■2020年18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
 
聖霊とともに歩む
イエス様の御そばにとどまる

 

■2020年10月18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 

【辻和希伝道師メッセージ】
『聖霊とともに歩む』
(使徒19:11-20)
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。
パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

 この世界には、様々な教会があります。同じ神を信じ、また聖書を土台としながら、強調点の違いにより、いくつかの教団教派が存在します。私たちの教会は、聖霊様の働きが聖書の時代だけでなく、現代にも働いていることを信じ、また体験してきました。
 この世の常識をもって聖霊の働きを測ると、とても理解できないことのように見えますが、助け主なる聖霊様が私たちのからだを宮とし、住んでくださっているのですから、
 この世の物差しでなはなく、聖書の物差しで聖霊様を理解しなければなりません。
 使徒19:11-20に書かれている出来事は、神様がパウロの手によって奇蹟を行わせていた頃、そのやり方を真似た愚かな者たちが、悪霊に返り討ちにされる場面です。

 ここから教えられることが三点あります。
 一つ目は、間違った動機は失敗する、ということです。ここで登場する魔よけ祈祷師は、パウロの評判を聞いて真似たのでしょう。自分の益やお金のためという間違った動機だったことが想像できます。
ましてや、イエス様を信じていないものが行う奇蹟は本当の奇蹟では無いのです。
 二つ目は、悪霊も本物を知っている、ということです。悪霊とは神様に敵対する存在ですから、悪霊にとって嫌な存在は、神様と神様を信じる信仰者です。
逆を言えば、信仰者でなければ、悪霊にとって恐れるに足りない存在だということです。カタチだけの信仰とならないようにしましょう。
 三つ目は、聖霊の働きなくして奇蹟は起らない、ということです。パウロの手による奇蹟は、神様からのものです。もっと詳しく言うなら、聖霊様からのものです。

1コリント12:9-10
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 私たちは奇蹟を行うことが信仰生活の目的ではありませんが、信仰者であれば、ある時は主によって奇蹟さえも行うことだってあるのです。それこそ聖霊様とともに歩んでいる証となるのです。
私たちにとって聖霊様とはどんな存在で、ともに歩むとはどういうことなのかを、定期的に考えていくことは大切なことです。
 信仰は目に見えない事柄を信じる力です。聖霊様の働きに対しても私たちの信仰の真価は問われているのかもしれません。

【横路伝道師メッセージ】
『イエス様の御そばにとどまる聖め』
(ヨハネ8:7b)
「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こし言われた。『あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」
 
 この箇所は有名な、姦淫の現場で捕らえられた女のお話です。今日も二千年前のイエス様に出会うためにこの物語を見ていきましょう。
 早朝、姦淫の女が捕らえられて、イエス様の前に連れて来られました。これはイエス様を陥れようと律法学者やパリサイ人によって仕組まれた事件であったようです。もちろん、姦淫の罪は大きな罪です。しかし、男性は連れて来られず女性だけ連れて来られました。イエス様を訴える口実のために、イエス様の所に連れてこられたと思います。
 もしイエス様が、「律法に書いてある通りに石打ちの刑にしなさい。」と言われたとしたら、罪人の友と言われ、愛の方であるイエス様が、たった一人の女さえ救うことができなかったのかと言われる恐れがあります。また、「石打ちにしてはいけない。」と言われるなら、教師と呼ばれて尊敬されているけれど、律法を守らないではないかと言われ、どちらを答えても悪く言われるという罠でした。
 イエス様は知恵のある方です。ここですぐに答えられませんでした。腰を下ろして地面に何か字を書いておられました。かわいそうなのは、この女性です。今判決が下って殺されるかもしれないという恐怖の中で震えていました。
 なぜイエス様は、すぐに返事をされなかったのでしょうか。このイエス様が待たれた時間というのは、律法学者たちが、イエス様を陥れようとしたことを悔い改める時間をもたれたのではないかと思います。告発して女性を連れてきた律法学者やパリサイ人は、私たちはこうしようと思うという、自分の意見を言っていません。ずいぶん卑怯であったと思います。
 彼らの中に、この女性に対するあわれみはないのかということも、待っておられたのではないかと思います。この女性を責めるだけの資格があるのかということを気付く時間を与えられたのではないのでしょうか。
 しかし、彼らはその与えられている時間の間に何も反省しませんでした。イエス様にしつこく迫っていました。
 そこでイエス様は、身を起こして、「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。彼らは一瞬固まったと思います。イエス様は厳しい言い方はされませんでした。彼らはそのお言葉で心を刺されたようです。年長者から、一人、また一人とその場を去って行ったと書いてあります。彼らは処刑をしようと思って、それぞれ手に大きな石を持っていましたが、そこに石を置いて黙って去って行きました。
 イエス様はその中で、2回目の沈黙をされ、地面に字を書いていました。一人ひとり去って行きました。彼らがもし「私も罪人で、決して人を石打ちにすることができる資格はありません。」と悔い改めて正直に告白したのであれば、彼らの罪は赦されたのだと思います。また、女性に対してあやまることもできたでしょう。しかし、だれもいなくなりました。告発者たちは、心に罪を示されても、こそこそと逃げ去りました。女性に対して憐みを示すことも謝罪することもなく、イエス様を罠にかけようとしたことを反省することもなく、ただ黙って去って行ったのです。
 サタンはイエス様のみことばの前でしっぽを巻いて逃げ去るしかありません。決して悔い改めることのできないものであるということをここで表しているように思います。
 この姦淫の女の、自分の大きな罪のためとはいえ、その罪を明るみに出されて、町を連れ歩かれる恥ずかしさと、殺されるかもしれないという恐怖心は、想像を絶するものです。もし私たちがそのような立場になったらどうするでしょうか。彼女に同情する人は誰もいなかったのです。白い目で見られ、ののしられ、つばをかけられ、まるでイエス様の十字架にかけられる前にされたのと同じような扱いを受けました。
 イエス様は、彼女にとても憐み深い対応をされました。「婦人よ。」と優しく声をかけられました。「姦淫の女よ」とは言われませんでした。この女性のすべての状況を把握されていて、弱さの中に罪を犯してしまった心の痛み、悲しみをすべてご存知でした。「あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める人はいなかったのですか。」と言われました。
 女性は立ち尽くして震えていました。たとえ律法学者やパリサイ人たちが石を置いて帰ったとしても、罪を犯したことのない聖いお方であられるイエス様がそこにおられました。イエス様こそ私を石で打ち殺してしまわれるのではないかという恐れがあったかもしれません。しかしイエス様は、優しく語られました。
 女が「だれもいません」と言った時に、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは罪を犯してはなりません。」と言われました。彼女は、逃げた律法学者たちと一緒に、こそこそと逃げることができたかもしれません。しかし、彼女はそこにとどまっていました。
 イエス様が罪に定めないと言われたのは、簡単に罪を赦すという話ではありません。なぜなら罪の支払う報酬は死であると決まっています。この女性の罪の罰は、イエス様ご自身が十字架で負うという覚悟をお持ちだったのです。そして、この後間もなくイエス様は十字架にかかられます。この女性のためにも、私たちの罪の贖いのためにも、血潮を流してくださいました。イエス様の十字架の愛を深く思わされます。
 
【適用】
◎急いで感情的な対応をしない愛
 イエス様は2回沈黙して、待たれました。ここから学ぶことは、沈黙の愛です。私たちは攻撃されるとすぐに言い返したくなります。人の言葉に過剰に反応してしまい、自分の正しさと相手の間違いを見つけて反撃してしまいます。イエス様のように、時間を置くことが大切です。一呼吸おいて、心の中でどう答えたらいいか、みことばがどのように教えているか、聖霊様は何を語られているかを待つことが大切です。

◎人を罪に定めない謙遜
 律法学者やパリサイ人は、この女性もイエス様も罪に定めようとしていました。しかし、イエス様は姦淫の女性さえ、罪に定められませんでした。イエス様がこのようにされたのなら、私たちも人のどんな罪をも赦して罪に定めないという決心をしたいと思います。私たち自身も赦された罪人だからです。人を心の中で裁かないようにしましょう。

◎イエス様の御そばにとどまる聖さ
 律法学者やパリサイ人は、悔い改めずに黙って逃げ出しました。聖いイエス様の元にとどまることができなかったのです。とどまっていれば、悔い改めて赦されるチャンスがあったのに、彼らはとどまることができなかったのです。
 しかし、女性はイエス様の前にとどまっていたので、やさしい言葉をかけられ、赦しを与えられ、解放を与えられました。主のそばにとどまっていることは、聖められることです。
 私たちもいつもイエス様の側にとどまっていたいと思います。自分の罪の姿が明るみに出るようなことがあったとしても、主の前から逃げないように、祈りとみことばから逃げないようにしなければならないと思います。
 イエス様にとどまるということは、みことばにとどまるとうことです。その中に聖さがあります。触れるものに染められます。イエス様の聖さに染められるために、みことばにとどまることです。この一週間もみことばにとどまりたいと思います。

(参考聖句)
(第1ヨハネ3:6)
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(ヤコブ1:21)
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」