■2018年8月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 愛の器として生きる  up 2018.8.5

 

主題聖句(ローマ5:5)
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

「注がれる」という表現から、私たちは注がれる神の愛をしっかりと受け止めるための器である、と捉えることが出来ます。
 
 先週は自己の確立の一つ目の要素として、「神の子として生きる」というテーマでお話いたしました。
 今日は二つ目の要素として、「愛の器として生きる」ということを考えてみたいと思います。

1.自己を確立する第二の要素(アイデンティティー)
A)第1ヨハネ4:12    
「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」 
 注がれた神の愛は、互いに愛し合うということを通して全うされる(成就する)と表現されています。神様の愛を注がれ受け止めた時に、私たちの器としての存在の目的が全う(完成)されます。中身のない器はまだ全う(完成)されていないのです。中身が入ってこそ、器として完全な意義あるものとなるということです。

B)第1ヨハネ4:13               
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
 
 御霊を与えてくださり、神様の霊が注がれ、神の霊がともに私たちのうちに存在されるということを通して、神の愛が私たちに注がれていることがわかります。

C)第1ヨハネ4:15              
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」

 イエスを、人であるだけでなく神でもあることを認め告白するならば、神の愛が私たちのうちに御霊によって注がれて、愛されているだけでなく、神が私たちの内に好んで住まわれるということです。

D)第1ヨハネ4:16              
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
 
 神があなたの内におられたらあなたは愛を大事にして、愛を優先してものごとを考えていきます。
 
 自己を確立するアイデンティティーとして「愛に生きる」、こういう人のうちに神はおられるのです。
 
 私たちは神の愛を注がれる器であり、愛を自己確立の要素として生きるクリスチャンです。
 神の愛を受け止めることがどんなに大事なことであるかを次のみことばからみてみましょう。

2.愛の器の大切さ(第1コリント13:1-3)   
「たとい、私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私がもっている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にもたちません。」

A)特別なことができるからといって、適切なことができるわけではない。
 
 地上の母国語以外の人のことばである異言、天上で語られる御使いたちのことばである異言、御霊を受けた人に与えられた特別な言語も、愛があればこそ、適切な時と場所で使うことが出来ますが、愛がなければただうるさいだけです。特別なことを適切に用いるには、愛が必要です。

B)超自然的賜物を持っているからといって、優れた存在なのではない。 
 預言、あらゆる奥義、知識、信仰、これらは神様からのすばらしい超自然的な賜物ですが、それを頂いた人の「存在」にとって、それらは愛がなければ何の値打ちもありません。
 
 能力主義の世の中では何が出来るか出来ないかで、その人のいのちの価値が測られますが、聖書ではそれらは人を価値づける理由にはならないと言います。

 立派な金の器も、何も入れないのでは金の塊であり、器とは言えません。器は器として何かを入れることによって器の価値が認められます。私たちは愛が注がれてこその器なのであります。
 
 この世の中はそういう考え方をほとんどしません。ですから私たちは、つい外目に人々に優れているものを見せることを通して尊敬されたり愛されたりするということを求めてしまうものです。神様の目からするとそれは違うのだと、クリスチャンはしっかり聖書の教える考え方を持っておく必要があります。

C)高徳なことが出来るからといって、高徳な者とはいえない。   
 
 器の中に神様の愛が注がれて、愛の器として存在しているのでなければ、持ち物を全部分け与えるという高徳の行いも、からだを焼かれるために渡すなどの自己犠牲の行いも、神様の目から見ると何の役にも立たないことであります。

◎器の大切さは外側にあるのではなく、内側に何を入れているかである。 
 この13章の1–3節は、どう見えるか、何で出来ているか、何が出来るかという器の質を表しています。しかし、外側の見えるかたちがどんなに素晴らしくても、中に何を入れるかで、器としての価値が決まってきます。素晴らしい細工を施した純金のコップであっても、下品なものを入れれば下品な器となり、たとえ木でできていても、熟成した世界有数の高価なワインを入れるなら、入れものとしては価値が高いといえます。中身が器を価値づけるのです。
 
 「愛がなければ」とはそういうことです。私たちは神の愛が注がれる器として造られました。神がそこに住まわれる神の家です。しかし、そこに何を入れるか、何を住まわせるかは、あなたの自由意思で決まります。
 
 器の中がカラッポで入れるべきものが入ってないと、人生に対して空しさを感じます。人はそういう時にイエス様と出会うと、人生が180度劇的に変わります。
 
 この世の楽しみも半分ほど入れて、それでも何となく人生の空しさも感じながら生きている人、そういう人がイエス様と出会いますと、これはすばらしい!と思うのですが、初めにこの世のものも入れてますから、混ざりものの中途半端なクリスチャン生活になります。神様一途には、なかなかなれません。しかし、注ぎかけられている神様の愛を受け続けていると、少しづつ少しづつ神様の愛があふれていくとともに、悪いものも一緒にあふれ出て、長い間には純粋な神様の愛だけが内側に満たされるようになります。

 信仰生活で徐々に変えられていくという人はそういう人です。世の中と多少妥協していても、神様の愛を大事に受け止めていけば、時間と共に必ず綺麗に神様の愛だけで心も霊も満たされるように変わるということです。
 
 ある人は、「神様もいない、生きることもどうでもいい」と、この世のものでいっぱい満たしている人がいるとします。神様は全ての人を愛しておられますから、そのような人にも愛を注がれます。そして時間はかかるかもしれませんが、神様の愛を受け止め続けていると、だんだん神様の愛に心は変えられていくのです。そして最後までイエス様を信じ続けたら、最後には神様の愛だけがあふれるということが起こるのです。
 
 クリスチャンの中には、途中であきらめる人がいます。「もう30年もたってるからこんなものかな」と、この世の中のつながりの中で、神様の愛もこの世の楽しみも同時に入れながら、いつまでたっても神様の愛だけにならない、中途半端なクリスチャン生活がずっと続く人もいます。
 
 私たちはたとえ不純なものがあっても、愛を注がれ続けているのですから、あきらめずに信頼して受け止め続けていきましょう。必ず神の愛だけに満たされる時がやってきます。必ず素晴らしいクリスチャンに、イエス様のような心に変えられていくと期待し、願っていきましょう。
 
 神様の愛を多く受け止めていくことがなかなか難しい生活環境があるかもしれません。そういう人は、日曜日は神さまの愛をいっぱい受け止めるけれど、月曜日から別のものがド~ッと入ってきて、結局何も変わらないクリスチャン生活を送るということになってしまわないように、「自分は神様の愛を受け止める器なんだ」という自覚をもって生きることによって、神様の愛だけに用いられる器として生きていくことが出来るようになるのです。
 
 皆さんの中には、神様の愛を受け入れるにふさわしくない器であると感じている人がいますか?ふさわしいか、ふさわしくないかは、使う人が決めるのです。あなたではありません。欠けた器だからといって、愛を注ぐか注がないかを決めるのは、使おうと思う人です。
 
 中身は素晴らしいのですが、それを入れる器は確かに相応しくないかもしれません。しかし、欠けた器でも私(神)の目には高価で尊いから、私(神)はそこに愛を注ぎたい、そこに住みたいと、神様は願われたのです。

 神は私たちを神の愛を注ぐ専用の器として造られました。あれやこれやの雑用に用いるためではありません。大事なことのために造った器は大事なことのために使いたい・・それが神様のお心です。
 
 愛を入れるだけでは満足できないで、あれやこれや他の物も入れようというのでは、神様は悲しいですね。イエス様のいのちを犠牲にしてまで手に入れた神様の愛用の器だから、神様の愛だけを入れていこう、用いていただこうという意識が大事なのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
神の子であり、神の愛を入れる器であるというアイデンティティー。
 
 このアイデンティティをもとに、もう一度、神様の前にどう生活を進めていくべきか、どういう価値判断をしていくべきかを、判断決断していけると良いですね。
              
【俳句】

  丼に  かき氷入れ  いと涼し 

                
 かき氷に丼は、見た目に合いません。しかし、暑い夏に火照った体を冷やしたい、冷たさを味わうために、かき氷を丼いっぱい食べたいと思います。そんな時は、器ではなく中身が大事なのです。中身が器を価値付けます。

 あなたは丼であっても、神様の尊い愛が入っているので、尊い器です。