■2026年6月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
御霊と真理による礼拝
主題聖句(ヨハネ4:23~24)
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。
先週、私たちは「主の前に立つ」ということを見てきました。礼拝とは、何かをすることではなく、神の前に立ち直ることでした。
では今日は、その次の問いです。「その礼拝は、神に届いているでしょうか。」
私たちは礼拝をしています。賛美をし、祈り、みことばを聞きます。でもその礼拝は、神が求めておられる礼拝になっているでしょうか。
ヨハネの福音書4章に、サマリヤの女性の話があります。イエス様が井戸のそばに座っておられたとき、一人の女性が水を汲みに来ました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は良い関係にありませんでした。さらに彼女は、人目を避けるように一人で来ていました。
イエス様との会話の中で、彼女のこれまでの人生が明らかになります。彼女は人に言えない過去を抱えていました。その中で彼女は話題を変えるように言います。「礼拝はどこでするべきなのか」この山か、エルサレムか。どちらが正しいのか。
これは私たちにも重なります。どんな賛美がいいのか。どんなスタイルがいいのか。先週、あるカンファレンスに参加しました。大きな会場で、素晴らしい音響と演奏がありました。
一方で、照明はシンプルで、少し簡素にも感じました。「すべて外側のことである」ということを。音響、照明、会場、スタイル。それはすべて外側です。
そして私たちも、気づかないうちに外側に意識が向いてしまいます。でもそれが礼拝の本質でしょうか。イエス様は言われました。「この山でもなく、エルサレムでもない」つまり、場所ではない。そしてこう言われます。
「父は、そのような礼拝者を求めておられる」どのような礼拝でしょうか。「御霊と真実による礼拝」です。
ここをもう少し丁寧に見ていきたいと思います。まず誤解してはいけないことがあります。外側がいらない、という話ではありません。音楽があること、楽器があること、整えられた礼拝があること。それ自体は、とても大切です。
詩篇には、さまざまな楽器で神を賛美せよとあります。つまり、外側の表現は、神に向けられるものとして用いられるものです。では何が問題なのでしょうか。外側が中心になってしまうことです。音がどうか。雰囲気がどうか。自分がどう感じるか。そこに意識が止まると、礼拝は体験で終わってしまいます。
しかし礼拝は、神に向かうものです。御霊による礼拝とは、外側を通して、内側が神に向いている状態です。真実による礼拝とは、偽りのない姿です。作らない、飾らない、そのままで神の前に立つことです。つまり、外側と内側が一致している礼拝です。
手を上げていても、心が向いていなければ意味がありません。逆に、静かでも、心が神に向いていれば、それは礼拝です。そして大切なのは、外側が内側を助けているかどうかです。
音楽も環境も、神に向かうための助けであって、目的ではありません。ですから私たちは、この与えられている環境を通して、より深く神に向かうことができます。
先週、私たちは「主の前に立つ」ことを見ました。今日はもう一歩進みます。ただ立つだけではなく、どう立つか。神は外側ではなく、内側を見ておられます。そして今も、そのような礼拝者を求めておられます。