■2023年8月27日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

義のために迫害されている者は幸いです  up 2023.8.27


主題聖句(マタイ5:10)
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。





 

幸福の使信シリーズも、最後の8番目となりました。義のために迫害される者は幸いですとイエス様が語られたその真意を学んでいきたいと思います。

はじめに義について確認したいと思います。同じマタイ5章の20節にこう書いてあります。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

イエス様は、律法学者やパリサイ人の義よりもまさっていることを求めておられます。当時のユダヤ社会では、律法学者やパリサイ人は旧約の律法を守るよう教えており、また自身たちも律法を守る生活をしていたので、人々は義人と言われるのは律法学者たちだと思っていました。そんな律法学者たちよりも優れた生活をしないといけないと思った人々は、イエス様の話を聞いて驚きましたが、イエス様は律法学者たちの義について矛盾を説明されました。”人を殺してはならない”という律法を守ったとしても、心の中で人を悪く言うのは律法に反するとイエス様は説明されました。
このことから、義とは、表面上の律法を守ることではなく、神様の前に砕かれた心の状態を指します。その心の持ち主が天の御国にふさわしいとイエス様は教えているのです。

神様の前に心砕いた生き方は、周囲に平和を与えていくと信じていますが、長い人生の中で、神様の愛を貫く生き方に異を唱える人はいるものです。また、この世の価値観に引き込もうとしてくる人もいるでしょう。それでも、私たちは、ブレない姿勢を示すことが大切です。それこそが義のために生きるということです。

(マタイ5:16)
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

このみことばのように、周囲に良い影響を与える歩みを目指しましょう。それこそが、福音伝道なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年8月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

嗣業(相続地)を守り通す  up 2023.8.20


主題聖句(黙示録3:11)
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。





 

 世の終わりがきて、神の前に立つ時、私たちがもっているものとは何でしょうか。

 神を畏れ敬う生き方をするか、自己中心に生きるかで違ってきます。
 
 すぐに来ると言われた神の時は、私たちの時の長さとは違います。永遠の存在者である神は、私たちの地球時間のような縛りがないからです。
 
 冠とは賞賛として与えられるものであり、報いのことです。イエス・キリストを信じ忠実に歩んできた私たちは、報いとして冠が与えらます。この冠とはイエス・キリストへの信仰のことです。
 
 嗣業である相続地として、与えられたクリスチャン生活(良い行いをする神の作品)をキリストの再臨まで守り抜かないといけません。

 クリスチャン生活は神が与えられた嗣業であり、相続地です。

  〜良い行いをする神の作品〜
(エペソ2:10)
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
 クリスチャンの本性は良い行いをするということなので、自分がその律法を犯すと、すぐに良心が咎めてしまいます。それは、神を畏れていて、善を行いたいと心から願っているからです。
 
 すべてのことは、神を畏れる敬虔な姿勢から生まれてきます。罪の中に生き、自分の幸せのみ求め、他の人を傷つけても平気でいる生き方はクリスチャンにはできません。
 
 貧しい国の人々、富んでいる国の人々が今の経済社会の歪みから生まれ、豊かな生活が多くの貧しい国の人々の犠牲の上に成り立っているという事実を知る時、私たちはその状況に悲しみ、なるべくそういう贅沢な生き方を慎む努力をするべきです。
 
 例え、小さい行いであっても、良い行いをする神を作品としての生き方を目指しましょう。

 今年の目標であるみことばです。
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

  〜クリスチャン人生は神の作品である〜

 神の作品→神から与えられた嗣業
 嗣業→家宝、一般的に不動産継承、遺産、相続するもの

 私たちは神の子として神からの財産を相続した人生がそれぞれに与えられています。

 この相続した財産をどのように用いるかは自分自身の意志によります。その行いに応じて、神様は報いを与えてくださいます。

(民数記26:54)
「大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならない。おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない。」
(申命記19:14)
「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」
 
 相続地を守ることは大事なことであり、その地境を守らないとなりません。
 
 肉体は土地のちりで創造された嗣業です。神しか創ることはできません。
 
 また、神は土地を造り、人に分け与えられました。この嗣業である土地をイスラエルの民は神の裁きを受けて、他の民に取られてしまいました。
 
 しかし、その回復されることも聖書で預言されています。肉体は地上での生活そのものを表します。この体を使ってクリスチャン生活の実を結ぶことができるのです。
 
 放っておいてはだめです。手入れをする必要があります。与えられた相続地である人生をいかに良い実を結ぶものとして活用していくかがそれぞれに任されています。

 出エジプト記でイスラエルの地は豊かで、野にある実で、何百万人もの人が養われていたとあります。カナンの地には、兵役に服せる男だけで60万人の人々が毎日食べる自然の果実が実っていたとあります。

 しかし、そこを征服するためには敵との戦いがありました。
同様に、私たちの肉には罪が宿っていて、この罪を征服する必要があります。

 この罪を内に共に住んでくださる聖霊によって征服し、神の作品として良い行いをしていく嗣業の地として守る必要があります。

【デボーションポイント】
  
   嗣業を手に入れる戦いは常に勝利
 
 イスラエルの民は大した武器もないのに、強力なエリコの城壁を崩し、多く地を手に入れることができました。

 彼らは戦いさえすれば、武器が大したものがなくても、常に勝利しました。その戦いが神によったからです。神の導きによって戦い、勝利したのです。霊的な戦いもそうです。

(ヤコブ4:7)
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 悪魔に立ち向かうという姿勢さえあれば、勝利できます。
その理由は、罪はすでに十字架によって無力化されたので、御霊に従って歩めるようにクリスチャンはされているからです。

(ローマ8:3〜4)
「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

 罪の力は戒めであり、戒めを破る者を束縛する力です。しかし、すでにその罪の罰を受けてしまえば、その人をもう束縛することはできないのです。
 
 イエス様の贖いによって、すべての罪の罰はイエス様ご自身が受けてくださったので、私たちはイエス様への信仰によって、すべての罪の力から解放され、もはや縛られることはないのです。

 イエスを信じる心がパスポート、切符ですから、求めるなら与えられ、神に従って悪魔に立ち向かえば、悪魔は逃げ去るしかありません。
 
 ただ、不信仰と罪の惑わしによって、敗北してしまうことがあります。不信仰という感情的な部分が敗因となってしまいます。この世の価値観や考え方をいつの間にか優先してしまい、
 
 神への信仰がゆらぐなら、悪魔に立ち向かうことはできません。不信仰な心をもたらせるために、罪の惑わしがあります。この惑わしは神に逆らうこの世の多くの情報です。

(ヘブル3:12〜13)
「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」

 エジプトから出てきた民は不信仰によって約束の地に入ることができず、その子孫が入りました。

 本当は悪魔に対抗し勝てるのに、罪の惑わしを受け入れてしまい、感情的に落ち込んだりして不信仰な心になってしまうなら、それが敗北の原因となります。

 みことばを敵の都合のいいように解釈されないようにしましょう。
 
 敵に立ち向かいましょう。不信仰なことばによらず、必ず勝利を与えてくださる神のみことばに従い、信仰をもって敵である悪魔に立ち向かいましょう。

【短歌】

十字架で 無力化されし 罪なれば 

立ち向うばかり 勝利確実

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年8月13日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

心のきよい者は幸いです  up 2023.8.13


主題聖句(マタイ5:8)
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。





 

 幸福の使信シリーズも7回目となりました。今回は心のきよさについて聖書から学んでいきましょう。

 まず結論から申し上げます。人の心は汚れたものですが、主によって砕かれ変えられるなら、きよめられ、主の臨在を体験し、やがては顔と顔を合わせるようにして、神を見るようになるのです。
 主は聖なるお方なので、私たち人が主の前に出ることは本来できません。旧約時代、唯一モーセだけが顔と顔を合わせて交わることをゆるされましたが、それ以降イスラエルにはモーセのような人物は出ませんでした。さらには、聖である主を見ると死ぬという考えだったため、神を見るということは考えもしないことでした。しかし、イエス様の十字架以降、主は人との間に道を備えてくださり、主の臨在の御前に出ることをゆるしてくださいました。
 今日私たちが主の前に大胆に出て礼拝ができるのは、主が私たちに歩み寄ってくださったからなのです。これはとてもすごいことです。しかし、じゃあ私たちの姿勢はどのようなものでも良いかというとそうではありません。それがマタイ5:8のように心がきよいことが求められるのです。

(ローマ12:1)
ですから、兄弟たち、私は、神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

 ローマ書にはこのように書かれています。私たちの礼拝は、聖なる生きたささげ物であることが望まれます。なぜなら、それこそが主が喜ばれる礼拝だからです。主は聖なるお方で、たとえ私たち人に歩み寄ってくださったとしても、汚れを受けることの出来ない完全なるお方です。ですので、私たちが極力きよくあることを努力しないといけないのです。そしてそれはまず身近なところから始めることができます。
(マタイ15:18−19)
しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。

 なぜ心のきよさが幸いなのかと言うと、心から汚れたものが出て来るからです。心から出て来る汚れた考えは、口から言葉となって人を汚すこともあれば、汚れた行動に移すこともあります。賛美と呪いは同じ口から出て来るとありますが、そのようなことがあってはならないとヤコブは教えています。私たちの信仰の歩みにおいて、自身の心を主にあって砕き、コントロールし、自制を働かせ、心をきよく保つことが大切なことなのです。

 心のきよい者同士が集まり、交わる中に、主も臨在してくださいます。直接、主を視認することは出来ないかもしれませんが、主の愛と恵みを素直に感じ受け取ることができるようになりたいと思います。そのためにも、心がきよくあり続けることを意識する日々を送っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年8月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

良い行いをするために救われた  up 2023.8.6


主題聖句(エペソ2:10)
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。





 

 今日のテーマのみことばは、絶対忘れてはならない基本のみことばです。知識として覚えてはいても、毎日の生活の中にそれを生かすことが出来ているか、クリスチャン信仰にとってとても大事なことです。行いのない信仰に終わることのないよう、実のあるクリスチャン生活にチャレンジしていただきたいと思います。

 今年のテーマは「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」です。今年も半年以上が過ぎたのですが、改めてこの目標を思い起こして、善に親しむ楽しさを味わいながら、きよめられる日々の幸せをかみしめながら、キリストの再臨を迎えるという歩みを続けていただきたいと思います。

1)良い行いをするために救われた
(エペソ2:10)
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 今日の主題聖句(エペソ2:10)には、私たちがイエス様を信じて罪赦され救われることの目的が書かれてあります。

 今年の初めに、新しく生まれ変わる(新創造される)というお話をいたしました。新創造されるまでは、罪を犯すことに多くの悩みや時間を費やしていたのですが、新創造されてからは善を行う楽しさに触れる機会が多くなっていきます。それは私たちが新創造された目的が、「良い行いをするため」だからです。

《救われて新しく造り変えられた人は、善に親しむことを喜びとし、きよめられる幸せを願っている》

 皆さんは善に親しむ幸せを味わっておられますか。
 
 「善に親しむ」ということの身近な具体的な行いとして、「親切を施すこと」があります。

 日本人には、いつの間にか身についている親切な良い習慣というものがあるようです。

 たとえば、バスや電車のホームで皆がきちんと並んで列を作り、乗る人も降りる人も順番を守っている様子や、高齢者や妊婦さん、子連れの方に席を譲るなど、外国人旅行者は日本人の道徳性の高さに一様に驚かれます。

 親切な対応が多いお国柄として外国人旅行者には人気があるとのことです。

 (エペソ2:10)から、私たちは「良い行いをするために救われた」ということを知ることが出来るのですが、そこに「私たちは神の作品だ」とも表現されているのはどういう意味でしょうか。

2)「作品」について

※芸術として意図を持って造られたもの

※技巧を駆使して美を創造し表現する

 私たちは、自然に偶然に出来たものではありません。神様が目的と意図をもって創造されたという意味で「神の作品」と言われるのですが、作者は神様ですから、私たちは自分も他人も誰もが大変価値ある素晴らしい存在であることが理解することが出来ます。

《美の極みである神のかたちに人は創造された。美の極みとは、神のきよさである。》
 イエス様は生まれつきの盲人をご覧になり、彼が生まれつき盲目であるのは、神の栄光が現れるためだと言われました。
 
 すべての人は、神の栄光が現れるために、神がご自分のかたちにお造りになられたのです。人の目には障がいと映る状態も、神の一部を表現している貴重な神の作品です。障がい者も健常者もありません。すべては、美の極みである神のかたちに創造されているのです。

 ある障がい者施設の報告をビデオで見ました。十数人を受け入れることの出来る小さな施設ですが、すでに100人以上の入所希望者が待機されています。

 知能障がいと機能障がいを併せ持つ重度の方一人に対して、お世話する職員さんは数人を必要とします。スタッフの人数不足は否めません。

 しかし、それを重荷にして働く職員の人たちがおられるのです。そういう人たちが起こされるから不思議です。その人たちは利用者さんたちのことを「かわいい、愛らしい」と言われます。愛情が生まれてくるのです。そんな特別な心をいただいている人がいるのです。そういう働きに神様が召された人がいるのです。

 また、寄付を集めたり、機材を提供する方たちもいて、皆で助け合って施設は運営されていきます。皆が同じ働きをするのではなく、神様が一人一人に思いを与え役割を与えられます。
 
 不必要な人は一人もいません。皆が愛し合い、助け合い、支え合って、隣人を愛する愛の行為が生まれてくるのを、神様は見ておられるんだなあと、そのビデオを見て思わされました。

 皆が同じように出来るわけではありません。しかし、あのようには出来ないからと言って何もしないのではなく、では自分には何が出来るのかと考えて、親切の施しをしていく。その親切の施しが、神様は与える神であるという神様の美の極み、神のきよさを現しているのだと、今回捉えさせていただきました。

 私たちは神の作品です。何らかの神様のお考えがあってあなたをお造りになりました。何らかのお考えをもって、あなたがどこかで働きをするように、神の栄光の一部を現す作品として今いのちをいただいて生きているのだと受け止めて、皆さんもチャレンジしていただければと思います。

【デボーションポイント】
   人は神が意図された芸術作品である

(第1テサロニケ4:7)
「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」

※神の作品として、自分の存在価値に気付いているか?

 神様は一人一人それぞれに意図されたものをお持ちですが、すべてのクリスチャンに共通して意図されていることもあります。それは、聖潔を得させるということです。聖潔を得させるために造られ存在し救われました。きよくなることは私たちの存在目的です。神の作品としての存在価値です。

 「神の作品」という言葉で強調されていることは、創造主と造られたものとの関係です。この関係を無視したら、すべての目的も価値も空しく無意味です。

 私たちは、聖潔を得させるという、美徳の完成に向けて、神様によって造られていっている芸術作品であることを覚えておきましょう。
※作品の完成は神の御手による

(第1テサロニケ5:23-24)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」
 
 作品としての私たちを完成してくださるのは神です。神様が、私たちの霊、魂、からだを完全に守って、聖なる者として永遠の神の国に入れてくださいます。神様がそのことをしてくださいます。私たちはそれを信じて、自分を神様に委ねていきます。

(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 このみことばをそのまま行ってください。そうすれば神様が仕上げてくださいます。

 親切が出来なくても親切を施すことを考えてください。優しい人間じゃないけれど優しくなろう、と神様のことばに心を委ねてください。そうすれば聖霊があなたを優しくし、親切を施すことができる力を与えて、作品として仕上げていってくださいます。

 私たちが赦せないものは一つもありません。なぜなら神は決して赦されない私たちの罪を、キリストを通して赦してくださったからです。神様が憐れんで赦してくださったのですから、私たちは憐れみを持って互いに赦し合うしか残された道はありません。
 私たちは自分の力や努力で自分を良くすることはできない者です。赦せるように私を造り変えてください、私の内に憐れみの心を造ってください、と祈りましょう。

 神様に出来ないことはありません、必ず造り変えてくださいます。その神への信頼、信仰により、助け主聖霊様があなたを「神の作品」として仕上げてくださるのです。

【短歌】

我を忘れ  自分勝手に  生きるなら

 作品として  無価値なものに

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年7月30日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

あわれみ深い者は幸いです  up 2023.7.30


主題聖句(マタイ5:7)
あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるからです。





 

 今週は、マタイ5章7節より、あわれみ深い者は幸いであることを見ていきます。あわれみと訳されたヘブル語は、”胎”を意味する言葉の派生語と言われています。ですので、母が子を思う情愛の意味も含まれています。ギリシア語も、放蕩息子の父親や良きサマリヤ人の心を動かした心の動きに、あわれみを指す言葉が使われています。このように、人が人に対し抱く優しい心を働かせる者は幸いであると聖書は教えています。

 まず、あわれみは、父なる神様のご性質であることを確認したいと思います。
(出エジプト34:6−7)
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 神様のご性質として真っ先に挙げられているのがあわれみです。主はあわれみ深い神様なのです。
その証として、ひとり子であられるイエス様を私たちの罪の赦しのために十字架に掛けられました。あわれみ深い神様は、まず私たちにあわれみを注いでくださったのです。

 そんな私たちは、隣人に対してあわれみを示すことを期待されています。あわれみの根幹は、”かわいそうに思う”ことです。マウント取りの同情心ではなく、心に寄り添う同情心です。人として当然の心の動きに思いますが、実はなかなか出来そうで出来ないことかもしれません。聖書に多くの教訓を見ることができます。

(マタイ18:23−35)には、一万タラントゆるされたしもべの話があります。一万タラント(約6000億円)という多くの負債をゆるされたしもべは、100デナリ(約100万円)をゆるすことができませんでした。

(ルカ10:30−37)には、強盗に襲われて傷ついた旅人を介抱する良きサマリヤ人の話があります。同じ場所を通ったレビ人や祭司は見て見ぬふりをしましたが、当時差別を受けていたサマリヤ人が、助けるというところから、愛のわざに、国も権威も理由も不要であるということを教えられます。

 いざ目の前にあわれみを示す場面が訪れたときに、私たちは咄嗟に愛のわざをすることができるでしょうか。色んな理由を付けて、避けてしまう弱さを持っているのも事実ですが、できるだけあわれみ深い神様に倣って、あわれみを示す者とありたいです。

 そうすれば、あわれみ深い神様の究極のあわれみが現実となってわたしたちにおとずれるのです。
(マタイ25:31−40)
40)すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

 善行は、救いの根拠でありませんが、私たちが救われていることの証拠となります。つまり、救われている人は、自然と善行をするということです。その姿勢を見て神の愛によって救われていることがわかるのです。最終的には、天の御国、神の祝宴に迎え入れられる人とそうでない人に分けられるとき、この地上での、あわれみの示し方が大きく影響してくることは、聖書からも見てわかることですので、まず身近なところから、あわれみを示してまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年7月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

識別分離の知恵  up 2023.7.23


主題聖句(マタイ5:29〜30)
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。





 

 今日の主題成句はとても厳しいおことばですが、その通りにせよと言われているのではありません。からだ全体(存在そのもの)が、ゲヘナ(罪のための永遠の裁きを受ける場所)に投げ込まれるより、一部の悪いところを捨ててでも、救われなさい、という教えです。

 例えば、ウエディングドレスの一部に小さな汚れがついていたら、それは汚れたウエディングドレスと見なされて、着ることは出来ません。一部だから、少しだからいいだろう、ということにはなりません。

 キリスト教はきよめの宗教で、罪の問題を重要視します。罪の力から解放されたきよい生活を教える宗教です。そして、神の愛と憐れみ、恵みによって赦していただけるという赦しの宗教でもあります。

 日本には人情や仁義を良しとするような風土、文化があり、憐れみ、情け深さなどの情によって罪の問題をうやむやにして赦してしまう、識別分離しないところがあります。

 被害者は損失を被っているのですから、加害者の罪を赦すためには、加害者の償い、犠牲、処罰が必要です。それを不問にして権威者が身勝手に人情的に丸く治めたのでは、被害者は報われず、我慢させられるだけの理不尽な人生になってしまいます。

 罪は罰せられなくては消えません。赦されません。ですから、キリスト教の救いは、罪と罰がワンセットで、すべての罪をさばく神がおられる、そしてすべての罪のさばきから救う事のできる神がおられる、と二つのことを紹介しています。

 クリスチャン生活の中でも、罪の誘惑に引っ張られて食べすぎたり遊びすぎたりして、右手や右目が罪を犯してしまうことがよくあります。悩ましいことです。そこで、からだの一部を取り除いてでも全身の救いへとつながるように識別分離しなさい、という意味で(マタイ5:29〜30)のみことばを取り上げました。

 今日は、この「識別分離」を更に実現するために、「魂とからだの分離」ということを(ローマ7:20〜23)からメッセージさせて頂きます。

1)魂とからだの分離

(ローマ7:20〜23)
「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、わたしのうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。」

※敬虔な人=本音は善を求めている

 パウロ先生は神を畏れるユダヤ教徒でした。そしてキリスト教はユダヤ教の異端であると考えて、クリスチャンを迫害していました。それほどに熱心で敬虔な人でした。彼の本音は善を求めていたのです。私たちは善なる神様のかたちに似せて造られていますから、善を行って喜び、幸せを感じることは私たちの本質です。

※からだには罪が宿り支配している
  パウロ先生は、心は神の律法を喜び善をしたいと願っているのに、それとは別の不健全な欲望のほうに誘惑していく不思議な力が働いて、それに打ち勝てないでいる、すなわち、したいと願う善を行わないで、したくない悪をおこなっていると、と悩ましい状況を告白しています。

【魂のルールとからだのルールとは正反対であることから、魂とからだは別物と考えることができる】

 行き過ぎた欲望を持つ心と自分は一つだと考えてはいけません。別物です。まずそれを識別してください。

 魂は、欲求を健全に保とうとしています。しかし体には、欲求を湧き立たせるように操り誘惑してくる罪が存在しているので、自制できなくなり、行き過ぎた欲望を満たしてしまいます。体と魂は正反対の働きをしていますから、別物と考えることが出来ます。

 そうであれば、知恵と作戦によって処置のしようがあります。
その知恵と作戦は聖書に書かれてある、というのが今日お勧めするところです。

2)罪からの救いと解放
(第1ペテロ2:24)
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

※罪の支配権を無力にされた。

 イエス様は私たちの罪を負って、十字架の上で私たちの代わりにさばきを受けてくださり、私たちが罪の償いをしなくていいように、さばきから救い出してくださいました。それは、私たちが罪を離れるためです。

 私たちは罪の支配の中にいて罪から離れられない者でしたが、イエス様が私たちの罪の償い金、代価を支払ってくださいましたので、私たちはもう解放されて自由の身になりました。罪の元にとどまることも自由、新しくイエス様とともに生きるも自由、私たちの決断次第です。

※魂のルールで生きることができる
 
 イエス様を信じて救われた私たちの魂は、神のかたちに似せて新しく生まれ変わった魂として、思いのままに善を行う生き方を実行することが出来る状況に置かれています。

【罪の働きによるからだの欲求に支配されていた魂は、立ち向かうことができるようになりました。】

 イエス・キリストの十字架の真実を知ったことのゆえに、私たちは罪のルールに従う必要はなくなり、立ち向かうことも出来るようになりました。

 欲求、怒り、ねたみ、つぶやきなど、私たちの陥りやすい罪は色々あります。失敗することもあるでしょう。それでも罪が私たちを虜にすることはありません。私たちは何度でもやりなおすことができます。

 イエス・キリストの十字架の罪の贖いが実現したという救いの歴史的事実を信じて、神のかたちに新しく造り変えられた私たちの心、魂に意識を向けるとき、魂の赴くままに、善を行い楽しむ歩みを選んでいく、そういう意思決定を行うことが出来るのです。

 これが健全なクリスチャンの状態です。

【デボーションポイント】

◎識別分離の知恵(ヤコブ1:21)
「ですから、すべてのけがれやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことが出来ます。」

※一番の汚れと悪とは、神への不信仰。
 
 汚れた感情や思い、行動を捨て去ることができない、罪から離れられない、と悩むクリスチャンがおられます。私たちはいつでもそれを捨て去ることのできる状態にある、というキリストの救いを信じましょう。

 神様のなしてくださった御業を信じるのか信じないのか、神様の約束してくださったことを信じるのか信じないのかで、行動はガラッと変わります。

※罪は無力化されているので捨てることができる。
 
 そのように信じて罪に対抗するのです。抵抗するのです。罪を捨てるということを実行してみるのです。罪は無力化されています。思い切って手放しましょう。

【魂を救う事ができるみことばから知恵を得て、罪からの欲求を制する。】

 キリストの十字架はあなたの罪の律法の力を無力にする、という意味のみことばが聖書に沢山書かれてありまから、そういうみことばから知恵を得て、罪はもう私を虜にする力はないのだと、罪からの欲求をコントロールしていきましょう。

 
 識別分離の知恵として、皆さんの迷うこころをしっかりと定めて、解放されているという信仰から一歩一歩みことばの実践をチャレンジして頂きたいと思います。

【短歌】

善と悪  見分ける知恵は  みことばに

 貪欲制すは  十字架の愛

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年7月15〜17日 夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

主を求める人々の群れ  up 2023.7.17

Going His Way
〜神の道を選んで行こう〜


主題聖句(使徒15:16)
この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。





 

2023年7月15日(土) 
「リニューアル・アノインティング」

主題聖句(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

※造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る
【リニューアルの意味】
 もとのものに手を加えて新しくすること、一新すること

 主題聖句の「新しい人がますます新しくされること」も「リニューアル」です。信仰によって義とされた新しき人の成長は、「リニューアルされていくこと」とも言えます。
 
 私たちはイエス・キリストを信じた時、新しく創造されました。それまでは、神様ではないものを優先して生きていましたが、イエス・キリストを信じることによって、創造主である愛なる神を第一とする新しい人生を歩むようになりました。その後、今に至るまで、私たちはどれくらいリニューアルされてきたでしょうか。
 
 イエス様は、リニューアルの働きを風にたとえて、「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこからきてどこに行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」と言われました。ですから、私たちもリニューアルされても、その時はハッキリそうとは感じないかもしれません。しかし、いつのまにか、自分が造り変えられているということを、後で感じるのではないでしょうか。
 そういうことが今までに何度もあったという人も、一度もなかったという人も、今日は神様の働きを受け止めて、皆さんがリニューアルされる、そういう集会となるようにしていただきたいと思います。

(1)リニューアルのための信仰
(2コリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

※「すべてが新しくなった」と願うみことばへの信仰言動
 イエス様を信じた時に変化を強く心に感じた人は、「新しく造られた」ということを実感できます。しかし、そういう体験の薄い人は現在も「古いもの」(考え方や習慣)が残っているのを見て、「すべてが新しくなりました。」とは受け止めにくいかもしれません。

 しかし、神様が未来には完成させてくださるんだ、神様がすべてを新しく造り変えてくださるんだと、神様への信仰と信頼を強く持って、未来のゴールを確信して、クリスチャン生活を歩んでいくというのが、リニューアルのための信仰の基本です。

 すべてが新しくされるという未来のそのゴールは、私たちの肉体もイエス様の復活のからだと同じような、罪の宿っていない新しいからだに変えられるというゴールです。それはイエス様の再臨を待たねばなりませんが、そこに向かって私たちは、罪との葛藤をかかえつつも、内に宿ってくださる聖霊様により、一つ一つリニューアルされながら希望を持ってクリスチャン生活を歩んでいっているのです。
 
 (2コリント5:17)は、「すべてが新しくなった」と願うみことばへの信仰言動です。そのように信じ、告白して、古い考えや行動を捨てていくのです。本当に新しくなりたいのか、本当にキリストの姿のようになりたいのか、その願いがあなたの内にしっかり根ざしているのかが、信仰が働く大事なポイントです。

 新しく造りかえられていけば、目先の問題を突破する知恵と力が与えられます。しかし、目先のことにとらわれて、目先の苦しみをなんとか自分の努力で変えようとしていると、信仰が働きません。自分の思いや努力と、聖霊様が働きかけてくださるその働きとを、私たちは生きた神のみことばによって見分けることが必要です。

(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

※もはや私が生きているのではなく、キリストがうちに生きておられる

「キリストとともに十字架につけられました。」
 これは、洗礼式を通して実現いたします。洗礼式は二千年前のイエス様の死と葬りと復活に合わせられるというセレモニーです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
 私たちも洗礼を通して、まず魂が新しくされ、キリストの心と合わせられて、きよい生まれ変わった状態にあります。私たちの霊は赤ちゃんのように未熟な状態ですが、助け主なる聖霊様が賜物として私たちのうちにやってこられて私たちを大事に育ててくださるので、私たちは聖霊様に信頼して従っていくだけなのです。

「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 神様は私たちを愛してそこまでの犠牲を払って、私たちを造り変えたい、リニューアルしていきたいと願ってくださっておられます。その愛を信じて、必ずそうしてくださるという信仰をもって私たちは今、クリスチャン生活を歩み、成長させていただいています。これがリニューアルのための信仰です。

 親を信じている子は素直に親の言うことをききます。親に喜ばれることを楽しみにします。それがいやなことであっても、自分の未来に対して親が教えさとし躾をしてくださっているのだと親の愛を理解して忍耐します。自分のしたいことはその次にしようと判断できるようになります。そういう信頼関係が大事です。
 この二つのみことばも、守らなければと律法的に受け止めるのではなく、神が私を愛して私のリニューアルのためにこのことを語ってくださっているんだと思って、私もリニューアルしたいですと、愛によって応答するなら、みことばが律法的になることはありません。

(2)みことばへの望みと確信が
◎古き人から御霊の人へとリニューアルされていく
◎肉の行いから御霊の行いへとリニューアルされていく
◎みことばを実行し続ければ御霊の行いが現れてくる
◎御霊がみことば通りにリニューアルしてくださる

 みことばの実現を心から望み、神様は必ずその願いをかなえてくださるという神への確信により、私たちは古き人から御霊の人へ、肉の行いから御霊の行いへと、リニューアルされていきます。

 そして、みことばを実行し続ければ、御霊の9つの実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が必ず現れてきます。御霊があなたの内に住まわれて、あなたの赤ちゃんのような魂を育ててくださり、そして大きく成長した魂と御霊が一つになるとき、9つの実が、あなたの魂にもしっかりと存在していることがわかります。自分が努力して実を育てるのではありません。9つの実は初めから成熟した実として御霊とともに存在しているのです。それをしっかり悟ってください。

【リニューアルを受け入れる】
 Going His Way の信仰を告白し、イエスの御名によるバプテスマを受け、聖霊を賜物として受け取ること、これが最初のリニューアルを受け入れた新しい人生の歩みの始まりです。
※恵みと神を信じる心は神からの賜物である。だから、神から願いが与えられるまで祈り続ける。
(ピリピ2:13)
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、ことを行わせてくださるのです。」

 ノアは箱舟を作るように神様に言われて、完成するのに約百年かかりました。洪水どころか雨も降ったことがないような、そんな山の上に船を造って、どうするの?と、周囲から嘲りを受け続けて百年間、神様からの約束のおことばだけを信じて船を造り続けました。これが私たちの神への信仰です。

 あなたが抱く志や願いは神からのものかどうか、間違いなく神様からの志だと確信できるまで祈り続けることです。

 それがあなたの神の前における義とみなされるのです。神から与えられたと信じ続けてキリストの再臨まで信じ続けること、それを神様は義人のこころと見てくださいます。

 願いが神様から与えられたのに、なかなかそれが実現しない理由は、あなたの信仰が神の前に試されているのです。神が義と認めてくださる、そういう神への信仰、信頼を持っているのかどうか、もしくは持つようにと、リニューアルしてくださっているのです。

 今は願いやビジョンの実現の芽も出ていない状況かもしれませんが、神が与えてくださった願いやビジョンならば続けるべきです。その信仰が大事です。あきらめてはいけません。御霊様からくる信仰に励まされて聖霊の満たしを求めていきましょう。

2023年7月15日(土) 
「パワー・アノインティング」
主題聖句(1テサロニケ1:5)
「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」
※福音はことばだけによらず、力と聖霊と強い確信によって伝えられた
 ギリシャ哲学が盛んであった時代に、パウロ先生は、「キリストは私たちの救いのために十字架にかけられ、死んで葬られ三日目によみがえった」というイエス・キリストの救いの福音を伝えるために、ギリシャのアテネに入って行きましたが、論争ばかりで何も実を結ぶことが出来ませんでした。

 しかし、ギリシャの都市テサロニケでは、信者が多く起こされました。どうして福音が伝わったのでしょうか。それは、ことばだけでなく、その証拠としての御霊様の超自然的な働きが多くあったということです。その秘訣は何だったのでしょうか。

【パワーアノインティングの秘訣】
「強い確信」
 信じたことは実現するという信仰の法則があります。ですから、信じ続けて行い続けるという強い確信が大切です。
 聖書から3つ例をあげて、見てみましょう。

【例1】マタイ9:21〜22
「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と心のうちで考えていたからである。イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った。」
※『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』→望みを抱く→強い確信
 
 12年間、重い婦人病で悩まされて外も歩けないような女性が、イエス様のお着物にでも触れば直ると望みを抱いて信じて、群衆の中をイエス様に近づいていきました。

 望みを抱く、これが強い確信です。どのような妨げがあってもイエス様に望みを託す強い信仰により、一方的にイエス様から奇跡の力が流れ出て女性は癒されました。「あなたの信仰があなたを直したのです」とイエス様は仰いました。
 今日あなたが超自然的な力を受けたいと思うなら、強く「望みを抱く」ことです。

【例2】マタイ15:21〜28 
「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ち退かれた。すると、その地方のカナン人の女が出てきて、叫び声をあげていった。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。』しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て『あの女を返してやってください。叫びながらあとについてくるのです』と言ってイエスに願った。しかし、イエスは応えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところにはつかわされていません』と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った。すると、イエスは答えて、『子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。』と言われた。しかし、女は言った。『主よ。その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」

※「パンくずはいただきます」→あきらめない→強い確信
 どのように断られても、娘の救いのためにあきらめないで求め続ける態度、これが強い確信です。神様は憐れみ深い方だと教えておられるイエス様だから、ユダヤ人には人間扱いされない異邦人であっても私を憐れんでくださるに違いない、と母親のあきらめない理由はそこにありました。

 神の御声を聴いてビジョンが与えられたと思ったのに、うまくことが運ばず、あきらめるような理由や状況が目の前にいくつもある。そんな時、私たちは「これはみこころではないのかも」と思ってしまいます。しかし、見えるものに目をうばわれるのではなく、それでも目に見えない神様の約束を信じて求め続けることが大切です。

【例3】マルコ10:46〜52
「彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたに座っていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」

※上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がり→大きな喜び→強い確信
 目の不自由な彼は、群衆の後ろで叫んで叫んでやっと振り向いて貰えました。当時、軽んじられ無視されるのが障がい者の常でしたから、それはどれほどの喜びだったことでしょう。

 「神は無きに等しいものを選んで救いの中に導いてくださった」「キリストと出会うチャンスが与えられた、あの偶然は神様の御業だ」「神は私を見捨てておられなかった、覚えてくださっていたんだ」と、神様に愛されている喜びが、強い確信をもった信仰へとつながります。彼は声をかけられた時に、癒されることを確信したことでしょう。

 困難な時こそ内側に強い確信を持たせて頂けるチャンスなのです。困難な時には信仰が働きます。この罪の世界だからこそ、強い確信をもって神に近づく心がもたらされます。罪の世界に私たちが残されている意味はそこにあります。

【間違ってはならないこと】
【例1】(ルカ17:12〜19)
「ある村に入ると、十人のツァラートに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れたところに立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』」

※神の(癒しの)恵みは、からだのきよめ(癒し)が目的ではなく、魂のきよめが目的である。

 神に癒しを求めるのは神への信仰の現れです。しかし体が健康になっても、魂が不健康(不敬虔)のままだったらどうでしょうか。肉体は永遠ではありません。いつか必ず、死にます。神様を愛し敬う魂こそ、新しいからだが与えられて神様とともに永遠を生きることが出来ます。

 イエス様が肉体のいやしの奇跡を行われるのは、それがその人の魂の永遠の救いのためのしるしであるからです。特に神様をまだ知らない未信者の方には大事なことです。
 私たち信仰者も病気でいつ神様のもとに召されるかわからない状況ですが、私たち救われている者は病気が治ることよりも不敬虔な態度が残っていないか、不敬虔という汚れが私たちの魂、心に残っていないか、それに気づいてそれをきよめて頂くことの方がもっと大事なことだと思いませんか。

【例2】(使徒3:12、16)
「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。〜そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。』」

※人間的信仰ではなく、キリストから与えられる信仰
 あなたや私の信仰深さによって、御霊様が奇跡を行われるのではなく、イエスによって与えられる信仰が、聖霊様の超自然的な力の現れをもたらすのです。信じる心は神様から与えられないといけないのです。
 海の上を歩いたペテロは、イエス様から「来なさい」と声をかけられたので信じて歩きました。神が与えてくださる信仰が水の上を歩かせたのであって、ペテロにそういう力があったからではありません。

 神が声をかけてくださり、私たちもそのお声にすがります。神様の与えてくださった信仰は消えません。そういう信仰をめざすのが今回の聖会であり、今後に向けての第一歩です。

 神様が、聖霊様とみことばを通して、私たちに願いを起こさせ志を立てさせてくださった、という確証をしっかりと得るまでは、祈り求め続けましょう。奇跡が起きることより、魂がきよめられることが大切です。

【まとめ】 
(1コリント4:20)「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」
※神の国は、瞑想や黙想による悟りだけで実現できるものではなく、悟ったことが実態として現れてこそ実在するものである。

 「信仰は行いによって全うされる」と(ヤコブ2:22)に語られる通り、私たちの信じている神の国は、実によって証明されます。「互いに愛し合いなさい」というイエス様の与えてくださった新しい戒めを守る時、実が結ばれます。この隣人愛のみことばが実行される所に、神の国は実在するのです。愛し合うクリスチャンを見て、人々も天国が地上にあることを認めます。
 赦せない気持ちや自分は正しいと思いたい罪の気持ちが浮かんできても無視して、イエス様から頂いたみことばを守り行うこと、なぜなら、神のおことばだけが正しいからです。これが「Going His way」の秘訣です。 
 今日がスタートです。あなたに与えられたビジョンが神様からのものとして実現する、その確信を得るために、主に求める今日からがスタートです。あなたの未来はその強い確信によって左右されます。祈り求めていきましょう。
【短歌】

信仰は  人の思いに  よらずして

 キリストからの  賜物なりき

 

2023年7月16日(日) 
「ホーリー・アノインティング」
主題聖句(2テモテ2:20〜21)
「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
 きよいには2つの意味があります。
(1)神様が与えてくださるきよさ。イエス様の十字架の贖罪によって、神に属する者となったというきよさ。
(2)自分自身をそうじし、汚れを取り、神に属する者としてふさわしい者になるということ。
 
悪と汚れから離れ  自分自身をきよめて 
尊いことに使われる器となる

 「離れ」「きよめ」「器となる」が大切です。今日のテーマはホーリー、聖めです。神様から聖めという力の注ぎをうけるということです。
〈聖めを願う心〉
 ほとんどの人はこの心を持っています。自分の中にある悪を憎み、罪や汚れを取り除きたいという願いがあるのです。
 私は若い時、この心さえなければ好きなように自由に生きられるのにと思いました。しかし、どうしても悪に染まることができず、この心の葛藤から救い出してくれる神はいないのかと求めるに至りました。
このような仏教用語でいう煩悩からの救いを求める思いから世界に多くの宗教哲学が生まれたとも言えます。
 そして私は18歳最後の日にイエス様を信じることができたのです。
この聖めを願う心とは一体何でしょうか。私は聖書から知ることができました。是非皆さんにも悟っていただきたいと思います。

1)創世記1:27
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 すべてを造られた聖い神がおられます。この聖い神のかたちに創造されたので、人は聖さを本能的に求めるのです。

2)コロサイ3:10
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 クリスチャンは造り主のかたちに造り変えられたので、さらに聖くなることを求めます。
 しかし、世の中は多くの情報があふれていて、聖くなろうとする良い心を妨げてきます。

3)ローマ7:24
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
 これはパウロの告白です。罪の宿る肉と新しき人としての霊の間で心がゆさぶられるのです。クリスチャンは罪深い自分に苦しみ、罪の力に抵抗できない自分の弱さを感じ、みじめさを実感します。
しかし、そのみじめさを無視してはいけません。そのみじめさこそ、聖められたいという心の願いから出ているからです。この願いが救いの完成というゴールにいたる大切な動機となるのです。
パウロはその真理を内なる聖霊から教えられました。

4)1ペテロ2:19
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」
 神を畏れる心のゆえに、不当な苦しみをこらえるというのは、神が必ず正しく裁き、正してくださると信じ、裁き主は唯一神のみと認め、神の前に自分を低くし、聖くありたいと求めているからです。
 しかし、不信仰になると悲しみは怒りに変わり、自分で復讐するという罪を犯してしまいます。私たちの本心は聖くなりたいということです。

〈自分自身をきよめる〉
(ピリピ2:13)
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」
 神のみこころにかなう願いということが大切です。自分の願いを優先させるのとは違います。

1)各自に対する神の願いは、聖くあるという計画が実現すること
基本的な動機は聖くなりたいということです。ここから離れてはなりません。

2)聖めへの願い、志しは、神からのものであると強く確信すること
これは神からのおことばであり、神からの使命だという強い確信が聖霊さまからくるものです。
 広島を神が愛されるエルサレムに変えていくという教会に与えられたビジョンは、聖さを求める願いから出ています。この聖なる願いに

自分を当てはめていってください。

3)神から与えられた聖めへの願いは、必ず実現すると信じ続ける
ノアは箱舟を100年かけて作り続けました。しかも山の中であったゆえに周りの人々から嘲られました。
 私たちも時に周りの人達から嘲られることがあります。
 また、聖さを求め敏感になってくると小さなことも気がついて心を痛めることが増えてきます。しかし諦めずに続けていくなら、必ず実現します。聖霊さまが励ましてくださり、強めてくださるからです。

【デボーションポイント】
神から与えられた志しを持っているなら「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」を実感できる。
 古き人、肉では難しくて不可能に感じるでしょう。しかし、救われて新しい自分にリニューアルされていくなら善に親しむ楽しさ、 聖められる幸せが分かります。まだ結果が出ていなくても、その過程を楽しめるのです。聖めを求める心は私たちの存在そのものです。
(短歌)
聖と美を 願うこころは キリストと
同じ天資を 受け継ぐしるし

※イエス・キリストは神であられ、罪のない方であるのに私たちの罪の代価を払うために十字架で罰を受けられ、よみにくだり、三日目に復活されました。33年間一度も罪を犯されなかったという証明として、復活されたのです。このキリストの復活こそ、罪のない御方が私たちの罪を負ってくださったという証明です。
 
 罪のための贖いの代価を払われ復活されたのはキリストのみです。神は他のどの宗教も模倣し語ることを許されません。悪霊さえも真似できません。神が禁じておられるからです。
 人類の罪の救いを成し遂げてくださったのは、イエス・キリストのみです。

2023年7月17日(月) 
「異次元アノインティング」

主題聖句(コロサイ3:16)
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
 
 異次元アノインティングとはどういうことでしょうか。今まで持たれたどの集会よりも、さらに深く、聖霊を感じていける次元に入っていくということが聖霊から示されています。
 このみことばは、賛美だけでなく、聖霊からの導きと啓示によって与えられた知恵により教えられたことを、みなさんと分かち合っていくということです。
 
 また、互いに戒めとありますが、戒めはなかなか難しいものです。
忠告の仕方に気をつけないといけません。ことばを選んで相手の感情を傷つけないように、思いやりをもって戒めることが大切です。
これらの基本は「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」です。みことばが中心です。みことばの知識が必要です。

 この知識は経験、体験を通した知識です。みことばを内に豊かに住まわせるの住まわせるとは、生きているものが生活するということです。みことばが生きてあなたのうちに神の霊、聖霊がともに住んでくださるということですから、互いに影響しあい、分かち合い、協力しあって、平和にともに過ごすということです。
 
 神のご人格でありみことばである聖霊があなたの内に住まわれているのです。

〈異次元の油注ぎ〉
(1)詩篇133:1〜3
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
 アロンのひげに流れる油とは、大祭司や王の任命のときに注がれる、神様からの特別な任命のしるしとして注がれる油です。

 ユダヤの人々にとって、初代の大祭司としてアロンが受けた油注ぎは、民全体に注がれたようなもので、大きな祝福であり、神の特別な民と見ていただいているという喜びでした。
互いに交わりを持つことへの特別な次元の違う神からの祝福の油注ぎです。

(2)第1ヨハネ1:3
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 この教会の名前のもととなったみことばです。御父および御子イエス・キリストとの交わりには聖霊が含まれます。私たちの交わりは御霊とともに交わるということで、人間的なものとは異なります。人間的な交わりのように、ねたみや優劣を測るというようなことはありません。もしねたみの感情が起きたら、そこにあなたの肉である古き人が入ってしまっているということです。

〈油注ぎの交わり〉
(第1コリント14:26)
「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」
 神様からの聖霊による交わりは、すべて徳が高められる交わりです。
具体的な表れは、それぞれの人が賛美したり(霊歌など)、教えたり(互いに証しやメッセージなど)、黙示(幻や聖霊からくる映像など)、異言(集会の中で語られるものなど)解き明かし(異言を分かることばで訳する)です。
 大切なことは、私たちの霊、魂がイエス様の品性に近づいていくように徳が高められるということです。

(1)御霊の賜物による教会の建徳
(第1コリント14:12)
「あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」
 人の徳を高めるようなものを持ちたいと願いましょう。自分自身の存在を高めたいという願望は肉からきています。
自分ではなくて、自分を通して周りの人々の徳が高められよう求めることが聖霊の願いです。

(2)特に預言は教会の徳を高める
(第1コリント14:3〜4)
「ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。」
 たとえ奇跡やいやしが起こらなくても、徳が高められることの方が重要です。

【デボーションポイント】
(ガラテヤ5:25)「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
 「御霊によって生きるのなら」とは、私たちはイエス・キリストを死者からよみがえされた御霊によって生かされているということです。
洗礼とは、御霊によってキリストとともに死に、御霊によってキリストとともに自分がよみがえらされたということです。
 私たちは自分で生きているのではなく、御霊によって生かされています。神を愛する心を御霊によって与えられたのです。
 御霊が注がれることで、神の愛が自分に注がれるのです。人の愛は自己中心であり、神のきよい愛は持っていません。すべては御霊によります。
 
 御霊によって生きているとしっかり自覚しましょう。御霊の導きをしっかり確信することが大切です。強い確信を得るためには、得るまで祈り求め続けることが必要です。確信とは信仰です。その信仰も神からの賜物なのです。

御霊によってキリストと共によみがえらされたのだから、御霊に導かれる人生を選ぶ
(ローマ8:14)
 私たちは神の子であり、御霊に導かれているので、どちらが神の道かを選び取らないといけません。その見分け方は、あなた自身が神との関係で築き上げないといけません。
 
 パウロはその方法を書いていますが、あなたなりの神様との良い関係を築き、御霊に導かれるとはどういうことかを会得してください。
見分け方を求めてください。神は必ず答えてくださいます。

 異邦人の女性は娘の癒やしのために、侮辱と思える場面でも諦めず求め続けました。目の見えない男性も振り向いてもらえるまで叫び続けました。熱心に求めるなら、神は必ず教えてくださいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年7月9日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

義に飢え渇く者は幸いです  up 2023.7.9


主題聖句(マタイ5:6)
義に飢え渇く者は幸いです。
その人たちは満ち足りるからです。





 

 幸福の使信シリーズも5回目となりました。今回は"義に飢え渇く者は幸いです"となります。

 聖会一週間前に、このテーマが回ってくることは、主の導きのように感じます。私たちが何に渇き、何で満たされているのかを知ることで、聖会への良い臨み方ができるからです。

 まずは、義に飢え渇くとはどのような状態かを整理したいと思います。

 一般的に、飢え渇く状態は、空腹に苦しい状態を指します。空腹を満たし、苦しい状態から脱するために食料を求めるのが自然な動きです。

 それでは、義に飢え渇く状態はというと、真理を求めて心が苦しい状態を指します。唯一満たすことができるのは主だけですので、義に飢え渇く人は、自然と主を求めるということになります。

 心が苦しいときこそ、主との正しい関係を求め、御心に従うことをひたすら求める姿は、聖書の登場人物から見ることができます。

 例えばモーセは、民を導いてエジプトを脱出した後、その民から空腹による訴えを受けました。しかもその訴えは、出エジプトの後悔と神への不平でした。空腹はモーセも同じでしたが、モーセは主の御心をひたすら求め、その結果マナの奇蹟を体験するのでした。

 主を求めることを邪魔するものがあります。一つは空腹です。空腹を満たすために肉体が食料を欲するので、とても強い食欲が働きます。

 食事を得て食欲を満たすと肉体の満足が、体全体の満足と一緒になってしまい、主を求める渇きまでもが満たされたと錯覚してしまいがちです。

 しかし一方で断食は主に向くために一定の効果があります。それは、肉体の満足ではない、心と霊の満足に意識を向けることができるからです。大切なのは、主に満たされて満足することは、食料を得て空腹が満たされることとは違うものだということを知っておきましょう。

 また、この世の教えと快楽も主を求めることを妨げます。
 真理は聖書にしかないと知っている私たちクリスチャンでさえも、有名人のことばや、この世の楽しみで心を満たして満足してしまっています。

 怖いことに、偽物の聖書の教えも蔓延していることです。真理に似せた偽物に、私たちの知らないところで、実際多くの真理を求めている人が偽物を信じて心を満たしているのです。

(ヨハネ6:35)
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

 どんな食物でも、この世の教えでも、楽しみでも、私たちの満たすのは一時的だということです。イエス様自身がいのちのパンとなって、私たちに救いをもたらしてくださいました。この世の一時的な満たしに勝るいのちのパンの価値を再認識していきましょう。

 私たちを永遠に満たすことのできる方は主だけです。主を求めること、すなわち、主との正しい関係を望み、主の御心を理解し受け入れることで、私たちは真に満ち足りることができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年7月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

創造主から出た教え  up 2023.7.2


主題聖句(第1ヨハネ4:1〜3)
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。





 

 現在、宗教から哲学、諺にいたるまでこの世には無数の教えがある中で、天地万物をお造りになった神様からの教えは、どのように見分けたらよいでしょうか。

 私たちは神のおことばである聖書を基準として、世にある教えを取捨しながらクリスチャン生活を送っています。今日は、そのために持っておかなければならない一番大事な「創造主から出た教え」に焦点を当てて、それを確認していきたいと思います。


 たとえばスパイ防止の法律というものが多くの国にはあり、中国でもつい最近改定されましたが、しかし日本にはそういうものがありません。ですから日本ではスパイ活動はしたい放題で、違反(罪)に問われることもなければ裁き(罰)もない、というスパイ天国のような状態です。日本の貴重な機密情報はどんどん盗まれてしまいます。

 ルール(法律)は、すべての人が全体的に均等に幸せを得られるためにあり、他者に迷惑を及ぼす行為を禁じます。もしすべての行為にルールも裁きもないとすると、世の中はどうなるでしょうか。

 人間は生まれながらに罪を犯す性質をもっている罪人ですから、悪い方向に進む傾向を持っています。ですからルール(法律)があり、違反する者には裁き(罰)を与えて自粛させ、やりなおさせて、道徳的にも社会的にも平和と秩序を守れるようにしているわけです。

 しかし、現実には「なぜ?」と不満の残る裁きもあり、この世は不公平だ、と思わされることもよくあります。この世の法律や裁きでは正しく裁き切れない理不尽な社会なのです。

そこで、この世界の基を造られた創造主なる神様から出た教えの大事なポイントは何かを知っておくことが必要です。今日の主題聖句(第1ヨハネ4:1-3)からそれを見ていきましょう。
主題聖句(第1ヨハネ4:1-3)

「愛する者たち。霊だからと言って、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世にきているのです。」 

〇霊→ことば→教え

〇預言者→教えを主張する者

〇人となって来た→肉体を持った

〇イエス・キリスト→贖い主

 当時すでに、にせ預言者の色んな教えが世に出ていたようです。イエス様は「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と仰っておられました。それでヨハネも、ことばや教え、思想は「霊」であるから、その霊(教え)が聖書の神から出たものかどうか、クリスチャンはよく吟味しなさいと語っています。

 また、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」とも語っています。「人の肉体をもって世にお生まれになった神の御子イエス・キリストは、私たちの罪を贖う救い主である」と告白する霊(ことば・教え)は、みな神から出た霊(ことば・教え)であるということです。

◎人類の神に対する違反を、ご自身を代価として裁きを受けられた

 神様のルールに違反しても何の裁きもないのなら、聖書の教えは無意味で空しいものです。しかし、善には報いを、悪には罰を下されることによって、万物の秩序を保たれるのが神様の方法ですから、必ず違反を裁かれる日が来ます。

 神様に対するアダムの違反の時から、人類は神様よりも自分の欲っするところに従う罪の性質を受け継いできていますから、誰もがみな裁かれるべき罪の奴隷であります。

 しかし慈しみ深い神様は、人類が罪ゆえに皆さばかれ滅びることを望まれず、救い主を送って、裁きからの救いの道を用意してくださいました。それは、神の御子イエス・キリストご自身の罪のない血といのちを代価として、罪人の魂を贖うという十字架による救いの御業です。

 他の宗教もそうですが、キリスト教でも異端と呼ばれるものは、罪からの救いのためにキリストが「人となって」来られたということを告白しません。それらの教え(霊)は神から出たものではありません。

 神の御子キリストは全人類の罪のために、神から受けるべき人類への裁きを身代わりに受けて苦しんでくださいました。キリストはこの地上に人として来られて、人々の罪を赦すための代価として、十字架で血を流し、死んでくださった、これが聖書の神様(創造主なる神様)から出た教えの一番大事な部分です。

 聖書の神様は、人類が自己責任として皆滅んでもやむを得ないと割り切ることはなさらず、悪い者であっても滅びないでほしいと救い主キリストを遣わされて、創造主なる神様の慈しみ深い愛を現してくださったのです。

 人となって私たちのもとに来られて私たちの罪の贖いをされたキリストただ一人、この方あってこその私たちの救い、私たちの存在ですから、その感謝と尊さを心に満たして祈ることを覚えたいものです。

すべてキリストを通してでなければ、私たちは御前に何の良いものでもないことを悟らないといけません。善行や宗教的努力といった自分本位の信仰ではなく、へりくだってキリスト中心にクリスチャン生活を歩んでいくことを心がけていきましょう。

【デボーションノート】

◎創造主から出た教え

(へブル9:27−28)

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

〇死→違反者を拘束すること

 すべての人は罪人なので死後、黄泉に行きます。誰も逃げられません。


〇神の裁き→永遠においてただ一度

 そして永遠において只一度の神の裁きを受けます。生前の人生の最初から最後までの間に行った良いことも悪いこともすべてを神様は見られて、最後にただ一度の間違いのない公平な裁きをなさいます。

〇違反者への裁きの身代わり→赦し

 違反者への裁き(罰)は、すでにキリストが身代わりに受けてくださっておられます。キリストゆえに赦されている、それを信じる者は救われます。

<考えて頂きたいここと>

(1)死後に永遠の裁きがあること。

 これは創造主から出た教えの基本です。

(2)裁きから救うために神が遣わされた「人」となられた救い主イエス・キリストを告白する。

 これが創造主から出た大事な教えです。

 二千年前の歴史的存在であるイエス・キリストを信じ、そして神の御霊が私たちの内に住んでくださるという神様体験をすること、この歴史的事実と体験的事実によって、私たちは創造主なる神がおられることを信じて、キリストを信じる信仰をきちんと持つことができるのです。

 
【短歌】

創造主の  裁きと救い  もたらすは

人となられた  キリストなりき

創造主であり裁き主でもあられる神ご自身が、人々の救いのために人となってこの世に来てくださいました。それがイエス・キリストです。

感謝します。