■2022年10月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
善に親しむ心 up 2022.10.30
○愛には善に親しむ楽しさ喜びがある ◎【善】とは、神聖な愛を追い求めること (第1コリント13:4-7)には、愛するということの具体的な姿が書かれてあります。これを読みますと、愛は善に親しむこと、すなわち、神の聖い愛(神聖な愛)を追い求めることが善である、と言い換えることが出来ます。 なぜ「神聖な愛」と言うのかといえば、ここに紹介されている愛は、世に多く見られるような、自分の欲望を満たそうとする自己中心で貪欲な愛とは全く違うものです。「神は愛である」と聖書に語られているように、愛はもともと神から出ている神聖なものなのです。 神様の聖い愛こそが私たちの心を本当に満たすことの出来る愛であるということに、クリスチャンはイエス様を信じて初めて目が開かれます。そしてイエス様を信じて神の愛に満たされていくと、自己中心が段々小さくなっていき、神様あってのすべであることを悟らされていきます。それが私たちの徳が高められる一つの証しであると言うことが出来るでしょう。 ◎【悪】とは、健全な教えに背くこと 色々な悪が書かれてありますが、一言で言えば「健全な教えにそむく事」です。聖書の律法は主権者(神様)が定めたルールとして人々に何が罪であるかを教えています。 ここに記されている悪は、いずれも内側から起こってくる悪を行おうとする各種の欲求です。 このように善と悪をはっきり理解して、私たちは善に親しむ心を養い育てていくことが必要です。そのためにはまず神の恵みを知ることが重要になります。 ◎【神の恵みを知る】 善悪は神によって定められていますから、神を無視すると善悪の区別がなくなって、各々自分勝手なことをして争いが起こります。神を認めない社会というのは、主権を恐れない心があるので、罰せられることから逃れようという悪意がそこに潜んでいます。 善を求めている敬虔な人は、罪を素直に認めて罰に服します。 どうして神様は人の罪を赦すことが出来るのでしょうか。それは、その人の代わりに神が罪の償いをされるからです。それがイエス・キリストの十字架です。そのようにして善を求め善に親しむ心で生きる人々を、恵みをもって救ってくださるのです。 誰でも、善意を持つ心に悔い改めたならば、その人の罪も十字架で償われて赦されます。イエス様の捧げられた罪のない聖いいのちは、あらゆる時代のあらゆる人々のすべての罪を償うことの出来る「代価」なのです。ですから、いつ、どこで、誰が悔い改めても、悔い改める者はすべて救われます。 何と恵み深くあわれみ深い神様でしょうか。善を求めていくと神の恵みが見えてくるとはそういうことです。 ○罪人が心を入れかえて善に親しむことが出来るように救ってくださった。 神様は、心入れかえた人が誰でも善に親しむ人生に立ち返ることが出来るために、恩赦ではなく代価による赦しを実行されました。すなわち救い主イエス様が私たちの身代わりに罪の裁きを受けてくださったので、私たちの罪は処分済となり、赦しが与えられたのです。これが十字架の救いです。単に恩赦ではなく、赦しのための代価がイエス様により支払われているのです。素晴らしい恵みです。 そして、いかに自分が傲慢で自己中心で神を畏れない者であったのかということも気づかされて、もう一度やりなおしたいというその思いを成し遂げさせてくださいます。なんと素晴らしい救いの恵みがイエスキリストを通して与えられていることでしょう。 ◎善の種まき 〇種を蒔けば刈り取りもするように、善には収穫の時がある。 〇善を行うキリストへの信頼は失望に終わることはない。 魂は体を離れて安息を得る、ということが聖書に約束されています。死後の未来には確実な希望があるのです。 キリストを信じて善なる心を求める人は、必ずキリストの救いにあずかって、永遠の神の国の相続人となるという未来の約束が与えられています。キリストの十字架を信じる報いは大きいのです。 【デボーションノート】 〇善に親しむ者と造り変えられた 〇悪に対して善をもって勝利する楽しさと喜びの体験を味わいましょう。 例えば、敵の兵士をも看護したナイチンゲールは、上官に?責されながらも看護をし続けました。そして助かった敵の兵士は国に帰り戦争を放棄する者となりました。善意に触れた者には善意が生まれてくるのです。 〇悪に対して祝福で応じることが出来ないのはなぜだと思いますか? 罪の性質の根本には「損得」があります。損得を優先する生き方をしていると、相手の悪に対して祝福で応じることが出来なくなるのかもしれません。 私たちは善であるか悪であるかを基準に物事を判断し行動していきます。地上で報われなくても、天では大きな報いが用意されていることを信じて、希望を持って信頼していきましょう。 善に生き 親しむ日々に 希望あり 主イエスが共に 歩まれるから
■2022年10月23日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)
よみがえりの主を信頼する up 2022.10.23
1.「ラザロは死んだのです。」(ヨハネ11:1〜20) そのラザロが病気で死にそうだと連絡がありました。しかしイエス様はすぐには行かれず、おられた場所になお2日とどまられました。 それは、ラザロの死は神の栄光をあらわすもので、死では終わらないということをイエス様はご存じだったので、完全に死んでしまった後に行くことをご計画されていたのです。 ラザロが死んで4日目にイエス様は行かれました。イエス様は今までも死んだ人を2人よみがえらされる奇跡をおこなわれましたが、今回のラザロのよみがえりは特別でした。 (11:21)マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(21節) (11:32)マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 (11:25〜26)イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 2.イエス様は涙を流された(ヨハネ11:31〜37) また、罪の結果として人が死ななくてはならないことへの悲しみ、また人々の不信仰への涙であったかもしれません。 3.その石を取りのけなさい(ヨハネ11:38〜42) 4.「ラザロよ。出てきなさい。」(ヨハネ11:43〜45) ラザロはミイラのように包帯をぐるぐる巻きにされていましたが、その姿で墓から出てきたのです。完全に死んでいた者が生き返るという奇跡のわざでした。 イエス様の墓の石は天使が動かし、ぐるぐる巻きにしてあった布はそのまま、巻いた状態で置いてありました。イエス様のお姿はありませんでした。 この時のイエス様の姿はラザロとは違い、栄光の体によみがえられました。そのお体は、戸も開けずに部屋にすっと入ることができる体でした。私たちが天に行く時、同じ栄光の体をいただく約束があります。 信じられないという常識を、信じる者は主にあって打ち破ることができるのです。 死んで4日もたてば臭くなるというのは常識ですが、もしかすると私たちは常識が信仰になっているかもしれません。 しかし、私たちは常識を打ち破る神様の偉大な力を信じることができます。なぜなら、神様は天地万物を創られたお方であるからです。 この偉大な神様の力から見れば、死人をよみがえらせることは難しいことではありません。 私たちの常識で見れば難しいと思いますが、神様が働かれると奇跡が起こるのです。物事が変えられるのです。そのことを信じていきましょう。 しかし、ラザロはこの肉体でよみがえらされたので、また後には死にました。この肉体は何回癒されても死んでしまいます。 【参考聖句】 私たちは信じた時に霊的な死の世界から解放され、霊的に生きた者となり永遠のいのちを得ているので、大丈夫なのです。信じる者は生きるのです。 【デボーションポイント】 また、再臨の時にこの地上で生きていれば、死なずにそのまま栄光の姿に変えられ携挙されるという素晴らしい約束をいただいているのです。 ○私が今日から実行したいことは何でしょうか? また、サタンの力に勝利された偉大なイエス・キリストの力に信頼し続けることです。迷わない、疑わない、恐れないことです。 聖書には「恐れるな」とたくさん書いてあります。偉大な神様が私たちの味方です。私たちを支えてくださっています。 よみがえりの主に信頼することは、不可能を可能にする主に信頼することです。このような生き方を今日から実行していきましょう。
■2022年10月16日 日曜礼拝メッセージより(ハンガーゼロ巡回牧師:田村治郎牧師)
世界食料デーを覚えて〜落穂の向こう側〜 up 2022.10.16
皆さん、おはようございます。会場にお集まりくださり、またオンラインでも共に礼拝を捧げていてくださることを感謝します。なによりも今日の礼拝が、世界食料デーを覚えて、そしてせっかく与えられた命なのに食べるものが無くて苦しんでおられる方々を覚えて、共に主に向かい礼拝を捧げていてくださることを感謝します。主のみこころが私の内に成るだけではなくて、私を通して多くの人々、格別にこの最も小さき者たちの一人に及ぶことを皆さんが祈ってくださっていること、その思いを持って共に礼拝を捧げてくださっていることを心から感謝致します。 最初に飢餓人口について皆さんにお伝えしたいと思います。 皆さんはミツバチが今減少しているということをご存知ですか。もしミツバチが絶滅したら世界の農産物の3分の1がとれなくなるそうです。養蜂場の方もそういう蜂の働きの重要性をご存知で、ミツバチを増やす努力をされています。そういうことも合わせて、肥料が品薄になり高騰していることも徐々に徐々にわかってきました。 食料危機は世界規模で静かにじわじわと私たちの足もとにも近づいてきています。そういう中で私たちに出来ることを、農家の方にお聞きしてみました。消費するだけでなく、家庭菜園やプランターによる自家栽培などで、僅かでも安心安全なものを生産してみてはどうだろうか、と知恵をいただきました。 また消費期限や賞味期限による食物廃棄を減らすことで、私たちは日常の中で少しでも確実に効果を出していくことができることも教えられました。 日本は多くの国から安全で安価な食料を輸入しています。私たちがここで消費するスタイルを変えることが、食料危機の問題に何か一石を投ずることが出来ると思うのです。 それは大きな手ごたえのあることではないけれど、プロでしか出来ない働きと、この場所で私たちに出来る小さなこととを併せれば、8億2800万人という、創造主なる神の作品である彼ら一人一人に与えられた生命を、みこころに生きるという人生を、どこかでバックアップしていくことができるのではないでしょうか。隣人として、私たちはその方々と共に生きていくことが出来る筈です。 神様は私たちを用いてくださいます。問題は大きくとも、神様が知恵を与え力を与え、また一人で出来ないことは多くの人たちと協力して、多くのクリスチャン、多くの教会の協力の中で、最も小さき者たちの一人の命を、人生を、救うことが出来る筈です。 今年もまた食料デーのこの時期に、これをしっかり受け止めていただきたいと思います。 そして先ほど聖書を読んで頂いたルツ記のみことばから、「そうして共に生きるということ」そのことを、神様からチャレンジを受けたいと思います。 しかしルツは最後まで自分も一緒にベツレヘムに連れて行ってほしいと譲りませんでした。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれるところで私も死にます。」というルツの固い決心を聞いて、ナオミは二人でベツレヘムに帰ることにしました。 2人はベツレヘムに帰りましたが、男手もなく生きていくために出来ることは、若いルツが落穂を拾いに行くことでした。イスラエルの律法の中に、作物の借り入れの時には、全部刈り取ってしまわず、痛み苦しむ人々のために少し残しておきなさいという、貧しい人を顧みるための定めがあったのです。 ルツは、色んな人の畑がある中で何となく誰かの後を付いて行ったのでしょう。着いた所はボアズという人の畑でした。ルツの後の御主人となる人です。 ここで聖書は「はからずも」と言っています。この言葉は素晴らしいです。日本語では、たまたまとか偶然とか言いますが、ヘブル語の「はからずも」という言葉は、「結局のところ」というニュアンスがあります。予定も予想もしていなかった出来事、人の目には偶然と見えることですが、神の視点から言えば、結局のところ、落ち着くべきところにあなたは落ち着いた、という意味合いです。 ボアズはナオミの遠い親戚であり、ルツのことも聞いていて、二人が何とか生きるために何か出来ないかという配慮で、ボアズは作業する者に、あえて穂を落とせと指示しました。それでルツは普通では拾えないほどの大量の落穂を手にして家に帰りました。 ナオミはそれを見て驚きました。「すごい!ラッキー!」と思ったのではありません。「どこで働かせて頂いたのですか?」「誰があなたにそんな好意をしてくださったのですか?」ナオミは目に見える現象だけでなく、その背後に必ず誰かの配慮がある、ということを見て取ることができたのです。これが今日のポイントの一つ目、落穂の向こう側が見える目を持ちたいということです。 当時は集会をテープに録音していて、いつでも貸し出して聞けるようにしていました。その中に以前自分が事故を起こした日の夜の祈祷会のテープを見つけ、借りて聞いてみました。「事故の被害者の○○さんの癒しのために、そして加害者の田村さんの救いのために祈りましょう」という呼びかけの声などが全部録音されていました。 私は交通事故を起こし、その病床にある被害者を見舞い、そこで逆に伝道されて教会に行くようになったのですが、その頃は、自分が事故を起こして、自分が求めて、自分が悔い改めて、自分がイエス様を信じて、自分が救われて、自分が教会生活を送って、自分が自分がと、全ての主語は自分でした。 しかし、あのテープを聞いた時、背後にどれだけ多くの人たちの祈りがあったかを知りました。会ったこともない私のために、それどころか、教会の仲間が傷つけられた、その事故の加害者である私のために熱心に祈ってくださっていたのを知りました。 私たちは良い出来事にも辛い出来事にも、その向こう側に必ず誰かが祝福として与えられている筈です。誰かが助け手としてそこに存在してくれている筈なのです。その向こうには神様がちゃんと導いていてくださっているのです。 目に見える現象で一喜一憂しがちの私達です。しかしナオミが落穂の向こう側に、当たり前ではない神様のご配慮を見届けることが出来たように、多くの人々の祈りと神様の恵みにあって今生かされている私たちも又、足元の出来事だけでないその向こう側を見ることのできる目を持ちたいと思うのです。 二つ目のポイントは、私たちはいつまでも誰かに助けられ、誰かにおんぶされ、誰かに担がれていくという信仰生活だけでなく、今、誰かを支え、誰かを担いで、時には誰かと背中を押しながら人生を生きていく、そういうものでありたい、つまり落穂の向こう側に立つ者になりたいということです。 私もイエス様を信じて40年がすぎました。あの時どれだけ多くの方が祝福を与えてくださったことでしょう。今私たちは、誰かのために、出会ったこともない8億2800万の人たちのために、また戦争で苦しんでいる顔も知らない人たちのために祈り、アクションを起こそうとしています。 主は「この最も小さき者たちの一人にしたことは私にしたのです」と言われました。私たちのスモールアクションが主の栄光、主の愛への応答として、神ご自身がそれを30倍、60倍、100倍の実を実らせてくださいます。 この私を用いて主は御業をなしてくださいます。だから私たちは落穂の向こう側を見る目を持ち、そしてその向こう側に立って誰かに仕えると共に、もう一度改めて主の御前に告白したいと思います。 「主よ、私を用いてください。私はここにいます。この私が出来る世界の悲しみに、神の祝福を分かち合う手でありたい、主よ用いてください」そのように祈っていきたいと願います。
■2022年10月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
父なる神の子 up 2022.10.9
◎子は成長するにつれ親に似た者となる 今日の主題聖句(マタイ5:38-48)には、神の子が神様に似る者と変えられていく姿のことが記されています。 そこで、神の子はこのように行わなければならないのかと、律法のように受け止めないでください。今は何も出来ていなくても、これから自分が成長していく姿として、楽しみに安心して受け止めていただきたいと思います。 (マタイ5:38-48) (39節)「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには、左の頬も向けなさい。」 (41節)「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」 (42節)「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」 持っているものを力量に応じて与えるのが親切です。持っていないのに与えることは出来ませんから、それを不親切とは言いません。持っているのに出し渋るのは親切心がありません。 自分の力量を超えてまで行う親切は、時にプライドや意地や見栄などの罪が潜んでいたりします。 (43-45節)「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」 (46-47節)「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするのではありませんか。」 (48節)「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」 マタイ5章の38節から48節までの11節の間にある暗黙のメッセージとして、「子は自然に親に似る者となる」ということをご紹介致しました。 【デボーションポイント】 ◎古い人?十字架で処分 ◎新しい人?キリストとともに復活 ◎キリストとともに復活するという真理について ですからイエス様は私たちの罪を負って死なれましたが、イエス様ご自身には罪はなかったので、義人として復活されました。 その復活は、イエス様が罪のない方だったという神様の証明であり、同時にイエス様の流された血は、罪人の罪を贖うことの出来る聖い血であることの証明ともなりました。 私たちは罪人です。永遠の滅びの枠の中にいます。しかし、私たちが受けるべき罪のさばきを、イエス様が代わりに受けてくださったので、それを信じる者は罪を処分された者、罪赦された者、罪なき者、義人、と神様は見なしてくださいます。 そして、義人であるキリストがよみがえられたように、私たちも義人としてよみがえらされるのです。 ですから病気にもなりますし、肉体的な圧迫や苦しみを通して、霊、魂も一緒に苦しんでしまい、病むこともあります。 しかし、自分は新しいいのちに生きる新しい人になった、心も霊も新しくされた、ということを受け入れた人は、肉体から来る罪の誘惑や苦しみを拒むことが出来ます。 それを信じて行動に移すとき、体が癒されることもあり、罪の力に勝利することもあります。肉体から来る罪の力に対抗する権利、力をいただいているからです。 体が贖われるのは、キリストが再臨される時です。その時に、キリストがよみがえられた時と同じ栄光のからだ、罪を宿していない体を頂いて真の平安を得ることができます。 この約束を今私たちは待ち望んでいます。それまで忍耐して、この罪の体の中で、罪に対抗する「力」をいただいて、霊の戦いを勝ち抜くようにと励ましてくださるのが、パウロの牧会書簡です。 新しい人が成長していくと造り主のかたちに似る者となり、神の御子イエスと同じ姿となる、これが私たちの望みです。 成長しなければならないのではなく、神の子として普通に生活していれば、すなわち、天のお父様のおことば、戒め、知恵を学んでいけば、自然と成長していくものなのです。 地に種が蒔かれると、誰も知らないうちに芽を出し、いつのまにか実がなるという例え話のように、成長は自然に行われていきます。 成長の進み具合は違っても、神の子である限り神に似た者となるということは間違いありません。 イエス・キリストを受け入れた人は皆、神によって生まれた者で、父なる神様に似た者になるための種を持っているのです。 【短 歌】 信仰により 神によって 生まれた者は 必ず御父に 似る者となる 今どんなに自分の未熟さ至らなさがあったとしても、私たちの中には神のご性質を引き継ぐ種があるのです。それは必ず成長して、神に似ていくものに進むのです。あきらめないで希望を持って歩んでまいりましょう。
■2022年10月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
罪人を生かす神の深いあわれみ up 2022.10.2
罪の中に死んでいるものを生かすために、 私たちは神様のあわれみによって救われた者ですが、罪人であったことを忘れてはいけません。罪は神様は忘れてくださいますが、神のあわれみの大事さに気付くためには、どこから救われたのかを私たちは忘れてはいけないのです。 今日は聖餐式の日です。罪過の中に死んでいた私たちを生かすために、最も大切な方を神は犠牲にされた、それほどに深い愛とあわれみを現してくださったことを改めて心に覚えたいと思います。 ◎「罪過の中に死んでいた」とは? ★不従順の子らの中にいた→所属 神への従順という神に属する者と、神に不従順な闇に属する者たちと、世界はこの二つに分けられます。どちらでもない、という人は不従順に属します。中途半端はありません。 ★自分の肉の欲の中に生きる→目的 ★肉と心の望むままを行う→行動 しかし、神様の怒り(裁き)は、もっとも正しい裁きの基準を持っておられるので、完璧な裁きです。 罪過の中に生きる者は、その罪過に対し完璧な神の裁き(御怒り)を受ける、という結末を迎えることとなります。 私たちは、罪過の中に死んでいる状態とは真逆の中に生きているでしょうか。すなわち、クリスチャンとして、神への従順の中に生き、神のみこころを行うことを目的として、神様を愛する心の望むままを行動し、善を行って報いをいただくという結末に向かって生きているでしょうか。いつのまにか、逆戻りしていないでしょうか。ぜひ吟味してみてください。 ◎神のあわれみの豊かさ ★罪人への大きな愛→召命 ★神の恵みによる救い?信仰 ★イエスと共に復活→義認 しかし、私たち罪人をも「ともによみがえらせてくださった」とは、どういうことでしょうか。 それは、イエス様が私たちの罪の身代わりに罰せられて、私たちの罪は処分済となり、罪は全部赦されたので、私たちも罪なき義人となり、イエス様が義人としてよみがえったように、私たちも義人としてよみがえったということです。 皆さんがイエス様を信じてバプテスマを受けたということは、キリストの十字架の苦しみとハデスの苦しみにあずかって、キリストとともに死に、罪は処分され、キリストのよみがえりにあずかって、私たちも義人としてよみがえったということを示しています。 ★天の御座に座れる→結末 【デボーションポイント】 ◎死人がよみがえる条件 バプテスマを受けるということは、キリストに継ぎ合わされてキリストの一部となること、キリストに属するということです。ですから、キリストが死んでよみがえられたように、私たちも死んでよみがえる、ということが実現するのです。 例えば私たちが小さな布切れで、イエス様が新品のズボンとしましょう。ズボンは新品で完璧ですから、継ぎ当てされる必要はありません。しかしイエス様は、まるで穴があいているかのように小さな布切れを必要とし、私たちが継ぎ合わされて、ぴったり付いて離れないようにしてくださるのです。それは私たちの必要でもあります。私たちはイエス様から離れては何も出来ないからです。 クリスチャンも戒めから離れると罪過の中に住むことになります。「聖餐式の『杯』は、罪人を義とするためのキリストの血による新しい契約である」と、イエス様は言われていますので、離れたけれども心を入れ替えて、もう一度新しい契約に立ち返ります、というのが聖餐式の一つの意味です。 契約を守れないで破棄する人がいる、ということも神様はご存じで、それでも神様は契約を守り続けるために、「帰っておいで」と再び私たちが継ぎ合わされるのを願ってくださいます。御子イエス様のいのちを証しとしてまで結ばれた契約だからです。 罪過の中で死んでいる私たちが生かされるために、そこまでしてくださっているのですから、私たちはもう思い煩いも捨てて、自分の行いや心の思いがどうであれ、神様は契約を守り続けてくださる方だからと信頼して、「唯々あなたについていきます」と言えるのではないでしょうか。 人を裁いたり、あわれみのない仕打ちをしたり、そんなことを通して、自分は罪過の中に死ぬべき罪人だったと自分の罪深さを思いながら、イエス様はそのような私の罪を十字架で代わりに背負って処罰されてくださり、私を罪のない義人として見てくださるがゆえに、今は義人として新しいよみがえりの人生を歩むことができているのだと、感謝してへりくだって、毎日の歩みを主の再臨まで信仰を保っていくようにと、神様は願っておられます。 キリストの 深いあわれみ 受け入れて 毎週イエス様の十字架への賛美を歌い、十字架への感謝の祈りをささげるのは、尽きることのない神様の深いあわれみに対する応答です。 今週も、いかに自分が罪過の中に死んでいた者であって、イエス様に救って頂かなかったらどうなっていただろうかと、神様の深いあわれみに感謝して、この一週間を過ごして頂きたいと思います。 そして罪過の中に戻りかけていたり、神様の愛の領域から外に出かかっていたりする人のためにも、今日の聖餐式を、キリストに付くチャンスの時として、バプテスマの契約の中にもう一度立ち返って頂きたいと思います。
■2022年9月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
再臨待望 up 2022.9.25
この地上での願いがいつまでたっても叶わないからといって、神様は生きていないとか、信用できないとか思ってはいけません。イエス様は再臨の時にしかあなたの願いに答えることの出来ない救いを持ってこられるのです。それが「再臨」の意味です。 私たちの一番の願いは、再臨の時にこの肉体が、死ぬこともなく病気にもならない新しい体(キリストの復活の体)に変えられるということです。既に地上で死んでいる者も、キリストの再臨の時には死からよみがえらされて、復活のイエス様のような新しい体を頂けるということです。完全な癒し、救いは再臨の時に成就するのですから、私たちは神への希望と信仰を持って、それを待ち望むのです。 ★苦しみの受容は希望のゆえ 前節に書かれてありますが、当時テサロニケの教会は大きな迫害と患難に襲われていました。しかし信徒たちは、それに耐えて信仰と従順を保っておりました。なぜ耐え忍ぶことが出来たのか、どのような希望を持っていたのかが、この5−7節に書かれてあります。 (1)再臨を信じるために苦しむのは、神の国にふさわしい者となるための聖めを受ける希望となる 私たちはイエス様の再臨と神様の審判を信じているので、この世と調子を合わせないように、そして罪から離れて善に親しむように努めています。神様の愛を信じているので、キリストが再びこの地上に来られて、すべてを解決されることを信じているのです。 どうして再臨を信じることが出来るのでしょうか。イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために来られて十字架でそれを成し遂げてくださったという「初臨」の出来事が、聖書の預言通りに歴史の中で成就しました。そしてそのイエス様が「もう一度来る」と言われたのです。 神様が初臨の約束を成就させ、そして次の「再臨」を約束されたのですから、その「再臨」の約束も必ず成就されるに違いないのです。 それを信じるゆえに、この世においては信仰の戦いや圧迫、摩擦などの苦しみが起こります。それは私たちの聖めのためです。「神の国にふさわしい者とするため」です。それは神様のご計画にあることなのです。 この世には色んな矛盾があります。そのための信仰の戦いがあなたの内に起こっても、その苦しみは決して無駄ではありません。聖めのために、神への愛と信頼が磨かれていくための苦しみです。苦しみがないと信仰は磨かれません。信じているのかどうかもわからなくなります。苦しみはそれほど意味のあるものなのです。 苦しみから逃れようとしないで、神様からの賜物と思うべきです。 争わず、黙って、ただ神を待ち望む、人間的な反応や応答をしない、ただただ神様のおことばを信じて、憐れみを施し、親切をやめない、愛を示していく、それには相当の忍耐が必要です。その忍耐こそがあなたを清め磨いて神の国にふさわしい者とするのです。 (2)神が下す裁きの正当性への希望 【デボーションポイント】 患難=再臨信仰のゆえに苦しむ 聖霊=神の存在と愛を実感実証 私たちは聖霊様によって神の存在と神の愛を確信することが出来ます。サタンはこの聖霊体験を揺るがそうと、様々な思いや考えやこの世の知恵、知識によって惑わしてきますから、気を付けましょう。 いつどこで惑わされたのか、どんな要らぬ考えが入って来たか、見つけ出すことが必要です。 そして再臨を待ち望んでいる者としての人生を建て上げていくように考えてみてください。再臨を待ち望んでいる者としての判断決断ができているかと黙想し、気付かされたところから直していかれたらいかがでしょうか。 【短歌】 主の愛に 希望を抱く 忍耐は 再び来られる 確かな証拠
■2022年9月18日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)
主を恐れ、主に仕える up 2022.9.18
先日、関西万博のキャラクターが正式に決定したニュースを見て、これは大阪府民の総意なのか?と疑問を持ちました。 このように、一部の権力者の意見が、大勢の住民の声に勝る構造が、人間の歴史を見てもどの時代にもありますが、大勢の意見を一つにまとめるなど到底できないというのが現実です。 そして、人間は完璧ではないので、完全な存在を人間の中から立てるのは不可能なのです。だから、神の存在が必要不可欠であり、私たち人が正しく歩むことができる唯一の方法が、全能者である主の導きによる他ないのです。 旧約聖書からイスラエルの歴史を見るときに、主が進むべき道を示し、ともに歩んでいる様子が描かれていますが、ある時から、一人の王を立てるようになりました。1サムエル12:12−25から見ていきましょう。 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。 もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。 今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。 民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」 それを見た民は改めて主を恐れ、王を求めるというのが悪であることを悟り悔い改めました。 それはむなしいものだ。まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」 人は見えるものに影響を受けるので、見えるものにではなく、見えない主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって仕えるように強く語っています。 少し間違っても、主の選びは変わることはありません。それは私たちにも当てはまります。福音によって救われた事実は、罪を犯すことで消えるものではありません。 しかし、悪を重ねるなら、主は懲らしめとして、民も王も滅ぼすという忠告も忘れてはいけません。 私たちが道を逸れてしまうのは、主がどれほど偉大なことをしてくださったかを忘れてしまうからです。イスラエルの民は、エジプトからの脱出による多くの奇跡を目の当たりにしているのに、主に頼ることよりも、見える王を求めるという悪を行ってしまいました。 私たちはそのような社会の中で、同じような波にのまれることなく、全能者である主に目を向け、主に頼る人生を歩みましょう。 主への信仰は、宗教というかたちではなく、自然な生き方で表現しましょう。それが“キリストの香りを放つ”ということなのですから。
■2022年9月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
主からの報いを信じる up 2022.9.11
主からの報いを信じるその姿、姿勢がキリストの香りとして、人々に証しとなります。 しかし、これは共感すべき重大な内容であることを表しています。「信じるべきです」と言い直してもいいでしょう。 「主だけが、全てを正しく報いてくださるという信仰の香り」
『報い』について 例)(箴言20:22) 仕返し、復讐を自分でしてはならないということです。悪を受けたことによって安全でなくなったので、安全を取り戻すために、悪を持ち込んできた相手に行動で仕返しし、自分の安全な状況を取り戻そうとしてはならない、むしろ、主を待ち望むなら、主が救ってくださる、報いてくださるという意味になります。 主がその安全でない状況から救い出してくださるのです。救いということばと報いということばが同等に使われています。 2)意味 完了するというのは、報いによってすべては完了するという意味ですから、報われないものはまだ完了していないことになります。 ◎主に対する信頼の香り 1)(ローマ12:19) ◆神は必ず正しい裁きを下される もし、度を越してしまったら、自分も神に裁かれることになります。神に裁きを委ねて信頼する時、その信仰が良き香りとなり、証しとなります。 2)(第2テサロニケ1:6〜7) ◆義のための苦しみは、安息の報い 3)(ルカ14:13〜14) 4)(マタイ6:4、6、18) ◆人目につかないことへの報い しかし、神は目立たないところでされる奉仕や小さなことに報いてくださいます。 ◎報いについての考え(ローマ4:4) ◆働きへの当然な支払い 介護や看護師などの報酬が低すぎるとよく言われています。 ◆報酬は主権者に決定権がある ◆目的とするのは働きの内容であり、報酬は目的ではない 神が見ておられると信じているので、例え目に見える形で報われなくてもやり遂げることができるのです。そして、その姿勢がキリストの良き香りとなります。 再臨の時には必ず報われるというのが私たちの希望です。 報酬を 目的とせず 主に仕え
■2022年9月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
互いへの親切 up 2022.9.4
今日は「互いへの親切」というテーマでお話いたします。 主題聖句(エペソ4:32)では、互いに親切にし、心の優しい人となることが勧められています。そして、そのために必要なこととして「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と記されています。 相手との間に何の問題もなければ、親切をするのは難しいことではありません。しかし神様が私たちに願っておられる「愛とあわれみ」というのは、敵味方関係なく助けが必要な人に親切にし、施しをするということですから、「赦す心」がなければ、どんな人にも親切をするというのは難しくなります。 つまり、互いへの親切と心の優しさは、神のあわれみを体験したことから生まれて来る、というのが今日の結論となります。 ★世界人助け指数より 1)この一か月の間、助けを必要としている見知らぬ人を助けたか? 日本についての調査結果は、 この結果を見ると、日本人は善意や親切心がないのではなくて、見知らぬ人に声をかけるのが苦手であったり、あまり関わりたくないという気持ちがあるために、善意を実行に移すことが少ないと言えるのかも知れません。 ★2019年東京都台東区、ホームレス避難所受け入れ拒否を考える 2019年の台風19号の際、台東区が開設した自主避難所に路上生活者、いわゆるホームレスの男性が避難してきましたが、区内に住居がないということで受け入れを拒否された、ということがありました。 クリスチャンも、それぞれの信仰の程度に応じて、赦す範囲が違います。イエス様のようにすべての人を赦せる人は滅多にいません。 【デボーションポイント】 (マタイ18:23-35) ○懇願→あわれみが起こる→負債の免除 ○あわれまない→免除の取り消し 私たちは、神様のあわれみによって罪赦された者です。あわれみを受けたなら、そのあわれみの中に留まるということを忘れてはいけません。神様の赦しのあわれみの中に生きていたなら、借金は免除され続けます。しかし、そのあわれみの中から外に出て、あわれみを無くしてしまうと、その罪は残るということです。 (第1ヨハネ4:11) ◎あわれみが、なぜ親切と心の優しさをもたらすのかを考えよう! 【短歌】 罪深さ 知れば知るほど あわれみの きよめの力 我におよべり |