■2021年10月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

貧しい人たちを顧みる  up 2021.10.31


主題聖句(箴言14:31)
寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。


 

 

 

 

 (箴言14:31)を読みますと、弱く貧しく困窮している人々への対応の仕方で、その人が創造主に対する理解をどの程度しているか、ということがわかります。
 日本では想像もできませんが、三日に一度何かを口に入れることも出来ない飢餓状態の人々がいるという世界の状況について、日本国際飢餓対策機構からの報告を見てみましょう。

(1)飢餓の現状 
 2020年 約6億9千万人 【原因】 紛争 気象変動 経済危機 2021年 約8億1千万人 【増加原因】世界的コロナ禍
 一年で約1億2千万人増加
 昨年の報告では、飢餓は紛争や気象変動、経済的危機により生み出され、子どもたちは5秒に一人が、飢餓で亡くなっているという状態でした。また、この報告にはありませんが、飢餓ではないけれど最低必要限の食料が得られない人々は推定30億人いるということです。
 今年になって世界的コロナ禍により、さらに1億2千万人の増加となっています。

(2)世界の食料状態
 年間生産量→43.3億トン 世界人口78億人に充分足りる
 年間廃棄量→13億トン  全生産量の三分の一が捨てられている
 日本はアジアで一番多い 一人がおにぎり一個分毎日捨てる
 
 余っている食料食材を不足している所に回すという簡単なことも、輸送費などの問題で実行できず、廃棄されている現状があります。
 
 欧米に次いで日本は世界で6番目、アジアでは一番多く、食料を廃棄している国であります。日本の廃棄量は、総人口1億2千万人が毎日おにぎりを一個づつ、つまり、全部で毎日1億2千万個づつのおにぎりを捨て続けている状態です。どれほどの人が助けられる量を、私たちは捨てていることでしょう。

 日本でこんなに捨てられている一番の理由は「賞味期限」の表示です。賞味期限はおいしく食べられる期限であって、消費期限(安全に食べられる期限)ではありません。しかし日本では賞味期限が捨てるきっかけになっているのが現実です。自分の五感によって確認して、捨てないように気を付ける必要があります。

 私たちは無意識に習慣的に食物を捨てていることがよくあるかもしれません。私たちの毎日の食料食品についての考え方、感覚を変えて行かなければ、世界の貧しい人々の問題の解決も遠いのではないでしょうか。
 
 聖書では「貧しい人たちを顧みる」ことについて、どのように言っているでしょうか。

(マタイ25:34-40)
「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」
 マタイの25章は、世の終わりについてのたとえ話が語られるところで、世の終わりにはどういうことが起こるのか、神様のどういう判断がなされるのか、が記されています。この34節から40節は、羊と山羊に分けられる場面です。
 
(1)貧しい状況の人を尊んだ報いとして、「正しい人たち」が王様からご褒美を頂いています。

(2)それは御国を受け継ぐという報いです。
 しかし、彼らはその報いが欲しくてそういう行動をしたのではありません。もし、その報いを目的としていたのであれば、「私たちはいつ、そんなことをしましたか」という質問は出て来ないでしょう。
 彼らはどんな動機で、そのような施しを行ったのでしょうか。

(3)それは、あわれみの心です。かわいそうだ、助けてあげたい、という愛の動機が湧き上がってきたので行動したのです。
 そして「最も小さい者たちの一人にしたことは、私(イエス様)にしたのです」と、さとしを与えておられます。

(4)貧しい者→最も小さい者
 今、空腹で渇いて裸で病気の、そんな最も貧しい人々が、この世界に8億1千万人もいるのです。
 
 この最も貧しい人々がクリスチャンかどうか、神を敬う人かどうか、そういうようなことは、この(マタイ25:34-40)には書かれていません。ただ、貧しく困窮している人たちに対し、敵味方関係なく、あわれみのこころから施し助けを与えることが語られています。これは大事なポイントです。
 
 貧しい者があなたの敵であって、元気になってあなたを倒したとしても、貧しい状況の中で施したことが、神の前に報いられます。私たちはこの地上で永遠に生きるわけではありません。たとえ敵に殺されても、その敵が飢えていた時に施した場合は、神の国を受け継ぐことが出来るという報いがあるということなのです。それは私たちの目指している「御国」です。
 
 日本にも生活困窮者が集まっている地区があります。そこで何十年も忍耐強く福音を伝える働きをされている先生方や教会があります。その根本はここにあります。「最も小さい者にしたことは私にしたことです」そこだけが希望なのです。決してそれは無駄にはならないということです。
 
 今日の主題聖句(箴言14:31)の中に「貧しいものをあわれむ者は造り主を敬う。」とありました。貧しい者と神様との関係には何か深いつながり、真理があるように思われます。
 
 貧しい人々に施すことは、神様からの大きなご褒美がある。ご褒美が目的ではなく、決してそれは無駄にならないということを覚えて、皆さんも最も小さな者に対する親切を目指して頂きたいと思います。

【自問自答】
◎どうして最も小さい者にしたことが、主イエスにしたことになるのでしょう?

◎隣人を愛する動機を探ってみましょう。
 イエス様は新しい戒めとしてヨハネ13章34節で、「私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という「互いの愛」を戒めとされました。
 
 それは、「あなたの神、主を愛しなさい。そして自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というモーセの律法を代表するみことばであり、聖書の中で最も大事な戒めとして紹介されています。
 
 第1ヨハネの手紙では、神を愛することは人を愛することだとも書かれています。神様と人を別々に区別して愛することは出来ないのです。

 どんなに悪い息子であっても親子関係は続きます。神様は、私たちを神の子として御国の相続人としてご計画して下さり、私たちを神の似姿として創造され、明らかに「神の子」という目的をもって造ってくださいまた。その神の子である私たちの隣人を愛することは、神を愛することにつながる、ということを聖霊様に教えられ、みことばから気付かされていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2021年10月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

今日を見て明日を知る  up 2021.10.24


主題聖句(ガラテヤ6:8)
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。


 

 

 

 

 今日は、先々週の「過去を見て今日を知る」というテーマの続きで、「今日を見て明日を知る」と題してお話させて頂きます。
 過去という種を私たちは蒔きました。そして今日、その蒔いた種の収穫を得ています。良いか悪いかは色々あるでしょう。
 
 もし今、望まない実を多く刈り取っているとしたら、一体どうすればよいのか。過去の種がいつまでも実となりまた種となる、その悪循環を断ち切るために、今日私たちは何を蒔くべきなのか。未来の望ましい収穫のために今なにをすべきなのか。今日はそれを(ガラテヤ6:8)から学んでまいりましょう。

●蒔くとは行動する事
(1)肉のために蒔く種(ガラテヤ5:19-21)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

過度な欲求を満たすこと(貪欲)
 キリストの教えは決して欲を禁じる禁欲主義ではありません。欲がなければ、私たちは向上心もなくなりますし成長もありません。健全な欲というものが聖書では求められています。ですから、限度を超えた欲(貪欲)を満たしてしまうのは、的外れ(罪)です。

 (ガラテヤ5:19-21)に書かれてあるものは全て、もともとは健全な欲から出ているものですが、その欲を満たしたいという欲求が強くなっていくときに限度を超えたものになっていき、それが罪の領域に入り、滅びを刈り取るようになるというわけです。

(2)御霊のために蒔く種(ガラテヤ5:22-23)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」  

みことばを実践すること
 どういう行動が御霊のために必要かが、(ガラテヤ5:22-23)に書かれてあります。この9つの御霊の実については、聖書の他の個所にも具体的にたくさんの教えが書かれてありますから、それらのみことばを実践することが、御霊のために蒔くことだと言えます。
 
 「実践」とは、環境を意識的に変化させるための行動です。もし私たちが今日、生活の中で実っている実が好ましくないと感じるならば、同じ種を蒔き続けるのではなく、違う種、御霊のための種を蒔くこと、すなわち、みことばを実践することが必要です。

●二つのスパイラル
 スパイラル(らせん)というのは、悪いこと(あるいは良いこと)が連鎖的に起こっていく現象ですが、霊的にも2つのスパイラルを見ることができます。

(1)ヤコブ1:14-15
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

健全な欲から貪欲へと連鎖的に滅びに向かう
 その始まりは欲です。欲を起こすと、そこに誘惑がやってきます。誘惑によってアダムとエバは、肉に罪の種を植えられてしまいました。それが現代の私たちにまで引き継がれてきています。
 
 欲が出てきたら気を付けてください。悪霊やサタンは私たちに罪を犯させようと様々な誘惑をもたらしてきます。私たちが「自制」という御霊の実を結んでいないと、欲はドンドン膨らんで、健全な領域の中に留まることができず、罪の領域にまではみ出てしまい、実際に私たちは罪を犯してしまうのです。
 
 肉に宿る罪の力によって、欲は悪い欲に変わっていくのですから、罪が滅ぼされる時、欲に惹かれ従う魂も一緒に滅ぼされてしまうという神のさばきを受けなくてはなりません。
 
 ですから肉の欲求から、私たちの魂と思いを断ち切っていかないといけないのです。油断しないようにしましょう。

(2)第2コリント3:18
「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

みことばの実践によって主と同じ姿に変えられていく
 「栄光から栄光へ」という良いスパイラルが、御霊なる主の働きによって、私たちの生活に実現することが書かれてあります。
 旧約の出エジプトの時代、イスラエルの民は直接神様と向き合うことはできず、常にモーセを通して教えられていました。
 
 新約時代の今は、キリストを通して一人一人が直接神様と向き合うことができるという救いが与えられています。神はことばなる神ですから、直接心に受けたみことばをそのまま生活の中に実践して現わしていく(鏡のように主の栄光を反映させる)ことができます。私たちがみことばを直接心に受けてそのまま実践していけば、みことばが御霊の働きとともに、私たちをキリストの姿へと造り替えてくださるという、良いスパイラルが始まります。
 
 現実の信仰生活の中に、なかなかみことばの実がならないのは、種を蒔く数が少なくて、肉のために蒔く種が多すぎるのかもしれません。しかし、結果が出せないからといって、あきらめてはいけません。
 
 結果が出なくて否定的になるのではなく、イエス様を見て、イエス様を信じて、神様に希望と期待を持ち続けていきましょう。
 
 そこで、ポジティブ(肯定的で前向き)なスパイラルへと進んでいくための、2つの基本をお伝えしたいと思います。

●ポジティブスパイラルへ
(1)決心決意(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかを、わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
 
 神様は私たちを変えてくださる力を持っておられるお方です。神様がその力を私たちの内に行使するためには、私たちの決心決意が必要です。神様は私たちを強制的に決心させることはできません。私たち自身が願いをもって、神様に頼って、決心決意しなくては、神様も私たちに働きかけることができません。それが「心の一新によって自分を変えなさい」ということです。
 
 自分を変えるとは、行動を変えること、御霊のために種を蒔くことを決心決意すること、みことばを実践するという決意を持つことです。

(2)福音の力を信じる(ローマ1:16)
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

貪欲の力に勝る福音を信じて実践してみる
 「人種は何であれ、救いを得させる神の力である福音は、信じるすべての人に働く力である」と、パウロは語ります。
 
 「神を信じる」とは、「人には出来ないが神には出来る」と信じる信仰です。

 「私は肉のために種を蒔いて滅びに至ることを望みません、私は御霊のために種を蒔いて永遠のいのちに至りたいと願っています。これを実現できるのは、神様、あなただけです。」と、信じる信仰が大事です。
 
 私たちは自分の力に頼らず、「人を造られた神は、人を造り変える力を持っておられるお方だ、神のみこころにかなった願いをするならば、神は必ず聞いてくださる」と、私たちは神を信じ信頼して歩んでいます。

 永遠の滅びに行くことは神様の願いではありません。神様は私たちに永遠のいのちを願ってくださっています。だからこそ、私たちの罪の処分のために、ご自身がイエス・キリストとして地上に来られて、十字架でこの罪を負ってくださったのです。

 私たちを罪の無い者に見てくださる状況を整えてくださいました。そこからがスタートです。
 
 そして神様には実現してくださる力があると信じて、私たちはみことばにチャレンジしていくのです。この姿勢が必要なのです。
 
 神様は恵み深く情け深いお方です。信仰と信頼、これによって、前向き肯定的なスパイラルへと足を踏み出し、永遠のいのちへと進んでいただきたいと思います。

【自問自答】
(第1テモテ6:19)
「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」
 
 自分自身のために築く「未来のための良い基礎」とは何でしょう。
 この基礎は、隣人を愛するという神のみことばを守るためには大事な基礎です。その基礎がなくては隣人を愛することもできません。 「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」と言われています。
 
 自分を愛するとはどういうことか、神への信仰に基づいた「自分を大事にする」というこの土台を、私たちはしっかりと悟らされていく必要があります。

◎未来に備えて、どのみことばを実践しますか?
 このみことばが今の私には必要だ、だから種を蒔こうと、みことばの種を決めることです。いくつの種類でも構いません。多く蒔けば多くを刈り取ることができます。

◎どこまでの未来を考えて今日を過ごしていますか?
 地上の人生という肉体の未来を考えて過ごしていますか?永遠に生きる魂の未来に備えて、今日を過ごしていますか?
 人は一度死ぬことと、神の前に立ってさばきを受けることとが定まっています。クリスチャンの望みは、死んでも生きることです。
 そこに望みをもって、今日どんな未来に向けて、どんな種を蒔きますか?

【俳句】
山々に  どんぐりの実を  見つけるは
蒔けば必ず 実がなる証し

 どんぐりは日本中どんな所にでもあります。蒔けば育つものなんですね。みことばも蒔けば必ずみことばの実がなりますから、皆さんもどんぐりのように、あなたの人生のどこにでも御霊の蒔いた種が実っている毎日を目指してまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2021年10月17日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

み心に沿った立派な振る舞い  up 2021.10.17


主題聖句(第2ペテロ3:9)
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


 

 

 

 

 今日はヨナ書から学びたいと思います。
1.ヨナの召命と逃亡
(ヨナ1:1〜2)
「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』」
 ヨナは、後にイエス様が育たれたナザレの近くの出身の、北イスラエルの預言者でした。
 当時アッシリアの首都であったニネベの民の悪が主の御前に上ってきたので、主はヨナに命じ、「ニネベの町に行き、悪のゆえにニネベが滅びると叫べ」と言われました。(1:2)
 ヨナはこの主からの使命を果たすのが嫌で、タルシシュ(400q以上離れた外国の地)に逃げようとして、ヨッパの港に下り、ちょうどタルシシュ行きの船があったので乗り込んで、船の底におりて眠ってしまいました。
 その時、主が大風を吹きつけられたので、激しい暴風が起こり、船が難波しそうになったのです。水夫たちは恐れ、それぞれ自分の神に向かって叫び、船を軽くするため積み荷を投げ捨てました。
 船長は、船底に眠っていたヨナを見つけ、「起きてあなたの神に願いなさい。あるいは神が心を留めて私たちは滅びないですむかもしれない。」と言い、皆はくじを引いて、だれのせいでこの災いが自分たちに降りかかったのかを知ろうとしました。そのくじがヨナに当たったので、水夫たちはヨナに問い正しました。ヨナは、「私はへブル人です。海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」と証しし、その神の御顔を避けて逃れようとしていることを話すと、人々は「何でそんなことをしたのか!」と責め、最後に「あなたをどうすれば私たちは助かるのか」と尋ねました。
 ヨナは「私を捕らえて海に投げ込むなら、海は静まる。暴風は私のためなのだ。」と答えます。
 そして、ついに人々はヨナを海に投げ込み、暴風はおさまります。人々は天の神を恐れ、いけにえをささげ、誓願を立てて祈りました。

2.主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。(ヨナ1:17)
 そしてヨナは三日三晩、魚の腹の中にいました。そして、魚の腹の中から主に祈り、苦しみの中から主に立ち帰る悔い改めをしたところ、主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。

3.ヨナ、ニネベで預言。ニネベの民、悔い改める
(ヨナ3:1〜9)
「再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、『もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる』と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された『人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。』」
 
 ヨナは再度、ニネベに神のことばを宣言しに行くことを命じられ、今度は主のことばのとおり、立って大きなニネベの町に行き、「あと40日すれば、ニネベは滅びる」と叫んで歩きました。
 ニネベの人々はヨナが暴風と大魚の証も聞いたからだと思います。天の神がニネベを滅ぼされる!というヨナの預言の叫びを信じました。そして悔い改めるなら、あるいはわざわいを思い直してくださるかもしれないと、王様から身分の低い者まで、荒布を着て灰の中に座り、断食をもって悔い改めたのです。
 神はニネベの民が悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になり、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直してそうされませんでした。(3:10)

4.ヨナの不満と「とうごま」のさとし
(ヨナ4:1〜11)
「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。『ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。』主は仰せられた。『あなたは当然のことのように怒るのか。』ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。」

 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
 ヨナはニネベに預言したことが起こらず、神がニネベの民をあわれんでわざわいを思い直されたことに腹を立てました。侵略者である悪いニネベの民が滅びることを願っていた本心があったこと、預言がその通りにならなかったことで、自分が偽預言者と言われるのが嫌だったからと思われます。
 ヨナはすねて、「主よ。今どうぞ私の命を取ってください。私は生きているより死んだ方がましですから。」とまで言います。主は、「あなたは当然のように怒るのか。」と言われます。
 それからヨナは町から出て、町の東の方に座り、仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見極めようと、その陰の下に座りました。
 ヨブは、もしかしたらニネベの民がまた悪くなって滅ぼされるかもしれないと様子を伺っていたのです。
「神である主は、一本のとうごまを備え、それをヨナの上におおうように生えさせ、彼の頭の上の陰とし、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。『私は生きているより死んだほうがましだ。』」(ヨナ4:8)
 そこで神はヨナをさとされます。
「あなたは自分で骨おらず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜とはいるではないか。」
(結論)
 ヨナは神の命令を守り、その戦況の働きを立派に成し遂げましたが、神様のみこころと一つ心ではありませんでした。
 神様のあわれみの心がヨナにはなく、自分の働きを誇り、敵国(異邦人)の民が救われることを喜べなかったのです。
 神の命令に従う動機が探られます。
 神のみこころに沿う、神のみこころと一つとなることが、一番立派な振る舞いであると教えられます。
 悔い改めの姿勢を見られた神様は、ニネベを救われました。また、神はこのような頑迷な預言者であっても、ニネベのために選び召してくださり、優しくさとして下さっているのです。あわれみ深い、すばらしい神様をほめたたえます。

【自問自答】
(1)私に対する神様のみこころを知っているか
(2)私はその神様のみこころに従っているか
(3)私は神様のみこころと同じ心を持っているか
(4)私が今日から実行しなくてはならないことは何か

【参考聖句】
(第2テモテ4:2)
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 

 

 

 

 

■2021年10月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

過去を見て今日を知る  up 2021.10.10


主題聖句(ガラテヤ6:7)
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。


 

 

 

 

 今日のテーマは「過去を見て今日を知る」ですが、再来週の「今日を見て明日を知る」というテーマと合わせて一つのメッセージとなっております。今日はその前半部分を(ガラテヤ6:7)から見ていきたいと思います。
 
 秋は収穫の季節、実を結ぶ季節です。聖書には植物を通して多くの教えが語られています。
 
 今日の主題聖句(ガラテヤ6:7)の中では、蒔いた種の刈り取りという例をとって、パウロはガラテヤの教会に「思い違いをしてはいけません」と注意しています。私たちは何を思い違いしているのでしょうか。
 「神様は私たちに良いことをしてくださる」とよく言いますが、そこに「私の思い通りにしてくださる」という自分中心の隠れた意味が潜んでいることがよくあります。自分の思い通りになることが良いことだと勘違いするわけです。

 私たちは罪人で間違いがある者ですから、自分の願いが本当に良いことかどうかはわかりません。この世界は神様中心の世界ですから、良し悪しの基準は神様にあります。それなのに、自分の思い通りにならなかったら、「どうして神様は私の言うことを聞いてくれないの?」となるわけです。
 
 私たちは今日何かの言動や行動で種を蒔き、良いことであれ、悪いことであれ、それは明日か、もっと先のいつか将来にその結果があらわれて、その実を刈り取ることになります。
 
 過去に蒔いた自己中心の悪い種が今日の煩いや試練につながっていると理解するなら、今日新たに別の良い種を蒔けば明日は違う結果が出ると思えるわけです。自分のことは棚に上げて、すべて神様のせいにするのは思い違いであることをパウロは忠告しているわけです。
 
 パウロは続いて8節で、私たちが蒔く種には2種類あることを紹介しています。

二種類の種(ガラテヤ6:8)
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

(1)肉のために蒔く種(ガラテヤ5:19−21)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
 肉のため(肉の欲望を満たすため)に蒔く種のリストが挙げられています。肉の欲は健全さを超えると貪欲となり罪に至ります。 この(ガラテヤ5:19−21)のリストの中にあるような肉が喜ぶ種を、あなたが今も蒔いていて止められないとしたら、その原因は、肉の欲を満たしたいという動機が内にはっきりと潜んでいるからです。

  最初イエス様を信じた時は新しく造りかえられたのに、この世で生きている内にいつのまにか、昔と変わらない肉の欲を満たすための人生に戻ってしまっているのではありませんか。 
 肉のための種を蒔かないようにするためには、御霊のために蒔くという決心が必要です。

(2)御霊のために蒔く種(ガラテヤ5:22〜23)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
 私たちの内側の深い本心の所には、このような霊の欲求を満たしたいという思いがあるのですが、肉がそれを覆ってしまい、肉の欲求を先に満たそうとしてしまいます。
 
 霊の欲求を満たしたいという思いが強くされるためには、肉のために蒔く種によってどんなマイナスがあるかを知る必要があります。すぐ悟れればベストですが、結果によってそれを悟ることも出来ます。私たちの問題や不幸、災いの原因は、神様のせいではなく、自分自身が蒔いた種だと気がついて、神様を畏れる心をもって悔い改めるのです。そうすれば肉の欲求を満たす心を改めて、霊の欲求を満たしたいという思いが強くされていきます。

肉のために蒔かれた種
(1)創世記3:6
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするとというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

欲望の種を受け入れてしまったアダムとエバ
 アダムとエバは「食べても死なない、食べたら賢くなる」というサタンの魅力的な情報に誘われて、「食べてはいけない、死ぬから」と言われた神様の戒めを退けて、食べることを実行しました。欲望を満たしたいという種を受け入れて、そして種を蒔いたのです。結果、欲望を満たしたいという種は現代に至るまで人類に引き継がれています。これが今の罪の世界の理由です。

(2)ローマ5:12
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
 その結果、罪と死の連鎖が始まった
 種が育って実がなって、実の中に種が含まれていて最後は種が残って次の実をむすんでいく。こうしてアダムから始まった罪と死の連鎖が今にいたるまで続いています。
 始まりは、自分の欲望のためになる情報を意識的に選び取ったことです。私たちもアダムとエバのように、肉の欲を満たしたいという自己中心の都合で、神様のおことばを選んでいる可能性がありますから気を付けましょう。

 神様は、この延々と続く罪と死の連鎖を断ち切るために、罪の赦しの御業、十字架の御業を成し遂げてくださいました。それを信じて悔い改めた者、神の愛に立ち返った者は、肉体は死んでも、霊、魂は永遠の神の御国で生きることができるという福音を、神様はイエス・キリストを通して現わしてくださいました。そして今私たちは、それを受け止めてその生活の中に歩んでいるわけです。
 私たちが連鎖を断ち切るためには、神様がそのために成し遂げてくださった御業を、ただへりくだって、ただそれを信じて、ただ従えば、その通りになるのです。

死の連鎖を断ち切るために
(1)ローマ6:3−11
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし、私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることになる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

欲望の種が死の実をむすばない処置を受ける
 欲望の種があっても、それが成長して死の実をむすぶに至らないように、種の成長を抑制する処置、コツ、それが、(ローマ6:3−11)の水のバプテスマの真理の中にあります。
 私たちの救いのために神様がなしてくださった最も大事な基本的な教えと業ですから、このみことばをよく黙想し御霊様にさとらせていただきましょう。

(2)ガラテヤ2:20
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自分をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
キリストの愛に生きる人生を決心する
 「私はキリストとともに十字架につけられました」というのは(ローマ6:3-11)の水のバプテスマを言っています。
 
 「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにいきておられるのです。」と、神様の憐れみに生きる心が表現されています。
 
 「いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自分をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」これは、キリストの愛に生きる人生を決心するということです。
 
 この決心をしないと、いくら欲望の種の成長を抑制しても、肉の欲を満たしたいという動機がある限り、種は後から後から芽を出してきます。
 
 しかし、肉の種が育たない心を造る。御霊のためにという心を造る。それがキリストの愛に生きる人生を決心するということです。
 
 これは皆さんが自主的に決断することです。アダムとエバは、自らの判断決断で神様のおことばに背き、サタンの情報を選びました。
 
 同じように私たちも、キリストから正しい情報を得て、これこそ真理だと自分で選んで、神の愛の中に生きる者として、神の子としてのいのちを与えられた人生に対する決心をしなくてはなりません。

  その決心をする時、四つの種まきの話にある良い土壌、御霊のために種を蒔き、豊かに実をむすぶその土壌が内にできるのです。

【自問自答】
(1)欲望の種に気付いているか?
 欲望の種があることに気付かないと、それを制御するために信仰を働かせることができません。

(2)バプテスマの真理に生きているか?
 洗礼を受けた後も、今も、バプテスマの真理に生きていないと、すぐに心の土壌の質がかわってしまいます。(ガラテヤ2:20)の決心がずっと続くように信仰をもって受け止めて頂きたいと思います。

(3)御霊との交わりを具体的にどのようにしているか? 
 正しい良心を働かせるという意味です。神を畏れ敬う心をもって聖書を読み、みことばに耳を傾け、忠告をうけとめていく、この姿勢があると、私たちの内におられる聖霊様との交わりを進めて行くことが出来ます。
 
 過去を見て今を知り、そして明日に向かっていただきたいと思います。

【俳句】
 刈り取った  今日の出来事  いつ蒔いた

 過去を見つめて今を、そして明日に向かって処置をしていくという方向に進んでいって頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

■2021年10月3日 日曜礼拝メッセージより(エドモンド・チャン師)

オンライン合同礼拝  up 2021.10.3


主題聖句(マタイ28:18〜20)
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」


 

 

 

 

 人生において私たちは忙しすぎて、神様が静かにノックする音を聞き逃すことがあります。神様は私たちの注意をひいて、私たちを教え導こうとされています。私たちは聞くことを学ぶ必要があります。そして、聖書において聞くことは実践することとつながっています。
 神様の召しに従って生きるとは、私たちの人生に対する主のみこころを実行することです。実行するために、私たちは聞くのです。 実行することの重要性を皆さんに理解していただきたいと思います。
(マタイ25:21)「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」
 イエス様は「よくやった」と、実際にやったことをほめておられます。今日の弟子化の問題は、弟子化に関する教えや学びやセミナーが足りないことではなく、私たちが弟子化を実際に行わないことです。私たちがどういう人間になるかは、私たちがやることで決まります。
 イエス様の大宣教命令では、実行することをイエス様ご自身が強調されています。
(マタイ20:20)「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
 イエス様は、守るように従うように実行出来るように弟子たちを教えなさい、と言われています。実行することは、教わる必要があることなのです。自動的に実践出来るようにはなりません。それは聖霊様のお働きであり、模範を通して教えられるものです。私たちは神様の声を聞き、主の導きに従い、主が遣わされる所に行って、みこころを行なうように教えられる必要があります。
 私が神学生だった頃のある日、「ハイディングプレースという所に行きなさい」と、主が私の心に語りかけられました。そこはフィリップ・チャン先生がミニストリーをされているところですが、当時私は先生を知らず、場所も、行く理由もわかりませんでした。しかし、主が「行きなさい」と言われるので、すぐ従いました。先生にお会いして、「主が遣わされました」と言いました。そこで祈りあい、語り合い、私たちは生涯にわたる友情を築きました。私は彼から、牧師のこころ、牧師としての信仰など、多くを学びました。
 私たちが主の導きに従おうとするとき、その時点では知る由もありませんが、後の人生で祝福がきます。人生のあらゆる時期に弟子化をしていると、時に、ただ主の言われることを聞いて従う必要があるということがあるのです。
 別の日に、課題で忙しくしていた時に突然、主が「祈祷室に行って祈りなさい」と言われました。私は祈祷室に行って「主よ、どうぞお語りください」と言いました。主は、「私はあなたの心が私の導きに応答できるか確かめたかっただけだよ」と言われました。「何でも従います。お語りください」と言いますと、「あなたはもう従ったじゃないか、ここにいるんだから」と仰いました。私は喜びのこころで課題に戻りました。自分が神様の導きを感じれることが確認できたので嬉しかったのです。
皆さんの中には、神様はそんなふうに私に語りかけてはくださらない、と考える方がおられるかもしれませんが、違います。神様はみことばを通して既に語られています。神様が聖書を通して語られていることは何でもやってください。神様は導き方をご存知ですし、どこに導くかも知っておられます。私たちが何を必要としているか完璧にご存じなのです。ですから、神様は私たちを間違いなく導くことがお出来になります。
 神様が何かをするようにと言われた時は、何か理由があるのですから、注意して聞いてください。なぜそれが重要なのか、それが私たちをどう成長させるのか、神様はそれを知っておられます。私たちのためなのです。神様が言われることは何でもおこなって下さい。それがどこに通ずるかは神様がご存知です。 
 しかし、私たちは行動することに集中しすぎて、止められない、止まらないという危険もあります。行うことは大切ですが、その大前提として、行うべき重要なことを知っていることが必要です。それは父なる神様のみこころを行なうことです。神様は聖書の中でみこころを現わされました。ですから聖書を学びましょう。みことばに根ざして下さい。みことばの中にこそ神様のみこころを見つけることができるからです。
 神様の導きに敏感になりましょう。「私に何が出来ますか」というのは間違った質問です。「私は何をすべきですか」と主に尋ねてください。出来ることはいくらでもありますが、為すべきことは一つだからです。
 神様はあなたを何に召されたのですか。あなたにとって神様の導きは何ですか。立ち止まって神様の御前で静まって、明確にわかるまで祈り求めてください。聖書を通して神様の御意志がすべてに勝ります。本当に重要なのはそれだけです。

(マルコ3:35)「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
(ヨハネ4:34)「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」 
 イエス様にとって、神様のみこころを行なうことは、なにより大切なことでした。
(ローマ12:2)「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け容れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
 使徒パウロにとっても、神様のみこころは最重要事項であり、クリスチャンが自分をささげることと密接に関係していました。
(エペソ5:17)「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」
 使徒パウロによると、神様のみこころを知らないことが「愚か」の定義です。
(コロサイ5:17)「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」
 神様のみこころが、私たちが召しにふさわしく歩むための鍵です。
 しかしなぜ、神様のみこころが最重要なのでしょうか。なぜ私たちの感情や思いを考慮に入れて下さらないのでしょうか。それは神様は神様で、私たちは神様ではないからです。
(イザヤ55:9)「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
 なぜ神様のみこころが最重要なのか、別の質問から神学的に考えてみます。なぜ神様に栄光が帰せられなければならないのでしょうか?
 それは、神様が全宇宙で唯一絶対で、道徳的に完璧なお方だからです。道徳的な世界で善を推し進めるために神様はすべての良いものをほめる必要があります。そして一番良いものに栄光を帰すのですが、神様ご自身より良いものは存在しません。必然的に神様はご自身に栄光を帰して、ご自身の意志を最重要事項にするしかないのです。
 神様が完全に完璧で、みこころが最重要事項である以上、生涯にわたる弟子化は神様のすべての召しと導きに応えるものでなければなりません。
 そのために、私たちは「意識的な人生」を生きる必要があります。そこで、意識的に生きることと、偶発的に生きることの違いについて、十項目をお伝えします。

(1)意識的な人生は、人生の短さを意識しており、時間が無限にあるとは思っていません。しかし、偶発的な人生は、時間が無限にあるとの間違った思い込みにより、人生も時間も無駄にしてしまいます。
(2)意識的な人生は、人生が神様からの贈り物だという意識を持っているので、それを神様の栄光のために用いようとします。しかし、偶発的な人生は、人生を自分のものだから自分のために生きようとします。
(3)意識的な人生は、本当に大切なことに生きるために時間を投資します。何が本当に大切かを自問します。しかし、偶発的な人生は、何がしたいかにだけ興味があり、時間を快楽のために無駄遣いします。
(4)意識的な人生は優先順位が確立していて、それは意味のある忙しさです。しかし、偶発的な人生には、優先順位がなく意味不明に忙しいだけです。
(5)意識的な人生には羅針盤があり、大切なところへ導かれます。しかし、偶発的な人生は、時計によって追い立てられ、緊急事態に対応するだけです。
(6)意識的な人生には規律があり明確に導かれています。しかし、偶発的な人生は、欲望の衝動が原動力で、そこに規律はありません。
(7)意識的な人生は明確な価値観によって導かれています。しかし、偶発的な人生の価値観は不明瞭です。
(8)意識的な人生は強い信念があり、最高を目指します。しかし、偶発的な人生は、便利さや楽しさだけを追求します。
(9)意識的な人生は人生を評価し改善しようとします。しかし、偶発的な人生は、評価や改善のために立ち止まることをしません。
(10)意識的な人生はコミュニティーを大切にし信頼関係を大切にします。しかし、偶発的な人生は、コミュニティーに対してリップサービスをするだけで、信頼関係を大切にするつもりはありません。
 意識的な人生を意識的に生きることは、神様の召しのために、生涯にわたる弟子化をする中で大事なことです。
 では、神様の召しとは具体的に何かを、ミカの預言書から見てみましょう
(ミカ6:6)「私は何をもって主の前に進みゆき、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、いっさいの子牛をもって御前に進みゆくべきだろうか。」
 ミカが提起した神学的問題は、「どうしたら人間は神様に正しく近づくことが出来るか」でした。ユダヤ教では人間が聖なる神に近づくには、いけにえを携えて行くしかありませんでした。
 では、いけにえを沢山ささげれば、神様は喜ばれるのでしょうか。
(ミカ6:7)「私は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。わたしのたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。」
  幾千の羊、幾万の油、異邦人のように自分の大事な長子までささげれば喜ばれるのでしょうか。答えはNOです。
(ミカ6:8)「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」
 主が本当に求めておられること、人生に一番必要なことは、「公義を行い」「誠実を愛し」「へりくだって主と共に歩むこと」だと、語られています。

神様が私たちに望むこと
(1)公義を行ない(ヘブライ語:ミスファト)
(第1サムエル8:3)「この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。」
 「ミスファト」これは同胞に対し正しい行いをして生きるという意味で、「得ること」と「分かち合うこと」の二つの意味があります。前者の「ミスファト」は法的に正当に取得すること、つまり正当な方法で利益や収入を得ることです。後者の「ミスファト」は、貧しい人や社会的弱者への憐みの心を意味しています。

(2)誠実を愛し(ヘブライ語:へセド)
 「へセド」は愛情とも訳され、新約の「恵み」の旧約バージョンで、「同胞に対して良いことをするように愛する」という意味です。
 皆さんは、消費主義が「ミスファト(公義)」と「へセド」(憐み)の真逆であることをご存知ですか。消費主義は現代社会の破滅の元です。なぜなら、消費主義は自己中心的な権利と選択を称賛し推奨します。私の権利と私の選択という概念が、私たちの意思決定を支配し、その結果、西洋の民主主義と資本主義が社会的権利を構造的貪欲に変え、私たちの社会的良心から弱者の権利を消去させるのです。

 実践適用としては、次の3つの基本ルールを守るようにしてください。
[1]もしあなたのものでないなら、とってはいけない。
[2]もし本当でないなら、言ってはいけない。
[3]もし正しくないなら、やってはいけない。

(3)へりくだってあなたの神とともに歩む(ヘブライ語:サヌア)
 「サヌア」は「神様が要求されるように愛し生きることが出来るように必要なことをする」という意味です。「必要なこと」の最大の本質は「謙遜」です。
 私たちはこの「公義」「あわれみ」「謙遜」を抜きにして、神様に近づくことは出来ません。そして、この3つ全部がイエス様の十字架で現わされているのです。
 イエス様は神様の要求されるすべてを全うしてくださいました。神様は正義を要求されます。
 イエス様は贖いのための自己犠牲を通して、正義を全うされました。神様は愛と憐みを望まれます。
 イエス様は私たちの救い主として愛と憐みを与えてくださいます。神様はへりくだることを要求されます。
 イエス様はしもべとして、へりくだりと砕かれることを現わされました。
 では、神様は本当に私たちに何を望んでおられるのでしょうか。神様は私たちに、十字架の陰に立つことを求めておられるのです。

 なぜなら、十字架が神様の要求されるすべてを成就しているからです。十字架につかれたイエス様は、私たちに新しい命を与えてくださいますが、それは神様の要求をすべて満たしています。イエス様が身代わりに成就してくださったからです。イエス・キリストの十字架は、贖う力と弟子への召しを通して、神様が私たちに望んでおられることを成就する「生涯にわたる弟子化」へと、私たちを導きます。
 あなたはイエス様の十字架の陰に立つ用意が出来ていますか。

 最後に、ある先生の話されたエピソードを分かち合いたいと思います。2017年3月16日、あるコプト人クリスチャングループが2台のバスでエジプトに向かっていました。彼らはテロリストに襲われ1台目のバスのクリスチャンが多く殺されました。テロリストは2台目のバスに乗りこんで、クリスチャンでない人をバスから下ろし、そして、母と小さい息子の所に来て言いました。「おまえはまだ若い、イエスを否定すれば助けてやる。」少年は母親に身を寄せて、母親は彼を抱き寄せました。あなたが母親ならどうしますか。これが実際に起こったことです。母親は息子にこう言いました。「絶対に主を否定してはいけません」次の瞬間二人ともテロリストによって撃ち殺されていました。これがエジプトのクリスチャンが今日も払わなければいけない代償です。それがイエス様のために全人生を捧げるということなのです。なぜなら、彼らは十字架の力と意味を理解しているからです。真の弟子化の出発点はイエス様の十字架だからです。

(ルカ9:23)「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
 神様は私たちが十字架から出発して私たちの信仰生活を生き抜き、神様が与えてくださるすべての召しを遂行することを望んでおられるのです。十字架を負えば生涯にわたる弟子化を始めることが出来ます。十字架なしでは、あなたの弟子化にいのちはないでしょう。生涯にわたって弟子となるために、十字架に戻りましょう。
(1)十字架は、私たちを毎日慰めてくれます。
(2)十字架は、人生にすべての領域をカバーしてくれます。
(3)十字架は、私たちの人生のあらゆる時期を覆ってくれます。
(4)十字架は、私たちのすべての人生の努力の原動力です。
(5)十字架は、私たちが神様のすべての召しを遂行するための力をくれます。

 私たち全員の人生を変えるたったひとつの力、それはカルバリの丘で十字架にかかられたイエス様の自己犠牲です。

 

 

 

 

 

■2021年9月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

有望老根(ゆうぼうろうこん)  up 2021.9.26


主題聖句(ヨブ14:7〜9)
木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。
たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、
水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。


 

 

 

 

 今日は福寿敬愛の日です。「有望老根」と題して、年老いた根にも希望があるというお話をさせていただきます。
 
 まず最初にお話しておきたいことですが、聖書は高齢者を敬う姿勢を勧めています。なぜなら、高齢者の長く人生を生きてこられたその経験と年数は、若い人が追いつくことも追い越すことも出来ないものだからです。老いて体が弱り、出来ることも少なくなっていき、たとえ寝たきりで過ごされているとしても、そのようにして生きておられる体験や心境は、若い人たちは実際に経験することは出来ません。ですから自分より年上の高齢者に対して、若い人は絶対に敬意を表すべきです。
 
主題聖句からの4つのポイント
(1)木には望みがある
 神を敬う者には望みがある
 「たとい切られても、また芽を出し」とあるように、植物には造り直されていく能力、強い生命力が与えられています。
 
 聖書では、木は度々人間にたとえられます。義人はレバノンの木のようだと書かれているところがありますから、「木には望みがある」というのは、「神を敬う者には望みがある」と受け止めて考えていきたいと思います。

(2)地中で老い、枯れても
 老いた人生となっても
 この世では、老いることは死に向かうことなので、老いた者には希望が持てません。この世の希望は、何が出来るかにかかっていますから、何も出来なくなることは、希望がないということになります。

 しかし聖書では、老いることは熟練者になること、と大変前向きにとらえています。高齢者というのは、失敗も成功も様々な体験を通り抜けて、「老いる」という時間を経験して、そのプロセスを味わって今日まで生きてこられた霊・魂の熟練者であります。
 
 しかし、肉体の状況はどうあれ、信仰が弱って希望を持てないクリスチャンもおられます。そういう方は、この世の高齢者と同じく、「水に出会う」ことが必要です。

(3)水に出会う
 みことばに触れられる
 イエス・キリストに出会う時、すなわち神のことばに触れられる時、植物が水を得て元気になるように、人の魂も力を得て回復します。

(4)芽をふき、枝を出す 
 新しき希望が湧き出てくる
 神のことばによって力を与えられた人は、永遠の世界に対する希望がわき出てきます。魂がどこに行くのかという希望を、神のみことばによって悟らされるからです。
 
 「私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。」とイエス様は言われました。イエス様を信じる者(みことばに触れられる者)は、肉体は死んでも魂は永遠に生き続けます。
 
 この世の希望はこの世と共に消え去りますが、いつまでも残るものは、信仰、希望、愛、そしてもう一つ、あなたによって導かれた魂も永遠に残ります。共に永遠の世界へと入ることの出来る喜びがあるのです。あなたを通してでなければイエス様のもとに来ることのできない人がいるのです。ひとりでも導くことができたら、それは何と素晴らしいことでしょう。
 
 肉体は死に向かっていても、魂は希望と喜びに満ちている、そんな老後の姿を若い人たちが見て、あのような高齢者になりたいと思われるような、若い人に希望と励ましを与えるような高齢者になることができるのです。
 
 みことばを通して、高齢者は今までと違った新しい芽を出すことが出来ます。新しい希望の芽です。聖書のおことばを通して、永遠に対する望みが生れ、その先がだんだん見えてきて、黙示録の意味がわかってくる、そういう段階になるのです。これは聖書のおことばを思いめぐらす時間がたっぷりある高齢者の特権です。
 
 高齢者の方々、肉体が老いることに失望しないでください。肉体が老いても、心が一緒に老いて行くのではありません。心、魂は天に召されるまで、この人生を味わい、心の力と知恵をつけることができるのです。その喜びを見失わないでいただきたいというのが今日のお勧めです。
 
 この地上で体験したことは失敗も成功もすべてが神の国で役立つものとなります。

【自問自答】
(1)霊魂の老化はあると思いますか?

(2)老いた肉体で、みことばに触れる工夫を考えましょう。
 耳が遠いから目が悪いから、聖書が読めない、みことばが聞こえないと言ってあきらめないでください。昔覚えたみことばや、これまでに神様に助けられ励まされたみことばを、完全なかたちでなくても思いめぐらして今に生かすことができます。神のことばは生きていて力があるのです。みことばなる神イエス様との豊かな関係を工夫して頂きたいと思います。

(3)キリスト者として今をどう生きるかを決意しましょう!

【短歌】
 老いた根を  蘇らせる  水となる
 命のことば  イエスは我が主  

 私たちの心をよみがえらせることの出来る一番短い言葉は、「イエスは我が主」です。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」とあります。
 
 罪赦されるだけでなく、肉体の老化の中での魂の救いを経験します。「イエスは我が主」苦しい時、感謝の時、この言葉に気持ちを凝縮させて「イエスは我が主、アーメン」と唱えることです。

 

 

 

 

 

■2021年9月19日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

イエス様についていく人生
〜自分を捨て、自分の十字架を負う〜  up 2021.9.19


主題聖句(マタイ16:24〜27)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。


 

 

 

 

 ニューヨーク州では、ワクチン接種証明がないと、飲食店に入れないという措置が取られたというニュースを聞いて、ますます黙示録に書かれていることが現実に起きてきていると実感させられます。世の終わりが近づいているからこそ、私たちは日々、信仰姿勢を見つめなおさなければなりません。
 
 私たちは、神様の一方的な愛によって救いへと導かれました。その時に、自分の人生を神様にささげ、イエス様について行くという決心を、大なり小なりみなさん決意されたと思います。そこで、改めて“イエス様について行く”ということを考えてみましょう。
 
 イエス様について行く道には、必ず苦難が伴いますが、その先には希望があります。イエス様がまさにそのような歩みをなされたからです。十字架という苦難を通られましたが、復活されました。そのイエス様について行くのですから、ともに十字架にかかり、ともに復活にあずかるというのが、クリスチャンの本来の歩み方なのです。聖書は、「自分を捨て、自分の十字架を負い」と言っています。自分を捨てるというのは、自分の力ではなく、イエス様を模範とすることです。

 では、次にイエス様との距離感について考えてみましょう。誰もが思うと思いますが、「ガチな弟子じゃないとダメですか?後ろのほうを歩くじゃダメですか?」
 もちろん、このようなついて行き方でもイエス様は怒ったりなさいません。しかしこのように考えることができることに感謝しましょう。
 
 アフガニスタンと聞けば、今この国のクリスチャンの置かれている状況を想像できると思います。生きるか死ぬかの信仰を持っているクリスチャンも現実にいるのです。
 日本の環境に甘えすぎて、生ぬるい信仰になっていないか、セルフチェックしましょう。私たちの信仰が熱いか冷たいか、生ぬるいかは、イエス様の再臨のときにはっきりされるからです。
 
 まずは、日々新しく変化していくことを意識してみてはいかがでしょうか。「この一週間はどんな週でしたか?」という質問に、キリストにあっての証をすることができるでしょうか。日々エキサイティングな日々を送れているでしょうか。何のかわりばえのしない日々を送るよりも、わくわくする毎日を送りたいですよね。 
 
 私たちは、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくことに喜びを見出しましょう!

(第2コリント3:18)
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

 

 

 

 

■2021年9月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

福音の中にある永遠の希望  up 2021.9.12


主題聖句(ローマ5:1〜8)
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。


 

 

 

 

 全国的なコロナ感染蔓延で緊急事態宣言が延長されました。解除できなかった理由は、解除できるだけの条件が整っていないということでした。
 イエス様が天に帰られてから二千年過ぎるわけですが、なぜまだイエス様の再臨そして世の終わりの審判が実現しないのか、その理由も同じです。準備が整っていないからです。それは救われる魂が救われることです。
 日本のクリスチャン人口は1%未満です。神様は一人も滅んでほしくないと思っておられます。1%未満という日本の現状は、イエス様が再臨されるためには決して十分な条件とは言えません。
 コロナウイルスは生き残るために自分を変異させていっています。クリスチャンも神の国に入っていくために、世の中に流されないように自分を変えていって、神の国を受け継ぐにふさわしい神の子としての備えをしていくことが必要な時です。これは神様からの忠告と受け止めることもできるのではないでしょうか。
 
 イエス様の福音は、罪に対する霊的免疫力と治療薬であります。今日は(ローマ5:1-8)から「福音の中にある永遠の希望」について皆さんに紹介して、罪の力に負けないように、福音をしっかり信じて生きて行くよう願って話を進めていきたいと思います。
 (ローマ5:1-8)には神様からの良き知らせ(福音)が凝縮されています。なにものも、この希望を打ち砕くことはできません。この福音の中にある希望、具体的に語られているこれらのすべてを、神様が実現してくださった、その土台となる神様のお心、それが今日の結論であります。

◎神の愛がもたらした福音
(1)信仰による義認=神との平和(ローマ5:1)
 まず1節の中には、どんな福音があるでしょうか。
 「信仰による義認」とは、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるという意味です。神と神の遣わされた救い主キリストを信じる者は、たとえ現実的には罪の中にあっても、神を敬う心があるということで、神の目に義と認められます。神様がキリストを通して私たちに注いでくださった恵みと愛と憐みを信じるその心は義と認められるというのが一番の土台です。
 その心を見られた神様は、私たちとの間に平和の関係をつくってくださいます。ですから、クリスチャンは基本的には罪の呪いを受けることはありません。
 しかし現実には私たちにも罪の結果としての色んな問題が出てきます。それは私たちがイエス様のようにまだ100%完璧ではないということと、体が罪を宿しているために、体に対する罪の実が例えば病気のように現れてくるためです。神様はそれも恵みによって癒して下さいますが、たとえ癒されても、いずれ土に帰らなければならないという神のさばきを受けた体です。
 この体は永遠に存在することは出来ませんが、しかし魂が永遠に住むことの出来る新しいからだを頂ける望みがあります。
 癒しも一時的な恵みですが、ノンクリスチャンにとっては癒しを通してイエス・キリストを信じるきっかけになりますし、クリスチャンにとっては、きよめられる為、気付かない罪に気付いて自分をきよく保つための神様からの忠告と受け止めることが出来ます。

(2)恵みの贖罪と永遠への約束(ローマ5:2)
 2節には、恵み(報酬ではなく、なんの働きもしてないのに与えられる賜物)の贖罪(イエス・キリストの十字架の贖い)と、永遠への約束のことが書かれています。
 人類が神様に対して何か良いことをしたわけではなく、神様が一方的に罪人をなんとかして救いたいという憐みのこころから、ひとり子イエス・キリストを通して罪の贖いを実現されて、神の恵みによる私たちの罪の赦しがもたらされました。
 やがて新しい天と地がもたらされ、新しい都エルサレムが与えられ、永遠の未来に対する神のご計画が始まります。これは素晴らしい神の栄光であります。 
 キリストを信じ、その恵みの贖罪を信じる者たちに約束されている希望の未来(永遠の御国の実現)を待ち望み、それがもうすぐ来る、と心は喜びにあふれていると2節には書かれてあります。

(3)畏敬の念からの前向きな心(ローマ5:3-4)
 皆さんはこの3-4節に書かれてあるように、前向きにクリスチャン生活の歩みが進んでいますか。みことばに語られているのに、もしそうなっていないとしたら、その問題点は何でしょうか。なぜ患難を喜べないのか、その患難を忍耐強く受け止めて、練られた品性へときよめられていくことがなぜ出来ていないのか、更にクリスチャン生活が長引けば長引くほど希望が薄らいでいくとしたら、何か問題があるはずです。隠れた罪、気付いていない罪、的外れ、何か勘違いしたクリスチャン生活を送っているかもしれません。
 
 神は創造主にして全能なる神です。神の主権を認めて、その方を畏れ敬っているならば、自分は力がなくとも、頼れる方がおられるので前向きに考えることが出来るはずです。どんなに逆境の時にあっても、力ある方が必ず助けに来てくださると知れば、喜んで忍耐して待ち続けることができるのではありませんか。その疑わずに待ち望む前向きな心が、私たちの品性を練りきよめ、希望を生み出します。
 
 そこが私たちが探られなくてはならないところです。主を畏れ敬う心の低下、それがもたらす失望です。
 クリスチャンが失望する大きな理由は、この世に希望を抱いているからです。私たちの希望は、新しい天と地に対する希望です。この世での希望は、ただ一つだけ、魂が救われるということです。魂が救われることが私の望み、それは神様が望んでおられることです。イエス様を信じていない人が信じるようになった時のその喜びは永遠の実として残ります。救われた魂と共に新しい天と地へ共に歩めるのです。
 
 私たちの希望は必ず実現します。キリストの再臨も最後のさばきも必ずあるからです。その証拠は、イエス・キリストと十字架の歴史的な事実です。何百年何千年も前から預言されていた神のおことばが成就したこの証拠をもって、キリストに対する希望を確信することが出来るのです。
 
 聖書を読み、しっかり調べて、いかにそれが歴史の中に成就してきた事実であるかを知って、神様のおことばへの確信を強めていく、そして神様への畏敬の念から、この方を信じるなら失望に終わることはないという前向きな心(希望)を保つことが出来るのです。

 そのための葛藤が私たちの毎日の信仰生活の中に起こりますが、しかし聖霊様は聖書のおことばが真理であることを確信させてくださいます。そのようにしてしてキリストの再臨まで確証を保ち続けてクリスチャン生活を歩むわけです。

(4)愛されているしるしである聖霊(ローマ5:5)
 失望に終わらない理由は、神に愛されているからです。愛されているしるしが、聖霊を内側に宿している(体験している)ことです。内に聖霊様がおられるので、私たちは神の愛を感じ、それは失望に終わらせない愛であることを知ります。
 愛されているしるしである聖霊を私たちに遣わして下さるという素晴らしい神様の愛がもたらした良き知らせです。
 神の愛の証拠は歴史の上に示されるだけでなく、個人個人にも、もたらされるものです。神の霊に私たちの霊が触れられ、共に歩むことができる体験的な神様の愛のしるしです。

(5)不敬虔な罪人への愛を実行(ローマ5:6-8)
 人は、特に異邦人は神ならぬ神を信じ奉っていた不敬虔な罪人でした。罪をやめてもいないし、まことの神を信じても愛してもいないのに、そんな不敬虔な人々を罪人のままで愛し、心に留めて、その罪を赦すために、神様は一方的にひとり子イエス様を犠牲にして贖いの御業を実行されて、「ただ信じればあなたも救われる」という状態に人類を置いてくださいました。これは神様の愛から出た良い知らせ(福音)です。
 そこまで出来る神様の愛とはどういう愛でしょうか。相手が良いか悪いか、自分が損するか得するか、自分の利益になるかならないか、一切度外視して、「敵を愛しなさい」と、自分を殺そうとする相手をも愛せる愛、「無償の愛」と言われる神様の愛は、存在そのものを愛する神の愛です。
 それは子どもを分身のように愛しむ母親の心がそれに似ています。人はみな神の御姿に似せて造られた神の子ども、神様の分身です。神様は「われわれのかたちに似せて人を造ろう」と仰って、アダムとエバをお造りになりました。そして神様のきよさ、力、愛を受け継ぐ相続人として人類を育ててくださっておられます。私たち人類一人一人の存在そのものを、ご自分の分身のごとく愛しておられるのです。
 
 「私があなたがたを愛するように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」また旧約では「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と、神を愛する戒めと同等の重要なおことばとして、イエス様は教えておられます。それは、人が神の分身だから、神ご自身がこよなく愛された存在だからです。出来がいいとか悪いとかの問題ではなく、存在そのものが神様にとって最高の価値あるものだからです。だから、一人も滅びてほしくないのです。だから、義と愛が両立するために、十字架の贖いによる信仰による義という救いを計画し実行されたのです。私たちの存在そのものを愛してくださっているからです。
 
 存在そのものを愛するとは、世の知識や体験を積み重ねて分かることではありません。神様を認めた中で人生のプロセスを歩んでいく時に分かってくることです。
 長いクリスチャン生活を送っている兄弟姉妹の方々、あなたは存在そのものを愛されているという実感があるでしょうか。また、存在そのものを愛するということが出来ているでしょうか。

【自問自答】
(1)なぜ自分を愛せるのか、または愛せないのか?
 自分を、そして人を愛する基準は何ですか。それに気づくことによって、私たちはいのちを愛するとはどういうことかに目が開かれていくのではないでしょうか。

(2)神の存在を愛しているか?
 神様がいてくださって良かったと思うのはどんな時ですか。自分の存在の価値をどのように考えておられますか。答えはすべて神様の存在によって与えられます。

(3)人を愛する理由は何ですか?
 あなたは、奥さんを愛している、ご主人を愛している、お子さんを愛している、ご両親を愛している、友人を愛している、その理由は何ですか。

(4)永遠の希望となる愛について考察してみましょう。
 愛があれば希望が湧いてきます。目標がなくても愛は希望を与えます。愛は存在そのものを目的にしていますから、その存在そのものが続く限り、愛は希望を保ち続けます。
 ただただ一緒にずっといれることが希望と喜びであるような、そういう人をどのくらいあなたは持っているでしょうか。
 また、そのような愛を、神様に抱いておられるでしょうか。

【俳句】
 愛おしむ  葡萄づくりに  夢抱く

 葡萄づくりの方たちは、なんとかして良い実を結ばせたい、最高の葡萄を作りたい、と夢を持って品種改良されています。
 私たちも、神を愛おしむほどに、夫や妻や子供を愛おしむほどに、愛が注がれていたら、何とか自分を変えて、夫や妻や子供たちのために生きようと思うのではないでしょうか。
 同じように神様も私たちを愛おしんでおられます。私たちが神の国に入ることを夢見ながら、今日も明日も私たちを養い育て訓練し、涙ながらに私たちを育てて下さっておられます。

 

 

 

 

 

■2021年9月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

暗闇から光へ 失望から希望へ  up 2021.9.5


主題聖句(マタイ4:15〜16)
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」


 

 

 

 

○キリストへの期待こそ人間の望み
 「希望」というテーマをもとに、今回が三回目になりますが、今日は、「暗闇から光へ 失望から希望へ」と題して、福音の基本的なことをお話したいと思います。
 福音が「良い知らせ」である理由は、福音が希望と喜びを伴っているからです。福音は、人々を暗闇から光へ、失望から希望へと変えてくださる神様からの「良き知らせ」なのです。
 
 今週の主題聖句(マタイ4:15-16)は、旧約聖書のイザヤ書9章から引用されたものです。
 ゼブルンの地とナフタリの地は、もともとはエジプトから出てきたイスラエル12部族の内の2部族に与えられた地でしたが、その後アッシリア帝国によって占領されて、そこは異邦人の土地となってしまいました。そこで失望の中にあったイスラエルの民への希望のメッセージ(福音)として、民はそこで「偉大な光」を見ると、イザヤは、救い主キリストの出現を、そのことが起きる700年も前に預言していたのです。
 
 これは私たちにとっても素晴らしい神様の約束のおことばです。「暗やみの中にすわっていた民」は「異邦人」とも訳される言葉です。イスラエル以外の異邦人の上にも偉大な光が上るという、救い主の登場を預言する言葉でもあるのです。
 マタイは、イザヤの預言を引用して、私たち人間の永遠に対する望みを、神が救い主イエス・キリストを通して成就されたと、聖霊によって記しているのです。
 
 今日は、この希望の福音がどのような流れで私たちの内に受け止められていくのかを見ていきましょう。

(1)失望で終わらない希望(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

○愛されている事実を知ること
 この世の希望には終わりがあります。この世において夢が叶うと、実現したということで、その希望はなくなります。夢が叶わなければ失望して終わります。神の福音が示す希望は、この世で夢が叶うか叶わないかというような希望ではありません。
 
 私(辻牧師)は小学生高学年の頃から、生きることへの空しさを感じていました。世の中に対しても自分の未来に対しても、希望が持てないし気力もわかないという状態のままで就職する年齢となりました。そして居ても立っても居られない切羽詰まった心境の時、不思議なことに、その答えを求めて神に祈りました。そんな時に訪問に来られたクリスチャンの方から、「答えはこれです。」と、聖書の神、天地創造の神、唯一の神、救い主を遣わされた神についての話を聞きました。一週間後に教会に行き、そこで、その神様が本当におられるのなら、この人生に答えてほしいという気持ちから、イエス・キリストを信じてみようと思ったわけです。
 
 やがて、聖書を通して、神様が私たちを愛しておられるということを知りました。神様は、結婚式の指輪のように確かな愛の証拠として、歴史の中にキリストの十字架という愛のしるしを人類に与えてくださったのです。そして私は神様が愛してくださっているということを事実として受け入れました。
 
 献身に至ったのは、聖霊に満たされて、その愛が確実なものであることを悟らされたからです。これが神様の愛そのものかと思うような聖霊体験をしてからは、自分の考え方を神様に合わせていこうという献身の決意をして、神に仕えて行く人生を今も歩んでいるわけです。
 
 失望で終わらない希望というのは、私たちの内側に愛されているという愛がある時、その愛がもたらしてくれるものなのです。
 
 存在そのものに希望を感じる、生きていることに希望を感じる、一緒にそこにいるということだけで未来に希望を持てる、良い未来があると感じさせてくれる、それは愛されているという愛に触れて心がそのように動いて行くからです。
 
 神の愛は絶対に失望で終わることがありません。神様が共にいてくださっていることがわかるから、必ず希望で終わるのです。時には神を見出すことが出来ないようなことがあっても、それでも神様はいつも共にいてくださったと後で感じさせてくださるような聖霊様の取り扱いを通して、神の子として成長させてくださいます。そのように失望で終わらない希望が福音なのです。
 では、なぜこの世に暗闇と失望があるのかを次に見てみましょう。

(2)暗闇、失望の原因(創世記3:23-24) 
「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」

○人間は罪人であり、神のさばきを受けた状況にある
 アダムとエバは罪を犯し、エデンの園から追放され、そこに戻ることができないようにされました。そしてそのエデンの外側で子孫を産み増やしていきました。人間はエデンの外に追放された罪人であり、神のさばきを受けた状況にある、というのが今の私たちの状況です。これが失望の原因、罪の原因です。良いことをしたか悪いことをしたかではなく、エデンの外で産まれ育った人類はみな罪人だということです。

(3)神は愛と義のお方(出エジプト34:6-7) 
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべきものは必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

○旧約聖書がそのことを証している 
 神ご自身がご自分のことを愛と義の神であると宣言されています。主は何よりあわれみ深く情け深い愛のお方です。その愛は無秩序な愛ではなく、公正な正義の愛で、「罰すべきものは必ず罰する」と言われています。
 神様は私たちにエデンの園に戻るという道を閉ざされました。しかし、もう一度その道に帰ることが出来るイエス・キリストという救い主をお立てになる計画を実行されました。そのことを証ししているのが旧約聖書です。イスラエルと神様との関係です。
 旧約聖書を通し、イスラエルに対し、さばきと憐み、神の愛と神の義が両立されている姿を、私たちは読み取る必要があります。
 そして全人類に対して神様の愛と義を示されたのが、イエス・キリストの十字架です。

(4)罪人に示された愛と義(第1ペテロ2:24)
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

○イエス・キリストは、私に代わって私のさばきを受けてくださる
 この世の人々は罪が癒されないままで生きています。ですから、義の道を選ぼうと思っても選べないのです。罪の癒しを受けていないので、どんなに正しいことをしようとしても途中で挫折してしまうわけです。そして失敗を繰り返し失望しあきらめていきます。
 
 クリスチャンは違います。癒されています。神様から罪が無い者と見なされています。ですから、たとえ失敗をしても希望を持ち続けます。なぜなら、イエス・キリストが私たちの代わりにさばきを受けてくださったから、そして神が私を造り変えてくださるから、私たちは赦されて、何度でもやり直しが出来るのです。福音の中でも最高に良き知らせであります。
 
 赦されるとは、やり直しのチャンスを与えられることです。だから希望が持てます。未来があります。失敗してもあきらめさえしなければ、何度でもやり直すことが出来ます。これがイエス・キリストによって与えられた癒しであり、罪からの解放であり、永遠の希望なのです。 
 最初に神様はアダムとエバを裁かれました。エデンの外に追放された人類は、そこで死刑の執行を待っている死刑囚のようなものです。
 
 しかし、イエス・キリストが私たちに代わって死刑執行を受けてくださいました。イエス・キリストを信じる者は死刑の執行を受けなくてよいという恵みの救いを、神様が与えてくださいました。
 キリストが再臨されるまでの間に、心入れ替え悔い改めて立ち返れば、永遠のいのちを得ることが出来るのです。今は恵みの時、今は救いの日です。

(5)永遠の希望へ(ヨハネ3:16)
「神は、実に、そのひとり子をおあたえになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

○この約束は今も有効である
 このみことばには、永遠の希望への約束が書かれています。この約束は今も有効です。その有効期限はキリストの再臨の時です。
 
 罪人である私たちの身代わりとして、最も大切なたった一人の子を犠牲にされた、そこまでして私たちを愛された神様のおこころがお分かりでしょうか。
 
 この神様の良き知らせに対して、私たちはそれを無視するのか、信じて受け入れて神のもとに立ち返るのか、神様はこの世に対してその決断を迫っておられます。

(6)愛と義の神への応答(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

○愛してくださっている方を信じて神の愛に生きる人生を選ぶ
 この(ガラテヤ2:20)のみことばは、私たちクリスチャンが神様の福音に対して応答する姿です。
 
 神様の愛に触れられて、神様がどれほど大きな愛で私たちを愛してくださったかを知る者は、神の愛に生きる人生を選んでいきます。 すでに人類は裁かれて死刑判決を受けています。執行の日が来るまでに、ひとりでも滅びることがないように、神は救いの時をお与えくださっています。 
 
 クリスチャンたちの生活を通して、世の人々のふさがれた目が開かれていくように、キリストを信じる私たちがこの世で光を示していくこと、希望の生き方を証していくことが、使命として与えられていると思います。

【自問自答】
(1)暗闇の中にいるのか、光の中にいるのか?
 あなたは希望のあるクリスチャン生活をしていますか、希望のないクリスチャン生活をしていますか。

(2)どうしてそのように思うのか?
 どういう希望を持っているから、そのように思うのでしょうか。

(3)永遠のいのちという希望について考察してみましょう
 永遠のいのちとはどういうことでしょう。

【短歌】
世の終わり  不安な世界  生きるには
唯一の希み  神のあわれみ 

 二つの世界大戦を通り、今も不安な世界の中にいます。
 何か正しいことをしたかではなく、神の憐れみに信頼する生き方、それが、世の終わりの不安な世界で生きる唯一の生き方ではないでしょうか。