■2019年9月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

忍耐される神  

主題聖句(ローマ15:5)
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

 

 忍耐についての教えがずっと続いています。皆さんの中には耐え忍ぶことの苦痛が少なからず溜まってきている頃ではないでしょうか。

 この心の内を神様はどこまで察してくださっているのだろうかと被害者意識も出てきたりしていませんか。
 
 そこで今日は主題聖句の中の「忍耐と励ましの神」という言葉に注目したいと思います。私たちだけが忍耐して苦しんでいるのではありません。私たち以上に神様も忍耐して共に重荷を感じておられるのです。
 「神の忍耐」が、どれほどのものであるかを考えて、神様がそれほどに忍耐されておられるのなら私たちも忍耐していこう、という励ましにつなげて頂きたいと思います。

1.滅ぼされるべき器への忍耐(ローマ3:25) 
「神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃してこられたからです。」

●(内容観察)
キリストによる罪の贖いのいけにえを史実として公に示されたのは、神の義である「あわれみ」を現わすためです。あわれみという神の義は、人々が犯して来た罪を神が忍耐をもって見逃してこられたことによってあきらかにされています。

 神が忍耐しておられるのは、キリストの十字架という救いの御業が現わされて、人々がその救い主を信じる信仰に至るために、人々の罪の歴史を忍耐をもって見逃してこられたということです。
 
 かつて一度、神様はこの地上を大洪水によって滅ぼされましたが、ノアとその家族だけが救われて、それ以降、人類の歴史における罪は罰せられていません。キリストの救いの御業を通して罪人が救われるために、人々の悪を耐えて、ずっと見逃してこられたのです。
 
 神様は人を滅ぼすために造られたのではありません。人を生かして永遠の御国の相続人とするために人をお造りになりました。
 
 ですから、罪人を裁いて刑罰を与えて滅ぼすということは、人間の存在の目的からは外れるのです。ご自分のかたちに似せて人を造られた意味がありません。
 
 人を裁いて罰する正義よりも、人を生かす正義の方がまさっています。それが「あわれみ」です。
 罰するべき人の罪を見逃して、救い主を通して本来の目的である御国の相続人という元の状態に戻す、このことが実現するためには、罪人に対する「あわれみ」がなければできないことです。
 
 神は罪を裁く裁き主でありますが、更に優先されるご性質は、「あわれみ深く情け深い神」(出エジプト34)であられます。
 
 人を生かすゆえに、裁きよりあわれみを優先されます。「あわれみは、裁きに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ2:12)と書いてある通りです。
 
 罪を見逃すことのできないご性質のお方が、キリストの十字架が実現するまでじっと耐えて、世の罪と悪を見逃して長い時を過ごしてこられたその忍耐はどれほどであったことでしょう。

 私(辻牧師)が表具師の仕事をしていた頃、初心者に技術を教える時、成長するためには見逃さないといけない失敗というものがありました。「これは今は言うまい、見逃そう、でもこれだけは言わねば・・」というように、目をつけるところにも優先順位がありました。
 
 初心者が出来ないことや失敗したことを、何でもかんでも事細かに全部注意したり叱責したりしていたのでは、人はやる気を失って離れてしまいます。それを身につけるまでは、相手の未熟さを忍耐するということは、とても大切で必要なことです。
 
 そういう見逃す忍耐というものを神様は今もしておられます。私たちはイエス様を信じたからといって、すぐにイエス様のようになれるわけではありません。

 それなのに神様から、あれやこれや何やといつもいつも言われ続けたら、ついていく気持ちもなくなってしまうでしょう。私たちの成長のためには、相当見逃さないといけない私たちの失敗と神様の忍耐があるということです。
 私たちは信じてすぐにやめれる罪もあれば、誘惑に弱くすぐにはやめれない罪も持っています。難しいことです。その罪を見逃してくださっている、それはイエス様の十字架の贖いの御業があるから、私たちは罰せられないで済んでいるのです。ありがたいことです。
 
 その代わりに、父なる神様はどれほど耐えがたきを耐えてくださっておられることでしょうか。神様にも感情があられるのです。そのお心の内を感じてみてください。

 神様は本当に私たちを愛して信頼してくださっていますから、見逃してくださいます。前向きにとらえてくださるのです。いつかその罪から離れてくれる時が来ると、信じて待っていてくださる、その忍耐を神様はしておられるということです。これが神様の忍耐の一つ目です。

*不敬虔な罪の世界が今も存続しているのは、「あわれみ」という神の義があらわされ続けていることの証拠である。
 
 再臨がやって来ないというのは、神のあわれみが今もあって、見逃してくださっているという状態です。その分、神様は忍耐しておられるということを忘れてはいけません。

 私たちのことが無関心でどうでもいいから見逃しておられるのではなく、一人一人に関心を持っておられて、それでも毎回赦してくださっているのですから大変な忍耐がいります。

*だから、今は「恵みの時、救いの日」である(第2コリント6:2)
「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 神様の忍耐の二つ目として「悔い改めを待っておられる」ということを次に見てみましょう。

2.悔い改めを待っておられる(第2ペテロ3:9))  
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

●(内容観察)
神の最後の審判やキリストの再臨がないのではないかと不信仰になってしまわないように気をつけなさい。むしろ、私たちに対して忍耐深くあられるのです。それは一人も永遠の滅びに至ること無く、すべての人が悔い改めて神に立ち返ることを待ち望んでおられるのです。

*悔い改めるのを待つ忍耐には、豊かなあわれみがある。
 
 罪を見逃す忍耐と共に、悔い改めの方向に自分から進んでいくのを待つ忍耐、この二つの忍耐を神様はずっと、そして今もしておられます。
 私たちは子どもに説教したり、部下に忠告したりするときに、責めて叱って存在そのものを傷つけるような怒りをぶつけてしまうことがあります。
 
 神様はそのように無理やり悔い改めさせるようには導かれません。自分の罪に気付いて、これでは神様の愛に申し訳ない、悔い改めようという気持ちが起こるのを待っておられる寛容な気長なお方なのです。
 クリスチャンに対してだけではありません。全世界のまだ神を知らない人々に対しても、いつかは神の存在の大切さに気付いて、救われるようにと待っておられます。大きな忍耐が必要です。 
 
 アダムが罪を犯してから今日にいたるまで、そしてキリストの再臨、最後の審判まで、何と長い間、神様は忍耐し続けておられることでしょうか。何と深い大きな私たちへのあわれみであることでしょうか。
 
 あなただけが苦労しているのではありません。神様もあなたのために忍耐して苦労しておられるのです。

【デボーションポイント】   
キリストの再臨の時に、「今是昨非」(こんぜさくひ:過去のあやまちを今はじめて悟ること。今になって過去の誤りに気付いて後悔すること。)とならないように、神が忍耐してくださっていることを心にとめる。

 キリストが再臨されてから後悔しても遅いのです。それまでに自分の罪に気付いて改めていこうと思わないと、キリストの救いに完全にあずかることはできません。神様は私たちが気づくのを忍耐して待っておられます。  
 
 私だけが苦しいのではない、神様も耐え忍んで待っておられるのだと、励まされていきましょう。

【俳句】 
 唐辛子  調子にのって  口にする

 自分は辛さに強いんだと調子にのって、後で後悔する人がたまにいますね。

 そのように私たちも神様の恵みの中で調子にのって、「いいわ、いいわ、ゆるされているんだから」と安易な気持ちでいると、唐辛子をほおばって口の中がカーッとなるようなことになりますから、気を付けましょう。