■2022年12月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

判官贔屓(ほうがんびいき)のクリスマス  up 2022.12.25


主題聖句(ルカ2:11)
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。




 

 天地を造られた聖書の神ヤーウェが遣わされる全世界の救い主は、イスラエルの2代目の王様であるダビデの子孫から生まれる、ということを神様は預言者にお告げになっていました。

 今日のテーマにあります「判官贔屓」というのは、弱い立場にある者に肩入れすること、「判官贔屓のクリスマス」とは、すなわち、弱い立場にある者に肩入れするために救い主イエス・キリストがお生まれになった、それがクリスマスです、ということになります。

 「弱い立場の者」とは誰のことなのでしょうか。(ルカ2:11)にある「あなたがたのために」というのはイスラエルの民のことを指して言われています。

1)「弱い立場の者」とは 

◎ローマ帝国の圧政の中にあるイスラエル(ユダヤ民族)
 当時、イスラエルという国は滅びており、ユダヤ民族や異邦の民、その混血などがその地方に住んでいて、彼らはローマ帝国の圧政を受けておりました。民族的に政治的にローマに支配されるイスラエル(ユダヤ民族)は弱い立場の者でした。

 しかし、キリストの救いは、イスラエルという地域的民族的立場だけにとどまらず、罪と死の力の支配の中に住む弱い人類すべてに及ぶものでした。

◎罪と死の力の支配の中の人類 
(ヤコブ1:14 −15)
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
 人の欲求は罪と死に支配されているので、善に留まることができません。初めは良いことをしたいと思っていても、欲求が強くなると、それを満たしたいという気持ちをコントロールできなくなります。

 健全な一線を越えて貪欲となり、人を欲望の奴隷としてしまいます。そして罪を犯して死に至る、と(ヤコブ1:14-15)に語られています。 
 
 私たちも高まる欲求や感情を制御できなくて、突き進んで失敗したり後悔したりしたことがあるでしょう。この世界は罪と死に支配されており、欲求を利用して死に至らせる力が働いている世界です。その意味で私たち人類は、罪と死に支配された弱い立場にいる者であると言うことが出来ます。

2)何が判官贔屓なのか

◎罪人を救うための代価を神ご自身が準備された
(第1テモテ2:6)
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
 
 罪人を救うために、罪を償う代価を神ご自身が準備された、その「代価」がイエス・キリストです。

 罪人といえども人類は、神様がご自分のかたちとして造られた神の子どもですから、親心として神様は、なんとかして助けたい、永遠の裁きから救いたい、どうかして罪を取り消したい、と思ってくださるのです。

 そしてそのために、神様ご自身がイエス・キリストとして人となってこの世に来てくださった、これがクリスマスの素晴らしい意味です。

 人類(罪人)への神様のあり得ないような思い入れ、寵愛、どれほど私たちを愛し心配し大事にしてくださっておられるか、わかりますね。

◎信じるだけで罪が赦される
(使徒10:43)
「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
 
 イエス・キリストは十字架で、あなたの身代わりに、あなたの罪の裁きを受けてくださって、あなたの罪を帳消しにしてくださった、だからそのイエス・キリストを信じる者はだれでも罪の赦しが受けられる、と使徒たちは宣べ伝えています。
 
 イエス様の33年のご生涯は、人の目にも神の目にも一つの罪も見出せない義人のいのちであることが証明されました。

 この正しい方のいのちは全人類の罪を償う価値ある代償となる、と神様がお認めになりました。ですから、そのイエス・キリストを信じる者は、罪赦され救われるのです。

 なぜ人類に罪と死が入ったのでしょうか。それは、人類の初めであるアダムとエバが、自分の欲求に従いたくて、神様のおことばに背いたからです。

 以来、人類はその罪の性質を受け継ぎ続けて今に至っております。イエス様は、人類のすべての罪、私たち一人一人のすべての罪を十字架で負って身代わりに死んでくださって、私たちに罪の赦しを得させてくださいました。

 御子イエス様のいのちの代価のゆえに罪赦されたことを知った者たちは、それほどまでに私たちを愛してくださっている神様の愛を感じて、少しずつ罪を犯すことが少なくなっていきます。

 愛の心をもって善に親しみ、愛の心をもって欲求を自制するようになります。愛の力の方が欲求の力より強いからです。

 愛によって互いに自制し合い、互いに赦し合う、愛に動かされる人生、愛によって結び合わされる社会を神様は願っておられるのです。

◎忍耐強い神
(第2ペテロ3:9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことをおくらせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、全ての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
 
 全ての罪と悪から遠ざかって善に親しむ日々を送ることが出来るようにと、神様は忍耐強く、私たちの悔い改めと成長を待ってくださっておられます。
 
 神様の愛を知る私たちは、少しでもそのお気持ちにお応えしていきたいと思います。

【デボーションポイント】
◎キリストの愛のうちに歩む香り
(エペソ5:2)
「また、愛の内に歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」

 キリストは、私たちの罪を赦すために、愛してご自分のいのちを差し出すという隣人愛の模範を示してくださいました。
 
 隣人を愛する愛をもって、私たちもまた別の隣人に愛を注いでいきます。弱い立場の人々に心を向け、助けの手を差し伸べていきます。これが神様に喜ばれる麗しい香りの人生です。

◎とりなし続けてくださる主イエス

(ローマ8:34)
「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 イエス様は今もなお父なる神様の右の座で、「父なる神様、さばきを下される前に、懲らしめを与える前に、私が十字架で流したいのちの贖いのしるし、このゆえにもう少し待っていただけませんか」と、私たちのために愛とあわれみをもってとりなし祈ってくださっておられます。

 キリストの愛の内に歩むことと、このキリストのとりなしの姿と、この二つをよく考えて、今の人生、毎日の日々の生活の中に、神の前に謙虚に敬虔に生きる心の姿勢を築き上げていくことが大事なことではないでしょうか。

 いかほどの判官贔屓を受けているかに励まされ、神の前に良き香りを放つように努めましょう。

【短歌】

比類なき  愛とあわれみ  告知する

乙女にやどりし  イエス・キリスト

 

 

 

 

 

 

 

 

■2022年12月18日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

ことばに力を、行動に影響力を  up 2022.12.18


主題聖句(ヤコブ1:26〜27)
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。




 

 自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
 ここで“宗教”という言葉が出てきます。最新の新改訳2017verでは“宗教心”、口語訳では“信心深い”と訳されています。
 現代の日本における宗教、特にキリスト教がどのような位置づけなのか、まず考えてみたいと思います。
 日本は神道や仏教が割合多いイメージだと思います。そんな中で、キリスト教も広く認知されていると思われます。と言うのも、欧米文化が社会に大きな影響を与えているからです。もうすぐ迎えるクリスマス、イースターやキリスト教式の結婚式など、実はキリスト教は、数ある宗教の中でも日本では優位性があると私は考えます。
 個人的には、“宗教”という言葉はあまり好きではありません。なので、自身がキリスト教を信仰する信者という固いイメージを持たれないように、“人生の価値観”とか“生き様”という表現を周囲にすることが多かったのですが、神様を知らない人からしたら、私がいくら表現を変えても、キリスト教の信者と見るわけです。なので、そのように見られることをしっかりと受け入れ、まだ良い印象を持たれやすい教会のイメージを、私自身のことばや行動を通して、更に受け入れてもらえるように努めようと思いました。
 また、世間はクリスチャンのことも“宗教の人”と見るので、自分が他宗教の人から強引な勧誘を受けたら嫌なのと同じように、クリスチャンも福音を伝える方法をしっかりと考えなければならないと思います。しかし、聖書は「時が良くても悪くても福音を伝えなさい」と言っていますから、神様からの知恵と聖霊様からの力が必要です。
 
 さて、ヤコブの手紙に話を戻します。ここで言っている「宗教に熱心」とは、私たちに置き換えて一番代表的なのは、『日曜の礼拝を守る』ことと言えるでしょう。
 私たちの神様への熱心さと信仰姿勢の真面目さは、毎週の礼拝を守ることで表すことができます。しかし、形式的になりやすいのも、また人の弱さです。表面上の信仰だけで、語ることばが軽かったり、信用がなかったり、自分の心を欺くようなことを告白していては、日曜に礼拝を守っていることはむなしくなります。
 神様への熱心さや信仰姿勢の真面目さには、みことばを守ることが比例します。みことばを守る、つまり聖書に書かれていることを自分の生活の中で体験し、みことばに確信を持つことが大切です。実体験が多くなれば、自信が持てるようになります。そうなることで、日曜に礼拝を守る私たちの語ることばに力が加わり、聞く人々の心に届くと私は確信します。
 
 最近までサッカーのワールドカップが開催されていました。ある解説者がネット上で評価されました。その解説者も代表選手の経験があり、サッカーに精通しているので、わかりやすい表現と言葉遣いで、視聴者の心を掴んだのです。自身の体験があるから、確信を持って語られることばは人の心に届く、という身近な事例でした。
 
 ヤコブの手紙後半を見ていきましょう。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教」、つまり私たちの生きた活力のある信仰は、困っている人に手を差し伸べ、またこの世から自分をきよく守ることであると語っています。
 旧約時代に神様が定めた律法の中に、孤児ややもめ、在留異国人に対する世話について細かく定められました。神様はあわれみの神様です。その神様の御性質を私たちも行いで体現していくことが大切です。また、自分自身をも大切にしなければなりません。罪の世界に身を置く私たちは、この世の汚れから自分をきよく守ることも同じくらい大切なことなのです。なぜなら、神様の御性質に「聖」もあるからです。
 この世は「聖」い生活をむなしいものだと否定しますが、「聖」は突き詰めると人々の心に必ず届きます。ですから、この世の価値観に惑わされずに私たちの信仰を貫きましょう!
 私たちの伝えたいこと(福音)を人々に伝えるには、自信のことばと行動に影響力が必要不可欠です。キリストの香りを放つとは、周りに良い影響を与えるということですから、私たちのことばと行動を持って周りに良い影響を与えれるよう励んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

■2022年12月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

罪人を救うためのクリスマス  up 2022.12.11


主題聖句(第1テモテ1:15)
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。




 

 

 先週は、イエス様の御降誕は、創造主(万物の父なる神様)が存在しておられることの証明であり、善に親しむ者にとっての福音である、ということをお話いたしました。

 今日はアドベントの2回目です。「罪人を救うためのクリスマス」というテーマでお話いたします。

罪の世界で溺れている私たち罪人のために、罪の世界に飛び込んで私たちを助けてくださる救い主イエス様がお生まれになったのがクリスマスである、ということに焦点を当ててお話いたします。

1)「罪人」とは
◎罪とは的外れという意味 

◎罪人とは、的を外した存在 不要な者 
 役目をはたしていない状態
 
 神様はすべてのものを、神様のお考えにより目的をもって創造されました。そのお考えや目的から外れて生きる人を罪人と言います。

2)いつから罪人になった
◎アダムとエバが神のことばよりも肉の欲求に従った時
 
 人は神様との関係のために神のかたちに創造された神の子です。
 しかし、アダムとエバが神様に従うよりも、自分の肉の欲求に従うことを選んだ時から、人は罪人となり、死ぬことが定められました。
 それ以来、人類は罪の性質とその結果としての死を受け継いで今日にいたっています。

◎肉の思いのまま、欲求のままに生きているなら、罪に溺れる罪人である。

 欲求をコントロールできず、欲求に引きずられ続けている状態、それは罪に溺れている状態です。人類は今もそのような状態にあります。神様はそのように溺れて死ぬしかない人類のために、救いの道を準備されました。

3)罪人の「救い」
◎へブル9:22
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」

 罪のないいのちの代価が必要
 「血を注ぎだすことがなければ」即ち、いのちをもって償わなければ罪の赦しはない、これは神様のルールです。しかし、そうすると、罪人となった人類は皆、死ななくてはならないということになります。

 そこで神様は、罪人本人に代わって身代わりの者が血を流し、いのちを差し出す、すなわち代価を払うことにより、罪人は罪赦されて生きることが出来るという救いの道を準備されました。

 身代わりになるその人は、自分に罪があってはいけません。罪のないいのちだからこそ、身代わりとして有効なのです。

◎1テモテ2:6
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至って為された証しなのです。」

 キリストの御降誕は救いの実現の始まり
 神様は、キリストが生まれるずっと以前から、イスラエルの地域で救い主についての預言を語らせ、聖書に記録として残し、それが全世界の人々の救いにもつながることをイスラエルの歴史の中ではっきりと残されました。
 その預言が時至って実現したのが、キリストの御降誕であります。

◎マルコ10:45
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためでありあり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

この世に生まれた目的の自覚
 イエス様ご自身が、罪人を救うための贖いの代価としてこの世に生まれたという、ご自分の存在目的、召命の自覚をはっきり理解して告白しておられます。

 そのことは神様が預言者を通して語ってこられていたことで、その預言の成就として救い主イエス・キリストが遣わされ、そしてご自身もその自覚を持って生涯を全うされました。

 イエス様の人生は真に的を射た、罪のない人生でした。
 もしクリスチャンでイエス様を信じているけれど、自分は何のためにクリスチャンとしてこの地上にいるのかということを迷っている方がおられたら、的が見えていない、罪の状態にあるかもしれないと、立ち止まって吟味されてみてはいかがでしょうか。

【デボーションノート】
罪に溺れる罪人であることに気付いていますか?

 イエス様を信じてクリスチャンになっても、まだ溺れている罪人の状態であるというのはどういうことでしょうか。

 罪の世界から引き上げられて、安全な場所で保護されるまでに時間がある、プロセスがある、ということを理解して頂きたいと思います。

 溺れている人がいます。そこに飛び込んで助けに行った人がいます。それが見えたら少し望みが生まれます。その人が溺れている人の手をつかみました。溺れていた人はその人にしがみつきます。そこで救いが一部分、成就します。

 救助者から離れてしまったら、また溺れてしまいますから、救助者を信じて、言われた通りにします。救助者はしがみつかれたまま、陸地にあがって、彼を安全なところで保護します。それで救われたということになります。

 このことを私たちの地上でのクリスチャン生活に当てはめてみますと、イエス様は罪の世界にやってこられ、私たちがしがみつくことが出来るようにとかたわらまで来てくださり、ご自分を差し出してくださいました。
 
 しかし、私たちは今まだ天国という安全な陸地には上がっていません。ここはまだ罪の世です。私たちはイエス様を信じて罪の世から助け出される日まで、救いが完成する日まで、しがみ続けていかなくてはなりません。

 イエス様にしがみついてイエス様と共に歩む人生でなければ、御国という安全なゴールには到達出来ないのです。

 そのためには、自分がまだ罪の世界で溺れる可能性があり、半分溺れているような罪人であることを自覚することが大事なことです。溺れていることを知らなければ、助けてほしいとも思わないでしょう。

 溺れている人が救われるためには、助け人にしがみつくしかありません。全身全霊をもってしがみつきましょう。

 熱心に、一心に、主に委ね、主と共に歩み続けて頂きたいと思います。

(ローマ10:13)
「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」

 信仰とはキリストにしがみつくことです。しがみついていれば必ず救われます。クリスマスは罪に溺れる者の希望です。希望と喜びを持ってクリスマスをお祝いいたしましょう。

【短歌】

 罪の世で  溺れる魂  救うため

 命をかけた  御子の降誕

 

 

 

 

 

 

 

 

■2022年12月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

キリストの御降誕は福音  up 2022.12.4


主題聖句(ローマ1:2〜4)
この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。




 

◎創造主の御子が公にされたことが良い知らせ
 
 聖書の神は創造主です。創造主の御子イエス・キリストが公にされたことが良い知らせである、ということを(ローマ1:2-4)のポイントとしてお話したいと思います。

 当時ローマ帝国の属州であったパレスチナ地方のベツレヘムという町に、イスラエル人の赤ちゃんとしてイエス様はお生まれになりましたが、その時それはほとんど知られていませんでした。旧約聖書の救い主の預言を知っていた人々と、天使に告げられた人たちだけが、赤ちゃんを見て、神の預言の成就だと確信して喜びました。ユダヤ人は、自分たちをローマの圧政から救ってくれる王が神様によって遣わされて、自分たちを救ってくれるという希望を持っていたのです。

 イエス様は30歳の時から3年半、神の子としての働きを色々な教えや奇跡をもって明らかにされましたが、その証しをすべてのイスラエルの人々が受け入れたわけではありませんでした。しかし、公にされたということが大変重要なことである、というのが今日の中心的なポイントです。

◎「この福音」とは
1)喜ばしい知らせ
 良い出来事の情報を「福音」(喜ばしい知らせ)と言います。その情報が自分と何か関係があるなら、それは大変喜ばしいものとなります。私たちに関係のあるこの良い情報とは、御子に関することだと(ローマ1:2-4)は語っています。イスラエルの出来事が、私たちと何の関係があるのでしょうか。

2)御子イエスに関すること
 イエス様は30歳の時に、大工としての社会的仕事をやめて、油注がれた者キリストとしての公生涯に入られました。

 イエス様は、お生まれになった時もパレスチナの地方を騒がす存在でありましたが、公生涯においても特に十字架の死については、パレスチナ一帯で、広く話題となり人々の関心と噂の的となっていました。

 信者が起こされ、教会が出来、教えはローマにまで広まり、御子イエスに関する情報、聖書のことばは、世界に向けて、神のかたちに造られたアダムの子孫すべてに向けて発信される情報となりました。

3)ダビデの子孫
(第1歴代誌17:14)
「わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも固くたつ。」
 
 ここには、永遠の統治者、永遠の御国の王が、ダビデの子孫に生まれるということが神様の約束として預言されています。これはイスラエルの人々には大変良い情報「福音」でした。

 ダビデの王国は、後継者ソロモンによって更に繁栄し、そして堕落し、二つに分裂し、やがて滅んでしまい、ユダヤ人は遠くに離散して、支配され虐げられることとなりました。

 しかしイスラエルの民は、だからこそ一層、ダビデの子孫の中から永遠の御国の王が出るという神様の約束、未来の希望を、ひたすら信じて何百年も待ち続けたのです。苦難は信仰を強くします。みことばにこそ自分を支える希望を見いだすからです

 私たちにもそのように、信仰が弱り、くじけるような時があるでしょう。神様はそこですぐに願いを叶えてくださるのではなく、神様のなされる時を待つという励ましを、ことばや夢、そしてメッセージや聖書のことばを通して与えてくださる、ということを覚えておきたいと思います。

4)死からの復活による神の御子 
◎「死」は罪ある者が受ける報い 復活は義人である神の子の証し

 アダムが神のかたち、神の子として造られた時には、アダムには罪がありませんでした。しかし「違反をしたら必ず死ぬ」と神様は前もって警告されていました。ですから違反をし罪を犯した者の報いが「死」なのです。罪がないなら、死ぬ必要はありません。

 (ローマ1:2-4)には、イエス様が「死者の中からの復活」による神の御子、と表現されています。イエス様は一度死なれました。しかし、それはご自分の罪の為ではなく、すべての人の罪をご自分の罪として引き受け裁かれてくださったからです。

 そのために体は十字架で死なれましたが、イエス様ご自身の魂は正しく義なる方であったので、罪ある者が行く死の世界に留まり続けることは、ルールに反することになります。

 必然的に、罪なき神の子イエス様の魂はよみがえり、新しい体を与えられて復活させられることになります。イエス様の復活は、罪のない神の御子である証しです。イエス様が神の子であることを、よみがえりによって証明されたのです。

 そして、キリストを信じて救われた魂も、罪赦されて義とされていますから、死ぬ必要はありません。キリストの再臨の時に新しいからだを頂いたよみがえりを体験します。同じ罪の体でよみがえるのではありません。罪のないからだ、御霊の体を頂いて新しく神の国で永遠の人生を始めることが出来るのです。

 私たちはキリストを信じて魂が救われて義とされているので、死の中に留まり続けることは決してありません。神の前に生き続けることの出来る魂を持っているのです。

◎「子」の存在は親の存在の証明になる
 あなたが今ここにいるということは、あなたには両親がいたということの証明です。子の存在は親の存在を証明するのです。

 イエス・キリストは神の子と言われています。罪のない神様の子ですから、イエス様には罪がありません。罪に勝利し死に勝利できたのは、イエス様に罪がなかったからです。

 罪のない神の「子」と言われるイエス様が、人間の歴史の中に、私たちと同じ血と肉をもってお生まれになったということは、イエス様には父がいる、親がいる、それはすなわち神の存在をあらわしておられるということです。

 聖書には、聖霊によって宿られたと書かれてあります。マリアの胎に受精卵が置かれたのです。イエス様は、養父ヨセフは勿論のこと、養母マリアの遺伝子も持っておられません。まったく罪と関係のない存在であることをあらわしています。肉体を持つために女性の体を借りて、神はイエスをこの地上に生み出されたのです。

 これはとても重要なことです。私たちがイエス・キリストを信じることが出来るのは、創造主なる神の存在を信じているからです。私たちに親がいるのと同じように、イエス様にも親がいる、それは創造主なる神様です。御子イエス様が肉体をもってお生まれになったということは、創造主がおられるということの否定できない証拠なのです。

【デボーションノート】
 主なる神を畏れる人生を過ごすことは、神の子である私たちにとって当然のこと。なぜなら、親として神の存在を敬い、認め、信じているからです。

 今あなたは、イエス・キリストを通して父なる神様の存在を、親として愛し敬っているでしょうか。それとも宗教として信じているのでしょうか。

◎善を愛する者にとって、神の存在証明は福音である
 神の存在を信じるということは、善悪を裁く方がおられるということです。

 私たちが神のおことばを守ろうとするのは、善を愛する心です。善を愛する者に正しく報いてくださる裁き主なる神(イエス・キリストの父なる神)がおられるからこそ、私たちは善いことを守り続けることができるのです。

 善を求めていきましょう。それが神の子のあるべき姿です。できなかったとしても改めていきましょう。それが善を求める姿勢です。失敗をイエス様は十字架で負ってくださっているので、私たちは改めていけば、チャレンジしていけば、いつか出来るようになります。

 イエス・キリストがそれを可能にしてくださった、救いを完成してくださった、という事実があるので、チャレンジし甲斐があります。

 そういうわけで、クリスマス(キリストの御降誕)は、神の存在を証しする良き知らせです。善を愛する者にとっては大きな希望です。永遠の望みです。生きる喜びです。期待がそこに生まれます。

 神は真実な方なので、神の子のために不可能を可能にしてくださるに違いありません。そこに私たちの神への信頼、愛が生まれてくると思います。

【短歌】

 クリスマス  唯一の神の  存在を  

     知らせるための  福音となる

 

 

 

 

 

 

 

 

■2022年11月27日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

世に光としてのかおり  up 2022.11.27


主題聖句(ヨハネ8:12)
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」




 

1)世の光〜宣教祈りの集い(2022年4月25日) 
 「ひとりの人の救いを祈り求めて」
 岩井基雄ラジオ牧師メッセージより
(ヨハネ4:35)
「あなたがたは『まだ4か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
 
 このような素晴らしい集会にお招きくださり感謝致します。
 ラジオで様々な情報が流れています。多くの方々が苦しさや悲しみや痛みを抱えて、その情報の中から真理や希望、自分の心に力を与えるものを探している、そんな時代に私たちは生かされています。
テレビを見ても、悲しみや痛みを覚えるそんな情報が流れる中で、私たち真理を知る者、希望を知る者は、祈りを深めるという恵みの時を与えられていると思わされます。
 今コロナが、放送に向かう方々を起こしています。インターネットや様々なアプリにより、特に若い方々の視聴者が増えていることも不思議です。彼らは学校に行くことが出来ない、友に出会うことができない、孤独を抱える中で本当のぬくもりを探している、そんな渇きがお手紙の中でも伝わってきます。
 私たちは、主イエス様が何を為してくださったのか、何を為せと私たちに語りチャレンジをしてくださっているのか、それをあらためて聞く必要があると思います。
 「目をあげて畑を見なさい。」イエス様が弟子たちを招かれた、その時に見えたものは何でしょうか。それは、サマリアの女性を筆頭にして、町の人々がイエス様のところにやって来る姿でした。
五回結婚して五回破れ、今は結婚相手ではない男性と暮らしているというその女性、町の人たちは早朝か夕方の涼しい頃に井戸の水を汲みに来るその所に、彼女は真昼間、人目を避けるようにして水を汲みに来ています。
 イエス様はその一人の女性に出会うために、ユダヤ人の嫌うサマリヤを通り、真昼間の暑い最中、その井戸の所に座っておられました。 そ  して、彼女に声をかけ、水を飲ませてくださいと依頼されました。 皆さん、私たちはどこまで人にお仕えすることが出来るでしょうか。人々から見下げられ、深い傷を受けた彼女に、イエス様はより低く、「私に水を飲ませてください」とお願いされたのです。
 「ユダヤ人なのに、サマリヤ人の私に頼むのですか」と彼女は驚いて問い返します。イエス様は「私が与える水をあなたが飲むならば、あなたの内から生ける水があふれるようになる」と答えられ、女性は「そんな水があるのなら私にください」と願い出ます。するとイエス様は「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と、彼女の最も触れられたくない所にズバッと触れていかれます。何と不思議なことに、そのことを通して彼女の心は開かれていったのです。
 彼女は町に行って「私のことを全部言い当てた人がいます。この人がキリストなのでしょうか」と人々に知らせ、そして町の人々が彼女の後についてイエス様の所にやってきたのです。その姿こそ「目をあげて畑を見なさい。」という招きでした。
 皆さんの人生の中にも、皆さんの家庭の中にも、教会の中にも、そのような大きな恵みに出会った方々がいらっしゃるでしょう。その方が救われるために、どれほどの祈りと犠牲が捧げられてきたことでしょう。先に福音の種を蒔いてくださった方がいて、犠牲を払ってくださった方がいて、今の私たちがあるのです。
 今、私たちには様々な方法が与えられています。教会に行くと石を投げられるようなことはありません。たとえ教会に来なかったとしても福音を聞くことができる、そういう恵みの時代の中にいます。
 人々の心は渇いて本物を求めています。その「本物」を、すべての国のすべての人々に伝えてほしいと、イエス様は弟子たちにその使命を託されました。彼らが有能だったからではありません。彼らは本当に砕かれて、聖霊に満たされて、主の恵みに生かされて、主の復活の事実に大いなる希望を与えられて、そして「キリストのよみがえりの勝利」を伝えたのです。
 私たちは、イエス様の福音に先に出会い、イエス様のよみがえりの勝利を先に教えられた者です。どんな苦しみや悲しみがあろうとも、死さえも私たちは恐れる必要はありません。イエス・キリストがよみがえってくださったから、私たちはそれを大胆に証ししていくことができるのです。
 蒔く者は刈ることの恵みがわからないかもしれません。刈る者は蒔くことの犠牲を知らないかもしれません。しかし刈り取ることの喜びがあります。主の御心は、蒔く者も刈る者も両方が共に喜ぶことです。「神様のみこころを行うことが私の食べ物です」と仰ったイエス様の御旨に従っていく、それが、先に福音の恵みにあずかった私たちの使命ではないでしょうか。
 どんな人たちがあなたに委ねられているでしょうか。あなたの周りに、どれほど多くの渇いた方々が、痛んだ方々が、悲しむ方々が、でも本物を求めておられる方々がおられるでしょうか。イエス様の愛を先に知った者として、何とかしてこの恵みを、この希望をその方々に届けたいと思うのです。
 その方法の一つとして私たちはこの放送伝道のために用いられています。悲しみや痛みが人々を本物へと導いています。たまたま点けたラジオで福音に触れる、たまたま紹介されたものでイエス様に出会う、どんな方法でもかまいません。蒔く者と刈る者がともに喜ぶ、そしてキリストの教会が建て上げられていく、その為に生かされていきたいと思います。

2)ラジオ世の光 辻秀彦先生メッセージ(2022年10月28日)
憐れみは人を生かす(エペソ2:4-5)
「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは、恵みによるのです。」
 少年院から出所してきた二人の少年がいました。才能と能力を備えていた二人は、その力を悪いことのために使っていたのです。孤児院に預けられた二人の少年の所に、ある金持ちが訪れ、二人を見て深くあわれみ、ぜひ引き取りたいと申し出ました。一人は、やり直せるチャンスだと思って喜んで受け入れ、もう一人は金持ちに憐れまれたくないと言って断ってしまいました。
 十数年後、この孤児院を支援したいという人が現れました。その人はあの金持ちに引き取られていった少年でした。彼はその金持ちの息子となり、相続者となっていたのです。
 二人のうち、人生をやり直せたのはどちらでしょうか。それは金持ちの深いあわれみを信じ受け入れた少年です。自分の力ではどうにも出来ない状況から救われるには、あわれみを受けることです。
 この世は様々なむさぼり、即ち貪欲に振り回されている人々が満ちています。この貪欲のゆえにあらゆる不幸な出来事が起こります。人は貪欲の奴隷であり、自分ではどうすることも出来ないのです。
 そのような私たちをキリストは深く憐れんでくださり、貪欲の奴隷から解放するために代価を払って買い取ってくださいました。その代価とは、ご自身の罪のないきよいいのちのことです。約二千年前イエス・キリストは十字架で死なれ葬られ三日目によみがえられたことによって代価の支払いが完了したのです。
 キリストの深いあわれみを信じて、貪欲から解放された新しい人生を歩んでみませんか。キリストの深いあわれみは今もすべての人に注がれ続けています。アーメン 

3)イエス様は世の光、また私たちも世界の光(横路伝メッセージ)
(マタイ5:14-16)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることが出来ません。また、あかりをつけて、それを桝の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなた方の光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなた方の父を崇めるようにしなさい。」

◎光と闇の性質
 今日の主題聖句(ヨハネ8:12)で、イエス様はご自身が世の光であることを宣言されています。また(マタイ5:14-16)では、あなた方は世界の光である、と私たちのことも光であると宣言してくださっておられます。「光」とはどういうものでしょうか。

(1)光は、みことば
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と詩篇119:105にあるように、みことばは道を照らす光のように、私たちの人生の正しい方向を教えてくれます。また足元が照らされれば、石につまづいたり、穴に落ちたりすることもありません。私たちはみことばに照らされた安全な人生を歩むことが出来ます。イエス様ご自身が光であるように、イエス様を信じる者も同じような者となっていると言われています。

(2)光は、神ご自身
 天地創造の初めに神様は「光あれ」と命じられて、光が存在しました。光があるので、生物は生きて元気に成長できます。神ご自身が私たちに生命を与えて私たちを守り成長させてくださっておられます。

(3)光は、イエス・キリストご自身
 ランプは油を燃やして光や熱を出しています。油は燃えて消費される犠牲の様なものです。イエス様も私たちのために十字架で犠牲を払ってくださり、私たちに永遠のいのちをくださいました。私たちも同じように愛の犠牲を払うことが出来る者と変えられていきます。光は犠牲を払うものであることを覚えていきたいと思います。

◎光は救いの恵みです
 私たちの内に聖霊様によって愛が注がれ、御霊の賜物が実ります。9つの御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が内で輝くとき、私たちは世の光としての香りを放つ者となっていきます。

◎光を枡の下に置かない
 光は隠すためでなく輝くためにあります。御霊の実である9つの賜物を私たちは輝かせたいと思います。
 「土の器」という賛美があります。私たちは、ヒビや欠けのある土の器です。しかし、だからこそ、器の中に注がれたイエス様の愛と光が、そこから外に漏れ輝き、流れ出て、周りの人たちを生かし潤してくれるという歌です。私たちは自分が欠けの多いものであるからといって失望する必要はありません。むしろ、こころ砕かれて、イエス様の注いでくださった愛と光を、聖霊様によって外に流し出せる者であることを感謝したいと思います。

【デボーションノート】
(1)主が今日、私に語られていることは何でしょうか。
(2)私が今日から実行したいことは何でしょうか。

 

 

 

 

 

■2022年11月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

ふさわしくない香り  up 2022.11.20


主題聖句(ヤコブ1:20)
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。




 

 キリストの良き香りというテーマで話してきましたが、ひとつぐらいは良くない香りについて語りたいと思います。
 
 このふさわしくない香りのことで悩んでいる方もおられると思います。

 「怒り」について今日は語ります。怒りはできる限りセーブする必要があります。何故なら人の怒りは自己中心であり、神の怒りのみが正しいからです。
 
 どんな言い分があり、立場があったとしても、怒りは正しくありません。私たちは罪の影響を常に受けているからです。
人の怒りは神の義を実現するものではなく、自分の義を実現したいからに他なりません。

〈人の怒り〉

1)(詩篇37:8)
「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」

●決して正義をもたらさない
 神の怒りとは、罪に対する裁きの表現であり、神の義を全うし守るために、神のたてられた秩序をこわす者を罰するためのものです。神は罪や違反に対しては厳しい態度で処罰される方です。
 しかし、人が怒りをもって相手を裁こうとすると、そこには感情が入り、2倍返しや3倍返しにもなってしまいます。そして無意識に神の立場に立っていることになります。私たちは裁き主ではなく律法を守る立場のものです。
2)(箴言29:22)
「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す。」

●争いの原因、逆らい従わない
 怒りを持ち続けると必ず争いになります。
 
 憤るとは、怒りを行動に表すことです。そして行動に表すとそむきの罪を犯すことになります。

●自分中心の義を押し通す
 従わないで、自分中心の義を相手に押し通そうとします。自分の思う義が正しいと決めつけます。

 どちらも、自分の欲求を満たそうとしており、満たせないと不満になり、納得できないと怒るのです。

 納得できなくても怒る必要はありません。怒るのはあなたの意見に相手が合わないからです。

 神の義に逆らっている人を見ても、あなたが怒る必要はありません。むしろ憐れむべきです。自分も怒りを引き出されることで神に裁かれないようにしましょう。

〈怒り続けるとどうなる〉

1)(箴言14:29)
「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」

●愚か=程度(人間性、道徳性)が劣る、馬鹿。阿呆
 馬鹿、阿呆ということばは秦の時代にできたことばです。
当時の皇帝の権威を振りかざすためになされた愚かなことが、後になって、馬鹿、阿呆ということばで言い伝えられることになったのです。

●自分の恥をさらす
 気の短い人は結局は自分の恥をさらしてしまいます。

2)(エペソ4:26〜27)
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」

●悪魔の餌食になってしまう
 これは霊的な問題をもたらす原因となります。怒り続けると悪魔に機会を与えて悪魔の餌食になり、怒りが抑えられなくなり、遂にはものを壊したり、相手を傷つけたり、自分のしたことが分からなくなってしまいます。霊的に非常に危険なことです。
 
 怒りという感情や憤りは誰でも持つことはあります。しかし、それを明日まで引きずらないようにとみことばは忠告しています。
 
 何年も恨み続け怒り続けると悪魔に入る機会を与えてしまい、せっかくきよめられたあなたの魂が悪霊に占領されてしまいます。大変恐ろしいことです。

 怒りの感情は誰でも持ちますが、ずっと持ち続けると、その怒りを餌食にして悪霊に支配され、性格も怒りやすくなり、周りを傷つけ、魂まで滅びにもっていかれてしまいます。

〈デボーションポイント〉

◎怒りへの対処
(箴言19:11)
「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」

 赦さないということは怒りを持ち続けることです。
 思慮がある人は怒りをコントロールすることができます。思慮深くなると怒りを遅くして抑えることができます。
(箴言15:32)
「訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。」

●訓戒や叱責を聞き入れること
 ここに思慮深くなるための薦めがあります。訓戒や叱責を受け入れると怒りは収まります。感情的に生きるのか、思慮という知性に従うかです。これは意志によって選び取れます。

 クリスチャンは助け主なる聖霊様が内におられるので、怒りという感情に従わないで、思慮という知性に従うという意思決定ができるようになります。ただ、聖霊様により頼んでいないならできません。

 聖霊様により頼むと、自分の力ではできなくても、聖霊様に助けていただいて、怒りの感情を制御できるようになります。

 体に宿る罪は欲求を利用して怒りを刺激してきます。怒りが出てしまうのは仕方ありません。
 しかし、それを持ち続けたらいけません。早いうちにみことばによって自分に訓戒や叱責を与えましょう。

 ですから、聖書をいつも読むことは大切です。みことばから知恵のことばが与えられて、みことばに従うという訓練がされていき、怒りをすぐに抑えられるようになっていくのです。
怒りを抑える訓練をしていきましょう。
(箴言9:10)
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」

●聖なる主を知り畏れること
 警察が見ている前で違反をする人はいません。同様に神がいかに偉大な方であるかを知り畏れるなら、罪を犯すことはできなくなります。
 
 神を知るほど、怒りを抑えやすくなるのです。イエス様を信じることを通して聖なる主を知り、学んできています。

 祈りを通して神さまと向き合い、自分の心を吟味していきましょう。みことばの忠告を聞き入れ、行いを変えていくなら、神は喜んでくださいます。

【短歌】
主を畏れ 怒りを鎮めて 思慮深い 
キリストの香り 漂わせよう

 

 

 

 

 

■2022年11月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

きよめられている  up 2022.11.13


主題聖句(ヨハネ15:3)
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。




 

 

 

 

 キリストの香りの基本はきよいという香りです。しかし普段罪を犯し続けている自覚があると、もう自分はきよくないのではないかと落ち込んでしまっているクリスチャンがおられるかもしれません。
 それで、今日はきよめられているということはどういうことかを再確認していきたいと思います。
 このみことばは、存在そのものがもうきよくされているという意味をもっています。
 キリストを信じることによってもうきよめられているのですが、救われて信仰年月が経つうちに、どんどんきよさが減っていっているように感じている方がおられるかもしれません。
 しかしそうではなく、実は救われたときが出発点で、100となる完成を目指して日々進んでいるのです。

〈信仰によって義と認められる〉
(ローマ4:19〜25)
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

 アブラハムは100歳、妻は90歳という年齢で神様は子どもを与えられました。子どもを産めない死んでいるような体に、神様は復活のしるしである子どもを二人に授けたのです。
 全くありえない現状を認めつつ、アブラハムは不可能な現状だからこそ、神を強く信じたのです。
 クリスチャンが現実だけを見続けてしまうと、もう無理ではないかと否定的になってしまいます。
 しかし、感情や知性がいかに否定的になっても、神のみこころは必ずなると意志によって、信仰に立つことができます。
 感情や知性にひっぱられないようにしましょう。

●きよい→心が神に属すること
●心が神に属する→義認
 子育てで考えてみましょう。子どもは親の言うことにいつも100%従うということはありえません。意志が弱いので親の言うことに従えないことが多くても、それでも本能的に子どもは親を慕い求めています。そして親はそういう子どもを、いくら従わなくても自分の子として認め愛するものです。
同様に、いくら今は行いが100%完全でなくても、神様は「もうきよい」と私たちを見てくださっています。そのことを見失わないようにしましょう。

●アブラハムは子孫が与えられることを信じた→復活を信じた
 アブラハムは自分たちの体が若返り子どもを宿せると、神様の約束は必ずなると信じました。
 しかし私たちはアブラハムと逆のことをしがちです。神様は約束してくださっているけれど、現実には無理だと否定的になっていくのです。
 神様には約束を守る力があると信じましょう。
 長い間祈りがかなうのに時間がかかっても、アブラハムのように、神様にはできると信じ続けるなら、いくら99%不信仰になっても、信じるという意志で、からし種一粒の信仰でも大丈夫です。

●復活を信じることとは
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

○キリストとともに生きるため罪の人生が葬られ、復活した義人としてのきよい人生を目指して生きることができると信じる
 これが私たちの復活を信じる信仰です。もう罪の人生を終えた、その代わりに神様と共に歩める新しい人生を与えてくださったと信じることです。
 私たちは新しい人生のはずなのに、まだ罪をやめることができないと自分の罪を実感してしまい、五感に感じる信仰にいつの間にか変わってしまい、行いによる義を求めて、まだきよくないと感じていないでしょうか。そして悩みの中に入ってしまうかもしれません。
 でも、みことばは、罪から離れられ新しくされると約束しています。みことばにしっかり信頼し、感じることによらず信仰に立ちましょう。

●復活のきよい人生を歩み続けるために
「イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」(ヨハネ13:10)
 ここは唯一洗足式について書いてある箇所です。
 足とは日々の歩みのことです。罪のほこりが蔓延している世の中でクリスチャン生活を送っていると、必然的に汚れるものだとイエス様は言ってくださっています。
 その汚れを処分するには洗いなさいとイエス様は言われました。存在自体はもうきよいのです。全身はもうきよいので汚れた足だけを洗えばいいのです。これが罪から離れるための聖餐式です。
 聖餐式と洗足式は同じ意味です。罪は洗い流すことができるのです。イエス様が十字架で贖いを完成してくださったからこそ、罪は洗い流せるのです。

〈デボーションポイント〉
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(エペソ4:32)

●もっとも気をつけなければならない罪とは?
 赦せない、兄弟姉妹を受け入れない、拒絶することです。
 妬みや嫉妬、自分の思い通りにならないことを通して、兄弟姉妹に対し心を閉ざしてしまうことです。
 例えあなたの主観的な気持ちに相手が従ってくれなくても、あなたの基準と相手が違っても、イエス様はとにかく「赦しなさい」と明言されています。
 人は自分の善悪の基準を持ち、相手より自分が正しいと判断するものです。しかし、その基準と相手が違っても赦さないといけません。赦さないでいると闇の力、悪霊がその心に入ってきて働き始めます。
 その例がダビデに嫉妬したサウル王です。彼はダビデに嫉妬したために悪霊が心に入ってきて絶えず悪い感情に振り回されるようになり、ダビデの命を狙うという種を蒔いたために、遂には自分の命を刈り取りました。

○罪を赦す→負債を負うこと→相手の足を洗うこと→罪を容認することではない。
 人の罪を赦す理由は容認することではなく、その人が悔い改めて立ち返るチャンスを与えためです。私たちが赦し続けるなら、神が裁かれ、清算されます。
 あなたの赦した罪は神様も赦されます。あなたが赦さない罪は神様も赦されませんが、あなた自身も赦さないという罪を裁かれるのです。
 ですから、いくら赦せないという感情が来ても、私は相手を自分では裁きません、赦しますと宣言しましょう。
 「人を赦すなら自分も赦される」これが真理であり、信仰であり、あなたのきよさであり、義です。
 感情によらず、この意志に信仰によって立つようにしましょう。これは信仰の基本です。
 あなたはきよく義とされています。毎日の生活で罪の汚れがついても、汚れは洗い流せます。

【短歌】
復活を 信じて生きる 義人の歩み 
罪を離れる きよい愛の日々

 

 

 

 

 

■2022年11月6日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

誠実に歩む素晴らしさ  up 2022.11.6


主題聖句(箴言19:1)
貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる。



 

 

 

 

 今週は、”誠実”をテーマにしたいと思います。先日、国会議員になった牧師先生が国会で質問に立たれているのを、テレビ中継で見ました。クリスチャンが首相に質問するというだけで誇らしく感じましたが、更に個人的に感激したのは、終始誠実な姿勢でその場に臨まれていたことです。国会の質問のイメージは、スキャンダルに対する追求や、話が長過ぎて質問のやりとりの意図がわからないイメージは少なくないと思います。牧師ということで、贔屓目で見ていることを差し引いても、その誠実さはとても素晴らしいと感じた場面でした。
 この姿勢こそ、クリスチャンの本分と言っても良いと思います。そしてキリストの証人たる所以ではないでしょうか。
 罪人がなぜ誠実になれるのか、それはまず神様が誠実なお方であるからです。義なる神様は、決して約束を破られる方ではありません。どの時代、どの聖書の箇所においても、いつも誠実に私たち人に接してくださっています。
 二つ目に、私たちは新しく生まれ変わった者であり、以降御霊がうちで働かれているからです。時々、古い肉の性質に悩まされ、誠実とは逆の行動を取ってしまうこともあるでしょう。しかし、「キリストのうちにあるなら、古いものは過ぎ去って、すべて新しくなった。」(2コリ5:17)という信仰に立つことが大切です。新しくなった私たちは、御霊の住まいであり、その御霊の実(ガラテヤ5:22)が内側で働いているのです。
 ある経営者の集まりに参加したことがあり、そこで、休みの日は何をして過ごしているのかを聞かれたことがありました。
 教会で過ごしていること、酒タバコ、世の中の遊びはしていない、と答えると、すごく感動されたようで、まるで新しい人種に出会ったかのように色々と質問されました。
 また、ある取引先の社長さんとの仕事上のやりとりで、他所の会社さんとは違う、私の対応にとても喜んでいただいたということもありました。
 これらの体験から、クリスチャンの誠実な生き方は、キリストの香りとなって、人々の心を動かしていくことを、改めて
知ることができました。これこそ、今の時代の福音宣教の一つだと確信にもなりました。
(マタイ23:23)
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
クリスチャンとして、律法すなわちみことばを守ることは基本的に大切なことです。しかし、守ることがゴールとなってしまっていないか、時々点検する必要があります。カタチだけの信仰とならないように、正義とあわれみと誠実をおろそかにしないように気をつけていきましょう。