのような状況かもしれません。イエス様が救い主であることを知っているが、まだ目が見えていない人、祈りがなかなか聞かれない人もいるでしょう。あの人たちの祈りは聞いてくださるだろうけど、私の祈りは聞いてくださらないと思っている人もおられるかもしれません。しかしそれは違います。イエス様は一人ひとりに必ず目を留めておられます。イエス様だけは愛の神、真実な神であるということを握っていれば、大丈夫です。今は見ていないけれど、必ず問題は解決するということを、イエス様のゆえに信じることです。

 今は私たちは、心の中で叫び祈ることができます。霊的な目が開かれるように、聖めてください、聖霊で満たしてください、魂の救いのためにも、目を開いてくださいという祈りをやめないで祈り続けましょう。

 「主の祈り」は、バルテマイの叫びと同じようであると思いました。主を賛美する祈りと、主のあわれみによって生かし、悪より救いだしてくださいとあわれみを祈る祈りです。

 信仰とは、思い込むことではなく、確信して信頼すること、本当の救い主であるイエス様のみに頼ることです。そのために、あきらめないで、主に叫び求めましょう。