■2019年6月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖霊の雨を求める忍耐 

主題聖句(ゼカリヤ10:1)
後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。

 

 今日はペンテコステ記念礼拝です。聖霊に満たされることを忍耐して待ち望むことについて語っていきます。
 
 ゼカリヤ書では後の雨について語っています。後の雨とは熟成の雨とも言われ、実が熟成するため、完成の最後のプロセスとして必要な雨です。始めの雨に続いて後の雨が降ることによって、実が熟成し刈り取ることができるようになります。

1.完成のための後の雨(ガラテヤ3:3)
「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
A)収穫する前に降る熟成の雨
 私たちの救いは自分の努力や人間的な働きによるのではありません。ただ神様のあわれみによって聖霊の働きが私たちにもたらされて救いへと導かれたのです。
 
 イエス様は「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選んだのです。」と言われました。私たちは自分でイエス様のもとに来たように自分中心に考えますが、実は神様が私たちの心に働きかけてくださり、いろいろな取り扱いをしてくださって、キリストに出会うようにと、様々な場面や人々を通して導かれてきたのです。
 
 すべて神様の導きの中で行われていますが、その場面でどう応答するかで、永遠の命に至るか永遠の滅びに至るかふたつの道に別れていきます。
 
 救いも御霊の働きで始まりました。これも個人的なものとして考えるなら、聖霊の前の雨の働きであり、かたくなな罪の心を柔らげるために豊かに働いてくださいました。これが、「御霊で始まった」という部分です。
 
 種を蒔く前に、乾季で固まった畑を耕すために前の雨である秋の雨が降るわけです。これは先週お話ししたように、私たちの罪深い心が、神様の永遠の命に至る種を受け入れるために、かたくなでない柔らかな心になるように、まず聖霊の働きかけがあって福音の種を受け入れられるようになるのです。
 
 すべて聖霊の働きかけによって今の私たちの救いがなされています。しかし受け入れて終わったわけではありません。完成されるというゴールがあるのです。ゴールに向けて始めの雨が降り注がれ、ゴールの手前で実が熟成するために後の雨が必要なのです。

 そして収穫というゴールに至ります。その収穫の前に後の雨が降らないと駄目なのです。二度聖霊の雨を受けることが大切です。

B)神の最後の審判の前に、人々が救われるための聖霊の雨
 今まで人々が犯してきた罪、特に裁かれないで隠されていた罪に関して神の前に一人一人が出て裁きを受けることが定まっていると聖書にあります。
 
 それはこの世の終わりの時であり、完成の時、ゴールの時です。このゴールは、すべての人が救われてほしいという神様の願いから一方的に地上に降り注ぐ大雨の時でもあります。
 
 すべての田畑を同じように潤すには雨以外にはありえません。神の御業としか言えません。一人でも多くの人が救われるようにと後の雨が全地に降り注がれ、そしてキリストの再臨があって、最後の審判があります。
 
 私たちの地上のゴールは神の裁きです。すべてを清算される時です。
それから新しい天と地が始まり、新しい歴史が始まります。

C)キリストの再臨の前に、教会が完成するための聖霊の雨
 今私たちが受けようとしているのは、最後の審判の前に注がれ、世界中の人々が救われるための聖霊の大雨です。これは局地的な雨ではなく世界中に注がれる雨であり、世界中の人々がキリストを信じるためにやってくるリバイバルの雨の時です。
 
 二十世紀になってから今まで、聖霊の雨がいろいろな国で降り注がれてきましたが、世界的なものではありませんでした。局地的な雨でした。しかし、大雨と書いてあるので、世界的な神の働きを見る時が来ているということです。
 
 季節の雨が遅れているような時でも人々は必死で雨を求めますが、そういう期間的なものでなく、雨の重要さに目を向けさせるために「後の雨の時に、主に雨を求めよ。」と聖書は語っています。
 
 現代の人々は雨が降ると面倒くさいので雨を嫌う人もいますが、農家の人々にとっては雨は非常に重要です。最近は雨が少なくて、ダムの底の村が見えてきたり困った状況が起きてきています。
 
 すべての水の元は雨です。クリスチャンも水には乾いていても雨の大切さに気づいていない人が多いように思えます。自分の個人的な水の必要にしか目が行かず、全体の乾きに気づかず、雨の必要性に気づかずにいるのです。
 
 雨が降らなければいずれ水の供給もストップしてしまいます。雨が降らなくても、すぐに困ることはありません。しかし雨が全く降らなくなったら、気づいたときにはどうしようもないのです。
 
 クリスチャンも一時的な渇きの水だけを求めていたら、だんだん水がなくなってきて、手元の水もなくなってしまってからでは、求めてももう雨を待つだけの余裕も既になくなっていて遅すぎるいうことになります。
 
 つまり一時しのぎに求めるだけの生活を続けているなら、いずれ手に負えない大きな問題がやってきてどうしようもなくなるのです。そういう状況すら考えないで生活していないでしょうか。
 
 これは神様から私たちへの忠告です。今は足りていても、今から考えて、ちゃんと季節ごとに神様に恵んでいただくために、へりくだって神様の前に敬虔な思いを持って聖霊の雨を求めることが大切です。
後の雨の大切さに今から気づいてください。今日はペンテコステの日だからというのではなく、季節として、今は後の雨が降る時期であるということをわきまえて、今から日々しっかりと求めていく必要があります。
 
 自分という自我を砕いて、ゴールに至るための聖霊の雨をしっかりと求めていくことと、もうひとつは、キリストの再臨の前に教会が完成されるために、しっかりと求めることが重要です。

 後の前を受けなければ完成されません。個人的にも成長し教会が完成されるために後の雨をしっかりと求めましょう。

2・主に雨を求めよ(ルカ11:13)
「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
 聖書では、「求める」ということがいかに重要であるかを言っています。求め続け、渇く心、求道心が大切です。人は求道心の強さによって、それが自分にとっていかに大事なものであるかが分かります。聖霊に触れられ、心が作り変えられていくということにどれだけ関心を持っているでしょうか。
 
 色々な葛藤が内にあっても、聖霊に触れられるならば、聖霊が造り変えてくださいます。心配事がなくなっていきます。聖霊に満たされるならば神様の愛とあわれみが豊かに注がれ、心が豊かに潤されて人徳が高められていきます。

 もっと良い人になりたい、もっと神様の前に喜ばれる者でありたい、善に親しむ者でありたい、もっと誘惑に対して強くなりたい、そういう自分の内に善なるものを求めることに、どれだけ私たちは関心を持ち、価値を見出しているでしょうか。その関心と価値は、永遠の滅びに至るか永遠の命に至るかというところから教えられていくのです。
 
 今の世界は目先の楽しみだけで十分であり、死後なんてどうでもいいと思わせています。しかしクリスチャンは真理を聖書から教えられていて、キリストが歴史上現実におられた方であり、それを信じていますから、実現すると分かっています。それは恐ろしいことです。素晴らしいことも実現しますが、逆もあるのです。
 
 罪に対する裁きと神様のあわれみにより信仰をもって救われるという最後の審判を知っているのですから、もっと真剣に生きることが求められています。
 
 熟成の雨である聖霊の雨を求めていきましょう。最初の雨からもう2千年が過ぎています。この期間は異邦人に与えられた救いの期間です。最後の雨のときは異邦人もユダヤ人も収穫されます。

B)聖霊の雨を求める忍耐
 諦めてしまわない信仰をしっかりと保ち続けることです。なぜなら後の雨が降る時期が今来ているのですから、必ず後の雨が降るということをしっかりと信じて求める時期であるということです。
 
 そして、それを待つ忍耐が必要です。諦めるわけにはいきません。不信仰にならないために忍耐を働かせましょう。そして信仰を働かせましょう。
 
 雨の季節が来ているのですから、今求めたら必ず聖霊をいただくことができます。個人的に、教会という群れに、そして全世界的に、3つの対象者を神様はあげておられます。
 
 最初の雨を受け、これは内側を耕し作り変えられていくための雨で、この前の雨を受けていない人はみことばをなかなか悟れません。理屈でわかっても悟りとして自分の内側に入ってきません。みことばがどんどん自分の中で開かれていくという体験は最初の雨によらなければできません。そして、二度目の雨によってキリストのように変えられて、いつ再臨がきても大丈夫と完成されていきます。
 
 教会全体が、初代教会のように同時に人々が聖霊の雨を受け満たされるということを、わたしは必死で求めています。その聖霊の雨が来なかったら、自我が砕かれ、変えられていないためにせっかく新しい方が来られてもつまずかせてしまいかねません。
 
 自分の努力で自分は変えられません。聖霊によらなければ変わることはできません。しっかりと後の雨を求めていきましょう。雨は神の一方的な恵みです。人間的な努力や方法によって降るものではありません。私たちはただ忍耐し信じて雨を待ち続けましょう。