■2021年7月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『原点回帰 第二聖会』

主題聖句(マタイ4:17)
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

 

 

 第一聖会の復習を致しましょう。聖会テーマは「原点回帰」ということで、まず教会の原点について(使徒2:42-43)からお話しいたしました。使徒の教え、聖徒の交わり、聖餐式、日々の祈り、それらを守っていた信徒たちに、神を畏れる心が生じ、多くの不思議としるしが行われた、という初代教会の姿は、私たちの目指すべき教会の完全な姿、原点です。教会を通し、クリスチャンを通して、神の御力、栄光、癒しと奇跡が頻繁に現わされる、そこまでいかなくては、教会の完全な姿とは言い難いと思います。
 (使徒2:43)には、不思議としるしが行われる前に、人々は神の臨在に触れて主への畏れが自然と湧き上がってきたことが書かれてあります。ですから、「主を畏れる畏敬の念」は、非常に大事な教会の原点の土台であるということをお話させていただきました。
 今日は、その「主を畏れる心」の、更にその原点、主を畏れる心の始まりはどこかということを、主題聖句(マタイ4:17)から、見ていきたいと思います。
 イエス様の救いは、悔い改め、心を改めることから始まります。「悔い改め」の最も重要な意味は、「神に立ち返ること」です。
 では、最初に信じて神に立ち返った人は、もう悔い改める必要はないのでしょうか。

●畏敬之念が生じ、改過自新に至る2つの要素
(1)主権者への畏敬之念
 自分の罪を認め、心を入れ替えて再出発するのは、主権者への畏敬の念が生じた時です。そして、私たちは常に主権者を意識して、主権者の思いや考えから外れないように、と心を見張ります。

(2)恩恵への畏敬之念
 欠点を責めることの出来ないほどの、色々な愛とあわれみと恵みを施していただいている、助けられている、という所から出る畏敬の念。
 今日は(1)主権者への畏敬之念について、見ていきたいと思います。
(1)主権を認めているか
(2)最大の主権は創設者にある
(3)主権者は、裁く力がある
(4)主権者は【法】である
(5)主権者には高徳が要求される
 一般社会においても、例えば最初に組織を立ち上げた創設者は、最大の主権者として皆から敬意を払われます。そして、その創設者には、ものごとをさばくことも認められ、「法」のように自分の考えを基準に振る舞うことができます。ですから、皆が信頼して従うためには、創設者に高徳が備わっていることが必要です。
 この5つのことは、聖書の神様が持っておられるすべてです。御父、御子、御霊の三位一体の神様、創造主なる神様は、完全な主権者ですから、裁く権威と力をお持ちです。神のおことばは、私たちにとっては律法、ルールそのものです。聖書の神様は最高に徳の高い神様です。
 聖書を通して、天地創造の神は、まことに生きて今も働いて人間の歴史を進めておられる、ということを実感として認めるならば、自然と畏敬の念が生じてくるのではないでしょうか。
 初代教会の人々は、使徒の教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしているうちに、神に触れ、神に近づいて行きました。そして、神こそ真の救い主、創造主、素晴らしい主権者であると実感した時に、一同の上に畏れが生じました。神様に近づいているしるしが、私たちの内に畏敬の念を生み出していくものなのです。
 この畏敬の念を強く感じていない人の問題点は、人間至高主義のヒューマニズムにいつのまにか影響されていることです。神の存在以上に人権を高く評価しているので、神が創造主なる主権者であるということから考えが遠のいている可能性があります。そういう人は「悔い改めなさい。天国は近づいたから」ということです。神に立ち返ることは、主を畏れることです。
 私たちは主権者に対して多くの罪を犯す者ですが、主権者なる神様が忌み嫌われる7つの大きな罪がありますので、箴言から見てみましょう。

●7つの大悪(箴言6:16-19)
「主の憎むものが6つある。いや、主ご自身の忌み嫌う者が7つある。高ぶる目、偽りの舌、罪の無い者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに早い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。」
(1)高ぶる目
(2)偽りの舌
(3)罪の無い者の血を流す手
(4)邪悪な計画を細工する心
(5)悪へ走るに早い足
(6)まやかしを吹聴する偽りの証人
(7)兄弟の間に争いを引き起こす者
 高ぶる目と言うのは主権者を認めないという意味で、クリスチャンはいつのまにか「高ぶる目」を持ってしまいます。「私の人生は主の御手の中にある」という心を失わないようにしましょう。
 特にクリスチャンとして気を付けないといけないのは(7)です。自分の意見を持つことは良いのですが、自分の意見がいつも正しく、優れていると思い込んで主張するのは、行き過ぎです。みことばに沿って間違いを指摘することは出来ますが、価値観が違うということで否定するような言い方や態度は、争いの種を植えつけることになります。この7つの大罪を、神様は呪わしいほどに忌み嫌われます。
 これらの罪を持つことがないように、神を畏れて心を改めましょう。

●心を改める(第2歴代33:12-16)
「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父母の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。その後、彼はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入り口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。さらに、彼は主の宮から外国の神々と偶像、および、彼が主の宮のある山とエルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。」

(1)最悪のユダの王マナセ
 マナセ王の犯した偶像礼拝の罪と悪のゆえに、神様はユダ王国を絶対に赦さないと言われたほどに、彼はユダ王国の最悪の王様でした。

(2)神からの懲らしめを受けた
 赦される筈のないマナセ王に対して、神様は個人として見てくださいました。傲慢な心がとことん砕かれるような、非常に苦しい辛い体験をします。神からの懲らしめを受けたのです。さばきの前に、懲らしめがあります。この懲らしめが心を変えるきっかけとなります。

(3)へりくだった――心を改めた
 神様の前にへりくだったマナセは、心を改めました。

(4)エルサレムから偶像を除いた
 心を改めたマナセ王は、エルサレムから偶像を取り除きました。

○偶像(=神ではないものを神として従っていく)
→手放せない欲望
 新約における我々にとって、偶像とは、手放せない欲望です。
 神のみこころはわかっていても、自分の欲望を優先します。

→利己を満足させる貪欲の罪
 好奇心、食欲、睡眠欲など、心や体の健康を保つために健全な欲は必要です。しかし、欲にとらわれて、まず自分を満足させてから神に従おうとするのが問題です。次から次に欲は出てくるので、神様のことがどんどん後回しになります。

→背信へ
 神に対して背を向けることです。気持ちは神様に従っているようでも、神の良い教えより、利己を満足させる欲望を優先させるなら、背信が生れている、背信が隠れている、と言えます。
 神様の良い教えを第一として、それから欲(健全な欲)を満たす、という順位を間違えないようにしましょう。
 クリスチャンは、きよめに関してそこまで吟味する必要があります。主の再臨までに、私たちはマナセのように、どれだけ偶像を取り除いていくことができるでしょうか。

→高慢
 背信は高慢という実を結んでいきます。イスラエルの人たちは、口先だけで神を敬いました。心は神様から離れ、神様の真理を無視して自分の欲望を満たす生活をしていたのがイスラエルです。
 マナセもそうでしたが、最後に大きな苦しみを通して自分の間違いを認め、やり直しました。改過自新を実行した人、マナセです。

→不敬虔 
 成長したクリスチャンは、ここまで自分の心の中身を吟味して、肉の思いの動機か、御霊からの思いの動機であるかを探り、いつも自分の心を見張り守るように心がけていきましょう。

●自問自答
(1)自分の悪に気づいているか
 悪に気づき罪を認める人は、神を畏れています。気が付いていない人は、心の目が盲目になっているかもしれません。人は罪を犯さずにはいられない罪人です。罪を犯して、過ぎてから気づくのは、主を畏れている人の心の動きです。悪いことをしても、それを隠したり、開き直ったりする不遜な態度をとる人は、畏敬の念が弱ってきていると言えます。

(2)主を畏れる実を結んでいるか
 そんなに悪いことはしていない、私は主を畏れている、と思う人は、主を畏れる実を結んでいるか、生活を振り返ってみましょう。

(3)実はどのように現れているか
 実際の生活の中に、行動として、主を畏れる実はどのように現れているでしょうか。たとえば、什一献金は、わかりやすい例です。十分の一とはどの範囲か?全収入か?経費は?食費は?自由に使える残りの部分か?主を第一にしていることの証しは皆さんの信仰にかかっています。強制強要はありません。自分が決めた通りに主を畏れる心を現わしていただければと思います。

(4)心に偶像を持っていないか
 神様を後回しにしたり、目をつむったり、背を向けたりさせる利己欲、貪欲、それに気づいたとき、今度はそうならないようにチャレンジしようと心を改めることが必要です。信じた時に、天国は近づいたから悔い改めようと心を入れ替えたのならば、私たちが少しでも神様から離れかけたら、神に立ち返るという姿勢を思い出す必要があるのではないでしょうか。心に偶像を持っていないか吟味する勇気を持ちましょう。

(5)「改過自新」は、何度もする必要があるかないか?それはなぜ?
 これを自分に問うて、神への畏敬の念がどれくらい実っているかを、あなた自身が気付いていただければと思います。

【川柳】
子を責める  親の心に  不敬虔

 子育ての時期、つい感情的に子供を叱ってしまうことがあります。感情的になると、不敬虔な態度が出やすいものです。
 
 子に限らず、他人を責める気持ちになった時は、神を畏れる心を持って相手の問題点を見ているか、悪いところを直すように指摘しているかと、自分の心を吟味する必要があります。一息も二息も間をおいて、行き過ぎた責めの心にならないように心がけましょう。