■2024年5月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

信じている者に御霊は内住される  up 2024.5.5


主題聖句(使徒2:38)
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。


 

 

 

 

 

 

 

本文はしばらくお待ちください。( - _ - )
 
 

   

 

■2024年4月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の柔和に導かれる  up 2024.4.28


主題聖句(ガラテヤ6:1)
兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。


 

 私たちペンテコステ派の教会は、聖霊の働きに対して様々な聖霊の賜物を信じ、聖霊様との交わりを大事にし、聖霊様を体験する、そういう信仰の歩みを目指しております。
 そういう中で、今年は「御霊によって歩もう」(導かれてこそ歩んでいくことが出来る)というテーマのもとで、お話しをしてきております。

※御霊の導きは、神の子として新しい人生を歩む者の心に現れます。
 私たちの内側に聖霊様の導きを感じ取るためには、神の子として新しい人生を歩んでいなければなりません。それはイエス様を単に信じるというだけでなく、悔い改めることです。
 
 イエスこそ創造主なる神。そのお方が人類の罪を赦すために、救い主としてこの地上に来られて、罪を贖ってくださった、すなわち、私たちの身代わりとして、十字架で私たちの罪を負ってくださり、血を流し、苦しみ、死んで陰府にまで下ってくださったのです。罪の赦しを与えてくださる神、その赦しのための代価を身代わりに支払ってくださった神、イエス・キリスト、この方以外に救いはありません。唯一の救い主です。
 神様は、全く正しい義人であったイエス様を死からよみがえらせ、私たちの罪を贖うことの出来る唯一の救い主として、天に上げられ、いまは神の右に座しておられます。
 その救い主は、私たちの罪を赦すだけでなく、神の子としての新しい人生を与えてくださいます。私たちが新しく生まれ変わって、神の子として出発するためです。私たちは神の子として歩む自覚を持って、神のおことばを聞いて、神の国の文化を自分の人生に生かしていきます。それが今のクリスチャン生活です。
 (ローマ8:14)に、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」とありますように、神の子というのは、神の御霊に導かれている者です。神の子として生まれ変わった心(きよめられた良心)の内に、御霊の導きを感じ取ることができます。ですから、良心がきよめられることは非常に大事なことなのです。
 そういうわけで、御霊の9つの実の導きによって歩むということを、今まで7回にわたってお話してきました。「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」の導きです。
 今日は8番目の「柔和の導き」についてお話いたします。

【御霊の柔和に導かれる】
(ガラテヤ6:1)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」
柔和→優しい、思いやりがある。謙虚。穏和で好ましい感じ。穏やか。豊かさや幸福に満ちている様(愛に満たされている様)

 私たちクリスチャンは、イエス様を通して、神の国の素晴らしい恵みを豊かに頂いています。私たちの魂は恵みで満ち溢れています。なにより神様の愛が豊かに注がれています。その愛を知れば知るほど、心は広く大きくなって、柔和さも豊かに外に現れてくるのです。  
 この「柔和」という言葉が聖書の中でどのように使われているかを見てみましょう。

A.ヤコブ3:13
「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示しなさい。」
※柔和な良い生き方は、主を畏れ敬うクリスチャンの賢さであり知恵である

 「主を畏れることは知恵の初め」と箴言にあります。神を敬う敬虔な心、きよめられた正しい良心を持って歩むクリスチャンには、敬虔に生きる人生を通して、賢さと知恵がもたらされます。
 クリスチャンの特徴は、なにより「柔和」です。それは罪人の性質のままでは決して得られない特性です。神の子として新しく生まれ変わった人生に立って、毎日の生活の中での人間関係において練られていくものです。神の子としての柔和さを鍛錬していただく、そういう体験、実践が必要です。 
鍛錬は、辛く苦しいことかもしれませんが、それは神様からのものだと思って、その苦しみを受け止めて、そこでどういう風な知恵と賢さを聖霊様が教えてくださるのかに目を留めましょう。
 知恵が欲しい人、柔和を追い求めてください。賢くありたい人、柔和を身につけるように、すべての人生を受け止めて頂きたいと思います。

B.(第2テモテ2:25)
「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」
※論争は互いの心を頑なにする。しかし、柔和な心は真理を悟らせる
 反対する人はいつでもいるものです。そのとき感情的に受けたり返したりするのではなく、柔和な心で教え諭してあげなさい、とパウロはテモテに書いています。
 論争は互いに相手を否定し合います。人は責められると心を閉ざすものですから、そうすると訓戒など出来ません。命令したり言い争ったりするのではなく、まずは相手を受け止めること、それが「柔和な心」です。それが人の心を開く大事な働きです。
 心が開かれてこそ、真理を悟ることが出来ます。いかに、反対する人の心を開くことが出来るか、柔和と思いやりをもって、言葉を選びながら、会話を進めていきたいものです。
 
 「柔和さ」は、悔い改めの心を与えて真理を悟らせます。「柔和さ」は、相手の心を変える力があります。夫婦間に、親子の間に、会社の人間関係の中に、お互いに解決できない問題がある時には、自分に柔和さが足りないのではないか、と考えてみましょう。相手がいいか悪いかではなく、自分が柔和であるかどうかです。
 柔和とは、相手を自分より優れた者と見ることによって表に出て来ます。「柔和さ」は、実践しないと身に付かないものです。

C.(第1ペテロ3:4)
「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 外側を着飾ったり高価な指輪をはめたりして、自分を美しく見せることは、神の御前には価値のないことです。人の美しさは心から出てくるもので、柔和で穏やかな人柄こそ、神の御前に価値があることです。
 黙って大人しくしているからといって柔和なのではありません。相手への思いやりが出ないと、優しさや柔和には至らないのです。
 皆さんは、思いやりをどのように表現されているでしょうか。
自分のことばかり考えていると他人への思いやりに欠けます。かといって、全部聞いてあげることが思いやりでもありません。
 相手の立場を理解し、自分もその立場になって共感する、そこから心が通じ合い、一緒に考えたり、話し合ったり、質問して相手の考えを聞こうとします。相手のためを思う真摯な気持ち、隣人愛です。
 
※神の御前に高く評価される人とは、柔和で穏やかな霊を持つ人です。柔和さはいのちの価値を高めます。

 命の価値はみな同じでしょうか。殺人者であっても善人であっても、命の価値は同じだと言う人がいます。たしかに命そのものに差はありません。しかし、その命をどう使うかによって、命の価値は上がったり下がったりします。
 神様の与えてくださった命を、価値のない罪なことに使うというのは的外れです。悔い改めて、やりなおすなら赦して頂けます。イエス様はそのために世に来られたのですから。しかし、心を入れかえないのであれば、尊いいのちであっても、神の目に尊く用いていないのですから、神様は裁かれます。
 柔和さはいのちの価値を高めます。どんな業績を残したか、どんな良い結果を残したか、そういうこと以上に、柔和な生活を目指して頂きたいと思います。

【デボーションポイント】
 柔和をもって訓戒してくださっている御霊の働きかけに気づきましょう。柔和な心で自分に対して訓戒してみましょう。
 
聖霊様はいつも、あなたがたの内で、柔和の熟した実をもって、あなたに接しておられます。
 あなたが自分に対して柔和な心で訓戒するとしたら、どういう風に自分を訓戒するでしょうか。御霊様はそれ以上に柔和な心であなたを導き訓戒してくださっていると考えると、御霊様の柔和な働きかけに気づくことが出来るのではないでしょうか。
 私たちは神様の目から見れば、皆、至らない者です。しかし、聖霊様は一々責めないで、柔和の実をもって、それを認め受け入れ、次に繋げるようにと励ましてくださっています。
 また、ありのままの自分の心を聖霊様に正直に打ち明けることで、「あなたには誠実さ(信仰)がある」と聖霊様は見てくださっています。その誠実さを引き出してくださるのは、御霊様の柔和な働きです。
 赦されているからこそ、受け止めてくださるからこそ、正直に「こんな私でも、まだあきらめずに見てくださっているのですか」という気持ちを神の前に表すことが出来るのです。
そして神様は私たちに信仰があるということを認めてくださるのです。
 御霊様の柔和さが皆さんにも日々注がれて、神の子として成長するように、聖霊様は優しく思いやりをもって訓戒してくださっています。

【俳句】
    
聖霊の  優しさ知れば  柔和になれる

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子 師)

主の家に入るために  up 2024.4.21


主題聖句(イザヤ26:1〜2)
その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。


 

1.城門を開ける→門が閉ざされている→門である入口から入ることが出来ない

(1)入れない理由
①(創世記3:24)「こうして神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」
 神様はエデンの園の入り口に、「ケルビム(神の使い)と、輪を描いて回る炎の剣」を門番として置かれました。
エデンの園が聖く守られるように、神様のおことばと権威に不従順で不敬虔な者たちが園に入って来ないためにです。

②門の中、エデンの園には「いのちの木」があります。その門が閉ざされている間は「いのちの木」の所には誰も行けません。
この「いのちの木」は、「永遠のいのち、不老不死」を意味しています。

③(創世記3:6)「そこで、女が見ると、その木(善悪を知る木)は、まことに、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
(創世記3:22-23)「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」
 人は神様によって造られ、エデンの園に置かれた時は、「いのちの木」に与ることが出来る状態でありました。しかし、人間の祖のアダムとエバは選択を誤りました。誘惑に負け、いのちの木を選ばず、神様に禁止されていた「善悪を知る木」を選んで、その実を取って食べたのです。そのことにより、アダムとエバは「エデンの園」から追放されてしまいました。
 神様は人の愛が育つことを期待しておられます。神様のおことばを守ることは、神様への愛を現わすことになります。神様は本当の愛が育つために人間に自由意志を与えられました。自由に選択できる中で、愛により神様のおことばに聞き従うことを選んでほしかった。神の禁じた善悪の木ではなく、いのちの木の実を食べて、神様と対等な家族のような交わりが出来るまでに成長して、永遠に神様と共に生きてほしいという願いを持っておられたのです。
 
④私たちは、アダムとエバが罪を犯したため「エデンの園」から追放されて後、アダムとエバの罪のDNAを受け継いで、この世に生まれて来た子であります。
 人類は、サタンの誘惑により、神のことばを退け、自分の価値観により善悪の判断をする者となりました。ルシファーのような、高ぶりと神への反抗を持つような者に似た者となりました。
 もし、人類が悪の権現となり、「いのちの木」から食べることによって永遠の存在者になってしまうと、世界は永久に悪と暗闇でおおわれてしまいます。そうならないように、神様はアダムとエバをエデンの園の外に追放し、そして、人類に「死」が入り込んだのです。
 「死」には、肉体の死、魂の死、霊的な死があります。
*肉体の死;人は生まれたら死にます。病に罹ります。老化します。
*魂の死;神を認めず自分を賢い者とする生き方です。心の中では、悪意、ねたみ、そねみ、憎しみ、許せない心、不平、不満、つぶやき、支配、わがまま、自己中心など、不純物が満ちています。
*霊的死;永遠に神から離されていきます。

(2)このエデンの園は、神様が来られて、アダムとエバに直接交わりを持ち、語られる所でした。
①地上でそれを「型」として表されているのが、出エジプト記に記されている「モーセの幕屋の至聖所」です。
 至聖所には「契約の箱」が置かれてあり、年に1度、民の贖罪のために、民を代表して大祭司が、傷のない動物の「血」を携えて至聖所に入り、契約の箱の蓋の前に立ち、その血を振りかけます。
 そして、贖いの蓋の端と端にある2つのケルビムの像の間からは、神様の栄光の輝く光が放たれて、神様のご臨在が現わされます。大祭司はそこから語られる神様の声を聞き、罪は赦されて、神様との交わりを持つことが出来ました。
 この傷のない動物の血は「イエス・キリストの血」を表しています。きよく正しいイエス様の血が流されて初めて人はきよめられ、神の御前に出ることも神様との交わりを持つことも出来るということが、モーセの時代から象徴として旧約聖書に表されていたのです。

②エデンの園は、天にある「本物の幕屋」です。
天に「本物の幕屋」があり、いま神と御子、主イエス・キリストご自身がその御座に着座されています。

(3)地上にある「モーセの幕屋」には、ケルビムの描かれた「垂れ幕」があり、「前の聖所」と「奥の至聖所」を隔てていました。
①(マタイ27:51前半)「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
 イエス様は「十字架の死と葬りと復活」により、「いのちの木」への「生ける道」となってくださいました。それは、神殿の幕が裂かれたことにより、「至聖所」に入るための「道」が開かれたということを暗示しています。

②(へブル9:12)「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、『まことの聖所(=天)』に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
 神様が人となってこの地上に来てくださり、人の罪を身代わりに背負って十字架につき、血を流し、罪のさばきを受けてくださいました。こうして人類は死から解放され、永遠のいのちを与える救いが成就しました。これによって、私たちが神の御座に近づく道、エデンの園への門が開かれました。罪人である私たちが永遠に罪赦されて神の前に立つことが出来る者とされたのです。

③(ヨハネ10:3前半)「『門番』は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。」
 閉ざされた「エデンの園の門」を守る「ケルビムと回る炎の剣」である「門番」が、彼(イエス)のために、その門を開きました。
私たち羊は、羊飼いイエスの声を聞き分けて、後を付いていきます。

④(ヨハネ14:6)「イエスは彼に言われた。『わたしが<道>であり、<真理>であり、<いのち>なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり<父のみもと>に来ることはありません(神の御座に近づくことはできません)。」
 「門」に入る条件は、神が人となられた方、罪のないイエス・キリストご自身の血です。それによってのみ「門」を通ることができ、エデンの園(天の聖所)への入り口である道が開かれます。

⑤(へブル10:19-20)「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所(天の聖所、御座)に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、わたしたちのためにこの新しい生ける道(永遠のいのちへの道、神に近づく道、エデンの園に入る道、至聖所に入る道、霊的神の国に入る道)を設けてくださったのです。」
 私たちも、イエス様の肉体という「垂れ幕」の道を通って、「霊的エデン」=「至聖所」=「霊的神の国」に入ることが出来ます。
信じる者は誰でも救われます。イエス様が十字架で死んでくださったので、神様に近づく道、救いの門はもう開かれたのです。

(4)「城門を開ける』この学びの霊的意味
①(ヨハネ10:9)「私は『門』(垂れ幕)です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
(ヨハネ10:4)「彼は自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
 イエス様という門を通って入る者は誰でも救われる、とイエス様ご自身が言われています。イエス様という羊飼いの声を知って聞いて従順についていくというのは、主の生き方にならうということです。
 イエス様のご性質やご人格など想像してみてください。愛のある優しいお方です。そのような主にならうことは喜びです。信頼しているので安らかです。たとえ、死の影の谷を歩むとしても、わざわいを畏れません。主がともにいてくださるからです。

②「霊的エデン」は、「神の国」、「神の支配される所」、「主がご臨在される所」、即ち「主の家」です。

③「主の家」に入るのに、その「城門」(イエスのからだという垂れ幕)を通って、私たちは今「イエスの名」のもとに、「信仰によって」、神の御そば近く呼び出され、神の声を聖霊様によって聞くことの出来る者とされていることを、心から神に感謝します。
 私たち一人一人、羊のように羊飼いの声を聞いて、知って、ついていくなら必ず主は、緑の牧場、いこいのみぎわに連れて行ってくださいます。出エジプトの民のように、荒野を通って、カナンを征服するところまで、神のおことばは私たちの心を成長させてくださいます。
 
 しかし、そうではない色んなものを見て不信仰になって、自分はダメだと思ってしまうような、そういうところを通らされることも多くあります。その時には、そういう否定的なマイナスの心や感情になっているのは誰なのかを考えてみてください。それはあなたでしょうか?違います。死んだはずの肉、古き人です。
 あなたはイエス様を信じて正しい良心が与えられています。あなたには神の御霊が助け主としてついているのです。だから、神に逆らい敵対する死んだはずの古き肉が、嘘をつき、欺いて否定的な中にあなたを閉じ込めようとしているのです。
 ですから、門を通って行くときに、私たちがどうしてもすべきことは、肉と霊の戦いです。私たちは何者なのか、どうして今このような素晴らしい立場にいるのか、それを与えてくださった方はどういうお方なのか、自分の羊飼いがどういうお方なのかを、しっかり考えてください。そして喜んで肉を十字架につけていきましょう。

※(へブル10:22)「そのようなわけで、私たちは、『心に血の注ぎ』を受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、『全き信仰』をもって、『真心から』(=心を尽くして主を愛する心を持って)『神に近づこう』ではありませんか」

 「主の家に入るために」城門は恵みによって開けられています。神様への信仰と信頼をもって入って行きましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月14日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

復活・御霊・相続・希望  up 2024.4.14


主題聖句(ローマ8:11)
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。


 

 イースターから2週間が経ちました。イエス様の復活は、福音の核となる出来事なので、クリスチャンにとってとても大切なことです。”イースター”という一回のイベントで終わるのではなく、もう少し余韻に浸るために今日もみ言葉から教えられていきましょう。

(ローマ8:11)イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
 まず、イエス様をよみがえらせた方は、父なる神様です。 神であられる方は、義なる方で、秩序正しい方です。万物の理の頂点におられる方なので、生と死の境を越えることも出来る方だと私は思います。そんな神様は、罪人である私たちを愛してくださっています。私たちを罪の束縛から解放し、共に生きることを望まれています。
 
 しかし神様と罪人には大きな隔てがありました。正義と悪が共存できないように、義なる方は、罪人と一緒にいることができませんでした。そこで神様が取った行動が、御子イエス様を十字架によって身代わりに処罰することで、私たちを罪無き義人とみなしてくださいました。全人類の罪と釣り合うのは、神であられるイエス様の血以外存在しなかったのです。その尊い犠牲によって、私たちの罪は赦されたのです。
 
 しかし、神様のみわざは、更にすごい展開を見せます。それがイエス様の復活です。神様は秩序正しい方なので、”罪を持ったままの状態”の人を”処罰せずに”み側に置くことは出来ないのと同時に、”罪無き者”を”処罰したまま”にしておくことも出来ないお方なので、この地上で罪を一つもおかさなかったイエス様を、死につなぎ止め続けることもなさいませんでした。イエス様の復活は、神様のご自身の権威を越権してのことではなく、秩序の中で起こったことだと言えます。そのような方の御霊は、助け主として私たちの内側に内住してくださっています。更に、私たちはもはや罪人ではなく神様の前に義と認められているので、永遠の時間軸の中で、決して死ぬことのない永遠のいのちも約束されているのです。

(ローマ8:12ー13)
ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

 イエス様を復活させた父なる神様の御霊と共に歩む義人は、一つの義務が生じます。それが肉に従わない生き方をする、ということです。肉とは罪人であった頃の古い自分です。残念ながら、この地上にいる間は、罪赦され救われていたとしても罪を宿した肉体と一緒に歩まないといけません。肉体がもたらすあらゆる誘惑が罪の生活にいつでも引き戻そうとするのを、信仰によって常に勝利していくのが、クリスチャンとしての新しい生き方です。肉体が伴うので、肉に従って生きるという義務はすでに無く、御霊によって肉の行いを殺す生き方が求められるのです。

(ローマ8:14−17)
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 復活をもたらす神様の御霊は、神の子であり相続人である証です。当時のユダヤ社会の中で、神様を「アバ、父」と、父親に対する親愛の情を込めた呼びかけは、例を見ない革命的なことであったと言われています。

 父なる神様は、御子、罪の赦し、御霊、を与えてくださり、更に求めなさいと言われます。そして御国を相続してくださいます。このような恵みと将来が約束されているのは、なんという希望でしょうか。日頃から希望に満ちた歩みをしていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月7日 特別礼拝メッセージより(有賀 喜一師)

福音の真髄の三原理  up 2024.4.7


主題聖句(ガラテヤ5:16)
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。


 

 (ガラテヤ人への手紙5:16-6:2)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。
 兄弟たち。もし誰かが何かの過ちに陥っていることが分ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」

(ガラテヤ人への手紙6:15-16)
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

  「ガラテヤ人への手紙」は、パウロの宣教によってキリストの福音を受け入れたガラテヤの人々が、早くも福音から離れて、ユダヤ教の教えやギリシャ哲学に影響されていこうとしているのを知って、純粋なキリストへの信仰が歪められないようにと、ガラテヤの人々に宛てて書いたパウロの書簡です。
 
 私(有賀師)にとってもガラテヤ書は信仰生活の転機となった書簡です。中途半端で半信半疑で、肉いっぱいの私が、1955年、この書簡を通してはっきりと、自己中心と決別し、イエス様100%、聖霊様100%の歩みに切り替えられました。

 貧弱で、無能で、何の良いところもない自分が、全能の神に全面的に拠り頼み、常に神の臨在の中で生かされていく、そのように私を変えてくださったのが、このガラテヤ書でした。
 
 今日はこのガラテヤ書から、「福音の真髄の三原理(3大原則)」と題して、3つの方面から話を進めさせて頂きます。

(1)聖霊の原理
1)聖霊による新生(ヨハネ3:3)
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」

2)聖霊による満たし(エペソ5:18)
「また、葡萄酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」

3)聖霊による成熟(ガラテヤ5:16)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
 私たちが新しく生まれ変わるのは聖霊によってなされます。それはクリスチャンの始まりです。そして、聖霊に満たされるとは、クリスチャンとして統一されること、徹底すること。聖霊によって歩む、それはクリスチャンとして成熟することです。

 2000年前の五旬節の日、聖書の預言通り、使徒たちに聖霊が臨み、彼らを通して一万人を超えるような最初の教会が誕生しました。父なる神様が計画され、イエス・キリストが実行され、聖霊なる神様が私たちに適用してくださったのです。まさに三位一体の神様の偽らざるお働きでした。

 ですから、「神様はおられる。あなたは罪人だ。イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、悔い改めて信じるなら救われる。」と聖霊様が私たちを促すなら、私たちは聖霊様の導きに対して、決して逆らったり(使徒7:51)、偽ったり(使徒5:3)、侮ったり(へブル10:29)、汚したり(マタイ12:31)、悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊様の導きを消したりしてはならないのです。(Tテサロニケ5:19) 

 70年前の学生の頃、私(有賀師)は、自己中心で競争心が強く、優越感を求めて目立ちたがりでした。親からは勘当同然の状態で神学校に入学し、その半年後に結核を患いました。経済的に誰にも頼れず、神様だけが頼りという状態で、必死に神様に癒しを求めて祈りました。しかし神様は何も答えてくださいません。
 3か月も過ぎて、ようやく神様は私を見られておっしゃいました。

 「おまえはそうやって熱心に祈っているが、ここで奇跡が起きて癒されたら、『神様ありがとうございます。あなたのおかげです。』とは言わないで、自分の祈りが奇跡を呼んだのだと思うのではないか。わたしをダシにして、本当は自分の知恵と力と努力でやろうとしている、そういうお前を、わたしは嫌いだ」と。
 「嫌いだ」と言われて驚きました。なぜ?と考えざるを得ませんでした。そしてガラテヤ書を読んだ時、分かりました。

(ガラテヤ2:19)「私はキリストとともに十字架につけられました」という「私」は、自己中心の「私」です。神様が「こうしよう」、聖霊様が「こうしよう」と言われるのに、「いや、私の考え、私の力」と、そのように自己中心でつっかえをしていたのです。

(ガラテヤ5:24)「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」
 自分が有名になりたい、自分が目立ちたい、そこには、肉、情、欲が現れています。
 
(ガラテヤ6:14)「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」
 人と自分を比べて競争するのは、この「世」が、私の中に巣喰っているからです。それを神様は嫌いだと言われたのです。それがはっきりと分かったのです。

 そして告白しました。「己を十字架につけます!肉を情と欲と共に十字架につけます!この世界を十字架につけます!」「つけました!もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです!」見事な新創造です。私は新しく造られた者として新しく出発することが出来ました。すると神様は私を「私の愛する子」と呼んでくださったのです。この転換はまさに聖霊様の御業です。
 
 今日、皆さん一人一人の信仰生活が、自分の知恵や努力や修養で出来たのではなく、すべて聖霊様によって、神が計画し、キリストが成し遂げられた十字架と復活を通して、聖霊様が注がれて成された神の業であることを、はっきり納得しようではありませんか。

(2)信仰の原理
 神的要素と人的要素
 信仰には、神様がイエス・キリストを通して用意された聖霊による働き(神的要素)と、人間の側の応答としての信仰の行為(人的要素)の両面があります。
 
 聖霊に導かれて私たちが信じるというのは、全人格的な行為です。
 
 罪から人を救うことは人には出来ないが聖霊様には出来る、それを私たちは<知性>によって納得します。神の無い人生の辛さと、神の在る人生の素晴らしさは、はっきり<感情>で分かります。
 そして人間の<意志>は決断をします。軽信、半信、無信ではなく、知性、感情、意志をもって、全人格的に信じる全き信仰、任せて委ねて心から信頼する、これが信仰です。
(ハバクク2:4)
「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
 エジプトから奇跡的に脱出したイスラエルは、神様のお働きによって、やがてダビデの王国にまで発展しました。しかし、民は偶像を持ち込み拝むようになりました。彼らは懲らしめられ、バビロンに捕囚され、遠い異国の地で、自分たちは神に見捨てられた、と嘆いておりました。
 そういう状況で神様は、預言者ハバククやエレミヤ、エゼキエルを通して、「正しく信じる者たちは必ず生きる、神様は契約を重んじるお方、必ずあなたたちを回復される」と約束されました。 
 
 この「正しい人(義人)は信仰によって生きる」ということが、新約聖書において、3か所、宣べられています。

1)信仰義認(ローマ1:16,17)
「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人を初めギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」

2)御霊を受ける(ガラテヤ3:11,14)
「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』からです。」「それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

3)栄化(へブル10:37,38)
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし畏れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
 この3つのみことばから、クリスチャンは、信仰によって救いを頂き、信仰によって聖霊を受け、そして世の終わりの時まで、信仰によって主の再臨の約束を信じ、救いの完成(栄化)の希望を持って生きる者であることが分ります。

(3)キリストの原理
1)キリストの内的啓示(ガラテヤ1:16)
「異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、」
 罪の無い誕生、罪のない生涯、言葉、行い、品性において一つも罪が無いお方、罪ある私たちの身代わりに十字架で死んでくださり葬られ3日目によみがえられたイエス・キリストというお方を、聖霊様は私たちの心の中に、はっきりと啓示してくださいます。このキリストを知ったなら、罪を悔い改めて信じるだけで救われます。難行苦行は不要です。赦されて神の子となるのです。

2)キリストの内住(ガラテヤ2:20)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
 イエス様をお客様扱いしていませんか。都合の良い時に都合のよい所でだけ上客扱いして、普段は自分一人で思うがままに過ごしているような、そういうイエス様とあなたとの関係になっていませんか。
 
 イエス様はわたしたちの内に住んでくださって、心の底から私たちを救い、きよめ、癒し、解放されるお方として、共に生きてくださるお方です。

3)キリストの内的形成(ガラテヤ4:19)
「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストがかたち造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
 キリストが私たちの内にかたち造られる、と語られています。私たちはこの肉体をもって地上の人生を生きてゆきますが、この内側は霊的にキリストらしさが、かたち造られるのです。

キリストらしさの3つの特徴
1)「絶対の従順」 
 馬小屋で誕生し、大工として家族を養い、3年半の公生涯の最後は十字架の死です。一度として愚痴や文句や反抗もなく、神のみここころに喜んで従われました。

2)「信頼」 
 イエス様は十字架につけられ、死んで、墓に葬られました。しかしイエス様は、ご自分の死が無駄になることはないと、父なる神様を信頼されました。神様は三日目にイエス様をよみがえらせ、天に引き上げ、今は神の右に座しておられます。

3)「犠牲を払われた」 
 イエス様は十字架で自分のいのちをお捧げになりました。
 従順、信頼、犠牲、クリスチャンとしてこの3つの姿が私たちの心の中に造られたら、キリストのかたちが造られているのです。

※これは主のご計画 (ローマ8:29)
「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

※これは主の御業(第2コリント3:16-18)
「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 これまで福音の3原則としてお話ししてきたことは全て、もともと神様のご計画でした。あらかじめ、そのように神様が定められ、選び、時至って信仰に導かれ、罪を赦し、聖霊に満たされ、御子の栄光の姿にまで変えられていく、この全工程を神様は計画の中にすでに持っておられます。私たちは御霊なる主のお働きによって、主と同じ姿に変えられていくのです。
 
 福音には力があります。聖霊様が働いておられます。信仰が植えつけられます。そしてキリストが生きて、救い、きよめ、癒し、解放されるのです。私たちがこの基準、福音の3大原則に従って歩む限り、私たちは恵みから恵み、信仰から信仰、力から力、栄光から栄光へと進んでいくのです。

 愛する皆さん、この3つの福音の原理で、この基準にしたがって、生まれ変わって、成熟して、歩みを全うして、神の栄冠にあずかって参りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の誠実に導かれる  up 2024.3.31


主題聖句(ヤコブ2:23)
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。


 

 御霊の導きは、神の子として新しい人生を歩む者の心に現れます。
 ただ、肉に属する生まれながらの良心は主観的で自己中心なので、御霊の導きに従えません。
 私たちはイエス様を信じて、全く新しい良心を神から与えられたので、御霊の導きを感じ、従うことができるようになります。
 この肉にある古い良心と全く新しいきよい良心との間では葛藤が生まれます。しかし、この新しい良心こそが神の子としての良心です。
(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

【御霊の誠実に導かれる】
(ヤコブ2:23)
「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」
 このみことばに誠実ということばは出てきません。しかし、「信仰」ということばが実はギリスシャ語では誠実という意味になります。
  
   誠実→このギリシャ語はほとんど信仰と訳される
   信頼、確証、信じる、委ねる
   正しい神関係を表す言葉
 
 正しい神関係とは、神との健全な関係のことです。それは神との内面的な関係を表します。

A.第1テモテ1:19
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
 正しい良心を捨ててしまい、誠実さが壊れてしまったということです。
 せっかく与えられた正しい良心の判断を捨てて、以前のように肉の良心に従い、この世的な生き方をし続けていくなら、神への誠実さは失われていきます。
 正しい良心から神への誠実が生まれてきます。神を信じるという時に、信じる心の動機はとても大切です。誠実さが疎かにされると神との関係が壊れていきます。
 良心は善悪を判断します。私たちの良心の判断基準はみことばです。
 他の宗教の人たちは、その教えを良心の基準としているでしょう。しかし誠実さがなければ、その宗教も自分の都合のいいように使ってしまいます。
 クリスチャンも気をつけないと、神に対して誠実さを失ってしまいます。
 御霊との交わりを可能とするには誠実さが必要です。誠実さが大切なのです。

B.ローマ10:17
「そのように、信仰《誠実》は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
 何を聞くのでしょうか。それはキリストについてのみことばです。
 神は私たち罪人を憐れんで、ひとり子なるイエス・キリストを遣わして私たちを滅びから救ってくださいました。
 これが福音です。キリストの十字架の苦しみが私たちのためであると知り悟る時、罪から離れ、もっとキリストに従い、誠実に歩もうという心が湧いてきます。
 御霊の誠実の実は、キリストについてのみことばを通して私たちに影響をもたらします。

C.使徒17:31
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証《誠実》をすべての人にお与えになったのです。」
 当時キリストを処刑したローマ兵たちは、ローマ皇帝の封印をつけた墓石が破られたので、自分達が処罰を受けることを恐れて、イエスの遺体は弟子たちに盗まれたという噂を流しました。
 しかしキリストは、神の裁きが待っているという証しとして復活されました。世界を裁く日を神は決めておられます。
 
 なぜよみがえりが神の裁きの証しになるのでしょう。
 人は善悪の実を食べ、神に従わなくなり、その罪によって肉体の死をうけることになりました。この肉体の死から魂を分離することによって、キリストは魂を解放し救ってくださいました。
 ゆえに、私たちクリスチャンは罪に抵抗し勝つことができます。もはや古い主人である罪の奴隷として生きる必要はないのです。
 神への誠実な心を弱らせないようにしましょう。罪に敗れることがあっても、その間違いを悔い改めて、またやり直すのが誠実さです。
 誠実さとは、人が見ていてもいなくても決められたことをちゃんと守ることです。
 キリストは罪がないので、死の力に打ち勝ちよみがえられたのです。
 復活への確証、誠実さは、神の裁きが全世界にくだされることの証しです。神の裁きがあるから、ますます誠実に歩んでいくことができます。

〈デボーションポイント〉
御霊の誠実さを受けている私たちは、どのように応答することで、正しい神、御霊との関係を保ち続けることができるでしょうか。

 神の私たちへの誠実さは決して変わりません。御霊は24時間私たちに誠実に接してくださいます。守ってくださっています。私たちと良い関係を持とうといつも譲歩してくださるのです。
 
 この神の誠実さに気づくと、私たちも誠実になりたいと変えられていきます。

【俳句】 
復活は 御霊の誠実 証する

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月24日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

身代わりの受難  up 2024.3.24


主題聖句(マタイ27:46)
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


 

 今週はイエス様が十字架に架かり葬られるまでのお心に寄り添い、すべては私たちの罪の赦しのためであるということをしっかり心に刻む受難週としていきましょう。

 十字架上で、イエス様は上記の言葉を発せられました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

 イエス様の最大の苦しみは、まさにこの言葉の通りでした。今まで父なる神様と共に歩まれたイエス様にとって、一時的とはいえ見放されること、御父から引き離されることが苦しく辛かったのです。どれほどの苦しみかを表す表現が、ルカ22章44節に記されています。

(ルカ22:44)
「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」

 裁判にかけられる前のゲッセマネでの祈りの場面です。この後に待ち構えている、鞭打ちや十字架による肉体的苦痛よりも、父に見捨てられるという内面的苦痛が、”苦しみもだえて”という表現に表れています。

 本来は、私たちが、神様から見捨てられる存在でしたが、永遠に見放されない、引き離されないために、イエス様は身代わりとなってくださったのです。

 イエス様でなければならない理由があります。それは、イエス様が完璧ないけにえの役割に相応しいお方だったからです。

(第1ペテロ1:18~19)
「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

 私たちは身体的にも道徳的にも完全ないけにえによって贖い出されたのです。

 私たちが父なる神様から引き離されないために、イエス様が身代わりとなって苦しみを受けてくださったことに感謝し、その完璧な身代わりとしての大役を果たされたイエス様の御名を心から誉め称えましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の善意に導かれる  up 2024.3.17


主題聖句(エペソ5:9)
光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。


 

 私たちは世の光であり、キリストを信じる者は光の子です。
光の結ぶ実はあらゆる善意、正義、真実です。
 
 光には三原色があり、それを混ぜ合わせる程白く明るくなる性質があります。

 霊的な実は善意、正義、真実という3つに分かれます。この3つを失わないよう、諦めないよう求め続けることが大切です。

 善意とは美徳、善意という心の持ち方であり、善良な心、自分以外の人々に向ける心の姿勢、心遣いのことです。

 「意」は心を示します。隣人への心遣いです。どんな状況が起こっても善意を持って受け止める姿勢です。

(第1ペテロ3:9)に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。
 祝福を受け継ぐ者が呪うようであってはいけません。しかし、損得感情をもつとそれは不可能になります。

 イエス様は「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。」と言われました。これは善意です。

 また、「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とも言われました。それは、相手の心の底にある願い(最後まで一緒に行ってほしい)を受け止めて寄り添ってあげなさいということです。これも善意です。
 みたまは私たちの魂にいつも寄り添い善意を示してくださっています。
 
 不信仰になったり不満を覚えても、聖霊はあなたの内にあって善意を示してくださるのです。
 
 責め苛むのではなく、すべてを善意を持って受け止め励まし慰めてくださいます。

 みことばには厳しいものがあり、また天の父も訓練してくださる方なので厳しい面がありますが、私たちの内に住んでくださるみたまは天の父の愛の心そのものであり、やさしく付き合ってくださる友のような方です。ですから注意されても、決して傷つけられません。

A.ローマ8:38〜39
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 異邦人の宣教師として選ばれたパウロがローマの教会に宛てた手紙です。パウロは異邦人である彼らも、イエス様の十字架のゆえに救われ、ユダヤ人と同じように神に愛されているという良き知らせである福音を語りました。
 
 どんな存在も、神の私たちへの愛から私たちを引き離すことはできないという素晴らしい福音です。
 
 これをパウロに語らせているのはみたまです。みたまの示される善意がパウロに神の愛の深さ、大きさを悟らせているのです。
 
 どのような力も神と私たちの関係を引き裂けるものはないということです。

 私たちはすぐに自分の罪に落ち込み、もう神様に愛されないのではないかと不安になり不信仰になってしまいます。

 しかし、みたまは決して私たちを見捨てず、前向きに未来にむけて常にいい方向に導いてくださいます。

 私たちはいくら罪から離れたいと思っても、その強い願いが心の底から湧き上がってこないと、なかなか罪から離れられない者です。

 その体験を通して、パウロはそのような自分でも神は決して見捨てられることはないと、語ることができたのです。
実感をもってパウロが語ったみたまの善意を、みなさんも受
けています。

 どのような罪の苦しさの中でも、みたまはいつも善意をもってあなたを理解し、正しい方向に常に導いてくださいます。

B.ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 パウロの手紙には「知っています」ということばがよく出てきます。これは読んでいる私たちも含まれています。この知っているは知識だけではなく、体験をして知っているということです。

 神の善意を受けていることを実感することが必要です。

 神が召された人々とはどのような人々でしょうか。神を愛する人々です。

 その人々のために神は何をしてくださいますか。すべてのことを働かせて益としてくださいます。

 神には悪意はありません。どんなに損失を受けても善意をもって受け止め前に進むように励ましてくださる方です。

 それをパウロは経験しました。宣教している中でどんなに大変な苦しい災難や災い、迫害を体験しても、彼はそれらが益と変えられたと告白しています。

 私たちの考える益と神が考えられる益は違うかもしれません。

 しかし、神は常に私たちに善意を示してくださることを知って体験しているので、どのような人間的には理解できないような状況が起きても、神はすべてのことを働かせて私たちのために益としてくださると、心から信じ、同意できます。それが知っているということばになるのです。

 神の善意は変わることはありません。ただ、神の善意を無視し続け、無駄にしていくならキリストの再臨のときには、その報いを受けることになります。

 私たちは祈りの度にみたまの善意を体験し心が前向きに変えられていきます。

〈デボーションポイント〉
 ローマ8:28は、神の善意による召しのご計画です。
パウロは、御霊の善意に触れたので《知っています》と言えたのです。

 罪人でも神を愛する心は持てます。洗礼を通して誓った誓いがあるからです。

 神を愛している自分を受け入れることで、やはり罪から離れようという心が湧いてきます。

 神を愛しているという強い決意をもつことで、誘惑に対して対抗することができます。

 正しい良心は敬虔さをもつことで強められてきます。

 しかし不敬虔なことを、罪と思わず鈍感に受け入れていくと、正しい良心が弱ってきます。

 私たちは神の善意によって集められた者達ですから、神の善意を信じ受け入れ、神の召しに応えていきましょう。

 

☆チャレンジ
 あなたは知っていますか? 

 知っていると言えるものを吟味してみましょう。

 善意を受けるということは恩を受けるということですから、その恩に報いたいと思うはずです。

 善意を実感するなら、私たちはその善意を隣人である兄弟姉妹に返していくことができます。

 神の善意を知れば知るほど、私たちはみたまの実を周りの人々に表していけるようになります。

【俳句】

神の召し  人を愛する  主の善意

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の親切な働きに導かれる  up 2024.3.10


主題聖句(テトス3:4)
私たちの救い主なる神のいつくしみ(親切)と人への愛とが現れたとき、


 

 「御霊によって歩もう」という今年のモットーから、(ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とありますように、御霊に導かれる(神の子として良い方向に連れていかれる)ということをお話ししています。

 前回までに、御霊の九つの実の導きとして、愛、喜び、平安、寛容という4つの実の働きについてお話しいたしました。

御霊の九つの実
(1)御霊の愛の働きに導かれる
 友としての愛をもって導いてくださる。

(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 存在そのものを受け入れられている喜び

(3)御霊の平安の働きに導かれる
 神の子として新しくうまれさせてくださった御霊の働きによる安心感

(4)御霊の寛容の働きに導かれる
 救いの完成のために諦めない寛容さを示し続けておられる

 今日は5つ目の「親切」について、「御霊の親切な働きに導かれる」と題してお語り致します。

(5)御霊の親切な働きに導かれる
(テトス3:4)
「私たちの救い主なる神のいつくしみ(親切)と人への愛とが現れたとき、」
 ここで「いつくしみ」と日本語に訳されている原文のギリシャ語は、(ガラテヤ5:22)の「御霊の実」の「親切」という言葉が使われています。その「親切」というギリシャ語は、「役に立つこと、品行においての善良さ、質の良さ、思いやり、いつくしみ、慈愛、有徳な振舞い」という意味合いを表しています。

A.(ローマ2:4)
「それとも、神の慈愛(親切)があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛(親切)と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

※神の親切(慈愛)が悔い改めに導く
 私たちは誰かから親切を受けると、頑張ろう、心を変えよう、という前向きな力を頂くことができます。また、困っている時に誰かから親切を受けると、今度は誰かが困っているときに自分も親切を施したいという気持ちになります。人は親切を受けると、親切を施すという心の変化が生まれます。これが親切(慈愛)の力です。

 「悔い改め」というのは、方向転換、心を入れかえる、と言う意味です。

 不信仰で否定的な思いや感情、神様に対する良くない態度があったならば、神様の親切(慈愛)に気付くと、「ああ申し訳ないことをした」と、心を入れかえる方向転換が内に起きます。心を入れかえたしるしとして、相手に同じような親切を施したいという慈愛の気持ちが湧き上がります。

 「神の親切(慈愛)が悔い改めに導く」というのは、神の親切が、不信仰から信仰へと変えられるという心の方向転換です。それは、罪を責めて裁いて無理やり私たちを変えるというのではありません。

 聖霊様をお遣わしになり、親切(慈愛)をもって寄り添ってくださるので、私たちは自ら進んで、こころを正しい方向に変えたい、変えよう、そういう気持ちが湧きあがるようになるのです。「親切」にはそういう力があるのです。

 私たちは神様から罪の赦しという大きな親切を与えられています。そんな大きな親切を施してくださった方に、せめて何か少しでも恩返しをさせて頂きたいという湧き上がる思いから、自発的な行動が生まれます。

 神様は、ご自分の施した親切に対して、何か物や形でお返ししてほしいわけではありません。神様の願いは、心を入れかえてほしい、神を愛し敬う敬虔さに立ち返ってほしい、ということです。行動は後から付いてくるのです。

B.(第1サムエル30:1-25)
<あらすじ> 
 ダビデはサウル王様から逃げて、敵国のペリシテ人の国に身を寄せていた時のことです。ダビデとその部下が、住んでいた町をちょっと離れた隙に、アマレク人が町を襲って、女、子供、家財みな略奪していってしまいました。ダビデは神様に祈り、啓示を受けて、600人の部下たちと、奪われたものを取り返しに行くことになりました。

 ベソル川まで来た時、200人の部下が疲れ果てて川を渡れず、そこで荷物番をして留まることになりました。そして残りの400人でアマレク人を追撃し、そして討伐し、奪い取られた物も妻子たちも全て取り戻し、それ以外に羊や牛を戦勝品として奪って帰りました。そしてベソル川のほとりで留まっていた200人と合流します。

 そこで、(22節)「ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。『彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子供を連れていくがよい。』」という場面です。

ア)何が意地の悪さ、よこしまなのか
 働きの労苦に応じて報酬を得るのは普通の考え方のようですが、この場合、何故それは「意地悪く、よこしま」と言われたのでしょうか。

イ)ダビデの親切、慈愛の考え方
 次に、ダビデはこのように言います。
(23-24節)「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。誰が、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

 戦いに出た者たちも、疲れて荷物番をした者たちも、みんなで一つのチームだというダビデの慈しみ深い心がうかがえます。
 ダビデは、神様がどんなに慈しみ深く、親切なお方であるかを、若いころから体験していました。一介の羊飼いの少年だったダビデをイスラエルの王として選んでくださり、戦いは勝利に次ぐ勝利でここまで来ました。神様のご親切(慈愛)はいかほどであったことでしょう。

 ダビデはこの戦いが主の戦いであることを知っていました。兵士は一人も戦死せず守られました。主が戦ってくださり、主が勝利してくださったのです。この戦勝品も、「主が私たちに下さったもの」だとダビデは受け取っています。

 この戦いを自分の損得の戦いとしてとらえた兵士たちは、意地悪くよこしまな主張をしました。そして慈しみ深い神様から大きな親切を頂いていたダビデは、すべての兵士に平等に親切を施したいと思ったのです。 

 私たちも同じです。私たちも神の家族として一つの群れ、一つの神の神殿、一つのキリストのからだです。一人一人はそれぞれに仕事や奉仕は違っていても、神の国を相続するという約束は、信じる者すべてに与えられている恵みの約束です。

 罪人として神から離れていたのに、その罪を赦して、神の子として受け入れてくださり、御国を相続させようと、そこまで慈しんで親切を施してくださる神様の愛を知ったなら、私たちは神様のために生きる新たな人生を始めようと心が入れかわるのが健全な心ではないでしょうか。

 イエス様に救われた私たちは、すこしでも神様のために、神様の良き子供として成長したいという願いが起こってきているのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
御霊からの親切、いつくしみ、思いやりなど、魂に必要なものを受けているのがわかるでしょうか?

 それがわかれば、心が変わります。


【短歌】
 魂の  必要満たす  御霊の慈愛

 こころ新たに  親切ほどこす

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の寛容の働きに導かれる  up 2024.3.3


主題聖句(ピリピ4:5)
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。


 

 今年は「御霊によって歩もう」というテーマで、(ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とありますように、「御霊に歩み導かれること」をお話ししてきております。
 前回までに4つの大きなポイントがありましたが、今はその4つ目の「御霊の九つの実の導き」として、(1)愛(2)喜び(3)平安について話を進めてきたところです。少し振り返っておきましょう。

(4)御霊の九つの実の働き
(1)御霊の愛の働きに導かれる
 A.いのちを捨てる愛(ヨハネ15:13)
 B.隣人に害を与えない愛(ローマ13:10)
 C.罪を覆う愛(第1ペテロ4:8)
 この3つ愛の働きは、私たちが自分で行おうとするのは不可能な愛です。しかし、御霊様は私たちの内で、このような愛の働きを既にされています。ですから、私たちも御霊様と一緒にその3つの愛を歩んでいきたいという強い願いを持ち、御霊様の助けがあれば出来るという信頼を持って、御霊の働きに導かれる歩みを目指して頂きたいと思います。

(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 A.心を豊かにする喜び(ローマ14:17)
 B.神の子に新生した喜び(ピリピ4:4)
 御霊様が内におられるならば、心の豊かさを内側に持っています。宝物を持っているような喜びが内にあります。この喜び、豊かさ、ゆとりがあるので、私たちは、この世のことに気を取られず、生まれ変わった神の子としての歩みを一歩一歩目指していくことが出来ます。
 そしてもう一つは、御霊様が私たちを神の子として新しく生まれ変わらせてくださり、常に神の子として生まれ変えて、毎日が新鮮な新しい一日であるというそういう喜びの働きをしてくださいます。

(3)御霊の平安の働きに導かれる(ローマ8:6)
 A.御霊の平安はみこころを確信させる(ヨハネ14:27)
 B.御霊との強い結びつきからくる平安(ヨハネ14:1)
 
 平安というのは、平和、融和、安全、仲良くするように働きかけてこられる、という聖霊様の働きです。この平安は無償(恵)の罪の赦しと神の子としての新生からくる平安、安心感です。
 死は、罪のさばきへの恐れや不安を魂にもたらします。しかし、イエス様の十字架の贖いの御業によって、私たちは神様に受け入れられ、自分の存在を永遠に安心することができます。そして、イエス様を通して罪の贖いの御業を導かれた御霊様が、いま私たちの内におられるんだ、そういう安心感を聖霊様は与えてくださっておられます。
 このように、神の子として正しい方向に歩んでいくために、内なる御霊様の愛、喜び、平安の3つの働きに同調する心の姿勢を持って頂きたい。御霊様に付いていけば、私たちも同じような愛、喜び、平安を感じ、それを御霊様と共に行うことが出来るようになります。
 適用するに当たっては、いろいろな葛藤が起きます。その時には、私は新しく生まれた神の子である、ということを忘れないようにしましょう。一からやりなおしているわけですから、出来るか出来ないかが問題ではなく、スタートする(付いていく)ことが大事です。
 今日は「御霊の9つの実の働き」の4番目です。

(4)御霊の寛容の働きに導かれる
(ピリピ4:5)
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」
 主が来られるのが近い(再臨が近い)というのは、罪の裁きが行われる日が近いということですが、大事なことは主の再臨の時に、神の国が完成し、永遠の御国に入れる日が来る、ということです。
 今は一時的に教会という神の国の恵みを受けておりますが、主の再臨は、新しい天と地における神の国の実現の日です。その日が近いのですから、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」と(ピリピ4:5)には語られているのです。
 ギリシャ語の「寛容」という言葉は、「長寿(状態が長く保たれる)、つまり忍耐力、不屈の精神」という意味を表しています。
 単なる我慢ではなく、忍耐力、不屈の精神という深い動機の面もお話しして、御霊様はこのような寛容さを持って働いておられるということを皆さんに知って頂きたいと思います。

A.(第2ペテロ3:15)
「また、私たちの主の忍耐(寛容)は救いであると考えなさい。」
 「寛容」という言葉は、「忍耐」とも訳されます。いずれも、待ち望む、待ち続けるというような、心を支える強さを感じさせます。聖霊様はなぜそういう寛容や忍耐の働きを現わしておられるのでしょうか。

 主の寛容は人々の救いのため
(第2ペテロ3:9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
 神様が忍耐深くあられるのは、一人でも滅びることのないように、最後の審判の時を先に延ばして、すべての人が心を入れかえて敬虔な生活を目指すように待っておられるからです。
 この「忍耐深く」は、「寛容」と同じギリシャ語が使われています。
 「寛容」には強い願いがあります。すぐに処罰を与えないで、その状態から良くなってほしいという強い願いを持って相手にチャンスを与えようとするのが「寛容さ」です。忍耐も同じです。良くなってほしいと期待するから、痛みや辛さを忍耐して寛容さを現わし続けます。

★待ってくださる神への信仰
 神様は私たちの至らないところや失敗や罪をすぐに罰するお方ではなく、将来を期待して、私たちが良くなることを待ってくださっておられるんだという神への信仰が必要です。

★救われることへの希望
 神様は、私たちが変えられていくこと(救われること)を願ってくださっておられるので、私たちもその希望を持って進むことができます。そして、私たちが他者に対して苦味を持つような時にも、「神様があなたを待っていてくださったように、あなたもその人が良い方向に変えられていく(救われていく)のを、希望を持って待ちましょう」と、聖霊様は私たちの内で働いてくださるのです。

★滅びないようにという愛
 聖霊様は、まず私たちに対して滅びないようにという愛をもって、すぐには処罰せず、救われるように、良い方向に希望をもって歩めるように、裁きの時を延ばして待ってくださいます。そういう姿勢が御霊様の寛容の働きとして私たちの内に起こされているので、私たちも人に対して寛容を示していくことができるのです。

 まず私たちが御霊様の寛容さの中で、信仰と希望と愛を示して頂きました。御霊様の寛容さに私たちも同意して進んでいきましょう。

B.(第1テモテ1:16)
「そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」

ア)いつもあなたに寛容な神
 神様は私たちが悪いことをしたり罪を犯したり失敗をしたり神様に損失をもたらしたりしても、すぐに私たちにその損失を償わせたり罰を与えたり裁きを下す、というようなことはなさいません。
 神様は、私たちが神のかたちに似せて造られた者として前進するために、罪を犯してもやりなおすチャンス(神に立ち返るチャンス)を与えておられます。神様はいつもそのような寛容な心で私たちの未来を期待して、受け入れてくださっておられます。

イ)あきらめない期待し続ける寛容さ
 神様は私たちの未来に期待をしておられます。私たちだけでなく私たちを通して関わりのある人々にも聖霊様は寛容なお方です。ですから私たちも聖霊様に同調して周りの人々に寛容さを示していきます。
 そのためにはあきらめないことが大切です。寛容や忍耐には大きなストレスがあります。その辛さ苦しさも一緒に負うから、一緒に歩んでいこう、と聖霊様はあきらめないで期待し続ける寛容さをもって、私たちの正しい良心に働きかけてくださいます。
 取税人マタイがイエス様から「私についてきなさい」と声をかけられた時、すべてを置いて、付いていったように、私たちも内なる聖霊様についていけば、責任はイエス様がとってくださいます。
寛容であろうと自分で頑張るのではなく、御霊様の寛容の導きに合わせて付いていくことを努めて頂きたいと思います。
 
【デボーションポイント】
※御霊による寛容の導きは、将来への強い期待を持つように促してくださる。
 寛容であると余計悪くなるのではないか、と思うのは不信仰です。
内なる聖霊様を信頼しているならば、良い未来を想像して、相手の人にもまた自分に対しても寛容であるべきです。
 自分や他人の将来や可能性を、この程度だと勝手に測って決めつけてはいけません。御霊様の寛容の働きを私たちは受けているのですから、今の状態を受け入れ(赦し)、未来は良くなる、自分は変えられると信じて将来に期待して、聖霊様の導きに付いていきましょう。

※神の国を待ち望む者として御霊の寛容さに調子を合わせる。

 出来る人に調子を合わせていくと、段々しんどくなって付いていけないと感じます。それでも神の国を待ち望む者としては、諦めるわけにはいきません。付いていけないと感じても、聖霊様に信頼して調子を合わせていくのです。あきらめない限り必ず結果は付いてきます。希望をもって続けて頂きたいと思います。

【短歌】
諦めない  不屈の心が  寛容さ
 導き信じ  御霊に着いていく 

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の平安の働きに導かれる  up 2024.2.25


主題聖句(ローマ8:6)
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 

 「御霊によって歩もう」(ガラテヤ5:16〜)を今年のモットーとして、メッセージを進めてきております。

 (ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
(ガラテヤ5:25)の【意訳】「御霊によって歩む神の子である私たちは、神の子として正しい方向へと連れて行ってくださる御霊の九つの行いのままに、未来に向けて新しい人生を生きていこうではありませんか。」

 御霊によって生きるとは、御霊に導かれて生きることです。
御霊様が私たちの内に住んでくださるので、私たちは御霊様の九つの実(行い)に導かれて神の子としての人生を歩んでいくことが出来ます。
 
 御霊の九つの実(ガラテヤ5:22∼23)とは、(1)愛の働き
(2)喜びの働き(3)平安の働き(4)寛容の働き(5)親切の働き(6)善意の働き(7)誠実の働き(8)柔和の働き(9)自制の働きです。

 聖霊様はそういう九つのご性質を持っておられるので、私たちが聖霊様に調子を合わせるならば、聖霊様は私たちの内側から私たちの行動や生活の中に、この九つの実(行い)を現わしてくださるのです。

御霊の九つの実の導きについて

(1)御霊の愛の働きに導かれる
 A.いのちを捨てる愛(ヨハネ15:13)
 B.隣人に害を与えない愛(ローマ13:10)
 C.罪を覆う愛(第1ペテロ4:8)
(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 A.心を豊かにする喜び(ローマ14:17)
 B.神の子に新生した喜び(ピリピ4:4)

 以上が前回までの概要です。
 
 今日は「御霊の九つの実の導き」の3つ目、「平安の働き」を見てまいりましょう。 

【御霊の平安の働きに導かれる】
(ローマ8:6)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」

 肉の思いとは、自分の欲望を満たしたいという自己中心の思いのことで、それは神様から見ると、死んだ状態(役に立たない存在)です。しかし、御霊による思い(善意に満ちた思い)に影響を受けるなら、私たちは神様にとって役に立つ存在、いのちある状態であり、平安を内に満たすことが出来ます。
 
 ギリシャ語の「平安」という言葉には、「平和、融和、安全、仲良くするように働きかけてこられる」という意味があります。
 聖霊様の平安の働きに導かれるなら、私たちは争わず和解し和合して、共に平和を打ち建てる関係を築くことが出来るのです。

 また、聖書は「無償(恵み)の罪の赦しと神の子としての新生からくる平安」を教えています。
 私たちが神との間に和解が出来ていない時は、自己中心の思いが強く、肉の欲望を満たそうとする不敬虔のゆえに、心は平安を失っていました。

 しかし、私たちはイエス・キリストを信じて無償(恵み)の罪の赦しを頂きました。そして神の子として新生し、神様のおことばを聞いて自由意志で良い行いに歩むことが出来るようになりました。また良い行いには、天に良い報いが用意されています。私たちは感謝と喜びと平安の内を歩むことができるのです。

A.(ヨハネ14:27)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」

 私たちに与えてくださるという「イエス様の平安」とは、どういうものでしょうか。世が与える平安とは違うと言われています。イエス様は、周りがどんなに変化しても、周りの人が何を言っても、心を騒がせず、ずっと安定しておられました。それは父なる神様を信じ切っておられたからです。
 
 アブラハムも百歳でやっと授かった約束の子イサクを、いけにえとして神様に捧げなさいという神様からの命令に、迷うことなく、イサクを連れて山に上って行きました。たとえ息子が死んでも、神様はご自分の約束のゆえに、息子をよみがえらせてくださる、という信仰をもってアブラハムは神を信じ抜いたのです。
 
 イサクはどうでしょう。まきの上に寝かされ、ナイフを振りかざす父を見ても逃げることなく身を委ねていました。イサクも、神様を信じる父アブラハムを信じ切っていたと思われます。
 
 信頼が、恐怖や不安・疑いから心を開放して、平安をもたらします。平安は強い信頼の現れです。平安の実を持っておられる聖霊様が、父なる神様と御子イエス様に絶大な信頼を持って事を行われるのなら、私も聖霊様を信頼しますと、聖霊様に調子を合わせることが大事です。そうすれば、私たちの感情も安定し、心は御霊様の平安に満たされることでしょう。

 全能の神様を信じ切ることからくる平安を、皆さんも体験してみてはいかがでしょうか。

世が与える平安との違いは、神からの違反行為の責めがないということです。
(第2コリ5:19)
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです。」

 私たちと神様との間の和解は、イエス様の十字架の贖いによって成就しています。神様は赦してくださっていますから、私たちはもはや神様から責められることはありません。

B.(ヨハネ14:1)
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 御霊の平安の働きの影響を受けるために大事なことは、神を信じ、イエス様を信じることです。信じないから、心が騒ぐのです。
 私たちが御父、御子、御霊を信じ切ることの出来る根拠は、十字架で死なれたイエス・キリストの歴史的事実、そして使徒たちによるキリストの復活の証言です。

(へブル11:6)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 キリストによって罪の隔てがなくなって、神からの和睦と融和が成し遂げられれたことを堅く信じることにより、私たちは御霊の平安に満たされていくことができます。
 
【デボーションポイント】

 御霊による神の愛に触れて、私たちの存在を受け入れてくださっていることを喜び、無償の罪の赦しを与えてくださった神を信じることによって、御霊の平安に満たされる。

【短歌】
    
平安は  神との融和の  証なり
 御霊はつねに  平和を築く

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の喜びに導かれる  up 2024.2.18


主題聖句(ローマ14:17)
神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。


 

A.ローマ14:17
「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

御霊の喜びは、陽気であり穏やかな幸福感で心を豊かにする。

 永遠の世界である神の国では、飲み食いが中心ではありません。飲み食いしないでも死なない身体になるからです。
 そしてここでは、聖霊による喜びが満ちています。この喜びは何かを得たからとか何かをしたからではなく、存在自体が喜びなのです。
 心が豊かになるので、何もしなくても存在そのものを喜ぶことができるのです。これが御霊の喜びです。
 私たちは肉体を去っても神の国に行けるという約束があり、望みがあります。ですから、お互いに平和を作っていくことを最も大切なこととし、隣人を愛することを一番に求めていくことができます。
 神の国に争いはありません。神の義によって支配されているからです。そしてそこでは、あらゆる喜びを満喫できるのです。

B.ピリピ4:4
「いつも主(御霊)にあって喜びなさい。もう一度言います。
喜びなさい。」
 
 神の子として新しく生まれたのですから、御霊があなたを陽気にし、幸せで豊かな心にしてくださいます。
 罪人であった者が神の子として生まれ変わったとは、天と地の差があります。その大きな差に気づきましょう。この特権が与えられているということは、驚くような事です。
 例えば、王の子であったなら、例え失敗をしたとしても、王子だからと許されるでしょう。私たちも神の子という特権が与えられているのですから、未熟さが残っていても許されるのです。
 その特権は、イエス・キリストの十字架によって許され、与えられたものです。ですから許されている間、この地上で生きている間に、御霊によって正しい方向に導かれていくことを求めていきましょう。
 そのように神の子として与えられている人生を歩めるということは、本当に素晴らしいことであり、喜べることではないでしょうか。罪人から神の子とされたこの喜びは永遠に変わらないものです。
 しかし、クリスチャンとなった私たちは本当に神の子としての人生を歩むことを願っているでしょうか。
 この特権は、良い神の子として成長していくために与えられたものです。堕落するためではありません。いつまでも神の子として歩もうとせず、特権だけを使っていたら、その特権はいずれ奪われてしまいます。

 今日、神の子としての人生を歩み続けたいと願いましょう。願いを持つことは大切です。
 この願いが弱いと、肉の欲を満足させて生きることに心が向いてしまいます。神の子の人生がいかにすばらしいかを考えてみましょう。
 王政の中で、いい王様に支配され、公正な裁き、敵国からの守り、豊かさが与えられていたら、国民はどんなに幸せでしょうか。
 私たちはそういう神の国に今生きています。教会は神の国の表れであり、クリスチャン同士は神の家族です。神のルールと秩序が守られる所です。
 この教会で、私たちはお互いに尊重し合い、神の国を守り保つように心を向けていく必要があります。
 その中で、自己主張ばかりして自分が王様になり、自分の国を作ろうとしないでください。
 列王記、歴代誌に何人ものイスラエルの王がでてきます。これをよく読んで教訓とし、学ぶことが必要です。悪い王様に習わないようにしましょう。
 救い主であるキリストが神の国の王です。これ以上の素晴らしさ、喜びはありません。

【デボーションポイント】
御霊の喜びに導かれるためには、罪人の人生から神の子の人生へと新しく生まれ変わったことを信じなければなりません。
 この喜びを実感していくことが大切です。私たちは子としてくださる御霊を受けたのです。
(ガラテヤ4:6)
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 イエス様を信じている私たちは神の子の御霊を受けることができます。そして、アバ、父よと呼ぶことができるのです。
 この大きな神の愛と憐れみを無駄にしないようにしましょう。
神様は神の家族として、私たちが永遠の神のご計画を共に担うことを願ってくださっています。
 永遠の世界に向けて、全宇宙、全存在をかけて、未来の計画を果たすために共に歩んでいこうと、神様は願ってくださっています。これ以上の特権はありません。
 そのために、御霊があなた自身を新しく作り変えてくださるのです。作り変えられていくことを喜びましょう。
 この喜びがあなたの内にますます湧きあっがってくるのが、成長したクリスチャンです。喜びは成長するほど、後からついてきます。
 年数とともに喜びが消えていくのは、本物ではありません。最初の喜びがだんだん薄くなっていると感じられるなら、本当に御霊に導かれて歩んでいるかどうかを確認してください。 
 クリスチャン生活の喜びより、この世の喜びのほうに心が向いているなら、罪の誘惑に陥りやすくなります。
 御霊に導かれる喜びをもっと味わってください。そうすれば、誘惑してくるこの世の欲に打ち勝つことができるようになります。
 喜びは本当に大切です。パウロはそれゆえ何度も「喜びなさい」と励ましています。
 神の子として作り変えられた喜び、新生の喜びを忘れないようにしましょう。
 いつも作り変えてくださる御霊に導かれていくなら、いつも喜んでいることができるようになります。

【短歌】

喜びは 神の子として 新しく 

生まれ変わった 御霊の働き

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月11日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

御霊に属する  up 2024.2.11


主題聖句(ローマ8:5)
肉に従う者は肉に屬することを考えますが、御霊に従う者は御霊に屬することを考えます。


 

 イエス様が復活されて天に帰られた後、ペテロたち使徒を中心にクリスチャンは増え広がりました。そのほとんどはユダヤ人でした。

 ユダヤ人は、旧約聖書の律法を重んじ、神様への信仰も生活に根付いていたので、イエス様を救い主と信じても、これまでの習慣や価値観からの完全な脱却に葛藤していたと思われます。

 特に、異邦人がクリスチャンとなること、その異邦人たちが割礼を代表とする律法をどこまで守らせるか、ユダヤ人クリスチャンの中で長い間大きな争点となりました。

 律法主義のクリスチャンたちは、異邦人クリスチャンに、まずユダヤ律法の習慣にならって割礼を受けることを求めました。異邦人クリスチャンは、知識の土台が無いので、そんなもんだと受け入れていたようです。

これらの間違った教えを厳しく反対したのがパウロでした。イエス様を信じ、新しくされた者は、御霊に従う生き方をし、人種は重要ではなく、御霊に属することが重要であると教えています。

(ガラテヤ2:20)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 この地上での力と希望は、イエス様の死と復活を信じて義人とされたことによります。義人であるからこそ行いにも表れるのであって、行いによって義人とされるという間違った教えに窓わされないように気をつけましょう。

(エペソ1:14)
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

 さらに、御霊に属する者は、御国の相続人であることも意味します。罪人が救われて御国を相続するというシンデレラストーリーは、宇宙万物において神様の栄光がほめたたえられる出来事なのです。その当事者であることを心から感謝します。

 御霊によって歩む人は、御霊に従い、御霊に属することを考えることに努めます。イエス様の十字架の贖いによって、神の子とされていることをいつも意識し、古い習慣に引き戻されることなく、日々新しくされる歩みを目指しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の愛の行い  up 2024.2.4


主題聖句(ヨハネ15:13)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。


 

 前回、御霊の実について、それは私たちの行いではなく、御霊の行い(働き)であることをお話いたしました。私たちの内に御霊がおられるならば、そして、私たちが御霊に導かれているならば、御霊の9つの実(行い)が私たちの内側から見えるかたちで現れてくるというお話でした。

 今日は、御霊の9つの実の最初に書かれてある「愛」について、「御霊の愛の行い」というテーマで、3つのみことばからお話ししていきたいと思います。

【御霊の愛の行い】
1.(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

※友のためにいのちを捨てる愛を願っていますか?
 
 御霊様はいつも「友のためにいのちを捨てる」という愛のお働きをしたいと願っておられます。内側におられる御霊様のそのような愛の行いが、私たちの生活の中に現れるためには、私たちがそのような愛を持ちたいと、心から真剣に願っていることが大切です。

 「友」とはどういう関係の人でしょうか。心が通じ合い、理解し合い、信頼し合い、助け合い、慰め合い励まし合う、そのように心がつながっている関係の人を、イエス様は「友」と呼ばれています。

 皆さんはそのような友をお持ちでしょうか。その友のために、いのちを捨てることが出来るでしょうか。自己中心の心では難しいことです。しかし、難しいから、出来ないから、と言ってあきらめるのではなく、それでも、友のためにいのちを捨てるような愛を、自分の内に満たしたいという「願い」が持てるかどうかなのです。

 私たちの内におられる御霊様は、友のためにいのちを捨てることが出来る愛を持っておられるお方です。そして私たちの新しく生まれ変わった神の子としての霊は、御霊様と同じ思いを持ちたい筈なのです。なぜなら、神の子は御霊に導かれているからです。

 皆さんが、神の子として成長していくことを願っているのなら、友のためにいのちを捨てることの出来る愛(御霊の愛の行い)を現わしていけるクリスチャン人生でありたいと、心から真剣に願い求めて頂きたい、これが今日の一つ目のポイントです。

2.(ローマ13:10)
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

※律法を全うする愛を願っていますか?
 
 御霊様は隣人に対して害を与えません。私たちは自分の益を優先して求めて行くと、隣人に対して害をもたらすことがあります。しかし、それに気付いたなら、隣人のためにすぐ止めれば良いのです。それが聖霊様の愛の行い(働き)です。

 イエス様は、律法の中で一番大事な戒めは、神様を愛することであり、それと同じように大切なのは、隣人をあなた自身のように愛することであると、仰っておられます。
 
 パウロは、隣人を愛すること、この一事で律法は全うされると、語っています。隣人を愛することは神を愛することにつながり、神を愛するなら、隣人を害するようなことはしません。

 悪口や、感情的に言い返すなど、隣人を害することにつながる言動行動は、気づいたらすぐ謝罪して改め、害を与えてしまったら償いを添えて謝罪を表していく、それが害を与えない愛の実践となります。

 律法(神様のおこころ)を全うするために、隣人に対して害を与えないという気持ちを持ちながら、交わりを進めていただきたいと思います。

 隣人に対して害を与えないという、律法を(神様のみこころを)全うする愛を、内側に持ちたいと願っていますか?聖霊様はその愛を持っておられます。私たちもその愛を持ちたいと祈り願って、聖霊様に心を合わせて、共に歩ませて頂きましょう。

3.(第1ペテロ4:8)
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

※他の人の罪をおおう愛を願っていますか?
 
 「おおう」というのは、他の人の罪を見つからないように隠してあげるというような意味ではありません。罪からくる損失やさばきを共に受けて、少しでもその人の罪が軽減されるように、という意味合いです。イエス様はご自分の死をもって私たちの罪を覆ってくださいました。

 愛する者のためにその罪を覆う(身代わりに、または共に、その罪の裁きや損失を補う)そのような愛を持ちたいと願うことをお勧めいたします。

 御霊様の3つの大きな愛を紹介いたしました。

 3つのみことばから、御霊様の愛の行いに関心を持って、私もそのような愛を御霊様とともに持ちたい、という願いをぜひとも持って頂きたいと思います。

 人は皆罪人であって、罪の性質を肉体に宿している者です。

 しかし、私たちは、神の御霊を頂いて神の子として新しく生まれ変わった者です。神の子の性質として、御霊の御性質である9つの愛の実、行いの力を内側にいただいておりますから、それを輝かせていくということが、神の子としての生きる道なのです。

 今日のメッセージを通して、この3つのポイントが、難しくて出来ないからあきらめる、やる気が出ない、したいとも思わないとしたら、自分のクリスチャン生活は肉の欲望を満たす方向に傾いていないか、折角神の子として造り変えられたのに、いつのまにか肉の欲を満たすことに心を奪われてきていないか、内側を吟味する必要があるでしょう。

 では、神の子はなぜ、そんなに愛することを願い求めることが出来るのでしょうか。

 神様は罪人である私たちを友と見てくださって、友として信頼してくださり、友として心を開いてくださって、イエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、私たちが受けなくてはならない苦しみと死を身代わりに受けてくださいました。私たちはそれほどに愛されたのです。

 愛されたとしても、「ああ、よかった、赦された」と軽く損得勘定で受け止めたのでは、神様の愛に触れることはできません。愛の関係も信頼の関係も出来ません。人のために多くの罪を覆うという愛が湧き上がってくることもありません。

 いのちを捨ててくださった愛、十字架で身代わりに罰を受けて、私たちの罪を覆ってくださった愛、私たちはそのような愛で愛されている者です。その神様の愛に触れて、感謝にあふれたら、その愛を自分も他の人に現わしていきたいと、真剣に願うのは神の子として自然な当然のことではありませんか。

 たとえ未熟な神の子であっても、私たちの内には助け主聖霊様がおられますから、祈ってチャレンジしていくことが出来ます。聖霊様は示しを与えて、成長させてくださいます。

【デボーションポイント】

(1)御霊の愛の行いに同調する願いを持つ

(2)その願いを動機として、信仰を働かせる
 御霊様の愛の行いを共にしていきたい、その願いが強ければ強いほど、神様が必ず応えて助けを与えてくださるという期待と信仰が強く働きます。神様はそれを喜ばれます。信仰が弱いというのは、願いが弱いということです。

※「愛を追い求めなさい」(第1コリント14:1)

 自分の思い通りにしてくれる愛を追い求めるのではなく、御霊様の良い働きのために私も一緒にしたい、神様のみこころを実現していきたい、という神の子としての愛を追い求めていきましょう。


【俳句】

愛の実に  調子を合わせ  進みゆく

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

律法に勝る御霊による歩み  up 2024.1.28


主題聖句(ガラテヤ5:18)
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。


 

 ガラテヤ人への手紙が書かれた初代教会の時代で、最も急を要した議論は、新しく救われた異邦人とユダヤ律法の関係があったようです。御霊によって歩む人は、律法の下にはいないとあります。

 ここで言う律法とは、モーセの律法を指しています。十戒を中心に、旧約聖書に書かれている神が定めた規定を、イエス様の時代のユダヤ人の指導者たちは遵守してきました。

 中でも”割礼”は、見える形でユダヤ人としての選民の印でもあったので、異邦人に対しても割礼を施すべきという主張があったようです。

 この時代、イエス様は言葉と行動によって律法の役割を示されました。すなわち、律法は救いの必要性を指摘するのに役立つが、それを守ることイコール救いではない、ということなのです。

(ガラテヤ3:24)
律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

 では、律法をおろそかにしていいのでしょうか。そんなことはありません。律法を疎かにすると人は必ず放縦の道に行くからです。
 
 ガラテヤ5:19〜23では、肉のわざと御霊の実が書かれており、私たちにとって有益なのは当然、御霊の実です。肉のわざは神の国を相続できません。そして、御霊の実に反対する律法もありません。

 このことから、御霊による歩みは、律法を守る歩みと同等以上を意味し、さらに神の国を相続する道を歩むことができるのです。
 
 律法を送られた神は、御霊も送られたので、御霊に満たされた人生は、神の律法の意図に完全に調和しているということになるのです。

 御霊による歩みには、罪と、律法に従うことによって義とされるという試みから解放される真の自由があります。

 御霊の実を表す人は、律法を行いながらも心の中に愛がない人よりもしっかりと、律法に従うことができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の子は御霊に導かれている  up 2024.1.21


主題聖句(ローマ8:14)
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。


 

 元旦からの復習をいたしましょう。

 ≪御霊によって歩もう≫(ガラテヤ5:16)
 去年のテーマの「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」という敬虔な歩みは、御霊によって歩むことで実現いたします。そこで今年は「御霊によって歩もう」というテーマのもとにお話をしてきております。

 私たちは、神に救われ神に愛されている者として、自分の力で努力してしまいがちですが、クリスチャンとして大切なことは、神様がしてくださる、神様が約束を守ってくださると、神様を信じる努力をすることです。そうすると、内なる聖霊様が私たちを助け、神の約束通りのクリスチャン生活へと導いてくださいます。

 この御霊様は、私たちの助け主として、イエス様が送ってくださると約束してくださったお方です。私たちの目には見えませんが、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(へブル書11:1)」とありますように、私たちはしっかり信仰を働かせて、御霊によって歩む信仰の歩みを進めてまいりたいと思います。

≪御霊との良い関係を築く≫(使徒2:37-38)
A)御霊を賜物として受け入れる
 神様が一方的にプレゼントとして送ってくださる御霊を、私たちは唯々感謝して受け入れることから、御霊との良い関係が始まります。そのバプテスマを受ける時の決意が、神への誓いという強い決意であればあるほど、御霊様は私たちの内に臨在を豊かに現わしてくださいます。
 そして私たちは以前の自分の思いとは違う別の聖い思い(正義や善など)に関心を持つようになります。それは御霊の働きであり、私たちの内に神の御霊がおられることの一つのしるしとなります。

 「誓い」という言葉は、神様への純粋な信頼のこころを約束する強い決意を表す言葉です。黙示録では、それを「初めの愛」と表現されています。

B)御霊を悲しませないために(ローマ12:2)
 御霊との良い関係を続けていくために、聖霊様を悲しませない、それは、この世と調子を合わせないこと、というお話しを致しました。昨日までの自分は無いものとして心を一新させて、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえて、御霊に調子を合わせるように致します。

 御霊様も、私たちの至らない部分に助けを与えて、私たちの歩みにペースを合わせてくださいますから、互いに調子を合わせて、ともに歩む良い関係が築かれます。

≪御霊によって歩むとは、新しく生まれた人生のこと≫
                   (ヨハネ3:5)
 洗礼を受け、賜物として聖霊を迎え入れたなら、神の国に生まれた者として、敬虔な新しい人生を歩み始めたのです。

A)神によって生まれた(ヨハネ1:12-13)
※神によって新しく生まれるとは、神の子として新しく生まれることです。

 人はみな罪を犯して死刑が確定している罪人です。憐れみ深い神様は、ご自分のかたちに似せて造られた者たちが罪人としてみな滅んでいくのを放っておくことは出来ません。

 罪人の罪を処分するため、神ご自身が人となって地上に来られたのが、救い主イエス・キリストです。イエス様はすべての人々の罪を肩代わりして、十字架で死んでくださり、罪人の罪を帳消しにするという救いを実現なさいました。

 このイエス・キリストを信じる者は、新しく人生をやり直すことが出来ます。それは新しく生まれるということですが、その条件は一つだけ、神の子として生まれることです。

 私たち罪人はイエス様を信じて神の子として新しく生まれ変わることを選ぶのか、罪人として裁かれて死ぬことを選ぶのか、そのどちらかなのです。

B)新しく生まれた時の御霊の働き(へブル9:14)
 賜物としてお迎えした御霊様は、新しくなったあなたの心に、最初にどんな働きをされるのでしょうか。

 (へブル9:14)には、「死んだ行い(不敬虔な歩み)から離れさせる」「神に仕えるものとする(神様に喜ばれることをしたい)」という2つのことが書かれてあります。それは、良心をきよめられたしるしとして、変化として現れてくるものです。
 以上が今までの復習です。
 
 今日は「神の子は御霊に導かれれている」と題してお話し致します。
【神の子は御霊に導かれている】
(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 水と御霊によって新しく神の国に生まれた神の子は、残りの人生を神の御霊に導かれて歩みます。

※導かれるとは、正しい方向に連れていかれること
 神の御霊は神の子を神を畏れる敬虔な生活の方へと連れて行かれます。あなたのクリスチャン生活を、信じる前と信じた時とそして今とを比較してみると、良い変化が生まれているのではありませんか。

【御霊によって歩む神の子】
(ガラテヤ5:25)
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

 「御霊によって歩む神の子」と「御霊に導かれる神の子」の違いは何でしょうか。「導く」とは、「連れていく」ということです。御霊様は神の子を正しい方向に連れていってくださいます。連れて行かれる神の子は、従順で自発的で素直に導かれていきます。

※御霊によって生きるとは御霊の働きに導かれること
 御霊の働きは、私たちの良心をまず最初にきよめて、そして私たちが神の国を相続する方向へと私たちを導いてくださる働きです。
 私たちが御霊によって生きるとは、そういう御霊様の働きかけをいただきながら、御霊様に導かれて進んでいくことではないでしょうか。
【デボーションポイント】
(ガラテヤ5:19-24)
「肉の行いは明白であって、次のような者です。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

 肉の行いと御霊の実(御霊の行い)が対照的に記されています。
御霊の実(9つの行い)は、聖霊様を私たちの内に迎え入れた時から、聖霊様と一緒に私たちの内に宿っておられます。

 御霊の働きを邪魔するような心の持ち方や考え方を私たちが止めれば、御霊様は内側から9つの行いを外に現わしてくださり実を見せてくださいます。御霊の9つの実(行い)は、私たちの働きではなく御霊様の働きなのです。神の子として生まれ、聖霊様を迎え入れているのに、9つの素晴らしい「徳」と言われる実が現れてこないというのは、勿体ないことです。

 まずは、神の子として新しく生きる時に、聖霊様が内側から御霊の実を現わしてくださるような神の子としての人生を選び取っていきましょう。それが御霊によって歩むクリスチャン生活であり、それが御霊の導きにつながっていくのです。

※御霊の働きと肉の行いのどちらに調子を合わせるのでしょう。
 
 神の子として心に割礼を受けることについて考察する!

 この前半部分は、信じて間もない方々や信じて数年の方々のためのデボーションポイントです。御霊の働きに調子を合わせるとは、具体的にどういうことか、新約聖書を読んで学びましょう。

 そして、この後半部分はクリスチャン生活を長く続けておられる方々のためのデボーションポイントです。心に割礼を受けるとはどういうことか、調べてみましょう。

【短歌】
御霊の実  神の子に見る  確かな証し
天の御国へ  向かって歩む

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊によって歩むとは新しく生まれた人生である  up 2024.1.14


主題聖句(ヨハネ3:5)
イエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」


 

 昨年のテーマは「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」でした。これは敬虔なクリスチャン生活を意味しています。皆さんもチャレンジしてこられて、なかなか難しいと思われたかもしれません。
 私たちの意志や品性だけでは限界があります。罪に対して私たちは弱い者です。罪に打ち勝つことが出来るのはイエス様と共に歩む者です。そのイエス様の御霊が私たちの内に住んでくださって、私たちが御霊様と共に歩むとき、この敬虔な生活を実現することが出来るのです。

 そこで今年のモットーは「御霊によって歩もう」です。主題成句の(ガラテヤ5:16)に、肉の欲望を満足させることよりも、御霊によって歩むことを優先させなさい、とパウロ先生が勧めておられます。
 御霊によって歩むためには御霊との関係が大切です。このことは先週11日のリバイバル集会でお語りしたこととつながりますので、最初にそのメッセージを簡単に説明しておきましょう。

A)御霊を賜物として受け入れる(使徒2:37-38)
「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
 御霊によって歩むためには、御霊との最初の関係が大切です。これがしっかりなされていないと、ご利益的な祈りや信仰に傾いていく可能性があります。御霊様は私たちの良心に語りかけ、示しを与えて、人生の全般に良い関わりを持ってくださるお方です。それを無視して自分の願望欲望を優先させていると、永遠のいのちから逸れていってしまいます。
 ですから、最初の悔い改めをしっかりし、洗礼を受ける時の神への信仰の決意を強くし、そして、行いによって聖霊様を迎えるのではなく、上からのプレゼントとして感謝して、お出でくださいというへりくだった心で聖霊様を受け止める、そういうことが出来ていれば、その後のクリスチャン生活がとても楽になります。信じることによって神様に義とされて、御霊を迎えることが出来るからです。

※受洗の時の正しい良心による神への誓いから逸れていませんか?
 
 私たちは洗礼を受ける時に、「神様を信じる決意は永遠に変わりません。救い主イエス・キリストを信じて歩みます」という正しい良心による神への誓いを致しました。今、その誓いから逸れていないかどうか、よく吟味して、正しい良心をしっかり保って頂きたいと思います。

B)御霊を悲しませないために
(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。」
 私たちは最初の悔い改めの時に、神に対する心の姿勢を一新させました。しかしその後のクリスチャン生活においても、私たちはこの世の影響を受けてしまいますから、そこでも心を一新させて神様の方に合わせていく必要があります。
 そうでないと、段々と微妙にずれていって、年数がたつと大きく的から外れて、この世と調子を合わせるようになってしまいます。それでは神様が悲しまれます。
 
 せっかく神様の方から罪人である私たちに手を差し伸べてくださったのですから、神様との良い関係を続けていくためにも、この世と調子を合わせず、御霊様に合わせて心を一新しつつ、御霊によって歩み続ける人生でありたいと思います。(以上、リバイバル集会メッセージより)

【御霊によって歩むとは、新しく生まれた人生である】
(ヨハネ3:5)
「イエスは言われた。『まことに、まことに、あなた方に告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」

A)神によって生まれた
(ヨハネ1:12-13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 
 御国に神の子として生まれるのは神のわざですが、新しく生まれることを選ぶのはその人自身です。救いは神様からの一方的なお働きですが、その救いを受け取るか受け取らないかは、その人の自由意志によります。

 他のものへの生まれ変わりはありません。新しく生まれ変わって神の子として歩むこと、それが、聖書における神様のご計画です。それを、人は選び取ることが出来るのです

※キリストの福音を聞いて判断できるように全ては完成している

 キリストは私たちの罪を十字架で身代わりに負ってくださり、私たちが罪のために滅びることなく、罪赦された神の子として永遠の神の国に入ることが出来る救いを完成してくださいました。
 何か行いが認められたから神の子として生まれ変われるのではありません。行いがなくても、信じたら神の子として生まれ変われるのです。結果は後からついてくることを神様はご存知なのです。
 神様は、罪人でも救われることが出来るように、良い結果を出せるように、イエス・キリストの救いを完成させておられます。その福音を聞いて私たちはますます神の子として歩む決意を強めていけるのです。
 クリスチャン生活も長いと疲れることがあります。成長もこの程度でいいわと自分で決めたりします。しかし、神様は私たちが絶対100点がとれるようにと導いてくださっています。だから御霊によって歩むことを勧めておられるのです。
 自分が今何を求め望んでいるのか、この世と調子を合わせたいのか、神の子として生まれるという道を選ぶのか、あなた次第です。あなたが本心からキリストの救い(福音)を望み、選ぶなら、あなたの内におられる聖霊様が、あなたを導き助けてくださいます。

B)内におられる御霊の働き
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷の無いご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

 旧約聖書では、神様はイスラエルに対して割礼を求められました。この割礼と、御霊様が私たちの内に来られて良心をきよめる、ということとは繋がっています。割礼は外側に見えるしるしですが、神様は「心の割礼」を受けなさいとイスラエルに勧めておられます。心の変化です。神を畏れるという良心のきよめを受けなさい、これが神様がイスラエルに求めておられた割礼の本来の意味です。

 御霊によって歩むためには、御霊様による良心の清めが必要です。良心が清められないと、肉に従う良心で物事を判断するので、自分の経験や能力によって歩むクリスチャン人生になります。イエス様は、御霊によって生まれなければ神の国に入れないと言われています。そうならないために、神の子として御霊によって歩むということを優先して頂きたいのです。

※神によって生まれた新しい人生は、御霊によって良心がきよめられる。

 まず良心がきよめられていくという聖霊様からの働きかけを、ぜひ受け入れていってください。それは新生体験とも言います。信じてすぐに180度変わる人もいれば、何年もかかって良心のきよめが進められる人もいます。いずれにしても、あなたの内におられる聖霊様は あなたの良心をきよめて敬虔な歩みが出来るように整えていってくださいます。これが御霊によって歩む最初の部分です。 

 きよめられたしるしは、悪を離れ、神に仕える敬虔な人生を生きるという方向にあなたの人生が変わっていくことです。それは難しい、と思うようなことでも、あなたの良心が御霊によってきよめられれば、神の子として自然に出来るようになります。

 クリスチャン生活の中で、福音を一度に全部、完全に理解できるということはありません。福音は信仰生活の中で開かれていくものです。悟らされていくものです。信仰生活の中で、福音(神の愛)の、広さ高さ深さ長さが見えてくるものです。そしてイエス様の救いに感動していく、それが年数を重ねていくクリスチャンの信仰生活です。

【デボーションポイント】
※キリストを信じ受け入れた私たちは、御霊によって良心がきよめられ新しく生まれた神の子として生きるのです。
 今日のメッセージを深く黙想しながら、今の自分を正しく受け止めて、神を信頼して、御霊によって歩むということを学んで行き、クリスチャン生活を前進させていってください。

(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 神の子は、御霊に導かれて歩みます。

【短歌】
神の子と  された新生  一歩づつ
 御霊によりて  天の御国へ

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月7日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

教会の徳を高める  up 2024.1.7


主題聖句(第1コリント14:26)
それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。


 

 元旦礼拝でも発表がありましたが、今年の教会のモットーは「御霊によって歩む」(ガラテヤ5:16)になります。御霊がテーマとなっているので、今年のどこかで必ず触れられるであろう、御霊の賜物について、特に異言と預言の賜物については、私たちはもう一度学び、チャレンジしていくこととなるでしょう。
 
 主はなぜ御霊の賜物を人に与えられたのでしょう。それは、次のみ言葉から見てきましょう。

(1コリント14:26)
「それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」
  
 1コリント14章では、御霊の賜物、中でも異言と預言についてパウロが細かく教えています。特に人が集まる集会中での御霊の賜物の働かせ方について言及している箇所です。それらは全て、成長に役立てるためにしなさい。と語っています。

 この訳は、新改訳2017バージョンの訳で、一つ前では、”徳を高めるためにしなさい”となっています。この対象は、教会を指しています。ですから、教会の成長のために、または教会の徳を高めるためにしなさい、と語られているのです。

 私は常々、自分たちの教会が魅力あふれる教会であることを望んでいますし、そのために献身し奉仕しています。それが神様の望まれることだと信じているからです。

 10年以上前に、この教会に神様が、広島エルサレムプランという壮大なビジョンを与えてくださいました。その中の、神の魅力あふれる教会という響きに心惹かれ、それは今でも自分の中で強く残っています。

 2024年は御霊によって歩むことを意識する一年となっていきますが、それを自分だけに留めるのではなく、教会の成長のために御霊に促されて歩む一年を目指してほしいと願います。今年の目標をすでに掲げておられると思います。

 是非、教会での目標も加えていただければと思います。頭をキリストとしたとき、体は私たち一人一人の集合体である教会です。私たち個人が成長するのは、教会が成長するためなのです。教会の成長を意識する一年としていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月1日 元旦礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔を鍛錬する者にとってふさわしい時代となる  up 2024.1.1


主題聖句(第2テモテ3:1〜5)
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」


 

 

 終わりの時代はクリスチャンにとって、さらに敬虔さを鍛えられるようになります。
 
 困難な時代にはどういう人々が増えてくるのでしょうか。この19個の中のひとつでも該当しないという人はいないでしょう。クリスチャンはこういった自分の心の状態に良心の痛みを感じますが、こういう状態が全く悪いことだと思いもしない人々が出てきます。しかもそういう人々がキリストの再臨の前に世の中に増えていくのです。
 
 正しい事を行っている人も、こういう人々が罰を受けないでいるのを見て、馬鹿らしくなっていきます。
 世の中はさらに悪くなっていくと、二千年前にすでにパウロは弟子たちに語っています。
 
 今の日本人は危機感が非常に少ないと言われています。その例として、今問題となっている安芸高田市の市長と議会の対立が挙げられます。
 
 クリスチャンも危機感を持たず、このままこの世の流れに流されていってしまったら救われません。最低限、クリスチャンとしての生き方を維持していないとだめです。 
 
 「この世と調子を合わせてはならない」とみことばにあるように、優先順位を間違ってはいけないとパウロは何度も手紙に書いています。

 神のあわれみである恵みをいたずらに受けてはいけません。神への敬虔な心をもって生きましょう。
 さらに昨年の目標であった「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」に努めるために今年は新たに目標をあげます。

 〜敬虔な人生を可能としてくださるのが御霊〜
 
 昨年語ってきた敬虔に生きるということを、皆さんは努力ではどうにもならないと悟ってこられたのではないでしょうか。
だからこそ、御霊によって歩むことが必要となるのです。
 御霊に導かれ、みことばから語られることを優先して歩みましょう。
(ヨハネ14:16〜17)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

 御霊は人格者ですが、「お与えになります」とある理由は、無償のプレゼントとして助け主をお与えになるということです。
御霊によって歩むために、神と共に生きるように意識することから始めましょう!
 
 意識しなかったら、共におられないと勘違いすることになります。相手を意識せず生活していたら、夫婦でもお互いを深く知ることもなくなります。
 
 イエス様のもうひとつの呼び名は「インマヌエル」神が私たちと共におられるという意味です。
 せっかく神様が共にいてくださるのに、他のものに気を取られてしまい、神を意識しないでいたら本当にもったいないことです。しかし神様よりも私たちの心を誘惑するような欲求を刺激する誘惑がこの世には沢山あります。
 
 イエス様を迎えたラザロの家で、マルタは給仕で大忙しなのに、妹のマリヤはただイエス様のそばでその話しに耳を傾けていました。マルタは苛立ち、イエス様に妹マリヤを叱ってくださるようお願いしましたが、イエス様は。「なくてはならないものはただひとつです。彼女はその良い方を選んだのです。」と言われました。

 それは神への信仰であり、みことばを聞き、読むことです。
そしてみことばを聞くには「敬虔さ」が土台としてなければなりません。この敬虔さこそが「なくてはならないもの」なのです。

(箴言3:6)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
 主を認めるとは主を畏れ敬うことです。例え世の中の人からは批判されたとしても神の前には喜ばれることです。
 
 そういう敬虔な歩みをしていれば、あなたの行くどんな道でも、家庭でも職場でもどこでも、神はあなたとともにおられ、神を意識すれば、神の前にまっすぐな道を歩むことができます。
            
【俳句】
困難な 時代の中で あきらめず 
御霊によって 敬虔に生きる

2024年のテーマ
善に親しむ楽しさ きよめられる幸せのために
【御霊によって歩もう】
(ガラテヤ5:16)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
 
 敬虔な心を悩ませるのは、肉の欲望です。それは貪欲という不健全な欲望のことです。

 肉体を維持するためには健全な欲望は必要です。しかし健全さを失い満足を追い求めるようになっていくと貪欲になっていきます。その欲望をコントロールさせていただくために必要なのが御霊の導きです。今年はこのことを学んでいきます。