■2024年11月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

新しい人を着る歩み【4】  up 2024.11.17


主題聖句(ヘブル5:7)
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。



 

 

 

 

 

 

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■2024年11月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

新しい人を着る歩み【3】  up 2024.11.10


主題聖句(黙示録3:18)
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。



 今日の中心のメッセージは「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい」という部分です。

〈前回までのメッセージのポイント〉
●御霊によって歩む→新しい人を着る歩み→キリストを着る
●キリストを着るとは、主権者の服を着せられること

〈今日のメッセージのポイント〉
●主権者の服は、裸をおおう白い衣

【みことば川柳】
キリストは 裸をおおう 白い衣

 恥と裸は関係が深いものです。白い衣とは汚れていない、きよい、義を表します。

Ⅰ.『裸』と『恥』
①(創世記2:25)
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」
 
 裸を恥ずかしいと思わない時期がありました。それは、エデンの園にいた時です。

【デボーション】
 『恥ずかしい』とは、青ざめる、失望する、困惑するという意味合いがヘブル語にあります。
 
 善悪の知識の木から取って食べる以前は、『裸』が恥ずかしいとおもわなかったのはなぜだと思いますか?

②(創世記3:7)
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

【デボーション】
 目が開かれて、自分たちの裸を隠そうとしたのはなぜでしょう?
 
 人は神の形に似せて造られました。神は衣を必要とする体を持たれず、もし、見えない神が見えたらこのような形であったというのがアダムでした。

 エデンの園で神はただ一つのルールをつくられました。それは園の中央にある善悪を知る木の実を取って食べてはならない、食べたら死ぬというものでした。

 アダムは930歳で亡くなります。神にとっては千年も一日とありますから、アダムは千年経たない、神にとっては「その日のうちに」亡くなったことになります。

 ふたりは自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしい、そのままにしていてはいけないと思い、いちじくの葉でおおいました。自分でおおうとは、隠すということです。

 他の人から見られたくないものを隠すときには聖書では「おおう」といいます。
 
 罪を犯してから、彼らは自分で裸を隠しました。それは罪の結果として裸に気づき、恥ずかしいと思い隠したのです。

 私たちも、罪を犯したら恥ずかしいと思い、無意識に隠そうとします。

 罪を犯すことは恥ずかしいことなのです。神に似せて造られているので、善悪の知識を得て、善と悪の基準を持ったのです。
 しかし、正しい神の善悪の基準ではなく、人は個々にその基準をもつことになってしまいました。
私たちは聖書をしっかり読み、神の基準を知る必要があります。
 
 正しい神の善悪の基準がいのちの木であったと思いますが、彼らはそれに興味を持ちませんでした。

 むしろ彼らは「食べてはいけない」というものに興味を持ったのです。興味を持つことは悪くはありません。しかしそこに欲求が生まれ、その欲にヘビが誘惑を持ってきました。

 この誘惑は自分の欲求に対する外からの働きかけです。欲求が湧いても自分の意志で留めることはできます。

 しかし、そういう自制心を打ち破るように、エバの欲求を増幅させたように、外から誘惑がやってきます。ここにクリスチャンの戦いがあります。

 興味をもってしまったら誘惑がやってくるということを、しっかり知っておかないといけません。
 恥とは罪の結果です。最近は罪を罪と認めない社会になってきました。
 肌をあらわにするファッションが流行ってきています。肌の露出度と罪の認知度が平行しているかもしれません。

 関東で強盗事件がありましたが、逮捕されても罪意識がありません。お金が欲しいという欲求が強すぎると理性的な判断を狂わせてしまいます。
 
 人はその罪、裸を隠そうとします。しかし罪を犯すことは恥ずかしいことだという認識すら、最近はなくなってきています。

③(創世記3:21)
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

【デボーション】
 『裸』は『そむきの罪』を象徴しています。
 裸の二人に、なぜ皮の衣を着せられたのでしょう?
 
 神はアダムとエバを憐れみ、園の外に出される前に、身を守る安全のため皮の衣を作り着せてくださいました。これが親の愛です。神はご自分の子として、人を育ててくださっています。

 なぜこのような衣が必要な柔らかい肌をもつように人は造られたのでしょうか。神の憐れみと救い、愛を知るためです。
神に助けてもらうことがなかったら、神がどのような方かを知ることができません。
 裸は神へのそむきの罪に気づかせます。神は憐れみを感じて、裸をおおう皮の衣を作ってくださいました。人類は決して滅びません。しかし、そむきの罪を改めようともしない人は滅びにいたるのです。                           
Ⅱ.『そむきの罪』をおおう『愛』
(箴言10:12)
「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」
 子育てで、子どもは何回も親に反抗してきます。しかし親は見捨てません。神はアダムという人類をご自分の形に造られました。我が子として見てくださっています。
 
 その愛のゆえに、人類がそむき続けているのにもかかわらず、なおも神に立ち返るのを待ち続けていてくださるのです。

【デボーション】
 皮の衣は十字架の贖いを象徴しています。それは『白い衣』のことです。
 
 皮の衣は十字架を表しています。皮は動物の皮で、血が流されています。

 いのちの象徴である血を流すことなしに罪のゆるしはないのです。私たちのそむきの罪のために身代わりにその血を流してくださったのが、イエス・キリストです。この贖いの十字架の犠牲は、創世記からすでに計画されていたということです。

 なぜ「白い衣」かというと、黒は聖書では罪を表します。白はきよめられたしるしです。
 キリストの服は罪人の黒さを白い衣でおおい見えなくして、義としてくださったのです。

 中身は黒いままです。それは、私たちが自分の罪をいかにキリストが十字架の贖いでゆるしてくださったかの恩義を忘れないためです。

 この恩義を決して忘れてはいけません。神は私たちの罪をおおうために、イエス様の血潮で洗われた白い衣を着せてくださったのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年11月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

新しい人を着る歩み【2】  up 2024.11.3


主題聖句(詩篇32:1)
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。



●御霊によって歩む→新しい人を着る歩み→キリストを着る
●キリストは「王の王、主の主」→天地を治める主権者
●キリストを着るとは、主権者の服を着せられること
●罪を赦す主権者の服が私たちを覆っている

 先週は服を着る4つの役割についてお話いたしました。
 今日は、その一つ目の「健康と安全を守る役割」に当たりますが、「キリストの権威を着る」というお話しをします。
 
 御霊によって歩むとは、新しい人を着る歩みであり、それはキリストを着る人生であることを先週お話いたしました。
今日はそこから発展して、王の王、主の主と聖書に記されているように、天地を治める主権者であるイエス様の着ておられる服を私たちは着る、すなわち、罪を赦す主権者の服が私たちを覆っている、というのが今日の結論です。

Ⅰ.王服を着せられたモルデカイ
(エステル記6:7-10)
“そこでハマンは王に言った。「王が栄誉を与えたいと思われる人のためには、王が着ておられた王服を持ってこさせ、また、王の乗られた馬を、その頭に王冠をつけて引いてこさせてください。その王服と馬を、貴族である王の首長のひとりの手に渡し、王が栄誉を与えたいと思われる人に王服を着させ、その人を馬に乗せて、町の広場に導かせ、その前で『王が栄誉を与えたいと思われる人はこの通りである』とふれさせてください。」
すると、王はハマンに言った。「あなたが言ったとおりに、すぐ王服と馬を取って来て、王の門のところにすわっているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたの言ったことを一つもたがえてはならない。」”

 エステル記はエステルという女性が王妃に選ばれるお話です。6章では、エステルのおじさんに当たるモルデカイという人が、王様の暗殺計画を未然に防いだということで、王様がモルデカイに栄誉を与えたいと思い、どうしたらよいか、と王宮のナンバー2であるハマンに意見を求めました。
 ハマンはそれがモルデカイの事とは知らず、自分が王様から栄誉を与えられるものと思い込んで、7節8節のように答えます。しかし、その栄誉はそっくりそのままモルデカイに与えられてしまいました。
 ハマンとモルデカイは以前から関係が悪く、ハマンの憎しみは、モルデカイだけでなく、その民族(ユダヤ人)も全部滅ぼしたいと思うほどでした。結局、モルデカイが王様から栄誉を与えられ、王様の服を着せられ、王様の馬に乗せられ、ハマンは町の広場までその馬を引いて、「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と叫ばなくてはならなかったというのが6章です。

【デボーション】
王の次の権威者であるハマンは、モルデカイを憎んでいたにも関わらず、手を出すことが出来なかった。
このことを、キリストを着ている私たちに適用する。

 今日の主題聖句(詩篇32:1)に、そむきを赦され、罪をおおわれた人は幸いである、とあります。
 誰が罪を赦しその罪を覆う力を持っているのでしょうか。エステルの時代には王様です。王様の命令は絶対でした。
 イエス・キリストは、王の王、主の主です。天地を創造された主権者です。その主権者のお方が身に着けている王服をモルデカイに着せたわけです。
 モルデカイには権威はありません。しかし王様がモルデカイに王様の服を着るようにと栄誉を与えてくださった、その王様の権威によって、王の服を着たモルデカイは、ハマンの策略から身を守られました。これがキリストを着る、ということの素晴らしい特権です。
 私たちを霊的に精神的に攻撃して魂を滅ぼそうとする罪の力、闇の力が地上に働いています。それは私たちを悪の奴隷にして神の裁きを受けさせようとする、そういう霊的存在者で、聖書ではサタン、悪霊と呼んでいます。それらは人の心に影響を与えたり、人の体の内に宿ったりして、例えば怒りの感情を支配し、制御できないほどに心を怒りで満たして、周りを破壊させたりします。
 
 私たちの心にどのような霊を迎え入れているか、は大変大事なことです。私たちクリスチャンは、神の御霊なる聖霊様が賜物として私たちの内に宿ってくださっています。そして神と共に生きるという人生を今、歩んでいる途上にあります。ですから、その御霊様に従わず、一緒に歩むことを嫌うなどというのは、とんでもないことなのです。
 
 今私たちの内には、御霊様がおられます。イエス・キリストを救い主とし、また主として信じているから、罪赦されて、聖霊なる神様が私たちの内に来られて、イエス様の権威を帯びた王服を着て、クリスチャン生活を歩むことが出来ているのです。
 
 その王服を着ているならば、外敵から守られ、罪から守られ、悪霊の働きや攻撃から守られます。主権者の権威によって闇の力、悪の力から守られた人生を送ることができるのです。このことを知っていたら、善と悪に気付いた時、悪から離れ善に親しむ、という生き方が可能になってきます。イエス様の絶対的主権者の権威によって守られているからです。
 
 イエス様は善に親しむお方、悪を切り離す力を持ったお方です。「私は罪を犯すことが出来ないように神様の力に守られている」という自覚を持ちましょう。それがキリストを着ることです。
 
 私たちは弱い者です。でも着せられている王服には力がある、ここに気付いて悪魔に立ち向かいましょう。ヤコブ書には「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば彼はあなたから逃げ去ります」と書いてあります。
 私たちもキリストの権威が私たちを守ってくださいます。最初はうまくいかなくて、負けそうになったり、痛みを覚えたり、不健全な状況になったりするかもしれませんが、それらは完全に勝利することが出来るまでのプロセスだと思ってください。

Ⅱ.栄誉が回復された人々
【デボーション】
★行いによる神からの栄誉は受けることは出来ない。
 では何によって栄誉が回復されるのでしょうか? 

 行いによってではなく、「神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに」、義と認められる(即ち、栄誉が回復される)とパウロは語っています。
 「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」というのは、キリストが私の罪のために十字架で罪の代価を支払ってくださり、私の救い主となり主となってくださった、そういうキリストを信じることによって、神は恵みによって、その人の罪を赦して栄誉を与えてくださるということです。
 
 なぜキリストを信じることが栄誉となるのでしょうか。私たちは、アダムから引き継いできた罪の性質ゆえに、神に逆らい、神をないがしろにするような自己中心の価値観を持っている罪人です。

 そういう罪人が、「神はあなたを愛して救い主イエスキリストを送られて、どれほどあなたを尊んでおられるか。イエス・キリストはあなたの罪を赦す為にその罪の代価を十字架で支払い、黄泉に下り三日間苦しみを受けてよみがえったお方です」と、信じることが出来るのは、まさに奇跡なのです。
罪の性質を持ちながらも、神がキリストを通して愛を示されたことに心が目覚めて、「信じます、罪から離れます、あなたを尊びます」と心を決めたら、それは、「行い」以上に素晴らしい奇跡が起きたことに等しく、神様は「すごいことだ!よく信じたね!栄誉を与えよう!」と最高に喜ばれることなのです。
 
 キリストを尊ぶことにより、罪を赦して頂いて、絶対者なる神の主権の服を着せて頂いて、守って頂けるのは、全くの神の恵みです。何故か?神様は私たちを愛しておられるからです。

★救い主を信じる人に神からの栄誉が回復されました。
そのしるしとしてキリストの服が着せられるのです。

 私たちはもともと神のかたちに似せて造られた神のこどもだったのです。罪ゆえに神から遠く離れてしまいましたが、神に立ち返るチャンスを2千年前にイエス・キリストを通して現わしてくださいました。
 
 そのことに気付いて心を入れかえた人は、栄誉ある誉れを天地の王の王、主の主から頂きます。そのしるしとして王服の権威を着せられます。悪に立ち向かう力を、あなたは頂いたのです。それまでは罪の奴隷でした。でも、王服を着せられたから、王服が、闇の力、悪霊、サタンからあなたを守り、あなたの霊を健康に保ってくださるのです。
 
 イエス・キリストを心から信じ敬っていけば、悪魔は逃げ去りますから、イエス・キリストへの敬虔な心をもって、悪から離れ、善に親しみ、きよめられる幸せを味わうクリスチャン生活を目指して頂きたいと思います。

 

【俳句】
    王の王  主の主の衣  我が覆い 

 神はあなたを愛して救い主イエスキリストを送られて、どれほどあなたを尊んでおられるか、あなたの罪を赦す為にその罪の代価を十字架で支払い、黄泉に下り三日間苦しみを受けてよみがえったお方、このイエス・キリストを罪人であるあなたが信じることが出来るのは、まさに奇跡です。

 罪の性質を持ちながらも、神がキリストを通して愛を示されたことに対して心が目覚めて、「信じます、罪から離れます、あなたを尊びます」と決心したら、それは彼らの心に素晴らしい奇跡が起きたことに等しく、神様は「すごいことだ!よく信じたね!栄誉を与えよう!」と最高に喜ばれることなのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年10月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

新しい人を着る歩み【1】  up 2024.10.27


主題聖句(エペソ4:24)
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。



 今年のモットー(ガラテヤ5:16)に、御霊によって歩むなら、肉の欲望を満足させるようなことはない、と語られています。

 肉の欲望は私たちの心に大きな影響を与えて、私たちが正しい良いことを選び取ることを難しくします。そして的外れな行動をして周りにも迷惑をかけていくことになります。
 
 私たちは全く罪を犯さないで生きることはできません。しかし、イエス様を信じて、御霊によって歩むなら、クリスチャンとして相応しくないような私たちも、相応しい者に変えられていきます。

 そのように神様が助け励まし導いてくださいますから、私たちは諦めないで、善に親しむ生活を心がけていくことが出来ます。
 
 そこで今日は、「新しい人を着る歩み(エペソ4:24)」から、御霊によって歩むことを見ていきたいと思います。

≪新しい人を着る歩み≫
(エペソ4:24)
「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

 私たちがイエスキリストを信じて歩む神の子としての歩みは、新しい人を身に着る歩みだと語られています。

[Ⅰ]「新しい人」とは?
 
①神に似せて造り出された
(創世記(1:27)
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し男と女とに彼らを創造された。」
 
 アダムとエバ、そしてその子孫である私たちも、本来は、神に似せて神のかたちとして創造された神の子どもです。

 神の子どもであるにも関わらず、罪を犯して神から離れ堕落して今も道を外した歩みを続けているのが、エデンの園を追い出された人類の歴史です。
 
 神様は私たちがもう一度ご自分のもとに立ち返って、本来の目的である神の子どもとしてのいのちを生きるようにと、イエス・キリストの十字架による救いという福音を成就されました。

②神の子どもとされる特権が与えられた
(ヨハネ1:12)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

 罪を犯して、神の子としての歩みが的外れになってしまったために、人は神の子とされる特権を失ってしまいました。その神の子の特権が取り戻されるのは、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを信じ受け入れた人々であることが、(ヨハネ1:12)に明記されています。
 
 いまイエス様を信じている皆さんは、罪を犯す前のアダムとエバのように、神の子どもとされる特権が与えられています。
 その特権が神様の約束として聖書の中に記されていますので、それを見つけ出して今のクリスチャン生活に活用していって頂きたいと思います。
 特権は成人者が行使できるものですから、信仰が幼い時期には、それも難しいかもしれません。しかし、今どんなに未熟で、幼くて、自己中心の癖が強くても、私たちには「成長していく」という希望がありますから、焦る必要はありません。

 神様との親子の関係をしっかり保っていれば、神様が私たちを、神の子供として育て養い成長させてくださいますから、諦めないで信頼し続けていきましょう。

③キリストと同じかたちに姿を変えられていく
(Ⅱコリント3:18)
「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 成人者としてのイエス・キリストの似姿に変えられていく、これは本人の努力ではなく、御霊なる主の働きによります。
神様との関係が健全であれば、自然と神の御霊が私たちをキリストと同じかたちへと成長させてくださいます。神様との関係作りが非常に大事です。
 
 自然の親子であっても、親は子の願いや考えを受け止めて、子供の未来を少しでも支えてあげよう、協力していこう、というのが、愛のある健全な親子の関係です。子供の考えを尊重し、たとえ、それで失敗することがあっても、その負債を親は引き受け、損失を補い、もう一度やり直すように励ますのが、子に対する親の愛です。
 
 神は愛です。私たちは沢山の罪を犯しますし、なかなか治らない罪の癖もあります。それを知りつつ、イエス・キリストを信じている私たちのこころを神様は認めてくださって、私たちの自由意志を尊重しながら、親子の良い関係をつなぎ続けたいと、神様は今も愛を持って、私たちを支え、励まし、導いてくださっておられるのです。

④キリストは見えない神のかたち
(コロサイ1:15)
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生れた方です。」

 キリストのかたちに変えられていくというのは、キリストの似姿に 近づいていくということです。神にかたどられた新しい人とは、キリストのことを言っています。

キリストを着ること
(ローマ13;14)
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

【デボーション】
※なぜ、新しい人を着るべきなのでしょうか?

 (ガラテヤ5:16)と(ローマ13:14)とは、同じ意味を語っています。御霊によって歩むとは、新しい人(キリスト)を着ることです。キリストを着たクリスチャン(御霊によって歩むクリスチャン)は、「肉の欲望」をコントロールできるようになります。
 
 欲求は成長のためには必要な大事な心の働きです。しかし、闇の力、悪霊、サタンは、欲望によって神の子としての道を外させようと誘惑してきますから、その欲望が暴走しないように、欲望をコントロールするために、御霊によって歩み、キリストを着るクリスチャン生活をパウロ先生は私たちに勧めているのです。

[Ⅱ]「キリストを着る」
      神の子のユニフォームであるキリストを着ることについて
①『ユニフォーム・制服』の働き
 制服とは、ある集団に属する人が着るように定められた共通の服装のことです。私たちはクリスチャンという集団に属しています。それがはっきり分かる、しるしとしての役割が、ユニフォームにはあります。

②服装の役割

⑴服には着る人の健康や安全を守る役割
 エデンの園の中では守られていたので、裸でも健康で安全でしたが、エデンの外で裸では生きていくのが難しいことを神様はご存じでしたので、2人に獣の皮を服としてお与えになっています。

⑵働きや活動を円滑に効果的に行う役割
 大工さんには大工さんの作業着があるように、その仕事や活動に合った服装というものがあります。

⑶所属や職業を表すユニフォーム。

⑷個性の表現。ファッションです。  
 自分を服装で表現できます。

【デボーション】
★神の子の制服であるキリストを着ることの役割を、服装の4つの役割をヒントに適用する

(例)
*キリストを着ることによって、「神への信仰」の健全さと安全を確保することが出来ます。キリストを信じる正しい良心を健全に保つために、キリストを着るという生き方が大事になります。何かを判断したり行動したりする時に、キリストを着ているという自覚が、神の子としてのクリスチャン生活を健全に保ってくれるのです。

 他にも、服を着ることの役割から、キリストを着ることの意義を、皆さんも考えてみられてはいかがでしょうか。

 

【みことば川柳】
     
 キリストを  着こなす日々の  楽しさよ

 イエス様のご性質、御霊の実を、着物のように着こなしていけたら、楽しいクリスチャン生活になりますね

 

 

 

 

 

 

 

■2024年10月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

終末には愛が冷える  up 2024.10.20


主題聖句(マタイ24:12〜14)
不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。



 エルサレムの神殿が崩れ落ちる日が来る、と未来の出来事を預言されたイエス様は、「それはいつですか」と尋ねる弟子たちに、世の終りの日についてのお話しをされました。それがマタイの24章と25章です。
 それから2000年あまりが過ぎました。あの日イエス様が語られたことは一つづつ成就してきています。そしてその「終わりの日」の状況は、今も現実に現れているということを、今日は(マタイ24:12-13)から、お話させて頂きます。 
 神様のカレンダーは、一週間単位で物事が新しく進められていく、という聖書の流れがあります。創造の業が7日間、アダムと、その子孫の時代が7日間、千年王国という安息日が最後に来て、それから「永遠」の世界が訪れます。
 「終りの日(14節)」とは、創造の7日間とそれに続くアダムとエバについての7日間の歴史の最後、ということです。
今現在の私たちは、その7日間の内の最後に来る1000年王国を除いた6日目、という最後の日に来ています。
 そこで、現在、日本を取り巻いている世界情勢がいかなるものかを簡単に分析してみましょう。

◉世界情勢
①ウクライナとロシアの戦争
②イスラエルとイラン、テロ組織の戦争
③台湾と中国との対立
④韓国と北朝鮮との対立
⑤アメリカ大統領選挙
 
 ①②ともに、民族紛争の長い歴史があります。島国で単一民族の日本では考えられない人種的問題や考えの違いがあり、そこに宗教的な価値観も加わり、誰がリーダーシップをとるかということで、常に争いが起きています。 
 特にイスラエルについて、少し詳しくお話いたします。
 イスラエルには、世界を支配しようという考えは全くありません。神様がすべてを支配しておられて、その一部分を自分たちに委ねてくださっている、それが約束の地パレスチナ地方です。北はユーフラテスから南は地中海、エジプトのナイル川に至る範囲までを、アブラハムの子孫に与えると、4千年前に神様はアブラハムに約束されました。

 私たち日本は終戦後、敗北という経験を通して、戦うことよりも和睦を求めることの方が未来に希望を持てて幸せであるということを、負けた国だからこそ感じ取ることが出来ました。
 しかし他の大陸の国々にとって、敗北は民族の浄化(抹殺)を意味します。特にイランが支援するテロ組織(イスラム原理主義者)の使命は、イスラエルの抹殺です。絶対に和解はしません。イスラエルにとって、テロ組織を一人でも残すことは、イスラエル国民の滅亡の種を残すことになります。 
 1948年のイスラエル建国以来70年間、イスラエルがパレスチナの民族を迫害している、という嘘の情報が世界に拡散されてきました。
 しかし、国連に残されている資料には、イスラエルがどれだけ和合するために国連の指導の下にパレスチナ人との共同の生活を受け入れて来たか、その記録が残されています。また、パレスチナ人と共同して生活できるように、パレスチナという国家を建てるという提案も、イスラエルは受け入れていました。
 その提案を断ったのは、イスラム原理主義者の人たちでした。イスラエルを認めないというのが彼らの価値観であり思想であったのです。そして建国以来、イスラエルは常にテロ攻撃を受け続けてきました。そして、これ以上彼らと共に生きて行くことは無理だということで、今の状況に至っているわけです。 
 テロ活動をしている原理主義者たちは、本物のイスラム教徒です。アラーの神がマホメットに語って記されたというコーランには、イスラエルを抹殺することが神のご意思だということが、はっきり書かれてあります。そのことを全世界に広めて、イスラム、そしてアラーの神が全世界を支配する、それが原理主義者たちの考えです。
 他のイスラムの人たちは、国際情勢を見ながら自分たちの国益を考えて、アラーの教えはあるけれど、国として自分の国民を守るためにも、そういう厳しい教えは控えようという穏健派です。
 強硬派はイランです。コーランの原点に立って、誰であれアラーの教えに少しでも反する人たちを片っ端から抹殺していきます。彼等にとって民主主義は悪魔の巣です。言論の自由とか人権とか、自由で良いと私たちが思っていることも、アラーの神に従わないなら、存在する意味がないのです。彼等は絶対自分の考えを変えることはありません。降伏もしません。
 
 今イスラエルの攻撃によって、ガザの人たち、特に女性や子どもたちが犠牲になっていると、メディアは伝えています。
 テロ組織は地下20メートルの所に潜んでいます。一般市民を地上で人間の盾として利用し、イスラエルの攻撃にさらして、イスラエルを非難する材料にしています。一般市民は、アラーのご意思のために命を捨てることは天国に行けることだと教えられています
 そういう現場の情報など、日本では一切報道されません。なぜなら、メディアのスポンサーは世界的に反ユダヤ主義的な影響を受けているからです。白人たちは、世界のトップに立つ人種は白人だと思っていますので、ユダヤ人が優れた能力や才能、知性や財産をもって世界に増え広がるのを恐れています。そういう世界的な反ユダヤ主義に、日本も影響されていると言えます。

 ③④の台湾と中国、韓国と北朝鮮、政治経済など社会の体制の違いから同民族が分かれて対立していますが、中国も北朝鮮も軍備を拡充し、いつでも戦争できる状態にあります。
 現在、北朝鮮がロシアに協力して派兵しているという情報も出てきています。日本の回りで、そんな世界大戦につながるような話が進んでいるのです。

 ⑤日本と安保同盟を結んでいるアメリカで、11月2日には大統領選挙が行われます。誰が大統領になるかは日本の情勢に大きな変化をもたらします。注視する必要があります。

◉国内情勢
①2025年75歳高齢者問題
②少子化問題
 戦後の第一次ベビーブームの赤ちゃんが、2025年には75歳を迎えます。5.5人に1人が75歳以上となり、医療費、年金など、国の財政が大きな負担を抱えるようになります。その財政を支える筈の若い世代の人口が、少子化の影響で極端に少なくなっており、益々国の財政は逼迫するとおもわれます。

③衆議院選挙
 そんな問題に応えるためにも、どういう政策をもって国を良くしていくのか、今年の衆議院選挙は大事な選挙です。しかし、お金に縛られ、お金に狂わされている国会議員が大勢いるというのも現実です。

④労働者不足と移民問題
 日本の若者は汚れ仕事よりデスクワークを好み、賃金にも格差があるため、肉体労働者が不足し、海外から安い賃金の労働者を雇って利益を上げようとしている、そんな団体が特定政党から優遇されているというようなことがありました。
 また、埼玉県川口市では、クルド人が地域のルールや日本の常識、道徳を全く無視するという混乱状態が起きていて、川口市がクルド人に支配されるという恐れが広がっているようです。そのような移民の問題が日本各地で起こっています。
 
⑤食料自給問題
 今回の新政権内閣により、食料自給のために農作物を生産していこうという方向に政策が向かい始めました。日本の食料自給率は30%程度です。もし、戦争などで食関係のものや、石油など燃料関係の輸入が妨げられたら、物は不足し物価は高くなり、生活状態は逼迫困窮してしまいます。
 このように、日本を取り巻く内外の情勢を見ても、世界の終わりが近いことが予感させられます。今から正しい心構えを持っておくことが賢明です。
 現代、まさに不法がはびこる状況が凶悪事件となって起きています。関東での連続強盗事件を見ても、そんなことまでしてお金が欲しいと思う人たちがいる。道徳観念の欠けた精神状態の若い人が増えている。お金に支配されているそういう人たちが、将来、日本をどのようにしていくのでしょうか。
 罪が増え広がり、そういう所で愛なんて何の役にたつのかと思う人が増えていき、愛に希望が持てない世界になっていきます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われる」とイエス様は語られています。

①「不法がはびこる」
 違法性、法律の違反または邪悪さ。表向きは正しくても、巧妙に違反して自分の利得を実現させて行くような邪悪な状況

②「愛が冷える」
 愛が冷たいワックス(保護膜)でおおわれている状態→愛が通用しない。愛が機能しない。

③「最後まで耐え忍ぶ」
 クリスチャンがイエス・キリストを信じて、最後まで耐え忍んで、悪を離れ善に親しむことが出来るのは、創造主の神が、正義と公平によってすべてを裁かれる、そういう時が必ず来ることを信じて待ち望んでいるからです。最後には「良かった、よくやった、いのちを正しく使ったね」と、神様が正しく評価してくださる時、私たちは誉れを得て、すべての労苦が報われるのです。
【デボーションポイント】
「不法がはびこる」ことを神はどうして止めないのか!
 この疑問の返答を考えてみましょう。

※悪を離れ善を求める敬虔な人の救いのためにキリストの福音がある
 戦争や争いなどは、私たち一人一人の人格者の責任・責務です。
そのために私たちには自由意志が与えられています。自由に考え、自由に行動する、その行動に対して神は裁き、評価し、報いを為されます。人格者は自己責任が多く求められるのです。
 人は罪を犯すことがないように、自制心という徳を持っているはずです。それを働かせていないのは、欲望を選んで徳の高い品性を捨ててしまっているからです。
欲を捨てれば、人徳によって必ず、戦争も争いも無くなります。
 
【俳句】
  
冷える愛  失望せずに  救い待つ

 この世の終わりには、クリスチャン同士でも愛が冷えるようなことが教会の中に見られるかもしれません。社会から影響を受けるクリスチャンも出てくるでしょう。
 それでも失望せずに私たちは、イエス・キリストの再臨と救いの完成を待ち続けます。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年10月13日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

主の通られる道をまっすぐにせよ  up 2024.10.13


主題聖句(ルカ3:3)
そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。



 10月に入り、少しずつ涼しくなってきた今日この頃ですが、秋の行事も終わり、少し早いですが、クリスマスに意識を向けていく時期になりました。私のメッセージ回では、12月のクリスマス記念礼拝に向けて、心の準備になるように、ルカの福音書から順番に見ていこうと思います。

 さて、イエス様がお生まれになって公生涯を歩まれる少し前に、バプテスマのヨハネが活動していました。

(ルカ3:3)
「そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。」

 ヨハネは、神様の導きにより、罪の赦しという福音を伝え、そのために悔い改めを説き、水のバプテスマを授けていました。これらの行動は、イザヤ40章の預言が成就した出来事でした。

(イザヤ40:3)
「荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」

 人々は、ヨハネの活動に驚き、ヨハネが救い主なのではと心で思うようになっていましたが、ヨハネは、自身の役割をわきまえて、次のように人々に語りました。

(ルカ3:16)
「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」

 まだ道路も整備されていない時代、王様が通られる道を家来が整え、王様が通りやすくするということをしていました。ヨハネは、後に来られる救い主イエス様の語る言葉が人々に届きやすくするために、道を備える働きをしていたのです。

 私たちも、イエス様の福音を受け入れやすいクリスマスまでに、私たちの周りの人々に、福音が届きやすいように、道をまっすぐに整えていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年10月6日 日曜礼拝メッセージより(大嶋 重徳 師)

広島合同礼拝  up 2024.10.6


主題聖句(エレミヤ1:1〜10)
ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。
それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。
次のような主のことばが私にあった。
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ―」
そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」



 

 私(師)は、埼玉県川口市から参りました大島重徳と申します。 先ほどエレミヤ書1章1節から10節までお読みいたしました。私はエレミヤという預言者が、聖書の中で一番好きな預言者です。
 ある聖書学者は、「預言者イザヤの描く苦難のしもべの中にキリストが指し示され、悲しみの預言者エレミヤの人生の中にキリストの生涯が見える」と言いました。エレミヤとは、どんな人だったのでしょうか。
 彼はアナトテというさみしい村で生れました。父親は祭司で、ソロモン王の時代にエルサレムから追い出された祭司の一人だろうと言われています。冷遇された田舎の祭司家庭に、エレミヤは生まれ育ちました。時代はマナセ王の頃です。
 マナセ王はアッシリアの異教の文化の影響を強く受けた悪王でした。エルサレム神殿には異教の偶像が置かれ、邪悪な行為がなされ、まともな信仰を持っていると馬鹿にされるような不信仰の時代に、エレミヤは幼少期を過ごしました。
 
 私たちはどうでしょうか。この国に育って、幼いころからクリスチャンで、大きくなるにつれ、クラスでは自分一人がクリスチャン、自分の家族だけが神様を信じている。学校でも職場でも、クリスチャンは自分一人だけ、という現実を生きて来ました。この時代に信仰を持って生きて行くことの難しさを、心に刻みながら生きて来たのではないでしょうか。
 
 エレミヤが二十歳前後の頃、主のことばがエレミヤに語られました。その時エレミヤは、「自分はまだ若いから」と神様からのことばを拒みます。エレミヤの生涯にわたる自己認識は、「自分の様な者が・・」という消極的な引っ込み思案なものでした。
 しかし大切なことは、エレミヤが自分のことをどう考えていたかではなく、神様がエレミヤをどのように見つめておられたか、ということです。神様がエレミヤを見ておられた眼差しから、3つの事がエレミヤに語り掛けられます。

 まず第一に、(エレミヤ1:5)「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

 神様は言われます。「私はあなたのことを、あなたよりもよく知っている。あなたがどんな弱さを持っているか、どんな欠点を持っているか、どんなに憶病なのかもよく知っている。なぜなら、私があなたを造ったのだから。その私があなたを選んだのだ」と。
 もっと説得力があって、時代に影響を与えるような人を神様は用いられるのではないか、と私たちは思いがちです。しかし、神様が選ばれるのは、エレミヤのように弱く脆く自信のない者です。
 Ⅰコリント1章27節には「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かなものを選び、強いものをはずかしめるために、この世の弱いものを選ばれたのです。」とあります。
 神様が今日、私たちを見ておられる目線は、弱くもろく自信のない、若く経験のない、そんな私たちなのです。

 第二に(エレミヤ1:7)「『まだ若い』と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」
 神様が見ておられるのはエレミヤの欠点ではありませんでした。エレミヤは自分を見つめて、自分は献身するには経験が足りない、まだまだ聖書をよく知らない、上手に話すことが出来ないと、そんなふうに考えていました。
 私たちも色んな言い訳を持っています。私には賜物がありません。クリスチャンになってまだ間がありません。私はいつも罪ばっかり犯して全然、いいクリスチャンではありません。もう若くありません。わたしの家の子ども、もう無理です。ずっとお祈りしてきました。離れて何年にもなります。こんな問題がある、あんな事情がある・・etc.
 大切なのは、あなたの才能やあなたの自己認識ではありません。
 「わたしがあなたを遣わす」「わたしがあなたに命じるすべてのこと」「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出す(8節)」「主の御手が、私の口に触れている。今、わたしのことばをあなたの口に授けた(9節)」と、神ご自身が「わたしが為す」と言われていることです。
 神様の見ておられる目が大切です。神がどう見ておられるのか、この神の判断をあなたは信じるのか、これに従うのか。
自分を見ると落ち込みます。しかし神様はそういうことすべてをご存知で、選ばれたのです。ペテロが3回も主を裏切ることを、主は知ってて選ばれました。神様は私たちの自己認識を超えて、神様が見ておられるものを見るようにと、今日私たちの目を開かれます。

 三つ目のことは、神が私たちを遣わそうとしておられることです。(エレミヤ1:7-8)「主は私に言われた。『まだ若い』と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
 なぜこんなところに、どうしてこんな悪い時代に生まれたのか、なぜ私の親は祭司なのか、とエレミヤも考えたことがあったかもしれません。私たちもそのように考えることがあるでしょう。
 しかし、「それはすべて、わたしだ、わたしがそうした、そのわたしがあなたを遣わすのだ」と神様は言われるのです。

(エレミヤ1:9-10)「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。『見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、立て、また植えるために。』」
 本当に必要なもの以外は、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊す。神のことばだけが植えられ、建て上がるようにする。
エレミヤはこの神のことばに捉えられ、突き動かされたのです。

(エレミヤ20:7ー9)「主よ。あなたがわたしを惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中物笑いとなり、みなが私をあざけります。私は語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑い種となるのです。私は、『主のことばを延べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに疲れて耐えられません。」
 
 私たちもそうではなかったでしょうか。いいクリスチャンになれない自分がいる。どこがクリスチャンなんだろうかと思うような自分がいる。それでも神は、私たちが母の胎にいる時から私を選んでいたと言われ、「若いというな。あなたを遣わす所のどこにでも行って語れ」と、言われます。
 
 神様は、私たちと一緒にやりたい、と言われるのです。この広島の地にあなたを遣わすのだと言われるのです。
 学生時代に、私は自分を通しては誰もクリスチャンにはならないという確信を持っていました。こんな自分が福音を伝えるなんて、リスクでしかないと思っていました。むしろ伝えない方がましだと。 
 
 しかし、大学2年の時、一人の後輩が私の部屋に訪ねてきました。そして、まさか!というような一緒に聖書を学ぶチャンスがやってきたのです。それから一緒に教会に行き、そしてイエス様を信じる祈りを共にしました。
 彼が救われるなんて思ったこともありませんでしたし、自分の部屋は汚くて罪がいっぱい隠されているようなところでした。
でも、そんなことは神様には関係ないのです。私たちがどんなに不甲斐なく無力であったとしても、神のことばは生きていて、人の魂を捕えるのです。

 神はここにおられるお一人お一人を広島宣教に遣わしたいと思っておられます。
 神様と私たち、それは犬小屋を作るお父さんと、それを手伝う幼い息子のようです。カレーを作るお母さんと、私もしたいと言ってくれる娘のようです。親が自分一人で作ってしまった方が、どれだけ仕事は早く上手に進むことでしょう。でも、一緒にやろう、と言ってくださるのは、それが親の喜びだからです。

 今日ここにいる私たちは、仕事は遅いし下手だし自信はないし、力もないかもしれない、しかし、そんなあなたと、神様は一緒にやりたいと願っておられるのです。この広島の街に向かってあなたを送り出したいと願っておられるのです。
 
 エレミヤには後輩のバルクという仲間を与えられました。エレミヤの書いた預言のことばが焼き捨てられるというショッキングな事件が起きた時も、バルクはエレミヤのことばをちゃんと文字に書き起こして、一緒にエルサレムに二人で宣教に出て行ったのです。

 今日、私たちもこの時代とこの町に、一人で遣わされるのではありません。広島市内の教会のこの交わりの中で一緒に出ていくのです。みんな同労者なのです。
 
 ここにいる私たちは、エレミヤのように苦難の連続で悲しみに満ちている私たちです。涙と共に家族に、友人に、種を蒔いている私たちです。
 
 エレミヤの生涯が、苦難の現実を生き抜いた時、キリストが映し出されたように、私たちが涙を流しながら祈りながら、魂に向かってイエス様を伝え、イエス様を信じてほしいと願っていくあなたの姿に、キリストの姿が映し出されていきます。

 悲しみの只中にいるにも関わらず、それでも礼拝に来て、それでも賛美をして止めないあなたの姿に、キリストの姿が映し出されていきます。

 どれだけ無力であったとしても押しつぶされそうになったとしても、みことばによって燃やされて、今日も主の前に立ち上がろうとする、この全広島の教会にキリストの姿が映し出されていくのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年9月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

建徳の歩み  up 2024.9.29


主題聖句(ガラテヤ5:16)
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。



 

 今年は「御霊によって歩もう」というテーマをもとに、聖書からお勧めをさせていただいています。

 前回は、今年の主題聖句(ガラテヤ5:16)から、「わたしは言います」という表現でパウロ先生が強調したかったこと、「御霊によって歩むことの大切さ」についてお話いたしました。

 今日は主題聖句の中の「御霊によって歩みなさい。」という箇所からお話いたします。

 御霊とは神様の霊です。私たちはイエス様を信じたら神の子として新しく生まれ変わるという神様のお働きがあります。
 ですから、神様の子どもとしてイエス様を信じて歩んでいくためには、神様の子どもとしてのこころ、いのち、神の霊が、私たちの魂には必要なのです。

○建徳の歩み
(Ⅰテサロニケ5:11)
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 テサロニケはギリシャにある都市です。パウロはそこで人々にイエス様の福音を伝えました。そしてイエス様を信じるグループが出来上がり、テサロニケ教会が誕生しました。
 
 そのように、クリスチャンとして神の御教えを守って敬虔に生きて行く人々の集まり、その社会を教会と呼んでいます。

 そこでは互いに励まし合い、互いに徳を高め合い、自分よりも隣人の喜びや幸せを先に考えて行動します。これは神を畏れ敬うという動機があってこそ出来ることです。
 
 聖書の一番中心となる教えは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」です。

 新約聖書では、「私(イエス様)があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られています。
 
 救い主イエス様は、見えるかたちで地上に神様の愛をお示しになり、隣人を愛すること、赦すことを、ご自分の生涯といのちをかけて実践されました。

 罪人の罪を赦すために、自らのいのちを代価として十字架で差し出し、死んで黄泉に下り、私たちの受けるべき罰を身代わりに受けてくださって、私たちの罪の処分をしてくださいました。私たち人間には出来なかった罪の処分を、神様自らが成し遂げてくださったのです。

 この神様のあわれみと赦しを信じ受け入れる者には、神の子として人生をやり直すことが出来る様に、イエス様は整えてくださいました。ですからクリスチャンは、神の子であるという自覚をもとに人生を歩んでいく必要があるのです。

【実例】
 この建徳の歩みの実例として、木村強さんについて紹介いたします。
 
 1942年、木村強(きむらつよし)さんは、日本の植民地となった東南アジアのブルネイという国に、日本国ブルネイ県知事として就任しました。
 
 ブルネイはそれまでイギリスの植民地でした。イギリスは現地の人々を安い賃金で働かせ、ブルネイの資源から得られる利益のほとんどをイギリスが取って、ブルネイはいつも貧国のままでした。

 そんなところに、イギリスを負かした日本が入ってきました。そしてブルネイを日本の県として統治するために木村強さんが派遣されたのです。
 
 最初、現地の人々は、日本もイギリスの統治と同じだろうと思っていました。しかし、木村強さんの知事としての心構えは、日本とブルネイの未来の関係を考えて統治に励むことでした。

 彼はブルネイをよく知るために秘書としてブルネイ人を雇って、彼らにどんな助けが今必要なのか、どうすれば日本と友好関係が結べるようになれるのか、そういうことに関心をもって、一緒に地域を回って調査しました。

 そして、まず、ジャングルで覆われていた国土に、道路、電気、通信などのインフラ整備を進めました。人々は少しづつ心を開いていきました。木村さんが侵略者としての立場ではなく、両国の発展のために現地の人と友好関係を築いていったからです。
 
 1945年日本は戦争に負けてブルネイから撤退しましたが、ブルネイは連合国の管理下におかれ、真の独立には至りませんでした。

 1986年にやっと独立した時、ブルネイの自立のために手助けをしたのは日本でした。

 ゴムの木が豊富にあったため、工場を作り、ゴムを生産し、製品を輸出してブルネイの収益とし、石油も同様に利益をブルネイに還元し、技術支援や教育支援、観光地開発などにも力を入れて、国は段々と豊かになって行きました。
 
 現在ブルネイは親日国家となり、日本人が観光に訪れると人々が日本語で挨拶してくれるそうです。また、東日本大震災の時はブルネイから1億円の援助金が送られました。ブルネイの一般人からも、合計2300万円が寄付されました。

 そこまでブルネイの人々が親日になれたのは、はじめに知事として訪れた木村強さんがブルネイの人々に示した、隣人を大事にする動機からの信頼関係作りや施策のおかげだと言えます。

【デボーションポイント】
このことから私ちが学ぶべきことは何でしょうか。

 御霊は隣人愛へと導いておられます。自分を愛するように隣人を愛するとは、徳を高め合う関係を築くことであるということが、今日お伝えしたいポイントです。
 
 教会の中でクリスチャン同士がお互いに隣人愛を現わしていく、その目的は徳を高め合う関係です。
 
 その人の心に励ましを与えて、否定的な考えや思いを前向き肯定的に変えていき、善を行うことに喜びを持ち、未来に希望を持つようにと、お付き合いをし提供していく、この隣人愛の行動が、人の心を変え、徳を高め合う関係となっていきます。
 
 木村強さんは、天皇制国家の中で天皇の権威を畏れ敬う人でした。他国での自分の行動や仕事が、日本の支配者である天皇の栄光ともなれば汚点にもなる、という悟りと誇りを持っていました。
 
 私たちクリスチャンも、私たちの罪の赦しのために十字架でいのちを捨てて私たちの贖いとなってくださったイエス様の愛とあわれみを知りました。

 この方のおかげで死後の世界にも希望を持つことが出来る様になりました。私たちのためにそんなに良いことをしてくださったお方のために、その恩を思うなら、イエス様の名を汚すような軽々しいことは出来ません。

 むしろ、クリスチャンは、「イエス様のおかげで今の私たち、今の世界があり、その中から敬虔な人々のために救いを導いておられますから、今の間にイエス様を信じて、罪の赦しを実現して、永遠の神の国へ一緒に行きましょう」という大胆な証しが、私たちのクリスチャン生活の中で見えるかたちで行われることが必要です。
 
 教会の中で隣人愛をまず実践することです。一つ一つ自分の出来る所からチャレンジしましょう。
 同じ教会員として、神の家族として、神の兄弟姉妹として徳を高め合うことを考え、その人の益となることを考えて、助け、行動し、祈り、楽しむということを実践します。そういう方向へ私たちもぜひ進んでいきたいと思います。
 
 徳を高め合う関係を築く、これを隣人愛として小さな事から取り組んでいただきたいと思います。
 
 そのはじめとして「挨拶」は最初にできる、徳を高める行為だと思います。

 互いの間に平和をもたらすことのできる第一歩、お互いの励ましの表現であり、徳を高めていける出発点です。

 そしてまた、一番身近な家族に対しても、挨拶すること、褒めること、感謝することなど隣人愛を表して、互いに徳を高め合うことを考えてみてください。

【俳句】
    
建徳は  隣人愛の  基本なり

 

 

 

 

 

 

 

■2024年9月22日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

主につく者は来なさい②  up 2024.9.22


主題聖句(出エジプト34:15)
あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。



 

 前回、出エジプト32章より、モーセがシナイ山に登って神様からのことばをいただいている最中、ふもとに残ったイスラエルの民が、アロンに迫って金の子牛の像を作り、神として崇めてしまい、モーセが山から下り堕落している民を見て「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言う箇所から、主につく者についてお話しさせていただきました。 
 
 主につく行動をしたのはレビ族でした。偶像礼拝をする3000人以上の中で、モーセの呼びかけに応じたレビ族の神様への信仰は、妥協が多いこの世に生きている私たちにとっては、見習うべき神への誠実な姿勢だと思わされます。
 
 この出来事の後、主はもう一度イスラエルの民と契約を結んでくださいました。その内容は、よりこれからイスラエルが歩んでいく環境に適した具体的な内容に更新されているものでした。

 特に、十戒の一つ目の戒めである、「わたし以外に、ほかの神があってはならない。」という内容に、”入っていくその地の住民と契約を結ばないように”と表現が加わっています。
 入っていく地とは、約束の地カナンを指します。そこには、偶像の神で溢れている土地でした。

 目にみえる身近に思える偶像の神に心が奪われないようにと、主はイスラエルの民に釘を刺したのです。
 多様性をうたう現代社会において、この内容は受け入れられないかもしれません。私たちの信仰も、ときには一つに偏っていると非難されるかもしれません。

 それでも、私たちは、主以外に神はあってはならない信仰を貫かなければなりません。それが主につくものの姿勢なのです。

 イスラエルの罪を寛大なあわれみでお赦しになり、契約を更新してくださった方は、今日の私たちにとっても変わらない存在であり、人生をささげてついて行くべきお方です。

 十字架の赦しという最大最高の福音を今日も語っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年9月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

長寿を幸せに生きる秘訣  up 2024.9.15


 


 

 現代、長生きすることは、体調や心の問題など労苦を伴うので大変なことのように思われます。長生きすればするほど失望で終わりそうな、そんな時代になりました。そこで今日は、長寿を幸せに生きる3つのポイントを聖書から御紹介したいと思います。

≪秘訣①≫(使徒20:35)
「『受けるよりも与えるほうが幸いである。』とイエスは語られた。」
 この世には、得ることが幸せだ、という風潮がありますが、聖書は逆に、与える幸せの方が優れている、と語っています。
 そこで今日は、世界で初めて砂漠を緑化することに成功した遠山正瑛さんのお話をしたいと思います。
 遠山さんは中国のゴビ砂漠に、ポプラの木を300万本植え、飢えに苦しむ貧しい人々200万人のいのちを救った日本人です。
 1935年、当時京都大学で助教授をしていた遠山さんに、外務省から中国の土地と農業の調査研究留学の依頼が来て、29歳の時、初めて中国に渡りました。留学先で見たのは、炊き出し一杯を求めて人々が数十キロの行列を作っている光景でした。
 当時中国ではゴビ砂漠が農地を侵食し、人々は作物が取れずに困窮し、2000万人が餓死していました。それを見た遠山さんは、自分に出来ることは何かないか、と強く思いました。
 一面の砂の海を調査している時、ある発見をします。不毛の地と思っていた砂漠に小さな花が咲いているのを発見しました。それを見た遠山さんは、水さえあれば砂漠はきっといい農地になると確信し、砂漠の緑化を決心します。
 しかし、日中戦争が勃発し、退去命令により日本に帰国します。砂漠の農地化を夢見て35年が過ぎ、農学者として勤務していた大学を定年退職、その翌年に転機がやって来ました。日中国交正常化です。
 「やっと砂漠の緑化の夢がかなう」と、中国に何度も渡り、中国の要人たちに、「砂漠の緑化は食糧増産につながり、戦争を防ぎ、世界平和の道だ、と説得して回りましたが、不可能なことだと誰にも相手にされませんでした。
 「やれば出来る、やらなければ出来ない、続けさえすればいつかは成功する」と、日本でボランティアを募り、苗を買って独自に植栽に取り組みました。砂漠に強く根が短期間に1メートルも伸びる葛(くず)の種を黄河流域に何万粒も蒔きました。
 反日感情の強い地元住民からの妨害やスパイ疑惑をかけられ、遠山さんはそんな困難にもめげないで、葛が成長して緑の草原になれば理解してくれると信じ、苗を植え続けました。しかし、飢え終わった苗を遊牧の羊に食べられて、その計画は失敗してしまいます。
 今度は成長の早いポプラの木を植える計画を立てました。牧柵を作って羊を防ぎ、一本一本ポプラの木を植え続けました。これには中国人も驚き呆れて見守っていました。
 5年で100万本という目標をかかげ、毎日10時間以上黙々と植え続けました。
 100万本の目標を達成した直後、大洪水で3万本が流されてしまいました。沈み込んだボランティアたちを、遠山さんはこう言って励ましました。「目標のない人生は闇だ。やらなかったら物事は進まない。そして、一度始めたらやり続けることだ。」励まされたボランティアたちは再度奮起し、植樹を続けました。
 そんな遠山さんの決して諦めない姿に、現地住民も心を動かされ、手伝ってくれるようになり、急ピッチで計画が進みます。 1995年8月にポプラの植林は、ついに100万本を突破、98年には200万本、2001年12月には300万本達成、不毛の地は立派なポプラの並木と緑の農地によみがえりました。
 こうして植林は成功し、動物たちが帰ってきました。畑も開拓できるようになり、野菜が作れるようになり、村から出て行った人々も帰ってきたのです。
 現地では遠山さんに感謝して遠山さんの銅像が建てられました。中国で生前に銅像が建てられたのは、毛沢東と遠山さんの二人だけです。その台座には「90歳の高齢ながら、たゆまず努力をし、志を変えなかった」と称えられています。遠山さんは98歳で亡くなるまでこの活動を続けられました。
 遠山さんは、このままだと何百万人という人々が飢死していくことに衝撃を受け、人生も財産もすべて投資して、他国の人々のために砂漠の緑化の働きに生涯を捧げました。
 遠山さんは「物を与える」というのではなく、「幸せになってほしい、普通の生活をしてほしい」という隣人に対する思いやりが動機となって、あのような働きに自分を捧げることが出来たのです。
 病んでいる人、困っている人、助けを求めている人は世界中におられます。身近にもおられるかもしれません。私たちには何が出来るのでしょうか。
 「受けるより与えるほうが幸いである」というみことばにはどんな意味があるのか、考えることが必要です。
 イエス様は、神が人となられたお方です。神様ご自身が「受けるよりは与えるほうが幸せだ」ということを実行されたお方です。
 天地万物を創造された神様は、人(アダム)を「わが子」として創造されました。アダムの子孫である私たち人間は、「神の子」として祝福を受ける筈でした。しかし人(アダム)は欲望に負けて、神様の教えをおろそかにして、自分の欲求を満たす人生を選ぶという人間の歴史が始まりました。
 家族のつながりが無くなることは一番の不幸です。神様にとって人間は本当に不幸者です。しかし、親というものは、子が大きな犯罪を犯しても、子を思う気持ちというのは強く、子を見捨てる親はいません。それが親の愛です。
 今は家族がいるということの幸せを見失ってしまっている時代ではないでしょうか。ここにおられる高齢者の方々は、家族のいる幸せを体験してきてこられた世代です。家族のいる幸せを取り戻すことを考えて頂いて、家族の交わりが幸せなんだということを受け止めて頂きたいと思います。 
 あるクリスチャンの高齢者の方のお話を致しましょう。
 彼女は高齢で体も弱り、いつも2階の自分の部屋のベッドで過ごしていました。そしてベッドで横になって、「このまま何もせずに、死んでいくのでしょうか、神様」と祈ったそうです。 すると神様は「あなたの幸せを分けてあげなさい」と言われました。「どのようにしてですか」と祈っている時に、自分の家の前を通る子どもたちの声が聞こえてきました。「そうだ、自分は何も出来ないけれど、この窓から毎朝子どもたちが前を通る時に、笑顔で声をかけよう」と決心しました。笑顔で挨拶して子どもたちに幸せを感じて貰おうと思ったのです。
 最初、子どもたちはびっくりしました。でも、毎日毎日欠かさず「おはよう」と笑って挨拶しているおばあちゃんの笑顔がとても輝いて美しく見え始めたそうです。その頃から子どもたちは自分から「おばあちゃん、オハヨー」と声をかけるようになったというのです。
 あるときに、おばあちゃんの朝の挨拶が聞こえなくなりました。そして「天に召された」ということを知ったそうです。
 子どもたちは挨拶を笑顔で受ける幸せをしっかり心に感じ取って、色んな人たちに挨拶をするようになったということでした。
 心のつながりこそ、人の幸せを感じる部分です。血筋の家族は無くなっても、イエス・キリストを信じて父なる神様に目が開かれると、「神の子としていのちを与えられた者、神に愛され赦された者」として、家族愛でつながる神の家族が出来上がります。
 しかし、親を敬わない子ども、親子関係が切れている者ほど不幸なことはありません。神様はそれを回復したいと思われています。
 父なる神様は、親を敬わない子どもの不遜の罪の罰を、子どもの身代わりにご自身が受けるために、人となってこの地上に来られて、十字架でその罪を償ってくださいました。
 親は子どもの負債を負うものです。それが親の愛です。父なる神様は、あなたを子として愛しておられます。神は確かに私たちにご自分のいのちを分け与えて、ご自分のかたちに人をお造りになって、神の子どもとして産み出してくださったお方です。聖書の神が、「父」と呼ばれるのは、親だからです。
 神様は親の愛を持って子どもの負債を償う責任をもって、今も私たちに愛を注いでおられるのです。

≪秘訣②≫(Ⅰテモテ6:6)
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」
※神が備えてくださった今を、満足することが、幸せの秘訣です。
 ヒマラヤ山脈の麓にブータンという王国があります。世界一自分たちが幸せだと感じている、幸せ度が1位の国ということで有名になりました。どうして幸せなのかを聞くと、ほとんどの国民が、「雨風をしのげる家があり、食べる物があり、家族がいるから幸せだ」と答えたそうです。
 それから6年たって、もう一度調査したところ、国民の幸せ度は156か国中、95位に下がっていました。現在では156か国の中にも入っていないということです。
 調査団が理由を調べたところ、生活が少し豊かになって国民がテレビを見るようになり、諸外国のCMの情報に触れ、自分たちと比べるようになり、あれが欲しい、でもお金が無くて手に入らない、と不満に思うようになったことが原因の一つに挙げられています。
 日本には、「隣と調和をとる」という文化があります。周りと自分を比べて測ってしまうので、日本の幸福度は非常に低いそうです。こんなに色々そろっていても、まだ満足できないのです。
 比較して幸、不幸を測るのではなく、そういうものに巻き込まれないように、神が与えてくださったんだという敬虔な心で、今をありのまま感謝して受け止めることが二つ目の幸せの秘訣です。

≪秘訣③≫(詩篇112:1)
「幸いなことよ。主を畏れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」
※万物の創始者である主・イエス・キリストの御教えを喜ぶものは幸いである。
 神様は絶対なる良き神様です。不幸や災いと思われるものを、幸福に変えることの出来る力を持っておられます。たとえ災いの中にあっても幸せを受けることが出来る、そのような心、そのような人生に、神は造り変えることが出来るお方です。
 御教えを通して、不満は感謝に変わり、困難や問題が幸せに変えられる、それを体験したクリスチャンは、神の御教えを喜びます。
 万物の創始者が、主イエス・キリストという名前を持ってこの地上に現れてくださいました。その方が語る御教えが「聖書」の中に、特に「福音書」にはイエス様ご自身のことばが記されています。そのことばをよく考えて実行すると、争いや欲望に囚われず、冷静に自分の分を弁えて生活する知恵と賢さが与えられていきます。
 「雨風がしのげる家があり、食べる物があり、家族がいれば、幸せ」という、かつてのブータンの国民のように、神様に与えられたものを感謝して満足するような、心の熟練した徳の高い人格者、成長した高齢者の幸せな人生を送って頂きたいと思います。

【デボーションポイント】(ローマ3:23)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」
※神から栄誉を受ける幸せ
 私たちは栄誉を受けたいから、報われたいから、善を行うのではありません。しかし、正しく評価される主権者からお褒めの言葉を頂くと、すべての労苦が報われるような、慰めと安心を感じ、また元気が出るというものです。
 人の幸せを願って与えていく、そういう生き方を、「多くの人を幸せに導いた」と正しく評価してくださる方がいる、主権者なる神様が分かってくださるということ、それは大変幸いなことです。
【俳句】 
施しは  幸せを産む  秘訣なり

 長寿の幸せの秘訣として、「与える幸い」と、「満ち足りる心の幸い」と、父なる神様から「栄誉を与えていただける幸い」についてお話いたしました。 
 遠山博士のように何百万人を助けるような偉業ではないかもしれませんが、一人でも幸せになることを願って与えていく、そのことがあなたの霊と心と肉体をも健やかにしてくれる秘訣となるのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年9月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊は必須  up 2024.9.8


主題聖句(ガラテヤ5:16)
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。


 

 最近は、誠実な人が騙され裏切られるような、希望がない社会です。クリスチャン同士も完全ではありませんから、誠実なつもりで歩んでいるのですが、自己中心の罪の性質というものが影響して、結局は自分の利益につながっていってしまうという、そんな世の中です。
 
 しかし最後は,全世界が私たちを見捨てても、神様は決してお見捨てにならず、愛を示し続けてくださるお方であるということが、クリスチャンにとって一番の望みです。

 神様は、創造の初めから今もなお創造の御業をなしておられ、最後には神の国を完成させられます。

 黙示録には、人は最後には「神の国」(天国)か「火の池」(地獄)か、2つの場所のどちらかで永遠を過ごす、ということが書かれてあります。永遠のいのちに至る人々と、永遠の滅びに至る人々の、二つに分けられるということなのです。
 
 地獄は、「悪人が受ける報いの場所」「苦しみを受けるところ」だと黙示録に書いてあります。悪が好き、という者たちが全員集められて、互いに悪を図り合い、争い合って、害を受けながら害を与え合い、永遠に苦しみが終わらない、平安のない世界が想像できます。
 
 イエス・キリストを信じる者は、永遠に罪が赦されています。そして、神の子として新しい人生を始め、そして神の国に入り、神の国を相続する神の子としての、永遠の神の国のご計画に進んでいくことになります。
 
 神様は、私たちが神の子として相応しい生活をすることを願っておられます。だから、神の子としての自覚をもって人生を生きて行くことは、私たちの、神に対する誠実な姿勢なのです
 罪人ですから失敗もあります。なかなか治らない罪もあります。治らないからと言って、罪から離れるという誠実な努力を止めてはいけません。この世を去る最後の時まで、またはキリストの再臨の時まで、誠実さを(信仰を)保ち続けてください。
 
 神の子としての神の御霊を迎え入れることが出来るためには、誠実さが必要です。神の子としてのいのちを受け止めるために、あなたの心が神に対して誠実であることが、唯一の条件なのです。

 失敗は失敗と認めて告白し、同じ失敗や同じ罪を犯さないように、神の御霊と共に歩んでいく、これが御霊によって歩むということです。
この誠実は私たちを赦してくださった神様のあわれみに感謝する心からわきあがってくるものです。
 
 皆さんは神の子です。神の子として最後まで全うできるために、神の霊である御霊を、賜物として受けることが出来ます。信じる者は誰でも受けることができます。もしくは受けているのです。

 それを前提に、神の子としてのクリスチャン生活を始めていきます。初めは失敗が多くても、少しづつ成長して、段々と失敗が少なくなっていき、改善され、造り変えられ、段々と赦せるようになり、同じ罪から離れていけるようになります。それが、誠実さ(信仰)です。
主題聖句
(ガラテヤ5:16)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 主題聖句の観察
   「私は言います」

※確信に満ちた力強い勧めと励まし
 罪の誘惑に陥りやすく、すでに陥っていた人もいたと思われるガラテヤの教会の人々に手紙を当てて、パウロは「私は言います」と強調しています。
 
 その心は、「大丈夫だよ、この手紙に書かれてあることを守れば、絶対ゴールにまで行き着くことができるから」という確信に満ちた力強い勧めと励ましでした。

※御霊の啓示と深い交わりによる実践からくる信仰
 パウロ先生がユダヤ教から回心してイエス・キリストを信じるようになった時、しばらく荒野で、聖霊様との交わりの時間を過ごしました。そのときに、パウロ先生は、旧約聖書から新約聖書が生み出されていくような真理を啓示され、悟らされました。
 御霊様との関係はとても大事です。内におられる御霊様が、みことばの意味を深く教えて、目を開いてくださるからです。パウロ先生はそれをよく体験していたので、私たちに「御霊によって歩みなさい」と勧めておられるのです。

Ⅰ.御霊は必須
①Ⅱコリント1:22
「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」

※神の約束の確認の印であり保証である。
 日本では契約書に両者が署名し捺印します。どちらか一方でも印がないと契約は無効になります。
 
 神様との契約書への、私たちの署名と捺印は、水のバプテスマです。そして、神様からの契約の証印は、御霊です。
双方の押印があって初めて、契約書は有効となります。
 
 「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けた者は、賜物として聖霊を受ける」と聖書に書いてあります。

 心を開いて信じるだけで、聖霊様は内に住んでくださいます。信じたと同時に聖霊を内側に迎え入れたと受け止めるのが、神様への誠実な応答です。
 
 では、内に頂いた御霊によって、私たちはどう生きて行くのでしょうか。私たちの誠実(信仰)が問われるところです。

②ローマ8:14
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
※神の子として生きる人は、御霊に導かれている人。
 罪の赦しの目的は、赦された者が、神の子(御霊に導かれる人)として新しい人生を生きることです。

③ローマ8:9
「もし、神の御霊があなた方の内に住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」

※キリストの御霊を持つ者は、キリストの御からだの一部である。
 「キリストのものとなる」というのは「聖別する」ということです。「聖別」とは、分かつこと、分離することです。どのように分けられるのでしょうか。
 
 初めに、神は天と地を創造されました。聖別されたのです。 神様はこの世の罪の人々の中から、私たちを聖別しました。キリストのものとして、キリストの働きをする神の子どもたちとして、私たちを分けられました。
 
 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。信仰を持っていても御霊を持っていなければ、キリストに属していない、聖別されていない、ということです。
 
 クリスチャンは聖別されています、不敬虔なこの世から分離されて敬虔な群れに入れられています。キリストのからだに組み合わされているのです。

 キリストのもの、キリストに属する者となったのですから、不敬虔な人と調子を合わせる必要はないのです。
 
 クリスチャンも神の前に立って一度裁きを受けることが定まっています。御霊を持ったクリスチャン、誠実に歩んだクリスチャンは、御国を相続する者として御国に入ることができるのです。

【デボーションポイント】
※信じる者に内住される御霊との関係がいかに重要であるかを認識し、かかわりを深める実践をする

 あなたの内におられる聖霊様と親しくなってください。交わりを通して親密な関係を築いてください。そして間違いのない神の子としての御霊に導かれた歩みを、建て上げていきましょう。
 
 それは実際にどういうことなのかを、聖書を読み、信仰書を読みなどして、自分なりに祈り、考え、チャレンジしてみてください。これをおろそかにしていると、神への誠実さが弱ります。

【俳句】
 御霊との  交友つづけ  進み行く

 大事な御霊様との関係を今からでも体験してください。求め、祈り、チャレンジしてください。みことばを読んで黙想してください。兄弟姉妹と交わって信仰の分かち合いをしてください。徳を高める交わりをしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年9月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的な人は誠実6  up 2024.9.1


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

 今年のテーマ「御霊によって歩もう」について、前回までに、8つの項目をあげてお話ししてきました。その8つ目のテーマは、「霊的な人は誠実」ということで、5つのポイントをお話してあります。
 今日は、6つ目のポイント、「権威における誠実」について学んで行きたいと思います。

Ⅷ.霊的な人は誠実 (へブル11:6)
「信仰(誠実)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

①誠実とは神への信仰 信仰は誠実という言葉と同じギリシャ語

②誠実な捧げもの カインとアベル(創世記4:3-12)

③神の赦しと神への誠実 僕を憐れんだ王(マタイ18:23-35)
④誠実を受け継ぐ 先祖の教えを継承(エレミヤ35:6-10)

⑤多く赦された者の誠実 罪深い女のもてなし(ルカ7:36:48)

⑥権威における誠実(ルカ7:2-10)

 主題聖句(ルカ7:2-10)に記されている異邦人と思われる百人隊長は、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人のために会堂を建てるなどして、皆から尊敬を受けていました。
 そしてイエス様からは「立派な信仰だ」と言って評価されています。どこに、そういうヤーウェの神への誠実さが現れていたのでしょうか。

⑴≪権威≫について
 ≪権威≫というギリシャ語には、「特権、力、能力、支配力、権威、委任された影響力、権力」などの意味が含まれています。
すなわち、それは物事を処理する支配力であり、≪法≫≪定め≫によって付与された力。委ねられた範囲において力を自由に行使できる特権であると言えます。

⑵権威に対する正しい理解

ア)『私も権威の下にある者』
 百人隊長は、イエス様のもとにユダヤ人の長老を遣わして、部下の病気を癒してくださるよう求めました。

 異邦人なので、自分が直接行って、イエス様を汚してはいけないという配慮があったのでしょう。更に友人たちを使いに出して、わざわざ家にまでお出でくださいませんように、自分は家に来て頂く資格もない者ですから、とまで言って、非常にへりくだった態度をとっています。
 
 そして「ただ、おことばを頂かせてください。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます。」その根拠として、「私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」と説明しています。
 
 そしてイエス様から、「このような『立派な信仰』はイスラエルにも見たことがありません。」と評価されたのです。
ここに、権威と誠実さの結びつきを考えることが出来ると思います。

※権威ある者は秩序をわきまえている
 百人隊長は、異邦人とユダヤ人、という旧約聖書の中にあるユダヤ教の内容をよく知っていて、会堂を建てたことも、ユダヤ人の信仰を尊んでいた証であることがわかります。そのユダヤ教の教えから、世界を救うメシアが出現するということも知っていたのでしょう。
 
 聖書(旧約)に書かれてあることがイエス様において成就してきている、また色んな奇跡やしるしが為された、そういうことを通して百人隊長は、イエス様が神の遣わされた救い主、万物の主権者である父なる神様から権威を授けられた神の子であられることを理解し、認めていたのです。
 
 ですから、百人隊長は、社会的に言えば自分の方が身分は上であるにもかかわらず、イエス様に対しては限りなくへりくだることが出来ました。そのように悟れたのは、権威の中で働いていた百人隊長自身の悟りでした。
 
 また、与えられた権威は、自分に任されている地域の治安を守るため、平和を維持するため、暴力によってではなく、ユダヤ人の信仰を尊重し、争わず平和をつくっていく、そのための権威であることも百人隊長は分かっていました。
 
 部下が病気になった時は、イスラエルの神は全能の神であり、癒し主でもある、その神に遣わされた救い主イエス・キリストはすべての面で権威をもっておいでだから、どんな病気も従わせることが出来ると考えました。そういう権威と力を持ったお方としてイエス様をとらえていました。

 あれだけの神の働きをしているイエスというお方は、確かに神に遣わされた権威あるメシアであるに違いないと受け止めていたのです。それは本当に神への誠実な心、そして「立派な信仰」でありました。
 
 当時のユダヤ人指導者たちは、ナザレの出で大工の息子がメシアである筈がない、という自分の主観に固執してイエス様を受け入れることが出来ませんでした。その不誠実と不信仰は、百人隊長とは対照的でした。

イ)『立派な信仰』と評価
 
※主権者への畏敬の念=誠実=信仰

※神の主権を畏れ、自分の分をわきまえて秩序を守ること、これが神に対する誠実であり、立派な信仰です。

 創造主なる神様が主権をもって遣わされたメシアとしてのイエス様を認め敬った百人隊長の、神を畏れるその心は本物だということで、イエス様は「立派な信仰だ」と評価されています。
 
 神様からの評価を考える時は、神様がどのような役割を果たさせようとして地上にいのちを与え人生を与えておられるかを見ることが大切です。
 私たちはどうでしょうか。この世の風潮、この世の価値観、地位や肩書など、うわべのもので評価したりしていませんか。
 
 最も大事なことは、内に聖霊様がおられるかどうか、良心が聖霊の聖めを受けているかどうかです。そしてそれは誠実さと深い関りがあります。

 イエス・キリストを信じて水のバプテスマを受けると、賜物として聖霊を受けます。洗礼とは、私たちを救って下さった神様の愛とあわれみの御業に対する「誠実な神への応答」ですから、「神に対する誠実さ」が間違っていると、聖霊様を受けることが難しくなります。

【デボーション】
(ヨハネ1:12)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

※キリスト者には、神の子としての特権が与えられています。
 付与された権威を誠実に用いることを考えてみましょう。
 私たちの心を支配しようとする悪霊、闇の支配に対して、私たちは「サタンよ、おまえには何の権限もない!私には神の子の権限がある!言うことを聞け!」と、神の子としての特権を行使することが出来ます。

 確信が必要です。実践を通して、失敗を重ねながら、権威を正しく行使していくという訓練を積み重ねていきましょう。
 人に対してではなく、闇の支配、悪霊に対する権威として、神の子の特権が与えられていますので、それをよく理解して、私たちの内に働く罪の力、古き人の存在、否定的な思いに対して、追い出す、縛る、コントロールする、私たちはそういうことが出来る立場にあるのです。

 「弱い者です」と、いつまでも幼い信仰に留まるのではなく、成人者として、神の子に付与された特権を誠実に用いて前進していきましょう。

≪百人隊長は与えられた特権をどのように用いたかを参考にしてください。≫

【短歌】
   
神の子の  特権感謝して  誠実の
    
 輝き放ち  平和を保つ

 

 

 

 

 

 

 

■2024年8月25日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

主につく者は来なさい  up 2024.8.25


主題聖句(出エジプト32:26)
そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。


 

 昨今の世の中の情勢をニュースで見るときに、何が正しい情報で、何がフェイクニュースか本当にわからない時代だとつくづく思います。

 特にイスラエルとパレスチナ問題は、日本で正確な情報を得るのは難しいでしょう。

 日本だけでなく、世界中がイスラエルではなく、少数のパレスチナに同情の視線を向け、武力で圧倒するイスラエルを非難しています。

 お盆の時期に、教会の学生キャンプを持ち、この問題を自分でインターネットから情報を得て、発表するという機会を持ちました。

 彼らのまとめは、”どっちもどっち”でした。私も正確な情報を持っていませんし、政治的なことはわかりませんが、それでもイスラエルに味方したいと思っています。

 何故なら、エルサレムの平和のために祈れ(詩篇122:6)とあるように、神様にとってイスラエルは特別な国のはずだからです。

 出エジプト32章では、モーセがシナイ山に登って神様からのことばをいただいている最中、ふもとに残ったイスラエルの民が、アロンに迫って金の子牛の像を作り、神として崇めたという出来事が描かれています。

 モーセが山から下り、堕落している民を見て「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言いました。
 行動したのはレビ族でした。偶像礼拝をする3000人以上の中で、モーセの呼びかけに応じたレビ族の神様への信仰は見習わなければなりません。

 特に日本では、クリスチャンは少数です。多数がイエス様を否定し、聖書の神様を否定するでしょう。イスラエルを悪く言うでしょう。

 それでも、この世と調子を合わせず、神様の側に最後まで立つのが、この時のレビ族のような真の信仰者だと思うのです。

 たくさんの情報で溢れる社会の中で、偽りの情報や教えに惑わされることなく、最後まで”主の側につく”者でありましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年8月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的な人は誠実5  up 2024.8.18


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

 誠実は律法ではなく、内側から湧き上がってくる心の動きです。
①誠実とは神への信仰
  信仰は誠実という言葉と同じギリシャ語
②誠実なささげ物
 カインとアベル(創世記4:3〜12)
③神の赦しと神への誠実
   僕をあわれんだ王(マタイ18:23〜35)
 あわれみを受けた者はあわれむのが誠実な行動
④誠実を受け継ぐ
 先祖の教えを継承(エレミヤ35:6〜10)
⑤罪深さの赦しを悟った誠実な対応
(ルカ7:36〜48)
『〜ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
〜だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。』

(1)イエス様のたとえ話し
 五百デナリの借金と五十デナリの借金の免除。
 どちらが多く愛するか?
 パリサイ人シモンは正しく回答。
 「よけいに赦してもらったほう」
 多く赦された者は多く愛するということが、イエス様の教えたいことです。
 シモンは簡単な質問だと思い、すぐに回答しました。
しかし彼のイエス様に対するもてなし方から、横柄で高慢な人であったと言えます。

(2)誠実な対応の違い
ア)罪深さの赦しを受けた女の誠実
 イエス様を特別な方としてもてなしました。
 イエス様が自分の罪のために生贄となり、贖ってくださるということを悟り、彼女は涙でイエス様の御足を洗い、髪の毛で拭いて口づけしました。これが彼女ができる最高のもてなしでした。

イ) 誠実がないパリサイ人シモン
 当時の環境では、招いた客に対しては足を洗う水を持ってくるのが当たり前の礼儀なのに、彼はそれすらもしませんでした。
 
 彼は単に自分の名声をあげたいために、話題の中心になっているイエス様を自分の家に招いたにすぎませんでした。

●誠実とは、あわれみを受けたことへの愛の応答です。
 罪深い女とパリサイ人シモンの対応は全く違いました。
 シモンは社会的地位はないと決めつけていたイエス様に対して、このような横柄な態度を平気でとったのです。

〈デボーション〉
★パリサイ人シモンが罪深さを悟ったなら、イエス様をどうもてなすでしょう?
 涙を浮かべて感動するはずです。しもべではなく、本人がイエス様の御足を洗ったことでしょう。
そして敬意を示し誠意を尽くす態度で最高のもてなしをしたはずです。

★イエス様はパリサイ人シモンに何を悟らせようとしたのでしょう?
 私たちも自分の気付けていない問題がないか目を向けてみる必要があります。
 シモンは律法を知り、知識もあったので、自分も罪人だということは知ってはいました。しかし、この女よりは自分は正しい人間だという自負があったのです。その心が彼の判断を鈍らせました。

●比較の自己義は、健全な誠実を鈍らせる。
 この自己義がイエス様が救世主であるということを認めさせませんでした。
 もしイエスの生まれた場所などをきちんと調べていたら、預言で告げられている通り、イエス様はベツレヘムでお生まれになったと分かったはずです。
 神様はローマ帝国の住民登録という方法を用いて、イエス様がベツレヘムで生まれられたことを実証されていました。証拠を残されたのです。
 イエス様のことを調べるほど、疑いのない救い主であるということが立証されます。
 ベン・ハーを書いたルー・ウォーレスは、イエス様が救い主ではないと証明しようとあらゆる方法で試みた結果、この方以外に救い主はいないという結論にいたり、反キリストから一転して、イエス・キリストを信じ、証しするベン・ハーという小説を生み出しました。
 私たちは人よりは自分の罪はましだと考えて、自分を義としていないでしょうか。
 しかし神の前には同じ罪人であるという事実に変わりないのです。
 むしろ、大きな罪は神への不敬虔です。不敬虔さがイエス・キリストを預言通りのメシヤと認めさせませんでした。
それがパリサイ人や律法学者の大きな罪となったのです。彼らは一番深い罪を犯したのです。
 
 私たち人間は負債の大きさによって対応を変えます。これが罪深さです。
 罪赦された、負債を赦されたということは同じはずなのに、誰かと比べて自分の罪は大したことはないという思いを持っていたら、それほど恩義は感じなくなります。しかし、それこそが神様への不敬虔な心なのです。

 そこには損得勘定が隠れていて、感謝も感じなくなります。
イエス様はシモンがその間違いに気づくように願われました。
比較社会で比較していく自己義に陥らないように気をつけましょう。

 罪赦されたことに対する神への誠実な心、感謝を忘れないようにしましょう。

【短歌】

深き罪 赦されたなら 汚れなき 
魂のため 誠実に歩む

 赦されたことに対する神様への誠実な応答を表し続けましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年8月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的な人は誠実4  up 2024.8.11


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

 今日は、今広島県全域にトラクトを配布し、伝道するために来られている宮城県伊具郡丸森町にあるキリスト教系のボランティア団体、聖書配布協力会のチームの約60名の方々の代表として、ナタン・ブローマンさんのお証しを伺いました。
 
 今私たちはみことばから誠実という学びをしています。今日、お証ししていただいたのには理由があります。

④誠実を受け継ぐ
 先祖の教えを継承

エレミヤ35:6〜10
すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。
あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。
それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、
住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。
私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行ってきました。
 
 預言者エレミヤは背信のイスラエルの民にずっとメッセージをし続けてきました。エレミヤはレカブの子ヨナダブの子孫を通して、イスラエルの民に証しをしています。
 
 彼らは自分の先祖に神が与えられた命令を、ずっと自分たちのするべきこととして忠実に守り続けてきました。これは本当に大切なことです。

 彼らは普通のイスラエルの民のような生活をしないで、特別な生活をしていました。
 彼らの先祖ヨナダブは、北イスラエルで、エフーという人がバアル礼拝に傾倒していた王を滅ぼして、民がまことの神に立ち返るようにした時に、ともに働いた神に熱心な忠実な人でした。
 北イスラエル王国は無くなりましたが、このヨナダブの家系だけは残り続けたのです。彼らは誠実に神の命令を守り、神に仕え続けました。その結果、将来と祝福が与えられたのです。
 
 ヨナダブが神から受けた命令は親から子に伝承され、心からその教えを守るという姿勢も受け継がれました。それは誠実の現れです。
 今日証ししていただいた丸森のチームの皆さんは、普通の生活からかけ離れた生活をしておられます。
 
 自分たちで働き、その収益で伝道のための印刷も看板作りも車もすべてまかなっておられます。それは自由がないかのように感じるでしょう。
 
 しかし、その伝道生活は祖父から始まって、息子、孫へとつながり続けています。
 
 なぜそのような生活についていけるのでしょうか。それは、神のことばが人の心を変えていくことを見て経験されているからです。
 
 神に対する誠実な心がずっと受け継がれてきているのです。大切なのは心です。心が受け継がれていなかったら形だけになり、いずれ離れていくでしょう。
 
 神への誠実な心は親や兄弟、周りの人々に受け継がれていき、それは愛につながります。
 
 いつまでも残るのは、信仰(誠実)と希望と愛です。その最も大いなるものは愛です。その愛は誠実さが土台となっています。この信仰と希望と愛はひとつです。
 
 この誠実な心が受け継がれてきたチームの方々を本当に尊敬します。 
 
 ナタンさんのお父さんポール先生は大変しつけの厳しい方でした。おそらく子どもの時は辛かったと思います。
 
 しかしそのしつけはキリストへの熱い思いと、滅びる魂への悲しみと、救われてほしいという心からくるとものと受け取っていかれたのだと思います。
 
 才能や能力ではなく、神を敬う誠実な姿勢こそが大切です。
 
 以前、大変な暑さの中自販機で百円の飲み物を買う時に、ポール先生は「私は全員をみているから、日本以外で働いている三百人の人たちにジュース一本を与えるとしたら、三万円かかる」と言われました。
 
 そのように、何をするにも、いつも自分のことではなくチームの人たちのことを優先して考えておられました。
ポール先生は実の子供と養子とで22人を育てられました。その苦労は大変なものだったと思います。
 
 私たちも神を敬う誠実な心を子どもたちに受け継がせていけたらと願います。
 
 チームの方々の環境を貧しいととる方もおられるかもしれませんが、神への誠実な心を養うために必要だったとも言えます。
 
 彼らはさらに世界宣教のために中国語も学んでおられます。
このような苦労は必ず将来に大きな実を結びます。必ず報われます。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年8月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的な人は誠実3  up 2024.8.4


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げいれた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏たちに引き渡した。
 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 今日は、先週のメッセージの「Ⅷ.霊的な人は誠実」①と②の続きで、③「神の赦しと神への誠実」と題して、「赦された者は誠実に生きて行くことを求められる」というポイントを紹介したいと思います。

Ⅷ.霊的な人は誠実
(へブル11:6)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

①主題聖句より誠実について
 信仰は誠実という言葉と同じギリシャ語
 
 誠実(信仰)とは、創造主として万物を治める方が存在されることに敬意を持ち、創造主への敬虔さをもって従う者には報いてくださる良き方であると信頼していることをいう。

②誠実な捧げもの(創世記4:3-12)
⑴「初子」⇒ 第一に優先すべきお方 

⑵「最上のもの」⇒ 主を畏れ敬っている証し

③神の赦しと神への誠実 (マタイ18:23-35)

⑴最後の審判のたとえ
 この例え話は、神様の最後の審判を予表しています。
それがいつ行われるかは、王様が「清算をしたいと思った」と書かれてあるように、神様のみこころ次第であり、人はその「時」がいつなのかを知ることはできません。

⑵返済不可能な借金のしもべ
 借金の清算の日も未定で、今まで返済の催促もなく借り続けている状態で、しもべは、返済するという義務感や責任感が薄らいでしまったようです。このしもべの姿勢は、私たちの神に対する姿勢と比べてみることができます。
 
 このしもべの借金一万タラントという大金は、一生かかっても返済できないほどの金額です。神に対する私たちの罪も、自分の力では償いきれないほど大きいものです。しもべは借金の大きさに気付かず、人間は罪の大きさを悟りません。大目に見てもらっているという油断が生まれ、罪に対して鈍感になり、主人に対する誠実さも低下していきます。
 
 神様は、私たちの罪の処分に関して、それぞれの責任、立場、与えたいのちをどう使うのか、すなわち罪の借金を増やす人生にするのか、罪の借金を少なくしようと心がける人生にするのか、それを一人一人に委ねておられるのです。

⑶猶予を求める
 しもべは罪の大きさを認め、心砕かれ、へりくだって、主人の前にひれ伏しています。そして「猶予をください。」と願います。
 とても返せない額ではあるけれど、少しづつでも返そうという精いっぱいの思いを弁明しました。

⑷あわれんで免除した王
 しもべのへりくだった必死の弁明は、王様にあわれみを起こさせるほどのものでした。そして王様は、猶予ではなく、借金を全額免除してやりました。
 
 お金のことだけに関心のある王様であれば、猶予を与えて、少しでも貸したお金を回収しようとしたことでしょう。王様の関心は、お金ではなかったのです。

 猶予ではなく免除を与えたのは「あわれみ」による。⇒罪の赦し
 
 罪も同様です。私たちは自分の罪を償えるような良いものは何も持っていません。赦して頂くだけです。神様にあわれんで頂くしかないのです。それほどに私たちの罪は大きいのです。
 神様への一番大きな私たちの罪は「不敬虔」です。神を畏れず、神を神と認めず、これくらいいいだろう、神様には、どうってこともないだろう、と神を軽んじる罪です。
 神様に対してそれほどに罪深い私たちであっても、憐れみ深い神様は私たちが滅びることを望まず、赦され救われて永遠のいのちを生きてほしいと願ってくださっておられるのです。
 
⑸免除された者は、借金のある仲間に厳しく取り立てた
 
 大きなあわれみを受けたことを忘れるほどの高慢さと貪欲さ。    

 百デナリ借金した仲間が「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と嘆願した言葉は、一万タラントを免除されたしもべが、王様に必死にすがった時と同じ言葉です。
 しかし、このしもべは、王様から頂いたあわれみを、仲間に現すことが出来ませんでした。あの時、砕かれ、へりくだった彼の心は、心底砕かれ切ることが出来なかった、つまり神様のあわれみを軽んじたということです。

⑹他の仲間たちはこの成り行きを見て、非常に悲しんだ
 
 あわれみを受けたものがあわれみのない行動に対する悲しみ。
 
 自分も妻子も持ち物も、全部売って借金を返済するように命じたあの厳しい王様が、なんと借金を免除してくださった、その喜びと感謝も吹っ飛んでしまったのが、百デナリ貸した仲間との出会いでした。
 しもべは仲間に早速、百デナリの借金を厳しく取り立て始めます。しもべ自身はもう借金返済の心配もなく、その主人に雇われて生活費の心配も不要です。急いで百デナリを回収する必要はありません。なのに、仲間を厳しく取り立てて、払えないので牢に投げ込みました。
 それを見ていた他の仲間たちは悲しみました。この「悲しみ」は、何を意味しているのでしょうか。「あわれみを受けるとはどういうことか」これが、神様が私たちに教えようとしておられる大事なポイントです。

⑺悪い奴だと王は認定し、あわれみを取り消した
 
 王のあわれみを無駄にしたことへの審判がなされる。
 
 借金を踏み倒したという罪ではなく、神のあわれみを無駄にしたということに対する罪の審判が行われました。
 私たちは神様のあわれみを受けて、罪無き者として神の子の人生を歩んでいる中で、神の赦しのあわれみを無駄にしたクリスチャン生活を安易に送ってはいませんか。
 それに気づかない理由は、一万タラントという金額に表されている私たちの罪の大きさに気付いていないか、忘れてしまっているか、どちらかです。

⑻あわれみを受けた者は、あわれみを施すべきである

 それがあわれみの掟、愛の律法。これを守ることが神への誠実。
 
 自分は神様のあわれみによって赦されたのに、他人にはあわれみを施さないしもべを、王様は「悪いしもべだ」と認定しました。借金の額ではなく、王様のあわれみを無にしたことの方が大きな罪でした。神様にあわれみを受けるということは、それほどに聖なることなのです。
 愛の律法は、赦されたら、赦されたものとして赦しを施していくというルールがあります。あわれみを受けている私たちは、憐れみのルールの中に生きています。それは神の国のルールです。
 行いのルールは旧約聖書に書かれてあります。行いの律法において犯した罪は、あわれみによって取り除かれます。そのかわり、その赦した罪は神ご自身が背負われます。
 すなわちイエス・キリストとして、この地上に来られて、私たちの罪を背負って、その苦しみを十字架とハデスで受けてくださいました。借金を払ってくださったのです。
 そういうあわれみと赦しを受けたのなら、これからは、あわれみの掟の中で生きて行こう、赦しを受けたのだから赦していこう、親切を受けたなら、親切を施していこうと、それが愛のルールです。
 罪を裁いて未来を取り去ることより、あわれみによって罪を赦し、未来にチャンスを与えたい、これが神様のお気持ちです。このチャンスの間に、改めるべきことを改めて生きることを、神様は望んでくださっておられます。

【デボーション】
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 私たちはなぜ、他人を赦せるのでしょうか。親切にできるのでしょうか、なぜ心の優しい人になれるのでしょうか。
 
 それは神様にあわれみを受けて赦されたからです。だから互いに赦し合い、愛し合うことができるのです。

【短歌】
    
あわれみを  軽視すること  御霊への
   
 冒涜であり  赦されぬ罪

 

 

 

 

 

 

 

■2024年7月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的な人は誠実1、2  up 2024.7.28


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

 今日は、「御霊によって歩もう」の8番目のテーマとして「霊的な人は誠実」と題してお話致します。

①主題聖句より、「誠実」について
 (へブル11:6)の「信仰」という言葉は、ギリシャ語では「誠実」という言葉が使われていました。
 
 ギリシャ語の「誠実」は、もともと神と人との健全な関係を現わすときに用いられた言葉でしたが、人間同士の関係においても同様に、「誠実」という言葉が使われるようになり、そしてヨーロッパにキリスト教が伝えられる頃には、神様への「誠実」は、「信仰」と訳されるようになったわけです。
 
 そういうことを踏まえて、(へブル11:6)に合わせて「誠実」を説明いたしますと、≪誠実(信仰)とは、創造主として万物を治める方が存在されることに敬意を持ち、創造主への敬虔さをもって従う者には報いてくださる良き方であると信頼していること≫と言うことができます。

★参考
 一般道徳からの誠実な人の特徴
 ⑴嘘をつかない
 ⑵礼儀正しく相手を敬う
 ⑶思いやりがある
 ⑷裏表がなく誰に対しても平等
 ⑸責任感が強い
 ⑹真面目で正直
 ⑺約束を守る
 ⑻真剣に話しを聞く

②誠実なささげ物

(創世記4:3-12)
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきたが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきた。
 主はアベルとそのささげ物とに目を止められた。だが、カインとそのささげ物には目を止められなかった。
 それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主はカインに仰せられた。
 『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』
 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』
 そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
 主はカインに、『あなたの弟アベルは、どこにいるのか』と問われた。
 カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。』
 そこで、仰せられた。『あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地から私に叫んでいる。今や、あなたはその土地に呪われている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。』
 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』」

 アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。神様が喜ばれたのは、アベルのささげ物でした。
特徴は、「初子」と「最上のもの」であったことです。

⑴「初子」 
 初物、初子、十分の一は主のもの → 第一に優先すべきお方

 当時の「収穫の初物」や「家畜の初子」というささげ物は、現代の私たちの「収入の十分の一」に当たるものです。
 これらは神様のものであるということが聖書に書かれてあります。
 すべては神様が備え与えてくださったものだから、それらを特別に取り分けて(聖別して)神様にお返しする、ということなのですが、そこに込められた本来の意味は何でしょうか。
 
 「初物、初子、十分の一」をささげるというのは、その対象であるお方が、まず第一に優先されるべき尊いお方である、ということを表明しています。「ささげる」という行為は、敬うべきお方を尊ぶ心の表明なのです。
 
 アベルは「神様を尊ぶ」という心(誠意、誠実)を表すために、最高のものを差し出したいと思いました。
  
 カインにはそれがありませんでした。神様を畏れ敬う心がなく、自分の気持ちだけで動いているカインの姿が12節まで描かれています。

⑵『最上のもの』
最上のもの → 惜しまない心 → 主を畏れ敬っている証し
 
 「最上のもの」とは、「惜しまない心」ということです。
 品物としては最上のものであっても、惜しむ心があると、その「最上」は汚されてしまいます。そこに傷を付けることになります。
 
 プレゼントは心を形にするわけですから、惜しむ心が伴わない最上のものを選ぶべきです。よく吟味してください。
 
 誠実さ(信仰)がなければ神に喜ばれません。ですから、誠実さの中に、惜しむ心が湧くようなものは、誠実ではないのです。

 肉の思いで惜しむことはあっても、新しく生まれた神の子として喜んで神様に感謝を現わしたいと思う心を強く持ってささげるということが大事なことです

 献金箱に2レプタ献金をした貧しいやもめの女の話ですが、イエス様は、「たくさんの人が献金をしたけれど、あのやもめの女性は、持っているお金のすべてをささげたから、少なくても彼女が一番多くをささげたのだ」と言われました。
 
 貧しいけれど全部をささげるほどに、このやもめは、神様を信頼し、誠実でした。この女性は惜しむ心で献金してはいません。明日のことは明日が心配する、と心から神を信頼している彼女の誠実さが現れていたのです。
 ささげ物に傷がつかないようにしましょう。また、咎める心をもってささげ物をすることも同様です。

 私たちの受けた救いの恵みに感謝して、惜しむ心からでなく、咎める心からでもなく、自分の決めたものを喜んで誠実におささげ出来るようでありたいと思います。

【デボーション】

(創世記4:3-12)より、カインの不誠実なささげ物にはどのような心が伴っているでしょうか?

 カインは、自分のささげ物に神様の目が留まらなかったとき、怒って顔を伏せました。

 もし、それがアベルであったら、どう反応していたでしょうか。
「神様、申し訳ございませんでした。どうすれば良かったのでしょうか、次回気を付けますから教えてください」と素直に神様に教えを乞うたかもしれません。

 いずれにしても、誠意を尽くしてもそれが相手に伝わらないことは有り得ることです。しかし、怒る必要は何もありません。
 
 なぜカインは怒ったのでしょうか。カインはどういう心でささげ物をしたのでしょうか。他にもカインの不誠実さを読み取れることがあると思います。みなさんも考えてみてください。

※主なる神へのささげ物に誠実さが現わされているでしょうか?

 ささげるのは金銭だけではありません。時間をささげる奉仕など、いろんな形があります。

 神様を敬っている証として、しるしとして、神様に喜んでいただけるように、神様への誠実が現われるようなささげ物を心がけていきましょう。それが無駄になることはありません。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年7月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

恵みを奪われないために  up 2024.7.21


主題聖句(ルカ17:11〜19)
そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」


 

 夏期聖会から一週間が経ちます。聖会で受けた恵みは、18日のリバイバル集会や19日の祈祷会で分かち合われましたが、例年のように各々が恵みを受ける良い聖会となったことに感謝します。
 このような霊的祝福を受けた後は、決まってサタンからの攻撃があります。実際、今多くの兄弟姉妹が体調を崩していますので、私たちはこの恵みを奪われないために、しっかりと血潮の祈りをしていきましょう。

(ルカ17:11〜19)
そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

 この箇所は、十人のツァラアトに冒された人がイエス様に祈ってもらい癒されましたが、イエス様のもとに報告しに戻ってきたのは、一人だったというお話です。
 聖会後に、この九人のようではありたくないなと強く思わされたので、皆さんにもお分ちしたいと思います。
 十人とも癒しに関してはとても信仰的な行動をしています。イエス様が「行きなさい。」と言われただけで、彼らは祭司に見せに”行く”ことをしています。
 この時はまだ癒されていません。癒されたのは、行く”途中”とあるので、彼らは不信仰ではありませんでした。にもかかわらず、イエス様のもとに引き返して来たのは一人のサマリヤ人だけだったのです。
 
 このサマリヤ人と他の九人の主からの祝福に対しての応答の違いは3つ挙げることができます。

①主への感謝、②主をあがめる、③主についていく、です。 
 主は感謝することを強要しませんが、感謝は信仰を成長させることにとても有益です。
 それ以前に、良くしてくれた相手に感謝をすることは当たり前のことですから、私たちは、日々の主からの恵みにいつも感謝する者でありましょう。

 そして、口先だけの感謝ではなく、このサマリヤ人はイエス様の足もとにひれ伏して感謝しています。この主をあがめる姿勢は、主の恵みがどれほど大きいことか実感が無いと出来ません。
 毎週の礼拝も形式的なものではなく、主の恵みをますます理解することができる機会としていきましょう。

 イエス様が癒しを施した人たちの中には、そのままイエス様についていったという記事が残っています。(マタイ20:34等)このサマリヤ人もそうしたかは、このルカの箇所からはわかりませんが、私たちの人生は、主に従いついていく人生でありたいと願います。それは永続的な信仰の表明になるからです。
 
 困ったときだけイエス様に頼る人生は、他のご利益宗教と変わりません。今も生きておられる主は、今日も私たちに豊かに働いてくださることに心から感謝していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年7月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊に生きる教会  up 2024.7.14


主題聖句(ガラテヤ5:25)
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。


 

 7月13日(土)導き①
 イエス様がどのような御方であるかを知っていけばいくほど、律法的なクリスチャン生活から解放されます。
 一般的な世の中の様々な肉的なことから離れることを、律法的に受け止めてしまうと自由がなくなってきます。
 
 イエス様は今日というありのままの私たちを受け入れてくださっていますが、それは、明日も変わらないでいいというわけではありません。
 
 私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。これが聖霊様の導きです。
 何も霊的に特殊なことを体験しなくても、クリスチャンにとって霊的とは、主を畏れる生活を忠実にしていくことです。神の愛と救いの召しは変わることはありません。

(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」
 御霊と私たちの人格的な関係が大切です。聖霊様が分からないという人がいますが、この世的な考えで聖霊さまを見つけようとしてもそれは無理です。
 主を畏れる心をもって、内面的な五感、魂でふれることができます。そして御霊以外を通してイエス様を知ることは難しいことです。最初からすべて分かるわけではありません。

1)(イザヤ書 6:8)
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」
 ここから三位一体が分かりますが、これも御霊によらなければ悟れません。イザヤは預言者であり祭司です。
 
 この箇所はイザヤが成長するほど自分の罪深さが見えてきて、主の働きにふさわしくないと思っていた時に清めを宣言され、告げられたことばです。
 
 「われわれ」と複数形でありながら、神はおひとりであるという真理を3次元に住んでいる私たちには理解できません。ただ聖霊さまが私たちの知識を超えて、魂に証ししてくださいます。
 その三位一体の神様にふれられていくと、神を畏れるという感覚に自然に入っていきます。三位一体の地上での表れがイエス・キリストであり、父なる神、聖霊なる神が主イエス・キリストというその御名の中に表されています。

2)(イザヤ45:21)
「告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。」
 
 人から私たちは色々な評価を受けます。しかし、相手の価値観からの評価が正しいかどうかは違います。
違う評価をされて傷つく人もいるでしょう。
 神様が唯一ご自身を弁明され譲られないのは「わたしのほかに神はいない」という一点です。
 
 日本では理解できない考えです。色々な神がいて平和に平等であってほしいという考えだからです。
 最近では、神がおられるとも思わない日本人が多くなりました。それは肉の目でしか見ないからです。昔の人は精神的に人生を考え求めたので、神によって万物は成り立っているという境地に至る人が多かったと思います。
 
 唯一の神、創造主である方がイエス・キリストであると教えてくださるのが聖霊様です。これを人間的に考えても理解することはできません。

(イザヤ29:16)
「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」
 
 ヒューマニズムや人権の考え方に注意しないといけません。陶器と人間を同じに考えるなと不快に思う人は、ヒューマニズムにとらわれています。命は神から授けられない限り存在しません。命の元は神様そのものです。神が自由意志を与えてくださっているので、不遜な考え方もできるのです。
 これを悟らないと、イエスを主と信じることはできません。いくら自由公平と言っても、秩序がないと真の自由はありません。
 秩序のない自由は放縦です。建物も秩序がなければ建ちませんし、建ってもすぐに壊れてしまいます。会社も組織としての秩序を失うと壊れてしまいます。
 秩序がなければ組織は成り立ちません。大きなものが成り立つのに秩序は必要です。
 無秩序が拡大していくと善悪も見極められなくなり、欲望優先の不道徳な社会になっていきます。
 
 私たちはこの無秩序な世界に流されないように気をつけないとなりません。
 私たちは神様のすべてを理解することなどできません。限界があります。被造物と創造主とは全く違うのです。私たちはイエス・キリストは万物の唯一の造り主と認め、その主権を認めないとなりません。

 二分するという神様のお考えがあります。神は初めに無から天と地のふたつを造られました。そして暗闇と光に分けられました。
 
 創造されるのに、日本語訳の聖書では「区別された」という言葉が使われています。「ひかりとやみを区別された」「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」というように。
 
 区別というのは差別ではありません。ふさわしいもの同士が集まるというのが区別です。
 
 最後に神様は永遠の世界をふたつに区別されました。神の国と火の池です。なぜ火の池が永遠に存在し続けるのかずっと疑問でした。
 しかし万物の創造主なる神は、ふさわしいもの同士が集まるように造られました。そのどちらかが無くなるということはありません。どちらも永遠に存在し続けるのです。
 
 私たちは神の国にふさわしいと認めてくださって永遠に神の国に入れてくださいます。
 しかし、神を決して認めない悔い改めないものは、その罪のふさわしい悪が永遠に存在し続ける場所である火の池に行くのです。
 
 良いものと悪いものが混ざらないように、永遠に存在するようにそれぞれふさわしい永遠の世界に入れられるのです。
 神はふさわしいものを区別するために、創造されているということに気づいてください。この地上の時間はどちらにふさわしいかが決められていく時間です。
 
 聖霊は永遠の神の国に導いてくださっています。善を求めきよさを求め悪から離れる道を選択し、聖霊の導きに従っていきましょう。
 最後まで神の国に行き着くまで、迷いを捨てて、神の子としてふさわしい決断をしていきましょう。

3)(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
 
 聖霊樣が注がれているので、神が私たちを愛してくださっているということを信じられます。
 「あなたが必要だからあなたを愛しています」と「あなたを愛しているからあなたが必要です」の違いは何でしょうか。
 この世は、あなたが自分に価値があるから愛すると言い、神は無条件に存在そのものを愛していると言われます。そこに能力の差も価値のあるなしも関係ありません。
 天国にあなたが必要です。神はあなたを愛しておられます。愛に理由はありません。
 イエス様はあなたを愛しているので、十字架であなたの罪を負われたのです。教会はこのイエス様が満ちておられるところです。

(エペソ1:23)
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
 御霊に生きる教会とはこういう教会です。私たちは教会です。キリストの体です。イエス様が、聖霊様がみちみちておられます。
 9つの熟した実があなたの内に存在しています。あなたはもう許す愛を持っています。だから許しましょう。喜びましょう。
 
 この9つの実を積極的に用いていきましょう。
肉は反発し、嫌な感情は出てくるでしょう。しかし、あなたの本心は御霊の9つの実です。意志によって選び取りましょう。
 
 御霊により神様の愛を知ると、選び取りやすくなっていきます。肉の感情が強まるときこそ、御霊の助けによって9つの実を表すチャンスです。

7月14日(日)導き②
「羊は羊飼いの声を知っている」
(ヨハネ10:27)
「私の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
 
 今年の聖会のテーマ「御霊に生きる教会」は、「御霊の9つの実に生きる教会」ということで、「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・柔和・誠実・自制が満ちている教会」のことです。
 教会の一人一人が9つの実に生きています。教会の皆さんは、御霊の9つの実が内側から現れてくる、そういうクリスチャンなのです。
 御霊の9つの実は、クリスチャンに与えられる神様からのプレゼントです。プレゼントをどのように使うかは、与えられた人の責任です。他のものに気をとられていると、プレゼントが無駄になります。
 イエス様を信じている皆さんは、必ず聖霊様が内におられて、聖霊様が持っておられる9つの高徳の実を一緒に持っています。

※そうでありたいと願いましょう。御霊の助けによって出来る、と確信しましょう。

 御霊の9つの実に生きる人生でありたい。愛する兄弟姉妹とその人生を共に歩んでいきたい、そういう願いが与えられ、強められることが、この聖会のまず初めのポイントです。
 願いがあっても弱い、ということがあります。9つの実を用いようと思っても、しんどいとか、もっと好きなように自由にやりたいとか、そういう心が自分の内側にあると気付いておられますか?
 
 自分の力だけでは出来ません。御霊の助けが必要です。御霊の助けによって出来る、と確信しましょう。

 広島県の福山の中学生、三好美羽さんのお話を紹介いたします。彼女は、百メートル11秒57という日本中学記録の保持者です。そして全国の女子100メートル走決勝への出場資格を持っておられます。
 
 彼女の走法は独特です。地面に着く足に体重をかけながら走ります。体は揺れますが、瞬発力が強くなり、それで速く走れるということなのです。
 
 彼女は早く走るために自分でも熱心に研究しましたが、だめでした。しかし、コーチのアドバイスを聞いて、それを熱心に練習したところ、素晴らしい成績を残せるようになったのです。
 私たちも、神の子としての才能が与えられています。助け主聖霊様は、私たちが力を100%出せるようにと助けてくださいます。
 
 聖霊様は、内側から9つの実を現すことが出来るための良きコーチです。一緒に苦しみ、一緒に考え、一緒に一歩づつ進み、私たちを成長させてくださる良きアドバイザーです。私たちは聖霊様のコーチングをしっかり受けなくてはいけません。
 今日の主題聖句を見てみましょう。

【羊は羊飼いの声を知っている】
(ヨハネ10:27)
「私の羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

①「私の羊はわたしの声を聞き分けます」
 羊が聞き分けるのは、自分の羊飼いであるかどうか、だけではありません。叱られているとか、励まされているとか、羊は羊飼いの声を通して、羊飼いの思いや気持ちを聞き分けることが出来ます。
 
 私たちも、家族のように親しく長く聖霊様と一緒に過ごして、コミュニケーションの時間を多く持ち、交わりを深く持つことが出来るようになると、聖霊様が今どういうお気持ちで私たちに何を教え諭そうとしておられるのか、忠告であったり慰めであったり、その声を聞き分けることが出来るようになります。
 
 聖霊様は、私たちが善悪を見分けられるように助け導いてくださる良きコーチ、良きアドバイザーです。聖霊様の助けを頂いて、正しくコーチングして頂く時、私たちは神の子として成長出来るのです。

②「またわたしは彼らを知っています」
 この「知っています」というのは、表面的に知っているのではなく、寝食を共にし、一匹一匹が顔にも動きにも違いがあると分かって、それぞれに名前をつけて呼べるほどに、そんな深い愛の関係で、羊飼いは羊を「知っている」と言われます。
 
 神様は私たちの心のすべてをご存じで、どのように反応し、どのように反抗するかまでもご存知です。だからこそ私たちを永遠の御国に導いてくださる良き羊飼いなのです。

③「そして彼らはわたしについてきます」
 イエス様の羊はイエス様の声を聞き分けて、ついていきます。
 私たちも、みことばを実行し、失敗しても諦めず何度でもチャレンジしていきます。それがイエス様を信頼し、従っているしるしです。

※今、羊飼いイエス様の声を聞き分けることが出来ています!
 その声についていきましょう!
 神様は善と悪を見極めることの出来るお方ですから、神のかたちに似せて造られた私たちも、善と悪を見極めることの出来る者として創造されています。
 
 アダムとエバは、善悪を知る木の実を食べてはいけないと言われていました。先に「いのちの木」から食べる必要がある、というのが神様のお考えだったのです。
 しかし、アダムとエバは、先に「善悪を知る木」から実をとって食べました。そして人類は自分の欲望を基準として、善悪を判断するものとなってしまいました。

 「いのちの木」とは、神のことばイエス・キリストです。ことばなる神そのものを信じ受け入れて、それを心にもってこそ、善悪の基準を見極めることが出来ます。聖書のことばは、神のくださる食物です。興味をもって聖書を学び、味わい食して、その美味しさを知ってください。それはクリスチャンの実践です。
 
 みことばを食し味わうという基本が出来ていないと、みことばの美味しさを知らないので、欲望の方に引きずられるクリスチャンになります。欲望の力は強いのです。
 
 しかし、諦めてはいけません。私たちは弱くとも、聖霊様は力あるお方です。求めましょう、探しましょう、叩きましょう。諦めずにいれば、道は必ず開かれます。
 
 今日は聖会の最終日です。いま一歩、私たちが前に進んでいくために、聖霊様がコーチとして更に素晴らしいアドバイスを与え啓示を与えてくださいますから、その御声に聞き従ってまいりましょう。

【短歌】

善と悪  聞き分ける心は  羊飼い

キリストの御声  知っているから

 

 

 

 

 

 

 

■2024年7月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的歩みと肉的歩み  up 2024.7.7


主題聖句(ローマ8:5〜6)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 

 「御霊によって歩もう」という今年のテーマのもとに、7つの大きなポイントを挙げてお話しして参りました。今日は、その7つ目のポイント「霊的歩みと肉的歩み」の2回目です。前回(6月23日)のメッセージを簡単に振り返っておきましょう。

【Ⅶ.霊的歩みと肉的歩み】
(ローマ8:5-6)
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」

①霊的とは、肉的とは
 肉的とは、肉の欲求を満たすことに気をとられた生活です。霊的とは、主を畏れる敬虔な人、御霊に従う人のことで、御霊の9つの建徳のために意識する生活のことです。

②霊的歩みの実践
 霊的歩みの実践とは、神の子としての強い自覚をもとに、神との関係において心をきよくあるように求めること。

 今日は、「Ⅶ.霊的歩みと肉的歩み」の③として、「霊的歩みの人生観」と題し、クリスチャンが生きる人生観についてお話いたします。

【Ⅶ.霊的歩みと肉的歩み】

③「霊的歩みの人生観」(箴言28:6)
「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。」
(リビングバイブルより 箴言28:6)
「うそつきの金持ちになるより、貧しくても正直に生きる方がずっと幸せです。」     

 アメリカで本当にあったお話を紹介いたします。
 
 ある日、道端で物乞いをしていた浮浪者が、お金持ちの男性からお金を恵んでもらいました。
 
 その後その浮浪者は、ある婦人がバスのチケットを買い間違えて困っているのを見て、恵んでもらったお金でそのチケットを買い取ってあげました。
 
 そして残ったお金でパンと飲み物を買って、自分の寝泊まりしている所に戻りました。そこにはもう一人の浮浪者がいて、彼がお腹をすかせているのを知ると、そのパンと飲み物を彼に与えたのだそうです。
 
 その一部始終を見ていたお金持ちの男性は、その浮浪者に、どうして自分もお金がないのにあのように他人に親切ができるのかと尋ねました。
 
 彼は、「他人に親切にすると、自分にも親切が回ってくるから、自分は全く不幸ではない、幸せだ。他人が幸せになるのを見るのは幸せなことだ。」と答えたそうです。
 
 その金持ちの男性にはお母さんがいて、若いころ妊娠した時に離縁され、生まれた赤ちゃんを抱えて浮浪者同然の生活をしていた時があったそうです。
 
 路地裏で死を待つばかりの状態の時、ある浮浪者の人が毎日食べ物を運んできてくれたそうで、そのおかげで命拾い出来たという話を、男性はお母さんから聞いていました。
 
 そこで、男性はお母さんを、あの浮浪者の人の所に連れて行きました。お母さんは彼を見て、昔自分に食べ物を運んでくれた浮浪者の人であることがすぐわかり、あの時の恩返しがしたいということで、その浮浪者の人を家に招き、お世話をし、そして保証人になって、彼は仕事をすることも出来る様になったということです。

 誠実に人に親切を尽くし続ける彼の生き方は、(箴言28:6)にあるように、富んでいることよりも「ずっと幸せ」な生き方でありました。

 親切を施すことは、苦しんでいる人の苦しみを少しでも和らげてあげたいという隣人愛、人の幸せを願う心です。

 人は神のかたちに造られていますから、隣人愛は基本的に誰の心にも与えられているのです。
 
 世では、豊かさが幸せの条件だと勘違いされています。クリスチャンはそれに気が付かなければなりません。

 クリスチャンには、この地上よりもっと楽しみのある永遠の神の国があるのです。そこを悟らないと、クリスチャンもお金で幸せを保っているという錯覚に陥ってしまい、お金に囚われる歩みになってしまいますから、気を付けて頂きたいと思います。

A)持ち物によっていのちの価値が決まるものではない
(ルカ12:15)
「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でもその人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 立派な家や多くの財産を持っていると、他人より優れているような安心感や幸せ感を感じるかもしれませんが、欲求を満たすことが本当に幸せでしょうか。人類はそのために戦争さえするのです。

 貧しくても誠実に生きる方が幸せです、という価値観をしっかり心に刻んで、的外れのクリスチャンにならないようにいたしましょう。

B)永遠を見据えた人生 永遠の世界が最も大切 
(マタイ18:8-9)
「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げいれられるよりは、あなたにとって良いことです。」

 私たちは永遠という世界に関心を持たねばなりません。私たちの人生は、地上で終わるものではないからです。永遠のいのちに至るのか、永遠の滅びに至るのか、イエス様も厳しい価値判断を人々に求めておられます。
 
 遊ぶな、食べるな、楽しむな、と言っておられるのではありません。霊的なことに関心を持ち、真剣に受け止めて、永遠の世界に備えて生きなさいということなのです。
 
 確信が持てない中途半端なクリスチャン、なまぬるいクリスチャンは「口から吐き出そう」と、イエス様は(黙示録3:15)で言われています。

 イエス様が迎えに来られたときには、皆さん一緒に御許に引き上げられるように、霊的人生観を堅く保って、励まし合いながら誠実に共に歩んで参りましょう。

【デボーション】
(第1テモテ6:12)
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前で立派な告白をしました。」

※クリスチャン生活を「戦い」に当てはめているのはなぜでしょうか?

 戦いは勝敗がつきものです。あきらめたら、勝利できません。油断すると負けます。

 クリスチャンは、神の恵みとあわれみによって、永遠のいのちに至る人生を与えられて歩んでいますが、その歩み方は決して楽なものではありません。

 「戦い」のようなクリスチャン生活が、この地上には必要なのです。それは、霊と肉との戦いであるからです。

【俳句】 

戦いが 生み出す美徳 御霊の実

 戦いは鍛錬です。信仰の鍛錬を受けてこそ、高徳の実は生活の中に現れてくるのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年6月30日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

御霊によって自分の意思で歩もう  up 2024.6.30


主題聖句(民数記14:24)
ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。


 

2024年も今日で折り返しとなりました。”御霊によって歩もう”というモットーを定期的に振り返るときに、聖会を前にして更に踏み込んだ意識を持つ必要性を感じ、今回は”御霊によって自分の意思で歩もう”というテーマで話をします。

(民数記14:24)
ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。

 この箇所は、モーセ率いるイスラエルの民がエジプトを出て約束の地であるカナンを前にしている一場面です。モーセはカナンに12人を偵察に行かせましたが、その内10人は原住民に恐れて消極的な報告をしたので、民全体が恐怖し神様に不信仰を抱いた結果、荒野で40年過ごさないといけなくなりました。

 上記のみことばは、積極的な報告をした2人の一人であるカレブのことを語っている神様の言葉です。

 ここで注目したいのは、カレブはほかの者とは違った”霊”を持っているという点です。この時代は、まだ一人ひとりに神の霊が降っていないので、霊とは心の持ち方を表しているものと思われますが、この出来事の前に11章に、70人の長老にモーセから神の霊が分けられたことが描かれています。

 その影響は、部族を代表するカレブにも少なからずあったと想像できます。しかし主の霊の影響と個人の信仰は別物であるということを考えさせられます。

 70人の長老への主の霊の満たし以降、モーセの実の姉兄であるミリヤムとアロンが反抗したり、上記の10人の不信仰の報告など、主の霊が注がれている民の指導者たちの近くにいる者は、直接神の霊が注がれていなかったにせよ、神の意に反する行動をしてしまっているのです。

 そのような不信仰の行動をした者たちと、カレブの違いは一体何でしょうか。それは、前進するという個人の意思にあります。

 たとえ主に信頼があっても前進する意思が無ければ祝福にあずかることはできません。新約の時代以降、約束の御霊は私ちに内住してくださっていますから、なおのこと私たちが自分の意思で決断して前に進むことを神様は願っておられると思います。

 聖会に限らず、御霊に満たされることはゴールではなく、私たちが最後まで主に信頼することができるための原動力(油)です。御霊に助けられながら、いつも自分の意思で信仰の決断をし、神の約束の地である御国に入るのに相応しい歩みをしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年6月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

霊的歩みと肉的歩み  up 2024.6.23


主題聖句(ローマ8:5〜6)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 

【Ⅰ】霊的とは、肉的とは
(A)霊的とは、御霊に属することをひたすら考えること
①キリストのことをいつも思うこと(第2テモテ2:8)
「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」

 ダビデの子孫として生まれた「人の子」イエス・キリスト。私たちのために贖いの御業をなして死んでくださり、そして死者の中からよみがえられた「神の子」イエス・キリスト。その方がどんなに私たちを愛してくださったかを思う時、私たちは励まされ支えられます。
 私たちの内には聖霊様が住まわれていますから、私たちはいつもキリストを思って心が強められていきます。そのようにキリストのことをいつも思っていることを「霊的」と言います。

②キリストのことばを住まわせる(コロサイ3:16)
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 キリストのことばを内に豊かに住まわせ蓄えて、霊的な交わりをしなさい、と語られています。九つの聖霊の実が現れる強い願いの動機があってこそ、私たちは霊的という範囲の中に入って行けるのです。

(B)肉的とは、肉的なことをもっぱら考えること
①肉の欲のために心を用いること(ローマ13:14)
「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

 私たちはイエス・キリストというユニフォームを着ています。それは、自分が何者であるかという自覚のためにも大切ですし、周りにもそれを表すことになります。そのユニフォームを、肉の欲のために汚すことのないようにしたいと思います。

②この世のものを愛すること(第1ヨハネ2:15)
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」

 神様は霊なる聖いお方ですから、私たちが罪の世に同調していくことは、神様から離れて行くことになってしまいます。

 では私たちは「肉的なこと」を考えたり、「肉の欲」を行ったりしてはいけないのでしょうか。違います。ここで言う「肉の欲」というのは、限度を超えた欲「貪欲」を満たそうとする心のことです。
 それは御霊の実を現わす動機でなく、欲求を満たすことが動機となっています。また、表向きには「神様のために」と言っていても、心の底には自己満足の欲求を満たすという動機が潜んでいることもありますから、私たちは深く動機を吟味することが必要です。

【Ⅱ】霊的歩みの実践
(A)キリスト者としての強い自覚
①信じる者に与えられた特権(ヨハネ1:12)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

 イエス・キリストを信じる者には、「神の子どもとされる」という特権が与えられていますが、まだ全ての実体を手にしたわけではありません。自分のものにしたいという意思表示や行動が必要です。

②キリストをその身に着ている(ガラテヤ3:27)
「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」

 キリストに付くバプテスマを受けた私たちは、キリストというユニフォームを着ているのです。ユニフォームを与えてくださった神様に恥をかかさないようにしたいと思います。それこそが、ひとり子イエスキリストのいのちをもって、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださった神様の愛に報いることではないでしょうか。

③造り主のかたちに近づいていく(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

 私たちもかつては肉的なユニフォームを着ていましたが、今はクリスチャンとして神の子としてのユニフォームを着ています。そして、キリストのチームの一員として訓練され熟練者へと造り変えられていきます。働きは大小あっても、みな一つのチームワーク(兄弟愛)で結ばれた神の家族です。

(B)きよい良心に生きる
①御霊によって神の愛の聖めを受けた(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 イエス様がお捧げになった血潮は、神様の愛の契約のしるしです。いのちを捧げるほどの、神様の罪の赦しの契約の証でした。それは愛そのものです。純真な愛は人の心を変えます。

②きよい良心をもって神の前に生きる(使徒行伝23:1)
「パウロは議会を見つめて、こう言った。『兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました。』」

 パウロ先生の能力はすごいものでしたが、神の御前に特筆すべきは能力ではなく、きよい良心をもって神の前に歩んできたことであることをパウロ先生は証しています。私たちもこのことを忘れないようにいたしましょう。

※まとめ
霊的歩みとは、神との関係において心をきよくあるように求めること。

 良いことをした時も悪いことをした時も、イエス様は常に私たちと共におられて全てをご存知です。もし、咎めを感じたときは、失敗を正直に打ち明けて、赦しのめぐみの中に立ち返り、常に神様の御前にきよい良心をもって誠実に歩む者とならせて頂きましょう。

【デボーション】
⑴(へブル13:5)「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

※「いま持っているもので満足する」ことが可能なのはなぜでしょうか?

 「いま持っているもので満足する」というのは、いま与えられているもので不自由はないと考えることであり、それは神の御前に敬虔な姿勢です。なぜなら神が一人一人に必要なものを与えてくださっておられるという神への信仰があるからです。何か金銭の必要が起きた時も、神を信頼して経済的に道が開かれるようにと祈り求めます。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」とあるように、食べること飲むこと着ることなどが、私たちに必要であることは、私たちが求める前から神様はご存知です。そういう神への信頼があってこそ、いま持っているもので満足することが可能となります。

⑵(第1サムエル25:3〜34より)
「この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルと言った。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。〜『・・・イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。』」

※アビガイルの助言で、ダビデの態度が変わったのは何故でしょう?

 頑迷で行状の悪いナバルの不親切に挑発されて、怒りが湧き上がり、ナバルを処罰する行動に出ようとしたダビデでした。そんな肉的状態に陥ったダビデでしたが、アビガイルの賢い行動と言葉は、ダビデの心を肉の思いから霊的な思いに変えさせることが出来ました。なぜでしょうか、私たちへの教訓としても考えてみてください。

⑶(第1コリント10:31)
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を表すためにしなさい。」

※霊的な歩みのために、このみことばによって自分を吟味しましょう。

 欲求を満たす肉の働きも、神の栄光を現わすためという動機があれば、その行動は霊的な歩みとなります。
体は聖霊の宮ですから、体を健康に保つために、飲食等、肉の欲求は必要です。
しかし、欲求が限度を超えて貪欲になると、体を傷つけ聖霊の宮を汚します。罪に傾きやすい肉の性質を良くわきまえて、誠実に霊的な歩みを心がけて頂きたいと思います。

【短 歌】
    
新しく  生まれ変わった  人生は
       
キリスト目指す  霊的歩み

 

 

 

 

 

 

 

■2024年6月16日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

主の霊が注がれる  up 2024.6.16


主題聖句(ヨエル2:28〜29)
その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。
その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。


 

 夏期聖会まであと1ヶ月となりました。今日まで御霊とともに歩むことを意識出来ているでしょうか。
 ペンテコステは御霊に触れられる良いキッカケとなったことでしょう。
 この流れを絶やすことなく、7月の夏期聖会においては、特に御霊の賜物が一人ひとりに現れ、教会の益となる素晴らしいひと時となることを期待していきましょう。

 ヨエル2章の預言は、イエス様が天に帰られた後の五旬節で成就しました。旧約時代にも御霊の働きがいくつか記されていますが、特定の人物のみに働かれていました。

 代表的なのは、モーセやダビデがあげられます。民数記11章には、イスラエルの民を率いるモーセの苦悩が書かれています。
 
 主は、モーセの苦悩を聞かれ、モーセの上にある霊をいくらか取って70人の長老たちに分け与えました。このように、主の霊である御霊は、特定の働きをするために特定の人物にのみ注がれていました。
 
 御霊を置かれた70人の長老たちは預言したとあります。ここで興味深いのは、”預言した”というヘブル語の動詞は、特別な興奮状態を意味する動詞が使われていることです。

 この時のヨシュアがモーセに長老の預言をやめさせようとしたことから、誰の目から見てもあきらかに平常ではないことがわかります。
 御霊は目に見えませんが、ひとたび御霊に満たされると、見て分かるということなのです。それくらい、御霊に満たされるということは、特別なことであり、変化をもたらすものなのです。

 モーセはこの時に、「主の民が皆、預言者となれば良いのに。」と言葉を残しています。民一人ひとりが御霊により預言をし、善悪を正しい良心で判別することができるのは、当時のモーセにとってとても望ましいことだったのでしょう。

 新約において、このことは成就し、今や21世紀に生きる私たちにも、ヨエル書の預言が成就しているのですから、何とすごいことでしょう。

 私たち一人ひとりが、主の霊が注がれており、そればかりでなく、この肉体は聖霊の宮とされ、内側に御霊が住まわれるという、神が被造物に住むという奇跡が、現代においても有効なのですから、御霊によって歩む素晴らしさをもっともっと体験していきましょう。

 旧約時代は特定の役割の人にしか注がれなかった御霊が、新約以降は預言通り、私たち一人ひとりに注がれました。

 喜びあふれる人生であることをいつも望み、御霊の賜物に期待し聖会でさらに求めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年6月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の導きを見分ける2  up 2024.6.9


主題聖句(ガラテヤ5:17)
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。


 

 御霊の導きの見分け方には2つのポイントがあります。
先週はその1つ目を語りました。

①ローマ8:5〜6
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」

 今日は2つ目について語ります。
②ガラテヤ5:17
「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」

 御霊と肉は対立しているというのがポイントであり、誰でも見分けることができます。
 
 互いに対立しているので、神を信じる正しい良心があれば見分けられます。
 このことを二つのみことばから見ていきます。

A)肉の思いは神に反抗
●ローマ8:7
「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
 神に同意しない思いや感情は神に対立しているということです。

★肉の思いは神に反抗するもの
★神の律法に服従できない
 みことばに反抗する心の部分が肉の思いです。しかし、あなたの本心は神に従いたいと願っています。その葛藤から自分は良くない者だと思い込む人もいるでしょう。しかし、神はできないことをさせる方ではありません。 
 
 みことばに導かれていくなら、必ずできるようになります。 私たちの努力によるのではなく、ただ信じる信仰によります。神に調子を合わせればいいのです。
 
 影響を受けやすい人は、ある意味長所でもあります。それは、御霊に影響されやすいからです。肉の思いよりも御霊に心を向けていけば、御霊の導きに影響されていきます。
 
 自分の心の動きが分かるようになれば、自分の心を正しい良心で客観的に見ることができるようになります。
  
 例え、誰かに対して怒りを覚えても、それは肉の思いだと分かるので、その思いは無視していけばいいのです。
 
 人を無視するのは悪いことですが、肉の思いは無視する方がいいのです。
 
 無視できる理由は嫌いで関わりたくないからですが、肉の思いを無視できないというなら、肉の思いに惹かれているからだと言えます。
 
 難しいという人は自分の気持ちをごまかしています。エバが食べてはいけないという木の実を食べたのは、神の戒めよりもサタンのことばの方に興味があり魅力的に思えたからです。
●第1コリント2:14
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」

★生まれながらの人間→肉に属する
 生まれながらクリスチャンの人はいません。クリスチャンホームに生まれてもです。親が神を敬う生き様を見て、子供は神を敬うようになっていきます。

★御霊に属することを受け入れない
 受け入れたくないという隠れた思いがないかどうかを探ってみましょう。
 
 肉に属する方向に心を向けていないか、自分で吟味して、自分で選んでいくしかありません。自己中心の頑なさが隠れていないでしょうか。

★愚かと感じ、悟ろうとしない
 人は何度も繰り返し努力していくなら必ず分かるようになります。聖書のみことばも何度も読みましょう。
 
 罪人が神の子として新しく生まれ変わったきよい良心を持ってみことばを読み始めるなら、必ず分かるようになります。不敬虔な心では悟ることはありません、なぜなら悟りたくないからです。

B)肉に属しているしるし
(第1コリント3:3)
「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」

★ねたみや争いの強い感情
 一時的にねたみや争いの感情が起きることは誰でもあります。しかし、その感情が強くなっていくと大変なことになります。弱い内に、相手を祝福してその感情を追い出すことが必要です。
 神の子としての自覚をしっかり持ちましょう。信じる者には、神の子としての特権を神はお与えになったのです。信じる前の罪人と信じた後の神の子は、もはや別者です。以前のような罪人の生き方に戻ろうとしないでください。戻る必要はないのです。
 私たちは天国人であり神の子です。

●ヤコブ3:14〜16
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」

★真理に逆らう感情→敵対心
 御霊に従う人に敵対心をもちねたみを持つなら、肉の方に自分の心が向いているということです。
 正しい競争心はお互いに延ばし合えます。しかし敵対心は相手の存在を潰し、打ちのめすことになります。
 自分の心を良く見張り、肉から御霊に方向を変えましょう。
★悪意が湧き上がり秩序を無視
 例えば暴走族は秩序を無視して周りに迷惑をかけます。
 
 最近の学校は秩序を余り教えていません。教師と生徒の関係もフラットではなく、教える側と学ぶ側という秩序は必ずあります。
 秩序が保たれないなら人権も守られません。
 肉の思いを見つけたら、逆を考えましょう。御霊の心は肉とは真逆です。

《デボーション》
 努力しない、工夫をしない、無計画である、とにかく楽をして今を過ごしたいという肉の思いがあります。
 こういう肉の働きに対しての対処の仕方を次のみことばから体得してください。今、あなたが達し得たところで御霊との関係を作り上げ、実践していってください。

(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
 
 御霊の思いとは何か、御霊に属するとはどういうことかを祈って求めて実行してみてください。そうすれば御霊に属する者へと成長していきます。
 
 教会は世の中からはじかれた罪人の集まりです。肉の強い幼いクリスチャンもいます。
 
 あなたの基準で相手を量らないようにしましょう。教会の人たちが完全なわけはありません。
 
 むしろ、世の中ではどうしようもない人々の集まりです。しかし、その肉の人が神の子キリストのように変えられていくのです。
 
 変わってきていることを喜びましょう。御霊が変えてくださることを信じ、期待し、誠実にみことばを求めていきましょう。

 肉は何の役にも立ちません。肉の経験は御霊によって歩むための参考にはなりません。
 
 この世の経験は神の国ではほとんど役に立ちません。
 
 神のことばが心に植わっているでしょうか。みことばを正しく理解して成長していきましょう。

 あなたの心に植わったみことばが導いてくれます。
 

【短歌】
聖霊の 導き見分け 歩むには
みことば灯し 進み行く

 

 

 

 

 

 

 

■2024年6月2日 特別礼拝メッセージより(スタンレー・ジェラード師)

特別礼拝  up 2024.6.2


主題聖句(第1歴代誌12:32)
イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。


 

 イエス様の素晴らしいお名前によって、皆様方にご挨拶させて頂きます。

 私たちが信じている神様は創世記の神様であり、黙示録に至る神様であられます。この方はアルファーであり、オメガでいらっしゃいます。
 
 私たちはもはや創世記の時代に生かされているのではありません。黙示録の時代に生かされているのです。終わりがやって来ようとしています。色々な「しるし」がそれを語っています。そこで私たちは聖書を読まねばなりません。イエス様はいつ戻って来られるのか分かりませんが、この「しるし」が語っていることは、イエス様はすぐにも来られる、ということです。
 この世界は暗く暗くなっていきます。しかし、神の教会は、より多く光を増して輝かねばなりません。いま私たちは、自分の生かされているこの「時」というものを悟らなければなりません。それを十分理解しないならば、それは目が不自由な人が歩くようなものです。

(第1歴代誌12:32)
「イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら、二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。」

 昨年、私は主の前に祈っておりました。「2024年には私たちは何をあなたに期待するのでしょうか。」と、私がこの宣教地のリーダーたちに、どのようなビジョンを分かち合うべきかを神様に求めました。
 そして、この(第1歴代誌12:32)を読んだ時、それは私たちが加速度的な時代に入るということを理解しました。私たちのギアを変える時だということが分ったのです。
 
 2020年にコロナが流行し、そこで私たちは留まらなければなりませんでした。即ち、その時こそ教会が一緒に集まる時でした。世界中の教会が祈り始めたのです。

 2022年、アジアにおけるギアが変わりました。最初のカンボジアへの旅行が行われ、2023年にはギアを第4段階に入れて、そこで教会を開拓し始めました。

 そして2024年に神様は語られました。「あなたはもっと加速しなくてはいけない。畑は色づいている。しかし、働き手が少ない。多くの人が必要を抱えている。多くの人が失われている。多くの人たちが混乱している。多くの人が孤独である。彼らは神を求めている。」
 そこで私は、この時こそ教会が立ち上がる時だと分かりました。心打ちひしがれている人たちを集め、捕らわれ人を解放するのです。
 
 私たちは神に信仰を持たねばなりません。なぜならば、信仰がなければ神をお喜ばせすることはできないと聖書は語っているからです。私たちは神を信じ、信頼して、神に聞き、願い、祈りました。協力者が与えられ、土地が与えられ、資金が与えられました。バングラディッシュ、カンボジア、ミャンマー、パキスタン、神様が私を遣わされる所はどこでも、会堂を建てることが出来ました。
  
 あなたは何をしているのですか、と質問する人々に対し、「私はロバです。イエス様のロバです。あなたが救いたい人々のところへ、イエス様をお連れするロバです。そこでイエス様の為されたいことを私はするのです。私はイエス様のロバだからです。」と答えます。
 
 宣教地では、いろんな不思議としるしがおこりました。私たちは普通の人間です。私たちには何もありません。しかし、私たちが病人に手を置くと、信仰によって彼らは立ち上がります。癒されます。そして、ブレイクスルーを経験するのです。
 2025年に至って、私たちは鎌を持って刈り取りをしなくてはなりません。神のご計画、目的を、より早いスピードで実現させていくのは神様の超自然的能力であり、神様が決心なさることです。神様を止めるものはありません。神様がすべてをご支配なさっておられます。

(ダニエル書2:21)「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。」
 この世界の色んな秩序や困難に惑わされてはいけません。いま、神と共に教会が前進していく時が来ているのです。大きなシフトの転換が物理的にも霊的にも必要です。
ある方々はギアを変えてより早く、ある方々はあまりにもここち良い所にいるので、神様がそのギアを変えて、より加速度的に前進しなさいと言われるかもしれません。ある方々は、ギアを変えて別の方向に向かって出発しなければならないかもしれません。ある方に対しては、私と共に時を過ごしなさい、わたしの前で祈り、耳を傾け、指示を受け取りなさい、と言われているかもしれません。
 
 エレミヤ書33章に、「わたしに呼び求めなさい。私はあなたに応える。」とあります。私たちは余りにも忙しくて、神様にお語り頂く時間を与えていないことがあります。留まって静止の時を持ち、「あなたが神である」ということの分る時を持たねばなりません。

 神様は一人一人に独自のことをお語りになります。ですから、それは重要なことです。聖霊様に伺うということです。もし、何も言う言葉がない時は異言で語ってください。それはイエス様が与えてくださった素晴らしい賜物であります。神様と調和する、神様とトーンを合わせるということが必要です。聖霊様こそが私たちの内に神様のみこころを示してくださるお方だからです。

 加速度的にギアをチェンジする、ということには3つの側面があります。
 まず一つ目は、この「時(時代)」というものを理解することです。「時代」を理解したなら、日本における「時」、広島における「時」は何かを悟ることです。教会で皆が集まって祈る時、教会における「時」とは、皆さん一人一人に、神様が何をお語りになろうとしているのかを知るということです。
 
 二つ目は神様への正しい応答です。神のみことばを聞くだけで終わってはいけません。それを実行しなくてはいけません。その時に神の御ちからがあなたの内に働かれるのを実際に経験出来ます。
 三つ目は神の働きに参加することです。私たちは参加しなくてはいけません。一人一人が神の働きの一部なのです。

 (第1歴代誌12:32)から見てみましょう。
 サウル王は死にました。ベニヤミン族はサウルの息子を王にしようとしていました。しかし、他の部族はダビデを王にしようとしていました。イスラエルの中は緊張が走り、幾つかの部族が戦争に巻き込まれてしまいました。
 
 そこで、イッサカルの息子たちはこれから起こることを理解して、まさしく何が起こるかを把握できている人は誰か、を考えました。サウルが王になることは決して良いことではない。ダビデこそが、そのご性質と力において新しい王になるのにふさわしいと分かりました。彼らは賢く「時代」を見通していたのです。ダビデこそがふさわしいと。
 
 そこで彼らは何をすべきか、ということについて、正しい洞察力を得ることが出来たのです。彼らは正しく行動しました。イスラエルの王としてダビデの背後に付いたのです。
 今、私たちはイッサカルの息子たちのように、時と季節を悟っているでしょうか。応答出来ているでしょうか。
 
 今年の1月のことです。私のリーダーたちにこのビジョンを分かち合いました。彼らはビジョンを受け取りました。 1月から5月にいたるまで、たくさんの魂を連れてきて、教会を開拓し、クルセードをしています。5月には、カンボジアの「子どもたちの家」が教会を始めました。毎日曜日に、ご家族がやって来るようになりました。
 私たちはビジョンを捕まえなくてはなりません。神様が牧師先生に与えられたビジョンが何であれ、どのように牧師先生を助けることが出来るかを尋ねるのです。私たちはそのビジョンを捕まえて、それを実行するのです。
 
 私たちは聖霊の時代に生きていますから、イッサカルの時よりも祝福された者であります。なぜならば私たちは聖霊様と神のみことばに近づくことが出来る、それが許されているからです。神様の臨在の中に入り、神のみことばで心を満たし、また神と交わることが出来るのです。私たちは神様の臨在の前に出て、そして正しい応答を知る必要があります。
 教会(キリストのからだ、神の民)は、正しく応答するために、この世界で神様がいま何をしようとしておられるのかを知らなければいけません。色々なことが世界におこっていることを、人は恐れています。しかし、その恐れが決してあなたのこころをいつも支配するものになってはいけません。
 
 私たちはこう言うべきです。「神様の働きや動きの一部とさせてください。私の国の中で、世界の中で。」
 
 ある方々は海外の宣教地に出ていく宣教師になることが必要かもしれません。他の方々は出ていくことは出来ないかもしれませんが、私たちの隣でその働きをすることが出来ます。ある方々は、教会にもっと多くの人たちが加えられるように祈ることが出来ます。ある方々は捧げものを通して加わることが出来ます。神の御国を建て上げるために私たちには何かをすることが出来るのです。
 何年か前にインドに遣わされた時に、本当に圧倒されるような働きがそこにはありました。本当に多くの人たちは必要を抱えています。多くの人たちが死に向かっています。多くの人たちが失われています。一人の人間として私は一体何が出来るでしょうか。
  
 そして、神様は私にお語りくださいました。そして一つの歌を与えてくださったのです。「私の家族を、私の人々を、私の家に連れ戻しなさい、私の家に彼らを連れてきなさい。私が彼らに癒しを行う」それが私たち一人一人に与えられているビジョンなのです。失われた人を神様のもとに連れ戻すこと、もし私たちがそれに参加するなら、神様はあなたに報いを与えてくださいます。あなたを祝福してくださり、あなたを癒してくださいます。
 
 あなたは仕事や自分の抱えている病気に、あまり圧倒されないでください。神様の働きをあなたが為すときに、神様があなたのことを心配してくださいます。

 私は一つのことを学びました。神様の働きをする時に、神様は私の家族も養ってくださり、私の働きも助けてくださいます。神様は報いてくださるお方です。あなたを祝福なしに残されることはないのです。

 重荷を負って教会に来られている方、神を求めてください。そして神様に期待してください。なぜなら神様はあなたを祝福したいからです。なぜならあなたが、ここにやって来たからです。

「神様の働きに参加する」
 
 アジア全体に神様は働いておられます。私たちはこの神の働きに参加しなくてはなりません。
 すなわち、「時」を悟ること、正しい応答をすること、それだけでは不十分で、神様の働きに参加することが必要です。イッサカルの子たちは、ダビデを全イスラエルの王として戴冠させるために、ヘブロンまで一緒に旅をしました。
 今日、王であるイエス様は働いておられます。2024年、2025年、非常に素早く働きを進められます。深く働きをなさいます。国々をかき回しておられます。私たちはこの方を理解しなくてはなりません。この終わりの時に、愛する兄弟姉妹の方々、神の働きの一部となるようにお勧めします。神の働きを経験するのです。最初に参加して、後は傍観する人にならないようにしましょう。
 
 「わたしの働きに加わりなさい」という神の呼びかけに対して、3つの応答を聖書は示しています。
 まず、モーセは言いました。「私ですか?」(出エジプト4:10)神様に何か頼まれた時、「出来ません。不可能です。それをするのに私は十分ではありません」と、弁解や口実を述べます。しかしモーセは最終的には実際に神の働きに参加し、エジプトにいたイスラエルを解放するために、奴隷であった民を約束の地に導いて行きました。
 次に、ヨナも言いました。「私ではありません。」彼は「いいえ」とは言いませんでしたが、神から逃げ出しました。(ヨナ1:3)
 ヨナは神の働きに参加する準備が出来た時、ニネべの人に救いをもたらすために、彼等に説教をしました。ニネべの人々はそれを聞いて悔い改めました。
 あなたに神様はお語りになっているのに、神様から逃げてはいないでしょうか。振り返ってみましょう。「神様のチームの一員となりなさい。日本の宣教の一員となりなさい」と、神様は誰かに語り掛けておられます。
 
 後に、イザヤは、こう言いました。
 「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
(イザヤ6:8)
 これが今日、あなたの反応でしょうか。神様の働きに参加する準備ができています。
 イザヤはエルサレムの中で人々に警告を与えました。もし悔い改めなければ裁きがくる、とイザヤは預言しました。

 今日、私たちは「時」と「季節」を理解しなくてはなりません。神様はご自身の軍隊を目覚めさせようとしておられます。あなたは寝ていませんか。教会は寝ていませんか。起きなさい。あなたの霊的眠りから目覚めなさい、と神様は言っておられます。いまや私たちは起き上がる時なのです。教会として一緒に集まって、広島の灯台となり光を放つところとなるのです。
 「私はここにおります。私を用いてください。家庭の主婦として、またビジネスの中で、そして学生として、主よ、私はあなたのために何をなすことが出来るのか、お語りください」と言ってください。
 聖霊様があなたと共におられますから、心配しないでください。あなたの心にイエス様がおられるなら、聖霊様はあなたに約束しておられます。
 愛する兄弟姉妹の皆さん、クリスマスが来ます。このクリスマスに向けて誰かを教会に導くのです。クリスマスに誘うのです。聖霊様が彼らに触れてくださいます。もし一人の魂が救われるなら、天におられる御使いたちには大喜びが起こると言われます。神様はそのゆえにあなたに大きな報いを与えられます。
 
 出かけて行って誰かを教会に導きます。神様のために、誰かと一緒に座ってその人に話をしてあげます。誰かのために祈ってあげます。祈りを通して彼らに福音を伝えるのです。皆さん、このチームの一員となることができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年5月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の導きを見分ける  up 2024.5.26


主題聖句(ローマ8:5〜6)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 

 前々回の【5.主の御霊との交わり】のメッセージの中で、具体的な御霊との交わりについて①正しい良心の内に祈る②みことばを黙想する③聖徒と交流する、という3つのことを紹介いたしました。
 その実際の交わりの中で私たちは、どれが御霊の導きかを見分けていくことが必要になります。なぜなら私たちの心は非常に複雑だからです。そこで今日は、御霊の導きを見分けるために知っておいて頂きたいことを聖書からお話ししたいと思います。

【6.御霊の導きを見分ける】
①ローマ8:5-6
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」 
 これが、御霊の導きを見分ける助けとなる一つの考え方です。クリスチャンには、肉に従うクリスチャン生活であるか、御霊に従うクリスチャン生活であるか、という二つの生き方があります。
 体が欲する様々な欲求は、体の健康を保つために必要です。
しかし、肉の欲求は健全な欲求の限度を超えて「貪欲」になります。
 「肉的なことをもっぱら考える」というのは、肉の欲望(貪欲)に従っているのです。
 肉に従うクリスチャンは、神様のことは日曜に教会に来たときだけ考えて、家に帰ったら、もっぱら肉の欲求を満たすことを考えます。
 「肉の思いは死です」と言われるように、肉に従ってばかりいるなら、その歩みは「死んでいる」のです。 
御霊に属することをひたすら考えるクリスチャンは、いのちと平安に生かされて健全な歩みをする生きたクリスチャンと言えます。

A)肉の思い=死
◎ガラテヤ5:19-21
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

★肉の行いは「肉の思い」から始まる
★神の国を相続出来なくなる
 肉の思いや肉の行いから離れて、御霊に従う方向に変えていかないと、折角イエス様を信じて救われたのに、最終的に「神の国を相続すること」が出来なくなると警告されています。
 肉の思いに意識が向いている人は、肉的なことを行います。御霊に従うことを決心した人は、御霊に属することを考えて、肉の思いから遠ざかろうとします。
 「鳥が頭の上を飛ぶことは止められないが、頭の上に巣を作ることは止めることが出来る」という言葉があります。時々肉の思い(悪い考え)がやってくるのは避けられません。
 しかし、御霊様に従うという方向に意識を向けることによって、悪い考えが心に留まり続けないようにすることはできるのです。

◎ヤコブ3:14-16
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」

★地に属する→不敬虔
 この世界は不敬虔な世界です。神様を敬う知識はあっても,地に属する生活をしていると、実際の生活での判断は不敬虔なものになります。私たちは誘惑されやすい弱い者ですが、それを不敬虔の言い訳にしてはいけません。弱いなら、神様に頼って強くなりたいと願い求めて行くべきなのです。

★肉に属する→貪欲
 欲望は貪欲に向かうものですから、制御するのが難しいのです。肉に属する人は、欲求不満になるとイライラして、外に怒りが出てしまいます。
健全な心の人は、欲求が満たされなくて内心イラっとしても、その事情や原因を理解できると、自制が働いて、苛立ちを鎮めることができます。
自分の状況を最優先させるのは、貪欲に支配されているしるしです。

★悪霊に属する→自分中心
 肉の思いの中には悪霊に属するものがあります。自分中心です。
 自分中心というのは、私の主人は私であるという状態です。自分中心に考えることに慣れてしまっている私たちは、そこから離れることが難しいものです。
 
 しかし、人生の痛みや躓きを通して、神様に救いを求め、心砕かれ、へりくだった人は、自分中心に生きることの愚かさを知って、自分ではなく神様に信頼しますので、自分中心から神様中心に変わることが出来ます。
 
 自分の考えがあっても、「聖書のおことばですから、あなたのおことばですから、聖霊様の導きですから」と、主人である御父御子御霊の神様を敬い従う心があれば、自分中心はなくなっていきます。
 
 この世は不敬虔、貪欲、自分中心が蔓延している罪の世界です。そこから救われて、自由を得たのがクリスチャンです。神の子として歩む人生を選んだのですから、神のみこころに従い、神に導かれて、みことばの教えを受け、励ましを受けて、神に仕える奉仕を進め、神の子として歩む人生を最後まで全うしましょう。神の国を相続する生き方、神の子としての生き方をいま私たちは歩んでいるのです。

B)御霊による思い=いのち、平安
◎ガラテヤ5:22-33
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

★御霊の9つの実への関心
 御霊様は9つの素晴らしいご性質をもっておられます。御霊様のその9つの徳目に関心を持って、私もそうありたいと望み、御霊様と一つになって実現できるように関心を向けること、これが御霊に対する 思いを寄せることです。
 
 努力をしても実現しないと思って、あきらめてしまっていませんか。クリスチャンは、出来るようになります。神様がそれを100%保証してくださっていますから。

 私たちは御霊との交わりがあまりにも浅いので、練習不足なのです。御霊による思いを持ち続けることが、私たちの神の子としての鍛錬です。あなたが御霊の実の現われを願っているのなら、御霊に導かれるとはどういうことなのか、あなた自身が具体的に生活の中で見出していくことが出来ます。ぜひ御霊の実への関心を持ち続けてください。

★≪ひたすら≫考える
 御霊の9つの実がなかなか現れてこなくても、それであきらめてはいけません。本当に願っているなら必死で、祈り、聖書を読み、クリスチャン同士で交わりをして、お互いに教え合い、励まし合っていきましょう。ひたすら考えましょう。

◎ヤコブ3:17
「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、みせかけのないものです。」

★神の子としての7つの知恵
 「純真」「平和」「寛容」「温順」「あわれみと良い実」「えこひいきがない」「みせかけがない」これは神の子の7つの知恵です。この知恵が神の子の生活の中に現れます。

★御霊と一つ霊になったしるし
 9つの実は聖霊様から来るものですが、知恵は、御霊様との交わりによって、私たちに結ばれる実です。御霊様との関係が深くなれば、知恵は生活の中に実となって現れます。

【デボーション】
※神の子としての自覚を持ち、御霊による思いに関心を向け、御霊とのかかわりを深めていきましょう。
 神の子という自覚を失わないようにしましょう。時間をかけて御霊とのかかわりを深めていきましょう。
 
 祈りの中で自分の思いや考えや心境を正直に告白してください。祈りと願いをもってあなたの思いを知って頂くのです。正直な心の思い、悩み、問題、願いを率直に申し出て、主人に願うように、祈りの言葉を考えて祈ってください。

 そして、そういう心からの祈りを持ちつつ、聖書を読むと、あなたの心に響いてくるみことばを御霊様が示してくださいます。そのみことばを黙想します。みことばを暗唱することも良いでしょう。そういう中で聖霊様が働いてくださいます。

 そうして何かの悟りや考えが与えられたら、神はメッセンジャーを通して、あなたのその悟りを証明してくれるような話が語られたりします。同じ御霊による働きです。
 コイノニアというギリシャ語は、単に話をする、コミュニケーションをするというより、互いに関与しあう、心の深いところまで触れ合うという意味です。神様とも、兄弟姉妹とも、そういう深い交わりができるようになることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年5月19日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

ペンテコステ   up 2024.5.19

〜信じるすべての人に訪れる神の臨在〜


主題聖句(使徒2:2〜3)
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。


 

キリスト教の中で、ペンテコステとはクリスマス、イースターと同じ重要な位置付けの日です。

 イエス様の誕生を祝うクリスマスや、イエス様の復活を祝うイースターと同じように、聖霊様が私たちに訪れたことを祝うペンテコステは、旧約聖書(ヨエル2:28〜29)で預言されていました。

 また、イエス様が復活後、天に戻られる前に弟子たちに聖霊様の訪れを語られています。

 聖霊様の訪れは、とても大きな意味があります。それは聖霊様の現れが表現されている、”炎のような舌”から見ることが出来ます。

 まず、炎は神様の臨在を表します。出エジプトの時代、神様はモーセやイスラエルの民に現れる際、炎の中に現れました。

 また、シナイ山という一箇所のみに臨在されました。しかし約束の聖霊様の炎は、一人ひとりの上にとどまったのです。つまり、神の臨在が一人ひとりにあるということなのです。

 そして、舌とは言葉を発する器官です。最初の訪れの時は、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで語る現象が起こりました。

 これは、福音の国際的な広がりと、教会の始まりを意味します。神様の福音は、どんな人種にもどんな群れにも制限されることなく、信じるすべての人々に救いを差し出すのです。

 
 バベルの塔で言葉がバラバラにされたこととは対照に、聖霊様の訪れは、ことばの壁を越えて神の臨在を等しく体験し、神の家族となることが出来るのです。

 父なる神様は、約束の聖霊を人生の助け主として送ってくださいました。それは、私たち一人ひとりに神様が臨在してくださることであり、その臨在がもたらす力によって、人生の変化と神様の証をするためなのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年5月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の自制に導かれる  up 2024.5.12


主題聖句(使徒24:25)
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言った。


 

 御霊の導きは、神の子として新しい人生を歩む者の心に現れます。
 (ローマ8:14)には、「神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。」とあります。
 今年1月から、いくつかの大きなポイントを挙げてお話をしてきましたが、いまは、その4つ目のポイント「御霊の9つの実の導き」から、「導かれること」を学んでおります。
 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和とお話ししてきて、今日は最後の9つ目、御霊の「自制」に導かれる、というお話をいたします。
 私たちが御霊の実を生み出さなくてはいけないとか、実らせなくてはいけないとか、そういう考えをまず捨ててください。御霊様は完全な実を持っておられますから、御霊様と共に歩んでいくなら、9つの実は私たちの日常生活の中に自然に現れてきます。
 私たちの努力すべきことは、聖霊様と共に歩むこと、コミュニケーション(交わり)を続けること、良い関係作りです。
 今日も神様は恵みを与え、助けを与えて、祈りに耳を傾けてくださっておられます。神様に対して誠実な心をもって、信頼して、ただ従ってまいりましょう。

【御霊の自制に導かれる】
(使徒24:25)
「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ぺりクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう』と言った。」
 パウロの語る「正義と節制とやがて来る審判」の話を聞いているうちに、ペリクスは自分の不正や不節制に対する神の裁きが恐くなって、話を途中で切り上げてしまいました。

A.ギリシャ語の「自制」
〇自制、自制心、節制
〇物事に強い(達人)、自己制御、穏やかで極端でなく節度がある
 「自制」の意味合いとして、「影響を受けにくい」「冷静さ」「バランスの取れた判断力」「優れた洞察力」などがあると思います。
 聖霊様は自制の実を持っておられる方です。まず私たちの内に住んでくださって、自制をもって導いておられます。
 私たちの罪深い性質や感情に対して、いちいち怒ったりなさいません。
 未熟な霊、魂が、神の子として成長していくために、どのようなアドバイス(みことばの諭し)を与えるべきか、と聖霊様は冷静に丁寧に私たちをよく見てくださっています。

B.第2ペテロ1:4-8
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばないものになることはありません。」

※神のご性質にあずかる者となり、主イエス・キリストを知るために「自制」は必要なものである。
 
 短気な人は相手のことを理解できません。相手が自分のペースにはまってくれないので、苛立ちや怒りが湧いてきます。しかし相手の事情をよく理解していけば、怒りは収まるものです。
 そのように、人を知るためにも自制心が必要ですが、神様を知るにあたっても、自分の極端な考えに偏らずバランスよく公平に判断するために、「自制」は重要な徳目です。鍛えていただきたいと思います。

C.テトス1:7-9
「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒のみでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなくてはなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」

※神の家の監督者のように、指導的立場の人に必要な資質

 家庭において、主人は家族のリーダーです。家庭を平和に治めていくために、自制心は絶対に必要です。
 会社での責任ある立場の人、社員に対し好き嫌いがあってはいけません。どのような社員に対しても冷静な洞察力と賢明な判断力で、その人の弱点や長所を良く知って指導していくことが必要です。
 何らかのリーダーシップをとる立場にいる人は、自制心が強ければ良い指導者として尊敬されます。しかし、優しい人でも、自制心が弱いとすぐ怒ったりして、せっかくの優しさが見えにくくなります。
 すばらしい性質や能力も、自制心によって良いものへと引き上げられていく、と言っても過言ではありません。
 子育て中の奥様方、子どもが思い通りに動いてくれない時イライラします。相手には寛容、自分には自制が必要です。自制心を働かせないと相手の良い所を潰してしまいます。

【デボーションポイント】

※御霊は、私たちに対して自制を働かせておられます。
 どのようなところに見ることができますか?
 他の人にも御霊と同じようにしてみましょう!

 私(辻牧師)は、もともと人前で語るのが苦手で、最初の頃は真っ白になって、途中でメッセージが止まってしまうこともありました。
 メッセージは実践ですから、この壁を乗り越えるためには実践しかありません。そこを理解して、そんな私でもメッセンジャーとして講壇に立たせてくださった指導者の方がおられたのです。自制心がないと、なかなか出来ないことです。
 私があきらめずにその指導を受けてやり続けた理由は、神様の働き人として神様が私を呼んでくださった、用いてくださっている、そのことを客観的に感じていたからです。
 聖霊様は毎回のメッセージを通して自制しておられる、と私は痛感しております。
 
 「どういう所に聖霊様が自制を働かせて、私を見ていてくださるのか」を、皆さんも見つけてみてください。そして、それがわかったら他の人にも御霊様と同じようにしてみてください。
 神様は前向きで肯定的なお方です。批判的なお方ではありません。なぜなら、今は恵みのときですから。どんな悪い者にも前向きにとらえて、永遠のいのちに至るようにと、世界中の人々に働きかけてくださっています。

 私たちも御霊様と同じように、他の人に自制を持って対応していくよう心掛け、チャレンジしていきましょう。
それはただ我慢するのとは違います。御霊様が自制をもって導いてくださっておられることを具体的に理解し納得すると、次に何をしたらよいかという答えを見出せていけるのです。

 愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、すべてにおいて言えることです。まず聖霊様があなたに対して9つの実をもって対応してくださっています。それを知ったら、一緒に付いていけば自然に9つの実はあなたから現れてきます。理屈ではありません。体験です。あなたが御霊様と一つとなって、この聖霊様の9つの実の働きが生活の中に現れてくるように期待し願いながら、みことばに従っていきたいと思います。

 

【俳句】
 
隣人を  深く知るため  自制する

 

 

 

 

 

 

 

■2024年5月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

信じている者に御霊は内住される  up 2024.5.5


主題聖句(使徒2:38)
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。


 

 生きておられる神様である御霊様を身をもって知ること、これがなければクリスチャン生活の前進は非常に難しいです。体験が重要です。チャレンジして頂きたい。今日は御霊様との関係作りのためのメッセージです。

御霊によって歩む→御霊に導かれて歩む→御霊に調子を合わせる→御霊と一つになる→御霊と交わる→御霊の9つの実

 復習になりますが、御霊によって歩むとは、御霊に導かれて歩むこと。導かれるとは良い方向に連れて行かれること、と説明いたしました。
 導かれていくためには、「御霊に調子を合わせる」ことが必要で、自分の意見と合わないからといって、その導きから逸れてしまっては、導きを得ることはできません。導き手の御霊様が主体で、私たちはそれについていくのです。
 
 時に、御霊様が合わせてくださることもありますが、それは一時的に私たちの弱さに同調し、慰め励まして再び前に導いていくためです。ですから祈りがきかれなくても何も問題はありません。神様が主で、私たちを導いてくださるのですから。
 御霊に調子を合わせるということは、「御霊と一つになる」ということです。自分の好き嫌いや、思いや感情、価値観は横において、その時御霊様が示してくださることに心を合わせて一つになっていくことが必要です。
 
 一つになるために「御霊と交わる」ということが大切です。交わりを通して最後には「御霊の9つの実」が私たちから現れてきます。
 私たちは、御霊の成熟した実があふれるようにと、神のかたちに造られた器です。私たちが生み出すのではなく、私たちから御霊の実が現れていく、そういう状況が起こることを神様は計画しておられます。
 今日は、この「御霊と交わる」ということをポイントとして、それを一緒にチャレンジしていきたいと思います。

※信じている者に御霊は内住される
(使徒の働き2:38)
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦して頂くために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
 私たちが御霊様を受けるのは、神様からのプレゼントです。私たちが努力して達成するのではありません。
 「悔い改めなさい」とあるように、神様の方に心を向けて神様に従っていくという方向転換の決心と、罪を赦して頂いたしるしとしてイエスの名による洗礼を受けること、そうすれば神様が、神のおこころそのものである聖霊様を賜物(プレゼント)として私たちの内に送ってくださり、聖霊様が内に住んでくださるというわけです。
 
 私たちの罪はすべて、イエス様によって処分されていますので、御霊様はずっと私たちの内に留まってくださいます。私たちがわがままで、御霊様と良い関係が作れなくても、聖霊様は悲しまれますが、だからといって去って行かれることはありません。
 聖霊様と私たちは一緒に住む夫婦のようなものです。共に住むということはコミュニケーションを持つということで、深く知り合うために交わりを重ねます。そして良い愛の絆が結ばれて強められていく、そういう関係作りの人生が夫婦であると言えるでしょう。
 同じように、聖霊様は私たちと交わりを持ちたいがゆえに、私たちの内側に住んでくださっています。9つの実が私たちの人生に現れるためには、深い関係を築きあげるための交わりが大切です。
 今日の主題聖句を見てみましょう。
(第1コリント6:17)
「しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。」
 神は霊です。からだを持っておられません。見えるからだを持った神様のことを「神の子」と言われます。イエス・キリストのことです。父なる神、子なるキリスト、御霊なる神、それぞれ別々の人格をお持ちでありながら一人の人格者であるという神の奥義は、聖書全体にわたって啓示されています。

※御霊の9つの働きが生活に現れるためには、御霊と一つ霊になることです。そのためには、主の御霊との深い交わりが必要です。
 
 主題聖句の前の節(第1コリント6:16)には、「遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりは一体となる』と言われているからです。」とあります。遊女と好ましくない関係を持てば、その深い関係(深い交わり)から色々と悪い影響を受けてしまいます。
 
 しかし、きよい主の御霊と深く交われば、主と一つ霊となるのですから、神様のご性質が私たちの霊にきよい影響を与えてくださいます。すなわち、御霊の9つの実が私たちの霊に良い影響を与えて、生活の中に自然と9つの実が現れるようになるのです。そのためには、主の御霊との深い交わりが必要になります。

※主の御霊との交わりは具体的にどのようにするのでしょうか。
①正しい良心のうちに祈る
 神様との交わりのための祈りの条件は、「正しい良心のうちに祈る」ということです。今までの生活の中で築いてきた道徳観の祈りではありません。唯一の創造主なる神を敬い認めるという心が、正しい良心です。
 唯一なる神を信じる良心の基準は、創造主なる神様の御おしえによります。イスラム教の教えはコーラン、ユダヤ教は旧約聖書の御教えに従って歩んでいます。クリスチャンも万物の造り主である唯一の神の御教えを信じ、それを基準として信仰生活を歩んでいます。
 
 良心の基準は、宗教によって異なります。道徳的に似たところもありますが、神がどういうお方かという点で大きな違いがあります。
 マホメットのコーランは、アラーの神に逆らう者は皆、抹殺してよいと教えています。ユダヤ教では、律法を守るか守らないか、守らない者には裁きが与えられます。
 
 旧約・新約聖書から御教えを受けているクリスチャンは、違っている者、争い合っている者が一つになるために、「赦すこと」を教えられています。その教えの根本には隣人愛があり、イエス様は、「あなたの敵を愛しなさい」とまでおっしゃっています。 そこには、すべての人は神のかたちに似せて造られた兄弟姉妹であるという根本があります。人々が互いに赦し合い、忠告し訓戒し励まし合って、元の平和な神の家族として回復されることを、神様は願っておられるからです。
 
 「正しい良心」は、聖書に基づいた神概念を受け入れた人が基本です。その唯一の神を畏れ敬う敬虔な心をもって祈るのですから、神様のお考えや価値観を知らなくては、正しい良心が築かれていきません。ですから聖書を知ることが必要となってくるのです。

②みことばを黙想する
 神のことばはイエス・キリストである、と聖書に啓示されています。ことばなる神、とも記されています。
 「私が話したことばは霊である」とイエス様も言われました。
みことばは正しい良心によって黙想しないといけません。自分の価値観を主体としてみことばを黙想すると、神のみこころから外れやすくなります。
 
 神は根本的に良き神様であり、憐れみ深い神様です。しかし、それと正反対のようなみことばも聖書にはあります。そこで「矛盾している」と決めつけないで、相反するみことばが、どちらも憐れみ深い神様の語られたことばであるなら、そこに何かの深い考えや諭しをもって語られているはずです。そこで黙想するのです。
 そのように自分の価値判断で聖書を読むのではなく、一見矛盾しているようでも、神様のおこころや深いお考えを黙想していくと、その時は分からなくても、いつか悟りを得る時が来ます。それが主の御霊との交わりになっていきます。

③聖徒との交流
 クリスチャンも未熟な者もいれば、成長している者もいます。自分がしていない信仰の体験を、既にされているクリスチャンもおられます。神様が広く私たち一人一人を愛して、それぞれのお取り扱いや励ましや勧めや叱責をされている、その証を通して御霊との交流を持つことができます。
 以上の3つのことを徹底して実行していくことを通して、正しい良心が健全に強められていきますので、チャレンジして頂きたいと思います。
<デボーションポイント>
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお捧げになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

※このみことばによって、主の御霊と交わってみましょう

 (へブル9:14)のみことばは大変難解です。しかし、そういう分かりにくいみことばの意味も、自分で悟って自分で見つけ出していただきたいのです。
 
 私(辻牧師)も、信じた最初の頃、意味のわからない単語を、聖書辞典や、ヘブル語、ギリシャ語の辞書も駆使して調べ研究しました。知識が欲しいからではなく、正しく神様のお心を知りたいからです。
 そうしてみことばを理解するための知識を得たら、黙想します。聖霊様は、そういう知識を結び合わせてイメージを与えてくださり、知識的理解を超えて御霊と一つになって、ことばを超えた感覚を通して、神様のおこころを知ることができるようにしてくださいます。
 
 大事なことは御霊との関係です。知識を生かすも殺すも聖霊様との関係によります。聖霊様は神ご自身です。私たちも霊的存在者です。聖霊様と深く交流して、そのおこころとお考えを感じ取って教えられていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の柔和に導かれる  up 2024.4.28


主題聖句(ガラテヤ6:1)
兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。


 

 私たちペンテコステ派の教会は、聖霊の働きに対して様々な聖霊の賜物を信じ、聖霊様との交わりを大事にし、聖霊様を体験する、そういう信仰の歩みを目指しております。
 そういう中で、今年は「御霊によって歩もう」(導かれてこそ歩んでいくことが出来る)というテーマのもとで、お話しをしてきております。

※御霊の導きは、神の子として新しい人生を歩む者の心に現れます。
 私たちの内側に聖霊様の導きを感じ取るためには、神の子として新しい人生を歩んでいなければなりません。それはイエス様を単に信じるというだけでなく、悔い改めることです。
 
 イエスこそ創造主なる神。そのお方が人類の罪を赦すために、救い主としてこの地上に来られて、罪を贖ってくださった、すなわち、私たちの身代わりとして、十字架で私たちの罪を負ってくださり、血を流し、苦しみ、死んで陰府にまで下ってくださったのです。罪の赦しを与えてくださる神、その赦しのための代価を身代わりに支払ってくださった神、イエス・キリスト、この方以外に救いはありません。唯一の救い主です。
 神様は、全く正しい義人であったイエス様を死からよみがえらせ、私たちの罪を贖うことの出来る唯一の救い主として、天に上げられ、いまは神の右に座しておられます。
 その救い主は、私たちの罪を赦すだけでなく、神の子としての新しい人生を与えてくださいます。私たちが新しく生まれ変わって、神の子として出発するためです。私たちは神の子として歩む自覚を持って、神のおことばを聞いて、神の国の文化を自分の人生に生かしていきます。それが今のクリスチャン生活です。
 (ローマ8:14)に、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」とありますように、神の子というのは、神の御霊に導かれている者です。神の子として生まれ変わった心(きよめられた良心)の内に、御霊の導きを感じ取ることができます。ですから、良心がきよめられることは非常に大事なことなのです。
 そういうわけで、御霊の9つの実の導きによって歩むということを、今まで7回にわたってお話してきました。「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」の導きです。
 今日は8番目の「柔和の導き」についてお話いたします。

【御霊の柔和に導かれる】
(ガラテヤ6:1)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」
柔和→優しい、思いやりがある。謙虚。穏和で好ましい感じ。穏やか。豊かさや幸福に満ちている様(愛に満たされている様)

 私たちクリスチャンは、イエス様を通して、神の国の素晴らしい恵みを豊かに頂いています。私たちの魂は恵みで満ち溢れています。なにより神様の愛が豊かに注がれています。その愛を知れば知るほど、心は広く大きくなって、柔和さも豊かに外に現れてくるのです。  
 この「柔和」という言葉が聖書の中でどのように使われているかを見てみましょう。

A.ヤコブ3:13
「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示しなさい。」
※柔和な良い生き方は、主を畏れ敬うクリスチャンの賢さであり知恵である

 「主を畏れることは知恵の初め」と箴言にあります。神を敬う敬虔な心、きよめられた正しい良心を持って歩むクリスチャンには、敬虔に生きる人生を通して、賢さと知恵がもたらされます。
 クリスチャンの特徴は、なにより「柔和」です。それは罪人の性質のままでは決して得られない特性です。神の子として新しく生まれ変わった人生に立って、毎日の生活の中での人間関係において練られていくものです。神の子としての柔和さを鍛錬していただく、そういう体験、実践が必要です。 
鍛錬は、辛く苦しいことかもしれませんが、それは神様からのものだと思って、その苦しみを受け止めて、そこでどういう風な知恵と賢さを聖霊様が教えてくださるのかに目を留めましょう。
 知恵が欲しい人、柔和を追い求めてください。賢くありたい人、柔和を身につけるように、すべての人生を受け止めて頂きたいと思います。

B.(第2テモテ2:25)
「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」
※論争は互いの心を頑なにする。しかし、柔和な心は真理を悟らせる
 反対する人はいつでもいるものです。そのとき感情的に受けたり返したりするのではなく、柔和な心で教え諭してあげなさい、とパウロはテモテに書いています。
 論争は互いに相手を否定し合います。人は責められると心を閉ざすものですから、そうすると訓戒など出来ません。命令したり言い争ったりするのではなく、まずは相手を受け止めること、それが「柔和な心」です。それが人の心を開く大事な働きです。
 心が開かれてこそ、真理を悟ることが出来ます。いかに、反対する人の心を開くことが出来るか、柔和と思いやりをもって、言葉を選びながら、会話を進めていきたいものです。
 
 「柔和さ」は、悔い改めの心を与えて真理を悟らせます。「柔和さ」は、相手の心を変える力があります。夫婦間に、親子の間に、会社の人間関係の中に、お互いに解決できない問題がある時には、自分に柔和さが足りないのではないか、と考えてみましょう。相手がいいか悪いかではなく、自分が柔和であるかどうかです。
 柔和とは、相手を自分より優れた者と見ることによって表に出て来ます。「柔和さ」は、実践しないと身に付かないものです。

C.(第1ペテロ3:4)
「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 外側を着飾ったり高価な指輪をはめたりして、自分を美しく見せることは、神の御前には価値のないことです。人の美しさは心から出てくるもので、柔和で穏やかな人柄こそ、神の御前に価値があることです。
 黙って大人しくしているからといって柔和なのではありません。相手への思いやりが出ないと、優しさや柔和には至らないのです。
 皆さんは、思いやりをどのように表現されているでしょうか。
自分のことばかり考えていると他人への思いやりに欠けます。かといって、全部聞いてあげることが思いやりでもありません。
 相手の立場を理解し、自分もその立場になって共感する、そこから心が通じ合い、一緒に考えたり、話し合ったり、質問して相手の考えを聞こうとします。相手のためを思う真摯な気持ち、隣人愛です。
 
※神の御前に高く評価される人とは、柔和で穏やかな霊を持つ人です。柔和さはいのちの価値を高めます。

 命の価値はみな同じでしょうか。殺人者であっても善人であっても、命の価値は同じだと言う人がいます。たしかに命そのものに差はありません。しかし、その命をどう使うかによって、命の価値は上がったり下がったりします。
 神様の与えてくださった命を、価値のない罪なことに使うというのは的外れです。悔い改めて、やりなおすなら赦して頂けます。イエス様はそのために世に来られたのですから。しかし、心を入れかえないのであれば、尊いいのちであっても、神の目に尊く用いていないのですから、神様は裁かれます。
 柔和さはいのちの価値を高めます。どんな業績を残したか、どんな良い結果を残したか、そういうこと以上に、柔和な生活を目指して頂きたいと思います。

【デボーションポイント】
 柔和をもって訓戒してくださっている御霊の働きかけに気づきましょう。柔和な心で自分に対して訓戒してみましょう。
 
聖霊様はいつも、あなたがたの内で、柔和の熟した実をもって、あなたに接しておられます。
 あなたが自分に対して柔和な心で訓戒するとしたら、どういう風に自分を訓戒するでしょうか。御霊様はそれ以上に柔和な心であなたを導き訓戒してくださっていると考えると、御霊様の柔和な働きかけに気づくことが出来るのではないでしょうか。
 私たちは神様の目から見れば、皆、至らない者です。しかし、聖霊様は一々責めないで、柔和の実をもって、それを認め受け入れ、次に繋げるようにと励ましてくださっています。
 また、ありのままの自分の心を聖霊様に正直に打ち明けることで、「あなたには誠実さ(信仰)がある」と聖霊様は見てくださっています。その誠実さを引き出してくださるのは、御霊様の柔和な働きです。
 赦されているからこそ、受け止めてくださるからこそ、正直に「こんな私でも、まだあきらめずに見てくださっているのですか」という気持ちを神の前に表すことが出来るのです。
そして神様は私たちに信仰があるということを認めてくださるのです。
 御霊様の柔和さが皆さんにも日々注がれて、神の子として成長するように、聖霊様は優しく思いやりをもって訓戒してくださっています。

【俳句】
    
聖霊の  優しさ知れば  柔和になれる

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子 師)

主の家に入るために  up 2024.4.21


主題聖句(イザヤ26:1〜2)
その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。


 

1.城門を開ける→門が閉ざされている→門である入口から入ることが出来ない

(1)入れない理由
①(創世記3:24)「こうして神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」
 神様はエデンの園の入り口に、「ケルビム(神の使い)と、輪を描いて回る炎の剣」を門番として置かれました。
エデンの園が聖く守られるように、神様のおことばと権威に不従順で不敬虔な者たちが園に入って来ないためにです。

②門の中、エデンの園には「いのちの木」があります。その門が閉ざされている間は「いのちの木」の所には誰も行けません。
この「いのちの木」は、「永遠のいのち、不老不死」を意味しています。

③(創世記3:6)「そこで、女が見ると、その木(善悪を知る木)は、まことに、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」
(創世記3:22-23)「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」
 人は神様によって造られ、エデンの園に置かれた時は、「いのちの木」に与ることが出来る状態でありました。しかし、人間の祖のアダムとエバは選択を誤りました。誘惑に負け、いのちの木を選ばず、神様に禁止されていた「善悪を知る木」を選んで、その実を取って食べたのです。そのことにより、アダムとエバは「エデンの園」から追放されてしまいました。
 神様は人の愛が育つことを期待しておられます。神様のおことばを守ることは、神様への愛を現わすことになります。神様は本当の愛が育つために人間に自由意志を与えられました。自由に選択できる中で、愛により神様のおことばに聞き従うことを選んでほしかった。神の禁じた善悪の木ではなく、いのちの木の実を食べて、神様と対等な家族のような交わりが出来るまでに成長して、永遠に神様と共に生きてほしいという願いを持っておられたのです。
 
④私たちは、アダムとエバが罪を犯したため「エデンの園」から追放されて後、アダムとエバの罪のDNAを受け継いで、この世に生まれて来た子であります。
 人類は、サタンの誘惑により、神のことばを退け、自分の価値観により善悪の判断をする者となりました。ルシファーのような、高ぶりと神への反抗を持つような者に似た者となりました。
 もし、人類が悪の権現となり、「いのちの木」から食べることによって永遠の存在者になってしまうと、世界は永久に悪と暗闇でおおわれてしまいます。そうならないように、神様はアダムとエバをエデンの園の外に追放し、そして、人類に「死」が入り込んだのです。
 「死」には、肉体の死、魂の死、霊的な死があります。
*肉体の死;人は生まれたら死にます。病に罹ります。老化します。
*魂の死;神を認めず自分を賢い者とする生き方です。心の中では、悪意、ねたみ、そねみ、憎しみ、許せない心、不平、不満、つぶやき、支配、わがまま、自己中心など、不純物が満ちています。
*霊的死;永遠に神から離されていきます。

(2)このエデンの園は、神様が来られて、アダムとエバに直接交わりを持ち、語られる所でした。
①地上でそれを「型」として表されているのが、出エジプト記に記されている「モーセの幕屋の至聖所」です。
 至聖所には「契約の箱」が置かれてあり、年に1度、民の贖罪のために、民を代表して大祭司が、傷のない動物の「血」を携えて至聖所に入り、契約の箱の蓋の前に立ち、その血を振りかけます。
 そして、贖いの蓋の端と端にある2つのケルビムの像の間からは、神様の栄光の輝く光が放たれて、神様のご臨在が現わされます。大祭司はそこから語られる神様の声を聞き、罪は赦されて、神様との交わりを持つことが出来ました。
 この傷のない動物の血は「イエス・キリストの血」を表しています。きよく正しいイエス様の血が流されて初めて人はきよめられ、神の御前に出ることも神様との交わりを持つことも出来るということが、モーセの時代から象徴として旧約聖書に表されていたのです。

②エデンの園は、天にある「本物の幕屋」です。
天に「本物の幕屋」があり、いま神と御子、主イエス・キリストご自身がその御座に着座されています。

(3)地上にある「モーセの幕屋」には、ケルビムの描かれた「垂れ幕」があり、「前の聖所」と「奥の至聖所」を隔てていました。
①(マタイ27:51前半)「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」
 イエス様は「十字架の死と葬りと復活」により、「いのちの木」への「生ける道」となってくださいました。それは、神殿の幕が裂かれたことにより、「至聖所」に入るための「道」が開かれたということを暗示しています。

②(へブル9:12)「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、『まことの聖所(=天)』に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
 神様が人となってこの地上に来てくださり、人の罪を身代わりに背負って十字架につき、血を流し、罪のさばきを受けてくださいました。こうして人類は死から解放され、永遠のいのちを与える救いが成就しました。これによって、私たちが神の御座に近づく道、エデンの園への門が開かれました。罪人である私たちが永遠に罪赦されて神の前に立つことが出来る者とされたのです。

③(ヨハネ10:3前半)「『門番』は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。」
 閉ざされた「エデンの園の門」を守る「ケルビムと回る炎の剣」である「門番」が、彼(イエス)のために、その門を開きました。
私たち羊は、羊飼いイエスの声を聞き分けて、後を付いていきます。

④(ヨハネ14:6)「イエスは彼に言われた。『わたしが<道>であり、<真理>であり、<いのち>なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり<父のみもと>に来ることはありません(神の御座に近づくことはできません)。」
 「門」に入る条件は、神が人となられた方、罪のないイエス・キリストご自身の血です。それによってのみ「門」を通ることができ、エデンの園(天の聖所)への入り口である道が開かれます。

⑤(へブル10:19-20)「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所(天の聖所、御座)に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、わたしたちのためにこの新しい生ける道(永遠のいのちへの道、神に近づく道、エデンの園に入る道、至聖所に入る道、霊的神の国に入る道)を設けてくださったのです。」
 私たちも、イエス様の肉体という「垂れ幕」の道を通って、「霊的エデン」=「至聖所」=「霊的神の国」に入ることが出来ます。
信じる者は誰でも救われます。イエス様が十字架で死んでくださったので、神様に近づく道、救いの門はもう開かれたのです。

(4)「城門を開ける』この学びの霊的意味
①(ヨハネ10:9)「私は『門』(垂れ幕)です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。」
(ヨハネ10:4)「彼は自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
 イエス様という門を通って入る者は誰でも救われる、とイエス様ご自身が言われています。イエス様という羊飼いの声を知って聞いて従順についていくというのは、主の生き方にならうということです。
 イエス様のご性質やご人格など想像してみてください。愛のある優しいお方です。そのような主にならうことは喜びです。信頼しているので安らかです。たとえ、死の影の谷を歩むとしても、わざわいを畏れません。主がともにいてくださるからです。

②「霊的エデン」は、「神の国」、「神の支配される所」、「主がご臨在される所」、即ち「主の家」です。

③「主の家」に入るのに、その「城門」(イエスのからだという垂れ幕)を通って、私たちは今「イエスの名」のもとに、「信仰によって」、神の御そば近く呼び出され、神の声を聖霊様によって聞くことの出来る者とされていることを、心から神に感謝します。
 私たち一人一人、羊のように羊飼いの声を聞いて、知って、ついていくなら必ず主は、緑の牧場、いこいのみぎわに連れて行ってくださいます。出エジプトの民のように、荒野を通って、カナンを征服するところまで、神のおことばは私たちの心を成長させてくださいます。
 
 しかし、そうではない色んなものを見て不信仰になって、自分はダメだと思ってしまうような、そういうところを通らされることも多くあります。その時には、そういう否定的なマイナスの心や感情になっているのは誰なのかを考えてみてください。それはあなたでしょうか?違います。死んだはずの肉、古き人です。
 あなたはイエス様を信じて正しい良心が与えられています。あなたには神の御霊が助け主としてついているのです。だから、神に逆らい敵対する死んだはずの古き肉が、嘘をつき、欺いて否定的な中にあなたを閉じ込めようとしているのです。
 ですから、門を通って行くときに、私たちがどうしてもすべきことは、肉と霊の戦いです。私たちは何者なのか、どうして今このような素晴らしい立場にいるのか、それを与えてくださった方はどういうお方なのか、自分の羊飼いがどういうお方なのかを、しっかり考えてください。そして喜んで肉を十字架につけていきましょう。

※(へブル10:22)「そのようなわけで、私たちは、『心に血の注ぎ』を受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、『全き信仰』をもって、『真心から』(=心を尽くして主を愛する心を持って)『神に近づこう』ではありませんか」

 「主の家に入るために」城門は恵みによって開けられています。神様への信仰と信頼をもって入って行きましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月14日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

復活・御霊・相続・希望  up 2024.4.14


主題聖句(ローマ8:11)
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。


 

 イースターから2週間が経ちました。イエス様の復活は、福音の核となる出来事なので、クリスチャンにとってとても大切なことです。”イースター”という一回のイベントで終わるのではなく、もう少し余韻に浸るために今日もみ言葉から教えられていきましょう。

(ローマ8:11)イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
 まず、イエス様をよみがえらせた方は、父なる神様です。 神であられる方は、義なる方で、秩序正しい方です。万物の理の頂点におられる方なので、生と死の境を越えることも出来る方だと私は思います。そんな神様は、罪人である私たちを愛してくださっています。私たちを罪の束縛から解放し、共に生きることを望まれています。
 
 しかし神様と罪人には大きな隔てがありました。正義と悪が共存できないように、義なる方は、罪人と一緒にいることができませんでした。そこで神様が取った行動が、御子イエス様を十字架によって身代わりに処罰することで、私たちを罪無き義人とみなしてくださいました。全人類の罪と釣り合うのは、神であられるイエス様の血以外存在しなかったのです。その尊い犠牲によって、私たちの罪は赦されたのです。
 
 しかし、神様のみわざは、更にすごい展開を見せます。それがイエス様の復活です。神様は秩序正しい方なので、”罪を持ったままの状態”の人を”処罰せずに”み側に置くことは出来ないのと同時に、”罪無き者”を”処罰したまま”にしておくことも出来ないお方なので、この地上で罪を一つもおかさなかったイエス様を、死につなぎ止め続けることもなさいませんでした。イエス様の復活は、神様のご自身の権威を越権してのことではなく、秩序の中で起こったことだと言えます。そのような方の御霊は、助け主として私たちの内側に内住してくださっています。更に、私たちはもはや罪人ではなく神様の前に義と認められているので、永遠の時間軸の中で、決して死ぬことのない永遠のいのちも約束されているのです。

(ローマ8:12ー13)
ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

 イエス様を復活させた父なる神様の御霊と共に歩む義人は、一つの義務が生じます。それが肉に従わない生き方をする、ということです。肉とは罪人であった頃の古い自分です。残念ながら、この地上にいる間は、罪赦され救われていたとしても罪を宿した肉体と一緒に歩まないといけません。肉体がもたらすあらゆる誘惑が罪の生活にいつでも引き戻そうとするのを、信仰によって常に勝利していくのが、クリスチャンとしての新しい生き方です。肉体が伴うので、肉に従って生きるという義務はすでに無く、御霊によって肉の行いを殺す生き方が求められるのです。

(ローマ8:14−17)
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 復活をもたらす神様の御霊は、神の子であり相続人である証です。当時のユダヤ社会の中で、神様を「アバ、父」と、父親に対する親愛の情を込めた呼びかけは、例を見ない革命的なことであったと言われています。

 父なる神様は、御子、罪の赦し、御霊、を与えてくださり、更に求めなさいと言われます。そして御国を相続してくださいます。このような恵みと将来が約束されているのは、なんという希望でしょうか。日頃から希望に満ちた歩みをしていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

■2024年4月7日 特別礼拝メッセージより(有賀 喜一師)

福音の真髄の三原理  up 2024.4.7


主題聖句(ガラテヤ5:16)
どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。


 

 (ガラテヤ人への手紙5:16-6:2)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。
 兄弟たち。もし誰かが何かの過ちに陥っていることが分ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」

(ガラテヤ人への手紙6:15-16)
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

  「ガラテヤ人への手紙」は、パウロの宣教によってキリストの福音を受け入れたガラテヤの人々が、早くも福音から離れて、ユダヤ教の教えやギリシャ哲学に影響されていこうとしているのを知って、純粋なキリストへの信仰が歪められないようにと、ガラテヤの人々に宛てて書いたパウロの書簡です。
 
 私(有賀師)にとってもガラテヤ書は信仰生活の転機となった書簡です。中途半端で半信半疑で、肉いっぱいの私が、1955年、この書簡を通してはっきりと、自己中心と決別し、イエス様100%、聖霊様100%の歩みに切り替えられました。

 貧弱で、無能で、何の良いところもない自分が、全能の神に全面的に拠り頼み、常に神の臨在の中で生かされていく、そのように私を変えてくださったのが、このガラテヤ書でした。
 
 今日はこのガラテヤ書から、「福音の真髄の三原理(3大原則)」と題して、3つの方面から話を進めさせて頂きます。

(1)聖霊の原理
1)聖霊による新生(ヨハネ3:3)
「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」

2)聖霊による満たし(エペソ5:18)
「また、葡萄酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」

3)聖霊による成熟(ガラテヤ5:16)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
 私たちが新しく生まれ変わるのは聖霊によってなされます。それはクリスチャンの始まりです。そして、聖霊に満たされるとは、クリスチャンとして統一されること、徹底すること。聖霊によって歩む、それはクリスチャンとして成熟することです。

 2000年前の五旬節の日、聖書の預言通り、使徒たちに聖霊が臨み、彼らを通して一万人を超えるような最初の教会が誕生しました。父なる神様が計画され、イエス・キリストが実行され、聖霊なる神様が私たちに適用してくださったのです。まさに三位一体の神様の偽らざるお働きでした。

 ですから、「神様はおられる。あなたは罪人だ。イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、悔い改めて信じるなら救われる。」と聖霊様が私たちを促すなら、私たちは聖霊様の導きに対して、決して逆らったり(使徒7:51)、偽ったり(使徒5:3)、侮ったり(へブル10:29)、汚したり(マタイ12:31)、悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊様の導きを消したりしてはならないのです。(Tテサロニケ5:19) 

 70年前の学生の頃、私(有賀師)は、自己中心で競争心が強く、優越感を求めて目立ちたがりでした。親からは勘当同然の状態で神学校に入学し、その半年後に結核を患いました。経済的に誰にも頼れず、神様だけが頼りという状態で、必死に神様に癒しを求めて祈りました。しかし神様は何も答えてくださいません。
 3か月も過ぎて、ようやく神様は私を見られておっしゃいました。

 「おまえはそうやって熱心に祈っているが、ここで奇跡が起きて癒されたら、『神様ありがとうございます。あなたのおかげです。』とは言わないで、自分の祈りが奇跡を呼んだのだと思うのではないか。わたしをダシにして、本当は自分の知恵と力と努力でやろうとしている、そういうお前を、わたしは嫌いだ」と。
 「嫌いだ」と言われて驚きました。なぜ?と考えざるを得ませんでした。そしてガラテヤ書を読んだ時、分かりました。

(ガラテヤ2:19)「私はキリストとともに十字架につけられました」という「私」は、自己中心の「私」です。神様が「こうしよう」、聖霊様が「こうしよう」と言われるのに、「いや、私の考え、私の力」と、そのように自己中心でつっかえをしていたのです。

(ガラテヤ5:24)「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」
 自分が有名になりたい、自分が目立ちたい、そこには、肉、情、欲が現れています。
 
(ガラテヤ6:14)「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」
 人と自分を比べて競争するのは、この「世」が、私の中に巣喰っているからです。それを神様は嫌いだと言われたのです。それがはっきりと分かったのです。

 そして告白しました。「己を十字架につけます!肉を情と欲と共に十字架につけます!この世界を十字架につけます!」「つけました!もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです!」見事な新創造です。私は新しく造られた者として新しく出発することが出来ました。すると神様は私を「私の愛する子」と呼んでくださったのです。この転換はまさに聖霊様の御業です。
 
 今日、皆さん一人一人の信仰生活が、自分の知恵や努力や修養で出来たのではなく、すべて聖霊様によって、神が計画し、キリストが成し遂げられた十字架と復活を通して、聖霊様が注がれて成された神の業であることを、はっきり納得しようではありませんか。

(2)信仰の原理
 神的要素と人的要素
 信仰には、神様がイエス・キリストを通して用意された聖霊による働き(神的要素)と、人間の側の応答としての信仰の行為(人的要素)の両面があります。
 
 聖霊に導かれて私たちが信じるというのは、全人格的な行為です。
 
 罪から人を救うことは人には出来ないが聖霊様には出来る、それを私たちは<知性>によって納得します。神の無い人生の辛さと、神の在る人生の素晴らしさは、はっきり<感情>で分かります。
 そして人間の<意志>は決断をします。軽信、半信、無信ではなく、知性、感情、意志をもって、全人格的に信じる全き信仰、任せて委ねて心から信頼する、これが信仰です。
(ハバクク2:4)
「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
 エジプトから奇跡的に脱出したイスラエルは、神様のお働きによって、やがてダビデの王国にまで発展しました。しかし、民は偶像を持ち込み拝むようになりました。彼らは懲らしめられ、バビロンに捕囚され、遠い異国の地で、自分たちは神に見捨てられた、と嘆いておりました。
 そういう状況で神様は、預言者ハバククやエレミヤ、エゼキエルを通して、「正しく信じる者たちは必ず生きる、神様は契約を重んじるお方、必ずあなたたちを回復される」と約束されました。 
 
 この「正しい人(義人)は信仰によって生きる」ということが、新約聖書において、3か所、宣べられています。

1)信仰義認(ローマ1:16,17)
「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人を初めギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」

2)御霊を受ける(ガラテヤ3:11,14)
「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』からです。」「それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

3)栄化(へブル10:37,38)
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし畏れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
 この3つのみことばから、クリスチャンは、信仰によって救いを頂き、信仰によって聖霊を受け、そして世の終わりの時まで、信仰によって主の再臨の約束を信じ、救いの完成(栄化)の希望を持って生きる者であることが分ります。

(3)キリストの原理
1)キリストの内的啓示(ガラテヤ1:16)
「異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、」
 罪の無い誕生、罪のない生涯、言葉、行い、品性において一つも罪が無いお方、罪ある私たちの身代わりに十字架で死んでくださり葬られ3日目によみがえられたイエス・キリストというお方を、聖霊様は私たちの心の中に、はっきりと啓示してくださいます。このキリストを知ったなら、罪を悔い改めて信じるだけで救われます。難行苦行は不要です。赦されて神の子となるのです。

2)キリストの内住(ガラテヤ2:20)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
 イエス様をお客様扱いしていませんか。都合の良い時に都合のよい所でだけ上客扱いして、普段は自分一人で思うがままに過ごしているような、そういうイエス様とあなたとの関係になっていませんか。
 
 イエス様はわたしたちの内に住んでくださって、心の底から私たちを救い、きよめ、癒し、解放されるお方として、共に生きてくださるお方です。

3)キリストの内的形成(ガラテヤ4:19)
「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストがかたち造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」
 キリストが私たちの内にかたち造られる、と語られています。私たちはこの肉体をもって地上の人生を生きてゆきますが、この内側は霊的にキリストらしさが、かたち造られるのです。

キリストらしさの3つの特徴
1)「絶対の従順」 
 馬小屋で誕生し、大工として家族を養い、3年半の公生涯の最後は十字架の死です。一度として愚痴や文句や反抗もなく、神のみここころに喜んで従われました。

2)「信頼」 
 イエス様は十字架につけられ、死んで、墓に葬られました。しかしイエス様は、ご自分の死が無駄になることはないと、父なる神様を信頼されました。神様は三日目にイエス様をよみがえらせ、天に引き上げ、今は神の右に座しておられます。

3)「犠牲を払われた」 
 イエス様は十字架で自分のいのちをお捧げになりました。
 従順、信頼、犠牲、クリスチャンとしてこの3つの姿が私たちの心の中に造られたら、キリストのかたちが造られているのです。

※これは主のご計画 (ローマ8:29)
「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

※これは主の御業(第2コリント3:16-18)
「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 これまで福音の3原則としてお話ししてきたことは全て、もともと神様のご計画でした。あらかじめ、そのように神様が定められ、選び、時至って信仰に導かれ、罪を赦し、聖霊に満たされ、御子の栄光の姿にまで変えられていく、この全工程を神様は計画の中にすでに持っておられます。私たちは御霊なる主のお働きによって、主と同じ姿に変えられていくのです。
 
 福音には力があります。聖霊様が働いておられます。信仰が植えつけられます。そしてキリストが生きて、救い、きよめ、癒し、解放されるのです。私たちがこの基準、福音の3大原則に従って歩む限り、私たちは恵みから恵み、信仰から信仰、力から力、栄光から栄光へと進んでいくのです。

 愛する皆さん、この3つの福音の原理で、この基準にしたがって、生まれ変わって、成熟して、歩みを全うして、神の栄冠にあずかって参りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の誠実に導かれる  up 2024.3.31


主題聖句(ヤコブ2:23)
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。


 

 御霊の導きは、神の子として新しい人生を歩む者の心に現れます。
 ただ、肉に属する生まれながらの良心は主観的で自己中心なので、御霊の導きに従えません。
 私たちはイエス様を信じて、全く新しい良心を神から与えられたので、御霊の導きを感じ、従うことができるようになります。
 この肉にある古い良心と全く新しいきよい良心との間では葛藤が生まれます。しかし、この新しい良心こそが神の子としての良心です。
(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

【御霊の誠実に導かれる】
(ヤコブ2:23)
「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」
 このみことばに誠実ということばは出てきません。しかし、「信仰」ということばが実はギリスシャ語では誠実という意味になります。
  
   誠実→このギリシャ語はほとんど信仰と訳される
   信頼、確証、信じる、委ねる
   正しい神関係を表す言葉
 
 正しい神関係とは、神との健全な関係のことです。それは神との内面的な関係を表します。

A.第1テモテ1:19
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
 正しい良心を捨ててしまい、誠実さが壊れてしまったということです。
 せっかく与えられた正しい良心の判断を捨てて、以前のように肉の良心に従い、この世的な生き方をし続けていくなら、神への誠実さは失われていきます。
 正しい良心から神への誠実が生まれてきます。神を信じるという時に、信じる心の動機はとても大切です。誠実さが疎かにされると神との関係が壊れていきます。
 良心は善悪を判断します。私たちの良心の判断基準はみことばです。
 他の宗教の人たちは、その教えを良心の基準としているでしょう。しかし誠実さがなければ、その宗教も自分の都合のいいように使ってしまいます。
 クリスチャンも気をつけないと、神に対して誠実さを失ってしまいます。
 御霊との交わりを可能とするには誠実さが必要です。誠実さが大切なのです。

B.ローマ10:17
「そのように、信仰《誠実》は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
 何を聞くのでしょうか。それはキリストについてのみことばです。
 神は私たち罪人を憐れんで、ひとり子なるイエス・キリストを遣わして私たちを滅びから救ってくださいました。
 これが福音です。キリストの十字架の苦しみが私たちのためであると知り悟る時、罪から離れ、もっとキリストに従い、誠実に歩もうという心が湧いてきます。
 御霊の誠実の実は、キリストについてのみことばを通して私たちに影響をもたらします。

C.使徒17:31
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証《誠実》をすべての人にお与えになったのです。」
 当時キリストを処刑したローマ兵たちは、ローマ皇帝の封印をつけた墓石が破られたので、自分達が処罰を受けることを恐れて、イエスの遺体は弟子たちに盗まれたという噂を流しました。
 しかしキリストは、神の裁きが待っているという証しとして復活されました。世界を裁く日を神は決めておられます。
 
 なぜよみがえりが神の裁きの証しになるのでしょう。
 人は善悪の実を食べ、神に従わなくなり、その罪によって肉体の死をうけることになりました。この肉体の死から魂を分離することによって、キリストは魂を解放し救ってくださいました。
 ゆえに、私たちクリスチャンは罪に抵抗し勝つことができます。もはや古い主人である罪の奴隷として生きる必要はないのです。
 神への誠実な心を弱らせないようにしましょう。罪に敗れることがあっても、その間違いを悔い改めて、またやり直すのが誠実さです。
 誠実さとは、人が見ていてもいなくても決められたことをちゃんと守ることです。
 キリストは罪がないので、死の力に打ち勝ちよみがえられたのです。
 復活への確証、誠実さは、神の裁きが全世界にくだされることの証しです。神の裁きがあるから、ますます誠実に歩んでいくことができます。

〈デボーションポイント〉
御霊の誠実さを受けている私たちは、どのように応答することで、正しい神、御霊との関係を保ち続けることができるでしょうか。

 神の私たちへの誠実さは決して変わりません。御霊は24時間私たちに誠実に接してくださいます。守ってくださっています。私たちと良い関係を持とうといつも譲歩してくださるのです。
 
 この神の誠実さに気づくと、私たちも誠実になりたいと変えられていきます。

【俳句】 
復活は 御霊の誠実 証する

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月24日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

身代わりの受難  up 2024.3.24


主題聖句(マタイ27:46)
三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


 

 今週はイエス様が十字架に架かり葬られるまでのお心に寄り添い、すべては私たちの罪の赦しのためであるということをしっかり心に刻む受難週としていきましょう。

 十字架上で、イエス様は上記の言葉を発せられました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

 イエス様の最大の苦しみは、まさにこの言葉の通りでした。今まで父なる神様と共に歩まれたイエス様にとって、一時的とはいえ見放されること、御父から引き離されることが苦しく辛かったのです。どれほどの苦しみかを表す表現が、ルカ22章44節に記されています。

(ルカ22:44)
「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」

 裁判にかけられる前のゲッセマネでの祈りの場面です。この後に待ち構えている、鞭打ちや十字架による肉体的苦痛よりも、父に見捨てられるという内面的苦痛が、”苦しみもだえて”という表現に表れています。

 本来は、私たちが、神様から見捨てられる存在でしたが、永遠に見放されない、引き離されないために、イエス様は身代わりとなってくださったのです。

 イエス様でなければならない理由があります。それは、イエス様が完璧ないけにえの役割に相応しいお方だったからです。

(第1ペテロ1:18~19)
「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

 私たちは身体的にも道徳的にも完全ないけにえによって贖い出されたのです。

 私たちが父なる神様から引き離されないために、イエス様が身代わりとなって苦しみを受けてくださったことに感謝し、その完璧な身代わりとしての大役を果たされたイエス様の御名を心から誉め称えましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の善意に導かれる  up 2024.3.17


主題聖句(エペソ5:9)
光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。


 

 私たちは世の光であり、キリストを信じる者は光の子です。
光の結ぶ実はあらゆる善意、正義、真実です。
 
 光には三原色があり、それを混ぜ合わせる程白く明るくなる性質があります。

 霊的な実は善意、正義、真実という3つに分かれます。この3つを失わないよう、諦めないよう求め続けることが大切です。

 善意とは美徳、善意という心の持ち方であり、善良な心、自分以外の人々に向ける心の姿勢、心遣いのことです。

 「意」は心を示します。隣人への心遣いです。どんな状況が起こっても善意を持って受け止める姿勢です。

(第1ペテロ3:9)に「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。
 祝福を受け継ぐ者が呪うようであってはいけません。しかし、損得感情をもつとそれは不可能になります。

 イエス様は「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。」と言われました。これは善意です。

 また、「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とも言われました。それは、相手の心の底にある願い(最後まで一緒に行ってほしい)を受け止めて寄り添ってあげなさいということです。これも善意です。
 みたまは私たちの魂にいつも寄り添い善意を示してくださっています。
 
 不信仰になったり不満を覚えても、聖霊はあなたの内にあって善意を示してくださるのです。
 
 責め苛むのではなく、すべてを善意を持って受け止め励まし慰めてくださいます。

 みことばには厳しいものがあり、また天の父も訓練してくださる方なので厳しい面がありますが、私たちの内に住んでくださるみたまは天の父の愛の心そのものであり、やさしく付き合ってくださる友のような方です。ですから注意されても、決して傷つけられません。

A.ローマ8:38〜39
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 異邦人の宣教師として選ばれたパウロがローマの教会に宛てた手紙です。パウロは異邦人である彼らも、イエス様の十字架のゆえに救われ、ユダヤ人と同じように神に愛されているという良き知らせである福音を語りました。
 
 どんな存在も、神の私たちへの愛から私たちを引き離すことはできないという素晴らしい福音です。
 
 これをパウロに語らせているのはみたまです。みたまの示される善意がパウロに神の愛の深さ、大きさを悟らせているのです。
 
 どのような力も神と私たちの関係を引き裂けるものはないということです。

 私たちはすぐに自分の罪に落ち込み、もう神様に愛されないのではないかと不安になり不信仰になってしまいます。

 しかし、みたまは決して私たちを見捨てず、前向きに未来にむけて常にいい方向に導いてくださいます。

 私たちはいくら罪から離れたいと思っても、その強い願いが心の底から湧き上がってこないと、なかなか罪から離れられない者です。

 その体験を通して、パウロはそのような自分でも神は決して見捨てられることはないと、語ることができたのです。
実感をもってパウロが語ったみたまの善意を、みなさんも受
けています。

 どのような罪の苦しさの中でも、みたまはいつも善意をもってあなたを理解し、正しい方向に常に導いてくださいます。

B.ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 パウロの手紙には「知っています」ということばがよく出てきます。これは読んでいる私たちも含まれています。この知っているは知識だけではなく、体験をして知っているということです。

 神の善意を受けていることを実感することが必要です。

 神が召された人々とはどのような人々でしょうか。神を愛する人々です。

 その人々のために神は何をしてくださいますか。すべてのことを働かせて益としてくださいます。

 神には悪意はありません。どんなに損失を受けても善意をもって受け止め前に進むように励ましてくださる方です。

 それをパウロは経験しました。宣教している中でどんなに大変な苦しい災難や災い、迫害を体験しても、彼はそれらが益と変えられたと告白しています。

 私たちの考える益と神が考えられる益は違うかもしれません。

 しかし、神は常に私たちに善意を示してくださることを知って体験しているので、どのような人間的には理解できないような状況が起きても、神はすべてのことを働かせて私たちのために益としてくださると、心から信じ、同意できます。それが知っているということばになるのです。

 神の善意は変わることはありません。ただ、神の善意を無視し続け、無駄にしていくならキリストの再臨のときには、その報いを受けることになります。

 私たちは祈りの度にみたまの善意を体験し心が前向きに変えられていきます。

〈デボーションポイント〉
 ローマ8:28は、神の善意による召しのご計画です。
パウロは、御霊の善意に触れたので《知っています》と言えたのです。

 罪人でも神を愛する心は持てます。洗礼を通して誓った誓いがあるからです。

 神を愛している自分を受け入れることで、やはり罪から離れようという心が湧いてきます。

 神を愛しているという強い決意をもつことで、誘惑に対して対抗することができます。

 正しい良心は敬虔さをもつことで強められてきます。

 しかし不敬虔なことを、罪と思わず鈍感に受け入れていくと、正しい良心が弱ってきます。

 私たちは神の善意によって集められた者達ですから、神の善意を信じ受け入れ、神の召しに応えていきましょう。

 

☆チャレンジ
 あなたは知っていますか? 

 知っていると言えるものを吟味してみましょう。

 善意を受けるということは恩を受けるということですから、その恩に報いたいと思うはずです。

 善意を実感するなら、私たちはその善意を隣人である兄弟姉妹に返していくことができます。

 神の善意を知れば知るほど、私たちはみたまの実を周りの人々に表していけるようになります。

【俳句】

神の召し  人を愛する  主の善意

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の親切な働きに導かれる  up 2024.3.10


主題聖句(テトス3:4)
私たちの救い主なる神のいつくしみ(親切)と人への愛とが現れたとき、


 

 「御霊によって歩もう」という今年のモットーから、(ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とありますように、御霊に導かれる(神の子として良い方向に連れていかれる)ということをお話ししています。

 前回までに、御霊の九つの実の導きとして、愛、喜び、平安、寛容という4つの実の働きについてお話しいたしました。

御霊の九つの実
(1)御霊の愛の働きに導かれる
 友としての愛をもって導いてくださる。

(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 存在そのものを受け入れられている喜び

(3)御霊の平安の働きに導かれる
 神の子として新しくうまれさせてくださった御霊の働きによる安心感

(4)御霊の寛容の働きに導かれる
 救いの完成のために諦めない寛容さを示し続けておられる

 今日は5つ目の「親切」について、「御霊の親切な働きに導かれる」と題してお語り致します。

(5)御霊の親切な働きに導かれる
(テトス3:4)
「私たちの救い主なる神のいつくしみ(親切)と人への愛とが現れたとき、」
 ここで「いつくしみ」と日本語に訳されている原文のギリシャ語は、(ガラテヤ5:22)の「御霊の実」の「親切」という言葉が使われています。その「親切」というギリシャ語は、「役に立つこと、品行においての善良さ、質の良さ、思いやり、いつくしみ、慈愛、有徳な振舞い」という意味合いを表しています。

A.(ローマ2:4)
「それとも、神の慈愛(親切)があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛(親切)と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

※神の親切(慈愛)が悔い改めに導く
 私たちは誰かから親切を受けると、頑張ろう、心を変えよう、という前向きな力を頂くことができます。また、困っている時に誰かから親切を受けると、今度は誰かが困っているときに自分も親切を施したいという気持ちになります。人は親切を受けると、親切を施すという心の変化が生まれます。これが親切(慈愛)の力です。

 「悔い改め」というのは、方向転換、心を入れかえる、と言う意味です。

 不信仰で否定的な思いや感情、神様に対する良くない態度があったならば、神様の親切(慈愛)に気付くと、「ああ申し訳ないことをした」と、心を入れかえる方向転換が内に起きます。心を入れかえたしるしとして、相手に同じような親切を施したいという慈愛の気持ちが湧き上がります。

 「神の親切(慈愛)が悔い改めに導く」というのは、神の親切が、不信仰から信仰へと変えられるという心の方向転換です。それは、罪を責めて裁いて無理やり私たちを変えるというのではありません。

 聖霊様をお遣わしになり、親切(慈愛)をもって寄り添ってくださるので、私たちは自ら進んで、こころを正しい方向に変えたい、変えよう、そういう気持ちが湧きあがるようになるのです。「親切」にはそういう力があるのです。

 私たちは神様から罪の赦しという大きな親切を与えられています。そんな大きな親切を施してくださった方に、せめて何か少しでも恩返しをさせて頂きたいという湧き上がる思いから、自発的な行動が生まれます。

 神様は、ご自分の施した親切に対して、何か物や形でお返ししてほしいわけではありません。神様の願いは、心を入れかえてほしい、神を愛し敬う敬虔さに立ち返ってほしい、ということです。行動は後から付いてくるのです。

B.(第1サムエル30:1-25)
<あらすじ> 
 ダビデはサウル王様から逃げて、敵国のペリシテ人の国に身を寄せていた時のことです。ダビデとその部下が、住んでいた町をちょっと離れた隙に、アマレク人が町を襲って、女、子供、家財みな略奪していってしまいました。ダビデは神様に祈り、啓示を受けて、600人の部下たちと、奪われたものを取り返しに行くことになりました。

 ベソル川まで来た時、200人の部下が疲れ果てて川を渡れず、そこで荷物番をして留まることになりました。そして残りの400人でアマレク人を追撃し、そして討伐し、奪い取られた物も妻子たちも全て取り戻し、それ以外に羊や牛を戦勝品として奪って帰りました。そしてベソル川のほとりで留まっていた200人と合流します。

 そこで、(22節)「ダビデと一緒に行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。『彼らは一緒に行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物は、分けてやるわけにはいかない。ただ、それぞれ自分の妻と子供を連れていくがよい。』」という場面です。

ア)何が意地の悪さ、よこしまなのか
 働きの労苦に応じて報酬を得るのは普通の考え方のようですが、この場合、何故それは「意地悪く、よこしま」と言われたのでしょうか。

イ)ダビデの親切、慈愛の考え方
 次に、ダビデはこのように言います。
(23-24節)「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。誰が、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」

 戦いに出た者たちも、疲れて荷物番をした者たちも、みんなで一つのチームだというダビデの慈しみ深い心がうかがえます。
 ダビデは、神様がどんなに慈しみ深く、親切なお方であるかを、若いころから体験していました。一介の羊飼いの少年だったダビデをイスラエルの王として選んでくださり、戦いは勝利に次ぐ勝利でここまで来ました。神様のご親切(慈愛)はいかほどであったことでしょう。

 ダビデはこの戦いが主の戦いであることを知っていました。兵士は一人も戦死せず守られました。主が戦ってくださり、主が勝利してくださったのです。この戦勝品も、「主が私たちに下さったもの」だとダビデは受け取っています。

 この戦いを自分の損得の戦いとしてとらえた兵士たちは、意地悪くよこしまな主張をしました。そして慈しみ深い神様から大きな親切を頂いていたダビデは、すべての兵士に平等に親切を施したいと思ったのです。 

 私たちも同じです。私たちも神の家族として一つの群れ、一つの神の神殿、一つのキリストのからだです。一人一人はそれぞれに仕事や奉仕は違っていても、神の国を相続するという約束は、信じる者すべてに与えられている恵みの約束です。

 罪人として神から離れていたのに、その罪を赦して、神の子として受け入れてくださり、御国を相続させようと、そこまで慈しんで親切を施してくださる神様の愛を知ったなら、私たちは神様のために生きる新たな人生を始めようと心が入れかわるのが健全な心ではないでしょうか。

 イエス様に救われた私たちは、すこしでも神様のために、神様の良き子供として成長したいという願いが起こってきているのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
御霊からの親切、いつくしみ、思いやりなど、魂に必要なものを受けているのがわかるでしょうか?

 それがわかれば、心が変わります。


【短歌】
 魂の  必要満たす  御霊の慈愛

 こころ新たに  親切ほどこす

 

 

 

 

 

 

 

■2024年3月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の寛容の働きに導かれる  up 2024.3.3


主題聖句(ピリピ4:5)
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。


 

 今年は「御霊によって歩もう」というテーマで、(ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」とありますように、「御霊に歩み導かれること」をお話ししてきております。
 前回までに4つの大きなポイントがありましたが、今はその4つ目の「御霊の九つの実の導き」として、(1)愛(2)喜び(3)平安について話を進めてきたところです。少し振り返っておきましょう。

(4)御霊の九つの実の働き
(1)御霊の愛の働きに導かれる
 A.いのちを捨てる愛(ヨハネ15:13)
 B.隣人に害を与えない愛(ローマ13:10)
 C.罪を覆う愛(第1ペテロ4:8)
 この3つ愛の働きは、私たちが自分で行おうとするのは不可能な愛です。しかし、御霊様は私たちの内で、このような愛の働きを既にされています。ですから、私たちも御霊様と一緒にその3つの愛を歩んでいきたいという強い願いを持ち、御霊様の助けがあれば出来るという信頼を持って、御霊の働きに導かれる歩みを目指して頂きたいと思います。

(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 A.心を豊かにする喜び(ローマ14:17)
 B.神の子に新生した喜び(ピリピ4:4)
 御霊様が内におられるならば、心の豊かさを内側に持っています。宝物を持っているような喜びが内にあります。この喜び、豊かさ、ゆとりがあるので、私たちは、この世のことに気を取られず、生まれ変わった神の子としての歩みを一歩一歩目指していくことが出来ます。
 そしてもう一つは、御霊様が私たちを神の子として新しく生まれ変わらせてくださり、常に神の子として生まれ変えて、毎日が新鮮な新しい一日であるというそういう喜びの働きをしてくださいます。

(3)御霊の平安の働きに導かれる(ローマ8:6)
 A.御霊の平安はみこころを確信させる(ヨハネ14:27)
 B.御霊との強い結びつきからくる平安(ヨハネ14:1)
 
 平安というのは、平和、融和、安全、仲良くするように働きかけてこられる、という聖霊様の働きです。この平安は無償(恵)の罪の赦しと神の子としての新生からくる平安、安心感です。
 死は、罪のさばきへの恐れや不安を魂にもたらします。しかし、イエス様の十字架の贖いの御業によって、私たちは神様に受け入れられ、自分の存在を永遠に安心することができます。そして、イエス様を通して罪の贖いの御業を導かれた御霊様が、いま私たちの内におられるんだ、そういう安心感を聖霊様は与えてくださっておられます。
 このように、神の子として正しい方向に歩んでいくために、内なる御霊様の愛、喜び、平安の3つの働きに同調する心の姿勢を持って頂きたい。御霊様に付いていけば、私たちも同じような愛、喜び、平安を感じ、それを御霊様と共に行うことが出来るようになります。
 適用するに当たっては、いろいろな葛藤が起きます。その時には、私は新しく生まれた神の子である、ということを忘れないようにしましょう。一からやりなおしているわけですから、出来るか出来ないかが問題ではなく、スタートする(付いていく)ことが大事です。
 今日は「御霊の9つの実の働き」の4番目です。

(4)御霊の寛容の働きに導かれる
(ピリピ4:5)
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」
 主が来られるのが近い(再臨が近い)というのは、罪の裁きが行われる日が近いということですが、大事なことは主の再臨の時に、神の国が完成し、永遠の御国に入れる日が来る、ということです。
 今は一時的に教会という神の国の恵みを受けておりますが、主の再臨は、新しい天と地における神の国の実現の日です。その日が近いのですから、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」と(ピリピ4:5)には語られているのです。
 ギリシャ語の「寛容」という言葉は、「長寿(状態が長く保たれる)、つまり忍耐力、不屈の精神」という意味を表しています。
 単なる我慢ではなく、忍耐力、不屈の精神という深い動機の面もお話しして、御霊様はこのような寛容さを持って働いておられるということを皆さんに知って頂きたいと思います。

A.(第2ペテロ3:15)
「また、私たちの主の忍耐(寛容)は救いであると考えなさい。」
 「寛容」という言葉は、「忍耐」とも訳されます。いずれも、待ち望む、待ち続けるというような、心を支える強さを感じさせます。聖霊様はなぜそういう寛容や忍耐の働きを現わしておられるのでしょうか。

 主の寛容は人々の救いのため
(第2ペテロ3:9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
 神様が忍耐深くあられるのは、一人でも滅びることのないように、最後の審判の時を先に延ばして、すべての人が心を入れかえて敬虔な生活を目指すように待っておられるからです。
 この「忍耐深く」は、「寛容」と同じギリシャ語が使われています。
 「寛容」には強い願いがあります。すぐに処罰を与えないで、その状態から良くなってほしいという強い願いを持って相手にチャンスを与えようとするのが「寛容さ」です。忍耐も同じです。良くなってほしいと期待するから、痛みや辛さを忍耐して寛容さを現わし続けます。

★待ってくださる神への信仰
 神様は私たちの至らないところや失敗や罪をすぐに罰するお方ではなく、将来を期待して、私たちが良くなることを待ってくださっておられるんだという神への信仰が必要です。

★救われることへの希望
 神様は、私たちが変えられていくこと(救われること)を願ってくださっておられるので、私たちもその希望を持って進むことができます。そして、私たちが他者に対して苦味を持つような時にも、「神様があなたを待っていてくださったように、あなたもその人が良い方向に変えられていく(救われていく)のを、希望を持って待ちましょう」と、聖霊様は私たちの内で働いてくださるのです。

★滅びないようにという愛
 聖霊様は、まず私たちに対して滅びないようにという愛をもって、すぐには処罰せず、救われるように、良い方向に希望をもって歩めるように、裁きの時を延ばして待ってくださいます。そういう姿勢が御霊様の寛容の働きとして私たちの内に起こされているので、私たちも人に対して寛容を示していくことができるのです。

 まず私たちが御霊様の寛容さの中で、信仰と希望と愛を示して頂きました。御霊様の寛容さに私たちも同意して進んでいきましょう。

B.(第1テモテ1:16)
「そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」

ア)いつもあなたに寛容な神
 神様は私たちが悪いことをしたり罪を犯したり失敗をしたり神様に損失をもたらしたりしても、すぐに私たちにその損失を償わせたり罰を与えたり裁きを下す、というようなことはなさいません。
 神様は、私たちが神のかたちに似せて造られた者として前進するために、罪を犯してもやりなおすチャンス(神に立ち返るチャンス)を与えておられます。神様はいつもそのような寛容な心で私たちの未来を期待して、受け入れてくださっておられます。

イ)あきらめない期待し続ける寛容さ
 神様は私たちの未来に期待をしておられます。私たちだけでなく私たちを通して関わりのある人々にも聖霊様は寛容なお方です。ですから私たちも聖霊様に同調して周りの人々に寛容さを示していきます。
 そのためにはあきらめないことが大切です。寛容や忍耐には大きなストレスがあります。その辛さ苦しさも一緒に負うから、一緒に歩んでいこう、と聖霊様はあきらめないで期待し続ける寛容さをもって、私たちの正しい良心に働きかけてくださいます。
 取税人マタイがイエス様から「私についてきなさい」と声をかけられた時、すべてを置いて、付いていったように、私たちも内なる聖霊様についていけば、責任はイエス様がとってくださいます。
寛容であろうと自分で頑張るのではなく、御霊様の寛容の導きに合わせて付いていくことを努めて頂きたいと思います。
 
【デボーションポイント】
※御霊による寛容の導きは、将来への強い期待を持つように促してくださる。
 寛容であると余計悪くなるのではないか、と思うのは不信仰です。
内なる聖霊様を信頼しているならば、良い未来を想像して、相手の人にもまた自分に対しても寛容であるべきです。
 自分や他人の将来や可能性を、この程度だと勝手に測って決めつけてはいけません。御霊様の寛容の働きを私たちは受けているのですから、今の状態を受け入れ(赦し)、未来は良くなる、自分は変えられると信じて将来に期待して、聖霊様の導きに付いていきましょう。

※神の国を待ち望む者として御霊の寛容さに調子を合わせる。

 出来る人に調子を合わせていくと、段々しんどくなって付いていけないと感じます。それでも神の国を待ち望む者としては、諦めるわけにはいきません。付いていけないと感じても、聖霊様に信頼して調子を合わせていくのです。あきらめない限り必ず結果は付いてきます。希望をもって続けて頂きたいと思います。

【短歌】
諦めない  不屈の心が  寛容さ
 導き信じ  御霊に着いていく 

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の平安の働きに導かれる  up 2024.2.25


主題聖句(ローマ8:6)
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。


 

 「御霊によって歩もう」(ガラテヤ5:16〜)を今年のモットーとして、メッセージを進めてきております。

 (ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
(ガラテヤ5:25)の【意訳】「御霊によって歩む神の子である私たちは、神の子として正しい方向へと連れて行ってくださる御霊の九つの行いのままに、未来に向けて新しい人生を生きていこうではありませんか。」

 御霊によって生きるとは、御霊に導かれて生きることです。
御霊様が私たちの内に住んでくださるので、私たちは御霊様の九つの実(行い)に導かれて神の子としての人生を歩んでいくことが出来ます。
 
 御霊の九つの実(ガラテヤ5:22∼23)とは、(1)愛の働き
(2)喜びの働き(3)平安の働き(4)寛容の働き(5)親切の働き(6)善意の働き(7)誠実の働き(8)柔和の働き(9)自制の働きです。

 聖霊様はそういう九つのご性質を持っておられるので、私たちが聖霊様に調子を合わせるならば、聖霊様は私たちの内側から私たちの行動や生活の中に、この九つの実(行い)を現わしてくださるのです。

御霊の九つの実の導きについて

(1)御霊の愛の働きに導かれる
 A.いのちを捨てる愛(ヨハネ15:13)
 B.隣人に害を与えない愛(ローマ13:10)
 C.罪を覆う愛(第1ペテロ4:8)
(2)御霊の喜びの働きに導かれる
 A.心を豊かにする喜び(ローマ14:17)
 B.神の子に新生した喜び(ピリピ4:4)

 以上が前回までの概要です。
 
 今日は「御霊の九つの実の導き」の3つ目、「平安の働き」を見てまいりましょう。 

【御霊の平安の働きに導かれる】
(ローマ8:6)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」

 肉の思いとは、自分の欲望を満たしたいという自己中心の思いのことで、それは神様から見ると、死んだ状態(役に立たない存在)です。しかし、御霊による思い(善意に満ちた思い)に影響を受けるなら、私たちは神様にとって役に立つ存在、いのちある状態であり、平安を内に満たすことが出来ます。
 
 ギリシャ語の「平安」という言葉には、「平和、融和、安全、仲良くするように働きかけてこられる」という意味があります。
 聖霊様の平安の働きに導かれるなら、私たちは争わず和解し和合して、共に平和を打ち建てる関係を築くことが出来るのです。

 また、聖書は「無償(恵み)の罪の赦しと神の子としての新生からくる平安」を教えています。
 私たちが神との間に和解が出来ていない時は、自己中心の思いが強く、肉の欲望を満たそうとする不敬虔のゆえに、心は平安を失っていました。

 しかし、私たちはイエス・キリストを信じて無償(恵み)の罪の赦しを頂きました。そして神の子として新生し、神様のおことばを聞いて自由意志で良い行いに歩むことが出来るようになりました。また良い行いには、天に良い報いが用意されています。私たちは感謝と喜びと平安の内を歩むことができるのです。

A.(ヨハネ14:27)
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」

 私たちに与えてくださるという「イエス様の平安」とは、どういうものでしょうか。世が与える平安とは違うと言われています。イエス様は、周りがどんなに変化しても、周りの人が何を言っても、心を騒がせず、ずっと安定しておられました。それは父なる神様を信じ切っておられたからです。
 
 アブラハムも百歳でやっと授かった約束の子イサクを、いけにえとして神様に捧げなさいという神様からの命令に、迷うことなく、イサクを連れて山に上って行きました。たとえ息子が死んでも、神様はご自分の約束のゆえに、息子をよみがえらせてくださる、という信仰をもってアブラハムは神を信じ抜いたのです。
 
 イサクはどうでしょう。まきの上に寝かされ、ナイフを振りかざす父を見ても逃げることなく身を委ねていました。イサクも、神様を信じる父アブラハムを信じ切っていたと思われます。
 
 信頼が、恐怖や不安・疑いから心を開放して、平安をもたらします。平安は強い信頼の現れです。平安の実を持っておられる聖霊様が、父なる神様と御子イエス様に絶大な信頼を持って事を行われるのなら、私も聖霊様を信頼しますと、聖霊様に調子を合わせることが大事です。そうすれば、私たちの感情も安定し、心は御霊様の平安に満たされることでしょう。

 全能の神様を信じ切ることからくる平安を、皆さんも体験してみてはいかがでしょうか。

世が与える平安との違いは、神からの違反行為の責めがないということです。
(第2コリ5:19)
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちに委ねられたのです。」

 私たちと神様との間の和解は、イエス様の十字架の贖いによって成就しています。神様は赦してくださっていますから、私たちはもはや神様から責められることはありません。

B.(ヨハネ14:1)
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 御霊の平安の働きの影響を受けるために大事なことは、神を信じ、イエス様を信じることです。信じないから、心が騒ぐのです。
 私たちが御父、御子、御霊を信じ切ることの出来る根拠は、十字架で死なれたイエス・キリストの歴史的事実、そして使徒たちによるキリストの復活の証言です。

(へブル11:6)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 キリストによって罪の隔てがなくなって、神からの和睦と融和が成し遂げられれたことを堅く信じることにより、私たちは御霊の平安に満たされていくことができます。
 
【デボーションポイント】

 御霊による神の愛に触れて、私たちの存在を受け入れてくださっていることを喜び、無償の罪の赦しを与えてくださった神を信じることによって、御霊の平安に満たされる。

【短歌】
    
平安は  神との融和の  証なり
 御霊はつねに  平和を築く

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の喜びに導かれる  up 2024.2.18


主題聖句(ローマ14:17)
神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。


 

A.ローマ14:17
「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

御霊の喜びは、陽気であり穏やかな幸福感で心を豊かにする。

 永遠の世界である神の国では、飲み食いが中心ではありません。飲み食いしないでも死なない身体になるからです。
 そしてここでは、聖霊による喜びが満ちています。この喜びは何かを得たからとか何かをしたからではなく、存在自体が喜びなのです。
 心が豊かになるので、何もしなくても存在そのものを喜ぶことができるのです。これが御霊の喜びです。
 私たちは肉体を去っても神の国に行けるという約束があり、望みがあります。ですから、お互いに平和を作っていくことを最も大切なこととし、隣人を愛することを一番に求めていくことができます。
 神の国に争いはありません。神の義によって支配されているからです。そしてそこでは、あらゆる喜びを満喫できるのです。

B.ピリピ4:4
「いつも主(御霊)にあって喜びなさい。もう一度言います。
喜びなさい。」
 
 神の子として新しく生まれたのですから、御霊があなたを陽気にし、幸せで豊かな心にしてくださいます。
 罪人であった者が神の子として生まれ変わったとは、天と地の差があります。その大きな差に気づきましょう。この特権が与えられているということは、驚くような事です。
 例えば、王の子であったなら、例え失敗をしたとしても、王子だからと許されるでしょう。私たちも神の子という特権が与えられているのですから、未熟さが残っていても許されるのです。
 その特権は、イエス・キリストの十字架によって許され、与えられたものです。ですから許されている間、この地上で生きている間に、御霊によって正しい方向に導かれていくことを求めていきましょう。
 そのように神の子として与えられている人生を歩めるということは、本当に素晴らしいことであり、喜べることではないでしょうか。罪人から神の子とされたこの喜びは永遠に変わらないものです。
 しかし、クリスチャンとなった私たちは本当に神の子としての人生を歩むことを願っているでしょうか。
 この特権は、良い神の子として成長していくために与えられたものです。堕落するためではありません。いつまでも神の子として歩もうとせず、特権だけを使っていたら、その特権はいずれ奪われてしまいます。

 今日、神の子としての人生を歩み続けたいと願いましょう。願いを持つことは大切です。
 この願いが弱いと、肉の欲を満足させて生きることに心が向いてしまいます。神の子の人生がいかにすばらしいかを考えてみましょう。
 王政の中で、いい王様に支配され、公正な裁き、敵国からの守り、豊かさが与えられていたら、国民はどんなに幸せでしょうか。
 私たちはそういう神の国に今生きています。教会は神の国の表れであり、クリスチャン同士は神の家族です。神のルールと秩序が守られる所です。
 この教会で、私たちはお互いに尊重し合い、神の国を守り保つように心を向けていく必要があります。
 その中で、自己主張ばかりして自分が王様になり、自分の国を作ろうとしないでください。
 列王記、歴代誌に何人ものイスラエルの王がでてきます。これをよく読んで教訓とし、学ぶことが必要です。悪い王様に習わないようにしましょう。
 救い主であるキリストが神の国の王です。これ以上の素晴らしさ、喜びはありません。

【デボーションポイント】
御霊の喜びに導かれるためには、罪人の人生から神の子の人生へと新しく生まれ変わったことを信じなければなりません。
 この喜びを実感していくことが大切です。私たちは子としてくださる御霊を受けたのです。
(ガラテヤ4:6)
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 イエス様を信じている私たちは神の子の御霊を受けることができます。そして、アバ、父よと呼ぶことができるのです。
 この大きな神の愛と憐れみを無駄にしないようにしましょう。
神様は神の家族として、私たちが永遠の神のご計画を共に担うことを願ってくださっています。
 永遠の世界に向けて、全宇宙、全存在をかけて、未来の計画を果たすために共に歩んでいこうと、神様は願ってくださっています。これ以上の特権はありません。
 そのために、御霊があなた自身を新しく作り変えてくださるのです。作り変えられていくことを喜びましょう。
 この喜びがあなたの内にますます湧きあっがってくるのが、成長したクリスチャンです。喜びは成長するほど、後からついてきます。
 年数とともに喜びが消えていくのは、本物ではありません。最初の喜びがだんだん薄くなっていると感じられるなら、本当に御霊に導かれて歩んでいるかどうかを確認してください。 
 クリスチャン生活の喜びより、この世の喜びのほうに心が向いているなら、罪の誘惑に陥りやすくなります。
 御霊に導かれる喜びをもっと味わってください。そうすれば、誘惑してくるこの世の欲に打ち勝つことができるようになります。
 喜びは本当に大切です。パウロはそれゆえ何度も「喜びなさい」と励ましています。
 神の子として作り変えられた喜び、新生の喜びを忘れないようにしましょう。
 いつも作り変えてくださる御霊に導かれていくなら、いつも喜んでいることができるようになります。

【短歌】

喜びは 神の子として 新しく 

生まれ変わった 御霊の働き

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月11日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

御霊に属する  up 2024.2.11


主題聖句(ローマ8:5)
肉に従う者は肉に屬することを考えますが、御霊に従う者は御霊に屬することを考えます。


 

 イエス様が復活されて天に帰られた後、ペテロたち使徒を中心にクリスチャンは増え広がりました。そのほとんどはユダヤ人でした。

 ユダヤ人は、旧約聖書の律法を重んじ、神様への信仰も生活に根付いていたので、イエス様を救い主と信じても、これまでの習慣や価値観からの完全な脱却に葛藤していたと思われます。

 特に、異邦人がクリスチャンとなること、その異邦人たちが割礼を代表とする律法をどこまで守らせるか、ユダヤ人クリスチャンの中で長い間大きな争点となりました。

 律法主義のクリスチャンたちは、異邦人クリスチャンに、まずユダヤ律法の習慣にならって割礼を受けることを求めました。異邦人クリスチャンは、知識の土台が無いので、そんなもんだと受け入れていたようです。

これらの間違った教えを厳しく反対したのがパウロでした。イエス様を信じ、新しくされた者は、御霊に従う生き方をし、人種は重要ではなく、御霊に属することが重要であると教えています。

(ガラテヤ2:20)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 この地上での力と希望は、イエス様の死と復活を信じて義人とされたことによります。義人であるからこそ行いにも表れるのであって、行いによって義人とされるという間違った教えに窓わされないように気をつけましょう。

(エペソ1:14)
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

 さらに、御霊に属する者は、御国の相続人であることも意味します。罪人が救われて御国を相続するというシンデレラストーリーは、宇宙万物において神様の栄光がほめたたえられる出来事なのです。その当事者であることを心から感謝します。

 御霊によって歩む人は、御霊に従い、御霊に属することを考えることに努めます。イエス様の十字架の贖いによって、神の子とされていることをいつも意識し、古い習慣に引き戻されることなく、日々新しくされる歩みを目指しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年2月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の愛の行い  up 2024.2.4


主題聖句(ヨハネ15:13)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。


 

 前回、御霊の実について、それは私たちの行いではなく、御霊の行い(働き)であることをお話いたしました。私たちの内に御霊がおられるならば、そして、私たちが御霊に導かれているならば、御霊の9つの実(行い)が私たちの内側から見えるかたちで現れてくるというお話でした。

 今日は、御霊の9つの実の最初に書かれてある「愛」について、「御霊の愛の行い」というテーマで、3つのみことばからお話ししていきたいと思います。

【御霊の愛の行い】
1.(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

※友のためにいのちを捨てる愛を願っていますか?
 
 御霊様はいつも「友のためにいのちを捨てる」という愛のお働きをしたいと願っておられます。内側におられる御霊様のそのような愛の行いが、私たちの生活の中に現れるためには、私たちがそのような愛を持ちたいと、心から真剣に願っていることが大切です。

 「友」とはどういう関係の人でしょうか。心が通じ合い、理解し合い、信頼し合い、助け合い、慰め合い励まし合う、そのように心がつながっている関係の人を、イエス様は「友」と呼ばれています。

 皆さんはそのような友をお持ちでしょうか。その友のために、いのちを捨てることが出来るでしょうか。自己中心の心では難しいことです。しかし、難しいから、出来ないから、と言ってあきらめるのではなく、それでも、友のためにいのちを捨てるような愛を、自分の内に満たしたいという「願い」が持てるかどうかなのです。

 私たちの内におられる御霊様は、友のためにいのちを捨てることが出来る愛を持っておられるお方です。そして私たちの新しく生まれ変わった神の子としての霊は、御霊様と同じ思いを持ちたい筈なのです。なぜなら、神の子は御霊に導かれているからです。

 皆さんが、神の子として成長していくことを願っているのなら、友のためにいのちを捨てることの出来る愛(御霊の愛の行い)を現わしていけるクリスチャン人生でありたいと、心から真剣に願い求めて頂きたい、これが今日の一つ目のポイントです。

2.(ローマ13:10)
「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」

※律法を全うする愛を願っていますか?
 
 御霊様は隣人に対して害を与えません。私たちは自分の益を優先して求めて行くと、隣人に対して害をもたらすことがあります。しかし、それに気付いたなら、隣人のためにすぐ止めれば良いのです。それが聖霊様の愛の行い(働き)です。

 イエス様は、律法の中で一番大事な戒めは、神様を愛することであり、それと同じように大切なのは、隣人をあなた自身のように愛することであると、仰っておられます。
 
 パウロは、隣人を愛すること、この一事で律法は全うされると、語っています。隣人を愛することは神を愛することにつながり、神を愛するなら、隣人を害するようなことはしません。

 悪口や、感情的に言い返すなど、隣人を害することにつながる言動行動は、気づいたらすぐ謝罪して改め、害を与えてしまったら償いを添えて謝罪を表していく、それが害を与えない愛の実践となります。

 律法(神様のおこころ)を全うするために、隣人に対して害を与えないという気持ちを持ちながら、交わりを進めていただきたいと思います。

 隣人に対して害を与えないという、律法を(神様のみこころを)全うする愛を、内側に持ちたいと願っていますか?聖霊様はその愛を持っておられます。私たちもその愛を持ちたいと祈り願って、聖霊様に心を合わせて、共に歩ませて頂きましょう。

3.(第1ペテロ4:8)
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

※他の人の罪をおおう愛を願っていますか?
 
 「おおう」というのは、他の人の罪を見つからないように隠してあげるというような意味ではありません。罪からくる損失やさばきを共に受けて、少しでもその人の罪が軽減されるように、という意味合いです。イエス様はご自分の死をもって私たちの罪を覆ってくださいました。

 愛する者のためにその罪を覆う(身代わりに、または共に、その罪の裁きや損失を補う)そのような愛を持ちたいと願うことをお勧めいたします。

 御霊様の3つの大きな愛を紹介いたしました。

 3つのみことばから、御霊様の愛の行いに関心を持って、私もそのような愛を御霊様とともに持ちたい、という願いをぜひとも持って頂きたいと思います。

 人は皆罪人であって、罪の性質を肉体に宿している者です。

 しかし、私たちは、神の御霊を頂いて神の子として新しく生まれ変わった者です。神の子の性質として、御霊の御性質である9つの愛の実、行いの力を内側にいただいておりますから、それを輝かせていくということが、神の子としての生きる道なのです。

 今日のメッセージを通して、この3つのポイントが、難しくて出来ないからあきらめる、やる気が出ない、したいとも思わないとしたら、自分のクリスチャン生活は肉の欲望を満たす方向に傾いていないか、折角神の子として造り変えられたのに、いつのまにか肉の欲を満たすことに心を奪われてきていないか、内側を吟味する必要があるでしょう。

 では、神の子はなぜ、そんなに愛することを願い求めることが出来るのでしょうか。

 神様は罪人である私たちを友と見てくださって、友として信頼してくださり、友として心を開いてくださって、イエス・キリストをこの地上にお遣わしになり、私たちが受けなくてはならない苦しみと死を身代わりに受けてくださいました。私たちはそれほどに愛されたのです。

 愛されたとしても、「ああ、よかった、赦された」と軽く損得勘定で受け止めたのでは、神様の愛に触れることはできません。愛の関係も信頼の関係も出来ません。人のために多くの罪を覆うという愛が湧き上がってくることもありません。

 いのちを捨ててくださった愛、十字架で身代わりに罰を受けて、私たちの罪を覆ってくださった愛、私たちはそのような愛で愛されている者です。その神様の愛に触れて、感謝にあふれたら、その愛を自分も他の人に現わしていきたいと、真剣に願うのは神の子として自然な当然のことではありませんか。

 たとえ未熟な神の子であっても、私たちの内には助け主聖霊様がおられますから、祈ってチャレンジしていくことが出来ます。聖霊様は示しを与えて、成長させてくださいます。

【デボーションポイント】

(1)御霊の愛の行いに同調する願いを持つ

(2)その願いを動機として、信仰を働かせる
 御霊様の愛の行いを共にしていきたい、その願いが強ければ強いほど、神様が必ず応えて助けを与えてくださるという期待と信仰が強く働きます。神様はそれを喜ばれます。信仰が弱いというのは、願いが弱いということです。

※「愛を追い求めなさい」(第1コリント14:1)

 自分の思い通りにしてくれる愛を追い求めるのではなく、御霊様の良い働きのために私も一緒にしたい、神様のみこころを実現していきたい、という神の子としての愛を追い求めていきましょう。


【俳句】

愛の実に  調子を合わせ  進みゆく

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

律法に勝る御霊による歩み  up 2024.1.28


主題聖句(ガラテヤ5:18)
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。


 

 ガラテヤ人への手紙が書かれた初代教会の時代で、最も急を要した議論は、新しく救われた異邦人とユダヤ律法の関係があったようです。御霊によって歩む人は、律法の下にはいないとあります。

 ここで言う律法とは、モーセの律法を指しています。十戒を中心に、旧約聖書に書かれている神が定めた規定を、イエス様の時代のユダヤ人の指導者たちは遵守してきました。

 中でも”割礼”は、見える形でユダヤ人としての選民の印でもあったので、異邦人に対しても割礼を施すべきという主張があったようです。

 この時代、イエス様は言葉と行動によって律法の役割を示されました。すなわち、律法は救いの必要性を指摘するのに役立つが、それを守ることイコール救いではない、ということなのです。

(ガラテヤ3:24)
律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

 では、律法をおろそかにしていいのでしょうか。そんなことはありません。律法を疎かにすると人は必ず放縦の道に行くからです。
 
 ガラテヤ5:19〜23では、肉のわざと御霊の実が書かれており、私たちにとって有益なのは当然、御霊の実です。肉のわざは神の国を相続できません。そして、御霊の実に反対する律法もありません。

 このことから、御霊による歩みは、律法を守る歩みと同等以上を意味し、さらに神の国を相続する道を歩むことができるのです。
 
 律法を送られた神は、御霊も送られたので、御霊に満たされた人生は、神の律法の意図に完全に調和しているということになるのです。

 御霊による歩みには、罪と、律法に従うことによって義とされるという試みから解放される真の自由があります。

 御霊の実を表す人は、律法を行いながらも心の中に愛がない人よりもしっかりと、律法に従うことができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の子は御霊に導かれている  up 2024.1.21


主題聖句(ローマ8:14)
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。


 

 元旦からの復習をいたしましょう。

 ≪御霊によって歩もう≫(ガラテヤ5:16)
 去年のテーマの「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」という敬虔な歩みは、御霊によって歩むことで実現いたします。そこで今年は「御霊によって歩もう」というテーマのもとにお話をしてきております。

 私たちは、神に救われ神に愛されている者として、自分の力で努力してしまいがちですが、クリスチャンとして大切なことは、神様がしてくださる、神様が約束を守ってくださると、神様を信じる努力をすることです。そうすると、内なる聖霊様が私たちを助け、神の約束通りのクリスチャン生活へと導いてくださいます。

 この御霊様は、私たちの助け主として、イエス様が送ってくださると約束してくださったお方です。私たちの目には見えませんが、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(へブル書11:1)」とありますように、私たちはしっかり信仰を働かせて、御霊によって歩む信仰の歩みを進めてまいりたいと思います。

≪御霊との良い関係を築く≫(使徒2:37-38)
A)御霊を賜物として受け入れる
 神様が一方的にプレゼントとして送ってくださる御霊を、私たちは唯々感謝して受け入れることから、御霊との良い関係が始まります。そのバプテスマを受ける時の決意が、神への誓いという強い決意であればあるほど、御霊様は私たちの内に臨在を豊かに現わしてくださいます。
 そして私たちは以前の自分の思いとは違う別の聖い思い(正義や善など)に関心を持つようになります。それは御霊の働きであり、私たちの内に神の御霊がおられることの一つのしるしとなります。

 「誓い」という言葉は、神様への純粋な信頼のこころを約束する強い決意を表す言葉です。黙示録では、それを「初めの愛」と表現されています。

B)御霊を悲しませないために(ローマ12:2)
 御霊との良い関係を続けていくために、聖霊様を悲しませない、それは、この世と調子を合わせないこと、というお話しを致しました。昨日までの自分は無いものとして心を一新させて、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえて、御霊に調子を合わせるように致します。

 御霊様も、私たちの至らない部分に助けを与えて、私たちの歩みにペースを合わせてくださいますから、互いに調子を合わせて、ともに歩む良い関係が築かれます。

≪御霊によって歩むとは、新しく生まれた人生のこと≫
                   (ヨハネ3:5)
 洗礼を受け、賜物として聖霊を迎え入れたなら、神の国に生まれた者として、敬虔な新しい人生を歩み始めたのです。

A)神によって生まれた(ヨハネ1:12-13)
※神によって新しく生まれるとは、神の子として新しく生まれることです。

 人はみな罪を犯して死刑が確定している罪人です。憐れみ深い神様は、ご自分のかたちに似せて造られた者たちが罪人としてみな滅んでいくのを放っておくことは出来ません。

 罪人の罪を処分するため、神ご自身が人となって地上に来られたのが、救い主イエス・キリストです。イエス様はすべての人々の罪を肩代わりして、十字架で死んでくださり、罪人の罪を帳消しにするという救いを実現なさいました。

 このイエス・キリストを信じる者は、新しく人生をやり直すことが出来ます。それは新しく生まれるということですが、その条件は一つだけ、神の子として生まれることです。

 私たち罪人はイエス様を信じて神の子として新しく生まれ変わることを選ぶのか、罪人として裁かれて死ぬことを選ぶのか、そのどちらかなのです。

B)新しく生まれた時の御霊の働き(へブル9:14)
 賜物としてお迎えした御霊様は、新しくなったあなたの心に、最初にどんな働きをされるのでしょうか。

 (へブル9:14)には、「死んだ行い(不敬虔な歩み)から離れさせる」「神に仕えるものとする(神様に喜ばれることをしたい)」という2つのことが書かれてあります。それは、良心をきよめられたしるしとして、変化として現れてくるものです。
 以上が今までの復習です。
 
 今日は「神の子は御霊に導かれれている」と題してお話し致します。
【神の子は御霊に導かれている】
(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 水と御霊によって新しく神の国に生まれた神の子は、残りの人生を神の御霊に導かれて歩みます。

※導かれるとは、正しい方向に連れていかれること
 神の御霊は神の子を神を畏れる敬虔な生活の方へと連れて行かれます。あなたのクリスチャン生活を、信じる前と信じた時とそして今とを比較してみると、良い変化が生まれているのではありませんか。

【御霊によって歩む神の子】
(ガラテヤ5:25)
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

 「御霊によって歩む神の子」と「御霊に導かれる神の子」の違いは何でしょうか。「導く」とは、「連れていく」ということです。御霊様は神の子を正しい方向に連れていってくださいます。連れて行かれる神の子は、従順で自発的で素直に導かれていきます。

※御霊によって生きるとは御霊の働きに導かれること
 御霊の働きは、私たちの良心をまず最初にきよめて、そして私たちが神の国を相続する方向へと私たちを導いてくださる働きです。
 私たちが御霊によって生きるとは、そういう御霊様の働きかけをいただきながら、御霊様に導かれて進んでいくことではないでしょうか。
【デボーションポイント】
(ガラテヤ5:19-24)
「肉の行いは明白であって、次のような者です。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

 肉の行いと御霊の実(御霊の行い)が対照的に記されています。
御霊の実(9つの行い)は、聖霊様を私たちの内に迎え入れた時から、聖霊様と一緒に私たちの内に宿っておられます。

 御霊の働きを邪魔するような心の持ち方や考え方を私たちが止めれば、御霊様は内側から9つの行いを外に現わしてくださり実を見せてくださいます。御霊の9つの実(行い)は、私たちの働きではなく御霊様の働きなのです。神の子として生まれ、聖霊様を迎え入れているのに、9つの素晴らしい「徳」と言われる実が現れてこないというのは、勿体ないことです。

 まずは、神の子として新しく生きる時に、聖霊様が内側から御霊の実を現わしてくださるような神の子としての人生を選び取っていきましょう。それが御霊によって歩むクリスチャン生活であり、それが御霊の導きにつながっていくのです。

※御霊の働きと肉の行いのどちらに調子を合わせるのでしょう。
 
 神の子として心に割礼を受けることについて考察する!

 この前半部分は、信じて間もない方々や信じて数年の方々のためのデボーションポイントです。御霊の働きに調子を合わせるとは、具体的にどういうことか、新約聖書を読んで学びましょう。

 そして、この後半部分はクリスチャン生活を長く続けておられる方々のためのデボーションポイントです。心に割礼を受けるとはどういうことか、調べてみましょう。

【短歌】
御霊の実  神の子に見る  確かな証し
天の御国へ  向かって歩む

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊によって歩むとは新しく生まれた人生である  up 2024.1.14


主題聖句(ヨハネ3:5)
イエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」


 

 昨年のテーマは「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」でした。これは敬虔なクリスチャン生活を意味しています。皆さんもチャレンジしてこられて、なかなか難しいと思われたかもしれません。
 私たちの意志や品性だけでは限界があります。罪に対して私たちは弱い者です。罪に打ち勝つことが出来るのはイエス様と共に歩む者です。そのイエス様の御霊が私たちの内に住んでくださって、私たちが御霊様と共に歩むとき、この敬虔な生活を実現することが出来るのです。

 そこで今年のモットーは「御霊によって歩もう」です。主題成句の(ガラテヤ5:16)に、肉の欲望を満足させることよりも、御霊によって歩むことを優先させなさい、とパウロ先生が勧めておられます。
 御霊によって歩むためには御霊との関係が大切です。このことは先週11日のリバイバル集会でお語りしたこととつながりますので、最初にそのメッセージを簡単に説明しておきましょう。

A)御霊を賜物として受け入れる(使徒2:37-38)
「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
 御霊によって歩むためには、御霊との最初の関係が大切です。これがしっかりなされていないと、ご利益的な祈りや信仰に傾いていく可能性があります。御霊様は私たちの良心に語りかけ、示しを与えて、人生の全般に良い関わりを持ってくださるお方です。それを無視して自分の願望欲望を優先させていると、永遠のいのちから逸れていってしまいます。
 ですから、最初の悔い改めをしっかりし、洗礼を受ける時の神への信仰の決意を強くし、そして、行いによって聖霊様を迎えるのではなく、上からのプレゼントとして感謝して、お出でくださいというへりくだった心で聖霊様を受け止める、そういうことが出来ていれば、その後のクリスチャン生活がとても楽になります。信じることによって神様に義とされて、御霊を迎えることが出来るからです。

※受洗の時の正しい良心による神への誓いから逸れていませんか?
 
 私たちは洗礼を受ける時に、「神様を信じる決意は永遠に変わりません。救い主イエス・キリストを信じて歩みます」という正しい良心による神への誓いを致しました。今、その誓いから逸れていないかどうか、よく吟味して、正しい良心をしっかり保って頂きたいと思います。

B)御霊を悲しませないために
(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。」
 私たちは最初の悔い改めの時に、神に対する心の姿勢を一新させました。しかしその後のクリスチャン生活においても、私たちはこの世の影響を受けてしまいますから、そこでも心を一新させて神様の方に合わせていく必要があります。
 そうでないと、段々と微妙にずれていって、年数がたつと大きく的から外れて、この世と調子を合わせるようになってしまいます。それでは神様が悲しまれます。
 
 せっかく神様の方から罪人である私たちに手を差し伸べてくださったのですから、神様との良い関係を続けていくためにも、この世と調子を合わせず、御霊様に合わせて心を一新しつつ、御霊によって歩み続ける人生でありたいと思います。(以上、リバイバル集会メッセージより)

【御霊によって歩むとは、新しく生まれた人生である】
(ヨハネ3:5)
「イエスは言われた。『まことに、まことに、あなた方に告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」

A)神によって生まれた
(ヨハネ1:12-13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 
 御国に神の子として生まれるのは神のわざですが、新しく生まれることを選ぶのはその人自身です。救いは神様からの一方的なお働きですが、その救いを受け取るか受け取らないかは、その人の自由意志によります。

 他のものへの生まれ変わりはありません。新しく生まれ変わって神の子として歩むこと、それが、聖書における神様のご計画です。それを、人は選び取ることが出来るのです

※キリストの福音を聞いて判断できるように全ては完成している

 キリストは私たちの罪を十字架で身代わりに負ってくださり、私たちが罪のために滅びることなく、罪赦された神の子として永遠の神の国に入ることが出来る救いを完成してくださいました。
 何か行いが認められたから神の子として生まれ変われるのではありません。行いがなくても、信じたら神の子として生まれ変われるのです。結果は後からついてくることを神様はご存知なのです。
 神様は、罪人でも救われることが出来るように、良い結果を出せるように、イエス・キリストの救いを完成させておられます。その福音を聞いて私たちはますます神の子として歩む決意を強めていけるのです。
 クリスチャン生活も長いと疲れることがあります。成長もこの程度でいいわと自分で決めたりします。しかし、神様は私たちが絶対100点がとれるようにと導いてくださっています。だから御霊によって歩むことを勧めておられるのです。
 自分が今何を求め望んでいるのか、この世と調子を合わせたいのか、神の子として生まれるという道を選ぶのか、あなた次第です。あなたが本心からキリストの救い(福音)を望み、選ぶなら、あなたの内におられる聖霊様が、あなたを導き助けてくださいます。

B)内におられる御霊の働き
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷の無いご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

 旧約聖書では、神様はイスラエルに対して割礼を求められました。この割礼と、御霊様が私たちの内に来られて良心をきよめる、ということとは繋がっています。割礼は外側に見えるしるしですが、神様は「心の割礼」を受けなさいとイスラエルに勧めておられます。心の変化です。神を畏れるという良心のきよめを受けなさい、これが神様がイスラエルに求めておられた割礼の本来の意味です。

 御霊によって歩むためには、御霊様による良心の清めが必要です。良心が清められないと、肉に従う良心で物事を判断するので、自分の経験や能力によって歩むクリスチャン人生になります。イエス様は、御霊によって生まれなければ神の国に入れないと言われています。そうならないために、神の子として御霊によって歩むということを優先して頂きたいのです。

※神によって生まれた新しい人生は、御霊によって良心がきよめられる。

 まず良心がきよめられていくという聖霊様からの働きかけを、ぜひ受け入れていってください。それは新生体験とも言います。信じてすぐに180度変わる人もいれば、何年もかかって良心のきよめが進められる人もいます。いずれにしても、あなたの内におられる聖霊様は あなたの良心をきよめて敬虔な歩みが出来るように整えていってくださいます。これが御霊によって歩む最初の部分です。 

 きよめられたしるしは、悪を離れ、神に仕える敬虔な人生を生きるという方向にあなたの人生が変わっていくことです。それは難しい、と思うようなことでも、あなたの良心が御霊によってきよめられれば、神の子として自然に出来るようになります。

 クリスチャン生活の中で、福音を一度に全部、完全に理解できるということはありません。福音は信仰生活の中で開かれていくものです。悟らされていくものです。信仰生活の中で、福音(神の愛)の、広さ高さ深さ長さが見えてくるものです。そしてイエス様の救いに感動していく、それが年数を重ねていくクリスチャンの信仰生活です。

【デボーションポイント】
※キリストを信じ受け入れた私たちは、御霊によって良心がきよめられ新しく生まれた神の子として生きるのです。
 今日のメッセージを深く黙想しながら、今の自分を正しく受け止めて、神を信頼して、御霊によって歩むということを学んで行き、クリスチャン生活を前進させていってください。

(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 神の子は、御霊に導かれて歩みます。

【短歌】
神の子と  された新生  一歩づつ
 御霊によりて  天の御国へ

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月7日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

教会の徳を高める  up 2024.1.7


主題聖句(第1コリント14:26)
それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。


 

 元旦礼拝でも発表がありましたが、今年の教会のモットーは「御霊によって歩む」(ガラテヤ5:16)になります。御霊がテーマとなっているので、今年のどこかで必ず触れられるであろう、御霊の賜物について、特に異言と預言の賜物については、私たちはもう一度学び、チャレンジしていくこととなるでしょう。
 
 主はなぜ御霊の賜物を人に与えられたのでしょう。それは、次のみ言葉から見てきましょう。

(1コリント14:26)
「それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」
  
 1コリント14章では、御霊の賜物、中でも異言と預言についてパウロが細かく教えています。特に人が集まる集会中での御霊の賜物の働かせ方について言及している箇所です。それらは全て、成長に役立てるためにしなさい。と語っています。

 この訳は、新改訳2017バージョンの訳で、一つ前では、”徳を高めるためにしなさい”となっています。この対象は、教会を指しています。ですから、教会の成長のために、または教会の徳を高めるためにしなさい、と語られているのです。

 私は常々、自分たちの教会が魅力あふれる教会であることを望んでいますし、そのために献身し奉仕しています。それが神様の望まれることだと信じているからです。

 10年以上前に、この教会に神様が、広島エルサレムプランという壮大なビジョンを与えてくださいました。その中の、神の魅力あふれる教会という響きに心惹かれ、それは今でも自分の中で強く残っています。

 2024年は御霊によって歩むことを意識する一年となっていきますが、それを自分だけに留めるのではなく、教会の成長のために御霊に促されて歩む一年を目指してほしいと願います。今年の目標をすでに掲げておられると思います。

 是非、教会での目標も加えていただければと思います。頭をキリストとしたとき、体は私たち一人一人の集合体である教会です。私たち個人が成長するのは、教会が成長するためなのです。教会の成長を意識する一年としていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2024年1月1日 元旦礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔を鍛錬する者にとってふさわしい時代となる  up 2024.1.1


主題聖句(第2テモテ3:1〜5)
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」


 

 

 終わりの時代はクリスチャンにとって、さらに敬虔さを鍛えられるようになります。
 
 困難な時代にはどういう人々が増えてくるのでしょうか。この19個の中のひとつでも該当しないという人はいないでしょう。クリスチャンはこういった自分の心の状態に良心の痛みを感じますが、こういう状態が全く悪いことだと思いもしない人々が出てきます。しかもそういう人々がキリストの再臨の前に世の中に増えていくのです。
 
 正しい事を行っている人も、こういう人々が罰を受けないでいるのを見て、馬鹿らしくなっていきます。
 世の中はさらに悪くなっていくと、二千年前にすでにパウロは弟子たちに語っています。
 
 今の日本人は危機感が非常に少ないと言われています。その例として、今問題となっている安芸高田市の市長と議会の対立が挙げられます。
 
 クリスチャンも危機感を持たず、このままこの世の流れに流されていってしまったら救われません。最低限、クリスチャンとしての生き方を維持していないとだめです。 
 
 「この世と調子を合わせてはならない」とみことばにあるように、優先順位を間違ってはいけないとパウロは何度も手紙に書いています。

 神のあわれみである恵みをいたずらに受けてはいけません。神への敬虔な心をもって生きましょう。
 さらに昨年の目標であった「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」に努めるために今年は新たに目標をあげます。

 〜敬虔な人生を可能としてくださるのが御霊〜
 
 昨年語ってきた敬虔に生きるということを、皆さんは努力ではどうにもならないと悟ってこられたのではないでしょうか。
だからこそ、御霊によって歩むことが必要となるのです。
 御霊に導かれ、みことばから語られることを優先して歩みましょう。
(ヨハネ14:16〜17)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

 御霊は人格者ですが、「お与えになります」とある理由は、無償のプレゼントとして助け主をお与えになるということです。
御霊によって歩むために、神と共に生きるように意識することから始めましょう!
 
 意識しなかったら、共におられないと勘違いすることになります。相手を意識せず生活していたら、夫婦でもお互いを深く知ることもなくなります。
 
 イエス様のもうひとつの呼び名は「インマヌエル」神が私たちと共におられるという意味です。
 せっかく神様が共にいてくださるのに、他のものに気を取られてしまい、神を意識しないでいたら本当にもったいないことです。しかし神様よりも私たちの心を誘惑するような欲求を刺激する誘惑がこの世には沢山あります。
 
 イエス様を迎えたラザロの家で、マルタは給仕で大忙しなのに、妹のマリヤはただイエス様のそばでその話しに耳を傾けていました。マルタは苛立ち、イエス様に妹マリヤを叱ってくださるようお願いしましたが、イエス様は。「なくてはならないものはただひとつです。彼女はその良い方を選んだのです。」と言われました。

 それは神への信仰であり、みことばを聞き、読むことです。
そしてみことばを聞くには「敬虔さ」が土台としてなければなりません。この敬虔さこそが「なくてはならないもの」なのです。

(箴言3:6)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
 主を認めるとは主を畏れ敬うことです。例え世の中の人からは批判されたとしても神の前には喜ばれることです。
 
 そういう敬虔な歩みをしていれば、あなたの行くどんな道でも、家庭でも職場でもどこでも、神はあなたとともにおられ、神を意識すれば、神の前にまっすぐな道を歩むことができます。
            
【俳句】
困難な 時代の中で あきらめず 
御霊によって 敬虔に生きる

2024年のテーマ
善に親しむ楽しさ きよめられる幸せのために
【御霊によって歩もう】
(ガラテヤ5:16)
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」
 
 敬虔な心を悩ませるのは、肉の欲望です。それは貪欲という不健全な欲望のことです。

 肉体を維持するためには健全な欲望は必要です。しかし健全さを失い満足を追い求めるようになっていくと貪欲になっていきます。その欲望をコントロールさせていただくために必要なのが御霊の導きです。今年はこのことを学んでいきます。