■2020年2月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

良心のきよめ  

主題聖句(ヘブル9:14)
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

 「良心」は、「悪」(死んだ行い)と「善」(神に仕える)を判断し、知性と感情と意志をコントロールするものである。
 「きよめ」にはギリシャ語で「ハギオス」と「katharizo」の二つの意味があることを前々回学びました。「ハギオス」とは、きよめられていくグループへの所属を意味し、「katharizo」とは、実際に汚れているものを取り去って、きれいにしていくという意味でした。
 主題聖句の「良心をきよめて」というのは、良心の汚れている部分の汚れを実際に取り除いてきれいにすること(katharizo)です。
 そしてそれは「イエスの血」の力によるのだと、(へブル9:14)では語られています。
 今日のポイントは「良心のきよめ」(katharizo)、実際に良心がきよくされるということについて見ていきたいと思います。
 主題聖句にある「死んだ行い」と「神に仕える」は、「悪」(死んだ行い)と「善」(神に仕える)として捉えることが出来ます。
 聖書の神様を基準として善悪を判断し、知情意をコントロールするという、心に大きな影響を与える良心の働きは、私たち人格者(人間)にとって大切な精神的な部分であると言えると思います。

1.良心のきよめが大切
A)第1テモテ1:19   
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
【内容観察】
「ある人たちは、イエスの血によってきよくされた正しい良心をないがしろにしたため、死んだ行いの生活へ戻ってしまい、神と共に歩む永遠のいのちへの人生が壊れ、破壊されてしまいました。」
 正しい良心は、神に仕えるという志を保つためのクリスチャン生活のハンドルとしての働きをしています。
 その良心が正しくなくなって、この世の死んだ行いの方に知識や価値観を増やしていけば、私たちは神様と共に歩むという道から反れて行ってしまいます。クリスチャン生活の破壊です。キリストを信じていると自分では思っていても、神の目からは役に立たない信仰になります。
 ですからきよめられた正しい良心を保ってクリスチャン生活を続けるためには、週に一度であっても礼拝において神様のことばを聞くという機会はとても大事なものです。
 神様のみことばを聞くと、みことばなる神様の聖さに触れて良心がきよめられます。そして新しい一週間を、この汚れた世界の中で神様の望まれる歩みを進めていくことが出来るようになるのです。
 良心のきよめはお掃除のようなもので、その都度汚れを取り去るのは簡単ですが、汚れを長く放っておくと取り除くのに苦労します。
 その意味でも、礼拝ならびに聖餐式は週に一度の大切な時として大事に守っていただきたいと思います。

B)第1テモテ3:9     
「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。」
【内容観察】
「執事の働きをする人とは、神の愛の象徴であるイエスの血によってきよくされた良心の中に、信仰の奥義であるキリストを保持している人でなければなりません。」
 私たちの内にいつも信仰の奥義であるキリスト(聖霊様)が生きておられて、私たちの言動行動すべてを見ておられ、私たちに教えさとしてくださるという意識が自然に生活の中に根付いていると、クリスチャン生活は一番安全です。 
 しかし正しい良心がまだ力不足な時は、世の中の様々な人や情報にふれて過ごすうちに、どうしても良心が汚れていってしまいます。
 キリストが内に臨在しておられることをいつも意識しながら、妥協することを極力避けて、世の汚れを少しでも受けないように守り、そして汚れた良心は「イエスの血」によってしっかりときよめていただくようにして、いつもきよい良心を保ち続けることが大事です。

2.良心をきよめる「イエスの血」とは?
A)罪を贖うための代価 (第1テモテ2:6)  
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
 人類が神様に対して犯した罪は、お金やもので贖えるものではありません。キリストの罪の無い尊い命が「代価」として支払われなければ、消えることがないほどの罪であります。
 父なる神様にとってイエス・キリストは「ひとり子」、失えば子孫が絶たれるという大事な存在です。未来を保証する証拠です。その大事な跡継ぎである御子キリストを、私たちの罪の赦しの代価として差し出されたということは、神様はご自身の未来を託すものとし、て私たちを選んでくださったということになります。
 なんとすごいことではありませんか。ひとり子を犠牲にしてまで私たちを御自分の未来の希望として取り戻したいと思われた神様の強い思いが、「キリストの血潮の代価」の中には含まれているのです。私たちはそれを深く深く思いみる必要があるのではないでしょうか。

B)血によるきよめと罪の赦しの実現 (ヘブル9:22)
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
 罪の処理についての神様のルールは、罪のない血を流すことで赦しを宣言し、きよいと宣言されるというものです。
 ですから、御子キリストは神の姿であられたけれど、それを捨てることが出来ないとは考えないで、私たちを救うためにその地位を捨てて、肉体をもって私たちと同じ姿で地上に来られ、罪がないことを証明するための33年間のご生涯を過ごされて、私たちの罪の贖いの血を持ってくださいました。
 イエス様の血だけが罪のない血であり、私たちの罪の赦しと良心のきよめをもたらす力のあるものである、と神様は認められたのです。

C)代価に込められた神の愛 (第1ヨハネ4:9)
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
 このようにA)とB)を通して、神様が私たちの罪を赦して、罪を取り除くために、どんなに大切なものを犠牲にして、罪なき血を準備され、贖いの御業を成し遂げられたのかが分かると思います。そのように大きな犠牲を決断できるのは、「愛」だけです。
 私たちも自分から生まれ出た子に対する親の愛を思いみれば、その「愛」が理屈抜きでわかるのではないでしょうか。子の良し悪しではありません。我が子を愛するのに理由はありません。自分の子どもだということのゆえに愛があふれてくる、そういう愛を神様は私たちに向けてくださったのです。私たちはそのような神様の「愛」を深く悟る必要があるのではないでしょうか。

【まとめ】
良心をきよめるイエスの血とは、私たちへの神の深い愛のことです。
神の愛が良心を浄化する力を持っているのです。
 友情、夫婦愛、親子愛、色々な愛がこの世にもありますが、どんなに愛を注がれていても気づかなかったら心は変わりません。
 また、どんな悪い人でも自分が愛されているという愛に気が付くと、心は自然と変わるものです。愛には、憎しみをも浄化する力があります。憎しみより強い神様の愛によって、赦せないものを赦せるようになる、そんな良心のきよめをもたらす力が「イエスの血」に現わされた神様の愛なのです。
 この朝もイエス様の十字架の象徴である聖餐式に預かりますが、杯はイエス様の血を象徴するものです。それをいただくときは、「これは神様の愛なのだ、神様はひとり子イエス様をささげるほどに私たちを愛して、イエス様を身代わりにするほどに、私たちを御自身の未来の希望として選んでくださったんだ」と心に覚えて、私たちに注がれる神様の絶対の愛に、感謝と信頼を深めていただきたいと思います。

【デボーションポイント】   
◎「感慨無量」(かんがいむりょう)になるほどに、神の愛とあわれみを悟れるように。
★「感慨無量」(かんがいむりょう)の意味
 計り知れないほど心に深く感じて、胸がつまること。
 クリスチャンであっても、その人の内に神様の愛に対する悟りがなかったら、良いと思われる決心や行動も、死んだ行いの価値観からくる判断決断になってしまいます。
 人々の救いのためにと考えるイベントも、世に妥協したものにならないように気を付けないといけません。神様の愛を悟った者として、神さまの愛に触れていただきたいという動機からのイベントを通しクリスチャンを通して、人々に不思議な力と愛を感じていただければ最高ではないでしょうか。それを目指して私たちも少しでも神様の愛を悟っていくよう努めてまいりましょう。
【俳句】
殺風景  ものの芽により  きよめらる
 これからすべての草木の新芽(ものの芽)が芽吹きはじめる季節に向かいます。何もない枯れた冬の景色が、ものの芽によって息づいて来ます。殺風景が消えていきます。
 それはまるでキリストの愛によって変えられていく私たちの心の風景のようです。