■2023年6月25日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

柔和な者は幸いです  up 2023.6.25


主題聖句(マタイ5:5)
柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。





 

 柔和を辞書で調べると、優しく穏やかなさま、もの柔らかな態度、とあります。さらに聖書が言う柔和な者とは、神により頼む故に自己主張から解放された者を言います。人が優しく、もの柔らかな態度になれるのは、心に余裕ができる時が多いです。私たち信仰者にとって、神に信頼することは基本姿勢にありますが、時には自分の力や世の力に頼ってしまうことがあります。それで物事を解決することもできますが、心に余裕がなくなり、柔和どころか、粗暴な態度を取ってしまうことを私自身よく経験します。

 隣にいる人が、優しい人と横暴な人だと、どちらが良いですか?当然優しい人に決まっています。私たちも隣人にとって優しい人でありたいですね。その優しさの根本は、神により頼む姿勢であるということ大切にしていきましょう。

 また、柔和とは、柔弱ということではありません。神により頼む人は、真の強さを与えられます。それは、自己主張より相手に心を傾けることを選ぶという強さです。柔和の模範はイエス様です。十字架の死に敢然と向かう姿勢は、その時の痛み苦しみからの開放よりも、最後まで私たちの罪の赦しをとりなす姿勢と、父なる神のみこころを果たす使命感に満ちておられました。イエス様は優しさと強さを兼ね備えておられるのです。

 柔和な者が幸いな理由は、地を受け継ぐからとあります。地とは神の御国ですので、この約束が成就するのはまだ先の話ですが、柔和な者は神から多くのものを託されます。神に信頼する生き方をする者に、神は多くのものを預けようとするのは、預けたものを生かすことができるとお考えになられるからです。この地上でも、信頼できる部下に上司は多くのことを任せるのと同じです。私たちは、主である神から託されるという喜びと、主に応えたいという信仰に目を向ける歩みを心がけていきましょう。

 どんな時でも父なる神との交わりを保ち、イエス様がこの地上でいつも心優しく、穏やかにしておられたのを模範とし、隣人との関係を築いていく一週間としていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年6月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

死後のさばき  up 2023.6.18


主題聖句(伝道者の書12:14)
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。




 

 先週は突然「死後に備える」というメッセージをしました。誰も死から逃れることはできません。
 
 土曜日の17時に横路先生は召天されました。今、横路先生は、永遠の世界である神の御国におられます。そして、そこで私たちは再会する希望があるのです。

 死後の世界があるということを、信じない人にも、同様に死は訪れます。
聖書には死と、死後のさばきはすべての人にあるということが明確に書かれています。

(伝道者の書12:14)
「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからだ。」
これを書いたソロモン王は、王となるときに神にひとつの願い事をしました。それは多くのイスラエルの民を治めるための知恵でした。神はこの祈りを喜ばれ、知恵だけでなく、力も富も繁栄もすべてを与えられました。

 彼はその富と力と知恵を用いて、人生で色々なチャレンジをしました。その結果、彼は人生はなんと虚しいのだろう、神がおられ、神が中心であるこの世にあっては、いくら自己中心にできる限りのことを何もかもしたとしても、結局は神を畏れ、神に従うことが人生の最善であると知ったのです。

 彼は神を知っていながら神を否定して背いて人生を送りましたが、彼が行き着いた答えは「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれる。」でした。
誰も、必ず死に、必ず神の裁きにあうことから逃れることはできないということです。

 こういう経験をした人の知恵を聞いて、同じ失敗をしないようにすることが大切です。ソロモン王は箴言に知恵のことばを語っています。

ー偉大な知恵者の悟りー
(箴言9:10)
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」
 
 先週はソロモン王が救われたかどうか分からないと語りましたが、この箴言のことばから、彼は自分に声をかけてくださった神がすべての中心におられ、すべてを創造し、すべての自然の仕組みを造られたという真理を悟っていたと分かります。それゆえ、彼は救われていると言えるでしょう。
 
 神を信じる者は信じることによって、行いに優先されて義と認められるというのが、聖書にある義です。
 
 神を畏れ敬う心があれば、例え行いが完全にはできていなくても、神を認めるという敬虔な心が義人と認められます。その敬虔さのしるしはイエス・キリストを神と認めることです。

 どの宗教を選ぶのも自由です。しかし罪の赦しを計画し実行された方はイエス・キリスト以外は歴史上誰も存在しないのです。
 
 聖書の神イエス・キリストは、罪の責任を人に押し付けるのではなく、ご自身が引き受けて、十字架の上ですべての人の罪のために血潮を流され、罪のさばきを引き受けられ、罪の赦しを宣言された唯一の神です。

 すべてをさばかれる創造主の存在を認めざるをえないことを悟ったことが、知恵者の悟りなのです。

 信じるか信じないかで生きる方向は変わり、死後さえも変わるということを聖書は語っています。

 神がいることは認めるが神に従わないと主張する人は悟ってはいません。悟った人には必ず敬虔な姿勢が表れてくるからです。
ーさばきがなければどうなるー
 リベラルの人たちはさばきは必要ない、さばきは人を縛るから自由がないと言います。どうなのでしょうか。
(詩篇10:4)
「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない」の一言に尽きる。」

高慢→すべての存在の基準を自分とする心
 
 すべての存在の中心となる基準は自分だという心が高慢です。神を認めても、神の下に自分を置くのは嫌で、神のことも、自分が正しいかどうかを判断するという姿勢です。自分の方がいつも優秀だと思って、周りを治めるのは自分だと思い込んでいます。
 
 その心は顔に表れてしまいます。高慢な人は神を訪ね求めません。おられたら困るからです。神がおられるという事実が例え目の前に表れたとしても、決して認めず「神はいない」と言うのです。
 さばきがなくなれば人は高慢になり、争いはなくなりません。

 今、欧米で様々な問題が起きています。
 ヨーロッパやアメリカでは窃盗、万引きが急増していて、小売店がなくなっていってます。
 
 イギリスでは盗まれた商品の代金を他の商品に加算するので、商品が値上がりしていきます。利益が出ないので結局店を閉めてしまうのです。

 セルフレジが設置されてから、盗みが増えたということです。イギリスではなんと3人に1人がレジを通さず支払いせずに持って帰るという統計が出たそうです。3年前の被害額が約3億円以上でたそうです。

 イギリスでは8千円以下の被害では軽犯罪で警察は動かないそうです。それで、コロナになってからは、余計に窃盗、万引きが増えているのです。

 さらにアメリカでは銃が自由に持てるので、窃盗、万引きも銃をもってやるので、止められません。

 カリフォルニア州の法律では9万円以下の窃盗では警察は動かないので、店主も銃を持たないとやっていけないそうです。
2022年の小売店での窃盗における殺人がなんと600人です。
 
 ニューヨークでは13万円以下は警察は動かないので、窃盗事件はますます増え、2021年のアメリカ全体の小売業者の被害は13兆円といいます。

 正しくさばかれないと、社会秩序が乱れて平和がなくなるということです。

 もしさばきがなかったなら、あなたは人生をどのように送るでしょうか。死んでも何もないとなれば、隠れて悪いことをしても平気になるでしょう。

 人はさばきがなければ、自己満足だけを求める人生を送るようになります。聖書では、それを罪の奴隷と言っています。

 しかし、神はすべての隠れた罪をさばかれると言われています。神のさばきは永遠に一度だけだと聖書にしるされています。懲らしめはしても、その都度、いちいちはさばかれません。しかし、一度だけすべての罪が裁かれる時がきます。それが世の終わりであり、キリストの再臨の時です。

 それまでは神は全世界の全時代の人々を見ておられます。
確実にこの人は悔い改める心も善を行う心もないという人は、永遠の滅びに入れられます。
 
 生まれながらの善人はひとりもいません。しかし、神は救いのチャンスを与えておられます。刑が執行されるまでの猶予の間に、悔い改めて、神が提示してくださっている、イエス・キリストの罪の赦しを受け入れ、神の救いに入ってください。
心を変えない人は自分の罪をそのまま背負って滅びていくことになります。死後、すべてがなくなりゼロになることはありません。死後も魂は存在し続けるのです。

【デボーションポイント】
◎神の赦し(テトス2:14)
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」

 このみことばは神の赦しの目的を表しています。善を行いたくても罪を犯してしまうという自分の弱さに嘆き、心が砕かれている人々を永遠に御もとに置きたいという神の願いが、十字架で支払われたキリストの代価なのです。

 キリストが現れる前4千年の間多くの預言者が預言し、証ししてきたことが2千年前に、イエス・キリストの十字架で歴史の上に表されました。そして、その後の2千年間でキリスト教が権威をもってどんなに悪行を行ってきたか、恥ずべきことです。

 しかし、その数々の悪行を知っていますが、私はキリストを信じています。本当のクリスチャンは神を畏れ、善を求めて生きるはずだからです。

 その心がない人は見せかけのクリスチャンで本物のクリスチャンとは言えません。

 罪を犯してしまう自分に嘆き、心から善を行いたいと願う、そういう人々のために神は手を差し伸べておられるのです。これがキリストの贖いであり、救いです。良い報いを与えてくださいます。

 それを信じているので、地上でいくら迫害され苦しめられても、諦めずに善を行うことを求め、きよめられることを喜ぶのです。

 善良な人は自分の正しさを主張しません。自分の心を正しく見て、いつも悔い改められます。

 失望しないでいましょう。いつ死が訪れるかは分かりません。しかし神は必ず正しくさばいてくださいます。

(短歌)
罪人が 善を求めて 生かされる 
とこしえの赦し 十字架にあり

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年6月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

死後に備えよ  up 2023.6.11


主題聖句(伝道者の書9:2)
すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。




 

 クリスチャンは死後があることを信じていますが、死後に備えた今日を生きるということを、どこまで心掛けているでしょうか。

 体が死んで魂はどうなるのか、それを私たちはイエス様のおことば、聖書から教えられている以上、それを事実として受け止めて、備えていくことが大切です。

 今日の主題成句の「伝道者の書」を記したソロモン王は、天地創造の神様から直接語りかけられ、イスラエルを治めるための知恵を神様に願い求め、そして与えられたという三代目の王様、歴史的にも有名な知恵者です。

 しかし、そのように神様の御声を聞き、その存在を体験していたのに、彼は途中から、自分の欲望を通すという道に進みました。それに対して神様は2度も直接忠告を与えられましたが、それでも敢えて自分の道を選んだという、そういう中で彼自身によって書かれたのが、この「伝道者の書」です。

 ですから、(伝道者の書9:2)から読み取れることは、知恵者ソロモン王が、神様への信仰を持ちながら、神様ではなく自分を中心に物事を見た彼の主観が書かれてあるということ、そしてもう一つは、誰にも避けられない事実として「死」があるということです。

 先日、ある姉妹のお義母様が病院で滴礼を受けられました。その時「これで安心して行けるところが定まった」と言われました。死んでどこに行くのかわからないという不安があられたのでしょう。

 姉妹からご主人に、そしてご主人からお母様に、「イエス様を信じて洗礼を受けたら大丈夫」と勧められ、お義母様はそれを受け止めて洗礼を受けられ、今は安心して神様に引き上げられる日を待って過ごされているとのことです。

 誰しも死後を考えると不安になります。「死」について、考えても分からないから考えない、という人も多いでしょうが、真剣に考えなくてはいけないことでもあります。

 今日は、「死に備える」のではなく、「死後に備える」、すなわち、「死後、どうなるのか」について心を向けて考えて頂きたいと思います。  

1.死後を考えない人生
(エペソ2:1-3)
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

(1)死ねば存在そのものが消滅する。

(2)自分で自分の人生を評価する。

(3)自己満足・自己達成を目指す。

(4)自分の存在がすべての評価基準。

 永遠を考えない人は神についても考えません。神を否定する人は永遠をも否定します。永遠なる神を信じない人は、死ねば存在そのものが消滅する、と考えます。

 そして、死後を考えない人は、自分で自分の人生を評価しますから、自己満足や自己達成を目指していきます。自分の存在が、すべての評価基準となります。

 そして、自分を中心にして物事を見たソロモン王の結論のように、「すべては空しい」となります。

<神の存在を否定する不敬虔な者>
 全世界は神様が創造されました。神様が中心なので、人が自分を中心にして考えると、自分が造ったわけではないので、計画も意味も見出せず、すべてが空しくなります。しかし、創造主を基準に考えれば、すべて答えが出てきますから、自分の存在を生きることが出来ます。

 神を信じ死後を考える人と、神を知らないで死後を考えない人が論争しても、折り合うところはありません。また、互いに論争論破する必要もありません。

 クリスチャンは神様の存在を信じているのですから、自分の死後の状況をよく考えて、今日という一日を無駄にせずに、神様が創造された目的に従って明日に向かって歩むようにすべきです。

 それでは聖書には死後の状態についてどのように教えているでしょうか。

2.聖書にある死後について
(1)肉体の死(伝道者3:19)
「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。」  

 ここでは、人の命も動物の命も死んだら皆同じで、「すべてはむなしい」と語られています。

 しかし聖書は、人は神に似せて造られた、そして神の息が吹き込まれて生きる者となった、と教えています。動物とは全く次元の異なる生命体です。大きな違いは言葉を使ってコミュニケーションを行い、創造的な活動を行うことです。

 そしてまた、人も動物も肉体は同じように死にますが、死後の裁きがあるのは人間だけです。


(2)確定した神の裁き(へブル9:27)
「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、」

 動物が死後、神の裁きを受けることはありません。しかし、人間は死後、神の裁きを受けることが決まっています。なぜなら、人間は動物にはない自由意志を神様から与えられており、その自由意志をどのように用いたかが問われるからです。それは自由意志を与えた主権者、神様のルールです。良いことをすれば報いがあり、悪いことには罰が与えられます。

(3)第一の復活(黙示録20:6)
「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
 肉体の死の後、復活にあずかる者がいます。彼らは幸いな者、聖なる者であると黙示録は教えています。

(4)第二の死(黙示録20:12-15)
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

<永遠を決定する神の裁き> 
 この4つのみことばからも、人は死んだらお終いなのではなく、死後には永遠を決定する神の裁きがある、ということがわかります。 
 第一の死は肉体の死です。
 第一の復活にあずかった人には、永遠の幸せがあり、第二の死はありません。
 第二の死というのは、魂が火の池で永遠を過ごす、という最終的な裁きとしての死です。

【デボーションノート】
◎未来に備える
(第1テモテ6:19)
「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

 「未来」というのは肉体の死の後にある世界のことです。その未来に対して、この地上の人生は、「まことのいのち」を得るための良い基礎を築く時間です。

★まことのいのち?神の国を相続する
(テトス3:7)
「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」

 神様の前に裁きを受けた時に、神の国の相続者として第一の復活にあずかった人は、幸いな人です。そのことのために、未来に備えて良い基礎を築きあげるようにというのが、クリスチャンのこの世の人生に対する考え方です。

<良い基礎とは何かを考えてみよう。>

(永遠にあなたの存在を支えるもの)
 立派な建物を支えることのできる「基礎」、永遠の人生を支える「基礎」、キリストの魂のような建物・神殿を私たちは永遠の住まいとして頂きます。それを支えるための「基礎」がこの世界で築き上げられていく、今はそういう時です。

【短歌】

    永遠を  信じなくても  信じても

       死後の世界は  存在する

 永遠への良い基礎作りの毎日を歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年6月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の目の前に生きる  up 2023.6.4


主題聖句(第1ペテロ3:11〜12)
悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」




 

 現代は、幸せもお金で買えるとばかりに、誰もが稼ぐこと、貯めることに励む世の中です。しかし聖書は、人間の本当の幸せは悪から遠ざかって善を行うことだ、と教えています。

 ですから私たちは善に親しむことの楽しみ、聖められることの幸せを満喫しようという目標のもとに、今年も5か月を過ごしてきたわけです。

 今日の主題成句には、「主の目は義人の上に注がれ」とあります。キリストを信じて義とされた者には、主の目がいつも注がれています。私たちは、神の目の前に生きる者です。

 それは、悪いことをしていないかと見張られている、という意味ではありません。イエス・キリストを通して神様は、愛とあわれみ、慈しみの目をもって私たちを見てくださっています。そのまなざしの中で、悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求めていきましょう、というのが今週の目標です。

(1)神様から注目されている

(イザヤ43:4)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」

◎神の目に高価で尊いと映っている
 人の目には無価値と映っても、神様の自由な主観、価値観によれば「高価で尊い」と思われている私たちの存在です。

◎神に愛されている
 ですから、神様は私たちに愛(アガペー)を注がれます。私たちを大事にしたいと思われます。

◎神にとって特別な存在
 愛を注ぐほどに価値あるものとみなされた私たちは、神様にとって特別な存在です。同じように見える私たちであっても、神様にとっては一人一人が、その人格も存在も、全宇宙の中で唯一つしかない貴重な価値ある存在なのです。

<神の自由意志による選び>

(マラキ1:2)
「『わたしはあなたがたを愛している』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか』と。『エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。」
 
 エサウとヤコブは二卵性双生児で、エサウが先に産まれた兄です。当時は長兄が大事にされて、多くの財産を相続する決まりがありました。地上の世界のルールはそうでしたが、神様が選ばれたのは、後から産まれたヤコブでした。

 ここに神様の自由意志による「選び」というものがあります。何にも束縛されず何にも支配されない唯一完全な創造主、主権者なる神様だからこそ出来る、絶対間違いのない「選び」です。

(2)神様に愛されているのだから

(ローマ14:17−19)
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」

◎神の国の民としての自覚
 
 私たちは神様に愛されている神の国の民、もっと言うなら神の家族と認められている者です。

◎神に喜ばれ、人に認められる者
 どんな人でも義と平和と喜びを本能的に求めています。そんな理想的な国があれば誰もが行きたいと思うでしょう。ですから、私たちが神の国の民として、そういう生き方をしていれば、神様に喜ばれるのはもちろんのこと、人々も好意的に受け止めるはず

◎お互いの霊的成長を追い求める
 私たちは経済成長を求めるのではありません。お互いの霊的成長を求めます。心の成長、徳を高めること、皆がそれを求めて、未来に向かって歩む社会は平和です。霊的成長には競争や比較がなく、強いものも弱いものも皆が幸せを得る道です。

<御霊の実による一致を熱心に保つ>

(エペソ4:3)
「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」

 私たちは神様に愛されている神の国の民ですから、神の国の素晴らしさに生き、その中でお互いの霊的成長を追い求めながら、未来へと歩みを進めていきます。

 そのために、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」この御霊の9つの実によって、一致を熱心に保つことを勧められています。

 御霊の結ぶ実による一致のある所には、決して争いや戦いはありません。平和のきずなで結ばれているからです。

【デボーションポイント】

(1)平和を妨げる原因(ヤコブ4:1)
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」

◎からだの中の欲望?肉に宿る罪
 神の前に生きる平和を妨げるもの、人と人の間にある戦いや争いの原因は、からだの中にある欲望、すなわち肉に宿る罪である、と語られています。

(2)平和の力

(使徒1:4,5,8)
「彼らといっしょにいるとき、彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」

◎聖霊にバプテスマされる

 聖霊のバプテスマを受けると、御霊の実が宿ります。

 そして、聖霊の注ぎとは「力」の注ぎです。罪の宿る肉体から9つの実が解放されるためには、この「力」が必要です。その「力」を通して、私たちはキリストの証人として生きることが出来ます。

 キリストの証人とは、御霊の9つの実が現れることです。

 御霊の力は、聖霊にバプテスマされることです。平和の力は、聖霊にバプテスマされて御霊の実が現れてくるということです。御霊の実を、聖霊のバプテスマを通して解放させなさい、ということなのです。

 9つの実は全部がそろって一つとなって、「赦すこと、愛すること」を可能にします。「愛」は、9つの実が宿り、また聖霊にバプテス
マされて「力」を得てこそ、健全に働くのです。

 救われていないのではありません。救われていますが、9つの実が解放されているか、いないか、ということを理解してください。

 聖霊を求めましょう。聖霊にバプテスマされましょう。聖霊に満たされましょう。そして9つの実がキリストの証となるような生活、キリストを証しする人生に進んでいきましょう。


<肉に宿る罪よりも、イエスを復活させた魂に宿る御霊が勝っている>

(ローマ8:11)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

 御霊が住んでおられるなら、肉に宿る罪よりも聖霊様のほうが勝っているので、罪によって死ぬべき肉体も、御霊の9つの実によって生かすことが出来ます。

 悔い改めて、イエスの名によってバプテスマを受ける者には賜物として聖霊が与えられるという約束があります。イエス様を信じて洗礼を受けたのですから、聖霊は与えられているのです。9つの実も、内に存在しているのです。約束なのですから信じて感謝して受け取りましょう。

 そして聖霊に満たされ、聖霊の力によって、9つの実を解放されましょう。聖会に向けてそれを望んでいきましょう。約束ですから、神様は私たちが信じて望むことを実現してくださいます。


 

【短歌】

あらそわず  比較しないで  主を見上げ

 御霊の注ぎで  平和を保つ


 どんな人に対しても平和を保てるためには、9つの御霊の実が必要です。敵をも愛するというイエス様の平和の教えは、9つの実が現れてきてこそ実現可能です。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年5月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の霊によって生きる  up 2023.5.28


主題聖句(創世記2:7)
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。




 

 今日はペンテコステの日です。7月には聖会が持たれます。聖会が特別な三日間となるために、今日のペンテコステの日から、皆さんに備えをしていただきたいという気持ちで、主に求めることをお勧めさせていただくようにメッセージを進めていこうと思っています。

 まず、今日までの御霊についてのお勧めを復習致しましょう。

★神の霊によって生きる(創世記2:7より)
 造り主のかたちに創造された人は、神の息が吹き込まれて生きた者となりました。神の息とは神の霊のことであり、神のことばでもありますから、人は神の霊、神のことばによって生きるものだということです。

★御霊の注ぎを受ける(ヨハネ7:37-39より)
 ヨハネ7:37-39には、御霊について、「流れ出る生ける水」と表現されています。水も食物も人の肉体の命には欠かせないものであるように、私たちの魂も、霊的な食物である神のことばと、そして霊的な水である聖霊様によって、神の子としてのいのちを維持されています。

 以上が前回までのポイントです。私たちは肉体を養うために一生懸命水を飲み、食物を頂きますが、魂を養うための水と食物には無関心になっていないでしょうか。魂が死ぬることのないように、今日は「賜物として聖霊を受け取る」と題して、お勧めをさせて頂きます。

★「賜物として聖霊を受け取る」(使徒2:38)
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
 
 聖霊は永遠のいのちのための神様からの賜物です。「賜物」というのは、何かをしたから与えられるという「報酬」ではありません。義務も行いも何も出来ていないのに、神様が一方的に私たちに与えたいと思われて、頂くことのできる「恵み」です。

★聖霊を受ける大切さ
(1)御国を受け継ぐ保証(エペソ1:13-14)
「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」

●心に信じたしるしが聖霊
 私たちは行いによって神に義(正しい)とされることはなく、御父なる神、御子イエス様を正しく信じる信仰により義とされます。その心に賜物として聖霊様が遣わされ、内に住んでくださいます。

●御国の相続人であることを保証
 聖霊様が内に住まわれたことのしるしとして、異言、預言、賛美という発現の賜物があります。重要なことは、しるしがあったかどかということより、御国の相続人であることを保証する証印としての聖霊様が内に住まわれたかどうかです。

(2)心の割礼(ローマ2:28-29)
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

●ユダヤ人=神が選ばれた御国の民
 ユダヤ人は神の選民であるという自負を持っていましたから、ユダヤ人のしるしである「肉体の割礼」を大変重要視していました。しかしパウロ先生は、外見上の割礼ではなく、御霊によって心に割礼を受けた人こそが神に選ばれた民なのだと語っています。

●割礼=信仰による義の見える証し
 ユダヤ人は、神様と契約を結んだ国民のしるしとして、肉体に割礼を施します。肉体の割礼は、神様を信じたことによって、聖霊様がその人の心に割礼というしるしを与えてくださることを象徴するものです。

※新生と義認の見えるしるしが御霊の実
 キリストを信じて新しく生まれ変わることを通して、私たちは神の前に義と認められます。その新生と義認のしるしとして、聖霊様が私たちの内に来られます。そして聖霊様による心の割礼のしるしが、御霊の実です。御霊の実のない者は、御霊がおられないということで、心に割礼を受けていないということになります。

★聖霊の実と肉の行い
(ガラテヤ5:19-23)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
 
 罪の宿る肉の人・古き人の生き方の特徴として、不品行、汚れなど15の肉の行いが挙げられています。
 それに対して、イエス・キリストを信じて、魂(霊、精神)がキリストのかたちに生まれ変わった人の新しい生き方(クリスチャン生活)の特徴は、魂に宿ってくださった聖霊様の9つの実です。
 
 御霊の実ですから、私たちが実を結ぶ必要はありません。私たちはつい努力して自分で実を結ぼうとします。それは古き人の生き方です。肉には罪が宿っていますから、肉で頑張っても無理なのです。
 
 しかし、あきらめてはいけません。信仰は望んでいる事柄の実現を保証するのですから、御霊の実が肉体にまで現れてほしいと望むなら、信じ続けるべきです。あきらめたら信仰は終わります。

※御霊が宿れば9つの実が存在する
 9つの実はあなたの魂に存在しています。正しいことがしたい、罪から離れたいと願うのは、実が実ってきているしるしです。しかし実現できないという悩ましさもあります。9つの実が肉体にまで及んで罪を制し、生活の中に実が現れるためには、どうすればいいのでしょうか。

★父なる神の約束であるキリストの証人としての聖霊のバプテスマを受ける(使徒1:4,5,8)
「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

●賜物である御霊は神の約束である

●証人としての必要な力が注がれるための聖霊のバプテスマ

●肉に宿る罪の働きを打ち砕く力としての聖霊様の注ぎ
 
 ここに、父の約束(聖霊のバプテスマ)を受けたら、「力を受けます」とあります。「力」とは、キリストの証人となる力、御霊の9つの実が現れることによってキリストを証する「力」です。
 私たちはイエス様と違って肉体に罪を宿しているので、それが障壁となって、内側にある実が外に現れにくくなっています。この罪を制する力として聖霊様がバプテスマとして私たちに注がれるのです。
 神様は御霊の実だけでなく、キリストの証人としてそれを現すための「力」を、私たちに与えてくださいます。聖霊様は御霊の実を現わしてキリストの姿を周りの人に証拠として現すための「力」としても働かれるのです。
 御霊の実を肉体にまで影響を及ぼすためには、どっぷり聖霊に浸され満たされ浸透されて、肉体にまで浸透される聖霊様のご臨在が、私たちには必要です。知性、感情、意志にまでも聖霊様の臨在が浸透するような圧倒的な聖霊様の注ぎを受ける必要があるのです。

※聖霊の9つの実が肉にまでおよぶキリストの姿を表す聖霊のバプテスマ
 9つの実だけではまだ完全ではありません。バプテスマされて力を受けないと、内なる新しい人を輝かせることが出来ません。キリストのような人生を歩むには、聖霊のバプテスマが必要なのです。

【デボーションノート】
★聖霊様を受け取ることを妨害するもの

(1)永遠に対する無関心(不敬虔な態度)
 永遠について無関心であるということは、永遠なる神様について無関心であるということです。「死んだらおしまい」と、永遠を否定することは神を否定することです。

(2)必要度が低い
 この世を生きるにはお金が必要ですが、この肉体を養う重荷を持ち過ぎていると、「永遠」よりも「今」を生きることに重点が置かれます。すると、聖霊様を求めよう、という気持ちはなくなっていきます。

(3)心が聖霊以外で満たされている
 本当は神様に霊的食物と霊的飲み物を求めて生きていく筈なのですが、待つのが嫌とか自分の都合で聖霊様を迎え入れようとする人は、心が聖霊以外のもので満たされようとしてしまいがちです。音楽や旅行や他のもので代用してしまうのです。
 この3つの点をよく吟味して、御国を受け継ぐ保証であり、神様を正しく信じた証拠としての心の割礼という重要なしるしでもあり、毎日のクリスチャン生活のあらゆるところでの助けをもたらしてくださる聖霊様の存在に、目が開かれて頂きたいと願っています。

◎今が主を求める時(ホセア10:12)
「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」
 ホセアの時代のイスラエルは、不信仰と背信のゆえに神の裁きであるアッシリアとバビロンに国が滅ぼされる寸前でした。そんな中でも立ち返るようにと、ホセアを通して神様が語られた預言です。
 
 どん底にあって打つ手なしというような、そんな時こそ主を求める時です。今あなたのクリスチャン生活の霊的状態が最悪と思われるなら、今こそ主を呼び求めるべき時、今こそ回復されるべき時です。

※互いに赦し合うことが、御霊の実の見えるしるしとなる。
 
 赦すというのは9つの御霊の実があってこそ実現することです。
 赦せない人は、御霊の実は内にあるけれど、バプテスマされていないので閉じ込められて、それを現せない状態になっているのです。
 
 自分の心をよく整理して、御霊の実、聖霊のバプテスマ、聖霊の油注ぎを受けてください。

【短歌】  
聖霊を  受け取るために  十字架の
愛を信じて  こころを開く

 神様の愛、イエス様を信じて心を開けば、賜物として聖霊を受けることが出来ます。聖霊は神の恵みです。
 こんな罪人にきよい神の霊が宿ってくださって、神の子としてもう一度やりなおすことが出来るように、新しい人生を与えられたことを心から感謝しましょう。
 そして、聖霊にバプテスマされて、その実が解放されていくように求めていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年5月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

平和をつくる者は幸いです  up 2023.5.21


主題聖句(マタイ5:9)
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。




 

 5月18日から広島でG7サミットが行われています。アメリカを筆頭に先進国の首脳が集まり、今回はウクライナの大統領も参加することになり、とても歴史的なサミットになっています。教会の近くですごいことが起こっていることに、興奮しております。そのサミットでは、平和についても話し合われていることでしょう。

 聖書は、平和をつくる者は幸いです。とあります。今日は平和について聖書から見ていきましょう。
 
 平和とは、平静や調和という意味で、その反対語は戦争や争いになります。ですから、平和の状態とは、争いの無い状態を意味します。人の中に罪が宿っているかぎり世界から争いが無くなることは決してありません。真の平和は、キリストによってのみもたらされます。
 
 聖書が言う平和は、3種類見ることができます。一つ目は、神との平和です。
(コロサイ1:20)
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
 父なる神様は、私たちのために御子イエス様を十字架に掛けられました。それは、私たち罪人と和解するためです。十字架によって神様との和解はすでに成立し、平和の関係が結ばれているのです。
 
 二つ目は、自身の平和です。
(コロサイ3:15)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
 心を支配するとあります。これは、正しい良心と肉の思いをジャッジすることを意味します。私たちの内側では、いつも二つのものが衝突しています。希望と恐れ、信用と不信、愛と妬みなどです。神の平和というルールに従い、私たちは常に平和の状態であることができるのです。

 三つ目は、人との平和です。
(詩篇34:14)
悪を離れて 善を行い
平和を求め それを追い続けよ。

 この箇所の著者であるダビデは、平和を得るために懸命にならなければならないと言っています。人との間に平和を築くことは、一朝一夕でできることではありません。平和の関係は平和を求める日々の努力によって達成されるのです。


 この3つの平和が生活の中で築かれていくときに、限りなく神の国に近い平和が私たちに訪れるのだと私は信じます。このように、神との関係や人との関係、自身を見つめなおすことができる機会は、まさに恵みの時、救いの日なのです。

 平和をつくる者が幸いな点についても見ていきましょう。その人は神の子と呼ばれるとあります。最初にも言いましたが、この世では争いは決して無くなりません。しかし減らすことはできます。争いに傷つき、悲しむ人たちがいます。
 
 そのような人たちにとって、平和の神にあって和解をもたらす存在は、希望にうつるのです。私たちは、ただ平和を守るという消極的にあるのではなく、積極的に敗れた関係を修復するものへと変えられていくべきです。平和を“つくる”とあるわけですから。

 キリストにあってもたらされる平和は、神との和解をはじめ、隣人との良好な関係や、自分自身を神の喜ばれる道へと導きます。日常の平和が続く今のうちに、平和の行動を積み重ねていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年5月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の注ぎを受ける  up 2023.5.14


主題聖句(ヨハネ7:37〜39)
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。




 

 (ヨハネ7:37-39)が語られた時は、イエス様が十字架による救いの御業を完成される前でしたので、「まだ栄光を受けておれなかった」と、表現されています。

 しかし今は、キリストの死と葬りと復活が実現して、御霊が人々の内に住まわれる、という神の約束が成就していますので、誰でもキリストに求める者は、内側に生ける水を持つことが出来ます。

 今日の主題聖句(ヨハネ7:37-39)で注目したいことは、御霊のことを「水」のように表現されていることです。

 先週は「みことばを食する」というお話でした。食物が十分でなくては働く力が出てきませんが、食物以前に水分が十分摂取できていなくては命にかかわります。食物(みことば)と水(聖霊)は、体(いのち)にとって切り離すことのできない大事なものです。

 今日は、水が動植物には欠かせないものであるように、水に喩えられた「御霊」も人にとって欠かせないものであることをお話ししてまいります。

◎「水」の重要な働き

(ヨハネ6:63)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、またいのちです。」

(1)いのちを与えるのは「御霊」

★からだの60%は水である
 60%というのは、成人男性の体に水が占める割合です。
★水の優れた溶解力が暮らしを支える

 水はものを溶かす力があります。掃除や洗濯のときには、こびりついた汚れを水が溶かして離れさせます。

 そして水には「運搬、吸収」という重要な働きがあります。必要な栄養素が吸収されやすいように、水(血液)に溶けたものが血管を通って各器官の各細胞60兆個の所に運ばれ吸収されていきます。素晴らしい水の働きです。

※御霊は、水の働きのように私たちの生命維持の中心である。

 見えないので分かりにくいのが御霊様の存在と働きです。教会によっては、聖霊の教えをあまり重要視しないこともあります。

 しかし、神様が御霊様のことを「飲みなさい」「いのちの水の川」「注ぐ」と表現されているということは、御霊様が「水」のように重要なものであることを、私たちが理解できるように表してくださったのではないでしょうか。

(2)御霊の9つの実

(ガラテヤ5:22-23)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

 昔より寛容になった、親切になった、自制出来るようになった、恨んだり、ねたんだり、さばいたりすることが少なくなった・・・など、御霊を受けている人は、そのような御霊の実という結果を自分のクリスチャン生活の中に見ることができます。御霊が実を結んでくださるからです。
 イエス様は、実を見れば本物かどうかがわかる、と仰っておられます。誰も完璧ではないので、罪は犯すし、失敗もあるでしょう。しかし日々新しくキリストの御姿に変えられていく途上にあって、以前よりは寛容になった、喜べるようになった、愛のわからない者だったが愛がわかるようになったと、以前より、昨日より、昨日までより今日は少し9つの実がふくらんできている、という思いをあなたのクリスチャン生活の中に見出していかなければ、御霊は偽物ということになってしまいます。

 神様は、私たちの内に御霊がおられることはご存知ですが、ブドウの木のたとえにありますように、実を結ばない枝は切り落とされてしまいます。イチジクの木も葉っぱばかりで実がないとき、イエス様はその木を呪われました。御霊が結ぶ実なのであって、私たちが努力して結ぶ実ではないのです。

★9つの実によっていのちが保たれる

 聖霊の実によって、私たちは水のように魂・霊にいのちが得られて、それを保つことができます。9つの実が実っていくことによって私たちはいのちが豊かになっていきます。

★9つの実によって良心を清める

(へブル9:14)

「まして、キリストが傷の無いご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕えるものとすることでしょう。」

 御霊によって私たちは清められます。9つの実によって私たちのこころが清くされ、御霊の実が豊かに実るということが私たちに実現します。

★9つの実によって心を潤す

(イザヤ44:3)

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、私の霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

どんなに渇いているこころも、神様の注がれる聖霊の水によって生き返り、豊かになり、外にあふれ流れていくほどに、生き生きとした魂に変えられます。

 魂は肉の器の中にありますから、葛藤はさけられません。しかし、いのちの水が注がれているのですから、勝利できます。

戦い続け、潤いを持ち続け、9つの実ができることを楽しみに、神様の約束だから必ずそうなるという信仰をもってクリスチャン生活を歩みます。

※9つの御霊の実が、生ける水の川として内側から流れ出るようになる

9つの御霊の実が大事です。喜びの実だけ、というのではなく、どの実も均等に熟していくように、「御霊を飲む」ということが大切です。

【デボーションポイント】

◎『飲水思源』の御霊を飲む

水を飲むとき、水源のことを思うように、基本を忘れず大切にすべきという戒め

 水源があって私たちは水を飲むことができています。水を浄化してくれる施設やそこで働く人々がいるという、その働きを思う時、ありがたいなあと思います。水を飲むたびに、その恩義を覚えて感謝します。

 そのように、御霊はわたしたちの生きる源です。みことばと御霊は、私たちがクリスチャンとして生きるための一番大事な基本です。この基本を忘れず大切にするために3つのポイントを紹介いたします。

(1)渇いていること

 飲むためには、まず渇いていることが必要です。

神様は私たちが渇くように造ってくださっておられます。いのちは神様から頂いているということを私たちが知るために、また忘れないためにです。

(2)イエスに求めること

 ジュース類が氾濫していますが、のどがカラカラに渇いたときの飲み物は、きれいで安全でおいしい自然水が最高です。

誰でも渇いている人はイエス様の水を求めるべきです。イエス様の水は健全で健康な本当の水です。

(3)注がれるのを待つこと

 神様から注がれるのを待つのが聖霊の満たしです
神様には神様の理由があって、すぐには聖霊に満たされない方もおられますが、それでも私たちは待ちます。神様が責任をもって御霊を注いでくださいますから、私たちはそれを信じて、その時をひたすら待つのです。
待つというのは、信仰を働かせるための大事な時間です。

 神に喜ばれるためには信仰が必要です。神に近づくもの、神に求める者は、神がおられることと、神が必ず報いてくださることを信じなくてはなりません(へブル11:6)。

 御霊が欲しい。魂が渇いている。神の子として生きていくために、いのちの水が欲しい。自分だけのためではなく、生ける水の川があふれて外に流れだし、人がそれによって潤されるという、そういう者になりたい。人にいのちを与える、そんなイエス様のような人に造り変えられたい、と心から信じて望んでいるなら、それが実現していない今、飢え渇いて待ちます。神は必ず報いてくださると信じて待つのです。

※水を毎日飲むように、御霊に潤される

 霊的な魂を健全に保つためには、御霊の水の潤いが必要です。人それぞれに、性格、性質、生活に合った水の飲み方があるでしょう。時間を作る必要があります。主を待ち望む時を持っていきましょう。

【短歌】

御霊の実  たましい潤す  生ける水

毎日飲めば  キリストに似る

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年5月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の霊によって生きる  up 2023.5.7


主題聖句(創世記2:7)
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。




 

 5月28日はペンテコステの日です。イースターから50日目、使徒たちに聖霊が降られた日、教会が生まれた記念日でもあります。
 その記念礼拝の日には御霊様に関連するみことばからのお勧めをさせて頂きたい、という願いが与えられているところです。

 今週は、「神の霊によって生きる」というテーマで、皆さんが神の霊によって毎日の生活を生きて頂けるように、みことばに生きる人生へと進んで頂きたいという願いをもって、(創世記2:7)から、お話しをさせていただきます。

★神の霊によって生きる
(創世記2:7)
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」
 
 神様は万物の創造において、まず大自然のすべてを整えてから、一番最後に「人」をご自分のかたちに造られて、その大自然の中に置かれました。
 
 つまり、「人」がそこに置かれるために、そこをどのようにして生きていくのかということのために、宇宙万物すべてのものが整えられた、と意味を捉えることが出来ます。

 被造物である大自然には、人が持っていない大きな力があります。動物の能力も、人より優れています。もっとも弱く劣った人間をそんな中に置かれたという意味は何でしょうか。

※造り主のかたちに創造された人は、神の息が吹き込まれることによって、生きたもの(生きた魂)となった。
 
 これが(創世記2:7)に書かれてある大事なポイントであり、聖書全体が語られているポイントの一つです。ここから、人が生きるとはどういうことか、という大事なヒントを読み取ることが出来ます。

★神の霊が吹き込まれるとは
(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

〇「息」=「霊」(ヘブル語)
 ヘブル語の「ルーアー」という単語は、文章全体の流れの中で「息」という意味にも「霊」という意味にもなります。日本語に翻訳されると「息」「霊」「風」などの言葉に変換されますが、本来はどれも同じ一つのヘブル語「ルーアー」という単語が使われます。

 ですから、「神の息(ルーアー)が吹き込まれた」も、「神の霊(ルーアー)が吹き込まれた」も、訳として間違いではありません。
 神の息(霊)が吹き込まれて、人は生きるものとなったのです。

〇いのちを与えるのは「御霊」
 人にいのちを与えるのは御霊である、という(ヨハネ6:63)のみことばは、イエス様ご自身のおことばです。これは、神の息(霊)を吹き込まれたアダムが生きる者となった、すなわち、神様のいのちが与えられ、魂、霊の生きたものとなった、という(創世記2:7)のみことばを踏まえた表現であることがわかります。

〇肉だけ生きていても無意味である
 動物や魚類鳥類を造られるときに、神様はご自分の息(霊)を吹き込むことはなさいませんでした。人間だけが、神の息(霊)を吹き込まれて、生きる者となりました。ここに、人と他の生物とのはっきりした違い、区別があることがわかります。

〇ことば=霊・息=いのち 
 イエス様は、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊(息)であり、またいのちです。」と語られています。

 ことばは、息を吐いたり吸ったりして発するものですから、イエス様のことばを頂くことは、イエス様の息(霊、いのち)を頂く、ということにつながることが分ります。

 人間だけに高度なことばを使う能力が与えられているということも、ことばなる神様の霊を吹き込まれたゆえであることが分かるでしょう。

※ことばが吹き込まれて、霊、魂の生きた者となる
 神のことばによって魂が生きている、という状態にある時、人は本当に生きていると言える状態なのだ、とイエス様は(ヨハネ6:63)で語ってくださっておられます。

★神の霊=ことばによって生きる
(マタイ4:4)
「イエスは応えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

○「パンだけ」=肉だけでいきるのでない
 人はパンによって肉体を養うことだけが大事なのではなく、神のことばによって魂を養い、霊によって生きることが大事です。

〇神のことば?神の息・霊によって生きる
 みことばが知識として記憶の中にあるだけでなく、みことばを体験し、心が養われる、そういうみことばの取り入れがないと、人の魂は飢餓状態になってしまいます。
〇パンを食するように神のことばを食する
 パンを食べて体を養うごとく、神のことばを食して心を養いましょう。

※みことばが吹き込まれるとは、一つ一つのみことばを食することである。

 今日も私たちはみことばを聞きました。神様の息(霊)が吹き込まれました。いのちを生かし、心養うパンを今、食しているのです。

 心が安心したり力を得るような良いことばは、色んな所に沢山あるでしょう。ただ、いのちの源となることばは、神のことばだけです。神のことばによって人は生きる者となった、と聖書に書いてある通りです。

 一つ一つのみことばを食していく生き方を心がけましょう。

【デボーションポイント】
 
 みことばを食することを考える

 この世は、よくも悪くも、言葉であふれています。本来、神のことばによって養われるはずの人間が、不敬虔なことばを聞き続けて心を汚され曲げられ毒されていく、そういうことはあってはならないことです。

(1)みことばを味わう
 美味しい料理を口で味わうように、美味しいみことばを心で味わうことが出来ていますか。

(2)みことばを?み砕く
 食材を?まないで飲み込む人はいません。語られたみことばに盲目的に従うのではなく、自分でもよく分析し吟味して、よく噛んで飲み込みましょう。

(3)みことばを混ぜ合わせる 
 同じ食材だけを食べ続けるというのは、不自然な偏食です。
ご飯を中心に、品数豊かな料理を一緒に食し味わいます。  
 
 みことばも、一つだけを味わい続けるということはありません。いくつものみことばを味わい、噛み砕き、混ぜ合わせて、吸収しやすくし、意欲と興味をもって食していく状況を作り出します。

※(エペソ4:32)を食してみる

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
 
 このみことばを暗唱された方も多くおられると思います。まず、この(エペソ4:32)を霊的食物として食べて、味わい、噛み砕き、他のみことばとともに混ぜ合わせて、このみことばの美味しさを知っていって頂きたいと思います。

 そして、具体的にどのように美味しかったか、またどんな他のみことばも一緒に味わったか、なども分かち合って頂ければ、それは、世にはないクリスチャンの楽しい交わりの時となるのではないでしょうか。

 

 

 

【短歌】

 心地よい  新緑の香り  胸いっぱい

 たましい浄化  みことばにより

 5月の新緑の空気を胸いっぱいに吸ったとき、気持ちよく体をリフレッシュすることが出来ます。
 そのように、みことばを吹き込まれ、受け入れることによって、たましいはリフレッシュされます。