■2018年10月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

天罰覿面(てんばつてきめん) 


主題聖句(箴言11:21)
確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。

  

 ここ数回、「主を恐れる」ということで皆さんと共に聖書を見てきています。
 私たちが生まれてから最初に学ぶこと、知ること、考えることは、神様を恐れ敬うことです。
 日本では昔から神様仏様、一般的には「お天道様が見てますよ」という言い方で、悪いことをする人にも良いことをする人にも、相応の報いがあることを教えて、宗教心が道徳性を高めるようにしていました。
 私たちは宗教をしているのではありません。天地を造られた神様が事実おられるから、その方を恐れ敬うのです。そして神様は私たちに、善に親しむ生活をするようにと、教え導いてくださっておられます。そのために土台となるのが、神を敬うという尊い心の姿勢なのです。
 今日の主題「陰徳陽報」は、誰にも知られないように良い行いをすると、必ず良い報いがあるという意味です。人の目に目立つようなことをしないで、良い行いをすべき時にはする、これを重ねることによって必ず良い報いがありますよ、なぜなら良い行いに報いる方がおられるから、ということです。
 そのようなみことばが(マタイ6:3–4)にありますので見てみましょう。
 私たちは人の目を気にして生きる人生ではなく、神様の慈しみ深い目の前で歩んでる人生なのだということを印象付けるようなみことばですね。
 人から誉れを得ようとしてはいけません。「隠れた所で」というのは、人の目とは違う見方をするという意味も含んでいます。神様は、人々の考えや価値観や主観、この世の流行に左右されず、真実な神様の清い心の目で、私たちのすべてを見ておられます。そこに私たちは希望を持つのです。
 隠れた所で隠れた行いを見てくださるお方は、報いてくださるお方です。このお方はどんな報いを、主を恐れる者にくださるのでしょうか。5つのみことばから見ていきましょう。

1.詩篇25:12               
「主を恐れる人は、誰か。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」
 
 神様は、「あなたが選ぶ最善の道はこれだよ」と教えてくださり、また、あなたが神を敬っていれば自然とベストの道を歩めるようにと導いてくださいます。
 私(辻師)もイエス様を信じる前は、将来のことを心配していましたが、イエス様を信じてからは、先のことを心配することががなくなりました。神を恐れイエス様を信じていれば、なるようになるものです。神がその人に「選ぶべき道を教えられる」からです。

2.詩篇34:7                 
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」
 主の使いとは天使であるかもしれませんし、人であるかもしれません。取り囲んでいるというイメージより、いつでもあなたを助けられるように神様が用意しておられるということです。
 天使の幻を見ることよりは、あなたが神を恐れて助けられている方がもっと幸いです。天使は見えなくても、あー!と思うような偶然の出来事で助けられたことがあるなら、それはあなたが主を恐れている報いとしてもたらされたものだと感謝してください。

3.箴言19:23                    
「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」

 主を恐れるということは実践的なことです。生活の中で、主を恐れる行動や言動をする人は、結果、いのちに至り、満ち足りて、災いに会いませんよ、ということであり、災いに会いたくないので主を恐れるというのは動機が間違っています。
 私たちが主を恐れる動機は、私たちを愛して私たちの罪の身代わりに苦しみを負ってくださり、罪の赦しを得させてくださった、そのゆえに神様を恐れ尊ぶのです。それだけでも十分な神様の恵みを受けている上に、神様を恐れ敬うことによっても災いに会わないという報いがもたらされるということです。
 満ち足りる心は金銭や物質にはよりません。真実な愛に満たされるという最高の心の満たしを、皆さんも早く味わっていただきたいと思います。そのためにも主を恐れることは大事なポイントです。

4.箴言22:4                 
「謙遜と主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」
 
 一般道徳の基本である、神を恐れ敬う謙遜な心は、人々からの価値評価も高いのです。品性、品格、内面的なものに対する価値です。主を恐れることによってもたらされる誉れ(評価)というのは、あなたの人格的な評価です。これも評価を得たいから主を恐れるのではありません。主を恐れる結果、富と誉れといのちが報いとしてもたらされるのです。主を恐れる者に神様の報いは必ず与えられるのです。

5.イザヤ33:6                  
「あなたの時代は固く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。」

 「財宝」というのは尽きることがない源という意味を含んでいます。この時代に安定した人生が送れるのも、知識や知恵が、救いの富として生活の中で実を結んでいくのも、主を恐れるということが源となって、その報いとしてもたらされていくものなのです。
 このように、主を恐れるということは、天においてだけでなく、この地上においても、神は報いとして見える結果を与えてくださいます。
 皆さんには、この一週間、主を恐れることが報われているかどうかを黙想していただきたいと思います。今までを振り返ってみて、偶然の助けがあったとか、そういうものはすべてあなたが主を恐れ愛して信頼しているから、報いとしてそのような守りや祝福があったのです。主を恐れていることへの報いとしてどんな結果が得られているか、ぜひ見つけて頂きたいとおもいます。
 もしあなたがそういうものは一つもないと思うなら、本当に正しく主を恐れているか、自分の心の隠れている部分に目を向けてみて、何を優先しているのか、神か、この世のものか、と探ってみてください。
 人は生活の安定を願っています。その安定をお金で支えようとするこの世の考え方にクリスチャンも影響されると、お金の計算をするようになります。
 神様の愛があればそれで充分、たとえ飢え死にしようと、この肉体が滅びるだけで、私の魂は罪から解放されて神の国に上げられるのだから、そのほうがよほど幸せだ、というくらいに、神様の愛に満たされる喜びを知っておくことが必要ではないでしょうか。
 以前、アダムとエバのところで、主を恐れるという話をいたしました。
 アダムとエバが罪を犯して、自分たちが裸であることに気付いて、神様の前に出ることを恐れて隠れました。それは罪を犯したことを神様に知られた恐怖ゆえの恐れでした。
 しかし、アダムとエバはもっと正しい恐れを体験します。二人はエデンの園からは追い出されましたが、神様は彼らの裸を隠すために(罪をおおうために)、初めて動物の血を流して、二人のために皮の衣を作ってくださったのです。裸でずっと暮らさなくてはいけなかったアダムとエバは神様の温かい愛のおおいに感動したことでしょう。そのとき、二人は尊敬の気持ちからの恐れを初めて体験したのです。罪を犯したけれど正しく神様を敬う心を知ったのです。
 これは私たちの十字架と重ねることができます。確かに私たちは罪人で、永遠の滅びに向かうものでありましたが、神はそのことを望まず、何とか滅びから救い出すことはできないかと、罪のない神のひとり子イエス・キリスト、即ち、神ご自身が人となられて、血を流して、私たちの罪を覆うという愛をお示し下さいました。
 ここで私たちは神を敬い恐れるという体験をするのです。それゆえ良心が聖められて、神様の恵みとあわれみの中で、赦された罪人としての人生を歩むことが出来るようになるのです。赦されて感謝、それはイエス様の苦しみがあってのことなのだという神様への愛がそこに生まれてくるのです。
 そのように神を敬い恐れる心があって初めて、歩むべき道が教えられ、助けがあたえられ、満ち足りた生活をし、富と誉れと命を得ることが出来るのです。
 主を恐れるということが、宝を生み出す打ち出の小槌のように、恵みと祝福の中心となります。そのような一週間を過ごして頂きたいと思います。

【デボーションノート】               
 主を恐れることが報われているかを思いめぐらしてみましょう。

【俳句】
 主を恐れ  今年もすでに  九月尽   

 

 今日は9月30日、月の一番最後の日、九月が尽きて終わるので九月尽。秋の終わり、秋が深まり冬が近づくという季節の終わりを表現しております。
 時の過ぎ去る速さを感じながら、残りもあと三ヶ月、主を恐れて、歩みましょう。