■2020年12月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

内住神言  up 2020.12.27


主題聖句(コロサイ3:16)
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

 

 

 

 

 今日は、この一年の総まとめのメッセージになります。
 
 私たちは、どのようにしたら互いに良い交わりを保つことができるのでしょうか。その秘訣は、キリストのことばを内に豊かに住まわせることです。また、それがきよめとどのように関連するのでしょうか。

『ことばが人となられたキリストのように、神のことばを宿すことが、
聖められることを追い求めることである』

 これが今年のまとめであり、結論です。この聖なることばがイエス・キリストとして肉体をもって来られたのですが、肉体のままだと私たちの内に宿ることはできません。それで、天に帰られてから、ことばなる霊を私たちの内に送ってくださいました。それが聖霊様であり、また、この聖いみことばが私たちの内に宿るということは、私たちがきよめられているということを意味します。

1.聖めの三大ポイント
 今年一年の礼拝メッセージをまとめたのが、次の3つのポイントです。この3つのポイントを守れば、今年一年具体的に語ってきたことが、効果的に生活の中に表れてくると私自身感じています。ひとつでもおろそかになったら崩れてしまい、きよめが進まなくなってしまいます。3つとも大切などれもおろそかにできないポイントです。

A)神のチーム「ハギオス」に入団
 これは絶対にキープするべきポイントです。辞めるか入るかは個人個人が自分で決めることです。神はいつでも招いてくださっています。例え自分はきよくないと思っても、神に属するきよいチームの一員として歩むことができるのです。これが大切なことです。
(ローマ10:9〜10)
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」
 信じて義とされる。これが入団の条件です。救い主イエス・キリストの罪のための贖い、それが神の愛から出ているということを信じることです。
 また、救いが完成していくためには「告白」が大切です。「私の主はイエス様であり、この方以外に神はいません。」と告白し続ける、この姿勢が大切です。決してこの姿勢を手放してはいけません。あなたがとどまり続けることが神の願いであり、御心なのです。

B)神の愛のうちに留まり続ける
 神の愛が動機となり、ハギオスのチームに留まり続けられます。
(ヘブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 キリストの血とは神の愛です。神の愛に魂、霊が触れられることを通して、正しい良心を持つことができるようになります。
 神の愛によってのみ、良心がきよめられ、邪悪で麻痺していた良心からきよい正しい良心に変えられ、善悪を見分け、死んだ行いから離れられる力が与えられるようになるのです。愛の動機があってこそ、罪の死の力から離れられるのです。

C)汚されないように警戒する
 せっかくきよめられたのに油断していたら、また汚され、汚されてしまいます。そのためには警戒していないといけません。誰が何がいつと警戒していないと、ふとしたことで汚れが付いてしまいます。
 警戒をしなかったら危険な状況に巻き込まれてしまうことがあります。警戒することは大事なことです。
(ルカ12:15)
「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
 いのちの価値は財産によって測られません。きよさこそがいのちの価値なのです。汚れてしまうと欠陥品になり、真の価値を失ってしまうのです。いのちは財産や能力や名誉やそういったもので価値付けられるものではありません。どんな貪欲にも汚されないきよさこそがいのちの価値なのです。
 貪欲とはむざぼりであり、むさぼりこそは偶像礼拝です、不満やつぶやきなど欲からでてくる色々なむさぼりがあります。むさぼりとは、まことの神に似せたもの欲望の神に仕えることになり、まことの神に対するきよい愛が汚されてしまうことになるのです。警戒しなければなりません。

2.みことばを宿す
A)みことばを聞くことから始める
(ローマ10:17)
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
 イエス様を信じるとはことばなる神を信じることであり、ことばなる神そのものであられるイエス様の語られたことばをすべて信じることです。まずは聞かないと信じられません。そして信じないと行動に移せず、信仰が働かなければハギオスに入団しているかどうかもはっきりしません。イエス様を信じるとは、そのおことばをすべて信じるということです。

B)みことばを素直に受け入れる
 クリスマス礼拝で語られた4つの種の話の中で、実を結べたのは、良い地に落ちた種だけでした。種とはイエス様のみことばであり、良い地とはみことばを素直に受け入れる心のことです。疑いが出ても、そうではないと素直に受け取れる心こそが良い地です。
(ヤコブ1:21)
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
 みことばが私たちの内に成長して力をつけてきて、実を結びます。それは魂が救われるということです。悲しみや苦しみ、逆境の中でもだえているその悩みから、あなたの内にあるみことばがあなたの魂を救ってくださるのです。
 まず素直に受け入れることが大切です。人間的には不可能に思えるようなみことばでも、全能なる神のおことばなのだからと受け入れることが大切です。その過程で私たちは試されます。本当に神の愛を信じているのかと。例え良い地であっても雑草があったり、頑なさがあったりします。それが良い地に変わるために色々な試練を通されるのです。どんなことがあってもみことばを信じる姿勢を保ち続けましょう。

C)教えられたみことばを実行する
 聞くだけに終わらず、聞いたら実行するという次元に移ります。
(ピリピ4:9)
「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
 パウロは聖霊に満たされてピリピの教会で教え、証しました。その教えられたことばをまずはできるかどうかを考えるのではなく実行してみることが大切です。できるかどうか、実がなるかどうか種を蒔く前に考え込んでも仕方ありません。まずは種を蒔き、全部実るものだと信じて手入れをし、育てていくことが必要です。みことばを実行するとはみことば通りの行動を取る中で、育てるというプロセスが大切なのです。
 イエス様は赤ちゃんとして地上にお生まれになりました。みことばなる神が私たちの汚れた馬小屋のような心に、まずは宿ってくださったのです。語られたみことばはすべて心に蒔かれたのです。その赤ちゃんであるイエス様をマリヤとヨセフが育てられたように、私たちも育てていく必要があります。それが、A)〜C)です。祈り続ける、告白し続ける。賛美し続ける。信じ続ける。そのように続けることが大切です。
 みことばを宿すことでなぜきよめられるのかを簡単に示すと、
 神のことばが人となられた→イエス・キリスト=受肉
 みことばを住まわせる→義とされた罪人=受肉→(キリスト)主と同じ 姿に変えられていく
 
 どちらも同じ受肉ですから、私たちもイエス様と同じ姿に変えられていくということなのです。みことばの実がなるようにと育てていくほど、イエス様と同じきよい姿に変えられていくということです。これがきよめを追い求めていくことの結論です。そのために三大ポイントを忘れないようにしましょう。

【短歌】
年歩む きよまる一年 追い求め 
みことばを宿す 世の終わりまで

 

 

 

 

 

■2020年12月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あなたを救うみことば  up 2020.12.20


主題聖句(ヤコブ1章21節)
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 

 

 

 

『四つの種』 

 今日はイエス様の「四つの種」のたとえ話から、クリスマスを考えていきたいと思います。テーマは「あなたを救うみことば」です。

 イエス様がこのたとえ話を解き明かされたとき、種とはみことばのことであると言われ、4つの場所(こころ)に落ちた4つの種について説明をされました。 このたとえ話から、クリスマスに登場する主要な4組の人物の心の状態を見ることができます。

★道ばたに落ちた種 ⇒ヘロデ大王 
 「道ばた」とは、【不敬虔な高慢な心】を表しています。神様を畏れない敬わない心、神様のおことばを受け付けない態度です。それはイエス様を殺そうとしたヘロデ大王の心と言えます。
 
 ヘロデ大王はローマ帝国に任じられてユダヤの地方の領主となり、王の身分を得た人ですが、ダビデ王の血筋ではなく、神様のおことばが定めた「王」には当たらない人物でした。神様のおことばを畏れないヘロデ大王とその息子は、大変横暴な王様で、イエス様を十字架につける方向へと動きました。
 道ばたに落ちた種は鳥(サタンの比喩)が食べてしまうと喩えられています。神のおことばを無意味な、力のないものにしてしまう働きが、「道ばた」という闇の心にはあるということです。

★土の薄い岩地に落ちた種 ⇒羊飼いたち 
 「土の薄い岩地」とは、【影響をうける弱い心】を表しています。
 一度はイエス様を信じ受け入れるのですが、周囲の影響を受けて流されて信仰を弱らせる状態です。これは羊飼いたちの心と言えます。 
 羊飼いたちは、天使たちが現れ「救い主がお生まれになる」と聞き、喜んで星に導かれていき、救い主のお生まれになった小屋にまで導かれたという素晴らしい体験をしましたが、その後、野原に戻って、どうなったでしょうか。いつものように羊の世話をしながら、弱い立場の彼らは結局、社会的に力のある人々についていき、あの素晴らしい体験は過去の出来事となってしまったのではないでしょうか。

★いばらの中に落ちた種 ⇒博士たち 
 「いばらの中」とは、【多くの知識と多忙な心】を表しています。
 世の沢山の知識を持ち、仕事も楽しみも色々とやることがある、そのような状況の心には、種は芽を出しても実を結ぶには至りません。
これは博士たちの心です。
 博士というのは、東方のバビロンから来た星占いの学者たちです。
 バビロンと言えば、イエス様がお生まれになる600年前の頃、ユダヤ人が捕囚の民として連れていかれた地です。優秀な人々が多く連れていかれ、その中には有名なダニエルという預言者もいました。彼は夢の解き明かしの賜物があり、王に仕えてバビロンの術師や占い師の長となるほどの地位が与えられています。
 そこから類推すると、バビロン帝国は間もなく滅びましたが、その地域には星占いなど色んな学術や知識が豊富で、賢い人たちが多く、ユダヤ人血統の学者もいたかもしれません。
 そしてユダヤ地方に救い主がお生まれになるという聖書の預言があって、その日時や方向を研究していたかもしれません。

 また、更に昔のモーセの時代には、バラムという異邦人預言者が、「星が現れる時、イスラエルにメシアが生まれる」と預言していて、その記録が聖書の民数記に残されています。博士たちは星の研究や預言書、歴史書の研究などに熱心で、3人の博士も多くの知識を学んでエルサレムまでやって来たと思われます。
 
 このように多くの知識や経験、あれやこれや考えること、することの多い人たちは、一つのことに集中することが出来ません。神のみことばだけに、心を向けるということが出来ません。
 彼らも救い主のお誕生の奇跡を見た後は、また学術や占いの多忙な世界へと帰っていきました。

★良い地に落ちた種 ⇒ヨセフとマリヤ 
 「良い地」とは、【敬虔な心】を表しています。
 神様を心から敬い、神様の前にどう生きて行こうかと、神様を一番に考えていく姿勢です。
 ヨセフとマリアは天使から「救い主がお生まれになる」というおことばを頂き、それを大事に信じて、ヘロデ王の手からイエス様を守り救い育てていきました。

 このように、「四つの種」の例え話を、クリスマスに登場する中心人物の4つのこころに当てはめて考えてみました。
 神のことばが種として私たちの心にまかれるというお話でしたが、では、この「神のことば」とは何でしょうか。

 

『人となられたみことば』
(ヨハネによる福音書1章14節)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
 これはどういうことでしょうか。誰のことを言っているのでしょう。
1章1節には「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と記されてあります。
 神である「ことば」、「ことば」である神が、人となってこの世にお生まれになり、そしてふつうの人のように生活された、そのお方とは、イエス・キリストです。
 この状態を専門用語で「受肉する」と言います。
 この「受肉する」ということが、今度は私たちにも与えられる経験となるのです。

「私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。」
 見えない神が見えるかたちとなって世に来られたイエス様に、ヨハネは神の栄光を見たと語っております。
 創世記1章には、目に見えない神様が、ご自分のかたちとして、ご自分に似せて、人(アダムとエバ)を造られたことが記されています。造られた人の姿は、私たちのようなこの姿でした。ただ、その中味については何も記されていません。
 イエス様が、人のからだを持ってこの地上に来られたときは、「ことばは人となった」とあるように、イエス様の中には「神のことば」が宿っておられました。そしてその姿を見た弟子たちは「栄光を見た」と言っております。
 私たちも神のかたちに似せて造られて生まれてきましたが、心の中に神の「ことば」は宿っていませんでした。
 私たちの本来のあるべき姿は、イエス様のように、神のことばを宿して神の栄光を現す姿です。しかし、アダムとエバが罪を犯したことにより、私たち人間の内側は、皆生まれながらに汚れており、きよいみことばを宿す状況ではありませんでした。ことばなる神が、私たち人間の内に住まわれるためには、罪が取り除かれる必要がありました。それゆえに、救い主イエス様は十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったのです。
 私たちの罪をすべてご自分の上に負ってくださり、受けるべき罰を私たちの代わりに受けてくださり、私たちのかわりに血を流して死んでくださいました。それを信じる者たちの内に、ことばなる神イエス様は宿ってくださって、私たちが生きることができるようにしてくださったのです。
 信じる者は救われます。信じることは、神様のみこころである「赦し」を私たちが受け取ったというしるしであります。それは神様だけがお分かりになることです。
 このようにして私たちは、キリストの十字架の贖いの御業により、「赦されている罪人」として、今この地上にいるわけです。これが信じる者のうちに与えられる赦しであります。

「この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 外面は神の姿でも内面は罪人のすがたであるのが私たちです。
そして、イエス様はいのちを与える心に満ちたお方、自分の愛する尊い者のために命までも捧げることのできるお方です。この恵みの心、まこと(きよい真実な愛)を持っておられるイエス・キリストは、私たちが神の子としての元々の姿に立ち返ることが出来るようにと、ご自分のいのちを惜しみなくお与えになりました。
 その与える心を、きよい真実な愛をもって実行されたのが、二千年前のあの十字架です。
 イエス様がこの地上にお生まれになったのは、私たちの罪を赦すために身代わりにその裁きを受けて死ぬためです。死ぬ目的を持って、この地上にお生まれになった救い主でした。
 これは歴史に刻まれた事実です。一人のユダヤ人が十字架刑に処せられたなど数多くの文献が確かに残っている歴史的出来事なのです。
 
 次に、このことばなる神が私たちの内側に宿ったらどうなるのかを見ていきましょう。

『救魂神言』
(ヤコブ1章21節)
「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」
 
 神のみことばなるイエス・キリストを心に迎え入れると、あなたがたの魂を救うことが出来ます。人生の悩みや真理に対して、また世の中の理不尽な出来事に対して答えを与えて、私たちを迷いの道から救い出してくださいます。私は何者であるかについてもはっきりと答えを与えてくださいます。
 みことばを私たちが読むのは、イエスキリスト(神のことば)を宿すためです。宿せばあなたは救われます。あなたの魂は色んな重荷から解放されます。空しい苦しい人生の負い目を生き続ける人生ではなく、意義ある価値ある人生を負って生きることが出来ます。まさに救いが与えられるのです。
 キリストは神のことばとして心に宿られ、魂を救ってくださいます。

 みことばが宿り、魂が救われて、永遠のいのちの国へと入ることができるように、イエス様の罪の赦しの御業がありました。
 そのために、ことばなる神は、人としてお生まれになりました。
 人の肉体が聖なる神のみことばを内に宿しておられるのを見せてくださいました。そしてその神のことばが、今度は私たちの内にも宿ることが出来るようになるのです。

  イエスキリストの十字架の罪の赦しを信じて、聖なるみことばイエスキリスト、聖なる神のおことばを受け入れましょう。そうすればあなたは救われます。
 
 4つの種が落ちた4カ所の地のうち、みことばを受け入れることが出来たのは4番目の地でした。敬虔なこころに、イエスキリスト(聖なるみことば)は宿られて、育っていくのです

【俳句】
クリスマス  心にみことば  宿った日

 12月25日がクリスマスではありません。みことばが宿った時がクリスマスです。そこからが、あなたの魂が救われていく人生なのです。
 聖書には神様の色々なおことばがあります。一つ一つのおことばが宿るたびに、あなたにとってそれはクリスマスなのです。

 「4つの種」のたとえのように、3つの悪い条件ではみことばは育ちません。イエス様を育てたのはヨセフとマリアでした。

 今、私たちの心にお生まれになっているイエス様を育てていくのは私たちの役目です。それは私たちの心が、ずっと敬虔な心を持ち続けることが出来るためです。私たちが手をかけて育てなければ実を結ぶには至りません。私たちにはするべきことがあるのです。
 イエス様は、みことばとしてあなたの内にあって、実を結ぶまであなたにしっかり守ってほしいという思いを持って宿っておられます。
 これからもイエス様のみことばをしっかり育ててまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2020年12月13日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

イエス様の誕生・東方の博士たちの礼拝  up 2020.12.13


主題聖句(ルカ2:10〜11)
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】
1.イエス様の誕生
(ルカ2:10-11)
"御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。"

 気が付けば、今年ももうクリスマスで、2020年も終わろうとしています。今年はコロナによって本当に大変な一年でした。まだまだ長いトンネルを抜けない状況で気持ちが落ち着きませんが、せめてクリスマスだけはイエス様がこの地上に来られたストーリーをじっくり味わいたいものです。

 クリスマスと言えば華やかなイメージがありますが、イエス様の誕生の仕方はとても華やかなものではありませんでした。神であられる方が人となるだけでも大変なことなのに、イエス様は、人の胎内に留まるところからされました。生命力としては一番弱い時期に、ナザレからベツレヘムまでの長距離の旅、出産時は馬小屋という環境、生まれて後もヘロデ王に命を狙われるなど、いくつもの困難を経ての誕生だったのです。

 また、人間的な華やかな家庭ではなく、人知れず大工の息子として幼少期を送られました。

 いと高きところにおられたイエス様は、人の罪を身代わりに負うために、一番低い所へ来てくださったのです。それがクリスマスなのです。イエス様の誕生を心から感謝します。

【横路伝道師メッセージ】
2.東方の博士たち(マタイ2:1〜12から)
〇救い主を礼拝したいと旅に出た、東方の博士たち
<マタイ2:1〜3>
“イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」”

〇東方の博士たちから学ぶこと
 この博士たちは、バビロニア地方ではないかといわれていますが、2千qもあるような所からキャラバン隊を組んで、大勢の従者を連れて、旅をして来たといわれています。バビロニアには昔バビロン捕囚があり、ユダヤ人が捕囚としてたくさん連れて行かれたので、そこで神様を礼拝する人々がたくさんいました。その中で、旧約聖書に救い主が来られて世界を治められるということを知っていたのではないかと思います。この博士たちは占星術か天文学者であって、歴史の探究者であり、天体を通しての印があることを研究する人たちでしたので、偉大な王がお生まれになるという印の星を見つけたのです。彼らはまことの救い主、世界を治める王がお生まれになるのなら、行って礼拝をしたいという熱い願いをもちました。

 救い主を求める心は、私たちの心でもあります。神様に造られた人間には、造ってくださった神様を求める心、礼拝する心があります。造り主に出会うことが私たちの人生の目的であると思います。
 この博士たちは、多くの犠牲を払い、あるいは財産も処分して、多くの人を雇い、隊列を組んで荷物をたくさん積んで、すごい決心を持って出かけたと思います。途中たくさんの困難があったでしょう。それを乗り越える忍耐力が彼らにはありました。その目的は、礼拝でした。

 私たちも、教会に礼拝するために毎週主を求めて来ています。やがて天の御国に行って顔と顔を合わせて主を礼拝する時が来ます。
 目的達成のために困難があってもあきらめず、つぶやかなかった博士たちのように、私たちも色々な困難がありますが、つぶやかず、あきらめずに礼拝し続けるということは、私たちの生きる目的なのだと思います。

〇王と民はなぜ恐れ惑ったのか
(マタイ2:4〜6)
“そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘム」です。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』”
 王様が代わるということは、争いや混乱を招き、当時の世界ではとても大変なことでした。ヘロデ王も知らない新しい王が生まれたということは、ヘロデ王にとっては驚きであり、これは潰さないといけないと思いました。
 また、このことは旧約聖書で預言されていたことなので、祭司長や学者たちも知っていたのですが、まさか今起こるとは思っていませんでした。ここで、預言は必ず成就するということを見ることができます。聖書の中に500以上の預言があり、そのほとんどが預言通りに成就しています。
(マタイ2:7〜8)
“そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベッレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」”

*ヘロデ王の正体(自己中心と狡猾さ)
 ヘロデ王は、実は拝むどころか殺そうとしていました。ヘロデ王は自己中心と狡猾さがありました。まさにサタンの型であります。博士たちをだまし、スパイとして使おうとしていました。そして兵を送って殺そうとしました。自分の王権が奪われるからです。
 私たちも自分の思い通りにならないことが起こると、いらいらしたり人を悪く思ったりしてしまいます。闇の力に影響されないように、気を付けないといけません。
(マタイ2:9〜12)
“彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリアとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。”
 博士たちは、印の星が天にあらわれて導かれ、それについて行き、イエス様のおられるところに星がはっきりととどまったので大喜びしました。そして、喜びに満たされてイエス様を礼拝しました。
 神様は、求めている人に必ず応えてくださいます。博士たちの礼拝したいという聖い願いに応えてくださいました。
 導いたこの星は、みことばと聖霊様を象徴していると思います。私たちもみことばと聖霊様に導かれてイエス様のところへと毎週導かれていることを感謝します。
 
 博士たちは、幼子の前にひれ伏したとあります。まだ2歳くらいの幼子に対して心からへりくだって礼拝したのです。そして贈り物として三つの宝物をささげました。
 黄金は、永遠の王権のしるしでした。乳香は、神聖な神への祈りのしるしです。立ち昇る良い香りは神様の前にささげられる祈りです。没薬は、やがて十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださるイエス様の象徴です。この高価な宝物を惜しげもなく幼子イエス様にささげました。
 この三つのささげものは、私たちも礼拝でいつもささげているものです。黄金は献金です。私たちができる額を心からささげます。乳香は、祈りと礼拝です。そして、毎週十字架のことを聞き、罪を悔い改め、血潮を仰ぐことが没薬です。博士たちがとても喜んで帰ったように、私たちも礼拝で喜びにあふれ、心から賛美し感謝します。
 この後、イエス様はヘロデにねらわれますが、天使の知らせでエジプトに逃れます。

(詩簫91:11)
「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守られるようにされる。」
 イエス様がずっと守られたように、また博士たちが長旅を守られたように、神様は私たちをずっと守ってくださいます。
(ヨハネ4:23)
「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことよって礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」

 私たちはこの博士たちのように、純粋に神様を求め、心からのささげものをし礼拝する生涯を送ることを神様は求めておられます。毎週喜んで神様を礼拝する者となりましょう。

 

 

 

 

 

■2020年12月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

警戒貪欲   up 2020.12.6


主題聖句(ルカ12:15)
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 

 

 

 

『警戒貪欲』
コントロールできない欲であるむさぼりに至らないよう、注意し用心すること。

 私たちは財産や持ち物が多い少ないで、いのちが揺さぶられるようなところがありますが、服装や住まいや家具など財産や持ち物は、いのちとは何の関係もありません。財産によっていのちを量らないようにしましょう。今日のポイントは「警戒貪欲」です。

 欲は制御できる内は良いものですが、暴走すると神様のルールも無視して突っ走ってしまいます。制御できる間にストップをかけることが必要で、私たちはよく注意し用心しなくてはなりません。自分の心を貪欲から守るために、「肉の思い」というものを明確にしておく必要があります。

 そこで今日は、前回まで学んだ「不満」「つぶやき」「むさぼり」「欺き」という4回のメッセージをまとめてみようと思います。

1.肉の思いを明確化する
【自己欺瞞】
自分の本心や良心を持ちながら、それを知りながら、敢えて無視して反対方向に進んでいくのが自己欺瞞です。

→【むさぼり(偶像)が隠れている】 
 自分を偽る自己欺瞞には、むさぼり(偶像)が隠れていると考えられます。偶像礼拝とは、人間が作った神に奴隷のように従うことです。「むさぼり」は制御できない欲ですから、それに従わされている状態は、「偶像礼拝」の姿と同じです。

→【つぶやき始める】
 そして、自分の心の中に隠れている偶像を見つけ出せるのは、その人がつぶやき始めることです。正しいことをわかっているのに、それとは別のことをつぶやき始め、そして仲間を増やしていきます。

→【不満をもっている】
 つぶやきが出るのは【不満をもっている】しるしです。

→【肉の欲を満たしたいという誘惑】
 不満を持っているとは、肉の欲を満たしたいという誘惑が来ているということです。
 
 不満があると、それを満たしたいという気持が同時にあるわけですから、その満たしたいという気持ちが誘惑を受けます。すなわち自分の願望が誘いとなります。「肉の欲の誘い」とか「罪の誘い」とか表現されます。欲求不満は、すでに誘惑されている状態なのです。不満を持つことは、むさぼりという偶像に誘惑されてきている状況です。

→【肉の欲を満たすために周りを支配】
 そして、肉の欲を満たすために、幼い子供の駄々こねのように周りを支配して、この願望を叶えようとします。

→【みことばによってとどめられる】
 そこで、一般的には、人によって道徳的な規制が働きます。クリスチャンであれば、みことばによってとどめられるということがおきます。ストップがかけられるのです。

→【不満が心にあふれ出てくる】
 すると余計に、以前より強い不満が心にあふれ出て来ます。

→【周囲につぶやき、あたんする】
 そして周囲につぶやき(不満を漏らし)、あたんする(恨みを持ったり当たり散らしたりする)ようになります。

→【むさぼりが心に君臨する】→【むさぼりの奴隷=偶像礼拝】
 そうして、むさぼりが心に君臨し、むさぼりの奴隷=偶像礼拝の状態となります。

 これは肉の思いの動きの流れを明確化したものですから、実際には私たちは正しい良心と信仰が働いて、どこかで自制できたりします。それが弱い場合はこのように次から次と進んでいってしまうということです。

→【自己欺瞞という死の生活】
 そして、最後は自己欺瞞という死の生活、すなわち神を畏れない、欲望の神を神として従う生活に至ってしまうのです。
 肉の思いはこのようにして私たちを滅びに向かわせます。そのよい例が創世記3章のアダムとエバです。

 蛇(サタン)が二人を誘惑したわけですが、その時にはすでに二人は禁断の木の実を食べたいという欲を持っていたと言えます。欲がなければ誘惑もありえないからです。

 その欲をとどめていたのは、「食べてはいけない」という神様のおことばでしたが、蛇(サタン)の「食べても問題ない」という偽りのことばの方をエバは信じて、食べたいという自分の欲を果たしたわけです。

 直接だまされたのはエバですが、エバの勧めに従ってアダムも食べたということは、彼も食べたいという欲を持っていたわけです。
 この肉の思いの動きが、ヤコブ書に記されています。

*ヤコブ1:14−16
「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

 「欲」を持つと誘惑がやって来る。
 誘惑にだまされないように警戒する。

 あれが欲しい、このようになりたい、もっと心を満足させたい、と欲が湧いてきたら、そこに誘惑も働くので警戒しなければなりません。誘惑は真理を偽って、私たちが安心して肉の欲を満たすことができる状態へと誘い込んできます。健全な欲の働くところに、誘惑も共におり、誘惑は私たちが正しく欲を制御しようとする気持ちを破壊します。

 ビジョンを持って歩もうとするような時にも、そこに肉の欲が同時に働いて、誘惑もそこにやってきます。大きなビジョンを持って進んでいく素晴らしい器たちがおられますが、そこには常に罪の誘惑が伴っています。大成功した大きな器が罪を犯して堕落したということが教会の歴史にもよくありました。みこころのうちを歩んでいるから誘惑がないということはありません。神のご計画が前に進められていくと、必ず誘惑が伴ってくるのです。だから警戒しなさい、だまされてはいけませんとヤコブは注意しています。

 肉の思いの動きをよく理解して、誘惑に駆られないように警戒していくというクリスチャン生活を心がけ、そして、正しい良心において信仰を働かせた歩みをして行くことが必要です。

2.聖い信仰の上に築く(ユダ1:20−21)
「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」

A)自分の持っている最も聖い信仰
 罪深い私たちが持っている最も聖い信仰とは何でしょうか。
 救われたときの歓び、聖霊に満たされたときの感覚、自分が今まで持っていた中で一番最高に良い信仰の状況を思い出してみてください。

B)その上に自分自身を築き上げる
 私たちのクリスチャン生活の土台は、神への聖い信仰です。創造主なる神が救い主イエス・キリストとして地上に来られ、私たちへの愛を明らかにしてくださいました。この神様だけを信じます、という信仰が聖い信仰です。唯一の神を信じる、当然と思えるようなことですが、しかし、むさぼり(貪欲)が神となっていることがあることを今まで見てきました。クリスチャンも欲望の神に仕えていることがあるのです。

 肉の欲求を御霊によって殺して、ただひたすらにイエス・キリストを信じる信仰が、最も聖い信仰です。この唯一の神を信じる信仰の上にあなたの人生を築き上げていきなさい、そうすれば肉の思いにごまかされることはありません。
 私たちは常に誘惑の環境の中にあります。自分は大丈夫と思っていると警戒心がなくなります。自分の弱点を認識して警戒心をしっかり持ちましょう。

C)そのために、聖霊によって祈る
 自分自身を築き上げるには聖霊によって祈ることが欠かせません。

D)神の愛のうちに自分自身を保つ
 みことばに従うという意味です。神が私たちを愛して、教えをしてくださった愛の教えを受け入れていくということです。

E)キリストのあわれみを待ち望む
 これは敬虔なへりくだった心を現わしています。憐みを受ける立場の私たちは、自分がまだ未熟で完成されていない弱いものであることを認めています。

 罪人であり、赦された義人であるという状況の中で、主のあわれみはずっと注がれ続けています。その主のあわれみが、私たちのクリスチャン生活を完成させてくださるのです。それがキリストの再臨の時、この肉の体が、イエス様のよみがえられた栄光のからだに変えられる時です。それはあわれみのゆえです。あなたがクリスチャン生活を立派に送ったからではなく、信仰を持ち続けて、神のことばに失敗しても従い続けたという、罪に弱い者であるにも関わらず、その信仰を保ち続けたということのゆえに神はあわれんで、再臨の時に、私たちを新しいからだに造り替えてくださるのです。

 ですから、「主のあわれみを待ち望みなさい」と、ユダは語っているのです。

 

【俳句】

十二月  コロナ禍  もたらす  自制心

 今年最後の12月に来て、振り返ってみますと、コロナ禍にあって色々と我慢して自制心を養われた年であったと思わされます。この一年、感謝を持って終わりたいと思います。

 

 

 

 

 

■2020年11月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

自己欺瞞   up 2020.11.29


主題聖句(箴言20:23)
異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない。

 

 

 

 

『自己欺瞞』(じこぎまん)
自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対し無理に正当化すること
 
 今年は、「きよめ」をテーマとして進んでまいりました。
 私たちは、罪人がきよめられるという奇跡を体験することのできる救いを、イエス・キリストの十字架の罪の赦しの御業を通して与えられております。

 この救い主イエス様を信じなければ、きよめられるということは絶望的であり、不可能なことでした。正しいことを期待し、正しい世界でありたい、自分も正しくありたいという「いのちの叫び」は誰しもあるのですが、この不敬虔な罪の世界のために、それがふさがれてしまっているのが現状です。
 そんな中から、神様のあわれみによって、神のことばであるイエス・キリストのもとに導かれたことを本当に感謝します。
 
 そして、「不満」「つぶやき」「貪欲という偶像礼拝」、これらのものが、神様がキリストによってきよめてくださったにもかかわらず、そのきよめを汚していく原因になるということをお話ししてきました。

 私たちの目指すところは、神様の聖さについていく、従っていく、そしてイエス様のような姿に変えられていくことです。イエス様を信じたらすぐ全部がきよくされるのではありませんが、きよめられていく一歩を踏み出す意味で、イエス・キリストを信じるわけです。

 この一年間いかがでしたでしょうか。失望せず、あきらめず、きよさを追い求めてこれたでしょうか。
 
 きよめに関しての確実なしるしは、メッセージを聞いている中で咎めを感じてくることです。咎められなければ、咎めから解放されたい、きよめられたい、という気持は起こってきません。

 この咎めをなくし、きよめてくださるのがイエス・キリストの十字架の赦しです。その赦しがあるゆえに、きよめられることを一歩一歩進めていけるのです。
 
 神様のチームとして聖さに属し(ハギオス)、その聖めのチームの中で汚れを落としていただく(カザリゾウ)という作業が、今行われているのです。いたらない自分の現状に失望しないで、まずそれに気付き、そして毎週の礼拝で神のことばによってきれいにしていただくという、そんな一年間を過ごしてくださったと信じています。
 
 今日は、もう一つ、私たちのきよめられている魂を汚すもの、「欺き」についてお話しします。
 
 主題聖句(箴言20:23)を見ますと、「2種類のおもり」と書かれてあります。昔の秤(はかり)は、天秤(てんびん)の片方の皿に、基準となる「おもり」をのせ、もう片方の皿に商品をのせてその量をはかります。しかし実際の表示とは違う重量のおもりを使って、不正な収益を得て商売する人々もいたようです。
 
 本当のおもりを持っていながら偽のおもりを使う、2種類のおもりを持つ「欺き」を、神様は忌み嫌われる、と箴言は語っております。
 
 今日は、神様の喜ばれないこの「自己欺瞞」がテーマです。自分で自分を欺くとはどういうことなのかを聖書から見て、少しでも汚れの中に引き込まれないように心掛けたいという意味でお勧めをさせていただきます。
 
 まず、聖書ではどういうものを「欺き」と言っているのかを見て、自分の心を吟味してみていきたいと思います。
 新約聖書には「自分を欺く」と日本語に訳されている箇所が5つありますが、全部違うギリシャ語の言葉が使われています。

1.新約に出てくる「欺き」
A.(ガラテヤ6:3)
「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、【自分を欺いて】いるのです。」

  誤った方向に導く→だまして〜させる→悪事に誘い込む

 明らかに間違っていると理解しながら、あえてそちらの方に進んでいくという意味の「欺き」という言葉です。そこから、「だまして〜させる」「悪事に誘い込む」という意味で使われます。
 立派でもないという本来の自分をわかっているのだけれど、人前では尊敬されたい、愛されたいというきもちから、見栄を張ります。

B.(第1コリント3:18)
「だれも【自分を欺いて】はいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。」
 
 迷わす→欺く→だまし取る→魅了する→(気晴らしとして)楽しませる

 この「欺き」の意味は、アダムとエバが蛇に誘惑された時、「これは食べてはいけない」という自分の確信が、蛇の言葉で迷わされ、巧妙に魅了され、最後は蛇に心をだまし取られた、あの「欺き」です。そして「(気晴らしとして)楽しませる」とは、心が沈んでいる人を楽しませるのですが、気晴らしですから、すっきり心が晴れるということはありません。本心を「欺く」ことです。
 
 物事がうまくいってるような時は、自分は賢い、知恵があると調子よく思うものですが、私たちは神の前には罪人ですから、その本当の姿をごまかしてはいけません。

C.(使徒5:3)
「そこでペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、【聖霊を欺いて】、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。」
 
 真実を言わずに、虚偽によって欺く。
 
 神様へのきよい心のささげものであるはずが、欲が出てそれを汚してしまったアナニヤとサッピラの話です。彼らは正直に「代金の一部を自分たちの生活費のために残しました」と言えばよかったのですが、見栄を張る、かっこうをつけたい、いいものでありたい、あの人のように愛されたい、尊敬されたいという罪の誘惑にかられ、「これが全部です」と、嘘をついてしまいました。
 
  アナニヤの内に住んでおられる聖霊様は、アナニヤの良心と一つになっています。ですから自分を欺くことは聖霊様を欺くことになり、神様の聖さを汚すことになります。
 
 聖霊を欺く罪は赦されないとイエス様はおっしゃっておられます。私たちは神の前に正直であるように、そして欺まんに気付いたら即座に神の前に祈るようにしていきましょう。聖霊を欺く罪にあたるのかどうか分からない時は、牧師に相談されるのが安全だと思います。

D.(第1ヨハネ1:8)
「もし、罪はないと言うなら、私たちは【自分を欺いて】おり、真理は私たちのうちにはありません。」
 
  歩き回る→ふらつく→放浪する→迷う→欺く→誤りを犯す
 
 この「欺き」は、「歩き回る、ふらつく、放浪(徘徊)する」という意味を含む言葉です。余りにも悩みが深くてじっとしておれず、あちこち迷い歩く様子や、信じようか信じまいかと揺れ迷う不安定な状態で、迷う方向に進むにつれ、本心を欺く行動となります。
 
 信仰の決断に迷う心があれば、欺く状況に傾いているかもしれません。神のみことばを取るべきだと知りながら欲望の方に惹かれているのです。最後には欲望をとって自分を欺くしかなくなります。正直に神様の前に一回一回罪を認め告白していきましょう。
 
 この「欺き」は、ふらつき始めた時は、もう欲望を満たしたい心があふれていますから、神様のおことばを決断するのはほぼ無理だと思います。フラフラせず、はっきり心を決めなくてはいけません。神様に信頼と愛を向けるのです。

E.(ヤコブ1:22)
「また、みことばを実行する人になりなさい。【自分を欺いて】ただ聞くだけのものであってはいけません。」
 
  意味を取り違えたり、間違った理解をする。
 
 これは、不満や欲望が強く心にあるとき、あえて意識的に自分の都合のいいように神様のおことばを解釈するという「欺き」です。
 単に知識不足で意味を取り違えるというのは欺きではありません。「欺き」の共通点は、正しいことを知りつつ反対のものに心を向けてしまうことで、知っている真実を見えないようにします。正しいおもりを知っているのに、あえて違うおもりを使うことです。
 
 このようにギリシャ語の「欺き」に表されている意味を学んでみると、私たちもどこかで自分を欺くようなことがあるかもしれません。悔い改めて欺きの汚れをきよめていただくことが必要です。自分の欺きをきちんと意識して、それを切り離していくようにいたしましょう。

2.「自己欺瞞」防止策
A.(第1ペテロ1:22)
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
 真理に従う→魂が清められる→偽りのない兄弟愛に至る
 
 みことばをよく知っている人は、だまされません。自分をだまそうとする悪い心を見分けることができるからです。
 
 真理に従うと魂が清められます。私たちは神のチームとして聖い者と認められていますが、現実にはまだ汚れが落ちていないので清められる必要があります(カザリゾウ)。

 そして真理に従い、みことばを行おうとすると、葛藤が起こり、感情がかきたてられ、妨げの状況が起きます。それでもあきらめないで進んでいけば必ず勝利できます。みことばには力があり、魂を救うことが出来るのです。
 
 そうして私たちは偽りのない兄弟愛に至ります。少しずつ皆が同じように真理に従ってきよめられてきたら、ごまかしのないお付き合いが互いに出来るようになっていくのです。

B.(第1テモテ1:3−5)
「私がマケドニアに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを解いたり、果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。」
 
 自分に都合よくみことばを解釈したり、果てしない議論をしない

 私たちがするべきことは、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標とすることです。ただ興味を引くだけで何の役にも立たないことを議論することは早々に打ち切るべきです。なぜなら、聖い愛を一心に求めることから心をそらせないためです。
 私たちは聖書を一生懸命読んで素直にみことばを受け入れて実行していくことが重要なことです。

【俳句】
身を守る  河豚の姿に  弱さ知る

 河豚(ふぐ)は泳ぎの遅い弱い魚です。敵に襲われそうな時には体を大きく膨らませて、針状のうろこで身を守ります。
 本当は弱いから、自分を大きく見せて敵を欺く河豚ですが、私たちも罪深く、いたらない無きに等しいものと、本心では知っていますが、弱さゆえに人々の前ではよく見せようと恰好をつけているかもしれませんね。

 

 

 

 

 

■2020年11月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

偶像礼拝   up 2020.11.22


主題聖句(コロサイ3:5)
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

 

 

 

 

 主なる神がもっとも嫌われるのが偶像礼拝。それは「むさぼり」である。

 「きよめ」の勧めとして、「悔い改め」「不満」「つぶやき」と、見てまいりました。今週は「偶像礼拝」についてです。偶像礼拝は単に、作った像を拝む行為というのではなく、内なるものの現われですから、根本は心の中の問題であります。
 主題聖句(コロサイ3:5)には、むさぼりが偶像礼拝であると書かれています。
 旧約聖書の中で神様は、偶像の神に心を向けるイスラエルに対して、「姦淫」という言葉を使って、それが不道徳で汚れていることであると教えられました。そしてそれでもご自分のところに立ち帰るならば赦すという大きな愛の証しを、イスラエルの民を通して私たちにも示してくださいました。
 私たちは罪人なので、他のものに心を向けてしまう弱さがありますから、悔い改めて神に立ち帰ることを重ねていく必要があります。しかし、なかなかそれが絶ち切れないという悩みの中にいるクリスチャンもおられるのではないでしょうか。
 どこまでがむさぼりで偶像礼拝なのかということも含めて、今日は「偶像礼拝」についてお話しをしていきたいと思います。
 へりくだった謙虚な心をもって、自分の内に偶像がないかどうか、「むさぼり」という状態を注意深く見て、その汚れから脱出して聖さを維持して頂きたいと願っています。

1.むさぼりと偶像礼拝
A)むさぼり→貪欲、詐欺、恐喝、慣行
  人を欺いても欲望を満たそうとする行為
 
 自分の欲するものに執着して、飽くことを知らない「貪欲」。願うことのために繰り返し実行し、だまして続けていく「詐欺」。脅してでも願うものを手に入れていく「恐喝」。習慣となって止められない「慣行」。これらの意味が「むさぼり」というギリシャ語の言葉の中に含まれています。
 パウロは、「むさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」と語って、神様が一番お嫌いな「偶像礼拝」について注意を促しています。
 この「むさぼり」というギリシャ語が使われている新約聖書の箇所を2つ紹介いたしましょう。
(ルカ12:15)
「そして人々に言われた。『どんな【貪欲】にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』
 私たちは神様の愛に目を向け、神様の愛に心満たされます。神様の愛に満足を得ていれば、地上のものに目を奪われ、地上のもので心を満たそうと貪欲に走ることはなくなります。いのちを豊かに保つのは神の愛だけです。
(第2コリント9:5)
「そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、【惜しみながらする】のではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。」
 惜しむ心には、むさぼり(貪欲)が潜んでいます。与える時も計算が働きます。生活の色んな場面で、この「惜しむ心」を私たちは経験するのではないでしょうか。それが小さな内に、まだ自制出来る間に、この「惜しむ心」を制御して、感謝の心に変えて行くことが大事です。

B)偶像礼拝→何かに心酔すること。
●神にまねたものを崇拝すること。
(第1コリント10:11−14)
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」

 イスラエルの民は40年の荒野の旅の間、パンがない、水がないと不足不満を訴え続けていました。旧約聖書のその記録は、「世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」であると、パウロは語っています。その民は荒野で皆滅ぼされてしまったから、それを教訓として、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と戒めています。 
 水やパンを必要とすることは健全な欲求です。神様はそれが必要であることはよくご存じです。しかし、それを求めるイスラエルの民の訴え方には、神様への信頼が無く反抗心が強く現われていました。
 彼らの心の中には、奇跡を行われたあの神様を畏れるよりも、何か違うものがあって、それに従いたいから、神様には従いたくないという気持ちがありました。基本的に神様への不満が根底にあって、色々な文句を訴えていたことがわかります。
 私たちも試練の時には試されて、どんな態度で神様に要求するのか、内側のものが明らかにされます。内側に偶像をもっている人は、ご利益的にイエス様に祈り求めますが、実際にはイエス様の教えには従いたくありません。それはイスラエルの民が、パンや肉が欲しいから、与えられるまでは従うけれど、与えられたらパッと背を向ける不従順な心と同じです。
 クリスチャンにとってこの不敬虔な世界で敬虔に生きることは、荒野で生活するようなものです。耐えられないと思えるような試練の連続です。
 しかし、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」
 水も肉もパンも、神様は無条件で必要な時にイスラエルの民に与えてくださいました。耐えられないようなところに来ると、神様はサッと応えてくださるのです。
 しかし、もっとも大事な部分を取り扱おうと神様がなさると、イスラエルの民は背を向けて聞き従おうとしませんでした。ですから彼らはきよめられることなく荒野で生活し、そして荒野で滅びるという裁きを受けてしまったわけです。
 このイスラエルの体験を教訓として、神様は試練の時は助け導いてくださるお方ですから、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」と言われています。
 神の教えに全く従わない反抗的な心を持っているということは、そこに偶像があるということなのです。内側になにか心酔するものを持っているしるしなのです。

●欲望の奴隷となって、むさぼること
(ピリピ3:18−19)
「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最期は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」
 イスラエルの民は、エジプトから救い出して下さった神様を自分の神としていたのではなく、自分の欲望を自分の神としていました。ですから、自分の必要が満たされれば、神様に従わないのは当然なのです。
 もし私たちが欲を満たしてくれるみことばだったら従うけれど、きよめに関するようなみことばに対しては、「難しい」「出来ません」という態度をとってしまうとしたら、それは欲望という神を持っているということかもしれません。
 神を敬い信頼しているなら、出来ないと思えるようなことであっても、「やってみます」と応答すべきではないでしょうか。
 私たちには無理なことに見えても、神は私たちをきよめようとして訓練し、試練を与えてくださいます。何回も失敗しながら出来るようになっていきます。そうして徐々に成長していくのですから、皆さんも是非きよめに対して積極的であっていただきたいと思います。
 「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。」神様のあわれみの愛を無視して歩み、この世で教えられたように欲望を神として歩むなら、「きよめ」は難しく抵抗を覚えるでしょう。
 欲を満たしてはいけないのではありません。しかし、欲が偶像となってはいけません。
 十字架に背を向けて神のあわれみをないがしろにして自分の肉の欲を満たしていくクリスチャンは、荒野のイスラエルのように自分の内に欲望という偶像を隠し持っているのではないかと吟味して、心の深い所をきよめていただくことが大事なことです。

2.偶像礼拝からの解放
(ローマ6:16−18)
「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の実をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

A)偶像礼拝についての認識を持つ
「服従する相手の奴隷」=心酔状態
 欲望を神として奴隷のように仕えている状態が偶像礼拝です。欲望を満たすことに心酔している状態ですから、どこのどんな神様でもよいわけです。
 そこまでいってるクリスチャンがいるとは思えませんが、生活の中の小さなところに、「これはちょっとまずいかな、どうかな」という「咎め」を感じる人はいるでしょう。それはむしろ良いことなのです。細かいところに目を向けて、小さい欲望を満たそうとする心に気付くことのできる敏感な人は正常です。逆に「自分は大丈夫」と思う、見えてないクリスチャンは問題です。 
自分の中の所々に小さな欲望に服従している部分があると気付いたら、悔い改めて捨てることが大事です。誰でも人は欲望の神を隠している可能性が多いのです。

B)みことばの真理を基準とする
「教えの基準に心から服従」=神を愛する
 心から服従できるのは愛しているからです。神様が私たちを愛してくださっていることを、心でも魂でも分かってくると、素直に神様の教えを受け容れることができます。従おうという動機がありますから、従えないと思うようなことであっても、なんとか従おうとする気持ちが湧いて来る筈なのです。湧いてこないとしたら、別のものに心が向いているのかもしれません。その偶像が本当にあなたの偶像となってしまう前に、まことの神に心を向けなおしましょう。
 私たちが崇めるべきまことの神は、十字架の贖いを通して私たちに愛をお示しになった天地創造の神であります。私たちはこの真の神の愛に心酔すべきなのです。

偶像礼拝からの解放は、「キリストにはかえられません」という【心】
 これが答えです。   

【短歌】
素晴らしく 見事な菊に 心酔す 偶像礼拝とは このことか

 菊の品評会に出された菊は、どれも見事の一言に尽きます。毎日毎日この菊造りにどれだけ精魂込めて手間ひまかけたことでしょう。
 私たちの信仰生活も、いつもイエス様のことを考えて、いつもイエス様の十字架の贖いの御業に現わされた神様の愛に満たされていれるといいですね。
 欲望を満たすという偶像礼拝が隠れているかいないか、今週一週間吟味して実質的な「きよめ」へと進んでいただきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2020年11月15日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

主は生きておられる・
つぶやかない聖さを求めて
  up 2020.11.15


主題聖句
(第1列王記18:15)
するとエリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」

(第1テサロニケ5:16〜18)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】
1.『主は生きておられる』
(第1列王記18:15)
するとエリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」

 私は来月の12月で洗礼を受けてから丸20年になります。20年を振り返ると、今年の教会のテーマである「聖め」の期間であったと思わされています。
 今も聖められることを追い求めている途中ですが、ますます成熟目指してまいりたいです。
 私の人生に神様は大きく介入してくださり、数々の不思議と奇跡を行ってくださいました。その時は実感が薄いのですが、
 今は“その時確かに神様が働いてくださった!”と確信できます。

 主は生きておられます。そして今も私たちには働きかけています。

 主は生きておられるという知識は全てのクリスチャンが持っていることでしょう。
 しかし、主が私たちの人生にどれだけ良いことをしてくださったかを知れば知るほど、主は生きておられるという知識は、実感へと変わっていくでしょう。
 この実感が、クリスチャンにとってとても大切なことのように思います。

 旧約聖書の登場人物は、度々「主は生きておられる」と告白しています。その中の一人、エリヤを見てみると、
 第1列王記18章で450人のバアルの預言者と対決する場面が描かれており、いのちの無い偶像の神バアルに対して、450人の預言者が
どんなに呼びかけても何の反応もありませんでした。

 一方エリヤが主に呼びかけると、主が応えてくださいました。
 私たちが信じる主は、その時エリヤが呼びかけた主と同一の神です。

 主が生きているということがどれほどすごいことであり、そのことを告白できることがどれだけ信仰に影響しているかを教えられます。

 私たちは、心から“主は生きておられる”と告白できるでしょうか。実感が強ければ強いほど、大胆に告白することができるはずです。
 まずは、私たちに主がどれほど良いことをしてくださったかを振り返ってみましょう。必ず主は私たちにコンタクトを取ってくださっています。

【横路伝道師メッセージ】
2.『つぶやかない聖さを求めて』
(第1テサロニケ5:16〜18)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
 いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝することが、つぶやかない秘訣です。これを律法的にとったら、そんなことはできないと否定的に捉えてしまいますが、これはゴールとしての勧めです。これができるようになったら素晴らしいと思います。 

A)常時喜悦 いつも喜んでいなさい。(第1テサロニケ5:16)

(第1ペテロ1:8〜9)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

(第2コリント6:10)
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」

 私たちはこの目で実際イエス様を見ていませんが、まるでイエス様にお会いしたかのようにを愛し、信じて喜んでいるのがクリスチャンの姿だと書いてあります。
 また、見た目には様々な問題があり、祝福されていないのではないかと思えるときでも、クリスチャンはそのような状況の中でも喜ぶことができ、多くの人を富ませ、すべてのものを持っているとあります。
 いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することは、私たちの願いではなく、神様がそのようにして欲しいと願っておられることなのです。
 私たちクリスチャンは、どんな状況であっても喜べるという根拠が聖書の中にたくさん書いてあります。例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)というみことばがあります。私たちは、愛されているということがわかれば、前向きになり喜びが湧いてくるのではないでしょうか。
 また、先取りの信仰があります。今目に見えるところは苦しい状況でも、必ず良くなると信じて、喜ぶことができます。

B)不断祈祷 絶えず祈りなさい。(第1テサロニケ5:17)
(ローマ12:12)
「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず」祈りに励みなさい。」

 
 私たちは、主の前に静まって祈る祈りと、それ以外の祈りもできます。それは、いつも主と共に歩む祈りの生活です。生活の中で、心を主に向けて祈りながら様々なことをしていくのです。聖霊様を無視しないでください。聖霊様との対話をすることが大切です。
 また、祈りの中で、あれしてください、これしてくださいという祈りばかりでなく、感謝と賛美を入れて祈ることが大切です。
 主の祈りの前半は、主の御心を祈る祈りです。神様の御心は私たちの思いよりも大きく、良いものを用意しておられます。神様の御心を祈ることが大切です。

C)万事感謝 すべての事について、感謝しなさい。(第1テサロニケ5:18)
(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

(エペソ5:20a)
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」

*感謝できることを探すこと。
 もし一日三個の感謝を発見してノートに書くならば、一年間で千個以上の感謝がたまります。感謝できることはたくさんあります。例えば、私たちが何者なので神様に祈れるのでしょうか。神様の一方的な恵と憐みです。私たちに命を与え、生かしてくださっているなど、たくさんあります。もしノートに書いて毎日繰り返して読むならば、喜びと感謝にあふれると思います。
 何よりも、十字架で私たちの罪を贖ってくださり、神の子としてくださったこの恵みは素晴らしいことです。この地上で苦労して100年生きたとしても、私たちは永遠に素晴らしい時を過ごすことができるのです。だからもうしばらくの間忍耐をして、将来の素晴らしい祝福を仰ぎ見つつ感謝して生きるなら、素晴らしい人生を送ることができると思います。
◎喜び、祈り、感謝が習慣となり、「礼拝と生活」でなく、「礼拝の生活」となるように。
 日曜日は礼拝に出て賛美と感謝で満たされるが、月曜日から土曜日までは世の中で苦しんでぶつぶつと言っているのならば、礼拝と生活が離れているのです。しかし、毎日喜び、祈り、感謝するなら、毎日が礼拝の生活となるのです。

【参考聖句】(ゼパニヤ3:17)
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
 この天地を創造され、支配しておられ、新しい天と地をもたらす神様が、私たちのただ中にいらっしゃるのです。救いの勇士が私たちの内におられるのです。
 そして、主が高らかに歌って、あなたのことを喜んでおられるというのです。私たちが主を喜ぶ以上に、神様が私たちを喜んでおられるのです。神様は私たち一人ひとりを丁寧に愛して創造され、私たちを喜んでおられるのです。
 私たちが神様を愛し、賛美し感謝するなら、神様はものすごく喜んでくださいます。今は不十分であっても、今からもっと素晴らしいクリスチャンになることを期待して、喜んで待っておられるのです。

 

 

 

 

 

■2020年11月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

錦心繍口  up 2020.11.8


主題聖句(ヤコブ5:9)
兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

 

 

 

 

『錦心繍口』(きんしんしゅうこう)
意味=美しい思いと美しい言葉のこと。

 金銀の糸で織りあげた美しい錦のようなこころ、様々な糸を使って縫い上げる刺繍のように美しく表現する様々な言葉、この「錦糸繍口」の意味から、私たちの信仰に対する霊的な意味を考えてみました。
  
  きよい思いと言葉は、きよめられた心から出てくるもの。

 私たちは、きよくされているはずなのにそうでない現実が見えてしまい、本当にきよめられているのかと不信仰に陥りやすいものです。 しかし、へブル書11章にあるように、望んでいることがらに向かって、必ずそうなると信じて進んでいくのが信仰です。現実にはまだ現れていないけれど将来そうなるのだ、と信じて人生を進めていくのが信仰による歩みです。今出来ていないのは当然のことで、ゴールに向かって歩んでいるかどうかが大事なことなのです。あきらめないで、きよめの完成、キリストの再臨に向かって進んでまいりましょう。

 今日は主題聖句(ヤコブ5章9節)から「つぶやく」ということを考えていきたいと思います。
 
 ギリシャ語では、「聞こえないようにぶつぶついうこと」で、意識的に独り言を言うようなニュアンスがあり、「悲しみ、うめき声、恨み、ため息」も、つぶやきの一つとなっています。

 それは、「納得できていない。受け入れられない。」という内面的な状況であり、「不服である。従うことができない。」という態度の表明でもあるようです。つまり、つぶやきは内側の「不満から出てくる」ということが分かります。

 主題聖句では、さばかれないために、つぶやいてはいけないと言われています。内側の不満がつぶやきとして外に現れる時、それは罪を犯すことですから、ヤコブは「さばきの主(イエス様)が戸口に立っておられる」と、つぶやく人に忠告しておられます。
 
 出エジプトのイスラエルの民を見てみましょう。モーセについてエジプトから出てきた人たちは、皆救われました。エジプトでの10の奇跡、紅海の奇跡、マナ、肉、水の奇跡に守られて、目指すはアブラハムに約束されたカナンの地です。意気揚々と荒野の旅に入りましたが、民は「あれがない、これがない」とつぶやき始めます。それは不信仰につながり、約束の地の目前で不安と恐れに満たされます。結局つぶやきが原因で、彼らは荒野で死に絶え、子どもたちだけがカナンの地に入ることになりました。
 救われたから、絶対にカナンの地に行ける、とは限らないということです。これは、信じる者は皆救われる、というみことばに矛盾することでしょうか。荒野で滅んだ人々は、信じてエジプトから救われてきたけれど、荒野の旅で信じることをやめてつぶやき始めたのです。途中で信仰を捨てたのです。

 つぶやき続ける人たちに「信仰を取り戻して、つぶやくのを止めて、約束の地に行きましょう」と励まし勧めているのが、ヤコブ5章9節です。ヤコブは「行いのない信仰は死んだものである」と2章17節でも述べています。パウロが多くの書簡で「信仰による義」を語っており、信じていれば何してもいいと安易に解釈する人たちが現れて、ヤコブはその忠告としてこの手紙を書いたと思われます。油断せず、油断しても、またもう一度立ち帰って、身をひきしめて歩むことが大切です。

1.何故つぶやいてしまう?
(マタイ12:34−35)
「まむしのすえたち。お前たち悪いものに、どうしてよいことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

A)心に満ちていることを口が語るから
  つぶやき=不満が心に満ちている証し       

 まだ口に出さないで忍耐し自己処理できる間は、心に満ちている状態ではありません。外に出てしまうということが、心に隙間なく不満が満ちているという状態なのです。ため息や悲しみも、つぶやきの一つの表現であるようです。皆さんもつぶやきやため息が多くなってきたら、少し客観的になって理性的に自分のこころを見直してみてはいかがでしょうか。

B)心の倉に悪いものが詰まっているから
  倉とは、色々なものを蓄えておく所
 私たちの心の中には、いつのまにか色んなものが蓄えられていきます。個人の歴史といっていいでしょう。総合的に悪いものの方が多く思い出されるようなら、不満の多い人生だったということになります。悪い倉には不満が多く、良い倉には感謝が多いと言えます。
 
 クリスチャンはどうでしょうか。悪い倉から良い倉へと造り変えられました
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 
 たとえあなたが悪い倉であっても、イエス・キリストを信じることによって、倉は新品に変わります。良い倉となるために新しくされるのです。あなたの古い歴史は葬られたのです。そしてキリストの復活と共に新しい倉が与えられて、神と共に歩む新しい人生をそこに残して行く、そういう状態に私たちは変えられたのです。聖書はそのように断言しています。

 あなたがイエス・キリストを信じているなら、古い倉の記憶があったとしても、その倉は処分されたのです。今ある心の倉は神と歩んで感謝を蓄える新しい倉であると、このみことばによって神への信仰を持つことが必要です。従って、その新しい倉に良いものを入れていこうという姿勢が私たちのクリスチャン生活の歩み方なのです。
 古い倉を思い出しては、中のものを新しい倉に持ち込んでいたのでは、結局もとの古い倉と同じになってしまいます。捨てた事、十字架で処分されたことを認め信じて、古いものを見ないで新しい倉だけを見つめて歩むという「新しき人に生きる」という人生を私たちは選んだのです。
 
 キリストを信じたら新しくなる、という神様の約束のおことばを信じて、私たちは自分の心に良いものを沢山蓄えていけば、不満は少なくなり、つぶやくこともなくなっていくということです。

2.聖められた心の倉にあるもの
(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

A)キリストがうちに満ちておられる
 神の愛が絶え間なく注がれている

 神様は私たちを確かに愛してくださっている、という証拠がイエス・キリストです。
 
 キリストが歴史的に実在された人物だったということが、神の愛の見えるかたちとして、私たちを愛して下さっていることの証となっています。究極の愛の証は、私たちの罪の身代わりとして神の怒りを受けてくださったこと(十字架の死と葬り)であり、そのことによって私たちは罪を赦されたと神様が認めてくださっていることです。

 私たちの新しい倉には、神の愛が絶え間なく注がれて、あふれ出ているというのが、神様の私たちに対する見方です。いま現実として神様が私たちになそうとしておられる御業は、信じた者のうちにキリストが満ちておられる、すなわち神の愛が絶え間なくそこに注がれている、湧き出てあふれている、そして感謝、賛美、喜びが出てくるという状態なのです。

 しかしなぜ、愛があふれずに愚痴や不満があふれてくるのでしょうか。信じるという所から見直してみることが必要です。古いものを持ち込まないように、倉が変わったことをもう一度考え直して下さい。

 この罪深い私が、信じるだけで赦されて永遠のさばきの苦しみを受けないで済む、それだけでも大きな感謝です。たとえこの世で恵まれなくても、魂は、すべてが良きものの国へと引き上げていただけるのです。この世で報われなかった者も、必ず神は新しい天と地で報いてくださいます。私たちには報われる時があるのです。そのことを信じていないと、不敬虔なものが富み栄えるこの世においては、私たちはいつか不満を持ってしまいます。神の愛に満たされている人には不満はありません。

B)神の御子を信じる信仰に満ちている
 神の愛に応える 神への愛にあふれている
 
 新しいきよめられた倉には、神の愛が満ち、愛されているのでその愛に応えたいという神様への愛があふれています。
 
 私たちは他のものが入らないように、いつも神の愛に満たされ、神を愛する愛で満たしていく心掛けが必要です。

 心の倉に、不満を入れる隙間をつくらないようにしましょう。

 私たちが賛美をするのは、私たちの罪が贖われたことを通して喜びと感謝を神様に歌として表現することによって、不満を入れる隙間を作らないようにしているのです。

 神様の愛に対して感謝が薄くなってきている人、気を付けましょう。私たちは赦されている罪人なのです。不満が言えるのも、それでも生かされているのも、明日の希望があるのも、イエス様のおかげで赦されているからです。新しい倉に不満を置かないように捨て去って、赦されている間に、悔い改めましょう。

 クリスチャンはみな良い倉として造り変えられました。神の愛と神への愛を満たすためです。

 


3.デボーションポイント
(第1コリント10:10)
「また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」

不満が満たされたにもかかわらず、滅ぼされるまでつぶやき続けたイスラエルの民の根本的不満は、何だと考えられますか。民数記16章より

 紅海を渡り、パンがなくなればパンを、水がなくなれば水を、100万人以上の民を養われた奇跡を、40年間毎日続けてくださって、不満を取り除いていただいたのに、民は神様になぜつぶやき続けたのでしょうか。
 
 彼らは奴隷の身から自由になって、自由ゆえに欲が膨らんで不満が生まれました。私たちも自分の分をわきまえずに、赦されたという状況に甘んじて、欲が膨らんで不満に変わっていくことはありうるのです。そんなクリスチャン生活になっていないか、反省してみましょう。
 
 民数記16章は「コラの反逆」と題されています。反逆者たちが神にさばかれて生きたまま黄泉に落とされたのを見た民は、「神の民を殺した」といって、またモーセとアロンにつぶやいたのです。
 一体このつぶやきの根本的不満を何でしょう。皆さん、考えてみてください。

【俳句】
 富有柿  果肉と果汁に  不満なし 

 富有柿は柿の王様といわれるくらい、非常に美味しく、一般的に売られています。どこで買ってもハズレなしの美味しさです。
 
 私たちも富有柿のように、キリストによって新しく造られた、神の愛と神への愛に満ちた、不満のない一人一人であります。

 

 

 

 

 

■2020年11月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

飲河満腹  up 2020.11.1


主題聖句(コロサイ3:13)
互いに忍び合い、 だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 

 

 

 

 『飲河満腹』(いんがまんぷく)
 意味=自分の身分をわきまえ安らかに暮らすさま。

 「飲河満腹」とは、ある人が黄河のほとりで、一匹のネズミがやってきて川の水をいっぱい飲んで去っていくのを見て、「広大な黄河には多くの水があるけれど、ネズミは自分の腹を満たす量以上は自分のものにはできないものだ」と思ったというところから、「人にはそれぞれ定まった『分』があるのだから、それに満足すれば平安である」という意味を表す四字熟語です。
 ここから聖書の真理に沿った意味をどのように受け止めればよいでしょうか。
 神のあわれみと恵みによって罪赦され生かされている者。
 
 私たちは神様からすべてをいただいている者です。この「分」をわきまえた姿勢は「へりくだり」です。私たちは神様が与えてくださったもので満足すべきであり、他のクリスチャンに与えられているものを見て、不満を持つべきではありません。

 私たちはいただいたものが違う、いただいている量が違う、と単純なことで人と比べて自分の幸せを測りやすいものです。神様は私たちのことを心配してくださるお方です。私たちがこのままなのか、これからどうなるのか、それは私たちと神様との関係次第です。「きよめられる」ということは、神様に今与えられているものに満足するということです。
 
 今日の主題聖句(コロサイ3:13)に、「不満を抱く」とあります。私たちはどうして人に対して不満を抱くのでしょうか。

 神様は「すべてのことに感謝しなさい」と言われています。それは、不満を抱くことを取り除くためです。なぜなら、不満を抱くとその結末はとんでもないものになるからです。
 不満を抱かないためにはどうしたらよいのでしょうか。

「赦されている罪人」という自分の分をわきまえれば、人に不満を抱くことはない。

 罪が赦されている。私たちにはこれ以上の神様からいただくめぐみがあるでしょうか。そこに喜びと感謝、満足を感じるなら、他人に不満を抱くということはないでしょう。
 
 「不満を抱く」というギリシャ語には、不平、苦情、文句を言わねばならない事柄がある、という意味があります。自分の主観において、そういう事柄があるということです。
 そして私たちは満足するために色んなことをやります。神様は「欲」を楽しむことも与えておられますから、与えられた中で楽しみ満足することは良いでしょう。ただ、他人と比べて不満を抱いてしまうところに問題があります。不敬虔な世界では、与えられたもので満足するよりも、他人より優れていることが幸せの条件なのだという考えが、無意識のうちに刷り込まれているからです。

 私たちは赦されている罪人であるばかりか、神様はその上、「私たちをご自分の子にしよう、神の国を相続させよう、だから、近づいて欲しい、交わりを持ちたい、立ち返って欲しい」と思ってくださっています。その御思いをもって十字架の贖いの御業はなされたのです。

 この神様の御思い、ご計画こそが一番外してはならない私たちの的なのです。それをしっかり心に刻んでおけば、誰かが他の人に不満を抱くようなことがあっても、私たちは互いに赦し合うことができ、正しい良心の判断ができると言えるのではないでしょうか。

 そのような神様の愛と恵みを、私たちがいつも心に感じ入ることができるように、助け主である聖霊様が私たちに遣わされています。聖霊様は私たちが何をするにしても「神様の愛」を忘れないようにと私たちを助けてくださいます。神の愛を忘れた時に、私たちは自分の欲求を満たすことが第一となり、それが不満を抱く原因となるのです。

 そこで、「不満を持ち続ける時、どんな実がなるのか」というその結末を、聖書から見てみたいと思います。

1.不満がもたらす実
カインの不満(創世記4:3−8)
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきたが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」

神様の判断に不満を抱き、ひどく怒る
 最後の結末、それは殺害でした。そこに至るまでの流れを見ますとカインは神様の自分への扱いに「怒り」を覚えました。「顔を伏せた」というカインの心に「不満」が生じています。 

弟アベルへの嫉妬とねたみ
 その不満と怒りは、神様に向かわず、弟アベルに向かいます。

カインは自分の主観を改めなかった
 カインは、「神様が自分を受け入れてくれなかった、何が悪かったんだろう」と反省して、自分の考えを変えることをしませんでした。 
 不満が私たちのうちに残り続けるのは、神様のやり方、自分に対する扱い方に対して不満を持ったとき、すなわち自分の主観と違うことを神様がされた時、なぜ?という思いが取れないからです。
 
 これを満足させるには、自分の考え方、主観を変えなくてはいけません。「自分は神様と考えが違ってるんだ」と思い、そして神様のお考えがわかれば、神様に喜んでいただくこともわかってくるので、満足できるように自分の心が変わるわけです。

 カインはなぜ自分の主観を改めることができなかったのでしょう。一番大きな原因は、アダムとエバが初めに神様に罪を犯した「背きの罪」の影響をカインが受けていたことです。カインは自分の考えが正しいという、神様をも動かそうとするような、決して自分を変えようとしない頑なな自己中心がそこにありました。
 もし、皆さんの中に「不幸だ、神様は差別されている、公平ではない」と思うような神様への不満があるとしたら、それはあなたの考えが神様のお考えと合っていない、理解出来ていない、神様を本当には分かっていない、ということになるのではないでしょうか。

怒り憤りに任せ罪の誘惑を受け入れた
 怒りは復讐心となり、カインは神様の愛するアベルを傷つけることによって神への復讐心を達成します。サタンが神様に太刀打ちできないので、神が愛しておられる私たちを攻撃して神を悲しませようとするのと同じです。怒り憤りの誘惑に負けやすい時、それは欲求不満が蓄積され、心に余裕がなくなった時です。

アベルを殺害する
 カインの不満が爆発します。不満が一人の正しい人のいのちを奪うという最悪の事態となります。皆さんは現実には人殺しまでは行かないでしょう。しかし、ご主人への怒りが子どもに向いたりするということ等はあるかもしれません。

不満の実は、神のみわざを破壊すること
 カインは、不満から始まったものが、様々の悪い感情を呼び起こし、咎めも恐れも通り越して、不満の解消のために殺害にまで至ってしまいました。私たちも、神様のお考えやみこころに不満というものを持ち続けていると、神様の私たちへのご計画を壊してしまいます。 

 例えばヨナは、神様に不満を持ちましたが、魚に飲み込まれて結局神様に従い、最後は悔い改めることができました。ヨブも不満を持ちましたが悔い改めて祝福を受けました。

 しかし、不満を解決せずに放っておくと、良い神様のご計画を壊してしまいます。更に言えば、教会を壊してしまいます。夫婦の愛を壊してしまいます。家族愛を、家庭を壊してしまいます。
 
 誰に対してとかではなく、どんなことであろうと、自分の主観に合わないということで抱いた不満はどこかで爆発して壊してしまうということを忘れないでください。不満はコントロールできる小さな内に取り除くのが賢明です。

2.「不満」への処理
方向転換(黙示録3:3)
「だから、あなたがたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」
 
 悔い改めるために、原因をさぐる

 イエス様を信じるに至ったあなたの決心、心の姿勢をもう一度考え直してみましょう。どこから不満を持ち始めたのか、不満にも色々あるけれど、根本的な不満の始まりはどこだったのだろうか、とイエス様を信じる以前の時期からをずっと振り返ってみて、自分の心を吟味することが必要です。根本的な原因を探らないと、表面的な悔い改めでは同じことを繰り返してしまいます。

 イエス様を信じる前の、幼いころの何かの体験があったのかもしれません。また、信じる以前の自分が持っていた不満の原因を、今も持ち続けていたり、あるいは取り戻していたりして、内に満足できない気持ちを保ち続けていたのかもしれません。とにかく、よく自分を吟味することが大切です。

飲河満腹(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、誰かがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
 赦すために自分の罪深さを自覚する
 原因がはっきりしたとき、私たちは赦すことができます。なぜなら、原因を探る中で、正しい良心(神様を畏れる良心)により自分の罪深さを知らされるからです。

 かつて自分はどんなに自己中心であったか。そんな自分が信仰を持つことが出来るように神様は私の心を変えてくださった。もともと自分は罪深いものだった。そういう時点から、そんな私を神様は赦してくださっているのだ、と「自分の分」をわきまえるのです。
 
 そして、一万タラントを赦されたのに、仲間の100デナリを赦すことが出来なかった、あのしもべの話につながっていくわけです。

 破壊の回避
 このように、「方向転換」と「飲河満腹」を通して、破壊の回避をしていきます。他にも色んなみことばがありますから、皆さん自身が聖書から示され見出してください。

 自分が赦された罪人であることの恵みとあわれみの大きさを、そして永遠の未来に対する大きな希望の約束を与えられているのだということを、聖霊様が教えさとしてくださることでしょう。そうして、不満は満足に、そして感謝の心に変えられていくのです。その時に、決して隣のクリスチャンを見てはいけません。これがコツです。

【俳句】 
寒い中  渡り来る鴨に  不満なし

 寒いところにやって来る渡り鳥の鴨は、寒いと不満を言いません。温かいところに渡っていく燕をうらやむこともありません。それは鴨が自分の分を守っているからです。

 私たちが不満に思うのは周りの人と比較して良し悪しを思うからです。今置かれていることに感謝していけば、神様は次に与えるものを考えておられますし、どこに、どのようにあなたをきよめようかと導いてくださっておられます。今の自分に満足して、いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝していきましょう。