■2023年4月30日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

悲しむ者は幸いです  up 2023.4.30


主題聖句(マタイ5:4)
悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。




 

 今年のモットーは、マタイ5:11−12より“善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ“です。
 
 その目標に向かって、今年も4ヶ月が経ちました。主のために迫害を受けるとき、私たちは幸せであると、み言葉は語りますが、実際このようなことが起こるとなかなか辛いものです。
 
 そのように感じるのは、この世の幸せと神の国の幸せの価値観が違うためです。私たちは、神の国の基準で生きることで、本当の幸せを体験することができます。

 マタイ5章では、幸福の使信が語られているので、順番に見ていきたいと思います。今回は第2回目で、4節から、悲しむ者の幸いを見ていきましょう。
 
 まず、幸せとは何かを確認しておきます。それは、霊的幸福と繁栄であり、神様の祝福を受けた者としての幸いを指します。すなわち、神様の目線からの幸いであり、必ずしも自分が成功するという意味ではないということです。
 
 次に、悲しむ者がどういう人かというと、感情的に悲しむ人ではなく、自分の罪やこの世の悪を嘆き悲しむ人のことを指します。神様の基準は、この世の生き方と矛盾することが多いです。模範となるイエス様のこの地上での歩みを見るとき、当時のユダヤ社会の常識とはかけ離れた行動をして律法学者やパリサイ人を驚かせました。

 人々が得る時に与え、憎む時に愛し、虐待する時に助ける、そんな生き方は、多くの人々の希望となり、現代の私たちの愛の行動を後押ししてくれます。自分の権利を譲ることでいつの日か神様が用意しておられる全てのものを受け取ることができる、これが神様の基準による幸せなのです。

 そんな私たちにとって、神様は、創造主であり父であり、利害ではなく愛と赦しの関係を築いてくださるお方です。私たちに必要なのは、自分は神を必要としていると認める謙遜さにあるのです。
 
 悲しむ者の幸いな理由は、神様によって慰められるからです。神様の慰めは、二つの段階であります。

 一つ目は、この地上での罪の赦しです。自分の古き罪が呼び起こされ嘆き悲しむことがあっても、罪の赦しの象徴である十字架を見上げるときに、私たちは神様からの大きな慰めを受けるのです。

 二つ目は、終末の日に神様の審判によって神の義が完全に実現するのを見た時に慰められます。それは、罪の世界の中でこの世の基準に背いて神様の基準を全うするとき、この地上で報われなくても、神様の審判の時に私たちの正しい生き方が報われるからです。
 
 自分の弱さや罪深さ、この世の悪に嘆き悲しむ者の姿勢は、主がもたらす祝福を心から味わうことができます。そのような生き方をする人には、神様との深い関係によって、幸せな歩みをすることができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年4月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

造り主のかたちに新創造される喜び  up 2023.4.23


主題聖句(コロサイ3:10)
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。




 

 信仰とは望んでいることがらを確信し、そしてそれを保証するものです。まだ実現していないけれど、神様のおことばだから必ず実現すると受け止めて、それに向かって歩んでいくのが信仰だと聖書は言っております。

 皆さんは神様のおことばの実現を望んでおられるでしょうか。

 罪の奴隷、罪の虜となっていた状態から解放され、神のかたちにふさわしく歩んでいきたい、そういう願いが起こっているでしょうか。

 キリストの姿に変えられていくという神のおことばの実現を願い求めて日々歩んでいくなら、私たちは肉と霊の戦いを乗り越えて、一歩一歩神に近づいていけます。なぜなら、望んでいる事柄を神様は必ず実現させてくださるからです。

 そのように信仰を働かせるためには、新創造の願いが起こされる必要があります。
 
 そこで今日は、主題聖句(コロサイ3:10)から、「造り主のかたちに新創造される喜び」と題してお話していきたいと思います。
(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

★造り主の姿に新創造されることが、いかに素晴らしいものであるかをわきまえ知る
 罪人の自分が造り主なる神の姿に変えられる、などということが、あり得ることでしょうか。絶対にあり得ない不可能なことが、イエス様の十字架によって実現可能となったのです。何という「ありがたき幸せ」でしょうか?

★創造主のかたちとは?

(1)コロサイ1:15
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべての者より先に生まれた方です。」

 見えない神がもし見えるとしたら、それは人となって地上に生まれてくださった御子イエス・キリストです。

(2)コロサイ2:9
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
 イエス・キリストという形(器)の中には、神の満ち満ちたご性質が宿っています。神が内に住まわれている状態です。そして創造主なる神様は、御子イエス様を通して色々なことをして、ご自分を表現されました。

 私たちも、内に聖霊様が住んでいただけるにふさわしい形(器)に造られています。アダムとエバは元々そのように造られたのですが、罪を犯し堕落して神の霊から離れてしまいました。そんなアダムの形を受け継いだ私たちが、もうひとたび創造の目的に立ち返り、神のかたちに造り変えられることを実現してくださったのが、イエス・キリストの贖いの御業なのです。

☆創造主のかたちとは、キリストと同じ姿に新創造されること
 
 私たちは今、地上における大事な時間を過ごしています。
 
 神の栄光が輝く天国には太陽も月もなく、時を刻むような時間の概念もありません。日々新しくされるというのは、この世の人生だけに与えられていることなのです。

 だからこそ今、もっと、もっと、もっと、人格、徳、ご性質、能力、すべてにおいて人として最高の姿を備えておられるイエス様に似せられていきたいと願います。
 
 神様が私たちを見る時には、イエス・キリストを信じて新しく造り変えられた神の似姿である私たちの魂を見ておられます。ですから、喜んでくださいます。

 しかし、人間は外側の罪の姿ばかりを見て、批判的になったり不満を持ったりします。外を見るのではなく、中身を見てあげてください。意識して、内なるキリストの姿を見るようにいたしましょう。素晴らしいキリストの姿がそこに隠されています。 

★キリストに見る神のかたち
(1)マタイ9:13 → あわれみ深さ
「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 あわれみを好まれるヤーウェの神なる『わたし』と、罪人を招くために来られた『わたし』が同一の方、キリストご自身であることが、このみことばから分かります。イエス様は、罪人を救おう、罪人を招きたいと思ってくださる、あわれみ深い神様です。

(2)ヨハネ6:48-51 → いのちのパン
「わたしはいのちのパンです。あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」

 イエス様がご自身のことを「いのちのパン」であると言われています。体ではなく、霊、魂を生かす食物(パン)です。

 「いのちのパン」とは何でしょうか。皆さんも黙想してみてください。

(3)ヨハネ8:12 → 世の光
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」

 光はどのような働きをしているでしょうか。日常生活の中でどのように役立っているでしょうか。それをヒントに、神のかたちとは具体的にどういうものか考えてみてください。

(4)ヨハネ10:11 → 良い牧者
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
 
 羊のために命を捨てるのが「良い牧者」です。いのちを捨てるほどの覚悟をもって羊を養い育てておられるイエス様です。

 羊と羊飼い、キリストと私たち、互いになくてはならない大事な関係です。「良い牧者」と表現された「神のかたち」について、ご自分でも勉強し実感して頂きたいと思います。

★真の知識にいたる
(1)コロサイ1:19 → 神のみこころを知る
「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」

(2)ヨハネ17:3 → 永遠のいのちを知る
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

(3)コロサイ2:2 → キリストを知る
「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」
 
 皆さんも聖書を読んで、神のみこころ、永遠のいのち、神のかたちなるキリストについて、具体的に知識を得てください。そして知った知識を日常生活の中に生かしていくことにより、真の知識が身に付いて、さとりを得ることができると言えます。

☆真の知識に至るとは、生涯を通して唯一の神を知ることです。
 
 唯一の神を知るために、この人生、この世の生活すべてが与えられています。

 皆さんは唯一の神、イエス・キリストをどのように知ることが出来ているでしょうか。どれほどに知ることが出来たでしょうか。どのようなお方だと知ることが出来ているでしょうか。

 お互いにすべてを知って理解し合える夫婦は、一つとなり得る良い夫婦です。キリストと私たちも、そのように一体となれる良い関係にあります。

【デボーションノート】
 『仁義道徳の志』を強く持って、『知徳俊英』(優れた知識と徳のどちらも持っている)キリストの姿に変えていただける希望を抱いて、歩んでまいりましょう。

 まわりの兄弟姉妹と共に、みことばと聖霊の助けによって造り変えられていきましょう。

【短 歌】

 創造主  比べうるもの  他になし

その似姿に  造られし人


 他に比べようもないほど素晴らしい創造主の姿になるために、今あなたは存在しています。驚くべきことです。

 創造主の姿とかけ離れた自分の姿とのギャップを知る時、へりくだって、「どうぞ私を造り変えてください」と祈り願うのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年4月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

仁義道徳の志し  up 2023.4.16


主題聖句(ローマ7:18〜24)
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。




 

 復活の大事な意味についてお話をしてきています。
 
 イエス様の復活には2つの意味があります。
 1つ目は、復活によってイエス様ご自身が罪の無いお方であることが証明されたこと、即ち、イエス様が、私たちの罪を赦すいけにえ(代価)としてふさわしい方であることが証明されたことです。

 2つ目は、それゆえに私たちはキリストの十字架の贖いによって罪赦されて、そのしるしとして新しく生まれ変わる、という体験をするということです。

 例えば野球チームに入団するときはテストがあり、ある程度技能がないと合格しませんが、神の国のチームにはイエス・キリストを信じることによって誰でも入ることが出来ます。何も出来ないゼロの状態でスタートし、技能などは入団後に教えられ強められ磨かれて神の子として成長していくわけです。

 新しいチームで新しく出発する、これが復活の証です。

 それを見える形で表すのが洗礼です。イエス・キリストと共に十字架につけられて死に、罪は葬られ、そしてイエス・キリストがよみがえられたように、私たちもキリストと共に新しい人生を歩むためによみがえります。

 実際は、聖霊様によって新しく造り変えられたという魂の新生体験により、クリスチャン生活を始めていきます。最初は多くの失敗をしたり、罪の行いをしたりします。しかし、成長していけば正しい良心をもってコントロールできるようになります。私たちは今そういうクリスチャン生活の途上にあるのです。

 今日は神の国のチームに入ってからのクリスチャン生活について、「仁義道徳の志し」(人として守るべき正しい道。また、その道のかなう生き方のこと)と題して、お話をいたします。
 
 神のかたちに造られた者として、神の子として、神と交わりを持って、神と共に生きて、神の姿へと近づいていくこと、それが私たちの守るべき正しい道です。

 道徳的にも律法的にも、神の御おしえを100%守ることが出来るような成人した神の子に達するために、毎日私たちはその道を一歩一歩歩んでいる筈なのですが、いかがでしょうか。

★罪の赦しを受けた者の志し
 私たちは、「仁義道徳」の志しをしっかり持たねばなりません。途中であきらめたり妥協したりして、花婿を待つ乙女の例え話のように、婚宴の席に入れず悔しい思いをするような結果になってはいけないのです。

 皆さんが「仁義道徳」の志しをもって、あきらめないでクリスチャン生活を送っていただけるように、そして同じ志しをもってキリストの再臨に備えていただけるように、今日は(ローマ7:18-24)から教えられていきたいと思います。

★主題聖句内容観察より
(1)全体を通して言えることは、「心と体(肉)は別物」である
 パウロ先生は、「内なる人」、「私」、「肉」、「からだ」、というように使い分け、別物として区別して、その特徴を記しています。

(2)「善をしたいという願い」は心とたましいの願い
 いつも善をしたいと思うのは、キリストを信じて新しく生まれ変わった精神、心、たましいの根本的願いです。それが出来なくてあきらめてしまう者も多いのですが、パウロ先生はあきらめませんでした。なぜならその願いは、善に親しみ清さを愛する神様のかたちとして、神に似せて造られた私たちの本来の性質だからです。

(3)からだ(肉)には、「罪」が住み、宿っている→原理
 心、精神、たましいは善を行いたいと願っています。しかし実際にそれを実行する「からだ」には罪が宿っているので、悪を行ってしまいます。

 どちらも同じ自分だと思っているクリスチャンがおられますが、違います。善を行いたいのは新しく造り変えられたあなた自身であり、からだ(肉)にある罪の行いはあなたではありません。そこをしっかり分離して、見分けることが必要です。

(4)神の律法を喜んでいる「内なる人」
 神のかたちに新しく生まれ変わったあなたの本心は、神の律法を喜んでいます。神の律法をしんどいと思うのは、肉に宿る罪がそのように思わせる惑わしです。よく内側を吟味して、肉と心をはっきり分けましょう。

(5)からだの中には罪の律法がある
 旧約聖書では、何が御前に正しいことで、何が違反することなのかを知らせるために律法が与えられました。そして正しいことをするなら人は生きる、と教えられました。行いによって義と認められるということです。

 しかし、からだには罪が宿っているので、神の律法を実行することができません。

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという信仰に立っています。どんな罪人でもキリストが十字架で身代わりに罪を負って処分してくださったので、神様はキリストを信じるこころを見て、罪が無い、義人であると認めてくださいます。

(6)心の律法に対して罪の律法が戦いを仕掛けてくる
 私たちの心には神の律法があって、体の中の罪の律法が、罪の世界の価値観を持ち込み、戦いを仕掛けています。誘惑です。心には葛藤や苦しみがあります。

(7)からだの中にある罪の律法が心をとりこにしている
 私たちは神様に買い取られた神の所有の者です。しかし、からだの中の罪の律法の虜となっていて、罪の側のいうことを聞かざるを得ない状態にあります。抵抗できず、自制できない状態です。

 体を持っている以上、罪との戦いは避けられません。勝利するしかありません。罪が死をもたらすのですから、罪に勝利するということは、死に勝利するのと同じ意味をもっています。

(8)内なる人の悲痛な叫び
 「誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。」これは敗北宣言ではありません。それでも前進することをあきらめず、「仁義道徳」(人の道)を全うしたいと叫んでいるのです。

(ローマ7章25節)「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
 ここに表れているパウロの結論は、肉は肉、心は心。
 
 神の律法に心は喜んで仕え続けていきます。決して罪の律法に影響されてそれに仕えることも、妥協することもありません。

 逆に、肉は罪の律法に仕えて、欲望を通して好き勝手に罪を犯していき、決して神の律法を受け付けません。

★パウロの心を観察 
(1)本当の自分は内なる人である自覚
 私は新しく内なる人が造り変えられて、神の律法を喜ぶものとなった、神のかたちを取り戻すことが出来ている」という信仰が、罪との戦いの盾となっています。

 皆さんは神の律法を喜んでいるという自覚はあるでしょうか。新しく造り変えられた内なる人を守るために、何があっても私は神のかたちとして今存在しているんだ、と信仰を働かせているでしょうか。

(2)内なる人は、神の律法を喜び、それを心の律法としている
 神のみ教えは、神の子である私たちを生かしてくださいます。からだはどうであろうとも、神の律法は私の心の律法ですという自覚がパウロにはありました。

(3)パウロの志しは、神の律法に生きること=「仁義道徳」
 パウロの目指す生き方、ゴールは、神の律法に生きることです。

【デボーションポイント】
◎新創造された内なる人の志しを感じていますか?

◎罪の律法と戦っていますか?

◎内なる人の本心からの叫びによって主を求めましょう。

 神の子として生きようとすると、罪の律法との戦いがやってきて、その志を崩そうとしてきます。しかし、苦しい戦いの中でこそ、必死に主を求め、主に近づいていけるのではないでしょうか。

 もし困難や苦しみがやってきたときには、内なる人の本心からの叫びに目覚めるようにと、神様があなたを導いておられるのかもしれません。自我を捨て、高慢を捨て、心を柔らかくして冷静に取り組んでいくことを通して活路が見いだされていきます。
 あなたの中にはイエス様に本心から必死で求めていくような、どんな強い願いがあるでしょうか。

【短歌】

諦めず  仁義道徳  目指す日々
  御霊の助け  内なる人に

 
 よみがえった内なる新しい人は、聖霊に満たされて神の霊と一つになって成長していきます。

 「仁義道徳」の志しを全うできるように、死ぬべき体をも生かしてくださる御霊の助けを得ながら、クリスチャン生活を歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年4月9日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

キリストによって生かされる  up 2023.4.9


主題聖句(第1コリント15:19〜22)
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。




 

私たちを救いへと導く”福音”は、主に3つの出来事で構成されています。

(1)キリストが私たちの罪のために死なれたこと。
(2)キリストが葬られたこと。
(3)キリストが3日目によみがえられたこと。

この3つの出来事が現実にこの地上で起こったので、神が神であることが証明され、罪人が義人とされ、人の人生は死で終わるのではなく、復活による希望があることが示されました。

これが福音の中心です。私たちにとって、これ意外に真に幸福を得ることはないのです。

特に、キリストの復活はとても重要な出来事であり、この復活があったからこそ、私たちの信仰の歩みは生きたものとなっているのです。

1コリント15:19にある、「この世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」とは、キリストが歴史上の人物の一人であり、他の偉人と同格の人物で、死んだ人を神と信じていることになります。しかし、キリストはよみがえりました。聖書に書かれている通りに、復活されたのです。復活は、存在していることを表します。今も生きて存在している神を私たちは信じているのです。いのちのない偶像の神は、存在しないものなので、それらを神と信じ、単なる希望を抱くのはむなしいことです。

生きた神とそうでない神の比較が、この1コリント15:19で表現されているのです。

(1コリ15:17)
もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

さらに、キリストの復活によって、私たちは罪の中から解放されました。神の前に、罪赦された存在となったのです。これほどの良い知らせがあるでしょうか!

キリストの復活があったからこそ、信じる私たちの信仰が生きたものとなり、罪からの解放をもたらした。むなしい人生から生きた人生に変えられたことを心から感謝します。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年4月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

イエスはなぜ、罪の贖いのために苦しまれたのか  up 2023.4.2


主題聖句(エペソ5:25〜27)
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。




 

 私たちは、初めと終わりを見失わないことが大切です。私たちの原点は何か、最終ゴールの目的は何なのか、これを知らなくては、何のために歩んでいるのか、いま迷っているのかいないのか、何も分からなくなります。

 私たちの存在目的は、「神のかたちに造られた」ということであり、その完成が最終ゴールです。アダムとエバはエデンの園でスタートを切りましたが、途中で誘惑に負けて道をそれてしまいました。しかし、神様はもう一度、元のコースに戻ってゴールに至るようにと、その戻る道を、救い主イエス・キリストを通して聖書の中に記され、歴史の中に刻んでくださったわけです。
 イエス様は私たちの罪の贖いのために十字架で苦しまれ死んでくださいました。その結果、私たちに罪の赦しが与えられるのですが、赦しは最終目的ではありません。最終目的を達成するための段階です。

 今日の主題聖句(エペソ5:25-27)には、赦しの最終目的が語られています。それをまとめてみますと、このように言えます。

◎愛によって「高潔無比」の花嫁のような人々(教会)を御国に迎え入れるため。

 「高潔無比」とは、ほかに比べようもないほど、気品の高い、きよらかな、完成度の高い人格を言い表しています。

 ですから、救われて罪赦されて終わり、ではありません。金や銀が精錬されるように、神様はこの世の様々な試練を通して、私たちを練りきよめ、強めて、そして花嫁のような教会を御国に迎え入れることを願い、ご計画されているのです。

 きよめられることが、救われたことの目的です。今日はそのことをしっかりと受け止めて頂きたいと思います。
 神の子として新しく造り変えられた私たちを、素晴らしい「キリストの花嫁」の姿へと変えていってくださることは、私たちにとって大きな希望と喜びです。善に親しむ楽しさ、きよめられる幸せ、これは新しく生まれ変わった心で生きてこそ味わえることです。

 古い思い、感性、主観、それらはもう過ぎ去ったものとして捨て去り、私は神の子として新しく生まれ変わったのだ、という心で聖書を読み、クリスチャン生活を楽しんで頂きたいと思います。

◎苦しみを通して真実な愛を明らかにし、その愛に応える人々が、神の愛によって比べるものがないほど、気高く清らかで汚れのないものとすることを目的とする。

 イエス様が苦しみを通して明らかにしてくださった真実な愛が、私たちをきよめます。真実な愛が私たちを気高いものとして育てます。真実な愛が私たちを清らかな生活の中へと導いてくださり、汚れから離れるように助け励ましてくださいます。真実な愛を知ると、きよめられることの希望を持てます。神様の真実な愛、それに触れることを通して、私たちの堕落した心は悟りを得て歩むことができます。

 イエス様を信じたら何をやっても赦される、好き勝手な楽しい人生が待っている、というのはイエス様の十字架の苦しみの目的から反れた的外れの生き方、罪の生活です。

(第1テサロニケ4:7)
「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためである。」

◎罪を赦す救いを与えてくださったのは、欲求のままに生きるためでなく、神の愛による聖めを得させるためです。
 罪をやめるというのは努力ではなく律法でもありません。
 愛がその人に罪から遠ざかる力を与えてくださるのです。愛する者のためにという愛の力で、悪から遠ざかり善に親しむこころが内側から湧き上がってくる、これが愛の働きです。

 キリストが愛する教会のためにご自身をおささげになったように、愛する者は、愛の行動をとります。そして愛された者は、そのように愛してくださった方のために生きたいという、愛に応えようとする志が湧いてきます、これがあらゆる罪から私たちを引き離す原動力です。

 夫のために妻のために、酒をやめよう、かけ事をやめよう、悪癖をやめよう、これは愛するがゆえの愛の行動です。強い愛は、あらゆるものを犠牲にできる強さをもっています。

 神は私たちを愛して、人となってこの地上へ来られ、33年間の地上生涯を一つも罪を犯さず、罪無きいけにえとなって十字架でいのちをおささげになられました。これほどの強い愛をイエス様は保ち続けられました。

 私たちは最初からそのように強い愛を持ってはおりません。さまざまな体験を通して知っていくのです。愛しているつもりでも、「本当にそうなのか」と思うこともあります。しかし、だからダメなのではありません。どんな状況が起こっても愛し続けようという強い愛が生まれるために、私たちの人生のプロセスがあります。からし種ほどの小さな信仰(愛)でも、山を動かせるほどに強いのです。愛があれば、どのような悪にでも勝利できます。

 勝利するための戦いの辛さはありますが、悩むのではなく、勝利を手にできる強さを得ていくという希望のもとに、愛によるきよめを受けていこう、と前向きにとらえるのが新しき人の心です。
 賞を目指すスポーツ選手のようにあきらめないで、不敬虔な肉からくる罪の誘惑に勝利していきましょう。神が後押ししてくださいますから必ず出来ます。

◎『聖い』とは、どのような状態のことをいうのか?
 罪を一つも犯さないとか、汚れたことをしないとかは結果的なことであり、志が清くあれば、生活や行動も結果も清い実を結んでいくことができる、というのがイエス様のお考えです。

 外側を清めても内側が汚れている器は使えません。内側が清い状態とはどういう状態か、ミカ書とホセア書から見てみましょう。
(ミカ書6:8)
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」

※公義を行うこと。

※誠実を愛すること

※へりくだること

※神と共に歩むこと

 ミカ書には、この4点を、主が私たちに求めておられる良いこととして告げられています。聖いということの具体的な内面的条件です。聖い神の一部として神に属する者という状態です。

(ホセア書6:6)
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」

◎誠実とは、神の前に気高く、清らかで、汚れのない心のこと。

 交わりを通して神の聖さと愛に触れ、深く神を知ることができる。

◎聖い愛の神との深いかかわりを持つ

 神様との交わりの中で、良い影響を受けて、神の前における誠実さは育っていきます。すなわち、高潔無比の人格が育ちます。

 祈ること、聖書を読むこと、兄弟姉妹を愛し交わることは、聖い愛の神様と深く交わることにつながります。そうして、「誠実」はますます磨かれていくのです。

【デボーションノート】

(1)愛に触れる(愛される)

(2)信頼と尊敬が生じる  

(3)誠実な心で応える?仕える

(4)愛する人を深く知り理解できる

 今週はこの4つのポイントを黙想していただきたいと思います。

 私たちは愛される時、信頼と尊敬が生まれ、愛してくださる方に誠実な心で愛することによって応答しようとする心が生まれます。これを「仕える」と言います。この仕える心を通して、愛する人をより深く知り理解していくことが出来るようになります。

 今週は受難週です。なによりも、私たちのために十字架でイエス様が苦しみを受けてくださったことを通して、私たちは神に愛されているんだと、心開いてその愛に触れていただきたいと思います。

◎主なる神、愛の神キリスト・イエスの素晴らしさを知っていますか?

 イエス様の愛のすばらしさを知れば知るほど、神様の愛の虜になっていきます。どうぞ主の愛の素晴らしさ、いのちまで捧げてくださった聖い愛を見出してください。

【短歌】

 満開の  桜のもとで  思うこと

  咲く美しさ  散る美しさ


 満開の桜が美しく咲く姿は、まるで油注がれた救い主として地上を歩まれたイエス様の素晴らしいご生涯のようであります。

そして、散っていく桜を見ると、十字架で私たちのために命をささげてくださったイエス様のご愛の美しさを思わされるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年3月26日 日曜礼拝メッセージより(大田 裕作 師)

大田裕作師メッセージ  up 2023.3.26


主題聖句(マタイ13:44〜46)
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。




 

 今日はキリストに従う献身のメッセージをしたいと思います。
 イエス様は天の御国を例えで語られています。イエス様は多くのことを例えで語られました。それは、天上にあることは地上のことで例えないと誰にも理解されないからです。
 
 天の御国は畑に隠された宝のようなものだと語られました。
当時は財産を保管するには、銀行に預けるよりは地面に隠した方が安全だったのです。
 しかし、火事や戦い、あるいは流行病などで宝を隠した人が亡くなってしまうことがありました。

 ある時、小作農の人が借りた畑を耕していた時、土の中に宝の入った壺が隠してあるのを見つけました。
 
 その小作人はその宝を埋め戻して、大喜びで家に帰り、持ち物をすべて売り払って地主に持って行き、無理にでもその畑を自分のものにするでしょう。

 もう一つの例えは高価な真珠を探している真珠商人の話です。真珠が取れるという所にはどこでも行き、高価な真珠をひとつ見つけたら、そのひとつのために、今まで持っていたすべての真珠、財産を売ってでも、その高価な真珠ひとつを買うでしょう。
この例えは何について言っているのでしょうか。

 これこそ天の御国であり、福音のことです。天からくだってきた福音がどれほど価値があるかを例えているのです。それは地上の何物にも比べられない次元の違うすばらしいものです。

 私がお世話になったアンテオケ宣教会の初代の総主事であった奥山実先生は、「もしキリストの十字架の福音を宗教と呼ぶなら、他のものはどれも宗教と呼ぶことはできない。もし、他のものを宗教と呼ぶなら、イエス・キリストの十字架を宗教と呼ぶことはできない。まったくジャンルが違うものであるから。」と教えられました。

 私はなぜ献身したのでしょうか。中学まで、三重県の南の小さな漁師町で育ちました。高校になり、同じ三重県でももっと大きな町ですごしました。
 しかし、中高と私は一度も福音を聞いたことはありませんでした。
 自転車通学の途中に松坂ルーテル教会の前を通りましたが、こんな所には一生出入りすることはないといつも思っていました。
 日本のクリスチャンでない人たちはみんなそうでしょう。
 未信者の86%はクリスチャンと中身のある話はしたことがないと統計が出ています。
 ましては未信者が牧師と話すことはほとんどないのです。

 私は親の希望によって経済大学に入学して、税理士や会計士になるための経済学を学びましたが、全く興味を持てませんでした。
 私は人が好きだったので、本当は学校の教師になりたかったのです。しかし教師という職業を親は嫌って反対され、仕方なく経済の学びをしていました。
 
 単位も取れず、このままだったら卒業もできそうにないと、大学3年の時さすがに不安になり、学校の近くに下宿がないかと探しました。
 ちょうど学校のすぐそばに「関西福音センター」とローマ字の看板のある建物に下宿できることになり、そのビルの4階に下宿することになりました。
 
 そこの2階と3階には聖書学院があり、1階は教会でした。
親には、学校の近くに下宿を見つけたのでそこに引っ越す事になったことを告げ、1階から3階はキリスト教の施設が入っているが、4階はただの下宿だし自分はキリスト教に入るわけはないからと伝えました。
 そこが酒タバコ麻雀禁止で、門限10時だったのも魅力でした。少しでも控えられたらとひそかに願っていたからです。
 
 実は辞めようと思っても辞められず、自堕落になっている自分にほとほと嫌気がさしていたのです。
 
 たまたま後輩が出て行き、代わりに自分が入居できたと思っていましたが、人にとっての偶然は実は神様が支配されているのです。神様がご計画されているのです。
 
 そこで牧師と初めて話しましたが、大変ゆっくり話す方でした。その時、日曜の礼拝に誘ってくださいました。
 
 礼拝に出ると結構にぎやかな手拍子をする教会で、その元気さ明るさにとても驚きました。
 
 最初は警戒していましたが、当時神学生だった在原繁師が(今はアルゼンチンの宣教師)よく部屋に来るようになり、他の神学生などとも話すようになり、そのうちこの人たちは本物だ、本当に喜んでいるのだと分かってきました。
 
 彼らは自分は罪人で罪に弱かったが、イエス様の十字架で罪が赦されたと言うのです。
 
 実は自分が一番欲しかったのは罪の赦しだったのです。親が教えもしなかった悪いことをたくさんしてしまい、自分は絶対地獄に行くと思っていたのです。そういう恐れの中で、罪咎を赦されたという話を聞き、罪の中にいたが、今は変わったという人たちの証しを聞くうちに心が揺さぶられるようになりました。
 なぜこの人は防衛大学という将来も保証されたすごい所を辞めてまで、この神学校に来たのか、またある人は多くのプロ野球のスカウトを蹴って神学校に来たのか、驚くばかりでした。
 イエス様はそれほど値打ちがあるのかと、たくさんのインパクトを受けました。
 
 そしてヨハネの福音書を読んでいて、姦淫の女を聖職者たちが捕らえて、イエス様のところに引っぱって来て、石打の刑を求めた時、イエス様は「あなた方の中で罪のない者から石を投げなさい」と言われ、年寄から去って行き、遂には誰も残らず、イエス様も「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われたところを読みました。」 
 
 その時、私の内側に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはならない。」と神様の声がかかりました。その時私は罪が赦されるということが分かったのです。
 私が21歳の時でした。罪が赦されたということが上からの知識として私の内側に入ってきたのです。天的な啓示です。その時イエス様こそ主だと分かったのです。これは聖霊の働きによります。
 
 罪赦されたという喜びが腹の底から湧いてきて、自分も牧師になろうと決心したのです。この宝を見つけた喜びのゆえに持っているものすべてを売って、この宝を手に入れたいと心から願ったのです。
 
 経済大学の同級生がみんな就職活動に励んでいる時、私は牧師になりたいと言い、周りの友人たちに証ししました。実はまだ洗礼を受ける前でした。
 貯金も業績も何もなくても、この体を主にささげて来ました。

 世界の宣教師のひとりにC・T・スタッドという人がいます。彼は英国人で親は裕福な貴族であり、ケンブリッジ大学に通う優秀な青年で、将来は総理大臣になると期待された人でした。
 彼はある時D・M・ムーディーという宣教師のメッセージを聞いて改心し、自分の財産すべてを売り中国宣教団体にささげて、自分も宣教師になり、中国で6〜7年宣教し、体を壊してイギリスに帰り、今度は妻を連れてインドに行きましたが、やはり体を壊して6〜7年で帰りました。帰国してからは牧会していました。
 
 50代になってから道を歩いていた時、彼はある看板に気が付きました。それは「人食い人種が宣教師を求めている」という看板でした。
 
 それを見て、ロンドン市民の5割が教会に来ているのに、どうして若者が行かないんだと嘆いた時、聖霊が「あなたはどうですか」と聞いてこられたのです。
 
 中国宣教で体を壊し、インド宣教で体を壊し、妻がメンタルを壊してしまい、今自分も療養しているような状態なのに、聖霊は「あなたはどうですか」と言ってこられたのです。
 
 彼は奥さんを置いて、単身でコンゴに行き、アフリカの宣教に行きました。彼は最後に「神がキリストにおいてなしてくださった犠牲に比べたら、この地上でどんな働きをしても犠牲とは呼べない。」言い残しています。
 
 彼は一日に16時間働きながら宣教し、最後は過労で天に召されました。
 
 私たちが福音を聞くまでに多くの宣教師たちが海を超え、多くの犠牲を払ってくれたのです。彼らのおかげで、今の私たちがあります。

 日本の美しい文化はお返しの文化です。しかし日本の多くの教会は充分お返し出来ずに今に至ります。
 日本には3500人もの宣教師がアメリカやイギリス、ドイツ、ニュージーランド、韓国などから来ています。しかし、日本からは200人超えたかどうかです。
 世界のクリスリャンたちの多くの犠牲によって今の日本の教会があります。人を創り変える福音の力によって、ぜひ、宣教師となってお返ししていただきたいと願います。
 
 闇の中にいる人々を光の中に連れて来ましょう。先に福音を聞いた私たちがやるのです。
 世の中の人は実はカラカラに渇いています。罪の赦しの福音を聞きたいのです。きよく生きたいのです。

 小学生の時、尊属殺人という記事を読みました。めったに起きない殺人でした。
 しかし、今は殺人事件の半数が身内によるものです。結婚の乱れ、不倫、罪とも思われない無茶苦茶な時代です。
 
 どうか口を閉ざさず、キリストの福音を周りの渇いた人々に伝えていきましょう。
 イエス様は「ついて来なさい」と言われました。すべてをささげて自分を主の前に差し出していきましょう。
 イエス様は先に歩いてくださいます。死んで葬られて黄泉に下り蘇って、天に登り、その天から私たちを迎えに来てくださいます。
 祝福された価値ある人生を送ることができます。ついて行かないとイエス様の姿が見えなくなってフラフラしてしまいます。
 信じて、従うことが信仰です。イエス様を見失わないように、しっかりとイエス様に従って行きましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年3月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

人は『尊愛赦人』のために救われた  up 2023.3.19


主題聖句(ガラテヤ2:20)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。




 

【ガラテヤ2:20】の4つのポイント
(1)キリストと共に十字架につけられた
神の愛による罪の赦しが与えられた

 罪の人生を歩んでいた私たちは、罰せられるべき者でした。
しかし、キリストが十字架で罪人として処分されたときに、私たちの罪もそこで同時に処分されました。

 ですから今、たとえ私たちに罪人の現実が見えたとしても、神様はキリストの十字架というフィルターを通して私たちを見てくださるので、私たちの罪は処分済、私たちは罪赦された者とみなされます。
 
 そしてそのことは、キリストの名による水のバプテスマという、キリストと一つに合わされる儀式を受けることを通して現実に成就します。私たちはキリストの死と葬りと復活に一つに合わせられた者です。
 
 キリストと共に十字架につけられて、私たちの罪は処分され、キリストがよみがえられたように、私たちもキリストのいのちによってキリストと共に復活させられて、新しく造り変えられた自分が今ここに生きているのです。

(2)キリストが私のうちに生きておられる
神の愛によって新創造された私に、いのちであるキリストが宿られる

 罪赦された私たちは、新しく創造された者です。すなわち、ここにいる私たちは、赦される以前のいのちによって生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられ、キリストのいのちによって生かされている、新しく創造された者なのです。

(3)肉にあって生きている
 罪の宿る肉体のうちに、罪に支配されない新しい私の魂が生きている
 キリストのいのちは、罪に支配されることがありません。ですから、キリストのいのちに生きている私たちは、肉に宿っている罪の力、誘惑や貪欲に支配されることはありません。
 
 しかし、影響は受けます。一時的に罪の影響は受けますが、それに縛られて罪から離れられない、ということはありません。心を入れ替えることができます。これがキリストのいのちを頂いている者の良き知らせです。
 
 欲を手放せず、心を入れ替えることができないのは、貪欲という罪です。クリスチャンであっても、自分はキリストのいのちを宿しているのだということを認めていないと、そのようになります。
 
 クリスチャンであるあなたのいのちは、キリストご自身です。
キリストは罪の結果、一度死なれましたが、死に勝利してよみがえられました。私たちクリスチャンも一時的に罪や欲望に影響されることがあっても、それを切り離す力、キリストのよみがえりのいのちが宿っていますから、罪に立ち向かえば止められるのです。
 
 立ち向かえないのは、離れたくないという隠れた本性があるからです。罪を手放したくない、と自分で掴み続けているので、キリストのいのちが宿りません。キリストを信じていない時の自分のいのちが生き続けているのです。

 信じるだけでキリストのいのちは宿ってくださいます。強い貪欲よりも更に強く私たちを支配してくださるキリストのいのちが、内に宿られていることを信じましょう。

(4)神の御子を信じる信仰
罪のもたらす貪欲に打ち勝ち、神の愛に頼る互いに赦し合う人生
 神の御子を信じるとは、全面的に神様に頼るということです。
神に頼らないでは、罪と戦って勝利することも、真理に歩むこともできません。私たちは弱いのです。
 
 世捨て人のように人里離れて住むのではなく、誘惑の多いこの世で、罪と戦って生きることが出来るのがクリスチャンです。これは奇跡です。神の力がなければ絶対にできません。この罪の世で、キリストが清く生きられたように、私たちもそのように生きるようにと、神様はご計画されているのです。罪人の救いとはそういう意味です。
 
 自分の願望が叶えられるためにイエス様が十字架にかかられたのではありません。まず神様の私たちへの愛、罪人が救われた目的が第一に優先されて、次に私たちの願いがそこに組み込まれて、かなえられる(こともある)のです。

【ガラテヤ2:20】内容観察とまとめ
 私の罪はキリストと共に十字架で処分されました。今の私の命はキリストの命です。新しい命が罪の宿る肉体のうちに生きているのは、神の愛を最も重要なものとして互いに赦し合う、罪と貪欲に打ち勝つ神の子として生きるための人生なのです。

【デボーションポイント】
 罪に縛られた世界から救い出してくださった神様の愛には、はっきりとした目的や計画があるのです。

 神様の救いは、単に溺れている人をかわいそうに思った、というのではありません。罪の奴隷として生きるのではなく、神のかたちとして生きるようにという願いをもって罪人を救われます。
 
 神のかたちとはキリストであり、キリストとは(エペソ4:32) 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と、これがこの地上を歩まれたイエス様の姿です。

 教会のすべてのクリスチャンたちは、これを目指してクリスチャン生活を進めていくようにと神様は願って、あなたを罪の奴隷から解放し、罪の裁きから救い出して、今導いてくださっておられるのです。

(エレミヤ29:11)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

【俳句】
罪人に   春光注ぐ   赦しの愛

 罪人にとって、神様の赦しは春の光、希望です。
 
 寒い冬のようだった罪の人生が、イエス・キリストを通して春光が注がれ、心温かく明るく変えられていきます。そして季節が進んでいくように、私たちの心も清められ成長していくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年3月12日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

悔い改めの恵みと祝福  up 2023.3.12


主題聖句(詩篇51:17)
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。




 

【今日の主題】「悔い改めの恵みと祝福」
◎悔い改めは、心が砕かれ、心が変えられることから始まる。
◎悔い改めは、過去を捨てること、悪いものを捨てることである。
◎悔い改めは、方向転換、最終的に神様に心を向けることである。

1.救いの順序
(1)悔い改める 
(2)福音を信じる
(3)信じ告白し洗礼を受けて新生する
(マルコ1:15)
「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
 イエス様ご自身も宣教活動の最初のメッセージで、救いは悔い改めることから始まることを語られています。

2.悔い改めとは何か
 悔い改めるとは、今までの悪い所に気付いたらやり直すこと、完全に方向転換することであり、心が神様に向くということが大事です。単に後悔することとは違います。後悔するというのは、過去の自分の失敗を悲しみ悔やむだけで、心は神様に向いていません。

(第2コリント7:10)
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
 後悔するだけで心が神様に向いていない、そういう「世の悲しみ」は救いには至りませんが、悲しんで神様に心を向ける悔い改めは救いに至る、ということをこの聖句は教えていると思います。

3.悔い改めて方向転換した人々
◎ヨナとニネベの人々
 ヨナは神様から、人々の救いの為にニネベの町に行くようにと言われましたが、それを拒んで逃げ続けました。最後は、魚に飲み込まれ、魚の腹の中で深く悔い改めて神様に立ち返りました。そして方向転換してニネベに行ったのです。
 ニネベの人々も、「滅ぼす」という神様のおことばをヨナから聞いて、全員一人残らず悪の道と横暴な行いを悔い改めて神に祈り願ったので、神はその思いを変えられた、とヨナ書に記されてあります。彼らも神様の方に向きを変えたのです。

◎パウロ
 彼はキリスト教徒を迫害する者でした。しかし、復活されたイエス様に出会った彼は、悔い改めて方向転換し、イエス・キリストを宣べ伝える者となりました。
 聖書にはそのように悔い改めた人のことが多く記されていますが、今日は特に放蕩息子の例え話から詳しく見てみましょう。

4.放蕩息子の悔い改め(ルカ15:11-24)
◎我に返った
 ルカ15章17節に、「息子は我に返った」と書かれてあります。
 それまでの彼は、自由に好き勝手にやりたいという放縦の中にいました。しかし自由どころか罪の奴隷となり、財産もなくなり、飢饉に襲われ、大変な懲らしめを受けました。そこで彼はハッと気が付きました。私には豊かな父がいる、と我に返ったのです。
 これはクリスチャンが未信者の時に、我に返って神様のところに帰っていく体験とよく似ています。
 「そうだ、私には造り主なる神、私を愛してここまで育ててくださった神様がいらっしゃるんだ」と、私たちはハッとさとって我に返り、「素晴らしい父のところに帰ろう」と、イエス様の救いを受けて神の子とされたわけです。

◎立ち上がり、家に帰る決心をした
 この放蕩息子はハッと気づいただけでなく決心し、立ち上がって家に帰る行動をしました。

◎実際に家に帰って父に悔い改めをした
 息子は飲まず食わずに歩いてボロボロの姿のままでお父さんの家に帰っていきました。
 お父さんは息子が必ず帰ると信じて門の所で毎日待っていたのでしょう、遠くの方に息子の姿が見えるや否や、かわいそうに思って駆け寄って行って彼を抱きしめました。
 息子は、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪あるものです。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」と罪の告白をしました。

◎父の愛とあわれみ
 「雇人の一人にしてください」と息子は言うつもりでしたが、お父さんはそれを言わせず、急いで息子の為に一番良い服、指輪や履物を用意させ、子牛を料理して大宴会の準備をさせて、以前と変わらず相続人の一人として息子を迎えました。
 この息子はやりたい放題やって財産を使い果たした放蕩息です。良いことは何もしていません。しかしお父さんには、息子の悔い改めの心だけで充分だったのです。
 私たちも何も良いことの出来ない者でありますが、神様は私たちの心が神様の方に向くことを一番喜んでくださいます。私たちの全部の罪を赦してくださり、祝福してくださり、神の子どもにしてくださり、大宴会を催して喜んでくださる愛とあわれみの神様なのです。

◎悔い改めの祝福
 そこで、もう一人の兄息子が「どうして財産を食いつぶしたような弟の為にこんな宴会をしているのか」と怒りを表した時、お父さんは「弟は死んでたのに生き返り、いなくなったのにみつかったのだから、喜ぶのは当然ではないか」と答えています。
 私たちも神様の目には死んでいた者、そのままでは永遠の滅びに至る者でした。しかし、私たちが神様の方に向き直り、行動して、悔い改めた時に、神様はボロボロになって帰って来た放蕩息子を抱きしめて喜ばれたように、天では喜びの大祝会が催されます。
 私たちはそのように神様から歓迎される者なのです。これからも神様の子どもとして祝福の中に入れられていることを感謝いたします。

 神様は今も待っておられます。私たちの神様は責める方ではありません。よく帰ってきてくれた、と喜んでくださるお方です。
ですから自分は何も良いことが出来ていなくても、ボロボロであっても、「神がいる、父がいる」と我に返って、神様に心を向けたいと思います。方向転換して進んでいきたいと思います。悔改めの祝福を受けたいと思います。
 神様は大いに喜んで迎えてくださいます。素晴らしい祝福の神様に愛されていることを感謝します。

【参考聖句】
(詩篇147:3)
「主は心の砕かれた者をいやし、彼の心の傷をいやされる。」

「悔い改めは、神の恵みを受けるための道である。」(ビリー・グラハム)

 神様は恵みを施したいと思って沢山のことを用意して待っておられます。私たちが神様から目を離して自分勝手なことをしている時には受けることが出来ませんが、悔い改め立ち返る時に、神様は喜んで恵みを豊かにくださることを覚えておきたいと思います。

【デボーション・ノート】

(1)主が今日、私が示されたことは何でしょう。

(2)今日から私がチャレンジすることは何でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年3月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

巣林一枝の謙虚さ  up 2023.3.5


主題聖句(ピリピ3:16)
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。




 

前回の復習【大事なポイント】
1.主を喜ぶことは力という救いの喜び
(ネヘミヤ8:10)
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。』」
 主を喜ぶことはまず初めに私たちがするべきことです。永遠の救いを与えてくださったことを喜びましょう。

2.新しい創造こそ大事という信仰
(ガラテヤ6:15)
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
 神様を喜び、自分は新しく造られたということを信じましょう。

3.教会が目指すべきキリストの姿
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
 このみことばはぜひ暗記しましょう。
(1)互いに親切にする
(2)互いに心の優しい人となる
(3)互いに赦し合う…新しく造られた者はこの赦しの素晴らしさがわかります。理想的な交わりに必要なことです。

【第七回目】
「巣林一枝」の謙虚さ
(ピリピ3:16)
「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」
★「巣林一枝」の意味
◎分相応に満足すること
 林の中には数え切れない枝がありますが、そのうちのひとつの枝を選んで鳥は巣をひとつ作ります。それで満足します。
私たちも分相応に達し得たところで満足することが必要です。

「あるがまま」に「ありのまま」を、基準として進む。

1)「あるがまま」と「ありのまま」
 一般的にはほぼ同じ意味で使われています。良い意味にも悪い意味にも取られます。悪い意味では、わがまま放題、自制心がないという状態を示します。
 良い意味(スピリチャル的宗教的)としては意味が少し違います。今日はこの教会で使われる意味で語ります。

A)「あるがまま」
◎人」は神のかたちである
(創世記1:27)
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 人という存在は何であるか、創造された目的に従った生き方を「あるがまま」と言います。
 アリはアリ、ネズミはネズミです。ゴキブリは人が勝手に害虫として認定してしまいましたが、漢方では大変重要な存在です。
 私たちは神の形に似せて造られました。それがあるがままです。周りがあなたをどう評価しても関係ありません。あなたは神の形として大切な存在なのです。

B)「ありのまま」
◎今の私となりました
(第1コリント15:10)
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そし」て、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
 
 パウロは最初クリスチャンを迫害して投獄していました。それゆえ、クリスチャンの前に出ることは辛いことでしたが、彼は「神の恵みによって今の私になりました」と告白しています。
私たちの根本は神の形です。そして今ある自分がありのままの自分です。そして、そのありのままの自分は神の子としての完成を目指して日々生きています。
 
 私もイエス様に出会うまでは、自分のあるがまま、ありのままを出すことができない本当に虚しい日々を送っていました。
しかしクリスチャンになって、ひとつのゴスペルに心がゆさぶられました。そのゴスペルを紹介したいと思います。

「そのままでいいんだよ」
いろんなことがありましたよ
イエス様信じた後も
だけど僕の心のなかにいつも喜びがある

悲しいこともありましたよ
苦しみ悩んだことも
だけど僕の心の中に
イエス様への感謝の歌がある

君もおいでよ イエス様のもとへ
そのままでいいんだよ
新しい人生だから
 
 イエス様を信じても多くの苦しみがあります。その時は牧師ではありませんでしたが、今は牧師です。
 40年経って、「あるがまま」も「ありのまま」も牧師です。
 そして、達し得た今日の基準からさらに前に進むという基準で毎週メッセージを語っています。

●キリストを信じるとは、二つの自己受容をすること
 私は自分で好んで牧師になったわけではありません。しかし今も牧師です。
 
 私たちは二つの自己受容をしなければなりません。色々な牧師がいます。その多くの牧師の中で、私が作った枝はひとつしかありません。この自分が何者であるか、ひとつの枝である自分を受容しなければ、私たちはありのままの自分を見失ってしまいます。
 
 あるがままという、自分が何者であるかが分からなかったら、ありのままの自分も分かりません。それで五感に頼ってその場しのぎの生き方になってしまうのです。
 
 しかしクリスチャンは神の形に似せて造られたと知っています。ただ、それを喜んでさらに完成を目指して進むのか、自分は無理だと身を引くのか、それはそれぞれです。

 しかし、いくら何をしても「神の形」である自分に変わりはありません。他の何かにはなれないのです。たしかにまだ未熟であっても、「神の恵みによって今の私になった」と自分を受け入れましょう。

 例え相手に悪く評価されても、それは相手がそう評価しているだけで、あなたの価値が変わるわけではありません。あなたやその相手を良いか悪いかを最終的に判断されるのは、ただ神様だけです。
 
 神様は「わたしの目には高価で尊い」と私たちを見てくだています。
 それを信じて今日を基準に一歩一歩前に進んでいきましょう。

2)自己受容は謙虚さ
 謙虚さは自己受容の表れです。高慢な人は周りと比べて優れたと思える自分の面だけを受け入れます。評価されない自分は拒絶するのです。しかし私たちには神の評価基準があります。

◎神は陶器師、私は陶器
(ローマ9:20)
「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか。」
 
 このみことばを受け入れられない人がいます。確かに私たちはどういう国のどういう家庭に生まれるかを選ぶことはできません。
 しかし、大切なのはどのような器にしても、「必要な器として造られた」ということです。色々な必要に合わせて色々な器が造られるのです。
 
 そこに高級、安物という差をつけて評価する必要はありません。陶器師である神様は必要とした用途に合わせてあなたを造られたのです。あなたは必要なのです。自己受容しましょう。人と比較して心を騒がせたり、優劣をつけて、劣等感や優越感にひたる必要はありません。これは本当に大切なことです。しっかりと神様のみこころを受け入れましょう。

●神の御前にへりくだる→分相応な態度

3)キリストの姿へ
(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 色々な形に造られた私たちですが、目的はひとつです。

◎造り主の似姿に新しくされていく
 自信をなくしたり、信仰を失わないようにしましょう。

【デボーションポイント】
あるがままを受け入れ、ありのままに進むとは。

 あるがままは変わらなくても、ありのままは変わっていきます。前に進むことが大切です。

【短 歌】
ありのまま 御腕の中に 抱きしめる
大きな愛の 父・御子・御霊