2014 devotion

愛によって義とされる

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創世記15:5〜6
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

1.義とされることの大切さ

ガラテヤ3:11
ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

◎『義、正しい』⇒ 主権者の正しいとする基準に合致していること。
 『主権者である神の義』

律法に現わされている。要約すれば、主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することである。
更に要約すれば、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことである。

【内容観察】

ところが、律法を守り行うことによって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「愛によって働く信仰によって神の前に正しいとされる人こそ、本当に生きているのです。」

【デボーション参考ポイント】

★義の基準を正しく理解して、主の愛にとどまる。

2.『翻邪帰正』

ローマ4:19〜24
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

◎『翻邪帰正』(ほんじゃきせい)の意味

よこしまな思いを捨てて正しい考え方をすること。

【内容観察】

神への愛の信頼ゆえに、自己中心でよこしまな肉の考えを捨てることができたアブラハムの信仰が神の前に義と認められた。私たちも神の愛であるキリストを信じる信仰が義と認められるのである。

【デボーション参考ポイント】

★神を愛する心と自己中心の不信仰の心との戦い。

 

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