■2017年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 愛から生まれる敬虔さ 

主題聖句(第1テサロニケ2:10)
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

 第1ペテロの手紙に、信仰はどのようなものの上に建て上げられていくのかという中で「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を…」と記されています。

 先週は忍耐についてお話しいたしました。神様の忍耐は私達にとっての救い、希望であり、忍耐して下さっている間に少しでもキリストの姿に変えられていくように励んでいきましょうということでした。
 この忍耐は単なる我慢ではなく、敬虔さを含んでいないといけません。今週は、神様がおっしゃっておられる本当の敬虔さは愛から生まれるものであるということを、見ていきたいと思います。

 第1テサロニケの手紙2章には、パウロがギリシャのテサロニケという町でイエス様を伝えた働きの証、パウロの福音宣教が確かに受け止められたという証拠として教会が出来上がったことが記されています。
 教会というのは救い主イエスキリストを信じる人々の集まりです。イエス様のことは聞いたけれど、教会に行くのはあまり…とか、イエス様は好きだけど教会の人は・・・とか、中にはそういう人もいるわけです。そんな中で特に伝えた者たちは、信じた人々がさらにイエス様に近づくようにと、その模範となっていくことが必要です。
 その模範であるべきパウロたちは「敬虔にふるまった」と書いてあります。人々はたとえ性格の合わない者同士、好き嫌いがあったとしても、キリストを信じる信仰、神様の愛の内を歩むという共通の一つのことを通して、共に神の御国に向かって歩んでいく一つの群れとなることができるのです。
 互いに敬虔な心をもって、この教会生活、神の家族としての関係、営みを続けていく、その模範としてパウロたちはしっかりとテサロニケの人々に、福音を伝えただけで終わらず、その実をもって、その良き知らせの確かさを示したというふうに記されているわけです。
 では、このようなテサロニケの人々にもわかるような、パウロ達の敬虔さというのは、どのような形として表れていたのかということを見ていきたいと思います。

1.誠実さによる福音宣教(第1テサロニケ2:5)
「ご存知の通り、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」

 パウロたちのキリストを伝える内なる姿勢・気持ちは、
★私利私欲から福音を伝えたのではない。
★神の前における正しい良心からの福音宣教である。
★純粋にキリストを伝えた         
 ということであります。
 当時ギリシャでは哲学も発展し、多くの神々もまつられ、宗教家はビジネスとして利益となるように自分の生活の為に活動しているということが多く見受けられていました。当時の教会でも、ユダヤ教徒の中からイエスを信じていく人々が多くおり、特にレビ人の祭司たちにとって、旧約聖書の教えの中に記されているメシアがこの地上に来られて、旧約の神様の約束を成就して救いを完成するというキリスト教の教えは、彼らの得意分野でもあり、そこで、自分の肩書を利用して利得を得るような宗教家が多く見受けられたわけです。
 しかし、テサロニケの人々はパウロを通して伝えられたイエス・キリストが信頼できるものと感じたからこそ、パウロの語る教えの中に留まっていたということが出来ると思います。パウロが私利私欲がなく、本当に純粋にキリストを伝えているという内なる思いが、にじみ出るような、そういう福音の伝え方をしていたということができます。愛から生まれる敬虔さの一番目に、誠実さによって神様の良き訪れ、キリストを純粋に伝えていくという条件があると思います。

2.謙虚なふるまい(第1テサロニケ2:6)
「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

★権威のある立場を用いなかった
★同じ目線から福音を伝えた

 先ほどのユダヤ教からキリスト教に改心したレビ人の祭司たちは自分がもといたユダヤ教の地位、立場、権威というものの雰囲気を出していたわけですが、パウロたちはそうではありませんでした。使徒としての権威を主張することもできました。イエス様と出会ったあの証を聞いただけでも「えらい人なのだ」と人は思うでしょう。
 しかし、そうはしませんでした。ごく普通の一人の社会人として、テサロニケに来てキリストを伝えました。謙虚なふるまいです。人々から尊敬されるものを持っていても、それを出さずに気付かれずに、ごく普通に地域の人々とともに社会生活を送ることを通して、キリストを伝えたのです。   
 同じ立場、同じ目線で、同じ気持ち、同じ社会生活の中で、対等に交わりを持つ、そこから伝えられるキリストの福音というものは受け入れられやすく、キリストを信じて歩む信仰がいかに幸せであるかを自然に証することができるのです。

3.母のような優しさ(第1テサロニケ2:7)
「それどころか、あなたがたの間で、母がその子供たちを養い育てるように、優しくふるまいました。」

★子供を養い育てる母の優しさ
★忍耐強い母の優しさ

 父は厳しく子どもを鍛え、母はその厳しさにくじけかけた時に支えてあげる、子育ては両方が必要ですが、パウロは福音を伝えることにおいて、母のような優しさをもって養い育てる「優しいふるまい」をもって接しました。あきらめず励まし続けました。愛による敬虔さの中には母のような優しさがある、というのが三つ目の条件です。

4.愛する存在として受け入れる(第1テサロニケ2:8)
「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」

★交わりを通して、愛おしむ心が育つ。
★わが子のように思えるようになる。
★福音によって新しく生まれた霊的子供である。

 パウロたちは一般の人々と共に生活しながら、普段の交わりを通してテサロニケの人々に対して愛おしむ心が育っていったのではないでしょうか。そして、いつのまにかわが子のように思えるようになった。テサロニケの人々の魂の救いのために、神の国に最後まで導かれるように、という思いをもって、母親のような優しさをもって接するようになっていった。この優しさというのは神を畏れる敬虔な心があれば生まれてくる優しさであります。そして、キリストを信じる心が与えられたテサロニケの人々に対して、パウロは霊的なわが子として愛おしむ心が与えられて、自分の命までも喜んで与えたいと思う程に、心が愛にあふれていたということがうかがえます。
 私たちが神様の愛を受けて愛があふれてくると、人を尊ぶという心が自然に出てきます。なぜなら神様は私を尊んでいて下さるという愛を感じるからです。そしてその神様から受けた愛を通して神の前に敬虔な心がうまれます。その敬虔さから謙虚な行動が生まれ、その謙虚さは人を敬います。人を見れば自分より優れた人と思いなさいという謙虚な敬虔な心から人を見るようになるからです。そしてその人々と交わっているうちに愛があふれてきます。そこでイエス・キリストを信じて頂ければ、それは信仰による自分の霊的な子供としてもっと愛おしく思えるようになり、そして母のような優しさをもって養い育てていくことが出来る、という流れを見ることが出来ると思います。 

5.愛の敬虔さ(第1テサロニケ2:9)
「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに延べ伝えました。」

★子供を養い育てる親の愛
★育てる苦労と苦闘を続ける姿

 子どもを養い育てる親の愛のような心があふれてくると、育てる労苦と苦闘を続けることができるようになります。パウロたちのそのような姿を見てテサロニケの人々は、自分達を神の子として育てて下さっているんだなあと実感し、パウロ達の労苦と苦闘を見ることを通して愛と敬虔さを感じ取ることができるようになったと言えます。
 愛による敬虔さというものは楽なことではありません。忍耐というのはあきらめないということですから、そのような愛から出てくるきよい敬虔さを伴ってこそ、忍耐は長続きするのです。そのためにも親の労苦と苦闘を子が見て育つということは大事です。
 恩着せがましく言うという意味ではなく、親の背中を見て育つということです。自分の子供でなくても、育てるという立場であるなら、普段の生活の中に、労苦と苦闘がおのずと見えてくるものです。しかし、子どもの中にも親の労苦と苦闘を感じない子どももいます。親の心子知らずといいますね。親は自分が子どもから大人に育ってくる過程で、自分の経験から人がどんな複雑な思いを持つかということを理解して、今は忍耐して愛を表わそうとします。そうして落ち着いた子供は自分がいかに苦労をかけたかを知るのです。反抗のガス抜きをした後、はっと我に帰り、親に迷惑をかけたと思うのです。その思いだけでも敬虔な心につながっていきます。親を敬うことができるなら、神を敬うことにつながるからです。
 神様は十戒のなかで、神を畏れ敬い、人に対してはまず「あなたの父母を敬いなさい」と記されております。神様を敬うというのは、親を敬うことのできない人には多分理解できないと思います。親心が見えるということは、父なる神様の、出来の悪い子どもに対する親心が見えるということです。どんな思いや気持ちで、どうにもならない出来の悪い子を育てているかという、愛による労苦と苦闘を感じ取ることができる子ども心、それを神様に対して持つことが出来たら、どんなに労苦と苦闘をもって私たちの罪の贖いの為の33年の人生を送って下さったか、それがわかると思います。
 見える親を尊敬し、敬うことができなかったら、見えない霊の父を本当の意味で尊敬することは難しいと思います。しかし、出来ないわけではありません。悪い親だったから傷ついて反抗してしまって心歪んでしまったという人もいるでしょう。たとえそうでであっても、神様の愛、十字架の愛を通して、神様の愛の労苦と苦闘を知ったならば、そこで本当の神様の愛を知ることができるわけですから、心が癒されると言えると思います。

 以上の五つのことを、愛から生まれる敬虔さの証として、とらえていただければと思います。そのような心をもって福音は全世界に伝えられていきました。首狩り族であった人でも福音を信じるに至ったという、この二千年間のキリスト教の歴史の中で、実を結んできました。伝えられても、受け入れるか受け入れないかは、それぞれの自由意志にゆだねられていると思いますが、幸いなことに私たちはイエス様を信じることができました。その中には愛から生まれる敬虔なクリスチャンたちの福音宣教、キリストの証を語って下さったその結果としてイエス・キリストを信じる信仰へと心が動かされたのではないかと、 そのように想像することもできます。理屈でイエス様を信じても続きません。愛が唯一、心を神様に向けることのできる力となるのです。

【デボーション参考ポイント】                  
父なる神、救い主イエス・キリストにも見られる愛の敬虔さに触れることが出来れば、愛から生まれる敬虔さを持つことが出来る

 今日の五つのポイントから、イエス様もそうだったのだというものを見つけてください。
 一つ、ヒントとして、イエス様は権威権力を主張されませんでした。神の御子としていくらでも権威を主張することが出来たのに、私たちと同じ目線に下ってこられて私たちの普段の生活の中で神様の愛、福音を伝えられたという点ですね。
 そのことを思いみる時に、私たちの霊、魂も愛から生まれる敬虔さに触れて、私たちも謙虚に心が変えられていくと思います。

【川柳】  
   あきらめず  育てる労苦  続けるは
      我欲にあらず  敬虔な愛

 子育てをあきらめる人が最近多くなっています。子どもの為に労苦・苦闘するのは、まるで損、無駄のように感じてしまう親たちが増えてきています。忍耐がないということでしょうね。子育てをする労苦は我欲によらず、敬虔な愛によって続けられるということですね。
 今週も素晴らしい神様の愛を通して私たちの心も、愛から生まれる敬虔さを努力して持とうとするのでなく、神様の愛に触れて敬虔な心を内側に育てていくように主の前に求めていく一週間としてまいりましょう。