2010 devotion ◆ 磨穿鉄硯 ませんてっけん 強い意志を持ち続け、物事を達成するまで変えないこと。 また、学問にたゆまずに励むことのたとえ。 go home go to top 第1テモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。 1.忘れてはならない二つの結末 マタイ25:31〜46 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 救いについて、福音について語るとき、神の最後の審判のことを忘れてはなりません。 すべての人は必ず神の前でさばきを受け、どちらかの結末を迎えます。 有罪か無罪か、羊か山羊か、正しい人かそうでない人かに分けられます。そして、永遠を決める判決を受けるのです。 永遠のいのちについて無関心であれば、永遠の刑罰を受ける判決が下ることになります。 2.永遠のいのちとは? ヨハネ17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることが、永遠のいのち。 そして、「知る」こととは、『同化する』こと。ですから、知れば知るほど永遠のいのちに近づくことになるのです。 3.「知る」というプロセス ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (1)「知っていること」もしくは「知ること」のすばらしさに気付く。 (2)知る知識の絶大な価値を見いだす。 (3)他の一切を損と思う結論に達する。 私たちは、神様を知ること、知っていることをどのように評価しているでしょうか。正しい良心をもって吟味してみましょう。 4.永遠のいのちを獲得する戦いとは? 「戦う」ことと「知る」ことについて 勝利か敗北かの二つの結末がある⇒生きるか死ぬか、得るか失うか。 気を弱らせることが敗北につながる⇒あきらめず励む姿勢。 勝利への機会をつくる⇒あらゆる工夫をし続ける。 神様を知ることが信仰の戦いであり、勇敢に戦うことが磨穿鉄硯をもって神様を知ることと言える。 ★考えてみましょう ヨハネ12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 永遠のいのちを獲得することを妨げるものがあります。つまり、信仰の戦いを敗北へと向かわせるものです。 それが「自分の命を愛する」ことだとイエス様が教えておられます。 どうして、自分の命を愛する者は、永遠のいのちに至らないのでしょうか。神様を「知る」ことが永遠のいのちであるということから考えてみましょう。
go home go to top 第1テモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。 1.忘れてはならない二つの結末 マタイ25:31〜46 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 救いについて、福音について語るとき、神の最後の審判のことを忘れてはなりません。 すべての人は必ず神の前でさばきを受け、どちらかの結末を迎えます。 有罪か無罪か、羊か山羊か、正しい人かそうでない人かに分けられます。そして、永遠を決める判決を受けるのです。 永遠のいのちについて無関心であれば、永遠の刑罰を受ける判決が下ることになります。 2.永遠のいのちとは? ヨハネ17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることが、永遠のいのち。 そして、「知る」こととは、『同化する』こと。ですから、知れば知るほど永遠のいのちに近づくことになるのです。 3.「知る」というプロセス ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (1)「知っていること」もしくは「知ること」のすばらしさに気付く。 (2)知る知識の絶大な価値を見いだす。 (3)他の一切を損と思う結論に達する。 私たちは、神様を知ること、知っていることをどのように評価しているでしょうか。正しい良心をもって吟味してみましょう。 4.永遠のいのちを獲得する戦いとは? 「戦う」ことと「知る」ことについて 勝利か敗北かの二つの結末がある⇒生きるか死ぬか、得るか失うか。 気を弱らせることが敗北につながる⇒あきらめず励む姿勢。 勝利への機会をつくる⇒あらゆる工夫をし続ける。 神様を知ることが信仰の戦いであり、勇敢に戦うことが磨穿鉄硯をもって神様を知ることと言える。 ★考えてみましょう ヨハネ12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 永遠のいのちを獲得することを妨げるものがあります。つまり、信仰の戦いを敗北へと向かわせるものです。 それが「自分の命を愛する」ことだとイエス様が教えておられます。 どうして、自分の命を愛する者は、永遠のいのちに至らないのでしょうか。神様を「知る」ことが永遠のいのちであるということから考えてみましょう。
第1テモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。 1.忘れてはならない二つの結末 マタイ25:31〜46 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」 救いについて、福音について語るとき、神の最後の審判のことを忘れてはなりません。 すべての人は必ず神の前でさばきを受け、どちらかの結末を迎えます。 有罪か無罪か、羊か山羊か、正しい人かそうでない人かに分けられます。そして、永遠を決める判決を受けるのです。 永遠のいのちについて無関心であれば、永遠の刑罰を受ける判決が下ることになります。 2.永遠のいのちとは? ヨハネ17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることが、永遠のいのち。 そして、「知る」こととは、『同化する』こと。ですから、知れば知るほど永遠のいのちに近づくことになるのです。 3.「知る」というプロセス ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (1)「知っていること」もしくは「知ること」のすばらしさに気付く。 (2)知る知識の絶大な価値を見いだす。 (3)他の一切を損と思う結論に達する。 私たちは、神様を知ること、知っていることをどのように評価しているでしょうか。正しい良心をもって吟味してみましょう。 4.永遠のいのちを獲得する戦いとは? 「戦う」ことと「知る」ことについて 勝利か敗北かの二つの結末がある⇒生きるか死ぬか、得るか失うか。 気を弱らせることが敗北につながる⇒あきらめず励む姿勢。 勝利への機会をつくる⇒あらゆる工夫をし続ける。 神様を知ることが信仰の戦いであり、勇敢に戦うことが磨穿鉄硯をもって神様を知ることと言える。 ★考えてみましょう ヨハネ12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。 永遠のいのちを獲得することを妨げるものがあります。つまり、信仰の戦いを敗北へと向かわせるものです。 それが「自分の命を愛する」ことだとイエス様が教えておられます。 どうして、自分の命を愛する者は、永遠のいのちに至らないのでしょうか。神様を「知る」ことが永遠のいのちであるということから考えてみましょう。
第1テモテ6:12 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
1.忘れてはならない二つの結末
救いについて、福音について語るとき、神の最後の審判のことを忘れてはなりません。 すべての人は必ず神の前でさばきを受け、どちらかの結末を迎えます。 有罪か無罪か、羊か山羊か、正しい人かそうでない人かに分けられます。そして、永遠を決める判決を受けるのです。
永遠のいのちについて無関心であれば、永遠の刑罰を受ける判決が下ることになります。
2.永遠のいのちとは?
唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることが、永遠のいのち。
そして、「知る」こととは、『同化する』こと。ですから、知れば知るほど永遠のいのちに近づくことになるのです。
3.「知る」というプロセス
(1)「知っていること」もしくは「知ること」のすばらしさに気付く。
(2)知る知識の絶大な価値を見いだす。
(3)他の一切を損と思う結論に達する。
私たちは、神様を知ること、知っていることをどのように評価しているでしょうか。正しい良心をもって吟味してみましょう。
4.永遠のいのちを獲得する戦いとは?
「戦う」ことと「知る」ことについて 勝利か敗北かの二つの結末がある⇒生きるか死ぬか、得るか失うか。 気を弱らせることが敗北につながる⇒あきらめず励む姿勢。 勝利への機会をつくる⇒あらゆる工夫をし続ける。
神様を知ることが信仰の戦いであり、勇敢に戦うことが磨穿鉄硯をもって神様を知ることと言える。
★考えてみましょう
永遠のいのちを獲得することを妨げるものがあります。つまり、信仰の戦いを敗北へと向かわせるものです。
それが「自分の命を愛する」ことだとイエス様が教えておられます。 どうして、自分の命を愛する者は、永遠のいのちに至らないのでしょうか。神様を「知る」ことが永遠のいのちであるということから考えてみましょう。