■2022年8月28日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

主を信頼する者の香り  up 2022.8.28


主題聖句(エレミヤ29:11)
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−−主の御告げ−−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。


 

 

 

 

 今日は、クリスチャンの放つ主を信頼する香りについてお話ししたいと思います。

1.主は私たちのために計画を立てておられる
 神様は私たちを祝福しようと、生まれる前から選んでおられます。私たちは神様のご計画の中で人生を歩んでいます。
 エレミヤ書は預言書です。旧約聖書にはモーセ五書をはじめ、たくさんの歴史書、律法の書がありますが、クリスチャンはこの中に神様の人類に対する計画と、私たちに対する計画を見ることができます。イスラエルの人たちの歩みは、私たちの人生に重ねて見ることができます。聖書で神様が語られている「あなた」という言葉は、「私」と捉えて読むとよくわかります。
 最初に、神様は私たちの人生に対して計画を立てておられるということを見ることができます。救いの計画がまず第一にあります。神様はイスラエルの民がエジプトに寄留している時に祝福され、人数を増やされました。70人の家族が、400年の間に数百万人になりました。その後奴隷となったイスラエルの人々は非常な苦しみをエジプトから受け、神様に「救ってください!」と叫び求めました。この叫びに対して、神様が救いの計画を立てておられました。
 このエジプトからの脱出は、罪の世界から脱出するという意味を表しています。今は、世の中は困難な時代です。その中で人々が神様に叫び求める時に、神様はそこから救い出す計画を立てておられるのです。
 やがてイスラエルの民はエジプトを脱出し、神様が紅海の水を分けて、エジプト軍から逃れ、救われました。しかしイスラエルの民はすぐ幸せになったのではありません。荒野は食べ物も水もない大変な所です。しかし彼らは神様から守られ助けられます。昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれ、マナという食べ物が天から毎朝降ってきました。水を岩の中から出されるという奇跡をなされました。
 これらすべては、神様が私たちを日々養ってくださっているということを学ぶことのできる例です。日々私たちを守っていてくださいます。目に見えない所で色々な守りがあり、今の私たちがあるのです。

2.それはわざわいではなくて、平安を与える計画である
 平安な心とは、色んな状況があってもそれに対して対応でき、忍耐と希望をもって困難を乗り越えることができる心であると思います。
 クリスチャンになると、聖別の計画があります。聖くなるための計画です。罪が聖められ、素晴らしい人格へと変えられて平安をいただくという、訓練の期間があると思います。
 イスラエルの民は、聖なる民になるためにたくさんの訓練、試練を通りました。この訓練は、一見わざわいと思えますが、このことがなければ忍耐や敬虔を学んだり、平安や希望を持つことができなかったのです。
 私たちにとっても訓練は必要なものなのです。その中でたくさんの学びをし、きよめを受けることができるからです。
 イスラエルの民は罪の世界から出たけれど、まだたくさんの罪があり、訓練を受ける必要がありました。律法が与えられましたが、守ることができないので、罪のためのいけにえをささげることも教えられました。
 クリスチャンもそうです。救われてもまだ古い生活の習慣が残っていれば、罪を犯すことが多いでしょう。そこで悔い改めることが大切です。苦労や失敗がないと、気が付かないことがあると思います。
 三浦綾子さんが書かれた「愛の鬼才 西村久蔵」という本の中にこのようなことが書かれていました。 
 この西村久蔵さんは、学生時代に落第してしまったそうです。すると、今までの同級生の目が冷たくなり、ばかにされたそうです。
 お母さんの所に行き、その苦しみを告げました。その時お母さんがこう言いました。「どんなに辛かったでしょうね。でもね、辛い目にあわせてくれる人が、私たちを立派な人間にしてくれるものなのですよ。いい人だけが私たちを育ててくれるのではないのですよ。悔しい目にあわせてくれた友だちは、きっと今におまえの恩人になるかもしれませんよ。決して恨んではいけません。」
 辛いこと、苦しいことを経験すると、人の痛みもわかり、人も赦すこともできるようになるのです。この言葉の通り、久蔵さんは素晴らしい愛の人となりました。
 私たちにも、訓練のために様々な試練がやってきます。それをいやがらずに、耐えて訓練され、忍耐強くなり、聖められていくことが必要なのです。

3.それは私たちに将来と希望を与えるためのもの
 イスラエルの民は、神に反抗し、罪を犯し続ける不信仰な民でしたが、神様は見捨てることなく、導かれました。
 今私たちの時代は幸いです。二千年前にイエス・キリストが地上に来られ、十字架で私たちの身代わり罰をうけられ、それを信じるだけで救われるという、最終的な救いの手段を計画し、実行されました。
 行いによるのではありません。イエス・キリストの十字架が私の身代わりであったと信じ受け入れる人を救おうと、神様はご計画されたのです。
 この最終手段の十字架は素晴らしいものでした。キリストは3日目に復活され、サタンのかしらが砕かれたとあります。動物のいけにえを罪を犯すたびにささげるのとは違い、ただ一度だけ、聖い神の小羊であるイエス様の十字架のいけにえによって、すべての罪の赦しとなるという計画を実行されました。
 それだけでなく、この十字架の救いによって信じるすべての人が救われるチャンスが与えられました。
 しかし、救われた人々は、まだ完全ではありません。まだ肉体を持っているので、失敗や罪を犯してしまいます。それに対して、神様は助け主として聖霊様をくださいました。聖霊によって、クリスチャンは勝利の生活に入ることができるのです。

4.ヨシュアとカレブの神への信頼の香り
 ヨシュアとカレブは素晴らしい信仰者でした。私たちの模範となるような人たちです。
 12人の人々が、40日間カナンの地を偵察に行きました。乳と密の流れる地でしたが、10人は、そこの住民は大きくて強いので、とても勝つことができないと、悪いうわさを流しました。 しかし、ヨシュアとカレブだけは、神様が共におられるから勝利が得られると、神様に従いました。しかし、この10人のためにイスラエルの民はまた荒野に戻ってしまうのです。
 私たちも試練にあった時に、これはもうだめだと、あきらめてひいてしまうということがあります。困難な時に、神様のお言葉と聖霊の励ましがないと、前に進めません。ヨシュアとカレブは、神様がついているので必ず成功すると信じ、キリストの香りを放ちました。

◎信頼を励ますみことば
 人生の中で今も苦しんでいる人がおられるなら、これらのみことばによって励まされていただきたいと思います。

*立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15b)

*しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ40:31)

*恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。 わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)

*それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。(第2コリント13:5b)

*神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31b)
 
 アメリカにケニー・グラーブという伝道者がいました。彼は宣教旅行で色々な町を家族とまわり、招かれて礼拝メッセージや集会をして、また次の町へ行くという生活をしておられました。
 ある時子どもたちがお腹が空いたということでレストランへ行きました。その時ケニー先生はなぜか食欲がなく、家族を残して散歩にでかけました。
 ちょうどその時アメリカのある婦人が、世をはかなんで自殺するつもりでいました。銃を持って死のうと思っている時、ちょうどテレビでクリスチャン放送が流れていて、このケニー先生のメッセージを聞いたそうです。
 その時、銃の引き金に手が行くのが止まり、「私はこのケニー先生に会って話を聞いたら死ななくて済むかもしれない」という思いが与えられ、「主よ、この人と会って話ができますように」と短く祈ったそうです。
 するとその婦人の思いに数字が思い浮かんできました。電話番号かもしれないと思い、その番号に電話をしてみました。
 ちょうどその時、ケニー先生が散歩していた場所の公衆電話が鳴りました。間違い電話だと思い、先生が電話に出てみると、その婦人は「実は、この牧師さんに会ったら死なないかもしれないと思って祈ったらこの番号が浮かんできたのです」と伝えました。そこでケニー先生がその婦人を励まし、自殺を止めることができました。
 先生はその電話が終わると、へたへたと座り込み、主は99匹の羊を残してでも1匹を救うために働いておられることを感じて心から感謝をささげました。
 神様に叫んで求めれば、神様は力強いお方で、必ず助けてくださいます。私たちも祈りによって神様に助けを求めることができます。いつでも神様は助けを与えてくださいます。

【デボーションポイント】
1)主が今日、私に語られていることは何でしょうか
2)自分はかおりを放つ者となりたいと願っていますか
3)私が今日から実行したいことは何でしょうか

【参考聖句】
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。(ローマ8:28)

 

 

 

 

 

■2022年8月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

忘れてはならない香り  up 2022.8.21


主題聖句(第1コリント11:23〜26)
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。


 

 

 

 

 今日のテーマは、「忘れてはならない香り」ということで、聖餐式について見ていきたいと思います。

 主題聖句(第1コリント11:23-26)は、聖餐式についてのイエス様のおことばを、使徒パウロがコリントの教会に手紙で語ったものです。

 イエス様は、「パンを食し、杯を頂くたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われました。パウロ先生は「主が来られるまで主の死(と復活)を告げ知らせなさい」と言っています。

 私たちにとって「忘れてはならない香り」というのは、罪の贖いを成し遂げられたイエス様への信仰によって私たちが義とされたこと、そしてイエス様のその動機は、神様の深いあわれみであるということです。それを私たちは忘れずに、告げ知らせていく使命を与えられているのです。

 再臨まで告げ知らせる

(1)打たれたキリストのからだ

(イザヤ53:4-5)
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」

(第1ペテロ2:24)
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 イエス様が背に打たれた39回の鞭、頭にはいばらの冠、両手両足に釘を打たれた跡、これらはイエス様のからだが打たれたことのしるしですが、なぜ罪のない御子イエス様がそのように打たれなければならなかったのでしょうか。

 (イザヤ53:4-5)には、私たちの病、痛み、私たちの背きの罪も咎も、私たちが本来負い担うべきそれらの荷物をすべて、イエス様が引き取り、代わりに背負ってくださり、代わりに神に罰せられ、打たれ、苦しんでくださったのだ、と記されています。

 そしてイエス様へのこの懲らしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒されたのだ、とも記されています。

 新約聖書では(第1ペテロ2:24)に、同じことがまとめられています。

 「打たれる」というのは、「罪に対する神の懲らしめ」の意味で、「身代わりに打たれたキリスト」というのは、本来は私たちが打たれなくてはならなかったのに、打たれなくて済むようにイエス様が身代わりに打たれてくださったということです。

 その結果、私たちは罪赦され癒され、平安を得ることが出来ました。

 イエス様のみからだを象徴しているパンを裂いて、一人一人がそれを食するという行為によって、私たちの重荷、罪、病い、苦しみをイエス様がすべて背負って十字架で身代わりに苦しんでくださったことをいつも思い出し、再臨の日まで告げ知らせること、それが私たちに与えられている使命なのです。

(2)キリストの血による新しい契約
 
 再臨まで告げ知らせる二つ目のことは、イエス様の血による新しい契約です。それを象徴しているのが、ぶどう汁で、当時はぶどう酒でした。

(エレミヤ31:31)
「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」

(へブル9:15)
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約の時の違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることが出来るためなのです。」
 
 モーセを通してもたらされた契約ではなく、別の新しい契約を与える、と神様はエレミヤに預言を与えておられます。それはキリストの血による新しい契約です。へブル書には、イエス様が、その契約の仲介者だと書かれています。新しい契約を結ぶために取次ぎをしてくださる方です。新しい契約というのは、救い主を信じれば罪が赦されるというものです。

 初めの契約は、いけにえ制度で罪が赦されました。ですから毎回動物のいけにえを捧げ、毎回動物の血を流しました。律法は、動物の血で一時的に人の罪を赦すことを認めますが、しかしそれは本来の赦しには至りません。本当の赦しは人の血で贖わなければならないからです。血を流さなければ罪の赦しはないのです。

 そして本物のいけにえであるキリストが来られて十字架で身をおささげになったことによって、動物のいけにえは必要なくなりました。ご自身の血で人々の罪を贖う本物のいけにえが実現したからです。

 一つの罪もなかったイエス様は、ご自分の罪ではなく、全世界の人々の罪を負って身代わりとなって、十字架でいのちを差し出されました。私たちのかわりに罪を背負って罰を受けてくださったのです。

 この方を信じることによって、新しい契約に入ることが出来る、と神様が約束してくださったのです。ですからイエス様にしか救いはありません。この方以外に私たちを救える方はいないのです。

 契約?守り続ける永遠の約束を誓うこと
 
 イエス・キリストが世に来られて、旧約聖書のモーセの律法を廃棄されたのではなく、キリストの十字架の死によって、律法違反の贖いのための死が実現したということで、律法は成就されたのです。
 
 モーセの契約は無駄になったのではなく、イエス様が代表して守りきったことにより役目を果たし、次の新しいキリストによる契約が成立したわけです。

  新しい契約?代価による罪の赦し

 神様がイエス・キリストを通して新しくお立てになった契約は、人が罪を犯しても救い続けることのできる契約であり、罪人がその罪を赦されて天国に行けるための新しい契約です。キリストの身代わりの死を信じる者は罪の赦しを受けるという、そういう新しい契約です。

 問題は「キリストを信じる」という部分です。これは神様とその人の間の問題ですから他人にはわからないことですが、最後の神様の審判の時に、それは明らかにされます。

 大事なことはあわれみ深くすることです。神様が私たちをあわれんで赦してくださったように、私たちもあわれんで互いに赦し合うことです。人を赦す、というあわれみの心が、キリストを信じていることの証拠です。キリストの香りです。

 キリストの香りは神のあわれみです。聖餐式をすることはキリストの香りを放つ原点といえるでしょう。

【デボーションポイント】
◎主の食卓にあずかるために
(第1コリント11:27-33)
「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
しかし、もし、私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によってこ懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世と共に罪に定められることのないためです。
ですから、兄弟たち。食卓に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」

 ふさわしくない→自分勝手なふるまいをする

   自己吟味→互いに深くあわれみ合う

 まわりの人によく気配りをし、互いにあわれみ合い、助け合い、赦し合う心を持って、一致して、主のみからだと血にあずかるようにいたしましょう。そうでない心があるかないか、自分を吟味することが大事です。

 みからだを砕き、血を流されたイエス様の十字架の御業は、神様がまず私たちをあわれんでくださった証しです。これが出発点であり、これが聖餐式の土台です。これを深く内側にもって聖餐式を受けることが必要です。

 私たちは神様によって深くあわれまれた者ですから、その大きなあわれみをいただいた者として、人をもあわれみ、赦し、そして相手がキリストの姿に変えられるように祝福することも出来るのです。

 互いに赦し合うあわれみ深い香りが満ちる聖餐式にあずかっていきましょう。

 

【短 歌】

あわれみを  放つ基は  聖餐式

 互いをいたわる  聖なる集い

 

 

 

 

 

■2022年8月14日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

神の時に応答する  up 2022.8.14


主題聖句(ルカ9:57〜62)
さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」


 

 

 

 

 毎年お盆の時期に学生のためのキャンプが持たれています。
 十代の時期に、神様のみことばに深く触れ、御霊の働きを体験することはとても重要なことです。それは、若さにはメリットがたくさんあるからです。大人は色々と難しく考えてしまいますが、十代のうちは、頭が柔らかく、純粋なので、神様の臨在を素直に体験しやすいのです。

 人の人生を100年とするなら、神様の招きに応答する時期が早ければ早い方が、それだけ長く神様と歩むことになりますし、神様のみこころのために生きることができるのです。

 今日のみことばであるルカ9:57ー62には、3人の弟子志願者が描かれています。イエス様について行きたいという意思表明をしていますから、ただの興味よりは、真剣だったと思われます。しかし、ここで神様のタイミングと人のタイミングのズレを見ることができます。

 一人目に対して、イエス様は、弟子としての歩みの険しさを強調しておられます。狐や鳥は自由奔放に見えて、帰って休む場所があるのに対し、人の子には枕する所もない、つまり人間的な安定さの保証は無いということを言われました。実際のイエス様は、マルタ・マリア姉妹のように、助けてくれる人々が周りにいましたので、寝る場所や食事にずっと困っていたわけではありません。栄光だけではなく十字架も通らないといけないということを教えておられるのです。イエス様がこのことを語られたのは、もしかしたら一人目の決意が甘かったのかもしれません。

 二人目は、ついて行く前に父を葬ることの許しを求めました。しかしイエス様は、それよりも神の国を広めることを勧めました。律法にも両親を敬うことの大切さを教えていますから、一見それに反するように見えますが、何よりも勝るのは神のみこころです。私たちは、神様の呼びかけに、つい言い訳をして自分のタイミングで応答してしまいますが、神様のベストなタイミングがありますので、それを逃さないように努めたいですね。

 三人目は、ついて行く前に家に別れを告げることを求めましたが、イエス様は、農具の鋤を例えに用いて、二心を指摘されました。鋤はスコップのように目の前の土を掘り起こす農具なので、前を耕しながら後ろを気にするのは、本来の決意が定まっていないということになります。

 旧約聖書に登場するイサクの妻リベカは、神様のタイミングにベストなタイミングで応答した人物の一人です。リベカが結婚する際、母親と兄が最後に10日ほど過ごしてから出発してほしいことを願いましたが、アブラハム のしもべが、アブラハム に報告するためにすぐに出発したい意向を伝えると、彼女はそれを受け入れました。この時のリベカの年齢は、十代と言われています。

 神様の時に応答するのは、この世の常識や価値観に影響を受けていると難しいことが多いです。ですから、若いうちに主に触れられることはとても大事なことなのです。また、実年齢的な若さの時だけでなく、霊の年齢が若いうちに主に触れられることも同じくらい大切です。つまり救われた時の初心に返ることで、神様との出会いの喜びが、自然と神様の時に応答できる心の柔軟さへと導くのです。神様の呼びかけに応答できるように、今週も神様に心を開いていきましょう。

 

 

 

 

 

■2022年8月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

平和を創る行動  up 2022.8.7


主題聖句(第1ペテロ3:11)
悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。


 

 

 

 

○平和を追い求めるとは平和を創る行動をすること
 今回のテーマは昨日の平和式典を見て、神様から導かれたものです。
口先だけの平和でなく、本当の平和を創ることは、世界情勢を見るまでもなく、身近な近所や家庭の中でさえ難しいことです。

 平和式典で小学6年生の子が発表した内容から色々考えてみます。

〈平和記念式典こども代表より〉
「本当の強さとは、違いを認め相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすることです。そして、自分も周りの人も大切にし、助け合うこと。平和な景色が映し出される未来を創るため、私たちは行動していくことを誓います。」

 子どもが語ったことばだからこそ納得しますが、大人が言うと、そんなことを言っていては世の中では生きていけないと思ってしまいそうなことばです。
 
 確かに誰が考えても、本当の平和とは、敵も味方も互いに大切にし敵をつくらないことが平和だと分かります。

 しかし、経済社会ではそんなことは難しいと大人は考えてしまいます。むしろお金や権力のためには利用し合う世界です。

 子どもが言うからこの誓いは本物に聞こえます。特に「平和な未来を創るために行動していくこと」は子どもの純粋な誓いであり、原爆を経験した広島の大人たちは、本当にこのことばのように行動してきたのか反省せざるをえません。

 私たちは実際の生活で、隣人とどう平和な生活に取り組んでいるでしょうか。

◎平和への行動(ルカ12:51)
「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」
 神を敬う敬虔な者は平和への行動をどのように行うのかを聖書から見ていきます。
 
 ルカのこの箇所では、私たちが平和の行動をするに当たり、覚悟すべきことが書かれています。

 イエス様は罪人を救うため、平和のために来られました。しかし、イエス様が来られてから、実は混乱、分裂が生じたのです。

 イエス様はユダヤ社会に、モーセの律法の正しい解釈、心を教えましたが、指導者達は自分達に都合の良い上辺だけの形だけの律法解釈をして、イエス様の教えを異端視しました。

 本当の平和のための真実をイエス様が語られたために分裂が起こったのです。
 
 平和を求めるための行動をすると反対者が出たり、無視する人も出てきます。

 一人の人が平和のための行動をはっきりさせると、周りから反対や何らかの主義主張が表れてきて、争いを仕掛けられたりすることも起きるでしょう。それは、自分たちの主張を曲げたくないからです。

 神を敬うのではなく、自分の存在を主張して自分を曲げようとしないのです。
 
 イエス様の教えは貧しい人々や弱い立場の人々には喜ばれ受け入れられましたが、権力者や富んだ人々からは迫害されました。彼らには都合が悪い教えだったからです。

 自分たちの今が豊かで権力がある立場を守りたいがために、彼らは争うのです。

 皆さんも、家庭や職場などで神様の愛を語り始めると、周りの人々は批判したり争いを仕掛けてきたりするでしょう。
 
○互いの主義主張によって、まず分裂が起きることをわきまえる。
 そういう人々を理解させよう、同じ考え方に引き込もうとしていたらつぶれてしまいます。

(ローマ14:19)
「そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」

 平和に役立つこととは争いを回避することです。更に、損得ではなく相互の建徳(道徳心を高める)を、お互いに求めていくことを目標にしたら、争いはなくなってきます。なぜなら、徳の高い人は争わないからです。

 平和に役立つこと→争わない、争い回避
 霊的成長→相互の建徳を求める

 「争わない」、「お互いの徳を高め合う」という二つが大切です。

〈デボーションポイント〉
◎敬虔な者の平和への行動
(第1ペテロ3:9)
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 これは競争社会では不可能なことです。負けたら終わりだと教わるからです。
 
 しかし、クリスチャンは神を畏れ敬っているゆえに、この真理が分かります。自分の信仰は世の中の教えとは違うという自覚を持たなければ、永遠の命を捨ててしまうことになります。
 
 争うと必ず呪いが出てきます。敵のみならず、自分をも滅ぼしてしまうのです。

 クリスチャンは決して争わないようにしましょう。互いに呪い合うことになるからです。むしろ、祝福することで、互いに高め合い、相手の人が祝福されて心を入れ替えるチャンスも与えられます。

 争いは互いを呪う→滅ぼし合う
 祝福は互いの徳を高め合う
 祝福→徳を高める→「隣人愛」

 互いに愛し合うとは祝福しあうことであり、徳が高められるよう相手に心を使うことです。私たちは祝福を受け継ぐために召されたのです。呪いは捨て去りましょう。

○祝福継承者とするキリストの救い

 祝福することを自分のモットーとしましょう。その訓練のために人生があります。

 ぜひ子どもの時から、この正しい価値観を身に着けさせましょう。そして、大人の私たちも、今日から新しくやり直すことができるのです。

【短歌】
祝福は 互いの徳を 高め合う
平和を創る 愛の行動

 

 

 

 

 

■2022年7月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

いやしの香り  up 2022.7.31


主題聖句(第1ペテロ2:24)
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


 

 

 

 

 キリストの香りはスピリチュアルテラピー

 今日は、キリストの香りは「いやしの香り」、私たちに霊的な面で、いやしをもたらすスピリチュアルテラピーである、というお話を致します。

 今日の主題聖句(第1ペテロ2:24)に、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。「キリストの打ち傷」というのは、十字架における罪の贖いの御業のこと、即ちイエス様が私たちの罪の身代わりに神様からさばきを受けられたことです。その「打ち傷」のゆえに私たちは罪の呪いから救われました。

 私たちの肉体は年老いて土に帰りますが、それと一緒に魂、霊までも滅ぶのではありません。イエス様の十字架は、魂の救いのための十字架です。ですから、肉体が健康であろうがなかろうが、大事なことは、私たちの内側が健康であるかどうかです。

 それを気づかせてくださるのが、イエス様の十字架の救いの御業である、ということが出来るでしょう。

(1)キリストの打ち傷
◎霊的病人→罪人→律法違反
◎霊的健康→義人→律法守る
 
 私たちは皆、神様の律法の違反者(罪人)であり、霊的な病人でした。イエス様が、私たちの罪の贖いの御業を成し遂げてくださったので、私たちは神の前に義(義人)とされ、神の律法を守り続ける者と造り変えられ、霊的に健康な新しい人生を与えて頂きました。

 私たちが守るべき神様の律法とは何でしょう。旧約聖書には沢山の戒めが書かれてありますが、イエス様はただひとつの戒めを与えてくださいました。

◎ヨハネ13:34
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 これは、キリストの律法と呼ばれ、「わたしがあなたがたを愛したように」と、ご自身をお手本として語られているのが特徴です。
 イエス様はどのように私たちを愛してくださったでしょうか。

★打ち傷=十字架(神の贖いの御業)=隣人愛
 神様は私たちを隣人とみなしてくださり、罪に苦しむ私たちアダムの子孫が、義人に立ち返るために、十字架で罪の贖いの御業を実現してくださいました。打ち傷とは隣人愛のしるしです。

(2)律法の中心
◎ガラテヤ5:14
「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」
 
 イエス様は律法学者の質問に対し、モーセの律法の中で大切な戒めは、「神を愛すること」と、「隣人を自分自身のように愛すること」の二つである、と答えられました。

 更に使徒パウロは、(ガラテヤ5:14)で、「神を愛すること」を省いて、律法全体を「隣人愛」の一語にまとめています。神の愛を知り神を愛する者は、隣人を愛するようになるからです。
 律法は隣人愛のためにある、といっても過言ではありません。

◎霊をいやす隣人愛
 律法(隣人愛)を守ると健康になる(霊がいやされる)、神の御教えを守る者は、エジプトに下されたような神のさばき、病の災いを受けることがないと、旧約聖書は教えています。「わたしは主、あなたがたを癒すものである」とも書かれてあります。

 律法を守れば(隣人を愛すれば)誰でも罪の裁きを受けなくて済む、永遠のいのちに至る、ということなのです。

 イエス様の贖いの御業を信じて救われた私たちは、罪を犯しても、神様の前に罪なき者、義人と見なされます。なぜなら、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の愛の律法に生きているからです。

 「日々の生活の中で失敗してしまうあなたの色々な罪は、イエス・キリストの十字架によって赦すから、あなたは隣人を愛する義人の道を熱心に歩みなさい」という新しいルールの中に私たちは入れられたのです。これは神様のあわれみと恵みです。

 クリスチャンの隣人愛は、神様に愛された愛で人を愛します。

 神様から罪の赦しという恩義を受けたとき、私たちの魂は感動し、その恩に少しでも応えたい、愛に報いたいという気持ちが自然に湧いてきます。神様に愛された愛に対する愛の応答です。

 人は愛する相手には罪を犯しにくくなるものです。罪を犯してもすぐ認めます。誠実に改めようとします。神様が罪人に望んでおられるのは、そういう愛です。罪を犯さない愛ではなく、神様の誠意あるおこころに応答していく生き方を神様は願っておられるのです。

 尊い神様の前に生きる日々を願っているので、愛する方の前で聖くありたい、正しくありたい、信頼関係を保ち続けるための努力をしたい、という気持ちが生まれるわけです。それが愛を受けた者の自然な応答なのです。

〇良きサマリヤ人のたとえ
 「良きサマリヤ人の話」(ルカ10:30-37)は、ある律法学者の「私の隣人とは誰ですか」という質問に対し、イエス様が答えられた例話です。強盗に襲われて道に倒れているユダヤ人を見て、サマリヤ人は、かわいそうに思って近づき、介抱し、必要なものをすべて与えて健康を回復するための手助けをし、完全に癒されるまでの費用も支払う約束をして去っていった、というお話です。

 イエス様は、隣人を愛するとはどういうことかを話して「あなたも行って同じようにしなさい」と答えられました。「誰が私の隣人か」というのは、隣人の条件や資格を定義する問題ではなく、あなたが決めることです、というのがイエス様の言わんとされたことです。

 サマリヤ人とユダヤ人は、社会的に敵同士の絶縁状態にあるお互いでありました。しかしサマリヤ人は瀕死の状態にあるユダヤ人を見て、助けようと決心して行動し、祭司とレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎました。どちらも自分が決断したことです。その決断をさばかれるのは神様です。

 私たちも誰が隣人かと決める際に、色んな考えや思い、感情、理屈をもって選び分けることがないでしょうか。私たちが隣人を決めたり、通り過ぎたりするのと同じ基準で、神様は私たちをさばかれます。 
 
 私たちは罪深いものであっても、私たちが人を赦せば神様も私たちを赦してくださり、私たちが人を憐れむなら神様も私たちを憐れんでくださいます。それでもどうしても赦せないと頑なに思うなら、その人は自分の罪深さを分かっていないのかもしれません。

 人を憐れむことは難しいことではありません。ちょっと視点を変えるだけで相手に対する気持ちは変わります。一つの考えに凝り固まらないようにしましょう。世の常識や多数決に影響されず、聖書のおことばの真理に心を向け、知識を向け、深く理解していくことが必要です。

〇互いの隔てがいやされる
 このサマリヤ人はユダヤ人との間に隔ての壁があったにも関わらず、隣人愛を優先したことによって、人種的差別が取り除かれ、いやされました。ユダヤ人はいのちを助けられ、深く親切にされたことで、民族的偏見・敵意が取り除かれたに違いありません。
 私たちも色んな条件で人を差別して、人から愛されたいという利己的な考えがいつの間にか身に着いていませんか。聖書は、自分を大事にしたいなら隣人を大事にしなさいという霊的法則を教えています。

★弱い者のために隣人となれ
 隣人愛は、経済的にも健康面においても、自分と同じくらいにまで弱い相手の回復を願います。更に自分よりもっと健康になってほしい、自分よりもっと良い生活をするようになってほしいと思えたら、もっと優れた隣人愛ではないでしょうか。そういうことに価値を見いだす人は、神様を信じ畏れる心を持った人であり、必ずキリストを信じることができるようになります。

【デボーションポイント】
◎私たちの求められている神の完全さを考える

(マタイ5:46-48)
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 「完全」とは、どんな人に対しても、あなたの周りにいる隣人となり得る人々に対して、隣人愛を示していくことです。それが私たちの目指す「完全」です。

★律法の中心とは何か?

★新しい戒めとは何か?

 これを是非皆さん悟ってください。不可能なことではありません。神様の持っている完全さを、私たちは身に着けることが出来るということに気付いて頂きたいと思います。

【短歌】

お互いを  大事に思う  隣人愛
たましいいやす 聖なる奥義

 

 

 

 

 

■2022年7月24日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

神の望まれるかおり  up 2022.7.24


主題聖句(第1テサロニケ5:16〜18)
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


 

 

 

 

 今回は、第一テサロニケ5:16〜18のみことばから学んで素晴らしいクリスチャン生活を目指していきたいと思います。この3つのポイントをクリスチャンがいつも心がけて生活しているなら、キリストの良き香りを放つことができると信じます。 

1.いつも喜んでいなさい
 悲しい時や辛い時に普通は喜べません。しかし、どんな時でも喜んでいなさいと神様は言われています。悲しんではならないのではなく、回復することが大切です。クリスチャンには、喜ぶことのできることがたくさんあるのです。
 世の中の人は、天地を創られた神様が、私たちを愛しておられる父であるということを知りません。また、私たちのために十字架にかかって救い主となってくださったという素晴らしいことを知らないのです。 この神が愛の神であり、私たちを愛し心配してくださっていることを知らないのです。ですから、知っている私たちはそのことを喜ぶことができるのです。
 今日、私が生かされていることは奇跡です。今日の一日というのは神様のあわれみによって与えられているのです。与えられている命は喜んでいいことなのです。
 また、私たちは死んでも生きるという永遠の命の約束をいただいているのです。どんな宝にも勝る永遠の命をいただいているのです。しかも、私たちは何の努力もせず、一方的な恵みによって与えられたものです。良い行いをしたからではなく、罪人であった私たちが、神様の一方的なあわれみによって救われたのです。
 もう一つの喜びは、聖霊様です。私たちの内に、愛であり希望であり命である神様が、いつまでも共にいてくださるのです。これは誰にも与えられる恵みなのですが、受け取る人は幸いです。
「主を喜ぶことこそ、あなたたちの力の源です。」(ネヘミヤ8:10)
 喜ぶと力が出ます。悲しんでいると力が出ません。私たちの内に力の源があるのです。

2.絶えず祈りなさい
 絶えずとは、やめないで、あきらめないでという意味です。祈りはクリスチャンの呼吸です。呼吸が止まったら死んでしまいます。
 祈りは、内におられる主と交わる時です。会話をする親しい交わりの祈りがあります。また、悔い改める祈りがあります。感謝と賛美の祈りがあります。とりなしの祈りもあります。
闇の力に対する戦いの祈りもあります。
 また、祈りは神様の前に出て重荷を下ろすものです。重荷をゆだねるという他の国の話を聞きました。あるタクシードライバーが田舎の方までお客さんを乗せて行きました。お客を下ろして帰る途中に、ある年配の女性が大きな荷物を頭の上に乗せ、誰もいない道をとぼとぼと歩いていました。タクシードライバーは気の毒に思い、「もし良ければタクシーに乗ってください」と声をかけました。「でも、お金がありません。」「帰り道なので、お金はいりません。どうぞ乗ってください」とやりとりをし、彼女はタクシーに乗りました。しかし、ドライバーがバックミラーを見ると、彼女は頭の上に荷物を乗せて座っていたのです。重荷を下ろしていなかったのです。「どうぞ荷物を下ろしてください」「私を乗せてもらうだけでもありがたいのに、荷物まで運んでもらっては」と遠慮していたというのです。
 私たちも神様の前に祈り、重荷をゆだねます。しかし、全部ゆだねないで、「これだけは自分でがんばらなくては」とゆだねないでいることがあります。気を付けましょう。
 また、「ながら祈り」というのを練習しましょう。何かをしながら祈るのです。例えば、台所仕事をしながら、掃除をしながら、散歩をしながら祈ることができます。私たちは、何かをしながら絶えず祈ることができるのです。
 会話の祈りができたら、それはとても楽しいことです。ある年配のご婦人がこう言われました。「一人暮らしでさみしいけれど、食事を終え片付けを終えて、テーブルに座り聖書を開いて『主よ。』と一言祈る時、本当に喜びと平安が来て、ほっとする最高の時間です。」この言葉を忘れることができません。
「あなた方が信じて祈り求めるものなら、なんでも与えられます」。
(マタイ21:22)
 何でもできる神様です。これは無理だろうと思うことも、神様にはできるのです。疑わずに信じるなら、また悪い動機で願うのでなければ、神様はそれをしてくださるのです。

◎主の祈り(イエス様が教えられた祈り)を祈る
*天にましますわれらの父よ→祈りの対象は神様です。
*御名があがめられますように→最大限の尊敬と服従を表す言葉です。
*御国と御心を求める祈り→神様のご支配が天であるように、地上でもあるように、平和を求める祈りであると思います。
*日用の糧を求める祈り→飢餓のない世界を求める祈りです。
 毎年一千万人が飢餓のために亡くなっています。私たちだけではなく世界の人々に与えられるように祈りましょう。
*隣人を赦すように、自分の罪を赦してくださいとの祈り
 →争いのない世界のために必要な祈りです。
*試練と悪からの救いを求める祈り→闇の力の誘惑から守ってくださいという祈りです。
*栄光を父に帰する祈り→主の主権を告白しています。
 主の祈りは、すべてのことがまとめられている素晴らしい祈りです。 
3.すべてのことについて感謝しなさい
 すべてのことを感謝しなさいと言われています。感謝できないような悲しい出来事、辛い出来事があっても、なぜ感謝することができるでしょうか。これはクリスチャンにのみできることです。十字架の救いがあり、愛の神がおられることを信じているので、感謝することができるのです。ここに秘密があります。愛の神様がすべてのことをご計画しておられ、今の出来事の先に神様の祝福を用意しておられると信じることができるので、私たちは感謝することができるのです。すべてを益と変えてくださる神様を信じることが必要です。
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5:20)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召されて人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださること、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
 すべてのことを益に変えてくださる神様がおられるから、感謝することができるのです。
 感謝ノートを書くことをお勧めします。自分が神様にいただいているすべての恵みをノートに書いて、それを読み返すなら、こんなに私は恵まれて祝福されているのに、悪いことにだけ目を留めて不平を言っている自分に気が付きます。ぜひ感謝ノートを書いてください。感謝があふれる時に、神様をあがめることができます。

4.これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです
 キリストがこの世に来られ、十字架にかかって死んでよみがえられ、永遠の命が与えられたゆえに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝ができるのです。このことが周りの人々に対して、キリストの良き香りとなっていくのです。

【デボーションポイント】
1)主が今日、私に語られていることは何でしょうか。
 夏期聖会で教えられた、飢え渇いて求めること、隣人の徳を高めるために自分がまず喜んで、祈りと感謝で満たされた人になることがポイントだと思います。

2)私は喜び・祈り・感謝の人となりたいと願っていますか
 願いがなければ求めません。飢え渇いて求めなければ得ることができません。いつも喜び絶えず祈りすべてに感謝する成人となることを主は願っておられるので、求めましょう。

3)私が今日から実行したいことは何でしょうか
【個人的に、喜び・祈り・感謝をしましょう】
 今日からやってみようと決断することです。まずは喜び・祈り・感謝のうち、どれか1つでも決心してやってみましょう。

【参考聖句】「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:15)

 

 

 

 

 

■2022年7月16,17,18日 夏期聖会メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

終末のクリスチャン  up 2022.7.18


主題聖句(使徒20:35)
このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。


 

 

 

 

7月16日(土)  
第一聖会
主題聖句
「終末のクリスチャン」
 〜受けるよりは与える方が幸いである〜(使徒20:35)

 この聖会で、私たちは聖霊様の霊的な祝福が受けられるよう導かれています。
 創世記の天地創造の時、地がどのような状態であったかが、1章1〜2に描かれています。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠(ぼうばく)として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」
 
 茫漠(ぼうばく)という難しいことばは、何も整えられていない散らかった部屋のような状態を表しています。
 神様は回復される方です。アダムの子孫が外れた道を歩んでしまっていても、それをもとの神様のご計画の位置に戻してくださいます。最初からすべてが整っているわけではありません。茫漠とした私たちの心に神様の方から「光あれ」と回復を与え、一から神様の御心に創造し直してくださるのです。
 ミケランジェロの「最後の審判」の絵をご覧ください。私たちは終末のクリスチャンですから、どうあるべきかを考えていきます。

◎終末のクリスチャン
「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)
 このポイントに絞って、考えてみたいと思います。キリストの再臨と白い御座の裁きが、世の終わりのしるしです。この終末を生きるクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。

◎終末のクリスチャンには飢え渇き(求道心)が重要!
 これが何よりも重要なことです。みなさんは飢え渇きの状態に陥ったことがあるでしょうか。
 日本は自販機がたくさんあり、渇くことがありません。しかし、インドに行ったときは飲める水がなく、5リットルサイズの入れ物に水を入れて、しかも何本も抱えて旅行をしなければなりませんでした。飲みたい時に飲める国はほとんどありません。このような恵まれた環境では飢え渇きがわからないと言えます。

(黙示録22:10〜21)
「また、彼は私に言った。『この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。』『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。』自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。『わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。』御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」
 この箇所を読んで、飢え渇くことの大切さが伝わったでしょうか。
私たちは満たされることに慣れ過ぎていないでしょうか。飢え渇く心を持って、主よ来てくださいといつも求めていくことが、終末のクリスチャンに必要なことです。
★湧き上がる求道心をもつ
 聖書から6つの例を挙げます。

1)アブラハム→家族、親族の救い
 甥のロトとその家族を救うために彼は必死でとりなしました。まずは50人の正しい人がいたらその町を滅ぼさないようにから始まって、10人までとりなしました。
 まず私たちが飢え渇きをもって主に祈り求めるのは、自分の家族や親族の救いのためです。私の両親は40年かかりました。家族の救いに関して真剣に祈っていけば、必ず飢え渇きがやってきます。

2)選民→奴隷生活からの解放
 エジプトで奴隷生活を強制され、イスラエルの民は苦しみの中から真剣に助けを祈り求めました。私たちは罪の奴隷の生活に安住していたら、永遠の滅びに行ってしまいます。罪の力から解放されたいと真剣に自分の人生について考えるようになったら、飢え渇きがやってきます。

3)ダビデ→罪責感とあわれみ
 ダビデはすべてが順調にいきましたが、大きな罪を2つ犯しました。部下の妻を自分の妻とし、その夫を殺すという殺人と姦淫の大きな罪を犯したのです。彼はその罪を預言者ナタンから示されて、自分は死に値するという大きな罪責感に責められました。その中で、神様のあわれみを求めて真剣に祈り求めたのです。神様に許していただくまで、心は攻め苛まれます。罪を許す権威を持たれているのは神様のみだからです。罪を責められ、罪を認めるということは、主のあわれみを受けるために必要です。
 
 ダビデのように、自分の罪深さを感じ取り、真剣に神様のあわれみを求めて祈りましょう。大した罪ではないと悔い改めることなくクリスチャン生活を長年送ってしまったら、心がいつの間にか虚しさでいっぱいになってしまいます。

 今、罪意識のある人は早くダビデのような気持ちになって、主の赦しを祈り求めましょう。罪は癌のようなもので、ついには死に至るからです。

4)ソロモン→使命のための知恵
 彼は生まれる前から大きな使命を神様から与えられていました。それは、王国を確立し、偉業を成し遂げるということでした。そのために彼は知恵を求めました。民を治めるために、神様に知恵を祈り求めたのです。
 あなたもクリスチャン生活を正しく治め、光の国、神の国として治めていくために、神様に知恵を求めましょう。求めるなら与えられます。これが神様の約束です。
 自分の人間的な知恵の限界を知り、神様の知恵を求めましょう。クリスチャン生活に行き詰まりを感じている人は真剣に祈り求めましょう。そうすれば神様の知恵により祝福された人生が送れるようになります。

5)ネヘミヤ→破滅からの回復
 彼は故郷であるエルサレムが、破壊されてそのままであると聞いて嘆きました。
 そして、この破壊された状況から、神様になんとかしてくださいと祈り求めたのです。
 長いクリスチャン生活で、堕落したクリスチャン生活を送ってしまっている人がいるかもしれません。それがノンクリスチャンよりもひどい状態であっても、神様には回復してくださる力があるのです。
 神様はエレミヤに、70年経ったらという回復の預言をしてくださっていました。そしてネヘミヤを通して、その預言を実現されたのです。
 あなたは神の宮です。信仰生活が例え破壊されていても、必ず建て直し、回復させてくださると信じて祈り求めてください。神様には不可能はありません。

6)ダニエル→幻の解き明かし
 彼は色々な人の幻を解き明かしました。しかし、解けない幻が来た時、断食をして解き明かしを求めました。
 大事な幻は与えられてもすぐには意味が分かりません。それは解き明かしを求めて、主を呼び求めることの大切さを教えるためです。それこそ主が私たちに求めておられることです。
 問題が起きるということは、神様がもっとご自身に近づき、飢え渇いて神様ご自身を求めるよう、私たちに願ってくださっているからです。

〈与えるための準備〉
1)(詩篇81:10)
「わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」
 奴隷の状態から解放されたことで満足せず、さらに大きなビジョンを求めましょう。大きく幻を描くことが大事です。あなたの持っている信仰に応じて、大きく口を開けて求めましょう。神様は満たしたいと願っておられます。神様は不可能を可能にしてくださる方です。

2)(第2コリント9:8〜11)
「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。『この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。』と書いてあるとおりです。蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」
 一度にたくさん与えられるのではなく、まず種を与えてくださり、少しづつ増やしてくださるのです。日々の積み重ねが大切です。霊的な法則も自然界の法則と同じで、段階を得て成長し、少しづつ増し加えられていきます。現代社会のように時短を求めては、結果はでません。

〈実現する法則〉
1)(マタイ7:7〜11)
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
 
 諦めないで求め続け、捜し続け、たたき続けることが大切です。それが忠実さであり、天に宝を積むことになります。死ぬまで求め続け捜し続けるという誠実さを神様は見たいを願われています。
 艶子先生は最後まで癒やしを求め、愛と信頼を神様に持っておられました。神様への忠実さは諦めないことです。

2)(マタイ15:21〜28)
「それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。『主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。』しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、『あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。』と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません』と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください』と言った。すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と言われた。しかし、女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。』そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。』すると、彼女の娘はその時から直った。」
 
 どんなに否定的な状況が起き、否定的なことばが返ってきても、前向き肯定的に受け止め返していくと、その願いはかなっていきます。これが実現する法則の2番目です。
 イエス様はこの異邦人の女の信仰を試されました。本当に娘の救いのためになら、自分は死んでもいいというほどの真剣な心かどうかを試されたのです。彼女はイエス様のおことばに少しもつまずきませんでした。
 すべて神様は良しとしてくださるということを信頼し、少しの可能性にでも目をとめて前向きに解釈していく姿勢が、実現する秘訣となります。

〈応答の時〉
★あなたが目指す与えるための決勝点とは何か?
 与えるということの目的、ゴールは何でしょうか。何を期待しているのでしょうか。
 私は人々の心が癒やされるよう願ってギターを始めましたが、神様への賛美を通して人々に癒やしや解放を与えられという結論にいたりました。
 ゴールのない競技は虚しいですし、あり得ません。あなたのクリスチャン生活のゴールは何でしょうか。

★具体的に、どのように目指していくのか?
 私は人々の心が癒やされるという決勝点があったので、救われてから、賛美が効果的だというプロセスを通して今に至っています。そのために様々な国の賛美を聞いてみたり、日本人に合う礼拝賛美を選んだりしています。
 
 まずは、自分のゴールが何か、ビジョンが何かを求めて、一つ一つ準備をしていきましょう。

7月17日(日) 
第二聖会 
「信仰(霊)の成人者であれ」
主題聖句
(第1コリント13:11)
「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」
 世の終わりを迎えるにあたって、クリスチャンは絶対に開き直ってはいけません。少しでもチャンスがあるなら、世の終わりに対するクリスチャンとしての態度を立て直していくことが必要です。
 
 そこで、今年の夏期聖会は、『終末のクリスチャン』(受けるより与える方が幸いである)というテーマの下に、第一聖会では、「終末のクリスチャンには、飢え渇き(求道心)が重要である」というお話を(黙示録22:10-21)から致しました。 今日の第二聖会は、「信仰(霊)の成人者であれ!」と題してお話し致します。
 信仰という言葉の中には、神様を畏れ敬い愛する気持ちと、そして、神に対する望みを持ち続ける心が含まれています。そして、信仰には成長の段階というものがあります。ですから、「信仰の成人者であれ」(大人になりなさい)というのが、今日の第二聖会のメッセージのテーマです。

1)子どものことをやめる(箴言21:25-26)
「なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。」
 子どもの頃は、無責任に好きなことばかりしているものですが、そのまま大人になったのでは、働きたくない怠け者、一日中自分の欲望に明け暮れしている人となり、それは自分の身を滅ぼしかねません。大人というものは、社会的責任を果たし、仕事にも責任を持ち、家族や家庭を責任もって養い、子どもを愛して善悪のけじめをきちんと教え育てていくものです。
 クリスチャンも、神の戒めである聖書に対して、わがままにふるまう自己中心的に生きる時期、また霊的反抗期というような時期があるかもしれません。しかし、そのような子どもの時期はいつか終わり、霊的に大人の領域へと進むのが、霊の成長です。
 
 霊的に大人の信仰者は、善に親しみ悪から離れるというみことばを受けとめることができます。多少のわがままが残っていても自制する力があります。罪を犯せば良心に咎めを感じます。
 そして「正しい人は人に与えて惜しまない」と箴言が語るように、自分のことだけでなく隣人のことも思いやり、夫や妻、子ども、両親、兄弟、友人、近所の人、会社の同僚など、周りの人々に心を向けることが出来、「人に与えて惜しまない」という人間関係を築くことが出来るようになります。
 子どものことをやめましょう。今何をすべきかの優先順位を理解しましょう。
 子どもから大人へ移行する時に、思春期、反抗期と言う時期があります。自分を見つめ問いただし、自立に向かう時期です。霊的にもそのような時期があり、神様に背を向け、教会から離れるようなことがあるかもしれません。しかし、幼いころから信仰をはぐくまれてきた者は、社会の中で罪の自分に気が付くとき、その怖さを知って、必ず神のもとに帰ってきます。

2)「与える」について
 与えることは、施すこと。施すことは相手に関与すること。関与するとは関係を持つこと。すなわち、交わりを持つことです。
 これら全部の意味を表すギリシャ語として「コイノニア」という言葉があります。英語では「フェローシップ」と言います。単に与えるだけでなく、関与する、相手の人生や存在に関わりを持っていく、そういう交わりの「コイノニア」(フェローシップ)です。
 この交わりの関係を表したみことば(第1ヨハネ1:3)を、私たちは教会のモットーとしております。
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 コイノニアとしての関わり合いが強すぎて、それが未信者の方には入りにくい壁となることもありますが、逆に、世の中にはない、神様が願っておられる互いに愛し合うという交わりに魅かれる方々もおられます。いずれにしても私たちは互いに関与し合い、与え合う交わりの関係を作りだしている教会として「ジーザス・フェローシップ広島」という名前をつけております。

◎幸いを生み出す
 この「コイノニア」の交わりを通して、幸いを生み出すということをイエス様は語られています。

◎天に宝を積む(マタイ19:21)
「イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい。』」
 多くの財産を持っていた青年に、イエス様は、地上に宝を積むのではなく、天に宝を積むことを教えられます。
 与えること、施すこと、それは楽しみであり喜びです。天に宝を積むという幸いを得ることです。

◎交わりの回復(ルカ19:8)
「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」
 ザアカイはお金しか頼るものが無いというような状況の人でした。心と心の交わりの出来る人がいませんでした。しかし、イエス様が来られ、交わりをもってくださったとき、神の国を受け入れることが出来ました。交わりの回復を実現する決心ができました。貧しい人に施しをし、だました人たちに償いをする、これはザアカイの心に神の国が訪れたしるしです。
【応答の時】
◎全ては神からの賜物
(第1コリント4:7)
「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」
 私たちは神様からすべてを与えられています。いのちも、からだも、存在そのものも、天地宇宙すべて、すべてを神様がお造りになり、私たちはただ全てを頂いたものです。全ては神様からの賜物であることを心に刻んでください。
 物質的賜物(物、食料、お金など)、精神的賜物(励ます、親切、赦しなど)、霊的賜物(神様についてのこと)、どんな賜物を皆さんはいただいていますか?それぞれについて考えて、気が付いたら、次の使徒3:6-8)にチャレンジしてみましょう。

◎(使徒3:6-8)の実践
「すると、ペテロは『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入っていった。」
 
 ペテロとヨハネが持っていた一番価値あるもの、そしてこの人に必要だったもの、それは神の力、救い、癒しです。
 クリスチャンしか与えることの出来ないものがあります。イエス・キリストです。復活のいのち、永遠のいのちです。これを与える者になりたいと思いませんか。それにはまず私たち自身が、そのいのちをあふれるほどに頂くことが大事です。
 世の終わりのときには、神の救い、神の力が絶対に必要になります。今、そこに向かっている今こそ、自由に求めることの出来る今この時に、神様のいのち、力、恵みにあふれる体験をして、多くの人々に分け与える者になりましょう。

7月18日(月) 
第三聖会   

「隣人の建徳の為に与えよ!」
主題聖句
(ローマ15:2)
「わたしたちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
 
 自分を愛するように隣人を愛するとは、自分を一番大事に思うように、隣人をも大事に愛することですが、それは相手の欲するままに応えて喜ばせることではありません。

 聖書で言う喜びというのは、心から湧き上がってくる平安と感謝であり、満ちあふれた魂の喜びです。それは徳が高められる喜び、そしてそれがその人の真の益となることなのだと、(ローマ15:2)は教えています。

◎終末のクリスチャンは、隣人の建徳を願っていのちを与える。

1)愛は人の徳を建てる
(第1コリント8:1)
「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

◎建徳の実は御霊の9つの実
(ガラテヤ5:22-23)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
 聖霊様があなたの内におられるなら、このような徳の高い9つの人格的な実を結ぶように、あなたに働きかけられる筈です。

 御霊の実は素晴らしいのですが、御霊の実よりも先に誘惑がやってきて、欲望が実を結ぼうとするので、その葛藤で心は大変苦しみます。

 しかし、御霊の実が実って強くなると、どんなに貪欲が強くても、それを自制しコントロールすることができるようになります。御霊の実は欲を消してしまうものではありません。欲望を健全な状態にとどめる力を与えてくれるのです。
 
 人に欲求がなくなると、向上心がなくなり、せっかく与えられた命を楽しむこともできなくなります。神様は私たちが楽しむことを喜んでくださっているのです。自制心をもって欲求を満たすならなら、それは罪ではありません。
 
 御霊の実を結んで徳を建て上げていくことを願って、聖霊の満たしを求めて参りましょう。

◎愛するとは人の徳を高めること
 親は、子を愛し、子が自分よりさらに徳の高い人になることを願って、時間を与え、お金を与え、労力を与え、知恵を与え、知識を与えて、与えつくすようにして子育てをします。

◎建徳のために仕える=聖い奉仕
 私たちは、愛する人の建徳のために仕えます。奴隷になるのではありません。聖い奉仕です。
 
 神様は私たちを愛して、私たちの徳が高められるようにと、私たちに色々な恵みを与えて仕えてくださっています。私たちは、すでに神様に愛されて沢山の恵みを頂いたので、それに応答して、感謝と喜びをもって自発的に神様に奉仕するのです。順序を間違えてはいけません。私たちが何か奉仕したから、神様に何か良いものを頂けるのではありません。

2)建徳のためにいのちを費やす
(第1ヨハネ3:16)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 
 「いのちを捨てる」というところを、「いのちを使う」という意味に考えてください。イエス様は、ご自分のいのちを、愛する者のために使ってくださいました。すなわち、私たちの罪の赦しのための代価として、また、私たちの徳が高められるという願いを込めて、イエス様は十字架の犠牲となるまで、いのちを使ってくださいました。

 そこまでして私たちに、神の子としての人生を与えてくださろうとする愛、神の善意を知ると、私たちの心の中に自然と、私も神の子としてやりなおしたい、そして良い行いをしたいという気持ちが湧き上がって来ます。愛がわかると、心が聖められて、正義、聖さ、良い行い、公平など、すべての良きことに対して、それをやっていきたいという意欲がわきあがってくるのです。それが徳が高められている状態です。

 ただし、そこに逆方向に働くのが、世の誘惑であり貪欲です。それに勝つためには、神様の愛を更に更に知っていくことが必要です。

◎建徳のためにいのちを捨てる
(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
 
 「いのちを捨てる」を「死ぬこと」に限定しないで、友のために、いのち(時間や自分の持ち物など)を使い、与え、関わりを持つことによって、友が徳を高められ良い人にかえられる、そのように友のためにいのちを費やすこと、それもいのちを捨てるような大きな愛ではありませんか。

 自分のためにいのちを使うことが自己中心、人のためにいのちを使うことは隣人愛です。人のために実際に死ぬわけではありませんが、自分を無にして、時間や、財産や、色んなものを費やして、相手の徳を高めるように関わり(交わり)を持っていくのですから、それも自分を捨てて友を愛する隣人愛であることがわかるでしょう。

 愛することの目標は、相手の人格が清められ高められることです。欲を満たしてあげることも大切ですが、それは一番に優先させることではありません。間違った世の風潮には気を付けてください。

 良い道徳心を得させ、神を畏れる心がその人に建て上げられていくように関わる、これが本当の意味でその人を愛する聖い愛です。

【応答の時】
終末のクリスチャンとして人のためにいのちを使うとき、私たちがすぐにでも出来ることはどんなことがあるでしょうか。

*困っている人を助ける
 困っている人を見たら、助けてあげたいという気持ちがおこります。その時はぜひ行動に移してください。

*隣人の幸せを本気で願う
 相手が良い状況に変えられることを本気で願います。そのプロセスにおいて、自分の内側に起こる否定的な思いや感情、葛藤に気付かされますが、神を畏れるゆえに、それを捨てることができます。そして本気で他人の幸せを願うことが出来るようになります。

*隣人を諭し導く
 見て見ぬふりをしないようにしましょう。隣人が悪から離れるように諭し導くというのは、強引に引っ張っていくのではなく、一歩一歩、共に歩むことです。

*掃除、寄付、笑顔から始めよう
 他人の徳が高まるための一番身近な行いです。心からのへりくだり、謙遜、救いの喜びをもってチャレンジしましょう。

◎終末のクリスチャンは、隣人の建徳を願っていのちを与えます。
 人々の徳が高められれば自然とイエス・キリストを信じる心が備えられ、救いへと導かれていくでしょう。
 
 教会に来れば徳の高さに触れられて、求道中の魂が平安と安心感を与えられ、神のことばが素直に入っていくようになるでしょう。

人々の徳が高められることを願って、あなたのいのちである時間や持ち物を用いて、ぜひ隣人の徳が高められるように色々考え工夫し歩んで頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

■2022年7月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神が求めておられる香り  up 2022.7.10


主題聖句(ミカ6:8)
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。


 

 

 

 

 神様が私たちに求めておられる歩みは、「ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むこと」であり、それはイエス様が実行された歩みでもあります。

 私たちは神の前でかぐわしいキリストの香りです。神様が、好まれるというだけでなく、「求めておられる香り」として、今日は(ミカ6:8)を見ていきたいと思います。

1.公義を行う

◎(Tヨハネ5:3)  
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 「命令」が強制的に感じられて負担になるのは、出来ないからというより、したくないという動機の場合が多いかもしれません。

 しかし、自分が愛し尊敬する方の命令であれば、喜んで受け止めることが出来ます。愛してくださる方に対して私たちも愛で答えたいと思うからです。互いに愛し合うという関係が成立しているからです。

 神様が私たちに語ってくださっている聖書を、読むのが負担だと思うなら、神に対してあなたはどのような気持ちをもっているのでしょうか。愛でしょうか。それとも「私の思い通りにして下さる神様だから」という御利益的な動機でしょうか。

 私たちは、「神様の思い通りのことをしたい」という気持ちをもって神様を愛している者です。そのことを前提として、公義について見ていきましょう。

 公義とは、社会生活をしていく上での道義(当然するべきこと、してはいけないこと)、社会人(国民)としての義務、すなわち憲法を守ることです。ユダヤ人にとってはモーセの律法を行うことでした。クリスチャンにとっては、イエス様のみおしえを行うことです。

 イエス様は、旧約聖書にある神様の沢山の教えを、二つの大事な戒めにまとめられました。それは、神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することです。

 ですから、隣人愛(お互いの存在を大事に扱うこと)は公義を行うことなのです。

2.誠実を愛する

◎(第2コリント1:12)
「私たちがこの世の中で、特にあなた方に対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心の証しすることところであって、これこそ私たちの誇りです。」

 「誠実」と訳されているヘブル語の語源は、「信心深さからの親切な心」という意味を表しています。また、「恵み」と訳されるヘブル語も、「誠実」というヘブル語と同じなのです。

 「誠実」と「恵み」が、なぜ関連があるのかを見てみましょう。

 「信心深さからの親切な心」というのは、慈しみ深さのことです。「慈しむ」とは、相手を愛すること、相手を大事に扱うことですから、「誠実」とは、神を信じ畏れて、嘘偽りなく真心から相手を大事に扱うことです。そのような慈しみ深い行動は、即ち「恵み」を施すこと(見返りを求めず一方的に与える愛の行動)ということになります。

 私たちは恵みによって救われました。神様が一方的に私たちを慈しみ、大事に思う気持ちから、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに罰して、私たちが罪のために永遠の滅びに行かないで済む、という救いを与えてくださいました。
 そのように差し出された救いの恵み(プレゼント)を、私たちはただ受け取るだけで(信じるだけで)救われるのです。愛があって、慈しみが生まれて、施すという行動が生じ、それを恵みとして受け取る、という流れです。
 
 愛されることは恵み(親切)をそそがれていること、愛することは恵み(親切)を施すことです。神様を敬い愛する者は、誠実で慈しみ深い性質が私たちの中で生まれ育っていきますので、神様が私たちを赦してくださったように、私たちも互いに赦しあうというゴールに行きつくことが出来るのです。

3.へりくだって神と共に歩む 

◎(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 へりくだって神とともに歩むとは、神(キリスト)に仕えることです。良心がきよめられると、私たちは自ずと自然にイエス様に仕えていきたい、奉仕していきたい、イエス様の喜ばれることを選んでいきたい、という気持ちが湧き上がってきます。

 神の愛が結ぶ実は、罪の赦しという恵みです。神の愛が信じられない人は、罪の赦しを信じることも出来ません。神がどれほど私たちを愛してくださっているかということを魂で感じ取る時、罪が赦されたことの喜びや感謝が自然と湧いてくるのです。

 私たちは、たくさんの経験や失敗や喜び楽しみ悲しみを味わっていく中で、神様の愛の深みを段々と悟っていくことが出来ます。

 聖餐式は、神の愛を実感するためのセレモニーです。 
 パンは、イエス様が私たちの罪のために十字架でみからだを砕かれたことの象徴です。イエス様が流された血は契約のしるしです。

 イエス様は天でご自分の血潮を父なる神様の御座の前に出して、「父なる神様、この血のゆえに、あなた様は彼らをお赦しくださいましたね」と契約をいつも差出しておられます。

 私たちは契約を守りきれない罪人でありますが、それでも契約を守り続けてくださるのが、神様の「誠実」です。

 この神様の愛を皆さんはどのように受け止められますか。


【短歌】

赦される  愛の恵みは  聖餐式

 心ふるわせ  さんび捧げる

 神様の愛は赦しの愛です。それを忘れることがないようにと、砕かれたイエス様のみからだを象徴するパンと、罪の赦しのためのイエス様の血潮を象徴する杯をいただくことを、イエス様の再臨の日まで続けなさい、と言われたのがこの聖餐式のセレモニーです。

 そのパンを食べ、杯をいただくたびに、イエス様が十字架で私たちの罪の為にみからだを砕かれたこと、頭にはいばらの冠、背中には鞭うたれた傷、両手両足にはくぎの跡、脇腹には槍で刺された跡、その痛み苦しみは全て私たちが受けるはずの刑罰を身代わりに受けてくださったものです。それを思い起こして心ふるわせ私たちは賛美をおささげ致します。

 

 

 

 

 

■2022年7月3日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

走るべき行程を走り抜く  up 2022.7.3


主題聖句(使徒20:24)
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。


 

 

 

 

 先日、ホーリーバイブルチャーチの村田艶子先生が天に召されました。
 97年の生涯を全うされ、私たちに多くの力と励ましを与え、まさに走るべき行程を走り抜いたと言える信仰生活だったと言えるでしょう。
 
 使徒20章24節で、パウロが語る“走るべき行程”とは何かを考えてみましょう。まず大前提に、生涯を全うすること、です。
 今の時代は自身で命を絶つ人が多い時代で、日本では社会問題になっています。神様が一人ひとりに与えられた人生という道のりを放棄してはなりません。なぜなら、人には神から与えられた使命があり、それを達成するというゴールまで、いのちをかけて進むのが人生だからです。
 迷うときは、聖書というナビに従い、疲れたときには、神様からみことばの食物をいただき、ゴールに向かって進むのです。それが果たし終えるためなら命は惜しくないというのが、パウロの信仰姿勢でした。

  私たちの使命についても確認しましょう。

(マルコ12:30)
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

 このみことばは、聖書の重要な教えを要約したら二つの教えになるとイエス様が言われたうちの一つです。
 ここで注目したいのは、ただ主を愛するのではなく、心・思い・知性・力を尽くして主を愛しなさいと言われていることです。
 形式的な愛は本当に愛しているとは言えません。
 この教えに対して、私たちはそれなりに守ることは出来ているでしょう。
 しかし、これは教えであって、使命はまた別にあります。
 
「全世界に出ていって福音を宣べ伝える」というマルコ16:15で言われているのが、代表的な使命です。
 この使命を、神を愛する熱量と同じくらいに取り組んでいくことが大切です。

 つまり、心・思い・知性・力を尽くして神を伝える!ことが、私たちが走るべき行程にて果たす使命なのです。
 さらに、表明だけで終わらず、走り切ったと宣言するところがパウロのすごいところです。

(第2テモテ4:7)
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 目標設定、表明で終わるのではなく、きちんと自分自身を評価してあげるのも大切だということです。 私たちの使命である“神の恵みの福音をあかしする”ことを達成するために、あらゆる知恵と力を注いで、走るべき道のりを走り抜けるように努めていきましょう。