■2020年10月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

方向転換  up 2020.10.25


主題聖句(黙示録3:3)
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

 

 

 

「聖められる」ことに向かって進む向きを変えて行く

 私たちは聖められることに向かっていつも同じように前進しているかというと、そういうわけでもありません。私たちはこの世の影響を受けて生活していますから、多少なりとも方向が無意識にズレていきます。ですから点検が必要です。「もうこれでいいんだ」と思うこと自体が、聖められることから外れていることなのだと考えていただきたいと思います。

 今日の主題聖句には「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい」とあります。
 
 私たちは、まず「キリストの十字架の贖い」を、福音として聞いて信じました。罪の赦しのための贖いの御業が、神様の愛によってなしとげられたことを聞いて信じたのです。そして、その信じたことを固く守り続けるために、信仰生活に入ってからも「悔い改めなさい」と「方向転換」を勧められています。
 
 私たちは知らず知らずのうちに、正しい的からズレた方向に進んでいくものです。聖書のおことばに従っていない自分が出てきます。ですから、「目を覚ましなさい」、罪(的外れ)に気付きなさい、悔い改めなさい、方向を正しなさい、と警告されているのです。
 
 最初にイエス様を信じた時に一度悔い改めて、「救われたからもういいんだ」と、そのまま眠ったようになっていたのでは、イエス様の再臨は「決してわからない」とまで言われています。
 
 悔い改めることは恥ではありません。罪(的外れ)に気付いて、多く悔い改めるほど、よく目を覚ましていることであり、まともな生活をしていることでもあります。
 
 悔い改めに疲れた人は居眠り状態です。そういう人は、知らないうちに再臨が来てしまいます。つまり、同じように教会に来て、同じようにメッセージを聞いても、霊は眠っているので、再臨が近いことが心にも霊にも感じられず、危機感もなく、悔い改めるべき罪にも気付かず、「私がいつあなたのところに来るか、決してわからない」状態だと、イエス様は忠告しておられます。
 
 「悔い改め」という言葉は、今は方向が間違っていても、改めるべき正しい方向がある、目的地(ゴール)があるということです。
 
 私たちはゴールをしっかり心に刻んでいるでしょうか。私たちが聖められることは、目標(ゴール)なのです。

正しい方向に悔い改めれば、再臨を迎えることができる。
 
 「ゴール」それは、キリストの再臨であり、私たちがキリストと同
じ姿に到達することでもあります。
 
 (へブル12:14)には、「聖くなければ誰も主を見ることができません。」と言われています。再臨(ゴール)が来ても、聖くなければイエス様を見ることができません。眠っているから気付かないということでしょう。

1.何を目指していますか?
 あなたは今、どんな目標を目指して生きていますか?
 (エペソ1:4−5)には、世界の基の置かれる前からキリストにあって聖く傷のないものとなるように選ばれており、キリストによって神の子とされることが定まっていると、神様の描かれた私たちについての設計図が書かれてあります。設計図が実現するときがゴールです。
 
 実際に天地創造という世界の基が据えられて、物質的創造の御業は完了しています。
 
 今は人類が神の子として霊的成長、成熟を遂げるように育てられている途上と言えるでしょう。キリストの花嫁と言われるように、キリストとともに聖い御国を相続する聖い成人者となるようにと、神様は人類の歴史を進めておられます。
 
 しかし、この目標があまりに遠すぎて実感しにくいので、私たちはこの世の五感に触れる世界に意識が引っ張られ易くなります。あなたは今どちらに意識を向けて何を目指しているでしょうか。

 救われた目的を目指していますか?それとも、肉の欲を満たすことを目指していますか?

(第1テサロニケ4:7)
「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。」

 まさに、私たちに「聖潔を得させるために」キリストは十字架にかかられ、「聖潔を得させるために」私たちはキリストのもとに導かれているのです。
 
 神の国は完全な聖い世界です。最初の悔い改めにより、私たちは神の国に入れられる資格を与えられました。この救いには完成の時があります。その最終ゴールを見失うことなく、その時を目指して、向きを正しながら(方向転換)、私たちは今この地上の人生を生きていくわけです。

キリストを信じたのは、永遠の滅びに至らないためです。それは聖められる人生なのです。

 目標が遠大なために実感しにくいということは、私たちの弱点でもあります。 ですから、聖霊様は弱い私たちの内に住んで下さり、私たちの的外れを教えてくださいます。欲に引っ張られ、肉に引きずられた時に、聖霊様がそれを気付かせてくださいます。気付かされた時、元に戻ろうと思うことが「悔い改め」です。
 
 しかし、元に戻る重要性がわからず後回しにしたり、どこからどこに戻っていいのか分からないというクリスチャンもいるのではないでしょうか。それは、「聖め」が人生の目標、人生の道になっていないのです。 

2.悔い改めはすべての人へ
万物の統治者であるキリストは、神のかたちに創造された人々に命じておられる

(使徒17:30)
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

 「無知の時代」とは、キリストが世に来られる以前の時代のことです。その時代の人々の罪を、神はさばかず見過ごしておられました。なぜなら、やがてキリストの十字架において、すべての罪を処罰することを計画しておられたからです。
 
 しかし、「今」は、イエス・キリストの十字架の贖いの御業が歴史の中に成就しました。ですから、今は、どこででもすべての人に、立ち返って神のさばきから救われるように、悔い改めをお命じになられるのです。
 
 悔い改めるべきことは色々ありますが、具体的に一つ例をあげてみましょう。

(第1テモテ:6:10)
「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

 私たちは、愛するものを一番優先します。頭から離れません。そこに思いが捕らわれています。それが根となり、そこから悪の芽が生じます。
 
 金銭へのこだわりが強いままでいると、聖められるところから大きく離れていきます。パウロも「満ち足りる心を伴う敬虔」が大切だと語っています。
 
 自分はどうだろうかと、みことばから自分を振り返ってみて、正しい良心をもって謙虚に考える時、自分の悔い改めるべき点が見えてくるのではありませんか。
 
 この正しい良心の判断が、聖められていく中での、火の試練を通しての神様の聖めの取り扱いの始まりであり、皆さんがキリストのすがた(きよさ)に少しでも近づくようにと、神様が取り扱ってくださっておられるということなのです。

汚れから救われたい人は、キリストのもとへ!

 この願いを持っている人は悔い改めることができます。罪の束縛、貪欲の縛り、汚れ、このような人生はいやだ、救われたい、という願いがあれば、神はあなたを聖めてくださいます。聖めの人生へとあなたを導いてくださいます。キリストに従って行けば、おのずと聖められて行きます。
 
 神様はクリスチャンにもノンクリスチャンにも、このように「悔い改め」を語ってくださっておられるのです。
 
 クリスチャンは罪を意識出来るようになったら、早いうちに方向を戻しましょう。たとえ汚れたとしても、聖めていただくように、心を神様に向け直しましょう。これが悔い改めです。皆さんの心の中に、方向を変える(悔い改める)気持ちがあるでしょうか。今週、皆さんの心を探っていただきたいと思います。
 
 サウル王様や、エサウのことを思い出してみてください。エサウは、長子の特権をヤコブに簡単に譲ってしまいました。特権を失ったことを泣いて後悔しましたが、悔い改めることが出来ませんでした。神様に対しての自分の間違いがわからず、罪が分からなかったので、心の在り様を変えることができなかったのです。
 
 クリスチャンの歩む道は一本道です。「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われたイエス様の聖い歩みの道です。これ以外にはありません。
 
 あなたのクリスチャン人生に、聖められることを追い求めている姿勢が見えれば、そこには「信仰」があるということです。
 
 「信仰」がなくては、神に喜ばれることは出来ません。あなたの、聖められることを追い求める信仰を、悔い改めて元に戻る歩みを、神様に喜んでいただきましょう。

【俳句】
美味しさを  目指して作る  栗料理

 料理を作る時は、美味しいものができるようにと目指します。目指していても時には失敗をしますが、それでも美味しさを目指して、工夫し続けて行けば、失敗も少なくなり、やがて味も定まってきます。

 聖められたい、という願いをもち続けるクリスチャン生活も、悔い改め続けていけば、いつか必ず聖い実が出てくるようになります。

 

 

 

 

 

■2020年10月18日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

聖霊とともに歩む
イエス様の御そばにとどまる聖め
  up 2020.10.18


 

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】
『聖霊とともに歩む』
(使徒19:11-20)
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。
パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみた。
そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と言った。
そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押さえつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。

 この世界には、様々な教会があります。同じ神を信じ、また聖書を土台としながら、強調点の違いにより、いくつかの教団教派が存在します。私たちの教会は、聖霊様の働きが聖書の時代だけでなく、現代にも働いていることを信じ、また体験してきました。
 この世の常識をもって聖霊の働きを測ると、とても理解できないことのように見えますが、助け主なる聖霊様が私たちのからだを宮とし、住んでくださっているのですから、
 この世の物差しでなはなく、聖書の物差しで聖霊様を理解しなければなりません。
 使徒19:11-20に書かれている出来事は、神様がパウロの手によって奇蹟を行わせていた頃、そのやり方を真似た愚かな者たちが、悪霊に返り討ちにされる場面です。

 ここから教えられることが三点あります。
 一つ目は、間違った動機は失敗する、ということです。ここで登場する魔よけ祈祷師は、パウロの評判を聞いて真似たのでしょう。自分の益やお金のためという間違った動機だったことが想像できます。
ましてや、イエス様を信じていないものが行う奇蹟は本当の奇蹟では無いのです。
 二つ目は、悪霊も本物を知っている、ということです。悪霊とは神様に敵対する存在ですから、悪霊にとって嫌な存在は、神様と神様を信じる信仰者です。
逆を言えば、信仰者でなければ、悪霊にとって恐れるに足りない存在だということです。カタチだけの信仰とならないようにしましょう。
 三つ目は、聖霊の働きなくして奇蹟は起らない、ということです。パウロの手による奇蹟は、神様からのものです。もっと詳しく言うなら、聖霊様からのものです。

1コリント12:9-10
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 私たちは奇蹟を行うことが信仰生活の目的ではありませんが、信仰者であれば、ある時は主によって奇蹟さえも行うことだってあるのです。それこそ聖霊様とともに歩んでいる証となるのです。
私たちにとって聖霊様とはどんな存在で、ともに歩むとはどういうことなのかを、定期的に考えていくことは大切なことです。
 信仰は目に見えない事柄を信じる力です。聖霊様の働きに対しても私たちの信仰の真価は問われているのかもしれません。

 

【横路伝道師メッセージ】
『イエス様の御そばにとどまる聖め』
(ヨハネ8:7b)
「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こし言われた。『あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」
 
 この箇所は有名な、姦淫の現場で捕らえられた女のお話です。今日も二千年前のイエス様に出会うためにこの物語を見ていきましょう。
 早朝、姦淫の女が捕らえられて、イエス様の前に連れて来られました。これはイエス様を陥れようと律法学者やパリサイ人によって仕組まれた事件であったようです。もちろん、姦淫の罪は大きな罪です。しかし、男性は連れて来られず女性だけ連れて来られました。イエス様を訴える口実のために、イエス様の所に連れてこられたと思います。
 もしイエス様が、「律法に書いてある通りに石打ちの刑にしなさい。」と言われたとしたら、罪人の友と言われ、愛の方であるイエス様が、たった一人の女さえ救うことができなかったのかと言われる恐れがあります。また、「石打ちにしてはいけない。」と言われるなら、教師と呼ばれて尊敬されているけれど、律法を守らないではないかと言われ、どちらを答えても悪く言われるという罠でした。
 イエス様は知恵のある方です。ここですぐに答えられませんでした。腰を下ろして地面に何か字を書いておられました。かわいそうなのは、この女性です。今判決が下って殺されるかもしれないという恐怖の中で震えていました。
 なぜイエス様は、すぐに返事をされなかったのでしょうか。このイエス様が待たれた時間というのは、律法学者たちが、イエス様を陥れようとしたことを悔い改める時間をもたれたのではないかと思います。告発して女性を連れてきた律法学者やパリサイ人は、私たちはこうしようと思うという、自分の意見を言っていません。ずいぶん卑怯であったと思います。
 彼らの中に、この女性に対するあわれみはないのかということも、待っておられたのではないかと思います。この女性を責めるだけの資格があるのかということを気付く時間を与えられたのではないのでしょうか。
 しかし、彼らはその与えられている時間の間に何も反省しませんでした。イエス様にしつこく迫っていました。
 そこでイエス様は、身を起こして、「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。彼らは一瞬固まったと思います。イエス様は厳しい言い方はされませんでした。彼らはそのお言葉で心を刺されたようです。年長者から、一人、また一人とその場を去って行ったと書いてあります。彼らは処刑をしようと思って、それぞれ手に大きな石を持っていましたが、そこに石を置いて黙って去って行きました。
 イエス様はその中で、2回目の沈黙をされ、地面に字を書いていました。一人ひとり去って行きました。彼らがもし「私も罪人で、決して人を石打ちにすることができる資格はありません。」と悔い改めて正直に告白したのであれば、彼らの罪は赦されたのだと思います。また、女性に対してあやまることもできたでしょう。しかし、だれもいなくなりました。告発者たちは、心に罪を示されても、こそこそと逃げ去りました。女性に対して憐みを示すことも謝罪することもなく、イエス様を罠にかけようとしたことを反省することもなく、ただ黙って去って行ったのです。
 サタンはイエス様のみことばの前でしっぽを巻いて逃げ去るしかありません。決して悔い改めることのできないものであるということをここで表しているように思います。
 この姦淫の女の、自分の大きな罪のためとはいえ、その罪を明るみに出されて、町を連れ歩かれる恥ずかしさと、殺されるかもしれないという恐怖心は、想像を絶するものです。もし私たちがそのような立場になったらどうするでしょうか。彼女に同情する人は誰もいなかったのです。白い目で見られ、ののしられ、つばをかけられ、まるでイエス様の十字架にかけられる前にされたのと同じような扱いを受けました。
 イエス様は、彼女にとても憐み深い対応をされました。「婦人よ。」と優しく声をかけられました。「姦淫の女よ」とは言われませんでした。この女性のすべての状況を把握されていて、弱さの中に罪を犯してしまった心の痛み、悲しみをすべてご存知でした。「あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める人はいなかったのですか。」と言われました。
 女性は立ち尽くして震えていました。たとえ律法学者やパリサイ人たちが石を置いて帰ったとしても、罪を犯したことのない聖いお方であられるイエス様がそこにおられました。イエス様こそ私を石で打ち殺してしまわれるのではないかという恐れがあったかもしれません。しかしイエス様は、優しく語られました。
 女が「だれもいません」と言った時に、イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは罪を犯してはなりません。」と言われました。彼女は、逃げた律法学者たちと一緒に、こそこそと逃げることができたかもしれません。しかし、彼女はそこにとどまっていました。
 イエス様が罪に定めないと言われたのは、簡単に罪を赦すという話ではありません。なぜなら罪の支払う報酬は死であると決まっています。この女性の罪の罰は、イエス様ご自身が十字架で負うという覚悟をお持ちだったのです。そして、この後間もなくイエス様は十字架にかかられます。この女性のためにも、私たちの罪の贖いのためにも、血潮を流してくださいました。イエス様の十字架の愛を深く思わされます。
 
【適用】
◎急いで感情的な対応をしない愛
 イエス様は2回沈黙して、待たれました。ここから学ぶことは、沈黙の愛です。私たちは攻撃されるとすぐに言い返したくなります。人の言葉に過剰に反応してしまい、自分の正しさと相手の間違いを見つけて反撃してしまいます。イエス様のように、時間を置くことが大切です。一呼吸おいて、心の中でどう答えたらいいか、みことばがどのように教えているか、聖霊様は何を語られているかを待つことが大切です。

◎人を罪に定めない謙遜
 律法学者やパリサイ人は、この女性もイエス様も罪に定めようとしていました。しかし、イエス様は姦淫の女性さえ、罪に定められませんでした。イエス様がこのようにされたのなら、私たちも人のどんな罪をも赦して罪に定めないという決心をしたいと思います。私たち自身も赦された罪人だからです。人を心の中で裁かないようにしましょう。

◎イエス様の御そばにとどまる聖さ
 律法学者やパリサイ人は、悔い改めずに黙って逃げ出しました。聖いイエス様の元にとどまることができなかったのです。とどまっていれば、悔い改めて赦されるチャンスがあったのに、彼らはとどまることができなかったのです。
 しかし、女性はイエス様の前にとどまっていたので、やさしい言葉をかけられ、赦しを与えられ、解放を与えられました。主のそばにとどまっていることは、聖められることです。
 私たちもいつもイエス様の側にとどまっていたいと思います。自分の罪の姿が明るみに出るようなことがあったとしても、主の前から逃げないように、祈りとみことばから逃げないようにしなければならないと思います。
 イエス様にとどまるということは、みことばにとどまるとうことです。その中に聖さがあります。触れるものに染められます。イエス様の聖さに染められるために、みことばにとどまることです。この一週間もみことばにとどまりたいと思います。

(参考聖句)
(第1ヨハネ3:6)
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(ヤコブ1:21)
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

 

 

 

 

■2020年10月11日 合同日曜礼拝メッセージより(大嶋重徳師:鳩ヶ谷福音自由教会牧師)

広島合同礼拝  up 2020.10.11


主題聖句(使徒18:1〜11)
その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。
ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、
自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。
そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。
しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。
そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。
会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

 

 

 

(18:1)「その後」が何の後かということが重要です。先輩バルナバと別れてパウロはシラス、テモテとともに伝道旅行しましたが、どこに行ってもユダヤ人達の激しい迫害にあいました。そしてベレヤというところでふたりと別れて、パウロはアテネに向かいます。そのアテネで、ふたりの到着を待っていたパウロが目にしたのは多くの偶像でした。そこで彼は激しい憤りを感じ福音を語りました。しかし、多くのアテネの人々は聞く耳すら持たず、パウロは無視されたのです。この出来事があっての「その後」です。
 
 バルナバから独立して福音宣教に出たパウロでしたが、行く先々でユダヤ人たちの暴動に会い、しかもアテネでは相手にもされないという大きな挫折を味わいました。そのパウロの心境が(第1コリント2:1〜3)にあります。
「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」
 
 アテネは学問の街でアカデミックゾーンの人々が多く、おそらくパウロは知的な語り方で福音を語ったかもしれません。しかし相手にされませんでした。
 コリントに来たパウロはこの時、弱く恐れおののいていたと告白しているように、アテネでの惨敗の記憶に苦しみ傷ついていたのです。その後とはこういうアテネでの惨敗の後という意味です。世界第3の大きな都市コリントに彼は傷ついて来たのです。
 
 私たちも最初は救われた喜びにあふれ、喜んで教会に行き、臆することなく伝道していたはずです。しかしやがて気が付きます。クラスで教会に行っているのは自分1人だと。
 そして少しづつ恐れや不安が侵食してくるのです。最初は日曜日に友人に誘われたら、教会に行くからと堂々と断っていたのに、だんだん日曜日に遊びに行かない理由をごまかすようになり、次第にはっきりと言えなくなってしまい…と。あるいは積極的に伝道していたのに、だんだんとはっり言えなくなってしまったり、私たちもパウロと同じように「惨敗」の記憶をもっているのではないでしょうか。
 そして、今は時ではないのではとか、あの人はもう言っても無理だろうとか、あきらめてしまっていないでしょうか。 
 
 このパウロに神様は励ましを用意しておられました。それは、(18:2)のアクラとプリスキラとの出会いです。ふたりはパウロと同業者でした。彼らはローマにいましたが、暴動が起き、それを理由にクラウデオ帝によって、着の身着のまま追放されてしまった人々のひとりでした。この出会いによってパウロは活路を見出し、さらに教会も前進することになります。
 
 この出会いは絶妙な神様の導きの不思議です。アクラとプリスキラはやがてローマに帰り、ローマの教会を築きます。そしてパウロはこの教会に向けて「ローマ人への手紙」を書くのです。
 また5節に、神様の励ましはシラスとテモテによって二つ与えられました。

(1)テサロニケの教会の情報を受け取れた。
ユダヤ人達の激しい迫害が起きているというニュースにパウロはテサロニケの教会の人々を心配していました。しかし(第2テサロニケ3:6)にあるように、信徒たちの信仰に燃え頑張っている様子が知らされたのです。

(2)ピリピ教会の献金が届けられた
 まだ始まったばかりの小さな教会にも関わらず、彼らはパウロの宣教を支えたのです。その献金によってパウロは天幕作りの仕事をやめて、福音宣教に専心できました。
 
 このように、神様は弱り落胆している私たちにも、良き出会いと交わりを用意してくださっています。今はオンラインで別々の場所にいますが、広島で出会わなければならない人々が待っています、そして ここからやがて福音の実が実り、ローマの教会ができたように、その実が増え広がっていくようになります。
 
 オンラインの配信は大変です。たくさんのイベントが中止になる中、広島はこの宣教大会をあきらめることなく、オンラインで実現されました。広島のゴスペルフェスタで今日伝道メッセージを聞いてほしい人々が、皆さんにはたくさんおられるからだと思います。

(18:6)事件が起きました。それは反対する者たちです。クリスチャンが福音宣教をしようとする時、必ず反対が起こります。馬鹿にされたり嘲られるというのは、本当に一生懸命伝えている証拠です。

(18:7,8)しかし多くのコリントの人々が信仰に入ったとあります。アテネでの失望が今やコリントで実を結んだのです。

(18:9)しかし、順風満帆に見えたこの時、神様は夢でパウロに現れ、「恐れずに語り続けなさい」と語られます。なぜでしょうか。実は一見何も問題なく見えるパウロの内側に黙り込んでしまいそうな恐れが生じていることを神様は見抜かれていたのです。その恐れとは何でしょうか。

(1)語り続けることへの恐れ。(やがて話し方がたくみでないとか陰口を言われるようになります。)

(2)伝道の最中、神様の臨在を失ったと感じるような何かの不安からくる恐れ。

(3)敵対するユダヤ人や周りの人々からの迫害、また教会に入り込み混乱をもたらしてくる人々の恐れ。

(4)大都市にも関わらず、実を結ぶ少なさへのやりきれなさからくる恐れ。
 
 順風満帆で教会がのっているこの時、弱く恐れているパウロがいたのです。しかし、神様はそれを良くご存知でした。
 
 いくら物事がうまく行き、満足感を得られることがあったとしても、結局は一時的なものなのです。人は、挫折をしては盛り上がり、盛り上がっては挫折するということを繰り返します。神のみことばに突き動かされ、生かされない限り、勢いややる気では続かないのです。
 
 私は高校生の時、聖会で燃えて帰って来た時、この事を牧師に教えられました。「激しく燃えると、激しく消えるよ。消えることのないみことばの炎が燃え続けるといいですね。」と。
 
 私たちは大きな大会で燃えても、神のみことばで燃やされない限り、神のみことばに突き動かされていかない限り、人間的な盛り上がりではやがて消えてしまうのです。
 
 それゆえ神はパウロに、恐れないで語り続けなさい、わたしがあなたとともにいるから、あらゆることからあなたを守るからと言われたのです。
 
 更に、この町にはわたしの民がたくさんいるからと言われました。
パウロの目に写っている数少ないクリスチャンではなく、神ご自身のまなざしで見えていることを語られたのです。
 乱れに乱れているコリントの人々を、神はご自身のひとり子を与えても惜しくない愛する人々と見ておられたのです。
 同様に神様はこの広島に日本にわたしの民がたくさんいると言ってくださっています。以前は来ていたのに、もう教会から遠ざかってしまった人々や、あなたがもう無理だとあきらめてしまっている人々を、今もなお、神様はわたしの民と呼んでおられるのです。
 
 日本宣教を惨敗の歴史という人がいるかもしれません。確かに日本の教会には反省すべきことが多いでしょう。しかし、神様はこの日本を、教会を決してあきらめてはおられません。
 
 日本に福音が伝わってまだ150年です。2000年の歴史から比べたらまだ浅いのです。
 
 私たちはその中で先に救われてクリスチャンになりました。それは私たちが神のみことばに突き動かされ、神が見ておられる神の民がさらに私たちを通して起こされることを願われたからです。神様があきらめておられないのに、私たちが先にあきらめてはいけません。
 
 私たちも何度も信じることを拒みました。それでも今日ここにいます。それは私たちが神の民であると信じ、祈ってくれた誰かがいてくれたからです。
 
 断られたからといってなぜ心が折れてしまうのでしょうか、どうして愛する家族を友人をあきらめられるのでしょうか。

 私たちの周りはアテネのように心が頑なな人々が多くいるように見えます。しかし、ここに目を止めることばがあります。
(18:11)にパウロは「 一年半ここに腰を据えて」とあります。
このコリントにパウロは腰を据えました。そしてコリントの教会が生まれたのです。

 私の父は、母が熱心なクリスチャンにも関わらず、決して神様を信じない人でした。その父がやっと2年前に私から洗礼を受けてくれました。なかなか信じると言わない人でしたが、洗礼を受けるための準備で、自分自身の証を用意していく過程で、やっと自分の罪に気づき、イエス様を信じることができました。母は「47年ずっと待っていた。荒野の40年では足りなかった。本当にこんな日がくるなんて。」と感無量でした。
 
 母は父をあきらめることはできませんでした。47年間腰を据えてずっと父のために祈り続けたのです。
 
 アテネでは生まれなかった教会がコリントでは生まれ、パウロがいなくなった後も続いていきました。それは神ご自身が見て語ってくださったとおりです。
 
 福音宣教は長距離走です。しっかりと息を長く走り続けないといけません。そして、愛する家族や周りの人々の傍らにしっかりと腰を据え、祈っていかないといけません。自分が息切れしたら、教会の祈祷会でその人の救いのために祈ってもらいましょう。あきらめないクリスチャンでありましょう。
 
 ただ、ひとりで立とうとしないでください。互いに支え合い祈りあうことが必要です。
 
 この広島の教会がひとつとなり、しっかりと腰を据えて、愛する人々のために福音宣教を続けていかれることを願っています。

 

 

 

 

 

■2020年10月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖められることは福音  up 2020.10.4


主題聖句(ヤコブ1:12)
試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

 

 

 試練に耐えるとは聖めを受けること
 いのちの冠を受ける約束は、福音である

 試練に耐える人が幸いなのはなぜでしょう。聖霊と火とのバプテスマの学びの時に、試練に耐えることは聖められることであるということを、紹介いたしました。私たちは試練を受けると、あらゆる隠れた不純物が浮き彫りにされて、自分の罪深さを知ることができます。そして、もっときよめられたい、きよめていただこうと信仰を働かせます。ですから、試練に耐えることはきよめを受けることになるのです。

 そして、試練を耐える幸いは、そのように「きよめられること」と、もう一つ「いのちの冠を受ける」という良き知らせがあることを、ヤコブは語っています。
 
 私たちが試練に耐え抜いたその労苦に対する報い(報酬)として、「いのちの冠」という「ご褒美」を、神様は用意してくださるというのです。
 
 「永遠のいのち」を得るという救いは神様からの「めぐみ」ですが、試練を忍耐する労苦は私たちの自らの働きでありますから、それに対しては「報い」(報酬)があるというわけです。
 
 罪人がきよめられるというだけでも、もう充分なことでありますのに、その苦しみによく耐えたと、ご褒美(報酬)まで用意してくださるという神様の約束は、何と素晴らしい感謝なことでしょう。

1.聖めには報いがある
(詩篇58:11)
「こうして人々は言おう。『まことに正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」
 正しいもの=神を愛する者
 さばく神=報うお方の存在
 
 試練によってどれだけ充分に聖められたか、ということで報いがあるのではなく、試練の苦しみに耐えたということに報いがあるというのは、どういうことでしょうか。

(詩篇58:11)には「正しい者に報いがある」と記されています。
主題聖句(ヤコブ1:12)には「神を愛する者に約束された」とも書いてあります。
 
 行いによって正しくあろうとする人は、神様のおことばを全部守らないと「正しい」とは言ってもらえません。
 しかし、私たちはイエス・キリストによって、信じる者は正しい者とみなされます。「信じる」という言葉の中には、神を愛するという心の思いが含まれています。

 救い主イエス・キリストが地上においでになってからは、「神を愛する人」すなわち、神の愛そのものであるイエス・キリストを信じる人が、正しいとみなされるのです。ゆえに、正しいもの(神を愛する者)には報いがある、ということになります。
 
 それから、(詩篇58:11)には、「さばく神が地におられる」と続いています。さばき主なる神は、天におられるだけでなく、地をもさばく権威をお持ちです。
 
 違反者が裁かれない社会、正しい人が報われない社会、それは悪のはびこる社会です。
 
 私たちが神を愛し続け、キリストに従い続けて、正しい者であろうとするのは、すべてを裁き報いられる神が存在されるからです。良いことも悪いことも、その行いに応じて平等にさばかれる神がおられるからです。それゆえに、正しい者は正しさを全うできるのです。
 
 正しい者が正しい者として歩む労苦、きよめられ続けていく労苦にたいして、報いがあるということは、大きな慰めであり励ましとなるのではないでしょうか。

2.聖められた人の報い(イザヤ57:15)
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」
  
  試練を耐え、聖められた人
  耐え抜いて良しと認められた人
  心砕かれた人
  へりくだった人
 
 まず、聖められた人とはどういう人かを、(イザヤ57:15)から見てみましょう。
 
 神は聖なる方で、聖なるところに住まわれるお方です。そのお方が「心砕かれて、へりくだった人と共に住む」ということは、心砕かれた人、へりくだった人を「聖なるもの」と神は認めておられる、ということです。
 
 罪人が神様と共に歩める、その御声を聞いて導かれる、お付き合いができる、その唯一の条件は、心砕かれ、へりくだった者であることと言えます。
 
 私たちは最初からそのような者ではありませんでした。イエス様を信じるようになっても、傲慢で頑なな者でした。ですから、その信仰がきよめられていくために、心砕かれ、へりくだった状態へと、神様は試練を通して私たちをつくり変え、きよめていってくださるのです。
 
 この世では、心砕かれて、へりくだることが割りに合わないことが多くあります。私たちはつい、これが正義だと、出すぎたり、言い張ったりします。そして、他人、周り、社会の悪を自分でさばいてしまうということがよくあります。この愚かな自己義があるので、私たちは余計苦しんでしまいます。
 
 神が最終的なさばき主であることを信じて、正しいことを守り続けるその忍耐を、神様は試練として与えて、あなたをきよめて下さっておられるのだと受けとめてはいかがでしょうか。
 
 悪を行なう者のことは、社会にそして神に委ねていきましょう。この世で裁かれなかった隠れた罪は、最後の審判の時に神が裁かれるのです。私たちも今のうちに、神様の前に悔い改めて、心砕き、へりくだって、地上での人生を、火の試練として、きよめの人生として、歩んでいきましょう。
 
 試練を耐え、聖められた人とは、耐え抜いて良しと認められた人である。それは、心砕かれた人、そして、へりくだった人です。
 
 耐え抜いて「良し」と認められるには、心砕かれるという体験が必要です。神がその人をご覧になり、試練の中で耐えているのを見て「心砕かれているなぁ」と認められた人は幸いです。
 
 そしてもう一つは、へりくだっていくこと、わきまえを身につけていくことです。それは試練を通して、その苦しみを通し経験を通して、私たちの内に教訓として残っていくことではないでしょうか。わきまえは知恵として「箴言」の中に多く語られています。次に、報いとしての「いのちの冠」について考えてみましょう。
  
  報いとしてのいのちの冠
  いのち=存在
  冠=称賛、栄誉、尊い 
  その人の霊と心を生かされる
  聖なる方がともに住まわれる
 
 オリンピックの勝者に与えられる冠を見ても分かる通り、冠とは称賛、栄誉、尊敬のしるしです。
 
 神様がその人に、「いのちの冠」を授けられるというのは、神様が称賛をもって、その人の存在を迎え入れて下さるということです。「よく耐えたね、よく頑張った」と、天で神様が天使たちと共に、私たちを拍手と歓声で迎えて下さる、尊いものだと認めて下さるのです。これ以上のご褒美、報いがあるでしょうか。
 
 神様が与えてくださる栄誉です。あなたが天においてどれだけ尊い存在であるか、そのしるしとしての「いのちの冠」という報酬を、頂くことが出来るのです。
 
 この神様からの称賛と栄誉と尊敬の冠は、イザヤ書では、その人の「霊と心を生かす」と記してあります。永遠の滅びに行く人はその霊と心が生かされていません。試練に耐え抜いて、いのちの冠を頂いた人の霊と心は、神の前に尊い生かされる存在となるのです。
 
 いのちの冠に含まれるもう一つの報いとして、イザヤ書に「聖なる方がともに住まわれる」と書かれてあります。聖なる方が罪人と共に住まわれるというのは、本来なら有り得ない、すごいことです。それが実現するのです。
 
 地上においてさえ、皆に尊敬されている人の隣に居合わせて会話や食事を共に出来た時の感激はすごいものがあるでしょう。まして、それがイエス様であれば、その臨在の嬉しさ、素晴らしさ、喜び、感激はどれほどのものでしょうか。この報いのすばらしさを皆さんも、想像してみてください。

【俳句】
つづれさせ  磨かれし音は  いかに聖し
 
 つづれさせ(こおろぎ)が、羽を擦り合わせて鳴らす音は、磨かれ熟練して、本当に澄んだ音色に聞こえてきます。
 私たちも試練に耐えて心磨かれて、神の前に聖いと認められるようなクリスチャン生活を送っていきたいものです。

 

 

 

 

 

■2020年9月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

第五聖会礼拝

御霊によってあゆむ  up 2020.9.27


主題聖句(ガラテヤ5:16)
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 

 

 

 御霊による聖めの人生であり、聖めを選ぶことが御霊による歩み。

 パウロの書簡には、信仰による義、内なる葛藤など、信仰生活の実際的な教えや勧めについて書かれています。そんな中で、今日の主題聖句は、まさに、これがクリスチャン生活の答えだ、と言えるようなみことばとなっています。

 クリスチャン生活は、御霊によって歩むことに尽きる、と言ってよいでしょう。これを心掛けていけば、きよめられ、良い方を選ぶことが出来、神様のご計画通り、神の子として御国を相続する者として造られ選ばれている、という神の目的に沿う結論へと進んでいくことが出来るのです。

 「それで、具体的にはどうすればいいのですか?」と、私たちはすぐ答えを求めたがるものですが、それは一人一人が自分で尋ね求め、探し見出すのが一番早道で良いのです。人から100点満点の答えを教えられても、すぐその通りに出来るわけではありません。

 それぞれが、教えられた100点のところを目指して、今10点なら20点の所を、今30点なら40点の所にチャレンジする、100点に近づく生活を努力する、という気持を持って、メッセージを聞いていただきたいと思います。

 

1.なぜ御霊によって歩むのか

A)ガラテヤ3:3

「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」

 クリスチャン生活は、御霊によってスタートした。

使徒たちの時代、ユダヤ教の割礼の習慣が初代教会に入りこんできて、身にしるしを受けないと救われないという教えが、はびこり始めました。しかし、身にしるしを受けることが救いの証しではありません。信じる信仰によって救われるという福音によって、異邦人も救われてきたのです。

 イエス様を信じる心は、努力して出来る事ではなく、不思議に与えられたとしか言えないような、御霊の働きであり、そして新しい人生を始めたいという心掛けをもって、まさに御霊によってスタートしたクリスチャン生活なのです。

 途中から、御霊様抜きで勝手にやってしまったのでは、もう別物になってしまいます。ルール違反で失格です。御霊によって始めたのなら、最後まで御霊によって完遂すべきなのです。

B)使徒1:4−5

「彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」

クリスチャン生活は、聖霊のバプテスマ(聖め)によってスタートした。

イエス様は天に帰られる前に、弟子たちに福音宣教の使命を与えておられます。しかし、それはすぐにではなく、父の約束(エレミヤ書)が成就されるのを待ってから、出ていきなさいと言われました。それが聖霊のバプテスマを受けることでした。

 私たちは信仰を持った時に、水のバプテスマ(水の洗い=きよめ)を受けましたが、イエス様は更に聖霊のバプテスマ(聖霊によるきよめ)を受けるようにと言われています。それが神様の約束であり、キリストの証人として生きるために必要なことだったからです。

 クリスチャン生活は、聖霊のバプテスマ(聖霊によるきよめ)によってスタートしました。したがって、聖霊によって、きよめを受け続けて歩むことが大事なのです。

C)ガラテヤ6:8

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」

 永遠のいのちを刈り取るため。

 「種を蒔く」とは、実際生活における行動、決断、判断のことを言います。

 「刈り取る」とは、その報いを得ることです。

 肉の働きは罪の働きですから、肉のために蒔く者は、さばきにあいます。しかし、御霊様が喜ばれることのために決断し行動するならば、永遠のいのちというゴールに達します。私たちが永遠のいのちを報いとして与えられるためには、御霊によって歩むことが必要なのです。

 

2.御霊によって歩むとは?

A)第2コリント13:13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 みことばと祈りによって聖霊と交わる。

 私たちが三位一体の神と交わる方法は、聖霊様による以外にはありません。私たちは直接、御父や御子を見たり感じたり触ったりは出来ない状況にありますが、しかし、聖霊様との交わりによるならば、三位一体の神を感じ、ことばを聞き、そのご臨在に触れることも出来るのです。

 他国において、時折「イエス様に会った、見た」というような話を聞きます。イエス様とお会いできるのは再臨のときだけですから、そのような体験談は、慎重に聞く必要があります。

 また、旧約聖書では、「天使」や「主の使い」が度々現れて、直接色々語っていかれましたが、それはいずれも神様からの御用のためでした。

 今、新約の時代においては、私たちと聖霊様との確かな交わりは、みことばと祈りによって与えられると言ってよいと思います。

私たちがみことばを深く黙想するとき、そこに聖霊様が働いてくださって、語りかけたり、啓示を与えたり、幻に意味を与えたりなさるのです。聖霊によって歩むには、聖霊との交わりは必要不可欠です。そのためには、みことばと祈りが、どうしても必要だと言えるでしょう。

B)ローマ8:16

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊と共に、あかししてくださいます。」

 交わりによって、御霊と魂が一致する。

 私たちが御霊によって歩んでいる証拠は、御霊の思いと私たちの霊(こころ、魂)の思いとが、一致することだと、パウロは述べています。これが御霊との交わりによってもたらされる結果であり、御霊によって歩んでいるしるしです。

 私たちが御霊に属し、御霊様について行けば一致するのです。御霊様が「主」です。私たちはついていく「従」の側のものです。逆転してはなりません。

C)ローマ9:1

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によって証しています。」

きよめられた良心は、聖霊と一致する。

肉の良心は聖霊とは一致しません。私たちの信仰生活に葛藤が起こるのは、御霊と魂、御霊と良心が一致しないから、思い煩い、悩み苦しむのです。

 聖霊様は、変わることのない真理のお方として存在しておられます。聖霊によってきよめられた良心は、聖霊様の真理の判断に、共感共鳴することができるのです。

 御霊の思いとは、聖書に書かれてある神様のおことばに準じた思いです。私たちが、御霊の思いであるみことばを、深く理解できないでいると、肉の思いが優先してしまって、御霊の思いから外れてしまいます。

 御霊の思いは、みことばの中にはっきり記されています。そのみことばを御霊によって深く悟らされて「これは真理だ」と、あなたのこころが同調し共感したら、あなたの良心は、きよめられてきているというあかしとなります。きよめが進んだから、御霊に合わせることが出来るのです。

 御霊に合わせられない人は、まだ肉に従うことが多い「キリストにある幼子」と、パウロも言っておりますから、さらに成長していきましょう。

今日は、「なぜ御霊によって歩むのか」そして「御霊によって歩むとは?」について、お話いたしましたが、この2点によって、自分は御霊によって歩んでいるかどうかを確かめてみてください。

 そして、みことばに接する機会、みことばを読んだり、メッセージを聞いたり、そして静まって祈るという時間をしっかり確保してください。この時間が少ないと、御霊様との交わりの回数も少なく、関係は深まっていきません。

 みことばを黙想すればするほど、そのみことばが聖書のあらゆる方向につながっていることを、御霊によって教えられ、共感し、目が開かれて、さとしがもたらされてくるのです。

 神様のことばは霊です。聖書を何度も読むことで御霊のおもいが伝わってきます。そして、私たちの思いや考えに影響を与えてくれるようになるのです。良い関係のためには長い時間が必要です。どうぞ、聖霊様との交わりの体験を積み重ねていってください。

 

 

 

 

 

■2020年9月20日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

目をさましていなさい・バルテマイの叫び  up 2020.9.20


主題聖句
(マタイ25:1〜13)
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

(マルコ10:46〜52)
彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】

 皆さんご存知の通り、私は普段お好み焼き店を経営しています。
 先日テレビに取り上げられたこともあり、ここ数週間はありがたいことに忙しい日々を送っております。
 ある時、予想以上の注文が入り、準備していた食材を切らすことがありました。恥ずかしいことに、このようなことは一度や二度ではなく、
なんとかなる精神で準備を怠る悪いクセがあって、同じ失敗を何度もしてしまうのです。
 そんなとき、ふとイエス様の再臨のことが頭に浮かびました。日頃から準備を怠る自分が、イエス様を迎える準備なんて出来るのだろうかと。
そう考えると、とてもこわくなりました。
 マタイの25章1節から13節に、花婿を迎える10人の娘の例え話があります。
花婿の到着が遅れてしまう状況で、10人のうち5人は万が一に備え予備の油を用意していたので、無事花婿を出迎えることができましたが、
 残りの5人は予備の油を用意していなかったので、ともしびの油が持たなくて、花婿を迎えることができず、祝宴に参加できなかったという内容です。

マタイ25:1−13
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 イエス様は、この例え話のポイントとして、目をさましていなさい、と教えられました。
 目を覚ますと訳されているギリシア語は、英語ではwatchと訳されています。watchの意味は、注意して見る、意識して見るという意味です。
 この例え話の中で、予備の油を用意した5人の娘と、用意しなかった5人の娘はの違いは、花婿への関心の度合いの違いだと言えるでしょう。
 万が一遅れることがあるかもしれないという花婿の動向への意識の高さが、予備の油を備えるという行動に移させたのです。
 一方で他の5人の娘は、花婿がもし遅れても、その時はその時でなんとかなると考えたのか、もしくは遅れるということが想定できなかったのか、
 いずれにせよ、花婿への意識が低かったと言えるでしょう。

 このことから、私たちも普段から神様に関心を持つことはもちろん、普段の生活から物事に備える習慣を身に付けておく方が、
 万が一の時には大きく役立つことがあるのです。
 まして、イエス様の再臨がいつどのように起こるのかを知る人は一人もいないのですから、いざイエス様が再臨されても、意識が低ければ、気付かないことだってありえるのです。そうなれば本当にこわい話です。なので、私は普段から備えるということを習慣化させたいと冒頭の失敗を通して気付かされたのです。
 日常のことができないのに、霊的なことをすることは難しいことです。ですから、普段から物事に備える習慣を身に付け、常に心に余裕を持たせていきましょう。
その余裕が神様に目を向けることに自然とつながっていくのですから。

 

【横路伝道師デボーション】

 このバルテマイという男性は、盲目の障害があり、貧困で疎外され、絶望状態にある人でした。見捨てられた者と感じていたと思います。その中で彼は救い主に希望を持っていました。絶望的な中で、へりくだった心を持っていたのだと思います。

 バルテマイはイエス・キリストのうわさを聞きました。多くの人が癒されて救われていることを聞いたのです。そして「この方こそメシヤである」と確信し、いつかここに来られることを待っていました。そして、ついにイエス様が来られたことを聞きました。

 彼は目が見えないので、走って行って近づくこともできませんでした。唯一の方法は叫ぶことでした。彼は「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と大きな声で叫びました。あまり大きな声で叫び続けるので、周りの人がたしなめ、制止しました。しかし彼はなお叫び続けました。

 イエス様はその叫び声を聞かれました。私たちの願いと切なる祈りはいつもイエス様に届きます。バルテマイは「私の目をあけてください」ではなく「私をあわれんでください」と叫びました。「ダビデの子のイエス様」という言葉は賛美であり、イエス様に対しては最高の誉め言葉でした。それはメシヤであり王であることを表わす言葉で、イエス様の心を動かす言葉でした。

 また、「あわれんでください」という言葉は、イエス様の愛の心をつかみました。イエス様は歩みを止めて、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。ここに、たった一人の魂のために目を留めてくださるイエス様のお姿をここで見ることができます。自分は見捨てられているのではないかと思うような方もおられるかもしれませんが、イエス様はその心の叫びを聞いてくださり、目を留めてくださるお方なのです。

 そこで、弟子たちは「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と彼に手を差し伸べました。それは、先輩のクリスチャンが、苦しみ悩んでいる人に手を差し伸べ助ける姿のようです。

 バルテマイはこれを聞いて、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来ました。この上着は、彼の財産のすべてであったと思います。上着とは、自分の欲や自己中心や、自分にまつわるじゃまなものだったかもしれません。罪に汚れた古い自分です。それを脱ぎ捨ててイエス様の所に近づいてきました。

 「すぐに立ち上がって」という箇所をリビングバイブル訳では「喜び勇んで」とあり、新共同訳では「踊り上がって」と書いてあります。それほどにうれしかったのです。

 イエス様は、彼と顔と顔を合わせて、一対一の交わりをされます。「わたしに何をしてほしいのか」とバルテマイに言われました。バルテマイは、「お金をください」とは言いませんでした。「目が見えるようになることです。」と言いました。神様は私たちの願いを具体的に聞いてくださるお方なので、私たちも具体的に祈るべきです。神様は個人的な交わりをしてくださり、祈りを聞いてくださるお方です。そして、その人に最善なものを与えてくださるお方です。

 ある例え話をします。漂流船の中に、三人の男が生き残っていました。いつ死ぬかわからない中で、一つのビンが海を流れてきました。その中の紙に、「この紙を読んで願うことを、一人に一つずつ叶えよう」と書いてありました。最初の男は、「ふるさとに家族が残っているのでそこに戻って元通りの生活をしたい」と願った時に、ふるさとに戻ったそうです。もう一人の男も、「私もふるさとに友だちがいるので、戻って元通りの生活をしたい」と願うと、その通りにふるさとに戻りました。三人目の男は、家族もいない一人身でした。彼は「この漂流生活は三人で励まし合ってとても良かった。どうか今まで通り三人で漂流生活をさせてください」と願ったそうです。すると、二人が帰ってきたということです。また漂流生活が始まりました。

 私たちの神様は、私たちに良いことをしてくださろうとしています。しかし、この話のようにまじないや占い等の偶像の神様は、なんでも叶えてくれるように見えますけれど、それが必ずしも良くないのです。わがままを全部叶えてしまうと、わがままな世界になってしまいます。

 バルテマイは、「目が見えるようになることです」と言いました。目が見えるようになるということは、主を見ることができるように、また、自分の罪が見えるように、隣人の必要が見えるように、主について行くことができるように、という意味があります。

見えるとは本当に大切なことです。

 イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。バルテマイは、真実の癒しはイエス様にしかできないと信頼しました。その信頼によって癒されたのです。

 今日、このみことばから適用をしたいと思います。すべてのことに時があります。祈りつつそれを忍耐して待つことが必要です。今は苦しくて、心の中がバルテマイのような状況かもしれません。イエス様が救い主であることを知っているが、まだ目が見えていない人、祈りがなかなか聞かれない人もいるでしょう。あの人たちの祈りは聞いてくださるだろうけど、私の祈りは聞いてくださらないと思っている人もおられるかもしれません。しかしそれは違います。イエス様は一人ひとりに必ず目を留めておられます。イエス様だけは愛の神、真実な神であるということを握っていれば、大丈夫です。今は見ていないけれど、必ず問題は解決するということを、イエス様のゆえに信じることです。

 今は私たちは、心の中で叫び祈ることができます。霊的な目が開かれるように、聖めてください、聖霊で満たしてください、魂の救いのためにも、目を開いてくださいという祈りをやめないで祈り続けましょう。

 「主の祈り」は、バルテマイの叫びと同じようであると思いました。主を賛美する祈りと、主のあわれみによって生かし、悪より救いだしてくださいとあわれみを祈る祈りです。

 信仰とは、思い込むことではなく、確信して信頼すること、本当の救い主であるイエス様のみに頼ることです。そのために、あきらめないで、主に叫び求めましょう。

 

 

 

 

 

■2020年9月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

第四聖会礼拝

神の御霊の住まい  up 2020.9.13


主題聖句(第1コリント3:16〜17)
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

 

 

 

御霊が住まわれる神の神殿だから、私たちには聖めが必要である

聖霊様は、私たちを「住まい」としてくださっています。それがどんなに住みにくいボロ家であっても、聖霊様はご自分の住まいとしてふさわしく、住みやすいように、改装されます。これが「きよめ」です。

 私たちが自分の好みで家を変えていくのではありません。私たちに宿られる聖霊様が、ご自分の思いのままに変えられる、私たちをきよめられる、ということを理解していただきたいと思います。所有権は聖霊様にあるのです。

 この「住まい」は、イエス様のきよい血の代価を払って買い取られて、聖霊様のものとされたのです。感謝を忘れてはいけません。

 今日はこの主題聖句(第1コリント3:16−17)から4つのポイントを取って、お話をいたします。

1.神殿という集合体(第1ペテロ2:5)

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

 私たち一人一人は聖霊様の宿る神の神殿ですが、同時に、神の住まわれる大きな神殿の一部ともなっています。

A)神殿の材料は「生きている石」

生きている=キリストにある敬虔な人

石=変化しにくいもの、安定している

当時の神殿は石造りで、石を積み重ねて築かれていました。

 このみことばの前の4節には、「イエス・キリストは人には捨てられたが、神の目には選ばれた尊い生ける石です。」だから、「あなたがたも生ける石として」と、5節に続いています。

 キリストご自身が、神殿を築くための隅のかしら石でした。そして神殿を築き上げる一つ一つの材料は、しっかり神様を信じて繋がって、石のように安定している一人一人の信者であると言うことができます。

B)神殿は「霊の家」

家=オイコス=家族、家庭、共同体、宮

神様が住む所を「神殿」と昔から言われていましたが、基本的には「霊の家」です。

 家(オイコス)というギリシャ語の意味は、家族、家庭、共同体、神の宮です。

 一人でいるのは家族ではありません。一人で住んでいるのも家庭とは言いません。一人ではなく複数の共同体という意味が「家」にはあるのです。ですから、霊の家とは、霊の家族、家庭、共同体という意味を持ちます。

C)「築き」上げられている途上

築く=基礎から堅固に作り上げる

家は、倒れないように崩れないように、築き上げていきます。私たち一人一人は、生ける石として、崩れない神殿の建設のために用いられている、只今工事中のものです。

 壊れない家とは、一人一人の石がどれだけきよい石となるかによって、その強度が決まります。強度の弱い部分があると、地震や嵐で、そこから崩れていきます。皆が同じような強度を持つことが、建物の全体を保つための秘訣と言えるでしょう。

 

2.御霊の聖い住居(エペソ2:21−22)

「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

A)組み合わされている建物である

組み合わされている=互いに愛し合う

 単に石を置いただけよりも、組み合わされている方が、衝撃に強く崩れにくいように、互いに愛し合う兄弟愛が強い教会は、霊的耐震強度が優れている教会と言えるでしょう。

B)聖なる宮になるという目的がある

神の御霊の家は、聖くなければならない

 御霊様は聖い方なので、その聖い愛のご性質が家に反映されて、聖霊様の家は聖い愛に染められます。それをバプテスマ(=洗い)と言います。以前あった古いものを、新たに住む人の好みに仕上げられます。その目的は、聖なる宮とすることですから、私たちもきよめられ続けることが必要です。

C)御霊の働きによって完成される

御霊の取り扱い=火のバプテスマ

御霊によって神の御住まいが完成されます。完成のために、私たちは試みを受けます。それは御霊のお取り扱い(聖霊と火とのバプテスマ)を受けることである、ということをすでに学びました。

 

3.聖さを壊すもの(ヤコブ3:14−16)

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」

 主題聖句のなかに、「神の神殿を壊すもの」について語られています。一体どのようにして、きよい神殿が壊れていくのでしょうか。神殿を壊すとは、きよさを汚すという意味を含んでいます。

A)真理に逆らっている心

苦いねたみと敵対心に心が影響されている

私たちは罪人ですから、ねたみと敵対心は普通に持っています。ただ、きよめられた心、正しい良心がそういう感情に影響されてしまうと、きよさが壊れます。ですから影響され支配される前に、良心からそのような感情を切り離していかなければなりません。

 また、肉に罪が宿っているので、ねたみと敵対心が無くなってしまうということはありません。すぐ感情に出てきます。

 私たちの霊、魂は、イエス・キリストを信じて、御霊によりきよめを受けて「ハギオス」(聖徒、他のものと違う)とされました。ハギオスの領域の中にいるのです。この領域の中から引き出されないように気を付けなくてはなりません。

 ねたみや敵対心に支配されると、殺意や復讐心にまで発展してしまいます。そうなる前に、またそうなったとしても、悔い改めて、心と、肉の欲とを切り離していかないといけないのです。神を畏れるきよめられた心と、自己中心の肉とを切り離す、そういう意識を持たないと、ねたみと敵対心に飲み込まれてしまいます。早いうちに、「これはいけない、罪だ」と気付き、処置することです。

B)神の宮に属さないねたみと敵対心

この世の不敬虔と自己中の肉と悪霊に属するもの

地に属する者(この世のもの)も、肉に属するもの(肉の思い、肉欲)も、それらは悪霊に属するものだとパウロは言います。ねたみや敵対心は悪霊の仲間なのです。

 自分の心にそれが少しでも顔を出したら、すぐに戦いのモードに入ることです。「聖霊様助けてください。きよさを守ってください。十字架を見上げます。あなたの血潮には力があります。私は神様に愛されています。」と、みことばの真理に従って、自分の罪な思いや感情に、きよい影響を与えるのです。きよい良心から、肉の感情に、みことばをもって、対抗するのです。

 ただし、私たちがこの肉体にあるうちは、ねたみや敵対心が消えることはないということも、よく覚えておいてください。

C)組み合わせをみだすねたみと敵対心

秩序をみだし、あらゆる邪悪な行いが広がる

 石と石の間、兄弟愛の関係を乱し壊していくのが、ねたみと敵対心です。そして、組み合わされて一つとなっている教会が分裂していきます。すると悪霊が働きやすくなり、ますます罪の力が強く働いて、「神様のために」と言いながら、動機は邪悪なものに満たされていきます。ねたみや敵対心が強く出てくるのは、邪悪さが心に潜んでいるしるしです。

 レビ記にツァラアトについての教えがあります。皮膚にツァラアトが出ると、その人は汚れた者として集団から分離されます。皮や布にツァラアトの症状が出ると、まず洗ってみて、だめなら焼いてしまいます。

 家も、石のどこかにその症状が出たら、一週間調べてみて広がっているようならその部分を取り除いて捨てます。そして新しい石を入れます。一つの石を取り除いても、周りの石から症状が出るようなら、その家は壊されなければなりませんでした。

 一人のクリスチャンのねたみと敵対心が教会に増え広がると、その教会は、神の教会でなくなってしまいます。汚れた教会として神はその教会を見捨てられます。ですから、教会の牧者は霊的ツァラアトについては厳しくメッセージします。

 しかし、これを否定的に受け取ってはいけません。

 誰かが一時的に霊的ツァラアトに侵されたとしても、一度霊の家に組み込まれた以上、神はたやすく教会から引き抜くことはなさいません。御子イエスの血潮が流された高価で尊い一人一人なのです。むしろ、組み込まれた以上は、きよめられなくてはならないのです。あらゆる方法で神はきよめを実行されるでしょう。

 

4.聖い神殿の維持(ヤコブ3:17)

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、みせかけのないものです。」

A)真理に従う知恵のある心

1)神を畏れ敬う純真さが第一

 まず第一に「純真」とあります。神を畏れ敬う心が、純真さです。「まず第一」と言われる「純真さ」がなくては、第二第三はありません。第一があってこそ、次があるのです。

2)第二として平和、寛容、温順な忍耐

 平和であるためには、乱す者への忍耐が必要です。寛容であるためには心を大きくする忍耐が必要です。温順であるためにも、我、肉を出さない忍耐が必要です。平和、寛容、温順、そのための忍耐、これが第二として、真理にある知恵ある心と言えるでしょう。

3)人に対するあわれみによる善行

 神が私たちを憐れんで罪を赦してくださったように、私たちも人に対して赦しのあわれみをもって、復讐ではなく祝福を与える(善行を行う)こと、これが上からの知恵、真理に従う知恵のある心です。

4)えこひいきやみせかけのない自己受容

 自己受容とは、どういう自分を受け容れることでしょうか。自分のことは自分が一番わかっていると思ってしまいますが、「えこひいき」や「みせかけ」という、ごまかしが働くことがあります。そこには劣等感(自分が受容出来ない自分)が潜んでいることがあります。

 コンプレックスは誰しも持っているものですが、その自分を受容できていれば、それは「へりくだり」のために役に立ちます。

 しかし、自分がコンプレックスを覚える部分を受容出来ていない時、そこから人に対する「えこひいき」や「みせかけ」という偏った屈折した態度が生まれてしまうことがよくあるように思われます。

 私たちは、キリストにあって、神様が受け容れてくださった者ですから、どんな自分であっても私たちは自己受容して、えこひいきやみせかけのない実を結んで行きたいものです。

まとめ

 御霊が住まわれる神の神殿だから、私たちには聖めが必要です。

 聖い家に住まわれる聖霊様だから、私たちを再臨の時まで聖め続けられます。

 完成の時は、主の再臨の時です。

 

 

 

 

 

■2020年9月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

第三聖会礼拝

聖霊の聖めによる選び  up 2020.9.6


主題聖句(第1ペテロ1:2)
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

 

 

 

 聖霊による聖めを受けているなら、神の選びの中にいることを喜ぼう。

何事も思い通りに行ってるなら当然嬉しいので喜べます。しかし、神様の私たちへのきよめの働きは、私たちの思いや感情に反するような出来事が起きたりするので、なかなか喜べないないものです。

 私たちは神様が良き方であることを信じています。また、神様のみこころは、私たちが聖くなることであることも、はっきり示されています。

 ですから、信仰の試練や霊的に壁にぶつかっているとき、例えば病気や家庭内の問題など外圧的な苦しみを受けているとき、それは、あなたがきよめられるために神が選ばれて、今そこを通っているんだ、今きよめられているんだ、と喜びを意識して、神様の「きよめと選び」を感謝しましょう、という思いから、今日は、(第1ペテロ1:2)を主題聖句として選び、「聖霊のきよめによる選び」をテーマといたしました。

 

序.主題聖句の内容観察

「神の子に対する父としての愛の配慮により、キリストに従い続け、また、その血の注ぎかけを受け続けるため、聖霊による聖めの働きを受けるように選ばれた人々へ。」

「予知」は「愛の配慮」と表現いたしました。親はその愛ゆえに、子どもが将来通るであろう様々な労苦、問題を予測して、子どもの成長のために、その時はこのように助けよう、そのための準備をしておこうと思うものです。

 神様は、罪人の私たちが先々どのように考え、どのように行動するかをすべてご存じで、その時その時にどのような環境や助け人を遣わすかを既に考え準備しておられます。ですから、「予知」は、将来に向けた愛の配慮と言えると思います。

 私たちには、キリストとキリストのことばへの完全な従順に至るというゴールがあります。そしてキリストの流された血は、私たちを贖う神の愛の代価です。したがって「その血の注ぎかけを受ける」とは、神の全き愛にとどまるということです。

 私たちが神に従い続け、愛にとどまり続けるために、聖霊様は私たちを、完成するまで、きよめ続けよう、と選んでくださったのです。今、試練と苦しみの中にいることは、きよめの選びのしるしであることに、ぜひ気付いていただきたいと思います。

 目標に到達できたときの喜びは、そのプロセスにあった苦しみにまさる喜びであり、完成した日には、それまでのすべての苦しみが「ああ、よかった」と心から思えるものです。そのように聖霊様がゴールインさせてくださるからです。

 神様は私たちをあきらめることなく、何度でも励まし続け、支え続けてくださいますから、私たちも信じて何度でも立ち上がって、聖霊様のきよめの働きを受け続けてまいりましょう。

 

1.聖めによる選びの証し

A)悔い改める心とキリストへの信仰(使徒2:37〜42)

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」

 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

救われた3千人はペテロの説教によって心を刺され、ペテロの勧めに従った。

 みことばが語られ、心が刺された、ここが、悔い改めとキリストへの信仰を持つきっかけとなっています。みことばが語られて間違いを示されて、「これはいけない、直さなければ」と心が変わるのは、神がその人をきよめるために選んだ「しるし」です。

 悔い改めることができない人は選ばれていないのか、それはその人がこの地上に生きている間は、誰にも断定できないことです。その人が生きている間に、神のことばや、クリスチャンの証しを通して、その人が心打たれ、心に変化が生まれるようにと、私たちは祈り続けることが大事です。

 あなたがキリストを信じることができ、神を信じる前の生活をやめて、神のみ教えの中を歩むという心をもつことができたというのは、神があなたを選ばれたしるしです。良いことのために選ばれたのですから、嬉しいことです。ですから、悔い改めの心と神への信仰はずっと保っていかないといけません。それは初めに信じた一回きりのことではないのです。

 信仰生活を続けるうちに、自分の罪深さがだんだんとわかってきます。そして気付いた罪を悔い改めて、神が建て直し、きよめてくださるという信仰を持って、またみことばに従い続けていきます。この悔い改めとキリストへの信仰は、ずっと繰り返されていくものなのです。

 先週お話いたしました新生と更新の洗いという聖霊様のきよめのお働きは、そのようにしてなされていくわけです。

 すなわち、みことばによって良心が咎めを受け、罪を意識し、これから離れなければいけない、という悔い改めが生じ、もう一度やり直そう、という神への信仰が湧いてくる、それはまさに聖霊様のお働きなのです。

 悔い改める心が弱ると、悪かったという認知は出来ても、それから離れよう、やりなおそうという力が出てきません。それは「罪と義とさばきについて教えて下さる」と言われた聖霊様によるしかないのです。

B)聖霊という霊的割礼

(ローマ2:29)=御霊による心の割礼

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字(もんじ)ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からでなく、神からくるものです。」

 ユダヤ人は神に選ばれた民であるという、目に見えるしるしが「割礼」でした。そして、ユダヤ人は選民であるという意識のもとに、きよめのいけにえの儀式を繰り返してきました。

 しかし、イエス様が世に来られて、まことの心の割礼を与えられてからは、パウロはパリサイ人たちが教える一切の表面的な形だけの教えは「ちりあくた」と表現しています。

 パウロは、神様の喜ばれるまことの割礼は、目に見えない割礼(御霊によって心に割礼を受けること)である、そして心に割礼を受けたもののしるしは、悔い改めとキリストへの信仰が、心にわきあがってくることだと言っています。

(第2コリント1:22)=確認の印である御霊

「神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えて下さいました。」

「確認の印」とは、「きよめられるべき神の子たち」という印であり、きよめられるために押される神の印です。すなわち、助け主、聖霊様の内住です。

 私たちの内に聖霊様が働きかけに来られ、聖めと同時に私たちのうちに住んで下さいます。それが心の割礼を受けた時であり、その証しは、神を畏れる正しい良心からの悔い改めと神への信仰(神に従う決意)です。

 クリスチャンも悔い改めることが少ないと、自分がずれていることにも気が付かず、罪も分からず、神様に頼ることも少なくなり、きよめの意味も分からなくなります。

 ですから、クリスチャン生活は、いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝しますが、また、罪に敏感で良心が咎めを感じることも健全なことなのです。救われたから、もう悩みも苦しみも良心の咎めも全部なくなるということはありません。

 義認と聖化は別の意味です。聖い領域に入れられたことと、更に、聖さの深みに進むことは別のことなのです。

 完成された姿はイエス様だけです。私たちが完成されるのは、この罪の体が、よみがえられたイエス様のような全く罪の無い体に変えられる時です。この地上に生きている限りは、聖霊様によって私たちはきよめの働きを受け続けていくのです。

 

2.聖めによる選びの目的

A)キリストへの全き従順という聖め(第1ペテロ2:21)

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

 神の愛のあらわれであり、神のことばであられるキリスト・イエスへの従順によってもたらされる苦しみによる聖め。

 どんな状況であっても、相手が誰であっても、神の愛のうちにとどまり、神のことばに従い続けるという姿勢をもって、苦しみを耐えるのが、きよめの働きです。

 従順であることが難しいと思えるようなところに、あるいはそのような相手の前に、あえて神は私たちを置かれるようです。「神の予知に従い」、あなたをきよめてくださる、と言われる通りです。

B)キリストの血に触れ続けるという聖め(第1ヨハネ1:7)

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

互いに交わりを保ち続けるためには、イエスの血潮によるいやしと聖めが必要である。

「互いに愛し合う」という中には、「互いに交わりを保つ」ことが含まれています。しかし、完成されてない者同士の愛の交わりですから、傷つけられやすいものです。傷つけたという自覚より、傷つけられたという自覚の方が多いのかもしれません。

 いずれにしても、「完全でないから」ということを言い訳にして、あきらめてはいけません。完全でないなら、完全に向かって悔い改めて、もう一度神への信仰をもってやり直すべきです。今日の不完全に留まってはいけません。

 神のみこころは、「今日より明日」と、きよめの前進を願い、チャレンジしていくこと、私たちがキリストの身丈にまで成長することなのです。そこが、神の前に正しい良心を維持できているかどうかのしるしとなるのかもしれません。

 

 クリスチャンが、兄弟姉妹の言動を受けて、否定的な思いを抱き、そして傷ついて、癒されないまま、きよめられないでいると、信仰から離れてしまいます。キリストのからだに属することを嫌がり、教会から離れ、一人で信仰生活を送ろうとします。

 私たち罪人が、交わりを保ち続けるためには、相手に悪意があろうとなかろうと、あなた自身は神の愛に触れられて、「人のした悪を思わない」という愛に立ち返り、「あの人はそういうつもりではなかったかもしれない」と、良い方に解釈していくことが大事です。

 相手を変えるより、「心の一新によって」自分を変えていきましょう。それは聖霊様による新生と更新の洗いを受けることにつながります。

 そうなるまでは葛藤も強く、苦しむことでしょう。それは不純物が取り除かれていく、きよめの苦しみです。そこを忍耐して、ぜひ聖霊様による新生と更新を体験していただきたいと思います。

 「キリストの血は、私たちを罪からきよめる」という神様の愛の中に留まり、愛に触れられていくことによってのみ、この地上でクリスチャン生活を全うすることができるのです。

 聖霊様はその目的のために私たちを選び、試みによってきよめ(聖霊と火とのバプテスマ)、そしてきよめの実を結んでくださるのです。神様の願いは、私たちがきよめられることです。これからも聖霊のバプテスマ(きよめのあらい)を受け続けてまいりましょう。