■2021年8月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

希望を抱いて生きる  up 2021.8.29


主題聖句(ヘブル6:11)
そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。


 

 

 

 

 先週は(ピリピ1:21)から、キリストに自分を合わせて、キリストと心が一つになって生きることの幸せ、そして更に、この世を去ることはキリストと全く一つになれるのでもっと素晴らしいという、この世におけるクリスチャンの希望についてお話し致しました。
 
 この世で生きることにおいては、神と共に歩む楽しみ、人々が救われることの喜びを希望として生きるわけですが、今日はもう一つの希望として、もっと先のこと、永遠の世界にはどんな希望があるのか、ということについて見ていきたいと思います。
 
 今週の主題聖句(へブル6:11)では、この世が滅んでも、なくならない希望がある、だから熱心に確信をもって、その希望を抱いて生きるようにと、読者を励ましています。
 
 そこで今日は、永遠への希望について聖書が教えている4つのみことばから、「希望を抱いて生きる」というポイントをお話して、皆さんの信仰の歩みの参考にして頂ければと思います。

(1)ローマ2:16 
「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」
 
 パウロ先生によれば、神のさばきがあることは、クリスチャンにとって福音(良い知らせ)であります。なぜなら、神は、キリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれるから、ということなのですが、なぜそれが良い知らせなのでしょうか。

○悪は必ずさばかれるという福音
 この世に悪が行われている状況を私たちはニュースなどでよく耳にしますが、私たちの知らない隠れたところには、どれほどの悪がはびこっていることでしょう。この世で裁くことのできる悪には限りがあります。この世で見逃された悪が、裁かれないままで済むのなら、誰が正しいことをしようという気になるでしょうか。
 
 しかし、たとえ現実がそうであっても、私たちクリスチャンには希望があります。なぜなら、悪に対するさばきは地上においてだけでなく死後にもある、この世で見逃された悪は公平に、キリストの再臨の時に必ず裁かれる、と信じているからです。
 
 クリスチャンが神を信じて敬虔に生きよう、そして罪を犯したなら悔い改めて神に立ち返り、またやり直そう、そういう気持ちになれるのは、神が必ず悪をさばかれる最後の審判を成就される方だと信じているからです。そこに私たちがこの地上で神の子として正しく生きる望みがあり、生きがいも生まれてくるのです。
 しかし、もしあなたが神様の前に隠れた罪を持ち続けるなら、その罪もキリストによってさばかれます。クリスチャンも同じです。
 
 しかし、クリスチャンは心改めてやり直すチャンスが与えられているから感謝です。罪を犯すことがあっても、隠さず告白し、心を入れ替え、やり直して、正しく生きることを固守していくことができるのです。

(参考:出エジプト34:6-7)
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべきのものは必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子の、三代に、四代に。」
 
 このみことばは、モーセがシナイ山で、神様の後ろ姿を見た時に、神様がご自身のことを宣言された時のおことばです。
 
 その中に、罰すべきものは必ず罰する、とあります。神様が見逃す罪は一つもありません。そういうお方だから、私たちは信じて希望を持つことが出来るのです。
 
 世の悪に対しては冷静に、神を信じる者として、すべてのさばきと報復は神様におゆだね致しましょう。
 
 悪は必ず神様がさばかれます。悪者が栄えていても、うらやむことなく、悪意を持つことなく、彼らの救いを祈り、祝福を祈りましょう。

(2)第1コリント4:5  
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」

◎悪に染まらず、善を通し続けた者への神からの称賛
 天国でいただく一番価値ある称賛とは何でしょうか。それは全能の神からお褒めの言葉を頂いて報いられることです。
 
 「よく頑張った。試練の中でも負けないで、敬虔な心を保って、よく頑張った。」神様からの称賛は、私たちの存在を価値づけるものです。
 
 悪に染まらず、主を信じて善を通し続ける者には、神からの称賛がありますから、希望を持って地上の歩みを全うしていきましょう。

(3)ルカ16:25 
「アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』」

◎人生のすべては、死後の世界で公平に清算される
 清算とは、過去の関係などに結末をつけること、つまり、この世で生きていた時のことに、はっきりと結末をつけることです。
 そして、どう人生を歩んできたかということを、総合的に結末をつけるのが、死後の世界です。それは「人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」というみことばにも当てはめることが出来ることです。
 
 貧しい国には飢餓状態の子どもたちが多くいます。援助も行き届かない子どもたちや人々はどうなるのでしょうか。神様は公平に清算をしてくださいます。
 もし、あなたがこのことに疑問を持つならば、あなたの考え方は、この地上の人生を優先していることになります。
 
 この地上で生きていてこそ、富み栄えることに人生の意味がある、と考える人が、クリスチャンの中にもおられますが、しかし、私たちはこの世に望みをおいているのではありません。
 自分に与えられた能力と力を、普通にこの世で現わして与えられた収入や環境に生きて感謝することは当然のことです。罪でも悪でもありません。
 しかし、もしあなたが努力しても努力しても、騙され、倒産し、一切を失ってホームレスになったとしたら、そこで神に文句を言うのか、それとも感謝するのか、その時に、あなたがこの世と死後の世界と、どちらに比重を置いているのかが試されるのです。
 
 良い大学に行って良い会社に行って、社会に良い貢献をするのもいいでしょう。しかし、神様のことをおろそかにしてまで、子どもの将来の為に、学費の為にと、時間を優先させるのはいかがなものでしょうか。
 与えられた賜物を十分に引き出し、用いるというのは大事な心構えです。そんな中で、色々問題が起こり、どんどんひどい状況に陥り、どうにもならない所まで追い込まれるというような時に、そんな人生を「敗北」であるかのように感じるクリスチャンがいますが、それは違います。
 この世でどうかということではなく、死後、どのように神様は公平に私たちに報いてくださるのか、その方が大事なのです。
 
 怠けるクリスチャンも、病気になるほどこの世に尽くしているクリスチャンも、それが永遠のいのちにどれだけ益になることなのかをよく考えて、一生懸命やるけれど、行き過ぎた価値をこの世に持たないように気を付けて頂きたいと思います。
 
 この世がすべてなのでも、この世がゴールなのでもありません。私たちが目指すのは永遠の世界です。そこに希望を持っているから、そこで神様が公平に清算してくださると信じているから、この世で成功しようが、邪魔されようが、どういう状況になっても、希望を持って、神の前に正しく歩んでいこうと、前に向かって、明日に向かって、再臨に向かって歩むことが出来るのではないでしょうか。

(4)黙示録21:3-5 
「そのとき私は、御座から出る大きな声がこういうのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書き記せ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』」

◎信頼できる至福の未来への希望の約束が待っている
 「泣くことも死ぬことも苦しむこともない新しい天と新しい地が来る。それは信ずべきものであり、真実である」と、神様ご自身が仰るこのおことばは、この地上を生きる私たちの慰め、励まし、そして私たちが持つべき本来の希望です。
 
 この至福の未来(新しい天と新しい地)の約束が真実であるからこそ、そこに希望を持って、この罪の世でも忍耐を働かせて生きることができるのです。人の目に負け組と映ってもいい。神の目に勝ち組となるべきです。信頼できる至福の未来への希望の約束が待っているからです。
 
 たとえ、どんな家庭環境や人間関係、否定的な出来事があったとしても、それに勝る神様の公平な清算(報い)の時があるということを信じるとき、心は平安に、喜びと感謝に変わるのではないでしょうか。
 
 決して自分を卑下しないようにしましょう。あなたの目にはあなたは価値が無いと思えるかもしれませんが、神様の目にはあなたは高価で尊いのです。それを教え示して頂いて、自分の判断ではなく、神様にだけ希望をもつことです。
 
 この世においても、神様はあなたに力と賜物を与えて、地の塩、世の光として用いようとしておられます。ただ、それが最優先となって神の国が第二第三になることは気をつけないといけないことです。
【自問自答】
●みことばから希望を抱くことができていますか?
 私たちの益となるような色々な希望のみことばがありますが、永遠に対する希望のみことばも含めて考えてみてください。

●確かな希望としての証拠は何ですか?
 聖書に書かれてある神様の約束が真実であることを、確信できるのはなぜですか。
 それは、イエス様についての聖書の預言が、歴史の中に成就している事実です。それを皆さんは希望の確証として持っているでしょうか。

●この世での希望だけを抱いていませんか?
 この世での自分の願望を満たすための神の約束のみことばだけを希望としていませんか。それはこの世への執着の強さの現われです。
 私たちが執着すべきは、新しい天と新しい地です。クリスチャンは死後の世界を大胆に語るべきです。「私を信じる者はたとえ死んでも生きる。生きていて信じる者はいつまでも死ぬことはない」とイエス様は言われました。
 死を、死ぬことを、大胆に積極的に、私たちの希望として証しするように確信を得るように、祈り黙想して、みことばを悟っていただきたいと思います。御霊様が悟らせてくださいます。

【川柳】
十字架が  望みの保証  喜びぞ    

 十字架がどれほど喜びであり望みであり死後の世界への証拠であるか、初めて信じた時以上に、神様からの私たちへの偉大な、奥深い、価値ある証しであることが、年数と共に深々と啓示されてきています。
 
 最初から悟れていたわけではありません。クリスチャン生活の様々な出来事を通し、みことばを通し、祈りを通し、御霊様を通して、十字架の価値を少しづつ悟って来れたような気がいたします。

 

 

 

 

 

■2021年8月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

クリスチャンが抱くこの世での望み  up 2021.8.22


主題聖句(ピリピ1:21)
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。


 

 

 

 

 今日の主題聖句(ピリピ1:21)は、イエス様を信じている素晴らしい働き人であるパウロの言葉です。彼ほどにイエス様に対して熱心な思いで神に仕えた人はいないでしょう。「私にとっては、生きることはキリスト」という短い文章の中には、私たちがこの世でクリスチャン生活を送るにあたっての望み喜びが秘められています。

【主題聖句内容観察】
「私が抱いている人生の望み喜びは、キリストと同化して生きることであり、たとえ人生が終わっても完全にキリストと同化するので、それも素晴らしいことです。」
 
 今はイエス様は天におられて、イエス様の霊だけが地上に来られて私たちの内に住んでくださっています。霊としては一体ですが、物理的にはまだ離れている状態です。 
 ですから、この地上では私たちの霊、魂はキリストと同化して生きることが喜びであり、その生き方が望みであります。たとえ肉体のいのちが終わっても、魂は救われてキリストのもとに行って、完全にイエス様と一体となるわけですから、それはもっと素晴らしいことであります。

『同化して生きる』とは?
 それは、キリストの心を自分の心とするという意味です。イエス様は、「父のみこころを行なうことが私の心である」と言っておられましたから、神のみこころを行なうことがキリストの心であり、私たちの心でもあります。
 
 キリストの望みを望みとし、キリストの喜びを喜びとすることが、キリストと同化して生きている者の状態であると言えます。
 「同化する」というのは、相手を自分に同化させるのではなく、キリストに自分を合わせるということです。
 キリストと私たちは「かしら」と「からだ」の関係です。私たちはそれを悟って納得して自ら望んで従順になるのであり、そうでないのに従っているなら、自分の心を偽っているということです。
 
 なぜ、そのように従えるのでしょうか。参考のみことばとして(第1コリント2:16)を見てみましょう。
(第1コリント2:16)
「いったい、『だれが主のみこころを知り、主を導くことが出来たか。』ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」
 
 キリストの心である聖霊様が私たちの内におられるので、私たちは直接、主の思い、お考え、お気持ちを自分の魂、霊に感じることができます。そしてそれを喜び、感激します。そしてそのキリストの心に喜んでついていきます。それが自分にとって一番幸せであることがわかったから、納得して従っていくことができるわけです。私たちの一番の願いは、キリストのような心を持ちたいという望みです。
 しかし、私たちにはキリストの心に合わせきれないところ、欲望との葛藤があります。そこで私たちは悩みます。しかし、100%従うことが出来ていないからといって、キリストの心がなくなるわけではありません。
 私たちはゼロからスタートして、100%キリストの心が内側に満ちるのを目指して、今日も礼拝に来て、みことばに耳を傾けているわけです。
 では、キリストの心があることによって、私たちはこの世にどんな望みを抱くことができるのかを見ていきましょう。キリストが何を望んでおられるのかを知ることによって、私たちもその心に合わせて、同じ望みを抱くことが出来るのです。

キリストの心とは?
(1)第1テモテ2:4
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
●すべての人の救い

●すべての人が真理を悟る
 神様は、神のひとり子イエス・キリストをこの地上に遣わし、その罪無きいのちを、罪人の私たちを赦すための代価として、十字架で私たちの身代わりに罰してくださいました。
 
 「ひとり子」とは、神様にとってこれ以上の価値あるものはないという表現です。子孫は未来の保証です。神様は永遠のお方ですが、子孫がいなければ、その永遠は一代限りの永遠です。ひとり子がいれば、次の世代にも神の存在は続いていきます。
 
 そのような価値ある存在の「ひとり子」イエス・キリストを、人々の救いのための犠牲にしてまで、キリストを信じれば罪の赦しを受けることが出来るという救いを成就されたのですから、すべての人が救われて欲しいと思うのは当然ではないでしょうか。

 また、救われた人たちが真理を悟ってほしい、とも書かれてあります。真理とは、創造主がおられることです。これがすべての真理の土台です。私たちは永遠に対する望みを持っています。この世がすべてではないということを、創造主なる神様に教えられ悟らされて、私たちはこの地上のクリスチャン生活を歩んでいます。

(2)第2ペテロ3:9
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

●忍耐深く待っておられる
 キリストの再臨が遅いのはなぜか、それは、すべての人が救われることを願って、神様は忍耐深く待っておられるからです。神様が罪人に対し、それほどに忍耐してくださっているならば、私たちも隣人に対して忍耐深く待つということが必要ではないでしょうか。
 
 クリスチャンも、イエス様のように変えられていくという約束があり、そして変えられていくプロセスには個人差がありますから、お互いに忍耐深く待ち合う心がけが必要です。

●すべての人が悔い改めること
 人が絶対に犯し続けてはならない罪は、主権者を敬わず侮る罪です。神様の主権を犯し続けるなら、必ずいつか裁かれます。
 
 今すぐ罰せられないのは、神様が忍耐強く待っておられる間に、主権者である神様を畏れ敬う心に人々が改めるためです。それが悔い改めです。
 
 クリスチャンも同じです。自分を優先した判断や決断をしていることがあります。神様の主権を畏れ、神様の恩恵を畏れて、神のおことばに従って生きるのか、それともこの地上の価値観に合わせて、この地上で少しでも楽な生活をしようとするのか、常に選択を問われているのです。
 
 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とイエス様は言われています。
 私たちの永遠に対して、どれだけ神様の思いが、愛が多く注がれているか、どれほど心配しておられるか、それに早く気付くことです。

 ひとり子を犠牲にしてまで私たちを救ってくださった神様のお心を、自分の心とするなら、何を優先すべきかはおのずとわかることです。その通りに出来なくても、葛藤しながらでも神様の前に祈り続けることが、神様の前に大事な姿勢であります。

 あなたのこの地上での望みは何でしょうか。地位ですか。名誉ですか。財産ですか。良い暮らしですか。キリストの望み、キリストの喜びは、救われて欲しい、人々が神を認め、救い主キリストを信じて、罪赦されて、永遠の御国に入ってほしい、地上に対する神様のお心はそこにあるのです。人々が救われることなのです。
 
 神様は、この地上の世界が罪を一つも見ない世界になるとか、そういうことを聖書で言ってはおられません。この地上は罰せられるべきもの、現存するこの世では平和はやって来ない、と神様は言われています。
 
 神様のお考えは、この世界をリセットして、新しい世界を始められるということです。リセットされる前に、イエス・キリストを信じて、リセットした後の新しい天と地に、もう一度人々を導いて、そこで本当の平和を築いて行くことを神様はご計画しておられるのです。
 神様は、この地上を直そうと思っておられるのではなく、罪の裁きをする、この世を裁く、と決めておられます。その前に、神の憐れみとして、悔い改めて心を入れ替えて、神の主権、神の恩恵を畏れ敬い、キリストを通して罪の赦しを得て、神のご計画である新しい天と地に入って欲しい、救われて欲しいと思っておられるのです。

 この世のものは過ぎ去ります。あなたのこの世での人生も終わります。しかし、永遠に持って行ける望みと喜びをこの地上で見出すことが出来ます。それはキリストを信じて魂が救われることです。救われた魂は新しい天と地で再会できます。この地上で救われることは、そういう永遠の望み、永遠のいのちにつながることなのです。

 それ以外の地上のことは全部、終わります。次の「始まり」は、神様の新しい天と地です。神様の造られる新しい天と地に、神様を敬わない者が入れる道理はありません。もし入れるのなら、今の世と同じ世界になってしまいます。神様は本当の平和と本当の幸せを新しい天と地において造り出すために、この罪の世を処分されようとしておられるのです。
 
 それまでに、心改める人々が出てきて欲しい、救われて欲しい、そして真理を悟ってほしい、これが神様のお心です。

 神の愛、御霊様によって、今日のメッセージがあなたの心を動かして、キリストの心と同化することこそ、この地上における私たちの望み、喜びなのだと、心開かれていただきたいと思います。

【自問自答】
●この世での望み喜びは?
 色々な望みや喜びはあってよいですが、その優先順位がどうなっているか考えてみましょう。

●キリストの心と同化できている点はどういうところか?
 一度にすべてが同化するというのは無理なことです。今どういうところがキリストの心と一つになっているでしょうか。どういう点を自分は造り変えられたいと願って、クリスチャン生活を歩んでいるでしょうか。

●だれの救いを望んでいるか?
 具体的にあなたは誰が救われることを望んでいますか。そのためだったら、あれもしよう、これにもなろうと、自分の人生、才能、能力を用いようと考えておられますか。
 
 この地上でのクリスチャンの望みと喜びは、魂が救われること、それがキリストの心です。

【俳句】
 花火果つ  神への望み  永遠に 

 この地上の人生は、花火のようにパアっと開いて終わるはかないものです。しかし、神への望みは永遠です。
 
 地上での望みは花火のように終わっても、魂は永遠であり、キリストを信じる者の望みは永遠に続きます。

 

 

 

 

 

■2021年8月15日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

主を畏れる立派な振る舞い  up 2021.8.15


主題聖句(第1コリント10:9〜11)
私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。


 

 

 

 

 ある外国での話です。ある奥さんが、入用があって祖父母に借金をしていました。少しずつお金を貯めて返すことにしていて、千ドル位貯まったので返しに行こうと思いました。しかし、机の中にあったはずのお金の入った封筒がなくなっていました。泥棒が入った形跡もありません。一生懸命さがし、ついにお父さんが部屋で使っているシュレッダーの中に、そのお金を見つけました。その家の2〜3歳の子どもが、お父さんがやっているのを見て、自分もやってみたいと思い、紙をさがして、丁度いいのがあったと思い、封筒の中にあったお金をシュレッダーにかけてしまったのです。
 しかし、お母さんは慌てずに、銀行に相談に行ったそうです。そして銀行で無事に替えてもらったということです。
 お金のことはそれを作った国の銀行で修復できます。私たちを造られたのは神様です。私たちがたとえボロボロになっても、神様の所に行けば、修復してもらうことができるのです。神様は私たちの心を癒してくださるお方です。
 
 今日は、聖会で教えられた「畏敬の念」と「信仰による救い」というポイントからお話させていただきます。

1.イスラエルの民は神とモーセに逆らった(民数記21:4〜6)
「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんできなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。『なぜあなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。」
 
 イスラエルの民がエジプトから救い出され、紅海が分かれて乾いた道を歩き、エジプトの軍隊が全滅する所を見、本当に救われた経験をし、毎日天からのマナを食事として食べていました。彼らは40年間もマナで養われたのですが、途中で神様につぶやきました。神様の救いと養いの経験をしたにも関わらず、それを忘れてしまってつぶやいたのです。
 
 神様への反抗は、神様を侮辱することになります。陶器が陶器師に向かって文句を言うことはできません。私たちは、神様に造られて生かされているのに、もっとこうして欲しかった等と、文句を言ってしまいます。しかし、陶器が目的をもって造られているように、私たちも、神様が目的をもって造られているのです。 
 また、神様を無視したり、文句を言うことは、神殺しをしているのだと言われました。それは、主を畏れていないことであり、見えない反抗です。聖書や指導者から教えられているみことばを無視することは、神様の御心に反抗することになります。
 
 神様は、このつぶやいた民に蛇を送られ、裁きをなさいました。悪いことはどこかで必ず処分されないといけないのです。神様は正しく裁きをされるお方です。

2.民の悔い改めと仰ぎ見る救い(民数記21:7〜9)
「民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
 
 イスラエルの民は、毒蛇を送られて多くの人が死ぬのを見て、神様をおそれモーセの所に悔い改めてきました。モーセは神様に祈りました。すると、神様は、青銅の蛇を作って、それを旗ざおの上につけ、それを仰いだ者は生きるようにされました。
 
 青銅の蛇とは、偶像として拝むものではありませんでした。蛇というのは罪の姿です。イスラエルの民が自分の罪を見るということです。それを見るだけで癒されたということです。私たちは、十字架につけられたイエス様を知っています。ボロボロになって、みじめな姿でした。それは、私たちの罪がそこに置かれたからです。それを見て、罪の赦しと癒しが流れてくるのを信じて救われたのです。自分の罪を認め、その代わりにイエス様が死んでくださったことを信じることによって、罪が赦され、救われたのです。
 
 「仰ぎ見るものは生きた」とあります。「そんなバカなことがあるものか」と信じずに見に行かなかった人は死んだのです。しかし、それを信じて見上げた人は、生きたのです。信じて受け取る者は生きるのです。十字架の救いもそうです。イエス様が十字架で死んだことが私に何の関係があるのかと思っている人は救われません。しかし、十字架の痛み苦しみは私の罪そのものであったと信じて受け取った人は救われ、永遠のいのちを受けるのです。

*イスラエルの民は、主に導かれ、罪を犯してもへりくだって悔い改め、敵に勝利し前進し続けて、ついに約束の地カナンに入った。
 
 私たちもたくさんの罪を犯す者ですが、その都度悔い改めてやり直すなら、赦され必ず天国に導かれます。あきらめてはいけません。

3.イエス様は燃える蛇となられた(ガラテヤ3:13)
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。」
 
 私たちの罪の罰、病いの痛み苦しみ、私たちの受けるべき全ての呪いをイエス様が身代わりになられて受けてくださいました。十字架のイエス様の姿は、私たちの罪を罰せられた姿です。

【適用】
(1)つぶやかない立派な振る舞い
 私たちの生活の中につぶやきがあるなら、実は神様に対してつぶやいているということを覚えていただきたいと思います。心の中につぶやきがあったなら、悔い改めましょう。神様には、問題を通して私たちを聖めようとご計画をしておられます。神様の恩恵に対して、畏敬の念を持ちましょう。

(2)悔い改める立派な振る舞い
 イスラエルの民は、モーセの前に悔い改めて行きました。自分の悪いことを隠して握っているなら、ますます悪くなります。自分の罪を認めて心から悔い改めるなら、必ず神様は罪を赦し良い方向に変えていってくださいます。悔い改めとは、悪かったと嘆き悲しむことだけではなく、主の十字架を見上げることです。イエス様は私の罪を処分してくださったのだと、見上げるのです。自分の努力でするのではなく、罪を赦された者としての歩みをしていくのです。

(3)主を仰ぎ見る立派な振る舞い 
 主を仰ぎ見ることが大切です。私のような罪人を赦すために、イエス様は犠牲となられました。なんと十字架の救いは感謝なことでしょうか。それだけで終わらず、イエス様は三日目によみがえられました。私たちもこのままでは終わりません。新しい人としてやり直すことができるのです。

【参考聖句】(ヨハネ3:14〜16)
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
 
 十字架を見上げる者がひとりとして滅びないで、永遠のいのちを持つために、イエス様が十字架にかかってくださったことを感謝します。

 

 

 

 

 

■2021年8月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

原点回帰 第五聖会  up 2021.8.8


主題聖句(ガラテヤ3:2〜3)
ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。


 

 

 

 

「入門聖霊」
【御霊によって始めた】

 今年の聖会は「原点回帰」というテーマのもとに、「主を畏れる畏敬の念」について語って参りました。主権者を畏れ敬うこと、そして主権者からの恵み、憐み、赦しを受けることを通して恩恵への畏敬の念を持つこと、そしてそこから私たちの神への信仰は生まれてくること、それは見えないものに目を向けて歩む信仰であり、神様の約束を信じ、神様には約束を実現する力があることを信じて歩む信仰生活であることなどをお話しいたしました。
 今日の第五聖会は、「入門聖霊」と題して、主題聖句(ガラテヤ3:2-3)から、私たちのクリスチャン生活は御霊によって始まったということを見ていきたいと思います。

【主題聖句の内容観察】
●御霊に頼って入門した 
 始めた→入門(中国語聖書より)
 御霊に頼って入門したという表現は、「御霊によって始めた」という聖書のギリシャ語の意味を中国語聖書に翻訳した時の表現ですが、良い解釈だと思います。
 「入門」は、単にスタートしたというだけでなく、何かを学び身につけるために、そのグループや組織に入るという意味があります。
 私たちは何を学び身につけるために、クリスチャン生活に入門したのでしょうか。神の子として成熟するためです。それは「御霊に頼って」です。

●御霊を受ける→内住する
 「御霊を受ける」とは、神の霊が内側に住んでくださることです。そんな不思議な奇跡が、どうして起きることが出来るのでしょうか。

●信仰をもって聞いた→福音の望みに頼った
 御霊を受けることが出来たのは、良き知らせ(福音)を信仰を持って聞いたからだとパウロは語ります。良い知らせの中には必ず望みが記されています。神様がキリストを通して語られた良い望みは何だったでしょう。
 
 神様が提示してくださった望みの良い知らせ(福音)を聞いて、私たちは、神は必ずそれを成し遂げてくださる、と神の力を信じ、神の私たちへの愛とあわれみと恵みを信じて、心開いた時に、聖霊様が私たちの内に住んでくださいました。
 
 それは、イエス・キリストの罪の赦しの結果、罪の代価が支払われているという救いの御業の完成の結果として、信仰を持って聞いた時に、御霊を受けることができたのです。
 
 私たちは、「全能の父なる神には、この良き知らせを成就する力がある!罪深い私だけれど、その罪を取り除いて神の子として前に進んでいくことが出来る!そのように私を導き育ててくださる力を神は持っておられる!」と、望みを持って信仰を働かせて、今日まで歩んできたのではないでしょうか。
 
 信じて、御霊が内住されて、私たちをつくり変えてくださるという信仰の歩みを始めたにもかかわらず、肉(自分の才能、力、能力、それは欲求を満たすための力)によって完成させるというのですか、とパウロは問います。私たちは聖くなりたいと思って、自分で努力して聖くなっていこうとするのでしょうか。
 
 いつも私たちは心を改めていかなければ、古い情報に影響されて信仰は弱っていきます。ですから、毎週教会に来て、みことばを聞くということは大切です。過去に縛られやすい私たちが、神の約束のことばによって解放されて、神は良い未来に私たちを導いてくださるという、みことばの情報を確認し励まされるために、毎週の説教に耳を傾けるのです。

御霊が内住される心(イザヤ57:15)
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

●高く聖なるところ
 最も高く最も聖なるところに住まわれる御霊(神様の霊)が、私たちの心の内に住まわれる、というその心とは、私たちのどんな心なのでしょうか。
●砕かれた心。
 それは頑なさのない柔和な忠実な心です。

●へりくだった心。
 それは全能の父なる神を最も尊敬する従順な心です。深く考えることをせずに軽く追従する態度ではありません。ヨブのように神様に対して納得してへりくだる従順な心です。神様は、神の恩恵によって神に従うことを、私たちに求めておられます。

●へりくだるとは?(ヤコブ4:9-11)
「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟を裁く者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。」
 
 苦しみなさい、悲しみなさい、泣きなさい。憂いなさい。これは、「主の御前でへりくだりなさい」が目的です。
 パウロは、神の恵みを受けて傲慢になり、主を畏れる心を弱らせているクリスチャンに語っています。その恵みがどんなに大きいものであるか、その恵みがなかったら、みんな滅びるしかない者であることを思い起こして、へりくだりなさいというのです。
 
 もう一度私たちは、神の前に、苦しみ、悲しみ、泣き、憂うこと、心を改めること、悲しみ、苦しみを神の前に祈ることが必要かもしれません。御霊があなたをさとしてくださいます。そうすれば再び、感謝と喜びと希望がそこに湧き上がってくることでしょう。ヤコブ書から、神の前にへりくだることの大切さを学んでください。

内住の御霊の働き
 聖霊様は働かれるお方です。神のご計画を、ことばなる神イエス・キリストを通して実行され、働かれる方です。聖霊様は私たちの内でどんなお働きをなさるのでしょうか。

A)主と同じ姿に変える(第2コリント3:18)
「私たちはみな、顔のおおいをとりのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 あなたの内におられる御霊は、あなたを主と同じ姿に変え続けてくださるという働きをなさいます。

(1)高徳の実を結ぶ(ガラテヤ5:22-23)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
 
 キリストの御霊(神の御霊)は、あなたの内に住んで、9つの霊的な実を結ぶために働いておられます。耕し、種を蒔き、水をやり、雑草をとり、あなたの心の中で様々なお世話をされているのです。

(2)賜物を与える(第1コリント12:7-11)
「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」
 
 私たちの内におられる御霊は、神の力の現われとして、9つの賜物を私たちに分け与えられます。
 
 異言を語ることもその一つです。自分の徳を高める素晴らしい神の力であり、大事な賜物です。品性に問題があったり、徳があまり実を結んでいなかったりする人は、異言をしっかり語っていけば、徳が高められ、性格も改善されていきます。賜物を通して私たちは主と同じ姿に近づいていきます。 
 
 福音書には、9つの実と9つの賜物を持たれたイエス様の完全な姿が描かれています。そのイエス様のからだの一肢体として、私たちにもいろんな賜物が御霊によって分け与えられています。
 
 癒しも、悪霊の解放も、人の力では及ばない奇跡的な出来事が現わされるようにと、聖霊様がその賜物を与えてくださっており、教会の中に多くの賜物の実が実現していくということが、内住の御霊の証しであり、御霊のお働きを証しするものと言えます。
 
 形だけのものでは、宗教になってしまいます。生きた神への信仰をしっかり持つために、内住の御霊の働きと実を豊かに現わし結んでいくための、神様との関係を持ってまいりましょう。

B)全ての真理に導く(ヨハネ16:13)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

(1)神の子のために導く(ローマ8:14)
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
 御霊は、私たちが神様のみこころの内を歩むように、私たちを誘導しておられます。御霊に導かれる人は神の子どもです。

(2)三一神の啓示(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」
 
 御霊は、主イエス・キリストがどういうお方であるかをあかしします。すなわち御父、御子、御霊の三つにして一つの神を啓示してくださいます。私たちは御霊により、真理の中にしっかりとどまり、三一神の啓示をしっかり持つことができるのです。

【自問自答】
(1)あなたが御霊に頼っている証し(しるし)は何ですか?
 そのことを見ることを通して、自分は御霊に頼っているんだと確認できるものは何ですか。プライベートの生活の中で、「ああ、御霊が私のうちにおられる」ということを確認するための質問です。

(2)あなたの心が、心地よい御霊の住まいとなっていますか?
 聖霊様に心地よく住んでいただくために、どのような心の状態を努力しておられますか。

(3)内住の御霊の働きがどのように現れていますか?
 御霊に造り変えられているしるしとして、あなたの生活にどんな変化があらわれていますか。9つの実が実ってきていますか。
 
 9つのすべての実を実らせることが御霊のお働きです。そのことを通して内住の御霊の働きを内側に確信し、御霊が内におられることを喜び、ますます御霊を信頼し、御霊が始められたことを、御霊が完成なされるように、最後までそのような人生を歩んでいきましょう。

【俳句】
葉桜が  厳しい日差しで  万緑へ

 まだ隙間の多い葉桜も、真夏の厳しい日差しの中で、しっかり生い茂った万緑へと変わっていきます。
 
 私たちも御霊によって始まった信仰生活は、最後まで御霊によって成熟へと導かれていきましょう。

 

 

 

 

 

■2021年8月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

原点回帰 第四聖会  up 2021.8.1


主題聖句(ローマ1:17)
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


 

 

 

 

「神義信仰」(しんぎしんこう)
(信仰に始まる神の義)
 
 私たちが神の前に義とされて救われるのは信仰によります。信仰が救いの出発点です。その信仰に至るために悔い改めがありますが、信仰に至らなければ悔い改めも意味がないことになります。信仰も悔い改めも一対と考えて良いかもしれません。
 クリスチャンがいま生きているのは、信仰によって始まった人生です。今日は「原点回帰」という意味で、救いの原点である「信仰」について見ていきます。根拠となるみことばは、(ローマ1:17)です。

(ローマ1:17)内容観察
「神の義の生活は、福音を信じることによって始まり、福音にある希望への信仰によって歩み続けるものです。希望の神への信仰によって生きる者こそ義人なのです。」
 神の義とは何かというと、二つあります。一つは律法を完全に守り通すことによって神の義を持つことが出来るということと、もう一つは、憐れみという神の義です。罪人を憐れんで救うという、さばきに勝る神の義、憐みの義です。
 
 罪人を救うというのは憐みから始まります。憐れみによって救うための神のご計画が立てられ、それが成就して、私たち罪人は、罪の赦しという神の良き知らせを信じます。信じたら救われるという福音を信じて、私たちは義とされます。行いは後からついてくるもの、というのが神様のお考えです。
 
 つまり、信仰から始まって、行いや行動は、信じた方向へと徐々に変えられていくものです。ですから、私たちは信仰を持ったなら、信仰の実が実っていく歩みを続けなくてはなりません。それが信仰に始まり信仰に進むということなのです。
 私たちは、信仰による神の義の生活を始めています。それは上がったり下がったりのクリスチャン生活かもしれません。しかし、私たちのゴールには神の子として御国を受け継ぐという永遠のいのちの希望があります。
 
 また、目の前には、いやし、祝福、健康、問題に勝利することなどの希望もあります。神様はそれらを成就してくださる希望の神であることを信じることによって、私たちは神の義の生活を続けることが出来ます。そのような姿勢で生きて行く人が、信仰による義人なのです。

信仰による義の歩み(第2コリント5:7)
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」
「見るところ」とは、肉に従うこと
 肉に従うという中には、古い人の生き方、神を敬わない自己中心の不敬虔な生き方、自分の思い通りに事を進めようとする肉の欲求に従う生き方、この世に合わせた生き方などが含まれています。私たちはこの「見るところ」に左右されやすい者ですが、基本的にクリスチャンは、「見るところ」によって生きているのではありません。

「信仰による」とは、みことばの約束を望み見ること(へブル11:1)
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
 私たちは何を望んでいるでしょうか。もし私たちが、神のみこころに沿った望みを自分の望みとするならば、それは100%実体化します。なぜなら、神のみこころは必ず成し遂げられるからです。神のみこころは神ご自身が実現へと進めておられるので、その神様のお働きに乗っかって行けば、みこころに沿った私たちの望みは必ず実体化するわけです。こういう確信を持って歩むとき、それは信仰の歩みとなるのです。
 
 望んでいることを実体としてとらえることができないと、その信仰は揺らぎます。力のない信仰になります。見えるものに揺さぶられて倒れてしまいます。そうであってはいけません。
 私たちは見えないものにいつも目を注ぎます。神のみことばを通して希望を持って、その希望にいつも目を向けて行く、こういうクリスチャン生活を、信仰による歩みと言います。

アブラハムの信仰の歩み(ローマ4:19∼22)
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分の体が死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

(1)不可能な現実は否定していない
 この聖書箇所から、アブラハムの成熟した信仰が見られます。しかし、最初からそうではありませんでした。アブラハムの信仰は成長したのです。小さな信仰から成熟したゴールへと進むプロセスは、信仰により義とされるという領域です。ここで気づくことは、アブラハムは自分たちの老いた身体の現実、即ち100歳になった自分は子が産めないことを認めています。サラも同じです。そういう現実を受け入れた時、彼らの信仰が働きました。

(2)現実は信仰を強くする
 人は少しでも可能性があったら、人間的な考え方の可能性を見出します。アブラハムは、この状況を変えることのできるのは神様以外にない、という信仰を持ちました。私たちの信仰の歩みは、ここに向かっています。そこに至るまでには、大きな困難、葛藤、試みを通らねばなりません。アブラハムも長い年月がかかりました。信仰の歩みには多くの人生経験が必要なのです。
 
 皆さんが試みにあっている理由はここにあります。不可能だからこそ神に信仰を働かせる、これが神に対する私たちの信仰です。まだ自分が努力すれば直るものは、神様はあまり手出しされません。むしろ、信仰を働かせるしかない所まで追い込まれます。
 
 放蕩息子もそうでした。豚の餌でも食べたいような所まで追い込まれて初めて信仰に目覚めることが出来ました。神に対し罪を犯したことをやっと悟れたのです。
 
 アブラハムが経験した歩みは、そこにいたるまでの様々な試みでした。色々な失敗を通して、アブラハムは自分の人間的な方法ではなく、神様が働かれるのを待つことを悟ったのです。失敗によって人はよく悟れるものです。現実は信仰を強くします。

(3)不信仰は神の全能を否定する
 私たちが現実を見て、もし不信仰になるなら、それは神の全能を否定することになりますので、気を付けましょう。アブラハムは不可能と思える現実を見ても、神を疑うようなことはせずに、ますます信仰を高めることが出来ました。

(4)約束を成就できる力ある神
 どんなに不可能な状態にあっても、神はご自分が語られた約束を必ず守る、その力を持っておられる方である、とアブラハムは信じました。新約聖書には、「あなたの信仰があなたを癒した」と表現された箇所が多くあります。その「信仰」と、アブラハムの信仰は同じものです。福音書に多くある、信仰によって救われた、癒された、解放された、という場面を通して黙想していただいたらと思います。
 アブラハムの信仰は、私たちにとってはどんな歩みとなるのでしょうか。

信仰の義による実(第1ペテロ1:8∼9)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

(1)神を愛する心
(2)神を信頼する心
(3)至福の喜び
(4)たましいの救いの実感
(5)信仰の結果としてのしるし
 
 信仰があなたの内に生きているなら、「神を愛する心」が生まれている筈です。同時に「神を信頼する心」も、そして、肉による感情的な喜びではなく、「たましいの救いの実感」としての「喜び」も、内側に生まれてきているはずです。
 救いの実感というのは、神は、私たち罪人の罪を十字架で赦してくださって、「あなたの罪をもう認めません。無いものとします」と、神様が受け止めて下さっているというその実感です。信仰が働いていると必ずその実感がやってきます。
 
 見えない神様を見て歩む、実現していない神様のおことばを見て歩む、という信仰の歩みをしていたら、愛と信頼と喜びと救いの実感というしるしが、私たちの内に、実として結ばれてくるということです。
 
 原点回帰というテーマのもとで、今一度、信仰の義による実を確認して、自分の信仰を見直してみてください。

【自問自答】
(1)信仰に始まり、信仰に進んでいるか
 信仰によって始まったけれど、今信仰によって進んでいるでしょうか。

(2)見えないものに目を留めた歩みか
 今見えているものではなく、未来に起こることを確信して歩んでいるでしょうか。

(3)見えないものとは何か
 再臨はすべてのクリスチャンが望み見ている神の約束ですが、少し目先のところで、あなた自身にとっての「見えないもの」とは何ですか。あなたは今何を見て歩んでいますか。この世でもない、現実でもない、見えない神様の約束、まだ実現していないどんなみことばを見て歩んでいますか。

 それを見ないで歩んでいると、歩むべき正しい方向が確認できなくなります。おそらく見えるものに目を向けて歩んでいることが多いと思います。自分の肉の欲を満たす利益を求めるご利益宗教の信仰で留まっていませんか。利益にならないことが現実に起こると、信仰をなくしてしまうようなら、それはアブラハムの信仰ではありません。
 アブラハムは神様に願ったら、ますます願いと逆の方向に、不可能な方向に進んでいってしまいました。それは信仰が強くなるためでした。人間的な憶測で行動する余地を完全に取り払われる状況に神様が置かれる、そんな神様の試みが、皆さんにも幾度となく来ているのではありませんか。

(4)信仰の結果を得ているか
 (第1ペテロ1:8∼9)を何度も読んで確認してください。少しでも信仰の実が実ってきているならば、それが熟成するまでしっかり保って望みをもって歩んでいっていただきたいと思います。

【俳句】
風鈴は  信仰による  涼しさか

 風鈴は、風が吹いている涼しさをイメージできるような音色に作られています。夏の生ぬるい風であっても、あの風鈴の音が聞こえると、「ああ、涼しいなあ、風が吹いているんだ」と、そういう信仰が働きます。望んでいることがらを確信させてくれます。
 
 みことばを見ていたら、困難や苦しさも、喜びと感謝に変わります。みことばは霊的風鈴のようですね。

 

 

 

 

 

■2021年7月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

原点回帰 第三聖会  up 2021.7.25


主題聖句(詩篇130:4)
しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。


 

 

 

 

「君恩海壑」(くんおんかいがく)
<君子から受けた恩は海や壑(谷の意)のように深いこと>

第一聖会「原点回帰」の復習
 教会の原点である初代教会には畏敬の念が生じていた
 主題聖句(使徒2:42-43)に書かれてある初代教会の姿は、私たちが目指すべき教会の原点です。中でも重要なことは「一同の心に恐れが生じた」とある点です。
 私たちにとって良いか悪いかという自分の感覚ではなく、神様は、すべての事は良しとして私たちにお与えくださるお方であるという信頼のもとに、神様を王の王、主の主として心に迎え入れる、それが神である主を畏れ敬うという初代教会の信仰の原点であることを話しました。畏敬の念は、私たちの努力や意志によらず、自然に内側から湧き上がってくる神への畏れ敬う心であることを中心に話しました。

第二聖会「改過自新」の復習
 福音は畏敬の念からの悔い改めから始まった
 主題聖句(マタイ4:17)「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」は、イエス様が宣教を始められた最初の第一声です。私たちの救いは、福音を信じて悔い改めることから始まりました。悔い改めは原点の一つです。悔い改めの心を失うと、私たちはいつの間にか歩むべき道から外れてしまいます。悔い改めをいつも忘れないようにして、正しい福音の中の歩みを続けて行くということが大切です。
 そして、改過自新(悔い改め)のために必要な主への畏敬の念には、「主権者への畏敬之念」と、「恩恵への畏敬之念」の二つがあり、第二聖会では「主権者への畏敬之念」について話しました。
 法の中心である主権者は、裁き主でもあります。裁きをなされるお方を畏れ敬う心があれば、改過自新(自分の過ちを認めて、心入れ替えて再出発する)という悔い改めが与えられるということでした。 
 
 今日の第三聖会のテーマは「君恩海壑(くんおんかいがく)」です。
主題聖句(詩篇130:4 )にあるように、天地の造り主、全能の父なる神から罪を赦されるという「恩恵への畏敬の念」についてお話しします。先週の「主権者への畏れ」(権威を畏れ敬うこと)とはまた別の畏敬の念です。この二つが合わさって、主を畏れるという畏敬の念を現わすのです。

●恩恵への畏敬の念
(1)主権者からの恩恵
 例えば、人間の親孝行ですが、子は親の権威や力を畏れて孝行をするわけではありません。親に良くしていただいた恵みの数々を思って敬い、孝行したいと思うものです。そのように、主権者から恩恵をいただいていることから生じてくる畏敬の念というものがあります。
(2)深いあわれみからの恩恵
 主権者は罪を裁いて、それぞれの行いの報いをもたらすお方ですが、神様はその裁きを行う前に、深いあわれみを私たち罪人に示してくださいました。それはイエス・キリストによる贖いの御業による救いの道です。

(3)主権者に対する罪を赦す恩恵
 神様に対する私たちの最も大きな罪、それは主権者である神様を無視することです。赦してはならないこの大きな罪を赦すというのが、神様の罪人に対する救いのご計画です。

(4)赦すための代価が支払われた 
 血を流さずには罪の赦しはありえません。必ず罪は裁かれます。イエス・キリストは私たちの代わりに血を流すという代償を払ってくださいました。私たちの罪の裁きと赦しが、イエス・キリストの十字架を通して現わされたのです。

(5)主権者が抱いている特別な思い
 そこまでして赦そうとされるのは、私たち罪人に対する主権者の特別な思いがあるに違いありません。
 
 このような5つの恩恵に対して無関心で何も感じないとしたら、その人に畏敬の念が生じることは、ほぼありません。
 人と人との関係にあっても、あなたに対して払われた相手の大きな労苦や犠牲、あなたのために注がれた恩恵の数々を思い出す時、心が和らいでいき、尊敬の思い、優しい思い、反省の思いが内側に生じてくるのではないでしょうか。
 
 父なる神、救い主イエス・キリスト、交わりを持ってくださる聖霊なる神、この三位一体の神様からいただいた恩恵への畏敬の念、こんなにすごい恩恵を受けているから、心改めてついて行く、これが私たちのキリストへの信仰であり、三位一体の神への信仰です。

●恩恵を見えなくするもの(ローマ2:4−6)
「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」

(1)神の慈愛が見えていない
 神の慈愛が分からない、すぐには理解できないことに対して、「分からない」と言って心を閉ざす人は、神の慈愛が見えていません。

(2)心が悔い改めへと動かない
 悔い改めたくない人、自分を義とする人、自分の間違いを認めたくない人、そういう頑なな人は、あえて神の慈愛を見ようとしません。

(3)神の慈愛と忍耐と寛容を軽んじる 
 イエス・キリストは神の慈愛そのもの、神の忍耐そのもの、神の寛容そのものです。見えるかたちでそれを地上に残されました。しかし、慈愛の意味も、忍耐して頂いていることも、寛容を示していただいていることも、深く考えない、そういう態度は恩恵を見えなくします。

(4)御怒りの日への緊張感が薄い 
 もし、罪が裁かれないまま永遠に放っておかれるのなら、誰が律法を守るでしょう、誰が正義と公平を行う気になるでしょう。秩序を保つためには、神様の慈愛と忍耐と寛容に、期限があるのです。 
 もう時が迫っています。裁き主として最後の審判を下さねばならない時が近づいています。それまでに悔い改めて神のもとに立ち返るなら、イエス・キリストを通して罪の代償は支払われているので、それを信じる者は赦されます。
 裁きの時がもう身近に来ています。この緊張感が薄いと、赦しを得たという恩恵が見えなくなって、恩恵に甘んじて横柄な態度をとってしまいます。

(5)行いによる報いを悟っていない
 「行い」とは、善を行なうことですが、神を敬わない者の善行と、神を敬う者の善行とでは、その報いに違いがあります。
 神を敬わない者は、良いことをしても、一つでもルールを破れば、律法を破った人と同じ処罰があります。しかし、神を敬う人の行いに対しては、神は報いを与えられます。
 恩恵への畏敬の念を持って心を入れ替え、出来なくても何度もやりなおして、出来るまで努力している人への報いは、恩恵への畏敬の念における報いです。
 
 努力の途上にある人が、結果は出ていないけれど、いつ再臨が来ても救われるのはそのためです。
 実を結ぶという結果を目指して今日も心を改めて、どこが悪かったのか、どう直せばいいのかをチャレンジしていく人は、心を入れ替ええてチャレンジし続けているという行いに対して、神は報いてくださるのです。
 神の前に正しい心を持って務め励んでいる人、実際には赦すという行いが中途半端でも、赦そうと努力し続けて、神の前にその苦しみと悩みを祈りながら、赦すことに心を向けている人には、その祈りに対する報いを神はお与えになるのです。
 
 今、私たちはどんなに素晴らしい恩恵を受けていることでしょうか。もう2千年も前に、イエス・キリストの十字架の死によって、神の愛が歴史の中にはっきりと私たちに示されました。それにもかかわらず、日本ではイエス様を信じている人は1%未満です。残念なことです。
 クリスチャンはこれをもっと証しする必要があります。どんなにすごい恩恵を受けているか、どんなに神の慈愛と忍耐と寛容が示されているか、しかし恵みの時が終わるのは近いのです。裁きの時がやってきているのです。そういう生き方をクリスチャン生活の中で現わしていくということが必要なのではないでしょうか。

●恩恵を見つけ出す(マタイ25:14-28)タラントのたとえ話
(1)良き主人のしもべであること
 2タラント、5タラントいただいたしもべたちは、「自分は良い主人の下で働くことが出来ているしもべだと思い、1タラントいただいたしもべは、厳しい主人だと思っていました。

(2)財産を任せられたこと
 主人は3人とも信用して、自分の財産を預けて任せています。
 では、金額に差があるのはなぜでしょうか。能力は違っても同じように信頼して、その人の能力に応じた額を預けたわけです。
 罪人で滅びるしかない私たちにも同じように、いのちを預けてくださっています。神から分け与えられたいのちを、自分の好き勝手に汚してしまうのは愚かです。預かったいのちを生かすことが大切です。信頼されているから預けられたと受け止めると、恩恵を見出すことができるのではありませんか。

(3)能力に似あった働き→忠実
 能力に見合った働きをするということを主人から示唆されています。その1タラントを有意義に使うということが忠実という結果を生み出します。他人と自分を比べたり、他人より多くの結果を出そうと思ったりしない、わきまえが必要です。分を超えず、与えられた力、能力、家族、与えられた賜物を忠実に生かすことに励みましょう。

(4)信頼されていることへの信頼
 主人から信頼されていることを信じましょう。良い主人であり、財産を任せてくださり、自分の能力以上のことはしなくてよいように賜物を分け与えてくださっている、そこまで私のことをよくご存じで信頼してくださっている、この主人に従っていこう、と思うことです。

(5)主人を尊敬している心
 親を批判する人、親を見下す人、尊敬を持てない親だと思っている人は、自分の両親を尊敬するにあたって、どういう所が尊敬できるかを改めて思い見直すことを通して、主人や目上の人、権威者に対する尊敬の心が再び現れてきます。すると、おのずとその恩恵は深く心の中に刻まれていきます。

●自問自答
(1)無に等しい罪深さの自覚を悟る
 罪深い自分であるということの悟りです。パウロはイエス様を信じてからは、それまでの自分の名声、名誉、実力、それらは無きに等しいものだという意味で、「自分は罪人のかしらです」と言っています。どれほど、神の恩恵を感じて主を畏れていたことでしょう。

(2)受けた恩恵の大きさを考える
 恩恵を受けるためにどんな代償が支払われたかを私たちは考える必要があります。

(3)恩恵を受けたことへの心がけ
 恩恵を受けたことを理解し、少しずつ心に感じてきたならば、その恩恵を受けたことへの心がけ(親孝行をしたいなどの気持)が自然に出てくるはずです。

(4)恩恵への畏敬の念と互いに愛し合うこととの関連
 私たちが互いに愛し合い、互いに赦し合い、互いに親切にする、それは恩恵への畏敬の念がなければできないことです。良い主人である神様から恩恵を受け、その主人への畏敬の念をもとに、互いに赦し合い、互いに仕え合い、愛し合う、このようなつながりが見えてくるように、その関連をどうぞ考えてみてください。

【短歌】
氷水  敵と思わず  差し出せば
硬い心も  互いに溶ける

 あまり親しみのない、争うような、隔てを感じるような関係であっても、お互い喉が渇いた時に、氷水を持って行ってあげたら、突然の親切に、相手の硬い心も解けるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

■2021年7月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

原点回帰 第二聖会  up 2021.7.18


主題聖句(マタイ4:17)
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。


 

 

 

 

 第一聖会の復習を致しましょう。聖会テーマは「原点回帰」ということで、まず教会の原点について(使徒2:42-43)からお話しいたしました。使徒の教え、聖徒の交わり、聖餐式、日々の祈り、それらを守っていた信徒たちに、神を畏れる心が生じ、多くの不思議としるしが行われた、という初代教会の姿は、私たちの目指すべき教会の完全な姿、原点です。教会を通し、クリスチャンを通して、神の御力、栄光、癒しと奇跡が頻繁に現わされる、そこまでいかなくては、教会の完全な姿とは言い難いと思います。
 (使徒2:43)には、不思議としるしが行われる前に、人々は神の臨在に触れて主への畏れが自然と湧き上がってきたことが書かれてあります。ですから、「主を畏れる畏敬の念」は、非常に大事な教会の原点の土台であるということをお話させていただきました。
 今日は、その「主を畏れる心」の、更にその原点、主を畏れる心の始まりはどこかということを、主題聖句(マタイ4:17)から、見ていきたいと思います。
 イエス様の救いは、悔い改め、心を改めることから始まります。「悔い改め」の最も重要な意味は、「神に立ち返ること」です。
 では、最初に信じて神に立ち返った人は、もう悔い改める必要はないのでしょうか。

●畏敬之念が生じ、改過自新に至る2つの要素
(1)主権者への畏敬之念
 自分の罪を認め、心を入れ替えて再出発するのは、主権者への畏敬の念が生じた時です。そして、私たちは常に主権者を意識して、主権者の思いや考えから外れないように、と心を見張ります。

(2)恩恵への畏敬之念
 欠点を責めることの出来ないほどの、色々な愛とあわれみと恵みを施していただいている、助けられている、という所から出る畏敬の念。
 今日は(1)主権者への畏敬之念について、見ていきたいと思います。
(1)主権を認めているか
(2)最大の主権は創設者にある
(3)主権者は、裁く力がある
(4)主権者は【法】である
(5)主権者には高徳が要求される
 一般社会においても、例えば最初に組織を立ち上げた創設者は、最大の主権者として皆から敬意を払われます。そして、その創設者には、ものごとをさばくことも認められ、「法」のように自分の考えを基準に振る舞うことができます。ですから、皆が信頼して従うためには、創設者に高徳が備わっていることが必要です。
 この5つのことは、聖書の神様が持っておられるすべてです。御父、御子、御霊の三位一体の神様、創造主なる神様は、完全な主権者ですから、裁く権威と力をお持ちです。神のおことばは、私たちにとっては律法、ルールそのものです。聖書の神様は最高に徳の高い神様です。
 聖書を通して、天地創造の神は、まことに生きて今も働いて人間の歴史を進めておられる、ということを実感として認めるならば、自然と畏敬の念が生じてくるのではないでしょうか。
 初代教会の人々は、使徒の教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしているうちに、神に触れ、神に近づいて行きました。そして、神こそ真の救い主、創造主、素晴らしい主権者であると実感した時に、一同の上に畏れが生じました。神様に近づいているしるしが、私たちの内に畏敬の念を生み出していくものなのです。
 この畏敬の念を強く感じていない人の問題点は、人間至高主義のヒューマニズムにいつのまにか影響されていることです。神の存在以上に人権を高く評価しているので、神が創造主なる主権者であるということから考えが遠のいている可能性があります。そういう人は「悔い改めなさい。天国は近づいたから」ということです。神に立ち返ることは、主を畏れることです。
 私たちは主権者に対して多くの罪を犯す者ですが、主権者なる神様が忌み嫌われる7つの大きな罪がありますので、箴言から見てみましょう。

●7つの大悪(箴言6:16-19)
「主の憎むものが6つある。いや、主ご自身の忌み嫌う者が7つある。高ぶる目、偽りの舌、罪の無い者の血を流す手、邪悪な計画を細工する心、悪へ走るに早い足、まやかしを吹聴する偽りの証人、兄弟の間に争いを引き起こす者。」
(1)高ぶる目
(2)偽りの舌
(3)罪の無い者の血を流す手
(4)邪悪な計画を細工する心
(5)悪へ走るに早い足
(6)まやかしを吹聴する偽りの証人
(7)兄弟の間に争いを引き起こす者
 高ぶる目と言うのは主権者を認めないという意味で、クリスチャンはいつのまにか「高ぶる目」を持ってしまいます。「私の人生は主の御手の中にある」という心を失わないようにしましょう。
 特にクリスチャンとして気を付けないといけないのは(7)です。自分の意見を持つことは良いのですが、自分の意見がいつも正しく、優れていると思い込んで主張するのは、行き過ぎです。みことばに沿って間違いを指摘することは出来ますが、価値観が違うということで否定するような言い方や態度は、争いの種を植えつけることになります。この7つの大罪を、神様は呪わしいほどに忌み嫌われます。
 これらの罪を持つことがないように、神を畏れて心を改めましょう。

●心を改める(第2歴代33:12-16)
「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父母の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。その後、彼はダビデの町に外側の城壁を築いた。それはギホンの西側の谷の中に、さらには、魚の門の入り口に達し、オフェルを取り巻いた。彼はこれを非常に高く築き上げた。そして、彼はすべてのユダの城壁のある町々に将校を置いた。さらに、彼は主の宮から外国の神々と偶像、および、彼が主の宮のある山とエルサレムに築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築き、その上で和解のいけにえと感謝のいけにえをささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。」

(1)最悪のユダの王マナセ
 マナセ王の犯した偶像礼拝の罪と悪のゆえに、神様はユダ王国を絶対に赦さないと言われたほどに、彼はユダ王国の最悪の王様でした。

(2)神からの懲らしめを受けた
 赦される筈のないマナセ王に対して、神様は個人として見てくださいました。傲慢な心がとことん砕かれるような、非常に苦しい辛い体験をします。神からの懲らしめを受けたのです。さばきの前に、懲らしめがあります。この懲らしめが心を変えるきっかけとなります。

(3)へりくだった――心を改めた
 神様の前にへりくだったマナセは、心を改めました。

(4)エルサレムから偶像を除いた
 心を改めたマナセ王は、エルサレムから偶像を取り除きました。

○偶像(=神ではないものを神として従っていく)
→手放せない欲望
 新約における我々にとって、偶像とは、手放せない欲望です。
 神のみこころはわかっていても、自分の欲望を優先します。

→利己を満足させる貪欲の罪
 好奇心、食欲、睡眠欲など、心や体の健康を保つために健全な欲は必要です。しかし、欲にとらわれて、まず自分を満足させてから神に従おうとするのが問題です。次から次に欲は出てくるので、神様のことがどんどん後回しになります。

→背信へ
 神に対して背を向けることです。気持ちは神様に従っているようでも、神の良い教えより、利己を満足させる欲望を優先させるなら、背信が生れている、背信が隠れている、と言えます。
 神様の良い教えを第一として、それから欲(健全な欲)を満たす、という順位を間違えないようにしましょう。
 クリスチャンは、きよめに関してそこまで吟味する必要があります。主の再臨までに、私たちはマナセのように、どれだけ偶像を取り除いていくことができるでしょうか。

→高慢
 背信は高慢という実を結んでいきます。イスラエルの人たちは、口先だけで神を敬いました。心は神様から離れ、神様の真理を無視して自分の欲望を満たす生活をしていたのがイスラエルです。
 マナセもそうでしたが、最後に大きな苦しみを通して自分の間違いを認め、やり直しました。改過自新を実行した人、マナセです。

→不敬虔 
 成長したクリスチャンは、ここまで自分の心の中身を吟味して、肉の思いの動機か、御霊からの思いの動機であるかを探り、いつも自分の心を見張り守るように心がけていきましょう。

●自問自答
(1)自分の悪に気づいているか
 悪に気づき罪を認める人は、神を畏れています。気が付いていない人は、心の目が盲目になっているかもしれません。人は罪を犯さずにはいられない罪人です。罪を犯して、過ぎてから気づくのは、主を畏れている人の心の動きです。悪いことをしても、それを隠したり、開き直ったりする不遜な態度をとる人は、畏敬の念が弱ってきていると言えます。

(2)主を畏れる実を結んでいるか
 そんなに悪いことはしていない、私は主を畏れている、と思う人は、主を畏れる実を結んでいるか、生活を振り返ってみましょう。

(3)実はどのように現れているか
 実際の生活の中に、行動として、主を畏れる実はどのように現れているでしょうか。たとえば、什一献金は、わかりやすい例です。十分の一とはどの範囲か?全収入か?経費は?食費は?自由に使える残りの部分か?主を第一にしていることの証しは皆さんの信仰にかかっています。強制強要はありません。自分が決めた通りに主を畏れる心を現わしていただければと思います。

(4)心に偶像を持っていないか
 神様を後回しにしたり、目をつむったり、背を向けたりさせる利己欲、貪欲、それに気づいたとき、今度はそうならないようにチャレンジしようと心を改めることが必要です。信じた時に、天国は近づいたから悔い改めようと心を入れ替えたのならば、私たちが少しでも神様から離れかけたら、神に立ち返るという姿勢を思い出す必要があるのではないでしょうか。心に偶像を持っていないか吟味する勇気を持ちましょう。

(5)「改過自新」は、何度もする必要があるかないか?それはなぜ?
 これを自分に問うて、神への畏敬の念がどれくらい実っているかを、あなた自身が気付いていただければと思います。

【川柳】
子を責める  親の心に  不敬虔

 子育ての時期、つい感情的に子供を叱ってしまうことがあります。感情的になると、不敬虔な態度が出やすいものです。
 
 子に限らず、他人を責める気持ちになった時は、神を畏れる心を持って相手の問題点を見ているか、悪いところを直すように指摘しているかと、自分の心を吟味する必要があります。一息も二息も間をおいて、行き過ぎた責めの心にならないように心がけましょう。

 

 

 

 

 

■2021年7月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

原点回帰 第一聖会  up 2021.7.11


主題聖句(使徒2:42〜43)
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。


 

 

 

 

 
 私たちは往々にして、原点、基礎、初めのことを忘れてしまって、いつのまにか不純な傲慢さのようなものが出てきているかもしれません。成長がとどまっているとか、みことばが入ってこないとか、生活状況が打破できないとか、いろんな支障が、長い信仰生活の中で出てきます。信仰のスランプとも言えます。そういう時には基本に帰るのがベストです。
 問題が起きた時に、過去を振り返ってみて、あそこから間違ったのかも、というようなところから正していくことが出来る人は、成長していく人だといえます。今日は「原点回帰」と題して、皆さんの未来が、エレミヤ書に預言された様に、将来と希望を与える神様の御計画通りに、幸いを得て頂きたいという思いで、この聖会のメッセージを進めて参ります。
 今日の主題聖句(使徒2:42-43)には、イエス様が十字架にかかられてから、50日目に起こった出来事が記されております。
 朝、天から激しい風のような音が、使徒たちの集まっていた家全体に響き渡って、そしてその尋常ではない激しい物音を聞いて集まった人々が、聖霊に満たされたペテロの説教を聞き、その内の三千人が悔い改めてバプテスマを受けて弟子に加えられました。
 神様の霊が、信じる者の上に降されて、私たちの内に住まわれる、同時に聖霊の力が与えられて、キリストの証人として、地の塩、世の光として前進していくという神様のお約束が成就したのです。

教会の原点は使徒2章にある
 イエス様が地上で生きておられた時から、弟子たちをはじめ、色んな人々が、神の福音を聞くために周りに集まりました。
 しかし、それは「教会」ではありません。教会とは、個性的な人々がキリストのゆえに一つに集まって、キリストのからだのように、皆が神様から与えられた賜物を生かしあって神様の業を現わしていく、そういう状態を「教会」と言います。神を証しする群れであります。神の約束である神の霊が、信じる者の上にくだられた時に、教会は始まりました。使徒2章には、教会の原点、教会の完全な姿が描かれています。

教会の完全な姿
(1)使徒たちの教えを堅く守っていた
 使徒たちの教えとは、すでに学んできました「使徒信条」の中に凝縮されて書かれてあります。

(2)聖徒たちの交わりがあった
 一人で神を信じるというのではなく、「私たちの神への信仰」というように、互いを認め合い、互いの横の関係をつなげて、神を信じ見
上げて賛美し行動を共にしていくような交わりです。
 私たちの教会名を表しているみことば(Tヨハネ1:3)「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」とありますように、交わりは大変大事な教会の要素であります。

(3)聖餐式をしていた
 「パンを裂き」とは、イエス様が最後の晩餐の時、弟子たちに「再び私が来るまで続けなさい」と言われたセレモニーです。
 すなわち、イエス様が御自分の贖いの血潮を神の前にいけにえとしておささげになったことと、「私がいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがない」「人は、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という主のおことばを、私たちがしっかり心に刻んで生きるために、イエス様ご自身が定められたセレモニーです。

(4)祈りをしていた 
 クリスチャン生活において、祈りは霊の呼吸であり、祈り(呼吸)をしないと、霊は死んでしまいます。クリスチャンは、絶えず祈る必要があります。

(5)「畏敬の念」が生じていた
 集まる人々の心に、神への畏れが強く湧き上がってきていました。

(6)不思議としるしが行われていた
 使徒たちにより多くの不思議としるしが行われていました。
 この6つのことが、教会の原点、教会の完全な姿として、聖書に紹介されています。私たちは、初代教会のような完全な教会を目指して、キリストを信じる信仰の歩みをともに歩んでいるのです。

私たちの目指している教会の姿
(1)使徒たちの教えを堅く守る
 使徒信条に限らず、神が立てられた器を通して、聖書から様々な真理やみことばをお語りし、それを守るように励まし、励まされて徳が高められていくことを目指しています。

(2)聖徒たちの交わりをする
 個人主義の信仰にならないように気をつけます。

(3)聖餐式を続ける
 今はコロナのために、礼拝の最後に、賛美を通してキリストの十字架の贖いをいつも心に持って忘れないようにしております。

(4)絶え間ない祈りをする
 霊的酸欠状態に陥らないように、絶えず祈ります。

(5)「畏敬の念」が生じる

(6)不思議としるしが行われる
 これは、初代教会とは大きな違いがあります。しかし、不思議としるしが伴うのが、完全な教会の姿の一つの現われであります。

教会としての重要ポイント
 以上の(1)〜(6)はどれも教会として重要なことです。更にその中で最も重要なことを、今日皆さんに心に刻んでいただきたいと思います。それは、(5)「畏敬の念」が生じる、というポイントです。
 もし、神への「畏敬の念」が私たちの心に生じて来なければ、(1)〜(4)の行いは、形だけの宗教活動、ご利益宗教に近いものです。
 (1)〜(4)の、正しい神への姿勢があれば、使徒2章に「一同の心に恐れが生じ」とあるように、自然と(5)の畏敬の念が成就します。畏敬の念が生じて、不思議としるしが、使徒たちによって行われたのです。
 イエス・キリストの父なる神、天地を造られた全能の父なる神への畏敬の念から出てくる「不思議としるし」、それが正しい神の御業の実、主を畏れている実としての超自然的な御業なのです。
 使徒行伝の頃は日常茶飯事、社会的に問題ある人たちに、神の御業が使徒たちを通して行われ、多くの人々が迫害の中にあっても神を信じていきました。
 私たちの教会はどうでしょうか。「不思議としるし」が非常に少ないです。みことばに伴う不思議な御業が、あなたのクリスチャン生活にどれだけ見ることが出来ているでしょうか。(5)の畏敬の念が生じないと、(6)の神の御業は起こってこない、と私は解釈しております。
 今私たちは(1)〜(4)は出来ます。私たちの神への信仰として敬虔な心を持って行うことができます。敬虔に4つのことを行っていれば、必ず主を畏れる畏敬の念が生れてきます。そして、主を畏れる心が強くなります。そういうところから、みことばに伴うしるしと不思議が起こるということなのです。
 畏敬の念がないのに御業が起こったら、それは悪霊です。ご利益宗教の癒しです。キリストを信じさせないように、悪霊がキリストの名を用いて聖徒をごまかすのです。

『畏敬の念』が生じるとは!
(1)主を畏れること

(2)主の臨在が豊かであること
 白バイやパトカーが近くに目えると、急に心が引き締まり、交通ルールが気になったりすることがよくあります。
 そのように、主の臨在が豊かであると、さばき主でもあられる主への畏敬の念が自然と生じてくるものです。ルール違反をすれば、その報いをうけるということを、私たちは知っているからです。
 愛、あわれみ、恵み、心地よい言葉だけでなく、神はそれぞれの行いに応じて報いられるということも知っておかねばなりません。
 その存在が明らかになり、その臨在を感じたならば、その権威あるものを畏れ敬います。主の臨在があると言いながら、畏敬の念が生れていなければ、それは自己満足の礼拝に陥る可能性があります。

(3)御霊の働きが顕著であること
 賛美の中で私たちは素晴らしい臨在を感じます。その時、神の御霊の働きがどのように一人ひとりに現わされているでしょうか。聖霊様の取り扱いを受けて、徳が高められるような、励ましを頂くような、光をうけるような、内なる変化、聖霊様の働きを感じておられるでしょうか。神がご臨在されている所ですから、御霊は豊かに働いておられます。

(4)心が謙遜と柔和になること
 そのように、神の御霊の働きが顕著であると、心がへりくだって謙遜になり、神様の臨在の証し、畏敬の念が生じていることを心に感じることができます。そして、柔和な心に変えられて、人を赦すことができるようになります。

(5)互いに赦し合えるようになること
 「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)と、互いに赦し合う愛は、神様が願っておられる罪びと同士のコミュニケーションの基本です。

(6)神の愛に満たされていること
 魂が救われ、きよめられて、神様の愛に満たされているので、赦せないという罪からくる肉の感情をも支配して、取り除くことが出来ます。これが、主を畏れる心が生じることを通して、私たちの内に感じる実であり、神の愛に満たされているという状態です。
 あなたの心に、これら6つのことが成就しているならば、主を畏れる心を備えていると言うことが出来ます。

自問自答
(1)心に主への畏れが生じているか
 自分の主を畏れる心はどの程度だったか見つめ直してみましょう。

(2)その実はどこに現れているか
 もし、生じているならば、自分の生活の中のどこにその実(行動、見えるかたち)は現れているでしょうか。たとえば、私が一番感じるのは、様々な罪の誘惑や欲求に対し強い拒否反応を感じる時、実際に行動に移らないように、自分の生活から悪を追い出したい、悪から離れたいと思う時です。

(3)主への畏れを妨げるものは何か
 主への畏れが生じてこないとしたら、それはどうしてでしょうか。それを妨げるものは何か、見つめてみましょう。

(4)主を畏れるとはどういうことか
 それを通して主を畏れるとはどういうことかを気付いてください。

(5)主を畏れることと、信仰・希望・愛との関係について考える
 「主を畏れること」は、永遠の世界に持っていくことが出来る私たちの財産です。そしていつまでも続くものは信仰と希望と愛だとパウロは語っています。信仰と希望と愛は、主を畏れることが土台となって永遠の財産として、この地上だけでなく、新しい神の国に持っていくことの出来る貴重な財産なのです。
 信仰、希望、愛、その一つ一つのことと、あなたの「主を畏れること」とは、どのような関係があるでしょうか。関係がなかったら、あなたのその信仰と愛と希望は何でしょうか。神の国は主を畏れる者たちの集まっている国です。

【俳句】
 虹を見て  主への畏れを  強く持つ 

 「私は決して再び大水によって、すべての生き物を打ち滅ぼすことはしない、私は空に虹がかかるのを見て、私の永遠の契約を思い出そう」と神様は約束してくださいました。 
 こんな素晴らしい契約を立ててくださった神様は、なんと素晴らしい畏れ多い全能者、創造主であろうか、と虹を見るたびに私たちも主への畏れを強く持ちます。
 皆さんも今日、「畏敬の念とは何か」という6つのポイントを確認し、自分がいかに「主を畏れる」ということから遠のいて、教会の原点がおろそかになっているか、ということに気がついて頂ければ感謝です。
 主を畏れるその実が現れてくると、「不思議としるし」が現れてくるということになります。

 

 

 

 

 

■2021年7月4日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

主をおそれる立派な振る舞い・神に近づく礼拝  up 2021.7.4


主題聖句
(詩篇95:7〜8)
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

(ヘブル10:19〜21)
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

 

 

 

 

【第一礼拝:横路伝道師メッセージ】
『主をおそれる立派な振る舞い』

(詩篇95:7〜8)
「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」
 メリバとマサとは、イスラエルの民が「水がない」と不平不満を言った所です。その時のように不信仰にならないように、神様を拒まないようにということです。今日はヨナ書から見ていきたいと思います。

1.ヨナの召命(ヨナ1:1〜2)
「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』」
 神様から預言者ヨナに、ニネベに行き悔い改めを迫りなさいという命令がありました。イスラエルの北東にアッシリアがあり、そこに大きなニネベという町がありました。ニネベの都市の人々は残虐なやり方で敵を滅ぼしていて、イスラエルにとっては恐ろしい敵国でした。そこに、悔い改めないと町が滅亡するということを伝えなさいと言われたのです。ヨナは逃げてしまいます。

2.ヨナの逃亡
(ヨナ1:3)
「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。」
 ヨナは預言者なのに神様に従いませんでした。反対方面の船に乗りました。しかし、そこで大変なことが起きます。

3.暴風で船が沈みそうになる
(ヨナ1:4〜5)
「さて、主は大風を海に吹きつけられた。それで海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。」
 神様が嵐を起こされました。しかしヨナは船底で眠っていました。私たちも自分勝手に進もうとするとき、ちょうどいいと思うことがありますが、それは敵の罠であるかもしれません。船は沈みそうになり、積み荷を全部海に投げ捨てました。
(ヨナ1:6)
「船長が近づいて来て彼に言った。『いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。』」 
 人々はそれぞれの信じている神に祈っていました。船長が船底にいるヨナを見つけました。
(ヨナ1:7〜8)
「みなは互いに言った。『さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。』彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。そこで彼らはヨナに言った。『だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。』」
 神様はくじを用いられました。ヨナがくじに当たります。 

4.ヨナの告白
(ヨナ1:9〜10)
「ヨナは彼らに言った。『私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています。』それで人々は非常に恐れて、彼に言った。『何でそんなことをしたのか。』人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。」
 このイスラエルの神が、過去にエジプトを脱出し、40年間荒野で守られ、様々な国を滅ぼしてカナンの地に住み着きました。彼らの信じている神が偉大な神であることを、当時の人々は知って恐れていたのです。そのような神に反抗するとは、なんてことをしたのだとヨナが責められました。
(ヨナ1:11〜13)
「彼らはヨナに言った。『海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。』海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った。『私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。』その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。」
 ヨナはここで、もうこれ以上神様から逃げ切れないと覚悟しました。自分は死んでもいいと思い、海に投げ込みなさいと言いました。人々はそれをしたくなくて、船をこぎましたが、だめでした。

5.ヨナ、海に投げ込まれる
(ヨナ1:14〜16)
「そこで彼らは主に願って言った。『ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。』こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。」
 ヨナは海に投げ込まれます。すると海が急に静かになったので、偉大な神様を信じていけにえをささげ、誓願を立てました。ヨナは海に投げ込まれましたが、素晴らしい伝道をしたのです。

6.ヨナ、大魚にのみこまれる
(ヨナ1:17)
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
 ヨナは魚のお腹の中で悔い改めて、ニネベに出かけます。
 ヨナは、徹底的に神様に反抗して逃げても、神様はヨナを用いるために、逃がされませんでした。ニネベの救いのために、ヨナは必要な人物でした。どうしてもヨナを用いたいと思われたのです。

【適 用】
1)私たちが生かされているのは
*隣人に遣わされるため
 私たちが今日命があるのは、何のためにあるのでしょうか。ヨナが反抗して逃げても、ニネベの町に必要だったように、私たちの命も、神様が私たちを用いて誰かに福音を伝えたいと、神様が思っておられるのです。
 私たちはニネベには遣わされていませんが、私たちの友人、知人、家族、周りの人々に、遣わされているのです。そのことを忘れてはいけません。
 今日生きている人には、必ず役割があります。誰かに福音を伝えなさいという使命があるのです。だから様々な試練や苦難を通して、神様の所に立ち返るようにされるのです。神様は問題を通して、私たちに生かされている目的に気づいて欲しいと願っておられると思います。

2)私たちは心をかたくなにして神様の御前から逃げていないか
*恐れから 
 ヨナはニネベの人々を恐れていました。彼らの残虐性を知っていたので40日後に滅びると伝えることで、自分も殺されるかもしれないと恐れていました。私たちも、色々な恐れのゆえに、神様がして欲しいことをしていないかもしれません。恐れは使命の邪魔をします。

*自己中心から
 神の考えよりも自分の考えを優先するということです。ヨナは、ニネベの人々は悪い人々なので滅びて当然という思いがありました。神様はそのような人々でも救いたいと思われていたのに、滅びるべきだという自己中心があり、かたくなになっていたのです。私たちも、神様が願っておられることを、私は私のやり方でいくと、神様の考えよりも自分の思いを大事にしていないでしょうか。

*敵(嫌いな・苦手な相手)から
 敵のためには私たちはなかなか動きません。苦手な人からはなるべく逃げたいと思ってしまいます。しかしそれでは神様のおこころは達成できません。イエス様はあなたの敵を愛せよと言われました。自分の仲の良い人だけを愛するのではなく、福音を宣べ伝えるためには、時には苦手な人の所にも行かないといけません。かたくなな心を持っていたら、神様はその心を砕きたいと思っておられます。

3)主をおそれる立派な振る舞い
*人をおそれず、神をおそれること
 神様は必ずご計画をもって誰かに私たちを遣わしてくださり、用いてくださいます。神がそのようにしてくださるのですから、私たちはそれに従うべきです。人をおそれずに、神のおこころに従うことが大切です。
 ヨナの頑固さも用いられました。頑固な人が一旦悔い改めると、徹底的に従います。だからヨナが用いられたのです。

*敵(嫌いな・苦手な相手)を愛すること
 自分に都合の良い人とだけつきあっているのなら、福音は伝わりません。どこかで苦手な人にも証しをする必要があります。

*自己中を捨て、聖霊を求めること
 来週から聖会が始まります。聖霊様に満たされることをまず求めていきましょう。
 聖霊に満たされると聖い者になるので、悪いことがもうできないと思ってしまい、聖霊に満たされるのはいやだという自己中心が、私たちの内にまだ残っているかもしれません。
 また、聖霊を求めるのは自分のためだと思っているかもしれませんが、聖霊は人々のために求めるのです。聖霊が来ると賜物が与えられます。9つの賜物は自分のためではなく、人々のために与えられるのです。9つの御霊の実も、自分のためではなく、他の人々に証しするために実るのです。「私もあのようになりたい」と人々が思い、救われるのです。人々の救いのために、聖霊に満たされることを求めていきましょう。

【第二礼拝:辻 和希伝道師メッセージ】
『神に近づく礼拝』
〜神の御前に立つ〜
(ヘブル10:19ー25)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 聖会一週間前となりました。「原点回帰」というテーマで私たちも心を準備していくことを毎週のメッセージで励まされていることと思います。
 前回、私にとっての原点回帰の一つに、”神様の恵みによって救われた”ということをお話ししました。救われた私たちの生活の中に、神様を礼拝するという習慣が備わり、現在に至るわけですが、今日は“礼拝”をテーマに話をしたいと思います。と言うのも、習慣となった礼拝は、良い習慣のままなら良いのですが、マンネリになっていないか、私自身心を探られたからです。
 
 ヘブル書にあるように、私たち罪人が神様に近づくことができるようになったのは、イエス様の十字架によって、父なる神様との間の隔ての壁が取り除かれたからです。それまでの旧約の時代は、主に礼拝の奉仕を司るのは祭司で、モーセの時代は、至聖所での奉仕は、死と隣合わせと言えるほど、罪あるものが、全き聖い完全なる存在の前に出るということは不可能のことでありました。ですから、私たちの今の時代における礼拝は、イエス様の血によって大胆に神様に近づくことができるこの恵みと特権を、もっと喜びとしたいですね。

 ここでポイントなのは、私たちの普段の礼拝は、神様の前に立っていると同義であるということです。そして、本来礼拝とは、神を拝むことですから、礼拝での姿勢も原点回帰することが必要なのかもしれません。椅子に座り、時には、腕を組んだり、足を組んだりと、礼拝における神様の前での態度と姿勢は、いつも点検する必要がありますね。神様は心を見られるわけですが、心の態度が表面に現れ来るのですから、本当に心探らされます。

 いつしか、イエス様が再臨されたときには、必ず神様の前に、イエス様の前に立つことになるのですから、普段の礼拝から、神様の前に立つ心構えを養っていきましょう。

 そして、聖会は普段の礼拝とは違う雰囲気があり、特別な礼拝の時間となるでしょう。ですから、この機会を逃さず、神様に近づき、もっと神様の臨在に触れ、神様を体験していきたいですね。