■2019年10月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

すぐに来られる  

 

主題聖句(黙示録3:11)
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
 

 今日の主題聖句は、イエス様が7つの教会に宛てて書き送るように言われた中の、フィラデルフィアの教会への手紙で語られたみことばの一節です。

 「私はすぐに来る。」とイエス様が言われてから、1900年近くが過ぎました。こんなに時間がたっているのに、どうして「すぐ」と言われたのでしょうか。
 
 私たちも手が離せない時などに、よく子どもたちに「ちょっと待って、おやつ、すぐあげるから」というような言い方をします。すぐあげたい、早くあげたいという気持ちはある、しかし同時に、しなければならないこともあるから、「ちょっと待ってて、すぐあげるから」と言います。
 
 子どもは待ってもなかなかもらえないと、その言葉は嘘ではないかと疑ったりします。
 
 イエス様は、すぐにでも迎えに行ける準備はしているけれど、遅れることがあるかもしれないから、あなたのいのちの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っている神への信仰、神を愛する心、あなたの持っているものをしっかり持っていなさいと、励ましと忠告を与えてくださっておられるのです。
 
 どんなに遅れても必ず行くから、約束は必ず守るから、信じて疑わず心して待っていて欲しい、というイエス様のお心が感じられます。
 
 ヨハネ14章では、イエス様は「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。」と仰っておられます。
 
 今、イエス様は私たちの場所を天国に備える準備をしてくださっておられます。遅いと思うことがあっても、イエス様は必ず約束を守られるお方ですから、信じ続けていきましょう。

1.忠実さが試される(マタイ24:45~51)   
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

◎主人が留守の間に何をしていたか。
 主人は帰る時間を知らせていません。しもべたちは留守を任されています。悪いしもべは、まだまだ主人は帰らないだろうと、油断します。
 
 再臨はまだまだ先だと思ってクリスチャンも油断します。油断は仕事に対する忠実さを失わせます。「仲間を打ちたたき、」即ち、クリスチャン同士で自己主張をしたり、自己中心な利己的な態度で相手を傷つけるようなことをします。そして「酒飲みたちと飲んだり食べたり」つまり、世の楽しみに浸っている時に、そのしもべの主人が思いがけず突然帰ってきます。 
 
 忠実なしもべは、主人がいようがいまいが、任せられた仕事をきちんとします。それが普通のことで楽しみでもあるので、主人が帰る日も普通に仕事をしています。
 
 私たちは主の再臨に向けて10年計画と言って心を奮い立たせていますが、10年と聞いて、まだ先だと油断してはいませんか。イエス様は来年来られるかもしれません。
 
 準備を完全に終わらせるということは私たちには不可能です。一年一年準備をし続けて、準備が進んでいるというところにイエス様がおいでになって、私たちはこの忠実なしもべのようにみなして頂けるのです。
 
 この一年「忍耐」について学んでいますが、どれだけ忍耐が身に着いたかというよりも、初めの頃より忍耐することに意識を向けるようになってきたなあ、でもまだまだだなあと感じる、それが大事です。
「忠実さ」が試されています。

2.信頼が試される(マタイ25:14~27)   
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」

◎タラントの違いで、主人に不信をいだいてしまう。
 マタイ24章25章は世の終わりについてのイエス様の教えが記されています。そのたとえ話はすべて再臨に備えるための教えであることを覚えておいてください。(マタイ25:14-27)のたとえ話は、タラントの違いで主人に不信を抱いたしもべの話です。
 
 5タラントや2タラント預けられたしもべは、与えられた賜物を素直に用いて忠実に主人のために仕事をしました。
 
 その忠実さが生み出す結果と評価を、もう5タラントあるいは、もう2タラント儲けた、というふうに象徴されています。
 
 1タラントの賜物を頂いたしもべは、なぜ素直にそれを用いて主人のために仕事をしなかったのでしょうか。
 
 彼は、他のしもべと比べ、こんなに少ないタラントでは、うまく仕事できないとか、失敗して失ってしまったら怒られるとか、色々思ったようです。主人に対する不信の始まりです。
 
 私たちにも、運動能力のいい人、背の高い人低い人、神様はいろんなものを預けてくださいました。その働きや能力には差があります。私たちは、できることなら人から褒められるようなことをしたいという隠れた心(下心)があって、他人の頂き物は素晴らしく、自分の頂き物は小さく低く価値がない、人と比べて差がある、と感じてしまいます。
 
 1タラントか5タラントかという量ではなく、大事なことはそれを用いて主人のために仕事をするという「忠実さ」です。
 
 私たちの人生を通して、このいのちをどう生かすか、それが私たちの地上での一つの働き、生きがいでもありますが、皆さんは隣と比較するというこの世の習慣に影響されて、無意識の内にクリスチャン同士で比較してはいませんか。
 
 私たちにとって恵みは十分与えられています。与えられたものには責任がともないます。与えられたものを、みことばに従って隣人のために用いていくことです。能力、才能、記憶力、運動神経、感性など、それをあなたが神をたたえ、神があがめられるようになるように、キリストの証人として用いていくのです。

 神様は、5タラントの人にも2タラントの人にも「少しのものに忠実だった」「多くをまかせよう」と言ってくださるのです。天国で多くのものを任されるとき、能力ではなく、忠実さが責任を全うする条件なのです。
 
 神様は言われたことは必ず守られる方です。イエス様が再び来られるまでに、忠実さ、信頼を奪われないように。今は忠実さと信頼が試されて、本当に神を信頼するということを私たちは学んでいる最中です。再臨、完全な救いと癒し、永遠のいのち、神様が約束されたことは必ず実現いたします。まだ来ない、遅い、と思って不信仰にならないように気を付けましょう。

【デボーションポイント】     
◎再臨への「確固不抜」(かっこふばつ)の信仰を保つ。

★「確固不抜」の意味
 意志や精神などがしっかりとしていて動じないさま。
 また、固く定まって変えることができないさま。
 
 私たちの信仰は見えるものに惑わされてフラフラしますが、イエス様の再臨だけはしっかり信じていきましょう。

【俳句】 
 万年青(おもと)の実 眺めて念う 「来たりませ」
 万年青(おもと)は、いつも葉が青々とした日本古来の観葉植物で、花や実をならせます。赤い実はお祝い事に使われたりもします。「念う(おもう)」は、一つのことにおもいを集中させることです。
 万年青がいつも青々としているように、私たちの主の再臨を待ち望む心も変わりなく、いつも念(おも)っているようでありたいものです。