■2021年2月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

創造主を信じる立派な振る舞い  up 2021.2.28


主題聖句(ローマ9:20〜21)
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

 

 

 

 

 先週は「信条から出てくる立派な振る舞い」ということで、「使徒信条」をご紹介いたしました。
 「使徒信条」は聖書の根幹を示しています。初代教会の使徒たちが教えたこと、私たちの信ずべきことがらの基本がまとめられています。
 そこで「使徒信条」を3部に分け、またそれぞれを3回づつ計9回のシリーズで詳しく見ていきたいと思います。

 第一部は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、第二部は「我は、その独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」、第三部は「我は聖霊を信ず」です。
 
 そして今日は第一部の(その1)として、「天地の造り主」という部分に着目し、主題聖句(ローマ9:20−21)のみことばから、『創造主を信じる立派な振る舞い』をポイントとして、話を進めていきたいと思います。

A)神のかたちとして創造された
ア)創世記1:26−27
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し『男と女』とに彼らを創造された。」

〇神に似せて造られた者にふさわしい振る舞いを心がける 
 私たちが信じている天地万物を造られた創造主なる神は、私たちを「われわれに似せて造った」と言っておられます。
 
 自分は神に似せて造られた者だ、というこの「自覚」は大切です。私たちの振る舞いはその自覚から出てきます。どんな場面でもどんな状況でも、神に似せて造られた者という自覚にふさわしい振る舞いを、言葉や行動に現わしていけるように心掛けていきたいと思います。

イ)ヤコブ3:9−11  
「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出てくるのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。」

〇神のかたちである人をのろわず、神を賛美しよう   
 神のかたちに造られたという自覚のもとに、もう一点私たちが気を付けたいことは、神のかたちに造られた人(自分も含め隣人)を呪わず、神を賛美することです。
 
 私たちが気分に任せ感情のままに人をのろうことは、神の作品にケチをつけることです。
 
 隣にいる夫や妻や全ての人は、神のかたちにつくられた栄誉ある存在なのです。自分を卑下したり傷めつけたり、また隣人を見下したり侮辱したり、互いに批判し合ったりしてはいけない者同士なのです。

 私たちは教会で音楽に合わせて神様を賛美しますが、神様を賛美するもう一つの方法は、神様のお造りになったものをほめること、高く評価することです。それは作者である神様をほめることにつながります。

 ですから神の作品である自分、隣人、夫や妻や子供を、私たちは決してけなしてはいけません。

「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせる」ことがないように、私たちはずっと甘い水を出し続ける者なのですから、神様をほめる言葉を語っていきましょう。

〇作者の意図に似合った振る舞い   
 このように、私たちは神様の意図に似合った振る舞いを心掛けること、それは当たり前のことですし、難しいことではありません。理屈はそうですがしかし現実は違います。そこに神様を創造主として信じる私たちの信仰が試されます。そして磨かれ、強められ、きよめられてゆくということにつながっていくわけです。それは、成長することであり、完成に向かって進んでいくことです。そのために地上での時間が与えられているのです。
創造主なる神を信じる皆さんは、ぜひとも今週、ア)とイ)の二つのことをしっかり心掛けていただきたいと思います。

B)造り主の権利を認める   
 (ローマ9章20−21)の中で、パウロは、造られた者が造った方に対して「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」というような文句は言えないと言っています。創造主なる神様の主権を認めた生活をするようにと教えています。

ア)エペソ5:28   
「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」

〇神に造られた自分を愛する
 造り主の権利を認めることは、神に造られた自分を愛することです。自分を愛することは、お造りになった神様をほめることです。

 こんな自分は嫌いだと思うことは造られた神様への反抗です。自分を嫌いになるのは、この世の価値観に影響されているからです。人の良し悪しを決めたりするのもこの世の基準です。

 私たちは造り主なる神様の基準を理解しなくてはなりません。神がお造りになったものはすべて素晴らしいとイエス様もおっしゃっておられます。すべて素晴らしいのです。神様の作品として唯一の存在だから、「私の目にあなたは高価で尊い」と、造り主なる神様は仰っておられます。自分を愛するとはそういう意味です。

〇自分のからだと妻を大事にすること
 (エペソ5:28)では、自分を愛するとは、自分のからだと妻を大事にすることだと語られています。
 
 私たちは自分のからだを本能的に守り大事にします。危険から、ケガや病気から、守ります。まして神の尊い作品ですから、傷つけないように、いたわります。

 そのように自分のからだを大事にする夫は、妻をも守り傷つけずいたわって大事にします。
 妻をそのように愛している夫は、神の作品である自分を愛している人であることがわかります。

イ)ローマ12:10  
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

〇互いに神のかたちであることを尊び合う 
 神に造られた私も素晴らしい、神に造られたあなたも素晴らしい。そして互いに神のかたちに造られたことを尊び合い、相手を自分よりまさっていると尊敬をもって互いを思い合います。これが、造り主への敬意につながり、造り主の権利を認めることになります。

〇作者の意図に似合った振る舞い
 造り主の権利を認め、人と比べるのではなく、個々の一人一人を唯一の者として、高価で尊いと思ってくださる神様の意図を受け止めましょう。造り主の権利を奪うようなことにならないように、造り主の意図に似合った振る舞いをしていきましょう。 

C)神の作品としての振る舞い   
ア)エペソ2:10
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

〇良い行いをするために造られた。
 神様は良いことをされるお方ですから、私たちも良い行いをするために造られました。

〇キリスト・イエスのように造られた
 キリストのように良い行いをするための新創造がクリスチャンです。

イ)第1ペテロ4:19 
「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみにあっている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」

〇真実な創造者の作品として、完成までその御手に委ねる
 神の作品として、私たちは異邦人の中にあってイエス・キリストのように善を行ない続けるわけですが、しかし善を行なうことを通して苦しみに会うことがあります。ペテロは「真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」と言っています。

 作者は完成に向けて作品を仕上げていきます。真実の創造者ですから、立派なものができることに間違いありません。この世の評価に惑わされず、作品が完成した時にはアッと驚くようなものに造り上げられていると、真実の創造者を信じてその信頼をもとに、私たちの存在そのものである魂をその御手にゆだねます。

 ゆだねた人生という振る舞いをするのです。そういう自分自身、また他の人に対する考え方、それが互いに愛し合い、尊び合うことにつながるのではないでしょうか。

〇作者の意図に似合った振る舞い
 今日は7つのみことばを紹介いたしました。みなさんも聖書を読み、祈りながら、気付かせて頂いて、「私は天地を造られた神を信じます」と言う者にふさわしい、神様に似せて造られた意図に似合った振る舞いをチャレンジしていただきたいと思います。

【川柳】 

 最高の  神の作品  自覚せり

 私も神の最高の作品、あなたも神の最高の作品 一人一人みんなが神の最高の作品であることに目覚めるとき、私たちは互いに大事にしあえるのではないでしょうか。

 尊い器だとか、つまらない器だとか、神様はそのようなことは言っておられません。この世の不敬虔な価値観や感情に惑わされないようにしましょう。

 創造主なる神様が、ご自分に似せて造ってくださった私たちは、最高の作品なのです。創造主なる神様を信じて、神様の目にはどの一つ一つも高価で尊い器であると、互いに励まし合い、褒め合ってまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2021年2月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

信条から出てくる立派な振る舞い  up 2021.2.21


主題聖句(使徒の働き2:42)
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 

 

 

 

 (第1ペテロ2:12)から、「おとずれの日に主をたたえるために」という今年のテーマのもとに、みことばを分かち合わせて頂いております。この年間聖句(第1ペテロ2:12)のみことばは、自分のきよめのためだけではなく、むしろ福音を証しするための勧めでもあります。
 
 聖書は、万物を造られた神が存在されること、その神が私たちをお造りになり、罪を贖ってくださり、本来の神様の御計画通り、神の御国の相続人として私たちを導いてくださっている、ということが記されている書物です。このことが事実であるという証拠は、私たち一人一人のこの地上の人生にかかっています。私たちには救われたものとしての責任があるのです。
 
 神様の期待は、私たちの救いと、そして救われた者を通して他の人々も救われてくることです。ですから、救われた者がなおも地上で人生を生きていく意味は、きよめられることと、そしてまだ救われていない人への証人となることです。

 世の人々が見たいのは、私たちが信じていることの実です。それが真実であることを、人々は期待しているのではないでしょうか。
 
 そのような流れの中で、「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)という光の輝きについて、(第1ペテロ1:8)を三回に分けて見てまいりました。
 
 今日のテーマは『信条から出てくる立派な振る舞い』です。「信条」というのは、堅く信じて守り抜くことがらのことです。堅く信じているからこそ、その実として現れる「立派な振る舞い」という意味です。
 
 今日の主題聖句(使徒の働き2:42)の中に「彼ら」とありますが、それはペテロの説教を聞いて最初に救われた人々のことで、三千人いたと41節に書かれてあります。

 この三千人の彼らはバプテスマを受けて弟子に加えられ、「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き(聖餐式)、祈りをして」過ごしました。これは特別なことをしていたのではなく、救われた人の普通の生活でありますが、その中で一番に書かれてあるのが「使徒たちの教えを堅く守り」です。これが「信条」と言われる部分で、どんなことを使徒たちは教えたのかをまとめたものが「使徒信条」と言われるものです。

1.使徒信条 
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊(せいれい)によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来りて、
生ける者と死にたるものとを審(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、
身体(からだ)のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン」

◎使徒たちの教えを堅く守る 
 「使徒信条」というのは、初代教会の12使徒たちが教えていた教えでありますが、それを「堅く守るもの」として「使徒信条」と言われるようになりました。 
 
 この「使徒信条」の内容は、キリスト教会が200年以上をかけてまとめたものです。
 
 それは、12使徒たちが天に召されて、イエス様の御教えを直接聞いた弟子たちがいなくなったので、御教えを正確に伝承する必要があったからです。
 
 また使徒たちの死後、ユダヤ教から回心してきた人たちのトーラー(モーセ5書)の教えが混じり込み、異教徒たちの土着宗教の教えまで入り込んで、多くの異端者が現れ、教会に混乱が生じてきたことが背景としてありました。
 
 初代教会の使徒たちがイエス様から直接教えられたことを、正しく伝えていくための中心となるべきもの、すなわち使徒たちの教えの根幹が「使徒信条」と言われるものです。
 
 新約聖書がまだなかった時代に、イエス様の教えを正確に伝えていくために、「使徒信条」は大きな役割を果たしたと言えます。

2.信条の告白 
◎ローマ10:9−10
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからである。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

〇受洗するための信仰告白として。 
(ローマ10:9−10)には、信条を告白することの大切さが書かれてあります。
 イエスを主と告白し、イエスの復活を信じることが救いのための条件です。ですから初代教会では受洗するための信仰告白として、この「使徒信条」が用いられていました。

〇デボーションでの信仰告白として。
 また、この「使徒信条」は、神様との祈りの時間、デボーションでの信仰告白としても用いられました。この信条を読んで告白することで、三位一体の神に対する敬虔なこころを備えることができます。御霊様に教えられ理解して心で味わいながら「使徒信条」を朗読することによって、信仰の告白の大きな力を体験することができると思います。

〇信仰の一致を表明する告白として。
 私たちは同じ信条のもとに集まった教会(公同の教会)であることを表明するために、「使徒信条」を告白いたします。異なる信仰を持つ異端の教会が多く現れるようになったため、この「使徒信条」を告白することをもって同じ群れと認識するのです。

〇キリストのからだが一つであることを証明するものである
 「使徒信条」は、御父、御子、御霊の三位一体の神を表しています。そして、その信条を告白する教会を公同の教会とし、その信条から外れた教えは異端であるとしております。

 私たちは、自分が理解できるかどうかではなく、12使徒がイエス様の教えとして語られてきたことを、そのまま素直に受け入れる、そういう信仰信条を持ってこれからも歩んでいきます。

3.信条の行動  
◎ヤコブ2:26 
「魂を離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」
 
 告白は、信じていることの一つの行動の現われです。告白というのは、言葉として口にする告白から、行動という告白まで幅広いものがあります。ですから、「信じたら救われる」と言うだけでは理解が浅いということでヤコブが手紙を書いています。
 
 信じているというしるしは、行動に出すことです。行動に出なければ、その信じている信仰は「死んでいる」、とヤコブは言っています。
 
 死んだ信仰を持っていたのでは、成長しないし、前進しないし、最終的に救われません。信条(信じていることがら,信仰)が行動として現われてこそ、生きた信仰と言えるのです。

〇父なる神を信じている行動  
 父なる神についての信条は、「天地の造り主、全能の父なる神」であることです。その神を信じているので、私たちは悪を離れ義に親しむことを選びます。

 なぜなら、天地を造られた全能の父なる神を敬い畏れているからです。それが信仰の実です。神を畏れる実が、普段の生活の中の判断や決断のところに現れてきているなら、それは生きた信仰のしるしであると言えます。

〇子なる神を信じている行動 
 私たちの一生涯の罪を十字架で身代わりに罰を受けてくださって、罪の赦しを与えてくださった、という大きなイエス様の働きが書かれてあります。
 私たちはイエス様によって罪が赦されたのです。しかも、地上のいのちだけではなく、永遠を生きるいのちが与えられました。イエス様のおかげで神の国に行けるのです。なんと素晴らしい救いでしょうか。この喜びが内側にもたらされてこそ、「子なる神、我らの主、イエス・キリスト」を信じているという生きた信仰が見えてくるのです。

〇聖霊なる神を信じている行動 
 私たちペンテコステの教会は、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第2コリント3:18)」というところから、イエス様と同じかたちに造り変えてくださる「聖霊なる神」を信じています。
 
 ですから、イエス様のような練られた品性に近づけられるという人生に対する希望を持って、失敗にもめげず、あきらめず、試練をくぐりつつ、力を与えられて、人生を前に向かって歩んでいきます。このような実が見える時、聖霊なる神を信じている信仰は生きていると言えるのです。
 
 以上のような自覚が少しもなく、行いがまったく見られないとしたら、「死んだ信仰」で留まっている可能性がありますから、それはぜひ主を求めて、よみがえらせてください。
 神は復活の主、イエスをよみがえらせた方はあなたをもよみがえらせることがお出来になります。今は死んだ信仰だと思っても、それを復活させてくださるのが御父、御子、御霊の神なのです。
 
 ですから、求めましょう。生きた信仰へと私を復活させて下さいと求めていただきたいと思います。
 
 このように、御父、御子、御霊の神に対する信仰の行動が、すなわち、生きた信条は立派な振る舞いとして現れてくるという結論に至るわけです。

【俳句】
梅ふふむ  信条のつぼみ  どこに見る

 梅の白いつぼみが現れると、もう春が目の前に来ていることがわかります。
 
 皆さんの信仰の(信条の)生きたつぼみは、生活の中のどこに見ることができるでしょうか。

 

 

 

 

 

■2021年2月14日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

万事は神の御計画
異邦人社会におけるキリスト者(1)  up 2021.2.14


主題聖句
(第2コリント4:15)
すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

(第1ペテロ2:13〜17)
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。

 

 

 

 

【第一礼拝:横路伝道師メッセージ】
『万事は神の御計画』

(第2コリント4:15)
「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。」

A)ヨセフの生涯から学ぶ (創世記37章〜50章)
1.高慢なヨセフ
 ヨセフはヤコブが年寄になってから生まれた11番目の息子で、愛するラケルに生まれたことによって、父ヤコブから非常に愛されました。ただ、あまり愛され過ぎて高慢になっていた所があったようです。しかし、ヤコブの信仰はしっかりと受け継いでいました。
 ヨセフは二つの夢を見ます。自分に向かって10個の束がおじぎし、もう一つは太陽と月、10個の星が自分におじぎをするという夢でした。その夢の意味を知った兄弟はヨセフに対して腹を立てます。兄たちは穏やかにヨセフと話しができないくらいねたんでいました。そして、兄たちはヨセフを奴隷商人に銀20枚で売ってしまいました。
 ヨセフは王様の侍従長のポティファルに、おそらく銀30枚で売られたものと思われます。イエス様もユダに銀30枚で売られました。ヨセフはイエス・キリストの型であると言われています。

2.砕かれた高慢
 ヨセフはそれまでの高慢を砕かれました。愛されている最高の立場から、奴隷という最低の立場に追いやられました。
 主人のポティファルは、ヨセフの状況をずっと見ていました。体格もよく美男子で、神様から与えられた知恵がありました。色々なことを任せて試したと思いますが、ついには家の管理を全部任せたとあります。

3.「主がともにおられたので幸運な人となった(創世記39:2)
「彼の主人は主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させて下さるのを見た。」(創世記39:3)
「主人は彼を側近の者とし、家のすべての管理をヨセフにゆだねた」

4.投獄されたヨセフ
 しかし、この後ポティファルの妻がヨセフを誘惑します。それをきっぱりと断ると、ポティファルの妻はヨセフが自分を誘惑したと言って陥れ、ヨセフは囚人となり、監獄に入れられてしまいました。ここで再度ヨセフの高慢な心は完全に砕かれました。
 へりくだって、この場所に神様が置かれたのはなぜだろうと祈ったと思いますが、ここでも監獄の長が、ヨセフのことをなすこと語ることを見て、監獄の管理を全部ヨセフに任せました。 

5.主の時を待ったヨセフ
 ある時、王の献酌官長と料理官長が監獄に入れられ、その監獄の中で夢を見ました。ヨセフが夢の解き明かしをし、ここから出たら私を思い出して、ここから出られるようにしてくださいと言いました。しかしその後、献酌官長はヨセフのことを忘れてしまい、2年間がたちました。
6.主の時が到来する
 その頃、エジプトのパロ王が不思議な夢を見ます。そこで王様はあらゆる知恵のある者たちに夢の解き明かしを求めましたが、解き明かせる者がいませんでした。そのとき、献酌官長がヨセフのことを思い出して王様に伝えます。ヨセフは王の夢を見事に解き明かし、その解決策も伝えます。王様はその神からの知恵に感嘆し、ヨセフはエジプトの第2の位、総理大臣になりました。

7.兄たちを試みたヨセフ
 ききんになり、ヨセフの兄弟たちがエジプトに食料を買いにやってきました。ヨセフは一目で兄たちが来たのがわかりますが、兄たちはエジプトの総理大臣になっているヨセフに全く気付きませんでした。ヨセフは兄たちの心が今どうなのか、試みていきます。

8.兄たちを赦し、和解する
 兄たちの心がすっかり変わっていることがわかったヨセフは、兄に自分を明かして兄たちを赦し、和解をしました。

9.イスラエルの救いと祝福
 そしてヨセフは一族全部をエジプトに呼び寄せ、ききんから救い出すことができました。

B)試練と苦しみは神の祝福の御計画
1)神のみ前に砕かれ、ヘりくだることの素晴らしさ
 ヨセフは、試練によって高慢さが砕かれました。私たちも、色々なことで問題が起き、自分の失敗で心砕かれることがあります。しかしそれは幸いにしてくださるためのものなのです。砕かれてへりくだることは、心を聖くされることです。

2)主と共に、与えられている場所で忠実に生きる
 ヨセフのように、主と共に生き、どんな場所であってもつぶやかないで生きることが大切です。

3)忍耐して主の時を待つ
 ヨセフのように、忍耐して主の定められた時まで待ち続けることが大切です。ヨセフは忘れられましたが、絶妙なタイミングで思い出されました。
 ヨセフは17歳で奴隷となり、30歳でエジプトの総理大臣になりました。その間待ち続けました。アブラハムも25年間待って子どもが与えられました。神様が定められた時があるので、忍耐してその時を待つことは良いことです。
(創世記45:5)
「ヨセフは、『・・今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、わたしを遣わしてくださったのです。』と言った。 」
 私たちは今、色々な問題、試練の中にあるかもしれません。しかしその中で、忍耐してヨセフのように待ち望みたいと思います。ヨセフは神に特別に選ばれた人でしたが、新約の今、私たちには聖霊様が与えられているので、ヨセフのように神と共に歩むことができるのです。

 鴨川の祈りというお話をしたいと思います。I君という医学生が寮生活をしていました。彼はクリスチャンだったので、同僚のK君にからかわれ、いじわるをされました。彼は鴨川のほとりに行って一人で祈りました。「神様、あのK君は私の敵です。私の前から退けてください。」すると不思議なことに彼は神様の声を聞きました。「あのな、Kを置いてるのはわてやで」と関西弁で語られたそうです。驚いたI君は、これは私の試練なのだ、敵を愛し、敵のために祈るように神様がK君を置かれたのだと理解し、どんなにいじめられても彼を恨まずに対応しました。
 
 ある雪の夜、忘年会の帰りに雪の中で酔っ払ってK君が倒れていました。他の人は「あのいじわるなKなんか放っておけ」と無視しましたが、I君は彼を抱きかかえて連れて帰り、朝まで介抱してあげました。次の日に起きたK君は、他の人からI君に助けられたことを聞き、心から感謝して悔い改め、大親友となったということです。
 苦しい環境にある時、それは神様が用意された環境であることを知り、神様の御心に従うときに、素晴らしいことが起こってくるのです。

【参考聖句】
(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 今見える困難、苦しみを含めて、すべてのことが益と変えられるのです。

【第二礼拝:辻和希伝道師メッセージ】  

『異邦人社会におけるキリスト者(1)』
〜主権者との関係〜

 今年の教会の目標は第1ペテロ2:12より、異邦人の中にあって、りっぱにふるまうことを目指していきます。具体的にはどのような行動が“りっぱ”なふるまいになるのかを、以降の節よりシリーズで見ていきたいと思います。

(第1ペテロ2:13〜17)
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

◆人の立てた制度に主のゆえに従う
 当たり前のことを言うのですが、国民として国の制度に従うことが立派なふるまいになります。ローマ13章1〜2でもパウロは、すべての権威は主からによると語っています。例え国の王や監督者が神を信仰していなくても、その王に権威を与えているのは神ですから、私たちは神を信頼して制度に従うことが正しいふるまいとなります。
 
 では、国が神のみこころに反した制度を定めたときはどうでしょうか?みこころに反してでも、国の制度に従うべきでしょうか? それは違いますよね。なぜなら、“主のゆえに”と言っていることに反するからです。主のゆえに神に反抗することなどありえないことですから、もし、そのような迫害の時代が到来したら、私たちは試練を通ることになるでしょう。
 とにかく、今は恵みのとき、救いのときであり、特に日本では信仰の自由も保障され、教会の存在も認められ、さらには宗教法人法によっても税制面で優遇されているのですから、本当に感謝なことです。

◆自由人として行動する
 国の制度に従うことを強制されるように感じるかもしれませんが、私たちは神によって自由とされているので、自発的に主のゆえに制度に従うという姿勢が望ましいです。
 自発の精神は、教会内でも特に必要なことです。教会は自発の奉仕によって成り立っているからです。
 
 しかし自由については一つ気を付けなければなりません。それは、自由であることを、悪の口実に用いないようにすることです。自由を放縦と間違えないようにしましょう。

◆すべての人を敬い神を恐れる
 どのような国の制度であっても、クリスチャンにとって大切なことは、神こそ唯一畏れられるべき方であるということです。神を畏れる敬虔な姿勢が、すべての人を敬うことにつながり、この地上の王を尊ぶことにつながるのです。

 私たちはこの世では旅人であり寄留者ですが、その生活は、この世の権威という秩序の中で支えられています。その権威にイエス様も従われた模範に倣い「主のゆえに」従うことが、異邦人社会における私たちの正しいあり方なのです。

 日本は、まだまだクリスチャンの少ない国です。異邦人社会です。日本にも国家としての制度があり、国民はその制度の上で生活しており、そのほとんどの人がまだ神を知らないのです。

 キリストの福音を伝える者として、国の制度を守ることは、当たり前のことですし、この地上の制度に従うことができないものが、聖書の教えを宣べ伝えても、人々は耳を貸してくれるはずがありません。
 
 周りから尊敬されることに近道はありませんから、日本国民としてきちんと生活する、ということが、福音宣教の入り口になるのだと思います。

 

 

 

 

 

■2021年2月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

救いの喜びに輝く(3)  up 2021.2.7


主題聖句(第1ペテロ1:8)
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 

 

 

 

 主題聖句(第1ペテロ1:8)から、「救いの喜びに輝く」というテーマを三回に分けてお話しています。

 一回目は「見たことはないけれども愛している」という所から、神に愛された者として「神を愛する喜びの輝き」をお話いたしました。

前回は「見てはいないけれども信じている」という所から、「見ない」ということはそこに希望を抱くということであり、希望を抱くということはそこに信仰が働くということであると、「信じる希望の輝き」についてお話いたしました。

 今回は「ことばに尽くすことのできない、栄に満ちた喜びにおどっています」という所から、「栄えに満ちた喜びの輝き」についてお話をしていきます。

1.キリストのゆえに、迫害される喜び
◎マタイ5:11−12
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」

〇なぜ、敬虔な人が迫害されるのでしょうか?
この世は罪の世界、悪の世界です。自分たちの悪が、神を畏れる敬虔な人たちによって明らかにされるのを恐れます。

 自分たちが間違っていると認めたくありません。それを否定するために、敬虔な人たちを迫害し、ののしり、悪口を言うのです。そして多数決の力で善を封じ込めようとします。

〇神を敬う人が悪口を浴びせられることがなぜ幸いなのでしょうか?
もしキリストを信じているということで悪口を言われたり侮辱されたりするならば、それは私たちが正しく敬虔な歩みをしているということのしるしです。

 私たちは正しさの中に留まるということの価値を見出すことが必要です。

 そのような迫害に対してイエス様は、「天で受ける報いは大きいから、喜びなさい」と言われています。
 この世の人がいくら罵倒しても、神様を敬う人は正しいとイエス様が認めてくださっておられますから幸いです。色々な傷つく経験があっても無駄になることはありません。

2.超自然的能力を持つよりも大きな喜び

◎ルカ10:20
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

〇天の名簿に名前が記されている喜び
悪霊を服従させるというのは奇跡です。そんな超自然的な力が使えたら、人々から敬われるし喜ばれるし、嬉しいに違いありませんが、もっと嬉しいことがあります。それは天の名簿に名前が記されていることです。

〇天に登録されていることが喜べない理由を考える
 天の名簿に名が記されていることよりも、奇跡的な力や優れた能力で人から尊敬されたり賞賛されたりすることの方が嬉しいと思うなら、それは自分に名声名誉を受けようとしている隠れた肉の心があると言えます。

神様はこの罪の世界をさばき、新しい天と地をもたらしてくださいます。そこに入ることが一番の喜びであり価値あることです。それをまず悟らせていただく必要があります。

この世界はどうしても見えるものに価値を見出しやすいものですから、いつのまにかクリスチャン同士もそれに惑わされて、能力や地位、才能を重んじて、何もない人を軽んじるようなことが起きてしまいます。

天に名が記されているという喜びを聖霊様に教えていただきましょう。それは自分の存在が天に受け入れられ認められている喜びです。それを失わないように致しましょう。

3.父なる神との和解が成立している喜び
◎ローマ5:11
「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

〇対立は喜びをもたらすことはできない
 和解の反対は対立です。誰かと対立しているときは、喜びがありません。争い、憎しみなど良くない感情がいつもそこにあります。

 相手と関わらないでいれば何も起きなくて平穏ですが、それは平和ではありません。神様はイエス様の十字架によって私たちと和解し、対立関係ではない平和という状況を造り出してくださいました。

〇健全な親子関係とは、どのようなものであるかを考えてみましょう。
 健全な親子関係は、親も子も互いに尊敬し尊重し合っています。そこに愛の喜びがあふれてきます。

 親は子を大事な存在として大事に慈しみ育て、子は自分の出来ないところを色々な形で補い助けられていることに対して尊敬の気持をもって従います。そこに平和の喜びが生み出されていきます。
 
 このように健全な親子関係を考えてみることは、父なる神との和解が成立している喜びを感じ取るヒントとなるのではないでしょうか。

4.この上もない喜びとなる様々な試練
◎ヤコブ1:2−4
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けた所のない、成長を遂げた、完全な者となります。」

〇精錬のための試練は、存在価値を高める
 試練を通して練られ鍛えられ純化されていくことは、存在そのものの価値が高められることです。試練の少ない人は不純物が残っていて弱いかもしれません。

〇向上し、成長することは、この上もない喜び
 試練を通して私たちは成長し向上します。ですから、試練に会う時は喜びをもって忍耐しなさい、とヤコブは語っています。
 
 試練は苦しいことですが、この後には素晴らしい成長、向上した状況が待っていますから、そういう信仰を持って試練の苦しみを受け止めていきましょう。それが忍耐です。

 この忍耐が数々の試練を通してあなたを完全な者へと仕上げてくれるのです。

5.神の国は、霊と霊が触れ合う喜び
◎ローマ14:17
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

〇御国は身体に関することが中心ではない
 この世は体に関することが中心です。仕事をするにも楽しむにも遊ぶにも、すべて体が健康であることが基本です。体を大事にすることが優先されます。体を丈夫にするために時間とお金をかけます。
〇義と平和によって神の霊と人の霊が触れ合う霊的交わり
 神の国は肉体を養うためのところではありません。神様の霊と私たちの霊が触れ合い喜ぶ交わりのところです。

 交わりを持つというのはとても楽しいことです。喜びが自然とあふれてきます。聖霊による喜びとは、聖霊との交わりの喜びです。そして触れ合うという交わりは一番大きな喜びをもたらします。

 私たちはもっと聖霊様と親しく交わりを持たせていただけるように、「聖霊様に触れることができるほどの交わりをさせてください、それが私の喜びなのです」というような聖霊様との親密な関係を求めていただきたいと思います。

 神の国とは神の存在そのものである聖霊に触れられる交わりの喜びです。

6.結論
◎ピリピ4:4
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

〇「救いの喜びの輝き」は、【主にあって】でなければ放つことのできない輝きである
 いつも主にあって、主との繋がりの関係で喜ばないと、それは単に自分を喜ばせるだけで、やみを退けるような喜びではありません。
 
 主と私はいつもどのような関係なのか、五つのみことばから皆さんに紹介して、喜びの輝きを見出し、また内側から放っていくように、ということをお語りいたしました。

〇【主は私の全てです】という喜び
 「主は私の全てです」と言えるほどに、三位一体の神様との密で濃厚な関係になるように益々進めていきたいと思います。

【短歌】

救われし  きよき喜び  輝けば
厳寒の暗闇  退けり

 冬が終わる時期、寒さは一番厳しいけれど、春が近いしるしでもあります。凍りつくような暗闇が退けられて行くのは、救われたきよい喜びが輝いているからです。

 イエス様によって救われた熱い喜びは、私の心、魂を凍らせている寒さを溶きほぐし、そしてその喜びの輝きは、暗闇の厳しい寒さに縛られている周りの人々の心をも溶かしていきます。

 

 

 

 

 

■2021年1月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

救いの喜びに輝く(2)  up 2021.1.31


主題聖句(第1ペテロ1:8)
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 

 

 

 

今年の目標として(第1ペテロ2:12)「異邦人の中にあってりっぱにふるまいなさい」というお勧めから始めました。

 まことの神、すべての人の罪を贖われた生きておられる神、イエス・キリストを信じて歩む敬虔な生活、これはクリスチャンにしか出来ない立派なふるまいです。
 私たちは、死に直面する最期の時まで唯一の神を信じ通すことができたら本当に素晴らしいと思います。この敬虔さを磨いていきましょう。その立派なふるまいは暗闇の中に輝く光です。その光は喜びであり、希望です。
 先々週は(第1ペテロ1:8)から、「救いの喜びに輝く(1)」として「キリストを愛している輝き」についてお話しいたしました。
 今週は、その(2)として「信仰による希望の輝き」です。
 聖書が教えている信仰からくる希望は、その輝きを、罪の暗闇の世界の中で人々に見ていただくことができるという意味でお話させていただきます。

1.いまは見てはいないのに信じているとは?
(1)へブル11:1
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

〇成就していない約束を信じることが、主イエスへの信仰である。
 聖書の中には沢山の神様の約束があります。その多くが成就し、歴史の中にも残っていますが、まだ成就していない約束もあります。私たちは救い主イエス・キリストを信じているがゆえに、まだ成就していない(見えていない)約束も信じます。
 
 神様は、私たちのために、私たちの永遠の未来のために、私たちが神様と共に永遠の御国で過ごすことができるようにと、ご計画され、着々とその計画を進めてきておられます。このご計画は、救い主イエス・キリストを信じる人は誰にでも与えられている約束です。
 
 信じない人は、信じていないので別のことに心を向け、別のことに夢中になり、いつもどこかに行ってしまっている人のようで、約束のものを受け取ることができません。
 
 約束のものを手に入れるためには、約束を待つ、そのために備えるという姿勢、即ち信仰が必要です。 
 
神様の約束を信じる、これが御父、御子、御霊の三位一体の神への私たちの信頼の姿勢、信仰です。
〇「約束を必ず守る」ご性質を持つ神。
 主イエス・キリスト、私たちの神は、約束を必ず守られるご性質を持たれたお方です。ですから、イエス様の約束は必ず成る、と信じて一生かかっても待ち続けます。これが神への私たちの信仰です。

(2)ローマ8:24−25
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」

〇目でみえていないからこそ、希望を抱いて約束を待つのである。
 一生かかっても希望を抱いて神様の約束を待つという私たちの信仰は、御利益のための関係ではなく、人格的な関係です。イエス様と私たちとの人格的な関係によるものであります。

(3)第2コリント4:18
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

〇見えていない約束は変わることはない

〇約束は、成就するまでは変わることのないものである。
 約束が実現するまでの間に内容が変わっては、それは約束ではありません。変わらないから約束なのです。 
 こんなに時間がたったのだから約束も変わるんじゃないか、というような心配は無用です。神様は必ず約束を守る方だということを、聖書から悟ることができるなら、何の不安もありません。いつまでも変わらない神の約束の内容を期待して信じて歩むことができます。

(4)ローマ15:12−13
「さらにまた、イザヤがこう言っています。
『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

〇望みのない異邦人である私たちへのこの約束は、闇に輝く光である。

〇永遠の望みを与えてくださる約束を信じることができるのは、十字架のゆえ。
 偶像を神とし欲望を満たすだけの、私たちは望みのない異邦人でした。しかし、神ご自身が人として世に来られ、聖と義と愛を現わされ、最期は私たちの罪の赦しのために十字架で死んでくださった、このイエス・キリストを知ってから、私たちはこの見えない真の神に望みを託す者となりました。この世の見える欲望願望にはもうとらわれず、見えない神の約束のことばを信じて生きる者となりました。

 神様が絶対に約束を守るお方であることは、旧約聖書の記述を通しても私たちは信じることができます。神様はアブラハムとの約束を守り続けてこられ、今でもそれを守るため、イスラエルとの関わりをずっと持ち続けておられます。どんなにイスラエルが不義不実を繰り返しても決して見捨てることなく、約束を破棄することなく今も歴史を導いておられます。旧約聖書は、イスラエルと神様の関係から、神様がどんなお方かを見つけることのできる大切な書物です。

2.いま見てはいないけれども、信じているものとは?
(1)第2ペテロ3:13−14  
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もないものとして、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

〇正義の住む新しい天と地が実現する
 私たちは、悪も罪も存在しない、正義の住む新しい天と地が、イエス様によって実現するということを信じています。
〇贖いの約束が成就。だから待ち望む。
 創世記のアダムとエバが罪を犯したその時から聖書に預言されていた贖いの御業が、二千年前のイエス様の十字架によって成就しました。だから私たちは、やがてイエス様によって実現する新天新地の約束を信じて待ち望んでいます。

〇平安をもって励む姿が輝きとなる。
 そしてまた、そこに入れられるにふさわしい聖い者としての人生を守り通すように励みなさいと、ペテロは語っています。

 そのようにクリスチャンが励む姿は、未信者の人たちの目にはとても輝いて見えます。そして自分もそのようでありたいと願う人々が、主の再臨の時までに、まだまだ現れて来るのです。

〇希望ある信仰が平安をもたらし、新天地に入れられるにふさわしい生活を励む
 約束を待ち望むためには、その約束を成就してくださる方に対する希望ある信頼を持つことが必要です。その方への信仰と希望と愛があれば、疑い、恐れ、不安、不信仰が来てもすべて平安に変わります。

(2)ピリピ3:20
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」

 私たちは、天の母国に帰るために、主イエス様が迎えに来てくださることを信じて待ち望んでいます。

(3)ローマ8:23 
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

〇肉の思いから解放され、新しいからだが与えられることを待ち望む。
 私たちは、イエス様がよみがえられたような新しい罪のないからだに造り替えられることを待ち望んでいます。
 
 疲れるし不自由だし、もういやになった、早く天国に行きたいわ、というような待ち望み方ではなく、約束は必ず守られるお方だからというところに、前向きに希望と信仰を持って、からだが変えられることを嬉しく楽しく待ち望みながら歩んでいきたいものです。

○贖いの約束が成就。だから待ち望む。
 「新しい天と地」「携挙」「体の贖い」これら三つの「まだ見ていないこと」を信じることができるのは、イエス様の十字架による罪の赦しの贖いの御業が成就したことによって、神は約束を守って下さるお方だという信頼と信仰が生まれたからにほかなりません。

 私たちは常に十字架に思いを潜めて、私たちのためにそこまでしてくださった神様の深いご愛の中で、さらなる約束を待ち望んでいきましょう。

3.結論
  主を待ち望む「鶴立企佇」の姿が輝きとなる。

「鶴立企佇」(かくりつきちょ)
鶴が立っている姿のように首を伸ばし、爪先立って待ち望むという意味から、待ち遠しく思うこと。待ち望むこと。首を長くして待つ。

 昔、戦争に勝利すると、まず伝令がその知らせを国に届けます。そのとき国中の人々は飛び上がって勝利を喜びます。そしてそこに兵隊たちが帰ってくると、もう皆で抱き合って勝利を喜び祝います。

 そのように私たちも約束の成る日を鶴立企佇の気持で待ち望み、イエス様が戻られたその時には、大歓声をあげて皆で喜び合います。
 
 希望を持って信じて待ち望む私たちの姿、それが闇の中に輝く世の光としての私たちの輝きとなるのです。

【俳句】
再臨を  信じて歩む  寒の月

 寒さも一番厳しいこの季節、月の光が差し込むと、ますます寒さを感じてしまう寒の月、その影も余計に暗く感じてしまいます。

 この寒い夜のしみじみとした中を歩んでいく、それは私たちクリスチャンがイエス様を信じて罪の暗闇の世界を歩んでいくようなものだなあ、というそんな気持を詠んでみました。

 

 

 

 

 

■2021年1月24日 日曜礼拝メッセージより(横路伝道師、辻和希伝道師)

内住のキリスト  up 2021.1.24


主題聖句(第1ヨハネ4:15)
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

 

 

 

 

【第一礼拝:横路伝道師 メッセージ】
(第1ヨハネ4:15)
「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」
 私たちの内に神様がおられる、ということを今日はお話ししたいと思います。

1.ガリラヤ湖の嵐(マルコ4:35〜41)
(マルコ4:35〜37)
「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった 。」
 イエス様は、一日多くの働きをされ、夕方になって疲れを覚えられて「向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちは慣れた手つきで舟を漕ぎだします。
 このガリラヤ湖は、地形的に突風が吹きやすく、突然の気候の変化があるそうです。イエス様の弟子たちの主な人は、ガリラヤ湖で漁師をしていましたから、大抵のことは大丈夫でしたが、この時の突風は特にひどく、舟に水がいっぱいになり、沈みそうになりました。

(マルコ4:38)
「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。』」

 しかし、イエス様は舟の後ろの方で、すっかり寝入っておられました。弟子たちはイエス様を起しに行きました。イエス様はどうしてそのように嵐が来ても平安でおられたのでしょうか。それは、神様への深い信頼と、まだ死ぬ時ではないということをご存知であったからです。
 弟子たちは、ひどい状況になって初めてイエス様の所に行きました。もっと早い段階でイエス様を起こせば良かったのですが、イエス様のことを忘れていたかもしれません。「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と言っています。まさに弟子たちの自己中心と不信仰な状況を見ることができます。

(マルコ4:39)
「イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。」
 イエス様の一言で、この激しい風と波はたちどころにやみました。イエス様が立ち上がられ、言葉で命じられた時に奇跡が起こったのです。
 モーセは紅海を渡る時、杖を持って立ちました。しかし、イエス様は杖ではなく、言葉の力で命じられました。イエス様には天地創造の神の力があったからです。イエス様が言葉で命じることで、大自然が従うことをご存知でした。イエス様は天地創造にも関わっておられ、言葉によって一つ一つを造られました。「光よあれ」と言われると、光がありました。自然界をも支配される権威をお持ちでした。言葉で風と波に命じられました。これはイエス様に権威があるということを表わしています。
 助けてくださいとイエス様を起こした弟子たちに対して、イエス様はその時まで待たれたのではないかと考えられます。私たちも、「イエス様何とかしてください!」という人生の危機の時に、イエス様が立ち上がられる時があります。それは、イエス様の時であり、私たちの最善の時でもあります。時には眠っておられるように思えることもありますが、私たちの叫びも不信仰も全部ご存知の上で、ここぞという時に立ち上がってくださるイエス様であることを感謝します。
(マルコ4:40)
「イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。』」
 ルカの福音書では、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」と言われています。マタイでは、「信仰の薄い人たちだ。」と言われています。ここでは、信仰を持っていないからこわがるのではないかと指摘をされました。全能の神である主キリストが側におられる時に、決して命の害を受けないことを信じないのですか、とここで言われています。
(マルコ4:41)
「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」
 今度は、イエス様に対して何とすごいお方だろうと恐怖をいだきました。実は、この時はまだイエス様が神の子だという認識が薄かったと思われます。

2.適用
◎ガリラヤ湖の表しているもの
 ガリラヤ湖というのは、私たちの人生を表わしていると思います。外の嵐とは、私たちの人生に起こってくる問題や困難、試練を表わしています。漁師たちの生計を立てていますが、その湖も時には荒れて命の危険をももたらします。私たちの人生の中にも、時には嵐がやってきて、大きな危険に見舞われる時があります。

◎舟が表しているもの
 舟は、私たちの心を表わしています。舟は私たちの内側の問題です。外側は嵐がありますが、私たちの心も嵐に影響を受けて沈みそうになり、もうだめだと思うことはないでしょうか。嵐が来るときにあわてふためき、心が揺れ動きます。

◎弟子たちは何を見ていたか、見ていなかったか
 弟子たちは2回恐れました。一つは、命の危険を覚え、波と風を見て恐れました。2つ目は、イエス様の権威を恐れました。イエス様を最初は見ていなかった弟子たちは、命の危機の中でやっとイエス様に目を留めたのです。

◎私たちの信仰はどこにあるのか
 私たちも、このガリラヤ湖の出来事のように、人生の海の荒波を経験して心が揺れ動く中で、忘れてはならないことは、イエス様は、いつも私たちの心の舟に乗っていらっしゃるということです。主題聖句の(第1ヨハネ4:15)「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」にあるように、私たちの内にも主がいらっしゃるのです。

【参考聖句】
※ともにおられる助け主・真理の御霊(ヨハネ14:16〜17b)
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。・・・その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
 聖霊様が私たちの内に住んでおられるのです。
※内におられる聖霊(第1コリント6:19)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、・・・ 」

※いつまでも共におられる(マタイ28:20b)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
 イエス様は、いつも私たちと一緒に私たちの心の舟の内に乗っておられます。弟子たちは、そのことを忘れ、イエス様が偉大な神様である認識がまだなかったので、恐れました。私たちも、もしイエス様のことを本当に知り、共におられることを知っているなら、恐れることはありません。

※共に歩まれるわたしの羊飼いである主(詩篇23:4a)
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。 」
 私たちの内にキリストがおられるなら、私たちは恐れることはありません。私たちも色々な出来事の中で慌てふためき、ギリギリになって助けてと叫ぶことがありますが、いつも共に主がおられるのですから、恐れる必要はないのです。私たちの命も人生も、全部主が握っておられ、共に歩んでくださり導いてくださいます。偉大な主が共におられるから大丈夫なのです。
 私たちは礼拝の中で、一番イエス様に近づきやすいです。神様の居心地の良い心は柔らかい心です。神様は、悔いくずおれた心、へりくだって悔い改めた心を一番愛されます。自分の失敗と罪を悔い改めて、へりくだって礼拝に出るならば、そこに臨在が来ます。
 ギデオンは、敵と戦う時に、壺の中にたいまつを用意しました。戦う時には壺を砕き、中のたいまつが輝きました。私たちがもし礼拝の中で、固い心を悔い改めないでいるなら、イエス様の愛の光が輝かないということです。イエス様の前に悔い改め、心を砕いて礼拝に出ましょう。
 世の終わりまでいつも共におられるイエス様を忘れずに、今週も主と共に歩んでいきたいと思います。その姿を見て、多くの人々が主を崇めるようになると思います。

【第二礼拝:辻和希伝道師 メッセージ】
第1ペテロ2:12
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。


 今年の教会の年間聖句である第1ペテロ2:12は、異邦人の社会の中で救われた、異邦人クリスチャンに向けたペテロの言葉です。
 異邦人という語は、旧約の選民ユダヤ人視点からの語で、外国人、非ユダヤ教徒、初代教会時代はイエス様を救い主として信じるクリスチャンを呼んだ語です。
 ここでペテロが使用しているのは、クリスチャン視点からで、クリスチャン以外を異邦人と表現しているようです。
 クリスチャンとそうでない人は、信仰の大きな違いがあります。
 それはつまり人生の価値観、生き方そのものの方向性が違うのです。 私たち日本人クリスチャンもそうですが、これまで聖書の価値観に基づいた社会に生きていなかたった者が救いに導かれクリスチャンとなっても、周りの環境までが変わるわけではありません。
 生活観、しきたり、風習は変わらず私たちクリスチャン生活を取り巻いています。そうした環境下にあっても、りっぱにふるまいなさい、と聖書は言っているのです。
 りっぱな行動はどのような行動でしょうか。
 それは、人々に尊敬されるような行動です。
 私は、PTAの役割で、地域のゴミ拾いに参加したことがあります。 PTAの当番だから仕方ないという思いでしたが、PTAではない地域のボランティアの方々が率先して参加している姿を見て、本来はクリスチャンがこのような社会奉仕に積極的に参加するべきなのだろうと思わされました。
 それから月一度に教会で持たれるジョイクリーニングで、子どもたちを連れて、地域のゴミ拾いに出かけるということを始めました。
 コロナによって、まだ1回しか出来ていませんが、毎月できればなぁと思っています。
 一度や二度良い行いをしたからといっても、周りからは尊敬されません。大切なのは継続することです。
 そうすれば、私たちのりっぱなおこないを見た人々が、イエス様がもう一度来られたときに、教会やクリスチャンの存在を思い出し、神様をほめたたえるようになるのです。
 2020年は“聖め”を目標とし、神様の前に自身を整えてきましたが、2021年は、周りに対して私たちが神様の魅力を伝えることにチャレンジしていきましょう!

 

 

 

 

 

■2021年1月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

救いの喜びに輝く(1)  up 2021.1.17


主題聖句(第1ペテロ1:8)
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 

 

 

 

 今年のモットーは「おとずれの日に主をほめたたえるために」(第1ペテロ2:12)ということで、私たちは「異邦人の中にあって立派に振る舞いなさい」というみことばを心に留めて、この1年を歩んでいこうとしています。
 
 先週は(ヨハネ1:5)から、闇の中に輝いている光としての歩みをお勧めさせていただきました。
 
 今週は、(第1ペテロ1:8)のみことばから、「救いの喜びに輝く」というテーマで、三つのポイントを三週に分けてお話し致します。
  今週のポイントは(その1)「キリストを愛している輝き」です。
 
 人は愛される喜び以上に、愛することの喜びの方が大きく輝くことが出来るのではないでしょうか。皆さんが「キリストを愛している輝き」にもっと目覚めていくようにと、お勧めをさせていただきます。

 神を愛するという時、それは、崇拝するほどに尊び敬う、ひれ伏す、心から敬服する、唯一無二の方、そういう気持ちを全部込めて、「神への愛」と言っております。人間同士の愛とは少しちがいます。
 
 私たちはどのようにキリストを愛しているでしょうか。願いを叶えていただけるような存在としてしか見ていなければ、ご利益宗教になってしまいます。
 
 私にとって、かけがえのない存在であるイエス・キリスト、神様への愛、というふうに考えていただきたいと願っています。

○見たことはないのに、なぜ愛している?
 私たちはイエス様を見たわけではありません。実物を見てはいないけれど、その存在を素晴らしいと感じて愛しているわけです。
 
 この世では、実物を見て、感じて評価して愛するので、見たこともないのに愛せるか?と思うかもしれません。むしろ、イエス様を実際この目で見れないこの時代は、実はそれは大変素晴らしいことなのです。
 
 二千年前のあの時代に、私たちがもしイエス様をこの目で見ていたら、実際に弟子たちがそうだったように私たちも、表面的に、人間的な感性で、肉的な主観でイエス様を見ていたかもしれません。
 
 イエス様がよみがえられて昇天された後、もう完全にイエス様を見れなくなってからの弟子たちは、人間的な主観に惑わされることなく、霊をもって、イエス様というお方を真実に見れるようになりました。私たちも今そういう状態に置かれています。
 
 「見ないで信じる者は幸いである」と、イエス様がおっしゃったように、見えないからこそ真実な神様を見上げることができる、ということに気付いていただきたいと思います。

 では、見たことはないのに、なぜ愛せるのか、聖書のみことばを4つ挙げて、お話を進めていきます。

1)第1ヨハネ4:19
「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

○神が、まず、私たちを愛してくださったから。 
 神様が私たちを愛してくださっているということに気付く時、私たちの心に神を愛する心が芽生えてきます。
 
○「私たちがまず神を愛した」との意味の違いを考えてみましょう!
 まだ信仰を持たないノンクリスチャンの感覚としては、キリストを信じるか信じないかは自分が決める、自分の自由だと思っていますから、「私が決める、私が選ぶ、まず私が愛した」と言うのではないでしょうか。
 
○神に対する態度として、へりくだっているか高慢であるかの違い。
 そういう癖がクリスチャンの中にも残っていると、神より上に自分を置いて、その目線で神様のことばを判断し選択してしまいます。神様がどういうお方かわかっていないと、そういう態度が現れます。
 
 創造主であり、万物を治めておられる唯一のお方である神様は、どういうお気持ちで、被造物の私たちを愛してくださっているのでしょうか。
 
 神様は、罪人の私たちと同じ目線にまでへりくだって、受け入れがたい罪人を受け入れる、という愛の気持をまず持ってくださいました。そこから贖いの御業のご計画が実行されていったのです。
 
 そのことに目が開かれる時、自分は被造物であり、罪人であり、とるにたらない者なのに、そんな私を愛してくださった神様の偉大さ、素晴らしさに心が開かれていきます。
 
 まず神様が私たちを愛してくださったという、そのおことばや出来事などを知っていくことによって、見たことはないけれど愛しているという気持がそこに生まれていくのです。

2)第1ヨハネ4:10
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

○人の姿となられて、贖いのみわざによる愛を歴史に残されたから。
 イエス様はどのように愛してくださったのでしょうか。神であるお方が人間の肉体をもって、その血を流すことにより、私たちの罪を赦すということを実行してくださいました。
  
 それほどに私たちを愛してくださっているということを、歴史的事実として神様は残してくださいました。そして今に至るまで、そのキリストの贖いの御業(十字架の史実)は消し去られることなく、無意味にされてしまうことなく、神様は守り続けてくださっておられます。
 
 私たちは、そのことを事実として受け入れることによって、更に、二千年前のイエス様を見てはいないけれども愛することができる、と言えるのです。

 見たことはないけれども、愛されていることを知った経験や出来事について考えてみましょう。たとえば、先祖が子孫のためにと労苦して残してくださった財産とか事業とかによって、見たことはない先祖の方々の愛と思いやりを知ることができるでしょう。
 
 また、「足長おじさん」の物語には、手紙やプレゼント、教育資金などにより、見たことはないけれど、その人に愛されていることを感じながら成長し、愛が芽生えていく女の子が描かれています。これはキリストと私たちとの恵みの関係を表しているように思えます。
 
 人は神様を知らないけれど、神様に養われています。太陽や雨やすべてのものの恵みを受けて生かされている、それは愛されていることのしるしです。
 
 橋や川や、それを造った人は誰か知らないけれど、その恩恵を受けている私たちは、今残されている橋や川を見て、先人の愛や労苦に感謝と尊敬の気持ちを持つことができます。

○私を愛してくださったしるしとなるものが残されている。
 そういうすべての恵みに気付いて、感謝する気持ちを持てるようになるとき、それが「見てはいないけれど愛している」という私たちの神への姿勢を生み出していけるのではないでしょうか。

3)第1ヨハネ3:16
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

○神が人となられて、罪の赦しを与えるために十字架でいのちを捨てられたことによって、愛がわかったから。
 「愛が分かったから」というのがここでのキーワードです。
 
 人から愛されて、その愛が分かってくると、自然と愛する気持が出てきます。見ているか見ていないかではなく、愛が分かると、愛することができるようになります。
 愛されているんだなぁと分かるには、関わりが必要です。神様と関わりを持つには、祈りの時を持ち、みことばを読んでいく、そうすると、神様は私を愛してくださっているということが分かってきます、そして気持が神様の方に向いていくようになります。

○愛がわかる時とは、どんな時かを考えてみましょう。
 たとえば「親切」は、わかりやすい愛の行動です。神様の愛、人の愛、愛はどういうときに分かるでしょうか。愛が分かるという時に、直接に神様を見なくても体験しなくても、神を愛することは可能であるということです。

4)ピリピ1:9
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」

○みことばに基づく真の知識と、聖霊との交わりによるあらゆる識別力によって、愛が深まり豊かになったから。
 真の知識とは神のみことばです。敬虔な心がまずあって、あらゆる知識を正しく受け止めることが出来ます。そして聖霊様との祈りにおける交わりを通して、識別力(分別の力)が付いてきます。
 
 神様の愛についても、真の知識とあらゆる識別力によって「これが神様の真実の聖い愛なんだ」とわかるようになります。そして神様への愛も深まり豊かになっていき、私たちは見たことはないけれど愛しています、と言うことができるようになります。
 
 信じてそのままだと、神様との愛は深まりません。聖書を何回も読み、主を畏れる心をもって真理のことばに対する知識を深め、聖霊様との交わり(祈り)によって、実際生活の中で識別力を発揮することが出来るようになるわけです。聖霊様が、みことばを悟らせ、みことばを思い起こさせ、私たちがどう判断し、どう決断していくか、識別力を発揮できるように助け主として助言してくださるのです。

○どのようにして理解が深まっていくかを考えてみましょう。
 何事においても、一回聞いたり、一回それをやってみただけでは理解は深まりません。
 
 聖書は、神様が私たちにご自分の思いと気持ちを知らせようとして書き表してくださった書物です。一回読んだだけでは理解は浅いと思います。何回も何回も読んで、神様のおこころを強く深く感じていけるほどに、そして神様への愛が深まり豊かになるために、聖書通読は続けてやっていきましょう。
 
 このように4つのみことばから、たとえイエス・キリストを実際に見たことがなくても、愛することは可能であることを知ることが出来ました。
 
 この4つのみことばを更に心に黙想しながら、神を愛することへの行動をチャレンジしていただきたいと思います。

【俳句】

椎茸の  無い鍋焼きに  愛を見る

 椎茸が食べれない人は、椎茸の除かれた鍋焼きを出されたとき、それを作ってくださった方のその心遣いの中に、愛を見る思いがいたします。私たちも、ちょっとした気遣いや心遣いを通して、実際に見ていなくても愛することが出来るものですね。

 

 

 

 

 

■2021年1月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『清光素色』(せいこうそしょく)  up 2021.1.10


主題聖句(ヨハネ1:5)
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

 

 

 

 今年のテーマは「おとずれの日に主をほめたたえるために」です。私たちが主をほめたたえる者となっていなければ、周りの人々がそれを見ることができません。ですから、まずは私たち自身が、もっと主を知って、主を求めて、主を愛し信頼して、主の素晴らしさに心から賛美があふれる者になりたいと思います。

 今年のモットーのみことばにある「異邦人の中にあって立派にふるまう」とは、今日の主題聖句にある「光は闇の中に輝いている」ということではないでしょうか。
 そこで、今日の表題は「清光素色」(夜中に清らかな月の光が輝いていること)です。夜中の深い暗闇に輝く月の光は、私たちが異邦人の社会にあって立派に振る舞い生きていく姿のようです。
 私たちは光として闇の中で輝く者であるという自覚を持って、この一年を進めていただきたいと思います。

1.困難=暗闇=不敬虔な時代 
(第2テモテ3:1−5)
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」

A)今は再臨の近い終わりの日 
 パウロは、この終わりの時代に世の中がどのような状態であるか、どのように進んでいくかを、御霊に示され語っています。
 
 日が暮れて夜になり、そしてその夜がだんだん進むにつれて世界は闇に覆われ、闇が深まっていき、そして困難な時代がやってくる、すなわち敬虔な者にとって暗闇の時節がやってくると語っています。

B)敬虔な者にとって暗闇の時節  
 今や時代は、再臨の手前に来ています。夜も一番深い暗闇のときです。色々な不敬虔な人々が満ちあふれ、道徳は崩壊し、不敬虔が常識となっています。50年前に比べてさえ、不遜で俗悪な者が増え、こんなにも悪が堂々とはびこり、善の現れにくい時代となっているのですから、二千年前に比べたら、もうどれほど悪い時代となってしまっていることでしょうか。私たちもそれをよく心しておかなければなりません。

C)承知=覚悟=心構えを持つこと 
 それだけ困難な時代であるからこそ、私たちはもっと主を求めることが必要です。安心してはいけません。時代はもっと厳しくなります。善を悪とし、悪を善とするような社会になります。
 
 昔、イスラエルの指導者たちは、口先では良いことを言っても、心の底では悪を思い、悪を行い、神のことばを守っているように見せかけて、真理ではないところに民を向けさせていくというような堕落した状況がありました。私たちもそのように流されないように、よく承知し、覚悟を持ち、心構えを持つ(備えをする)ことが大切です。

D)見分けるための暗闇の一覧表
 パウロは次の教会リーダーのテモテのために、困難な時代が来るから教会員を守るようにと、不敬虔な者の姿を書き上げています。
 
 私たちもどこかでそういう不敬虔な態度をとっていないか、自分自身を吟味するためにも良い一覧表だと思います。

 今週は、「光として」立派なふるまいをしていくとは、どういうことかを考えてみましょう。

2.「光」として来られたキリスト
A)ヨハネ8:12  
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』
 
世の光=この世は光が必要である 
 イエス様は、ご自分の立場、態度、役割を「世の光です」と、はっきり語っておられます。この世は暗闇の世界であり、そこに光が必要だから、私は光としてこの世に来た、と語っておられるわけです。
 
いのちの光をもつようになるため  
 また、暗闇の中にいる人たちは、暗闇に覆われて自分も他人も何も見えていません。そこに光がもたらされると、闇に覆われていた人たちが現れてきます。そして自分が見え、まわりの人も見え、自分が何者かがわかると、自分の生き方ができるようになります。
 
 あらゆることが見えるようになる、すなわち真理が見えるようになるために、イエス様は世の光として来られた、と語られています。

B)ヨハネ12:46 
「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」

光として=人々を照らす灯火  
 人間は光がないと動けません。人生を歩むために光が必要です。
光なるイエス様は、人間を照らす灯火として来られました。灯火を持つ者は健全な歩みをすることができます。たとえ闇の中にいたとしても光を持てば間違いを犯しにくくなります。

やみの中にとどまることのないため 
 私たちが光を持たなければ、闇に覆われて自分も闇のような状態で過ごしていかなければなりませんでしたが、イエス様が私たちの灯火として来られて、私たちに灯火を与えてくださいました。
 
 私たちの生活に人生に、暗闇の世界があったとしても、その中で私たちが光として歩むことができるための灯火として、イエス様は来てくださいました。「光として」、それは私たちを照らすだけでなく、私たちが「持つ」という意味でも語られている表現ではないでしょうか。
 
 このように光としてのイエス様のお働きを見てきましたが、私たちも同じように、イエス様から「あなた方は世界の光です」と言って頂いています。イエス様と同じような光の立場、役割、働きをすることが、「異邦人の中で立派にふるまいなさい」というみことばが実現するために必要な、私たちの光としてのクリスチャン生活なのです。

3.世界の光であるクリスチャン
(マタイ5:14−16)
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを桝の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。」

A)光は隠れることができない 
 光の立場にある人は人目にさらされるものです。不敬虔な人からは指摘され、批判され、非難されます。それが嫌で信仰を隠しておこうと思っても、光ですから隠せません。中途半端になって余計非難されます。どうせ非難されるのなら、むしろ堂々と光を輝かせて、非難を受けたらいいのです。それが神を敬う敬虔な者であることのしるしです。非難を恐れるのではなく、不敬虔な人の仲間ではない自分の立場というものをいつも自覚しておくことが必要でしょう。

B)人々を照らすための燭台 
 燭台の役割は何でしょうか。「家にいる人々全部を照らす」のは灯火の光の働きです。燭台はその灯火を上に置いて、灯火が人々を照らすためにあります。灯火が人々を照らさなければ、燭台は意味がないのです。
 私たちはイエス様から灯火を頂いた者(燭台)です。光っているのは灯火の炎であり、燭台ではありません。炎の光が燭台も周りのものも照らしているのです。

C)あなたがたの光とは、キリストから受けたみことばの光
 「人々の前で輝かせ」というこの光は、ヨハネ福音書で「すべての人を照らすまことの光」「この方(ことばなる神)に、いのちがあった。このいのちは人の光であった。」と言われた「光」です。
 あなたがたは、「神のことばであるイエス・キリスト」という灯火を持って、人々を照らすのです。
 「あなたがたの光」とは、あなた方自身が光になったというよりは、キリストのみことば(灯火)を持って光っている、という意味です。

D)みことばに生きるのを見た人々は神をあがめるようになる。
 みことばに生きる私たちの姿を見た人々は神をあがめるようになる、これは(第1ペテロ2:12)で、異邦人の中にあって立派にふるまいなさい、とペテロが語っていることの成就です。これが私たちの目標です。
 世界の光として私たちが輝くのは、みことばの光を持って、自分自身だけではなく周りの人々までも照らし、そして光をもって歩んでいる私たちを見た人々が、神をあがめるようになるためです。
 
 これが私たちの光としての歩み方、イエス様から受け継いだ光の歩み方なのです。

 今週は皆さんも光としての歩み方をぜひ考えてみてください。ヒントとしては(第2テモテ3:1−5)にある不敬虔な人のリスト、その逆を考えてみるのも良いでしょう。

【短歌】
曙は  義人の道の  シンボルで
   輝き増して  真昼に至る    

 私たちの歩みは光としての歩み、それはまるで曙のようです。夜明けの空、ほのぼのとした曙、それから少しづつ陽がさし昇り、やがて眩しい太陽の真昼になります。
 
 これは光が増し加えられていく私たちのクリスチャン生活の歩みとも言えます。最後は真昼に至る、それは永遠に続く新しいエルサレム、神が太陽として輝いておられるので、日暮れがありません。

 真昼の輝き、それは神の国。私たちもそれを希望として、太陽が昇っていく真昼に至るまで、それを励みとして、光として歩むことをあきらめず進んでいきましょう。
 
 そしてまた、夜の星のことを思ってみてください。夕方の空に輝く一等星は美しいものです。他の小さな星々はまだ光っていません。しかし、真夜中になると、大小さまざまな星が一斉にそれぞれの光を放って素晴らしい天の川をみせてくれます。

 今は真夜中の時代ですから、どんな小さな星のクリスチャンも光として人々の目に映るのです。何の役にも立たないのではなく、小さな弱い光でも必ず見えるのです。大きな光と小さな光が組み合わされてこそ、美しい夜空となっている、皆必要な光の存在です。

 光の子として、今週から世の光としての歩みを自分なりに目指していっていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2021年1月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

おとずれの日に主をほめたたえるために  up 2021.1.3


主題聖句(第1ぺテロ2:12)
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

 

 

 

 

 2021年、私たち教会のモットーは「おとずれの日に主をほめたたえるために」であります。

 「おとずれの日」、すなわち主が再臨される時、私たちは勿論のこと、周りのノンクリスチャンの人々も主をほめたたえるようになり、すべての人が「イエスは主」と告白するような証しが出来るクリスチャン生活としたい、そういう願いを込めたものです。

 それは再臨の主にお出会いするという、そのゴールを目指してのことです。私たちだけが喜ぶのではなく、他にも主に愛され主を求めている人は多くおられる筈です。その人々をつまづかせないように、むしろ世の光として私たちが輝き、光を求めてくる者たちが集まって来ることが出来るように、そういう証となる一年を備えていこう、そんな気持ちをこのモットーに託して、皆さんと一緒にこの一年を歩んでいきたいと思います。

 最後に主を賛美する者は誰か、最後に喜ぶ者、最後に勝つ者が本当の勝利者です。最後の最後、世の終わりに主をほめたたえる者は誰か、その人こそが永遠のいのちを得る者である、そういう意味をここに込めています。

1.2021年聖句
(第1ペテロ2:12)
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
 
 どんな不敬虔な罪人でも、私たちを見て、そしてイエス様が来られた時、驚嘆して自分たちが愚かであったと気付き、「イエス・キリストこそまことの神であった。クリスチャンたちが信じて歩んでいたあの一人一人の生活が、これで確かなものとなったんだ」と、ノンクリスチャンたちさえも神を賛美するようになるというのです。何と素晴らしいことではありませんか。本当に主の再臨を信じているのなら、そのような人生を築き上げていくことが大事です。皆さんもこれを2021年の聖句として、しっかり心にとどめていただきたいと思います。今日はこのみことばから4つのポイントをあげてみました。

A)異邦人の中
(第2テモテ3:1−5)
「終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」
 神に選ばれたユダヤ人に対して、異邦人とは、神ならぬものを神として崇め従い祈っている不敬虔な人々を意味しております。その具体的な状況は(第2テモテ3:1−5)に書かれてある通りで、この世界は、そのような人々で満ちております。そして多数決により不敬虔な事が多く決まっていっているのです。
 そのような「異邦人の中にあって」、敬虔に生きるということは、非常に辛いことも多く起こることと思います。

B)立派な振舞い
(第2コリント6:1−10)
「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきをあたえないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれる時にも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」 
 私たちもこのようでありたいと思いますが、とても難しいことです。しかし、罪人であった私たちが、このような敬虔な立派な振る舞いが出来るように変えられていっている、そういうことを、この一年で一つ二つ三つ四つと、証していけたらいいと皆さんも受け止めていただきたいと思います。
 私たちはイエス様を信じて、このような生き方が自分にも出来るようになる、そういう希望をイエス様の救いを通していただいた者です。欲望の神から解放され、罪の奴隷から解放された結果として、このような敬虔な生き方を目指すことができる、そういう希望をいただいて、今チャレンジしてきているわけです。
 皆さんが最後まであきらめず、このような歩みが出来るようにと、イエス様は十字架で私たちを贖って、すべての罪の呪い、病、すべての罪の力から私たちを解放してくださっているのです。罪は私たちに対して何の力も持っていません。そういう状態に私たちは置かれているのです。
 罪に縛られて自分はもう駄目だと思ってる人がいたら、神は十字架であなたを罪から解放してくださったのだという真理に立ち返り、神への信頼を強めていきましょう。
 そのためにも十字架のイエス様の血潮を仰ぎ見て、「自分は救われているんだ」と、神様に感謝と賛美を捧げていただきたいと思います。

C)迫害が伴う
(第2テモテ3:12)
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
 迫害を受けるのはなぜでしょうか。この世界には不敬虔な人々が多くいます。それは間違っている生き方です。そこに真実を語り行う者が現れると、彼らは抑え込みたくなります。自分たちが正しい、彼らが間違っていて、空しく意味がなく益にもならない者なのだと迫害するのです。
 もし皆さんが聖書のみことばに沿った意見や行いを、会社や家庭や地域社会などで表したら、ちょっと変な人と思われて、侮辱するような態度や言葉が帰ってくるかもしれません。それは迫害を伴うクリスチャン生活です。その時は、自分が正しい状況にあるのだと確認してください。そして、周りの人々の不敬虔な感性、感覚に妥協しないように、堂々としていることが必要です。
 ペテロは、あなたのことを迫害しているような人も、おとずれの日には主をほめたたえるようになりますと、確信をもって断定しています。そして、それは確かな証しがそこに実を結んでいたからだ、とも語っています。

D)確かな証し
(第1ペテロ1:7)
「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」 
 私たちが味わう迫害は、信仰の試練であり火の試練です。(第1ペテロ1:7)では、信仰の試練を受ける私たちを、火で精錬される金に例えています。
 イエス・キリストを通して神の愛を知った人々、そして信仰の試練にあって霊的きよめを受けていく人々は、全世界の大多数の不敬虔な人々の中にあって本当に数少ない希少価値のある金のような存在です。
 「あなたはわたしの目には高価で尊い」と神様が言われるのもそのためです。まことの神を信じて希少価値の高い人生の歩みを進めていることに確信をもって、迫害の中でもなお神様を愛し信じる姿勢を貫いていきたいとおもいます。

2.おとずれの日を迎えるために
 この一年を過ごすにあたって、あなたの信仰を侮っていた人たちも、イエス・キリストの再臨が近くなるに従って、その心がまことの神へと変えられていく、その様子を見る私たちも心しておきたいことを三つご紹介いたします。

A)「得魚忘筌」(とくぎょぼうせん)
 「得魚忘筌」とは、魚を得て、そのための道具であった筌(やな)を忘れることから、目標を達成すると、そのために役立ったものを忘れてしまうということのたとえです。
 私たちも結果だけを追い求めて、大事なプロセスをなおざりにしてしまうことがよくあります。
 与えられた神の赦し、その平安、安心、望み、喜び、私たちはその救いの中で幸せを味わいながら、好きなように生きてしまい、最も大事な「十字架」の感謝が薄くなってしまいます。そういうことがないように気を付けなくてはいけません。

(詩篇103:2)
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
 
 サウル王様にいのちを狙われて、辛い逃亡生活を送ったダビデでしたが、今となってはそれも神の恵みであった、神はいつも私によくしてくださったと、ダビデは神をほめたたえています。
 再臨の日まで、私たちの人生は自分の主観によれば良いことも悪いこともあるでしょう、しかし、すべては最後に主をほめたたえるために神が良くしてくださったことなのだ、と思うことが大事です。

B)身分をわきまえる
(第1ペテロ3:9)
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
 私たちはどういう身分の者でしょうか。私たちは祝福を受け継ぐために、キリストを通して神の国に召された者です。祝福を受ける者が相手を呪ってはいけません。私たちは神の子です。その自覚が薄いと、相手の不敬虔な態度に引き込まれてしまいます。まことの神を信じ信頼している者として、不敬虔な者に揺さぶられないように、相手のどのような言葉も大きな寛容な心をもって受け止めましょう。

C)喜びなさい
(ルカ10:20)
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
 確かに神はあなたを覚えて、キリストにあって心の名簿にしっかりと刻んでくださっておられます。これをキリストの十字架を通して信じ続けることが必要です。
 私たちがどんな良いことをしたからというのではなく、イエス様を信じたそれだけで、私たちの存在は永遠に神の国にあるのです。御国の名簿にはすでに名が記されているのです。何と嬉しく喜ばしいことではありませんか。この喜びをいつも繰り返し心に思い出しながら主をほめたたえていきましょう。

 これが、おとずれの日を迎えるための大事な三つの大きなポイントです。これを心に覚えて、ご一緒に一年を過ごしてまいりましょう。

【短歌】
新年の  神の恩恵  感謝して
主をほめ讃える  証の一年

 
 あなたが一つでも神をほめたたえることができるものを、例えば、天にあなたの名が記されているということだけでも、ほめたたえ切れないような、素晴らしい救いの出来事が私たちに与えられているのです。こういう心を持っていれば、どんなことが起ころうとも感謝し喜びをもって一年を過ごすことが出来るのではないでしょうか。