■2023年11月26日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
父のみこころを行う up 2023.11.26
■2023年11月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
満ち足りる心を伴う敬虔 up 2023.11.19
今の世界は暴力で支配されています。話し合いと言っても、その背後に核を抑止力としてもって、力のある国が力のない国を従わせるという原理の元で動いています。ただおひとり、イエス・キリストだけが、愛によって神の国を治められます。それを目指して私たちは進んでいます。 今日の主題聖句は心が痛みます。このように生きるのは本当に難しい世の中だからです。 今日語る「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、それぞれが与えられた人生において、自分の分をわきまえ、自分に合った分相応の生き方を神の前にするということです。 ◎アダムとエバの失敗に陥らないために それが、神が与えられた唯一のルールだったのです。蛇(サタン)はエバの食べたいという欲望を用い、その欲望をかきたてて神の唯一のルールを破らせ罪を犯させました。 これがサタンの策略です。サタンは人間の欲望を巧みに利用し、欲望を満たしたいと思わせ、どんどんエスカレートさせていくのです。 そしてその欲望を満たすためには、周りに迷惑をかけても仕方ないと思うようになり、いつの間にか周りを犠牲にしても、自分の欲望を満たしたいと思うようになっていくのです。 金銭を愛するとは欲望に従っていくことで、あらゆる悪の根になります。 今世の中は貨幣経済となっていて、そこから離れることはできません。 こういう世界だからこそ「満ち足りる心を伴う敬虔」が大切になるのです。 テモテが言う大きな利益とは何でしょうか。それはお金では買えない「永遠の世界をもたらす利益」です。 主題聖句からのポイント (1)満ち足りる心を伴う敬虔 (2)何一つ持って来なかった 人の霊、魂は神に似せて造られたのですから、それ以上に素晴らしいものはありません。 これだけで私たちは満足するべきです。それ以外のもので欲求を満たしたいと思う理由は神の形の素晴らしさを充分知らないからです。 (3)衣食があれば 家を与えられるのであれば手に入れていいですが、無理して手に入れる必要はありません。自分のできる範囲で生活すればいいのです。 自分の与えられているものを良く考えて用いていくのは良いことで、向上心を否定しているのではありません。 (4)有害な多くの欲 お金の力を得たいと思っている人は、有害な多くの欲に陥ってしまいます。 自分の分をわきまえた人を神は用いてくださいます。それが敬虔です。 神の国は愛を満たすことこそ幸せと思う国です。私たちはどんなに経済的に厳しい状況になっても、決して神を恨むことはありません。 むしろ神の永遠の愛の中で互いの愛に満たされることが幸いだと思えるのです。 例えそういう家族や配偶者がいないとしても、あなたには永遠の愛で愛して満たしてくださる神がおられます。 世の中はますます自分の利益のみを求め、他の人を顧みないようになっています。経済発展は本当の幸福はもたらしません。 経済社会は互いの力を出し合ってより良い社会にしていこうという状況をいつの間にか変えてしまい、個人主義が横行していきます。 自分の利益のために家族さえも利用していくのです。クリスチャンもその欲望に陥らないように敬虔さを求めていきましょう。 【デボーションポイント】 (マタイ6:33) ★神の国とその義とに関心を持つ ★個々に必要なものは与えられる ★模範の姿 魂の幕屋である肉体も大切。それ以上に、魂のための神の国とその義も非常に大事。 【川柳】 肉欲の 満足感は 敬虔より 私たちは敬虔という自制心の中で肉の満足感を味わうようにしましょう。それが健全な欲求になります。
■2023年11月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神への貞操と敬虔さ up 2023.11.12
毎週の礼拝で、私たちはますますきよさを求めることが必要であると語ってきています。何故そこまできよさが大切なのでしょうか。 ここで「貞操のない人たち」とありますが、直訳では「淫婦たち」という意味です。大変厳しいことばですが、これは霊的な意味です。 イエスさまが昇天されて後、初代教会では、自分勝手に聖書のみことばを解釈したり深掘りしていく人々が増えてきました。 (第2コリント11:2〜3) ここでパウロは教会をイエス・キリストの妻となる立場として導いていることを明かしています。それは神と教会は夫と妻のような関係であり、一体であるという真理を指します。 私たちは神から出た者です。神がアダムのあばら骨を取ってエバが造られたように、私たちは神から取り出され、つまり神に似せて造られたということです。 この純真な心が欺かれ汚されてしまう可能性があります。それはこの世は罪の世界だからです。様々な宗教や哲学、教え、思考があふれています。 これらの影響を受けて、キリストへの子どものような純真な心が欺かれ、疑いや不信仰で汚されないように気をつけないといけません。 それゆえ牧師は純真な処女である花嫁として神の前に立つためにできるだけ罪から離れるよう提案しアドバイスをします。 悪魔は常に神への貞操を汚そうと罠を仕掛け誘惑をしてきます。ですから、常に気をつけていないといけません。 キリストと教会が夫婦のようにひとつになるということが神のご計画なのです。 (エペソ5:31〜32) (ホセア5:4) イスラエルと神との関係から学ぶことができます。何度も外国の神々を持ってきてしまい裁かれたことが聖書に出てきています。 姦淫の霊は自分でコントロールできない状況です。この悪霊に勝利するためには、まずは夫である神をしっかりと信頼することが大切です。 そのためには、洗礼という契約を受けてイエス・キリストを信じ、生涯従いますという決心を表明することが必要です。結婚式と同じです。結婚もこのひとと生涯ともに歩みますという契約です。 契約は守ると祝福がきますが、破ると呪いがきます。契約のない結婚は夫婦ではありません。そこには不倫や不品行の罪が伴います。聖書では姦淫や不品行は死刑という重い罰です。 キリストだけを信じるというのはイエス様だけを信じ、貞操を守り、キリストのために敬虔に生きるということです。 〈デボーションポイント〉 この世はますます不義が蔓延し、姦淫と罪の時代です。 神のことばを恥じるなら再臨の主が来られたとき、そのような人を恥じると神は言われます。 主イエスを畏れる愛による敬虔さこそが、夫であるキリストへの貞操を守るということです。 【川柳】 我が心 キリストへの愛 貞潔さ
■2023年11月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔は永遠のいのちの実 up 2023.11.5
今年は≪善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ≫というテーマのもとに、メッセージを進めてまいりました。 罪の世界にあって、このテーマを押し進めていく時、必ず不敬虔な人々とぶつかるようなことが起こります。そんな中でも敬虔に生きることの価値を見失わないようにと、この二か月「敬虔」についての学びを続けてまいりました。今日は「敬虔は永遠のいのちの実」と題してお話しいたします。 クリスチャンは罪のからだを離れ、罪の世界を離れて、神様が約束してくださっている天の新しい神様の国に早く入りたいと望んでいます。神の国に入るとは、永遠のいのちを得ているということです。 肉体が死んだ後、私たちの魂が永遠を生きる所として、聖書は二つの場所を教えています。一つは、敬虔に神を敬って生きた人たちが行く安息の場所「神の国」です。もう一つは、不敬虔という罪のために、心を入れかえる(悔い改める)ことのできない頑なな人が行く場所、「永遠の火の池」です。 私たちは神を敬う謙虚でへりくだった敬虔な心を失わないようにしたいものです。そこでまず、この「敬虔」について(第1テモテ4:8)を復習しておきましょう。 【第1テモテ4:8】 未来のいのち→永遠のいのちを得る 私たちは、肉体は死んでも魂は存在し続けます。その未来のいのちが続けられていくためには、永遠のいのちを得ることが必要です。いま地上にあって「敬虔」を鍛錬することのいのち(永遠のいのち)を得るためにも有益なことであると語られています。 【敬虔のための鍛錬とは、キリストを通して神を知っていくこと】 主題聖句(ヨハネ17:3)には、「永遠のいのち」について、それは唯一のまことの神と、神の遣わされた救い主イエス・キリストとを知ることである、と書かれてあります。 父なる神様はご自身の愛と恵みを人々に知らせ、ご自分を証しするために、肉体をもってこの世に来られ、肉体の中にご自分の存在を現わされました。それが、イエス・キリストです。 私たちは、イエス・キリストを通して神を知ることが出来るのです。 イエス様については四つの福音書の中に詳しく記録されていますから、イエス様を読み取って行けば、父なる神様も知ることができます。 今日は、ルカの福音書の中の「ミナのたとえ」と言われているところのイエス様の教えから、父なる神様のおこころを知って、自分のクリスチャン人生が的を得たものとなるように、敬虔の鍛錬につなげていただきたいと思います。 【ミナのたとえより(ルカ19:12-22)】 ≪きびしい人間だと知っていた、と言うのか。≫ ◎1ミナづつ→すべての人への救い イエス様は、信じる人々に罪赦された新しい人生を歩み直すことのできるチャンスを与えられました。このチャンスをどう生かすか、イエス様はその救いのいのち(1ミナ)を私たち一人一人にお預けになられ、それを用いるようにと期待しておられます。 そしてそれを用いた結果に従って、新しい神の国でのお仕事を一人一人適材適所で責任を持たせてお任せになられます。そのために神様は、この地上の世界で私たちが救われたいのちをどのように用いるかを見ておられる、と考えることが出来ます。 ◎悪いしもべの問題点 (1)きびしい主人と「知っていた」 (2)偏見と思い込みで人を知るという癖があった (3)主人への信頼がなく閉鎖的で自己中心的であった。 しかし、主人はしもべを信頼して、1ミナを預けています。神様は、すべての罪人に対してご自分の愛が通じることを信じて、イエス・キリストの救いをこの地上の歴史の中に刻まれました。すべての時代において神様は、イエス・キリストを通して罪人を赦し愛している、というメッセージを残されました。イエス・キリストの十字架の贖いを通して人々の頑なな心が神様に対して開かれていくということを望んでおられたのです。 【デボーションポイント】 ◎人を知るには交わりが大切! (1)交わりによって人を知るためには、多くの時間をともに過ごすことが大切です。 (2)その中で様々なことについて語り合うことが大切です。 (3)損得でない「友」の信頼を築くことが重要です。 信頼が強くなればなるだけ、お互いに深く知り合うことができます。多少のウソや裏切りや損失は赦し合えるほどの深い信頼関係を築くことが必要です。 (ヨハネ15:13) ※友のためにいのちを捨てることが出来る信頼の絆を深める交わり 聖書の中で使われる「友」は、ちょっと知り合うような軽い関係ではありません。「友」のためにいのちを捨てる、それほどの信頼の絆を強めるのが「友」の交わり、クリスチャンの交わりです。 互いに心の内を打ち明けながら、神様のみこころに心が向くようにと互いに励まし合いながら、この兄弟姉妹のためなら自分の大事なものをささげることが出来ると思えるほどの関係が出来る、これは素晴らしいことです。そのように、イエス様のためにいのちを捨てるという心、関係が築かれれば、イエス様を友として受け入れることになります。 主権者であり、王の王であられるお方のイエス様が、私たちを友と呼んで、私たちが永遠の滅びに行かないようにと、いのちをお捨てくださったのです。そこまでして私たちを友と呼んでくださるのです。私たちもそのお心にお応えしたいと思います。 「友」として信頼できる証を、イエス様は十字架で、永遠の火の池に至る私たちの不敬虔な罪を赦すために、私たちの身代わりにさばきを受けてくださいました。 イエス様がどれだけ友として私たちを愛し信頼してくださっていることか、そこに目を向けてデボーションポイントを進めて頂ければと思います。
【短歌】 道を知り 真理を知って いのちを知る 敬虔な歩み 永遠のいのち
■2023年10月29日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
神の国と神の義を求めなさい(2) up 2023.10.29
前回に引き続き、マタイ6章より、神の国と神の義を求める大切さを教えられたいと思います。 今回は、6章19節から順に見ていきます。19節から24節では、宝に対する態度を教えています。 この地上で頑張ることができるのは、天に宝を蓄えているからと前回確認しました。この宝とは、報いであり、私たちがとても関心を示すものになります。 その宝を蓄える場所に心もあるとイエス様は指摘します。天に宝を蓄える人は、天に関心を向けますが、地上に宝を蓄える人は、この地上でのことばかりを考えるということです。 そうならないように、この世ではあらゆる策を講じ、宝を守ろうとするでしょう。この状態が心が地上に支配されている状態なのです。 心を天にも地にも置くことはできません。イエス様はそれを、二人の主人に仕えることはできない、と言われます。つまり私たちは、神と富とに仕えることはできないのです。 どっちつかずの中途半端さは、結局は富に支配されてしまいます。それはこの世では富による影響力が大きからです。 そんな思い煩いから解放される唯一の道は、天に関心を向けることなのですが、そのことをイエス様は様々な観点から教えてくださっています。 それは、25節から32節にあるように、私たちの大切な命や体は神からのものであるということ、人は鳥や草よりも重要な存在であるということ、いのちを延ばすことは不可能であること、思い煩いの原因は性格ではなく信仰の問題であること、です。 神を信じる者が思い煩うということは、天の父を信頼していない証拠になってしまいます。 私たちが、本当に心配しないといけないことは、神の支配の内にあるかどうか、神の御心にかなっているかどうか、この2点になります。 これらを解決する態度が、神の国と神の義を第一に求めるということなのです。神との正しい関係にあるなら、本当に必要なものは備えられていきます。 中途半端な信仰ではなく、私の全てを知り、備えてくださる父なる神に信頼を置き、この世の思い煩いに支配されるのではなく、父なる神の支配下に人生を委ねていきましょう。
■2023年10月22日 日曜礼拝メッセージより(神戸ルーテル神学校 前校長 正木 牧人師)
広島オンライン合同礼拝 神のものは神に返しなさい up 2023.10.22
今日のテーマは、「神のものは神に返しなさい」です。偽善者を愛してくださるイエス様を信じて、そして実を結んで歩みましょう、というメッセージになります。 「これら小さい者の一人にしたことは私にしたことです。」とイエス様に言われると、「えー?私、しませんでしたか」といつも言い訳をしています。そして言い訳の天才はあきらめが早い。神様が赦していのちを与えると言っているのに、人も神様も愛さず自分を律しないで神様のもとに来ない。せっかく礼拝に来てても神様に出会っていません。自分は大丈夫と変な自信を持っています。なんとかなると思っています。あのペテロも「死んでもついていきます」と言いながら、三度も主を否んでいます。試練にもろいのです。二つのものに、いつも足をかけています。 私自身も偽善者です。こんな経験がありました。アメリカの神学校の先生が、必要なものは全部用意するからぜひ来てくださいと言われ、神様に従うというより、その先生が呼んでくれたからということで安心していました。出発の一週間前にその約束がダメになり、「自分で来てください、それでも来ますか」と言われました。 どこかで自分は「大丈夫、出来る」と思い、神様を信じていなかったのです。神様が開いてくれた道だと口では言って、賛美もしていたのですが、心の底では、神様ではなく、その先生や奨学金やそういうものに信頼していたのです。取り扱われました。その時、示されたみことばは、イザヤ書の「鼻から息の出入りするものに頼ってはならない」でした。頼りにならない富に望みを置くなという戒めです。むしろ、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くようにということです。二心であったり、いばらの中に落ちた種のようであったり、思いがそこにありながら神様のこともしようと思う偽善者です。 神様のものを神様に返しなさい。今朝イエス様は私たちに、あなたがたも偽善者ではありませんか、と言っておられます。傲慢です。絶望します。甘えています。あきらめが早いです。変な自信があります。すぐ無感覚になります。そういう私たちではないでしょうか。
■2023年10月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
福寿敬愛 up 2023.10.15
年配者の方は心が穏やかなことが多いですね。激しい思いを持っていると、病気になりやすく、関係も悪くなりがちです。 ◎穏やかな心 ◎激しい思い ◎悟り→人生観、世界観 しかし、人それぞれの主観はさておき、私たちは、神様が私たちに聖書を通して何を望んでおられるのかということを、御霊様に耳を傾けて聞いてまいりたいと思います。 ◎聖書の悟り(箴言9:10) 「知恵」というのは、状況を即座に正確に判断して賢くふるまう力で、一般的には人生体験を沢山積んで身につく力です。 多くの体験をされてきた年長の方々、いま皆さんはどのような悟りを持っておられるでしょうか。その悟りが今日や明日の生き方に影響を与えていくのです。 ≪創造主を敬うことは、知恵であり悟りである。≫ 万物の創造主であり、万物を治めておられる主権者なる神様、万物を設計し実現に至るようにと創造し続けておられる神様は、発展させ前進させ、よりよい希望をもたらすために、今も働いておられます。そういう創造主なる神様を畏れ敬い従うことは賢いことです。それは知恵であり悟りです。 世の交通ルールでさえ違反することは、捕まったり事故をしたりして、自分のいのちや社会的立場を危うくし、結局自分のためにならないことだと、暴走族でも年を取るとそのように悟っていきます。 私たちも人生の様々な失敗や成功を積み重ねて、高齢者と言われる年頃になれば、何らかの悟りをもっているものです。 私(辻牧師)の場合、「自分の弱さを受け止め、負けを認めることは、真の強さである」ということを悟りました。 すべてをさばかれる主権者がおられることを認め、法とルールを守って皆と平和に生き、分をわきまえて、むやみやたらと我を張って争うことをせず、肉体も衰えていきますが、心も生活も穏やかになって行く。これが年を重ねて多くの体験をして悟る高齢者の姿ではないでしょうか。 ◎死後の悟り→永遠観 (伝道者の書3:11) 人の心(霊、魂)は永遠に存在するということを、神様はここで教えておられると解釈できます。肉体が死んだ後には、死後の世界があるということです。 (へブル9:27) 神のさばきは、その人の一生のすべてを見て行われます。罪を犯すたびに一つ一つさばかれる、というものではありません。神様は憐れみ深いお方なので、生きている限りは悔い改めるのを待ってくださっておられます。 「悔い改める」というのは、「神様、御免なさい、今まで不敬虔な生き方をしていました。これからは神様を認めて敬って出来るだけ正しく御教えに従って歩んでいきます」と、心を入れかえることです。 心入れかえた者は、キリストの十字架の贖いゆえに罪が赦され救われます。心を入れかえなければ、キリストの十字架による罪の赦しの救いに入ることは出来ません。 罪の無い御子イエス・キリストご自身が、罪人の私たちの身代わりとなって十字架刑に処せられてくださいました。そのおかげで、私たちの罪はもう処分済として、神様は私たちを「罪無き者」と見なしてくださるのです。 そこまでして赦しを与えてくださった神様の愛により、私たちの心は、主を尊び、敬い、服し、従う心に変えられます。心を入れかえることが出来るのです。そうすれば、今は不完全な者であっても、神の国に入れてくださるのです。こんなあわれみと恵みに満ちた救いが他にあるでしょうか。 この十字架は、二千年前に歴史の中に刻まれた事実です。 「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないのです。」(使徒4:12) この方(イエス・キリスト)以外に、救い主はおられません。 死後には神のさばきの時が定まっています。その時に、「キリストを通してあなたの罪は既に処分済ですよ」と、言っていただける人は幸いです。 (ユダ書1:21) 『神の愛のうちに自分自身を保つ』 私たち罪人が心を入れかえて敬虔に生き続けるために、神様が罪人のためにキリストの十字架を通して示してくださった愛を信頼し、その愛に感謝して生きることです。 『永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリスト』 救世主の働きというのは、世の中を正すとか、幸せに改善するとか、そういうことではありません。この世はもうさばかれることが決まっています。救世主イエス・キリストは、神の最終的なさばきから私たちを救ってくださるお方です。 神様は新しい天地を与えてくださいます。そこに入ることの出来る罪人は、イエス・キリストの贖いの御業、神の愛の御業を信じて、心を入れかえた者だけです。 『憐れみを待ち望みなさい』 信心深い敬虔な心をもって、さばきの日を待ち望みます。そういう心でいれば、損得でもなく勝ち負けでもなく、すべてを神様が公平にさばいてくださるという安心感を持って、穏やかな心で日々過ごすことができるようになるでしょう。 愛を示してくださった神様に対して敬虔に生き、キリストを敬い、主の憐れみを待ち望んでいきましょう。
【俳句】 キリストを 信じて死後に 希望持つ
■2023年10月8日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
神の国と神の義を求めなさい(1) up 2023.10.8
私たちが、キリストのためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びせられても、喜びなさい。そのように聖書は語っています。(マタイ5:11−12) なぜ喜びに至るのかというと、天で報いが大きいからとあります。終わりの時代に生きるクリスチャンに改めて求められる資質は敬虔さだとメッセージで語られております。 敬虔な生き方はすなわちマタイ6:33にある、神の国と神の義をまず求めるということなのです。天で用意されている報いに期待することも、神の国を求めることにつながります。私たちが忍耐することができる理由である天の報いについて、今回は深く見ていきましょう。 マタイ6:1−18に、三つの信仰の行動について、人に称賛されるためではなく、隠れたところにおられる父なる神様を動機とするように教えています。当時の偽善者と言われた人たちは、善行するにも、祈るにも、断食するにも、人に気付いてもらうように大きく見せていたようです。 しかし、イエス様は、人から称賛を受けるとすでに報いを受けたと言われます。なので、右の手がしていることを左の手に知られないように善行をし、奥まった部屋で戸を閉めて祈り、断食して顔がやつれているのがわからないように油を塗りなさいと勧めました。 人は誰でも、周りから称賛されたいという欲があります。そして称賛されることは悪いことではありません。私たちが気をつけなければいけないのは、神様の前にする信仰の行動が、自分の敬虔さを誇示する手段とならないようにということです。 (コロサイ3:24) まず確実なことは、御国を相続するということです。この価値は地上のものでは計れませんが、最大級の報いであることは間違いありません。 (ローマ2:6) (ローマ6:23) ただし、一つ注意しておかないといけないのは、報いは良いものばかりでないということです。当然、悪い行いに対しても報いもあるのです。 私たちの信仰による行いとその動機が、この世のものにすり替えられないように気をつけましょう。 闇は私たちの報酬を奪い去ろうと働きかけてきます。しっかり心を見張り、隠れたところにおられる父なる神様にすべてをささげる歩みを心がけていきましょう。
■2023年10月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
終末だからこそ敬虔に up 2023.10.1
世の終わりの時が近づいています。この終末の世において、クリスチャンにとって最も重要なことは、「敬虔」を身に着けることです。どんな誘惑や妨害があっても、それを自制し、はねのけていくことが出来るような強い信心深さ(敬虔)を鍛えていくこと、これを怠ってはいけません。 神の最後のさばきが訪れる時、罪赦されて天の御国に入れられるのは、聖い生き方をする敬虔な人です。何が出来たか出来ないか、ということで判断されるのではなく、神に対する絶大な信頼を持って生きたかどうか、神様はその敬虔な心を見ておられます。 今日はこのことを、(第2ペテロ3:10-14)から、ポイントごとに見ていきたいと思います。 【第2ペテロ3:10-14】 聖書によれば、世の終わり(神のさばき)が目の前に来ている最も確かな証拠は、「反キリスト」と呼ばれる人物の出現です。現在、世界的に、「反キリスト」が登場する環境が、造られてきています。 これまで世界をリードしてきたアメリカが、いま弱体化し始めています。代わりに台頭しているのが、共産圏の国々、そしてオイルマネーを持つアラブ諸国です。国と国の対立が激しくなり、軍需産業は大儲けです。 また、情報社会において、世界に張り巡らされたインターネットによって思想統一(情報統制、洗脳)がなされています。真偽の定かでない情報があふれて、何が真実か、確かめることもできません。 聖書を否定する人々も多く出てきて、聖書についての否定的な発言が拡散されています。 しかし、誰がどのように聖書を否定しようが、私たちはイエス様を信じていますから、唯一の正しい情報として聖書を信じています。聖書を神のことばと信じて受け入れています。聖書は、聖霊が人を通して語られた神のおことばです。それを前提として、これから(第2ペテロ3:10-14)についてお話しをしてまいります。 【第2ペテロ3:10-14】より (2)「その日は盗人のように・・」(10節) 盗人がいつ来るかは誰も知らないように、天も地も無くなってしまうような神のさばきの日が、いつ来るか私たちには分かりませんが、必ずやってきます。 神様は、ご自分のかたちに似せて造られた私たち人間を、子として愛を注いでおられます。欲望の奴隷となって神に反していた罪人が、もう一度、造り主である父なる神様を敬うように心を入れ換えて、罪から離れるように心が変えられる、それがイエス様の救いです。 さばきの日は必ずやってきますが、イエス様を信じる者は誰でも永遠の滅びと死から救われるのです。 (3)「神の日を待ち望む」(12節) (5)「生き方」(11節) (6)「どれほどの敬虔さ」(11節) 敬虔な人は、死後の世界にまで用意しておられる永遠の神の国、正義の宿る新しい天と地、罪が一掃された新天地に入れられるという神の約束に期待と希望を持っています。 「どれほどの敬虔さ」か、それは目に見えない、まだ実現していない神の約束を信じて、この不敬虔な世を生きるほどの敬虔さです。 (7)「しみも傷もない者として」(14節) イエス様と自分との人格的関係が、まるで花婿と花嫁の関係にあるような心を、「しみも傷もない」と表現されています。 過去にどんな罪を犯したとしても、今、あなたの心がイエス様に対し、婚姻を迎える花嫁のような純真な愛の心を持っていれば、しみも傷もないものと神様は見てくださり、喜んであなたを新しい天と地に迎え入れてくださいます。 (8)「神の御前に平安を持って出る」(14節) 自分の願いや思いを優先した信仰生活を歩んできていたなら、良心は咎めを感じて御前に立つことに不安を感じてしまいます。 キリストのゆえに迫害されても喜べるのは、キリストへの愛があるからです。誠実な愛があっての信心深さ(敬虔深さ)、いま私たちはこれを鍛えられているところです。 【デボーションポイント】 (第1テモテ6:6) それを信じる者は罪赦されて神の子とされ、神の国に入れられます。これ以上の大きな利益があるでしょうか。
【短歌】 イエス様を いつも意識し 日々過ごす 聖い生き方 死後にも利益
■2023年9月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔は建徳の証し up 2023.9.24
【主を畏れる=敬虔】 敬虔とは信心深いこと。神を畏れる信仰心が深く、神様の教えに服し、敬意を払ってそれを守っていくような、神様への誠実な態度、こころ、生き方です。 ◎主を畏れるとは 「行く所どこにおいても、主を認めよ。」これは常に主を意識しなさいということです。すなわち、考える時も、発言する時も、行動するときも、決断するときも、どんな時にも常に主を意識して、語り、決断し、行動しなさいということです。 神と共に歩む人生ですから、いつも主が共におられることを意識していないと、共におられていても、いないかのようになってしまいます。 ※すべてにおいて神を意識することによって、真理の道を歩み続けることが出来る。 神様が共におられ、常に神様を意識しているなら、必ずその人は善悪を見分けることが出来るので、まっすぐ歩むことが出来ます。 道から逸れかけても、神に聞き、神の御教えに照らして、これはいけないと気づいて、逸れないように判断することが出来ます。 【知恵の初め=建徳の土台】 知恵が深まれば深まるほど、高徳な生き方が出来ます。善悪をはっきり見分けて、良い方を選ぶことが出来るからです。 ◎初め→最初のもの、基礎土台、重要なもの ◎徳→道を悟った立派な行為 「どうして人間が存在しているのか」が分からないと、人間が人間として歩むべき道を悟ることは出来ません。 世界の初め、人類の初めについての考え方については、「創造論」と「進化論」があります。 突然変異と偶然によって進化してきた、という「進化論」の考えで生きるなら、人はどういう道を悟り歩むでしょうか。突き詰めれば、自分が生き残るための弱肉強食の道です。 私たちクリスチャンは、主イエス・キリスト(人となって来られた創造主なる神)の教えてくださった道、すなわち、人は神のかたちに似せて造られた神のこどもである、という道を悟り歩みます。 子どもであれば、親のものを継承する、という未来があります。神様のものを受け継ぐために、私たちは神のかたちに似せて造られた、そのような悟りをもって歩むなら、自ずと神を畏れる徳のある敬虔な人生を歩むようになります。そのゴールは「神の国」です。 また、「徳」は人を感化する人格の力とも言えます。それは、考え方や価値観、悟りにおいて他者に良い影響を与えます。 ◎建徳→徳を高める→たましいの純化 建徳は、たましいの純化、「きよめられること」です。清く、正しく、公平で、愛があって、人々に良い影響を与えていく人物に育っていく、それが建徳です。 たましいが純化されていくために、また、人に良い影響を与えるような徳を得るために、主を畏れることを土台とする、それが「知恵の初め」である、と(詩篇111:10)は語り教えておられます。 【デボーションポイント】 問題にぶつかることも、砕かれる痛みを通ることも、敬虔な心が養われ、知恵ある神の子として成長し成熟するためになることですから、感謝です。 【 まことの信仰者は、徳の高みを目指して、敬虔に生きる人。】 どんな時でもイエス様を意識していると、生活がどのように変わっていくのかを体験していきましょう。 困ったときだけではありません。すべてのことにイエス様を意識して、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できるように、あなたの人生が変えられていくことを体験して頂きたいと思います。 【短歌】 いのちある 日々を目指して 熱心に 信心深く 建徳励む
■2023年9月17日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
主のために生きる者は幸いです up 2023.9.17
2023年の教団目標聖句に向けて、マタイ5章3節から8つの幸福の使信を見てきました。今回はいよいよ目標聖句である11節から12節となります。 (マタイ5:11−12)(前述) 当時の王であるアハブ王とその妻イゼベルは、主に仕える預言者を多く殺し、異教の神バアルを信仰し、国中にバアル礼拝をもたらしました。恐らく恐怖政治で民を支配したと思われます。エリヤも命を狙われる日々が長く続きました。 エリヤのストーリーの中で最も有名なのは、バアルの預言者450人との対決でしょう。当然エリヤがその場で神様の奇跡を現し勝利するのですが、それでも命が狙われることは無くなりませんでした。まさにイエス様が言われた通り、預言者エリヤはののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びる生活を送るのでした。 「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」というモットーも、神の愛の価値観が土台に無ければ成り立ちません。そして、大切なのは、個人で完結するのではなく、教会というキリストのからだで共有されるべきだと私は考えます。楽しさや幸福感は、共有されてこそ楽しさであり幸せなのです。 主のために生きることが人の最大の幸せです。この世の価値観との違いに悩まされることがありますが、旧約時代の預言者たちのように、いつも主の前に正しい選択をしていきましょう。そして、「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」を個人の生活や教会の中で体現していきましょう!
■2023年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔のための鍛練 up 2023.9.10
《敬虔は、困難、苦しみ、試練を通して練られ、鍛えることができるものである。》 敬虔さというのはその人の持っている性質ではなく、鍛えることの出来るものです。放っておくと弱りますが、鍛えれば熟練に至る、そのようなものです。 敬虔さが足らないと思う人は、鍛練してないのかもしれません。敬虔さを鍛練しないで放っておくと、信仰は弱り、後退し、躓きやすく倒れやすくなり、ついには無くなってしまいます。 これは正しい良心とも深く関係します。(第1テモテ1:19)には、「正しい良心を捨てた者は、信仰の破船に遭う」と書かれてあります。敬虔と正しい良心とは一体です。正しい良心(健全な良心)とは、神を敬う心で物事を判断することですから、鍛えられた敬虔はクリスチャンには欠かせない重要なものです。 【敬虔さはすべてに有益】 ◎万事が有益となるための鍛練 敬虔さが弱いと、愚痴不平不満が多くなります。敬虔さが鍛えられると、愚痴不平も少なくなっていきます。何故でしょうか。 (ローマ8:28)→神を愛する敬虔さ 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 良いことも悪いことも、苦しいことも悲しいことも、神様がすべてのことを働かせて、神を愛する人(敬虔な心を持った人)のために、すべてが益となるように働きかけてくださいますから、そういう神様であることを私たちは信じているので、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが出来ます。 困難、苦しみ、試練などに遭うと、私たちは「神様を信じているのに、どうして守ってくださらないのだろう」というような気持ちになることがあります。 試練、苦しみに遭うことは、敬虔さを鍛えられるためです。正しい良心が強められるためです。それを感謝する心が敬虔さを鍛えることにつながるのです。 (マタイ5:11)→迫害は敬虔さの鍛練 「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」 なぜ迫害を受けることが幸いなのでしょうか。それは、すべてを有益に変える敬虔さが鍛えられるからです。 「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」とイエス様は言われています。真理であるイエス様を信じてイエス様の教えに従うことは、真理に従うことであり、正しいことです。 しかし、不敬虔な人々にとってはそれは不都合なことですので、真面目なことを主張する人々に圧力をかけてきます。 そういう迫害の時に、イエス様に従い通し正しいことを貫き通して、敬虔さが鍛えられていくので、幸いだとイエス様は言われます。 (ヤコブ1:3-4)→忍耐こそ敬虔の鍛練 「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」 キリストを信じ真理を貫き通す、その苦しみを耐え忍ぶ人は、成長を遂げた完全な者となります。このみことばから、人間の完全性というのは「敬虔深さ」であることがわかります。 忍耐は人を磨くとよく言われますが、特に神様を信じるものにとって忍耐は敬虔さを鍛える時なのです。 年数を重ねても、信仰がスタートした時と同じような幼い霊的状態のままでは成長できていないと考えることができます。忍耐の苦しみを嫌がっていてはいけません。忍耐することは完全な者へと成長することなのです。 (箴言20:4)→困難さが良い実を結ぶ 「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても何もない。」 労苦も困難もいやだ、楽をしたいと言って、すべきことをしないと、刈り入れの時の収穫はゼロです。 神を愛するゆえに、忍耐を働かせて困難なことをこらえる、その忍耐が刈り入れの時に多くの良い実を結ばせます。 「敬虔」という鍛えられた霊的な実のためには、困難な時の忍耐が必要です。 ※苦しみは敬虔さのための鍛練 誰しも苦しみは避けたいものです。しかし、いま困難に耐えて、やるべきことをやっておかねば、将来に実を得られないわけですから、この苦しみは敬虔さのための鍛練と思って忍耐を働かせましょう。 【デボーションポイント】 どのように鍛練するのか? (ユダ1:15-21) 「すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らすもので、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」 どのように鍛練するのかについて、(ユダ1:15-21)から、次の3点を考えてみてください。 ●最も聖い信仰とは何か? ●実際的な敬虔のための鍛練とは! 鍛練は造り主なる神様のされることです。これは鍛練の時だ、と受け止めるかどうかは、各人に任されています。逃げることも避けることも出来ますが、鍛えられるためには受け止めるしかありません。 苦しいということだけに目を向けるのではなく、すべてのことを有益とされる、信心深さを鍛えられる、という将来に向けて忍耐をされてはいかがでしょうか。
【短歌】 つらい時 イエスを見上げ 耐え忍び いのちに至る 鍛練受ける
■2023年9月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
善に親しむ楽しさきよめられる幸せ up 2023.9.3
今年のモットーの「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」について、今日は「敬虔に生きることの希望」というポイントで、お話ししたいと思います。 この世界では自分の願いや思いが叶えられていくことが幸せだと思う人々が多くて、敬虔に生きることは希望のない窮屈なことのように感じられています。 クリスチャンの中にも、熱心になりすぎると視野が狭くなり、自由でなくなる、だからあまり熱心になってはいけない、と考える方がおられるかもしれません。 しかし、みことばに熱心になることは、視野を広げ、知識も深まり、経験も悟りも豊かになり、良い行いを伴って、成長につながります。それは、イエス様のみ教えを実践してみればわかります。 この世の人生だけがすべてではありません。死んだら終わり、という希望のない世の考えに影響されることがないようにしましょう。敬虔に生きることには希望があるのです。 【希望が持てる理由】 (1)公平な神のさばきがある (第1ペテロ1:17)→完璧な公平のさばき ですから、私たちの敬虔な生き方や熱心な態度を神様は無駄にされることはなく、公平に報いてくださると信じて希望を持つことが出来ます。 (ローマ2:16)→神のさばきは福音 ※神は必ず罰するべきものをさばく 神様の目に隠しおおせる罪はありません。悪には厳しいさばきが、善には良い報いが与えられます。神のさばきがあるから、これを超えると罪になる、と自制することも出来ますし、正しいことを守り続けることもできます。神のさばきがあることは、クリスチャンにとって福音なのです。 ですから、私たちは何が罪で悪なのか、何が善で神様の喜ばれることなのか、神様の御おしえに学び、みことばに教えられる必要があります。 (2)新天地の約束 (第2ペテロ3:13)→正義の住む新天地 (黙示録21:1)→さばかれる=過去 以前の天と地は、神様のさばきを通して過去の代物となります。罪は、さばかれなかったらずっと残り続けますが、さばかれることによって過去のものとなります。過去のものとなった罪は、未来とは何の関係もありません。神様は処分済の過去の罪を思い出して責めるようなことはなさいません。 神様は未来に向かって希望をもたらしてくださるお方ですから、さばきの後は、以前とは全く違う「正義の住む新しい天と地」に、私たちを入れてくださるのです。素晴らしい希望の神様です。 ※キリストは永遠への希望の証し キリストを信じる時、私たちは2千年前の十字架のキリストと一つに合わせられます。私たちはキリストとともに十字架で死に、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえって新しい人生を生きる、この神様の救いが成就するのです。 罪は何回も犯しますが、神様はその罪をイエス・キリストの十字架によって処分済とみなしてくださいますから、私たちは神の前にへりくだって喜んで感謝して、その赦しを受け取ります。 そしてもう一度やりなおそう、新天地を受け継ぐものとしてふさわしいものに努力していこう、イエス様を信じて歩んでいこう、神様の御おしえに合わせていこう、と心を入れ替えて、未来に向けて希望を持ってやりなおしていきます。 それがキリストに対して持つ敬虔な姿勢です。神様が望んでおられる私たちの敬虔の実です。 自分が神の前にどんなに償いきれない罪人であるか、その罪意識の浅さが、キリストの十字架の贖いの御業を分かりにくくさせます。 私たちが神を認めず自己義に生きて、その罪の償いのために苦しみを持って永遠を過ごすことは、本来神様が望んでおられるところではありません。 神様の御心は、私たちの罪の赦しのしるしである救い主イエス・キリストを信じて、神の御教えに立ち返り、永遠の良き未来に向かって希望を持って進むことです。 この地上だけに希望を持つのではなく、肉体を離れた次の世界、新しい死後の人生があることを覚えて、今を生きて頂きたいと思います。 【デボーションポイント】 (第2テモテ3:12)→キリストにある敬虔 迫害は、キリストに対する敬虔な心が認められたしるしです。救い主イエス・キリストへの敬虔さが実際の生活の中に現れているから、不敬虔なものたちはあなたを迫害するのだと語られています。 (第3ヨハネ1:11)→神から出た=聖い者 悪を行っている者は神を知らない者です。クリスチャンは神から生まれた聖い者ですから、善をみならい善を行います。迫害を受けることは聖い者として見られている証と言えます。 ※多数決による悪や不道徳との妥協は、まことの平安や平和に至らない 周りが皆そうだから、自分もクリスチャンとしての信念を曲げて、この世の悪や不道徳に合わせていこうというような妥協は、クリスチャンには出来ないことです。真理を知っている者として、出来ないことは出来ないと言うべきです。そうすると迫害されるかもしれませんが、イエス様も迫害されたことを思って感謝しましょう。 ※赦しと妥協との違いを考える 「悪を持って悪に報いず、侮辱を持って侮辱に報いず、却って祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(第1ペテロ3:9)これが敬虔に生きる者の他者への対応の仕方です。
【短歌】 幸いは 満ち足りている 証なり とこしえに続く 希望なれかし |