■2019年2月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

誠歓誠喜(せいかんせいき) 

 

主題聖句(ピリピ4:4)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 

『誠歓誠喜』(せいかんせいき)
この上なく喜ばしいという意味。臣下が天子に書を奉るときに用いる言葉で、「歓喜」に「誠」を重ねて至上の喜びを表現した言葉。

 聖書の言う「忍耐」は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することであり、この3つをもってキリストの再臨を待ち望み、いろいろな信仰の試練を耐え忍んでいくということをお話ししてきました。今日は喜びについての2回目、「誠歓誠喜」がポイントです。
 
 「誠歓誠喜」は天子の存在そのものを尊敬し喜ぶ表現であり、誰でも彼でもに対する言葉ではありません。私たちが、天の神、主の主、王の王であるお方を喜ぶ時、「誠歓誠喜」と言うことができます。
 私たちを造り、いのちを与え、罪を贖ってくださったお方に、心からの愛と尊敬と信頼をもってあがめ、お従いする、そのような神様の存在そのものを喜んでいる心を表現する「誠歓誠喜」であります。

5.恵みによる救いの喜び        
A)(詩篇13:5)
「私はあなたの恵みにより頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。」

B)(詩篇31:7)
「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」
 「恵みに依り頼む」という状況は、恵みを施されることなしには生きていけない、言わば「もの乞い」の状態です。ただ、「恵みに依り頼む」というのは、こちらに目を向けてくださり、関心を持ってくださり、あわれんでくださり、恵みを施してくださる方がおられる、ということを喜ぶのであり、何をどれだけもらった、もらわなかったと喜ぶのではありません。
 私たちは誰からそのような施しを受けたのでしょうか。また、私たちは施しを受けるしかない無きに等しい罪人であるということに気付いているでしょうか。
 天地の主なる神が、最後は焼却されるだけのゴミための中から、キリスト(神の愛)を信じたというだけで救い上げてくださった「ゴミ」、私たちはまるでそのようなものです。自分の罪深さを自覚しているならば、小さな恵みであっても神様に覚えていただいていることを喜び感謝できるのです。
 この恵みは、神様がたくさん持っているから少し出して与えたというようなものではありません。ご自分の未来そのものであり、全財産そのものである方、最も尊い、最も愛するひとり子イエス・キリストのいのちを、贖いの代価として差し出してくださった、それほどの犠牲を払われて与えられた恵みなのです。
 ゴミのような小さな存在に過ぎない私たちですが、神様は、私たちのその悩みをご覧になり、私たちのたましいの苦しみを知って、あわれんでくださったのです。この恵みによる救いの喜びを私たちは忘れてはなりません。何をもらった、どれだけもらったというような話ではないのです。
 私たちはつい他人と比較してしまいます。「あの人はあんなに…、私はこれだけ…不公平だ」と、神様に対して思ってしまいます。与えられないはずのものを与えていただいた、それが「恵み」です。恵みは他人と比べるものではないのです。比べてはいけないのです。
 まして救いの恵みは、災いが毎日起ころうが、幸いが毎日続こうが、誰に対しても救いは同等に与えられています。「こんな罪深い自分が…」と思えば思うほど、神様が罪の赦しを与えてくださった恵みは、もっと大きく喜べるのではないでしょうか。
 もし、クリスチャンとしての喜びが少ないと思われるならば、「恵んでくださっている」ということを、軽んじているかもしれません。
 罪赦されて天国に行くために私たちに出来ることは、神様の愛をいただいていることを信頼すること、ほかに出来ることは何もありません。
 罪ある者が何をしても、罪は残り続けて、裁かれなくてはなりません。赦されているということは恵みなのです。その幸せを実感してください。

6.みことばによる喜び 
A)(詩篇119:162)
「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」
 聖書を読んでも何も感じない、何もわからない、だから読まないという人がいます。みことばは、「大きな獲物」をみつけるようなものです。漁をしても狩猟をしても、いつも大きな獲物を得るということはありません。しかし、やめてしまっては自分も家族も飢え死にです。
 私たちのたましいの糧である聖書を、分からないからと言って読むのをやめてしまっては、あなたの霊は死んでしまいます。「おー!これは私への神のみことばだ!今日大きな獲物を見つけた!」と感動する、そういう聖書のみことばに出会うために、あきらめず読み続けましょう。そうすれば、小さな糧もありがたいと、小さな獲物も喜べるようになります。収穫を得るか逃すか、皆さんのとらえ方次第です。

B)(詩篇119:143)         
「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかし、あなたの仰せは、私の喜びです。」

C)(詩篇119:47)            
「私はあなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。」
 窮地に陥っている時に助けのことばをいただくと、萎えた気持も奮い立ちます。そのように不幸が、不信仰が、悪霊が、病気が、襲いかかっている時に、神様のおことばをいただくことは大きな喜びです。
 「何も奇跡はおこらないし、みことばもわからないし」と言って、クリスチャン生活をあきらめていませんか。それは、せっかく神様を信じたのに、そのいのちの輝きが奪われるような状況になっているのです。
 「神のことばは生きていて力があります。」(へブル4:12)神のことばに信仰を持たないといけません。みことば自体が人格をもってあなたの人生、あなたの心に関わってくださるのです。それを不信仰で拒んでしまい、単なる言葉だと思ってはなりません。神は、ことばなるお方です。神のことばは永遠のいのちを持っています。あなたの苦難と窮乏の状況を乗り越えさせてくださる、力あるおことばなのです。
 このようなみことばの喜びの体験が、みことばを愛する喜びへと変わっていくのです。

7.聖霊による喜び    
A)(ローマ14:17)
「なぜなら、神の国は飲み食いの事ではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

B)(第1テサロニケ1:6)
「あなたがたも、多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者とになりました。」
  聖霊による喜びとは、人格をお持ちの神様のおこころにふれる体験であり、言葉では説明しにくいものです。
 皆さん自身が、神様に近づいて、神様を求めて、神様と交わり、よく祈ることです。その中で神様と問答します。心がいろいろ探られます。それが交わりにつながります。それを進めていくと、神様の御霊があなたの魂に触れてくださいます。
 そして、無条件に真の友人を信頼しつづけるという心境になります。それによって神様のおこころが伝わってくる喜び、愛の心に触れられる喜び、「聖霊による喜び」を体験します。
 しかし、そこまで深めないうちに私たちは、スポーツだ旅行だと気分転換をしてしまうことが多いのです。人によって体験の差があるでしょうが、皆さんも続けて主を求めていっていただきたいと思います。
 
 「恵みとみことばと聖霊による喜び」についての私(辻師)の体験を証しさせていただきます。
(ローマ8:31-39)
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちはほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私達を愛してくださった方によってこれらすべてのとの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 これは「大きな獲物」を得た喜びとなる私のみことばでした。信仰生活を送る中で、「愛されていなのではないか」とか、「私は神様を愛しているのかな」とか、色々な疑いや不信仰な思いが出てきます。肉の自己中心な心との葛藤、きよい良心がいつも咎めを持つ、弱いクリスチャンでした。「私たちはほふられた羊とみなされた」とあるように、右にも左にも行けない、ほふられる道だけが前にあってそこに追いやられる羊のようでした。
 まるで負け組の人生のように見える、そんな状態であろうとも、パウロは言います。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」
 あなたがどう思おうとも、あなたを愛する神の愛から、あなたを遠ざけるものは一つもないのです。勝手にあなたがいろいろと否定的に考えて不信仰になって遠ざかっているだけなのです。これは素晴らしいみことばです。
 どんなクリスチャン生活の問題がおころうと、私たちの主イエス・キリストの愛から、私たちを引き離すことはできないのです。「引き離せない」と言われているのなら、その愛にゆだねてしまえばいいのではないでしょうか。
 こうして私は、みことばの獲物を得ました。ハレルヤ!神の恵みです。そしてこのみことばは聖霊様の働きとして、私の心に大きな励ましと希望と力を湧き上がらせてくださったのです。
 
 喜びはあなたの内に潜んでいます。後はそれを引き出すきっかけです。あなたが神に目を向け続けることをあきらめなければ、必ず今日の三つの喜びを内側に持ち続け、この地上を去るまで喜びの忍耐をもって過ごすことができるのです。辛いこと、困難なこと、苦しいことがあるかもしれないけれど、喜びがあるから耐え忍ぶことができるのです。

【デボーションポイント】      
◎私たちの喜びは、目先を見ての喜びではなく、永遠を見ての喜びである。
 目の前に起こっている出来事によって喜ぶか喜ばないかではなく、永遠を見て、もっと先を見て、キリストの再臨というゴールを見て喜ぶのです。

【俳句】 
みことばの  約束信じ  春を待つ

 2月のこの時期は、もう春が目の前まで来ているようです。
 みことばの約束であるキリストの再臨ももう間近、今はそういう神様の季節なのです。春を待つように、キリストの再臨がくるまで耐え忍んで待ちましょう。