■2021年4月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖なる公同の教会を信じる立派な振る舞い  up 2021.4.25


主題聖句(第1コリント12:13)
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

 

 

 

 

 イエス様が再臨されるにあたって、神を敬わない人々がクリスチャンを見て、つまずいてしまって神様を信じることが出来ない、ということが起こらないためにも、私たちは信じている神様を生活の中で自然にあらわしていく、ということを目標にして進んできております。

 そして今は、私たちがどういう神様を信じているのかという使徒信条の学びをしているところです。
 
 今日は、使徒信条の第二部「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の2回目として『【我らの主】を信じる立派な振る舞い』と題してお話を進めていきます。

 【我らの主】を信じているがゆえの私たちの生活態度や言動である、ということに、少しでも皆さんが自覚を持っていただきたいと願います。
 そこでまず「主」とはどのようなお方なのか、主題聖句(ピリピ2:9−11)から「主」についての2つのポイントを理解しておきましょう。

●我らの主は、最高の権威を表す名を神から与えられた方である。
 天地を造られた創造主であり全能者である神が、これ以上ない最高の権威を表す名を、イエスに与えられた、それほどに尊いお方であるという意味が【われらの主】という言葉の中に表されています。

●「イエス・キリストは主である」と、誰もが認めるほどの権威ある
 名を与えた神がほめたたえられるほどに、我らの主は偉大な「主」である。
 
 すべての者がひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる、それほどの感動をもたらす偉大な力ある名であると、(ピリピ2:10−11)に書かれてあります。
 
 本当にイエス様に出会った人は、「主、主なる神」という偉大さに触れた時、理由なく服することが出来る、そんな体験をいたします。そして【われらの主】と心から告白する人は、主にいのちを預けることが出来るほどに、偉大な権威をお持ちである方だという思いを抱きます。そして、この方を救い主としてお立てになり、またこの方にすべての権威と権力をお与えになった神をほめたたえるようになります。
 そのように、イエス様の再臨の時には、クリスチャンだけでなくノンクリスチャンの方々までもが、再臨の主イエス・キリストの栄光の姿を見て神をほめたたえるようになる、というのが今年の目標聖句、(Tペテロ2:12)のみことばです。
 
 イエス・キリストは【われらの主】であり、最高の権威者、まことの統治者であられる偉大なお方であることを、ぜひ体験し、知っていただきたいと願っております。

A)一人の主人に仕える立派な振る舞い
(ルカ16:13)
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

●一つの心には一人の主人。二人の主人は二心で、罪である。
 主人が二人いたら、二人に同時に等しく仕えることができるのかといえば、そうはいきません。仕えているように見えて、実際はどちらかを優先します。心は一つだからです。

●経済に仕える者が「イエスは主」と言うのは偽りとなる。
 経済に仕えるとは、経済が主人となって、その言いなりになって動かされることです。
 クリスチャンは、神あってこその経済ということに目が開かれる必要があります。
 
 お金がなければ、会堂がなければ、礼拝も集会も献金も出来ないではないかと思うのは、経済という主人に影響された考えです。
 
 私たちは、かつて会堂建設のために借金をいたしましたが、神の栄光のために神が必ず実現してくださると信じて、皆が少しづつ捧げて返済を始めました。不思議な神の助けがあり、また皆さんの生活も守られて、25年間の毎月の返済を終えることが出来ました。

 色々起こる問題も神様のみことばが解決してくださいました。経済(人間的計算)に頼る考えではとても実行できないことでした。
 
 神がそれを広島の人々への証しとしてくださるという御声を聞いて、確信をもって実行できたのです。
 
 神様がなさることは必ず実現する、経済が私たちの人生を支配しているのではない、神が私たちを治めておられるのだと、神を主人として信じて歩んだ25年間でした。
 
 経済が私たちを幸せにするのではなく、私たちの心が幸せをもたらします。すなわち、創造主であり全能者である父なる神を畏れ敬う心が、持ち物による幸せではなく、魂の救いによる幸せを私たちに与えてくださるということであります。
 
 どんな労苦、迫害の中にあっても、私たちが神を敬うことに徹するとき、最後には「そこまで信じることができたら幸せだろうな」とノンクリスチャンの方たちに言われるようになります。神様の前に正義を全うする生き方が最後には勝利するのです。

B)我らの主をかしらとする立派な振る舞い
(エペソ1:20−23)   
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

●「からだ」は「かしら」に素直に従うもの。
 私たちの立派な振る舞いは、からだ(教会)が、かしら(キリスト)に素直に従う、というところにあります。
 良い王様は良い国を建て上げます。良い王に信頼して素直に従う兵士や臣下は幸せです。

●からだの隅々まで、かしらと一つに繋がっている満ち満ちた関係
 私たちの主は、「からだ」の「かしら」のように、「からだ」の隅々までご自分の力を現わして統治しておられるお方です。そのようにして「かしら」と「からだ」が一つに繋がっている満ち満ちた関係が、私たちと神様との関係です。

 なぜそこまで、「かしら(キリスト)」を信頼できるのでしょうか。それは、私たちの罪のために身代わりとしてご自分のいのち、人生を差し出し、その苦しみを受けてくださったからです。自らをもって、救われるべき人々のために、天の栄光を捨てて、人間としてのいのちまでも捨てて、私たちの罪を赦すために、苦しみを受けられた、その心は愛以外にはあり得ません。
 
 一体今までに、世界中のどこに、その愛する民のための身代わりとなって苦しみを受けられた神がいたでしょうか。作り話ではありません。実に数え切れないほどの多くの歴史的文献が、新約聖書のイエスの出来事を証明しています。実際に歴史の中に存在された方を、私たちは「主」として信頼しているのです。このご主人に身を任せても大丈夫という信頼を持って、私たちはその方を「主」と呼ぶのです。

 私たちは、私たちの「かしら」である主イエス・キリストを信じています。「かしら」と「からだ」は一つという関係の中で、私たちは「かしら」の指示、教え、さとしに順じて動いていくときに、それがノンクリスチャンの人々にとっては「立派な振る舞い」と見えてくるわけです。
 今後この世界は、経済を主人とする者と神を主人とする者とに、はっきり分かれる社会環境になることが黙示録に書かれてあります。罪が満ち溢れる世界になり、義人が尊ばれない環境になります。そのとき本当に義人は、それでも神を敬うという神への信頼を示すことができるかどうか、という試みの時期がやってくると、黙示録に預言されています。
 
 罪があらわにされるために、ますます世は暗闇になります。この暗闇に勝つことのできるのは光だけです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」闇の中に巻き込まれない光の子として歩むために、「からだ」が「かしら」に従うように、私たちはイエス様に素直に従っていく、そういう意味の【我らの主】です。

 皆さんが、「主、イエス様」と告白するならば、その「主」という言葉のゆえに、これからきよめられ、試されていくことでしょう。本当の主を見つけ出すことができるように、神はあなたを訓練し試みられるということです。

 今苦しみのなかにある兄弟姉妹がおられるなら幸いです。あなたが本物の光の子であることが証明されるために試みにあっているということですから。
 
 神のことばによって生きることをぜひ経験していただきたいと思います。

 


【短歌】 

神の愛  試練の中に  備えあり
信じて歩む  春のおとずれ

 神様の愛に信頼していれば、どんなに苦しい所を通っていても、必ずそこには備えがあります。まるで、必ず春のおとずれがやってくるように、信じて歩む者にもそのような時が必ずやってきますから、逃げないで、神のみことばを守り続けて参りましょう。

 

 

 

 

 

■2021年4月18日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

主に信頼する立派な振る舞い
異邦人社会におけるキリスト者(3)  up 2021.4.18


主題聖句
(第2歴代誌16:9)
主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

(第1ペテロ3:1〜7)
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

 

 

 

 

2021年4月18日 第一礼拝 横路伝道師メッセージ
『主に信頼する立派な振る舞い』

(第2歴代誌16:9)
「主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
 
 イエス様は、父なる神様と心が一つであられました。それゆえイエス様を通して奇跡をなされました。一つ心とは、深い信頼関係があるということです。その大前提は疑わない心です。

◎ヨシャパテ王から学ぶ (第2歴代誌17〜20章)
 ヨシャパテ王は、イスラエルが南北に分かれた時の南ユダ王国の王様でした。北イスラエルはアハブ王で、評判の悪い王様でした。ヨシャパテ王は、神様に信頼した素晴らしい父であるアサ王に習って、良い政治を行い、良い信仰を表わし、国が強くなっている時代でした。
(第2歴代誌17:3〜4)
「主はヨシャパテとともにおられた。彼がその先祖ダビデの最初の道に歩んで、バアルに求めず、その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかったからからである。」
 北イスラエルのアハブ王は、バアルという偶像により頼んでいましたが、ヨシャパテ王は、父なる神により頼んでいました。
1.「主の目にかなう」ことを行った
A)偶像を国中から除いた
(第2歴代誌17:6)「彼の心は主の道にいよいよ励み、彼はさらに、高き所とアシェラ像をユダから取り除いた。」
 ヨシャパテ王は徹底的に偶像を取り除き、宗教改革をし、神様に従う歩みをしました。

B)主の律法の書を全国民に教えた
「それから彼は、彼のつかさたち、・・・レビ人も同行した・・・祭司たちも同行した。彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」
 ヨシャパテ王は、神の律法を民に教えて回りました。この時代に、とても栄えます。

2.ヨシャパテ王の失敗
 ヨシャパテ王も、失敗をします。聖書は良いことも悪いことも取り上げ、私たちの教訓としています。

A)北イスラエルの王アハブの娘を息子の嫁に迎えた(第2歴代誌18:1)
 息子の嫁に、アハブ王の娘を迎えたことで、彼女が偶像礼拝を持ち込み、将来の王国に悪いことを成していきます。

B)アハブ王に誘われ連合軍で侵略戦争に加担し、敗北した
(第2歴代誌18:3〜4)
 神様の御心よりも人情でアハブ王の言う通りにし、大失敗をします。アハブ王もこの戦争で死んでしまいます。 

C)後に北イスラエルの王アハズヤと同盟を結び船団を作ったが失敗した(第2歴代誌20:35〜)
 神様の御心を聞かずに同盟を結んだ時に、失敗をしました。

3.100万の軍隊との戦い(第2歴代誌20:1〜30)
A)ヨシャパテ王の恐れ
 弱ってきたユダ王国を狙って、ヨルダン川の東側の人々が連合軍を組み、ユダ王国を攻め込んできました。ヨシャパテは非常に恐れました。

B)全国民に断食を布告
 ヨシャパテは今国難の大変な時である、神様の前に断食して祈ろうと、全国民におふれを出しました。

C)主の宮に集まり、民を代表して神に祈った
(第2歴代誌20:12)
「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍にあたる力は、私たちにはありません。私たちとしてはどうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
 ヨシャパテ王は、主の宮に集まり、神様の約束に従ってへりくだり、必死な祈りをしました。

D)神からの預言による励まし  
 その時、レビ人のヤハジエルが預言をしました。
(第2歴代誌20:15〜17)「主はあなあたがたにこう仰せられます。『あなたがたは、この大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。・・・・・しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。・・・・・あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなた方とともにいる。」

E)ヨシャパテ王、奮い立つ
 大いに力づけられた王は、賛美隊を編成し戦いの最前列に賛美隊を進ませました。
(第2歴代誌20:21)
「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾りを着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』」

F)主による大勝利(第2歴代誌20:22〜25)
 ここで奇跡が起きます。神様が伏兵を設けられ、その後敵は同士討ちをし、100万いたという兵士が全滅しました。イスラエルの兵士は誰も失われませんでした。神様が戦ってくださったからです。
 なぜ彼らは勝利できたのでしょうか。彼らは主の言葉に従い、信じて前進したからです。彼らは神を賛美することを第一とし、賛美しつつ敵に立ち向かっていったことが勝利の秘訣でした。

【適用】
1)主の目にかなうことを行う(第2歴代誌17:3)
 主に信頼することが私たちができる立派な振る舞いです。
 ヨシャパテは主に信頼しました。神に助けを求めて、言われる通りにしました。私たちもヨシャパテに習い、まずみことばを知ることが大切だと思います。みことばを知っていないと、本当に神様を愛し敬うことができません。
 また、ヨシャパテは偶像を捨てました。私たちも偶像を捨てなければなりません。むさぼりが偶像礼拝であると聖書は語っています。
(コロサイ3:5)
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」

2)自分の考え(人情と欲)に惑わされないように
*人情の優先(人の知恵に頼り、人を恐れる心)
 ヨシャパテ王は、アハブ王と親戚になり、人情を優先して失敗しました。また、神様に問わずに自分の良いと思うことをしてしまうことも惑わしの原因となります。また、人を恐れる心も惑わしの原因となります。
(箴言29:25)
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」
*隠れた欲(動機を探る)
 良いことをしていると思い、これは神様の役に立つと思ってしていることでも、動機が自己中心であったり、神様に喜ばれない動機であるなら、神様の御心から離れているかもしれません。動機を探ってみる必要があります。

3)主に賛美をしながら前に歩き始める(感謝と喜びをもって信じて行動)
 ヨシャパテは、信じたことを行動しました。賛美をしながら、前進したのです。
*賛美の内に主が住まわれる(主を賛美する時に主がそこにおられる)
 主を賛美する時に、主は臨在してくださいます。信仰がなければ賛美はできません。いつでも、どこにいても賛美をしましょう。
(詩篇22:3)「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」
 マーリン・キャロザーズという賛美の本を書かれた先生がいます。このマーリン師が奥さんと娘さんを連れて、大きなトレーラーに乗って伝道旅行に行っていました。ある時、高速道路ののり面にトレーラーが転がり落ち、荷物も人も投げ出されてしまいました。車は大破しましたが、誰もけがをしなかったそうです。マーリン師は土手に上がって、「ハレルヤ!感謝します。この事故も感謝します!」と大きな声で賛美し、喜んでいたそうです。駆け付けた警察官が、この人は気が変になったのではないかと思ったそうです。
 それから数日して、保険会社から連絡があり、もっと素晴らしいトレーラーが来ることになったそうです。賛美をする時に神様がすべてのことを益と変えてくださるという信仰を私たちも持ちたいと思います。
(ローマ:28)「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 良いことが起きた時だけ神様に感謝するのではなく、悪いことが起きた時にも、その背後に神様の深いご計画があるので、悪いことがあっても感謝するのです。
 私たちには約束のみことばがたくさんあります。

4)真実な主は、多くの約束のみことばもって励ましておられる
〜 神様への信頼は、みことばへの信頼〜(みことばを握ること)〜
(イザヤ43:4)
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(ヨシュア1:5b)「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
(イザヤ41:10)「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」
(イザヤ41:13)「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから。」
 これらのみことばは、神様があなたと共におられるということを言っています。みことばをしっかりと握って信頼していきましょう。今の現状が苦しくても、大変なことがあっても、このことを必ず益としてくださり、最後は祝福してくださると信じて告白し、賛美するクリスチャン生活をし
ていきたいと思います。それは、みことばに信頼し、疑わないことです。
 私たちもヨシャパテにならって、偶像を捨て、みことばに信頼していきましょう。

2021年4月18日 第二礼拝 辻 和希伝メッセージ
『異邦人社会におけるキリスト者(3)』
〜キリスト者の夫婦〜

<第2ペテロ3:1〜7>
「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 教会の年間聖句である第1ペテロ2:12をシリーズで見てきています。今回は三回目として、異邦人社会におけるクリスチャンの夫婦について書かれている箇所を見ていきます。
 
 ペテロは、立派な行いとして夫婦の関係を取り上げています。それは当時、妻は夫に絶対的に服従する立場にあり、奴隷に近い身分だったからです。福音を受け入れない夫だったらなおさら妻が救われることが難しかったのです。それは夫婦に限らず、女性の立場が社会的に弱かったからでもあります。 夫より妻に対しての勧めの記述が多いのもこのためです。
 今回注目したいのは、外面よりも内面的なものに心を向けるということです。これは、見栄を張って外面的にのみ飾り立てることへの戒めです。
 では、内面的なものとは何でしょうか。それは、柔和さ、穏やかさのことを指します。外面も内面もどちらも大切なことではありますが、ペテロはあえて内面を優先することを勧めているのです。それは、いくら外面を着飾ったとしても、内側から出てくるものが良くなければ、証にならないからです。最終的に私たちが異邦人社会で証していく鍵となるのは、内面から出てくる人がらではないでしょうか。

<エペソ3:16>
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」
 これは妻や女性に対してだけでなく、夫や男性にも言えることです。

<ガラテヤ>
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」

 現代は、性別に関して発言しにくい世の中です。違いがあることが差別と捉えられてしまう世の中です。しかし、神様は男性と女性に違いを持たせました。それぞれに役割を持たせました。そのことはきちんと理解しておく必要があると思います。

 互いに愛し合う実践の一例として、夫婦の関係を参考に、聖書における神様の定めた男性と女性の役割を正しく理解し、人間的な優劣基準に惑わされないように歩み、敬虔な姿勢で生活していくことで、周りを救いに導く使命を果たしてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2021年4月11日 日曜礼拝メッセージより(辻百合子牧師、辻マリア伝道師)

エレミヤ書から 霊的春の訪れ  up 2021.4.11


主題聖句(エレミヤ1:11)
次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

 

 

 

 

第1礼拝
●辻 百合子牧師によるメッセージ 
 
  今日はエレミヤ書の中から、神の霊的春の訪れを見ていきたいと思います。
 
 先週はイースターでした。その前は受難週でしたが、イエス様が復活されたイースターを迎えることを通して、素晴らしい神の霊的春の訪れの解放を得ることができたと思います。 
 桜の花は少しの間しか咲きませんが、その少しの間の花が咲く時を私たちはどんなに待ち望んでいたかと同様に、霊的解放がなされる事を心から待ち望んでいます。

1.アーモンドの花 「速やかなる事の象徴」
 日本では春を告げる花は、梅や桜ですが、イスラエルにおいて早春を告げる花は、アーモンドの花です。アメンドウの花とも言われています。
 
 このアーモンドの花の意味は、「速やかなる事の象徴」です。早春に咲いて春を告げ知らせ、この一年何が起こるのかという素晴らしい期待がそこにあります。
 
 エレミヤ書の中に、罪・裁き・回復の良き訪れを告げるメッセージが盛り込まれています。今の世の終わりの時代にあってもそこから教えられることがたくさんあります。人々の悪が増し、地も荒れ果て、鳥も野の獣も絶え果てていくという状況が起こってきますが、それは人々の罪のためであると記されています。
 
 神は預言者を送り、悔い改めてもう一度神に立ち返るようにとメッセージを語って下さるのですが、人々は自分勝手にさまよい歩き、神の方に帰ってこようとしないばかりか、更に悪の方向に向かっていきます。

 神は悔い改めを迫られるのですが、人々は自分の欲望や利得にますます進んでいき、神の裁きの時が近づくことを速めてしまいました。
 
 それでも神は、「今立ち返って悔い改めるなら、この地に裁きは起こらない」と言われ、あわれみをもって神のもとに、心から立ち返ることを願って忍耐して待って下さっています。「それでも悔い改めないなら、その裁きは確定する事になる」と言われました。
 
 実際に今から何千年も前に、イスラエルに剣が襲い、ききんや疫病が蔓延していくという出来事が起こりました。これは世の終わりに立っている私たちに対して警告であると思います。

 今も世界では、ききんや戦争や疫病が起こってきています。それは人々の罪のゆえであると、聖書ははっきりと語っています。
 
 神はイスラエルの民に対して、裁きの後に回復を与え、神の子としてもう一度やり直すというチャンスを与えて下さいました。私たちの神はあわれみ深く、私たちを幸せにして下さるお方であるということがわかります。
 
 アーモンドの花は「速やかなる事の象徴」で、良い事であっても悪い事であっても速やかに起こってくるということの象徴です。

(エレミヤ1:11)
「次のような主のことばが私にあった。『エレミヤ。あなたは何を見ているのか。』そこで私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』」

 エレミヤは幻でアーモンドの枝を見ました。それに対して神は、「わたしは今、わたしの言葉が速やかに実現することを見張っているのだ」と言われます。

2.神の裁きの到来が早まる。
(エレミヤ9:25−26)
「見よ。その日が来る。―主の御告げ― その日、わたしは、すべての包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」

 神がアブラハムと契約を結ばれた時に、「神の民」とされた“印”として「割礼」を受けなさいと言われました。しかし、このみことばには「包皮に割礼を受けている者を罰する」とあります。それは、神は肉体に形だけの割礼を施すのではなく、私たちの心の中の肉を完全に切り捨てるという割礼を受けて欲しいと願っておられるからです。

(1)包皮に割礼を受けている者
・自己義
 包皮に割礼を受けているとは、「私は正しい者だ」と自己義を表明していることです。また、割礼を受けていることによって、自分の肉を誇っていくということです。
 私たちには誇るところは何もありません。そのように無きに等しい者を神はあえて選んで下さいました。自己義は高慢と誇りの表われです。神は高ぶりを罰せられます。

(2)無割礼の者
・神を畏れない心
 無割礼の者とは、神との契約を無視する神を畏れない者の事を言います。神をあざけり無視し、侮る者に対して神の裁きがやって来ます。

(3)心に割礼を受けていない者
・肉に執着
 割礼の霊的な意味は、私たちの心の肉を切り捨てることです。この心の割礼は、御霊によって受けることができます。聖霊様が私たちの心の中を深く探ってくださり、神に反する肉の欲望や汚れを見つけて洗い流し、聖めて下さるのです。しかし、この御霊の働きを受け入れないなら、肉に執着し、神より自分の肉の欲望に生きることを選ぶ者となるのです。

3.自由意志による選択
(エレミヤ21:8)
「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。』」
・いのちの道
(エレミヤ26:3)
「彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。」
 
 神の言葉を聞いて立ち返り、悪い行いを全部捨て去って神に従っていくということが、いのちの道です。すなわち、イエスを主とし、そのお言葉を第一として神の国とその義を求めて生きていくことがいのちの道なのです。

 いのちの道は、肉を捨て去り、神のみことばを選んでいく道なので、肉はすごく嫌がります。肉は自分の考えを神の上に置き、都合の良い所だけ取って行こうとします。

 しかし、神は憐み深く、私たちが何度もやり直すことができるようにと、イエス様が十字架で死んで下さいました。私たちは罪を悔い改めて立ち返るならば、神は赦して、イエス様の御姿に成長できるように聖霊様が助けて下さるのです。

・死の道
(エレミヤ26:4−6)
「だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず。あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、わたしがあたながたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、−あなたがたは聞かなかった−わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」

 死の道を選び続けたイスラエルの民にこのみことばが現実に起こりました。バビロンから軍隊が来て、エルサレムの町は焼かれ、神殿の器具も全部バビロンに持って行かれました。イスラエルの民はバビロンに奴隷として連れていかれました。エルサレムの町は一時廃墟となりました。

4.裁き後の回復の預言
(エレミヤ29:12−14)
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。−主の御告げ−わたしは、あなたがたの繁栄を元通りにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。−主の御告げ−わたしはあなたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
 
 しかし、神は70年が満ちた時にもう一度彼らをイスラエルの地に返すという憐み深い預言を約束として与えて下さいました。罪は懲らしめられますが、滅ぼしてしまうことはされませんでした。
 
 いのちの道と死の道の選択は自由意志によります。イスラエルの民が捕囚となり、神の裁きを受けた後も、そこでへりくだり悔い改め、いのちの道を選択するなら、神は回復の預言を与えて下さいました。

 神は憐み深く、もう一度神の道に立ち返るようにと何度もチャンスを下さる神です。今私たちは神に愛され、罪を赦されているのですから、互いに赦し合うことを神は心から願っておられます。 

5.新しい契約を結んでくださる
・律法を心に書きしるす (エレミヤ31:33−34)
 モーセの時の十戒は、神の指で石の板に書かれました。しかし民はそれを守ることができませんでした。もう一度神は新しい契約を結んで下さいました。その契約は、もっと深く霊的意味を悟ることができるようにと与えられました。
 
 十戒の前半は神を愛すること、後半は人を愛することです。新約の中でイエス様が言われた一番大切な戒めは、神を愛すること、次に隣人を愛することでした。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。−主の御告げ−わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。−主の御告げ−わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 これはどうして言えるのでしょうか。それはイエス様が私たちの罪の身代わりとして、いけにえの小羊となって神の前に出て下さったからです。十字架でご自分の命を捨てて、私たちをサタンの支配から解放し、罪から贖い、神の子として受け入れ続けてくださり、罪を赦して二度と思い出さないと言われているからです。

・生ける神の御霊によって心の板に書かれる。
(第2コリント3:3)
「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」
 
 御霊によって心の板に書かれるとは、実際に愛する心が生まれてくるのです。人々を赦す心が生まれてくるのです。
 
 神の愛の律法が信じる私たちの心に書かれています。私たちの内に書かれた愛は、始めは小さいかもしれませんが、大きく成長していきます。その愛は、聖霊が心に注がれることにより、心の中に生まれ育っていきます。

6.愛の律法と福音
(エレミヤ29:11)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
 
 若い時に私たちを負って下さった神は、年老いた今に至るまで決して見捨てず負ってくださり、愛の慰めと励ましをいつも与えて下さる事により、未来への希望を持ち続けることができます。それこそが私たちにとって春の霊的訪れとなるのです。私たちはその福音にふさわしく生きていきたいと思います。

 春の霊的訪れはイースターです。イースターは、過ぎ越しの祭りの中の3つ目の祭りです。
 
 この過ぎ越しの祭りは、(1)「過ぎ越しの祭り」 (2)「種を入れないパンの祭り」 (3)「初穂の束を揺り動かす祭り」の3つがあります。イースターはこの3番目の初穂の束を揺り動かす祭りです。これらの祭りは3つで1つの祭りとなっています。

(1)過ぎ越しとは、エジプトでイスラエルの民が、いけにえの小羊の血を流して家の柱とかもいに塗り、その夜死の使いが通った時に、その血が塗られている家々の血を見て過ぎ越して行き、災いから守られたという出来事でした。これは私たちの罪のために十字架で死んで下さったイエス様の血潮によって、私たちを裁こうとする死の使いから守られるということです。
 
 イエス様を信じるということは、心にイエス様の血潮が塗られ、正しい良心を備えて生きることです。その人に対して裁きは永遠に起こりません。死から免れる事が出来るのです。
 
(2)種を入れないパンとは、その祭りの期間イスラエルの民はパン種を入れないパンを食べました。

 パン種とは罪のことです。種を入れないパンとは、罪が家の中から取り除かれ、全く見当たらないということです。

 パン種がないとは、私たちの罪の為、イエス様が十字架で死んで葬られ、三日三晩よみに下られ、罪の処分を完全にして下さったということです。罪の報酬は死です。それを身代わりに受けて下さいました。故に罪は私たちに全くない、裁きが終わった事の印です。

(3)そして、初穂の大麦の束を揺り動かして神の前にお捧げするのですが、その霊的意味は、三日目にイエス様は死人の中から初穂としてよみがえられました。すなわち初穂の束をささげるということです。私たちはこの復活を記念して、イースターを祝うのです。春の霊的訪れの最大の喜びと解放の時を味わい感謝するのです。

※血を塗り、肉を食べ、イスラエルの人々がエジプトを脱出した日が、過ぎ越しにあたります。私たちも、サタンの奴隷の手から解放されて、新しい人生に向かって、即ち約束の地である天を目指して帰っていくことができるのです。

※この過ぎ越しの祭りの中には春の霊的訪れ、即ち福音があります。福音とは、イエス・キリストの死と葬りと復活を信じることです。福音にふさわしく生きるとは、イエス様と共に古き人に死に、神と共に生きる人生を日々選んでいくということです。

 神は私たちを本当に愛し、赦し、素晴らしい将来と希望を今私たちの前においてくださっています。新しい天と地、死人のよみがえり、体が新しく霊の体に造り変えられ、神と共に引き上げられるという素晴らしい救いの望みを与えて下さったことを心から感謝致します。

 イスラエルで春の訪れを告げる「アーモンドの花」は、イエス・キリストの復活により、私たちを罪と呪いと死の裁きから完全に解放し、将来と希望を与える「霊的春の訪れ」を速める印です。

 

第2礼拝
●辻 マリア伝道師メッセージより

主題聖句
(イザヤ43:7)
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

テーマ
『クリスチャンとして神の前に生きる大切な価値観とは』 

 私たちがクリスチャンとして神の前に生きるための大切な価値観とは何でしょうか。その価値観が確立されていくなら、たとえこの世で迷わされるようなことがあったとしても、必ず主ご自身を見出す生き方を選択することができるようになります。そしてその姿が世の人への証しにもなるのです。

 (イザヤ43:7)には、神の素晴らしさを現わす器として私たちは造られた、と記されてあります。この自覚が薄いと信仰の歩みも中途半端になり、いつのまにか、この世と調子を合わせてしまい、更には自分の栄光を求めていくような罠に陥ってしまいます。

(詩篇66:10)
「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。」
 
 この聖句から、私たちが本当に主の栄光を現すための人生を選んでいるのかがはっきりわかるために、主はあえて試練や問題の中に私たちを置かれるということがわかります。
 
 聖書の中にも、そのように試され練られたヨセフの物語があります。
(使徒の働き7:9−10)
「族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる艱難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で、恵みと知恵をお与えになったので、パロは彼をエジプトと王の家全体を治める大臣に任じました。」

 家族に妬まれ裏切られ、エジプトでは奴隷とされ、冤罪で牢に入れられ、助けた人には忘れられてしまうという、苦難続きの人生でしたが、ヨセフは人と調子を合わせてうまく世渡りする保身の人生ではなく、神だけに聴くことを学ぶ人生を選び取りました。

 だからこそ、主がいつも彼とともにおられ、生きた神を証し出来、最終的には祝福される人生へと導かれました。神中心の人生という価値観を明確に持っていたヨセフでした。

 私たちは些細なことで悩み、些細なことで世の価値観に惑わされ、世を選んでしまうような弱さを持っています。

 昔、私(マリア伝道師)の親友の結婚式とチャーチスクールの運動会が重なり、どちらを選ぶかという大変悩ましい出来事がありました。
 
 しかし、「神の家族が集まるその日に、キリストのからだの一部であるあなたが、そのからだから出て、自分の好きなことをしに行くのは、神を信じる者としての生き方ですか。」という両親の指摘により、自分は神のためでなく、自分のために生きようとしていることに気付かされました。自分がどちらに価値を置いて歩んでいくのかを、そこで選択することが、神の前に生きる大切な価値観であると教えられました。

 主は私たちの大切な価値観が何であるかを調べ、それが本物になるようにと試練を与えられます。私たちは、試練や問題がない限り、神の前に生きる価値観を確かにすることはできません。
 
 神は、些細なことを用いて、私たちを練りきよめて下さいます。その些細な事に「試練だ」と気付いて、そこで自分は何に価値を置いているのかを改めて知って、神の前に選択していくということが大切です。

 私たちは神の素晴らしさを現わす器として造られ、神の栄光を現わす存在として生きる者なのです。

 それから、先ほどの親友に断りの返事をした時ですが、「むしろ辻ちゃんが教会以外のものを取ったら信用を無くすかも」と彼女に言われました。この世の人たちも、私たちの神への信仰が本物であるかを見ているのです。この人はクリスチャンとして何を選択するのか、どんな生き方をする人なのか、実は私たちが思っている以上に世の人は見ています。私たちは見られている、ということを意識して頂きたいと思います。 
 ある時は世の歩みに同調し、ある時はクリスチャンの歩みになり、というのでは、おとずれの日に、私たちの回りの人が主をほめたたえるということは無いのではないでしょうか。キリストの名に恥じない生き方を目指していく必要があります。

 今日の主題聖句(イザヤ43:7)を、リビングバイブルでは「私を神として礼拝するものは皆集まってくる。私はそのような人たちをわたしの栄光のために造った」と訳されています。今礼拝している皆さん一人一人が、主の栄光のために造られた存在であると、語られているのです。

 私たちは神に造られた器として、主の栄光を現わす生き方が出来ているのかというところを自分自身に問うて、自分自身が主に向き合っていくということが大切です。
 私たちの振る舞い、言葉、考え、心のすべてが神中心になっているのか、そのことを自分自身に問うて、「まだ出来てないなあ」と思われるなら悔い改めて、もし進んでいた方向が間違っていると気付いたら方向転換をしていきましょう。
 
 悔い改めが本物であるかどうかは、それにふさわしい実を結んでいるかでわかります。

(ガラテヤ5:22−23a)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
 
 この実を結ぶことが私たちの悔い改めを確かにしていきます。「御霊の実」ですから、聖霊様の助けなしでは、私たちの力でこの実を結ぶことは出来ません。
 
 ぜひ、日々聖霊様と交わり、私たちの考え、思い、言動すべてが主の栄光を現わすものになるようにと祈り求め、悔い改めて助けを導いていただく中で、その実をならせていく、これが私たちの日々の歩みだと思います。
 
 今週のテーマの質問「クリスチャンとして神の前に生きる大切な価値観とは」、言い換えるなら「あなたの大切な価値観は、神のために生きることですか。それとも、自分のしたいように生きることですか。」
 
 この価値観が明確であれば私たちの選択に迷いはおこりません。迷っても間違えても、悔い改めてやりなおすことができます。それが本当に感謝なことだと思います。
 
 主はすべての人を愛し、すべての人が主の栄光を現わすことが出来る者として私たちをお造りになられました。だから出来るのです。そこに信仰を働かせて、主を信じ主を愛して生きるならば、一人ひとりが尊い器として神に用いられる存在であることに自信を持って頂きたいと思います。
 
 私たちの歩みが周りのすべての人たちに証しとなって祝福の基となるように、お互いに励まし合いながら祈り合いながら歩んでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2021年4月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

「我らの主」を信じる立派な信仰  up 2021.4.4


主題聖句(ピリピ2:9〜11)
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

 

 

 

 イエス様が再臨されるにあたって、神を敬わない人々がクリスチャンを見て、つまずいてしまって神様を信じることが出来ない、ということが起こらないためにも、私たちは信じている神様を生活の中で自然にあらわしていく、ということを目標にして進んできております。

 そして今は、私たちがどういう神様を信じているのかという使徒信条の学びをしているところです。
 
 今日は、使徒信条の第二部「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」の2回目として『【我らの主】を信じる立派な振る舞い』と題してお話を進めていきます。

 【我らの主】を信じているがゆえの私たちの生活態度や言動である、ということに、少しでも皆さんが自覚を持っていただきたいと願います。
 そこでまず「主」とはどのようなお方なのか、主題聖句(ピリピ2:9−11)から「主」についての2つのポイントを理解しておきましょう。

●我らの主は、最高の権威を表す名を神から与えられた方である。
 天地を造られた創造主であり全能者である神が、これ以上ない最高の権威を表す名を、イエスに与えられた、それほどに尊いお方であるという意味が【われらの主】という言葉の中に表されています。

●「イエス・キリストは主である」と、誰もが認めるほどの権威ある
 名を与えた神がほめたたえられるほどに、我らの主は偉大な「主」である。
 
 すべての者がひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる、それほどの感動をもたらす偉大な力ある名であると、(ピリピ2:10−11)に書かれてあります。
 
 本当にイエス様に出会った人は、「主、主なる神」という偉大さに触れた時、理由なく服することが出来る、そんな体験をいたします。そして【われらの主】と心から告白する人は、主にいのちを預けることが出来るほどに、偉大な権威をお持ちである方だという思いを抱きます。そして、この方を救い主としてお立てになり、またこの方にすべての権威と権力をお与えになった神をほめたたえるようになります。
 そのように、イエス様の再臨の時には、クリスチャンだけでなくノンクリスチャンの方々までもが、再臨の主イエス・キリストの栄光の姿を見て神をほめたたえるようになる、というのが今年の目標聖句、(第1ペテロ2:12)のみことばです。
 
 イエス・キリストは【われらの主】であり、最高の権威者、まことの統治者であられる偉大なお方であることを、ぜひ体験し、知っていただきたいと願っております。

(A)一人の主人に仕える立派な振る舞い
(ルカ16:13)
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

●一つの心には一人の主人。二人の主人は二心で、罪である。
 主人が二人いたら、二人に同時に等しく仕えることができるのかといえば、そうはいきません。仕えているように見えて、実際はどちらかを優先します。心は一つだからです。

●経済に仕える者が「イエスは主」と言うのは偽りとなる。
 経済に仕えるとは、経済が主人となって、その言いなりになって動かされることです。
 クリスチャンは、神あってこその経済ということに目が開かれる必要があります。
 
 お金がなければ、会堂がなければ、礼拝も集会も献金も出来ないではないかと思うのは、経済という主人に影響された考えです。
 
 私たちは、かつて会堂建設のために借金をいたしましたが、神の栄光のために神が必ず実現してくださると信じて、皆が少しづつ捧げて返済を始めました。不思議な神の助けがあり、また皆さんの生活も守られて、25年間の毎月の返済を終えることが出来ました。

 色々起こる問題も神様のみことばが解決してくださいました。経済(人間的計算)に頼る考えではとても実行できないことでした。
 
 神がそれを広島の人々への証しとしてくださるという御声を聞いて、確信をもって実行できたのです。
 
 神様がなさることは必ず実現する、経済が私たちの人生を支配しているのではない、神が私たちを治めておられるのだと、神を主人として信じて歩んだ25年間でした。
 
 経済が私たちを幸せにするのではなく、私たちの心が幸せをもたらします。すなわち、創造主であり全能者である父なる神を畏れ敬う心が、持ち物による幸せではなく、魂の救いによる幸せを私たちに与えてくださるということであります。
 
 どんな労苦、迫害の中にあっても、私たちが神を敬うことに徹するとき、最後には「そこまで信じることができたら幸せだろうな」とノンクリスチャンの方たちに言われるようになります。神様の前に正義を全うする生き方が最後には勝利するのです。

B)我らの主をかしらとする立派な振る舞い
(エペソ1:20−23)   
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

●「からだ」は「かしら」に素直に従うもの。
 私たちの立派な振る舞いは、からだ(教会)が、かしら(キリスト)に素直に従う、というところにあります。
 良い王様は良い国を建て上げます。良い王に信頼して素直に従う兵士や臣下は幸せです。

●からだの隅々まで、かしらと一つに繋がっている満ち満ちた関係
 私たちの主は、「からだ」の「かしら」のように、「からだ」の隅々までご自分の力を現わして統治しておられるお方です。そのようにして「かしら」と「からだ」が一つに繋がっている満ち満ちた関係が、私たちと神様との関係です。

 なぜそこまで、「かしら(キリスト)」を信頼できるのでしょうか。それは、私たちの罪のために身代わりとしてご自分のいのち、人生を差し出し、その苦しみを受けてくださったからです。自らをもって、救われるべき人々のために、天の栄光を捨てて、人間としてのいのちまでも捨てて、私たちの罪を赦すために、苦しみを受けられた、その心は愛以外にはあり得ません。
 
 一体今までに、世界中のどこに、その愛する民のための身代わりとなって苦しみを受けられた神がいたでしょうか。作り話ではありません。実に数え切れないほどの多くの歴史的文献が、新約聖書のイエスの出来事を証明しています。実際に歴史の中に存在された方を、私たちは「主」として信頼しているのです。このご主人に身を任せても大丈夫という信頼を持って、私たちはその方を「主」と呼ぶのです。

 私たちは、私たちの「かしら」である主イエス・キリストを信じています。「かしら」と「からだ」は一つという関係の中で、私たちは「かしら」の指示、教え、さとしに順じて動いていくときに、それがノンクリスチャンの人々にとっては「立派な振る舞い」と見えてくるわけです。
 今後この世界は、経済を主人とする者と神を主人とする者とに、はっきり分かれる社会環境になることが黙示録に書かれてあります。罪が満ち溢れる世界になり、義人が尊ばれない環境になります。そのとき本当に義人は、それでも神を敬うという神への信頼を示すことができるかどうか、という試みの時期がやってくると、黙示録に預言されています。
 
 罪があらわにされるために、ますます世は暗闇になります。この暗闇に勝つことのできるのは光だけです。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」闇の中に巻き込まれない光の子として歩むために、「からだ」が「かしら」に従うように、私たちはイエス様に素直に従っていく、そういう意味の【我らの主】です。

 皆さんが、「主、イエス様」と告白するならば、その「主」という言葉のゆえに、これからきよめられ、試されていくことでしょう。本当の主を見つけ出すことができるように、神はあなたを訓練し試みられるということです。

 今苦しみのなかにある兄弟姉妹がおられるなら幸いです。あなたが本物の光の子であることが証明されるために試みにあっているということですから。
 
 神のことばによって生きることをぜひ経験していただきたいと思います。


【短歌】 

神の愛  試練の中に  備えあり
信じて歩む  春のおとずれ

 神様の愛に信頼していれば、どんなに苦しい所を通っていても、必ずそこには備えがあります。まるで、必ず春のおとずれがやってくるように、信じて歩む者にもそのような時が必ずやってきますから、逃げないで、神のみことばを守り続けて参りましょう。

 

 

 

 

 

■2021年3月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

「その独り子」を信じる立派な信仰  up 2021.3.28


主題聖句(ヨハネ1:14)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

 

 

 

 今、使徒信条から3つの部分に分けて学んでいます。前回まで3週続けて「天地の造り主全能の父なる神を信じる」から学びました。

 今日から始まる第2部の学びは、三位一体の教えに入っていきます。

 その中心の教えは、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」です。「その独り子」と「我らの主」と「イエス・キリスト」の3つの区切りがあります。今日は「その独り子」から学びます。

 中心のみことばは(ヨハネ1:14)です。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

A)独り子としての栄光
◎神の栄光を100%表された、100%の人間はただお一人。
 神のご性質と人間のご性質ふたつを完全に持ち合わせた方、こういう御方は全宇宙で独り子であるイエス・キリストただお一人しかおられません。

◎人間の本来の姿
 神が人となった姿ですから、人間の本来あるべき理想の姿と言えます。なぜなら創世記で私たちは神の形に似せて造られたとあるからです。つまり私たちを見るということは、私たちの親である神を見ているとも言えます。

 私たちがここに存在しているということは、私たちを造られた父なる神の存在もそこにはっきりと証明されているということです。ですから人の本来の姿、神の形に似せてつくられた私たちの目標は、完全な神と人間のご性質をもたれる唯一の御方である独り子なるイエス・キリストのようになるということです。

 神は創世の最初からご自分が人の形となり、いずれご自身をこの地上に表すことを目的とされ、同じように私たちが神の子として育ち、この神ご自身であるイエス・キリストを手本として、完成されていくようにという計画を持っておられたことが、創世記とこのヨハネ伝からわかります。

◎だから(第1コリント6:20)が立派な振る舞いとなる。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
 代価を払うというのは、罪人である私たちの罪の精算のためにご自身の命をもって贖ってくださったということです。ご自身の命と苦しみをもって罪の代価を払ってくださったのです。それは計り知れない私たちへの愛と憐れみゆえです。自分が創造したものを命をもって買い戻すなど誰ができるでしょうか。
 
 私たちは造られたものであり被造物にすぎないのに、神は造り変えることもせず、もう一度生かしたいと切なる愛をもって十字架で贖ってくださったのです。ですから、その愛に応えて、自分の身体をもって神の栄光、素晴らしさを表しなさいと、このみことばは語っています。

 どのように神の栄光を表すかは、福音書にあるイエス・キリストの歩みを通して、ぜひ学んでチャレンジしてください。

 何度でも失敗しながらでもやり続けてください。私たちは罪人だったのですから、失敗や挫折も当たり前です。不可能を可能としてくださる神が成長させてくださると信じて、あきらめずに挑戦し続けましょう。

 私たちは愛されている子として、父なる神から訓練されているのです。ですから私たちの人生はすべて父なる神様のご配慮であり、永遠の命に至るためのものであると分かります。

 そして、その模範となるべき独り子をこの地上にイエス・キリストとして送ってくださったのですから、あきらめずに挑戦していくこと事態が、成長になります。私たちはこの独り子イエス・キリストと同じ姿になるという計画を全能なる神が自ら計画してくださっているのですから、私たちの父なる神に期待して、この人生を歩んでいきましょう。

B)私たちの間に住まわれた
◎この世で人として生活された神
 イエス様が奇跡を表された時はご自分のためではなく、貧しい人や病んでいる人、悪霊に苦しめられている人々のためでした。
 ですから、私たちは自分のために神の力を使うのではなく、隣人のために自分に与えていただいた賜物を生かしていくことが目指すべきことです。

 イエス様は石をパンに変えることもできましたが、そうはされませんでした。また、何の乗り物にも乗らずに、長い道程を歩き続けられました。ご自身のためには何の贅沢もされず、人として慎ましく、不自由な生活をされたのです。

◎神のことばによって生きることが可能であることを証明されました。
 世の中では、そんなまじめな考えでやっていける訳がないと、皆さんは言われたことがないでしょうか。私は献身する前に、仕事の師匠から言われました。しかし、フルタイムの献身をした時、師匠は、口先だけでなく生活をかける決心をした私に、称賛のことばをかけてくれました。
 そのように、信じたとおりに生きることができるという証明を通して、私が信じている神様は本当におられるのだなと理解していただけました。

◎だから(マタイ4:4)が立派な振る舞いとなる
 これは申命記から引用されたイエス様のサタンの誘惑に対して言われたことばです。
「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』とある。」

 独り子を信じている信仰からでてくる立派な振る舞いとは、人はパンだけで生きているのではないということばで表されます。

 経済も必要ですが、それを最優先すべきではない、神の口から出る一つ一つのことば、私たちの霊や魂、心を養っていただかないと無意味であるということです。

 どんなに優秀な医者であっても、もし人格ができていなかったら、信頼することはできないでしょう。陰で何か悪いことをしているのではないかと疑ってしまいます。

 貧しくても人格ができている人は与えられた環境で満足し、幸せに暮す心の知恵が与えられています。

 どんな時でもお金につられないように気をつけましょう。お金はむしろ自己中心の欲望を引き出します。

 人間の価値は人格にあるとは誰でも認めることです。そこから出てくることばや言動が大切です。神のことばを信じる人格を通して、イエス・キリストを信じる素晴らしさを人々に証ししていけるのです。
私たちは信じている神のおことばに従順に従っていきたいものです。

【 結 論 】
ことばが人となった神の独り子を信じることは、彼が私たちの本来の姿であり、生き方であると認めることである。
だから、人となられた神の独り子を模範とすることが立派な振る舞いとなる。
 
 福音書をよく読みましょう。福音書の出来事の中から聖霊様を通して啓示や悟しを与えていただけます。
 
 神の独り子を模範とするとは、聖書では、「弟子になる」と表現しています。後はみなさんが、具体的にイエス様をどのように模範としていくのか、それぞれ求めて完全な神の子となるように成長していきましょう。

【短歌】
信仰の 蒔かれた種は 時至り 
主の憐れみに 桜咲く春

 桜が季節が来ると咲くように、与えられた神のことばが咲く時が、必ず来ると信仰をもって歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2021年3月21日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

小さい者たちへの愛
異邦人社会におけるキリスト者(2)   up 2021.3.21


主題聖句
(マタイ25:40)
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

(第1ペテロ2:18〜25)
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。 善良で優しい主人に対してだけでなく、 横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、 神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

 

 

 

 

 最後の審判の時に、神様に選ばれて天の御国に導かれる羊の群れと、そうでないヤギの群れとに分けられます。その条件の一つに、最も小さい者たちのひとりに親切をすることであるとみことばにあります。
 
 神様が喜ばれるのは、本当に助けの必要な人に対して憐みをもって愛の助けをすることです。それが、今年の目標聖句の「あなたがたの立派な行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになる」ことだと思います。
 

 今日はその具体的な例として、有名な宮沢賢治の詩の中から見ていきたいと思います。

 宮沢賢治は若くして死ぬのですが、その遺品の手帳の中に書いてあったこの詩が非常に素晴らしくて有名になりました。

A)「雨にも負けず」から学ぶこと(宮沢賢治の詩から)

 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けない
 丈夫な体を持ち 欲はなく 決して怒らず
 いつも静かに笑っている
 一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
 あらゆることを自分を勘定に入れず よく見聞きし
 分かり そして忘れない
 野原の林の下のかげの 小さなかやぶきの小屋にいて
 東に病気の子供がいれば 行って看病してやり
 西に疲れた母がいれば 行ってその稲の束を負い
 南に死にそうな人があれば 行って怖がらなくてもよいと言い
 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず
 そういうものに 私はなりたい

 宮沢賢治は熱心な仏教信仰者でありましたが、真理を求めていた彼が、クリスチャンの斎藤宗次郎さんの生き方を見て、「そういうものに私はなりたい」と書いたと言われています。

B)斎藤宗次郎の生涯(岩手県花巻市出身1877〜1968)
 〜試練と苦しみの中での立派な振る舞い〜 
 彼はお寺の三男として生まれ、斎藤家の養子になります。学校の先生になるため師範学校を出ました。彼は仏教の探究者でしたが、入院している時に聖書を読み、23歳の時に宣教師から洗礼を受けました。当時日本は軍国主義の時代で、その中でキリストを信じることは迫害を受ける時代でした。
 
 彼は内村鑑三の本を読み、人殺しのための戦争をしてはいけないという教えに共鳴して、そのように自分も生き、学校の先生なので子どもたちにもその教えをし、教員を免職されてしまいます。
 
 その頃、彼の長女がクリスチャンということで学校でいじめにあい、それが元で腹膜炎を起こして数か月後に亡くなり、奥さんもその後病気で亡くなってしまいます。
 
 彼は新聞の取次店をしていました。早朝から20s位の新聞をかついで40q位歩いて新聞を配っていました。その合間に色々な情報を得て、弱っている人たちを訪問して励ましたり助けたりしました。それがこの詩にあります。地域に溶け込んで、悲しむものと共に泣き、共に喜んだ人です。
 
 彼は、質素で勤勉な方でした。毎日祈って聖書を読んでいました。少し歩いては祈り、また歩いては祈っていたと言われています。彼は70年も日記を書いていて、現在本となって出版されています。宮沢賢治とは、新聞の集金に行った時に良き交流を持っていたそうです。
 
 やがて内村鑑三が年を取って助けが必要になった時にお声がかかり、彼のお世話をするために東京に行くことになりました。彼が出発する時に、町長を始め、町の有力者を含め、多くの人々が見送りにきました。約200人も見送りに来たそうです。彼のキリスト者としての立派な振る舞いを見て、人々が彼を尊敬していたということがはっきりとわかります。彼の小さい者に対する愛の行動に感動したのです。

C)適用
(1)私たちができる小さな立派な振る舞い
(ルカ6:36)
「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」 
 私たちができる立派な振る舞いとは何でしょうか。それは、言葉だけではなく愛を実行すること、あわれみと思いやりを持っていること、思いと行いに聖さを保っていること、自分のできることを忠実、誠実にすること、主にあって謙遜であること、感謝と平安があること等があると思います。

(2)具体的に私たちにできることは何か
 具体的に私たちができることは何かを考えてみましょう。
 毎日みことばを読み、主の御心を知ること、礼拝すること、集会に出席すること、賛美と感謝をすること、共に祈ること、時間をささげること、教会を支えるために献金をすること、奉仕に参加すること、魂の救いのために祈ること、世界の飢餓と子どもたちのために支援すること等があります。
 自分のできないことをしようとするのではなく、自分にできることをしていきましょう。祈ることは誰でもできます。

(3)私たちの成長を期待し待っておられる神様 
 神様は私たちの信仰の成長、愛の成長を期待して待っておられます。忍耐して支援してくださっているのは神様です。私たちの愛が増し加わるようにとりなしてくださっています。

(4)主と共に、与えられている場所で忠実に生きる
 私たちのできることは、神様に与えられている場所で、忠実に生きることです。私にしかできないことがあります。一人ひとりがその側にいる方々のために必要な人です。

 今どのような状況であっても、その中で自分を大切にし、周りの人を大切にすることです。自分を大切にする心がないと、他の人を大切にすることはできません。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しましょう。
(ローマ12:15)
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」  
 私たちは、色々なことに無関心であってはいけないと思います。共に喜び共に泣くことが必要です。愛を動機に、自分のできることをしていきましょう。

【第二礼拝:辻和希伝道師】
 
『異邦人社会におけるキリスト者2』
 〜キリストに倣うしもべの姿勢〜

 先月に続いて、異邦人社会におけるキリスト者というテーマでみことばを見ていきたいと思います。
 前回は、立派なふるまいを主権者との関係から見ていきました。今回は、主人としもべの関係から見ていきましょう。
(1ペテロ2:18−25)
「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
  まず、“しもべ”とは、家で仕える召使いのことで、多くは教養もあり、各家で責任のある地位にいたとされています。私たち現代人においては、サラリーマンと上司に置き換えるとわかりやすいかと思います。
 ここでポイントになるのは、“神を畏れる姿勢”と“横暴な主人に
対しても”です。
 
 尊敬の心を込めて主人に服従しなさい、とありますが、これは仕える主人に対して尊敬の心を持つというよりも、神を畏れるという方が正しいでしょう。
 
 もちろん、服すべき立場にあるなら、主人に対して尊敬を持つことは素晴らしいことです。しかし、“人”を見ようとすると、つまずいてしまうこともあります。
 
 なぜなら私たちは罪人で完璧な人間などいないからです。人を見るのではなく、神を畏れて、神が立てた主人に仕えるというのが正しい姿勢になります。
 
 それは、たとえ横暴な主人に対してもです。不当な苦しみに耐え忍ぶ者を神は喜ばれます。これは神の好意にあずかるという意味です。

  私たちは人生で大なり小なり、不当な苦しみを受けた経験があると思います。その苦しみに大抵は我慢し、泣き寝入りし、何とかしてその状況を乗り越えてきたと思います。神はそれで良いと言われるのです。

 特に、善を行っていて苦しみを受け、それに耐え忍ぶなら、イエス様もマタイ5:10で言われた、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」というみことばが、ますます希望となることでしょう。

 また、私たちが耐え忍ぶことができるのは、イエス様も耐え忍ばれたからです。イエス様はご自分を無にされて、人と同じ姿となって、私たちの罪の代価として十字架の死にまでも従われました。これほど完璧に耐え忍ぶ姿勢の模範となられた方はイエス様以外にありません。
 この世では国のリーダーであっても、ルールを国民には守らせますが、自分では守らないということをします。

 イエス様はそうではありません。一番多くを耐え忍ばれたのですから、私たちの一時的な不当な苦しみも喜んで耐え忍ぼうではありませんか。

  例え不当な苦しみを受けたとしても、イエス様を模範として耐え忍ぶ者を神は喜ばれます。

 この地上でどのような主従関係にあっても、私たちの真の主人は、私たちのたましいの牧者であり監督者である神のみです。この主人へ仕える姿勢が異邦人の中にあって立派なふるまいとなっていくのです。

 

 

 

 

 

■2021年3月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神を信じる立派な振る舞い  up 2021.3.14


主題聖句(申命記32:6)
あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

 

 

 

 

 私たちは今「使徒信条」を用いて、私たちの信じるべきことがらを一つずつ見て行きながら、その信じている実がどのような振る舞いとして現れてくるかということについて、お話をしてきています。

 まず「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」について、【1】は、創造主なる神を信じているならば、神が造られたものに文句を言わない、優劣をつけたり批判したりしないということ、【2】は、全能の神を信じているならば、神は未来を創造することのできる方、約束を守られる方なので、それを信じ、喜び、感謝し、祈っていく、ということをお話しいたしました。

 そして、今日の【3】は、聖書のイスラエルとその父なる神との関係に現わされた正しい父親像から学びたいと思います。

 今日の主題聖句(申命記32:6)には、神様が誠実に愛と恵みを現わされたにもかかわらず、「イスラエルは父なる神に不誠実であった、恩知らずであった」というモーセの忠告と叱責の気持ちが表されています。        

 「あなたを造った父」「あなたを造り上げ」「あなたを堅く建てる」という表現は、創造者であり全能者である神様と私たちの関係が、「父と子の関係」であることを表しています。

 これは大事なことです。造り、造られた、というだけではなく、裁き、裁かれる、というだけでもなく、神様は私たちの父親であるという、私たちの希望はここにあります。今日はこの点を見ていきたいと思います。

A)良き父親の前での振る舞い
●マタイ7:9−11
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚をくださいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

〇創造主である全能の神とのかかわりは、父と子の関係である
 「創造」ということばのヘブル語には「責任をもって関わる」という意味があります。
 神様は創造主です。「造った責任は私にある」と、途中で放り出すことなく最後まで関わる責任を持たれる父です。

 イスラエルを選んだ神様は、イスラエルが不誠実で恩知らずであっても、ゆるし、受け入れ、支え、戒め、こらしめ訓練する、優しさ、厳しさをあわせ持った父なる神様の姿を現しておられます。

〇我が子のためには良いことをされる
 子どもを愛さない親は親ではありません。パンを欲しがるときに石を与え、魚を欲しがるときに蛇を与えるような父親はいません。神様は良いものを与える父なる神様です。

 悪から離れるために厳しいしつけをする時でも、同時に慰めや励まし、癒しも与えてくださいます。
 子どもが未熟であればあるだけ、良い成人者に成長してほしいと願って関わりを深くもっていかれます。
 私たちがどんなに罪深いものであっても、子であるから、良いことをしてくださるお方です。
 ご自分の良きものをすべて相続させようと、私たちをご自分のかたちに似せて造られ、私たちの将来にその良きものを与える準備をしておられる良い父であられます。

 私たちはイエス・キリストの救いを通して、そのような良い父と子の関係の中に入れられ、神様との間に、親子としての平和な愛の関係を結ぶことが出来るようになったのです。

〇良い父の存在を子は喜ぶ
 父親に良いイメージを持っている子は、自然に父の存在を喜ぶことができます。しかし、もし肉親の親を喜べないという方がおられたら、私たちの魂の親は神様ですから、聖書から正しい父親像を学んで頂きたいと思います。そうして、自分も良い親として育ち、そして良い親として子どもを育てていって頂きたいと思います。

B)愛する子を育てる父の前での振る舞い
●へブル12:5−11   
「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『我が子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、本当の子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

〇父は愛する子を懲らしめ訓練する
 (へブル12:5−11)を読みながら、私たちは愛されている子どもなんだということを思い起こすような、あなたの人生に対する神様の関わりを見出していただきたいと思います。

 神様は愛する子を訓練されますが、それは成人者に建て上げるためです。

〇聖さを継承させる霊の父である
 その「懲らしめ、訓練」は、神様の持っている聖さを継承して欲しいからです。父として愛しているからです。
 「懲らしめ」というのは、神の子としての正しい道から外れたとき、元の道に帰るようにという指導です。
〇訓練と思って耐え忍ぶ
 また、人生の様々な労苦も、練りきよめられるための訓練です。「銀にはるつぼ、金は炉、人の心をためすのは主。」と言われますように、地上の人生は、生きている限りは、愛されている子どもとして訓練される期間であると受け止めてください。

 神様は、私たちが天に携え上げられる時は私たちを成人者として迎え入れてくださいますが、地上にいる間は私たちを懲らしめ訓練されるのだと思って、人生のすべての労苦を感謝して耐え忍びましょう。これが良き父の前での立派な振る舞いとなっていくと思います。

〇平安な義の実を信じる信仰姿勢
 私たちのその信仰姿勢や振る舞いを見て、人々が「そこまで聖書の神様を信じてるんですね」と言って下さったときに、私たちは「父ですから」と答えることができれば、納得していただけるのではないでしょうか。
 お父さんだから、苦しめることもあり懲らしめることもあり、そして慰めも励ましも与えてくださるのです。
 訓練と思ってこの地上の人生を良き父なる神様を信じて歩んでまいりましょう。

【俳句】 

春の朝  天父の愛を  肌に感ず

 陽が上り始めるころ、空を見上げておりますと、陽の光が町全体を照らし始め、空気はまだ肌寒いのに、なぜか光が温かく感じたという不思議な現象を体験しました。

 寒い空気のように神様の愛は厳しく感じるけれど、寒い中にあっても光のように温もりを感じさせる、それも神の愛ですね。

 

 

 

 

 

■2021年3月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

全能者を信じる立派な振る舞い  up 2021.3.7


主題聖句(創世記17:1)
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

 

 

 

 

 今日は「信条から出てくる立派な振る舞い」の第一部、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というところの(その2)として『全能者を信じる立派な振る舞い』について考えていきたいと思います。
 「全能」というと、「何でもできる」というイメージがあります。
 昔、こんな賛美がよく歌われました。
     ♪なんでもできる私の神様 なんでもできる 
       世界の造り主 神様は なんでもできる♪
 神様は何でもできるお方という信頼をもって生きていこう、悩みも苦しみも辛さも全部、全能の神の御手にゆだねて従っていこう、という気持ちが含まれた歌であります。
 
 「何でもできる神様、全能者を信じる立派な振る舞い」ということを一緒に考えていきましょう。
 
 今日の主題聖句(創世記17:1)は、神様がアブラハムとの契約について2節から具体的に語られる前に、まず初めに語られたおことばです。
 
 「わたしは全能の神である」と、ご自分のことを語られて、それから「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」とアブラハムの信仰を励まされました。
 
 アブラハムが75歳のときに、神様からの初めての語りかけがあり、その祝福のことばを信じて、生まれ故郷を出て、目的地カナンの地にまで導かれました。
 
 その間、アブラハムは沢山の祝福をいただきましたが、それを受け継ぐ跡取りがいませんでした。齢も99歳になっています。将来への心配や悲しみや不安がいっぱいです。
 
 このアブラハムに、神様は(17章1節)のおことばをまず語られました。「心配するな、私は全能の神だから、私を信じて歩みなさい、私が後ろ盾だ、私があなたと共にいて、この全能の力を用いて、あなたへの約束を成就する、私を信頼しなさい。」という気持ちの込められた(17章1節)のおことばでした。
 
 「全き者」とは落ち度のない人という意味ではなく、全能の神を信じ通す、全能の神に100%将来をゆだねる、ということです。
 
 私たちが信じているキリストは全能の神です。私たちの未来を祝福することのできる全能の神、この信仰が全き者なのです。
 
 ですから、疑い、不安、心配、悲しみ、様々に感情が揺さぶられる時も、「私には全能の神がいてくださり祝福してくださる。義の道(正しい道)、信仰と愛と希望に満ちた将来がある。それを可能にする全能の神が共におられるんだ」と、まっすぐ神様を見上げて、歩み続けてまいりましょう。   

 「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」ぜひ皆さんもチャレンジしていただきたいと思います。それが異邦人の中にあって「立派な振る舞い」と見られることになるのです。

 聖書から二つのポイントを紹介し、「全能者を信じる立派な振る舞い」について、話しを進めてまいります。

A)不可能なことのない神の御前での振る舞い
●ルカ1:35〜38
「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』
マリアは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

〇全能者を信じたマリヤの振る舞い。
 「私は主のはしためです。」
 「神にとって不可能なことは一つもありません」と、御使いに言われたマリヤは、全能の神を信じて「私は主のはしためです。」と、素直に神様のおことばを受け止めました。
 
 「自分は無力な、ただの田舎の娘。この小さな存在の者に、全能の神様が語っておられる。神様が味方だ。神様の大きな支えを信頼しよう。」そんな気持ちから「小さな者です。神様の言われる通りに致します。」と応答したマリヤのへりくだった姿勢は、全能の神様を信じている者の立派な振る舞いでした。
 
 全能者がおられるがゆえに私たちは、へりくだることができ、人を自分より優れているものと思うことができます。もし全能の神がおられないなら、私たちは能力で競争して勝負するしかありません。
 
 しかし、「全能の神様は私と共にいてくださり、私を抱きかかえ私と一つになってくださっている。神様の存在そのものが、私に大きな価値をもたらしている」という信頼を、マリヤはここで認め、信じたのです。

〇「おことばどおりこの身になりますように。」
 二千年前のイスラエルの社会で結婚前に女性が妊娠するなどということは、石打ちの刑でした。

 そんな戒律の厳しいイスラエル社会で、「おことばどおりこの身になりますように」と言うことは、「将来いろいろと批判され噂され社会的にさばかれて、先々は不安だらけ、そんな状況がこの身に起こりますように」と言うのと同じです。
 
 もしマリヤが旧約の預言で「乙女からメシアが生まれる」ということを知っていたとしたら、御使いの言われることを勇気を出して受け止めたということもあり得ます。しかし、たとえそうであっても、マリヤの心が大きく騒いだことには違いありません。
 
 そういう中で「神にとって不可能なことは一つもありません」という「全能の神」を信じて、「おことばどおりこの身になりますように。」と告白して、将来のことをすべて受け入れたマリアは、素晴らしい信仰の持ち主であったと言えます。
 
 私たちはまだそこまで行かないかもしれませんが、問題の小さいものからチャレンジしようではありませんか。
 
 神様が聖書に約束なさっていることであれば、その通りになる、そのために私が誰かからバカにされようと、全能の方ですから、その時何らかの力を神は与え、守り助けて下さるに違いありません。
 
 不敬虔な人々の中で、そのように全能の神を信じる信仰の振る舞いを見た人々が、将来キリストが再臨されるときに、主をほめたたえるようになるわけです。
 
 マリヤの全能者を信じる信仰の振る舞いのおかげで、こうして日本の広島までイエス・キリストの福音が伝わって、私たちも永遠の救いを受けることが出来ました。
 
 あなたが全能の神を信じる信仰の振る舞いによって、どこかであなたを見た人が救いに導かれるのです。また、あなたがくじけて、全能の神を受け入れなかったがゆえに、救われなくなってしまうということも考えられます。

 神に愛されている者として、全能の神を信じる信仰を持った日々の歩みを続けていくかどうか、あなたの歩み方を決断していっていただきたいと思います。
 
B)全てを裁く力(権威)を持つ神の御前での振る舞い
●マタイ10:28   
「からだを殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

〇魂もからだも滅ぼすことのできる方を畏れなさい
  迫害下の中でクリスチャンが信仰を保ち続けることができたのは、体は滅んでも魂は滅びない、そこに望みを持っていたからです。
 
 肉体はいずれ最後には死にます。大事なことは魂の救いです。
ヨーロッパのある教会でアフリカの伝道者が癒しと奇跡の集会で、足が片方短い障害のある少年のお母さんに「神は全能の神です。」と言って、少年の足に「イエスの名によって足よ伸びてこい」と言うと、その場で会衆が見つめる中、十数p少年の足が伸びたというのです。全能の神の奇跡の御業です。
 
  しかし、足は伸びたけれど少年の魂が救われるかどうかは別問題です。奇跡は、信じるきっかけを持つための、神の全能の力の証しです。それを通して全能の神を畏れるということを学ぶことが必要です。
 
 皆さんも全能の神の力の助けを得たいのであれば、肉体的な自然的な楽することや楽しみや幸せだけにとどまってしまうのではなく、魂を滅ぼすこともできれば祝福することもできる神を畏れることです。
 
 自然的なものへの祝福以上に、魂、霊に対する祝福をもたらすことのできる神なのです。そこに心の目を向けて信仰をもって歩むことが必要です。
 
 魂もからだも滅ぼすことのできる全権者を畏れ敬いましょう。主権者を畏れないということは悪に走る道です。ますます悪いこと、歪んだこと、間違ったことをしてしまうきっかけになります。
 
 罪を犯すことに安易な気持ちをもっていたら、きよめられることよりも汚れていく方に引っ張られてしまいます。

 全権を持った神を畏れる心が、悪を離れ善に親しむという心の強さをもたらします。悪や罪に弱い人は、全能者なる神を畏れ敬う心が弱い、もしくは認識が甘いと言えるかもしれません。
 魂をも滅ぼすことのできる方を畏れ敬って正しいことをしていきましょう。

【短歌】 

全能の  神の力に  信頼し

   春めくごとく  主の似姿へ    
 
 
私たちは全能の神の力に信頼して、キリストと同じ姿に変えられていくという信仰の希望を持つことが大事です。
 
 まだ寒い風が吹いておりますが、それでも少し春めいてきたなあと感じられるこの頃です。全能の神の力を信頼している者は、主の似姿へ少しは変わってきたかな、という感覚をこの短歌で詠んでみました。  
 あなたも、春めくごとくに今、主の似姿がなんとなく現れてきているような気がしませんか。信じましょう。まだまだ相応しくないところも多いけれど、確かにイエス様のすばらしさが何か見え隠れしているような、そんな希望が持てたらいいですね。