■2020年10月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
方向転換 up 2020.10.25
「聖められる」ことに向かって進む向きを変えて行く 私たちは聖められることに向かっていつも同じように前進しているかというと、そういうわけでもありません。私たちはこの世の影響を受けて生活していますから、多少なりとも方向が無意識にズレていきます。ですから点検が必要です。「もうこれでいいんだ」と思うこと自体が、聖められることから外れていることなのだと考えていただきたいと思います。 今日の主題聖句には「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい」とあります。 正しい方向に悔い改めれば、再臨を迎えることができる。 1.何を目指していますか? 救われた目的を目指していますか?それとも、肉の欲を満たすことを目指していますか? (第1テサロニケ4:7) まさに、私たちに「聖潔を得させるために」キリストは十字架にかかられ、「聖潔を得させるために」私たちはキリストのもとに導かれているのです。 キリストを信じたのは、永遠の滅びに至らないためです。それは聖められる人生なのです。 目標が遠大なために実感しにくいということは、私たちの弱点でもあります。 ですから、聖霊様は弱い私たちの内に住んで下さり、私たちの的外れを教えてくださいます。欲に引っ張られ、肉に引きずられた時に、聖霊様がそれを気付かせてくださいます。気付かされた時、元に戻ろうと思うことが「悔い改め」です。 2.悔い改めはすべての人へ (使徒17:30) 「無知の時代」とは、キリストが世に来られる以前の時代のことです。その時代の人々の罪を、神はさばかず見過ごしておられました。なぜなら、やがてキリストの十字架において、すべての罪を処罰することを計画しておられたからです。 (第1テモテ:6:10) 私たちは、愛するものを一番優先します。頭から離れません。そこに思いが捕らわれています。それが根となり、そこから悪の芽が生じます。 汚れから救われたい人は、キリストのもとへ! この願いを持っている人は悔い改めることができます。罪の束縛、貪欲の縛り、汚れ、このような人生はいやだ、救われたい、という願いがあれば、神はあなたを聖めてくださいます。聖めの人生へとあなたを導いてくださいます。キリストに従って行けば、おのずと聖められて行きます。 【俳句】 料理を作る時は、美味しいものができるようにと目指します。目指していても時には失敗をしますが、それでも美味しさを目指して、工夫し続けて行けば、失敗も少なくなり、やがて味も定まってきます。 聖められたい、という願いをもち続けるクリスチャン生活も、悔い改め続けていけば、いつか必ず聖い実が出てくるようになります。
■2020年10月18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
聖霊とともに歩む
【辻和希伝道師メッセージ】 この世界には、様々な教会があります。同じ神を信じ、また聖書を土台としながら、強調点の違いにより、いくつかの教団教派が存在します。私たちの教会は、聖霊様の働きが聖書の時代だけでなく、現代にも働いていることを信じ、また体験してきました。 ここから教えられることが三点あります。 1コリント12:9-10 私たちは奇蹟を行うことが信仰生活の目的ではありませんが、信仰者であれば、ある時は主によって奇蹟さえも行うことだってあるのです。それこそ聖霊様とともに歩んでいる証となるのです。
【横路伝道師メッセージ】 ◎人を罪に定めない謙遜 ◎イエス様の御そばにとどまる聖さ (参考聖句)
■2020年10月11日 合同日曜礼拝メッセージより(大嶋重徳師:鳩ヶ谷福音自由教会牧師)
広島合同礼拝 up 2020.10.11
(18:1)「その後」が何の後かということが重要です。先輩バルナバと別れてパウロはシラス、テモテとともに伝道旅行しましたが、どこに行ってもユダヤ人達の激しい迫害にあいました。そしてベレヤというところでふたりと別れて、パウロはアテネに向かいます。そのアテネで、ふたりの到着を待っていたパウロが目にしたのは多くの偶像でした。そこで彼は激しい憤りを感じ福音を語りました。しかし、多くのアテネの人々は聞く耳すら持たず、パウロは無視されたのです。この出来事があっての「その後」です。 (1)テサロニケの教会の情報を受け取れた。 (2)ピリピ教会の献金が届けられた (18:6)事件が起きました。それは反対する者たちです。クリスチャンが福音宣教をしようとする時、必ず反対が起こります。馬鹿にされたり嘲られるというのは、本当に一生懸命伝えている証拠です。 (18:7,8)しかし多くのコリントの人々が信仰に入ったとあります。アテネでの失望が今やコリントで実を結んだのです。 (18:9)しかし、順風満帆に見えたこの時、神様は夢でパウロに現れ、「恐れずに語り続けなさい」と語られます。なぜでしょうか。実は一見何も問題なく見えるパウロの内側に黙り込んでしまいそうな恐れが生じていることを神様は見抜かれていたのです。その恐れとは何でしょうか。 (1)語り続けることへの恐れ。(やがて話し方がたくみでないとか陰口を言われるようになります。) (2)伝道の最中、神様の臨在を失ったと感じるような何かの不安からくる恐れ。 (3)敵対するユダヤ人や周りの人々からの迫害、また教会に入り込み混乱をもたらしてくる人々の恐れ。 (4)大都市にも関わらず、実を結ぶ少なさへのやりきれなさからくる恐れ。 私たちの周りはアテネのように心が頑なな人々が多くいるように見えます。しかし、ここに目を止めることばがあります。 私の父は、母が熱心なクリスチャンにも関わらず、決して神様を信じない人でした。その父がやっと2年前に私から洗礼を受けてくれました。なかなか信じると言わない人でしたが、洗礼を受けるための準備で、自分自身の証を用意していく過程で、やっと自分の罪に気づき、イエス様を信じることができました。母は「47年ずっと待っていた。荒野の40年では足りなかった。本当にこんな日がくるなんて。」と感無量でした。
■2020年10月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖められることは福音 up 2020.10.4
試練に耐えるとは聖めを受けること 試練に耐える人が幸いなのはなぜでしょう。聖霊と火とのバプテスマの学びの時に、試練に耐えることは聖められることであるということを、紹介いたしました。私たちは試練を受けると、あらゆる隠れた不純物が浮き彫りにされて、自分の罪深さを知ることができます。そして、もっときよめられたい、きよめていただこうと信仰を働かせます。ですから、試練に耐えることはきよめを受けることになるのです。 そして、試練を耐える幸いは、そのように「きよめられること」と、もう一つ「いのちの冠を受ける」という良き知らせがあることを、ヤコブは語っています。 1.聖めには報いがある (詩篇58:11)には「正しい者に報いがある」と記されています。 救い主イエス・キリストが地上においでになってからは、「神を愛する人」すなわち、神の愛そのものであるイエス・キリストを信じる人が、正しいとみなされるのです。ゆえに、正しいもの(神を愛する者)には報いがある、ということになります。 2.聖められた人の報い(イザヤ57:15) 【俳句】
■2020年9月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 第五聖会礼拝 御霊によってあゆむ up 2020.9.27
御霊による聖めの人生であり、聖めを選ぶことが御霊による歩み。 パウロの書簡には、信仰による義、内なる葛藤など、信仰生活の実際的な教えや勧めについて書かれています。そんな中で、今日の主題聖句は、まさに、これがクリスチャン生活の答えだ、と言えるようなみことばとなっています。 クリスチャン生活は、御霊によって歩むことに尽きる、と言ってよいでしょう。これを心掛けていけば、きよめられ、良い方を選ぶことが出来、神様のご計画通り、神の子として御国を相続する者として造られ選ばれている、という神の目的に沿う結論へと進んでいくことが出来るのです。 「それで、具体的にはどうすればいいのですか?」と、私たちはすぐ答えを求めたがるものですが、それは一人一人が自分で尋ね求め、探し見出すのが一番早道で良いのです。人から100点満点の答えを教えられても、すぐその通りに出来るわけではありません。 それぞれが、教えられた100点のところを目指して、今10点なら20点の所を、今30点なら40点の所にチャレンジする、100点に近づく生活を努力する、という気持を持って、メッセージを聞いていただきたいと思います。
1.なぜ御霊によって歩むのか A)ガラテヤ3:3 「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」 クリスチャン生活は、御霊によってスタートした。 使徒たちの時代、ユダヤ教の割礼の習慣が初代教会に入りこんできて、身にしるしを受けないと救われないという教えが、はびこり始めました。しかし、身にしるしを受けることが救いの証しではありません。信じる信仰によって救われるという福音によって、異邦人も救われてきたのです。 イエス様を信じる心は、努力して出来る事ではなく、不思議に与えられたとしか言えないような、御霊の働きであり、そして新しい人生を始めたいという心掛けをもって、まさに御霊によってスタートしたクリスチャン生活なのです。 途中から、御霊様抜きで勝手にやってしまったのでは、もう別物になってしまいます。ルール違反で失格です。御霊によって始めたのなら、最後まで御霊によって完遂すべきなのです。 B)使徒1:4−5 「彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」 クリスチャン生活は、聖霊のバプテスマ(聖め)によってスタートした。 イエス様は天に帰られる前に、弟子たちに福音宣教の使命を与えておられます。しかし、それはすぐにではなく、父の約束(エレミヤ書)が成就されるのを待ってから、出ていきなさいと言われました。それが聖霊のバプテスマを受けることでした。 私たちは信仰を持った時に、水のバプテスマ(水の洗い=きよめ)を受けましたが、イエス様は更に聖霊のバプテスマ(聖霊によるきよめ)を受けるようにと言われています。それが神様の約束であり、キリストの証人として生きるために必要なことだったからです。 クリスチャン生活は、聖霊のバプテスマ(聖霊によるきよめ)によってスタートしました。したがって、聖霊によって、きよめを受け続けて歩むことが大事なのです。 C)ガラテヤ6:8 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」 永遠のいのちを刈り取るため。 「種を蒔く」とは、実際生活における行動、決断、判断のことを言います。 「刈り取る」とは、その報いを得ることです。 肉の働きは罪の働きですから、肉のために蒔く者は、さばきにあいます。しかし、御霊様が喜ばれることのために決断し行動するならば、永遠のいのちというゴールに達します。私たちが永遠のいのちを報いとして与えられるためには、御霊によって歩むことが必要なのです。
2.御霊によって歩むとは? A)第2コリント13:13 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」 みことばと祈りによって聖霊と交わる。 私たちが三位一体の神と交わる方法は、聖霊様による以外にはありません。私たちは直接、御父や御子を見たり感じたり触ったりは出来ない状況にありますが、しかし、聖霊様との交わりによるならば、三位一体の神を感じ、ことばを聞き、そのご臨在に触れることも出来るのです。 他国において、時折「イエス様に会った、見た」というような話を聞きます。イエス様とお会いできるのは再臨のときだけですから、そのような体験談は、慎重に聞く必要があります。 また、旧約聖書では、「天使」や「主の使い」が度々現れて、直接色々語っていかれましたが、それはいずれも神様からの御用のためでした。 今、新約の時代においては、私たちと聖霊様との確かな交わりは、みことばと祈りによって与えられると言ってよいと思います。 私たちがみことばを深く黙想するとき、そこに聖霊様が働いてくださって、語りかけたり、啓示を与えたり、幻に意味を与えたりなさるのです。聖霊によって歩むには、聖霊との交わりは必要不可欠です。そのためには、みことばと祈りが、どうしても必要だと言えるでしょう。 B)ローマ8:16 「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊と共に、あかししてくださいます。」 交わりによって、御霊と魂が一致する。 私たちが御霊によって歩んでいる証拠は、御霊の思いと私たちの霊(こころ、魂)の思いとが、一致することだと、パウロは述べています。これが御霊との交わりによってもたらされる結果であり、御霊によって歩んでいるしるしです。 私たちが御霊に属し、御霊様について行けば一致するのです。御霊様が「主」です。私たちはついていく「従」の側のものです。逆転してはなりません。 C)ローマ9:1 「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によって証しています。」 きよめられた良心は、聖霊と一致する。 肉の良心は聖霊とは一致しません。私たちの信仰生活に葛藤が起こるのは、御霊と魂、御霊と良心が一致しないから、思い煩い、悩み苦しむのです。 聖霊様は、変わることのない真理のお方として存在しておられます。聖霊によってきよめられた良心は、聖霊様の真理の判断に、共感共鳴することができるのです。 御霊の思いとは、聖書に書かれてある神様のおことばに準じた思いです。私たちが、御霊の思いであるみことばを、深く理解できないでいると、肉の思いが優先してしまって、御霊の思いから外れてしまいます。 御霊の思いは、みことばの中にはっきり記されています。そのみことばを御霊によって深く悟らされて「これは真理だ」と、あなたのこころが同調し共感したら、あなたの良心は、きよめられてきているというあかしとなります。きよめが進んだから、御霊に合わせることが出来るのです。 御霊に合わせられない人は、まだ肉に従うことが多い「キリストにある幼子」と、パウロも言っておりますから、さらに成長していきましょう。 今日は、「なぜ御霊によって歩むのか」そして「御霊によって歩むとは?」について、お話いたしましたが、この2点によって、自分は御霊によって歩んでいるかどうかを確かめてみてください。 そして、みことばに接する機会、みことばを読んだり、メッセージを聞いたり、そして静まって祈るという時間をしっかり確保してください。この時間が少ないと、御霊様との交わりの回数も少なく、関係は深まっていきません。 みことばを黙想すればするほど、そのみことばが聖書のあらゆる方向につながっていることを、御霊によって教えられ、共感し、目が開かれて、さとしがもたらされてくるのです。 神様のことばは霊です。聖書を何度も読むことで御霊のおもいが伝わってきます。そして、私たちの思いや考えに影響を与えてくれるようになるのです。良い関係のためには長い時間が必要です。どうぞ、聖霊様との交わりの体験を積み重ねていってください。
■2020年9月20日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
目をさましていなさい・バルテマイの叫び up 2020.9.20
【辻和希伝道師メッセージ】 皆さんご存知の通り、私は普段お好み焼き店を経営しています。 マタイ25:1−13 イエス様は、この例え話のポイントとして、目をさましていなさい、と教えられました。 このことから、私たちも普段から神様に関心を持つことはもちろん、普段の生活から物事に備える習慣を身に付けておく方が、
【横路伝道師デボーション】 このバルテマイという男性は、盲目の障害があり、貧困で疎外され、絶望状態にある人でした。見捨てられた者と感じていたと思います。その中で彼は救い主に希望を持っていました。絶望的な中で、へりくだった心を持っていたのだと思います。 バルテマイはイエス・キリストのうわさを聞きました。多くの人が癒されて救われていることを聞いたのです。そして「この方こそメシヤである」と確信し、いつかここに来られることを待っていました。そして、ついにイエス様が来られたことを聞きました。 彼は目が見えないので、走って行って近づくこともできませんでした。唯一の方法は叫ぶことでした。彼は「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と大きな声で叫びました。あまり大きな声で叫び続けるので、周りの人がたしなめ、制止しました。しかし彼はなお叫び続けました。 イエス様はその叫び声を聞かれました。私たちの願いと切なる祈りはいつもイエス様に届きます。バルテマイは「私の目をあけてください」ではなく「私をあわれんでください」と叫びました。「ダビデの子のイエス様」という言葉は賛美であり、イエス様に対しては最高の誉め言葉でした。それはメシヤであり王であることを表わす言葉で、イエス様の心を動かす言葉でした。 また、「あわれんでください」という言葉は、イエス様の愛の心をつかみました。イエス様は歩みを止めて、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。ここに、たった一人の魂のために目を留めてくださるイエス様のお姿をここで見ることができます。自分は見捨てられているのではないかと思うような方もおられるかもしれませんが、イエス様はその心の叫びを聞いてくださり、目を留めてくださるお方なのです。 そこで、弟子たちは「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と彼に手を差し伸べました。それは、先輩のクリスチャンが、苦しみ悩んでいる人に手を差し伸べ助ける姿のようです。 バルテマイはこれを聞いて、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来ました。この上着は、彼の財産のすべてであったと思います。上着とは、自分の欲や自己中心や、自分にまつわるじゃまなものだったかもしれません。罪に汚れた古い自分です。それを脱ぎ捨ててイエス様の所に近づいてきました。 「すぐに立ち上がって」という箇所をリビングバイブル訳では「喜び勇んで」とあり、新共同訳では「踊り上がって」と書いてあります。それほどにうれしかったのです。 イエス様は、彼と顔と顔を合わせて、一対一の交わりをされます。「わたしに何をしてほしいのか」とバルテマイに言われました。バルテマイは、「お金をください」とは言いませんでした。「目が見えるようになることです。」と言いました。神様は私たちの願いを具体的に聞いてくださるお方なので、私たちも具体的に祈るべきです。神様は個人的な交わりをしてくださり、祈りを聞いてくださるお方です。そして、その人に最善なものを与えてくださるお方です。 ある例え話をします。漂流船の中に、三人の男が生き残っていました。いつ死ぬかわからない中で、一つのビンが海を流れてきました。その中の紙に、「この紙を読んで願うことを、一人に一つずつ叶えよう」と書いてありました。最初の男は、「ふるさとに家族が残っているのでそこに戻って元通りの生活をしたい」と願った時に、ふるさとに戻ったそうです。もう一人の男も、「私もふるさとに友だちがいるので、戻って元通りの生活をしたい」と願うと、その通りにふるさとに戻りました。三人目の男は、家族もいない一人身でした。彼は「この漂流生活は三人で励まし合ってとても良かった。どうか今まで通り三人で漂流生活をさせてください」と願ったそうです。すると、二人が帰ってきたということです。また漂流生活が始まりました。 私たちの神様は、私たちに良いことをしてくださろうとしています。しかし、この話のようにまじないや占い等の偶像の神様は、なんでも叶えてくれるように見えますけれど、それが必ずしも良くないのです。わがままを全部叶えてしまうと、わがままな世界になってしまいます。 バルテマイは、「目が見えるようになることです」と言いました。目が見えるようになるということは、主を見ることができるように、また、自分の罪が見えるように、隣人の必要が見えるように、主について行くことができるように、という意味があります。 見えるとは本当に大切なことです。 イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。バルテマイは、真実の癒しはイエス様にしかできないと信頼しました。その信頼によって癒されたのです。 今日、このみことばから適用をしたいと思います。すべてのことに時があります。祈りつつそれを忍耐して待つことが必要です。今は苦しくて、心の中がバルテマイのような状況かもしれません。イエス様が救い主であることを知っているが、まだ目が見えていない人、祈りがなかなか聞かれない人もいるでしょう。あの人たちの祈りは聞いてくださるだろうけど、私の祈りは聞いてくださらないと思っている人もおられるかもしれません。しかしそれは違います。イエス様は一人ひとりに必ず目を留めておられます。イエス様だけは愛の神、真実な神であるということを握っていれば、大丈夫です。今は見ていないけれど、必ず問題は解決するということを、イエス様のゆえに信じることです。 今は私たちは、心の中で叫び祈ることができます。霊的な目が開かれるように、聖めてください、聖霊で満たしてください、魂の救いのためにも、目を開いてくださいという祈りをやめないで祈り続けましょう。 「主の祈り」は、バルテマイの叫びと同じようであると思いました。主を賛美する祈りと、主のあわれみによって生かし、悪より救いだしてくださいとあわれみを祈る祈りです。 信仰とは、思い込むことではなく、確信して信頼すること、本当の救い主であるイエス様のみに頼ることです。そのために、あきらめないで、主に叫び求めましょう。
■2020年9月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 第四聖会礼拝 神の御霊の住まい up 2020.9.13
御霊が住まわれる神の神殿だから、私たちには聖めが必要である 聖霊様は、私たちを「住まい」としてくださっています。それがどんなに住みにくいボロ家であっても、聖霊様はご自分の住まいとしてふさわしく、住みやすいように、改装されます。これが「きよめ」です。 私たちが自分の好みで家を変えていくのではありません。私たちに宿られる聖霊様が、ご自分の思いのままに変えられる、私たちをきよめられる、ということを理解していただきたいと思います。所有権は聖霊様にあるのです。 この「住まい」は、イエス様のきよい血の代価を払って買い取られて、聖霊様のものとされたのです。感謝を忘れてはいけません。 今日はこの主題聖句(第1コリント3:16−17)から4つのポイントを取って、お話をいたします。 1.神殿という集合体(第1ペテロ2:5) 「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」 私たち一人一人は聖霊様の宿る神の神殿ですが、同時に、神の住まわれる大きな神殿の一部ともなっています。 A)神殿の材料は「生きている石」 生きている=キリストにある敬虔な人 石=変化しにくいもの、安定している 当時の神殿は石造りで、石を積み重ねて築かれていました。 このみことばの前の4節には、「イエス・キリストは人には捨てられたが、神の目には選ばれた尊い生ける石です。」だから、「あなたがたも生ける石として」と、5節に続いています。 キリストご自身が、神殿を築くための隅のかしら石でした。そして神殿を築き上げる一つ一つの材料は、しっかり神様を信じて繋がって、石のように安定している一人一人の信者であると言うことができます。 B)神殿は「霊の家」 家=オイコス=家族、家庭、共同体、宮 神様が住む所を「神殿」と昔から言われていましたが、基本的には「霊の家」です。 家(オイコス)というギリシャ語の意味は、家族、家庭、共同体、神の宮です。 一人でいるのは家族ではありません。一人で住んでいるのも家庭とは言いません。一人ではなく複数の共同体という意味が「家」にはあるのです。ですから、霊の家とは、霊の家族、家庭、共同体という意味を持ちます。 C)「築き」上げられている途上 築く=基礎から堅固に作り上げる 家は、倒れないように崩れないように、築き上げていきます。私たち一人一人は、生ける石として、崩れない神殿の建設のために用いられている、只今工事中のものです。 壊れない家とは、一人一人の石がどれだけきよい石となるかによって、その強度が決まります。強度の弱い部分があると、地震や嵐で、そこから崩れていきます。皆が同じような強度を持つことが、建物の全体を保つための秘訣と言えるでしょう。
2.御霊の聖い住居(エペソ2:21−22) 「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」 A)組み合わされている建物である 組み合わされている=互いに愛し合う 単に石を置いただけよりも、組み合わされている方が、衝撃に強く崩れにくいように、互いに愛し合う兄弟愛が強い教会は、霊的耐震強度が優れている教会と言えるでしょう。 B)聖なる宮になるという目的がある 神の御霊の家は、聖くなければならない 御霊様は聖い方なので、その聖い愛のご性質が家に反映されて、聖霊様の家は聖い愛に染められます。それをバプテスマ(=洗い)と言います。以前あった古いものを、新たに住む人の好みに仕上げられます。その目的は、聖なる宮とすることですから、私たちもきよめられ続けることが必要です。 C)御霊の働きによって完成される 御霊の取り扱い=火のバプテスマ 御霊によって神の御住まいが完成されます。完成のために、私たちは試みを受けます。それは御霊のお取り扱い(聖霊と火とのバプテスマ)を受けることである、ということをすでに学びました。
3.聖さを壊すもの(ヤコブ3:14−16) 「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」 主題聖句のなかに、「神の神殿を壊すもの」について語られています。一体どのようにして、きよい神殿が壊れていくのでしょうか。神殿を壊すとは、きよさを汚すという意味を含んでいます。 A)真理に逆らっている心 苦いねたみと敵対心に心が影響されている 私たちは罪人ですから、ねたみと敵対心は普通に持っています。ただ、きよめられた心、正しい良心がそういう感情に影響されてしまうと、きよさが壊れます。ですから影響され支配される前に、良心からそのような感情を切り離していかなければなりません。 また、肉に罪が宿っているので、ねたみと敵対心が無くなってしまうということはありません。すぐ感情に出てきます。 私たちの霊、魂は、イエス・キリストを信じて、御霊によりきよめを受けて「ハギオス」(聖徒、他のものと違う)とされました。ハギオスの領域の中にいるのです。この領域の中から引き出されないように気を付けなくてはなりません。 ねたみや敵対心に支配されると、殺意や復讐心にまで発展してしまいます。そうなる前に、またそうなったとしても、悔い改めて、心と、肉の欲とを切り離していかないといけないのです。神を畏れるきよめられた心と、自己中心の肉とを切り離す、そういう意識を持たないと、ねたみと敵対心に飲み込まれてしまいます。早いうちに、「これはいけない、罪だ」と気付き、処置することです。 B)神の宮に属さないねたみと敵対心 この世の不敬虔と自己中の肉と悪霊に属するもの 地に属する者(この世のもの)も、肉に属するもの(肉の思い、肉欲)も、それらは悪霊に属するものだとパウロは言います。ねたみや敵対心は悪霊の仲間なのです。 自分の心にそれが少しでも顔を出したら、すぐに戦いのモードに入ることです。「聖霊様助けてください。きよさを守ってください。十字架を見上げます。あなたの血潮には力があります。私は神様に愛されています。」と、みことばの真理に従って、自分の罪な思いや感情に、きよい影響を与えるのです。きよい良心から、肉の感情に、みことばをもって、対抗するのです。 ただし、私たちがこの肉体にあるうちは、ねたみや敵対心が消えることはないということも、よく覚えておいてください。 C)組み合わせをみだすねたみと敵対心 秩序をみだし、あらゆる邪悪な行いが広がる 石と石の間、兄弟愛の関係を乱し壊していくのが、ねたみと敵対心です。そして、組み合わされて一つとなっている教会が分裂していきます。すると悪霊が働きやすくなり、ますます罪の力が強く働いて、「神様のために」と言いながら、動機は邪悪なものに満たされていきます。ねたみや敵対心が強く出てくるのは、邪悪さが心に潜んでいるしるしです。 レビ記にツァラアトについての教えがあります。皮膚にツァラアトが出ると、その人は汚れた者として集団から分離されます。皮や布にツァラアトの症状が出ると、まず洗ってみて、だめなら焼いてしまいます。 家も、石のどこかにその症状が出たら、一週間調べてみて広がっているようならその部分を取り除いて捨てます。そして新しい石を入れます。一つの石を取り除いても、周りの石から症状が出るようなら、その家は壊されなければなりませんでした。 一人のクリスチャンのねたみと敵対心が教会に増え広がると、その教会は、神の教会でなくなってしまいます。汚れた教会として神はその教会を見捨てられます。ですから、教会の牧者は霊的ツァラアトについては厳しくメッセージします。 しかし、これを否定的に受け取ってはいけません。 誰かが一時的に霊的ツァラアトに侵されたとしても、一度霊の家に組み込まれた以上、神はたやすく教会から引き抜くことはなさいません。御子イエスの血潮が流された高価で尊い一人一人なのです。むしろ、組み込まれた以上は、きよめられなくてはならないのです。あらゆる方法で神はきよめを実行されるでしょう。
4.聖い神殿の維持(ヤコブ3:17) 「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、みせかけのないものです。」 A)真理に従う知恵のある心 1)神を畏れ敬う純真さが第一 まず第一に「純真」とあります。神を畏れ敬う心が、純真さです。「まず第一」と言われる「純真さ」がなくては、第二第三はありません。第一があってこそ、次があるのです。 2)第二として平和、寛容、温順な忍耐 平和であるためには、乱す者への忍耐が必要です。寛容であるためには心を大きくする忍耐が必要です。温順であるためにも、我、肉を出さない忍耐が必要です。平和、寛容、温順、そのための忍耐、これが第二として、真理にある知恵ある心と言えるでしょう。 3)人に対するあわれみによる善行 神が私たちを憐れんで罪を赦してくださったように、私たちも人に対して赦しのあわれみをもって、復讐ではなく祝福を与える(善行を行う)こと、これが上からの知恵、真理に従う知恵のある心です。 4)えこひいきやみせかけのない自己受容 自己受容とは、どういう自分を受け容れることでしょうか。自分のことは自分が一番わかっていると思ってしまいますが、「えこひいき」や「みせかけ」という、ごまかしが働くことがあります。そこには劣等感(自分が受容出来ない自分)が潜んでいることがあります。 コンプレックスは誰しも持っているものですが、その自分を受容できていれば、それは「へりくだり」のために役に立ちます。 しかし、自分がコンプレックスを覚える部分を受容出来ていない時、そこから人に対する「えこひいき」や「みせかけ」という偏った屈折した態度が生まれてしまうことがよくあるように思われます。 私たちは、キリストにあって、神様が受け容れてくださった者ですから、どんな自分であっても私たちは自己受容して、えこひいきやみせかけのない実を結んで行きたいものです。 まとめ 御霊が住まわれる神の神殿だから、私たちには聖めが必要です。 聖い家に住まわれる聖霊様だから、私たちを再臨の時まで聖め続けられます。 完成の時は、主の再臨の時です。
■2020年9月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 第三聖会礼拝 聖霊の聖めによる選び up 2020.9.6
聖霊による聖めを受けているなら、神の選びの中にいることを喜ぼう。 何事も思い通りに行ってるなら当然嬉しいので喜べます。しかし、神様の私たちへのきよめの働きは、私たちの思いや感情に反するような出来事が起きたりするので、なかなか喜べないないものです。 私たちは神様が良き方であることを信じています。また、神様のみこころは、私たちが聖くなることであることも、はっきり示されています。 ですから、信仰の試練や霊的に壁にぶつかっているとき、例えば病気や家庭内の問題など外圧的な苦しみを受けているとき、それは、あなたがきよめられるために神が選ばれて、今そこを通っているんだ、今きよめられているんだ、と喜びを意識して、神様の「きよめと選び」を感謝しましょう、という思いから、今日は、(第1ペテロ1:2)を主題聖句として選び、「聖霊のきよめによる選び」をテーマといたしました。
序.主題聖句の内容観察 「神の子に対する父としての愛の配慮により、キリストに従い続け、また、その血の注ぎかけを受け続けるため、聖霊による聖めの働きを受けるように選ばれた人々へ。」 「予知」は「愛の配慮」と表現いたしました。親はその愛ゆえに、子どもが将来通るであろう様々な労苦、問題を予測して、子どもの成長のために、その時はこのように助けよう、そのための準備をしておこうと思うものです。 神様は、罪人の私たちが先々どのように考え、どのように行動するかをすべてご存じで、その時その時にどのような環境や助け人を遣わすかを既に考え準備しておられます。ですから、「予知」は、将来に向けた愛の配慮と言えると思います。 私たちには、キリストとキリストのことばへの完全な従順に至るというゴールがあります。そしてキリストの流された血は、私たちを贖う神の愛の代価です。したがって「その血の注ぎかけを受ける」とは、神の全き愛にとどまるということです。 私たちが神に従い続け、愛にとどまり続けるために、聖霊様は私たちを、完成するまで、きよめ続けよう、と選んでくださったのです。今、試練と苦しみの中にいることは、きよめの選びのしるしであることに、ぜひ気付いていただきたいと思います。 目標に到達できたときの喜びは、そのプロセスにあった苦しみにまさる喜びであり、完成した日には、それまでのすべての苦しみが「ああ、よかった」と心から思えるものです。そのように聖霊様がゴールインさせてくださるからです。 神様は私たちをあきらめることなく、何度でも励まし続け、支え続けてくださいますから、私たちも信じて何度でも立ち上がって、聖霊様のきよめの働きを受け続けてまいりましょう。
1.聖めによる選びの証し A)悔い改める心とキリストへの信仰(使徒2:37〜42) 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」 救われた3千人はペテロの説教によって心を刺され、ペテロの勧めに従った。 みことばが語られ、心が刺された、ここが、悔い改めとキリストへの信仰を持つきっかけとなっています。みことばが語られて間違いを示されて、「これはいけない、直さなければ」と心が変わるのは、神がその人をきよめるために選んだ「しるし」です。 悔い改めることができない人は選ばれていないのか、それはその人がこの地上に生きている間は、誰にも断定できないことです。その人が生きている間に、神のことばや、クリスチャンの証しを通して、その人が心打たれ、心に変化が生まれるようにと、私たちは祈り続けることが大事です。 あなたがキリストを信じることができ、神を信じる前の生活をやめて、神のみ教えの中を歩むという心をもつことができたというのは、神があなたを選ばれたしるしです。良いことのために選ばれたのですから、嬉しいことです。ですから、悔い改めの心と神への信仰はずっと保っていかないといけません。それは初めに信じた一回きりのことではないのです。 信仰生活を続けるうちに、自分の罪深さがだんだんとわかってきます。そして気付いた罪を悔い改めて、神が建て直し、きよめてくださるという信仰を持って、またみことばに従い続けていきます。この悔い改めとキリストへの信仰は、ずっと繰り返されていくものなのです。 先週お話いたしました新生と更新の洗いという聖霊様のきよめのお働きは、そのようにしてなされていくわけです。 すなわち、みことばによって良心が咎めを受け、罪を意識し、これから離れなければいけない、という悔い改めが生じ、もう一度やり直そう、という神への信仰が湧いてくる、それはまさに聖霊様のお働きなのです。 悔い改める心が弱ると、悪かったという認知は出来ても、それから離れよう、やりなおそうという力が出てきません。それは「罪と義とさばきについて教えて下さる」と言われた聖霊様によるしかないのです。 B)聖霊という霊的割礼 (ローマ2:29)=御霊による心の割礼 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字(もんじ)ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神からくるものです。」 ユダヤ人は神に選ばれた民であるという、目に見えるしるしが「割礼」でした。そして、ユダヤ人は選民であるという意識のもとに、きよめのいけにえの儀式を繰り返してきました。 しかし、イエス様が世に来られて、まことの心の割礼を与えられてからは、パウロはパリサイ人たちが教える一切の表面的な形だけの教えは「ちりあくた」と表現しています。 パウロは、神様の喜ばれるまことの割礼は、目に見えない割礼(御霊によって心に割礼を受けること)である、そして心に割礼を受けたもののしるしは、悔い改めとキリストへの信仰が、心にわきあがってくることだと言っています。 (第2コリント1:22)=確認の印である御霊 「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えて下さいました。」 「確認の印」とは、「きよめられるべき神の子たち」という印であり、きよめられるために押される神の印です。すなわち、助け主、聖霊様の内住です。 私たちの内に聖霊様が働きかけに来られ、聖めと同時に私たちのうちに住んで下さいます。それが心の割礼を受けた時であり、その証しは、神を畏れる正しい良心からの悔い改めと神への信仰(神に従う決意)です。 クリスチャンも悔い改めることが少ないと、自分がずれていることにも気が付かず、罪も分からず、神様に頼ることも少なくなり、きよめの意味も分からなくなります。 ですから、クリスチャン生活は、いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝しますが、また、罪に敏感で良心が咎めを感じることも健全なことなのです。救われたから、もう悩みも苦しみも良心の咎めも全部なくなるということはありません。 義認と聖化は別の意味です。聖い領域に入れられたことと、更に、聖さの深みに進むことは別のことなのです。 完成された姿はイエス様だけです。私たちが完成されるのは、この罪の体が、よみがえられたイエス様のような全く罪の無い体に変えられる時です。この地上に生きている限りは、聖霊様によって私たちはきよめの働きを受け続けていくのです。
2.聖めによる選びの目的 A)キリストへの全き従順という聖め(第1ペテロ2:21) 「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」 神の愛のあらわれであり、神のことばであられるキリスト・イエスへの従順によってもたらされる苦しみによる聖め。 どんな状況であっても、相手が誰であっても、神の愛のうちにとどまり、神のことばに従い続けるという姿勢をもって、苦しみを耐えるのが、きよめの働きです。 従順であることが難しいと思えるようなところに、あるいはそのような相手の前に、あえて神は私たちを置かれるようです。「神の予知に従い」、あなたをきよめてくださる、と言われる通りです。 B)キリストの血に触れ続けるという聖め(第1ヨハネ1:7) 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 互いに交わりを保ち続けるためには、イエスの血潮によるいやしと聖めが必要である。 「互いに愛し合う」という中には、「互いに交わりを保つ」ことが含まれています。しかし、完成されてない者同士の愛の交わりですから、傷つけられやすいものです。傷つけたという自覚より、傷つけられたという自覚の方が多いのかもしれません。 いずれにしても、「完全でないから」ということを言い訳にして、あきらめてはいけません。完全でないなら、完全に向かって悔い改めて、もう一度神への信仰をもってやり直すべきです。今日の不完全に留まってはいけません。 神のみこころは、「今日より明日」と、きよめの前進を願い、チャレンジしていくこと、私たちがキリストの身丈にまで成長することなのです。そこが、神の前に正しい良心を維持できているかどうかのしるしとなるのかもしれません。
クリスチャンが、兄弟姉妹の言動を受けて、否定的な思いを抱き、そして傷ついて、癒されないまま、きよめられないでいると、信仰から離れてしまいます。キリストのからだに属することを嫌がり、教会から離れ、一人で信仰生活を送ろうとします。 私たち罪人が、交わりを保ち続けるためには、相手に悪意があろうとなかろうと、あなた自身は神の愛に触れられて、「人のした悪を思わない」という愛に立ち返り、「あの人はそういうつもりではなかったかもしれない」と、良い方に解釈していくことが大事です。 相手を変えるより、「心の一新によって」自分を変えていきましょう。それは聖霊様による新生と更新の洗いを受けることにつながります。 そうなるまでは葛藤も強く、苦しむことでしょう。それは不純物が取り除かれていく、きよめの苦しみです。そこを忍耐して、ぜひ聖霊様による新生と更新を体験していただきたいと思います。 「キリストの血は、私たちを罪からきよめる」という神様の愛の中に留まり、愛に触れられていくことによってのみ、この地上でクリスチャン生活を全うすることができるのです。 聖霊様はその目的のために私たちを選び、試みによってきよめ(聖霊と火とのバプテスマ)、そしてきよめの実を結んでくださるのです。神様の願いは、私たちがきよめられることです。これからも聖霊のバプテスマ(きよめのあらい)を受け続けてまいりましょう。 |