■2017年7月15~17日 2017夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 神の思いに心を合わせて 

主題聖句(ピリピ2:13)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 

 今年のテーマは、(ピリピ2:13)「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」 です。願いとは神を愛する心から起こってくるものです。自分の願いばかりでがなく、神の願いを知り求める心が必要です。それでは、神の願いとは何でしょうか。今回は第一聖会で「神のビジョン」と題して見ていきたいと思います。

第一聖会 
「神のビジョン」
(エペソ1:4-5)
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
 このみことばは、ジーザスフェローシップ広島の広島エルサレムプランにおける神様の期待として与えられています。どんな期待をもっておられるのでしょうか。

1.世界の基が置かれる前から定められていたこと
 神はご計画をしっかりと心の内に持たれる御方です。エペソ1:5の「みこころのままに」とは確かなご計画と言えます。決して変化するものではありません。
 「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」これが神のビジョンです。これは決定です。創造の御業を行われる前に決めておられたのです。ゆえに皆さんの存在はあらかじめ神の子と定められていますが、それを受け入れるかどうかで違ってきます。

(1)神の子(ガラテヤ3:26)
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」
 救い主イエス・キリストを受け入れる時に初めて、神の子となるという定めが始まります。信仰は将来への期待です。何故、イエス・キリストを信じることが求められているのでしょうか。私たちは自由意志が与えられているので、自分でする決断を神は求められるからです。神の子になるという定めを受け入れるかどうかを自由意志により決断するように、神は私たちに求められているのです。
 父と子という愛による結びつきを持つためには、この自由意志により愛によって信じるということが大切です。

(2)相続人でもある(ローマ8:17)
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
 神が持っているものを受け継いでいくという意味が「子ども」にはあります。神は相続人がいるから万物を造られたとも言えるのです。神の子である私たちが万物の中心です。
【神の創造のビジョンにおいて創造主の子ども、創造主の相続人と決定し、私たちを生み出してくださった。これが私たちの存在の目的である】
 これが神のビジョンであり、根本の計画です。ここにはっきりと私たちの存在目的が語られています。

【ここに生きて存在していることにもう迷う必要はない】
 あなたがしていることはすべて、神の子として神のものを相続するためであるということです。万物は私たちが神の子となり神の相続人となるために存在します。もう迷う必要はありません。
(ヨハネ1:12-13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 神の子として私たちが生きるのは存在の定めです。

【人間の意志や計画によってあなたは生まれたのではありません】
 あなたが例え両親に恵まれていなくても、あなたの霊の親は神であり、ご計画をもってあなたをこの地上に存在させたのです。

【ただ、神によって生まれてきたのです!】
 それゆえ人生に対する迷いはなくなります。ただ神の国の相続人としての道を歩めばいいのです。
 「最後まで神の子として生きよう!」と決心しましょう。これだけが真理であり、答えです。神のご計画は決して揺るぐことはありません。

2.相続する者とは?
(1)父なる神の聖さに預かる者(ヘブル12:10)
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」
 このみことばには、神が父として自分の子に対する意志が表れています。ご自分の聖さを継承しようとされているのです。すべての試練も悩みも葛藤もそのためなのですから安心してください。
(2)神のご性質に預かる者(第2ペテロ1:4)
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
 罪人である私たちが神のご性質を継承する者となるとは何と驚くことでしょうか。罪の世界で一時的に苦しむのも、十字架によって神の愛を知るためです。迷ったらすべてが虚しくなります。しかし神の子として生きるという決心さえすればすべては益と変えられます。

(3)御国を相続する者(ヤコブ2:5)
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」
 「御国を相続する者とされた」これが世の始まる前から定められていたという絶対動かない確信を神は持っておられます。ただ私たちが愛を受け入れるための自由意志を欲望に向けてしまうとすべて無駄になります。ルシファーは欲に走り失敗しました。しかし私たちは神の形に造られたので、十字架によって自由意志は愛に向くことができます。

【父なる神のご性質である聖い愛を継承し、治めておられる御国を相続する者のことである。これが私たちに対する父なる神のビジョンである。】
 内なるものは聖い愛を継承させ、外なるものは万物のすべての財産を継承させるために神は私たちのために今働きかけてくださっています。これが神のビジョンです。

3.相続者として定められている意義
(1)神のかたちに創造されている(創世記1:26-27)
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」
 設計図が出来上がり、後は工事するのみです。創世記は工事が始まったということです。神はご計画を実行に移されたのです。
 神は形のない御方ですから、神の御国を相続する相続人としての形として人々を造られました。

(2)永遠の嗣業が与えられている(民数記36:9)
「こうして相続地は、一つの部族から他の部族に移してはならない。イスラエル人の部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。』」
 神は定められたことを厳守し続けられます。イスラエルの人々の土地は12の部族に合わせてくじ引きで神が分け与えられました。この相続地は神が与えられた嗣業です。この仕事をし、業を受け継いでいく土地は神が定められた領域であり、この領域は決して動かしてはいけないと神は定められました。
 これは、私たちに与えられた神の子、相続人としての定めを決して変えてはいけないということを表しています。

【神は、あらかじめ定めておられたことを実現するために、創造の御業を具体的に始められた。実行されたということは、定めのための計画は確定し、必ず実現することを表している】
 建築物の設計図が出来上がり、建築し始めて何か問題が起きてきても、完成するまで必ず施工し続けます。
 そのように、神の子である私たちに、いかに問題が出てきても、神は必ず完成まで導いてくださいます。ですから、もう自分は駄目だとあきらめてはなりません。神の定めへの信仰告白をしっかりとし続けましょう。これがしっかりしていないと信仰生活は揺れ動いてしまいます。この決心がしっかりしていたら、人につまづいたり、惑わされたりはしません。

<~神の定めへの信仰告白~>
【私は、父なる神の子であり、御国の相続人であるという永遠に変わることのない「定め」を受け入れ、それに従います。】
 人類の定めは、すべての人は「父なる神の子であり、御国の相続人である」ということです。その証明が十字架で示された愛ですと、人々にしっかり証しできます。
 今自分ができているかどうかの現状にだまされないようにしましょう。あなたの存在をそのように定められたのは神ご自身です。

第二聖会
「霊的ビジョン」
(第2ペテロ1:4)
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。 」
 神様の霊的、内面的なご計画があります。それは、神のご性質、本性を引き継ぐ者として私たちをご自分の子として造られたということです。

1.神のご性質(本性)とは?
(1)神は愛である(第1ヨハネ4:16)
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
 愛は神から出ています。私たち人間の間に生まれる愛は欲望中心に出ています。
 しかし、神の愛は損得ではなく、愛する相手の存在を尊び、自己犠牲ができる愛です。その愛のゆえに私たちの罪の苦しみをすべて引き受けられたのがイエス・キリストの十字架です。神は使命ではなく愛のゆえに救いを用意してくださいました。

(2)神は聖である(第1ペテロ1:16)
「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。 」
 聖ということばは唯一の聖さであり、神以外には聖いものはありません。人が単独でこの聖い状態になることは不可能です。聖い御方は唯一万物を創造された神のみなので、神に属することが聖さの条件です。
 イスラエルの民も色々な問題を抱えていましたが、神ご自身がご自身の民として選ばれたので「聖い民」なのです。
 私たちも、自分はいくら考えても聖いと言えない状況であっても、イエス・キリストを信じる決心をした時に、もう神は「聖い」と見てくださっているのです。
 自分の行いや性質を見て、「私は聖くない」とあきらめないようにしましょう。神の愛を信じ、神の前にいつも悔い改める心を持っている私たちは、神の子であり、すでに聖い者なのです。
【創造主は、「愛」と「聖」が本性である。そして、ご自分の本性を継承する者として「人」を創造されたのである。】
 第一聖会と第二聖会を四文字熟語にしたら「聖愛継承」と言えます。
このための器として自分は造られ、その継承者としての訓練のための人生があると知ると、就職や様々な人生の選択の時に決断の土台となります。

2.神のご性質に預かるには?
(1)神の子としての訓練を受ける(ヘブル12:7)
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
 人生で起こることは、私たちが神の子として聖愛継承するための訓練と思って耐え忍びましょう。

(2)懲らしめを受ける(ヘブル12:10)
「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 」
 神は父として子に聖さを継承して欲しいと願ってくださっているので、それをおろそかにするなら、子として懲らしめがあります。

(3)神の愛である御子を信じる信仰(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 パウロが与えられた啓示です。パウロが言うように、私たちはキリストとともに十字架につけられましたが、肉体からくる様々な欲望との葛藤の中に日々生きています。欲望をコントロールすることは本当に大変です。しかし、この告白の信仰に立って、肉からくる欲望に死に、イエス・キリストの愛に生きるという決心をすることによって、しっかりと神の愛に生きる人生が歩めるようになります。
 優先順位はまず神です。イエス・キリストの十字架の愛によって赦され生かされている者として、まず神の愛に生きることが何よりも優先されるのです。

(4)キリストの弟子として学ぶ(マタイ11:29-30)
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
 弟子のようにイエス・キリストから愛と聖さを学びなさいということです。そのためにくびき、つまり律法を負う必要がありますが、イエス様の律法は「互いに愛し合いなさい」という愛です。愛し合うという仕事を神は私たちに与えてくださいました。

【「訓練」と「懲らしめ」は創造主からのもの。「御子を信じる信仰」と「弟子としての学び」は自らのもの。】
 神からの働きかけだけを待つのではなく、自分も動かなければいけません。愛があるなら、懲らしめがくる前に悔い改めようと思うはずです。懲らしめがくるまで罪にとどまるというのは、神への畏れを失っているということです。心が堕落している人は、いざ懲らしめがきたら逃げてしまい悔い改める心が持てないでしょう。懲らしめられる前に悔い改めることが、愛の応答です。
 私たちの教会は、気づいた人が奉仕をするということが基本です。しかし、そこで、気づかない人はしなくていいのかと不満に思う人がいるかもしれません。それは損得で考えてしまうからです。自分だけが奉仕をして損をしているような気になってしまうなら、いつの間にか肉の自己中心が出てしまっています。
 また、気付かず奉仕ができていなくても、「申し訳ない」という気持ちになることを神は願っておられます。愛があるなら気付くようになっていきます。すべての体験は聖い愛を継承するためと考えましょう。

【ジーザスフェローシップ広島へのビジョンを通して、神のビジョンが完成される】
 このエルサレムプランは、神の聖さと愛を継承するために与えられた具体的なものです。
(第1テサロニケ5:23-24)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
 これが神のビジョンです。広島がエルサレムのように平和の町、神が愛される町となるようにという計画ですが、この計画が完成すること以上に、このために一生懸命自分が関わることを通して、全く聖なる者として完成されていくということの方が重要です。神の愛にあふれて「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」というクリスチャン生活を味わう者になりたいものです。
 エルサレムプランを通して、色々と試されることが出てくるでしょう。その中で、神の愛を継承するために最も良い道はどれかを判断の基準としていきましょう。
 人にとって「欲」という汚れが最も邪魔になります。クリスチャン生活で虚しくなったら、もう一度神の前に祈り、神の定めである聖愛継承
に立ち返りましょう。

<~霊的ビジョンへの信仰告白~>
【私は神の子、神の相続人として教会に与えられたビジョンである「広島エルサレムプラン」を通し、永遠の定めを全うします。】
 生きているということは、この聖さと愛を継承するために整えられる時間がまだあるということです。苦しんでいることを感謝しましょう。学ぶことができるからです。
 すべての体験、経験に神のご計画があることを信じ、感謝しましょう。
第三聖会
「霊的ビジョンのための具体的ビジョン」
(マタイ16 :18)
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
 イエス様は具体的なビジョンとして、教会を建てますとここで宣言されました。神様は、神を愛する者たちの集合体としての教会を二千年前から建てておられます。

1.教会とはなんですか?
(1)キリストの御からだ(第1コリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 キリストが頭で、教会はからだです。からだである教会は、頭の権威のもとで、その頭が考えていることを、からだ全体で表現し、実行していくということを意味しています。

(2)キリストの花嫁(第1コリント11:2)
「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」
 花嫁と花婿とは、結婚前の呼び方です。キリストの花嫁とは、キリストが再臨されて花嫁なる教会と一つになるという、再臨の時を強調しています。キリストの再臨を待ち望む教会を花嫁と表現しています。

(3)地上での目に見える神の国(ルカ17:21)
「『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
 「ただ中」というのは、一人ひとりの内にという意味と、教会という集合体の中にという2つの解釈があります。私たちの内にも神の国があり、教会の交わりの中にも神の国があります。

【創造主と神を愛する者たちの集合体である教会は、互いになくてはならない好一対の関係である。】
 好一対とは、非常にふさわしい一対となるものであるということです。創造主と私たちは、どちらが欠けても成り立たない一対の関係なのです。神様はご自分と同じように教会は大事なものであると認めてくださっているのです。あなたが神様を信頼し愛しているなら、できているかどうかは関係なく、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたのことを喜んでおられるのです。

2.教会は、目に見えるキリストの証人
(1)神の御住まいとして証しする(第1コリント3:16)
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 」
 こんな罪の体を、神はご自分の聖なる御霊を宿らせる神殿として用いてくださっています。それほどに私たちと共に居たいと思ってくださっているのです。神殿とは、居心地の良い、神様が安心して住まわれる場所です。愛している者と一緒にいることは安心できるのです。

(2)互いに愛し合うことによって証しする(ヨハネ13:35)
「もしあなたがた互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
 互いの間に愛があるかどうかは、互いの間に問題が起こった時にわかります。だから教会の中に問題が尽きないのです。血筋による家族のように、どんな問題が起こっても受け入れ合い認め合うのが家族愛です。私たちはキリスト・イエスにあって生まれた家族なのです。

(3)世界の光として証しする(マタイ5:14ー16)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
 光は、神・みことばの働き・希望を意味します。あなた自身が輝くのではなく、あなたの内にある父なる神の光、みことばの光、キリストによる希望の光を輝かせなさいという意味です。
 神の定めである人々が目覚めるように、証しを地上で表わしていくのが教会です。目に見えない神の愛を証しするのです。
 
【イエスは、見えない神の証人であったように、教会は、見えないキリストの証人である。】
 互いに愛し合う関係が実を結んでいると、神の聖い愛を継承している人々がいると感じ、「愛なる神様はおられるのだ。彼らはその愛を受け継いでる」と信じるのです。
 教会は、見えない方が存在するのだということを証しするための集合体です。

【『広島エルサレムプラン』は、真理を証明するために与えられたJFHのビジョンである。】
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 」

【教会ビジョンを互いに愛し合うという交わりにおって推し進めていくと、神のビジョンが見えてくる。】
 広島エルサレムプランは、あらゆる人々に当てはめることのできるビジョンです。それぞれの立場で、人々に届くことができる働きがあるのです。
<具体的ビジョンへの信仰告白>
【私は、キリストのからだとして、花嫁として、神の国の民として、教会ビジョンに具体的に取り組んでいきます。】
第四聖会
「油注ぎを受ける時」
(使徒1:8)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 王や祭司の任命式の時に、神の力、地位、権威を受けるしるしとして油注ぎがされていました。神の権威によって、キリストの証人としての任命され、油注ぎを受けるということです。

1.どのようなことを通して、キリストを証しするのか?
(1)(使徒13:2-3)
「 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。 」
 按手とは、分与する、分け与える、油注ぎを持って任命すると同じ意味を持っています。

A)使者任命の油注ぎ(ヨハネ17:18)
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」
 イエス様について行く者は、イエス様の代わりにこの世に遣わされているのです。

【愛してくださっている方からの使命が与えられている】
 イザヤに、「だれがわれわれのために行くだろうか」と言われました。「ここに私がいます。」とイザヤが応えています。使者として、内側から湧き上がってくる使命感を持って行って欲しいと願っておられるのです。
 私たちは、救われて神様に愛を注がれている者です。愛があるから応答するのです。いやいやながらではなく、自ら「私が行きます。」と、心から応答する者に注がれる油注ぎです。イエス様の代理なので、イエス様への愛がないと油注がれません。主に仕える喜び、使命感が湧き上がってくるまで満たされることが大切です。

B)キリストと同じ油注ぎ(ローマ6:3)
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 」
 洗礼を受けるとは、キリストの一部となるという意味があります。
    
【バプテスマは、キリストのからだに献身したしるし】
 私たちはこの世とイエス様の中間にいるのではなく、イエス様の一部になったということです。

C)キリストを愛する油注ぎ(第2コリント5:15)
「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
 愛してくださった方のために生きるのです。私のためではなくあなたのためのいのちですという思いです。
  
 【神を愛するとは、神の愛に献身することと同じである】
 互いに愛し合うとは、互い仕え合うことであり、相手に自分をささげることです。
 イエス様はまず十字架で、私たちに献身する愛を示してくださいました。天の栄光を捨てて、私たちの借金をいのちをもって払ってくださり、「わたしの花嫁になってくれませんか」と愛を示されたのです。
 油注ぎを受けるとは、愛に献身することです。神の愛の証人として生きることです。そのための油注ぎです。神様の心に残る人は、神様への愛がある人です。
<~油注ぎを受ける信仰告白~>
【私は神の愛に献身し、キリストの証人として油注ぎを受けます。】
 
 愛のためなら、自分をささげることができる力が与えられます。愛のゆえに、したくないこともしようと思えるのです。欲との戦いは避けられませんが、欲を唯一自制できるのは愛だけです。信仰が弱ったら、まず神様の愛に触れることです。神様の愛に献身をするのです。 
 人は、何かができるとすぐに誇ってしまいます。しかし、愛がなければ、たとえ人のために命をささげてもむなしいのです。神の愛より人の愛を優先するならむなしくなります。神が私を愛してくださったがゆえに、人々を愛することができるのです。
 神の愛に献身する決意を持たなければ、中途半端な油注ぎになります。神様を愛することをおろそかにしてしまうと、欲望が動機となり、比較して自分を測ってしまいます。神を愛するとは、5タラントでも2タラントでも、主人を信頼してそれを使うことです。力量の違いがあっても、神を愛してその力を用いればいいのです。愛に献身するということを正しく理解し、愛のために生きていきましょう。