■2022年6月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

みことばを豊かに住まわせる  up 2022.6.26


主題聖句(コロサイ3:16)
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。


 

 

 

 

 今日は「みことばを豊かに住まわせる」というテーマでお話をしていきます。
 今年のモットー「キリストの香りを放つ」というテーマのみことばにあるように、私たちは神の御前で、かおりよき香であります。 
 
 私たちは人からの評価で自信を無くしたりしますが、私たちの支えは神のおことばです。神はあなたを、かおりよき香として見てくださっています。これが私たちの希望、救い、力です。その感謝と喜びを思い出して、励まされて、今年一年の後半に向けて歩んでいって頂きたいと思います。それも、みことばを心に住まわせていることになります。 
 今日の主題聖句(コロサイ3:16)のみことばは、イエス様を信じる私たちの交わりの方法です。私たちは互いにみことばをもって魂、霊の徳を高め合っていきます。信仰が前向きになるように、みことばをもって励まし合います。失敗した時でも、失敗を通してみことばを悟らされた証しによって励まされていきます。

 キリストの霊(御霊)が私たちの内に満ちておられるということは、みことばがあなた方の内に豊かに住んでおられるということと同じです。
 御霊の臨在と共に、みことばが内に思い出されて、それが励ましとなって心が明るくなっていくというように御霊に満たされることは、みことばを豊かに住まわせること、ということを今日も見ていきたいと思います。

日々みことばで満たされる
◎(マタイ4:4)
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

〇パン→毎日食するもの=健康
 私たちが霊的に強くなったり弱くなったりして落胆することが多い理由の一つは、みことばが十分に与えられていないことです。
 食事が与えられなければ、体力がなくなり体調が悪くなるように、神の口から出る一つ一つのことばによって生きることをしていなければ、霊が弱って不信仰に傾くのは当然と言えます。日々みことばに満たされていることが大切です。

みことばの食生活を充実させる 
 みことばを毎日楽しく味わう工夫が大事です。食事中の楽しい会話として、みことばに関する話や証しをし合えば、自然にみことばを楽しく食することが出来るでしょう。

 食事を毎日欠かさず楽しく頂くように、毎日神の口から出る一つ一つのことば、心に残ることば、気になる示されたことばを、しっかり心で味わうことが大事です。

 私(辻牧師)は、かつては聖書をじっくりゆっくり味わって読むというのが習慣でした。しかし、それでは栄養が偏るのではないか、それより聖書を量多く読み流して、バランスのとれたみことばを心に受け止めていき、みことば全体から栄養を受ける方がよいということに気が付きました。

 そこで5年前から、毎日10章読み流し、気になるところは後で黙想し祈りの中で悟らせて頂くというようにして、4か月に一回読み通すことを目標に、一年に三回読み通すという読み方に変えました。

 全然覚えていなくても構いません。繰り返し読んでいけば、気になるところが心に残ってきます。みことばを多く心に触れていくと、知識ではわかってもわからなくても、聖霊様が必ず光輝くみことばを霊、魂に与えてくださいます。

 じっくり読むにしても読み流すにしても、大事なことは、神の口から出るひとつひとつのみことばによって生きることです。量でもなく深さでもなく、毎日食事を頂くように、みことばを心の糧として毎日いただき、毎日、味わい満たされ満足するような読み方を工夫されてはいかがでしょうか。からだのいのちのためだけでなく、魂のいのちのためにも考えてみてください。

〇一つ一つ→状況に合わせたみことば
 場面場面によって効果的なみことばがあります。具体的なみことばを得るには、状況に合わせた神様のアドバイスのおことば、光となって私たちの心を強め励ましてくださる、その場面に応じたみことばというのがベストです。

 日々みことばに満たされることにチャレンジしてください。

◎中核をなすみことば
 これは、中核をなすみことばなので、是非とも皆さんも味わっていただき、しっかりと心に、魂に刻んで頂きたい、悟っていただきたいみことばです。

〇(箴言1:7)
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
 知識とは色んな情報ですが、まず初めの情報は「主を畏れること」であり、それは知ることの土台です。神がおられるというところから色んな情報を考えていくなら、何事にも正しい判断をして知恵あるものとなっていくことが出来ると言えるでしょう。

〇(箴言9:10)
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」
 知恵とは、正しく生きる賢さです。神様の存在を敬うことをまず知ることが、知恵の初めであり、正しく生きる賢さの初めです。

〇コロサイ3:20
「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」
 人は尊敬できてこそ、その人に従うことも出来ます。反抗期は子どもの通らねばならない道筋ですが、親を敬う心があれば、子は心を痛めながら反抗するものです。彼らは反抗期を終えた時、罪を認めて悔い改めることでしょう。そして神を信頼するきっかけを得ることが出来ます。

 もしそう出来なかった子どもがいたなら、それは親が良い証しを立てていなかったかもしれません。反抗期はやむ負えない時期です。それでも神を信じ子どもを信じて愛し続けていくならば、必ず子どもは大人になったとき、尊敬を持って親孝行するようになります。

 主なる神を敬う証として私たちは、神を敬うならば、両親も敬うべきです。

◎十戒より(出エジプト20:12)
「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 「主が与えようとしておられる地」とは、イスラエルにとってはパレスチナの地ですが、それは神の国の象徴としても語られています。ですから、この戒めは、父と母を敬うことを通して、神の国で永遠に平安に過ごすことができるという約束を表しています。

 (コロサイ3:20)の「両親に従いなさい」というのも、ここから来ています。主を畏れることは、造り主を畏れることです。私たちを生み出してくださった神を畏れ敬うのであれば、両親もあなたを肉体的に生み出してくださったのだから敬いなさい、親を敬うことは命の息を吹き込んでくださった神を敬うことになるということです。

 肉親の親は不完全なので敬いにくい所もあるかと思いますが、聖書には悪い主人であっても従いなさいとあります。そのつけは神様が全部報いてくださるので、神様にゆだねて主の導きを頂くように致しましょう。主を畏れて両親を敬い従っていけば、神様は祝福として神の国を受け継ぐ者として、あなたに報いてくださるというのが、(コロサイ3:20)と(出エジプト20:12)との関連するところです。

 「主を畏れる」という中核のみことばを悟っていないと、私たちはご利益宗教へと流れて行ってしまいます。自分の利益となることしか神さまを信じようとしません。

 私たちの願っていないところを、神様は私たちに通らせられることがあります。それは永遠のいのちにいたるためのご計画を私たち一人一人に持っておられるので、私たちが嫌だと思うようなことでも、私たちのために無言で試練を与えることをなさるのです。

【デボーションポイント】
◎主を畏れるとは?

〇悪を憎むこと(箴言8:13)
「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶると、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」

〇善と悪に報いる主権者を認めること(第2コリント5:9∼11)
「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前にあらわれなければならないのです。」
 
 あらゆる状況において、主を畏れることを意識しましょう!これがデボーションの課題として皆さんにチャレンジして頂きたいことです。

 欲求と、主を畏れる正しい良心との間で、葛藤が生じる場面において、どちらに従うのかは、あなたの判断です。たとえ失敗することはあっても、悔い改めてやり直しチャレンジする心を失うことがありませんように。主を畏れる心を捨ててはいけません。

【短歌】

 主を畏れ  日々いのち得る  みことばは
私が生きる  まことのパン

 皆さんのデボーションとして、下の句を考えてみましょう。

 

 

 

 

 

■2022年6月19日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

告白のことばのかおり  up 2022.6.19


主題聖句(イザヤ55:11)
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。


 

 

 

 

 今日は、ダビデとゴリヤテとの戦いを見ていきたいと思います。

1、ダビデの告白と宣言(第1サムエル17:36〜37)
36〜37)「・・このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」
 
 これは、ダビデがサウル王に対して告白した言葉です。ダビデは恐ろしい戦士ゴリヤテに対して少しもひるみませんでした。ゴリヤテは巨人族の一人で3メートルもあり、ものすごい武装をしてイスラエルの陣営に向かって戦いを挑んでいました。

 ゴリヤテが「私と一騎打ちする者はいないか」と言いましたが、イスラエルの軍隊は皆恐れました。しかし、恐れない人が一人いました。それがダビデです。

 ダビデは羊を飼い、サウル王に立琴を弾く仕事もしていました。ダビデの歌は詩篇にありますが、彼の信仰は素晴らしいものでした。

2、ゴリヤテへの告白と宣言の戦い(第1サムエル17:43〜47)
43)ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖をもって、向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。44)ペリシテ人はダビデに言った。「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」ゴリヤテは言葉によっても攻撃してきました。ダビデは投石器しか持たずに出てきたので、ゴリヤテはばかにされたと思ったのです。ダビデはひるまずこう言います。
45)ダビデはペリシテ人に言った。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、お前がなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、お前に立ち向かうのだ。
46)今日、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、今日、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、野の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
47)この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。
この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」

 ダビデはゴリヤテに勝る告白と大宣言をして、ダビデが言った通りになりました。ダビデは投石器で石を投げ、石はゴリヤテの額に命中し、ゴリヤテを倒しました。そしてイスラエルの軍隊が戦いに勝ったのです。 
 
 ダビデは力によって勝ったのではありません。言葉によってゴリヤテに立ち向かったのです。この戦いは、偶像の神々と、まことの天と地を造られたイスラエルの神との戦いだったのです。偶像の神々は何もすることができません。天地を造られた神は、その言葉の力によって勝利をもたらされたのです。
    
3、信仰のことばの宣言の力
 ダビデは信仰のことばの宣言によってゴリヤテに勝利しました。
 ゴリヤテの剣は大きな剣です。つばもあったと思います。本当はダビデを殺そうと思っていたのに、逆にダビデによってゴリヤテは殺されました。
 
 このゴリヤテの剣は十字架に似ていると思いました。イエス様が十字架につけられました。十字架につけたサタンは「勝った!」と思ったのです。ところが、その十字架によってイエス様が勝利され、サタンの頭が打ち砕かれたのです。

4、告白と宣言の力
 この告白とは、聖書の言葉をもって告白することです。人の考えや自分の力の誇示ではありません。イエス様は言葉によって罪の赦しを宣言し、癒しを宣言されました。根拠は、神様が一人ひとりを愛しておられるということです。滅びて欲しくないので、罪を赦して永遠の命を与えたいと願われたのです。
 私たちの告白と宣言は、自然や人も動かし、病いや問題をも動かします。敵も言葉で攻撃してきます。敵は、「おまえはだめだ。罪がある。」と攻撃してきます。それに対して「私は罪を赦された!私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる!主は癒される!私は神に愛されている神の子である!」と言い返すことができます。

 神様は天地を言葉によって造られ、全てのことをみことばを通して成し遂げられる方です。(主題聖句 イザヤ55:11)

5、それでは私たちはどうすれば良いのか
 まず、みことばに満たされることを求めましょう。聖霊に満たされることはみことばで満たされることと同じなのです。ペンテコステの日に聖霊がくだられた時、異国の言葉で神様をほめたたえ、主の救いを語りました。みことばがあふれてきたのです。神のみことばを心に豊かに宿らせることが必要です。宣言するみことばが多い方がいいのです。そのためには、聖書を読み返して心に蓄えることが必要なのです。

6、祈り求めるだけでなく、その通りになると信じて告白する
 神様は、私たちがみことばを告白することを待っておられます。
 「私は勇士だ、と言わせよ。」 (ヨエル3:10)
 言わせよとは、私たちが告白することです。神の約束のみことばを思うだけではなく、口に出して告白しましょう。そうすれば神様が働いてくださいます。願うだけではなく、告白し、宣言しましょう。

 イエス様は、あなたが信じた通りになるようにと言われました。長血の女は、「衣のすそに触ったら癒される」と告白していました。そして、その通りになったのです。私たちも神様の約束のみことばを告白しましょう。そうすればその通りになるのです。

【参照聖句】(コロサイ3:16)
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
 キリストのことばを豊かに住まわせましょう。聖書を読み、心に留めましょう。信じて疑わない心で告白していきましょう。

 

 

 

 

 

■2022年6月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

いのちに至らせる香り  up 2022.6.12


主題聖句(第2コリント2:15〜16)
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。


 

 

 

 

今日のテーマは「いのちに至らせる香り」です。
 先週は、ことばなる神イエス様の御霊である聖霊様に満たされるというペンテコステの日を記念してお話を致しましたが、今週は引き続き、このいのちのことばが、いのちに至らせる香りとなる、というお話を致します。

 みことばは(第2コリント2:15-16)です。この15節は今年のモットーでもあります。救われる人々、滅びる人々、どんな人がいようと、イエス・キリストを信じている者は神の前にかぐわしい香りの者であるということが強調されています。神様はあなたのことを「香りよき存在である」と言われ、喜んでおられるのです。

 そして、16節には「ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」とあります。あなたも私も、いのちに至らせる香りなのです。神様は私たちを良い者として、同じ良い香りを放つことの出来る人々を、あなたを通してみもとに引き寄せたいと願っておられます。それはどんな香りでしょうか。

◆敬虔な生き方

◎(箴言19:23)
「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」
 敬虔な生き方とは主を畏れることです。主を畏れるとは、万物の創造主であり万物を治めておられる唯一の神を深く尊敬し信頼すること、すなわち、神への信仰と希望と愛を抱くことです。

 まず神に未来に対する信頼を置いて信仰を働かせる、そこには大きな希望があるということが内側に光のように輝いていく、そしてこの信仰と希望をもたらしてくださる神を愛して歩む、これが主を畏れて生きることです。

 その人その人の成長の段階があるにしても、そのような敬虔な生き方が、神様にとって良き香りとなり、いのちに至る人々のための香りにもなるのです。

◎(第1テモテ4:8)
「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、全てに有益です。」
 敬虔さを強め、それを成長させるための鍛練は、未来のいのち(永遠に至るいのち)のために有益です。
 
 敬虔な人生を続けることが鍛練です。あきらめずに繰り返し練習し続けることが成長につながります。メッセージを、みことばを、聞くだけでなくチャレンジする、失敗しても何度でもやってみる、この積み重ねが敬虔のために大事なことです

◆不健全を解消する
◎(詩篇119:49−50)
「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」
 
 「悩みの時」という言葉が、不健全さを表しています。 (49節)で、私への約束のみことばを神様に思い出していただきたいというその人は、神様のおことばを受けることが出来ない状態に陥っていて、だから、みことばが自分自身に成就することを待ち望み、期待しています。これは信仰です。自分は弱く助けが必要な罪人、だからこそ、良き神様に救いを期待し、みことばを待ち望むわけです。

 「(50節)まことに、みことばは私を生かしてくださいます。」
 これが健全な心の持ち方です。神様のおことばに対する期待、「神の御霊、ことばなる神は私を生かすお方である」という信頼が、私たちの不健全さを解消して私たちを健全な方向へと向かわせる信仰です。
 そこで、「(49節)あなたのしもべへのみことばを思い出してください」というのは、個人的な神様からのおことばとして考えることができるでしょう。聖書の中からのみことばも、預言で語られたおことばも、会衆に対するあなたに関係するみことばであり、神様があなたに語っておられるのです。

 また個人的に一人だけに、思いに与えられる方もいれば、聖書を読んでいる時にハッと何かが心に示されて、与えられることもあります。色々なかたちでそれぞれに関係するみことばを神様はお与えくださいます。

 そして広く一般的に、ユダヤ人以外のすべての異邦人に語られたみことば(使徒11:18)があります。それは例外なく、あなたにも語られたみことばであることを受け止めてください。

◎(使徒11:18)
「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」

 (使徒11:18)は、ローマの百人隊長コルネリオが救われて聖霊が降ったということを、ペテロが仲間たちに報告した時のことです。 
 当時、ユダヤ人は神様の救いはユダヤ人のためだけにあると信じていましたから、それが異邦人にも及んだと知って、驚き、神様をほめたたえ賛美しました。キリストの救いの福音は全世界に与えられているということに目が開かれたという場面です。
 
 救われるはずのない異邦の民が、ユダヤ人と同じように救いを得ることができる、イエス・キリストの救いが成就したのです。

 このことばは異邦人のために語られています。あなたのために語られています。そのことばは「いのちに至る悔い改め」と紹介されています。
 「悔い改め」というのは方向転換のことで、価値観が真反対に変えられることです。異邦人にとっての一番の「悔い改め」は、神は沢山おられるのではなく、天地万物を造られた唯一人の神、それは聖書を通して語られている神様だけであるということに気付いて、心、考え、生活が改められることです。

 滅びの方向からいのちの方向へと、方向を転換する「いのちに至る悔い改め」が大事なことです。それを通して不健全さは解消されていき、良き香りを放つ歩みとなっていきます。

【デボーションポイント】
◎JFHへのみことば
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 私たちは宗教拡大をしているのではありません。神様を中心としたコミュニティーを拡大しています。神様を中心にしたコミュニティーこそが敬虔な人々のしるしであり、永遠のいのちに至る集団であると、聖書の言葉から受け止めています。

 色々な宗教や教えがありますが、私たちは、イエス・キリストは父なる神が人となってこの世に来られ、私たちの罪を贖うために、その肉体をもって罪の赦しの代償を支払ってくださった、これこそ真の神の救いだと受け止めて今ここに集まっているわけです。

 同じ理解と信仰をもっているからこそ、ここで語られる聖書のみことばは共通の理解できるものとして語られていると言えます。

◎今年のみことば
(第2コリント2:15)
「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」
 神があなたを認めてくださっているというおことばです。 もし、自分を卑下して、神様に対する不信仰が湧いて来たら、今年の(第2コリント2:15)のみことばをもって自分の存在を大事にしてください。あなたの存在そのものの評価が、神のことばによって語られています。

 自分の思いや感情、知識によらず、神様の真理のおことばを信じて、自分の存在をしっかり支えてください。隣のクリスチャンにも同じように思って差し上げてください。

 あなたに語られているみことばを思い出しましょう。少なくとも、この二つのみことばは私たちの教会に語られたみことばですから、私たちに語られたことばとして、そのみことばが私たちに成就するようにと待ち望みましょう。

 皆さんはどんなみことばを今日まで語っていただいたでしょうか。現在にいたるまでの人生の様々なところでみことばを示されたり、礼拝の中で語られる聖書を通して気付かされたり、御霊様があなたに語っておられるみことばを受け止めることこそ、聖霊なるみことばの神を受け止めて満たされることになるのです。

 だから、思い起こしてください。そして、そのおことばに満たされてください。それが聖霊に満たされる具体的な証しです。あなたの心、魂に、みことばが残っているということが、聖霊の満たしの証しです。満たされた実は、みことば通りの人生の歩みの結果に現れて来るでしょう。

 特にキリストの姿に変えられていくということに関しては、聖霊に満たされ、みことばに満たされることを個人的にチャレンジして体験していただきたいと思います。

【短歌】

永遠の  いのちに至る  みことばは

変わらぬ愛に  満たされること

 

 

 

 

 

■2022年6月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の息を受ける  up 2022.6.5


主題聖句(創世記2:7)
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。


 

 

 

 

 今日はペンテコステ記念礼拝です。

 ペンテコステ(五旬節)は、ユダヤ教の三大祭りの一つですが、新約聖書では使徒行伝の2章に、その五旬祭の日に起きた素晴らしい出来事が記されています。すなわち、信じる人々一人一人の内に、神様の霊である聖霊様が住んでくださり、霊、心、体にまで満たしを与えて、治めてくださり、調和のとれた霊と心と体を保たせてくださるのです。

 今日は、「神の息を受ける」と題して、神の霊を受けるということがどんなに素晴らしいことであるかを、主題聖句(創世記2:7)からお話をさせていただきたいと思います。

※神の息を受ける
 (創世記2:7)を読みますと、人は神からの「いのちの息」を受けて本当の意味で「生きた霊」となる、ということを悟らされます。

 地上の生き物の中で人間だけが、神からの息を吹き込まれるという方法で、いのちを与えられています。ここに、聖霊のバプテスマを受ける、聖霊に満たされるということの大切な意味が象徴として描かれています。

※「神の息」
◎ヘブル語で「息」のことを「ルーアッハ」または「ネシャーマ」と言います。「ルーアッハ」は、「空気が動く、移動する」という意味から、霊、風、息として使われていますが、(創世記2:7)の「いのちの息」は、神から出るいのちの息として「ネシャーマ」という言葉が使われています。

◎(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
 
 イエス様の「ことば」は霊であり、いのちであると語っておられます。「霊」というギリシャ語は、ヘブル語の「ルーアッハ」(霊、風、息)の意味に相当しますが、ここでイエス様は、「霊はことばである」という新しい啓示を与えておられます。

 ことばは息と共に出ます。(創世記2:7)では、神様がアダムの顔面に息がかかるほどの近い距離で鼻に息を吹きこんでおられます。それは、ことばなる神様が顔と顔を合わせてアダムに何かおことばを語られたのでは、と想像いたします。

 そしてアダムは、神様の息である「ことば」を受けて、霊の生きた者になったと理解する時、この(創世記2:7)の出来事と、イエス様の「私のことばは霊であり、いのちである」というおことばに、結びつきが見えて来るのではないでしょうか。

(マタイ4:4)
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
 
 人が生きるのは神の口から出る一つ一つのことばによる、とイエス様は言われました。

 ことばは息を吹きかけられていきます。アダムが生きた者になったのは、神の息を吹き込まれて、息に触れた、神のことばに触れた、そのことばは霊に触れた、というように、(ヨハネ6:63)の意味と(創世記2:7)の出来事とは、つながりが深いように思われます。

 常に私たちは神の息を受けて、息のかかった一つ一つのことば(霊)を受けて、生きる者となる、これが本当の意味で私たちが生きる姿なのです。

※息が吹き込まれた
◎顔と顔が向き合う交わりの関係 言葉を交わす親しい関係
 出エジプト記に、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」と書いてあります。モーセと神様は息がかかるような近い親しい交わりの関係であったのです。
 
 神様の息である「ことば」を親しく受け止めるという交わりの関係が、神様と人との健全な本当の姿です。

 これが、罪人の私たちの内に神の霊が吹き込まれ、聖霊が私たちの内に宿るということです。

 そのためには、罪の赦しが成就しなくてはなりません。ですからイエス様が私たちのすべての罪を十字架で処分してくださり、私たちは罪赦されて罪なき者のように見なされて、神様はご自分の聖なる霊を私たちの内に遣わされ、息を吹き込むことが出来る状態になりました。

 イエス様を信じるということは、罪の赦しを受けて、神のことばである霊を持って生きることです。神様と親しい交わりの中で人生を送ることです。このために神は人を神の形に似せて造られ、神と交わりを持つことが出来る存在としてお造りになったのです。

 本当の人間の在り方は「神との交わり」であり、これで初めて人は本当の生きる者となった、と神様は仰るわけです。

 敬虔な人は神様のおことばを素直に受け入れて、そのおことばで心が養われる、即ちそれは神様との交わりを親しくしていくということを表しているわけです。  

◎(第1コリント1:9)
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」
 
 ことばなる神イエス・キリストとの交わりは、神のことばとの交わりです。私たちはそこに入れられています。神のことばに私たちの霊が触れられて、そこで黙想し、啓示が与えられたり、さとしを頂いたりする、それが神のことばとの交わりの現実です。神のことばなくして神との交わりはありません。

【デボーションポイント】
神のことばが語られることによって、命の息が吹き込まれる。神は交わりを求めておられる。

 いのちの息である神のことばを信じ受け入れることが、聖霊に満たされることです。私たちの心に神のことばが入ってきた時、私たちの霊がへりくだってそれを受け入れるか、拒絶するか、それによって神のことばなる聖霊に満たされていくかどうかが決まります。

 異言、預言、賛美は、内に聖霊に満たされたしるしであり、神のことばが私たちの内にあふれている状態です。それが口の言葉に表れて、自国の言葉であれば預言になり、それ以外の言葉であれば異言になります。賛美は、神様の愛を受け、救いを受け、感謝で神をほめたたえるという、そういう言葉が聖霊によってあふれてくるのです。

 異言が出ないからといって聖霊の満たしを受けていないという意味ではありません。あなたの内に神のことばがあふれれば自然に出てくるものなのです。こころに満ちることを口は語ります。

 神のことばであなたの知識を満たし、知識から心に入り、神のことばが心に宿ると、自然に神のことばが口からその時々に合わせて出てくるのです。

 あなたが祈りの中で神のおことばを用いて祈るとき、それは内に神の霊を宿して祈っていることです。

 暗唱聖句は悟りとなって心の中に入り、悟ったことを人は行動していくわけです。

 メッセージで語られるみことばをよく黙想し、みことばで心が満たされることが聖霊の満たしにつながるということに目覚めて頂きたいと思います。
 
 初代教会の聖徒たちは集まって聖書を朗読しました。皆で神のことばを告白する時、神の霊である息がそこに吹き込まれて、人々は皆で語っている神のことばを受けて、神の霊を内に満たすという状況が起こるのです。一人で声を出して読むこともプラスになります。

 神のことば(息)が私たちの霊に吹き込まれるのです。その見えるかたちとして(創世記2:7)では「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」と表現されました。

 いのちの息、それは神のことばです。そのことばは神の霊なのです。聖霊のバプテスマとは、神の霊に満たされること、神のことばに満たされることです。

 神のことばに心が満たされると、いろんな状況や問題の時に、神のことばが出て来ます。そして内側に神のことば、聖霊様が満ちておられることを確信します。

 大事なことは、神のことばが内側に満ちたら神のことばを語ること、神のことばを語るとは、そのように行動すること、即ち変えられるということです。

 神のことばにより神の霊によってキリストの姿へと変えられていく、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。

 みことばを満たし続けなければイエス様の姿に変えられていくことはできません。みことばは神の霊です。神のことばに満たされましょう。

【短歌】

みことばを  信じて受ける  バプテスマ

     神との交わり  聖霊の満たし    

 単なる現象としての異言を求めるバプテスマではなく、みことばを信じて受け入れることによって実現する神との交わりや聖霊の満たしを求めていきましょう。

 大事なことは、みことばに満たされて、キリストと同じ姿に変えられていくことです。

 

 

 

 

 

■2022年5月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御国を目指しー心に  up 2022.5.29


主題聖句(ピリピ3:14)
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。


 

 

 

 

 今日は教会70周年を迎えて、『御国を目指し一心に』というテーマでお話を進めさせていただきます。テーマのみことばは(ピリピ3:14)、パウロ先生がピリピの教会に宛てた手紙の一節です。 

 罪人が罪のない神の国に入ることは、あり得ない不可能なことですが、それを可能にしてくださったのが、イエス様の十字架の贖いの御業です。イエス様は私たち一人一人の罪を背負い、私たちの身代わりに十字架でさばきを受けてくださったのです。

 神様は、「あなたの罪を赦します。あなたの罪は、私のひとり子イエス・キリストが、十字架で、身代わりにその罪の処分を受けたので、彼を信じるなら、あなたの罪もそこで一緒に裁かれたこととみなして、あなたを罪なき者として私の国に迎え入れます。」という信仰の救いを私たちに用意してくださいました。
 
 ですから、誰でもキリストを信じるなら救われるのです。何から救われるのですか?罪のための死刑(永遠の滅び)から救われるのです。

 アダムとエバが罪を犯した時から、人類は、生まれながらに「罪人」でした。その刑の執行(永遠のさばき)が、キリストの再臨の時に実現します。それまでに救いのチャンスを、悔い改めて心を入れ替えて神の国に入るチャンスを神様が与えてくださった、というのが十字架の意味であり、イエス様の十字架刑における死の意味であります。

 ですから私たちは常に、そのご恩を忘れないように神様に心から感謝します。そのご恩に報いるような日々を目指して一心に歩み続けます。
 
 パウロ先生が語ったように、私たちも、神の国に迎えていただけるという栄冠を得るために、目標(神の国に入ること)を目指して、一心に人生を走るよう心がけます。
 イエス様を信じて、罪から離れ、善に親しむ歩みを努めます。その姿を見て神様は、私たちを神の国の国民として、また神の子として御国に迎え入れてくださるのです。

 一心に走っているかどうか、それを計るのは神様だけです。神の前に一心に、神を畏れ神を愛する歩みを、皆さんと御一緒にこれからも続けて参りたいと思います。

 毎週の礼拝もその一つの証しです。しなければならないのではなく、一心に走っている実として、皆で集って、神様を賛美したい、愛したい、御国に入りたい、そういう気持ちから一生懸命礼拝をお捧げしているのです。

 今日は「70周年」の「7」という数字から、その意味を学んで、皆さんの信仰の励みとして頂きたいと思います。

◎「7」という数字
(1)創造は7日間で終わる(創世記2:2-3)
「神は第7日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第7日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第7日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

 神様は1日目から6日目まで働かれて7日目を休まれました。7日目の休みを含めて7日間を完成の一つの区切りとし、この休みの日を聖なる日と定められました。この日を私たちも神様を敬う日として礼拝に集うことを心掛けています。

(2)負荷は7年目に解放(出エジプト21:2)
「あなたがへブル人の奴隷を買う場合、彼は6年間仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができる。」
 同じイスラエル人で、借金をしてその負債が返せない時、身売りをして奴隷となってしまう場合がありました。その奴隷は6年を過ぎたら7年目には自由の身になって出ていくことができる、ということを神様はイスラエルが守るべきルールとされました。7年目ごとにイスラエル人は皆、自由人としての身分を回復できたのです。

(レビ記25:4)
「7年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。」
 
 イスラエルは、土地も7年目には休ませなくてはなりませんでした。そのために6年目には、翌年の分まで2倍の収穫を神様は約束されました。

 そのように定められた神様との約束事でしたが、イスラエルの民はカナンの地に定着してから一度もそれを守りませんでした。そして、カナンの地の神々を崇拝していったのです。

 神様の前に積み上げられた彼らの不信仰の罪のゆえに、彼らの国はアッシリア帝国とバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの民が捕囚として連れ去られていきました。そうして70年という捕囚の期間、彼らの耕していたパレスチナの土地を神は休ませた、と聖書に記されています。

 こうして旧約聖書の中に用いられる「7」という数字を見ますと、一区切りの数、時や条件が満ちること、重荷からの解放、という意味を読み解くことができます。

 では、次に「70」という数字はどのように用いられているでしょうか。

◎聖書に出てくる「70」
(1)償いの期間としての70年 (エレミヤ29:10)
「まことに主はこう仰せられる。『バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこのところに帰らせる』」

 バビロン帝国によって最終的にイスラエルの国は全部滅ぼされ、人々は捕囚の民としてバビロンの地に移されました。しかし神様はエレミヤを通して「70年が終わったら、あなたがたを再び約束の地(パレスチナ)に連れ戻す」と語られました。70年経ったら、それまでの過去の罪はご破算にする、それだけでなく、もう一度約束の続きを守ろう、という神様のお計らいにより、ペルシャ帝国のクロス王が、捕囚のユダヤ人の帰還と神殿の再建の勅令を出すこととなりました。罪の償いの期間が終わった70年でした。

(2)過去を終わらせ、新たな始まり(ダニエル9:24)
「あなたの民とあなたの聖なる都については、70週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」

 この「70週」は、イスラエルの償いの期間が終わるだけでなく、未来のことが告げられていて、イスラエルだけではない人類全体に対して語られた預言であります。

 歴史という大きな時間の中で、「7」という数字の意味が10倍になっている、それほど大きなことが起きる、即ち、赦しと改革が行われる、過去を終わらせ新たな始まりが起きる、罪の償いの期間が完了し新しく始めることができる、という意味として、この「70」という数字が使われています。
 これを70周年を迎えた私たち教会に適用してみてはいかがでしょうか。

【デボーションポイント】
70周年を迎えた私たちの教会は、過去から解放されて、神の国に帰る出発の時である
 私たちの教会は70年が満ちました。過去には分裂、分派、色々と神様の目に罪という状態がありました。人々はイエス様を信じ、敬い、尊ぶ、という心を共通に持っていましたが、色々な問題も起こっていたのです。

 しかし、罪の過去にひっぱられたクリスチャン生活は、しんどいものです。昔を思うたびに罪責感に襲われていたのでは、未来が薄暗くなります。

 光に満ちた未来を神様が与えてくださる良いきっかけとして、70周年という時を、今のこの時に迎えることができるというのは、神様はこの日のために過去を計画しておられたと言えるかもしれません。

 皆さん、今日から、過去は赦されました。忘れていいと思います。これからの70年を考えて、神の国を目指して一心に歩むということを御一緒に心掛けていきましょう。

 そのために昨年から、「主を求める人々の群れ」を、サンビ教団のテーマとし、ビジョンとして新たに始めました。色んな地域にある地方教会を一つの群れ(教団)として進めていこうということですが、その大事なポイントとして二つのみことばをご紹介致します。

*主を求める群れとして
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 70年という数字、70周年という時間、もう終わりました。過去との因縁は、ぷっちり切りましょう。
 誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく、70年は過ぎたのです。捕囚の時は終わったのです。今からは約束の地、天の御国に帰るのです。それがこれからのクリスチャン生活の大きな目です。
(マタイ6:33)
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 70年が終わりました。神様が私たちを新しくしてくださったのは、神の国に入るためです。新しく造りかえられたことと、神の国とその義を第一に求めるという、私たちの人生の指針を心にしっかり持って、天国を目指して歩んでいきましょう。
 
 この二つのみことばを心に刻んで頂いて、過去にとらわれた時は、私たちは70年が終わった者、それだけではなく、イエス様の十字架によって、罪の人生を切り離した者、新しい出発を始めて神の国を目指す者なのだと、心に描いて頂きたいと思います。

 これは、今やっていることをすべてやめなさい、ということではありません。そのことは毎週のメッセージの中でも細かくお語りしておりますので、そこから気付いていただければと思います。

【短 歌】
 神の国  目指して進んだ  70年
 御国に帰る  新たな決意 
 
 今日の70周年記念礼拝を、御国に帰る新たな決意の時として、この日をご一緒にお祝いし、ご一緒に進んで参りましょう。

 

 

 

 

 

■2022年5月22日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

初代教会にならう健全な信仰  up 2022.5.22


主題聖句(使徒2:40〜47)
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。


 

 

 

 

 先日、ARK会とホーリーバイブルチャーチのJ path(20代のグループ)の交わりが持たれました。この交わりは、ARK会のメンバーが学生の頃に持っていた学生キャンプから、かれこれ10年以上続いています。今回のテーマは“終末の献身者”ということを掲げ、終わりの時代にクリスチャンとしてどのように生きていくかを再確認しました。
 
 私たちは献身者と聞くと、何もかも捨てるというイメージを持ちます。ですので、ほとんどの方は、自分には到底無理と思うかもしれません。しかし、神様に付いて行く信仰者は皆献身者であり、実はクリスチャンなら誰もが、神と会衆の前に一度告白しています。そう、洗礼のときです。私たちは、キリスト教に入門するために洗礼を受けたのではありませんよね。神様と出会い、この方こそ私たちを暗闇から救ってくださるお方であると信じ、人生を捧げると決意表明したのが洗礼なのです。ですから、私たちは皆献身者だと言えるのです。
 現代の“献身者”とは特定の人たちを指しますが、それは役割の違いで、キリストを救い主とするクリスチャンは、全員が献身の思いを持って信仰生活を送ることが、健全な信仰生活であると私は考えます。
 何事でも初心に返ることは大切なことです。信仰における初心を思い出すことに役立つのは、使徒行伝に描かれている初代教会の歩みです。
(使徒2:40〜47)
 イエス様が復活されて天に戻られた後、約束の聖霊が弟子たちに臨まれて、ペテロが聖霊に満たされて大胆に福音を語ったことで、その日に三千人の人が救われました。人生の価値観が変えられ、神の家族としての共同体の新しい生活が始まっていき、初代の教会となっていきました。
 ここに、信仰生活の本質が記されています。@教えを堅く守る、A交わり、Bパンを裂く、C祈り、です。イエス様がこの地上で語られたことば、すなわち、み言葉を忠実に守り、また、共同体の秩序のために自然的な教えも守ることは大切なことです。交わりは信仰維持のためには欠かせません。一人でも信仰を持つことはできますが、交わりによって、互いに徳を高め合うことがなければ、この世の大きな流れに流されてしまうでしょう。パンを裂くことも初代教会を象徴する行為でした。イエス様が最後の晩餐で、「わたしを覚えてこれ行いなさい」と言われたことを、交わりごとに、家々の食事のときに、守られていきました。今の聖餐式のような典礼というよりは、より自然な形で、イエス様の十字架の御業と救いの喜びが分かち合われていたのです。祈りは説明するまでもなく、呼吸するのと同じように、私たちが生きることそのものですね。
 
 この四つの信仰生活の本質は、目に見える形で実際の生活の中に表されていきました。信仰は行いによって表されなければ意味のないものになってしまいます。初代教会においては、健全な信仰が多くの不思議としるしをもたらしただけでなく、彼ら自身も実生活の中で信仰を表明していたことがわかります。いっさいの物を共有していたことを代表に、いつも心を一つにして宮や家に集まり、ともに食事をして交わり、神様を賛美し、すべての民に好意を持たれるくらいに、行いが素晴らしかったのです。そんな彼らに加わりたいと、毎日人々が救われていきました。まさにリバイバルです。

 現代の教会は、人々が救われるためにはどのようにすればよいかを難しく考えすぎているかもしれません。そして人間的に組織的になりすぎてしまって、形式や習わしに縛られすぎているかもしれません。
初代教会を見る限りでは、何一つ難しい手法はありません。健全な信仰者から形成される健全な教会は、いたってシンプルです。救いの喜びが溢れていて、交わりが活発に行われ、そして宣教の熱意のあることがわかります。これらは、教会に平和と秩序をもたらします。
 
 最初に弟子に加えられた三千人のことをよく考えてみると、金持ちもいれば貧しい人、奴隷ややもめ等、様々な立場の人々がいたはずです。しかし秩序と平和が保たれていたのは、神の前に同じ罪人が救われたという事実を素直に喜び合う、健全な交わりと、同じ宣教の熱意が、そうさせていたのだと私は考えます。現代の教会にも大切な要素です。しかし人間の力に限りがあります。だからこそ、聖霊の臨在が重要になってくるのです。約束の聖霊は今も私たちの内側におられます。

 救われた喜びに立ち返り、聖書から教えられた私たちの存在目的と使命を思い出し、人間の力ではなく聖霊の力によって、この地上でキリストの証人となる生き方、それがまさに「献身」の生き方なのです。

 

 

 

 

 

■2022年5月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

足跡に従う香り  up 2022.5.15


主題聖句(第1ペテロ2:19〜21)
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。


 

 

 

 

 今日のテーマは、「足跡に従う香り」です。イエス様と同じように歩んでいけば、それはキリストの香りを放っていることになる、ということを、(第1ペテロ2:19-21)からお話したいと思います。

 (第1ペテロ2:19-21)の19節20節には、「それは、神に喜ばれることです」と記されています。ここは「神の前にかぐわしい香りです」というふうに考えることが出来ます。この御ことばから「イエス様を模範として従っていくことによる香り」を考えていこうと思います。

 このみことばは、善を行ったために苦しみを受けても耐え忍ぶ、ということですから、ちょっと理不尽なことのように思われます。

 しかし、イエス様の地上の人生は全くその通りの歩みでした。良いことを行っているのに、行えば行うほど世の指導者たちにねたまれて、中傷や悪意の噂を流されて、それでもイエス様は怒らず、報復せず、耐え忍び続けられました。今日はそういうところを、まず初めに見ていきましょう。

◎善を行って苦しみを受ける

(1)自分のことよりも隣人を優先する
(ローマ15:1-3)
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった』と書いてあるとおりです。」
 
 まずひとつ目ですが、自分のことよりも隣人を優先するという姿勢の中で苦しみを受けることがあります。

 「弱い人」というのは、理解の足らない人、精神的に感情的な人、道徳性に欠けた所のある人、社会的に軽んじられている人なども含めて、弱い人々です。
 
 この世では強い者が弱い者を支配するのが普通ですが、ここでは「力のある者は、力のない人たちの弱さをになう(負う)べきです」と勧められています。これは苦しいことです。

 イエス様も私たちの弱さである罪を負って、十字架で罪の赦しのための贖いを、ご自分の命で負ってくださいました。

 自分の利益ではありません。ひたすら相手の益を考えてのことです。
 弱い人が成長して強くなっていくこと、それだけを喜び願って、その弱さを支え、補い、損失も受け止める、自分のことよりも隣人を優先する、ここに善を行って苦しみを受ける姿を見ることができます。

(2)従順を学ぶための多くの苦しみ
(へブル5:8)
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、」
 イエス様はこの地上では、ご自分を喜ばせることはせず、弱い人々の弱さを担う生き方をされました。そのために多くの苦しみを受けられました。苦しみを通して、イエス様は神様への従順を体験されました。善を行って苦しみを受けるのは、従順を学ぶためです。苦しい時の従順こそが、神様への信頼と尊敬の証しです。

 イエス様が荒野で空腹に苦しまれたときも、「石をパンに変えてみよ」というサタンの誘惑に対し、自分を喜ばすために神のちからを使うことはされず、弱い人の弱さを担うために神様の御ちからを現わすという生き方をされました。

 苦しむ人が少しでも楽になって救いに導かれて欲しいと、そのために多くの苦しみを受けても、どこまでも父なる神様に従順に従う、その模範を示してくださいました。

(3)真理のためにはずかしめを忍ぶ
(へブル12:2)
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
 
 イエス様は真理を曲げない方です。神様の真理を証しするために、はずかしめを受けても、真理(神の愛)を現わし続けられました。

 イエス様は十字架で暴言や嘲笑や、あらゆる辱めを受けられましたが、ここでイエス様が怒って十字架から降りてしまったら、私たちの救いは無くなります。私たちが救われることは、神様のご計画であり、神様の愛の真理の証しです。そのためにイエス様ははずかしめをものともせずに、十字架という最悪の苦しみにも耐え忍ばれたのです。

(4)罪人たちからの反抗を忍ぶ
(へブル12:3)
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
 イエス様でもそのように罪人の反抗を忍ばれました。私たちも苦しみを受けて、元気を失って疲れ果ててしまうことのないように、このイエス様の模範を思って励まされていきましょう。

(5)正しくさばかれる方に任せる
(第1ペテロ2:23)
「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」
 ののしられても苦しめられても報復せず、正しいさばきを神様にお任せになったイエス様を模範として、苦しみを受けても善を行い続けることを学ぶようにペテロは勧めています。

 もし、自分は出来ない、自分には無理だと思うなら、ちょっと考えてみてください。私たちはいま何に望みを置いているのでしょうか。本当に、神様の約束のおことばを信じて歩んでいるでしょうか。

 死後の世界があるのです。この体が死んで後、何が起こるかということを、私たちはイエス様の教えから教えられているので、神を畏れる心をもってこの地上でみことばに従って歩んでいるわけです。

 死んでおしまいなら、善を行って苦しみを受けるなどという不合理なことは出来ません。永遠という世界を信じる者にとってこそ、それは価値あることなのです。

【デボーションポイント】
 今日学んだ5つのみことばを実行することは、イエス様の御足の跡に従うことですが、それにチャレンジするための心掛けとなるみことばがありますので、ご紹介いたします。

(エペソ1:17-19)
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

※聖霊の満たしを求め続ける
 パウロ先生の「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」という祈りは、自分の知力に頼らず、神様の御霊を通して神のおことばを理解して深めていく姿勢が大事であることを私たちに教えています。
 
 私たちは、聖霊様に内側にしっかり住んで頂いて、聖霊様と共に歩むということを忘れずに毎日意識していくことが必要です。私たちの周りには、神様から目がそれるような興味深いことがあふれていますから、ぜひとも聖霊の満たしを求め続けて頂きたいと願います。

※心の目がはっきり見えるように
 神の霊が私たちの内に住んでくださったら、私たちの心の目がはっきりと見えるようになります。心の目が見える、それは魂における理解、御霊による知恵と啓示、体験と悟りであります。 

※神の召しによる望み、聖徒が相続する富、神の偉大な優れた力を知ることが重要

 聖霊様に満たされて、心の目がはっきり見えるようになって、「神の召しによる望み」「聖徒が相続する富(御国の豊かさ、神様のご性質)」「神の偉大な優れた力(死者をよみがえらせる神の力)」この三つのことを知ってほしい、とパウロ先生の祈りは続いています。
ここに、善を行うことによって受ける苦しみを耐え忍ぶための「希望」「動機」「力」があるのです。

 私たちはイエス様の御跡に従うために、神様との関係において、まず聖霊様を心にお迎えして、心の目が開かれて、そして、神の召しによる望み、聖徒が相続する富、神の偉大な優れた力を知ることによって、苦しみを忍びつつ、善を行い続けるクリスチャン生活を続けて行っていただきたいと思います。


【短歌】

みことばの  真理に従う  苦しみは
キリストの香り  忠実な人

 皆さんは、みことばの真理に従う苦しみを、何にどのようにたとえられるでしょうか。
 
 下の句にそれを詠んで、皆さんの短歌を作ってみてください。

 

 

 

 

 

■2022年5月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

最初のキリストの香り  up 2022.5.8


主題聖句(第2コリント5:17)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。


 

 

 

 

 先週は、みことばを実行することを通してキリストの香りを放つ、というお話を致しました。

 今日は、キリストを信じた時にクリスチャンが放つ「最初のキリストの香り」とはどういうものか、について(第2コリント5:17)からお話させていただきます。

◎イエスを信じて最初に放つキリストの香り
最初に放つキリストの香り、これは聖霊様の働きによる「新しく生まれ変わった自分」というものが、自然にあふれ出てくる香りです。この最初の体験を実感していないと、その後のクリスチャン生活が大変混迷したものになります。信じる以前と同じ人生を歩んでしまうことになります。

 生まれ変わった新しい自分、それは日々新しくされるという信仰の歩みでもありますから、それをぜひ目指していただくために、まずは聖書的な知識をもって、新しく生まれ変わったことに対する正しい心積もりを持っていただきたいと思います。

◎信じる以前の香り(エペソ2:1-3)
「あなた方は自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

(1)罪過と罪との中で死んでいた香り
 敬うべき創造主なる神様を認めないで不敬虔に過ごしている人生は、罪過と罪の中に死んだ人生であり、死人の香り(死臭)が放たれているようなものです。

 私たちもルールを破ることがありますが、「死んだ者」ではありません。なぜなら、その罪を悔い改めて、また、神のみおしえにチャレンジして生きていきますから、罪を犯すことがあっても「罪の中に死んだ者」ではないのです。

私たちはキリストの十字架による贖いの御業により、罪赦されて、やり直すことの出来るチャンスを神様に与えられているのです

 クリスチャンは何度も悔い改める必要はないという教えがありますが、確かに、最初に神に立ち返る回心の悔い改めは一度きりです。それは洗礼を受ける最初の悔い改めです。私たちは永遠の滅びから救われています。

 しかし、その後のクリスチャン生活を送る中で、罪の性質によって、罪に負けて罪の中に沈み込んでいくということがあるのです。そうならないように、私たちは何度でも悔い改めて、心を入れ替えて、やり直す必要があります。イエス様も、罪の赦しを求める者には、7を70倍するほど赦しなさいと仰いました。

(2)この世の流れに従っていた
 多数決とか、文化とか、神様を敬わない不敬虔なこの世の大きな流れに歩調を合わせて無自覚に流されていくことは、神様に背を向けた歩み方であり、神様には嫌な香りとなります。

(3)不従順の霊に従っていた
 神に不従順な人々の中に働く「霊」の存在があり、それは人や心に働きかけて、神に対する不敬虔な態度、行動、考えをもたらします。不従順の霊に従っていく香りは、神様の嫌われる香りです。

(4)自分の肉の欲の中に生きていた
 肉の中には多くの欲求が宿っていますが、自制できずに過度な欲を満たしてしまうことです。


(5)肉と心の望むままを行う
 肉の欲求と、自分は正しいという自己義により、行動を健全にコントロールできない状態です。

(6)神の御怒りを受ける者
 神様はあわれみ深い方ですが、さばき主でもあります。罪をさばかねばならない公平な正義の方です。そして、(1)〜(5)のような状態にある者は、「神の御怒り(さばき)を受けるべき子ら」であると言われています。

 神様は、御怒り(さばき)を受けることがないように、愛とあわれみをもって、救いの方法を2千年前に成就されました。しかし、不敬虔を続けてキリストを信じないならば、神の御怒りをもろに受けることになります。

 クリスチャンは神を畏れる正しい良心が眠ってしまわないように、罪に敏感に気付けるように、みことばをよく蓄えておきたいと思います。何をすべきか、何をすべきでないかを知識として持っておきたいと思います。

 そうすれば、私たちの内に宿る聖霊様が、私たちを助け、励まし、支えて、気づかせて、神のみことばの中に歩むようにと、私たちを助けてくださいますから感謝します。

 自分の意志の力だけでは私たちはルールを守りきることの出来ない弱いものですから、聖霊様の助けを受けることが出来るように、聖霊様に満たされることを願い求めていきましょう。

◎新しい人生の香り

(1)暗闇から光となった香り(エペソ5:8)
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
 以前の不敬虔な不従順な生活から、真反対の、神を敬う敬虔な生活や考え方に変わった、その香りがキリストの香りとして、信じた時に放たれていきます。

(2)キリストの愛に生きる香り(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 「肉にあって生きている」とは、「肉体のからだの内に自分の霊が宿りながらこの世で生きている」という意味です。

 「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰」それはキリストの愛に生きる香りです。

 「キリストは私の主、私を治める王の王」という、キリストの愛に生きる信仰、これがクリスチャン生活の初めに出てくる香りです。
 
 ここが弱いと、自分が主になってしまい、神様に喜ばれる良い香りを放てなくなります。

 「キリストの愛に生きる」という私たちの姿勢は、神様に喜ばれる香りとして御前に立ち上り、そして周りの人にも届いていくのです。

(3)真理による自由な生き方の香り(ガラテヤ5:13)
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」

真理とは、神がおられるということ、それが真理の根本です。

 私たちクリスチャンは、正義を行う自由も、罪を犯す自由も持っています。しかし私たちは、神様のみこころである正義を願っているので、罪を犯さないようにします。

 私たちは罪の力からも欲望の力からも解放されているのです。

 クリスチャンが貪欲に肉を喜ばせるようなことを行う時、神様は忍耐をもってそれを見守られます。それは、私たちが罪に気付き、悔い改めて自分から方向転換するのを願っておられるからです。

 それでも私たちが油断して罪を犯し続けて、罪の実を刈り取ることになっても、そこで気付いて悔い改めてほしいと、神様は私たちが真の悔い改めに至るようにと導いておられます。

(4)神に似せて新しくされた香り(コロサイ3:10)
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

 少しでも神様のかたちが現れるような、そういう生き方や語り方、考え方が、イエス様を信じてから段々出てきます。

 新しく生まれ変わる、新しく創造される、造りなおされる、これがクリスチャンから放たれるキリストの最初の香りです。

【デボーションポイント】

新しく生まれ変わったことを自分で評価してみましょう。
そして、さらに新しくされていくにはどうしたらいいでしょうか?

ヒント (第1コリント15:33)
「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣が損なわれます。」

 自分がよく接する人々に不敬虔な人が多いとか、テレビやパソコンから不敬虔な世界の情報に接することが多いとか、そうすると良い習慣(神を敬う心)が損なわれることがあります。

 クリスチャンとの交わりを多くし、またクリスチャンのためのテレビ番組やネット情報に親しむなどして助けを得ながら、「私は生まれ変わって神の子としての歩みをしている」という自覚をしっかり持っていきましょう。

【俳句】

新生の  香り漂う  笑顔かな

 新緑の季節に、新緑の香りが漂っています。

 新しく生まれ変わった神の子としての新しい人生の歩みの日々、皆さんの自然な笑顔の中に、新生の喜びが香りのように漂っているようです。

 

 

 

 

 

■2022年5月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

みことばの香り  up 2022.5.1


主題聖句(ヤコブ2:18)
さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」


 

 

 

 

 5月と言えばバラの美しい季節です。バラの魅力といえば、かぐわましい香りですね。バラの花はその香りによって誰からも深く愛され、アロマセラピー(芳香療法)にも用いられてきました。

 同じように信仰も、心の中に持っているだけではなく、行いという香りが放たれてこそ、生きた信仰を表すことが出来るとヤコブは私たちに教えています。

○みことばの実行がキリストの香り
(1)ヨハネ1:14
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

○ことばなる神であるキリスト
 ここに書かれてある「ことば」は、1章1節の「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と記されている「ことば」です。それが14節に、「ことば」は人となられ、その方は父のみもとから来られた神のひとり子であった、と続いています。ここから、「ことば」とは、ことばなる神キリストであることが分かります。

 ことばなる神キリストの香りを放つとは、私たちがキリストの「神のことば」を実行することによって、香りのようにキリストが人々に伝わることです。どのような香りとして人に受け止められても、神様はかぐわしい香りだと言ってくださることが、今年のテーマのみことばに記されています。

(2)ヤコブ2:16-17
「あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心していきなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
○みことばの香りは実行
 バラの持つ良い効果が、香りを通して現わされるように、私たちもみことばの実行を通して人々にキリストの良さ素晴らしさ効力が発揮されるということが、このみことばからも示されます。

(3)ヤコブ1:22
「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」

○みことばの香りを放て
 そこにバラがさしてある、というだけでなく、香りを放て、みことばを実行する人になりなさい、と語られています。

 みことばを行うことは難しいものです。しかし、みことばを100%実行出来ていなければ駄目だと勘違いしないでください。律法主義は、全部行うことを要求し、一つの違反も許しませんが、神の恵みの律法は、一つ一つ律法を守るということの方が大事であることを強調しています。
 聖書のおことばをぜひチャレンジしてください。チャレンジし続けて、香りを放ち続ける、それを神様は喜んでくださいます。

デボーションポイント
◎どのみことばの香りを放っていますか?
 日ごろの生活の中で振り返ってみてください。何かどこかで自然にやっているみことばがあるのではないでしょうか。そして、「これは違う」という違反の気付きを与えてくれることがあると思います。気づけば直すこともできますから、みことばに反していることに気付くのは大変良いことです。

 そのように、いつの間にか行動しているというみことばを見つけていただきたいのです。どのみことばの香りを放っているでしょうか。
 
 みことばを守れている良い香りより、みことばに反する悪臭の方が人に強く伝わってしまうのは残念ですから、一つのみことばでも多くの場面で良いキリストの香りをいつまでも放てるようになりましょう。

【例】 
(ルカ6:36)
「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」

 私たちは神の国の者であり、父なる神によって生まれた神の子です。御父はあわれみ深い方ですから、御父のご性質を継承する子孫として、私たちもあわれみ深くしなさい、とイエス様は仰っています。

 良きサマリヤ人は、計算も雑念もなく、唯々いのちを助けたいと思う救済の情熱から、出来る限りを尽くして親切を施しました。

 そのように、あなたがたも困っている人の隣人となりなさい、とイエス様は勧めておられます。あわれみ深くすることへのチャレンジをされてみてはいかがでしょうか。

(エペソ4:32)
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」


 クリスチャン同士、あるいは親しい関係の人たちが良い交わりが出来る、そのポイントが示されてるみことばです。キリストにおいて罪が赦されているという、神のあわれみによる赦しを頂いて心の優しさが生まれた者たちは、その優しさから、兄弟姉妹への赦す心が生まれてきます。皆さんもぜひチャレンジして頂ければと思います。

 以上、二つの例を挙げてみました。これ以外にも、みなさんがチャレンジしているみことば、身に付いているみことばがあれば、それを続けて益々香りを放つ方向へと進んでいって頂きたいと思います。

【俳句】

キリストの  いやしの香り  みことばに 


 この俳句を上の句として短歌を作るとしたら、皆さんはどのような下の句を作られますか。チャレンジしてみてください。