■2020年1月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖徒(ハギオス)として召された 

 

主題聖句(第1コリント1:2)
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

 

 今年の元旦に(へブル12:14)の「聖められることを追い求める」ということから、聖めに対して正しく捉えるというお話をしました。 そして先週は、聖められるということは神様の前に出ること、再臨のイエス様に出会うことができるように、御前に出られるように励むということを語りました。
 今日は、(第1コリント1:2)の「聖徒として召され」という言葉からお話させていただきます。
 「聖徒」とは、聖めと同じ「ハギオス」というギリシャ語です。ハギオスとは、「他のものとは異なっているもの」という意味です。私たちクリスチャンは、神と共に歩む人生という、他の人とは違う人生を歩んでいる者です。クリスチャンと呼ばれる前は、「ハギオス」と呼ばれていました。私たちは、ハギオスとして召され、聖別され、他の者とは違う者として召された者なのです。
 私たちは聖くなっているから選ばれたのではなく、聖徒として、他の人々とは異なる者として召してくださったのです。。アダムの子孫は、本来全員招待されているのですが、その招待に応答したのが私たちなのです。周りの人たちからは、「変わった人たちだ。おかしい人たちだ。」と言われるかもしれませんが、そのように言われてこそ、聖徒(ハギオス)だと見られているということです。最初は辛いかも知れませんが、神様と共に歩む敬虔な姿勢が、批判から、徐々に認めてもらえるようになっていくのです。

1.召された人々とは?
A)ローマ1:7
「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
 神様が愛されているから、あなたを招待されたのです。愛とは「大事にする」という意味があります。神様に愛されてるということは、私たちの存在が神様に大事に思われているということです。たとえ人々があなたを見捨てても、神様はあなたを見捨てられることはありません。神様の目には高価で尊いとあなたは映っているのです。

B)ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 私たちが召されたのは、計画的な招待です。「召す」とは、「呼び出される」という意味があります。神様のご計画があって、そのご計画のためにあなたは声をかけられ、今ここにいるのです。あなたは無意味な存在ではなく、大事な役割があるのです。あなたの神様からの召しは、あなたでなければならない神様の計画の一部を持っているのです。その計画のために、あなたを呼び出されたのです。

C)ユダ1:1
「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」
 召された人たちは、イエス様のための存在として、守られている存在です。ひとり子イエス・キリストのために、あなたの存在はあるのです。神様のお役に立つための存在としてぜひ来てくださいと招待されたのです。
 失敗するけれど、だめになってしまわないように、キリストのためにあなたは保護され、守られているのです。世の中と対比して、自分はだめな人間だと卑下する人がいますが、神様の目には、失いたくない、保護して守りたい存在なのです。あなたがなくては、キリストの存在が成り立たないのです。自分で自分を評価しないようにしてください。「神様は私をキリストのために守ってくださっているほどの、大事な存在なのだ。」と思ってください。
 クリスチャンとして歩むことは大変なことがあるかもしれませんが、あなたにではなく、神様があなたを大事にしてくださっているということに対して自信を持ってください。あなたは「ハギオス」という存在なのです。聖徒として召されたということは、行いや結果によらず、最初からあなたを特別な者として召してくださったのです。

2.招待を受けた者の準備
マタイ22:8~14
(8節)そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
(9節) だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
(10節)それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
(11節)ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
(12節)そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

(13節)そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
(14節)招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
 このポイントは、長年クリスチャン生活を送っている人に対しての忠告として語らせていただきます。慣れてくると、初心を忘れてしまい、いつのまにか怠慢になってきてしまいます。そこで引き締めるためにもこのみことばをお話しさせていただきます。

◎ 王子の結婚披露宴のたとえ
★ 3節から7節は、神の選民であるイスラエルのこと
 ここの部分は、選民イスラエルに対してのたとえ話です。私たち異邦人にとって大事な所は8節からのみことばです。

★ 8節「宴会の用意はできている」=贖いは完成している
 宴会の用意はできているが、招待されている人々はふさわしくなかったということです。3節には「行きたくなかった」とあります。 神様に選ばれたイスラエルの民は、神様の国へのお祝いに行きたくなく、せっかく神様からいただいた幸せの律法であるモーセの十戒を守らず、何回も呼びかけたのですが、王である神様に応えようとせず、最終的にはイスラエルの国は滅びてしまいます。

★ 9節から13節は、イスラエル人以外の異邦人のこと
 「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」と王様が言ったので、しもべたちは通りに出て行き、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたとあります。これは、イスラエル人以外の異邦人を意味しています。キリストの福音は、人種的な差別、すなわち良い人、悪い人という評価に関わらず、出会った人には声をかけ、それに応答した人は全員宴会場に行くことができたということです。世の中的な区別や差別は一切関係なく、世界中の人々に分け隔てなく福音を伝え、それに応えた人たちが宴会場であるキリストの再臨に備えて集まり、宴会場で待っているところです。

★ 婚礼の礼服を着ていない=正装していない=聖め
 そこで、一人礼服を着ていない人がいました。王子の結婚式ですから、ほとんどの人が礼服で集っていました。喜びのお祝いの時にそれにふさわしい服装をすることは、招いてくださった方への敬意を表す意味もあります。礼服とは、聖いという意味です。聖書の聖いとは、他の者とは違う特別な者だという意味です。
 神様の目からあなたは特別なものとして見られ、招待状をあなたに送り、それに応えて今ここにいるということです。良い人か悪い人かは関係ありません。
 招かれた時には、それに応えて礼服を来て出席します。礼服を着て来るとは、特別な婚礼のための準備をしてきた人という意味です。
 しかし、礼服を来て来なかった人は、結婚披露宴の主催者である王様に対して、あまり敬意を持っていなかったということになります。健全な秩序とは、互いの間に尊敬を持っているかどうかです。
 
 私たちは、キリストの再臨の時である王子の結婚披露宴に備えて、礼服を準備することが必要です。特別な日のために、それも裁きの時に、普段着で行ってしまうなら、そこにふさわしくないと、永遠の裁きを受けることになってしまいます。
 
 今年は「聖さを追い求める」という礼服の準備をし、特別な披露宴が始まるまでにその準備を整えることが必要な時です。
 1年目は、キリストの再臨に関心を持つようにとお話しをし、昨年はそのためには忍耐を持ってそれを続け、あきらめずに再臨を待ち望むように話をしました。
 そして今年は、いよいよイエス様にお出会いするために大事な聖めについて、特別な日のために特別に準備をしていくという話をしています。あなたは聖徒(ハギオス)なのです。
 世の中の人々は再臨のために何も準備していません。しかし、私たちはキリストの再臨という約束を信じて毎週教会で聖書の話を聞き、特別な日のために準備してみことばを学んでいこうとしています。皆さんは準備を続けているのです。
 準備を続けているなら、突如再臨が来たとしても、準備をしているという意味で、宴会場から追い出されることはありません。
 しかし、準備を怠って、あきらめてしまったら、普段の服装になってしまうので、追い出されてしまうということになります。特別な再臨という日のためにあなたは準備をしているでしょうか。悪に染まらないように、不信仰になって神様に愚痴不平を言わないようにと気を付けながら、完璧ではないけれども、キリストの救いの中にとどまり続ける努力をしていれば、礼服の準備をしているということになり、神様はあなたを喜ばれます。

★ 14節の内容観察
「多くの人が披露宴に出席するが、披露宴にふさわしい服装という準備をしている者が少ない。」
 選びという言葉はギリシャ語で「特別な」という意味があります。特別とは普段と違うという意味ですから、言い換えるとハギオスと同じ意味を持ちます。
 特別なことを、披露宴のために準備している人が少ないということです。福音を聞いてイエス様を信じ、クリスチャン生活を始めるけれど、再臨まで長く年月が経つと、再臨に対する疲れが出てきます。礼服を準備することを途中であきらめているかもしれません。招待されたのですが、まだ再臨が来ないので待ちくたびれてしまうことがあります。
 再臨は油断している人にとっては盗人のように突如来ます。しかし、準備している人にはいつ来ても大丈夫なのです。
 いつ再臨が来てもいいように、この再臨を特別な日として準備していきましょう。日曜日を聖なる特別な日として、皆さんが毎週教会に集うことによって、礼服を準備しているのだということを覚えてください。

【デボーションポイント】
◎ 招待してくださったのはどなたなのか、また、何のために招待してく ださったのかを思いみて「感奮興起」しましょう。
★「感奮興起」(かんぷんこうき)の意味
心に深く感じて奮い立つこと。「感奮」は心を揺り動かされて奮い立つこと。「興起」は奮いおこること。

 イエス様の再臨を迎えるにあたって特別な準備をしていくには、心に深く感じる動機付けがなければできません。
 強いられてではなく自発的な思いで、「キリストが十字架で命を捨ててくださるほどに私のことを愛して、私たちを迎えに来てくださる再臨があるのだ。」ということを深く心に感じて「聖くなることを追い求めていこう!」と感奮興起していきましょう。

 【俳句】

雪恋し  実際に降れば  愚痴積もる

 昨年から今年にかけて雪がまだ降っていません。冬らしい雪が欲しいなと思う時期なのですが、実際に降れば色々な支障が起こり、愚痴が積もるものです。

 私たちも、イエス様の再臨は恋しいですが、実際に再臨に備えるとなると、神様の戒めが心を責めて、聖めを負担に感じてしまうことがあるかもしれませんので、気をつけていきましょう。