■2022年10月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善に親しむ心  up 2022.10.30


主題聖句(ローマ12:9)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。



 

 

 

 

○愛には善に親しむ楽しさ喜びがある
 
 今日は「善に親しむ心」というテーマで(ローマ12:9)からお話いたします。もし私たちに愛があるならば、善に親しむ心も同時にあり、また悪を憎むのも愛の特徴であるということで、まず、善とは何か、悪とは何かから見ていきましょう。

◎【善】とは、神聖な愛を追い求めること
(第1コリント13:4-7)
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 (第1コリント13:4-7)には、愛するということの具体的な姿が書かれてあります。これを読みますと、愛は善に親しむこと、すなわち、神の聖い愛(神聖な愛)を追い求めることが善である、と言い換えることが出来ます。

 なぜ「神聖な愛」と言うのかといえば、ここに紹介されている愛は、世に多く見られるような、自分の欲望を満たそうとする自己中心で貪欲な愛とは全く違うものです。「神は愛である」と聖書に語られているように、愛はもともと神から出ている神聖なものなのです。

 神様の聖い愛こそが私たちの心を本当に満たすことの出来る愛であるということに、クリスチャンはイエス様を信じて初めて目が開かれます。そしてイエス様を信じて神の愛に満たされていくと、自己中心が段々小さくなっていき、神様あってのすべであることを悟らされていきます。それが私たちの徳が高められる一つの証しであると言うことが出来るでしょう。

◎【悪】とは、健全な教えに背くこと
(第1テモテ1:9-10)
「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」

 色々な悪が書かれてありますが、一言で言えば「健全な教えにそむく事」です。聖書の律法は主権者(神様)が定めたルールとして人々に何が罪であるかを教えています。

 ここに記されている悪は、いずれも内側から起こってくる悪を行おうとする各種の欲求です。

 このように善と悪をはっきり理解して、私たちは善に親しむ心を養い育てていくことが必要です。そのためにはまず神の恵みを知ることが重要になります。

◎【神の恵みを知る】
(箴言11:27)
「熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。」

○善に親しむ熱心な者は、神の恵みの豊かさが見える。
 神様は善なる神様です。善を求めていくと、そこに神様の存在を感じ取ることが出来ます。

 善悪は神によって定められていますから、神を無視すると善悪の区別がなくなって、各々自分勝手なことをして争いが起こります。神を認めない社会というのは、主権を恐れない心があるので、罰せられることから逃れようという悪意がそこに潜んでいます。

 善を求めている敬虔な人は、罪を素直に認めて罰に服します。
あわれみ深く恵み豊かな神様は、その人に善意の心と敬虔さがあることを認めて、その人が過失の罪ゆえに滅んでしまうのではなく、もう一度善を求めて生きることが出来るようにと、罪を赦してくださるお方です。

 どうして神様は人の罪を赦すことが出来るのでしょうか。それは、その人の代わりに神が罪の償いをされるからです。それがイエス・キリストの十字架です。そのようにして善を求め善に親しむ心で生きる人々を、恵みをもって救ってくださるのです。

 誰でも、善意を持つ心に悔い改めたならば、その人の罪も十字架で償われて赦されます。イエス様の捧げられた罪のない聖いいのちは、あらゆる時代のあらゆる人々のすべての罪を償うことの出来る「代価」なのです。ですから、いつ、どこで、誰が悔い改めても、悔い改める者はすべて救われます。

 何と恵み深くあわれみ深い神様でしょうか。善を求めていくと神の恵みが見えてくるとはそういうことです。

○罪人が心を入れかえて善に親しむことが出来るように救ってくださった。
 罪が確定した人が、心を入れかえて善に親しむ生き方に立ち返りたいと思っても、完全に罪が処分されなくては、やり直すことは出来ません。世の中には恩赦という制度がありますが、滅多に行われることではありません。

 神様は、心入れかえた人が誰でも善に親しむ人生に立ち返ることが出来るために、恩赦ではなく代価による赦しを実行されました。すなわち救い主イエス様が私たちの身代わりに罪の裁きを受けてくださったので、私たちの罪は処分済となり、赦しが与えられたのです。これが十字架の救いです。単に恩赦ではなく、赦しのための代価がイエス様により支払われているのです。素晴らしい恵みです。

 そして、いかに自分が傲慢で自己中心で神を畏れない者であったのかということも気づかされて、もう一度やりなおしたいというその思いを成し遂げさせてくださいます。なんと素晴らしい救いの恵みがイエスキリストを通して与えられていることでしょう。

◎善の種まき
(ガラテヤ6:9)
「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

〇種を蒔けば刈り取りもするように、善には収穫の時がある。
 私たちは善を行うことに疲れることがあります。空しい、効果がない、報われないと思うからです。しかし、聖書は、「時期が来て、刈り取ることになります。」と語っています。善の種を蒔けば、必ず善の報いを受ける、これは神様のルールです。

〇善を行うキリストへの信頼は失望に終わることはない。
 たとえ地上で報われなくても、死後の世界で神は報いてくださることを私たちは知っています。だから失望しません。

 魂は体を離れて安息を得る、ということが聖書に約束されています。死後の未来には確実な希望があるのです。

 キリストを信じて善なる心を求める人は、必ずキリストの救いにあずかって、永遠の神の国の相続人となるという未来の約束が与えられています。キリストの十字架を信じる報いは大きいのです。

【デボーションノート】
◎(第1ペテロ3:9)
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

〇善に親しむ者と造り変えられた
 私たちはキリストを信じた時に、善に親しむ者に造り変えられているのです。善の心を持って生きることを決心したのです。そんな新しい人生を歩み始めたのですから、どんなに相手が反則をしてきても反則でやり返すことはしません。私たちは悪を行って勝利を得るのではなく、最後までルールを守り通すという勝利を得る者なのです。

〇悪に対して善をもって勝利する楽しさと喜びの体験を味わいましょう。
 悪いことをされても私たちは祝福します。祝福するとは、相手の悪い状態が良い方向に変わるように祈り、親切を続けることです。

 例えば、敵の兵士をも看護したナイチンゲールは、上官に?責されながらも看護をし続けました。そして助かった敵の兵士は国に帰り戦争を放棄する者となりました。善意に触れた者には善意が生まれてくるのです。

〇悪に対して祝福で応じることが出来ないのはなぜだと思いますか?

 罪の性質の根本には「損得」があります。損得を優先する生き方をしていると、相手の悪に対して祝福で応じることが出来なくなるのかもしれません。

 私たちは善であるか悪であるかを基準に物事を判断し行動していきます。地上で報われなくても、天では大きな報いが用意されていることを信じて、希望を持って信頼していきましょう。


【短歌】

 善に生き  親しむ日々に  希望あり

  主イエスが共に  歩まれるから 

 

 

 

 

 

■2022年10月23日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

よみがえりの主を信頼する  up 2022.10.23


主題聖句(ヨハネ11:25〜26)
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」


 

 

 

 

1.「ラザロは死んだのです。」(ヨハネ11:1〜20)
 ベタニヤにマルタとマリヤとラザロという兄弟がいて、イエス様がそこによく立ち寄られて深い交わりをされていました。

 そのラザロが病気で死にそうだと連絡がありました。しかしイエス様はすぐには行かれず、おられた場所になお2日とどまられました。

 それは、ラザロの死は神の栄光をあらわすもので、死では終わらないということをイエス様はご存じだったので、完全に死んでしまった後に行くことをご計画されていたのです。

 ラザロが死んで4日目にイエス様は行かれました。イエス様は今までも死んだ人を2人よみがえらされる奇跡をおこなわれましたが、今回のラザロのよみがえりは特別でした。

(11:21)マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(21節)

(11:32)マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

(11:25〜26)イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 
 マルタとマリヤは、イエス様になぜ早く来てくださらなかったのかと訴えました。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言われました。しかし、マルタは再臨の時のよみがえりは信じていましたが、イエス様が復活の力を持っておられるというという「今」という信仰はなかったのです。

2.イエス様は涙を流された(ヨハネ11:31〜37)
 イエス様は、涙を流されました。ラザロの死はイエス様にとっても悲しいことでした。家族ぐるみで交わりがあり、ラザロをとても愛しておられました。
 
 聖書には、イエス様が涙を流されたという記述は少なくて、もう一箇所、エルサレムを見て嘆かれ涙を流されたことが書いてあります。(ルカ19:41)
 ここでは、ラザロとマルタ、マリヤを思って、愛の涙を流されました。

 また、罪の結果として人が死ななくてはならないことへの悲しみ、また人々の不信仰への涙であったかもしれません。
 また、サタンの力である死の力を打ち破る勝利への感動を感じられた涙ではないかとも思います。

3.その石を取りのけなさい(ヨハネ11:38〜42)
◎不信仰の石
(11:39)イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
 
 当時のお墓は横穴を掘ってあり、そこに遺体を安置して大きな石でふたをしていました。もう4日もたっていて臭くなっているので、やめましょうとマルタたちは言いましたが、イエス様は取りのけるように言われました。

4.「ラザロよ。出てきなさい。」(ヨハネ11:43〜45)
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。
 
 イエス様はお祈りをされ、「ラザロよ、出てきなさい」と叫ばれました。死んだ人に叫ばれたのです。その瞬間、ラザロは生き返りました。

 ラザロはミイラのように包帯をぐるぐる巻きにされていましたが、その姿で墓から出てきたのです。完全に死んでいた者が生き返るという奇跡のわざでした。
 
 この10日ほど後に、イエス様も十字架にかかって死なれ、墓に葬られました。そして、3日目にイエス様もよみがえられました。

 イエス様の墓の石は天使が動かし、ぐるぐる巻きにしてあった布はそのまま、巻いた状態で置いてありました。イエス様のお姿はありませんでした。

 この時のイエス様の姿はラザロとは違い、栄光の体によみがえられました。そのお体は、戸も開けずに部屋にすっと入ることができる体でした。私たちが天に行く時、同じ栄光の体をいただく約束があります。
 
 神には限界や不可能はないということをここで見ることができます。神様を信じて疑わないで、この山に向かって海に入れと言うなら、その通りになりますと言われました。

 信じられないという常識を、信じる者は主にあって打ち破ることができるのです。

 死んで4日もたてば臭くなるというのは常識ですが、もしかすると私たちは常識が信仰になっているかもしれません。

 しかし、私たちは常識を打ち破る神様の偉大な力を信じることができます。なぜなら、神様は天地万物を創られたお方であるからです。

 この偉大な神様の力から見れば、死人をよみがえらせることは難しいことではありません。

 私たちの常識で見れば難しいと思いますが、神様が働かれると奇跡が起こるのです。物事が変えられるのです。そのことを信じていきましょう。
 
 その後、ラザロの復活は話題になり、多くの人が生き返ったラザロを見に来たようです。

 しかし、ラザロはこの肉体でよみがえらされたので、また後には死にました。この肉体は何回癒されても死んでしまいます。
 
 しかし、私たちには永遠の復活への希望があります。そのことを感謝しましょう。

【参考聖句】
(ヨハネ5:24〜25)
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
 
 すべての人は罪の結果、生きているようでも霊的には死んでいるのです。ただ、十字架の福音を聞いて信じる者は、その時新しく生まれ、死ぬことのない永遠のいのちをいただくことができるのです。
 
 主が再び来られる時に、イエス様と同じ朽ちない栄光の体に変えられます。

 私たちは信じた時に霊的な死の世界から解放され、霊的に生きた者となり永遠のいのちを得ているので、大丈夫なのです。信じる者は生きるのです。

【デボーションポイント】
○主が今日、私に語られていることは何でしょうか?
 イエス様を信じる者には、永遠のいのちがすでに与えられています。栄光の体も主の再臨の時に与えられます。

 また、再臨の時にこの地上で生きていれば、死なずにそのまま栄光の姿に変えられ携挙されるという素晴らしい約束をいただいているのです。

○私が今日から実行したいことは何でしょうか?
 まずは、不信仰の石を取り除くことをしていきたいと思います。
 これは世の中の常識だから、だめだと思うのは、不信仰の石です。神様にはできないことはないと信じるなら、その石は取り除かれ、神様の奇跡のみわざを見ることができます。不信仰の石を取り除くことをしていきましょう。

 また、サタンの力に勝利された偉大なイエス・キリストの力に信頼し続けることです。迷わない、疑わない、恐れないことです。

 聖書には「恐れるな」とたくさん書いてあります。偉大な神様が私たちの味方です。私たちを支えてくださっています。

 よみがえりの主に信頼することは、不可能を可能にする主に信頼することです。このような生き方を今日から実行していきましょう。

 

 

 

 

 

■2022年10月16日 日曜礼拝メッセージより(ハンガーゼロ巡回牧師:田村治郎牧師)

世界食料デーを覚えて〜落穂の向こう側〜  up 2022.10.16


主題聖句(ルツ記 2章17〜23節)
こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。
彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。
しゅうとめは彼女に言った。「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女はしゅうとめに自分の働いてきた所のことを告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました」と言った。
ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」
モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、私の若者たちのそばを離れてはいけない』と私におっしゃいました。」
ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ。あの方のところの若い女たちといっしょに出かけるのは、けっこうなことです。ほかの畑でいじめられなくても済みます。」
それで、彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。


 

 

 

 

 皆さん、おはようございます。会場にお集まりくださり、またオンラインでも共に礼拝を捧げていてくださることを感謝します。なによりも今日の礼拝が、世界食料デーを覚えて、そしてせっかく与えられた命なのに食べるものが無くて苦しんでおられる方々を覚えて、共に主に向かい礼拝を捧げていてくださることを感謝します。主のみこころが私の内に成るだけではなくて、私を通して多くの人々、格別にこの最も小さき者たちの一人に及ぶことを皆さんが祈ってくださっていること、その思いを持って共に礼拝を捧げてくださっていることを心から感謝致します。

 最初に飢餓人口について皆さんにお伝えしたいと思います。
 1日に1食すら食べることの出来ない方々が、世界で8億2800万人おられます。世界の人口が約80億人ですから、10人に1人が飢餓に苦しみ、4秒に1人、1分間に15人、1日に17,000人の人たちが飢餓で命を落としています。
 
 若田さんが59歳で2度目の宇宙に行かれるほどに科学は発達し、また今回のウクライナ戦争では、人を殺すという兵器が様々に開発されているのを私たちは見ています。そんな大きな変化がありながら、4秒に1人死んでいく生命を救うという解決が与えられていない、これは世界が抱える大きな問題であると同時に、人類の恥であると思うべきです。人が生きるということにこれほど困難を覚える時代です。「ああ生きててよかった」と言う方々が与えられることを願います。
 
 今年の世界食料デーのテーマは、「スモールアクション エブリデイ」です。世界の大きな問題に対し個人は何が出来るのでしょうか。無力を感じます。確かにプロにしか出来ないことがあります。それは「ハンガーゼロ」の働きを皆さんの手足として、祈りと募金を通して私たちを用いて頂きたいと思います。しかし、私たちが今この所でも出来る「スモールアクション」は、それだけではないはずです。
 紛争、災害、異常気象などがニュースで大きく取り上げられますが、その時のそういうインパクトだけではなくて、飢餓や食料危機を起こしている何か静かな、根底に流れるものがあるのです。私たちはそれを知った時に、そこに何かインパクトを与えることが出来るのではないかと思い、調べてみました。

 皆さんはミツバチが今減少しているということをご存知ですか。もしミツバチが絶滅したら世界の農産物の3分の1がとれなくなるそうです。養蜂場の方もそういう蜂の働きの重要性をご存知で、ミツバチを増やす努力をされています。そういうことも合わせて、肥料が品薄になり高騰していることも徐々に徐々にわかってきました。

 食料危機は世界規模で静かにじわじわと私たちの足もとにも近づいてきています。そういう中で私たちに出来ることを、農家の方にお聞きしてみました。消費するだけでなく、家庭菜園やプランターによる自家栽培などで、僅かでも安心安全なものを生産してみてはどうだろうか、と知恵をいただきました。

 また消費期限や賞味期限による食物廃棄を減らすことで、私たちは日常の中で少しでも確実に効果を出していくことができることも教えられました。

 日本は多くの国から安全で安価な食料を輸入しています。私たちがここで消費するスタイルを変えることが、食料危機の問題に何か一石を投ずることが出来ると思うのです。

 それは大きな手ごたえのあることではないけれど、プロでしか出来ない働きと、この場所で私たちに出来る小さなこととを併せれば、8億2800万人という、創造主なる神の作品である彼ら一人一人に与えられた生命を、みこころに生きるという人生を、どこかでバックアップしていくことができるのではないでしょうか。隣人として、私たちはその方々と共に生きていくことが出来る筈です。

 神様は私たちを用いてくださいます。問題は大きくとも、神様が知恵を与え力を与え、また一人で出来ないことは多くの人たちと協力して、多くのクリスチャン、多くの教会の協力の中で、最も小さき者たちの一人の命を、人生を、救うことが出来る筈です。

 今年もまた食料デーのこの時期に、これをしっかり受け止めていただきたいと思います。

 そして先ほど聖書を読んで頂いたルツ記のみことばから、「そうして共に生きるということ」そのことを、神様からチャレンジを受けたいと思います。
 
 ルツ記のあらすじを紹介いたします。エリメレクという男性の一家で、奥さんはナオミ、そして2人の息子たち、4人で住んでいたベツレヘムの地に飢饉が起きます。そこで彼らは外国のモアブの野に移動することにしました。そこに移り住んで10年が過ぎた頃、エリメレクが突然亡くなります。しばらくして息子2人も亡くなります。後には年老いたナオミと、2人の嫁、オルパとルツ、この3人が残されました。
 
 ナオミは故郷のベツレヘムが飢饉から回復したというニュースを知り、生まれ故郷に帰る決心をします。オルパとルツにはそれぞれの母の家に帰るように勧めましたが、二人とも帰ろうとしません。それでもナオミの説得を受けてオルパは泣く泣く母の家に戻る決心をしました。

 しかしルツは最後まで自分も一緒にベツレヘムに連れて行ってほしいと譲りませんでした。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれるところで私も死にます。」というルツの固い決心を聞いて、ナオミは二人でベツレヘムに帰ることにしました。
 ナオミの中にある神への信仰と、それゆえにどんな困難にあってもいつも力強く立ち上がって生きるナオミの姿を見て、ルツの心には姑への尊敬の気持が生まれていたことがわかります。

 2人はベツレヘムに帰りましたが、男手もなく生きていくために出来ることは、若いルツが落穂を拾いに行くことでした。イスラエルの律法の中に、作物の借り入れの時には、全部刈り取ってしまわず、痛み苦しむ人々のために少し残しておきなさいという、貧しい人を顧みるための定めがあったのです。

 ルツは、色んな人の畑がある中で何となく誰かの後を付いて行ったのでしょう。着いた所はボアズという人の畑でした。ルツの後の御主人となる人です。

 ここで聖書は「はからずも」と言っています。この言葉は素晴らしいです。日本語では、たまたまとか偶然とか言いますが、ヘブル語の「はからずも」という言葉は、「結局のところ」というニュアンスがあります。予定も予想もしていなかった出来事、人の目には偶然と見えることですが、神の視点から言えば、結局のところ、落ち着くべきところにあなたは落ち着いた、という意味合いです。

 ボアズはナオミの遠い親戚であり、ルツのことも聞いていて、二人が何とか生きるために何か出来ないかという配慮で、ボアズは作業する者に、あえて穂を落とせと指示しました。それでルツは普通では拾えないほどの大量の落穂を手にして家に帰りました。

 ナオミはそれを見て驚きました。「すごい!ラッキー!」と思ったのではありません。「どこで働かせて頂いたのですか?」「誰があなたにそんな好意をしてくださったのですか?」ナオミは目に見える現象だけでなく、その背後に必ず誰かの配慮がある、ということを見て取ることができたのです。これが今日のポイントの一つ目、落穂の向こう側が見える目を持ちたいということです。
 ここで私(田村牧師)の若い頃の証しをさせていただきます。私が初めて教会に行ったのは1981年の12月30日夜の祈祷会、それから3日続けて行って、イエス・キリストを信じる信仰告白を致しました。

 当時は集会をテープに録音していて、いつでも貸し出して聞けるようにしていました。その中に以前自分が事故を起こした日の夜の祈祷会のテープを見つけ、借りて聞いてみました。「事故の被害者の○○さんの癒しのために、そして加害者の田村さんの救いのために祈りましょう」という呼びかけの声などが全部録音されていました。

 私は交通事故を起こし、その病床にある被害者を見舞い、そこで逆に伝道されて教会に行くようになったのですが、その頃は、自分が事故を起こして、自分が求めて、自分が悔い改めて、自分がイエス様を信じて、自分が救われて、自分が教会生活を送って、自分が自分がと、全ての主語は自分でした。

 しかし、あのテープを聞いた時、背後にどれだけ多くの人たちの祈りがあったかを知りました。会ったこともない私のために、それどころか、教会の仲間が傷つけられた、その事故の加害者である私のために熱心に祈ってくださっていたのを知りました。

 私たちは良い出来事にも辛い出来事にも、その向こう側に必ず誰かが祝福として与えられている筈です。誰かが助け手としてそこに存在してくれている筈なのです。その向こうには神様がちゃんと導いていてくださっているのです。

 目に見える現象で一喜一憂しがちの私達です。しかしナオミが落穂の向こう側に、当たり前ではない神様のご配慮を見届けることが出来たように、多くの人々の祈りと神様の恵みにあって今生かされている私たちも又、足元の出来事だけでないその向こう側を見ることのできる目を持ちたいと思うのです。 

 二つ目のポイントは、私たちはいつまでも誰かに助けられ、誰かにおんぶされ、誰かに担がれていくという信仰生活だけでなく、今、誰かを支え、誰かを担いで、時には誰かと背中を押しながら人生を生きていく、そういうものでありたい、つまり落穂の向こう側に立つ者になりたいということです。

 私もイエス様を信じて40年がすぎました。あの時どれだけ多くの方が祝福を与えてくださったことでしょう。今私たちは、誰かのために、出会ったこともない8億2800万の人たちのために、また戦争で苦しんでいる顔も知らない人たちのために祈り、アクションを起こそうとしています。

 主は「この最も小さき者たちの一人にしたことは私にしたのです」と言われました。私たちのスモールアクションが主の栄光、主の愛への応答として、神ご自身がそれを30倍、60倍、100倍の実を実らせてくださいます。

 この私を用いて主は御業をなしてくださいます。だから私たちは落穂の向こう側を見る目を持ち、そしてその向こう側に立って誰かに仕えると共に、もう一度改めて主の御前に告白したいと思います。

「主よ、私を用いてください。私はここにいます。この私が出来る世界の悲しみに、神の祝福を分かち合う手でありたい、主よ用いてください」そのように祈っていきたいと願います。

 

 

 

 

 

■2022年10月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神の子  up 2022.10.9


主題聖句(マタイ5:38〜48)
『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。


 

 

 

 

◎子は成長するにつれ親に似た者となる
 ヨハネの福音書1章に、イエス・キリストを信じた者は神によって生まれた神の子である、と記されています。「神の子」とは霊によって新しく生まれた者という意味で、私たちは神の子です。
 
 子どもは親に似るものですから、私たちは成長するにつれ、天の父なる神様に似る者になっていきます。

 今日の主題聖句(マタイ5:38-48)には、神の子が神様に似る者と変えられていく姿のことが記されています。

 そこで、神の子はこのように行わなければならないのかと、律法のように受け止めないでください。今は何も出来ていなくても、これから自分が成長していく姿として、楽しみに安心して受け止めていただきたいと思います。

(マタイ5:38-48)
(38節)「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなた方は聞いています。」
 これは旧約聖書で神様がイスラエルの民に与えられたルールの一つです。私たちは過度な怒りや感情で、行き過ぎた裁きをしがちです。限度を超えないように、感情的でなく、知性と意志をもって正しく裁くことを教えておられます。また被害者も正しく賠償を受けたなら、赦せない感情を収めなくてはなりません。

(39節)「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。」
 イエス様は報復の応酬を繰り返さないために自ら終止符を打つ、ということを語られています。神様はそういう処置をなさる方なので、私たちもそれに似る者と成っていくことが暗示されています。
(40節)「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
 告訴する心には敵対心や闘争心が潜んでいます。神様はそのような相手に対して争い合うことはなさらず、平和を願う意思表示や行動を表していかれます。私たちに対しても争わず平和を願って、キリストによる救いの道を示してくださいました。

(41節)「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」
 何か嫌なことを強いてくる相手に対しても、逆らう気持ちより素直に聞き従う態度を示すことで、良い関係を保持します。

(42節)「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」
 要望に応えようとする親切な心を示すことが語られています。これは判断が難しいところです。

 持っているものを力量に応じて与えるのが親切です。持っていないのに与えることは出来ませんから、それを不親切とは言いません。持っているのに出し渋るのは親切心がありません。

 自分の力量を超えてまで行う親切は、時にプライドや意地や見栄などの罪が潜んでいたりします。
 
 隣人が助けを必要としている時は、貸すのではなく施すことが親切です。このように(42節)は親切について色々と心を探られる箇所です。 

(43-45節)「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」
 
 あわれみ深い神様のことが紹介されています。敵対する者にも、あわれみの心をもって対処されるお方です。私たちも神様のおことばを信じ、神様が報いてくださることを信頼して、正しい良心と意志力によってそのように対処することが勧められています。

(46-47節)「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするのではありませんか。」
 
 愛し合い信頼し合っている人たちとの間だけでなく、自分よりももっと助けが必要な人や、あなたに敵意を持つ人に対しても、愛を注ぐことの出来る人は、いのちを生かす本当に優れた人です。

(48節)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
 人は神の似姿に創造された神の子であるということが暗示されています。天の父は完全な方、誇るべき素晴らしいお方です。尊敬しているお父さんのようになることは、子として当然の願いであり責務であることを語られているように思います。

 マタイ5章の38節から48節までの11節の間にある暗黙のメッセージとして、「子は自然に親に似る者となる」ということをご紹介致しました。
 
 「似る者になる」というのは自然なことで、強制でも強要でもありません。尊敬する親に子は憧れ、そのようになりたい、近づきたい、真似したいと思うから、自然と親の姿勢が自分の身に表れてくるわけです。律法でも規則でもなく、自ら望み願う自然な結果です。

【デボーションポイント】
(コロサイ3:9-10)
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

◎古い人?十字架で処分
 古い人とは、罪を犯し罪に縛られている人、キリストを信じる以前の人のことです。「古い人を脱ぎ捨てる」とは、キリストとともに十字架上で罪を処分されたこと、罪のない者にされたことです。

◎新しい人?キリストとともに復活
 「新しい人を着た」というのは、罪を処分された人がキリストとともに復活して、新しい人として生まれ変わり、新しい人生を歩み始めるということです。

◎キリストとともに復活するという真理について 
 罪人は復活できません。罪を裁かれて永遠の滅びという世界の中に留まります。しかし永遠の滅びの世界の中に、罪のない義人がいたら、それは違法です。そこから解放されなくてはなりません。

 ですからイエス様は私たちの罪を負って死なれましたが、イエス様ご自身には罪はなかったので、義人として復活されました。

 その復活は、イエス様が罪のない方だったという神様の証明であり、同時にイエス様の流された血は、罪人の罪を贖うことの出来る聖い血であることの証明ともなりました。

 私たちは罪人です。永遠の滅びの枠の中にいます。しかし、私たちが受けるべき罪のさばきを、イエス様が代わりに受けてくださったので、それを信じる者は罪を処分された者、罪赦された者、罪なき者、義人、と神様は見なしてくださいます。

 そして、義人であるキリストがよみがえられたように、私たちも義人としてよみがえらされるのです。
 
 まず霊、魂が義とされて、神の前に罪のないものとしてよみがえります。しかし肉体にはまだ罪が宿っています。肉体はまだ処分されていません。罪に対する裁きは残されています。

 ですから病気にもなりますし、肉体的な圧迫や苦しみを通して、霊、魂も一緒に苦しんでしまい、病むこともあります。

 しかし、自分は新しいいのちに生きる新しい人になった、心も霊も新しくされた、ということを受け入れた人は、肉体から来る罪の誘惑や苦しみを拒むことが出来ます。

 それを信じて行動に移すとき、体が癒されることもあり、罪の力に勝利することもあります。肉体から来る罪の力に対抗する権利、力をいただいているからです。

 体が贖われるのは、キリストが再臨される時です。その時に、キリストがよみがえられた時と同じ栄光のからだ、罪を宿していない体を頂いて真の平安を得ることができます。

 この約束を今私たちは待ち望んでいます。それまで忍耐して、この罪の体の中で、罪に対抗する「力」をいただいて、霊の戦いを勝ち抜くようにと励ましてくださるのが、パウロの牧会書簡です。 

 新しい人が成長していくと造り主のかたちに似る者となり、神の御子イエスと同じ姿となる、これが私たちの望みです。

 成長しなければならないのではなく、神の子として普通に生活していれば、すなわち、天のお父様のおことば、戒め、知恵を学んでいけば、自然と成長していくものなのです。

 地に種が蒔かれると、誰も知らないうちに芽を出し、いつのまにか実がなるという例え話のように、成長は自然に行われていきます。

 成長の進み具合は違っても、神の子である限り神に似た者となるということは間違いありません。

 イエス・キリストを受け入れた人は皆、神によって生まれた者で、父なる神様に似た者になるための種を持っているのです。

【短 歌】

信仰により  神によって  生まれた者は

   必ず御父に  似る者となる      

 今どんなに自分の未熟さ至らなさがあったとしても、私たちの中には神のご性質を引き継ぐ種があるのです。それは必ず成長して、神に似ていくものに進むのです。あきらめないで希望を持って歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2022年10月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

罪人を生かす神の深いあわれみ  up 2022.10.2


主題聖句(エペソ2:3〜6)
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです−−
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。


 

 

 

 

罪の中に死んでいるものを生かすために、
最も大切な方を犠牲とされた

 私たちは神様のあわれみによって救われた者ですが、罪人であったことを忘れてはいけません。罪は神様は忘れてくださいますが、神のあわれみの大事さに気付くためには、どこから救われたのかを私たちは忘れてはいけないのです。

 今日は聖餐式の日です。罪過の中に死んでいた私たちを生かすために、最も大切な方を神は犠牲にされた、それほどに深い愛とあわれみを現してくださったことを改めて心に覚えたいと思います。

◎「罪過の中に死んでいた」とは?

★不従順の子らの中にいた→所属
 「不従順の子らの中にいた」これはどこに属しているかという「所属」を表しています。

 神への従順という神に属する者と、神に不従順な闇に属する者たちと、世界はこの二つに分けられます。どちらでもない、という人は不従順に属します。中途半端はありません。

★自分の肉の欲の中に生きる→目的
 神に不従順な者は、自分の肉の欲に生きることが人生の目的です。「肉の欲」というのは不健全な欲、自己中心な欲のことで、その行きつくところは貪欲(的外れな欲、罪な欲)です。色々な問題はここから生じます。

★肉と心の望むままを行う→行動
 人生の目的が欲望を満たすことであれば、行動も欲の望むまま、欲求の力に振り回される人生となります。
★神の裁きを受ける→結末
 人間の怒りというのは自分勝手で、思い通りにならないと他人を裁いて、暴言を吐いたり、ひどい仕打ちをしたりします。

 しかし、神様の怒り(裁き)は、もっとも正しい裁きの基準を持っておられるので、完璧な裁きです。

 罪過の中に生きる者は、その罪過に対し完璧な神の裁き(御怒り)を受ける、という結末を迎えることとなります。

 私たちは、罪過の中に死んでいる状態とは真逆の中に生きているでしょうか。すなわち、クリスチャンとして、神への従順の中に生き、神のみこころを行うことを目的として、神様を愛する心の望むままを行動し、善を行って報いをいただくという結末に向かって生きているでしょうか。いつのまにか、逆戻りしていないでしょうか。ぜひ吟味してみてください。

◎神のあわれみの豊かさ

★罪人への大きな愛→召命
 「召命」とは、呼び出されること、声をかけられることです。
 人類はアダム以降、罪ゆえに滅ぼされることが決まってしまいましたが、神様はそれを深くあわれまれ、御子イエス・キリストの罪の贖いによる救いのご計画を決めておられます。そして「罪の赦しを与えるから、救い主イエス・キリストを信じなさい」と、私たちに声をかけてくださいました。これを召命と言います。

★神の恵みによる救い?信仰
 この召命に応えることによって、神の恵みによる救いが私たちに実現します。すなわち、この神様のお声に耳を傾け信じる、それだけで罪の赦しの恵みが与えられるのです。これは自動的に誰にでも与えられるのではなく、信じる者に与えられる恵みです。

★イエスと共に復活→義認
 イエス様は私たちの罪の身代わりに死なれましたが、イエス様自身は罪を一つも犯していない義なるお方です。神様は義人を死の世界にとどめ置くことはなさいませんから、当然死からイエス様をよみがえらされました。

 しかし、私たち罪人をも「ともによみがえらせてくださった」とは、どういうことでしょうか。

 それは、イエス様が私たちの罪の身代わりに罰せられて、私たちの罪は処分済となり、罪は全部赦されたので、私たちも罪なき義人となり、イエス様が義人としてよみがえったように、私たちも義人としてよみがえったということです。

 皆さんがイエス様を信じてバプテスマを受けたということは、キリストの十字架の苦しみとハデスの苦しみにあずかって、キリストとともに死に、罪は処分され、キリストのよみがえりにあずかって、私たちも義人としてよみがえったということを示しています。

★天の御座に座れる→結末
 私たちは最後の結末として天の御座に座ることが約束されています。キリストとともに御座に着くのです。その御座は神の右、権威の座です。これほどに神のあわれみの豊かさが罪人に対して注がれているのです。

【デボーションポイント】
◎罪過の中に死ぬとは、戒めから外れること(創世記2:17)
「しかし、善悪の知識の実からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
 アダムとエバは神の戒めから外れる道を選んだために、内側に死を取り入れてしまい、死ぬ状態になりました。アダムから生まれる者も皆、生まれながらに罪人、必ず死ぬ者でありました。そこから様々な罪の実、罪過、違反が生まれる人生となりました。

◎死人がよみがえる条件
キリストに属する(ローマ6:3-5)
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは皆、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし、私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

 バプテスマを受けるということは、キリストに継ぎ合わされてキリストの一部となること、キリストに属するということです。ですから、キリストが死んでよみがえられたように、私たちも死んでよみがえる、ということが実現するのです。

 例えば私たちが小さな布切れで、イエス様が新品のズボンとしましょう。ズボンは新品で完璧ですから、継ぎ当てされる必要はありません。しかしイエス様は、まるで穴があいているかのように小さな布切れを必要とし、私たちが継ぎ合わされて、ぴったり付いて離れないようにしてくださるのです。それは私たちの必要でもあります。私たちはイエス様から離れては何も出来ないからです。

 クリスチャンも戒めから離れると罪過の中に住むことになります。「聖餐式の『杯』は、罪人を義とするためのキリストの血による新しい契約である」と、イエス様は言われていますので、離れたけれども心を入れ替えて、もう一度新しい契約に立ち返ります、というのが聖餐式の一つの意味です。

 契約を守れないで破棄する人がいる、ということも神様はご存じで、それでも神様は契約を守り続けるために、「帰っておいで」と再び私たちが継ぎ合わされるのを願ってくださいます。御子イエス様のいのちを証しとしてまで結ばれた契約だからです。

 罪過の中で死んでいる私たちが生かされるために、そこまでしてくださっているのですから、私たちはもう思い煩いも捨てて、自分の行いや心の思いがどうであれ、神様は契約を守り続けてくださる方だからと信頼して、「唯々あなたについていきます」と言えるのではないでしょうか。

 人を裁いたり、あわれみのない仕打ちをしたり、そんなことを通して、自分は罪過の中に死ぬべき罪人だったと自分の罪深さを思いながら、イエス様はそのような私の罪を十字架で代わりに背負って処罰されてくださり、私を罪のない義人として見てくださるがゆえに、今は義人として新しいよみがえりの人生を歩むことができているのだと、感謝してへりくだって、毎日の歩みを主の再臨まで信仰を保っていくようにと、神様は願っておられます。


【短歌】

キリストの  深いあわれみ  受け入れて
御からだにつく  義人とされる 


 キリストのからだに付くバプテスマを通して、私たちは名実ともに義人とされる救いを受けました。

 毎週イエス様の十字架への賛美を歌い、十字架への感謝の祈りをささげるのは、尽きることのない神様の深いあわれみに対する応答です。

 今週も、いかに自分が罪過の中に死んでいた者であって、イエス様に救って頂かなかったらどうなっていただろうかと、神様の深いあわれみに感謝して、この一週間を過ごして頂きたいと思います。

 そして罪過の中に戻りかけていたり、神様の愛の領域から外に出かかっていたりする人のためにも、今日の聖餐式を、キリストに付くチャンスの時として、バプテスマの契約の中にもう一度立ち返って頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

■2022年9月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

再臨待望  up 2022.9.25


主題聖句(詩篇62:1)
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。


 

 

 

 


 地上で願うことは、ほとんどが地上での生活に関わることです。それは悪いことではありません。しかし最終的に私たちが希望として待ち望むのは、永遠の神の国で永遠を過ごすということです。だから私たちはキリストが迎えにきてくださる「再臨」に希望を抱きます。

 この地上での願いがいつまでたっても叶わないからといって、神様は生きていないとか、信用できないとか思ってはいけません。イエス様は再臨の時にしかあなたの願いに答えることの出来ない救いを持ってこられるのです。それが「再臨」の意味です。
 地上がすべてだというサタンの教えにごまかされないようにしましょう。地上がすべてではないのです。最終的には再臨の時にすべてが解決されます。再臨においてすべてが成就し、願いが叶えられるのです。

 私たちの一番の願いは、再臨の時にこの肉体が、死ぬこともなく病気にもならない新しい体(キリストの復活の体)に変えられるということです。既に地上で死んでいる者も、キリストの再臨の時には死からよみがえらされて、復活のイエス様のような新しい体を頂けるということです。完全な癒し、救いは再臨の時に成就するのですから、私たちは神への希望と信仰を持って、それを待ち望むのです。

★苦しみの受容は希望のゆえ
◎第2テサロニケ1:5-7
「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に力あるみ使いたちを従えて天から現れる時に起こります。」

 前節に書かれてありますが、当時テサロニケの教会は大きな迫害と患難に襲われていました。しかし信徒たちは、それに耐えて信仰と従順を保っておりました。なぜ耐え忍ぶことが出来たのか、どのような希望を持っていたのかが、この5−7節に書かれてあります。

(1)再臨を信じるために苦しむのは、神の国にふさわしい者となるための聖めを受ける希望となる
 苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出すとローマ5章にも書かれてあります。練られた品性というのは、神様を信じ敬う気持ちが磨かれていくということです。

 私たちはイエス様の再臨と神様の審判を信じているので、この世と調子を合わせないように、そして罪から離れて善に親しむように努めています。神様の愛を信じているので、キリストが再びこの地上に来られて、すべてを解決されることを信じているのです。
 
 キリストが再臨され最後の審判が行われる時、この世のすべての理不尽な状況は調和のとれたものに戻されます。「苦しめられているあなたがたには、報いとして安息を与えてくださる(7節)」と書いてあるとおりです。それほどに、再臨を信じることは私たちにとって大きな希望なのです。

 どうして再臨を信じることが出来るのでしょうか。イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために来られて十字架でそれを成し遂げてくださったという「初臨」の出来事が、聖書の預言通りに歴史の中で成就しました。そしてそのイエス様が「もう一度来る」と言われたのです。

 神様が初臨の約束を成就させ、そして次の「再臨」を約束されたのですから、その「再臨」の約束も必ず成就されるに違いないのです。

 それを信じるゆえに、この世においては信仰の戦いや圧迫、摩擦などの苦しみが起こります。それは私たちの聖めのためです。「神の国にふさわしい者とするため」です。それは神様のご計画にあることなのです。

 この世には色んな矛盾があります。そのための信仰の戦いがあなたの内に起こっても、その苦しみは決して無駄ではありません。聖めのために、神への愛と信頼が磨かれていくための苦しみです。苦しみがないと信仰は磨かれません。信じているのかどうかもわからなくなります。苦しみはそれほど意味のあるものなのです。

 苦しみから逃れようとしないで、神様からの賜物と思うべきです。 争わず、黙って、ただ神を待ち望む、人間的な反応や応答をしない、ただただ神様のおことばを信じて、憐れみを施し、親切をやめない、愛を示していく、それには相当の忍耐が必要です。その忍耐こそがあなたを清め磨いて神の国にふさわしい者とするのです。

(2)神が下す裁きの正当性への希望
 完全な正しいさばきは神様にしかできません。神様は、良い者にも悪い者にも、正しいさばき正しい報いを与えることのできる知恵深い全知全能のお方ですから、たとえこの世で善を行って苦しみを受けたとしても、自分でやりかえすのではなく、神様が正しい公平なさばきをなさるという希望を持って忍耐するのです。
                            
(3)永遠の御国が実在している希望
 私たちは神の国があることを信じているので、そこに入るための神の正しい裁きを待ち望みます。神の国が存在しているから、苦しみを与えてくる人たちに対しても、反抗せず復讐せず、神にさばきをゆだねて忍耐していけるのです。私たちは苦しみを通して、神の国が実在することをこの世に証ししているのです。

【デボーションポイント】
◎ローマ5:3−5
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

患難=再臨信仰のゆえに苦しむ          
忍耐=希望への確信と神への信仰
 
 信仰のゆえに私たちは思わぬ苦しみを受けます。その時は、忍耐を働かせましょう。私たちには希望があります。神は報いてくださる方だという神への希望が、忍耐を支えてくれます。

聖霊=神の存在と愛を実感実証

 私たちは聖霊様によって神の存在と神の愛を確信することが出来ます。サタンはこの聖霊体験を揺るがそうと、様々な思いや考えやこの世の知恵、知識によって惑わしてきますから、気を付けましょう。

 いつどこで惑わされたのか、どんな要らぬ考えが入って来たか、見つけ出すことが必要です。

 そして再臨を待ち望んでいる者としての人生を建て上げていくように考えてみてください。再臨を待ち望んでいる者としての判断決断ができているかと黙想し、気付かされたところから直していかれたらいかがでしょうか。
 これがキリストの香りを放つという結果に至るのです。

【短歌】

  主の愛に  希望を抱く  忍耐は  

  再び来られる  確かな証拠   


 再臨の確かな証拠として、私たちは、主の愛に希望を抱いて忍耐していきます。

 

 

 

 

 

■2022年9月18日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

主を恐れ、主に仕える  up 2022.9.18


主題聖句(サムエル記 第一 12章12〜25節)
あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない』と私に言った。
今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。
もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。
今一度立って、主があなたがたの目の前で行われるこの大きなみわざを見なさい。
今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」
それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。
民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」
サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。
役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。
まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。
私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。
ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」


 

 

 

 

 先日、関西万博のキャラクターが正式に決定したニュースを見て、これは大阪府民の総意なのか?と疑問を持ちました。
 また、大阪はIR誘致もするということで、経済発展には良いのかもしれませんが、反対の声も多く、個人的にもカジノのイメージが強く、人間の欲望の塊のような事業だなと思っています。

 このように、一部の権力者の意見が、大勢の住民の声に勝る構造が、人間の歴史を見てもどの時代にもありますが、大勢の意見を一つにまとめるなど到底できないというのが現実です。

 そして、人間は完璧ではないので、完全な存在を人間の中から立てるのは不可能なのです。だから、神の存在が必要不可欠であり、私たち人が正しく歩むことができる唯一の方法が、全能者である主の導きによる他ないのです。

 旧約聖書からイスラエルの歴史を見るときに、主が進むべき道を示し、ともに歩んでいる様子が描かれていますが、ある時から、一人の王を立てるようになりました。1サムエル12:12−25から見ていきましょう。

(12−14)
あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない』と私に言った。

今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。

もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。
 イスラエルは常に周りの国から狙われていました。その状況に耐えかねた民は、周りの国と同じように王を求めました。士師であり預言者であるサムエルは不本意でしたが、主は願いを聞いてくださったので、サウルをイスラエルの初代の王としました。

(15−19)
もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。

今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。

今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」

それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。

民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」

 念願の王が誕生したことで意気揚々としていた民に、サムエルは勧告しています。そして、王を立てた主こそ主権者であり、主に力があることを民の前に示しました。

 それを見た民は改めて主を恐れ、王を求めるというのが悪であることを悟り悔い改めました。

(20−25)
サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。

それはむなしいものだ。まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。

私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。

ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。

あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」

 サムエルは、改めて“主に仕えよ”と勧めます。周りの国の慣習に誘惑されずに偶像を避けるように勧めます。それは自国の王も例外ではありません。

 人は見えるものに影響を受けるので、見えるものにではなく、見えない主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって仕えるように強く語っています。

 少し間違っても、主の選びは変わることはありません。それは私たちにも当てはまります。福音によって救われた事実は、罪を犯すことで消えるものではありません。

 しかし、悪を重ねるなら、主は懲らしめとして、民も王も滅ぼすという忠告も忘れてはいけません。

 私たちが道を逸れてしまうのは、主がどれほど偉大なことをしてくださったかを忘れてしまうからです。イスラエルの民は、エジプトからの脱出による多くの奇跡を目の当たりにしているのに、主に頼ることよりも、見える王を求めるという悪を行ってしまいました。
 
 実際に立てられたサウル王は悲惨な末路を辿り、それ以降の王も、後継者争い、偶像礼拝など、道を逸れてしまう王がたくさん出てしまったのは、主の偉大さよりも、人間的な力を頼りにしたからです。

 冒頭申した、大きな物事が決定する過程を見てもわかるように、人の欲望で動く神のいない世界は滅びに向かいます。

 私たちはそのような社会の中で、同じような波にのまれることなく、全能者である主に目を向け、主に頼る人生を歩みましょう。

 主への信仰は、宗教というかたちではなく、自然な生き方で表現しましょう。それが“キリストの香りを放つ”ということなのですから。

 

 

 

 

 

■2022年9月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

主からの報いを信じる  up 2022.9.11


主題聖句(ヘブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


 

 

 

 

 主からの報いを信じるその姿、姿勢がキリストの香りとして、人々に証しとなります。
 
 「信じなければならないのです」という言葉が強要されていると感じられ、特に若い世代には感情的に受入れづらい人もいるでしょう。

 しかし、これは共感すべき重大な内容であることを表しています。「信じるべきです」と言い直してもいいでしょう。

 「主だけが、全てを正しく報いてくださるという信仰の香り」
私たちの信仰は神に近づくという信仰です。ご利益的な自分に都合の良い報いを受けるためではなく、神ご自身を知るという目的で神に近づく者という意味です。その前提として、神がおられることを信じています。
 
 私は子どもの頃から神は本当におられるのだろうか、本当におられるのなら何故こんな理不尽なことが是正されないのかと思っていました。そして、悪を裁き善に報いてくださる神を求め続けた結果、時至って、イエス・キリストなる神と出会ったのです。
 
 困った時にのみ神に頼むというのは信仰ではありません。どんな時でも神はおられるのですから、毎日の生活の中で神はおられるという考え方、判断をしているでしょうか。

 

『報い』について
◎ヘブル語より
1)根語→安全であるために

例)(箴言20:22)
「「悪に報いてやろう」と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。」

 仕返し、復讐を自分でしてはならないということです。悪を受けたことによって安全でなくなったので、安全を取り戻すために、悪を持ち込んできた相手に行動で仕返しし、自分の安全な状況を取り戻そうとしてはならない、むしろ、主を待ち望むなら、主が救ってくださる、報いてくださるという意味になります。

 主がその安全でない状況から救い出してくださるのです。救いということばと報いということばが同等に使われています。

2)意味
 完了する、回復、完璧、報い、償う、実行する
  
 参考)ギリシャ語の意味
    報酬を与える、返済する

 完了するというのは、報いによってすべては完了するという意味ですから、報われないものはまだ完了していないことになります。 
 
 自分で報いてやろうとしたら、人はやりすぎてしまい、かえっ」て相手の憎悪を招き復讐を繰り返しかねません。回復は元の状態に戻すということです。正しく裁かれることで、完璧になり、報われ、償われるのです。

◎主に対する信頼の香り

1)(ローマ12:19)
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」

◆神は必ず正しい裁きを下される 
 神は必ず正しい裁きを下されるという信頼です。神が一番正しく裁かれます。自分で裁いてしまうと感情的になり、不公平になり、やり過ぎてしまいます。

 もし、度を越してしまったら、自分も神に裁かれることになります。神に裁きを委ねて信頼する時、その信仰が良き香りとなり、証しとなります。

2)(第2テサロニケ1:6〜7)
「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

◆義のための苦しみは、安息の報い 
 善のための苦しみは、安息の報いが与えられます。これは再臨の時に起こります。
 
 この世の常識がクリスチャンにとっては受入れられないことがあり、そのために孤立したり非難されても、その苦しみは安息として報いられるのです。安息=神の国です。諦めず、悪を離れて善を行い続けましょう。

3)(ルカ14:13〜14)
「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。
その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
 
◆お返しを求めないことへの報い
 私たちはお返しがないと傷ついたり、不平を言ってしまいます。お返しとは報われるということです。
 
 お返しができない人々に親切にするなら、神が報いてくださるという約束です。神の報いは素晴らしいものです。

4)(マタイ6:4、6、18)
「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」

◆人目につかないことへの報い
 私たちは人の目に写ることを気にしてしまいます。自分の存在の価値を人々の目にどう写るかで判断してしまうのです。

 しかし、神は目立たないところでされる奉仕や小さなことに報いてくださいます。
 
 奉仕をしていくことで色々な誤解や批判をされることがあっても、神が正しく報いてくださいます。それを信じて希望をもちましょう。
 
<デボーションポイント>

◎報いについての考え(ローマ4:4)
「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。」

◆働きへの当然な支払い 
 報酬とは、働きへの当然な支払いです。ただ、働きの内容に相応しい報酬かどうかです。働きの内容以上に報酬をもらっていたら、それは恵みです。

 介護や看護師などの報酬が低すぎるとよく言われています。
このような大切な働きには、もっと報酬が与えられるべきではないかと思われます。保育士や教師の方々にも、もっと報酬があっていいのではないでしょうか。

◆報酬は主権者に決定権がある
 報酬は主権者に決定権があります。私たちの人生における様々な働きに対する報酬の決定権は神にあります。私たちに決定権はありません。多くの恵みを受けていることを感謝します。

◆目的とするのは働きの内容であり、報酬は目的ではない
 人生の生きがいの目的は働きの内容です。どんな仕事をするかです。
 もし、世の中の仕事で、給料が自分の働き以下であり充分でないと思えても、クリスチャンは神が報いてくださると信じるので、手を抜かずに真面目に働くことができます。

 神が見ておられると信じているので、例え目に見える形で報われなくてもやり遂げることができるのです。そして、その姿勢がキリストの良き香りとなります。
 
 自分の中に愚痴不平がないか、いつの間にか損得で判断していないか考えてみましょう。

 再臨の時には必ず報われるというのが私たちの希望です。 

報酬を 目的とせず 主に仕え
芳しき香り 世界を満たす

 

 

 

 

 

■2022年9月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

互いへの親切  up 2022.9.4


主題聖句(エペソ4:32)
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。


 

 

 

 

 今日は「互いへの親切」というテーマでお話いたします。
 親切な行動というのは、ある面、あわれみの心、思いやりの心から生まれてくるのではないかと思います。

 主題聖句(エペソ4:32)では、互いに親切にし、心の優しい人となることが勧められています。そして、そのために必要なこととして「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と記されています。

 相手との間に何の問題もなければ、親切をするのは難しいことではありません。しかし神様が私たちに願っておられる「愛とあわれみ」というのは、敵味方関係なく助けが必要な人に親切にし、施しをするということですから、「赦す心」がなければ、どんな人にも親切をするというのは難しくなります。

 つまり、互いへの親切と心の優しさは、神のあわれみを体験したことから生まれて来る、というのが今日の結論となります。

★世界人助け指数より
 
 イギリスのチャリティー機関が、2009年より2018年までの10年間、125か国以上の国を対象に130万人以上の人々に、三つの質問をして、それぞれの国民がどれだけ人助けをしているか、を調査しました。3つの質問とは、

1)この一か月の間、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか?
2)この一か月の間、寄付をしたか?
3)この一か月の間にボランティアをしたか?

 日本についての調査結果は、
 総合順位107位(先進国では最下位)
1)の質問→125位(世界最下位)
2)の質問→64位
3)の質問→46位
 という報告でした。

 この結果を見ると、日本人は善意や親切心がないのではなくて、見知らぬ人に声をかけるのが苦手であったり、あまり関わりたくないという気持ちがあるために、善意を実行に移すことが少ないと言えるのかも知れません。

★2019年東京都台東区、ホームレス避難所受け入れ拒否を考える

 2019年の台風19号の際、台東区が開設した自主避難所に路上生活者、いわゆるホームレスの男性が避難してきましたが、区内に住居がないということで受け入れを拒否された、ということがありました。
 台東区は路上生活者の多い区ですが、区民の税金でつくった区民のための施設だからということで、区としてホームレスの避難所利用は断るという決定がなされていたそうです。
 危険からいのちを守るという観点から言えば、保護することは基本的な道徳心です。しかし受け入れる側にも限界があります。難しい判断です。

 クリスチャンも、それぞれの信仰の程度に応じて、赦す範囲が違います。イエス様のようにすべての人を赦せる人は滅多にいません。 
 親切を実際の行動に移すことが出来ない、という自分の心の中を探ってみたことがあるでしょうか。
 自分自身を理解しなければ、どんなにメッセージを聞いても、親切な心は持つけれど、行動には移せないという状態にとどまってしまいます。
 親切の範囲(赦せる範囲)が今までは狭かったけれど、一歩踏み出して、親切の領域、赦しの領域を拡げていこう、と今日そういう気持ちになって頂ければと思います。

【デボーションポイント】
◎赦しについての教え

(マタイ18:23-35)
「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算したいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』といった。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
ところが、そのしもべは、出ていくと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。
彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』といった。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
彼の仲間たちはことの成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで、主人は彼を呼びつけて行った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

○懇願→あわれみが起こる→負債の免除
 「妻子も子も持ち物も全部売り払ってでも返済しなさい」という王様の命令は、冷たいようですが、規則です。
 しかし、しもべが「待ってください」と、ひれふし懇願するのを見て王様はかわいそうに思い、負債を全額免除してやります。
 1万タラントという金額は、期限を延長しても、また必死で
働いたとしても、到底返せないほどの大きな金額です。それを全部免除したのは王様の心にあわれみの心が起きたからです。 
 この例え話の前に、ペテロは「何回赦せばいいのですか」とイエス様に質問していました。「赦す」というのは、自分は何回赦したというような回数の問題ではなく、人はあわれみの心が出てくると、人を赦すことができるようになる、というのがイエス様のお答えだったのではないでしょうか。

○あわれまない→免除の取り消し
 主人の大きなあわれみを受けたのに、そのしもべは、同じしもべ仲間に対して「あわれまない」という態度をとりました。それを知った主人は借金免除の決定を取り消してしまいます。

 私たちは、神様のあわれみによって罪赦された者です。あわれみを受けたなら、そのあわれみの中に留まるということを忘れてはいけません。神様の赦しのあわれみの中に生きていたなら、借金は免除され続けます。しかし、そのあわれみの中から外に出て、あわれみを無くしてしまうと、その罪は残るということです。
 私たちはついつい、自分の行いによって赦されよう、義とされようとします。しかし私たちは1万タラントの借金のように、どんな行いによってもそれで借金が返せるわけではないのです。
 私たちは赦されることのない罪を犯している、ということに気が付かないといけません。神様のあわれみの中に留まっていたら、それらの借金は全部ゼロになっているのですから、神様のあわれみの中に生き続けることが必要です。
 神様があわれんでくださったことを感謝して、私も人をあわれんでいこうという神様のあわれみの中にとどまる生活をしていきましょう。

(第1ヨハネ4:11)
「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」
 このみことばは、マタイ18:23-25の例え話のテーマを簡潔にまとめています。
 キリストの愛は、あわれみの愛です。そこにとどまっているならば、同じようにその愛にとどまっている兄弟姉妹は、互いに愛し合うべき同じ仲間なのです。

◎あわれみが、なぜ親切と心の優しさをもたらすのかを考えよう!
 「あわれみを受けた」「赦された」「ホッとした」「ああ良かった」と、自分のことばかりを考えていたのでは、他人に対する親切と心の優しさは生まれて来ません。
 ここまでどうして私を赦してくださったのだろうか、1万タラントは主人にとってどんなに大きな借金であったのか、それをどんな気持ちで犠牲にしてくださったのか、主人のその犠牲の大きさや心配、心遣いを思い見て、「私は大事にされているんだなあ」「愛されているんだなあ」と悟る時、私たちの心に親切と心の優しさが生まれてくるのです。
 あなたの心の動きをよく観察してみて、どうして親切になれないのか、どうして心の優しさに限界があるのか、それを引き延ばすためにはどうしたらよいのか、ぜひ考えて優しさをいただきたいと思います。
 神のあわれみの力を体験し、あなたの内にその力を養っていただきたいと思います。

【短歌】

 罪深さ  知れば知るほど  あわれみの

 きよめの力  我におよべり


 神様の深いあわれみを知れば知るほど、私たちの心はきよくなっていきます。
 このことが皆さんの心の内に体験として現れてくることを心から願っています