■2021年5月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『永遠のいのちを信じる立派な振る舞い』

主題聖句
(ヨハネ4:14)
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

(ヨハネ7:38~39)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。


 

 使徒信条の学びも最後の項となりました。御父御子御霊の神を信じるとはどういうことかを学びつつ、それを信じている者としてのそれにふさわしい行動言動があるということで、私たちはそれにチャレンジしているところです。
 (箴言20:4)には、「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない」とあります。
 時は刻々と再臨に近づいています。なまけていて、刈り入れの時に何も手にできないということにならないように、緊張感を増し加えて行く必要があります。
 神様が与えて下さっている時間と、私たちをキリストの姿へと変え続けて下さる聖霊様の働きとによって、神は必ずそれを成し遂げてくださると、パウロはテサロニケの教会の人々を励ましています。
 私たちもそのことを真剣に受け止める必要があります。
 信じている者には、助け主聖霊様が内に住んでくださいます。信じているならば、そのような聖霊様のお取り扱いを受けることが出来ているはずですから、聖霊様と共にあって私たちの努力は実を結んでいくことができます。
 今、世は霊的冬の時代です。そういう時にこそ、私たちは「なまけ者」にならず、畑を耕し、種を蒔き、種が育っていくための良い畑作りをしておくことが必要です。
 そういうことを心にとどめて、今日の「我は聖霊を信ず」の【5】、『永遠のいのちを信じる立派な振る舞い』を、皆さんと一緒に学んでまいりましょう。

●永遠のいのちに至らせるのは、生ける水である御霊の働きである。
 主題聖句を読みますと、キリストの与える水、永遠のいのちへの水、生ける水、と表現されたものは聖霊であることがわかります。
 また、御霊は、イエス様が復活された後、ペンテコステの日に弟子たちや信じる人々の上にくだられて、それ以来二千年経た今に至るまで、聖霊は人々に、そして私たちにも注がれております。この聖霊様が私たちを永遠のいのちに至らせる働きをされるのです。

●永遠のいのちを持つ者が神の国に入ることができる。
 神の国は永遠ですから、永遠の神の国に入る者は、永遠のいのちを持っていなくてはなりません。 
 信じる者は皆、救われるのですが、「信じる」とは、文字面だけの表面的な、行いのない死んだ信仰ではありません。信じることに伴う行動が日常生活に現れる、生きた信仰のことです。それを「信条から出てくる立派な振る舞い」として、今まで学んできたわけです。その生きた信仰のためには、永遠のいのちを御霊によって私たちの内に持つ必要があるわけです。

1)永遠のいのちを持つとは
A)御子イエスを信じる者(ヨハネ3:36)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
 永遠のいのちを持っていることが、イエス様を信じているしるしである。

B)みことばと聖霊によって生きる者(ヨハネ6:54)
「わたしの肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
 私たちはいのちを保ち生活するために、肉を食べ水を飲みます。 
 イエス様の肉を食べ(みことばを信じ受け入れる)、イエス様の血を飲む(イエス様のいのち、イエス様の霊、すなわち聖霊様の生ける水を飲む)、この生活をしている者は、イエス様を信じている者であり、永遠のいのちを持っている者です。
 毎日聖書を読み、黙想し、みことばから力を与えられる、そして聖霊様と共に祈る、このように、みことばと聖霊によって生きるという生活をしている人が、永遠のいのちを持っている者と言えます。

2)永遠のいのちを得るには
A)貧しい人たちに与える憐み(マタイ19:16-22)
 永遠の命を得るためには、神様の律法を守りなさい。そして、永遠のいのちに生きて全うしたいのなら、持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。それは天に宝を積むことになるから、とイエス様は言われています。
 天に宝を積むことと、永遠のいのちを得たいと思うこととはつながっています。永遠のいのちを持っている者は、必然的に天に宝を蓄えているのです。
 私たちの心は宝のある所にある、とイエス様が言われました。永遠のいのちを自分の蓄えるべき大事な宝として考えている人は、それを天に蓄えます。そこが私たちの心を置くべき最も価値あるところだからです。
 ここでイエス様は、地上の財産に頼る信仰生活は、純粋に神のみに頼る信仰の邪魔になるということを教えられています。
 私たちも自分を吟味する必要があります。いつか将来、全財産を奪われるような時代、社会が来た時、それで神様につぶやき愚痴不平を言うようであったなら、私たちの信仰はこの金持ちの青年と同じように「神」にではなく「お金、この世」にあったということになります。
 「神様を信じているから、お金があっても神は必要を満たしてくださる」というのが、私たちの神への信仰です。私たちの土台はこの世のものではなく、岩なる神様であることを覚えておきましょう。
 寄付をするという行為の時も、その心は貧しい人たちを憐れむという動機からの憐みであるべきです。 
 「憐れみを行動に移すことのできる人は、永遠の命を得ることが出来る、律法を全うすることが出来る」ということをイエス様はここで私たちに教えておられると思います。

B)隣人への憐みの行動(ルカ10:25-37)
 金持ちの青年にも律法学者にも欠けていたものは、隣人への愛を行動に移すことでした。
 イエス様のたとえ話の中で、サマリヤ人は敵であったユダヤ人が瀕死の状態にあるのを見て、「かわいそうに思い」、いのちを救う行動をしました。サマリヤ人の心に働いていたのは純粋に「憐み」です。
 隣人を愛するとは、持ち物を全部売り払って貧しい人に与えることであり、敵であっても瀕死の人を助け、世話をし、介抱を頼み、費用を出して、後々まで心配して、回復するまで手助けすることです。神様の憐みは、そういう憐れみです。
 「憐れみを施す」とは、単に憐みの気持ちを持つというだけでなく、それほどまでに行動し、最後まで憐れみを全うすること、これが永遠のいのちを持っている者の姿です。永遠のいのちと憐れみ深さは非常に関係が深いと言えます。

3)永遠のいのちとは(ヨハネ17:3)
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
●父なる神を知る
●御子イエス・キリストを知る
 父なる神が御子イエス・キリストを遣わされたのは、神が私たちを憐れんで、キリストによる罪の赦しの御業により私たちを永遠の滅びから救うためでした。
 父なる神様は、出エジプト記において、「主、主はあわれみ深く情け深い神」と、ご自分の第一のご性質をモーセにあらわして、そのように言われました。
 その神の憐みが形となって、この地上に来られたのが、罪の贖いのために十字架にかかって死なれ、三日ののちによみがえられたイエス・キリスト、憐みの器とも言われるお方です。
 この憐みの神と、憐みの器であるイエス・キリストとを知ることが永遠のいのちなのです。神の憐れみを知ると、永遠のいのちがわかるということです。

●聖霊との交わりによって父と御子を知ることができる。
(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」
 「あかしする」という中には、知らせる・教える・伝える・証明するという意味が込められています。 
 「聖霊があかしする」とは接点を持つということです。
 交わりを持たなければ伝えられません。交わっていただかなくては知ることができません。
 聖霊は助け主なる真理の御霊ですから、交わればキリストについて証してくださいます。御父と御子キリストは一つですから、キリストを知れば御父を知るのです。聖霊はキリストを証ししますが、その中に御父も含まれているのです。三位一体の神を知るには聖霊様と交わり悟らせて頂くほかありません。
 聖霊を信じるとは、永遠のいのちを信じることであり、永遠のいのちを信じるとは、御父御子御霊を知ることです。すなわち、あわれみの神を知ることが永遠のいのちであるということです。

4)神を知ることによる立派な振る舞い
A)聖潔を追求する人生(ローマ6:22)
「しかし、今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
 永遠のいのちを宝のように受け止めて信じているならば、聖潔を追求してこそ、私たちは永遠のいのちに行き着くことができます。

B)信仰の戦いを勇敢に戦う生き方
(第1テモテ6:12)
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前で立派な告白をしました。」
 私たちは人と争いをしているのではありません。闇の力、罪、汚れ、死、という人間が勝利できない霊的存在(サタン)と勇敢に戦う姿を見て、世の人々は「立派だな」と思うことでしょう。

C)キリストのあわれみを待ち望む姿勢
(ユダ1:21)
「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
 この世の中にどんなに失望していても、キリストのあわれみ、即ち、からだの贖われること(再臨)が必ずやって来ます。
 神様は私たちを見捨てることはありません。神は今も私たちを憐れんでくださっています。この世界がどのように変わろうとも、救い主イエス・キリストを信じる信仰者に対する神のあわれみは、変わることはありません。必ず救いを完成させてくださいます。神様の憐れみを信じて待ち望みましょう。
 永遠のいのちについての理解と共に聖霊様に悟しをいただいて、そしてそれを信じて、キリストの再臨まで、聖霊と共に歩む人生を目指して進んでいただきたいと願います。

【俳句】

永遠の いのちの潤い 梅雨の雨

 しとしとと降り続ける梅雨の雨は、乾いた大地を潤します。
 永遠のいのちの潤いは、いつも神様のあわれみによって与えられています。
 神様のあわれみの雨は、いつも私たちの心を潤してくださり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝することができるようにしてくださいます。
 
 「我は聖霊を信ず」これは、現実のクリスチャン生活にとって一番の、生きた信仰生活の鍵であると言っても過言ではありません。