■2017年12月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 愛の動機(霊性) 

主題聖句(マタイ6:1)
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 

 先週、手束先生が「神を畏れる」というクリスチャンにとって一番土台となるべき点を語ってくださいました。世の中の様々な教えや目の前に現れてくる出来事、そして多くの価値観を通して、クリスチャンたちの「神を畏れる」心が揺さぶられているのではないか、ということを指摘してくださいました。
 今日も「神を畏れる」ということにつながると思うのですが、「愛の動機(霊性)」ということについて見ていきたいと思います。健全なクリスチャン、その動機とはどのような動機なのかを、しっかりと確認してまいりましょう。
 マタイ6章1節を読みますと、良いことでもその動機というのが神様にとって私たちを見るための大きな基準となっているようです。
 「動機」とは信仰面から言うなら「霊性」です。辞書での意味を合わせて見ますと、動機とは、人が心を決めたり行動を起こしたりする直接の心的原因のこと。動機は、外的刺激(見聞きする)によって誘発される。また、外的刺激によって本性(神のかたちに創造された霊性)が覚醒されることもあります。
 いろいろな人生の苦しみや経験を通して、人は何のために生きているのかという自分への問いから行き着くところ、キリストのもとに来られた方もいるのではないでしょうか。いったい自分は何者なのか、それに気がついた時、そこに動機が生まれるわけです。これで私は生きていける、このために今私はここにいるんだと、心を決める要因が、外的なものから刺激されて目覚めるという意味です。人は何らかの心の姿勢を持って生きており、そして今のあなたがここにいるのではないでしょうか。
 人の前に人生を送るのか、それとも神様の前に人生を送るのか、神様はこれをいつも問い正しい道から外れないようにと私たちに忠告してくださっています。

1.「神の前に」という動機
(ローマ15:1−2)
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
A)「自分を喜ばせる」その動機はなんでしょう。
 人の前で自分を喜ばせるというのは、自己満足であったり、名声名誉であったり、人から愛され尊ばれたい、優越性を持つ、良いものでありたいという動機、それは比較社会の中で、人より優れていることが人生の成功を治める者であるという印象を受けていることが多いものです。人からの誉れを受けようとすることです。
 しかし、神のひとり子イエスキリストを送られてまで私たちを救いたいと思うほどに愛を注いでくださった神様の前で、自分を喜ばせるというのはよいことです。私たちを一番愛してくださっている神様の前に、喜びのある歩みを、人生を、行いを現したい。私も喜び、愛してくださっている神様も喜ぶ。愛してくださっている神様から誉れを受ける。それが一番自分が喜びとすることではないでしょうか。自分を喜ばせる健全な動機は、愛してくださった方を喜ばせたい、それを通して私の喜びが満たされるということです。 
B)「力のない人たちの弱さをになう」その動機はなんでしょう。
 力のない人を助けるボランティア活動をする、弱い人を助ける行いをする、それが人々の前で自分が良いものでありたいという自分中心の、自分を喜ばせるためだけに心を向けている、そのような動機があるならば、そのような行いは神の前にはどうなんでしょうか。人々の目を気にして評価を気にして、自分を良いものと見せかけようとする、そんな動機に気を付けなくてはいけません。

C)正しく「力」を用いるための動機、霊性とは? 
 自分に与えられている力、能力、持ち物、才能は、人と比較すれば優れていたり劣っていたりします。その力を正しく用いるための動機、霊性とはどういうものでしょうか。私たちに与えられている力は「力のない人たちの弱さを担う」ためだと、ローマ15章1~2節に記されています。神様は私たちに一番のお手本を示してくださっておられます。
 罪人である私たちのためにご自分の全能の力、永遠の愛の力をもって滅びから救い出して、ご自分の子として永遠の神の国に入れてくださる救いを完成してくださいました。私たちには自分を義とし自分を罪から救い出す力はありません。それを持っておられるのは神様だけです。その神様は私たちをゴミのように捨てて燃やされる方ではありません。私たちをもう一度生かしたい、もう一度取り戻したいと、ひとり子イエス様という神様のすべてをもって私たちの罪を贖ってくださいました。
 力のある神様が力のない罪人である私たちを救ってくださった、これがお手本であります。そのような神様の聖い愛の前に生きる人生という意識が、力を正しく用いることのできる動機を与えられるといえると思います。

【デボーション参考ポイント】  
隣人愛の動機について考えてみましょう。
 人々の前に私たちは良いものでありたい、愛されるものでありたいという、これは私たちの自然な欲求であり捨て去ることは難しいです。それは自分を変えていこう、努力を積み重ねていこうという向上心へとつながります。
 しかし聖書の中には、人々の前にというより、神の前に生きる生き方として、神が愛してくださったように私も隣人を愛していくという精神が、貫かれております。私たちも神を愛し神を畏れる者であるならば、愛された愛を持って互いに愛し合いましょうというのが正しいベストな生き方であります。それを目指していくために「今私は神の前に」という意識をいつも忘れないようにしましょう。
 今日も、みなさんは今「神の前に」いるのです。神様は口うるさく口出しされる方ではなく、じっと見ておられます。そして最後の審判のときに、それらすべてを正しく報いを与え、さばきをもたらしてくださる。なぜ神様は無言のときが多いのでしょうか。もうすでに神様の語りたいお気持ちはすべて聖書の中に記してくださっておられるからです。御ことばをしっかり読みながら、神様の言わんとしておられることを悟っていけるように、神様を愛する動機を持って隣人愛に歩んでいきたいと思います。

2.純粋な動機は、純粋な愛から
(へブル12:2)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

A)内容観察  
「父なる神の愛を信じる純粋な動機による完全な信仰を初めて明らかにされた方であり、その愛によって働く信仰を十字架の死に至るまでも貫き通された方の純粋な愛で心を満たしていなさい。」
 「イエスから目を離さない」とは、神に対するキリストの純粋な愛をお手本として、その愛で心を満たしていることではないでしょうか。人は心に満ちることを口が語り、人生は舌によって左右されるとヤコブ書にあります。イエス様が御父を愛したその愛がいつも私たちの心にあるならば、その愛をお手本とし尊ぶ心の動機から隣人愛が出てくるといえるでしょう。世の常識、人の目を超えて、ただただ神様の愛に応えて33年間の人生を歩まれたイエス様の純真な心を、何より一番のお手本とすべきだと思います。
 私たちはまだまだ世の人の語る言葉、批評、評価に左右されます。まだまだ人に愛されたい、よく思われたいという自己中心の心があって難しいと思います。しかし私たちの霊、魂の本音は万物の中心であるお方に認められるということが一番の喜びであります。私たちを愛して私たちの永遠の救いの為にひとり子イエス様を犠牲にしてくださった、それほどに一番愛してくださる神様を知れば知るほど、だんだんと人の評価や人の目を恐れることなく神の前に生きるという純粋な動機がわき上がってくるのではないでしょうか。

B)神の愛を聞き続けて、与えられた動機は?  
「神の愛を聞き続けて、私たちの内に与えられた動機は、いままでどのような動機があったでしょうか?どのような決心が与えられてきたでしょう。振り返ってみてはいかがでしょう。」

C)みことばを聞いて否定的になる人の動機は?  
 動機が与えられないから、いっこうにみことばを実行することができない、難しい。しかし動機が与えられれば、どんな難しいことにもチャレンジできるのです。
 文明の発展もそうです。不可能から可能へと進化してきました。飛行機も電気もテレビも水道も不可能だと思っていたら出来ていません。出来る、人々のためになる、と信じ困難を乗り越えチャレンジして現代の便利さが実現したのなら、みことばにおいても、罪人である私たちには不可能であっても、神様がチャレンジするようにと励ましてくださっているのです。不可能ではない、可能だと神様が愛をもって励ましてくださっているのです。

【デボーション参考ポイント】
イエスから目を離さないためにできることはなんでしょう。
 心に神様の愛を満たすために私たちはどんなことができるでしょうか。出来ることから始めるのが基本です。そして、できないことへのチャレンジが持たらされるほどに、強い動機が与えられるように、主の前に歩んでいきたいと思います。何よりも神が私たちを愛してくださっているという外的刺激を通して、私たちの内に愛の動機、霊性が生まれてくるという流れを、今週確認していただいて、福音を聞き、人々の福音の証を聞き、そのように外的刺激を通して、どうぞ心の内に愛の動機、神様を愛する動機をしっかりと起こしていっていただきたいと思います。
 私(辻師)はクリスチャンになる前、母親にだけは迷惑をかけたくないという自分の人生の考えをもっていました。母親に悲しい思いをさせたくない、苦労して育ててくれた母親のその生活を見てきました。これ以上苦しめたくない、それほどに愛を注ぎ、心配してくださっている母親の気持ち、この経験がキリストを通して父なる神様の愛を知る大きな助けになりました。
 父なる神様は私たちに大きな愛を注いでくださっている。自分の罪のために滅びにいたることがないようにと赦しの愛を注いでくださっている。いつも、どんな状況でもこの罪深い私たちを受け入れてくださっている。私の母親も同じように、たとえテストの点数が悪くてもそれをそのまま受け入れてくださって喜んでくれていた。運動会であれ、どんな状況であれ変わらず、そのまま受け止めて、よくやったねと愛の励ましをしてくださった、母親の愛ですね。この母親には絶対つらい思いをさせたくない、事故を起こしたり不道徳なことで親を辱めるようなことはしたくない、母親の迷惑には絶対ならないようにという一心で生きる決心をしてきたわけです。
 十字架ですべてを捨てて私の罪のための贖いをなして、そのあとも完ぺきではないのに、この私をそのまま赦し続けてくださっているその愛、母親の愛と重なって「ああ、私が歩む人生の根本は神様の愛のもとに生きること、それしか私の道はない」と考えるようになりました。神様が私の母を通して、すでに信じる前からそのことを示してくださり、その動機を与えてくださっていたのかなあと、そのように思うのです。
 皆さんも、神様から愛されているところから出てくる動機を正しく持っていただけるような、神様の前における今週のデボーションを続けていただきたいと思います。

【俳句】 
冬もみじ   散りゆく運命   神の御前に

 冬のもみじ、毎年毎年、散りゆく運命です。もみじの葉の最後は真っ赤に紅葉して死ぬことです。それが神がもみじを造られた「定め」であります。「人の前に」散るもみじではなくて、「神の前に」散るもみじ、そこに意味がある。そこに人生を全うする喜びがある。私たちもいずれ散りゆくもみじのように、神に定められた地上の運命があります。いつ召されるかわからない、いつ召されても神の前に散りゆく人生であるということ、敬虔な人生の歩み、神を愛し神を畏れる歩みを心がけていきたいものだという気持ちを込めてうたってみました。敬虔な心を失わないように、神を愛する動機から私たちの人生を建て上げてまいりましょう。