■2023年12月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
偉大な敬虔な奥義 up 2023.12.31
主題聖句(第1テモテ3:16)
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
敬虔について9月からずっと学んできました。今日はそのまとめと、来年に向けての学びをします。
「敬虔」とは、神の偉大な奥義である。
つまり、最も奥深い大切で重要な要素、秘密であり、極意である。
神様はこの世の終わりに、イエス様を通してすべての人にこの奥義を示されました。
主題聖句の括弧が敬虔の奥義です。奥義とは継承者に与えられるものです。私たちにこの奥義が与えられたのは、私たちが神の国の相続者で奥義の相続者として永遠の御国のご計画に向かって歩んで行く者だからです。
キリストの敬虔さ
(1)肉において現れ
(ピリピ2:6〜7)
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えずご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」
キリストは完全な神であり、完全な人間です。キリストは創造主です。
A)神の御姿から人間と同じようになられた
人はそれぞれが自分の誇りを持っています。しかし神様はご自身の創造主としての誇りを自ら捨てて被造物である人としてこの地に下られたのです。
このような行動は考えられないことです。例えば、ダニエル書に出てくるネブガデネザル王は傲慢さの故に神に打たれて野の獣のようになり、7年間獣のように過ごしたとありますが、神が人になるとはそれ以上の出来事です。
B)神の在り方を捨てられた
あり方とは創造主としての立場のすべての権利を捨てられたということです。
C)仕える者の姿をとられた
全宇宙すべてを統治される仕えられるべきお方が、ご自身が造られた被造物である人に仕える者となられたのです。
(2)霊において義と宣言された
(ピリピ2:8)
「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
従うとは、信仰によってということです。イエス様の生涯は父なる神に人として畏れ敬う心を持って(信仰)、義人は信仰によって生きるという姿勢を貫かれ、十字架の死に至るまでも、どのような苦しみにも耐えられ、ただ父なる神様のみこころに忠実に従われました。
私たちは肉においては義とされません。霊において義とされるには信仰によるしかありません。
(ヘブル5:7)
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
人となられたキリストは死からの救いのために、敬虔な信仰からの叫びと涙の祈りと願いをし、その祈りと願いが聞き入れられたのです。
30歳になられる前は普通の人としてのルールの中で過ごされましたが、30歳になられてからは全能者なる神の権威とルールをもって、人々に神の裁きの前に心を入れ替えて救いを受け入れるよう勧められました。その勧めは多くの指導者や金持ち、傲慢な人々には嫌われました。
イエス様はご自身の願いも持たれたはずです。しかし、神のみこころのみを求められました。そのことはゲッセマネの祈りに表されています。「できるならこの盃を取り去ってください」と人としての個人の願いを祈られましたが、それ以上に「あなたのみこころのままに行ってください」と御父のみこころを優先されたのです。
私たちも神のみこころを行いたいという願いと、自分の肉の欲求を満たしたいという2つの願望があります。
欲求自体は悪くありません。健全な生活を送るために必要な欲求があります。しかし、肉の欲求ばかり満たすことに心を向けてしまい、神のみこころを行いたいという欲求を忘れてしまうなら本末転倒です。優先順位が大切です。
この世は自分の欲を優先します。神のみこころも価値も知らないからです。
しかし愛する者ができたら、自分よりも愛する者の願いを叶えてあげたいと思うようになります。
イエス様も御父を愛する故に、そのみこころを行うことを優先されました。
愛する心がなければ、相手のために自分を犠牲にするという心は出てきません。
神を敬うとは敬虔さです。その敬虔さを鍛練していきましょう。神への信頼、尊敬、愛を磨き上げていくためのクリスチャン人生です。神への信仰があれば、心を入れ替えて、気持ちをリセットすることができます。
(3)御使いたちに見られ
(ヘブル2:9)
「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
イエス様は御使いたちよりも脆弱な姿となられました。脆弱とはみすぼらしい、醜い、劣っているということです。
旧約聖書に出てくるナアマン将軍は優秀な戦士でしたが、全身に重度の皮膚病がありました。彼はそれを周囲に、特に部下たちには見られたくありませんでした。
御使いたちは元々天におけるイエス様の栄光の姿を見て知っていました。ですからこのことはイエス様にとっては辛いことだったはずです。しかし、イエス様は地上で人として、御使いたちに劣る姿でご自身をさらけ出されたされたのです。
(4)諸国民の間に宣べ伝えられ
(第1コリント1:22〜24)
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」
全世界に福音は伝えられてきています。しかし、信じない人もいます。ユダヤ人の長の中にはイエス様の奇跡の御業を見て、
悪霊の長で悪霊の力でやっていると批判しました。
不敬虔な人々はいいことを見ても悪く言いふらします。信じた人は福音をそのまま伝えますが、不敬虔な人々はイエス様を批判的、攻撃的に悪く伝えます。イエス様につまずく人と受け入れる人とが分かれてくるのです。諸国の民に述べ伝えられるとは、いいことも悪いことも伝えられるということです。
クリスチャンでも、敬虔に生きようと務める人もいれば、この世と妥協しても構わないと思う人もいます。
ただ大事なことは、敬虔な心があれば神を畏れて、この世の価値観に咎めながら心を痛めながらも諦めないで神に従いたいと求めていけるということです。
しかし、もし開き直ってしまい、諦めてしまうなら敬虔さを失ってしまうことになります。
きよめられた良心とは、キリストの血潮によって洗われた心です。
(ヘブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を,とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
敬虔な人は決して諦めず神に仕えることを求め、神のみこころを優先したいと願い続けます。
私たちにとっては、キリストは神の知恵であり神の力です。そしてこの信仰のゆえにこの世に勝利できるのです。それゆえ決してくじけません。批判されても述べ伝えていくのは、聞いて救われる人がいるからです。
【デボーションポイント】
(1)このような敬虔の奥義をまっとうされた目的は?
罪人を愛し救うためです。
(2)キリストの敬虔さを見て何を思いますか?
福音書をよく読みながら考えてみましょう。聖霊さまが啓示を与えてくださいます。
私自身は敬虔の奥義は「最も大きな愛」と考えます。
◎最も大きな愛
(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
この愛をもっておられるのは神様だけです。しかし、神の相続者としての私たちはこの最も大きな愛に近づくことができるのです。
ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている(第2コリント6:8)というみことばのように。この世の価値観に退かず敬虔な生き方を目指していきましょう。
【俳句】
キリストの 偉大な奥義 敬虔さ
■2023年12月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
クリスマスセレブレーション up 2023.12.24
主題聖句(エペソ1:7)
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
メリークリスマス!
クリスマスと言えばプレゼントですが、皆さんはもうプレゼントをいただいたり差し上げたりされたでしょうか。プレゼントには、贈る人も贈られる人も両方の人の幸せを願うという意味があるように思われます。特に願っているものがプレゼントとして与えられるというのは、本当に幸せで嬉しいものです。
世界では今、ロシアとウクライナ、イスラエルとテロ組織が戦っています。紛争はその2か所だけではありません。世界には50か所以上もの紛争地域があるそうです。小さいところで言えば、私たちの家族、夫婦、友達同士、職場の中でも、ちょっとした争いごとが起きます。
誰も争いたくはない。しかし争わなくては自分が生きていけない、自分の国が生き残れない、だから争わざるを得ない、という状態かもしれません。
出来るだけ私たちは互いに協調し合い、協力し合い、助け合って、社会の平和、家族の平和、世界の平和を願いたいものです。
クリスマスにプレゼントを贈るというのは、かつて「救世軍」という教会組織が、貧しい子どもたちにプレゼントをしよう、ということで始まった活動のように聞いています。まず神様が私たちの幸せを願ってイエス・キリストというプレゼントを私たちに与えてくださった、というところから始まって、今では世界中にプレゼント交換の習慣として広がったようです。
今日は「神様のプレゼント」についてお話しするのですが、プレゼントというのは、いただいてすぐ楽しみ味わうことの出来るものもあれば、時間を経て、その本当の良さ素晴らしさを体験できるプレゼントもあると思います。一つ例をあげてお話いたしましょう。
ある村に5歳になる「さっちゃん」という女の子がいました。ある日、おじいちゃんとおばあちゃんの結婚記念日のお祝いをしている時に、若いころのおばあちゃんの花嫁姿の写真を見て、さっちゃんは、おばあちゃんのその純白のドレス姿の美しさに感動し心奪われました。そこで、おばあちゃんが奥の部屋から、その実物のドレスを持ってきて「さっちゃんが結婚する時のために、このドレスを今日プレゼントしてあげよう」と言ってくださったそうです。さっちゃんは大喜びで、いつか結婚するということを信じて、その花嫁衣裳を着るのを楽しみにしていました。
15年後、さっちゃんは結婚することになりました。結婚の喜びとともに、待ち望んでいた花嫁衣裳をやっと着れる、願いが叶ったという喜びで幸せいっぱいのさっちゃんの姿を見て、おばあちゃんも感無量でした。自分の時より更に美しいさっちゃんのドレス姿に幸せの涙を流して喜ばれました。
プレゼントされたドレスを最初に見た時の感動も大きいですが、時間を経て本当に着た時こそ、そのプレゼントの良さ素晴らしさを実感できたのではないでしょうか。
神様のプレゼントはイエス・キリストです。イエス・キリストというプレゼントをいただいた人は必ず人生の最後には、「プレゼントをいただいてよかった」と言われます。必ず、さっちゃんのように感動されます。なぜでしょうか。
今日はクリスマスですが、イエス・キリストがお生まれになった日ではありません。本当は9月から10月の秋にお生まれになったようです。クリスマスというのは、この地上に神様からのプレゼントとしてイエス様がお生まれになった、そのことを記念して喜び祝うというのが、本来の意味です。
イエス・キリストが神様からのプレゼントであるというのはどういう意味でしょうか。聖書のエペソ1章7節から見てみましょう。
(エペソ1章7節)
「この方にあって、私たちはその血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
「恵み」というのはプレゼントの別の言い方です。何の条件もなく、「幸せになってほしい」という相手の一方的な好意により与えられることを「恵み」と言います。神様は私たちに、驚くばかりの測り知れない「恵み」を与えてくださった、とエペソ書に語られています。どんな恵みでしょうか。
「この方」とは、イエス・キリストのことです。神のひとり子と呼ばれるイエス・キリストは、初め、天において神と共におられ、神の姿であられましたが、私たちのために、私たちの罪を処分するために、人間の肉体をもって地上にお生まれになり、罪が処分されたしるしである十字架の死を成し遂げてくださいました。罪を犯した者の報いは死ですから、本来は私たちがさばかれて死ぬべきところですが、イエス様が代わりに血を流して死んでくださったのです。
聖書の言う「罪」とは、「的を外す」ことです。的に向かって矢を射た時、的に当たる矢もあれば、的から逸れて飛んでいく矢もあります。逸れた矢は、いつか下に落ちてしまいます。それは間違った生き方をして滅んでいく罪人の人生です。
すべての人は罪を犯した、と聖書に書いてあります。聖書で言う一番大きな罪は何でしょう。
子どもが親に反抗し、親を親とも認めず、親を尊敬しない、そういう子どもは、親にとっては大変悲しい存在です。的を外れた存在、自己本位で自分勝手な生き方をしていく、そういう状態を、聖書では「罪」と言います。
天地万物を造られた創造主なる神様は、私たちをご自分のかたちに似せて創造してくださった「父なる神様」です。その神様を尊敬しないということが、神様にとって一番大きな罪なのです。罪は処分されなくてはなりません。裁かれなくては罪は消えません。
親は、子どもから受けた反抗的な仕打ち、心の痛み、苦しみすべてをじっと受け止め、子どもが心を入れかえてくれることを願います。もう一度親を尊敬し、信頼する心に変わってくれるように願っているわけです。そのための罪の負債は親自身が受け入れます。そこには愛の犠牲が支払われています。神様も同じです。
私たち人間は、神様のかたちに造られた神の子です。しかし、自分勝手に好きなように生きて行きたいから、神様を押しのけて自分本位に生きようとします。だから人は皆罪人だと聖書は言うのです。殺人とか、罪を犯すから罪人なのではなく、神様に対する姿勢が間違っているから罪人なのです。罪人だから罪を犯すのです。
神様の心の痛みがお分かりでしょうか。父なる神様のその痛みが癒され、その心が慰められるために、イエス様は罪のための代価として人のからだをもって、私たちが受けるべき罪のさばきを、身代わりに十字架で受けてくださいました。
神様の愛の心の現れとして、イエス様はこの地上に来られ、「赦すから、立ち返ってほしい」と十字架の苦しみを、あなたのために受けられました。
それはまるで親が反抗的な子どもから受ける様々な傷や痛みをぐっと耐えて、子どもが改心するのを待ち望む親の愛の姿であります。
あなたの罪を処分するため(赦すため)に、この地上に肉と血をもってお生まれになったイエス・キリストは、神様からの無償の恵みの赦しのプレゼントなのです。
あなたのために神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じることが、心を入れかえた証と神様はみてくださいます。 信じる者(心を入れかえた者)は救われます。新しい矢をいただいて的を射た人生をやり直すことが出来ます。この地上で生きている限り何度でも新しい矢をいただいて、やり直すことが出来るチャンスが与えられます。それが赦しの恵みです。
私たちがイエス様を信じて、どういう人生を生きることが、的を射た人生なのかを、少しお話しておきましょう。
それは善に親しむ楽しい人生をめざし、きよめられる幸せを実感することです。
きよめとは人徳が高められることです。聖書に書いてある通り、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という9つの徳が私たちの内に宿り、神の子としての新しい人生を目指して歩ませてくださいます。
親切をし、人助けをしていく、裏切られても、それを恨まず、神様が正しくその人と自分の間をさばいてくださるように、神様に委ねていく、それも善行の一つです。
聖書には「悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。悪に対して悪をもって対処するのではなく、善を持って勝利するのです。
あなたにもそのような人生を願う眠っている心があるのではないでしょうか。今日は、その眠っている心が呼び覚まされるような時かもしれません。
本当に、善に親しむ人生、きよめられる幸せを、もう一度求めてやりなおしたい、的を射た人生でありたいと願う人は、一度イエス・キリストのことにもっと耳を傾けていただきたいと、私たちは願っております。
■2023年12月17日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
わたしたちの救い主 up 2023.12.17
主題聖句(ルカ2:11)
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
まず、日本人である私たちが、救い主と出会うことがどれだけの奇跡であるかを見てみましょう。
神様と人の歴史は、旧約聖書に描かれている通りですが、神様は、人の中からアブラハムを最初に選び、星の数ほど子孫を増やすという祝福を与えられました。そのアブラハムの子孫である、ユダヤ人たちは、旧約聖書の予言にある救い主を待ち望んでいましたが、イエス様がそうであるのに彼らは受け入れず、十字架にまで掛けてしまいした。
このユダヤ人たちは、後にユダヤ教となります。
一方で、イエス様の弟子であるペテロや使徒パウロによって、イエス様が救い主であるという福音は、ユダヤ人以外に広められていき、それがヨーロッパを中心に広まり更に世界に広まりキリスト教となっていきました。
それから、キリスト教はルターの宗教改革によってカトリックとプロテスタンに分かれ、さらにプロテスタントという広義的福音主義の中で数多の教派に分かれ、御霊の働きを現代でも信じる聖霊派という流れの中にある教会が私たちの教会なのです。
何千年という福音の歴史を数行で表現しましたが、多くの枝分かれをしていった歴史を見るときに、聖書を100%正しいと信じる教会に導かれたことは、とてもすごいことなのです。
私たちは、イエス様を救い主として信じています。しかし、今現在も救い主を待ち望んでいる民族がいます。それがユダヤ人です。彼らはイエス様が救い主と信じていないのです。選民であったにもかかわらずです。
イエス様を信じる私たちには、理解できなことですが、そんなユダヤ人の人間的な部分は、実は私たちにもある、ということを謙虚に受け止めなければなりません。クリスマスの時期だけ救い主として意識し、普段は形式的な礼拝になっていないか、マンネリした信仰になっていないか、定期的にチェックすることは大切なことです。
洗礼を受けたから終わりではありません。もう救われているから大丈夫という安易な信仰では、イエス様が再び来られた時に、かつてのユダヤ人と同じ過ちをしかねません。いつも心へりくだり、謙遜であることを心がけましょう。
今日もイエス様は、変わらない私たちの救い主です。
■2023年12月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
至福の教えと敬虔さ up 2023.12.10
主題聖句(マタイ5:3〜12)
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
クリスマスには、互いの幸せのためにプレゼントをします。
与える人も受ける人も、幸せを心に受け取るためには、敬虔な心が大切です。敬虔な心は、幸せを感じ取るための大事な心の姿勢だからです。
そこで今日は、イエス様の「山上の垂訓」といわれる教えの中の、特にマタイ5章の「至福の教え」と呼ばれているところを、「敬虔」との関連から見ていきたいと思います。
【至福の教え】(マタイ5:3-12)より
(5:3)「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
※心の貧しい者とは、天の御国を求めている敬虔な人
「貧しい」というギリシャ語は、きびしい状況、苦しい状態を意味しています。ですから、「心の貧しい人」というのは、安心できない、満たされない、心に苦しみや痛みを負っている厳しい心境にある人です。
そういう心の貧しい人、天の御国を求めて渇いている敬虔な人は、幸いです。天の御国はそういう人たちのものだからです。
(5:4)「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」
※悲しむ者とは、天の御国を受け入れない人々に対する悲しみをもつ敬虔な人
不敬虔な人々が、まだ神様を知らないがゆえに多くの痛みと苦しみを覚えている、そういう人々が周りにおられるのを見て、心を痛め悲しむ敬虔な人は、幸いです。慰めを受けるからです。
(5:5)「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」
※柔和な者とは、創造主である主権者がおられることからくる敬虔さによる柔和な者
創造主であり、裁き主である主権者を尊び、すべてを委ねるがゆえに、自分で人をさばいたりしない柔和な人は、幸いです。その人たちは新しい天と地、神様の約束の地を受け継ぎます。
(5:6)「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」
※義に飢え渇く者とは、天の御国の義によって、この世に平和が訪れるのを待ち望む敬虔な人
人は自分の大義名分によって決断したり行動したりするので、互いの義がぶつかって争いが起きます。
個人の義ではなく、天地創造の神の義にすべての人が合わせることによって、この世に平和が訪れるのを待ち望む、そのような神様の義に飢え渇く敬虔な人は、幸いです。その人たちは満ち足りるようになります。
(5:7)「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」
※あわれみ深い者とは、創造主である主権者のあわれみ深さを知っている敬虔な人
創造主であり主権者である神様は、罪に対しては厳しい裁き主であると同時に、あわれみ深い神様です。だからこそ罪人を救うというご計画を立てられました。
どうすれば罪人を赦して、罪人が神様の国に戻ることが出来るのか、それは罪人への神様のあわれみ以外にありません。
そのような神様と同じようなあわれみを持つ敬虔な人は、幸いです。同じように神様からあわれんで頂けるからです。人に憐れみを示すことは、自分自身が神から憐れみをうけることにつながります。
(5:8)「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」
※心のきよい者とは、神の愛によって聖別され、その愛に応えようと清さを求める敬虔な人
イエス様を信じる者は、神様の愛によって特別に取り分けられた者であり、これを「聖別」と言います。私たちはその神様のご愛に応えたいと願います。
しかし、この世は汚れた罪の世ですから、そこに住む私たちは、その影響を受けます。ですから、汚れたら洗って頂き、また汚れを受けないように、清さを保つようにと、聖書のおことばに照らして、日々点検し努力して、キリストの再臨に備えています。
そのように清さを求める敬虔な人は幸いです。再臨のキリストを見ることが出来るからです。
(5:9)「平和を造る者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから。」
※平和を造る者とは、主を畏れる敬虔さのゆえに争いを避け、平和を建て上げる敬虔な人
平和は何もしなくても存在するというものではありません。平和は造るもの、求めていくもの、建て上げていくものです。
神様が願っておられる平和を生み出し建て上げていく一番のおことばは、「私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」です。主を畏れ、主を愛して、争いを避けて平和を建て上げようとする敬虔な人は、幸いです。神様は平和の方ですから、そのように平和を造る人は「神の子」と呼ばれます。
(5:10)「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
※義のために迫害されている者とは、神の国の義に生きることによって受ける苦しみを忍耐する敬虔な人
「天の御国」というのは、将来やってくる新しい天と地、神様がご支配なさる新しい世界です。
この世は、神に反する不敬虔な者に支配されている世界です。 その中で私たちは、神の国の義に生きるということを実践しています。神の国は愛による統治ですから、力で相手を服させることはいたしません。その人の心が入れ替わるように造り変えられるように祈り、愛をもって接していきます。
当然摩擦が起き、苦しみを受けることがあります。しかし、神の義に立った生活を心がけ、苦しみを忍耐する敬虔な人は、幸いです。天の御国はそのような人のものだからです。
(5:11)「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」
※キリストを愛するゆえに苦しむ者は、神から油注がれた唯一の救い主であるキリストの愛を知った敬虔な人
イエス様は神様に油注がれた唯一の救い主です。そのイエス様の私たちへの愛と犠牲を知った人は、キリストを愛します。またそのゆえに様々な苦しみをも経験します。
どんなに苦しい人生でも、神を敬い続け、信頼し続けた敬虔な者は、幸いです。そのような人に神様は、天に「報い」を用意してくださいます。
【デボーションポイント】
幸せを感じ取る心とは、鍛錬された敬虔な心が重要です。
※世の終わりを迎えるための心構え
(第1ペテロ4:7)「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」
※満ち足りる心を伴う鍛錬された敬虔
(第1テモテ6:6)「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」
ペテロは、万物の終わりを迎えるための心構えとして、「祈りのために、心を整えなさい、身を慎みなさい」と、3つのことをクリスチャンに勧めています。その心構えは、言い換えると「満ち足りる心を伴う敬虔(第1テモテ6:6)」です。
何でもかんでも感謝で幸せ、そういう「満ち足りる心」を伴う敬虔こそが、すべてに対して益となります。
神を畏れるゆえに、すべてのことに感謝することが出来る。これが世の終わりを迎えるにあたっての心構えのもう一つの形です。
色々愚痴不平もあるでしょうが、イエス様を敬い信じ従っていく敬虔な心のゆえに、どんな嫌なことがあっても、すべてのことを感謝します。
敬虔さを持てないような状況に置かれることもありますが、その時こそ鍛錬の時です。神様が万事を益としてくださるに違いない、と満ち足りる心で感謝します。
そのようにして、イエス様の再臨に備えていって頂きたい、そして満ち足りる心を伴う敬虔を育て、鍛錬して頂きたいと思います。
【短歌】
玄関に 不幸をふせぐ 飾り付け
敬虔深い クリスマスリース
■2023年12月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
数字による聖書預言 up 2023.12.3
主題聖句(ダニエル12:11〜12)
常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
*神が確かに語られたことだと確信できるのは、語られたことが成就した時である*
ダニエル書12章7節、11〜12節の預言は既に成就しました。
○期間について(ダニエル12:7,11〜12)
みことばによって示されている事象を見てみましょう。
(1)常供のささげものが取り除かれ
「A.D70年、ローマ帝国による神殿崩壊」
神殿が無くなり、毎日の捧げ物ができなくなりました。しかしこの時点では、まだ忌むべきものはありません。
(2)荒らす忌むべきものが据えられる時から
「A.D688。イスラム教神殿の岩のドーム建設工事着工」
(完成はA.D692年)
イスラエルにとって偶像の神殿は、「荒らす忌むべきもの」です。特に「据える」という言葉は礎石を指しています。
(3)聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わった時
「A.D1948。イスラエル独立宣言」
ユダヤ人たちは祖国を熱愛し、何度も取り返そうとしてきました。イエス様の時代も熱心党と呼ばれる組織があり、騒乱を起こしています。二千人もの熱心党員が十字架に架けられたこともあったほどです。
ほとほと困り果てたローマ帝国が、イスラエル人が帰ってこないように、パレスチナ(ペリシテ人の地)と名前を変えました。
それでもユダヤ人たちはあきらめなかったのですが、イスラム教の岩のドーム着工後は打つ手なしです。聖なる民は粉々に砕かれてしまいました。しかし、砕かれる時の終わりが来ます。
イギリスがオスマン帝国に対抗するため、パレスチナへの移住をエサにアラブ人たちを引き込み、ユダヤ系大資本家のロスチャイルドにはイスラエル建国の許可をほのめかして出資させ、フランスには密かにオスマン帝国滅亡後の支配について相談しました。
この三枚舌外交によって、結果的にイスラエルは息を吹き返したのでした。
イギリスはすぐにイスラエルを国家承認します。その翌日から中東諸国が攻め込み、第一次中東戦争が始まったのです。
○記録された歴史年代
1)1290日(:11)
2)1335日(:12)
3)ひと時とふた時と半時(:7)
3年半→42ヶ月→1260日
(民数記14:34)では、カナン征服を拒んだイスラエルの民に対して、咎を負うための放浪期間40年が言い渡されました。
目を見張る奇跡の数々を体験してもなお、彼らは神の約束を信じられませんでした。
それゆえ神は、偵察隊がカナン視察のために費やした40日間を、1日=1年に置き換えられたのです。
この放浪を、世界中に散らされたイスラエル人に置き換えて考えてみましょう。
古代イスラエルは、神への不信仰の故に神殿も国も失いました。イスラエルが世界に散らされた期間は咎を負うため、と考えることができるのではないでしょうか。
そして、神は回復を約束された通りに実行されたわけです。
前例として第一神殿が壊された後、70年を経て再び神殿が建てられるというエレミヤの預言があります。
同じように、ダニエルを通して、神は復興への数字を与えてくださったのです。彼は遠く離れたバビロンの地で、イスラエルの復興を祈り続けていました。そのダニエルに、「この預言を終わりの時まで封じておく」命令と共に与えられたのが上記の預言です。今は正に「終わりの時」なのです。
●A.D688年(岩のドーム着工)
・荒らす忌むべきものが据えられる時
→1260年後(一時とふた時と半時)A.D1948
◎イスラエル独立宣言と第一独立戦争
→1290年後(1290日)A.D1978
◎エジプトとの和平条約(アラブ初の公認)
→1335年後(1335日)A.D2023
◎イスラエル第二独立戦争
*2023/10/28ネタニヤフ首相発言より
「これはわれわれにとって第2の独立戦争だ」*
長年の融和政策にもかかわらずアラブ諸国の譲歩は引き出せず、ユダヤ人殲滅を掲げる国が主導権を握る今、生き残るには戦うしかないとの判断がなされました。
テロリストは市民を肉の盾にして抵抗していますが、平和を取り戻すためにはテロリストを殲滅するしかないのです。
☆神様が与えられた数字は、イスラエルが完全なかたちで復興されるための節目を表しています。
イスラエル完成のためには、メシアを迎える神殿が必要です。現在は岩のドームで覆われている場所がどうなっていくのか、目が離せません。全イスラエルの悲願はエルサレムの完全奪還と第三神殿の建設なのですから。
ちなみに現時点のエルサレムは、国連の管理下にありますが、果たしてどうなっていくのでしょうか。
今日のメッセージは、数字によっても証明されている神の預言の正確さをお話ししました。クリスチャンにとっては、再臨の確実性と間近さを確かめる機会となりましたね。
神様のお決めになる正確な日にちは、御父にしかわかりませんが、皆さんもイスラエル情勢を見ながら、その日が近いことを覚えていただきたいと思っております。
☆デボーションポイント(1ペテロ4:7)
1.祈りの重要性に目覚める
2.心を整える(きよい良心を保つ)
主を畏れる心
3.身を慎む(敬虔な生活をめざす)
○終わりの更に端っこに来ている私たち。イスラエルを注意深く見ていくと、神様の御思いがわかってきます。
俳句
アドベント 二つの意味持つ アドベント
*ラテン語で「到来」「来臨」を意味する「Adventus
(アドベントゥス)」という単語が語源*
イエス様は一度救いのために来られました。次は御国に迎える再臨の時です。
■2023年11月26日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
父のみこころを行う up 2023.11.26
主題聖句(マタイ7:21)
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
今年も残すところ1ヶ月となりました。2023年はどのような一年だったでしょうか。
マタイ5章から順番にみ言葉の真理を学んできましたので、もう少しだけ進めてみたいと思います。
本日見ていくマタイ7章は、5章から続くイエス様の山上の垂訓の最後のパートになり、終末の時代に生きる私たちの心の姿勢を教えています。
21節で、天の御国に入るための鍵が語られています。それは、父のみこころを行う者とあります。父のみこころとは何でしょうか。
13節に「狭い門から入りなさい」とあります。いのちに至る門は狭く、見出すものはわずかです。つまり滅びに至る人が多いということです。
父なる神様は、一人でも多くの人にいのちに至る門に辿りついてほしいと願っています。これが父のみこころです。
また同時に、その導き手に、先に救われた私たちクリスチャンにその役目を願っています。これも父のみこころです。
父のみこころを知った私たちは、行動に移すことが大切です。なぜなら、天の御国に入るのは、父のみこころを行う者が入るとあるからです。
つまり、信仰に行動が伴わなければ、私たちが約束されている天に御国に入ることができないのです。礼拝や祈りの中で、主よ、主よと言うだけで、みこころにかなう行動がなければ信仰姿勢として十分ではないということになります。
24節から27節に岩の上に家を建てる賢い人と砂の上に家を建てる愚かな人の例え話があります。土台が岩と砂では、嵐の際の結果が大きく違いました。15節から20節にも、実らす実によって、それが良いことなのか悪いことなのかを見分けることができるとあります。
良い木は良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結び、切り倒されて火に投げ込まれるのです。
12節で、「自分にして欲しいことを、相手にしなさい」と教えています。これは黄金律とも言われています。これはとてもバランスの取れた教えです。
例え、お金が欲しいという動機でも、相手にお金を与えるということが同時に求められるので、自己の利益という考えには至らないからです。
私たちはイエス様を救い主と信じたので救われましたし、信仰によって義と認められましたが、聖書は、あらゆる場面で私たちの行動を求めています。それは、行いのない信仰は死んだ信仰だからです。
7節から11節にある、「求めなさい、そうすれば与えられます。」という父に求めることも私たちの“求めるという行動“が必要なのです。救われたので、何もしなくても自動的に天の御国に入る、ということではないことをしっかりとわきまえたいと思います。
12月からクリスマスアドベントが始まります。イエス様がこの地上に来てくださったので、十字架の御わざが成就しました。父のみこころがまだ多くに人に届いていないので、私たちがこのクリスマスの特別な時期に、大切な人に、父なる神様の素晴らしさを行動を通して表してまいりましょう。
■2023年11月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
満ち足りる心を伴う敬虔 up 2023.11.19
主題聖句(第1テモテ6:6〜9)
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
今の世界は暴力で支配されています。話し合いと言っても、その背後に核を抑止力としてもって、力のある国が力のない国を従わせるという原理の元で動いています。ただおひとり、イエス・キリストだけが、愛によって神の国を治められます。それを目指して私たちは進んでいます。
今日の主題聖句は心が痛みます。このように生きるのは本当に難しい世の中だからです。
私たちはできたら金持ちになりたいと思います。金持ちになって貧しい人々を助けたいというのも理由のひとつでしょう。しかし私は牧師に召されました。
今日語る「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、それぞれが与えられた人生において、自分の分をわきまえ、自分に合った分相応の生き方を神の前にするということです。
◎アダムとエバの失敗に陥らないために
彼らは禁断の木の実を食べてしまいました。彼らは園のどの木の実も食べてよいと言われていましたが、ただひとつだけ食べてはいけないと言われていました。
それが、神が与えられた唯一のルールだったのです。蛇(サタン)はエバの食べたいという欲望を用い、その欲望をかきたてて神の唯一のルールを破らせ罪を犯させました。
これがサタンの策略です。サタンは人間の欲望を巧みに利用し、欲望を満たしたいと思わせ、どんどんエスカレートさせていくのです。
例えば100万円得たいという欲望を満たしたら、今度は200万、300万と限りなくなっていきます。
そしてその欲望を満たすためには、周りに迷惑をかけても仕方ないと思うようになり、いつの間にか周りを犠牲にしても、自分の欲望を満たしたいと思うようになっていくのです。
金銭を愛するとは欲望に従っていくことで、あらゆる悪の根になります。
今世の中は貨幣経済となっていて、そこから離れることはできません。
こういう世界だからこそ「満ち足りる心を伴う敬虔」が大切になるのです。
テモテが言う大きな利益とは何でしょうか。それはお金では買えない「永遠の世界をもたらす利益」です。
主題聖句からのポイント
(1)満ち足りる心を伴う敬虔
主を畏れる心からの自己満足と敬虔さ
敬虔さは神を畏れる心です。敬虔さによって自分の欲求をコントロールし自制することができるようになります。自分の分をわきまえて満足できるのです。
正しい良心で欲求を正しくコントロールし、健全な欲求を持つようになりましょう。
(2)何一つ持って来なかった
神のかたちの【姿】以上に素晴らしいものはない
私たちが持って来たのは私たちの存在だけで、持っていけるのも私たちの存在である霊であり、魂、いのちだけです。このいのちは神の形であり、神の姿です。
人の霊、魂は神に似せて造られたのですから、それ以上に素晴らしいものはありません。
これだけで私たちは満足するべきです。それ以外のもので欲求を満たしたいと思う理由は神の形の素晴らしさを充分知らないからです。
(3)衣食があれば
神が各自に与えられているもの以上のことに関心を持たない
この世で生きるために最低限必要なものは衣食です。神は私たちに必要なものは備えてくださるのです。
家を与えられるのであれば手に入れていいですが、無理して手に入れる必要はありません。自分のできる範囲で生活すればいいのです。
自分の与えられているものを良く考えて用いていくのは良いことで、向上心を否定しているのではありません。
(4)有害な多くの欲
経済社会→利益追求社会
貪欲に至らせる社会の仕組み
お金の力を得たいと思っている人は、有害な多くの欲に陥ってしまいます。
この世は増えていくことを願い続けるように仕向け、肉の欲求を満たすことにどっぷりと浸り、それが幸せと思わせるのです。罪の力は欲を用いて働きかけ、ついには破滅をもたらします。
自分の分をわきまえた人を神は用いてくださいます。それが敬虔です。
神の国は愛を満たすことこそ幸せと思う国です。私たちはどんなに経済的に厳しい状況になっても、決して神を恨むことはありません。
むしろ神の永遠の愛の中で互いの愛に満たされることが幸いだと思えるのです。
例えそういう家族や配偶者がいないとしても、あなたには永遠の愛で愛して満たしてくださる神がおられます。
世の中はますます自分の利益のみを求め、他の人を顧みないようになっています。経済発展は本当の幸福はもたらしません。
経済社会は互いの力を出し合ってより良い社会にしていこうという状況をいつの間にか変えてしまい、個人主義が横行していきます。
自分の利益のために家族さえも利用していくのです。クリスチャンもその欲望に陥らないように敬虔さを求めていきましょう。
【デボーションポイント】
(マタイ6:33)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
★神の国とその義とに関心を持つ
★個々に必要なものは与えられる
★模範の姿
(コロサイ1:15)
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」
魂の幕屋である肉体も大切。それ以上に、魂のための神の国とその義も非常に大事。
人生の中心に敬虔さを置きましょう。与えられている経済力に満足し、この世の有害な欲に陥らないように気をつけましょう。
【川柳】
肉欲の 満足感は 敬虔より
私たちは敬虔という自制心の中で肉の満足感を味わうようにしましょう。それが健全な欲求になります。
■2023年11月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神への貞操と敬虔さ up 2023.11.12
主題聖句(ヤコブ4:4)
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
毎週の礼拝で、私たちはますますきよさを求めることが必要であると語ってきています。何故そこまできよさが大切なのでしょうか。
ここで「貞操のない人たち」とありますが、直訳では「淫婦たち」という意味です。大変厳しいことばですが、これは霊的な意味です。
イエスさまが昇天されて後、初代教会では、自分勝手に聖書のみことばを解釈したり深掘りしていく人々が増えてきました。
中には、大変人間的な汚れた話さえも作り出す人々がいたのです。
聖書では教会は女性として表現されています。そして女性としての教会と男性としての神イエス・キリストに対しての様々な真理が教えられています。
私たちクリスチャンは、神に対して貞操を守ることが大切です。それゆえきよさが多く語られるのです。
(第2コリント11:2〜3)
「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」
ここでパウロは教会をイエス・キリストの妻となる立場として導いていることを明かしています。それは神と教会は夫と妻のような関係であり、一体であるという真理を指します。
私たちは神から出た者です。神がアダムのあばら骨を取ってエバが造られたように、私たちは神から取り出され、つまり神に似せて造られたということです。
教会はキリストに嫁ぐ花嫁のような存在なので、キリストに対して清純な処女でなければなりません。キリスト以外に他宗教や偶像をもってはいけないのです。
この純真な心が欺かれ汚されてしまう可能性があります。それはこの世は罪の世界だからです。様々な宗教や哲学、教え、思考があふれています。
これらの影響を受けて、キリストへの子どものような純真な心が欺かれ、疑いや不信仰で汚されないように気をつけないといけません。
それゆえ牧師は純真な処女である花嫁として神の前に立つためにできるだけ罪から離れるよう提案しアドバイスをします。
しかしそういった罪を認めるのは辛いものです。たとえ葛藤が起きても、その罪から離れるよう素直に日々務めることが大切です。
悪魔は常に神への貞操を汚そうと罠を仕掛け誘惑をしてきます。ですから、常に気をつけていないといけません。
キリストと教会が夫婦のようにひとつになるということが神のご計画なのです。
(エペソ5:31〜32)
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
結婚は神の奥義です。ふたつのものがひとつになるという真理であり、エバがアダムのあばら骨から取られたので、ふたりが一緒になってひとつになるように、神と人もひとつになるいう真理です。
(ホセア5:4)
「彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。」
イスラエルと神との関係から学ぶことができます。何度も外国の神々を持ってきてしまい裁かれたことが聖書に出てきています。
姦淫の霊は自分でコントロールできない状況です。この悪霊に勝利するためには、まずは夫である神をしっかりと信頼することが大切です。
そのためには、洗礼という契約を受けてイエス・キリストを信じ、生涯従いますという決心を表明することが必要です。結婚式と同じです。結婚もこのひとと生涯ともに歩みますという契約です。
契約は守ると祝福がきますが、破ると呪いがきます。契約のない結婚は夫婦ではありません。そこには不倫や不品行の罪が伴います。聖書では姦淫や不品行は死刑という重い罰です。
キリストだけを信じるというのはイエス様だけを信じ、貞操を守り、キリストのために敬虔に生きるということです。
愛するとは戒めを守るということです。夫婦の契約を守ることは大切です。
〈デボーションポイント〉
(マルコ8:38)
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。
この世はますます不義が蔓延し、姦淫と罪の時代です。
貞操を守るクリスチャンはこの世では恥ととられるかもしれません。しかし、神への貞操を守ることは大切な真理です。
神のことばを恥じるなら再臨の主が来られたとき、そのような人を恥じると神は言われます。
主イエスを畏れる愛による敬虔さこそが、夫であるキリストへの貞操を守るということです。
【川柳】
我が心 キリストへの愛 貞潔さ
■2023年11月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔は永遠のいのちの実 up 2023.11.5
主題聖句(ヨハネ17:3)
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
今年は≪善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ≫というテーマのもとに、メッセージを進めてまいりました。
罪の世界にあって、このテーマを押し進めていく時、必ず不敬虔な人々とぶつかるようなことが起こります。そんな中でも敬虔に生きることの価値を見失わないようにと、この二か月「敬虔」についての学びを続けてまいりました。今日は「敬虔は永遠のいのちの実」と題してお話しいたします。
クリスチャンは罪のからだを離れ、罪の世界を離れて、神様が約束してくださっている天の新しい神様の国に早く入りたいと望んでいます。神の国に入るとは、永遠のいのちを得ているということです。
肉体が死んだ後、私たちの魂が永遠を生きる所として、聖書は二つの場所を教えています。一つは、敬虔に神を敬って生きた人たちが行く安息の場所「神の国」です。もう一つは、不敬虔という罪のために、心を入れかえる(悔い改める)ことのできない頑なな人が行く場所、「永遠の火の池」です。
私たちは神を敬う謙虚でへりくだった敬虔な心を失わないようにしたいものです。そこでまず、この「敬虔」について(第1テモテ4:8)を復習しておきましょう。
【第1テモテ4:8】
「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」
未来のいのち→永遠のいのちを得る
私たちは、肉体は死んでも魂は存在し続けます。その未来のいのちが続けられていくためには、永遠のいのちを得ることが必要です。いま地上にあって「敬虔」を鍛錬することのいのち(永遠のいのち)を得るためにも有益なことであると語られています。
【敬虔のための鍛錬とは、キリストを通して神を知っていくこと】
主題聖句(ヨハネ17:3)には、「永遠のいのち」について、それは唯一のまことの神と、神の遣わされた救い主イエス・キリストとを知ることである、と書かれてあります。
父なる神様はご自身の愛と恵みを人々に知らせ、ご自分を証しするために、肉体をもってこの世に来られ、肉体の中にご自分の存在を現わされました。それが、イエス・キリストです。
私たちは、イエス・キリストを通して神を知ることが出来るのです。
イエス様については四つの福音書の中に詳しく記録されていますから、イエス様を読み取って行けば、父なる神様も知ることができます。
今日は、ルカの福音書の中の「ミナのたとえ」と言われているところのイエス様の教えから、父なる神様のおこころを知って、自分のクリスチャン人生が的を得たものとなるように、敬虔の鍛錬につなげていただきたいと思います。
【ミナのたとえより(ルカ19:12-22)】
「それで、イエスはこう言われた。『ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現れて言った。『ご主人様。あなたの1ミナで十ミナをもうけました。主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの1ミナで、五ミナをもうけました。主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』もうひとりが来て言った。『ご主人様。さあ、ここにあなたの1ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、まかなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていたというのか。』」
≪きびしい人間だと知っていた、と言うのか。≫
悪いしもべと良いしもべとの違いは、能力や持ち物ではなく、主人がどういう方であるかという見方において違いがありました。悪いしもべは、主人はきびしい人だと思っていたのです。
◎1ミナづつ→すべての人への救い
どのしもべにも同じ1ミナ(約百万円前後)を与えたということの解釈ですが、1ミナというのは、信じる者すべての人に平等公平に与えられたイエス・キリストによる救いを意味します。
イエス様は、信じる人々に罪赦された新しい人生を歩み直すことのできるチャンスを与えられました。このチャンスをどう生かすか、イエス様はその救いのいのち(1ミナ)を私たち一人一人にお預けになられ、それを用いるようにと期待しておられます。
そしてそれを用いた結果に従って、新しい神の国でのお仕事を一人一人適材適所で責任を持たせてお任せになられます。そのために神様は、この地上の世界で私たちが救われたいのちをどのように用いるかを見ておられる、と考えることが出来ます。
◎悪いしもべの問題点
(1)きびしい主人と「知っていた」
悪いしもべは主人に対して、「きびしい人だ」と決めつけていました。
(2)偏見と思い込みで人を知るという癖があった
商売をした他のしもべたちは主人を厳しい主人とは思っていなかったようです。主人と良い関係が保たれていたのです。
(3)主人への信頼がなく閉鎖的で自己中心的であった。
しもべが主人との間に信頼関係を築くことができないのは、心が閉鎖的で自己中心であったため、きびしい人だという思い込みを修正することが出来なかったからです。
しかし、主人はしもべを信頼して、1ミナを預けています。神様は、すべての罪人に対してご自分の愛が通じることを信じて、イエス・キリストの救いをこの地上の歴史の中に刻まれました。すべての時代において神様は、イエス・キリストを通して罪人を赦し愛している、というメッセージを残されました。イエス・キリストの十字架の贖いを通して人々の頑なな心が神様に対して開かれていくということを望んでおられたのです。
【デボーションポイント】
◎人を知るには交わりが大切!
私たちの教会の名前「ジーザス・フェローシップ」は、(第1ヨハネ1:3)「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」から来ており、神様を知っていくための私たちの集まりであることが表されています。
(1)交わりによって人を知るためには、多くの時間をともに過ごすことが大切です。
(2)その中で様々なことについて語り合うことが大切です。
(3)損得でない「友」の信頼を築くことが重要です。
信頼が強くなればなるだけ、お互いに深く知り合うことができます。多少のウソや裏切りや損失は赦し合えるほどの深い信頼関係を築くことが必要です。
(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
※友のためにいのちを捨てることが出来る信頼の絆を深める交わり
聖書の中で使われる「友」は、ちょっと知り合うような軽い関係ではありません。「友」のためにいのちを捨てる、それほどの信頼の絆を強めるのが「友」の交わり、クリスチャンの交わりです。
互いに心の内を打ち明けながら、神様のみこころに心が向くようにと互いに励まし合いながら、この兄弟姉妹のためなら自分の大事なものをささげることが出来ると思えるほどの関係が出来る、これは素晴らしいことです。そのように、イエス様のためにいのちを捨てるという心、関係が築かれれば、イエス様を友として受け入れることになります。
主権者であり、王の王であられるお方のイエス様が、私たちを友と呼んで、私たちが永遠の滅びに行かないようにと、いのちをお捨てくださったのです。そこまでして私たちを友と呼んでくださるのです。私たちもそのお心にお応えしたいと思います。
すぐにはできません。長い時間がかかります。祈りにおけるコミュニケーションが必要です。悩みや問題を打ち明けつつ、損得ではないイエス様との関係を築き上げていくクリスチャン生活です。そのように、人を知るには交わりが大切だということを悟っていただきたいと思います。
「友」として信頼できる証を、イエス様は十字架で、永遠の火の池に至る私たちの不敬虔な罪を赦すために、私たちの身代わりにさばきを受けてくださいました。
イエス様がどれだけ友として私たちを愛し信頼してくださっていることか、そこに目を向けてデボーションポイントを進めて頂ければと思います。
【短歌】
道を知り 真理を知って いのちを知る
敬虔な歩み 永遠のいのち
■2023年10月29日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
神の国と神の義を求めなさい(2) up 2023.10.29
主題聖句(マタイ6:33)
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
前回に引き続き、マタイ6章より、神の国と神の義を求める大切さを教えられたいと思います。
今回は、6章19節から順に見ていきます。19節から24節では、宝に対する態度を教えています。
この地上で頑張ることができるのは、天に宝を蓄えているからと前回確認しました。この宝とは、報いであり、私たちがとても関心を示すものになります。
その宝を蓄える場所に心もあるとイエス様は指摘します。天に宝を蓄える人は、天に関心を向けますが、地上に宝を蓄える人は、この地上でのことばかりを考えるということです。
地上に宝を蓄えるのはやめなさい、とイエス様は勧められます。地上では、虫やサビで傷物になり、盗人に盗まれてしまうからです。
そうならないように、この世ではあらゆる策を講じ、宝を守ろうとするでしょう。この状態が心が地上に支配されている状態なのです。
心を天にも地にも置くことはできません。イエス様はそれを、二人の主人に仕えることはできない、と言われます。つまり私たちは、神と富とに仕えることはできないのです。
どっちつかずの中途半端さは、結局は富に支配されてしまいます。それはこの世では富による影響力が大きからです。
富の支配により、思い煩いに支配されてしまい、心は常にこの地上に関心を向けざるをえない状況に陥ってしまいます。
そんな思い煩いから解放される唯一の道は、天に関心を向けることなのですが、そのことをイエス様は様々な観点から教えてくださっています。
それは、25節から32節にあるように、私たちの大切な命や体は神からのものであるということ、人は鳥や草よりも重要な存在であるということ、いのちを延ばすことは不可能であること、思い煩いの原因は性格ではなく信仰の問題であること、です。
神を信じる者が思い煩うということは、天の父を信頼していない証拠になってしまいます。
私たちが、本当に心配しないといけないことは、神の支配の内にあるかどうか、神の御心にかなっているかどうか、この2点になります。
これらを解決する態度が、神の国と神の義を第一に求めるということなのです。神との正しい関係にあるなら、本当に必要なものは備えられていきます。
中途半端な信仰ではなく、私の全てを知り、備えてくださる父なる神に信頼を置き、この世の思い煩いに支配されるのではなく、父なる神の支配下に人生を委ねていきましょう。
■2023年10月22日 日曜礼拝メッセージより(神戸ルーテル神学校 前校長 正木 牧人師)
広島オンライン合同礼拝
神のものは神に返しなさい up 2023.10.22
主題聖句(マタイの福音書 22章15〜22節)
そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。
彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。
それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。
納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。
そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
今日のテーマは、「神のものは神に返しなさい」です。偽善者を愛してくださるイエス様を信じて、そして実を結んで歩みましょう、というメッセージになります。
今日の主題聖句(マタイ22:15-22)は、パリサイ派の人たちとヘロデ党の者たちが一緒にやってきて、イエス様の言葉尻をとらえて評判を落として信頼を失わせようとしている場面です。
パリサイ派の人々がさげすみ苦しめてきた弱い立場の人々に、イエス様は近づき、寄り添い、力といのちを与えてこられました。ですから群衆は心開いて、イエス様に期待して、たくさんの病人を連れてきて、お話を聞きました。人々の評判となり期待を受けて、しかし実際は苦しみを受けて死ぬために、イエス様は遠いガリラヤから、今エルサレムの中にまでやって来られたところです。
宮に入られて、まずイエス様は神殿から商人たちを追い出しました。また、例えを用いて、宗教指導者たちを非難されました。イエス様のメッセージは当時の人々の傲慢と甘えと変な自信を指摘するものでした。パリサイ人たちの怒りが高まります。イエス様はそんな彼らに悔い改めを促されますが、彼らは悔い改めるどころか、抵抗し、立場を守ろうとし、決して自分を変えようとせず、ついには、イエス様を殺そうと相談するのでした。
パリサイ人たちがイエス様をことばの罠にはめるために質問したという(マタイ22:15-22)を見てみましょう。
ローマ皇帝に税金を納めることは律法にかなっているのかどうか、という一見正当に聞こえる質問です。パリサイ人の偽善と巧みなことばに注目してください。表面的には礼儀正しく謙遜に見えながら、その実、心ではイエス様を陥れようとしています。しかしイエス様は罠にはまるどころか彼らの悪意を見抜き、それでも誠実に対応されました。
イエス様は銀貨に描かれたカイザルの肖像を見せて、「この通貨を使っているのなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。しかし、神のものは神に返しなさい。」と、彼らの問題の本質を明らかにして、彼らにチャレンジを与えておられます。イエス様の権威とご配慮が見られます。
イエス様は、律法の問題ではなく、信仰の問題として彼らに応答されました。人のこと、地上のこと、税金のこと、自分の行い、心構え、そういうことに捕らわれて、本当に神様からの贈り物を受けていますか。神様に応答していますか。神のものを神に返していますか、と。
彼らは恥ずかしくなってイエス様を残して去って行きました。残念ながら、そこで悔い改めてイエス様を信じるには至りませんでした。
私たちはどうでしょう。今朝私たちは、「神様のものを神様に返していますか。」と、イエス様の威厳と配慮のあるおことばに接しています。
礼拝は神様の御前に出ることです。神様は私たちの罪を赦して、新しいいのち、新しい私を与えようとしてくださっておられます。その神様の御前に出て、まだ地上のことに心を奪われていませんか。体は礼拝堂にいても、心は神様の御前に出ておられますか。もし、出ておられなかったら、この人たちと同じ偽善者です。
私は偽善者ではありませんと言う人こそ偽善者です。しかし、神様は、その偽善者を愛し、その偽善者のために死んでよみがえったイエス様によって、偽善者を赦して新しいいのちを与えてくださるお方です。そのためにイエス様は来られました。
パリサイ人、サドカイ派の人、長老たち、祭司長たちも、彼らはイエス様を受け入れることが出来ませんでした。偽善者はイエス様が自分たちの救い主だとわからないのです。イエス様が来られたら大変なことになる、自分たちのこれまでの努力や立場はどうなるのか、イスラエルの国はどうなるのかと心配のあまり、彼らはイエス様を殺してしまいました。
彼らは、この世での幸せを考えていたので、神様の前でお与えくださる恵みを受けるということを知りませんでした。自分が条件を満たしたら神様から恵まれると思っていたのです。条件付きの恵みは恵みとは言いません。報酬です。神様が偽善者を愛してくださる、それこそ恵みなのです。悔い改めて福音を信じること、実を結ぶことが、「神のものを神に返すこと」なのです。
偽善者の三つの特徴を申しあげます。偽善者は、謙遜に見せて、その実、傲慢です。神のみことばを聞いても行いません。砂の上に立てた家のような人です。
神の言葉に対する恐れがなく、神様の権威を認めません。人には勧めるが自分は行いません。自分は大丈夫だと思っています。そして傲慢な人はすぐ絶望します。甘えています。言い訳の天才です。イエス様がついて来なさいと言われても、忙しいからとか、家族がいるからとか色々言ってかたくなです。自己中心です。人を愛することをしません。自分が認められて当然、愛されて当然、優しくされて当然、もてなされて当然と思う甘えがあります。招かれても召されても従いません。罪との戦いもしません。誘惑がくると、人間だから仕方ないと妥協して罪を犯し続けます。特別扱いされたがり、抜け駆けをします。他人に熱心にみられるようにいい格好をします。小さな者への価値を認めません。
「これら小さい者の一人にしたことは私にしたことです。」とイエス様に言われると、「えー?私、しませんでしたか」といつも言い訳をしています。そして言い訳の天才はあきらめが早い。神様が赦していのちを与えると言っているのに、人も神様も愛さず自分を律しないで神様のもとに来ない。せっかく礼拝に来てても神様に出会っていません。自分は大丈夫と変な自信を持っています。なんとかなると思っています。あのペテロも「死んでもついていきます」と言いながら、三度も主を否んでいます。試練にもろいのです。二つのものに、いつも足をかけています。 私自身も偽善者です。こんな経験がありました。アメリカの神学校の先生が、必要なものは全部用意するからぜひ来てくださいと言われ、神様に従うというより、その先生が呼んでくれたからということで安心していました。出発の一週間前にその約束がダメになり、「自分で来てください、それでも来ますか」と言われました。
どこかで自分は「大丈夫、出来る」と思い、神様を信じていなかったのです。神様が開いてくれた道だと口では言って、賛美もしていたのですが、心の底では、神様ではなく、その先生や奨学金やそういうものに信頼していたのです。取り扱われました。その時、示されたみことばは、イザヤ書の「鼻から息の出入りするものに頼ってはならない」でした。頼りにならない富に望みを置くなという戒めです。むしろ、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くようにということです。二心であったり、いばらの中に落ちた種のようであったり、思いがそこにありながら神様のこともしようと思う偽善者です。
神様のものを神様に返しなさい。今朝イエス様は私たちに、あなたがたも偽善者ではありませんか、と言っておられます。傲慢です。絶望します。甘えています。あきらめが早いです。変な自信があります。すぐ無感覚になります。そういう私たちではないでしょうか。
もう一度言います。神様は偽善者を愛しておられます。そのためにイエス様は来てくださいました。イエス様が十字架で死んでくださったとき、偽善者の罪を赦すという神様のご計画が成就しました。
それは、私たちがもう傲慢に生きないためです。謙遜に生きるためです。甘えでもあきらめでもなく、むしろ喜びを持って人に仕えるためです。変な自信ではなく、イエス様にある確実な赦しにあずかっているそんな喜びをもって、この一週間を、世にあってキリストに遣わされたところで、神をあがめ、人々を愛し、小さなものを愛し、自分を訓練して歩んでいくためです。 礼拝は、神さまが私たちのためにイエス様をお与えくださった、その恵みを受け取りにいくところです。聖餐においても、パンと葡萄酒を、私たちのために裂かれたイエス様の体、流された血として頂きます。
「本当に私は傲慢で甘えん坊で、神様以外のものに頼って自信があるような偽善者ですけど、その私を神様は愛してくださって、この私を赦してくださった上に、神の子としてくださった、この世にあって天国を生きることが出来るように、私たちをそれぞれの生活の場に遣わしていてくださった、本当の自分を与えてくださったのだ」と、それが礼拝に集って私たちがいただ
く神様の恵みです。
そこで私たちは応答して献身の思いで、献金をします。イエス様のみことばを握って、信頼して安心して、自分が救われているかどうかを心配するのではなく、力いっぱい人々のために生きていくことが出来ます。
与えられたところで試練もあります。苦しいです。でも何か神様に目的があるのです。だから忍耐して希望をもって、その苦しみの中で神様をあがめながら、何とか人の役に立つように出来ないかと自分を鍛えて歩んでいきます。そこに生きがいがあるのです。
神のものを神に返しなさい。私たちは礼拝で神様から恵みをいただき、それに応えていける、そんな一週間を毎週いただくことができることを感謝しようではありませんか。
皆さん、これからそれぞれのご家庭に帰られるでしょう。そこで一緒に住んでおられる方々、遠くの大事な家族の方々、その方々のために今自分の置かれた立場で何が出来るか、どんなことをお祈りしたら、お互い助け合うことが出来るのか、考えていこうではありませんか。
社会ではどうでしょうか。お世話になってる方々がいらっしゃるでしょう。ありがとうとおっしゃっておられますか。ちょっとした関わりの方々にも神様の愛が伝わるように、感謝しましょう。いやな上司でも、いやな周りの人でも、その方々がちゃんと一番いい仕事が出来るようにお仕えしましょう。あなたが仕えているところが栄えていくように貢献しましょう。
神様から「ここであなたは人々に仕えていくんですよ」と言われたところで、赦された確信を持って、神様の子どもとして、輝いて歩んでいきましょう。
教会ではいかがでしょうか。教会は神様から恵みをいただ
いて、お互いに返していく所です。神様に恵みをいただくところに人々をお招きしましょう。心騒ぐことが色々起きるのは当前です。自分も含めてみんな偽善者なのですから。でも、その偽善者を愛してくださっているのがイエス様です。そこでお互いに神様の恵みがありますようにと祈り合って歩んでいくのが、神のものを神に返していく喜びです。
そのようにして私たちは神様からいただく恵みによって、新しいいのちを生きます。謙遜になります。罪人の頭として自覚ができます。イエス様の赦しの恵みの中で歩んでいきます。神の子とされたのなら、お互いに仕え合って生きていくという実を結んでいきます。聞いて行う信仰です。仲間がいます。そこに成長があります。
私たちは生きがいを与えられて、この一週間も主が置いてくださるところで、神の子として、神のものを神に返しながら、ご一緒に歩んでまいりましょう。神様の恵みを豊かに受け、神様の恵みの内を歩む一週間でありますように、心からお祈りいたします。
■2023年10月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
福寿敬愛 up 2023.10.15
主題聖句(箴言14:30)
穏やかな心は、からだのいのち。
激しい思いは骨をむしばむ。
年配者の方は心が穏やかなことが多いですね。激しい思いを持っていると、病気になりやすく、関係も悪くなりがちです。
そこで今日は「福寿敬愛」ということで、(箴言14:30)のみことばから「穏やかな心」というポイントで、お話しを進めてまいりたいと思います。
◎穏やかな心
穏やかな心とは、多くの体験から悟りを得た心、すなわち、鍛錬された敬虔な心だと思います。悟りのある人は超自然的存在に対して心を向けるようになり、心は穏やかになります。
◎激しい思い
逆に、激しい思いとは多くの体験を無駄にした悟りの無い心、鍛錬しなかった不敬虔な心とも言うことが出来ます。敬虔さが弱いと、自己中心になりやすく悟りを得にくいものです。
◎悟り→人生観、世界観
「人生ってこんなものよ」「世の中ってこんなものよ」という、少しあきらめたような希望のない言葉がよく聞かれますが、それも自分なりに人生や世界を悟った言葉なのでしょう。
しかし、人それぞれの主観はさておき、私たちは、神様が私たちに聖書を通して何を望んでおられるのかということを、御霊様に耳を傾けて聞いてまいりたいと思います。
◎聖書の悟り(箴言9:10)
「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」
聖書では、イスラエルの神ヤーウェこそ天地万物を造られた創造主であるという前提で、創造主を畏れ敬うことが知恵であり悟りである、と語られています。
「知恵」というのは、状況を即座に正確に判断して賢くふるまう力で、一般的には人生体験を沢山積んで身につく力です。
多くの体験をされてきた年長の方々、いま皆さんはどのような悟りを持っておられるでしょうか。その悟りが今日や明日の生き方に影響を与えていくのです。
≪創造主を敬うことは、知恵であり悟りである。≫
万物の創造主であり、万物を治めておられる主権者なる神様、万物を設計し実現に至るようにと創造し続けておられる神様は、発展させ前進させ、よりよい希望をもたらすために、今も働いておられます。そういう創造主なる神様を畏れ敬い従うことは賢いことです。それは知恵であり悟りです。
世の交通ルールでさえ違反することは、捕まったり事故をしたりして、自分のいのちや社会的立場を危うくし、結局自分のためにならないことだと、暴走族でも年を取るとそのように悟っていきます。
私たちも人生の様々な失敗や成功を積み重ねて、高齢者と言われる年頃になれば、何らかの悟りをもっているものです。
私(辻牧師)の場合、「自分の弱さを受け止め、負けを認めることは、真の強さである」ということを悟りました。
自分の弱さを受け入れ、自分に与えられた「分」をわきまえ、「分」を用い、生かし、そして楽しむこと、それは「伝道者の書」にも人間中心の悟りとして書かれてありますが、その書の最後には、「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる」とも書かれてあります。
すべてをさばかれる主権者がおられることを認め、法とルールを守って皆と平和に生き、分をわきまえて、むやみやたらと我を張って争うことをせず、肉体も衰えていきますが、心も生活も穏やかになって行く。これが年を重ねて多くの体験をして悟る高齢者の姿ではないでしょうか。
◎死後の悟り→永遠観
(伝道者の書3:11)
「神は人の心に永遠を与えられた」
人の心(霊、魂)は永遠に存在するということを、神様はここで教えておられると解釈できます。肉体が死んだ後には、死後の世界があるということです。
(へブル9:27)
「人間には一度死ぬことと死後にさばきをうけることが定まっている」
神のさばきは、その人の一生のすべてを見て行われます。罪を犯すたびに一つ一つさばかれる、というものではありません。神様は憐れみ深いお方なので、生きている限りは悔い改めるのを待ってくださっておられます。
エゼキエル書に「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうか。」「私はだれが死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて、生きよ。」と語られているとおりです。
「悔い改める」というのは、「神様、御免なさい、今まで不敬虔な生き方をしていました。これからは神様を認めて敬って出来るだけ正しく御教えに従って歩んでいきます」と、心を入れかえることです。
心入れかえた者は、キリストの十字架の贖いゆえに罪が赦され救われます。心を入れかえなければ、キリストの十字架による罪の赦しの救いに入ることは出来ません。
罪の無い御子イエス・キリストご自身が、罪人の私たちの身代わりとなって十字架刑に処せられてくださいました。そのおかげで、私たちの罪はもう処分済として、神様は私たちを「罪無き者」と見なしてくださるのです。
そこまでして赦しを与えてくださった神様の愛により、私たちの心は、主を尊び、敬い、服し、従う心に変えられます。心を入れかえることが出来るのです。そうすれば、今は不完全な者であっても、神の国に入れてくださるのです。こんなあわれみと恵みに満ちた救いが他にあるでしょうか。
この十字架は、二千年前に歴史の中に刻まれた事実です。
「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないのです。」(使徒4:12)
この方(イエス・キリスト)以外に、救い主はおられません。
死後には神のさばきの時が定まっています。その時に、「キリストを通してあなたの罪は既に処分済ですよ」と、言っていただける人は幸いです。
(ユダ書1:21)
「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。」
『神の愛のうちに自分自身を保つ』
私たち罪人が心を入れかえて敬虔に生き続けるために、神様が罪人のためにキリストの十字架を通して示してくださった愛を信頼し、その愛に感謝して生きることです。
『永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリスト』
救世主の働きというのは、世の中を正すとか、幸せに改善するとか、そういうことではありません。この世はもうさばかれることが決まっています。救世主イエス・キリストは、神の最終的なさばきから私たちを救ってくださるお方です。
神様は新しい天地を与えてくださいます。そこに入ることの出来る罪人は、イエス・キリストの贖いの御業、神の愛の御業を信じて、心を入れかえた者だけです。
『憐れみを待ち望みなさい』
信心深い敬虔な心をもって、さばきの日を待ち望みます。そういう心でいれば、損得でもなく勝ち負けでもなく、すべてを神様が公平にさばいてくださるという安心感を持って、穏やかな心で日々過ごすことができるようになるでしょう。
愛を示してくださった神様に対して敬虔に生き、キリストを敬い、主の憐れみを待ち望んでいきましょう。
【俳句】
キリストを 信じて死後に 希望持つ
■2023年10月8日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
神の国と神の義を求めなさい(1) up 2023.10.8
主題聖句(マタイ6:33)
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
私たちが、キリストのためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びせられても、喜びなさい。そのように聖書は語っています。(マタイ5:11−12)
なぜ喜びに至るのかというと、天で報いが大きいからとあります。終わりの時代に生きるクリスチャンに改めて求められる資質は敬虔さだとメッセージで語られております。
敬虔な生き方はすなわちマタイ6:33にある、神の国と神の義をまず求めるということなのです。天で用意されている報いに期待することも、神の国を求めることにつながります。私たちが忍耐することができる理由である天の報いについて、今回は深く見ていきましょう。
マタイ6:1−18に、三つの信仰の行動について、人に称賛されるためではなく、隠れたところにおられる父なる神様を動機とするように教えています。当時の偽善者と言われた人たちは、善行するにも、祈るにも、断食するにも、人に気付いてもらうように大きく見せていたようです。
しかし、イエス様は、人から称賛を受けるとすでに報いを受けたと言われます。なので、右の手がしていることを左の手に知られないように善行をし、奥まった部屋で戸を閉めて祈り、断食して顔がやつれているのがわからないように油を塗りなさいと勧めました。
人は誰でも、周りから称賛されたいという欲があります。そして称賛されることは悪いことではありません。私たちが気をつけなければいけないのは、神様の前にする信仰の行動が、自分の敬虔さを誇示する手段とならないようにということです。
信仰の行動の動機を、人ではなく神様とすることを忘れてはなりません。そうすれば、私たちの報いはこの地上ではなく、天で蓄えられるのです。
では、天での報いとは何でしょうか。
(コロサイ3:24)
「あなたがたは、主からの報いとして御国を受け継ぐことを知っています。」
まず確実なことは、御国を相続するということです。この価値は地上のものでは計れませんが、最大級の報いであることは間違いありません。
(ローマ2:6)
「神は、一人ひとり、その行いに応じて報いられます。」
(ローマ6:23)
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たち主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
ただし、一つ注意しておかないといけないのは、報いは良いものばかりでないということです。当然、悪い行いに対しても報いもあるのです。
私たちの信仰による行いとその動機が、この世のものにすり替えられないように気をつけましょう。
闇は私たちの報酬を奪い去ろうと働きかけてきます。しっかり心を見張り、隠れたところにおられる父なる神様にすべてをささげる歩みを心がけていきましょう。
■2023年10月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
終末だからこそ敬虔に up 2023.10.1
主題聖句(第2ペテロ3:11)
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
世の終わりの時が近づいています。この終末の世において、クリスチャンにとって最も重要なことは、「敬虔」を身に着けることです。どんな誘惑や妨害があっても、それを自制し、はねのけていくことが出来るような強い信心深さ(敬虔)を鍛えていくこと、これを怠ってはいけません。
神の最後のさばきが訪れる時、罪赦されて天の御国に入れられるのは、聖い生き方をする敬虔な人です。何が出来たか出来ないか、ということで判断されるのではなく、神に対する絶大な信頼を持って生きたかどうか、神様はその敬虔な心を見ておられます。
今日はこのことを、(第2ペテロ3:10-14)から、ポイントごとに見ていきたいと思います。
【第2ペテロ3:10-14】
「しかし、主の日は、盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、崩れ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたたちですから、しみも傷もない者として、平安を持って御前に出られるように、励みなさい。」
聖書によれば、世の終わり(神のさばき)が目の前に来ている最も確かな証拠は、「反キリスト」と呼ばれる人物の出現です。現在、世界的に、「反キリスト」が登場する環境が、造られてきています。
これまで世界をリードしてきたアメリカが、いま弱体化し始めています。代わりに台頭しているのが、共産圏の国々、そしてオイルマネーを持つアラブ諸国です。国と国の対立が激しくなり、軍需産業は大儲けです。
また、情報社会において、世界に張り巡らされたインターネットによって思想統一(情報統制、洗脳)がなされています。真偽の定かでない情報があふれて、何が真実か、確かめることもできません。
聖書を否定する人々も多く出てきて、聖書についての否定的な発言が拡散されています。
しかし、誰がどのように聖書を否定しようが、私たちはイエス様を信じていますから、唯一の正しい情報として聖書を信じています。聖書を神のことばと信じて受け入れています。聖書は、聖霊が人を通して語られた神のおことばです。それを前提として、これから(第2ペテロ3:10-14)についてお話しをしてまいります。
【第2ペテロ3:10-14】より
(1)「崩れ落ち、焼け溶けるもの」(10節、11節、12節)
天・天の万象・地と地のいろいろなわざ、すなわち、天も
地も、そこに造られたすべての物質や現象、人の作った思想・制度・組織などもすべて何もかも一切が焼け溶けて崩れ落ち、何の役にも立たないものになってしまいます。神のさばきの日には、そういうことが起きます。
(2)「その日は盗人のように・・」(10節)
油断して備えをしていないで強盗に入られた人は、なすすべもなく大きな損失を被ります。しかし保険やセキュリティー対策など、備えをしていた人は、安心出来ますし損失も防げます。
盗人がいつ来るかは誰も知らないように、天も地も無くなってしまうような神のさばきの日が、いつ来るか私たちには分かりませんが、必ずやってきます。
神様は、ご自分のかたちに似せて造られた私たち人間を、子として愛を注いでおられます。欲望の奴隷となって神に反していた罪人が、もう一度、造り主である父なる神様を敬うように心を入れ換えて、罪から離れるように心が変えられる、それがイエス様の救いです。
さばきの日は必ずやってきますが、イエス様を信じる者は誰でも永遠の滅びと死から救われるのです。
(3)「神の日を待ち望む」(12節)
キリストを信じる者たちが、神の日(神のさばきの日)を待ち望むのは、古いものが一掃された後に「正義の住む新しい天と地」を神様が用意してくださっているからです。
もう一つの理由は、この世の不敬虔な社会の中で敬虔に過ごしてきたことへの、神様からの報いを受ける日でもあることです。
(4)「聖い」(11節)
神のために特別に取り分けられた(聖別された)ものを「聖い」と言います。
(5)「生き方」(11節)
不敬虔な世界から取り分けられた生き方が、「聖い生き方」です。不敬虔な世の人々に調子を合わせることは極力避けます。
(6)「どれほどの敬虔さ」(11節)
この世の人々は、目に見えるこの地上でのことだけに期待を持ちます。
敬虔な人は、死後の世界にまで用意しておられる永遠の神の国、正義の宿る新しい天と地、罪が一掃された新天地に入れられるという神の約束に期待と希望を持っています。
「どれほどの敬虔さ」か、それは目に見えない、まだ実現していない神の約束を信じて、この不敬虔な世を生きるほどの敬虔さです。
(7)「しみも傷もない者として」(14節)
婚姻を迎える花嫁の心は純真で愛にあふれています。
イエス様と自分との人格的関係が、まるで花婿と花嫁の関係にあるような心を、「しみも傷もない」と表現されています。
過去にどんな罪を犯したとしても、今、あなたの心がイエス様に対し、婚姻を迎える花嫁のような純真な愛の心を持っていれば、しみも傷もないものと神様は見てくださり、喜んであなたを新しい天と地に迎え入れてくださいます。
(8)「神の御前に平安を持って出る」(14節)
神へのまったき信仰(鍛錬された敬虔な心)があれば、神のみ前に立つときも平安です。
自分の願いや思いを優先した信仰生活を歩んできていたなら、良心は咎めを感じて御前に立つことに不安を感じてしまいます。
キリストのゆえに迫害されても喜べるのは、キリストへの愛があるからです。誠実な愛があっての信心深さ(敬虔深さ)、いま私たちはこれを鍛えられているところです。
【デボーションポイント】
神のさばきが差し迫っている今、神のことばを学び、祈りをささげるのは何のためでしょう?
(第1テモテ6:6)
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」
大きな利益というのは金銭的な利益ではありません。私たちの救いのために創造主なる神が人となられて地上においでくださり、愛とあわれみと恵みをもって、私たちの罪を赦す十字架の苦しみと死を身代わりに受けてくださったことによって私たちの罪は清算されました。
それを信じる者は罪赦されて神の子とされ、神の国に入れられます。これ以上の大きな利益があるでしょうか。
満ち足りる心(今与えられているもので満足する心)を伴う敬虔な心こそ、たましい、霊にとっての大きな利益を受ける道、高徳の道、永遠の世界に対する確実な利益(救い)を受ける道です。
【短歌】
イエス様を いつも意識し 日々過ごす
聖い生き方 死後にも利益
■2023年9月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔は建徳の証し up 2023.9.24
主題聖句(詩篇111:10)
主を畏れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に立つ。
【主を畏れる=敬虔】
◎敬虔→信心深い→神(主)を畏れる
敬虔とは信心深いこと。神を畏れる信仰心が深く、神様の教えに服し、敬意を払ってそれを守っていくような、神様への誠実な態度、こころ、生き方です。
◎主を畏れるとは
(箴言3:6)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
「行く所どこにおいても、主を認めよ。」これは常に主を意識しなさいということです。すなわち、考える時も、発言する時も、行動するときも、決断するときも、どんな時にも常に主を意識して、語り、決断し、行動しなさいということです。
神と共に歩む人生ですから、いつも主が共におられることを意識していないと、共におられていても、いないかのようになってしまいます。
※すべてにおいて神を意識することによって、真理の道を歩み続けることが出来る。
神様が共におられ、常に神様を意識しているなら、必ずその人は善悪を見分けることが出来るので、まっすぐ歩むことが出来ます。
道から逸れかけても、神に聞き、神の御教えに照らして、これはいけないと気づいて、逸れないように判断することが出来ます。
神を畏れる心(神によってきよめられた正しい良心)の働きによって、真理の道を歩み続けることが出来るわけです。このような生き方を「敬虔」と言います。
【知恵の初め=建徳の土台】
◎知恵→物事の理を悟り、適切に処理する能力。
優れた人格によって高徳な生き方をする能力。
知恵が深まれば深まるほど、高徳な生き方が出来ます。善悪をはっきり見分けて、良い方を選ぶことが出来るからです。
◎初め→最初のもの、基礎土台、重要なもの
優れた知恵を得るためには、神様を畏れ敬う敬虔さが土台になっていなくてはいけません。
◎徳→道を悟った立派な行為
人を感化する人格の力
「どうして人間が存在しているのか」が分からないと、人間が人間として歩むべき道を悟ることは出来ません。
世界の初め、人類の初めについての考え方については、「創造論」と「進化論」があります。
突然変異と偶然によって進化してきた、という「進化論」の考えで生きるなら、人はどういう道を悟り歩むでしょうか。突き詰めれば、自分が生き残るための弱肉強食の道です。
「創造論」とは、造り主がいて、目的と意志をもって世界と人を造られた。存在するすべてのものには造られた目的がある、という考え方です。この道を悟った立派な行為、これが「徳」と言われているものです。
私たちクリスチャンは、主イエス・キリスト(人となって来られた創造主なる神)の教えてくださった道、すなわち、人は神のかたちに似せて造られた神のこどもである、という道を悟り歩みます。
子どもであれば、親のものを継承する、という未来があります。神様のものを受け継ぐために、私たちは神のかたちに似せて造られた、そのような悟りをもって歩むなら、自ずと神を畏れる徳のある敬虔な人生を歩むようになります。そのゴールは「神の国」です。
また、「徳」は人を感化する人格の力とも言えます。それは、考え方や価値観、悟りにおいて他者に良い影響を与えます。
◎建徳→徳を高める→たましいの純化
建徳は、たましいの純化、「きよめられること」です。清く、正しく、公平で、愛があって、人々に良い影響を与えていく人物に育っていく、それが建徳です。
たましいが純化されていくために、また、人に良い影響を与えるような徳を得るために、主を畏れることを土台とする、それが「知恵の初め」である、と(詩篇111:10)は語り教えておられます。
【デボーションポイント】
◎箴言3:7
「自分を知恵ある者と思うな。主を畏れて、悪から離れよ。」
自分を知恵ある者と思ってはいけません。どこまで達しても、まだまだ至らない者であることを自覚して、へりくだって神様を畏れ敬い、悪から離れる生活を励みましょう。
敬虔な心を持っている者は自ずと悪から離れようとします。
悪習慣から離れられないと言う人は、主を畏れる敬虔さがまだ弱いのです。敬虔さは鍛えられていくものですから、様々な苦しみや理不尽なことを通して、善を守り行うために忍耐を働かせることによって、悪に加担しない、そうした体験を重ねて、敬虔さが強められていきます。
問題にぶつかることも、砕かれる痛みを通ることも、敬虔な心が養われ、知恵ある神の子として成長し成熟するためになることですから、感謝です。
【 まことの信仰者は、徳の高みを目指して、敬虔に生きる人。】
どんな時でもイエス様を意識していると、生活がどのように変わっていくのかを体験していきましょう。
困ったときだけではありません。すべてのことにイエス様を意識して、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できるように、あなたの人生が変えられていくことを体験して頂きたいと思います。
【短歌】
いのちある 日々を目指して 熱心に
信心深く 建徳励む
■2023年9月17日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
主のために生きる者は幸いです up 2023.9.17
主題聖句(マタイ5:11〜12)
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
2023年の教団目標聖句に向けて、マタイ5章3節から8つの幸福の使信を見てきました。今回はいよいよ目標聖句である11節から12節となります。
(マタイ5:11−12)(前述)
前半は、10節の”義のために迫害されている者は幸いです”、と似ています。まず、主の前に正しく生きる人が迫害されることがどのような状況か、また正しい生き方を貫いた後どんな報いがあったかを、預言者エリヤのストーリーから見ていきたいと思います。
エリヤは、1列王記17章から登場する預言者です。旧約聖書の預言者の中でも最も有名な預言者と言えるでしょう。彼の出身はギルアデのティシュべ出身とあります。このギルアデという地は、イスラエルの歴史の中でも少しゴタついた土地で、神様はそのような場所からでも、主の前に正しく生きていたエリヤを見出し、イスラエルの暗黒時代に用いられました。
当時の王であるアハブ王とその妻イゼベルは、主に仕える預言者を多く殺し、異教の神バアルを信仰し、国中にバアル礼拝をもたらしました。恐らく恐怖政治で民を支配したと思われます。エリヤも命を狙われる日々が長く続きました。
エリヤのストーリーの中で最も有名なのは、バアルの預言者450人との対決でしょう。当然エリヤがその場で神様の奇跡を現し勝利するのですが、それでも命が狙われることは無くなりませんでした。まさにイエス様が言われた通り、預言者エリヤはののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びる生活を送るのでした。
しかし、厳しい迫害の時代に生きたエリヤと、迫害をしたアハブ王とイゼベルの最後は大きな違いがありました。エリヤは火の戦車と火の馬の登場により、竜巻に乗って天に引き上げられるという、造られた者としてこれ以上ない神様からの祝福にあずかりました。一方、アハブ王とイゼベルは悲惨な死を迎えたのでした。
私たちが生きている社会では、エリヤほどの迫害を受けることはまずありません。信仰を守ることで命を狙われることはありません。しかし、現代ならではの迫害を受けています。それは価値観の違いによって心を痛めるということです。
先日、神の愛の価値観とこの世の価値観の違いを体験する機会がありました。弟の結婚式に参列したのですが、新婦の父親が芸能人ということもあって、かなりのお金がかかった結婚式と披露宴でした。お金をかけただけあって、とても質の高いサービスを受けましたし、催しとしても、エンターテイメント性に優れていました。
しかし肝心の結婚式の部分、特に誓約の部分は形式的なもので、感動する間もなくサラッと済んでしまいました。世の結婚式は演出が優先されて、式典の部分はそこまで重要視されないのだなと感じました。この世の価値観は、肉を喜ばせることにあります。
(エペソ2:3)
「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
私たちもかつては神の御怒りを受けるべき者でしたが、イエス様の十字架によって、新しい価値観に生きる者へと変えられました。
(エペソ2:10)
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」
両者の価値観の違いをしっかり認識し、自分はどちらに生きるかを再確認していきましょう。そして、神の愛の価値観に生きる生き方こそ、迫害の中に生きると同義であり、そのような生き方をする、すなわち主のために生きる者は幸いなのです。天では、私たちのために大きな報いが用意されているからです。
「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」というモットーも、神の愛の価値観が土台に無ければ成り立ちません。そして、大切なのは、個人で完結するのではなく、教会というキリストのからだで共有されるべきだと私は考えます。楽しさや幸福感は、共有されてこそ楽しさであり幸せなのです。
主のために生きることが人の最大の幸せです。この世の価値観との違いに悩まされることがありますが、旧約時代の預言者たちのように、いつも主の前に正しい選択をしていきましょう。そして、「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」を個人の生活や教会の中で体現していきましょう!
■2023年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔のための鍛練 up 2023.9.10
主題聖句(第1テモテ4:7〜8)
俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
《敬虔は、困難、苦しみ、試練を通して練られ、鍛えることができるものである。》
敬虔さというのはその人の持っている性質ではなく、鍛えることの出来るものです。放っておくと弱りますが、鍛えれば熟練に至る、そのようなものです。
敬虔さが足らないと思う人は、鍛練してないのかもしれません。敬虔さを鍛練しないで放っておくと、信仰は弱り、後退し、躓きやすく倒れやすくなり、ついには無くなってしまいます。
これは正しい良心とも深く関係します。(第1テモテ1:19)には、「正しい良心を捨てた者は、信仰の破船に遭う」と書かれてあります。敬虔と正しい良心とは一体です。正しい良心(健全な良心)とは、神を敬う心で物事を判断することですから、鍛えられた敬虔はクリスチャンには欠かせない重要なものです。
【敬虔さはすべてに有益】
◎万事が有益となるための鍛練
敬虔さが弱いと、愚痴不平不満が多くなります。敬虔さが鍛えられると、愚痴不平も少なくなっていきます。何故でしょうか。
(ローマ8:28)→神を愛する敬虔さ
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
良いことも悪いことも、苦しいことも悲しいことも、神様がすべてのことを働かせて、神を愛する人(敬虔な心を持った人)のために、すべてが益となるように働きかけてくださいますから、そういう神様であることを私たちは信じているので、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが出来ます。
困難、苦しみ、試練などに遭うと、私たちは「神様を信じているのに、どうして守ってくださらないのだろう」というような気持ちになることがあります。
試練、苦しみに遭うことは、敬虔さを鍛えられるためです。正しい良心が強められるためです。それを感謝する心が敬虔さを鍛えることにつながるのです。
(マタイ5:11)→迫害は敬虔さの鍛練
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」
なぜ迫害を受けることが幸いなのでしょうか。それは、すべてを有益に変える敬虔さが鍛えられるからです。
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」とイエス様は言われています。真理であるイエス様を信じてイエス様の教えに従うことは、真理に従うことであり、正しいことです。
しかし、不敬虔な人々にとってはそれは不都合なことですので、真面目なことを主張する人々に圧力をかけてきます。
それでも同調しないで正しくあろうとする人たちは、付き合いにくい人、和を乱す人として、敬遠されたり悪口を言われたりします。
そういう迫害の時に、イエス様に従い通し正しいことを貫き通して、敬虔さが鍛えられていくので、幸いだとイエス様は言われます。
(ヤコブ1:3-4)→忍耐こそ敬虔の鍛練
「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」
キリストを信じ真理を貫き通す、その苦しみを耐え忍ぶ人は、成長を遂げた完全な者となります。このみことばから、人間の完全性というのは「敬虔深さ」であることがわかります。
忍耐は人を磨くとよく言われますが、特に神様を信じるものにとって忍耐は敬虔さを鍛える時なのです。
年数を重ねても、信仰がスタートした時と同じような幼い霊的状態のままでは成長できていないと考えることができます。忍耐の苦しみを嫌がっていてはいけません。忍耐することは完全な者へと成長することなのです。
(箴言20:4)→困難さが良い実を結ぶ
「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても何もない。」
畑は冬の間に耕して種まきのための準備をします。豊かな収穫のためにはどうしても必要なことです。寒い冬苦、困難さが、後に良い実を結ぶ豊かな収穫につながるからです。
労苦も困難もいやだ、楽をしたいと言って、すべきことをしないと、刈り入れの時の収穫はゼロです。
神を愛するゆえに、忍耐を働かせて困難なことをこらえる、その忍耐が刈り入れの時に多くの良い実を結ばせます。
「敬虔」という鍛えられた霊的な実のためには、困難な時の忍耐が必要です。
※苦しみは敬虔さのための鍛練
誰しも苦しみは避けたいものです。しかし、いま困難に耐えて、やるべきことをやっておかねば、将来に実を得られないわけですから、この苦しみは敬虔さのための鍛練と思って忍耐を働かせましょう。
【デボーションポイント】
どのように鍛練するのか?
(ユダ1:15-21)
「すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らすもので、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
どのように鍛練するのかについて、(ユダ1:15-21)から、次の3点を考えてみてください。
●不敬虔な者の特徴は何か?
●最も聖い信仰とは何か?
●実際的な敬虔のための鍛練とは!
※主は鍛練のための環境や状況を備えてくださるが、それを受け止めるかどうかは個々による。
鍛練は造り主なる神様のされることです。これは鍛練の時だ、と受け止めるかどうかは、各人に任されています。逃げることも避けることも出来ますが、鍛えられるためには受け止めるしかありません。
苦しいということだけに目を向けるのではなく、すべてのことを有益とされる、信心深さを鍛えられる、という将来に向けて忍耐をされてはいかがでしょうか。
【短歌】
つらい時 イエスを見上げ 耐え忍び
いのちに至る 鍛練受ける
■2023年9月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
善に親しむ楽しさきよめられる幸せ up 2023.9.3
主題聖句(マタイ5:11〜12)
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
今年のモットーの「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」について、今日は「敬虔に生きることの希望」というポイントで、お話ししたいと思います。
この世界では自分の願いや思いが叶えられていくことが幸せだと思う人々が多くて、敬虔に生きることは希望のない窮屈なことのように感じられています。
クリスチャンの中にも、熱心になりすぎると視野が狭くなり、自由でなくなる、だからあまり熱心になってはいけない、と考える方がおられるかもしれません。
しかし、みことばに熱心になることは、視野を広げ、知識も深まり、経験も悟りも豊かになり、良い行いを伴って、成長につながります。それは、イエス様のみ教えを実践してみればわかります。
この世の人生だけがすべてではありません。死んだら終わり、という希望のない世の考えに影響されることがないようにしましょう。敬虔に生きることには希望があるのです。
【希望が持てる理由】
(1)公平な神のさばきがある
(第1ペテロ1:17)→完璧な公平のさばき
「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」
創造主なる神様は完璧で公平にさばかれる方です。一つ一つの出来事を公平にさばく、というのではなく、その人が生まれて死ぬまでの間の人生全体を一つの出来事として見て、公平で完璧なさばきをなされるお方です。
ですから、私たちの敬虔な生き方や熱心な態度を神様は無駄にされることはなく、公平に報いてくださると信じて希望を持つことが出来ます。
(ローマ2:16)→神のさばきは福音
「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」
※神は必ず罰するべきものをさばく
神様の目に隠しおおせる罪はありません。悪には厳しいさばきが、善には良い報いが与えられます。神のさばきがあるから、これを超えると罪になる、と自制することも出来ますし、正しいことを守り続けることもできます。神のさばきがあることは、クリスチャンにとって福音なのです。
ですから、私たちは何が罪で悪なのか、何が善で神様の喜ばれることなのか、神様の御おしえに学び、みことばに教えられる必要があります。
(2)新天地の約束
(第2ペテロ3:13)→正義の住む新天地
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
敬虔に生きることに希望があるのは、正義の住む新天地に導き入れられ、それを相続させていただけることが、神様によって約束されているからです。
(黙示録21:1)→さばかれる=過去
「また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
以前の天と地は、神様のさばきを通して過去の代物となります。罪は、さばかれなかったらずっと残り続けますが、さばかれることによって過去のものとなります。過去のものとなった罪は、未来とは何の関係もありません。神様は処分済の過去の罪を思い出して責めるようなことはなさいません。
神様は未来に向かって希望をもたらしてくださるお方ですから、さばきの後は、以前とは全く違う「正義の住む新しい天と地」に、私たちを入れてくださるのです。素晴らしい希望の神様です。
※キリストは永遠への希望の証し
私たちは罪深い性質ゆえに、イエス様を信じていても、失敗して罪を犯すことがあります。しかし、私たちの罪はすべてイエス・キリストが十字架で身代わりに罰を受けてくださり処分済となっています。それはキリストを信じ敬う敬虔な者に与えられる赦しのめぐみです。
キリストを信じる時、私たちは2千年前の十字架のキリストと一つに合わせられます。私たちはキリストとともに十字架で死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえって新しい人生を生きる、この神様の救いが成就するのです。
罪は何回も犯しますが、神様はその罪をイエス・キリストの十字架によって処分済とみなしてくださいますから、私たちは神の前にへりくだって喜んで感謝して、その赦しを受け取ります。 そしてもう一度やりなおそう、新天地を受け継ぐものとしてふさわしいものに努力していこう、イエス様を信じて歩んでいこう、神様の御おしえに合わせていこう、と心を入れ替えて、未来に向けて希望を持ってやりなおしていきます。
それがキリストに対して持つ敬虔な姿勢です。神様が望んでおられる私たちの敬虔の実です。
自分が神の前にどんなに償いきれない罪人であるか、その罪意識の浅さが、キリストの十字架の贖いの御業を分かりにくくさせます。
私たちが神を認めず自己義に生きて、その罪の償いのために苦しみを持って永遠を過ごすことは、本来神様が望んでおられるところではありません。
神様の御心は、私たちの罪の赦しのしるしである救い主イエス・キリストを信じて、神の御教えに立ち返り、永遠の良き未来に向かって希望を持って進むことです。
この地上だけに希望を持つのではなく、肉体を離れた次の世界、新しい死後の人生があることを覚えて、今を生きて頂きたいと思います。
【デボーションポイント】
迫害を受けることがなぜ幸いなのか
(第2テモテ3:12)→キリストにある敬虔
「確かにキリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆、迫害を受けます。」
迫害は、キリストに対する敬虔な心が認められたしるしです。救い主イエス・キリストへの敬虔さが実際の生活の中に現れているから、不敬虔なものたちはあなたを迫害するのだと語られています。
(第3ヨハネ1:11)→神から出た=聖い者
「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」
悪を行っている者は神を知らない者です。クリスチャンは神から生まれた聖い者ですから、善をみならい善を行います。迫害を受けることは聖い者として見られている証と言えます。
※多数決による悪や不道徳との妥協は、まことの平安や平和に至らない
周りが皆そうだから、自分もクリスチャンとしての信念を曲げて、この世の悪や不道徳に合わせていこうというような妥協は、クリスチャンには出来ないことです。真理を知っている者として、出来ないことは出来ないと言うべきです。そうすると迫害されるかもしれませんが、イエス様も迫害されたことを思って感謝しましょう。
※赦しと妥協との違いを考える
「赦し」とは、相手の言いなりにはならないし、また相手が罪を犯し悪を行っていることに対して、恨みや償いや裁きをしないということです。「妥協」は両者が歩み寄ることですが、クリスチャンは真理を曲げて歩み寄ることはありません。迫害されても赦します。神様が正しくさばいてくださいます。
「悪を持って悪に報いず、侮辱を持って侮辱に報いず、却って祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(第1ペテロ3:9)これが敬虔に生きる者の他者への対応の仕方です。
祝福を与えることはクリスチャンの性質ですが、肉においては欲望の力に負けることがあります。しかし、すぐに神のおことばに立ち返ることを神様は求めておられます。
【短歌】
幸いは 満ち足りている 証なり
とこしえに続く 希望なれかし |