■2021年4月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)


『信条から出てくる立派な振る舞い』第二部
「我らの主」を信じる立派な信仰【2】

 
 

主題聖句(ピリピ2:9~11)
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 イエス様が再臨されるにあたって、神を敬わない人々がクリスチャンを見て、つまずいてしまって神様を信じることが出来ない、ということが起こらないためにも、私たちは信じている神様を生活の中で自然にあらわしていく、ということを目標にして進んできております。

 そして今は、私たちがどういう神様を信じているのかという使徒信条の学びをしているところです。
 
 今日は、使徒信条の第二部「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の2回目として『【我らの主】を信じる立派な振る舞い』と題してお話を進めていきます。

 【我らの主】を信じているがゆえの私たちの生活態度や言動である、ということに、少しでも皆さんが自覚を持っていただきたいと願います。
 そこでまず「主」とはどのようなお方なのか、主題聖句(ピリピ2:9-11)から「主」についての2つのポイントを理解しておきましょう。

●我らの主は、最高の権威を表す名を神から与えられた方である。
 天地を造られた創造主であり全能者である神が、これ以上ない最高の権威を表す名を、イエスに与えられた、それほどに尊いお方であるという意味が【われらの主】という言葉の中に表されています。

●「イエス・キリストは主である」と、誰もが認めるほどの権威ある
 名を与えた神がほめたたえられるほどに、我らの主は偉大な「主」である。
 
 すべての者がひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる、それほどの感動をもたらす偉大な力ある名であると、(ピリピ2:10-11)に書かれてあります。
 
 本当にイエス様に出会った人は、「主、主なる神」という偉大さに触れた時、理由なく服することが出来る、そんな体験をいたします。そして【われらの主】と心から告白する人は、主にいのちを預けることが出来るほどに、偉大な権威をお持ちである方だという思いを抱きます。そして、この方を救い主としてお立てになり、またこの方にすべての権威と権力をお与えになった神をほめたたえるようになります。
 そのように、イエス様の再臨の時には、クリスチャンだけでなくノンクリスチャンの方々までもが、再臨の主イエス・キリストの栄光の姿を見て神をほめたたえるようになる、というのが今年の目標聖句、(第1ペテロ2:12)のみことばです。
 
 イエス・キリストは【われらの主】であり、最高の権威者、まことの統治者であられる偉大なお方であることを、ぜひ体験し、知っていただきたいと願っております。

(A)一人の主人に仕える立派な振る舞い
(ルカ16:13)
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

●一つの心には一人の主人。二人の主人は二心で、罪である。
 主人が二人いたら、二人に同時に等しく仕えることができるのかといえば、そうはいきません。仕えているように見えて、実際はどちらかを優先します。心は一つだからです。

●経済に仕える者が「イエスは主」と言うのは偽りとなる。
 経済に仕えるとは、経済が主人となって、その言いなりになって動かされることです。
 クリスチャンは、神あってこその経済ということに目が開かれる必要があります。
 
 お金がなければ、会堂がなければ、礼拝も集会も献金も出来ないではないかと思うのは、経済という主人に影響された考えです。
 
 私たちは、かつて会堂建設のために借金をいたしましたが、神の栄光のために神が必ず実現してくださると信じて、皆が少しづつ捧げて返済を始めました。不思議な神の助けがあり、また皆さんの生活も守られて、25年間の毎月の返済を終えることが出来ました。

 色々起こる問題も神様のみことばが解決してくださいました。経済(人間的計算)に頼る考えではとても実行できないことでした。
 
 神がそれを広島の人々への証しとしてくださるという御声を聞いて、確信をもって実行できたのです。
 
 神様がなさることは必ず実現する、経済が私たちの人生を支配しているのではない、神が私たちを治めておられるのだと、神を主人として信じて歩んだ25年間でした。
 
 経済が私たちを幸せにするのではなく、私たちの心が幸せをもたらします。すなわち、創造主であり全能者である父なる神を畏れ敬う心が、持ち物による幸せではなく、魂の救いによる幸せを私たちに与えてくださるということであります。
 
 どんな労苦、迫害の中にあっても、私たちが神を敬うことに徹するとき、最後には「そこまで信じることができたら幸せだろうな」とノンクリスチャンの方たちに言われるようになります。神様の前に正義を全うする生き方が最後には勝利するのです。

B)我らの主をかしらとする立派な振る舞い
(エペソ1:20-23)   
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

●「からだ」は「かしら」に素直に従うもの。
 私たちの立派な振る舞いは、からだ(教会)が、かしら(キリスト)に素直に従う、というところにあります。
 良い王様は良い国を建て上げます。良い王に信頼して素直に従う兵士や臣下は幸せです。

●からだの隅々まで、かしらと一つに繋がっている満ち満ちた関係
 私たちの主は、「からだ」の「かしら」のように、「からだ」の隅々までご自分の力を現わして統治しておられるお方です。そのようにして「かしら」と「からだ」が一つに繋がっている満ち満ちた関係が、私たちと神様との関係です。

 なぜそこまで、「かしら(キリスト)」を信頼できるのでしょうか。それは、私たちの罪のために身代わりとしてご自分のいのち、人生を差し出し、その苦しみを受けてくださったからです。自らをもって、救われるべき人々のために、天の栄光を捨てて、人間としてのいのちまでも捨てて、私たちの罪を赦すために、苦しみを受けられた、その心は愛以外にはあり得ません。
 
 一体今までに、世界中のどこに、その愛する民のための身代わりとなって苦しみを受けられた神がいたでしょうか。作り話ではありません。実に数え切れないほどの多くの歴史的文献が、新約聖書のイエスの出来事を証明しています。実際に歴史の中に存在された方を、私たちは「主」として信頼しているのです。このご主人に身を任せても大丈夫という信頼を持って、私たちはその方を「主」と呼ぶのです。

 私たちは、私たちの「かしら」である主イエス・キリストを信じています。「かしら」と「からだ」は一つという関係の中で、私たちは「かしら」の指示、教え、さとしに順じて動いていくときに、それがノンクリスチャンの人々にとっては「立派な振る舞い」と見えてくるわけです。
 今後この世界は、経済を主人とする者と神を主人とする者とに、はっきり分かれる社会環境になることが黙示録に書かれてあります。罪が満ち溢れる世界になり、義人が尊ばれない環境になります。そのとき本当に義人は、それでも神を敬うという神への信頼を示すことができるかどうか、という試みの時期がやってくると、黙示録に預言されています。
 
 罪があらわにされるために、ますます世は暗闇になります。この暗闇に勝つことのできるのは光だけです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」闇の中に巻き込まれない光の子として歩むために、「からだ」が「かしら」に従うように、私たちはイエス様に素直に従っていく、そういう意味の【我らの主】です。

 皆さんが、「主、イエス様」と告白するならば、その「主」という言葉のゆえに、これからきよめられ、試されていくことでしょう。本当の主を見つけ出すことができるように、神はあなたを訓練し試みられるということです。

 今苦しみのなかにある兄弟姉妹がおられるなら幸いです。あなたが本物の光の子であることが証明されるために試みにあっているということですから。
 
 神のことばによって生きることをぜひ経験していただきたいと思います。

【短歌】 

神の愛  試練の中に  備えあり
信じて歩む  春のおとずれ
 神様の愛に信頼していれば、どんなに苦しい所を通っていても、必ずそこには備えがあります。まるで、必ず春のおとずれがやってくるように、信じて歩む者にもそのような時が必ずやってきますから、逃げないで、神のみことばを守り続けて参りましょう。