■2019年11月10日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

神に従いなさい・ダビデの祈り  

主題聖句(ヤコブ4:7~10、詩篇51:1~17)

【辻 和希伝道師メッセージ】
1 .神に従いなさい
(ヤコブ4:7~10)
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」
 
 今回のテーマは「神に従いなさい」です。聖書は、従うことをお勧めしているのではなく、はっきりと命令形で「従いなさい」と教えています。神様に従う生き方を決意し、信仰を持ったのが私たちクリスチャンです。そのことを今一度思い出し、再決意する一週間としていきましょう。
 神に従うとは、どういうことでしょうか。上記のみ言葉には、悪魔に立ち向かうこと、神に近づくこと、手を洗いきよめること、二心をきよくすることと書いています。
 悪魔に立ち向かうとは、悪魔に喧嘩を売ることではなく、悪魔の誘惑に抵抗することです。悪魔と言っても、テレビや漫画に出てくるような異形の姿で目の前に現れることはありません。
 人を通して、世の物を通して、私たちクリスチャンを誘惑してきます。それは、悪魔は、私たち人が神に近づくことをねたんでいるからです。
 神に近づくとは、心の距離を縮めること、すなわち、心の中心に神を置くことです。神様を意識しているから、みことばを通して悔い改めに導かれるのです。神様を意識しているから、神様を悲しませるようなことをしないように努力するのです。それは、神に近い証です。神を意識しない者は、放縦に生きます。
 しかし、神を意識していても、罪を犯してしまいます。その度に私たちは手を洗いきよめるのです。すなわち、悔い改めです。
 誰に対して悔い改めるのでしょうか。もちろん、全能の父なる神に対して悔い改めます。
 私たちの主人は神のみです。神の他に主人がいてはなりません。むしろ、聖書は「二人の主人に仕えることは出来ない」と言っています。
 この世の風潮に、“欲しいものを少しずつ”というのがあるように感じます。また、それが叶う時代でもあります。信仰にも自由があり、
 あらゆる宗教の良い部分だけを信じることもできるでしょう。しかし、聖書はクリスチャンにいつも迫ります。神に従うか、世に従うか。
 選民であるイスラエルの民も神に従うことをしない場面が多く旧約聖書に出てきます。彼らでもそうなのですから、私たち現代に生きるクリスチャンは、よっぽどの強い芯がなければ、神に従う信仰が、いつの間にか世を友とすることにすり替えられてしまうのです。
 今日も自身に問い確認しましょう。神に従うか。世に従うか。

【横路伝道師メッセージ】
2.ダビデの祈り
1)詩篇51:1~9
「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」

 これはダビデが大きな罪を犯した後、悔い改めて一週間食事をせず、地べたにひれ伏して祈った時の詩です。
 
 ダビデはすごく神様に愛されて、あらゆる戦いに勝利して王様になり、神様と共に歩みました。しかし、やがて国がある程度おさまり、ほっとしている時に、大きな罪を犯しました。それは、姦淫と殺人の罪でした。 預言者ナタンがダビデの前に現れて、罪をはっきりと指摘しました。その時ダビデは、自分は罪を犯しましたと正直に悔い改めたのです。その生まれた子どもが死ぬという時に、一週間何も食べずにひれ伏して悔い改めの祈りをしたのです。これが、神に近づく祈りでした。

◎神に近づく祈り、神に届く祈り。
 ダビデは罪を示された時、「もうだめだ、神様から捨てられる」と思ったでしょう。ですから彼は必死に祈ったのです。
 悔い改めというのは、神様に対してするのです。誰かに対して悪いことをしたら、その人に謝りますが、私たちの悔い改めとは、神様に対してするのです。なぜなら、神様が私たちを裁く力と赦す力をお持ちだからです。私たちは問題が起きた時、苦しみの時に一生懸命に祈ります。この一生懸命さが神様に近づくことではないでしょうか。
 一生懸命すると、知恵が出てきます。相手に伝わります。結果が出ます。しかし、中途半端であれば、愚痴が出てきます。いいかげんにやっていると、言い訳が出てきます。
 一生懸命さが悔い改めの祈りにおいては特に必要です。悔い改めはとても大切です。自分の罪をそのままにしておけば決して幸せになりません。

◎赦されることで終わらない、行動が変わる悔い改め
 悔い改めて、赦されたと感謝します。しかし、そこで終わってしまうとまた同じ罪を犯してしまいます。悔い改めても同じことをするのは、悔い改めの「改め」が弱いからです。具体的には、生活の習慣を変える必要があります。生活が変わるほどの決心が必要です。行動を変えなくてはいけません。具体的な決心が必要なのです。
 例えば、「罪の誘惑のある場所には行かない!」と決心をすることです。決心をして行動していかないといけません。行動が変わる悔い改めをしていきましょう。

2)詩篇51:10~17
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたま「しい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

◎聖霊が取り去られないように願う
 これは本当に大切な祈りです。聖霊様によって私たちは神様を信じることができました。聖霊様は日々私たちを助け、導き、慰め、うめきの祈りをもってとりなしてくださる方です。
 また、力強く、敵を打ち破る力を持っておられます。罪を犯したままなら、この聖霊様を取り去られるので、ダビデは取り去らないでくださいと切実に祈りました。
 ダビデの前の王様のサウル王は、聖霊が取り去られ悪霊が入って来て、大変な最期を遂げました。私たちも、聖霊様によって今支えられていますが、聖霊様から離れてしまうと大変なことになる恐れがあります。神様は聖霊様によって私たちを守っておられます。この聖霊様が取り去られないようにダビデは祈っています。
 そしてダビデは「血の罪から私を救い出してください。」と祈っています。新約聖書では、人を憎んだなら殺人の罪を犯したと同じであるとあります。私たちもこの祈りをする必要があるかもしれません。

◎神様が喜ばれるささげもの
 神様に喜ばれるささげものとは何でしょうか。賛美と感謝をささげることもできます。また、奉仕もささげることができます。
 しかし、最も神様に喜ばれるささげものは、私たちの砕かれた心です。ダビデのように、心を込めて自分の罪を悔い改めて、やり直そうとするなら、その砕かれた心が一番喜ばれるいけにえだと言われています。心から悔い改める時に神様はその砕かれた心を喜んで赦してくださるお方です。神様は私たちを愛しておられます。何もできなくても、心から神様に近づくことができます。
 また、賛美は信仰の告白なので、上手、下手にかかわらず心から賛美することを喜んでくださいます。神様に愛されているのですから、私たちも神様を愛して、近づいていきましょう。