■2023年6月25日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
柔和な者は幸いです up 2023.6.25
柔和を辞書で調べると、優しく穏やかなさま、もの柔らかな態度、とあります。さらに聖書が言う柔和な者とは、神により頼む故に自己主張から解放された者を言います。人が優しく、もの柔らかな態度になれるのは、心に余裕ができる時が多いです。私たち信仰者にとって、神に信頼することは基本姿勢にありますが、時には自分の力や世の力に頼ってしまうことがあります。それで物事を解決することもできますが、心に余裕がなくなり、柔和どころか、粗暴な態度を取ってしまうことを私自身よく経験します。 隣にいる人が、優しい人と横暴な人だと、どちらが良いですか?当然優しい人に決まっています。私たちも隣人にとって優しい人でありたいですね。その優しさの根本は、神により頼む姿勢であるということ大切にしていきましょう。 また、柔和とは、柔弱ということではありません。神により頼む人は、真の強さを与えられます。それは、自己主張より相手に心を傾けることを選ぶという強さです。柔和の模範はイエス様です。十字架の死に敢然と向かう姿勢は、その時の痛み苦しみからの開放よりも、最後まで私たちの罪の赦しをとりなす姿勢と、父なる神のみこころを果たす使命感に満ちておられました。イエス様は優しさと強さを兼ね備えておられるのです。 柔和な者が幸いな理由は、地を受け継ぐからとあります。地とは神の御国ですので、この約束が成就するのはまだ先の話ですが、柔和な者は神から多くのものを託されます。神に信頼する生き方をする者に、神は多くのものを預けようとするのは、預けたものを生かすことができるとお考えになられるからです。この地上でも、信頼できる部下に上司は多くのことを任せるのと同じです。私たちは、主である神から託されるという喜びと、主に応えたいという信仰に目を向ける歩みを心がけていきましょう。 どんな時でも父なる神との交わりを保ち、イエス様がこの地上でいつも心優しく、穏やかにしておられたのを模範とし、隣人との関係を築いていく一週間としていきましょう。
■2023年6月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死後のさばき up 2023.6.18
先週は突然「死後に備える」というメッセージをしました。誰も死から逃れることはできません。 死後の世界があるということを、信じない人にも、同様に死は訪れます。 (伝道者の書12:14) 彼はその富と力と知恵を用いて、人生で色々なチャレンジをしました。その結果、彼は人生はなんと虚しいのだろう、神がおられ、神が中心であるこの世にあっては、いくら自己中心にできる限りのことを何もかもしたとしても、結局は神を畏れ、神に従うことが人生の最善であると知ったのです。 彼は神を知っていながら神を否定して背いて人生を送りましたが、彼が行き着いた答えは「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる。」でした。 こういう経験をした人の知恵を聞いて、同じ失敗をしないようにすることが大切です。ソロモン王は箴言に知恵のことばを語っています。 ー偉大な知恵者の悟りー どの宗教を選ぶのも自由です。しかし罪の赦しを計画し実行された方はイエス・キリスト以外は歴史上誰も存在しないのです。 すべてをさばかれる創造主の存在を認めざるをえないことを悟ったことが、知恵者の悟りなのです。 信じるか信じないかで生きる方向は変わり、死後さえも変わるということを聖書は語っています。 神がいることは認めるが神に従わないと主張する人は悟ってはいません。悟った人には必ず敬虔な姿勢が表れてくるからです。 高慢→すべての存在の基準を自分とする心 今、欧米で様々な問題が起きています。 セルフレジが設置されてから、盗みが増えたということです。イギリスではなんと3人に1人がレジを通さず支払いせずに持って帰るという統計が出たそうです。3年前の被害額が約3億円以上でたそうです。 イギリスでは8千円以下の被害では軽犯罪で警察は動かないそうです。それで、コロナになってからは、余計に窃盗、万引きが増えているのです。 さらにアメリカでは銃が自由に持てるので、窃盗、万引きも銃をもってやるので、止められません。 カリフォルニア州の法律では9万円以下の窃盗では警察は動かないので、店主も銃を持たないとやっていけないそうです。 正しくさばかれないと、社会秩序が乱れて平和がなくなるということです。 もしさばきがなかったなら、あなたは人生をどのように送るでしょうか。死んでも何もないとなれば、隠れて悪いことをしても平気になるでしょう。 人はさばきがなければ、自己満足だけを求める人生を送るようになります。聖書では、それを罪の奴隷と言っています。 しかし、神はすべての隠れた罪をさばかれると言われています。神のさばきは永遠に一度だけだと聖書にしるされています。懲らしめはしても、その都度、いちいちはさばかれません。しかし、一度だけすべての罪が裁かれる時がきます。それが世の終わりであり、キリストの再臨の時です。 それまでは神は全世界の全時代の人々を見ておられます。 【デボーションポイント】 このみことばは神の赦しの目的を表しています。善を行いたくても罪を犯してしまうという自分の弱さに嘆き、心が砕かれている人々を永遠に御もとに置きたいという神の願いが、十字架で支払われたキリストの代価なのです。 キリストが現れる前4千年の間多くの預言者が預言し、証ししてきたことが2千年前に、イエス・キリストの十字架で歴史の上に表されました。そして、その後の2千年間でキリスト教が権威をもってどんなに悪行を行ってきたか、恥ずべきことです。 しかし、その数々の悪行を知っていますが、私はキリストを信じています。本当のクリスチャンは神を畏れ、善を求めて生きるはずだからです。 その心がない人は見せかけのクリスチャンで本物のクリスチャンとは言えません。 罪を犯してしまう自分に嘆き、心から善を行いたいと願う、そういう人々のために神は手を差し伸べておられるのです。これがキリストの贖いであり、救いです。良い報いを与えてくださいます。 それを信じているので、地上でいくら迫害され苦しめられても、諦めずに善を行うことを求め、きよめられることを喜ぶのです。 善良な人は自分の正しさを主張しません。自分の心を正しく見て、いつも悔い改められます。 失望しないでいましょう。いつ死が訪れるかは分かりません。しかし神は必ず正しくさばいてくださいます。 (短歌)
■2023年6月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死後に備えよ up 2023.6.11
クリスチャンは死後があることを信じていますが、死後に備えた今日を生きるということを、どこまで心掛けているでしょうか。 体が死んで魂はどうなるのか、それを私たちはイエス様のおことば、聖書から教えられている以上、それを事実として受け止めて、備えていくことが大切です。 今日の主題成句の「伝道者の書」を記したソロモン王は、天地創造の神様から直接語りかけられ、イスラエルを治めるための知恵を神様に願い求め、そして与えられたという三代目の王様、歴史的にも有名な知恵者です。 しかし、そのように神様の御声を聞き、その存在を体験していたのに、彼は途中から、自分の欲望を通すという道に進みました。それに対して神様は2度も直接忠告を与えられましたが、それでも敢えて自分の道を選んだという、そういう中で彼自身によって書かれたのが、この「伝道者の書」です。 ですから、(伝道者の書9:2)から読み取れることは、知恵者ソロモン王が、神様への信仰を持ちながら、神様ではなく自分を中心に物事を見た彼の主観が書かれてあるということ、そしてもう一つは、誰にも避けられない事実として「死」があるということです。 先日、ある姉妹のお義母様が病院で滴礼を受けられました。その時「これで安心して行けるところが定まった」と言われました。死んでどこに行くのかわからないという不安があられたのでしょう。 姉妹からご主人に、そしてご主人からお母様に、「イエス様を信じて洗礼を受けたら大丈夫」と勧められ、お義母様はそれを受け止めて洗礼を受けられ、今は安心して神様に引き上げられる日を待って過ごされているとのことです。 誰しも死後を考えると不安になります。「死」について、考えても分からないから考えない、という人も多いでしょうが、真剣に考えなくてはいけないことでもあります。 今日は、「死に備える」のではなく、「死後に備える」、すなわち、「死後、どうなるのか」について心を向けて考えて頂きたいと思います。 1.死後を考えない人生 (1)死ねば存在そのものが消滅する。 (2)自分で自分の人生を評価する。 (3)自己満足・自己達成を目指す。 (4)自分の存在がすべての評価基準。 永遠を考えない人は神についても考えません。神を否定する人は永遠をも否定します。永遠なる神を信じない人は、死ねば存在そのものが消滅する、と考えます。 そして、死後を考えない人は、自分で自分の人生を評価しますから、自己満足や自己達成を目指していきます。自分の存在が、すべての評価基準となります。 そして、自分を中心にして物事を見たソロモン王の結論のように、「すべては空しい」となります。
<神の存在を否定する不敬虔な者> 神を信じ死後を考える人と、神を知らないで死後を考えない人が論争しても、折り合うところはありません。また、互いに論争論破する必要もありません。 クリスチャンは神様の存在を信じているのですから、自分の死後の状況をよく考えて、今日という一日を無駄にせずに、神様が創造された目的に従って明日に向かって歩むようにすべきです。 それでは聖書には死後の状態についてどのように教えているでしょうか。 2.聖書にある死後について ここでは、人の命も動物の命も死んだら皆同じで、「すべてはむなしい」と語られています。 しかし聖書は、人は神に似せて造られた、そして神の息が吹き込まれて生きる者となった、と教えています。動物とは全く次元の異なる生命体です。大きな違いは言葉を使ってコミュニケーションを行い、創造的な活動を行うことです。 そしてまた、人も動物も肉体は同じように死にますが、死後の裁きがあるのは人間だけです。 動物が死後、神の裁きを受けることはありません。しかし、人間は死後、神の裁きを受けることが決まっています。なぜなら、人間は動物にはない自由意志を神様から与えられており、その自由意志をどのように用いたかが問われるからです。それは自由意志を与えた主権者、神様のルールです。良いことをすれば報いがあり、悪いことには罰が与えられます。 (3)第一の復活(黙示録20:6) (4)第二の死(黙示録20:12-15) <永遠を決定する神の裁き> 【デボーションノート】 「未来」というのは肉体の死の後にある世界のことです。その未来に対して、この地上の人生は、「まことのいのち」を得るための良い基礎を築く時間です。 ★まことのいのち?神の国を相続する 神様の前に裁きを受けた時に、神の国の相続者として第一の復活にあずかった人は、幸いな人です。そのことのために、未来に備えて良い基礎を築きあげるようにというのが、クリスチャンのこの世の人生に対する考え方です。 <良い基礎とは何かを考えてみよう。> (永遠にあなたの存在を支えるもの)
【短歌】 永遠を 信じなくても 信じても 死後の世界は 存在する
永遠への良い基礎作りの毎日を歩んでまいりましょう。
■2023年6月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神の目の前に生きる up 2023.6.4
現代は、幸せもお金で買えるとばかりに、誰もが稼ぐこと、貯めることに励む世の中です。しかし聖書は、人間の本当の幸せは悪から遠ざかって善を行うことだ、と教えています。 ですから私たちは善に親しむことの楽しみ、聖められることの幸せを満喫しようという目標のもとに、今年も5か月を過ごしてきたわけです。 今日の主題成句には、「主の目は義人の上に注がれ」とあります。キリストを信じて義とされた者には、主の目がいつも注がれています。私たちは、神の目の前に生きる者です。 それは、悪いことをしていないかと見張られている、という意味ではありません。イエス・キリストを通して神様は、愛とあわれみ、慈しみの目をもって私たちを見てくださっています。そのまなざしの中で、悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めていきましょう、というのが今週の目標です。 (1)神様から注目されている (イザヤ43:4) ◎神の目に高価で尊いと映っている ◎神に愛されている ◎神にとって特別な存在 <神の自由意志による選び> (マラキ1:2) ここに神様の自由意志による「選び」というものがあります。何にも束縛されず何にも支配されない唯一完全な創造主、主権者なる神様だからこそ出来る、絶対間違いのない「選び」です。 (2)神様に愛されているのだから (ローマ14:17−19) ◎神の国の民としての自覚 ◎神に喜ばれ、人に認められる者 ◎お互いの霊的成長を追い求める <御霊の実による一致を熱心に保つ> (エペソ4:3) 私たちは神様に愛されている神の国の民ですから、神の国の素晴らしさに生き、その中でお互いの霊的成長を追い求めながら、未来へと歩みを進めていきます。 そのために、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」この御霊の9つの実によって、一致を熱心に保つことを勧められています。 御霊の結ぶ実による一致のある所には、決して争いや戦いはありません。平和のきずなで結ばれているからです。 【デボーションポイント】 (1)平和を妨げる原因(ヤコブ4:1) ◎からだの中の欲望?肉に宿る罪 (2)平和の力 (使徒1:4,5,8) ◎聖霊にバプテスマされる 聖霊のバプテスマを受けると、御霊の実が宿ります。 そして、聖霊の注ぎとは「力」の注ぎです。罪の宿る肉体から9つの実が解放されるためには、この「力」が必要です。その「力」を通して、私たちはキリストの証人として生きることが出来ます。 キリストの証人とは、御霊の9つの実が現れることです。 御霊の力は、聖霊にバプテスマされることです。平和の力は、聖霊にバプテスマされて御霊の実が現れてくるということです。御霊の実を、聖霊のバプテスマを通して解放させなさい、ということなのです。 9つの実は全部がそろって一つとなって、「赦すこと、愛すること」を可能にします。「愛」は、9つの実が宿り、また聖霊にバプテス 救われていないのではありません。救われていますが、9つの実が解放されているか、いないか、ということを理解してください。 聖霊を求めましょう。聖霊にバプテスマされましょう。聖霊に満たされましょう。そして9つの実がキリストの証となるような生活、キリストを証しする人生に進んでいきましょう。 (ローマ8:11) 御霊が住んでおられるなら、肉に宿る罪よりも聖霊様のほうが勝っているので、罪によって死ぬべき肉体も、御霊の9つの実によって生かすことが出来ます。 悔い改めて、イエスの名によってバプテスマを受ける者には賜物として聖霊が与えられるという約束があります。イエス様を信じて洗礼を受けたのですから、聖霊は与えられているのです。9つの実も、内に存在しているのです。約束なのですから信じて感謝して受け取りましょう。 そして聖霊に満たされ、聖霊の力によって、9つの実を解放されましょう。聖会に向けてそれを望んでいきましょう。約束ですから、神様は私たちが信じて望むことを実現してくださいます。
【短歌】 あらそわず 比較しないで 主を見上げ 御霊の注ぎで 平和を保つ
■2023年5月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神の霊によって生きる up 2023.5.28
今日はペンテコステの日です。7月には聖会が持たれます。聖会が特別な三日間となるために、今日のペンテコステの日から、皆さんに備えをしていただきたいという気持ちで、主に求めることをお勧めさせていただくようにメッセージを進めていこうと思っています。 まず、今日までの御霊についてのお勧めを復習致しましょう。 ★神の霊によって生きる(創世記2:7より) ★御霊の注ぎを受ける(ヨハネ7:37-39より) 以上が前回までのポイントです。私たちは肉体を養うために一生懸命水を飲み、食物を頂きますが、魂を養うための水と食物には無関心になっていないでしょうか。魂が死ぬることのないように、今日は「賜物として聖霊を受け取る」と題して、お勧めをさせて頂きます。 ★「賜物として聖霊を受け取る」(使徒2:38) ★聖霊を受ける大切さ ●心に信じたしるしが聖霊 ●御国の相続人であることを保証 (2)心の割礼(ローマ2:28-29) ●ユダヤ人=神が選ばれた御国の民 ●割礼=信仰による義の見える証し ※新生と義認の見えるしるしが御霊の実 ★聖霊の実と肉の行い ※御霊が宿れば9つの実が存在する ★父なる神の約束であるキリストの証人としての聖霊のバプテスマを受ける(使徒1:4,5,8) ●賜物である御霊は神の約束である ●証人としての必要な力が注がれるための聖霊のバプテスマ ●肉に宿る罪の働きを打ち砕く力としての聖霊様の注ぎ ※聖霊の9つの実が肉にまでおよぶキリストの姿を表す聖霊のバプテスマ 【デボーションノート】 (1)永遠に対する無関心(不敬虔な態度) (2)必要度が低い (3)心が聖霊以外で満たされている ◎今が主を求める時(ホセア10:12) ※互いに赦し合うことが、御霊の実の見えるしるしとなる。 【短歌】 神様の愛、イエス様を信じて心を開けば、賜物として聖霊を受けることが出来ます。聖霊は神の恵みです。
■2023年5月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
平和をつくる者は幸いです up 2023.5.21
5月18日から広島でG7サミットが行われています。アメリカを筆頭に先進国の首脳が集まり、今回はウクライナの大統領も参加することになり、とても歴史的なサミットになっています。教会の近くですごいことが起こっていることに、興奮しております。そのサミットでは、平和についても話し合われていることでしょう。 聖書は、平和をつくる者は幸いです。とあります。今日は平和について聖書から見ていきましょう。
■2023年5月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊の注ぎを受ける up 2023.5.14
(ヨハネ7:37-39)が語られた時は、イエス様が十字架による救いの御業を完成される前でしたので、「まだ栄光を受けておれなかった」と、表現されています。 しかし今は、キリストの死と葬りと復活が実現して、御霊が人々の内に住まわれる、という神の約束が成就していますので、誰でもキリストに求める者は、内側に生ける水を持つことが出来ます。 今日の主題聖句(ヨハネ7:37-39)で注目したいことは、御霊のことを「水」のように表現されていることです。 先週は「みことばを食する」というお話でした。食物が十分でなくては働く力が出てきませんが、食物以前に水分が十分摂取できていなくては命にかかわります。食物(みことば)と水(聖霊)は、体(いのち)にとって切り離すことのできない大事なものです。 今日は、水が動植物には欠かせないものであるように、水に喩えられた「御霊」も人にとって欠かせないものであることをお話ししてまいります。 ◎「水」の重要な働き (ヨハネ6:63) 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、またいのちです。」 (1)いのちを与えるのは「御霊」 ★からだの60%は水である 水はものを溶かす力があります。掃除や洗濯のときには、こびりついた汚れを水が溶かして離れさせます。 そして水には「運搬、吸収」という重要な働きがあります。必要な栄養素が吸収されやすいように、水(血液)に溶けたものが血管を通って各器官の各細胞60兆個の所に運ばれ吸収されていきます。素晴らしい水の働きです。 ※御霊は、水の働きのように私たちの生命維持の中心である。 見えないので分かりにくいのが御霊様の存在と働きです。教会によっては、聖霊の教えをあまり重要視しないこともあります。 しかし、神様が御霊様のことを「飲みなさい」「いのちの水の川」「注ぐ」と表現されているということは、御霊様が「水」のように重要なものであることを、私たちが理解できるように表してくださったのではないでしょうか。 (2)御霊の9つの実 (ガラテヤ5:22-23) 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」 昔より寛容になった、親切になった、自制出来るようになった、恨んだり、ねたんだり、さばいたりすることが少なくなった・・・など、御霊を受けている人は、そのような御霊の実という結果を自分のクリスチャン生活の中に見ることができます。御霊が実を結んでくださるからです。 神様は、私たちの内に御霊がおられることはご存知ですが、ブドウの木のたとえにありますように、実を結ばない枝は切り落とされてしまいます。イチジクの木も葉っぱばかりで実がないとき、イエス様はその木を呪われました。御霊が結ぶ実なのであって、私たちが努力して結ぶ実ではないのです。 ★9つの実によっていのちが保たれる 聖霊の実によって、私たちは水のように魂・霊にいのちが得られて、それを保つことができます。9つの実が実っていくことによって私たちはいのちが豊かになっていきます。 ★9つの実によって良心を清める (へブル9:14) 「まして、キリストが傷の無いご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」 御霊によって私たちは清められます。9つの実によって私たちのこころが清くされ、御霊の実が豊かに実るということが私たちに実現します。 ★9つの実によって心を潤す (イザヤ44:3) 「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、私の霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」 どんなに渇いているこころも、神様の注がれる聖霊の水によって生き返り、豊かになり、外にあふれ流れていくほどに、生き生きとした魂に変えられます。 魂は肉の器の中にありますから、葛藤はさけられません。しかし、いのちの水が注がれているのですから、勝利できます。 戦い続け、潤いを持ち続け、9つの実ができることを楽しみに、神様の約束だから必ずそうなるという信仰をもってクリスチャン生活を歩みます。 ※9つの御霊の実が、生ける水の川として内側から流れ出るようになる 9つの御霊の実が大事です。喜びの実だけ、というのではなく、どの実も均等に熟していくように、「御霊を飲む」ということが大切です。 【デボーションポイント】 ◎『飲水思源』の御霊を飲む 水を飲むとき、水源のことを思うように、基本を忘れず大切にすべきという戒め 水源があって私たちは水を飲むことができています。水を浄化してくれる施設やそこで働く人々がいるという、その働きを思う時、ありがたいなあと思います。水を飲むたびに、その恩義を覚えて感謝します。 そのように、御霊はわたしたちの生きる源です。みことばと御霊は、私たちがクリスチャンとして生きるための一番大事な基本です。この基本を忘れず大切にするために3つのポイントを紹介いたします。 (1)渇いていること 飲むためには、まず渇いていることが必要です。 神様は私たちが渇くように造ってくださっておられます。いのちは神様から頂いているということを私たちが知るために、また忘れないためにです。 (2)イエスに求めること ジュース類が氾濫していますが、のどがカラカラに渇いたときの飲み物は、きれいで安全でおいしい自然水が最高です。 誰でも渇いている人はイエス様の水を求めるべきです。イエス様の水は健全で健康な本当の水です。 (3)注がれるのを待つこと 神様から注がれるのを待つのが聖霊の満たしです 神に喜ばれるためには信仰が必要です。神に近づくもの、神に求める者は、神がおられることと、神が必ず報いてくださることを信じなくてはなりません(へブル11:6)。 御霊が欲しい。魂が渇いている。神の子として生きていくために、いのちの水が欲しい。自分だけのためではなく、生ける水の川があふれて外に流れだし、人がそれによって潤されるという、そういう者になりたい。人にいのちを与える、そんなイエス様のような人に造り変えられたい、と心から信じて望んでいるなら、それが実現していない今、飢え渇いて待ちます。神は必ず報いてくださると信じて待つのです。 ※水を毎日飲むように、御霊に潤される 霊的な魂を健全に保つためには、御霊の水の潤いが必要です。人それぞれに、性格、性質、生活に合った水の飲み方があるでしょう。時間を作る必要があります。主を待ち望む時を持っていきましょう。 【短歌】 御霊の実 たましい潤す 生ける水 毎日飲めば キリストに似る
■2023年5月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神の霊によって生きる up 2023.5.7
5月28日はペンテコステの日です。イースターから50日目、使徒たちに聖霊が降られた日、教会が生まれた記念日でもあります。 今週は、「神の霊によって生きる」というテーマで、皆さんが神の霊によって毎日の生活を生きて頂けるように、みことばに生きる人生へと進んで頂きたいという願いをもって、(創世記2:7)から、お話しをさせていただきます。 ★神の霊によって生きる 被造物である大自然には、人が持っていない大きな力があります。動物の能力も、人より優れています。もっとも弱く劣った人間をそんな中に置かれたという意味は何でしょうか。 ※造り主のかたちに創造された人は、神の息が吹き込まれることによって、生きたもの(生きた魂)となった。 ★神の霊が吹き込まれるとは 〇「息」=「霊」(ヘブル語) ですから、「神の息(ルーアー)が吹き込まれた」も、「神の霊(ルーアー)が吹き込まれた」も、訳として間違いではありません。 〇いのちを与えるのは「御霊」 〇肉だけ生きていても無意味である 〇ことば=霊・息=いのち ことばは、息を吐いたり吸ったりして発するものですから、イエス様のことばを頂くことは、イエス様の息(霊、いのち)を頂く、ということにつながることが分ります。 人間だけに高度なことばを使う能力が与えられているということも、ことばなる神様の霊を吹き込まれたゆえであることが分かるでしょう。 ※ことばが吹き込まれて、霊、魂の生きた者となる ★神の霊=ことばによって生きる ○「パンだけ」=肉だけでいきるのでない 〇神のことば?神の息・霊によって生きる ※みことばが吹き込まれるとは、一つ一つのみことばを食することである。 今日も私たちはみことばを聞きました。神様の息(霊)が吹き込まれました。いのちを生かし、心養うパンを今、食しているのです。 心が安心したり力を得るような良いことばは、色んな所に沢山あるでしょう。ただ、いのちの源となることばは、神のことばだけです。神のことばによって人は生きる者となった、と聖書に書いてある通りです。 一つ一つのみことばを食していく生き方を心がけましょう。 【デボーションポイント】 この世は、よくも悪くも、言葉であふれています。本来、神のことばによって養われるはずの人間が、不敬虔なことばを聞き続けて心を汚され曲げられ毒されていく、そういうことはあってはならないことです。 (1)みことばを味わう (2)みことばを?み砕く (3)みことばを混ぜ合わせる ※(エペソ4:32)を食してみる 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 そして、具体的にどのように美味しかったか、またどんな他のみことばも一緒に味わったか、なども分かち合って頂ければ、それは、世にはないクリスチャンの楽しい交わりの時となるのではないでしょうか。
【短歌】 心地よい 新緑の香り 胸いっぱい たましい浄化 みことばにより 5月の新緑の空気を胸いっぱいに吸ったとき、気持ちよく体をリフレッシュすることが出来ます。 |