■2022年4月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

可怜憐人【隣人を深く憐れむ】  up 2022.4.24


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。


 

 

 

 

 万物をお造りになった神、私たちの天のお父様はあわれみ深いお方でありますから、私たちも、神のかたちに似せて造られた者として、あわれみ深さを内に秘めている者です。しかし、罪のためにそれが生かされず歪められていると言えるかもしれません。

あわれみ深い行動は、神様の香り
 
 キリストの香りを放つ一年として、あわれみについてお話をしてきております。イエス・キリストは、あわれみ深い神様が人となられて地上に来られたお方ですから、キリストの香りとは、神様のあわれみ深さである、ということに気付かれたことと思います。

 あわれみというのは感情的なものと思われ易いのですが、聖書(特に旧約聖書)では、あわれみは、考える余地なく衝動的にあわれみの行動をとる、というような湧き上がってくる力強い行動です。

 神様のすばらしさ、神様のご臨在、神様があなたの内におられることのしるしは、あわれみ深い行動として神様の香りを放つ、というのが今日の結論となります。

 このことを、ルカ10:25-37から見てみましょう。

◎ルカ10:25-37 

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るでしょうか。』イエスは言われた。『律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると、彼は答えていった。『【心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ】、また【あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ】とあります。』イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』イエスは答えて言われた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合せ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とブドウ酒をそそいで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」

〇永遠のいのちを得る質問
 この律法学者はイエス様をためそうとして、永遠のいのちを得る質問をしました。

 「永遠のいのち」というのは、神に認められた存在としていつまでも存続するいのちのことです。それは、神を愛し隣人を愛することを中心としたモーセの律法を、守り行うことによって得ることが出来ると律法学者は答え、イエス様も「その通りです」と同意されました。

〇律法を守り行うこと
 律法には、もう一つの側面があります。律法というのは違反者のために作られたものです。違反者(私たち罪人)が罪を犯したか犯していないかを見極めるために、律法が必要です。

 私たち人類がなぜ罪人であるかと言うと、アダムとエバが「善悪の知識の木の実を、取って食べてはならない、食べたら死ぬ」と言われた神様の戒めを破って罪を犯したために、2人はエデンの園の外に出されて、神様との交わりが閉ざされ、霊的に死んだ者となりました。

 神様から離され、神様に認めてもらえない状態の者、これを罪人と言います。その後、アダムとエバの子孫は全員、今にいたるまで、この罪人の状態にあるわけです。

 しかし、「永遠の死」というさばきはまだ下されていません。神様は一人でも悔い改めて神に立ち返るようにと、さばきの日(最後の審判の時)を遅らせておられます

〇神を愛し、隣人を愛すること
 律法学者は「神を愛し、隣人を愛すること」が、律法の中心であることを知っていましたが、「隣人とは誰か」が、分からなかったようです。そこでイエス様は「良きサマリヤ人」のたとえ話をなさいました。

〇「良きサマリヤ人」の例話
 強盗に半殺しの目にあって意識を失い息も絶え絶えで助けを待つばかりのユダヤ人を、最初に見つけた祭司とレビ人は、いずれも神に奉仕する人たちでしたが、倒れている彼を見て道の反対側を通り過ぎていきました。

 そして当時ユダヤ人から汚れていると見下げられていたサマリヤ人が通りかかり、彼を見つけた時、即座に助け、介抱し、親切を尽くして世話をして、去っていきました。

〇同じようにしなさい
 「この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とイエス様は尋ねられ、「その人にあわれみをかけてやった人です。」と律法学者は答えています。
 
 イエス様は、私たちが人にあわれみを施すときに、隣人になるという関係が生まれるのだ、ということを教えておられます。そして、「あなたも行って同じようにしなさい。」とイエス様は言われました。

 私たちも困っている人がいる時、見て見ぬふりをすることはないでしょうか。隣人とは誰か?と考えることよりも、助けを必要とする人の隣人となって、必要な手を差し伸べるというあわれみの実践をイエス様は勧めておられます。

◎デボーションポイント

(1)神のあわれみは、私たちをどのように見られたのか?

 あわれみ深い神様は、アダムとエバの子孫である私たち罪人をどのように見ておられるのでしょうか。

 神様は、私たち罪人を、強盗に襲われて倒れていたあのユダヤ人のように、自分では解決できない罪と死の力に縛られている者、誰かに助けて頂くしかない者のように見てくださっておられます。

 ですから神様は、救い主イエス様を地上に送られて、信じる者に、罪と死の力からの解放と、善に親しみ敬虔に生きる歩みと、永遠のいのちへの望みを与えてくださいました。

 自分がどんな状態で倒れていたのかを分かっている人は、そのように救ってくださったイエス様への感謝が心にあふれてくるのではありませんか。 

(2)あわれみを施すとき何を考えますか?
 聖書の言う「あわれみ」は、自分でいろいろ考えて計算して施すものではありません。いま誰かが瀕死の状態にあって、すぐにもいのちを助けなければ、というような衝動的な行動です。

 母親の、子に対する愛を、想像してみると分かり易いでしょう。自分のいのちよりも子供のいのちを優先して助けたい、それほどに愛しているのがあわれみです。

 罪と死の力に縛られて、為す術もない全ての人々の救いのために、また全ての人が本来の神の子としての立ち位置に戻れるように、そして神様との交わりが罪によって断たれていた全ての人のその罪を取り除くために、その救いの方法を、神様はイエス・キリストを通して歴史の中に刻まれた、これが神様のあわれみです。

 そしてそれは、じっくり時間をかけて、どうしようかと考え出したというものではありません。アダムとエバが罪を犯した時点で、
「衝動」ともいうような強いあわれみの心が湧き上がり、即座に、「彼(女の子孫)は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)と語られました。既にそこで、人類の救済のご計画を実行されることを、語られたわけです。

 「天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くありなさい」という今日のテーマのみことばは、「しなければならない」というのではなく、私たち人間は神様のご性質を継承する者でありますから、あわれみ深い人生、施しの人生を歩むことは、私たちの本分であるということです。

 この「施し」という日本語は、「コイノニヤ」というギリシャ語を翻訳したものです、英語に翻訳すると「フェローシップ」です。

 「ジーザスフェローシップ」とは、施す交わり、与え合う交わり、憐れみをもって助け合う、親切を行う、この施しが神様の願っておられる交わりなのです。神のあわれみを中心に、これからも親切を施すあわれみ深さの歩みを心掛けてまいりましょう。

【俳句】

あわれみは  いのちへの道  人の道


 すべての人があわれみ深い心をもっていたら、争いも憎しみも恨みも小さくなって、平和な社会が築き上げられていくのではないでしょうか。

 あわれみは、永遠の命への道であり、地上では人の歩むべき本分です。

 

 

 

 

 

■2022年4月17日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

キリストの復活と、人にとっての復活  up 2022.4.17


主題聖句(第1ペテロ1:3)
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。


 

 

 

 

 キリスト教のイベントで一般的なものはクリスマスですが、実は諸外国ではクリスマスよりも重要な位置付けにあるのが、イースター(復活祭)なのです。キリスト教信仰の最も重要な教えの一つとして、イエス・キリストの復活があり、この復活があるからこそ、私たちに希望があるということを、今日も世界中の教会で語られています。
なぜ、復活が重要なのか、また私たちにとってキリストの復活がなぜ希望になるのかを、ひとたび聖書から教わっていきましょう。
 
 まず、復活に至るためのプロセスに、“十字架“と“死“があります。すでに福音として私たちは聞いている通りですが、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。ここに神の愛が示され、神の人への干渉が人類の歴史に刻まれました。
 さらに、イエス様は死をも体験されました。十字架にかかるだけで、すぐにそこから下りては裁きになりません。イエス様の命という代価をもって、完全に私たちの罪が赦されたのです。
 神である方が人のために命を捧げてくれただけでも大きなことですが、福音をさらに完成させるために、父なる神はイエス様を死から復活させました。この復活には大きく2つの意味があります。
 1つ目は、神は生も死も支配されるお方だということです。人が絶対に干渉することの出来ない領域が生と死です。神はその領域にも干渉することのできる唯一なる存在なのです。
 2つ目は、復活は死への勝利ということです。私たちの神は、死に勝利し、今も生きておられる神なのです。
 勝利の神であることが私たちにはとても大きな希望をもたらしてくれます。いくつか聖書の箇所を見てみましょう。

(ヨハネ11:25)
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

(第1コリント15:22)
「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

(第1ペテロ1:3)
「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

 私たちの肉体はいつか死を迎えますが、イエス様を信じるものは死で終わらないということです。死の先には、神様が約束されている御国の相続があるわけですが、この世の中は、「そんなの必要ない、死んで終わりでいい」と安易に考えるでしょう。ですが、聖書は次のようにも語っています。

(ヨハネ5:29)
「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

 死後は、必ず神の裁きがあるのです。ですから、この地上での正しい行いが報われないことはないのです。
 さらに、信仰を全うするうえで次のみことばが大きく後押ししてくれます。

(第1コリント15:17)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

(第1コリント15:32)
「もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。」

 キリストの復活があったからこそ、私たちが信仰を持つことに意義があるのです。この世が神と呼ぶものはたくさんありますが、どれも命のない偶像です。命のない偶像を信仰し崇拝するとは、なんとむなしいことでしょう。私たちの信仰がむなしくないのは、唯一今も生きておられる神だからなのです!
 キリストの復活は、死を超越する神の存在を示し、私たちを死から解放させる福音です。復活にあずかれる恵みを大いに喜びましょう!

 

 

 

 

 

■2022年4月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

「死」と「復活」  up 2022.4.10


主題聖句(ヘブル9:27)
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、


 

 

 

 

 今週は、イエス様が十字架にかかられる受難週です。

 イエス様の「死」ということを通して、「死ぬ」ということについて皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 テーマは『死と復活』、みことばは、へブル書9章27節です。ここから、人は必ず死に、神の前でさばきを受けるために必ず復活する、というキリスト教の死生観に話を進めてまいります。

 クリスチャンは、死後の世界がある、死後にも人生があると信じています。それは、人が死んで終わりではないことを聖書からも聞き、そしてイエス様が聖書の預言通りに歴史の中に現れてくださったことを通して、死後の世界の証明を、神様がしてくださったからです。

◎生者必滅
 
 神様を信じない人々の考え方は、「生者必滅」(生命あるものは必ず死ぬ)というように、人生の無常を示しています。

 聖書にも伝道者の書という中で、人間を中心とした立場からの「生者必滅」が語られていますので見てみましょう。

(1)伝道者の書2:14-15
「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行きつくことを私は知った。私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行きつくのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』私は心の中で語った。『これもまた空しい』と。」

(2)伝道者の書9:3
「同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。」

(3)伝道者の書3:19
「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。」

 このように、知恵者も愚か者も、善人も悪人も、獣も人間も等しく死ぬ。死ねばすべてが終わるのだから、善を行おうが悪を行おうが、人生は無意味で空しいものだと、伝道者の書では、死の問題が解決できない人々の生きることの虚しさを悟って表現しています。

 では、聖書全体は「死」について何と言っているでしょうか。

◎死者復活

(1)黙示録20:12
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」

 人は死後、神様の前に立って裁きを受けるために復活します。

 「裁き」は、悪いことを裁くだけでなく、良いことには報いをもたらしてくれます。両方を「裁き」と言います。良いこと悪いこと両方を裁いて、その悪いことには永遠の死を、良いことをした人への報いは永遠のいのちに至るという「裁き」を受けるために人々は復活して神の前に立つのです。

(2)第1コリント15:42-44 
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

 「復活」とは、今の肉体の状態でよみがえることではなく、さらに優れたものとなって復活するということを聖書は教えています。

(3)マタイ6:19-21 
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

 死んで終わりではなく、死後の復活、死後の生活があるのだから、いま地上において、天に宝を蓄える意味があるのですよ、とイエス様は語られています。
 
 以上のことから、死というものが一つの区切りであることを、聖書は私たちに教えています。例えば定年退職は、新しい生活、新しい分野に入るチャンスの時です。もし定年がなかったら、いつまでも同じことを続けていかねばなりません。

 そのように死は、新しい始まりの前の一つの区切りとして神様が与えてくださっているものですから、クリスチャンにとっては祝福です。次は更に優れたものへと進むための復活であるわけですから、区切りとしての死を迎えることは素晴らしい希望です。恐れることではありません。

【デボーションポイント】

(1)死後を考えての人生をどう歩みますか?
 クリスチャンでも死後の世界を信じられなかったら、「生者必滅」「無常の人生」で終わってしまいますから、なんとかこの地上で活躍して名声名誉を得て歴史に名を残していきたいというような、そんな人生に終わってしまうかもしれません。

 死後の世界があると信じているなら、私たちはどのような人生を歩むのでしょうか。

(2)死後に報われる方が重要なのはなぜ?
 クリスチャンはこの世で報われなくても、死後の世界で報われるから安心です。復活があるから、死んだ後にも永遠の人生があり、天に積んだ宝をそこで使うことができるのです。この地上で生きている時に、天に宝を蓄えることが出来るというのですから、素晴らしいではありませんか。

(2)キリストの死に望みを持つクリスチャンの死
 イエス様は十字架にかかって、私たちの罪の贖いのために死んでくださいました。そのイエス様の死に望みを持つクリスチャンにとって、「死」はどういう意味があるのでしょうか。

 救い主キリストを信じて死んだ者も復活した後、神様の前に立ってさばきをうけます。生前の行いについてのさばきは、キリストを信じる者も信じない者もすべての人が罪に定められます。」
 
 しかし、救い主イエス・キリスト(神のあわれみ)を信じて、神のあわれみの内に生きる人生を選んだ人々へのさばきは、善に対する報いとして神の国を相続することが出来るのです。その約束が与えられているのです。

 これら三つのデボーションのポイントは、すでに皆さんがご存知のことだと思います。しかし、もう知っている、というところで終わってはいけません。大事なことは、それに生きているかどうかです。死後の世界を目的として、今あなたのクリスチャン生活を積み上げているかどうかということです。
 この世に気が取られすぎてはいませんか。重要なのはどちらの方ですか。死後を考えたこの世の生き方をするならば、少し変えなくてはいけないことがあると気が付くのではありませんか。

 善をおこなって神様に喜んでいただくこと、すなわち、あわれみ深い神様のお心を動かすような、あなたのその生き方が天に宝を蓄えていくことにつながるということ、十分知っているそれらの知識を、あなたが無駄にしないように、実際の生活の中に生かしていっていただきたいのです。

 死後のことを常に意識し、死後の世界を考えた正しい判断、賢明な生き方を一歩づつ進んでいっていただきたいと思います。


【俳句】

  人生の  課題を終えて  天国へ    

 クリスチャンにとって、この地上の人生は、神様から与えられた永遠の人生への課題です。

 死とは人生の課題を終えた証、そして天国での新しい人生の始まりです。この望みを実生活の中でも実感しつつ、その生活の実を実らせていきましょう。

 

 

 

 

 

■2022年4月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あわれみと律法  up 2022.4.3


主題聖句(ルカ18:18〜23)
またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。


 

 

 

 

〈この出来事の焦点〉
 神のあわれみによって、罪を犯した人類に与えられたのが律法。
 神があわれんでくださるので律法を全うすることができる。

【内容観察】
 この出来事は3つの福音書に出てきます。この人物はルカでは役人、マタイでは青年、マルコではひとりの人と表現されています。この三箇所から考察できることは
(1)彼は大金持ちの青年役人
(2)永遠のいのちを求めている
(3)イエスの答え=戒めを守る(十戒)
(4)小さい時から守ってきた
(5)施しが欠けている 
※施しとは、全部の持ち物を売ってという条件つきの施しです。できる人はほとんどいないでしょう。
(6)顔を曇らせて去って行った

【デボーションポイント】
(1)永遠の命を得るための方法を求めて来た。
 彼はほとんどの望むものは、自分で手に入れられる環境にあり、また本人も努力して手に入れてきたのでしょう。しかし彼にとって永遠のいのちだけは自分の努力では手に入れられないという壁にぶつかったのです。
 私たちは自分自身で永遠のいのちを手に入れることはできません。ただキリストを信じる信仰によってのみ永遠のいのちは与えられるのです。
 ただこの永遠のいのちからはずれないために、信仰を保ち続けるための努力や意思はしっかりと持ち続ける必要があります。

(2)なぜ、小さい時から戒めを守ることができたのか
 彼自身も性質的に良いものがあったでしょう。しかしそれ以上に生活環境が大変良かったはずです。大金持ちの青年とありますから、おそらく家柄も良く、また役人とありますから、その地位につけるだけの環境も整っていたと考えられます。そういった良い家庭の中で両親にも富にも恵まれていたので、ほとんどの願いはすんなりと手に入り、罪を犯す必要もなかったとも言えます。そして良いことに心を向け、正義感もあり、誠実でもあったのでしょう。

(3)惜しみなく施す心が欠如
(あわれみ深く情け深い愛)
 この三箇所を良く考えながら、自分の生活に当てはめて考えてみましょう。
 (1)の努力を中心に永遠のいのちを得ようと、いつの間にか考えていないでしょうか。そして、努力が実らなかったら、自分はだめだと失望し落ち込んでいないでしょうか。
 しかし、永遠のいのちを得るためには努力ではなく、キリストへの信仰によるのです。
 
 (2)の彼を支えていたのは、特にお金の力だったのではないでしょうか。
 私たちの世界もお金の力は大きな影響力を持ちます。クリスチャンも例外ではありません。お金のことを全く心配せずにすんだらどんなにいいでしょうか。良いクリスチャンとなるためにお金の力が必要と考えるのではなく、良い証しを立てるために、お金を用いると考える方がいいと思います。
 与えられた経済でキリストの証し人として、神を敬う生活を実らせてゆくことが大切です。貧しい中にある人はその貧しさの中でキリストを敬う生活をしてゆくことで、同じ貧しさの中にある人に証しすることができます。
 お金を持つことでいいクリスチャンとして社会に証ししようとするのではなく、今置かれている環境でキリストを証ししてゆくことができるはずです。イエス様も貧しさの中を歩まれました。
 良いクリスチャンとは生活環境に頼ることではなく、どのような生活環境であっても神を信じる心構えをしっかりと持つことです
 
 (3)の惜しみなく施すとはどういうことでしょうか。少しの施しなら誰でもできます。しかしイエス様はこの金持ちの青年に「持ち物を全部売って貧しい者に施し、自分についてきなさい」と言われました。 
 彼には自分の生活を脅かすような施しはできませんでした。あなたにとって施せる額は心の平安を保てる額ではないでしょうか。自分の名声や地位のために施すのは、愛とあわれみからでる施しとは違うのです。本当の施しとは、相手へのあわれみと愛からでないとできないということを、イエス様は彼に気づかせるために、あえて厳しく語られたのだと思います。
 
 愛から出る施しは自分の身を切るような痛みを覚える施しです。
神がすべてを与えてくださっているという信仰をもつことで、この愛とあわれみの施しはできるようになります。相手の弱さや苦しみに共感するほど施すことができるようになります。これがあわれみです。

あわれみと律法との関連
◎ローマ13:8
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」
 他の人を愛するとはあわれみからその人の必要を満たすために自分が犠牲を払うことです。あわれみは大きな力です。
 
 神は罪人である私たちをあわれまれて、ひとり子を捧げられました。それは神様の全財産を捧げることです。

 隣人愛は律法を全うするのです。人は神様の愛を知ることで、神様の愛で隣人を愛することができるようになります。神様は惜しみなく私たちのためにすべてを捧げてくださいました。

◎マタイ23:23
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」
 十分の一を神様の前にお返しする動機は何でしょうか。神様の主権を恐れ敬い信頼している証しです。神様はその心を見たいと願っておられます。ひとり子を犠牲にして、私たちの救いを成就してくださった神様の恩に対する応答として、神様は十分の一を求められました。それは、金額ではなく、私たちの誠実さを見たいと願われているからです。
 イエス様は内面的な心の姿勢である「正義とあわれみと誠実」を言われたのです。
 この金持ちの青年に欠けていたのは、ただひとつ「あわれみ」であり、これこそが大切であるとイエス様は語られているのです。あわれみのある正義、あわれみのある誠実さこそが神の求められているものです。

◎ヤコブ2:13
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」
 あわれみを感じても親切という形で示さなかったら意味がありません。裁判官が少しでもあわれみを感じたら刑を軽くしてほしいと弁護士は願い弁護します。
 このみことばは、あわれみはさばきに優先するということです。
 あわれみばかり求めて神様にゆるされているのに、他の人にあわれみを少しも示さなかったら、受けたあわれみも結局自分の利益と考えているに過ぎません。自分の思い通りに相手が応えてくれなかったからと相手を裁いてしまっていたら、その人はあわれみを示さなかったとして、神に裁かれてしまうということです。
 神様は私たちのすべての罪をゆるしてくださっているのです。
 ルールを守ることはたしかに大切ですが、守らない人に対して、あわれみをもつことは本当に大切です。相手を裁いて、神様のあわれみを無駄にしないでください。

【俳句】
律法の さばきの前に あわれみを

 

 

 

 

 

■2022年3月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あわれみと聖め  up 2022.3.27


主題聖句(マルコ1:40〜42)
さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。


 

 

 

 

 今日は「あわれみと聖め」と題して、(マルコ1:40-42)から、お勧めをさせて頂きます。

 ポイントは「心からきよくありたいと願っているなら、キリストはあわれみをもってきよめてくださる」ということです。

 「きよい」とは、「美しい」という言葉と同じですが、「健康である」「健全である」という意味も含んでいます。神の聖さというのは「完全な姿」と結論付けることができると思います。

 「きよい」というのはキリスト教の中心主題でもあり、「きよくなること」は、私たちの救いの最終目的です。そして神が人となられた御子イエス・キリストのご生涯は、「きよい」ということの完成された人生と言うことが出来ます。

 (マルコ1:40-42)では、ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、「癒してください」ではなく、「きよくしてていただけます」と言って、きよめを求めてきました。

 そしてイエス様は、神様のあわれみによって、罪の象徴であるツァラアトが癒される、すなわち、きよめられるということを、ここで実証なさいました。

<デボーションポイント>

(1)ひざまずいて→礼拝の心

 ツァラアトに冒された男性の「ひざまずく」という態度の中に、主を畏れる敬虔な心を見ることが出来ます。旧約聖書の神ヤーウェが遣わされた救い主として、イスラエルの王の王となられるお方として、イエス様の前に彼はひざまずき礼拝しました。
 
(2)お心一つで→みこころを知る
 「みこころ」とは、神様がそのように行いたいと考えておられること、願い、ご計画です。神様のそのご計画を実行するために来られたお方がイエス様であると、この男性は理解して、「お心一つで」とイエス様に申し上げたと思われます。

(3)きよくして→神への帰属
  彼は、きよくなること(ハギオス=神に所属すること)、あるべき健全な元の姿に戻ることを求めました。

 私たちの元の姿とは、創世記1章に書かれてある「神のかたちとして、神に似せて造られた」姿です。アダムとエバが罪を犯す前の本来の人の姿に立ち返りたい(きよめられたい)ということです。

(4)いただけます→神への信仰
 罪人の罪を取り除いてきよめることは神様のご計画であり、ツァラアトが癒されることは神様のみこころにかなうことであるとの確信から、この男性は「ツァラアトを癒してください」とは言わないで、「きよめて頂きたい」でもなく、「きよくしていただけます」と言っています。

 イエス様はマタイ16章で、「あなたは生ける神の子キリストです」というペテロの信仰告白に対して、「このことを明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とおっしゃいました。

 ツァラアトの男性も、ペテロと同じように神様からの啓示を受けて「生ける神の子キリスト」と純粋にイエス様のことを認めることが出来ています。 

 私たちも、求めていれば、考えていけば、生ける神の子キリストはイエスであるというところに神様は導いて下さり、さとらせてくださり、目が開かれます。真理を求める人には必ず神様は「イエスはキリスト」という啓示を与えてくださるのです。
 
 癒しだけを求めていると、「イエスは生ける神の子キリスト」という信仰に至らず、ご利益宗教で終わってしまいます。

 私たちが神様に求めるべきことは、罪人の私たちがきよめられるということです。そのために神はイエスキリストをおつかわしになって、私たちのきよめの実現のための御業を成就してくださったのです。

(5)深くあわれまれたのは?          
 イエス様は、ツァラアトの男性が神を畏れる敬虔な心を持っていながら、肉体がツァラアトに支配されて、魂も心も苦しみ悩んでいるのを汲み取って、深くあわれまれました。

 私たちにも、神を恐れる敬虔な心を持っていながら、罪に支配されている状態がないでしょうか。パウロ先生は、そのような魂の苦しみ、内なる葛藤についてローマ7章に記しています。

(ローマ7:19-20) 
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」

 パウロ先生はイエス様を信じて聖霊に満たされているにもかかわらず、肉の内に宿っている罪のために、心のきよさを保つための葛藤が絶えない人でした。しかし、神様はパウロ先生を深くあわれまれました。そしてキリストを伝える働き人として用いられるようになりました。

 イエス様は、きよめられることを追い求めている中で葛藤し悩んでいる者を、深くあわれんでくださいます。あなたの魂、心は、きよめられたい、罪のないアダムとエバのような姿になって神様の御国で神の御こころを行いたい、そんな気持ちを持って、クリスチャン生活の葛藤を歩んでいるときに、あなたは神様に深くあわれまれているのです。

 (ローマ7:25)「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」

 ここから8章にかけて、救いについて、イエス・キリストが罪を赦す権威をお持ちであること、神の御霊の働き、罪に勝利するという人生の歩みが語られていきます。

パウロ先生は、悩ましい罪の状態から、きよめていただけることを感謝しています。まるでツァラアトの男性の「きよめていただけます」と言った神への信頼の姿勢と同じです。

 悩み多きクリスチャン生活は、神様の前には、あわれみを豊かに注がれている状況の中にありますから、信仰を働かせて、必ずきよめて頂けるという信頼を持って歩むときに、ローマ8章からの「御霊の原理」が私たちの内に成就して、あらゆる貪欲に打ち勝つ自制の力を御霊様が与えてくださるのです。

(6)彼に触れ→あわれみの行動
 ツァラアトの人には触っても見てもいけないという規則がある中で、イエス様は彼に直接手で触れるというあわれみの行動を示されました。あわれみは、あらゆる隔たりを取り除きます。律法を守ることは大事ですが、もっと大事なことは、あわれみをもって接することです。

(コロサイ3:14)
「そして、これらすべての上に、愛をつけなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」
 
 私たちを結び合わせるのは愛ですが、その愛は、受け入れあい、赦しあうという、あわれみの心を動機とした愛です。私たちは罪人ですから、互いに憐れみ合うことによって結び合わされるのです。
 愛しているといいながら、相手を憐れむことのできない愛は、自己中心の愛です。愛している相手が自分の心にあわない違反をしたときに嫌いになってしまう、それは愛ではありません。相手を奴隷にする単なる欲望です。本当の愛は、相手があなたのこころにかなわないことをしたとしても、あわれんで赦してあげることです。

(7)わたしの心だ→あわれみ
 イエス様のこころは、罪人を赦すあわれみで満ちています。あわれみは、神への帰属をうけいれてくださいます。あわれみがあるからこそイエス様は、汚れた罪に支配されている人々を受け入れることが出来、神様のもとに立ち返りたいという願いを聞いて下さいます。

 私たちもあわれみの心があればこそ、人を赦し、人を受け入れることが出来るのです。

◎考えてみましょう!

★なぜ、罪や汚れを取り除くことができるのか?

 律法に沿って、あわれみを実現するために、イエス様がなされたことは、人々の罪の身代わりに、ご自分のいのちを犠牲として、十字架でさばきを受けてくださったことです。だから、イエス様には罪を赦す権限があるのです。

★神のあわれみを受けることは、きよめられることを求めていること!
 
 私たちが祈るときの気持ちは、神の前にあわれんでいただいて、この願いを聞いて頂きたいということですが、神様のみこころは、願い求める人がきよめられることを期待して、願いに応えられるのです。神様は、私たちがきよめを求めていると信じて私たちの願いをきいてくださる、あわれみ深い神様なのです。

 きよめられること(罪をやめること)は嫌だけど、この願いは聞いてくださいというのでは、あわれみを受け止める心が出来ていないので、神様のみわざはその人に届きません。

 この2点をしっかり考えて、常にイエス様の十字架には、罪の赦しの権威があって、私をきよめることがお出来になる、という罪や汚れを取り除くことができる理由をしっかりと心に刻んで主の前に求めて頂きたいと思います。

【俳句】

 みこころに  かなう願いは  聖めなり

 すべての願いのゴールは、あなたがきよくなることのためです。

 

 

 

 

 

■2022年3月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あわれみと光  up 2022.3.20


主題聖句(ヨハネ9:1〜5)
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。


 

 

 

 

 あわれみと光はどういう関係があるのでしょうか。
 
 聖書の中心は神を愛することと、隣人を愛することだとイエス様は言われました。

 神を愛するとは、神のあわれみを信じて信頼することであり、隣人を愛するとは、隣人をあわれむことです。

 聖書全体はあわれみ深い神、あわれみの真理が中心主題と言ってもいいのではないかと思います。

 今日はヨハネ9:1〜5の箇所から、あわれみと光について学びましょう。

 闇の中に輝く光とは神のあわれみです。
 
 生まれつき目の不自由な人は、当時人々から施しを受けることでしか生活の術がありませんでした。彼にとっては、生きるというそれ自体が闇そのものであったのです。

 大きな障害や病気の背後に罪との関わりがあると考えられていました。それで、弟子たちは彼の障害は彼自身に原因があるのか、それとも両親にあるのかとイエス様に質問したのです。

 人は何か問題があると過去にその原因を探ろうとするものです。しかし、イエス様は意表を突く答えをされました。

 この目の見えない人は、イエス様との出会いによって光を受ける、つまり目が開かれるという癒やしを受けることになりました。

 それゆえイエス様は「わたしは世の光です」と言われたのです。
(詩篇119:77)には「私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。」とあります。

 失望と絶望と暗闇の中で、神様に、あなたのあわれみで包み、生かしてくださいと祈り求めているのです。

 人生の困難な苦しみのとき、人は神に祈ります。それは助けて欲しい、救って欲しいと願うからです。しかし、助けは神のあわれみによります。神があわれんでくださるからこそ助けが来るのです。

 このようにあわれみと光は同じと考えられます。光とはあわれみです。

〈デボーションのポイント〉

(1)生まれつきの盲人
(2節)不幸は罪深さの実 
 
 それは過去の出来事のゆえに今の現状が起こっていると考えることです。確かに不幸の原因が罪によるものも多いです。

(2)イエス様の答え
(3節)神のみわざが現れるため 
 
 今は見えていないという状態が奇跡的に見えるようになるという未来を語られました。今はまだ救われていない現状があったとしても、神はこれから光を与えてくださるという未来に目を向けられたのです。

 過去に注目して原因追求しても、どんなに悔いても過去は変わりません。しかし、神は未来に成就する幸いと救いに目を向けるようにと語られているのです。

 今あなたは問題があり、不幸かもしれません。しかし、神はそのような今の状態を未来において変えることのできる救いの神であるということに希望を持ちましょう。
 未来を変えるのは難しいと考えている人は、自分の力で推し進めようとしているからです。あるいは自分の考え方ややり方を変えたくないと固執しているからです。変えることができる神様のあわれみ、救いを求めましょう。

 今日よりも明日の方がより素晴らしいものになるという希望を神様に持ちましょう。

 イエス様は過去からの解放を宣言されています。不幸の根本原因である罪の赦し、そして病気の癒やしによって未来に救いを成就されたのです。

(3)「神のわざ」とは?
(7節)いやし=救い=あわれみによる罪の赦し
 
 目が見えない人が救われるとは、目が見えるようになることです。癒やしも救いも神のあわれみです。ご自身が罪を負ってくださったからこそ私達はゆるされ、癒やされるのです。

 神様の癒しは律法を無視したものではありません。法的根拠のもとに理にかなった奇跡が行われるのです。

(4)神のわざを「昼の間」に行う
(4節)働くことのできない夜がくるから
 
 あわれみの期間には限りがあります。夜とは罪に満ちた状態であり、神の裁きが下される時を表します。

 ソドムとゴモラは罪が満ち、神の使いが遣わされ、その状況が確認された時滅ぼされました。

 罪が満ちると闇になり、そこに光はなく神の裁きが行使されるのです。そして新しい永遠の夜明けがやってきます。
 
 今はイエス様が来られてから夜が明けるまでの、恵みの時、救いの時です。

(第2コリント6:2)「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 夜の終わりにはますます罪が満ちて暗闇が増していきます。早く救いを受けて神の裁きにあわないようにしましょう。

 いつまでも神のあわれみは続くわけではありません。また、人は死によってあわれみの時は終わってしまいます。すべての人は死後神の前に立って裁きを受けなければならないのです。

 今はあわれみの期間で時が与えられているのですから、今日という今、悔い改めて神の救いの内を歩むようにしましょう。

(5)イエス様は世の光
昼間の光の働き、神様のあわれみを輝かせる昼間の役割をイエス様はされています。

(創世記1:1〜4)
「初めに、神が天と地を創造した。
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。」

 1節と2節の間に何か大きな変化があったのではと聖書学者は言っています。神様は最初にやみを造られることはないはずです。
 
 天と地を創造された時はすべてが良しとされたはずですが、何かが起きて、地が茫漠(ぼうばく)として非常に虚しい希望のない状態になっていました。
 
 そこに神は「光あれ」と光を造られました。回復は神のあわれみからもたらされます。
 
 癒しも救いも神のあわれみによります。神はまずあわれみからすべてを始められました。あわれみという希望の光を茫漠とした地に投げ入れてくださったのです。

 地はあわれみの光によって回復されていきます。

(4節) あわれみのわざを行う
・罪の世界に輝く神のあわれみ
 
 裁きが実行される前に光あれと言われたように、イエス様は世の光として来てくださいました。そしてあわれみを信じた人は神からあわれまれて、最初に創造されたように回復されていくのです。

・罪の裁きを待つ人間にとって、あわれみによる赦しは「光」である
 アダムとエバの罪以来、ずっと罪の中に入った人類は死後は滅びしかありませんでしたが、イエス様が罪の代価を十字架で負ってくださったことを信じ受け入れることによって、罪赦されて死後の裁きから救われるという望みを与えられました。すべてはイエス様の救いによります。

〈考えてみましょう〉
★光のうちを歩むとはどういうことでしょう?
 
 光とはあわれみのことです。

★光の子どもらしく歩む(エペソ5:8)とは、どのような歩みですか?
 
 神様のあわれみのうちを歩むとは、私は罪赦された罪人ですという、罪深さを自覚することです。
 
 罪を犯すことに大小の違いはありません。神のあわれみをうけている歩みはいつも感謝して歩むことです。そして神様のご性質を受け継いでいる私達はあわれみ深くあるべきです。

 私たちはあわれみ深い神の子らしくあわれみ深い歩みにチャレンジしていきましょう。

【俳句】

神の子は あわれみを受け 赦し合う

 この一週間あわれみと光を心に留めて歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2022年3月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あわれみと権威  up 2022.3.13


主題聖句(マタイ9:1〜8)
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。


 

 

 

 

 これまで、神様のあわれみの香りが、どのようなかたちで私たちから放たれていくかということを、聖書の中の五つの出来事からお話してきました。

 一回目は癒された10人のらい病人の話で、神様のあわれみを受けた者がイエス様を礼拝するという姿を通して、神様のあわれみの香りが放たれていくということでした。 
 
 二回目は悪霊から解放された男性が、神様から受けた解放の御業、あわれみの大きさを、人々に伝え知らせるということが、神様のあわれみの香りを放つことになるということでした。
 
 三回目はザアカイの回心の話で、イエス様を信じた後の180度違う生き方が、神様のあわれみの証しとして、神様のあわれみの香りとなりました。
 
 四回目は罪深い女性の話で、神様がイエス様を通して与えられた赦しのあわれみに対して、彼女が応答した精一杯(誠実)の心、捧げものや奉仕が、神のあわれみの香りを放ちました。
 
 五回目は、百人隊長の懇願を通して、秩序と礼節というかたちで、神様のあわれみの香りが放たれて行くということでした。

 今日は「あわれみと権威」というテーマでお話を進めていきます。
 あわれみと権威とはどういう関係があるのでしょうか。
 
 イエス様は、神が人となられたお方です。神ご自身であると言っても過言ではありません。神様は万物の創造者、造り主でありますから、すべての権威をもっておられます。その権威によって秩序を守り、治めておられます。そしてその神様は、あわれみ深いお方です。「あわれみ」は感情的なものと思われやすいのですが、あわれみを施すには実行する力が必要です。それを「権威」というかたちで示された、その出来事を(マタイ9:1-8)から見ていきます。

◎イエス様のいやしは、「権威」によって行われていた。
デボーションのポイント

★「彼らの信仰」について
 イエス様は癒しの御業をあらわす前に、この中風の人と、彼を担いできた人たちの「信仰」に目を留められました。
 
 どんな病も治し、悪霊さえ追い出されたイエス様のことを、彼らは聞いていたのでしょう。自分も癒されたいと言う願いが、必ず癒してくださるに違いないという信仰につながって、イエス様の所へ信頼をもってやって来ました。

 この時代は福祉も何もない時代ですから、働けない人は施しを受けるか餓死するかしかない状況で、彼らは神様を頼りにやってきたのです。その信仰を見られたイエス様が彼らに声をかけられました。「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」

 癒しを求めてやってきた彼らに、イエス様は罪の赦しの宣言をなさいました。ユダヤ教では、罪の結果として病が生じると教えていました。ですから、単に病が癒されればそれでよいのではなく、病の根源にある罪の問題にイエス様は目を向けられました。
 
 罪を赦すことが出来るのは神様だけですから、人が罪の赦しを宣言することは、とんでもないことです。しかし、イエス様はご自分に批判的な宗教指導者たちに、はっきりと、ご自分が罪を赦す権威を神から与えられていることを知らせるために、「あなたの罪は赦された。」と、罪の赦しを宣言され、それから「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と、癒しを宣言なさいました。
 
 ここで私たちは癒しについてしっかり理解しないといけません。聖書において、病は神に対する罪の結果であります。そしてイエス様による病の癒しは、罪を赦すという権威的な癒しなのです。

★イエス様の地上での権威
 罪を赦す権威というのは、例えばBさんがAさんに罪を犯した時、第三者のCさんが、Bさんの罪を赦すと言っても無意味です。しかしCさんが裁判官で、法廷で決定したのならば、皆受け入れます。Cさんには国家から与えられた裁判官としての権威があるからです。
 
 イエス様は、罪を赦す権威を神様から与えられて地上に遣わされた救い主です。そのために、ご自分のいのちをもって人々の罪のさばきを清算するということさえもされました。ですから、イエス様が赦す人は神の前にも赦される、というこの権威の流れを、神様はイエス・キリストを通して証明されたというのが、病の癒しの根本的な理由なのです。

★今はどのような「時」
(第2コリント6:2)
「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
 
 イエス様が贖いの御業である十字架を成就して天に帰られてから、再びやって来られるまでの、今のこの期間はどういう期間であるのか、「今は恵みの時、今は救いの日です」と語られています。赦しの時です。
 
 イエス様は、神様の永遠のさばきの前に、神の赦しを伝えに来られた救い主です。その赦しは、神のあわれみの気持ちから与えられる恵み、救い、恩赦です。あわれみによる赦しを実現するための力(権威)をイエス様に授けて、キリストを信じる者は赦す、という恩赦を与えることを神様は決められたわけです。
 
 そして罪の処分は、救い主ご自身が全人類の罪を神の前に身代わりとして、その命をもって償いをされました。
 
 あわれみを施して相手を赦すということは、赦した本人が損失を被ることです。罪を犯した相手に損失を償わせるのが「さばき」ですが、損失を相手に負わせないで、自分が負って、相手の罪を赦す、というのが神様の赦しです。
 
 それほどに私たちをあわれむ愛を持っておられるというのが神様のおこころです。そのおこころが、かたちとなってこの地上の歴史の中に現れたのがイエス・キリストなのです。

◎まとめ
★さばき主の権威によって、あわれみによる赦しの期間が与えられている。 
 あわれみが無期限では、法に違反します。秩序が乱れます。ですから、あわれみの期間というものが必ずそこに設定されます
 
 どういう人々に対するあわれみを神様は注がれているのかをはっきりさせるために、神を敬い、神を信頼し、神の権威を認める者は、神が遣わされたキリストを信じなさい、ということなのです。それによって神の主権を認めるということを神様は受け入れられます。
 
 しかし、キリストを認めない人は、神の主権も認めない人です。主権者なる神がお遣わしになり、その神が権威を与えられたイエスを認めないということは、与えた神様の権威をも認めないことにつながります。
 
 イエス様のなされる御業というのは、感情的に施しや癒しをなされたのではなく、法的な権威に基づいたあわれみの行使です。
 
 ですから、どうしてもイエス・キリストの存在を通して、信じる人と信じない人との区別がなされていきます。それによって、滅ぼされるべきものが滅ぼされてはあまりにも惜しいという人々が世界中にいて、そういう人々は必ずイエス・キリストを信じるということなのです。これをしるしとして神様が分けられました。主権者のルールです。

 このルールに対して不満を覚える人は、万物の創始者であり創造主である主権者ということを認めたくない不遜な心を持った人です。それは国家の主権を認めないのと同じです。国家の主権を認めない人は、その国の国民とは言えません。
 
 神の主権、神の権威をもとに、あわれみによる正当な赦しを実現するという意味で、イエス様は権威ある赦しをこの地上にもたらしてくださいました。単にかわいそうだからという感情的なところで私たちを赦されたのではなく、神の権威をもとに「あなたの罪を赦します」と宣言してくださるのです。

★今は人をさばくときではない。あわれみによる権威によって互いに赦し合うときである。
 さばくのはさばき主なる神様だけです。イエス様もご自分の考えで裁くようなことはなさいませんでした。
 
 今は恵みのとき、救いの日、と神様は定めておられます。それはあわれみによる権威の赦しを与える期間です。あわれみによる権威によって互いに赦しあう時であることをよく覚えておきましょう。

 「あなたが人を赦さないなら、私もあなたを赦しません」というイエス様のこのおことばにも、権威の下に赦しの宣言がなされていることがわかります。行き過ぎたことを他人に語って、不満を持って、つぶやきをもって、さばいたりしないように気を付けてください。私たちがすることは、自分の感情ではなく、イエス様によってもたらされた赦しの権威によって「あなたを赦します」と宣言することです。そうすればあなたの罪も赦されるということです。

 これをぜひみなさん悟って、特に神を敬う私たちの間にさばき合うことがないように、不満を思うなら、赦していただいたことを思い起こして、お互いに赦されている者として憐れみ合っていきましょう。

 あわれみによる赦しこそが、神様のあわれみを受けた人のキリストの香りとして、生活の中に漂っていく香りなのです。
 ただ、赦すことは自分が損失を被る心痛いことであることも覚えておいてください。神様はその報いを天に用意しておられます。今はしっかり赦し合っていきましょう。


【短歌】

あわれみは さばきに先立ち 注がれて

   権威を信じ  共に赦し合う

 神のあわれみが、さばきに先立って、注がれています。

 私たちもあわれまれている者として、権威をもって赦されているのですから、互いに赦し合いましょう。

 

 

 

 

 

■2022年3月6日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

キリストのかおりを放つ
        〜御霊に属する〜   up 2022.3.6


主題聖句(ローマ8:5〜9)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。


 

 

 

 

「御霊に属する」
(ローマ8:5−9)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

キリストの香りは、3つの立場で考えることができます。クリスチャンとしての立場、個人の立場、そして、教会としての立場です。今回は教会の立場として放つキリストの香りについて見ていきます。

教会はこの地上にたくさん存在し、各々の場所で、神の子が集まり信仰が養われています。団体によって特徴があり、それら全てが神様のゆるしの中に存在し、キリストの香りを放っています。私たちの教会の特徴はずばり「御霊の働き」ではないでしょうか。御霊の働きによって私たちの教会は今日まで成長してきています。ある教会は、御霊の働きを否定したり、現代における御霊の働きを認めなかったりします。それを批判するつもりはありませんが、教会でも御霊の働きを認めにくい世の中だからこそ、私たちの原点をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
目に見えないものを人はなかなか受け入れることができないものです。終末の世の中は目に訴えかけて惑わしてきます。私たちは本当に大切な物を見失うことがないようにしましょう。

御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えるとあります。肉と御霊は相反するものです。肉を満たすことを追い求める世の中は、神に反抗します。その中で御霊に属し続けるのは本当に難しいことです。私たちは、日頃の中で意識するだけでなく、御霊のままに祈る、つまり異言の祈りを通して、自分自身の徳を高めることが重要になってきます。また、集会の集まりでは、預言をし、教会の徳を高める重要性を聖書は教えています。

聖書に書かれている通り、世界では戦争が起こっています。現代人からしたらとても信じ難く、よそ事のように思ってしまいますが、今の日本の生活は、そんな世界からしたら、ほんの一部であって、視野が狭いのは井の中の蛙であることを痛感させられます。霊的平和ボケになっていたことを悔い改め、もう一度、御霊に属することを実践し、キリストに喜ばれる歩みをしていきましょう。