■2025年2月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔な日々に失望はない  up 2025.2.2


主題聖句(ローマ10:11〜12)
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。





 

 

 

 

 

 

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■2025年1月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔の源  up 2025.1.26


主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。




 クリスチャンにとって、この罪の世を生きていくのは大変な労苦を伴うことかもしれません。そういう中で、いかに神様の前に「敬虔」であり続けることが出来るでしょうか。
 今年は「ビューティフルコミュニティ」というテーマで、それを目指して歩んでいこうとしております。
 
 元旦礼拝では、黙示録22章11節の「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」ということについて、お話し致しました。
 
 神様の方からするべきことは、もう最善が尽くされています。あとは、そのことを通して私たちがどちらを選ぶのか、どういう生き方をするのか、その選択が私たちの自由意志に任されています。成人者はそれを自分の責任で選ぶことが大切です。
 
 私たちが選んだ行動に対して、神様は報いを与えられます。そのために、イエス様はもう一度この地上に来られることが黙示録で語られています。
 
 敬虔な生活は人格の成熟に比例するものですから、パウロ先生は、「敬虔のために自分を鍛練しなさい。」と勧めておられます。そして、「今のいのち(この人生)にとっても、未来のいのち(御国の人生)にとっても、敬虔であることは有益である」と教えてくださっておられます。

 今日は「敬虔の源」と題して、敬虔なこころが湧き上がってくる動機についてお話いたします。

Ⅰ.『敬虔』は湧き上がってくるもの
 ビューティフルコミュニティーについて、敬虔が大事なポイントとなることを、お話してきております。
そして今日は主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)の中の「ここに愛があるのです。」と語られていることに着目して、愛の意味を探ってみました。

【主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)より】
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」

 私たちが神様に愛されていることが分らない、そういう状態の時に、神様はすでに私たちを愛してくださいました。(エペソ1:4)には、「神は私たちを世界の基の置かれる前から、彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と書かれています。
 
 天地も人類も存在しない時から、神様は私たちを選んでくださっていたと語られています。

 神様は、天地創造の前から、愛する対象者としてアダムとその子孫を選んでおられて、彼らが罪を犯すことも予測できていて、キリストによる罪の贖いの御業を計画することも、元々、神様の思いの中に描かれていたのです。それが実現されてきているのが現代です。

 神様は罪人を「御前で聖く傷のない者にしよう」と、今もそれを推し進めておられます。 

【デボーション】
幼子は親に愛されていることの自覚がありません。いつ頃から親の愛に気がつくのでしょう?

 私たちも神様の愛に気付かなかった者です。そんな時でも神様は私たちを愛し続け、育て続けてくださっていました。
 
 親の愛を一番感じる時は、人を育てるという経験をする時です。自分の子でも他人の子でも社員でも弟子でも、人を育てる時に、その大変さを知って、親の愛に気付くものです。
 
 私(辻牧師)は若いころ、表具師の世界に弟子入りし
ました。技術は未熟で何をしても手直しがいります。苦情が出たら、師匠は「おまえのせいだ」と責めることもせず、師匠の責任としてカバーします。そういうところを弟子は通って一人前に育っていきます。
 
 心の未熟さも同じです。心の未熟な者は、親にも他人にも迷惑をかけることが多く、自立できず、責任を取れません。しかし、大人になると、自分だけでなく周りにも配慮できるようになります。
 
 私たちの人格も幼い時は、神様の愛に気付くことが少なく、欲しいものが手に入るようにと自分中心に求め続けます。

 しかし神様は、私たちが未熟で自己中心な罪人であることはご存じで、それでも諦めずに愛し続けてくださり、 最後は、交わりを持つことが出来るように、私たちの罪を除くために、救い主イエス・キリストをこの地上に送られました。もしくは、ご自身が人となって、十字架で罪無きいのちを捧げてくださいました。そのことによって、「ここに愛があるのです。」と、私たちへの愛をお示しくださったのです。
 
 そして今日、皆さんにもう一つ気付いて頂きたいのは、そんな未熟な我儘な罪人である私たちの罪を取り去るために、神ご自身が身代わりとなって、苦しみを負って耐え忍ばれた、それは何と畏れ多い行動だろうか、という「尊敬」です。

 「ここに愛があるのです」というのは、「ここに、本当に尊敬すべき神への思いが湧いてくるのです」というように受け止めて、今日お話しさせて頂いております。

Ⅱ.『罔極之愛』(もうきょくのあい)
 →報いることができないほどの限りなく大きな愛のこと。両親に対する尊敬の気持ちを表す熟語。

【主題聖句より】
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
 これは、神様の最高の愛を、罪人である私たちに、見えるかたちでお示しになった歴史的事実です。
 罪人の私たちのために、罪を取り除き赦す為に、御子イエス様をなだめの供え物として犠牲にしてくださった、これほどに私たちを愛してくださる神様が他にいるでしょうか。
 そんな神様の犠牲の愛を知ると、神様に対して畏れ敬う敬虔なこころが湧き上がってきます。

 こころが成長すればするほど、十字架の偉大さが実感できます。尊敬の心が大きくなればなるほど、御前にひれふし、へりくだり、心からの賛美を捧げることが出来る様になるのです。

【デボーション】
キリストによる罪の贖いは、報いることのできないほどの神の愛が明らかにされた出来事です。心でその愛に気付いたなら、あなたの心にどのような変化が起こって来るでしょう?

 労苦して私たちを育ててくださった地上の親に対して、その罔極の愛に触れられて、私たちは深い尊敬の念を抱くようになります。

 そのように、御子キリストによる十字架の贖いを実行してくださった父なる神様の罔極の愛に気付いた時、私たちの内には神様への敬虔な心が湧き上がってくるのです。そこから神様を称える心からの賛美がささげられていき、敬虔な生活を送る力が与えられてくるのだと思います。 

【神への敬虔の表明としての聖餐式】
(Ⅰコリント11:23-26)
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

 パンはイエス・キリストの傷ついた体、杯はイエス様の罪の赦しの契約のしるしとして流された血潮を象徴しています。

 神様がここまでして示してくださっている罔極の愛に、深い畏敬の念をもって、ひれふし崇めて、敬虔にお応えして参りましょう。   

【みことば川柳】

十字架の  無限の愛に  畏敬の念

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月19日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

神の前にも人の前にも最善を  up 2025.1.19


主題聖句(使徒24:16)
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。



 2025年の教会のテーマは、ビューティフルコミュニティーと掲げ、父なる神様との交わりが豊かな共同体を目指す一年となります。
 
 私個人として、このテーマを聞いてまず思い浮かべたのが“キリストのからだ”でした。そのことを説いたパウロは、上記の聖書箇所で、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように最善を尽くしていた、と言葉を残しています。注目したいのは、神様の前だけでなく、人の前にも最善を尽くすことが大切だということです。

 初代教会には、多くの人が集いました。そこには持ち物を共有するほどに救いの喜びに溢れていました。しかし人が多く集まると、問題も発生します。

(使徒6:2)
私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。

 食事の配給に意図せぬ不公平が発生してしまい、これらのことに従事する担当が決められました。ペテロ達が食事のことに気を遣わなくてもよいための措置でした。

 一方で、イエス様は、このように語っています。

(ルカ22:27)
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

 一見矛盾しているように見えますが、これこそが神様の前にも人の前にも最善を尽くす共同体の姿勢だと思うのです。

 マルタとマリアという姉妹は、それぞれ神様への愛の表現をしました。姉のマルタは給仕、妹のマリアはイエス様の側でみことばを聞いていました。

 マルタは、妹が手伝うようにイエス様に訴えましたが、イエス様はマリアの行動を取り上げてはならないと言われました。このことから給仕することが重要なことでは無いと捉えるのは早計だと言えるでしょう。

 神様が建てた教会には、からだの各器官のように、様々な必要と役割があり、それらが満たされるために、神様の前にも人の前にも、どちらにも最善を尽くす共同体が、美しい教会なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神を敬う敬虔なCommunity  up 2025.1.12


主題聖句(使徒10:35)
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。



 元旦礼拝では、メッセージを聞くにあたっての心構えや聞き方について、(黙示録22:11)から語らせていただきました。
 「不正を行う者はますます不正を行い、正しい者はいよいよ正しいことを行い、」とあるように、善と悪、どちらかの道に進むという選択を、各自、自己責任で行うように、ということでした。 
 
 神様は、罪の赦しの救いの道を既に完成されて、神様の愛と憐れみは注ぎ続けられております。その愛と憐れみを私たちは受け止めて、正しい良心を持って、ますます正しいことを行う歩みを心掛けていきたいと思います。
 
 今年のモットーのみことばは、(Ⅰヨハネ1:3-4)です。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
テーマは「ビューティフルコミュニティー」と致しました。
 
 先週の新年礼拝で、「ビューティフルコミュニティー」とは、すばらしく洗練された共同体であることを、(詩編133篇)からお話し致しました。大事なポイントは、「兄弟たちが一つになって共に住むこと」。
 それは、イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う姿です。そういう人たちの集合体、共同体を、神様は大変喜ばれて、いのちの祝福を命じられるということでした。

  今日の主題 「神を敬う敬虔なコミュニティー」
主題聖句(使徒10:35)
「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」 

※コミュニティー・・・共通の目的や興味、地域などによって結びついた人々の集団。情報交換、協力、支援、などを通して、メンバー間の絆を深め、個々の生活を豊かにする役割を果たす共同体
 教会というコミュニティーの共通の志は、「神への誠実な心をもってイエス・キリストを信じること」です。ヤコブ書には「信仰も、行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」と記されています。信仰も誠実さも、心の中にあるもので、目には見えませんが、その実(結果)は、生活の中に敬虔な行いとして目に見えるかたちで現れるものなのです。
 ですから、「神を敬う敬虔なコミュニティー」というのは、心の内に神を畏れ敬う誠実さ(信仰)を持っているとともに、それがかたちとして見える日々の敬虔な生活を送っている人々の集団と言えます。

Ⅰ)神に受け入れられた敬虔な異邦人(使徒10:1-3)
「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で。全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼の所に来て、『コルネリオ』と呼んだ。」

 異邦人のコルネリオは、百人隊長としてユダヤ地方でユダヤ人と関わる中で、天地万物の創造者なる神の存在を知り、聖書(旧約)を読んで、ユダヤ人の信じている神様は唯一のまことの神であることを悟ったと思われます。 
 そして、全家族とともに敬虔な生活をし、いつも祈り、ユダヤ人のために多くの親切な施しをしていた、と書かれてあります。
 
 神に受け入れられた人は、救われる一歩手前です。コルネリオは聖書の神様を知っていましたが、イエス・キリストを知りませんでした。ですから、神様はコルネリオのもとにペテロを遣わして、すべての人の主、イエス・キリストについて語らせられました。
 
 すべての人の罪の処分のために身代わりとなって死んでくださり、三日目によみがえられたイエス様のこと、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方イエス・キリストのこと、そして、この方を信じる者は誰でも罪の赦しを受けられること、旧約の預言者もそれを証していること、これらのことをペテロが話をしている時に、コルネリオ達に聖霊が降りました。

◉キリストを信じる最初の異邦人コミュニティー
 それは、コルネリオに関係する人々の集まりでした。そして、ここに集まった人々は、コルネリオのような敬虔な人たちでした。
 神様は彼らを受け入れて、その上に聖霊が注がれ、彼等は異言を話し、神を賛美し始めました。そこでペテロは彼らに洗礼を授けて、救いが成就しました。そして、最初の異邦人の教会が出来たのです。

【デボーション】
コルネリオの敬虔な生活は、どのようにして整えられたのでしょう?
 ユダヤ人からユダヤ教の神様のことを聞いて、すごい神様だと、悟ったコルネリオは、純粋にまことの神様を求めていたと想像することが出来ます。そして神様は、ますます聖書を読むように、悟るようにと導かれ、敬虔な生活へと導かれていったと思われます。
 
 皆さんもクリスチャン生活を送るようになったいきさつを思い出してみて、御利益的だったか、神を敬う敬虔な心だったか、振り返ってみてください。
 
 クリスチャンの中にも何か災いが起きると、なぜ神様は防いでくださらないのか?と不信仰な気持ちになる人がいます。不信仰になる人は自分中心の世界を持っていて、神様は私の補助者で都合のいい時だけ信じて助けて貰おうという御利益的信仰の人です。

 また、なぜ?と疑問を抱いても、祈って答えをいただく人もいます。いいこともあれば、悪いこともある、それでも神を敬う心に変わりはありません、と言える人は敬虔な信仰の人です。

Ⅱ)敬虔なコミュニティーの信条

≪使徒信条≫
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

【デボーション】
敬虔なコミュニティーのメンバーとして、あなたの信条を堅く信じて守っている事柄を書いてみましょう。
 私(辻牧師)の場合、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」というヨハネ福音書のみことばでした。
 私の求めていた魂の平安はこれだ!人生は空しいと考えていた心を癒してくれるものはこれだ!と、私の魂にフィットしてくれたみことばでした。そうしてイエス様に対する敬虔な姿勢が始まりました。
 
 皆さんにもイエス・キリストを敬うための神のおことばがある筈です。このみことばによって心が変えられたとか、神への誠実な心が生まれたとか、そういうみことばを幾つか挙げてみましょう。

 そして、日曜礼拝が始まる5分前には私語も挨拶もやめて、神の前に心を整える、その時に使徒信条を告白したり、自分の信条のみことばを告白したりして、礼拝前の準備をされては、いかがでしょうか。チャレンジしてみてください。

【敬虔のための「金科玉条」を聖書から】
「きんかぎょくじょう」
黄金や宝石に例えられるほど立派な法律や規則。転じて、自分を支える絶対的な教訓や信条、または人が最も重視すべき法律や規則のこと

 私たちも、敬虔に関する金科玉条のみことばを見つけておいて、敬虔なクリスチャン生活の実践として、そのみことばをチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

【例】Ⅰテモテ4:7-8
“俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。”

 鍛練の「練」の字は洗練するという意味があります。絹糸が水の中で練られて美しくなるように、私たちは敬虔のために、クリスチャン生活の実践で、洗練されていきます。
 
 もし兄弟姉妹の間で、赦せない、愛せない、受け入れられない、そんな仕打ちや非難が起きる時は、それはキリストのからだに対し罪を犯していることになりますから、神の前にその罪を告白して、そして赦せるように愛せるように敬虔さを身に付けるように鍛練していきます、と心を改める告白を致しましょう。
 
 神様の愛と憐れみ、イエス様の血潮の恵み、この神様のおこころを軽んじることのないように、聖餐の式は、そのためにイエス様が定められた尊い儀式です。

【みことば川柳】

キリストを  畏れ敬う  コミュニティー

御国を目指し  今年も進む

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神が喜ばれるCommunity  up 2025.1.5


主題聖句(詩篇133篇)
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。



●Community=地域社会、共同体。
 交流を持つ、何かの共通のものをもって共同体として生活していく。教会も共同体であり、Communityです。

●Beautiful Community=素晴らしく洗練された共同体。
 外国では、完璧に整えられた状態で洗練された美しさを Beautifulと言います。

Ⅰ.いのちの祝福を命じられるコミュニティー
(ヨハネ5:24)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」

 『死からいのちに移っている』というところがポイントです。
 いのちに満ちていく姿、神が命じられたことは必ずそのようになると信じる人々のコミュニティーです。
 この「いのち」とは、単に生物学的ないのちを表しているのではありません。
 
 生きて存在していても死んでいる人がいると聖書は言っています。
 神様のみこころを選んでいく人々のことをいのちを得ると言い、神様のみこころを捨てて拒む人々を死んだ状態であると聖書は言っています。
 いのちにあふれる状態、生き生きした状態、神様のみこころを知る喜びを知ることによって、ますますいのちの祝福は満ちていきます。
この「いのち」とは何かを互いに学んでいきましょう。

Ⅱ.兄弟たちが一つになって共に住むコミュニティー
 兄弟たちが一つになって共に住むところに神様はいのちの祝福を命じられます。
(Ⅰコリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 一つになるとは周りと同じようになるということではありません。
 
 『一つのからだのように』なるということです。 からだには同じ器官はなく、色々な器官があります。キリストの体に、頭である(脳)キリストからの司令をきかない器官があると困ります。

 からだの器官が勝手に動くのは不健康です。頭であるキリストに従ってひとつになって動くことが大切です。
  
 からだの動きは、一つの目的のために各器官が能力を発揮する、活かし合う必要があります。

Ⅲ.尊い油が頭に注がれたコミュニティー
 油が頭に注がれるとは、旧約聖書には多く出てくる状況です。

(使徒10:38)
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。 」
 
 尊い油とは霊的な意味で、救い主イエス・キリストに注がれた神の力、権威を象徴しています。この神の権威が注がれたという見える証しとして、頭に油を注ぎました。
 この油は聖霊なる神様の象徴です。クリスチャンはみんな聖霊の賜物が与えられています。
 
 イエス様は病人や貧しい人や悪魔に縛られている人々を助けるために、この権威を用いられました。

 私たちも自分のためではなく、自分よりも弱い立場の人々のために、この権威を用いることが必要です。

Ⅳ.ヘルモンの露のようなコミュニティー
(ヨハネ7:37,38)
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 
 「ヘルモンの露」とは尽きることのないBeautifulな潤いをもたらします。

 ヘルモン山では雨が降らない時でも、まるで雨が降ったように毎日露が潤してくれるそうです。周りは乾燥地帯なのに、この露のおかげで植物が育つほどです。永遠に枯れない露です。
 
 潤いの豊かさは健全さを意味しています。
 
Ⅴ.【デボーション】
 父なる神が喜ばれるコミュニティーが現実としてどのようなものであるかを思い描き、その実現への期待と信仰を働かせましょう。

 ひとりひとり描いてください。一つには決められません。
 コミュニティーとはひとりでは成り立ちません。そこには人間関係があります。

 ひとりのためだけではなく集団全体の幸せが作り出されるために、みんなが助け合い協力していく、その美しさ、麗しさがあふれている交流がなされている、そういう集団を Beautiful Communityと言います。
 
 実際どんな人間関係がそうなるのかを想像して描いてください。理想社会です。お金があってもなくても麗しい素晴らしい共同体を持つことができます。この世はお金がないと幸せでないと考え、お金で幸せを買えると言います。そのために心が鈍っています。
 
 確かにある程度は自分の願い通りのことがお金で解決できます。しかし、自分だけが願い通りになることで、本当に幸せなのでしょうか。
 
 「互い」にということばが聖書に出てきます。
 自分さえ良ければいいと、してもらうことばかり要求するのは正しい良心ではありません。肉に汚された良心です。
 
 自分が幸せに感じるのはあなたが幸せであるからだと、お互いに感じ合えるにはどういうことが必要なのでしょうか。
 
 これが今年一年のメッセージのテーマになります。
 心からそのようなBeautiful Communityになりたいと願えるようになりましょう。
 
 聖霊に導かれて歩み続けるなら、さらに具体的になっていきます。

【みことば川柳】

初夢は 洗練された 教会が 
再臨の主に まみえる様子