■2021年1月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)


『救いの喜びに輝く(Ⅰ)』

主題聖句
(Ⅰペテロ1:8)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっています。」


 今年のモットーは「おとずれの日に主をほめたたえるために」(第1ペテロ2:12)ということで、私たちは「異邦人の中にあって立派に振る舞いなさい」というみことばを心に留めて、この1年を歩んでいこうとしています。
 
 先週は(ヨハネ1:5)から、闇の中に輝いている光としての歩みをお勧めさせていただきました。
 
 今週は、(第1ペテロ1:8)のみことばから、「救いの喜びに輝く」というテーマで、三つのポイントを三週に分けてお話し致します。
  今週のポイントは(その1)「キリストを愛している輝き」です。
 
 人は愛される喜び以上に、愛することの喜びの方が大きく輝くことが出来るのではないでしょうか。皆さんが「キリストを愛している輝き」にもっと目覚めていくようにと、お勧めをさせていただきます。

 神を愛するという時、それは、崇拝するほどに尊び敬う、ひれ伏す、心から敬服する、唯一無二の方、そういう気持ちを全部込めて、「神への愛」と言っております。人間同士の愛とは少しちがいます。
 
 私たちはどのようにキリストを愛しているでしょうか。願いを叶えていただけるような存在としてしか見ていなければ、ご利益宗教になってしまいます。
 
 私にとって、かけがえのない存在であるイエス・キリスト、神様への愛、というふうに考えていただきたいと願っています。

○見たことはないのに、なぜ愛している?
 私たちはイエス様を見たわけではありません。実物を見てはいないけれど、その存在を素晴らしいと感じて愛しているわけです。
 
 この世では、実物を見て、感じて評価して愛するので、見たこともないのに愛せるか?と思うかもしれません。むしろ、イエス様を実際この目で見れないこの時代は、実はそれは大変素晴らしいことなのです。
 
 二千年前のあの時代に、私たちがもしイエス様をこの目で見ていたら、実際に弟子たちがそうだったように私たちも、表面的に、人間的な感性で、肉的な主観でイエス様を見ていたかもしれません。
 
 イエス様がよみがえられて昇天された後、もう完全にイエス様を見れなくなってからの弟子たちは、人間的な主観に惑わされることなく、霊をもって、イエス様というお方を真実に見れるようになりました。私たちも今そういう状態に置かれています。
 
 「見ないで信じる者は幸いである」と、イエス様がおっしゃったように、見えないからこそ真実な神様を見上げることができる、ということに気付いていただきたいと思います。

 では、見たことはないのに、なぜ愛せるのか、聖書のみことばを4つ挙げて、お話を進めていきます。

1)第1ヨハネ4:19
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

○神が、まず、私たちを愛してくださったから。 
 神様が私たちを愛してくださっているということに気付く時、私たちの心に神を愛する心が芽生えてきます。
 
○「私たちがまず神を愛した」との意味の違いを考えてみましょう!
 まだ信仰を持たないノンクリスチャンの感覚としては、キリストを信じるか信じないかは自分が決める、自分の自由だと思っていますから、「私が決める、私が選ぶ、まず私が愛した」と言うのではないでしょうか。
 
○神に対する態度として、へりくだっているか高慢であるかの違い。
 そういう癖がクリスチャンの中にも残っていると、神より上に自分を置いて、その目線で神様のことばを判断し選択してしまいます。神様がどういうお方かわかっていないと、そういう態度が現れます。
 
 創造主であり、万物を治めておられる唯一のお方である神様は、どういうお気持ちで、被造物の私たちを愛してくださっているのでしょうか。
 
 神様は、罪人の私たちと同じ目線にまでへりくだって、受け入れがたい罪人を受け入れる、という愛の気持をまず持ってくださいました。そこから贖いの御業のご計画が実行されていったのです。
 
 そのことに目が開かれる時、自分は被造物であり、罪人であり、とるにたらない者なのに、そんな私を愛してくださった神様の偉大さ、素晴らしさに心が開かれていきます。
 
 まず神様が私たちを愛してくださったという、そのおことばや出来事などを知っていくことによって、見たことはないけれど愛しているという気持がそこに生まれていくのです。

2)第1ヨハネ4:10
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

○人の姿となられて、贖いのみわざによる愛を歴史に残されたから。
 イエス様はどのように愛してくださったのでしょうか。神であるお方が人間の肉体をもって、その血を流すことにより、私たちの罪を赦すということを実行してくださいました。
  
 それほどに私たちを愛してくださっているということを、歴史的事実として神様は残してくださいました。そして今に至るまで、そのキリストの贖いの御業(十字架の史実)は消し去られることなく、無意味にされてしまうことなく、神様は守り続けてくださっておられます。
 
 私たちは、そのことを事実として受け入れることによって、更に、二千年前のイエス様を見てはいないけれども愛することができる、と言えるのです。

 見たことはないけれども、愛されていることを知った経験や出来事について考えてみましょう。たとえば、先祖が子孫のためにと労苦して残してくださった財産とか事業とかによって、見たことはない先祖の方々の愛と思いやりを知ることができるでしょう。
 
 また、「足長おじさん」の物語には、手紙やプレゼント、教育資金などにより、見たことはないけれど、その人に愛されていることを感じながら成長し、愛が芽生えていく女の子が描かれています。これはキリストと私たちとの恵みの関係を表しているように思えます。
 
 人は神様を知らないけれど、神様に養われています。太陽や雨やすべてのものの恵みを受けて生かされている、それは愛されていることのしるしです。
 
 橋や川や、それを造った人は誰か知らないけれど、その恩恵を受けている私たちは、今残されている橋や川を見て、先人の愛や労苦に感謝と尊敬の気持ちを持つことができます。

○私を愛してくださったしるしとなるものが残されている。
 そういうすべての恵みに気付いて、感謝する気持ちを持てるようになるとき、それが「見てはいないけれど愛している」という私たちの神への姿勢を生み出していけるのではないでしょうか。

3)第1ヨハネ3:16
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

○神が人となられて、罪の赦しを与えるために十字架でいのちを捨てられたことによって、愛がわかったから。
 「愛が分かったから」というのがここでのキーワードです。
 
 人から愛されて、その愛が分かってくると、自然と愛する気持が出てきます。見ているか見ていないかではなく、愛が分かると、愛することができるようになります。
 愛されているんだなぁと分かるには、関わりが必要です。神様と関わりを持つには、祈りの時を持ち、みことばを読んでいく、そうすると、神様は私を愛してくださっているということが分かってきます、そして気持が神様の方に向いていくようになります。

○愛がわかる時とは、どんな時かを考えてみましょう。
 たとえば「親切」は、わかりやすい愛の行動です。神様の愛、人の愛、愛はどういうときに分かるでしょうか。愛が分かるという時に、直接に神様を見なくても体験しなくても、神を愛することは可能であるということです。

4)ピリピ1:9
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」

○みことばに基づく真の知識と、聖霊との交わりによるあらゆる識別力によって、愛が深まり豊かになったから。
 真の知識とは神のみことばです。敬虔な心がまずあって、あらゆる知識を正しく受け止めることが出来ます。そして聖霊様との祈りにおける交わりを通して、識別力(分別の力)が付いてきます。
 
 神様の愛についても、真の知識とあらゆる識別力によって「これが神様の真実の聖い愛なんだ」とわかるようになります。そして神様への愛も深まり豊かになっていき、私たちは見たことはないけれど愛しています、と言うことができるようになります。
 
 信じてそのままだと、神様との愛は深まりません。聖書を何回も読み、主を畏れる心をもって真理のことばに対する知識を深め、聖霊様との交わり(祈り)によって、実際生活の中で識別力を発揮することが出来るようになるわけです。聖霊様が、みことばを悟らせ、みことばを思い起こさせ、私たちがどう判断し、どう決断していくか、識別力を発揮できるように助け主として助言してくださるのです。

○どのようにして理解が深まっていくかを考えてみましょう。
 何事においても、一回聞いたり、一回それをやってみただけでは理解は深まりません。
 
 聖書は、神様が私たちにご自分の思いと気持ちを知らせようとして書き表してくださった書物です。一回読んだだけでは理解は浅いと思います。何回も何回も読んで、神様のおこころを強く深く感じていけるほどに、そして神様への愛が深まり豊かになるために、聖書通読は続けてやっていきましょう。
 
 このように4つのみことばから、たとえイエス・キリストを実際に見たことがなくても、愛することは可能であることを知ることが出来ました。
 
 この4つのみことばを更に心に黙想しながら、神を愛することへの行動をチャレンジしていただきたいと思います。

【俳句】

椎茸の  無い鍋焼きに  愛を見る

 椎茸が食べれない人は、椎茸の除かれた鍋焼きを出されたとき、それを作ってくださった方のその心遣いの中に、愛を見る思いがいたします。私たちも、ちょっとした気遣いや心遣いを通して、実際に見ていなくても愛することが出来るものですね。