■2021年5月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『聖徒の交わりを信じる立派な振る舞い』

主題聖句(使徒5:13~14)
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

 神を信じて歩む立派な振る舞いが、多くの人々をイエス・キリストのもとに導くことのできる証しとなるということで、「立派な振る舞い」について、使徒信条からシリーズで学んできています。
 前回から使徒信条の「我は聖霊を信ず」の項に入りました。
 その【1】として「聖なる公同の教会を信じる」というところから、私たちは御霊により、からだのように一つにまとまってキリストとつながっていること、また御霊の住まう神の神殿として一つにされ、そこで礼拝を捧げる者である、という御霊による働きを二つお話し致しました。
 今日は、その【2】「聖徒の交わりを信じる立派な振る舞い」と題して、(使徒行伝5章13ー14節)から分かち合ってまいります。
 イエス様が昇天された後、弟子たちが祈りと断食をもって、神様の約束のものを待ち望んでいた時、神の御霊が120人の弟子たちの上に注がれて、一人一人の内に神が住まわれるという神様の約束が実現いたしました。
 その時からキリストを信じる教会が増え広がっていきました。その素晴らしい初代教会の姿は使徒行伝2章にも書かれてあります。
 
 そのようにキリストを信じて集まる人々を見た「ほかの人たち」は、「この交わりに加わろうとしなかった」けれども、クリスチャンたちを「尊敬していた」と、今日の主題聖句(使徒行伝5:13ー14)に記されています。そして、彼らの信じている神様が素晴らしい神様であることを感じ取って、新たに信じる者が「ますます増えて」仲間に加えられていったとも書いてあります。
 神を敬うクリスチャンの交わりが、まことの神、死からよみがえられたイエス・キリスト、唯一の救い主を信じる信仰へと人々を導くきっかけ、証となったのです。

 私たちは、個人的には人々に証するような、癒しとか奇跡とか特別な体験は無くても、人々が尊敬するこの交わりの中にいる、共にいるということが大切なことなのです。
 群れから離れて一人で信仰生活をするクリスチャンというのは神のみこころではありません。聖霊様は私たちが共にキリストのからだとして神殿として一つになって交わりを持つようにと導いてくださっておられるのです。
 「あなたがたは世の光です」と聖書にある通り、何が出来るとか出来ないとかではなく、そこに存在するだけで輝いて見える、そんな交わりの中に生かされ輝いている一人一人であることを忘れないでいただきたいと思います。
 この主題聖句のみことばから、聖徒の交わりとはどのように立派な振る舞いなのかを見ていきましょう。

A)敬虔な交わりによる
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および、御子イエス・キリストとの交わりです。」
 
 私たちの交わりは、「御父および、御子イエス・キリストとの交わり」ですから、人々に敬虔さを感じさせるような交わりです。
 敬虔さとは、一般的に神仏などの超自然的な存在を認め、その存在者が善悪をしっかり見極めて、悪には悪の報いを与え、善には善の報いを与える、というところからくる敬虔さが主にあります。
 しかし、私たちクリスチャンの御父、御子、御霊の神への敬虔さは、さばかれるという恐れからの敬虔さではなく、愛してくださっているゆえの敬虔さです。
 こんな罪人のために身代わりに苦しんでご自分の命を捨ててくださり、それだけでなく私たちを御国を相続する我が子として受け入れてくださっている神の愛ゆえに、私たちは敬い畏れ信頼し従うのです。
 さばきが先ではなく、神に赦され愛されているということが、敬虔な心を持つ一番大きな理由なのです。
 
 ここから、この敬虔な交わりについて、3つのポイントを見ていきましょう。

◎人間同士の交わりではない
 私たちの交わりは、神様がいつも共におられることを意識した交わりなので、羽目を外すような交わりや、汚れた交わりはしません。悪い言葉を避けて、相手の徳を高めることのできる、塩味の効いた言葉をもって交わりをします。
 神様が共にいてくださるように、集まる時はいつもイエス様の名によって集まりましょう。するとそこに敬虔な心が生み出されてきます。神を必要としない交わりは避けたいものです。

◎三位一体の神を中心とした神の家族としての交わり
 神の家族の交わりの特徴は、罪のない交わりではありません。喧嘩もあり、問題もあり、トラブルも起こる、でも皆で解決し、仲直りし、赦しあい愛し合っていく、一人一人が切っても切れない関係のお互いです。家族じゃないのに家族のように無条件で赦し合うことが出来るこの交わりを見て、周りの人たちは敬虔な心を感じるわけです。

◎主を畏れる敬虔な聖い愛の交わり
 それは隣人を大事にすることを優先した交わりであり、聖い愛の特徴です。相手が良くなるために、強く健康に健全に成長していくために自分を犠牲にしてでも隣人の成長を優先していく、そんな隣人愛が聖い交わりとして、周りの人々に尊敬を受けるのではないでしょうか。
 難しいことですが、私たちは日々、それにチャレンジしていくための歩みをしているのです。「しなければならない」のではなく、「そのようになりたい、そのようにしていきたい」という願いを失わないで、良い交わりを建て上げてまいりましょう。

B)恵みとなる交わりによる
(第2コリント8:3-4)
「私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願ったのです。」
 救われた喜びに満たされて、自ら極貧の中にあったにも関わらず、困難の中にあるエルサレムの教会の人々を支援したいと願ったマケドニア地方の教会の貧しい人々のことが記されています。

◎聖徒を「ささえる」というささげる交わり
 マケドニアの人々はその資格や能力がないにも関わらず、ささげものをさせていただきたい、聖徒たちを支えるという恵みにあずかりたいと願って、ささげものをしました。 
 このように、聖徒たちを支えたいと願うささげる交わりが、まわりの人々の目に神を尊び敬う立派な振る舞いと映るわけです。
 ささげるのは物質だけではありません。兄弟姉妹の誰かのために、家族のために、時間をとるという、心や時間も立派なささげものです。 心の交わりのための時間を犠牲にしてでも、勉強や仕事をする時間を優先するというのは、本末転倒であり、現代社会の罠ですから気を付けましょう。

◎主を愛する心からの熱心な思いによる交わり
 ささげるものが無いにも関わらず、ささげたいという熱意にあふれていたのが、マケドニアの教会の人たちの神に対する姿勢でした。
 罪深い自分たちが神の子として永遠のいのちを得たという救いの喜びのゆえに、少しでもささげたいというあふれる愛の思い、これは神様を愛する熱心な愛の思いからしか湧き上がってきません。
 「ささげる」「与える」というときに、「力に応じて」にしろ、「力以上に」にしろ、熱心な内面の動機が大切です。

◎「支える」行為ができることは恵みという思い
 聖徒たちを支える行為は、義援金にしろ手紙にしろ、「神様がそのチャンスを与えてくださった」「神の恵みだ」と思うと、喜んですることができます。それは恵みなのです。
 そのように捉えることができる時、その支える行為、ささげる行為は、周りの人々に立派な振る舞いに見えてくると思います。
 内なる心の問題、葛藤を通して、一歩でも近づくことができるように、チャレンジしていただきたいと思います。
 聖徒の交わりは、単なるコミュニケーションではありません。「支える」という大事な交わりであります。

【川柳】
あいつどい  一つ御霊の  交わりや

 神の臨在のない交わりは空しいものです。一つ御霊による交わりがあることを忘れないように致しましょう。