■2023年2月26日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

主に感謝する楽しさ  up 2023.2.26


主題聖句(第2コリント4:15)
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。




 

前回の復習
◎主と同行する楽しさ 【善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ】から
*主が喜ばれることが善。何を主は喜ばれるのでしょうか?
(1)いつも主がともにおられることを忘れないこと
*いつも愛するお方とともにいる幸せ(内住のキリスト)
(イザヤ43:5)「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」

(2)いつも主と同行していることを忘れないこと
(マタイ28:20b)「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。」
*どんな試練の中でもいつも助け、背負ってくださる
(イザヤ46:4b)「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」
★フットプリント(足跡)の話
*主に導かれながら人生を歩む安心
(詩篇119:105)「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
*主と語り合いながら歩む喜び、心が燃える楽しさ
(ルカ24:13-35)エマオの途上でイエス様と同行した弟子たち

(3)WWJD(What Would Jesus Do)のブレスレット
  ――こんな時、イエス様ならどうされますか?
*世の中の常識ではなくみこころに沿った決断をする
 自分の考え、世の経験から来る知識・常識にとらわれない
(ローマ12:2b)「この世と調子を合わせてはいけません。」

(4)愛する主のみことばと導きに従い、実行すること
*たとえそうでなくとも信仰の決断を変えない
(ダニエル3章)主は金の像を拝まなかったシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとともにおられ、ともに火の中を歩まれ、救い出された

【今日の主題】
「主に感謝する楽しさ」
主題聖句(第2コリント4:15)
「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝がみちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。」

(1)誰に感謝するのか
※神様に対して
 私たちの死んで滅ぶべき体・魂を神様が救ってくださり永遠のいのちが与えられる、また大患難の前に携挙されて守られるなど、クリスチャンはイエス様の十字架による素晴らしい救いの恵みを頂いていますから、神様に感謝します。

※隣人に対して
 皆さんは家族に「ありがとう」を言っていますか。言わなくてもわかってくれていると思っていませんか。「感謝する」の反対語は「当たり前と思うこと」です。しかし当たり前ではありません。神様の恵みの中で生かされている私たちです。全ての隣人に、感謝の気持ちを持って「ありがとう」を伝えましょう。

※出来事に対して
 人生には感謝できることも出来ないことも起こりますが、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいますから、喜べないことでも感謝します。

(2)感謝することの喜び  
※感謝は喜びとなり祝福となる 
 いつも喜び感謝している人は、自分が嬉しいだけでなく、周りの人に対しても喜びを分け与えています。神様が一番喜ばれるのは物ではなく、私たちの感謝の言葉と気持ちです。私たちも「ありがとう」と感謝の気持ちを表すと、感謝された人も嬉しくなり、互いに祝福されて喜びが拡がり、感謝した人は2倍の喜びが得られるでしょう。

※感謝は賛美となり、礼拝となる
 神様は私たちの感謝と賛美の礼拝を喜んで受けてくださいます。

(3)感謝出来ないのはなぜか
※感謝の祝福を知らないから
 神様はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは先取りして感謝します。そして本当にそのことが起こった時、もっと感謝して、感謝の連鎖が起こります。そのような感謝の祝福を知らないと、いつもどんな時も感謝することは難しいかもしれません。

※感謝を選ばないから
 それは当たり前のことなのか、感謝すべきことなのか、私たちは思いの中でいつもどちらかを選んでいます。お母さんが食事を作ってくださった、それは当たり前のことなのか有り難いことなのか、私たちは全てのことに、有り難いと感謝する方を選び取る練習が必要です。

 また、「あの時あんな問題があったけれど、おかげで自分は強くされた、神様の愛を知った」というように、後で振り返って感謝するということはよくあります。

 しかし、いま困難な中にいて、とても喜べないし感謝出来ない、そんな時にも感謝することを選び取るには訓練が必要です。否定的な見方を変えて良い所を見て感謝するクリスチャンになるように神様は願っておられます。具体的にはどうすればよいのでしょう。

(4)感謝出来ない時はどうすればよいか
 一つの方法です。試してみてください。これは人を赦せないとか、問題で落ち込んでいるときなどにも役に立つことです。
 まず正直に「主よ、今は感謝することは難しいです」と祈ります。隠してはいけません。正直に自分の否定的な感情や気持ちを神様に打ち明けて聞いて頂くのです。
 そして次に「しかし、みことばは『すべてのことについて感謝しなさい』『敵さえも愛しなさい』と言っています。難しいですが、私はそのおことばに従います。今は喜べなくても、神様がこのことを用いて益と変えてくださることを信じます。だから感謝します。この試練を乗り越えたら、神様は私に、素晴らしい品性と敬虔、忍耐力と希望を与えてくださいますから、ありがとうございます。」と、そのことを先取りして、感謝の告白をするのです。
 告白の言葉は力となります。神様が与えられた言葉の力です。「いいね、出来るよ、将来が楽しみだね、大丈夫、これからだよ」と励まし続けて育てた子は、その言葉の力が本人の中に働いて、元気になり、成長し、喜べる人生を選ぶことができるようになっていきます。
 そのように私たちも、努めて感謝をすること、「ありがとう」と言うこと、言えない時にも「主がこれをプラスに変えてくださるから感謝します。聖書が言っているようにすべてのことに感謝します。」と信じて告白し続ける人は幸いです。

◎「だれを私は畏れよう」(著者ヒョンス・リム牧師)より
 カナダのリム牧師は、北朝鮮を愛し助け莫大な支援を15年も続けてこられました。ところがその北朝鮮に捕らえられ、2年半も収容所でひどい目にあわされました。そんな中でもリム牧師は神様に賛美を捧げ、みことばを思いめぐらし、人を赦し愛して、そして「感謝を学びました」と言われるのです。著作の中の一部をご紹介致します。
「神様は私たちが感謝を選択することで、多くの感謝をくださり、今日の為に感謝をすると、感謝する明日をくださり、小さなことに感謝すると大きな感謝をくださる。感謝こそ祝福の扉が開かれる秘訣なのである。すべての不信仰と不平不満というウィルスを乗り越えるワクチンは、感謝のみである。人間が堕落した確かな証拠は(神に)感謝しないことである。」
 
 感謝をしないように仕向けてくる闇の力(不信仰、不平、不満など)を「ウィルス」と表現されています。戦争、飢餓、災害、そして私たちの人生にも、どうしてこんなことが?と思うようなことは誰にでも起こることです。しかしそういう中にあっても、神様のご配慮が背後にあることを思って感謝することが出来るということなのです。
 天国は涙も苦しみも病もなく、感謝と賛美にあふれて永遠に主を礼拝します。そんなに永遠に感謝するようなことがあるのでしょうか。
 実は地上で私たちが気付かなかったことで感謝すべきことが、すべて天国で明らかになります。今、理不尽だ、不幸だと言ってるようなことも全部、神様の深いご計画の中で運ばれていたということが、天国に行って初めて分かるというのです。
 ですから皆さん、希望をもってください。感謝の先取りをしてください。その辛いことも神様は益と変えてくださいます。今はわからなくても、いつか必ず神様の素晴らしい愛とご配慮があったことを知る時が来るのです。天国ではそれを一つ一つ喜んで感動します。それを知るために天国では永遠という時間が必要なのです。地上だけで終わる人生ではない、永遠のいのちが待っているのです。
 
 やがてこの先、大変な7年間の患難の時代がやってきます。私たちはその前に引き上げられると約束されています。それまでに一人でも多くの方々がイエスキリストの十字架の救いを知ることが出来るようにと、愛を持って感謝を持って証しを持って一人一人に伝えていく、そのような責任と喜びがあります。出来ないと言うのはサタンの声です。神様は出来ると言ってくださいます。主が共にいて助けてくださり、共にいて応援し祝福してくださいます。

【参考聖句】
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第1テサロニケ5:16-18)

◎どんな時でも、自分に与えられていないものについて文句を言う代わりに、与えられているものに感謝することが出来る。どちらをするにしても、それが人生の習慣となる。
(エリザベス・エリオット宣教師・著述家)

◎神には二つの住まいがある。一つは天国に。もう一つは穏やかで感謝に満ちた心の中に。
(アイザック・ウォルトン随筆家・伝記作家)

◎天のお父様、どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべては恵みの呼吸ですから。
(河野進 牧師・詩人)
 
 3人の方のコメントをご紹介し、ヒョンス・リム先生の「感謝を選択する」という言葉と合わせて、心に留めたいと思います。今日のメッセージを通して神様が個人個人に語られたことを黙想し実践して、感謝することの楽しさを体験していただければ感謝です。

【デボーション・ノート】
(1)主が今日、私に語られていることは何でしょうか
(2)私が今日から実行したいことは何でしょうか

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年2月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善に親しむ 懇到切至の 兄弟愛4  up 2023.2.19


主題聖句(エペソ4:32)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。




 

 今日も復習を兼ねて話を進めていきます。復習することで記憶にしっかり残していっていただきたいと思います。

第一回目『主を喜ぶことは力』(ネヘミヤ8:10)
※力あるいのちは、主を喜ぶことによる。
 力あるいのちとは、色んなものを受け止める力、切り開いていく力であり、このような力は主を喜ぶことによって生まれます。
 まず、救いの喜びを感謝し、神の子としての歩みを喜ぼう、というところから出発することが必要です。

第二回目『大事なことは新創造』(ガラテヤ6:15)
※信仰の礎石は、キリストによって新しく造られたことから始まる。
 キリストを信じ神と共に歩む私たちの人生は、キリストによって新しく造られ与えられた新しい人生です。ですから過去の思いや過去の罪、過去の記憶に縛られないでください。それらはイエス様の十字架によってすべて処分済です。
 
 神様が願っておられることは、明日に向かって今日生きる新しい人生です。神様がそのためにどれほどの愛と犠牲を払ってくださったかを思い起こしましょう。それが主を喜ぶことになります。

第三回目『善に親しむ懇到切至の兄弟愛」(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(1)互いに親切にする。
(2)互いに心の優しい人となる(第四回目) 
(3)互いに赦し合う

◎この三つのポイントは、目指すべきキリストの姿である。
 私たちがキリストの御姿に変えられていくという時に、それは親切で心優しく赦す心が備えられていくことによって、キリストの姿を現すことができるということです。

 第五回目は、『善に親しむ懇到切至の兄弟愛その3』として、(エペソ4:32)から「互いに赦し合う」ことについてのお話でした。

A)懇切丁寧な罪人のための救い
(1)赦しの手本は主イエス・キリスト(コロサイ3:13)
 ★姦淫の女への赦し(ヨハネ8:11)
 ★人を赦す回数(マタイ18:21-22)

 この二つの聖書箇所から、イエス様が「人は裁く者ではなく、赦す者である」というお手本を示されていることをお語りしました。

(2)罪人に対する神の赦しと裁き
 ★憐れみと厳しさ(マタイ6:14-15)
 ★神に赦しを請う前に人を赦す(マルコ11:25)

 イエス様による救いは神のあわれみですが、あわれみ深い神様の赦しが無効になることがあるという厳しいお話でした。
 赦された罪人にとって、為すべきことは赦すことだけです。「良い行い」によって義とされて救われるのではなく、人を赦していくことによって救いのゴールにいたるということが示されています。
 今日は第六回目として、(エペソ4:32)の「互いに赦し合う」の二回目(B)兼赦高徳の交わりをお話いたします。

第六回目『善に親しむ懇到切至の兄弟愛その4』
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

(3)互いに赦し合う
 B)兼赦高徳の交わり
 (人を区別なく赦し、互いの徳を高め合う交わり)

(1)私たちの交わりとは?
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

◎御霊によって新創造された私たちの交わり
 御霊様が実際に私たちを造りかえていっておられます。親切で優しい、赦し合うこころを身に着けさせ、栄光から栄光へ主と同じかたちに私たちの姿を変えていってくださる御霊様は、そのために、教え、教訓し、懲らしめるということを実際に取り扱ってくださっています。

◎区別なく赦してくださった神との交わり
 イエス様は、どんなに罪深い人の罪をも赦すための救いの十字架を実現してくださいました。この神様からの赦しのプレゼントは、すべての人に差し出されましたが、しかし、それを受け取って自分のものに出来たのは、それを信じた者たちだけでした。

◎互いに交わるとき、そこに御父・御子・御霊の神が共に交わってくださる。
 私たちは罪赦された結果、神の前にへりくだる心が与えられて、神様を心から敬い、神様のおことばを尊重します。そして神様に祈り、イエス様に求め、聖霊様に尋ねるような、神様との会話を心の中で致します。
 その交わりにおいて、祈りが応えられるということが実現します。ですから、赦されていることを信じる人は祈り続けます。求め続けます。祈りはきかれると信じているからです。赦されているからです。

(2)御霊による交わりを保つために
(第1ヨハネ1:7)
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

◎神は光の中におられる。
◎光の中を歩んでいる者の交わりである。
◎光の中で罪が明らかにされ、赦される。

 神には暗い所がありません。360度、全方向の光の中におられるような方なので、影は一切ありません。私たちはそういう光の中での神様との交わりをしています。ですから、罪を犯した時は光の中で明らかにされ、明らかにされた罪は赦される、というのが光の中を歩む交わりの特徴です。

 罪を告白しないで隠していたのでは、それは光の中での交わりではないので、神様は赦したくても赦しようがありません。また、目先の罪を告白しても、根本的に罪から離れたいという動機がなければ、実はもっと罪を続けたいという気持ちを隠しているのですから、やはり神様は赦しようがありません。

 では、罪をやめられない時はどうすればよいのでしょうか。
 罪をやめられないというその気持ちを、正直に何もかも神の前に告白するのです。聞いていただくのです。キリストを信じている新しいあなたは、本当は罪から離れたいという本心を持っているはずです。やめれないという気持ち、とがめられる心、弱い良心、それでも勝利したいという願い、すべてを正直に打ち明けて、勝利する力を求めて、あきらめず祈り続けるのです。必ず聖霊様がみことばを示してくださいます。「主を喜ぶことは力です」

 そこで、祈りの中で集会の中で、救いを感謝し賛美して主を喜び、それを続けることで、力が湧き上がり、増し加えられ、自制心が強められ、その罪から離れることができるのです。

 それでも勝利できない時は、新創造されたという意識が弱いのです。「私は新しくされたんだ、もう古い罪の性質から解放されたんだ、勝利できるんだ」と新創造された自分をしっかり意識して罪と戦うのです。主を喜ぶことで与えられた力が効果を発揮します。

 こういう戦いはずっと続きます。罪の体を持って生活してきた古い自分がずっと存在し続けているので、私たちもそれ以上に強く、自分は新しく造られた者であるという意識を強く強く持たねばなりません。あきらめてはいけません。罪を犯したら、みことばを思い出してください。時間がかかっても、みことばを実行すれば、必ず実を結びます。

◎神は光、神は愛、そして赦しの神である。
 私たちの交わりも光の交わりです。神の前にすべての罪を告白して光の中を歩み続けたいという願いと動機を持って、私たちの不完全な生活を続ける中で、神は明らかにしたものを全部赦してくださいます。
 ですから、(第1ヨハネ1:7)に、「私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とありますように、相手に罪を犯したら、相手にごめんなさいと謝り、神様に対する罪は神様に告白して明らかにするという光の交わりが大事です。

 赦しをもたらすキリストの血によって互いに赦し合いながら、光の中での交わりが続けられるのです。

【デボーションポイント】
◎光の子どもらしく歩むとは?
(エペソ5:8-10)
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」

★キリストを信じること、キリストと共に歩むことが、光の中を歩むことです。具体的にそれがどういうことであるかを黙想してみましょう。

★主がもっとも喜ばれることは何でしょう?今日のメッセージポイントから考えてみましょう。

【短歌】
あるがまま  以上を求めず  認めあう
赦す心が  主の似姿ぞ

 今は今のあるがままを認め合い、赦し合っていきましょう。
赦すことの大切さは、あなたも赦されるという素晴らしい報いがありますので、ぜひ「赦し」にチャレンジしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年2月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善に親しむ 懇到切至の 兄弟愛3  up 2023.2.12


主題聖句(エペソ4:32)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。




 

 私たちはキリストを信じる信仰のゆえに周囲との間に摩擦が生じることが多々あります。その時、迫害や悪口が起きても「喜びなさい、報いは大きいから」と(マタイ5:11-12)に語られています。
 
 報いが目的で迫害を喜ぶのではありません。真理に逆らわない生き方を守っていくために、この世と調子を合わせた歩みではないことが迫害によって証明されるから、みこころの内を歩んでいることを喜びましょうということなのです。
 
 そういうところに向かって、今年もみことばを語らせて頂いております。覚えて頂きチャレンジして頂きたい大事な基本です。忘れないように、今日も復習から始めたいと思います。

第一回目『喜びの盛徳大業』(ネヘミヤ8:10より)
 「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」
◎救い主イエス・キリストを信頼する喜びは、永遠の望みに生きる力となる。
 
 主を喜ぶというのは、その存在を喜び楽しむという意味です。私の存在はイエス様の存在によって支えられているということの証しなのです。

 子どもは親の喜びです。子どもへの愛のゆえに、生きる力が湧いてくるので、子どもを喜ぶことは親にとって力です。そのように、イエス様を喜ぶことは私たちの力です。イエス様の存在は、私たちの生きる力なのです。

第二回目『福音の成就は一新更始から』(ガラテヤ6:15より)
 「大事なのは新しい創造です。」
◎キリストと共に歩む人生を決意できたことは、新しく創造されたしるしであり、礎石(基礎・土台)が据えられたのである。
 
 神を信じられなかった者が、神を信じる心を持てるようになった、この時点で私たちは新しい魂に造り変えられました。新しいクリスチャン生活が出発し、神と共に歩む人生が一から始まりました。

 「福音の成就(永遠の神の御国への救いの完成)は、一新更始から(新しく造り変えられてから始まる)」というお話をいたしました。

第三回目『善に親しむ懇到切至の兄弟愛』(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
1)互いに親切にする。(第三回目)
2)互いに心の優しい人となる(第四回目)
3)互いに赦し合う(第五回目)
 
 この三つのポイントは、クリスチャンコミュニティーである教会のゴール(教会の姿、私たち一人一人の姿、キリストの姿)です。

 この三つの中に、特に二番目の「心の優しい人」の中には、御霊の実が複合的に含まれていますので、エペソ4:32は大事なみことばとして、ぜひ暗唱してください。

 五回目は今日のメッセージです。3)の「互いに赦し合う」についてお話いたします。

『善に親しむ懇到切至の兄弟愛 その3』
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

3)互いに赦し合う
A)懇切丁寧な罪人のための救い
(1)赦しの手本は主イエス・キリスト
(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

◎人はさばき主ではなく、赦す者である
★姦淫の女への赦し(ヨハネ8:11)
「彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』

 8章10節までの話の流れは、姦淫の罪を犯した女性に対するさばき方のことで、律法学者たちやパリサイ人たちがイエス様に詰め寄って来たので、イエス様が「あなたがたの内で罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」と言われると、彼らは、一人また一人と去っていって、最後はイエス様と女性以外誰も残らなかった、ということが10節までに書かれてあります。

 この「あなたがたの内で罪のない者が、石を投げなさい」というイエス様のおことばは、罪のない者が罪人を裁く権利がある、という律法の意味を示しています。

 その真意は、神の代理として正しい者が罪人を処罰するということで、人がさばき主になることではありません。神の代理人であられたイエス様でさえも、「私もあなたを罪に定めない」と仰いました。正しい人でさえも、人をさばく立場にはない、ということを示しておられます。

 最後にイエス様が「今からは決して罪を犯してはなりません。」と仰ったように、「赦し」は正しい道に立ち返るためのチャンスを与えるものであることがわかります。

★人を赦す回数(マタイ18:21-22)
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七を七十倍するまでと言います。」

 一日に、七を七十倍(490回)も相手を赦しなさいというのは、「さばいてはいけません」と言われているのと同じです。私たちはさばく者ではなく、赦す者なのです。

(2)罪人に対する神の赦しと裁き
★憐れみと厳しさ(マタイ6:14-15)
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 神様は善悪を正しくさばかれる唯一のさばき主なる方です。
 同時に、あわれみによって罪人を赦すという心を持っておられます。
 人の犯した罪を赦す神様の条件は、その人自身も他の人を赦すことです。それが神様の赦し方であり裁き方であることを、イエス様は語られています。神様は赦すこころを優先されますが、裁くべき罪は必ず裁かれるお方です。

★神に赦しを請う前に人を赦す(マルコ11:25)
「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 神の赦しは、あわれみの心だけでなく、さばきをもしっかり踏まえて成り立っているもので、それがイエスキリストを通して与えられている罪人のための救いです。

 罪を犯すことは避けられないことを神様はご存知です。しかし、その罪から離れることを努力するという志のある人(神を敬う心のある人)そういう人々を生かすために、神はその人の罪を赦したいと思われています。

 そのために、イエス様が私たちの罪を背負って身代わりにさばかれてくださり、私たちの罪を処分してくださいました。そこまでしてくださった神様が、「あなたを赦すから、あなたも他の人を赦してあげてほしい」と言っておられます。罪人のための懇切丁寧な救いを、キリストを通して成就してくださっている神様なのです。

 皆さんも、神様は罪人を救うためにそこまでしてくださったのかという、神様のお気持ちを聖書の中に見いだしていただけたら、人を赦すことも少しは楽になるのではないかと思います。

【デボーションポイント】

◎罪が赦されたのだから、他人の罪を裁くことができるのではない。

(ヤコブ4:11-12)
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、裁く者です。律法を定め、さばきを行う方は、ただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすことも出来ます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

※私たちは律法を守る者
 私たちは律法を守る者であって、裁く者ではありません。
ですから、互いに愛し合いなさいという、イエス様の唯一の戒めを守ろうと努力します。

 赦すことは、愛する上での一番重要な課題ですから、赦し合おうと努力します。怒りや復讐心がわいてきても、律法を守る立場の者である私たちは、裁きは神に委ねて、私たちの律法(互いに愛し合いなさい)を守り続けます。

※裁く方は主権者だけ
 裁く方は、万物を造られた創造主であり主権者であられる神だけです。主権者が裁く前にあなたが裁くなら、主権者の権利を侵すことになります。

 主権者を侮り認めないという何より大きな罪です。このことをよく考えて神様と私たちとの立場の違いを良く悟り、「さばきは神のもの、復讐は神がなさるもの、私は律法を守る者です。」と、これをしっかり自覚して、律法を犯す者にならないように気を付けてください。感情を治めるための自制心が必要です。

            
【短歌】

律法を  守る立場に  ある者が
 さばき合うなら  互いに滅ぶ

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年2月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善に親しむ 懇到切至の 兄弟愛2  up 2023.2.5


主題聖句(エペソ4:32)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。




 

 前回までのおさらいをしましょう。
 今年のモットーは「善に親しむ楽しみ、聖められる幸せ」です。
(マタイ5:11-12)の、「迫害される時は喜びなさい、あなたがたの受ける報いは大きいから」というところから来ています。
 私たちの一番の喜びは、罪赦されて、神の国を相続する神の子として救われたことです。神様はそれにプラスして、私たちが神様を信頼して歩んだことへの報いを用意してくださっておられます。
 私たちはそれも楽しみにしながら、世の光、地の塩としての歩みを続けていくことが出来るのです。

第一回目「喜びの盛徳大業」
(ネヘミヤ8:10)より
 「主を喜ぶことはあなたがたの力なのです」
※罪の赦しを成就された主を喜ぶ
 イスラエルの人々がバビロンに捕らえ移されて70年後、神様の約束通り、彼らは解放されてエルサレムに戻ってきました。

 「神様は回復を始められた。回復の神様だ、主を喜ぼう。喜んでエルサレムの再建工事にとりかかろう」と、ネヘミヤは民に呼び掛けました。それは、私たちが造られた目的に立ち返る「人間回復」に重ね合わせたネヘミヤの言葉でもありました。

第二回目「福音の成就は一新更始から」
(ガラテヤ6:15)より
 「大事なのは新しい創造です。」
※新しい礎石であるキリストを信じる者は、神の子として新創造された。
 キリストによって私たちは新しく造られた者です。それが私たちの建て上げのための大事な礎石(土台・原点)となります。
 
 「キリストが私たちを救ってくださって、神が我々を憐れんでくださって、新しく神の子としてやりなおす機会を一から与えてくださった」というキリストの救いが礎石となって、私たちは新しく造られた人生を出発しているのだと受け止めることが大切です。

 私たちは、神の子として一から新しく生まれ変わりました。私たちはキリストの再臨の日まで、神を畏れ敬って、主人である神と共に歩み、主人に信頼してついていこうと、新しい人としての人生を歩んでいる、今その途上にあります。

 100%は出来ていなくても、「イエス様のおことばに従っていこう、神様のみこころについていこう」という動機が与えられているはずです。その動機を忘れないように致しましょう。

第三回目「善に親しむ懇到切至の兄弟愛」
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

(1)互いに親切にする

 ◎親切は自発の心より施す
 ◎親切なことば(態度)を施す
 ◎親切なもてなしを施す

 親切というのは自発的な心で施すものです。心に親切の動機が生まれてくると、心に満ちることを口が語ると言いますので、親切なことば(態度)を施すようになり、また行動としての親切なもてなしを施すようにもなる、という親切の3つのポイントをお話し致しました。

 この3つのことは、すぐ実践するのは難しいので、祈りの中でシミュレーションすることをお勧めしました。その人その人にどういう言葉をかけたらいいのか聖霊様に気付かせていただいて、お互いの徳を高めるような言葉をあらわしていきたいものです。

 今日の第四回目は前回の続きで、「善に親しむ懇到切至の兄弟愛 その2」として、「心の優しい人となる」をお話いたします。

「善に親しむ懇到切至の兄弟愛 その2」
(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

※心の優しい人となる
A)ギリシャ語からの意味・・・深い思いやりがある。同情的。相手の思いを汲み取って、ことを成す
 相手のバックグラウンド、心理、性格、状況などをよく理解できると、相手が喜ぶことや元気になることを言うことが出来、傷つけるようなことは言わなくなります。同情するとはそういうことで、隣人愛につながる心の動きです。
 
 やさしいというのは、昔は「やせる」という意味もあり、痩せるほどに心が病んで悲しんでいるという意味合いでした。それを漢字に当てはめてみると、「優」という字は、にんべんに憂うと書きますから、悲しみ悩んでいる人に寄り添う人、それが「優しい人」という意味につながります。

 私たちはどこまで人に寄り添うことが出来ているでしょうか。
 夫婦、親子、家族の間に溝を感じることがあるなら、それはお互いに相手を理解することが少ないのかもしれません。

 短気で怒りっぽく暴言を吐く人がいたら、その人は過去の傷がまだ癒されておらず、その痛みに触れられたくないという自己防衛が働くのかもしれません。そのような理解を持つと、仮に怒りを向けられても、忍耐する力や優しい心が生まれて来るのではないでしょうか。

B)イエス様の優しさ
(へブル4:15)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みに会われたのです。」

※私たちの弱さに同情できる優しい方
 イエス様は、罪との戦いを続けている私たちに同情して、神様と私たちとの間に立って、とりなしをしてくださっておられます。

 私たちが失敗して反省して祈る時、イエス様は同情してくださり、父なる神様に、「彼の失敗の責めと懲らしめを私はすでに十字架の上で受けております。どうか私の血潮のゆえに彼を赦し、やり直しのチャンスを与えてやってください」と祈ってくださるのです。

 私たちも、特に子育て中の皆さん、相手に(子に)立ち直れないほどの?責や懲らしめを与えるのではなく、弱さに同情し、相手の建徳のためになるような優しさをもって接していただきたいと思います。

(マルコ1:40-41)
「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きょくなれ」と言われた。

※ツァラアトの人への寄り添う心
 当時ツァラアトに冒された人は人と出会ってはならず、人里離れた所、森の中などに集まって住んでいました。
 ですから、面前でイエス様が手を伸ばして彼に触られたというのは明らかな律法違反です。しかしイエス様は、律法に勝る愛とあわれみにより、手を伸ばして触るという寄り添う心の行動をとられました。

 肉体をもって地上に来られたイエス様は、罪の世界で生きることの苦しみ、痛みを体験され、罪人に対する深い同情心をもって寄り添う人生を生きられた、あわれみ深い優しいお方でありました。
(ルカ7:12-15)
「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親の一人息子が、死んで担ぎ出されたところであった。町の人たちが多ぜいその母親に付き添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」

※やもめとなり、一人息子を亡くした母親の心境を深く理解
 相次いで夫とひとり息子を亡くした母親は、生きる支えをなくして一人ぼっちです。この母親の泣く心を癒せるのは唯一つ、息子が生き返ることです。そこでイエス様は、もとの状態に戻すことの出来る回復の神様の力を証しされました。

 私たちは神の子として回復されていくべき存在です。それは救い主キリストを信じる信仰によって始まります。癒されること、問題の解決、過去からの解放 心の痛みや傷からの解放、これら過ぎ去ったことの回復は神様の奇跡しかありません。そこまでの思いを汲み取ってくださることの出来る方がイエス様です。
 私たちも深い同情心、寄り添う心をもって神の前にとりなしていかなければ、みこころにかなった祈りはできません。イエス様のような優しい心をもって祈っていくとき、奇跡は起きるのです。

【デボーションポイント】
※イエス様の心の優しさは、どのようなところに表され、また感じますか?

※イエス様の心の優しさに対して、あなたは、どのように応答していますか?
 
 日々の生活の中で、イエス様の心の優しさを感じ取り、優しさの現れている人生の関わりを見いだしていくと、私たちも心優しくなり、優しさを施すことができるようになります。

 

【短歌】

優しい心  持つために 

身代わりの苦難  受けられし御子


 私たちが優しくなるには、十字架の贖いの御業を通して神様の恵みと愛とを知ることですが、それは神様の心の優しさの現れです。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年1月29日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

幸福の使信1〜心の貧しい者は幸いです  up 2023.1.29


主題聖句(マタイ5:3)
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。




 

 当教会のモットーのみことばマタイ5章11節―12節ですが、マタイ5章は、イエス様が弟子たちに語る幸福のメッセージの箇所で、“〜は幸いです。“という表現が全部で9回登場します。モットーの箇所11節は、「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」とあり、9回の内、最後に登場します。この11節をより深く悟っていくために、残りの8つの幸いポイントを見ていきたいと思います。 
 今回は、1つ目である、5章3節を見てまいりましょう。
(マタイ5:3)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」

<幸せとは>
 まず、幸いということですが、これは、霊的幸福や繁栄を表しており、神様からの祝福を受ける者は幸せな者です、という意味になります。ただし、必ずしも自分がこの世で成功するという意味ではなく、真の幸せは、この世の成功や失敗に左右されるものではなく、神様がともにいてくださる、ということですので、この点は正しく理解しておきましょう。

<心の貧しい人>
 次に、心の貧しい状態はどのような状態かを見ていきます。“貧しい”と聞くと、心が卑しい、心が狭いといった意味を思い浮かべると思いますが、ここで言う貧しさは、自分の霊的貧しさを指しており、心砕かれた状態を意味します。ですので、心の貧しい人とは、自分の正しさを誇らず心砕かれた人、という意味になります。
 先週、新築マンションの工事現場で仕事のお手伝いする機会がありました。私の仕事は、運送会社のトラックによって現場に運び込まれてきた各部屋のあらゆる種類の建具を、各フロアに運び込んで、梱包を開封するという業務でした。新築マンションを1棟建てるために、デザイン、設計、外構工事、内装工事、塗装工事、電気工事、水道工事など、あらゆる業務が関わっており、私がした建具を人力で運ぶという業務も、地味ですが、必要な業務だということを知りました。
 心の貧しい人は、他の派手な職種の人たちと自分を比較して、なんて自分は地味でみじめなんだと卑下するのではなく、この業務が、建具を取り付ける職人さんの助けになっているとへりくだれる人なのです。(実際には、単純作業ではありますが、本当に体力のいる仕事で、私たちの住まいの扉一枚一枚も、誰かが人力で運んだものだと思うと、私たちの生活は、他の誰かの手によって成り立っているということをつくづく思わされます。)

<心砕かれた人>
 イエス様の例え話から、もう少し、心砕かれた姿勢を見ていきましょう。(ルカ18:9―14)
「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
 この例え話に登場するパリサイ人と取税人の違いは何でしょうか。そしてイエス様は、なぜ取税人を義と認められたでしょうか。その答えは両者の祈りの姿勢の違いにあります。パリサイ人の祈りは、他者との比較と自分の功績に基づいて自己を義とみなしており、結局は神への祈りではなく自己称賛で終わってしまっています。一方で、取税人の祈りは、罪人であることを認識し、神のあわれみに自己を委ねています。どちらが心砕かれた人か、一目瞭然ですね。この取税人のように、霊的貧しさをいつも謙虚に受け止める者でありたいですね。

<心の貧しい者が幸いの理由>(マタイ5:3)
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
 天の御国は、心の貧しい人たちのものであるとイエス様は語りました。私たちにとっての福音は、イエス様を信じる者は罪赦され、天の御国に名が記され、御国の相続が約束されていることです。しかもそれだけでなく、神様の支配は、今この瞬間も働いており、私たちの人生に神様が関わってくださり、ともに歩んでくださっているのです。これこそ、この地上での一番の幸いと言えるのです。

 自分を低くし、神様のあわれみによって自分が義と認められていることを知っている人は、神様の祝福を受ける幸せな人です。その人には、今この瞬間も主がともにおられ、天の御国で多くの報いを受けるのです。新しい一週間も、神様によって義と認められていることを感謝し、神様の祝福を体験していきましょう! 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年1月22日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

主との同行の楽しさを求める  up 2023.1.22


主題聖句(第2コリント13:5b)
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。




 

 今日は「主との同行の楽しさを求める」というテーマで、いつもイエス様と共に歩むことの素晴らしさをお話させて頂きます。
 主題聖句には、私たちがイエス様を本当に信頼し尊敬して共に歩んでいるのか、私たちの内におられるイエス様を無視していないか、自分自身で確認してみなさい、と少し厳しく言われています。
 
 だいぶ前のことですが、モーリス・セルロという伝道者が、「クリスチャンの歩みや教会の状況が世の中に埋没してしまい、世の中と変わりないものになっている。私たちの心の中にイエス様がご不在なのではないか。内に聖霊様がいらっしゃるのに、それを無視して歩んでいる。」というようなことを指摘されておりました。

 今、世界はサタンに支配されています。神様は、キリストの十字架と復活によって、サタンからその支配権を取り戻し、それを教会に与えられました。私たちは支配権を行使して、サタンに奪われているものを、みことばと聖霊の力によって取り戻すことができるのです。

 しかしサタンは巧妙です。クリスチャンを誘惑し、だまして、私たちがイエス様から目を離して普通の人のようにして生きるように上手に働いています。私たちはそれに立ち向かわなくてはなりません。そのためには、主との同行、即ち、イエス様が内におられることを常に覚えて、イエス様と一緒に歩むことが必要なのです。

◎【善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ】
 今年の目標から、善とは何か、それは神様が一番喜ばれることに私たちが心を向けること、それは、いつも主がともにおられることを忘れないことです。

(1)いつも主がともにおられることを忘れないこと
※いつも愛するお方とともにいる幸せ(内住のキリスト)
(詩篇27:4)
「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私の命の日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを見、その宮で、思いにふける、そのために。」
 これは天に召された後の幸せだけではありません。今、私たちは聖霊の宮であり、イエス様が私たちの内に住んでおられます。主を仰ぎ見る心で、お祈りしたり賛美したり礼拝したり、常に主と共にいて、幸いな素晴らしい永遠の一部を生きることが出来ています。素晴らしい恵みが私たちの内で実現しているのです。

※決して奪われない平安と喜び
(ローマ14:17)
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」
 世の人が求めているのは、飲み食いなど生活の楽しみです。しかし、神の国は、義と平和と聖霊による喜びです。この喜びは奪われることがありません。それは一人一人の内にあるものだからです。

※絶えない感謝と賛美
(エペソ5:19)
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
 いつも主が共におられるということは、いつも心の中に賛美と喜びが湧いて来るということです。それが私たちの日常なのです。

※なにものをも恐れない信頼
(イザヤ41:10)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」

(イザヤ43:5)
「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」
 何か悪いことが起きても、神様は、「私があなたとともにいるから恐れなくていい」と言ってくださっています。もし、恐れが来たら、このみことばを宣言いたしましょう。サタンは逃げ去ります。

(2)いつも主と同行していることを忘れないこと
(マタイ28:20b)
「見よ、私は、世の終わりまで、いつも、あなたとともにいます。」

※どんな試練の中でもいつも助け、背負ってくださる
(イザヤ46:4b)
「あなたが歳をとってもわたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。」

 フットプリント(足跡)というお話をご存知でしょうか。
 ある人がイエス様と砂浜を歩いていました。砂浜には二人の足跡がずっと残されています。途中、足跡が一人分しかない所があり、それは自分が苦しみ悩んでいた頃の足跡です。「あの時イエス様はどこにおられたのですか」とお尋ねしますと、イエス様は「あれは私の足跡だよ、私があなたを背負っていたんだよ」と答えてくださったというお話です。有難いことです。どんな時でも主が共にいて、主に助けられ導かれて人生を歩むことが出来ますから、私たちは安心です。

※主に導かれながら人生を歩む安心
(詩篇119:105)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
 私たちが人生を歩む時、イエス様は足元の灯火、道の先の光となってくださいます。内にイエス様がいてくださいますから、道を間違えたりつまずいたりすることはありません。

※主と語り合いながら歩む喜び、心が燃える楽しさ
(ルカ24:13〜35)
・・・エマオの途上でイエス様と同行した弟子たち・・・

(3)主のみことばと内なる聖霊の導きに聞き、決意すること
※自分の考えでなく主の御声を聞く
 WWJD(What Would Jesus Do?―こんな時、イエス様ならどうされますか?)と書かれたブレスレットを身に着ける方がおられます。自分の考えではなく、イエス様だったらどうされるだろうか、と主の御声に聞こうとすることは大事な習慣です。

※世の中の常識ではなくみこころに沿った決断をする
(ローマ12:2a)
「この世と調子を合わせてはいけません。」

(4)愛する主のみことばと導きに従い、実行すること
※状況が悪い時も確信を持って実行する
(第2テモテ4:2a)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」
 聖霊様が、今語りなさい、祈りなさい、と示されたら、それが世の常識と合わなくても従うべきです。自分の考えではなく、聖霊様に対し従順になり、思い切って実行し、イエス様を証ししましょう。

※困難や障害があってもひるまないでたたかう
(エペソ6:13〜17b抜粋)
「ですから邪悪な日に際して対抗できるように、・・神のすべての武具を取りなさい。・・・」
 みことばの剣をもって立ち向かいましょう。必ずサタンは逃げ去ります。敵をやっつける強いみことばだけではありません。 「私はあなたを赦します。主の御名によって愛します」と力強く宣言することも神の素晴らしい武具です。みことばを多く蓄えたいと思います。たとえ忘れても、イエス様と共にいつも歩んでいるなら、その時必要なみことばを、聖霊様が思い出させてくださいます。

※迫害の時も約束を信じて信仰を守り通す
(マタイ5:11〜12)
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(今年の目標聖句)
 他人から悪く言われたり、迫害の苦しみにあっても、逃げないで立ち向かうならば幸いです。将来を見据えた私たちの歩みには、力と喜びと感謝と賛美が心にいつもあるのです。

※たとえそうでなくとも信仰の決断を変えない
(ダニエル3章)
主は金の像を拝まなかったシャデラク、メシャク、アベデネコとともにおられ、ともに火の中を歩まれ、救い出された。
 「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことが出来ます」と、彼ら3人は迫害の中にあっても恐れず、主を信じる信仰を貫きました。「もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」と、いのちの危険もかえりみずに神様を愛し、神様のおことばを守り抜くその姿は、私たちの目標でもあります。

 今日の大事なテーマは、主と同行することを喜ぶことです。
 共に火の中をも歩んで同行してくださる主が、いつも共におられるのですから、それを忘れないように致しましょう。

 こんなお話があります。ある人が教会に行きましたが、なぜか受付で断られてしまいました。仕方なく近くのベンチで一人で礼拝していると、誰かが「どうされましたか?」と声をかけてくれました。
 「私は礼拝に入れてもらえなかったのです」と彼が答えると、「そうですか、実は私も入れてもらえなかったのです。」と言うその人をよく見ると、実にイエス様ご自身だったというお話です。
 
 この教会は私たちの心をあらわしていると思います。私たちのところにイエス様が来てくださり、内に住んでくださっておられるのに、それが形だけのものになってしまって、実はイエス様を拒んでいるという状態をあらわしているように思われます。

 私たちがイエス様と共に歩み同行する毎日でありますように、またイエス様を拒むような心があったら、悔い改めてイエス様に心を開くようにと、主は願っていらっしゃると思います。

【デボーションノート】

(1)主が今日、私に語られていることは何でしょうか

(2)私が今日から実行したいことは何でしょうか

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年1月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善に親しむ 懇到切至の 兄弟愛  up 2023.1.15


主題聖句(エペソ4:32)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。




 

 今年一年のモットーは「善に親しむ楽しみ、きよめられる幸せ」です。

 元旦礼拝では、(ネヘミヤ記8:10)から、まず私たちは主を喜ぶことが大事である、ということをお話いたしました。

 バビロン捕囚と70年後の解放というイスラエルの歴史的出来事が旧約聖書の預言通りに実現しました。エルサレムに戻されて、自分たちの過去の罪を悲しんでいる民に対して、ネヘミヤたちは、今からが新しい始まりなのだ、この回復は主がご計画してくださり、すべてを成し遂げてくださるのは主なのだから、まず主を喜ぶことから始めよう、「主を喜ぶことはあなたがたの力だから」と言って民を励ましたのです。それは私たちへの励ましでもありました。

 前回は「福音の成就は一新更始から」というテーマで、神殿回復の礎(いしずえ)、イエス・キリストの贖いの御業により新しく生まれ変わる「新創造」、新しく造り変えられているという信仰を持って歩むことの重要性をお話し致しました。

 今日のテーマは「善に親しむ懇倒切至の兄弟愛」です。
 「懇倒切至(こんとうせっし)」とは、すみずみまで心がゆきとどいて、このうえなく親切なこと、また真心を尽くして十分に言い聞かせること、という意味で、懇倒切至の兄弟愛によって善に親しむことを始めていきましょう、というのが今日の結論です。

 これは新しい心で始めないと無理です。イエス様を信じる前のような自己中心的な不敬虔な心では出来ません。イエス様を信じる者同士、互いに愛し合う兄弟愛によって親切を施し、善に親しんでまいりましょう。
主題聖句(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

(1)互いに親切にする

(2)心の優しい人となる

(3)主が赦してくださったように互いに赦し合う

 善に親しむためには、この三つのポイントが大事になる思います。
 そのことのために私たちは、みことばに従って色々チャレンジして、お取り扱いを受けて、そのことによって聖められる幸せを感じるようになるわけです。

 すべてのことにおいて善に親しむという新しく造り変えられた心で、クリスチャン生活を善に親しむ人生として受け止めていくために、この三つを心掛けていきたいと思います。

 今日は一つ目のポイント「互いに親切にする」を見ていきましょう。

◎互いに親切にする

A)親切は自発の心より施す
(ピレモン1:14)
「あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。」

 ピレモンはパウロの同労者です。そのピレモンの家のしもべのオネシモという人が、何か事件を起こして獄に入れられ、そこでパウロと出会い、回心して主を信じる者となりました。

 パウロは、主にある兄弟としてオネシモを受け入れて欲しい、親切を施して欲しいと、ピレモンに手紙を書いています。

 パウロ先生に言われたから仕方なく親切を施すというのではなく、愛する兄弟として喜んで自発的に親切を施して欲しいというパウロからのお願いでした。

B)親切なことば(態度)を施す
(コロサイ4:6)
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」

 親切なことばは人の徳を高めます。兄弟姉妹に対して、怒りや嫉妬などを起こさせるのでなく、いつも親切なことばを施すことによって、善に親しむ生活を築き上げていくことが出来ると思います。

C)親切なもてなしを施す
(使徒28:2)
「島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降り出して寒かったので、彼らは火をたいて私たち皆をもてなしてくれた。」
 心の行き届いたもてなしは、心のこもった親切を感じさせます。
 もてなし方は色々ありますが、兄弟姉妹に対して私たちは喜んで親切を施すという心の動機をまず備えなくてはなりません。
 まずは親切なことばから、そして親しくなったら、もてなしによっても喜んで親切を施し、善に親しむというクリスチャン生活を進めていくことが必要ではないかと思います。

【デボーションポイント】

◎親切を施したいという願い。 

◎親切なことばを施す。

◎親切の実であるもてなし。

 これらのことを祈りの中でシミュレーションし、実行するために備えましょう。

 シミュレーションというのは、私(辻牧師)の場合、人と話をするとき、その人を思い浮かべながら、その人の救われた状況やバックグラウンド、家庭状況、性格、性質、教会での奉仕など全て含めて、どのように言葉を切り出せばいいのかとか、どういう言葉を使うと傷つくだろうかなど、祈りの中で考えてから、カウンセリングや交わりに入ります。

 皆さんも何か親切を施す場合には、どういうことばを用いるのが良いか、親切なことばは良い心から出るものですから、よくシミュレーションをしてください。

 そして、親切なことばが語れるような気遣いができるような兄弟姉妹の関係が出てくると、自然と、もてなしにつながっていきます。そうなると、シミュレーションも楽しくなり、親切を施すのが楽しくて仕方なくなります。

 善に親しむ神の子として新しく生まれ変わったクリスチャンの新しい心で、よくシミュレーションをして、親切を施していくことをお勧めいたします。

 そのためには、主を喜ぶことです。それが私たちの力ですから。
 主を喜ぶとは何を喜ぶのでしょう。

 罪の奴隷となっていた私たちのために、イエスキリストが地上に来られて贖いの御業を十字架の上で成就してくださいました。

 バビロンに連れていかれたユダヤ人が、現実に捕囚から解放されてエルサレムに帰って来たという歴史的事実、それは私たちが神の国に帰るためのイエス・キリストの救いが成就し始めた、礎石が据えられたということなので、だから私たちは主を喜ぶのです。

 私たちの力で町や神殿を再建するのではありません。私たちの力で自分を神の子として変えていくのでもありません。このことは神から出たことなのです。

 そのように主を喜んで、私たちのこの新しく造り変えられた人生において善に親しむ楽しさを味わっていき、その途上にある様々な葛藤や試みは、それが聖められる幸せなのだと気付いていくのです。

 まず、いろんなところでの親切や気遣いを心掛けていきましょう。

 教会では駐車場係りの方や音響係の方など、見えない所で心配りや親切をしてくださっている方が多くおられます。どれだけ見えないところで心配りをして親切を施し奉仕をしてくださっているかを、皆さんも親切心によって見回してみてはいかがでしょう。

 施しを受けるばかりではなく、親切な心を施すことが出来るように、チャレンジしたいものです。

【短歌】

 善行に  親しむための  施しは
  親切・やさしさ  赦しの心

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年1月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

福音の成就は一新更始から  up 2023.1.8


主題聖句(ガラテヤ6:15)
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。




 

 今年のモットーは「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」です。

 私たちのクリスチャン生活に起きる全ての出来事は、良いことも悪いことも、私たちがキリストの姿に変えられていくためのものであり、そのプロセスは「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」なのであります。

 今日は、そのように受け止めることが出来るようになる、そのように造り変えられる、というお話しをしたいと思います。

 テーマは「福音の成就は一新更始から」です。

【一新更始】
(新たに物事を始めるにあたって、古いものを全て新しくすること)

 前回、イスラエルのバビロン捕囚とエルサレム帰還について、ネヘミヤ記からお話いたしました。70年という神様の懲らしめの期間(捕囚)を終えて、イスラエルの人々はエルサレムの地に戻されました。彼らは以前の偶像礼拝の罪を打ち捨てて、新たな心で神の律法を守って初めからやりなおそう、とエルサレムの町と神殿の再建に取り組みました。

 そのように「一新更始」というのを、不敬虔な罪人の古き自分を脱ぎ捨て、信仰によってキリストのように生きる新しい人生を歩む、という意味として信仰的に捉えてみたいと思います。

 過去に引きずられていたのでは新しいことはできません。一からやりなおす心が必要です。この「一新更始」を、今日から新たにチャレンジして、「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」という心を持つことが出来るようになっていただきたいと思います。
  主題聖句
(ガラテヤ6:15)
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 大事なことは色々ありますが、神への信仰においてまず心を備えなくてはいけない初めの一歩は、「新しく造られること」です。一歩目がなくては二歩目も三歩目もありません。

 家や神殿を建てるとき、土台となる石を礎石と言います。初めの礎石(=隅のかしら石イエス・キリスト)を置かなくては、次の土台の石を並べることも柱を建てることも出来ません。その最初の重要なことが「新しい創造(新創造)」である、というのが今日の主題聖句です。

 この土台の上に私たちの霊的成長、神の子としての成長が始まり、「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」を感じ取ることの出来る心も備えられていくわけです。

(1)新創造こそ重要なポイント
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。旧いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

※一新更始のために新しく創造される
 過去の私たちの業績とか経験や知識の上に神のみことばを積み上げていくのではなく、今までのものは切り離して、心を一新した状態で神様の御こころを受け止め、神様との関係を建て上げ、その中で育てられていくことが大切です。

 そんな中でノンクリスチャンだったころの様々な経験や知識が生かされることがありますが、神様を畏れなかったころの考えはこうだったなあと比べて認識し、神と共に歩む人生を確立していくことが大事です。まぜこぜにしないようにしましょう。
 神様の知恵は最高のものですから、自分の経験や考えをそこにプラスしたのでは、自分が主になってしまいます。神が主であるなら、神様が言われることを最優先していくべきです。
 
 神の全き教えと、不完全な自分たちの経験や考えとを対比して、神のおことばの知恵と力がどんなにすぐれているかを見つけ出し気付いていくことが大切です。

※古い自分と新しい自分の区別が大切
 不敬虔な時の自分の主観や価値観と、イエス様を信じてからの、みことばによる主観や価値観を、はっきり区別できますか。

 新創造の重要性に気付かずに進んでいると、長い間には、信仰生活が崩れてきだします。新しく造られたということが忘れ去られて、古い自分と新しい自分が区別できなくなります。

 どうして罪から離れられないのか、どうしてこの悪習慣がやめられないのだろう、どうしてこの肉の感情、自己中心の感情を制することが出来ないのだろう、と信仰生活に行き詰まりを覚えるようになります。

(2)ますます新しくされることが重要
(コロサイ3:9-10)
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

※造り主のかたちへ一新更始の積み重ね
 皆さんのタンスの中に、捨てるのが勿体ないから、いつか着るかもしれないからと思いながら何十年も着ない服を大事にしまっているということがないでしょうか。

 そのように、霊的にも、古き人、不敬虔な肉中心の人生の自分を惜しんで捨てきれないということがあるかもしれません。

 私たちはますます新しくされることが重要なのです。造り主のかたちへと一回一回過去と切り離して新しく初めていく、そして何かの機会に今までの信仰生活を清算して新たな心で一から始め直す、この積み重ねにより、造り主のかたちに似せて益々新しく造り変えられていく、ということが(コロサイ3:9-10)に記されています。

【デボーションポイント】
◎回復や再建には信仰が必要
(へブル11:1)
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

★信仰は望みによって強くなる
 望んでいることが必ず実現すると確信する心が信仰です。望みが強ければ信仰も強く働きます。

★新生や回復のみことばに望みを抱き、信仰を持つことが礎石を据えることになる
 あなたは、新しく造り変えられたいと強く望んでいますか。善に親しむ楽しみを持つことが出来るように、また聖められることを幸せだと受け止めることが出来るように、自分を変えられたいと強い思いで望んでいますか。
 新しく造り変えられるという望みをもって進んでいかなくては、信仰が働かないので実を結ばず、ただ願望で終わってしまいます。

 みことばを見つけてください。みことばを信じ、告白し、決心し、そのように行動してみる、そのように信仰を働かせるのです。この心の考え方が礎石を据えるということなのです。

★善に親しみ聖められることを切望する、新しい自分に造り変えられたい強い願い
 あなたはどこまで今年のモットーに対する強い願いを持つことができるでしょうか。そのためには根本的にあなたの心が変えられなくてはいけません。

★魂が新しく造られたのであって、肉の体ではないことを忘れてはならない
 洗礼を受けて私たちの魂は生まれ変わりました。しかし肉体はそのままです。私たちのからだが新しく変えられるのはキリストの再臨の時です。

 ですから、新しく造り変えられた魂は、今は肉の影響を受けます。肉の欲望が魂に伝わるからです。悩ましいことです。

 まず礎石としての信仰を持つために、「造り変えられる」という神のみことばの約束を信じて、願いを強めていきましょう。

 そのようになりたい、というものを少しづつ行動に現わしていくのです。例えば5分の祈りを6分にしよう、聖書を3分でもいいから毎日読んでいこう、と少しづつでも前進することが大切です。

 「一新更始」あなたのその神への姿勢を、神様は喜ばれるのではないでしょうか。

【短歌】

新しい  こころ得るため  主を祝う

喜びの歌を  絶えず捧げる


 今年のモットー「善に親しむ楽しさ、聖められる幸せ」に、神様がこれから私たちを回復させてくださいます。

 キリストの贖いの十字架という歴史的事実によって、このモットーは必ず成就します。

 そのために信仰を働かせて少しづつの変化をあなたの生活の中に積み上げていきましょう。そうすれば、今年の最後には、今日のあなたとはすごく違うあなたの変化を見ることが出来ます。

 新しく神の子として生まれ変わったクリスチャン生活の成長を見れることを楽しみに、今年も歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2023年1月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

喜びの盛徳大業  up 2023.1.1


主題聖句(ネヘミヤ8:10)
さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」




 

今年のモットー
ー善に親しむ楽しみ、聖められる幸せー
 これをモットーに今年一年再臨に備えたいと思います。 
再臨への準備の10年計画の、なんと今年は6年目に入ります。後半に入ったのですから、さらに気持ちを引き締めて準備していきましょう。

 今年のみことばは、(マタイ5:11ー12)です。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」
 不敬虔な周りの人々の批判や反対にも屈せず、このみことば通りに、キリストの希望に満ちた一年としましょう。

今週のテーマ 
【喜びの盛徳大業】
 盛徳大業(せいとくたいぎょう)
◎盛んな徳と大きな事業

●徳をもって偉業をなす。
 この世の人々は結果のみを重視します。どんなに不道徳な方法でも結果さえ出せば良しとします。しかし、神への心の姿勢こそ大切で、結果の優劣ではなく、神はその心と動機を見て報いてくださるのです。私たちはそこに希望を持ちます。

●聖人君子の目標とされていた。
 盛徳はキリストの優れた高徳。大業はキリストの福音による隣人愛。キリストのからだである教会も同じ。

 優れたイエス様の徳の高さは聖書から学べます。その一番の大業は、私たちを罪から解放し、永遠の命に至らせるために、ただ愛のゆえに、この地上に下ってくださり、全世界の人々の身代わりに罪の裁きを十字架で身をもって負われたことです。十字架の贖いはキリストのみです。

 よみがえりのイエス・キリストを私たちは魂で感じとることができます。

主題聖句(ネヘミヤ8:10)
「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

(1)時代背景 
●バビロン捕囚の帰還
 イスラエルの人々は表向きは神を敬うと言いながら、隠れて偶像に仕え、罪の奴隷、欲望の奴隷になっていました。そして遂に神の裁きが下り、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はバビロンに捕囚とされました。
 ただ、神はダビデ王のゆえに南王国のユダを完全には滅ぼされず、70年後には再び回復されて国に帰ることができるという約束をされました。そして、その約束が成就したのです。

●エルサレムと神殿の再建工事
 神は異邦の国の異邦人の王クロスの心を動かし、エルサレムの再建をするよう命令がくだされました。

(2)罪人の救済を象徴するイスラエル
 イスラエルは私たち人類の象徴で、バビロンは死と罪の力の象徴です。罪の欲望の奴隷となってしまった人類を表します。

●キリストの福音による罪からの解放。
 2千年前、キリストのご降誕を通して神の預言が成就しました。
 キリストは私たちの罪を負われ十字架で死なれ、よみに下られましたが、罪がない方なので、三日目によみがえられました。そして、そのキリストを信じる私たちも同じようによみがえることができるのです。これが福音です。

●神と人との関係回復の歩み。
 神殿は神ご自身が臨在されるところを表しています。そこが再建されるということは、神が私たちと和解してくださり、その関係が回復されるという希望を表しています。
 
 キリストが再臨されるまでの間、私たちはこの神殿(私たち自身)を再建しているとも言えます。

(3)主を喜び祝うこと!
 ネヘミヤ記に、「上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。」とありますが、それは、主のために喜び祝いなさいと言っているのです。悲しんではならない、再建の仕事を始めるというのは喜びなのです。
 
 聖書協会共同訳では、「主を喜びとすることこそ」と訳されています。
 2017年版聖書では、「あなた方の力だからだ」と訳されています。本来あるべき訳です。
 新共同訳では、「あなた方の力の源である」と訳されています。再建をしようという力、希望が湧いてきます。
 
 荒廃した街と神殿を見て、再建を諦めようとする不信仰に対して、神が再建を指導してくださるという信仰へ、心が変えられるのです。
 
 12月23日に岐阜の教会のこども園が近所の家からの延焼で、全焼してしまうという悲劇がありました。落胆と失望で力が抜けてしまいそうです。
 
 今、再建に向けて話し合いがなされているでしょう。イスラエルの人々は再建の希望をもって帰還して来ました。しかし、彼らの前に広がる風景は一面の焼け野原だったのです。彼らは絶望で心が締め付けられ、気力が失われそうになったことでしょう。
 
 しかし、立て直すという考えは神から出たものです。復興の思いを神は与えてくださいました。
 
 イスラエルの敵であった国の王が神によって心を動かされ、復興を命じ、しかもその資金まで提供してくれたのです。これは神の約束です。
 
 通常ありえない方法で、イスラエルの復興は神によって計画されました。そこに私たちは希望を持つことができます。

 罪の奴隷となり、希望のなかった私たちでしたが、イエス様の救いにあずかり、神のご計画、約束によって、今、神の神殿、教会が完成されつつあります。完成したなら、イエス・キリストが再臨されるのです。

【デボーションポイント】
◎聖人君子のイエス・キリスト
 この方は盛徳大業を成し遂げられました。

●そのからだである教会も同じように聖人君子である。
 頭であるキリストとからだである教会も一体なのですから、諦めたら、キリストのからだから外れてしまうことになります。からだは頭の思いを実現するために働きます。
 
 あなたも聖人君子のひとりなのです。今はまだ完全ではなくても、聖人君子のからだの一部であり、そこに属しているのです。チームに属しているのです。

●教会は、聖人君子のキリストのからだとして、善に親しみ、聖めを求め続けることによって盛徳大業となる。
 今日は皆さんを動機づけるために語りました。励ましを受けて、希望をもってクリスチャン生活を歩んでいきましょう。

【短歌】
新年は 善に親しみ 
聖められ 盛徳大業 一直線