■2021年6月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
時をわきまえて up 2021.6.27
主題聖句(ローマ13:11)
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
「おとずれの日に主をほめたたえるために」という今年のモットーを目指して、皆さんに励ましとなり、また前進するための種となるようにと、この半年間みことばからお話をしてまいりました。
あとは皆さんが信仰生活の中で応用していくということが大事です。知識で終わるのではなく、生活の中で具体的に実行していくということにチャレンジしていただきたいと思います。
異邦人(ノンクリスチャン)の中にあっての私たちの立派な振る舞いとは、イエス・キリストを信じて生きる生活、そこにある敬虔な心の姿勢です。
今週は、キリストの再臨されるにあたって、時をわきまえて過ごす、ということをご紹介したいと思います。
主題聖句(ローマ13:11)に「今がどのような時か」とあります。今は、キリストの再臨がもう間近に迫っているという時です。
2018年から10年計画で、キリストの再臨を迎えるように整えていきましょうということで、今年はその4年目に入っています。皆さんの生活は順調に備えができてきているでしょうか。
10年というのは、聖書のあらゆるところから予測して、イエス様の再臨の可能性が一番高いと思われる2030年前後を目安としたものです。
とはいえ、日本のクリスチャン人口はいまだに1%未満です。教会の数は減ってきています。救われている魂のあまりに少ない日本のことを考えると、神様のあわれみのゆえに再臨はもっと先に延ばされるかもしれません。
しかし、そんな状態だからこそ、クリスチャンはイエス・キリストを信じることの出来る良い証しをする生活に立ち返り、建て上げていく必要があります。
日本の99%のノンクリスチャンの救いが、私たち1%のクリスチャンの生き方にかかっています。
昔と違って今は、キリストの福音を言葉で語るだけでは伝わらない時代です。だから、私たちのクリスチャン生活そのものを通してキリストを証ししていきましょう、この10年間で、それを聖書から学び、自分もチャレンジしていきましょう、とにかくキリストの再臨が近いのです。
そこで今日は「今はそのような時ですから、このようにしなさい」と教えられているところを見ていきたいと思います。
1.今がどのような時か
(1)眠りからさめるべき時刻
例えば学校や会社に行くとき、始業時間に間に合うように目を覚まし、色々と出かける準備をし、そして目的地に向かいます。眠りから覚めるべき時刻というのは、準備の時間も考慮した時刻のことです。
パウロが「今が目を覚ます時です」と語ってからもう二千年が過ぎています。そうであれば現代はもう遅刻寸前ギリギリの時間と言えるかもしれません。再臨の時刻は神様が決めておられます。神様はいつまでも罪を放ってはおかれません。
(2)信じた頃よりも近づいている
時間は刻々と過ぎていき、止まることはありません。
(3)救いが近づいている=再臨近い
私たちはいま救われていますが、完全ではありません。イエス様が迎えに来てくださる再臨の時に、私たちの救いは完成します。
私たちの準備が整った時にイエス様は迎えに来られます。準備が整っていないとイエス様は再臨しにくいでしょう。でも来られます。心を油断して、不敬虔な態度で、再臨の準備をしない人々を、いつまでも待ってはおられないのです。
救いの完成が近づいていますから、完成されることに遅れないように、自分の人生においてキリストの再臨を迎えるための準備をいたしましょう。
(4)終わりの日の困難な時代(第2テモテ3:1−5)
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、良心に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見える所は敬虔であってもその実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」
終わりの時代には、罪を罪と思わないような人であふれています。
クリスチャンもそれに影響される可能性があります。なぜなら私たちは多数決に弱く、流されやすい弱さを持っているからです。
(5)敬虔な信仰生活の困難苦難
クリスチャンが社会の中で生きるのは、難しいことが多いと思います。例えば、ユーチューブ礼拝が簡単にいつでも見れるようになりました。別の時間に誰にも見られないところでユーチューブを見て、礼拝に出席しているような錯覚に陥ります。同じ時間に合わせて礼拝するなら、出席していることと同じですが、油断して、自分の見やすい時間を選んで困難を避けているということはありませんか。
心の油断は妥協です。これは、神様の前で一人一人が吟味してみてください。責めているのではありません。今がどのような時かをわきまえていただきたいのです。つい妥協してしまうことはあり得ます。それで救いを失うということではありません。心を改めて、油断することなく自分の心を守ろうと、心を変えればいいのです。困難の中でいかに敬虔に生きるか、神様はじっと見ておられます。
悔い改めること、心を変えてやり直すことによって、私たちの心の中までもが世に染まって妥協しているのではないということを、神様の前にも人々の前にも証しすることになるのです。ズルズルと流されていくことが危険なことであることに気付いてください。今がどのような時か、準備も含めて眠りから覚めるべき時が今なのです。
2.困難な時代を過ごす
(1)詩篇50:15
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
◎「わたし(主)を求めよ」
敬虔なクリスチャン生活が送るのが難しい、そういう時には、「わたし(主)を求めよ」と、神様は励ましておられます。
◎主を崇めるようになる
主を求めて、その苦難の中を生き抜くことが出来ると、主を崇めるようになります。あなた自身も崇めるようになり、あなたを見ている人さえも神を崇めるようになると読み取ることができます。
(2)エレミヤ29:12−13
「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」
◎主を呼び求めて歩き、祈る
◎心を尽くして主を捜し求める
クリスチャン生活が難しくなったら私を呼び求めなさい、妥協してはいけません。妥協しても、もう一度主を求めて、クリスチャン生活を立て直すことができるように、主の助けを得なさい。これは神様の約束です。
私たちにとって一番大事な願いは、敬虔なクリスチャンであることを保つことです。この世界で生きることにおいて、それが一番重要なことです。
神の国は敬虔な国ですから、魂が敬虔でなくては入れません。イエス様を信じたのですから、この敬虔さを失うことのないようにと心がけることが大事なことです。そのために主を求めるのです。
3.今は主を求めるとき
(1)テトス2:12−13
「私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
◎主を求める敬虔な生活
◎再臨を待ち望む教えとさとし
当時はまさに迫害の真っ只中でした。クリスチャンと告白することすら、社会的信用も利益もなくすような社会でした。
現代の日本にはそのような迫害はありませんが、堕落させる力の強い環境があります。これも霊的には困難な時代です。誘惑と欺きの多い時代ですから、嘘を信じ、偽りのうわさを信じ、そして不信仰になります。この豊かな社会において敬虔に生きることは非常に霊的に困難な時代なのです。
パウロはテトスに、困難な時代だが、慎み深く正しく敬虔に生活をしなさい、そしてその際には、キリストの再臨を望みとしなさい、と語っています。私たちは、再臨を望む教えとさとしを通して、主を求める敬虔な生活をチャレンジしていくのです。今は困難な時代です。敬虔に生きるために主を求めるべき時代です。
主を求める敬虔な生活のために、物質的必要と霊的必要を満たしてくださる方。(ピリピ4:19)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」
神は、私たちが敬虔なクリスチャン生活を送るために必要なことは、必ずすべて満たしてくださいます。敬虔な生活のためならば、物質的必要や、また、きよい良心を保つために必要な教え、交わり、賛美、祈りなどの霊的必要を、神様はすべて満たしてくださるのです。
不敬虔になり高慢になり堕落するための必要は神は与えられません。祈りが答えられないとしたら、そこに問題があるのではないかと自分を吟味してみてください。
今は主を求める時です。困難な時だからこそ敬虔に生きることを、神の助けを得て、奇跡を得て歩んでください。
奇跡は起こります。神は世界の人々の心、仕組みを動かして、不敬虔な人々からあなたを守られます。一時的に苦しみに遭うことがありますが、それは主を見上げ主を求めるためです。
経済的に苦しい時も、お金が欲しいなら、あなたがどのような敬虔な生活をするために必要なのかを、はっきり頭に思い描いて祈り求めてください。
主を求めるため、敬虔な生活のために必要なことは主が必ず与えてくださいます。みことばの約束ですから、ぜひあなた自身が体験してください。
【短歌】
清水に 蛍みつけて 思うこと
敬虔な心に 主は居ます
蛍は澄んだ清らかな水のある所に生息します。きれいできよらかで、自然ってすごいですね。
そんな蛍を見つけて思わされました。「そうだ、主は敬虔なきよい心に住まわれるんだ、蛍のように。」
汚れた水には蛍は育ちません。同じように汚れた心には主はおられません。
■2021年6月20日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)
みこころに従う立派な振る舞い・恵みによる救い up 2021.6.20
主題聖句
(マタイ4:1〜2)
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
(箴言30:8〜9)
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
【第一礼拝:横路伝道師メッセージ】
『みこころに従う立派な振る舞い』
(マタイ4:1〜2)
「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。」
イエス様が公生涯を始められる時、40日40夜断食をされました。40日40夜とは徹底的という意味があります。空腹の時にサタンが試みにやってきました。
1.3つのサタンの試み
1)マタイ4:3〜4
“すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」”
サタンは、「神の子なら」と誘惑してきました。イエス様には石をパンに変えることは簡単なことでしたが、それをされませんでした。
“イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。”
人を生かしてくださるのは神様です。イエス様は申命記8:2〜3を引用され、サタンの指示を退けられました。
2)マタイ4:5〜7
“すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」”
サタンも、みことばを使って誘惑してきました。サタンもみことばを知っていて、それを悪用するのです。気をつけないといけません。
イエス様が世に出られるタイミングの時なので、もし神殿から飛び降りたら、奇跡だと人々は信じるかもしれませんが、イエス様はそのような安易な方法は取られませんでした。イエス様が地道に三年半の間、長い距離を歩き、一人ひとりに丁寧に対応されました。最後は十字架につかれて自分のいのちを捨てられるという方法を取られました。イエス様が十字架にかけられた時にも、人々は「神の子なら十字架から降りてみよ」と言いましたが、そうはされませんでした。神様のご計画があったからです。
“イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」”
みこころを知る者は、不敬虔なみことばの用い方をしません。敬虔な心をもってみことばを用いていきましょう。
3)マタイ4:8〜10
“今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」”
サタンは嘘つきです。このみことばの後に、「しかしその後は永遠の滅びです」ということを言いません。アダムとエバがサタンにだまされた時と同じでした。善悪の知識の実を食べても、永遠のいのちには至らなかったのです。
“イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」”
イエス様はみことばを用いてサタンに勝利されました。
4)マタイ4:11
“すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。”
イエス様はサタンにみことばによって勝利されました。私たちも、みことばと聖霊によってサタンに勝利することができるようにしてくださっています。
【適 用】
1.私たちの言動の動機は何か
サタンはイエス様に色々なことを言って誘惑してきました。私たちの心にも、色々な思いがやってきます。
1)自分自身の考え
2)サタンからの誘惑
3)みことばと聖霊様の働き
この3つの動機から私たちは動きます。間違ったことを聞いて、それをしてしまう愚かさがあります。肉の思いやサタンの言葉、人の言葉によってではなく、みことばと聖霊様の導きによって行動することが大切です。
2.みこころに従う立派な振る舞い
心から主を愛し主に仕える、主を畏れる心が基本にないと、間違った選択をしてしまいます。みことばと御霊によってみこころを知ることが必要です。そのために、みことばを知らないといけません。聖霊様がみことばを思い起こさせてくださるのですが、基礎としてみことばを蓄えておかないと出てきません。みことばをよく読んでおくことが大切です。
また、聖霊様との交わりをいつも持ち、悔い改めて新しい者として生きることが必要です。
神様のみこころは、主を愛することと、互いに愛し合うことです。愛する人が救われるために福音を伝えることが必要です。
【参考聖句】
(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
【第二礼拝:辻和希伝道師メッセージ】
『恵みによる救い』〜主を畏れる〜
最近、ルービックキューブを全面揃えられるようになり、人は努力で何でも出来るのだなと改めて痛感しております。
しかし、人には絶対できないことがあります。それはいのちに関することです。失ったいのちを人の努力や何かで取り戻すことはできません。たとえ全世界を手に入れても、いのちを損じたら、何の得がありましょう、と聖書は言っています。であるならば、永遠のいのちはなおさら人には到達できない領域なのです。それが約束されているということは、ただただ、神様からの恵みなのです。7月の夏期聖会のテーマは「原点回帰」です。私たちの原点の一つに、“救われた”ということが挙げられると思います。この救い無くして、今のクリスチャン人生はありえないからです。私たちは度々この救いの原点に立ち返らなければなりません。
救いの喜びを鈍らすものがあります。富です。鈍らすほどの富は持っていないという声が聞こえてきそうですが、富の大小ではなく、与えられている自分の分を正しく受け止めることが重要であるということを箴言30章8節〜9節から教わりたいと思います。
(箴言30:8-9)
不信仰と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められて分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
この著者は、豊かさによって主を否むこと、また貧しさによって御名を汚すことを理解しています。だから、そのようにならないために、自分に定められた分で満足できるようにと願っています。自分の分をきちんと知り、受け止めることは、わきまえることに繋がります。そして、そのわきまえは、主を畏れることに繋がるのです。
もちろん、富が多く与えられ、それを福音宣教のために用いることができたらと、誰もが思うことですが、そこには多くの罠があるので、神様は誰にでも富をお与えにはなりません。
(マタイ19:24)
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
上記の箇所では、ある金持ちの青年がイエス様に、永遠のいのちを得る方法を訪ねる場面です。イエス様は青年に一つのチャレンジをしました。持ち物を売って貧しい人に与えるというチャレンジです。青年はこのことを聞いて悲しみ、その場を離れていきました。それは彼がお金持ちだったからです。当時ユダヤ社会では、富や財は、神様からの祝福だと受け止められていました。実際、旧約時代の族長は多くの財産を持っていました。さらに、この金持ちの青年は、普段から律法を守り、道徳的にも優れていました。そんな彼が救われるよりも、らくだが針の穴を通るという絶対に不可能なことの方がやさしいなんて、それでは一体だれが救われることができるのだ、とその場にいた弟子たちはイエス様に尋ねます。イエス様は「人にはできないことが、神にはできる」と答えられました。
そうです、永遠のいのちを得ること、天の御国に行くこと、罪人が救われるということは、どんなにお金があっても、どんなに良いことをしても、本来は絶対に得られないことでした。イエス様を救い主として信じるだけで救われるという道筋を、イエス様の十字架の御業によって用意してくださった、神様の恵みによるほかないのです。
クリスチャンの原点は、神様の恵みによって“救われた”ことです。しかしその救われたという恵みは、日常の中で鈍らされていきます。経済社会に生きる私たちにとって、特に富や財によって鈍らされます。そんな中、まずは知識において、救いは神様による一方的な恵みであること再認識することが大切です。そして知識だけでは何か足らないということに気付いてくると思います。それが霊の渇きです。霊の渇きを満たすものは聖霊様の満たししかありません。聖霊様に満たされることで、霊においても救いの喜びを再体験していきましょう!夏期聖会がその機会となることに期待します。
■2021年6月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
イエスは主と告白する生活 up 2021.6.13
主題聖句(詩篇100篇)
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
先週は「聖霊様と共に歩みましょう」というテーマで、「本当に聖霊様は内におられるのか」ということについて、みことばからご紹介致しました。
異言は、内におられる聖霊様が与えてくださる賜物の現われの一つであり、舌を聖霊様にゆだねているというしるしとして語ることができますが、自分でも理解できない言葉なので、滅茶苦茶語ろうと思えば語れるわけです。しかし、「イエスは主」と本当に心から告白することができるなら、それは内側に聖霊様が宿っておられる証しである、ということを結論的にお話させて頂きました。
今日は、その続きで「イエスは主と告白する生活」についてです。
「ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう」とヨハネは語っています。神様に対しても同じです。生活そのものが私たちの主に対する姿勢として実を結んでいくということが、聖霊様が内に宿っておられることの一番確実なしるしなのです。
日々造り変えられていく人生、すなわちイエス・キリストの似姿に近づいていく人生、内なる聖霊様により神に喜ばれるそのような生活に変えられていくというのが、「イエスは主」と告白する生活そのものなのです。
今日の主題聖句の(詩篇100:1-5)は、聖霊様によって導かれた素晴らしい美しい感謝の賛歌です。
詩篇は、神様に向かって感謝や賛美や祈りをささげるための言葉としても載せられていますから、神様のことばである詩篇を、自分の祈りの言葉として、心を込めて告白するのは良いことです。
ぜひ自分の祈りの言葉として、また賛美として、この(詩100:1-5)を用いてみてください。
主イエスと告白する → 主イエスに仕える
イエス様への心からの思い、愛、信頼が、「イエスは主」という信仰の証しの告白となり、その告白は、主イエスに仕えるという生活そのもののことであると言うことができます。
「仕える」という言葉は、目上の人に対する態度、姿勢を表し、その人の側にいて、その人が不自由のない様に働き奉仕する意味です。
私たちの場合、最高の地位の方の側にいて、その方のみこころを行うという仕え方です。そのような生活が見えていたら、「イエスは主と告白する生活」をしており、永遠のいのちに至らせる聖霊様が内に宿っておられるという確信を得ることが出来ます。
聖霊様が私たちを内側から造り変え続けてくださらなければ、神様に近づいて仕えるという働きは、難しいことです。良いことをしよう、悪いことはすまい、というだけではなく、仕える心を大きく育てていく必要があります。それを育ててくださるのが聖霊様です。
そして、そのような聖霊様のお取り扱いを私たちが柔軟に受けるためには、わがまま、自己中心を捨てていく必要があります。
神のおことばをもって聖霊様が私たちに語ってくださる時に、自分の考えや感情よりも、神様のおことばを優先していこうと、みことばにチャレンジしていく姿勢があなたの内に現れているならば、そしてそれが生活の中で行動に出てきているならば、あなたは聖霊様によって造り変えられてきているのです。すなわち内側に聖霊様が住んでおられるのです。
自我を捨てることや造り変えられることを拒み続けるならば、聖霊様は悲しまれます。そのままでいると、あなたが聖霊様を追い出すということになるかもしれません。
神様と向き合う自分の心の姿勢をよく見つめ、きよめて頂くことを求めて、祈り続け、それを聖会へと結びつけていただきたいと願っています。
1)仕え甲斐がある
(ヨハネ12:26)
「わたしに仕えるというのなら、その人は私についてきなさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もし、わたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」
何一つ無駄なことはない
このイエス様のおことばにあるように、仕え人は、主人の側にいて主人と一つになって、主人がどこに行っても付いていくような、尊敬と信頼の関係があります。私たちもそういう関係のもとでイエス様に仕え続けて行くならば、天の父が報いて下さいます。何一つ無駄なことはありません。私たちは、報いられるしもべなのです。
私たちは永遠の命を頂いて、それだけでももう充分な恵みが与えられているのに、そのうえ毎日の仕える働きに対しても神は報いてくださるのです。キリストのいのちを前払いとして与えておられるのだから、もう永遠にタダ働きしても当然のところを、神様は私たちの毎日の仕えるという働きに対する報いをも考えておられるのです。
報いを与えたいという主人の気持ち
私たちの主人は良い主人です。良い主人は、報いる必要はなくても、報いとして与えたい、あふれる富をどんどん与えたい、という心の持ち主です。
仕える者にとって、報いは支えとなり、正しく評価して頂いたという実感を与えてくれるものです。報われることを通して私たちが元気を与えられて前進できることを神様はよくご存じなのです。
仕える者として、愛によって側において頂いているだけでも、もう充分報われているのですが、神様はそのうえ、一つ一つの奉仕に対しても報いを与えようと思っていてくださるのです。
私たちの罪の赦しのために、御子の血による代価を払ってくださった、その代価のゆえに救われて、いま私たちは生きて、あんな奉仕やこんな奉仕をさせて頂いています。もうすべてが前払い済みなのです。にもかかわらず、神様は私たちの一つ一つの奉仕や小さな親切や善行に心をとめて、報いを与えたいと考えてくださっておられるのです。本当にあわれみ深く恵み豊かな素晴らしい神様です。
「恵み」
この報いは、恵みです。これをしっかり黙想して理解しましょう。
そして、毎日の神への奉仕、心遣い、証の働きに対して、報いが与え
られることを喜びましょう。詩篇100篇は、そういう報いの恵みを賛美して、神に仕える喜びをうたっているのです。
2)神に仕える(ルカ2:36−37)
「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年を取っていた。処女の時代のあと7年間、夫とともに住み、その後やもめになり、84歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」
宮を離れないとは、いつも神の臨在を意識する
アンナは宮を離れず、いつも神様と共に歩んでいました。私たちも一人一人が聖霊の宮ですから、常に内側に聖霊様がおられるので、いつも神様の臨在を意識して共に過ごすことができます。
断食と祈りは、神の御心の成就を求める姿勢
アンナの祈りは、「神のみこころがなりますように、イスラエルに救い主がお生まれになりますように」という祈りです。それを熱心に祈って待ち望んでいた時に、マリアに抱かれた幼子イエス様が現れたのですから、どんなに喜んだことでしょう。
私たちも自分の願いや欲望のためだけでなく、主の祈りにあるように、「神の国が来ますように、御心がこの地でも行われますように」と、神に仕えている告白の祈りをしたいものです。私たちの主の祈りがマンネリにならないように、アンナのような、祈りによる神への奉仕となるように、チャレンジしていただきたいと思います。
3)互いに仕え合う(第1ペテロ4:10−11)
「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力にって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン」
私たちの奉仕は、神に栄光が帰されるという目的で、神だけがあがめられるべきお方だということを証明していく奉仕です。
私たちは人からの誉れをもらってはいけないのです。神様から頂いた賜物を用いて素晴らしい結果を出した時、人に喜ばれることで、神より人に愛されることを求めてしまう罪と弱さを持っています。
仕え人の一番の喜びは主人から誉れを頂くことです。「忠実なしもべだ、よくやった、少しのものに忠実だったから多くのものをまかせよう」と、神様は誉れだけでなく報いまで用意してくださるのです。
神からの賜物は、互いに仕え合うためにある。
仕え合うことによって、主人が誉めたたえられる。
私たちが与えられている能力や賜物や持ち物は、互いに仕え合うようにと神様が与えてくださったものです。それは、神のみこころですから、そのように行うことは、神に仕えることになり、神が誉めたたえられることになります。そしてそれは、イエスは主と告白していることの証しです。
4)主に仕えるように(エペソ6:5−7)
「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意を持って仕えなさい。」
奴隷たちとは、仕える立場にある人、労働者
社会構造の中にあっても、主に仕える心構えで働く
「主に仕える」とは、直接神に仕える仕え方と、間接的に互いに仕え合う仕え方と、もう一つ、社会に対して仕える仕え方があります。私たちはこの社会の中で仕える立場にある労働者ですが、主に仕える心構えで働きなさいと(エペソ6:5-7)に語られています。
腹が立ったり傷ついたり色々葛藤もあるでしょう。しかし、たとえ上司があなたに悪を行っても、たとえ他人が侮辱を与えても、あなたは彼らに「祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(第1ペテロ3:9)これこそ異邦人の中にあっての立派な振る舞いという実を実らせることになるのではないでしょうか。神様は必ず報いてくださいます。
イエスは主と告白していく生活は、神に仕え、互いに仕え、そして異邦人の中にあっても主に仕えるように善意を持って仕えること、この三点を通して神に仕えていく姿勢が、イエスは主と告白していることであり、あなたの内に御霊が宿っておられるしるしであることにつながるのです。
【俳句】
主イエスに 仕える心 花菖蒲
花菖蒲(はなしょうぶ)の花言葉は、嬉しい知らせ、あなたを信じます、心意気、です。心意気とは心の動機の状態を表しています。積極的に何かをやり遂げようとする気持ちとして、仕える心にそれを見ることが出来ます。主イエスに仕える心で、イエスは主と告白する生活を歩んでいきましょう。
■2021年6月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖霊と共に歩みましょう up 2021.6.6
主題聖句(ガラテヤ5:16)
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
今週は「聖霊と共に歩みましょう」というテーマを持ちました。使徒信条の学びの中で「我は聖霊を信ず」というテーマを、5回に分けてお話をさせていただきました。
「聖なる公同の教会」では、私たちがどこに属しているのかということを、そして「聖徒の交わり」では、私たちが単独で神様を信じているのではなく、横のつながりもあるということ、「罪の赦し」これは一度赦されて終わりではなく、悔い改めてきよめられて、ますます罪の赦しを受けていくのであること、更に「からだのよみがえり」これは希望をもって地上を歩む一番のポイント、そして「永遠のいのち」これは御父御子御霊を知ることである、というように聖霊様のお働きについて学んでまいりました。
私たちの信仰生活に一番関係が深く、リアルな神様との関係を確立するのは、聖霊様との関係です。聖霊を信じるということは、聖霊と共に歩むということを意味しているのです。
今日の主題聖句を見ると、クリスチャンにとって一番悩ましいのは、肉から働きかけてくる欲望、限度を超えた貪欲が内に湧き上がってきて、それを制することがなかなか難しいということで、それを少しでも軽くする方法は、御霊によって歩むことだと、パウロはガラテヤ人に語っています。
では、御霊によって歩むとはどういうことか、というのが、今日の結論となるわけですが、まず初めに、御霊様に私たちの内に住んでいただく、というクリスチャン生活の大事な原点の所からお話しいたしましょう。
1)信じて義と認められたしるしは?
福音を信じた証拠として、聖霊が内住される
(エペソ1:13)
「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」
水のバプテスマは私たちの決断のしるしですが、本当に私たちが福音を信じているということを、神が認めてくださったしるしは、約束の聖霊を受けること、聖霊が内に住まわれるということです。
【参照 ローマ4:11】
「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、」
アブラハムの神への信仰を「義」と認められた神様は、そのしるしとしアブラハムの身に割礼を施すよう命じられました。
彼の子孫も皆、割礼を施すように言われたのですが、しかし、身に割礼のしるしがあっても、アブラハムのような信仰を伴っていたというわけではありませんでした。
(エペソ1:13)には、聖霊は証印である、すなわち心に受ける割礼であると語られています。神様だけが人の心の内を見ることがおできになります。聖霊様の内住のしるしは、神があなたを信仰による義として認め、罪の赦しが成就した人というしるしとして、神様がお与えになっているのです。
2)内住の御霊のしるしは?
正直に心から「イエスは主」と告白できるのは内住の御霊による
(第1コリント12:3)
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスは呪われよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことは出来ません。」
内住の聖霊様の一番大事なしるしは、正しい良心から「イエスは主」と告白することです。
【参照 使徒10:44−47】
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこういった。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』」
当時、イエス・キリストの救いはユダヤ人のためと思われていました。しかし、救いは異邦人にも及ぶというのが、神様のご計画です。
ですから、異邦人が異言を語り神を賛美したのを見たペテロたちユダヤ人クリスチャンは、「異邦人にも聖霊を送られた」と、神が彼ら異邦人の信仰を認められたことに驚き、異邦人にも神の救いが及ぶことを知ることができました。異言や賛美という、見えるしるしがあったから、ペテロたちにもそれがわかりました。
そのように、異言は内住された聖霊様の現われですが、大事なことは、聖霊によって、その人が心から「イエスは主」と告白すること、そして内住された聖霊様からの影響を受けて実を結んでいくことなのです。
3)御霊の影響を受けているしるしは?
死んだ行いから離れ、神に喜ばれる生活に向かう
(ローマ8:11)
「もし、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
【参照 へブル9:14】
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
良心がきよめられると、死んだ行いから離れ、生ける神に仕える者となる、そのような実が現実生活の中に結ばれます。
完璧に100%罪から離れることはできないでしょうが、一つ一つの罪から離れて行くという信仰生活の前進は、御霊が内住されている証しです。同じところにとどまり続けているとしたら、聖霊様の働きかけを拒んでいるのかもしれません。
聖霊様はあわれみ深く忍耐強いお方です。しかし、私たちがいつまでも何も変わらないのであれば、イエスを主と告白し、異言を語り、賛美をし、預言をしたとしても、それは自分の肉の能力から出たものであって、内住の御霊の影響を受けたものではないということになります。
あなたが信じた時から今日に至るまで、どのように造り変えられてきたか、死んだ行いからどれだけ離れることが出来てきているか、神様に近づくことに対して熱心な心が湧き出てきているか、その実があってこそ、あなたの内に内住されている御霊は神様から証印としてもたらされ、割礼のような働きをされる聖霊様であると、あなた自身が確信することができるのです。
私たちは、自己中心や貪欲の力を制御して神に喜ばれる日々を目指しているでしょうか、目指すだけでなくその実が実ってきているでしょうか、見直してみるという「原点回帰」の必要があります。
教会に来ている、礼拝している、これも内住のキリストの証しでありますが、「もうこれでいい」と思っているなら、それは間違いです。神様はもっともっと私たちを造り変えようと思われているのです。イエス・キリストの姿にまで造り変えたいと神は願っておられるのです。
4)御霊によって歩むには?
あらゆる場合において、イエスは私の主と告白し続ける
(ローマ10:9)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
あなたの心の内に刻まれた「イエスは主」という告白が、本心として定着するためには、どんな時でも、逆境の時も、順境の時も、「あなたは私の救い主、主です」「私はあなたのしもべです」と、主を認め告白して、主人に仕える心を持ち続けることです。
自分の歪んだ心、否定的な心があっても、それを神様の前に告白しながら、「それでもあなたは私の主です」と告白していくときに、私のすべては自分ではなく主人にかかっている、という信仰と信頼を持つことが出来るようになります。
告白し続けることが必要です。いつでもどんな時でも主を認め、「私は主のしもべ、私の存在は主のもの」という心が、御霊があなたの内に住まわれ、それを認めさせ、告白できるように励まし、影響を与えて下さっていることの証しになるのです。
たとえ私たちが弱さゆえにつぶやくことがあっても、聖霊様は、そこを強くしたい、そこをきよめたい、と願ってくださる神様です。
気持や感情がどうであれ、「イエスは私の主」と口で告白するようにいたしましょう。
【参照 箴言18:21】
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」
いのちを愛する者は、「イエスは私の主」と、どんな時でも告白して命を選びます。「イエスは主」ということを受け入れられない人は死を選びます。私たちもいつのまにかイエス様との関係が、自分が主人になっているかもしれません。
死と生は舌に支配されます。何を告白するかで、命に至るか死に至るかが決まります。
私たちが語る言葉は否定的なことが多いものです。そして、否定的なことばによって人生はそちらの方に傾いて行ってしまうのです。あなたはどんな言葉を多く告白しているでしょうか。
何か出来事や心の動きが起こるたびに、否定的な状況の時には特に、「イエスは主、私が主人ではありません」と告白することが、あなたの全身をいのちに導くことになります。
この告白をさせてくださるのは内住の御霊様の働きであり、あなたの内に聖霊様がおられる証しとなります。
回数多く主の前に「イエスは主」、あるいは、いのちに至るみことばを、告白してまいりましょう。
【俳句】
新生の 衣がえには 聖霊が
新しく生まれかわったいのち(魂)の衣がえを、聖霊様がしてくださいますから、信頼し感謝してお従いいたしましょう。
■2021年5月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
永遠のいのちを信じる立派な振る舞い up 2021.5.30
主題聖句
(ヨハネ4:14)
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
(ヨハネ7:38〜39)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
使徒信条の学びも最後の項となりました。御父御子御霊の神を信じるとはどういうことかを学びつつ、それを信じている者としてのそれにふさわしい行動言動があるということで、私たちはそれにチャレンジしているところです。
(箴言20:4)には、「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない」とあります。
時は刻々と再臨に近づいています。なまけていて、刈り入れの時に何も手にできないということにならないように、緊張感を増し加えて行く必要があります。
神様が与えて下さっている時間と、私たちをキリストの姿へと変え続けて下さる聖霊様の働きとによって、神は必ずそれを成し遂げてくださると、パウロはテサロニケの教会の人々を励ましています。
私たちもそのことを真剣に受け止める必要があります。
信じている者には、助け主聖霊様が内に住んでくださいます。信じているならば、そのような聖霊様のお取り扱いを受けることが出来ているはずですから、聖霊様と共にあって私たちの努力は実を結んでいくことができます。
今、世は霊的冬の時代です。そういう時にこそ、私たちは「なまけ者」にならず、畑を耕し、種を蒔き、種が育っていくための良い畑作りをしておくことが必要です。
そういうことを心にとどめて、今日の「我は聖霊を信ず」の【5】、『永遠のいのちを信じる立派な振る舞い』を、皆さんと一緒に学んでまいりましょう。
●永遠のいのちに至らせるのは、生ける水である御霊の働きである。
主題聖句を読みますと、キリストの与える水、永遠のいのちへの水、生ける水、と表現されたものは聖霊であることがわかります。
また、御霊は、イエス様が復活された後、ペンテコステの日に弟子たちや信じる人々の上にくだられて、それ以来二千年経た今に至るまで、聖霊は人々に、そして私たちにも注がれております。この聖霊様が私たちを永遠のいのちに至らせる働きをされるのです。
●永遠のいのちを持つ者が神の国に入ることができる。
神の国は永遠ですから、永遠の神の国に入る者は、永遠のいのちを持っていなくてはなりません。
信じる者は皆、救われるのですが、「信じる」とは、文字面だけの表面的な、行いのない死んだ信仰ではありません。信じることに伴う行動が日常生活に現れる、生きた信仰のことです。それを「信条から出てくる立派な振る舞い」として、今まで学んできたわけです。その生きた信仰のためには、永遠のいのちを御霊によって私たちの内に持つ必要があるわけです。
1)永遠のいのちを持つとは
A)御子イエスを信じる者(ヨハネ3:36)
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」
永遠のいのちを持っていることが、イエス様を信じているしるしである。
B)みことばと聖霊によって生きる者(ヨハネ6:54)
「わたしの肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
私たちはいのちを保ち生活するために、肉を食べ水を飲みます。
イエス様の肉を食べ(みことばを信じ受け入れる)、イエス様の血を飲む(イエス様のいのち、イエス様の霊、すなわち聖霊様の生ける水を飲む)、この生活をしている者は、イエス様を信じている者であり、永遠のいのちを持っている者です。
毎日聖書を読み、黙想し、みことばから力を与えられる、そして聖霊様と共に祈る、このように、みことばと聖霊によって生きるという生活をしている人が、永遠のいのちを持っている者と言えます。
2)永遠のいのちを得るには
A)貧しい人たちに与える憐み(マタイ19:16−22)
永遠の命を得るためには、神様の律法を守りなさい。そして、永遠のいのちに生きて全うしたいのなら、持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。それは天に宝を積むことになるから、とイエス様は言われています。
天に宝を積むことと、永遠のいのちを得たいと思うこととはつながっています。永遠のいのちを持っている者は、必然的に天に宝を蓄えているのです。
私たちの心は宝のある所にある、とイエス様が言われました。永遠のいのちを自分の蓄えるべき大事な宝として考えている人は、それを天に蓄えます。そこが私たちの心を置くべき最も価値あるところだからです。
ここでイエス様は、地上の財産に頼る信仰生活は、純粋に神のみに頼る信仰の邪魔になるということを教えられています。
私たちも自分を吟味する必要があります。いつか将来、全財産を奪われるような時代、社会が来た時、それで神様につぶやき愚痴不平を言うようであったなら、私たちの信仰はこの金持ちの青年と同じように「神」にではなく「お金、この世」にあったということになります。
「神様を信じているから、お金があっても神は必要を満たしてくださる」というのが、私たちの神への信仰です。私たちの土台はこの世のものではなく、岩なる神様であることを覚えておきましょう。
寄付をするという行為の時も、その心は貧しい人たちを憐れむという動機からの憐みであるべきです。
「憐れみを行動に移すことのできる人は、永遠の命を得ることが出来る、律法を全うすることが出来る」ということをイエス様はここで私たちに教えておられると思います。
B)隣人への憐みの行動(ルカ10:25−37)
金持ちの青年にも律法学者にも欠けていたものは、隣人への愛を行動に移すことでした。
イエス様のたとえ話の中で、サマリヤ人は敵であったユダヤ人が瀕死の状態にあるのを見て、「かわいそうに思い」、いのちを救う行動をしました。サマリヤ人の心に働いていたのは純粋に「憐み」です。
隣人を愛するとは、持ち物を全部売り払って貧しい人に与えることであり、敵であっても瀕死の人を助け、世話をし、介抱を頼み、費用を出して、後々まで心配して、回復するまで手助けすることです。神様の憐みは、そういう憐れみです。
「憐れみを施す」とは、単に憐みの気持ちを持つというだけでなく、それほどまでに行動し、最後まで憐れみを全うすること、これが永遠のいのちを持っている者の姿です。永遠のいのちと憐れみ深さは非常に関係が深いと言えます。
3)永遠のいのちとは(ヨハネ17:3)
「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
●父なる神を知る
●御子イエス・キリストを知る
父なる神が御子イエス・キリストを遣わされたのは、神が私たちを憐れんで、キリストによる罪の赦しの御業により私たちを永遠の滅びから救うためでした。
父なる神様は、出エジプト記において、「主、主はあわれみ深く情け深い神」と、ご自分の第一のご性質をモーセにあらわして、そのように言われました。
その神の憐みが形となって、この地上に来られたのが、罪の贖いのために十字架にかかって死なれ、三日ののちによみがえられたイエス・キリスト、憐みの器とも言われるお方です。
この憐みの神と、憐みの器であるイエス・キリストとを知ることが永遠のいのちなのです。神の憐れみを知ると、永遠のいのちがわかるということです。
●聖霊との交わりによって父と御子を知ることができる。
(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」
「あかしする」という中には、知らせる・教える・伝える・証明するという意味が込められています。
「聖霊があかしする」とは接点を持つということです。
交わりを持たなければ伝えられません。交わっていただかなくては知ることができません。
聖霊は助け主なる真理の御霊ですから、交わればキリストについて証してくださいます。御父と御子キリストは一つですから、キリストを知れば御父を知るのです。聖霊はキリストを証ししますが、その中に御父も含まれているのです。三位一体の神を知るには聖霊様と交わり悟らせて頂くほかありません。
聖霊を信じるとは、永遠のいのちを信じることであり、永遠のいのちを信じるとは、御父御子御霊を知ることです。すなわち、あわれみの神を知ることが永遠のいのちであるということです。
4)神を知ることによる立派な振る舞い
A)聖潔を追求する人生(ローマ6:22)
「しかし、今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」
永遠のいのちを宝のように受け止めて信じているならば、聖潔を追求してこそ、私たちは永遠のいのちに行き着くことができます。
B)信仰の戦いを勇敢に戦う生き方
(第1テモテ6:12)
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前で立派な告白をしました。」
私たちは人と争いをしているのではありません。闇の力、罪、汚れ、死、という人間が勝利できない霊的存在(サタン)と勇敢に戦う姿を見て、世の人々は「立派だな」と思うことでしょう。
C)キリストのあわれみを待ち望む姿勢
(ユダ1:21)
「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
この世の中にどんなに失望していても、キリストのあわれみ、即ち、からだの贖われること(再臨)が必ずやって来ます。
神様は私たちを見捨てることはありません。神は今も私たちを憐れんでくださっています。この世界がどのように変わろうとも、救い主イエス・キリストを信じる信仰者に対する神のあわれみは、変わることはありません。必ず救いを完成させてくださいます。神様の憐れみを信じて待ち望みましょう。
永遠のいのちについての理解と共に聖霊様に悟しをいただいて、そしてそれを信じて、キリストの再臨まで、聖霊と共に歩む人生を目指して進んでいただきたいと願います。
【俳句】
永遠の いのちの潤い 梅雨の雨
しとしとと降り続ける梅雨の雨は、乾いた大地を潤します。
永遠のいのちの潤いは、いつも神様のあわれみによって与えられています。
神様のあわれみの雨は、いつも私たちの心を潤してくださり、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝することができるようにしてくださいます。
「我は聖霊を信ず」これは、現実のクリスチャン生活にとって一番の、生きた信仰生活の鍵であると言っても過言ではありません。
■2021年5月23日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)
聖霊を求める立派な振る舞い・聖霊による証印 up 2021.5.23
主題聖句
(ルカ11:13b)
・・とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
(エペソ1:13〜14)
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
【辻 和希伝道師メッセージ】
『聖霊による証印』
〜御国を受け継ぐことの保証〜
ペンテコステにちなんで、聖霊について考えていきたいと思います。
次の御言葉から、御国を受け継ぐことの保証であるという観点から考えてみたいと思います。
(エペソ1:13−14)
「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
聖霊による証印があることで、救われた者が行く天の御国に入ることができます。つまり、聖霊は私たちが救われていることの証明になるのです。
私たちのからだは、聖霊の宮とあります。(1コリ6:19)また、聖霊を悲しませてはいけないとあります。(エペソ4:30)
私たちのこの地上の歩みは”聖霊と共に”ということを示しています。
しかし、聖霊を否定し、聖霊を受け入れない歩みは、内側に御国の保証が無い状態になるので、救われていないということになってしまいます。ですので、聖霊はとても重要なのです。しかし重要と分かっていても、知識で止まっていることがあります。私たちは聖霊に満たされて初めてその重要性を悟り、真の証印となるのです。
この世は非常に多くの誘惑であふれており、それらは聖霊の満たしを妨げます。二人の主人に仕えることはできない(マタイ6:24)とあるように、聖霊の宮である私たちの内側が、聖霊以外のこの世のもので満ちていたら、聖霊が入る余地がないのです。この世を支配する富と聖霊は共存できないのです。御霊に満たされない(エペソ5:18)と聖書は今日も勧めています。
【横路伝道師メッセージ】
『聖霊を求める立派な振る舞い』
(ルカ11:13b)
「・・とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」
1.聖霊のバプテスマは信じるものに約束されている
1)主の約束であるので信仰によって受け取ること
(ヨエル2:28〜29)
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」
この預言が新約において成就しました。
(ヨハネ14:16)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:17)
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
イエス様ご自身が直接語られ、弟子たちはイエス様が天に昇られてから10日間、断食と祈りを持って待っていたのですが、120人の人々がペンテコステの日に聖霊を受けました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)
イエス・キリストを信じて水のバプテスマを受けるなら、賜物として聖霊を受けると言われました。
2)受けるかどうかは、選択することではなく、主からの命令である
「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:22)
聖霊は、受けても受けなくてもいいのではなく、受けなさいと言われています。
2.今、私たちのすべきことは何か?
・・・日々聖霊を求めることが立派な振る舞い・・・
*人がどれほど飢え渇いているかによって体験する深さが決まる?
1)飢え渇き求める
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(詩篇42:1)
鹿が水を求める時は、命に関わる時です。そのように、私たちも聖霊に飢え渇いて求めることが必要です。一番聖霊を受けるのが多い時は、集会の中でです。求めるものは、必ず与えられるという約束に基づいて、本気で求めることが大切です。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(ル力11:9〜10)
「・・・とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13b)
3.求めるだけでなく受け取る
あげると言われても、受け取らなければ手に入りません。何億円か当たっている宝くじをもらっても、それを換金しなければ、実際に手にすることができません。私たちは聖霊がもう与えられているのですが、それを受け取ることが必要なのです。
1)受け取るために前に出る
自分で異言を語る行動をする(口をゆだね、声を出す)
口を閉ざしたままでは、異言を語ることはできません。口を開き、声を出すという行動をしないと、何も起こりません。
2)指導者に手を置いて祈ってもらう
(使徒8:15〜17)
「ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っていなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」
4.聖霊とともに毎日を歩む生活を心がける(交わり、聞き、従う生活)
この地上で生きている間、聖霊様と共に歩みたいと思います。
1)異言、聖霊のバプテスマは、終わり(ゴール)ではなく
霊的領域への始まり(スタート)である。
「わたしを信じる者は聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。これはイエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38〜39)
いのちの水が内側から流れ出るとは、どういうことでしょうか。い
きいきとして、教会に集まり、証しをし、喜んで賛美している姿だと思います。
【参考聖句】
「あなた方は神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。」(第1コリント3:16)
「御霊に導かれている人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」(ローマ8:5)
いつも私たちの頭には何があるでしょうか。何に時間を費やしているでしょうか。神様のため、祈りのため、周りの人々のためにどれくらい時間を使っているでしょうか。自分の楽しみのため、知識欲のためにずいぶん時間を使っていると思います。
皆さんは、だれに会いたいですか。人はどうしても会いたい人のためには忙しくても時間を作って会いに行くのです。元気をもらいたいからです。私たちが会ったら元気をもらうことができる方がおられます。それはイエス様です。神様にお会いするための時間を作っていきましょう。
他の人のためには時間を割いて出かけるのに、どうしてイエス様の所に会いに行かないのですか?どれだけ自分のために時間を使っているのでしょうか。イエス様と会うことよりもそちらが楽しいと思っているからでしょう。イエス様と会うことがどれだけ楽しいか、知らないからではないでしょうか。
「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、・・・」(ユダ1:20)
素晴らしいキリストの花嫁となるため、最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、磨いてしみやしわをなくし、御霊によって聖められていくことは、クリスチャンの立派なふるまいだと思います。
このコロナの状況の中で、私たちは神様が共にいてくださいます。聖書にはたとえ毒を飲んでも害を受けないと書いてあります。聖霊様に信頼して歩んでいきましょう。
■2021年5月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
身体のよみがえりを信じる立派な振る舞い up 2021.5.16
主題聖句(ローマ1:4)
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
今日は、使徒信条の「われは聖霊を信ず」という中の、「身体のよみがえり」を信じる立派な振る舞いについてお語りいたします。
「異邦人のなかにあって立派に振る舞いなさい」と、再臨を前にペテロが教会の兄弟姉妹に勧めた言葉を、今年私たちは教会の十年計画の一つに加えて、ノンクリスチャンたちが神をほめたたえるようになること、救いにいたることも含めて、立派な振る舞いにチャレンジしていきたいと思います。
Doing(行い)よりも大事なことは、Being(私たちの存在そのもの、心、動機)です。
神を愛し畏れ敬う心からの動機があれば、行いは自然と立派な振る舞いになるというのが、使徒信条からくる立派な振る舞いであります。
今日の主題聖句(ローマ1:4)のみことばは、「主イエス・キリストとは、聖い御霊の働きを受けて新しい身体をもってよみがえり、公に神の御子として証明された方である。」という意味に考えることができます。
主イエス・キリストご自身は罪の無い聖いお方だったので、聖い御霊の働きにより、新しいからだをもってよみがえられました。それゆえに、イエス・キリストは神の御子であることが証明されたのです。
●神の子とする復活は、御霊の働き
神の子にだけ与えられるのが「復活」です。「復活」は御霊の働きです。身体のよみがえりを信じることは、神の子であることの証明になるのです。
「身体のよみがえり」の信仰がどれほど大事であるかを、まず「復活の約束とその保証」ということから見ていきましょう。
1)復活の約束とその保証
(第2コリント5:1−5)
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神のくださる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋をぬぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保障として御霊を下さいました。」
●復活のキリストを信じる者への約束
(ローマ10:9参考)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」
ここに私たちが救われる条件が二つ書かれてあります。一つは「イエスは主」と告白することです。
誰も御霊によらないでは、イエスを主と告白することはできません。内に御霊をいただいて、正しい良心から「イエスは主である」と告白する人は救われるのです。
もう一つの条件は、神がイエスを死人の中から復活させられたと信じることです。これは私たちが神の子として復活するための「約束」につながります。
約束を信じない者は不信仰です。神を畏れていません。アブラハムがイサクを捧げる(ほふる)時、彼は「神は死んだ者も生き返らせることのできる力あるお方である」という信仰により、イサクの復活を信じました。
なぜなら、神様はアブラハムに「あなたの子孫を星のように増やし、全世界を祝福する民とする」と約束されたから、神様のその約束を信じるゆえに、ひとり子であるイサクがたとえ死んでも、神は必ず生き返らせてくださる、とイサクの復活を信じたのです。
私たちも、イエス・キリストの復活を信じることが、「私も神の子としてイエス様のようによみがえるのだ」という約束を信じる信仰を持つことにつながるのです。
この復活の信仰が持てなかったら、救われません。たとえ、「イエスは主」と告白しても、それは人間的な告白になってしまいます。御霊がその人の内にあってこそ、復活を信じることも出来、「イエスは主」と心から信じて告白することもできるのです。
●地上の幕屋から天の家へ
私たちの地上の肉体は、「幕屋」にたとえられています。幕屋というのは、移動するテントのことで、寄留しているしるしです。しかし、家は堅固で、定住するしるしです。
私たちはこの地上では旅人、寄留者です。落ち着き所は天にあります。そこに全財産をかけてでも家を建てるべきで、寄留中の地上においては、いろんな霊的な宝物を天に蓄えているというわけです。そのように、私たちには天に「家」が待っているのです。
家がテントに比べて住み心地が良いのは当然です。また、家は住む人に合わせて設計され造られます。神様は私たちのことを考えて、天において永遠に住むことのできる家を設計し、建て上げてくださるお方です。私たちは、この地上よりもっと素晴らしい生活、人生が備えられているということなのです。
私たちの魂の住まいは、幕屋から家に変わります。この地上の体はテントのようにもろく壊れやすいものですが、家はしっかり建てられて丈夫で美しい住まいです。この違いを想像しながら、約束を待ち望むことが必要です。
この約束があなたのものだという保証は、御霊があなたの内に住まわれることです。
●復活の保証である御霊
御霊が私たちの内に住まわれたら、イエスは主と心から告白し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる信仰も与えられ、神の約束を待ち望むようになります。
このことの確証が薄い人は、たとえ御霊のしるしである異言を語っていても、約束を疑っていることになるので、不信仰になります。
復活の約束を信じることは、あなたの永遠がかかっており、約束のものがもらえるかどうかがかかっており、御霊が確実にあなたの内におられるかどうかの重要なしるしともなるのです。
2)約束を信じることによる立派な振る舞い
(ローマ8:23−25)
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただいくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」
●心でうめきながらも信仰によって待ち望む姿
救われたら、悩みも障害も妨げも全部なくなるのでしょうか。パウロは、私たちのクリスチャン生活について、心でうめきながら約束が成就するのを待っている、と語っています。
私たちはうめいています。神の約束が成就しない、なかなか祈りに答えられない、霊的な神様の実を見ることが出来ていないことに対する呻きです。
神様は、人を造られた目的を、この地上に持っておられません。神の国に目的を持っておられます。癒されても祝福されても健康であっても、この地上は罪のためにさばかれ、なくなるものです。そんなところに希望を持っても、それはなくなる希望です。なくならない希望は永遠の神の御国です。
私たちの持つべき神の約束は、体が贖われること、この肉体から解放されてイエス様がよみがえられたような「新しいからだ」が与えられることです。
それまでは、私たちは心でうめきながら、この約束を待ち望む地上の信仰生活を歩んでいくのです。
ですから、私たちは肉体との妥協をしてはいけません。魂までも罪に汚れてしまったのでは、新しいからだはいただけなくなります。
肉体には罪が宿っていて、罪の働きかけが私たちの正しい良心に迫ってきますが、御霊の助けを受けて聖い良心を守り続け、約束を待ち望みます。ここに心のうめきが起こるのです。心のうめきを持つ人は正常なのです。
●希望による救いの喜びの姿
心のうめきを持っていたとしても、大きな約束が確実に与えられているので、その約束を待ち望むという希望は喜びです。うめきながらも喜べるのです。この魂の喜びがあるから、私たちはうめきを耐えられるのです。
●忍耐強く熱心に待ち望む姿
ノアとその家族は、神様のおことばに従って一心に箱舟を造りました。雨が降ったことこともない所で、しかも山の上です。周りの人々からは、懐疑的な、批判的な、嘲笑的な目で見られたことでしょう。
私たちも、イエス・キリストが新しい身体で死からよみがえり、永遠の御国へと私たちを導いてくださっておられ、私たちも復活させて頂けると信じて、毎週礼拝に集い、賛美や感謝をささげていますが、周りの世の人たちは理解できないことです。御霊によらなければ信じられないことです。人間的な理解では絶対わかりません。
私たち自身も御霊によらなければ信仰を保つことはできません。是非とも聖霊に満たされることを求めていただきたいと思います。
そのように再臨を待ち望む私たちの姿を見て、世の人々は、キリストが再臨される時に、「ああ、彼らの信仰は本物であった、立派だった、そこまで神を信じることができるように彼らを支え続けた神様は素晴らしい方なんだなあ」と、神を敬うようになるというわけです。
今、どんなに非難されても、約束は約束です。まだ実現していない事実を、与えられると信じる信仰が私たちの信仰です。成就していない約束は唯一、キリストの再臨の時に新しいからだが与えられるということです。これが最後の約束です。
魂は救われています。この地上で暮らすための素晴らしい神様の約束もあります。しかし最も大事な約束は、肉体が新しい御霊のからだにかえられて、神の国に導かれて、そこで御国の相続者として新しい人生が始まっていくという神の約束です。
地上の人生は苦しいでしょう。しかし、その向こうにはクリスチャンにとっては大きな希望があります。
約束してくださった方は確かな方だと、信じる確かな証拠も残されています。安心して、心にうめきがあっても喜びをもって、待ち望んでまいりましょう。
【俳句】
主に目見え 新しき身体 白牡丹
巨大な花を咲かせる白牡丹、もう圧倒されて「見事!」と感心するばかりです。
再臨のときに主にお会いする私たちの姿は、新しいからだに変えられて、それはきっと花の王様であるこの白牡丹のようだろうと、望みを描いて詠ってみました。
■2021年5月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
罪の赦しを信じる立派な振る舞い up 2021.5.9
主題聖句(第1ペテロ1:2)
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
異邦人の中におけるキリストの証しとなるような振る舞いということを今年の目標として、今使徒信条から学んでいます。
今日は使徒信条の中の「我は聖霊を信ず」というところの「罪の赦し」について、「罪の赦しを信じる立派な振る舞い」と題して、お話させていただきます。
ペテロは主の再臨を待ち望むクリスチャンに「異邦人の中で立派な振る舞いをしなさい、再臨のときに、彼ら異邦人(不敬虔な者たち)も神をほめたたえるようになるためです」と語っています。
立派な振る舞いは、聖書のおことば、神の約束が本物であることの証明となり、不敬虔なものたちでさえも神をほめたたえるようになるという素晴らしい証しとなる私たちのクリスチャン生活であるということのゆえに、今お話をしてきています。
●直接の聖めは、御霊の働き
今日の主題聖句(第1ペテロ1:2)には、聖霊様と聖め、すなわち罪の赦し、というつながりがあることが見受けられます。
罪の赦しは、罪の代価であるイエス・キリストのいのち、血潮、十字架の贖いにより実現しますが、ここには「【御霊の聖め】によって【血の注ぎかけ】を受けるように選ばれた」と書かれてあります。どういう意味でしょうか。
「神の予知」に従って、私たちは生まれる前から、すでに御霊に聖められていました。選ばれているという意味を含んだ聖めです。
神が選ばれた人は、現実に聖くなくても聖い者と認定されます。つまり、その人々は現実には聖くないのだけれど、「イエス・キリストの血潮を信じる聖い者たちである」という「神の予知」によって、すでに御霊がその人々を選んでいた(聖めていた)という意味に受け取ってよいと思います。
イエス様の血潮は代価としての働きですが、直接私たちに聖めをもたらすのは、聖霊様のお取り扱い、接触によってであります。
ですから、私たちのクリスチャン生活の中で、十字架の代価は、聖められたという結果を意味するのですが、聖められ続けるという働きは聖霊様によります。
罪の赦しの代価が払われていたので、聖霊様は直接私たちの生活や心に触れて、現実的な聖めへと導いてくださっているのです。
●罪の赦しの証しは、御霊の働きを受けていること
罪が赦されているから、御霊様は私たちに働きかけてくださっておられます。御霊様が私たちの生活の中に関与してくださっているならば、「私は赦されているんだ」と実感して頂きたいと思います。
このような流れのゆえに、聖霊を信じることが、罪の赦しを信じることにつながっているということなのです。
聖霊様が関与してくださっているクリスチャン生活ということで、ここから二つの立派な振る舞いを目指して頂きたいと思います。
1)心の割礼による
(ローマ2:29)
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神からくるものです。」
クリスチャンはもともとユダヤ人たちから始まりました。ユダヤ人はモーセの律法を守ってきた人々です。神に選ばれた民として身にしるしを施すというのが割礼でした。この割礼を、キリストを信じる者たちも受けなければ救われない、というユダヤ教からの教えをクリスチャンたちに強要する人々がいました。
それに対して、割礼という体のしるしが大事なのではなく、アブラハムは割礼を受ける前に神様を信じて義と認められたのだから、大切なのは、心に割礼を持った者の証しとして、体にもしるしとして割礼を施したのだ、というのがパウロの主張でした。
●アブラハムが神を信じたように、神を畏れる敬虔な心が割礼を受けた心である。
神を畏れる敬虔な心を持ったアブラハムに、神様は割礼を施すように命じ、さらに「あなたの家族、あなたの所有している奴隷たち、あなたに関係する男子はすべて割礼を受けなくてはならない」と言われました。つまり、アブラハムのゆえに、アブラハムに所属するもの、アブラハムに付き従う者は、割礼を受けたら、アブラハムのような敬虔な者と神は見てくださったということです。
そのように、神様は、イエス・キリストの義のゆえに、罪人の私たちをも義とみなしてくださいます。
イエス・キリストは、モーセの律法を完全に守り通して、神の御前で心にも行いにも一度も罪を犯したことがない、100%神を敬う完全な義を持たれたお方です。この方を信じる者は皆救われるのです。
アダムという一人の罪によって、全世界の人が罪人となったように、一人の義なる人イエス・キリストによって、それに続く彼を信じる人々は、正しい行いが出来ていなくても、皆、正しい者と見て下さるという「信仰による義」をイエス・キリストは私たちにお与えくださったのです。
神様の本当の願いは、外側の行いを重視するのではなく、神を畏れる敬虔な心があるかないかを一番大事にされます。その心を持った人は行動が正しくなくても、神様は正しい者と認めてくださるのです。
なぜなら、罪の無い方が、私たちの罪のさばきを身代わりに十字架で受けて下さったから、その方を信じるなら、その犠牲のゆえに、私たちはさばきを受けなくてよいと見てくださるという、「信じる者は皆救われる」という神様の救いがイエス・キリストを通して成就したからなのです。
●喜んで聖霊に従う心。
(使徒7:51)
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊にさからっているのです。」
心の割礼(神を畏れる敬虔な心)による立派な行いとは、喜んで聖霊に従う心から起こる立派な行いと言えます。
心に割礼を受けた人とは、喜んで神様のおことばを実行していこうという心を持った人、何度も練習し、失敗しても失敗してもなお、みことばを実行し、出来るようになりたいと思う人です。喜んで神に従う心から出てくることが、人々に尊敬を得るような立派な行いにつながっていくのです。
2)良心のきよめによる
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
●御霊による良心のきよめ
聖霊様の働きを受けて心の割礼を受けている人は、良心がきよめられていくので、だんだん善悪の基準が細かい所まで厳しくなっていきます。そして途中でしんどくなったりしますが、そこで動機を間違ってはいけません。
私たちは神様に喜んで従って、神の子どもという救いの完成に向かって歩んでいるわけですから、罪に気付くということは、きよめが進んでいることのしるしとして、感謝すべきなのです。
そして、信じた時以上に自分の罪深さに気がついて、へりくだっていくのです。
皆さんが神様に近づかなくなったら、良心が鈍ってきます。良心の聖めは一度だけではありません。クリスチャン生活の中できよめられ続けていくのです。
(第2コリント3:18)に、私たちを「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのは御霊なる主の働きである」と記されているように、聖霊様は、イエス様のような良心にまで私たちをきよめようと、私たちを導いてくださるのです。
そういう御霊様との触れ合いを通して、私たちは今は出来ていなくても、いつか必ず出来るようになる、きよくされるという希望をもってクリスチャン生活を歩んでいるということを忘れないようにいたしましょう。
最初からできないと思って何もしなかったら、それ以上きよくなることはできません。練習を怠らずに毎日励むアスリートのように、きよめられることについて命がけで取り組んでいただきたいと思います。
どこまでのレベルを聖められたらいいのかではなく、今現在より少しでもきよくなることを求めて下さい
聖霊様が主と同じ姿にまで私たちを聖めてくださるのですから、それを信じて、今より半歩でもきよくなるようにチャレンジしてください。それが心に割礼を持っている人、良心がきよめられている人の姿勢です。決してあきらめないでください。
●死んだ行いから離れる
良心がきよめられますと、きよめられた程度に応じて「死んだ行いから離れる」ことができます。神様に喜ばれない思いや考え、不敬虔から出てくる行動から離れることができるようになります。
●生ける神に仕える者となる
人は誰かに仕え、愛を注ぎ出し、親切をし、良いことを与えていくことに生きがいを感じるものです。自分のことより、ほかの人のことを考えて善を行なうと、心が晴れやかで清められたような気がします。それが本来、人が持っている神の性質です。神様は与える愛を持たれているように、神に似せて造られた私たちも与えるという喜びをもっているのです。
私たちが神様に与えるものは何もないのですが、神様は私たちが与えるものを喜んで受け止めてくださいます。こころに割礼があり、良心が聖められていることのゆえに、神様は、私たちのささげるものがどんなに小さくても、私たちの与えるこころ、仕える心を喜んでくださいます。
いたらない私たちのクリスチャン生活かもしれませんが、神に仕える心をもって隣人を愛することを中心に歩んでいく私たちの生活を、神様は喜んでくださいます。
自分を愛するように、隣人を愛することを心がけていきましょう。そうすれば、生ける神に仕える歩みとなります。それが周りの人に立派な振る舞いとつながるのです。
ぜひとも、聖められていく聖霊様の働きをしっかり受け止めて頂きたいと思います。
【俳句】
並木道 新樹に御霊の きよめ受く
川沿いの並木道には、一本一本の樹木から新緑の若葉が生え出てきています。
早朝の陽の中に輝く若葉の輝き、新鮮な空気、新緑の葉のもたらす酸素に包まれて、まるで御霊のきよめを受けるような感動を覚えます。
■2021年5月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖徒の交わりを信じる立派な振る舞い up 2021.5.2
主題聖句(使徒5:13〜14)
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。
神を信じて歩む立派な振る舞いが、多くの人々をイエス・キリストのもとに導くことのできる証しとなるということで、「立派な振る舞い」について、使徒信条からシリーズで学んできています。
前回から使徒信条の「我は聖霊を信ず」の項に入りました。
その【1】として「聖なる公同の教会を信じる」というところから、私たちは御霊により、からだのように一つにまとまってキリストとつながっていること、また御霊の住まう神の神殿として一つにされ、そこで礼拝を捧げる者である、という御霊による働きを二つお話し致しました。
今日は、その【2】「聖徒の交わりを信じる立派な振る舞い」と題して、(使徒行伝5章13ー14節)から分かち合ってまいります。
イエス様が昇天された後、弟子たちが祈りと断食をもって、神様の約束のものを待ち望んでいた時、神の御霊が120人の弟子たちの上に注がれて、一人一人の内に神が住まわれるという神様の約束が実現いたしました。
その時からキリストを信じる教会が増え広がっていきました。その素晴らしい初代教会の姿は使徒行伝2章にも書かれてあります。
そのようにキリストを信じて集まる人々を見た「ほかの人たち」は、「この交わりに加わろうとしなかった」けれども、クリスチャンたちを「尊敬していた」と、今日の主題聖句(使徒行伝5:13ー14)に記されています。そして、彼らの信じている神様が素晴らしい神様であることを感じ取って、新たに信じる者が「ますます増えて」仲間に加えられていったとも書いてあります。
神を敬うクリスチャンの交わりが、まことの神、死からよみがえられたイエス・キリスト、唯一の救い主を信じる信仰へと人々を導くきっかけ、証となったのです。
私たちは、個人的には人々に証するような、癒しとか奇跡とか特別な体験は無くても、人々が尊敬するこの交わりの中にいる、共にいるということが大切なことなのです。
群れから離れて一人で信仰生活をするクリスチャンというのは神のみこころではありません。聖霊様は私たちが共にキリストのからだとして神殿として一つになって交わりを持つようにと導いてくださっておられるのです。
「あなたがたは世の光です」と聖書にある通り、何が出来るとか出来ないとかではなく、そこに存在するだけで輝いて見える、そんな交わりの中に生かされ輝いている一人一人であることを忘れないでいただきたいと思います。
この主題聖句のみことばから、聖徒の交わりとはどのように立派な振る舞いなのかを見ていきましょう。
A)敬虔な交わりによる
(第1ヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および、御子イエス・キリストとの交わりです。」
私たちの交わりは、「御父および、御子イエス・キリストとの交わり」ですから、人々に敬虔さを感じさせるような交わりです。
敬虔さとは、一般的に神仏などの超自然的な存在を認め、その存在者が善悪をしっかり見極めて、悪には悪の報いを与え、善には善の報いを与える、というところからくる敬虔さが主にあります。
しかし、私たちクリスチャンの御父、御子、御霊の神への敬虔さは、さばかれるという恐れからの敬虔さではなく、愛してくださっているゆえの敬虔さです。
こんな罪人のために身代わりに苦しんでご自分の命を捨ててくださり、それだけでなく私たちを御国を相続する我が子として受け入れてくださっている神の愛ゆえに、私たちは敬い畏れ信頼し従うのです。
さばきが先ではなく、神に赦され愛されているということが、敬虔な心を持つ一番大きな理由なのです。
ここから、この敬虔な交わりについて、3つのポイントを見ていきましょう。
◎人間同士の交わりではない
私たちの交わりは、神様がいつも共におられることを意識した交わりなので、羽目を外すような交わりや、汚れた交わりはしません。悪い言葉を避けて、相手の徳を高めることのできる、塩味の効いた言葉をもって交わりをします。
神様が共にいてくださるように、集まる時はいつもイエス様の名によって集まりましょう。するとそこに敬虔な心が生み出されてきます。神を必要としない交わりは避けたいものです。
◎三位一体の神を中心とした神の家族としての交わり
神の家族の交わりの特徴は、罪のない交わりではありません。喧嘩もあり、問題もあり、トラブルも起こる、でも皆で解決し、仲直りし、赦しあい愛し合っていく、一人一人が切っても切れない関係のお互いです。家族じゃないのに家族のように無条件で赦し合うことが出来るこの交わりを見て、周りの人たちは敬虔な心を感じるわけです。
◎主を畏れる敬虔な聖い愛の交わり
それは隣人を大事にすることを優先した交わりであり、聖い愛の特徴です。相手が良くなるために、強く健康に健全に成長していくために自分を犠牲にしてでも隣人の成長を優先していく、そんな隣人愛が聖い交わりとして、周りの人々に尊敬を受けるのではないでしょうか。
難しいことですが、私たちは日々、それにチャレンジしていくための歩みをしているのです。「しなければならない」のではなく、「そのようになりたい、そのようにしていきたい」という願いを失わないで、良い交わりを建て上げてまいりましょう。
B)恵みとなる交わりによる
(第2コリント8:3−4)
「私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願ったのです。」
救われた喜びに満たされて、自ら極貧の中にあったにも関わらず、困難の中にあるエルサレムの教会の人々を支援したいと願ったマケドニア地方の教会の貧しい人々のことが記されています。
◎聖徒を「ささえる」というささげる交わり
マケドニアの人々はその資格や能力がないにも関わらず、ささげものをさせていただきたい、聖徒たちを支えるという恵みにあずかりたいと願って、ささげものをしました。
このように、聖徒たちを支えたいと願うささげる交わりが、まわりの人々の目に神を尊び敬う立派な振る舞いと映るわけです。
ささげるのは物質だけではありません。兄弟姉妹の誰かのために、家族のために、時間をとるという、心や時間も立派なささげものです。 心の交わりのための時間を犠牲にしてでも、勉強や仕事をする時間を優先するというのは、本末転倒であり、現代社会の罠ですから気を付けましょう。
◎主を愛する心からの熱心な思いによる交わり
ささげるものが無いにも関わらず、ささげたいという熱意にあふれていたのが、マケドニアの教会の人たちの神に対する姿勢でした。
罪深い自分たちが神の子として永遠のいのちを得たという救いの喜びのゆえに、少しでもささげたいというあふれる愛の思い、これは神様を愛する熱心な愛の思いからしか湧き上がってきません。
「ささげる」「与える」というときに、「力に応じて」にしろ、「力以上に」にしろ、熱心な内面の動機が大切です。
◎「支える」行為ができることは恵みという思い
聖徒たちを支える行為は、義援金にしろ手紙にしろ、「神様がそのチャンスを与えてくださった」「神の恵みだ」と思うと、喜んですることができます。それは恵みなのです。
そのように捉えることができる時、その支える行為、ささげる行為は、周りの人々に立派な振る舞いに見えてくると思います。
内なる心の問題、葛藤を通して、一歩でも近づくことができるように、チャレンジしていただきたいと思います。
聖徒の交わりは、単なるコミュニケーションではありません。「支える」という大事な交わりであります。
【川柳】
あいつどい 一つ御霊の 交わりや
神の臨在のない交わりは空しいものです。一つ御霊による交わりがあることを忘れないように致しましょう。 |