■2023年8月27日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
義のために迫害されている者は幸いです up 2023.8.27
幸福の使信シリーズも、最後の8番目となりました。義のために迫害される者は幸いですとイエス様が語られたその真意を学んでいきたいと思います。 はじめに義について確認したいと思います。同じマタイ5章の20節にこう書いてあります。 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。 イエス様は、律法学者やパリサイ人の義よりもまさっていることを求めておられます。当時のユダヤ社会では、律法学者やパリサイ人は旧約の律法を守るよう教えており、また自身たちも律法を守る生活をしていたので、人々は義人と言われるのは律法学者たちだと思っていました。そんな律法学者たちよりも優れた生活をしないといけないと思った人々は、イエス様の話を聞いて驚きましたが、イエス様は律法学者たちの義について矛盾を説明されました。”人を殺してはならない”という律法を守ったとしても、心の中で人を悪く言うのは律法に反するとイエス様は説明されました。 神様の前に心砕いた生き方は、周囲に平和を与えていくと信じていますが、長い人生の中で、神様の愛を貫く生き方に異を唱える人はいるものです。また、この世の価値観に引き込もうとしてくる人もいるでしょう。それでも、私たちは、ブレない姿勢を示すことが大切です。それこそが義のために生きるということです。 (マタイ5:16) このみことばのように、周囲に良い影響を与える歩みを目指しましょう。それこそが、福音伝道なのですから。
■2023年8月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
嗣業(相続地)を守り通す up 2023.8.20
世の終わりがきて、神の前に立つ時、私たちがもっているものとは何でしょうか。 神を畏れ敬う生き方をするか、自己中心に生きるかで違ってきます。 クリスチャン生活は神が与えられた嗣業であり、相続地です。 〜良い行いをする神の作品〜 今年の目標であるみことばです。 〜クリスチャン人生は神の作品である〜 神の作品→神から与えられた嗣業 私たちは神の子として神からの財産を相続した人生がそれぞれに与えられています。 この相続した財産をどのように用いるかは自分自身の意志によります。その行いに応じて、神様は報いを与えてくださいます。 (民数記26:54) 出エジプト記でイスラエルの地は豊かで、野にある実で、何百万人もの人が養われていたとあります。カナンの地には、兵役に服せる男だけで60万人の人々が毎日食べる自然の果実が実っていたとあります。 しかし、そこを征服するためには敵との戦いがありました。 この罪を内に共に住んでくださる聖霊によって征服し、神の作品として良い行いをしていく嗣業の地として守る必要があります。 【デボーションポイント】 彼らは戦いさえすれば、武器が大したものがなくても、常に勝利しました。その戦いが神によったからです。神の導きによって戦い、勝利したのです。霊的な戦いもそうです。 (ヤコブ4:7) 悪魔に立ち向かうという姿勢さえあれば、勝利できます。 (ローマ8:3〜4) 罪の力は戒めであり、戒めを破る者を束縛する力です。しかし、すでにその罪の罰を受けてしまえば、その人をもう束縛することはできないのです。 イエスを信じる心がパスポート、切符ですから、求めるなら与えられ、神に従って悪魔に立ち向かえば、悪魔は逃げ去るしかありません。 (ヘブル3:12〜13) エジプトから出てきた民は不信仰によって約束の地に入ることができず、その子孫が入りました。 本当は悪魔に対抗し勝てるのに、罪の惑わしを受け入れてしまい、感情的に落ち込んだりして不信仰な心になってしまうなら、それが敗北の原因となります。 みことばを敵の都合のいいように解釈されないようにしましょう。 【短歌】 十字架で 無力化されし 罪なれば 立ち向うばかり 勝利確実
■2023年8月13日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
心のきよい者は幸いです up 2023.8.13
幸福の使信シリーズも7回目となりました。今回は心のきよさについて聖書から学んでいきましょう。 まず結論から申し上げます。人の心は汚れたものですが、主によって砕かれ変えられるなら、きよめられ、主の臨在を体験し、やがては顔と顔を合わせるようにして、神を見るようになるのです。 (ローマ12:1) ローマ書にはこのように書かれています。私たちの礼拝は、聖なる生きたささげ物であることが望まれます。なぜなら、それこそが主が喜ばれる礼拝だからです。主は聖なるお方で、たとえ私たち人に歩み寄ってくださったとしても、汚れを受けることの出来ない完全なるお方です。ですので、私たちが極力きよくあることを努力しないといけないのです。そしてそれはまず身近なところから始めることができます。 なぜ心のきよさが幸いなのかと言うと、心から汚れたものが出て来るからです。心から出て来る汚れた考えは、口から言葉となって人を汚すこともあれば、汚れた行動に移すこともあります。賛美と呪いは同じ口から出て来るとありますが、そのようなことがあってはならないとヤコブは教えています。私たちの信仰の歩みにおいて、自身の心を主にあって砕き、コントロールし、自制を働かせ、心をきよく保つことが大切なことなのです。 心のきよい者同士が集まり、交わる中に、主も臨在してくださいます。直接、主を視認することは出来ないかもしれませんが、主の愛と恵みを素直に感じ受け取ることができるようになりたいと思います。そのためにも、心がきよくあり続けることを意識する日々を送っていきましょう。
■2023年8月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
良い行いをするために救われた up 2023.8.6
今日のテーマのみことばは、絶対忘れてはならない基本のみことばです。知識として覚えてはいても、毎日の生活の中にそれを生かすことが出来ているか、クリスチャン信仰にとってとても大事なことです。行いのない信仰に終わることのないよう、実のあるクリスチャン生活にチャレンジしていただきたいと思います。 今年のテーマは「善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ」です。今年も半年以上が過ぎたのですが、改めてこの目標を思い起こして、善に親しむ楽しさを味わいながら、きよめられる日々の幸せをかみしめながら、キリストの再臨を迎えるという歩みを続けていただきたいと思います。 1)良い行いをするために救われた 今日の主題聖句(エペソ2:10)には、私たちがイエス様を信じて罪赦され救われることの目的が書かれてあります。 今年の初めに、新しく生まれ変わる(新創造される)というお話をいたしました。新創造されるまでは、罪を犯すことに多くの悩みや時間を費やしていたのですが、新創造されてからは善を行う楽しさに触れる機会が多くなっていきます。それは私たちが新創造された目的が、「良い行いをするため」だからです。 《救われて新しく造り変えられた人は、善に親しむことを喜びとし、きよめられる幸せを願っている》 皆さんは善に親しむ幸せを味わっておられますか。 日本人には、いつの間にか身についている親切な良い習慣というものがあるようです。 たとえば、バスや電車のホームで皆がきちんと並んで列を作り、乗る人も降りる人も順番を守っている様子や、高齢者や妊婦さん、子連れの方に席を譲るなど、外国人旅行者は日本人の道徳性の高さに一様に驚かれます。 親切な対応が多いお国柄として外国人旅行者には人気があるとのことです。 (エペソ2:10)から、私たちは「良い行いをするために救われた」ということを知ることが出来るのですが、そこに「私たちは神の作品だ」とも表現されているのはどういう意味でしょうか。 2)「作品」について ※芸術として意図を持って造られたもの ※技巧を駆使して美を創造し表現する 私たちは、自然に偶然に出来たものではありません。神様が目的と意図をもって創造されたという意味で「神の作品」と言われるのですが、作者は神様ですから、私たちは自分も他人も誰もが大変価値ある素晴らしい存在であることが理解することが出来ます。 《美の極みである神のかたちに人は創造された。美の極みとは、神のきよさである。》 ある障がい者施設の報告をビデオで見ました。十数人を受け入れることの出来る小さな施設ですが、すでに100人以上の入所希望者が待機されています。 知能障がいと機能障がいを併せ持つ重度の方一人に対して、お世話する職員さんは数人を必要とします。スタッフの人数不足は否めません。 しかし、それを重荷にして働く職員の人たちがおられるのです。そういう人たちが起こされるから不思議です。その人たちは利用者さんたちのことを「かわいい、愛らしい」と言われます。愛情が生まれてくるのです。そんな特別な心をいただいている人がいるのです。そういう働きに神様が召された人がいるのです。 また、寄付を集めたり、機材を提供する方たちもいて、皆で助け合って施設は運営されていきます。皆が同じ働きをするのではなく、神様が一人一人に思いを与え役割を与えられます。 皆が同じように出来るわけではありません。しかし、あのようには出来ないからと言って何もしないのではなく、では自分には何が出来るのかと考えて、親切の施しをしていく。その親切の施しが、神様は与える神であるという神様の美の極み、神のきよさを現しているのだと、今回捉えさせていただきました。 私たちは神の作品です。何らかの神様のお考えがあってあなたをお造りになりました。何らかのお考えをもって、あなたがどこかで働きをするように、神の栄光の一部を現す作品として今いのちをいただいて生きているのだと受け止めて、皆さんもチャレンジしていただければと思います。 【デボーションポイント】 (第1テサロニケ4:7) ※神の作品として、自分の存在価値に気付いているか? 神様は一人一人それぞれに意図されたものをお持ちですが、すべてのクリスチャンに共通して意図されていることもあります。それは、聖潔を得させるということです。聖潔を得させるために造られ存在し救われました。きよくなることは私たちの存在目的です。神の作品としての存在価値です。 「神の作品」という言葉で強調されていることは、創造主と造られたものとの関係です。この関係を無視したら、すべての目的も価値も空しく無意味です。 私たちは、聖潔を得させるという、美徳の完成に向けて、神様によって造られていっている芸術作品であることを覚えておきましょう。 (第1テサロニケ5:23-24) (エペソ4:32) このみことばをそのまま行ってください。そうすれば神様が仕上げてくださいます。 親切が出来なくても親切を施すことを考えてください。優しい人間じゃないけれど優しくなろう、と神様のことばに心を委ねてください。そうすれば聖霊があなたを優しくし、親切を施すことができる力を与えて、作品として仕上げていってくださいます。 私たちが赦せないものは一つもありません。なぜなら神は決して赦されない私たちの罪を、キリストを通して赦してくださったからです。神様が憐れんで赦してくださったのですから、私たちは憐れみを持って互いに赦し合うしか残された道はありません。 神様に出来ないことはありません、必ず造り変えてくださいます。その神への信頼、信仰により、助け主聖霊様があなたを「神の作品」として仕上げてくださるのです。
【短歌】 我を忘れ 自分勝手に 生きるなら 作品として 無価値なものに
■2023年7月30日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
あわれみ深い者は幸いです up 2023.7.30
今週は、マタイ5章7節より、あわれみ深い者は幸いであることを見ていきます。あわれみと訳されたヘブル語は、”胎”を意味する言葉の派生語と言われています。ですので、母が子を思う情愛の意味も含まれています。ギリシア語も、放蕩息子の父親や良きサマリヤ人の心を動かした心の動きに、あわれみを指す言葉が使われています。このように、人が人に対し抱く優しい心を働かせる者は幸いであると聖書は教えています。 まず、あわれみは、父なる神様のご性質であることを確認したいと思います。 神様のご性質として真っ先に挙げられているのがあわれみです。主はあわれみ深い神様なのです。 そんな私たちは、隣人に対してあわれみを示すことを期待されています。あわれみの根幹は、”かわいそうに思う”ことです。マウント取りの同情心ではなく、心に寄り添う同情心です。人として当然の心の動きに思いますが、実はなかなか出来そうで出来ないことかもしれません。聖書に多くの教訓を見ることができます。 (マタイ18:23−35)には、一万タラントゆるされたしもべの話があります。一万タラント(約6000億円)という多くの負債をゆるされたしもべは、100デナリ(約100万円)をゆるすことができませんでした。 (ルカ10:30−37)には、強盗に襲われて傷ついた旅人を介抱する良きサマリヤ人の話があります。同じ場所を通ったレビ人や祭司は見て見ぬふりをしましたが、当時差別を受けていたサマリヤ人が、助けるというところから、愛のわざに、国も権威も理由も不要であるということを教えられます。 いざ目の前にあわれみを示す場面が訪れたときに、私たちは咄嗟に愛のわざをすることができるでしょうか。色んな理由を付けて、避けてしまう弱さを持っているのも事実ですが、できるだけあわれみ深い神様に倣って、あわれみを示す者とありたいです。 そうすれば、あわれみ深い神様の究極のあわれみが現実となってわたしたちにおとずれるのです。 善行は、救いの根拠でありませんが、私たちが救われていることの証拠となります。つまり、救われている人は、自然と善行をするということです。その姿勢を見て神の愛によって救われていることがわかるのです。最終的には、天の御国、神の祝宴に迎え入れられる人とそうでない人に分けられるとき、この地上での、あわれみの示し方が大きく影響してくることは、聖書からも見てわかることですので、まず身近なところから、あわれみを示してまいりましょう。
■2023年7月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
識別分離の知恵 up 2023.7.23
今日の主題成句はとても厳しいおことばですが、その通りにせよと言われているのではありません。からだ全体(存在そのもの)が、ゲヘナ(罪のための永遠の裁きを受ける場所)に投げ込まれるより、一部の悪いところを捨ててでも、救われなさい、という教えです。 例えば、ウエディングドレスの一部に小さな汚れがついていたら、それは汚れたウエディングドレスと見なされて、着ることは出来ません。一部だから、少しだからいいだろう、ということにはなりません。 キリスト教はきよめの宗教で、罪の問題を重要視します。罪の力から解放されたきよい生活を教える宗教です。そして、神の愛と憐れみ、恵みによって赦していただけるという赦しの宗教でもあります。 日本には人情や仁義を良しとするような風土、文化があり、憐れみ、情け深さなどの情によって罪の問題をうやむやにして赦してしまう、識別分離しないところがあります。 被害者は損失を被っているのですから、加害者の罪を赦すためには、加害者の償い、犠牲、処罰が必要です。それを不問にして権威者が身勝手に人情的に丸く治めたのでは、被害者は報われず、我慢させられるだけの理不尽な人生になってしまいます。 罪は罰せられなくては消えません。赦されません。ですから、キリスト教の救いは、罪と罰がワンセットで、すべての罪をさばく神がおられる、そしてすべての罪のさばきから救う事のできる神がおられる、と二つのことを紹介しています。 クリスチャン生活の中でも、罪の誘惑に引っ張られて食べすぎたり遊びすぎたりして、右手や右目が罪を犯してしまうことがよくあります。悩ましいことです。そこで、からだの一部を取り除いてでも全身の救いへとつながるように識別分離しなさい、という意味で(マタイ5:29〜30)のみことばを取り上げました。 今日は、この「識別分離」を更に実現するために、「魂とからだの分離」ということを(ローマ7:20〜23)からメッセージさせて頂きます。 1)魂とからだの分離 (ローマ7:20〜23) ※敬虔な人=本音は善を求めている パウロ先生は神を畏れるユダヤ教徒でした。そしてキリスト教はユダヤ教の異端であると考えて、クリスチャンを迫害していました。それほどに熱心で敬虔な人でした。彼の本音は善を求めていたのです。私たちは善なる神様のかたちに似せて造られていますから、善を行って喜び、幸せを感じることは私たちの本質です。 ※からだには罪が宿り支配している 【魂のルールとからだのルールとは正反対であることから、魂とからだは別物と考えることができる】 行き過ぎた欲望を持つ心と自分は一つだと考えてはいけません。別物です。まずそれを識別してください。 魂は、欲求を健全に保とうとしています。しかし体には、欲求を湧き立たせるように操り誘惑してくる罪が存在しているので、自制できなくなり、行き過ぎた欲望を満たしてしまいます。体と魂は正反対の働きをしていますから、別物と考えることが出来ます。 そうであれば、知恵と作戦によって処置のしようがあります。 2)罪からの救いと解放 ※罪の支配権を無力にされた。 イエス様は私たちの罪を負って、十字架の上で私たちの代わりにさばきを受けてくださり、私たちが罪の償いをしなくていいように、さばきから救い出してくださいました。それは、私たちが罪を離れるためです。 私たちは罪の支配の中にいて罪から離れられない者でしたが、イエス様が私たちの罪の償い金、代価を支払ってくださいましたので、私たちはもう解放されて自由の身になりました。罪の元にとどまることも自由、新しくイエス様とともに生きるも自由、私たちの決断次第です。 ※魂のルールで生きることができる 【罪の働きによるからだの欲求に支配されていた魂は、立ち向かうことができるようになりました。】 イエス・キリストの十字架の真実を知ったことのゆえに、私たちは罪のルールに従う必要はなくなり、立ち向かうことも出来るようになりました。 欲求、怒り、ねたみ、つぶやきなど、私たちの陥りやすい罪は色々あります。失敗することもあるでしょう。それでも罪が私たちを虜にすることはありません。私たちは何度でもやりなおすことができます。 イエス・キリストの十字架の罪の贖いが実現したという救いの歴史的事実を信じて、神のかたちに新しく造り変えられた私たちの心、魂に意識を向けるとき、魂の赴くままに、善を行い楽しむ歩みを選んでいく、そういう意思決定を行うことが出来るのです。 これが健全なクリスチャンの状態です。 【デボーションポイント】 ◎識別分離の知恵(ヤコブ1:21) ※一番の汚れと悪とは、神への不信仰。 神様のなしてくださった御業を信じるのか信じないのか、神様の約束してくださったことを信じるのか信じないのかで、行動はガラッと変わります。 ※罪は無力化されているので捨てることができる。 【魂を救う事ができるみことばから知恵を得て、罪からの欲求を制する。】 キリストの十字架はあなたの罪の律法の力を無力にする、という意味のみことばが聖書に沢山書かれてありまから、そういうみことばから知恵を得て、罪はもう私を虜にする力はないのだと、罪からの欲求をコントロールしていきましょう。
【短歌】 善と悪 見分ける知恵は みことばに 貪欲制すは 十字架の愛
■2023年7月15〜17日 夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
主を求める人々の群れ up 2023.7.17 Going His Way
2023年7月15日(土) 主題聖句(コロサイ3:10) ※造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る 主題聖句の「新しい人がますます新しくされること」も「リニューアル」です。信仰によって義とされた新しき人の成長は、「リニューアルされていくこと」とも言えます。 (1)リニューアルのための信仰 ※「すべてが新しくなった」と願うみことばへの信仰言動 しかし、神様が未来には完成させてくださるんだ、神様がすべてを新しく造り変えてくださるんだと、神様への信仰と信頼を強く持って、未来のゴールを確信して、クリスチャン生活を歩んでいくというのが、リニューアルのための信仰の基本です。 すべてが新しくされるという未来のそのゴールは、私たちの肉体もイエス様の復活のからだと同じような、罪の宿っていない新しいからだに変えられるというゴールです。それはイエス様の再臨を待たねばなりませんが、そこに向かって私たちは、罪との葛藤をかかえつつも、内に宿ってくださる聖霊様により、一つ一つリニューアルされながら希望を持ってクリスチャン生活を歩んでいっているのです。 新しく造りかえられていけば、目先の問題を突破する知恵と力が与えられます。しかし、目先のことにとらわれて、目先の苦しみをなんとか自分の努力で変えようとしていると、信仰が働きません。自分の思いや努力と、聖霊様が働きかけてくださるその働きとを、私たちは生きた神のみことばによって見分けることが必要です。 (ガラテヤ2:20) ※もはや私が生きているのではなく、キリストがうちに生きておられる 「キリストとともに十字架につけられました。」 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 親を信じている子は素直に親の言うことをききます。親に喜ばれることを楽しみにします。それがいやなことであっても、自分の未来に対して親が教えさとし躾をしてくださっているのだと親の愛を理解して忍耐します。自分のしたいことはその次にしようと判断できるようになります。そういう信頼関係が大事です。 (2)みことばへの望みと確信が みことばの実現を心から望み、神様は必ずその願いをかなえてくださるという神への確信により、私たちは古き人から御霊の人へ、肉の行いから御霊の行いへと、リニューアルされていきます。 そして、みことばを実行し続ければ、御霊の9つの実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が必ず現れてきます。御霊があなたの内に住まわれて、あなたの赤ちゃんのような魂を育ててくださり、そして大きく成長した魂と御霊が一つになるとき、9つの実が、あなたの魂にもしっかりと存在していることがわかります。自分が努力して実を育てるのではありません。9つの実は初めから成熟した実として御霊とともに存在しているのです。それをしっかり悟ってください。 【リニューアルを受け入れる】 ノアは箱舟を作るように神様に言われて、完成するのに約百年かかりました。洪水どころか雨も降ったことがないような、そんな山の上に船を造って、どうするの?と、周囲から嘲りを受け続けて百年間、神様からの約束のおことばだけを信じて船を造り続けました。これが私たちの神への信仰です。 あなたが抱く志や願いは神からのものかどうか、間違いなく神様からの志だと確信できるまで祈り続けることです。 それがあなたの神の前における義とみなされるのです。神から与えられたと信じ続けてキリストの再臨まで信じ続けること、それを神様は義人のこころと見てくださいます。 願いが神様から与えられたのに、なかなかそれが実現しない理由は、あなたの信仰が神の前に試されているのです。神が義と認めてくださる、そういう神への信仰、信頼を持っているのかどうか、もしくは持つようにと、リニューアルしてくださっているのです。 今は願いやビジョンの実現の芽も出ていない状況かもしれませんが、神が与えてくださった願いやビジョンならば続けるべきです。その信仰が大事です。あきらめてはいけません。御霊様からくる信仰に励まされて聖霊の満たしを求めていきましょう。 2023年7月15日(土) しかし、ギリシャの都市テサロニケでは、信者が多く起こされました。どうして福音が伝わったのでしょうか。それは、ことばだけでなく、その証拠としての御霊様の超自然的な働きが多くあったということです。その秘訣は何だったのでしょうか。 【パワーアノインティングの秘訣】 【例1】マタイ9:21〜22 望みを抱く、これが強い確信です。どのような妨げがあってもイエス様に望みを託す強い信仰により、一方的にイエス様から奇跡の力が流れ出て女性は癒されました。「あなたの信仰があなたを直したのです」とイエス様は仰いました。 【例2】マタイ15:21〜28 ※「パンくずはいただきます」→あきらめない→強い確信 神の御声を聴いてビジョンが与えられたと思ったのに、うまくことが運ばず、あきらめるような理由や状況が目の前にいくつもある。そんな時、私たちは「これはみこころではないのかも」と思ってしまいます。しかし、見えるものに目をうばわれるのではなく、それでも目に見えない神様の約束を信じて求め続けることが大切です。 【例3】マルコ10:46〜52 ※上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がり→大きな喜び→強い確信 「神は無きに等しいものを選んで救いの中に導いてくださった」「キリストと出会うチャンスが与えられた、あの偶然は神様の御業だ」「神は私を見捨てておられなかった、覚えてくださっていたんだ」と、神様に愛されている喜びが、強い確信をもった信仰へとつながります。彼は声をかけられた時に、癒されることを確信したことでしょう。 困難な時こそ内側に強い確信を持たせて頂けるチャンスなのです。困難な時には信仰が働きます。この罪の世界だからこそ、強い確信をもって神に近づく心がもたらされます。罪の世界に私たちが残されている意味はそこにあります。 【間違ってはならないこと】 ※神の(癒しの)恵みは、からだのきよめ(癒し)が目的ではなく、魂のきよめが目的である。 神に癒しを求めるのは神への信仰の現れです。しかし体が健康になっても、魂が不健康(不敬虔)のままだったらどうでしょうか。肉体は永遠ではありません。いつか必ず、死にます。神様を愛し敬う魂こそ、新しいからだが与えられて神様とともに永遠を生きることが出来ます。 イエス様が肉体のいやしの奇跡を行われるのは、それがその人の魂の永遠の救いのためのしるしであるからです。特に神様をまだ知らない未信者の方には大事なことです。 【例2】(使徒3:12、16) ※人間的信仰ではなく、キリストから与えられる信仰 神が声をかけてくださり、私たちもそのお声にすがります。神様の与えてくださった信仰は消えません。そういう信仰をめざすのが今回の聖会であり、今後に向けての第一歩です。 神様が、聖霊様とみことばを通して、私たちに願いを起こさせ志を立てさせてくださった、という確証をしっかりと得るまでは、祈り求め続けましょう。奇跡が起きることより、魂がきよめられることが大切です。 【まとめ】 「信仰は行いによって全うされる」と(ヤコブ2:22)に語られる通り、私たちの信じている神の国は、実によって証明されます。「互いに愛し合いなさい」というイエス様の与えてくださった新しい戒めを守る時、実が結ばれます。この隣人愛のみことばが実行される所に、神の国は実在するのです。愛し合うクリスチャンを見て、人々も天国が地上にあることを認めます。 信仰は 人の思いに よらずして キリストからの 賜物なりき
2023年7月16日(日) 「離れ」「きよめ」「器となる」が大切です。今日のテーマはホーリー、聖めです。神様から聖めという力の注ぎをうけるということです。 1)創世記1:27 2)コロサイ3:10 3)ローマ7:24 4)1ペテロ2:19 〈自分自身をきよめる〉 1)各自に対する神の願いは、聖くあるという計画が実現すること 2)聖めへの願い、志しは、神からのものであると強く確信すること 自分を当てはめていってください。 3)神から与えられた聖めへの願いは、必ず実現すると信じ続ける 【デボーションポイント】 ※イエス・キリストは神であられ、罪のない方であるのに私たちの罪の代価を払うために十字架で罰を受けられ、よみにくだり、三日目に復活されました。33年間一度も罪を犯されなかったという証明として、復活されたのです。このキリストの復活こそ、罪のない御方が私たちの罪を負ってくださったという証明です。 2023年7月17日(月) 主題聖句(コロサイ3:16) この知識は経験、体験を通した知識です。みことばを内に豊かに住まわせるの住まわせるとは、生きているものが生活するということです。みことばが生きてあなたのうちに神の霊、聖霊がともに住んでくださるということですから、互いに影響しあい、分かち合い、協力しあって、平和にともに過ごすということです。 〈異次元の油注ぎ〉 ユダヤの人々にとって、初代の大祭司としてアロンが受けた油注ぎは、民全体に注がれたようなもので、大きな祝福であり、神の特別な民と見ていただいているという喜びでした。 (2)第1ヨハネ1:3 〈油注ぎの交わり〉 (1)御霊の賜物による教会の建徳 (2)特に預言は教会の徳を高める 【デボーションポイント】 御霊によってキリストと共によみがえらされたのだから、御霊に導かれる人生を選ぶ 異邦人の女性は娘の癒やしのために、侮辱と思える場面でも諦めず求め続けました。目の見えない男性も振り向いてもらえるまで叫び続けました。熱心に求めるなら、神は必ず教えてくださいます。
■2023年7月9日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
義に飢え渇く者は幸いです up 2023.7.9
幸福の使信シリーズも5回目となりました。今回は"義に飢え渇く者は幸いです"となります。 聖会一週間前に、このテーマが回ってくることは、主の導きのように感じます。私たちが何に渇き、何で満たされているのかを知ることで、聖会への良い臨み方ができるからです。 一般的に、飢え渇く状態は、空腹に苦しい状態を指します。空腹を満たし、苦しい状態から脱するために食料を求めるのが自然な動きです。 それでは、義に飢え渇く状態はというと、真理を求めて心が苦しい状態を指します。唯一満たすことができるのは主だけですので、義に飢え渇く人は、自然と主を求めるということになります。 心が苦しいときこそ、主との正しい関係を求め、御心に従うことをひたすら求める姿は、聖書の登場人物から見ることができます。 例えばモーセは、民を導いてエジプトを脱出した後、その民から空腹による訴えを受けました。しかもその訴えは、出エジプトの後悔と神への不平でした。空腹はモーセも同じでしたが、モーセは主の御心をひたすら求め、その結果マナの奇蹟を体験するのでした。 食事を得て食欲を満たすと肉体の満足が、体全体の満足と一緒になってしまい、主を求める渇きまでもが満たされたと錯覚してしまいがちです。 しかし一方で断食は主に向くために一定の効果があります。それは、肉体の満足ではない、心と霊の満足に意識を向けることができるからです。大切なのは、主に満たされて満足することは、食料を得て空腹が満たされることとは違うものだということを知っておきましょう。 また、この世の教えと快楽も主を求めることを妨げます。 怖いことに、偽物の聖書の教えも蔓延していることです。真理に似せた偽物に、私たちの知らないところで、実際多くの真理を求めている人が偽物を信じて心を満たしているのです。
■2023年7月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
創造主から出た教え up 2023.7.2
現在、宗教から哲学、諺にいたるまでこの世には無数の教えがある中で、天地万物をお造りになった神様からの教えは、どのように見分けたらよいでしょうか。 私たちは神のおことばである聖書を基準として、世にある教えを取捨しながらクリスチャン生活を送っています。今日は、そのために持っておかなければならない一番大事な「創造主から出た教え」に焦点を当てて、それを確認していきたいと思います。 ルール(法律)は、すべての人が全体的に均等に幸せを得られるためにあり、他者に迷惑を及ぼす行為を禁じます。もしすべての行為にルールも裁きもないとすると、世の中はどうなるでしょうか。 人間は生まれながらに罪を犯す性質をもっている罪人ですから、悪い方向に進む傾向を持っています。ですからルール(法律)があり、違反する者には裁き(罰)を与えて自粛させ、やりなおさせて、道徳的にも社会的にも平和と秩序を守れるようにしているわけです。 しかし、現実には「なぜ?」と不満の残る裁きもあり、この世は不公平だ、と思わされることもよくあります。この世の法律や裁きでは正しく裁き切れない理不尽な社会なのです。 そこで、この世界の基を造られた創造主なる神様から出た教えの大事なポイントは何かを知っておくことが必要です。今日の主題聖句(第1ヨハネ4:1-3)からそれを見ていきましょう。 「愛する者たち。霊だからと言って、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出てきたからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世にきているのです。」
〇霊→ことば→教え 〇預言者→教えを主張する者 〇人となって来た→肉体を持った 〇イエス・キリスト→贖い主
当時すでに、にせ預言者の色んな教えが世に出ていたようです。イエス様は「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と仰っておられました。それでヨハネも、ことばや教え、思想は「霊」であるから、その霊(教え)が聖書の神から出たものかどうか、クリスチャンはよく吟味しなさいと語っています。 また、「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです」とも語っています。「人の肉体をもって世にお生まれになった神の御子イエス・キリストは、私たちの罪を贖う救い主である」と告白する霊(ことば・教え)は、みな神から出た霊(ことば・教え)であるということです。 ◎人類の神に対する違反を、ご自身を代価として裁きを受けられた 神様のルールに違反しても何の裁きもないのなら、聖書の教えは無意味で空しいものです。しかし、善には報いを、悪には罰を下されることによって、万物の秩序を保たれるのが神様の方法ですから、必ず違反を裁かれる日が来ます。 神様に対するアダムの違反の時から、人類は神様よりも自分の欲っするところに従う罪の性質を受け継いできていますから、誰もがみな裁かれるべき罪の奴隷であります。 しかし慈しみ深い神様は、人類が罪ゆえに皆さばかれ滅びることを望まれず、救い主を送って、裁きからの救いの道を用意してくださいました。それは、神の御子イエス・キリストご自身の罪のない血といのちを代価として、罪人の魂を贖うという十字架による救いの御業です。 他の宗教もそうですが、キリスト教でも異端と呼ばれるものは、罪からの救いのためにキリストが「人となって」来られたということを告白しません。それらの教え(霊)は神から出たものではありません。 神の御子キリストは全人類の罪のために、神から受けるべき人類への裁きを身代わりに受けて苦しんでくださいました。キリストはこの地上に人として来られて、人々の罪を赦すための代価として、十字架で血を流し、死んでくださった、これが聖書の神様(創造主なる神様)から出た教えの一番大事な部分です。 聖書の神様は、人類が自己責任として皆滅んでもやむを得ないと割り切ることはなさらず、悪い者であっても滅びないでほしいと救い主キリストを遣わされて、創造主なる神様の慈しみ深い愛を現してくださったのです。 人となって私たちのもとに来られて私たちの罪の贖いをされたキリストただ一人、この方あってこその私たちの救い、私たちの存在ですから、その感謝と尊さを心に満たして祈ることを覚えたいものです。 すべてキリストを通してでなければ、私たちは御前に何の良いものでもないことを悟らないといけません。善行や宗教的努力といった自分本位の信仰ではなく、へりくだってキリスト中心にクリスチャン生活を歩んでいくことを心がけていきましょう。
【デボーションノート】 ◎創造主から出た教え (へブル9:27−28) 「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」
〇死→違反者を拘束すること すべての人は罪人なので死後、黄泉に行きます。誰も逃げられません。 そして永遠において只一度の神の裁きを受けます。生前の人生の最初から最後までの間に行った良いことも悪いこともすべてを神様は見られて、最後にただ一度の間違いのない公平な裁きをなさいます。 〇違反者への裁きの身代わり→赦し 違反者への裁き(罰)は、すでにキリストが身代わりに受けてくださっておられます。キリストゆえに赦されている、それを信じる者は救われます。
<考えて頂きたいここと> (1)死後に永遠の裁きがあること。 これは創造主から出た教えの基本です。 (2)裁きから救うために神が遣わされた「人」となられた救い主イエス・キリストを告白する。 これが創造主から出た大事な教えです。
二千年前の歴史的存在であるイエス・キリストを信じ、そして神の御霊が私たちの内に住んでくださるという神様体験をすること、この歴史的事実と体験的事実によって、私たちは創造主なる神がおられることを信じて、キリストを信じる信仰をきちんと持つことができるのです。 創造主の 裁きと救い もたらすは 人となられた キリストなりき 創造主であり裁き主でもあられる神ご自身が、人々の救いのために人となってこの世に来てくださいました。それがイエス・キリストです。 感謝します。
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