2009.7.2 JFHリバイバル集会メッセージ 辻 秀彦牧師より


感謝感激

詩篇100:1〜5 感謝の賛歌
 

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、
その真実は代々に至る。

 私たちは、努力したことがうまくいって成功しているとき、何事も順風満帆にみえるときは、周りの人からどれだけ「素晴らしいですね」といわれても、「いえいえ、そんなことはありません」「私の力ではありません」「私になんか力はないのです」とへりくだれます。どれだけ自分には力がないといったとしても、自分がやった!、自分が努力したという事実が自分を支えているので、本人はどこまでもへりくだった態度を取ることができるでしょう。自分の思い通りに動いているからです。
 
 しかし、思い通りにならず、ただ挫折と劣等感に打ちのめされる時、「私になんか力はないのです」といってはいても、弱い自分を自分として受け入れることを拒み、砕かれた心から新たに形づくられることを拒んでいることがあります。
 その心の根底には、思い通りの自分になりたい、自分の思い通りに進んでほしい、という自己中心が潜んでいるのです。
 
 挫折感に打ちのめされて、粉々になって、苦しんで、「どうせ自分は弱いものだ」と開き直ってしまうこともあります。開き直ってなにもしようとしない、自分が変えられていくことを拒むとき、そこにも、自分の思い通りを通す心が働いているのです。
 
 思い通りにしたいという考えの根底には、自分が上の立場から思い通りに支配したいという「高ぶり」があるのです。思い通りに事が運んでいる時には分かりませんが、思い通りにならない時に私たちの心の根底が明らかになります。
 
 神様は人を神様に似せて造られました。素晴らしく造ってくださっています。しかし、それをちりで造られました。ちりとは砕かれた、取るに足りないものです。しかし、そこから神様の手が加えられると、素晴らしく造り上げられていくのです。
 
 神様あっての今の自分です。今日生かされていることも大きな恵みなのです。そのことを、忘れてしまわないようにしましょう。忘れてしまうと、自分の思い通りの人生を歩もうとする罪の力にひきこまれてしまいます。
 
 感謝感激は、心砕かれた、へりくだった魂から、罪が赦されていること、今生かされていることを感じていく時に、湧き上がってくるのです。
 
 
 
 

2009.7.2 JFHリバイバル集会メッセージ 辻 秀彦牧師より
 

 

 

 

 

 





2009.6.4 JFHリバイバル集会メッセージ 辻 秀彦牧師より


今将之感

詩篇117:1〜2
すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。
その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。

人には存在欲求があります。誰かに認められたい、関心をもってもらいたいと願う自然な欲求です。この欲求自体、人としての大切な性質です。
 
神さまから存在を認められることを喜びとできる人は幸いです。
その人の関心は神さまに向けられています。
関心とは、心の目が向けられる方向です。
あなたは自分が誰に認められようとしていますか?どうして、そのように心が動くのでしょう?心を吟味してみましょう。
 
もし、私たちが神さまに存在を認めてもらうことよりも先に、人に認められようとするならば、必ず思い通りにならない状況にぶつかります。何とかして相手に認められようとしても、そのようにならない、つまり自分の思い通りに周りが動かない時に、苦しみます。
自分の人生を自分の考え通りに動かそうとすることをやめることもできます。神さまがすでに自分に関心をもってくださっていること、そして自分に素晴らしい将来をも用意してくださっていることに信頼して、委ねる人生にはどんなすばらしさが隠されているのでしょうか。
 
今と将来の相違
 

A)ローマ8:17〜18
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

私たちは神の相続人です。何を相続するのでしょう?
ただ、キリストと苦難をともにしているなら、イエスさまについていくならばです。

 
B)第1コリント15:51〜52
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
 
肉のからだからの解放が与えられます。いつも主のわざに励むために、主はこの啓示を与えてくださいました。
  
 
C)第2コリント1:10
ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
 
将来も死の危険から救い出されます。それは、自分ではなく神により頼むものとなるためです。
神さまにより頼む心を養うことが大切です。
 
 
D)第2コリント3:18
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 
栄光の主と同じ姿に変えられます。あなたは、主と同じ姿に変えられたいと願いますか?もし願わないのであれば、あなたの中の葛藤は大きくなります。なぜなら、主はあなたを主と同じ姿に変えようと働きかけるのに、あなたはそうではない方向へ行こうとするからです。主と同じ姿に近づくほど、あなたがやめなければいけなくなることが出てきます。正しい良心があなたの心に咎めをかんじさせるとき、あなたは何を求め、どの方向に進んでいきますか?主の御霊との日々の関係によって私たちは変えられていきます。
 
 
E)第2ペテロ1:4
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
 
神のご性質にあずかる者となります。自己葛藤や信仰の試練を通して、神のご性質にあずかるものとなるために、神がとりあつかっておられるのです。
 
私たちは怒ったり、落ち込むことがあります。思い通りにならないからです。その時に、悔い改めに向かわないで終わってしまうことがあります。それは、自分を変える気がない時です。

怒りと落ち込みに対して悔い改める時に、神さまのおとりあつかいがはじまります。その後、何度も怒りや落ち込みを通るかもしれませんが、自分が変えられるように、成功しても失敗しても、やり続けることができる人は、へりくだりを学びます。
 
何度も失敗するからと、結果を見てあきらめる人には隠れた高慢があります。神がとりあつかってくださっておられ、神があきらめておられないのに、どうしてあなた自身ができないと決めつけるのでしょう。
 
私たちは主なる神を知って感動します。そして主なる神を知ったことによる感動で、神の力のとりあつかいを受けるのです。
 
神さまは私たちに素晴らしい将来を用意してくださっています。今将之感、今と将来の相違を思い、望みの神に期待して、労苦の中にしあわせをみつけて、前進してまいりましょう。
 
 

2009.6.4 JFHリバイバル集会メッセージ 辻 秀彦牧師より