■2020年8月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 第二聖会礼拝 聖霊の洗いによる救い up 2020.8.30
聖霊による洗いである、『新生』と『更新』との洗いを考える。 聖霊の洗いを受けるとは、救いを受けることです。聖霊様が私たちを洗ってくださる洗いは、「新生と更新」という洗いです。 新生(新しく生まれること)も、更新(更新されること)も、聖霊様の洗い(きよめられ、染められること)の結果として、現われることです。
1.『新生』 A)ギリシャ語からの意味 「新鮮な」「新しい」「まだ使っていない」「これまでになかった」という意味を持つ言葉から派生したもの。 B)解釈 これまでになかった、真新しい、新鮮な私 「新生」とは、イエス様を信じる前の、以前の私、罪の中に生きていた私がいて、それが、イエス様を信じて生きるようになった時、かつての自分が味わったことのない、まるで新しく生まれたような「真新しく新鮮な私」がいる、という意味合いで、初々しい「ピカピカの一年生」を想像していただくと分かりやすいかと思います。 C)使用されている箇所 (テトス3:5)主題聖句の中の【新生】 (マタイ19:28)「そこで、イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。世が【改まって】人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。』」 聖書が最初に書かれたギリシャ語では、(マタイ19:28)の中の【改まる】という言葉のところに、「新生」の文字が使われています。以前の世(罪の世)という「元」があって、それが「改まる」という意味合いが、「新生」の中にあります。 その「新生」が派生した、元の言葉の使われている聖書個所を二つ紹介いたします。 (第2コリント5;17)「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は【新しく造られた】者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 (ガラテヤ6:15)「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは【新しい創造】です。」
2.『更新』 A)ギリシャ語からの意味 「元へ」「元の通り」「原位置へ」という意味を持つ言葉から派生したもの。 B)解釈 的外れの状態のものを元に戻す、元に復元する、元の通り再生する、原位置へ復活する。 私たちが免許証を「更新する」のは何故でしょうか。間違った思い込みを訂正したり、新しいルールを学んだりして、最初に資格を取った時の初心の状態に戻すという目的があります。そのように、霊的な更新も、最初の罪のない的を射た状態に「再生」「復活」するという意味に捉えることが出来ます。 C)使用されている箇所 (テトス3:5)主題聖句【更新】 (ローマ12:2)「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の【一新】によって自分を変えなさい。」 一新する、それは最初の健全な状態に戻ることです。私たちは時間がたてばたつほど、古びていきますから、汚れているものが洗われて、元の新品同様の汚れのないものに立ち帰ることが、一新です。 黙示録でエペソの教会に語られた「初めの愛から離れてしまった。どこから落ちたか思い出して悔い改めて初めの行いをしなさい」と言われたような「立ち返り」と同じ意味合いです。
3.『洗い』 A)ギリシャ語からの意味 「全身を洗う」「沐浴する」「自分のからだを洗う」という意味を持つ言葉から派生したもの。 B)解釈 お風呂に入って全身を洗うことから、バプテスマを象徴する言葉とされている。 洗いとは、お風呂に入ってきれいになるように、神様の臨在にどっぷり浸かって神様のきよさに染められる「バプテスマ」と解釈できます。新生と更新の洗いとは、新生と更新のバプテスマを受けたという意味につながります。 C)使用されている箇所 (テトス3:5)主題聖句【洗い】 (エペソ5:26)「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の【洗い】をもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」
4.まとめ A)聖霊のバプテスマとは? 聖霊によるきよめの「洗い」の働きのことで、新生と更新というきよめをしてくださる。 新生(新品にしてくださる)と、更新(ズレてきたものを最初のかたちに復元してくださる)という聖霊の洗いがもたらされること、これが聖霊のバプテスマです。 「聖霊のバプテスマ」というと、私たちは、力を受けることだと思ってしまいますが、厳密に言うと違います。聖霊によって新生と更新の洗いを受けないと、力を受けることは出来ません。 B)バプテスマの結果としての新生と更新 新生と更新はバプテスマを受けた結果として、内面的、外面的に変化が見られる。 神のかたちに造られた本来の自分、元の通りの姿へと聖霊がきよめ続けてくださる。 内面的な変化は当人がわかります。外面的な変化は他人にもわかります。聖霊に洗われたら、霊の新生と更新の結果が内外に現れるのです。 ただし、例えばマジックインキが手についたとしましょう。一回ではきれいになりません。何回も時間と回数をかけて洗います。そのように、聖霊による新生と更新は、救いの完成に至るまで継続して為されていくものですから、私たちは今その途上にある者と受け止めてください。神のかたちに造られた本来の自分、元の通りの姿へと聖霊様が私たちをきよめ続けてくださるのです。 では、聖霊に満たされたしるしとして、異言が現れるとは、どういうことなのでしょうか。異言が聖霊の賜物として、私たちに力を発揮するためには、新生と更新との洗い(きよめ)を自分の内側に実感し、また外側の生活面にきよめの変化が他人の目に部分的にでも明らかに現れていることが大事です。それなくして、すなわちきよめの現われなくして、異言を語っていたら、それはおかしな話です。最初に受けた新生と更新の洗いで止まっている人、更新をしなければ免許は失効してしまいます。 私たちのクリスチャン生活は、キリストの再臨まで、聖霊のバプテスマのきよめ、新生と更新の洗いを受け続けていかなければなりません。きよめが進むにつれて、結果も変わっていき、結果を通して聖霊の賜物と聖霊の実が実現していきます。聖霊の実も9つの賜物も、きよめられたしるしとして生み出されていくものなのです。すべては神様の側からの働きかけなのです。
聖霊を受ける(使徒1章8節) 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」 『臨まれる』とは、聖霊の影響を受けることである。 すなわち、聖霊のバプテスマというきよめの洗いを受け、聖なるものとされることである。 「臨む」という言葉には、「監視する」とか「縛る」とかいう意味があるように、人が聖霊様に臨まれると、大変強い影響力を受けます。ですから、聖霊を受けた人は、聖霊様の影響を受けてきよめられたというしるしが、内にも外にも見えることが必要なのです そして外に見えるそのしるしの一つが異言であり、預言や賛美であったりするのです。 大事なことは、私たちの考え方が、この世的な汚れ的な欲望的なものでなく、神のきよさに影響されて、その考え方をもとに、生活が変わっていく、というきよめの結果が生まれてくることです。 私たちは美しさ、きよさ、正義に憧れるものです。そのようなものになりたいという魂の本能的な願いを持っています。そこにイエス・キリストの救いが成就してくださり、現実にきよい生活へと私たちをつくりかえ、導いてくださるのです。 聖霊様がきよくしてくださるのです。人の努力には限界があります。心開いて、きよい聖霊様の言われる通りにやってみる、ともかく影響されると、きよくされていくのです。皆さんはどのように影響されたでしょうか。 最初に私たちが影響されるのは良心です。「聖霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」と言われる通りです。 きよめの結果として、新生と更新のしるしとして、良心がきよめられ、生ける神に仕える心がそこに湧き上がってくるのです。私たちの修行や努力の成果ではありません。神様がそのように、きよくしてくださるのです。私たちはついていくだけです。すなわち聖霊と火とのバプテスマです。火は試練、苦しみ、悩みです。不純物を取り除き、鍛えます。 私たちがこの人生で聖霊様に洗われるとは、試練によって洗われること、鍛えられること、それによって聖霊の力が宿り、聖霊の実が実り、9つの奇跡の賜物が働き、委ねられていくのです。 この順番を思う時に、私たちは聖霊のバプテスマを受け、満たされ、力を受けて、キリストの証人となり、全世界に出ていくと、一足飛びに理解していたかもしれませんが、聖霊の洗いのバプテスマを受け、新生と更新のきよめの洗いを受けたならば、力を受けて、キリストの証人として全世界に出ていくことが出来るのです。 聖霊に満たされたい方、力に満たされることを求めるのではなく、きよめられることを願ってください。聖霊のバプテスマは、聖霊のきよめ、洗いの働きです。洗われ、きよめられ、きよさに満たされて、そして聖霊の御業が働くのだということを理解してください。 聖霊のバプテスマは水のバプテスマと一つです。洗礼(バプテスマ)を受けたその時から、聖霊のきよめの働きは始まります。 きよめを受けたい、イエス様のようなきよさに少しでも近づきたい、と心を尽くしてそのように願い求めていきましょう。そして、聖さに満たされていきましょう。それが私たちの本当の姿なのです。
■2020年8月23日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師) 心の一新によって自分を変えなさい
【辻和希伝道師メッセージ】 「心の一新によって自分を変えなさい」 今日の内容はある方々にとっては厳しく聞こえるものになるかもしれません。 ローマ12:2 配信も4ヶ月になるのですが、皆さんはうまく今の礼拝スタイルに適応できてるでしょうか。 そこで、このみ言葉が考えさせられます。 ローマ12:2 時代に合わせて変化することは、この世と調子を合わせることになるのでしょうか? 「この世と調子を合わせてはいけません」というワードが強烈なので、私なんかは、この世から隔離された生活をしなさいと極端に捉えてしまいますが、 この世の生き方に従うとは、この世を主人とする生き方です。パウロはこれをノーと言っているのです。 そしてこのみ言葉の大事なポイントは後半にもあります。 「自分を変えなさい」 以上のことから、神様にとって良いことで、神様に受け入れられる変化は、正しい変化と結論づけることができます。 変化の大切さを見てきましたが、それが単なる心構えに終わるのではなく、ヤコブの手紙の”みことばを実行する人になりなさい。”とあるように、実際に行動に移していきましょう。 何かを変えるというのは力がいることですが、まずは身の周りの何かから変えてみるのはどうでしょう。 何が神様のみこころかを考え、時代に合わせて変化することをチャレンジしていきましょう。
【横路伝道師デボーション】 1.癒され、聖められるためにイエス様に触れた長血の女 (マルコ5:25〜34)聖書本文引用 25)ところで、12年の間長血をわずらっている女がいた。 26)この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 27)彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物(*上着)にさわった。 28)「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。(*救われる)」と考えて(*言って)いたからである。 29)すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 30)イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て言ったことに気づいて、 群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 31)そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 32)イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 33)女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 34)そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直した(*救った)のです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
この女性は、12年間も病気と闘って解決が見えず、全ての財産を医療費に使い、かえって悪くなる一方でした。この女性は絶望の淵にありました。 順調にいっている時はいいのですが、私たちも絶望に陥るような状況にみまわれる時があります。そのような時に、やけにならず、あきらめないで、強い飢え渇きをもって、なお求めていこうとする女性の姿を見ることができます。
2.ひたすら求めた長血の女から学ぶ1 女性は福音を聞きました。それは、イエス・キリストがすばらしい救い主であり、癒し主であることを耳にしたのです。 「それは、多くの人々をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。」(マルコ3:10) 彼女はイエス様のことを聞き、ここに最後の望みがあると思いました。お着物にさわることでもできればきっと直ると考えていました。この「考えていた」という所の脚注には「言っていた」とあります。つまり、「私はイエス様に触れたら必ず癒される」」と信じて告白していたのです。 彼女は実行に移すことにしました。群衆に紛れてイエス様の着物に後ろから触れました。前から触れることは勇気がいります。彼女はこっそりと癒されたかったのです。なぜなら、長血の女というのは、当時汚れた女として世間からも家族からも断絶されるような病気だったので、こっそりと行くしかなかったのです。群衆がひしめいているというのは彼女にとって幸いでした。必死な思いでイエス様に近づいて、着物に触れたのです。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことがわかりました。この当時、病気は罪があるとか、汚れていると信じられていましたから、この女性は、癒されたと同時にきよめられたということができると思います。 このことを知っていたのは本人だけでした。こっそりと後ろから触れたからです。しかし、イエス様は自分の体から癒しの力が出て行ったのを感じられ、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と見回しておられました。彼女は隠し切れないと思って、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けました。 イエス様がわざわざ見回して誰かと言われたのは、彼女に証しのチャンスを与えられてたのではないかと思います。こっそり癒されて帰っても良かったのですが、このことが公になり、この人は完全にきよめられ、癒されたことも明らかになります。そして、神様の栄光があらわれるために、自分に起こったことを証しすることは非常に神様に喜ばれることであり、人々も励まされることなのです。ですから、一人だけの祝福にとどまらないで、多くの人々を祝福する出来事となりました。二千年たった今でも私たちを励ましています。 イエス様はこの女性に対し4つの言葉をかけられました。 1)「娘よ」と声をかけられました。本当に愛されている子どもに対する優しい言葉かけです。恐れおののいてひれ伏している女性に、我が子のように声をかけられました。 2)「あなたの信仰があなたを直したのです」と言われました。信仰を持って触れた時に癒しの力が流れました。イエス様は何もしておられません。この女性が信仰を持って触れたその時に癒しが起きたのです。イエス様は多くの方のために、手を触れられたりことばをかけられたりして癒されましたが、この時はイエス様に信仰を持って触れただけで癒されました。 3)「安心して帰りなさい。」と言われました。「もう今までのように、病気による苦しみや罪ある汚れたものとしての苦しみはなくなったのだよ、平安をもっていきなさい」という保証の言葉をかけられました。 4)「病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。これは、将来の祝福を宣告されたのではないかと思います。
3.ひたすら求めた長血の女から学ぶ2 この長血の女の癒しの出来事は二千年前に起こったことですが、今の私たちにどのように適用すれば良いでしょうか。 聖書のお話を聞きますが、ただ聞くだけであってはいけません。「前に聞いたことある」とか「イエス様の力はすごいな」と感心するだけで、ただ二千年前の出来事として読むだけではなくて、今の生活に、聖書の出来事を適用していくことが大切です。 どのように適用すればいいか、私(横路伝)が適用した一つの例をご紹介します。 この長血というのは、出血が止まらないという病気ですから大変苦しい病気だと思います。無駄な血を流しているということです。食物を食べて栄養を取って体全体を健やかにするための血が、無駄に出ているということはもったいないことです。血はいのちであるとあります。その血を12年間も無駄に流していたのですから、もったいないことです。 日野原先生という105歳まで現役であったクリスチャンの医師がおられました。日野原先生の講演の中で語られた言葉が忘れられないのですが、「いのちは私たちに与えられている時間である」という言葉です。私たちに与えられているこの時間は、いのちなのです。時間が人生なのです。この時間を無駄にしてはいけないなと思いました。考えてみるとずいぶん無駄な時間を使っていると思います。大事なことに時間を使えばいいのに、ついつい無駄なことに大事な時間を費やしてしまっているのではないかと反省をしました。 祈らなければいけない課題や、解決しなければならない問題のためにもっと時間を費やすことが、いのちを生かすことであり、無駄をしないことであり、自分の長血を止めることであるということに気が付きました。 適用したら、次はチャレンジすることが大切です。無駄な時間をなくそうと思うなら、どれかを削って大切なことに時間を使おうとすることがチャレンジです。 第一聖会が先週ありました。その中で、きよめられることは、イエス様に触れていただき、染められることであると言われました。この長血の女は、イエス様に触れて、イエス様から力が流れ、イエス様のきよさに預かりました。私たちもイエス様に触れて、イエス様の愛と真実と力を受けることができます。そのためには、聖霊を求め、きよめられることを求めなさいと言われました。 これからもたれる4回の聖会の中で、イエス様に何とか近づいて、礼拝や祈りの中でイエス様に触れていただいて、癒されきよめられていくことを求めていきたいと思います。イエス様は聖霊を受けよと言われました。聖霊を受けることは神のみこころです。この聖会で、新しい油の注ぎを求めていきたいと思います。
■2020年8月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 第一聖会礼拝 聖霊と火とのバプテスマ up 2020.8.16
聖霊と火とのバプテスマを授けられることを、聖めという観点から考える 霊的な「聖め」というのは、何か難しいことのように思えますが、私たちが生活の中で普通に行っている掃除や洗濯と同じように、決して特別なことではありません。 私たちの魂は、罪に影響されやすいものです。罪の掃除や洗濯をこまめにしないと、罪だらけになり、魂の健康を損なって死に至ってしまいます。 肉のからだを持っている以上は、全く罪のない状態は不可能ですが、しかし、細菌やウイルスよりも体の抵抗力の方が勝っていれば、病気にならないですむように、信仰による治癒力、抵抗力を養い強め、防ぎきれないような罪を内に入れないように、内で増殖させないようにしていかなければなりません。 神様は、罪の働きをも利用して、聖霊様によって聖めようとなさっておられると言えます。 今日から「聖霊と聖め」について5回のシリーズでお話していきます。みことばからの教えを通して、皆さんが何かを気づかされ、改善点や工夫する点などを見出していただければと思います。 今日の第一聖会礼拝のテーマは、「聖霊と火とのバプテスマ」です。 この「聖霊」と「火」が一対となって互いを象徴する表現の仕方は、ルカとマタイにだけ出てきますが、これは私たちに何を意味しているのでしょうか。今日は、聖霊と火とのバプテスマを授けられることを、「聖め」という観点から考えていきたいと思います。 「バプテスマ」という言葉は、「どっぷり浸される」という意味があります。水のバプテスマと言いますと、水の中にどっぷり浸されること、ちょうど船が海の底に沈没している状態を想像するとわかりやすいと思います。 まず最初に、この「バプテスマ」について、ユダヤ社会ではどのように受け止められていたかを見てみましょう。
1.バプテスマ(へブル6:2) 「きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど、基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」 A)ユダヤ教では、『水を用いてのきよめ』あるいは『浸礼』は特別な位置をしめている。 ユダヤ教社会では、水を用いた洗いは人々の日常の習慣となっていました。食事前に手を洗うなど、単なる生活習慣というより、これをおろそかにすると「汚れたもの」とみなされるほどに、大変重要な「きよめの洗い」の行為であり、ユダヤ教の教え、確立された教理でした。 B)浸礼の強調点は、行為そのものよりも、その結果におかれている。 浸されることよりも染められること。 「浸礼」は、全身水に浸かったという外面的な行為よりも、その人が水の洗いによってきよくなった結果どうなったか、きよさがその人の内側に浸透して「染められた」結果、どのようなきよい行いの実を結ぶにいたったか、という方が本来は大事な意味がありました。 C)きよめの儀式は、主に仕えるために身を清潔にし、神に相応しい者となることに重点を置いた。 祭司たちは神に関するお仕事をする時は、その前に必ず身を洗い清めました。神を畏れる謙虚な気持ちからの当然の行いでした。 私たちがバプテスマという儀式を受ける時は、神にふさわしいものとなるという意味があります。水に浸かってキリストの十字架に合わせて罪の洗いを行った、というだけではありません。「きよさに染められる」という大事な意味にも重点をおかなければなりません。
2.聖霊(使徒1:4−5) 「彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 A)聖霊は、神のみこころを成し遂げるために(実現する)ために働かれる。 三位一体の神のお働きを見てみましょう。 父なる神様は、物事を造り出す考えや思いを創造されるお方です。例えば「ひかり」というものを、御思いの中で造り出されます。 そして、御子は、父のその御思いやお考えを「ことば」にされるお方、「光あれ」と「ことば」を発せられます。 そして、その「光」という設計図を、聖霊様はその通り忠実に実現されます。「すると光があった」のです。 B)『聖霊によって』祈り、語り、決断し、行動することが、新約聖書にしるされている。『聖霊との交わり』である。 神様のみこころを成し遂げるために働いておられるのは、すべて聖霊様です。聖霊様によらないでは、私たちの行い、ことば、歩みは、神の前に全く受け入れられないものになります。 神とキリストは、聖霊様によって、私たちを動かして下さっているのです。聖霊様に動かされるためには、聖霊様と親しく深い信頼関係がなくてはいけません。ですから祝祷にある「聖霊との交わりがありますように」というのはとても大事なことなのです。 C)聖霊に染められることが、聖霊のバプテスマである。きよい御霊に染まること。 聖霊様はきよめの働きもなさいます。神様の私たちへのご計画(設計図)は、ご自分のきよさを人間が持つようになることだからです。 私たちは聖霊の働きによってきよめられます。聖霊のバプテスマ、それは聖霊のきよさにどっぷり浸かって染められることです。「聖霊に満たされる」とは、聖霊に完全に染められてしまうことです。 信仰生活が年数経ても、きよく染まり続けていくためには、日々の聖霊との交わりが必要です。聖霊によって歩むということです。 聖霊様を全面的に受け入れて、自分の心と聖霊様の心とが一つ、というほどに心を開き委ねるところまで行くのが、「完全に染まる」という状態です。 聖霊の満たしは、心を開き委ねた度合いに比例すると言えるでしょう。皆さんはどこまで委ねて、どこまで染まったでしょうか。
3.火(第1ペテロ4:12−13) 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」 A)練=絹をねる。心身や技芸を鍛える。 煉=鉱物を熱して不純物を取り除く。 錬=金属をねりきたえること。 クリスチャンの試練の「れん」の字は、意味としては「煉」がふさわしいと言えます。 火を加えて不純物を取り除いて、より良いものに仕上げます。 B)思いがけない火の試練はない。 驚き怪しまない=不信仰に陥らない。 クリスチャンへの試練とその苦しみは、罪という不純物を取り除くための神様のご計画の中にあることですから、「なぜ、こんなことが起きるの?!」と驚き怪しむのはむしろ「不信仰」であるとパウロは言っています。 不純物という罪を取り除く、鍛える、負けない、影響を受けない、そのような強い者に変えられていく、そういう神様のご計画があるのです。 どんなに苦しくとも、耐えられないような試練を神様は与えられません。苦しい時は「今はきよめの時」と信じて忍耐して過ごしましょう。 C)キリストの苦しみにあずかれるとは、多くの苦しみによって、完全なきよいお方だと証明されたように、私たちもきよめにあずかることができる。 イエス様でさえも苦しみを通って、完全な聖い方であることを証明なさいました。生涯を通して、また十字架の苦しみの時にあってさえも、罪の不純物はイエス様からは一つも出てきませんでした。私たちも苦しみを通る時、罪の不純物が取り除かれてキリストのきよさに近づけるのだと受け止めていきましょう。
4.聖霊と火とのバプテスマを説明 神のみこころを実現する聖霊の働きによるバプテスマと精錬と試練を意味する火によるバプテスマというきよめの洗いの人生によって、神の聖さに染められること。 私たちが聖霊を受けることも、火の試練を通ることも、聖められるためです。聖霊と火によって、聖さに浸され染められる、これが「聖霊と火とのバプテスマ」です。 私たちは(使徒行伝1:8)を見て、「聖霊があなたがたに臨まれる時、あなたがたは力を受ける」という「力」の方に意識を向けがちです。しかし、この「力」は、きよめられなければ出てこない力です。 イエス様が「聖霊のバプテスマを受けるまでは都にとどまっていなさい」と言われたわけは、聖霊に染められないでは、神の働きはできないからです。 聖霊に染まらずにやってしまっては、肉の働きとなり、神に栄光をお返しすることは出来ません。自分が栄光を取って、ごう慢に陥ります。高ぶりです。それは罪の根本です。神様はこれをとことんきよめられます。 神様に栄光をお返しするとは、「これは全く聖霊様のお働きの結果だ」と、へりくだった心で告白できる状態です。それが、聖霊の聖さに染められたということで、そういう人に聖霊の力が望むのです。 全く罪を犯さない、というのではありません。自分の罪深さを知って悔い改めて聖霊に立ち返ることが大事です。 コリントの教会を見ると、罪を犯しても聖霊の9つの賜物が現れていました。彼らは罪を指摘された時に、悔い改めることができました。肉の部分が見えても、聖めの中にとどまろうという意志があったので、彼らはきよかったのです。 聖められることを願い求めましょう!聖霊の力を受けるよりも、まずきよめられなければ神の力は私たちのうちに降ってきません。現わされて来ません。聖霊の賜物を充分に用いることが出来ません。 きよめられることを願い求めましょう。きよめられることは、本来の自分を取り戻すことです。 罪の中に影響されて動かされている自分は本当の自分ではありません。罪の奴隷です。 きよめられるとは、自分自身に戻る回復の歩みです。本当の自分とは、神の似姿にリバイバル(回復)されることです。神の似姿に造られた最初のアダムとエバに立ち返ることです。神の聖さに立ち戻ることです。 今のままでいいとか、きよさを求めないということは、本来の自分を捨てること、神の姿を捨てることになります。イエス様の姿こそ、私たちが戻っていくべき、私たちの完成する姿なのです。罪人の目には特別に見えても、神様の目には、人となられたイエス様の姿は人としての普通の姿なのです。 「イエスは私であり、私はイエスである」と、言えるほどに、二つが一つとなって見分けがつかないほどに、私たちはイエス様の姿に似せられていくのです。 聖霊と火とのバプテスマを授けて下さる神様は、私たちがきよめの生活の中にどっぷりと浸かって「聖さに染められる」ということを、私たちに授けてくださいます。聖霊のバプテスマは、きよめの人生です。 私たちは、イエス様のようなきよさを一つでも二つでも現わせているでしょうか。実を結んでいるでしょうか。元の姿に近づいているでしょうか。 きよめられるというのは、努力して良いことをすることではなく、神様のきよめのお働きを受け入れる時、不純物(罪)が除かれるので、自然と良い態度が生まれてくるのです。 みことばは人の魂を救う力があります。みことばが聖霊様の働きを通して悟らされると、聖められるのです。聖霊の聖めが、みことばによって実現するのです。真似できることでも真似すべきことでもありません。聖められることを願い求める中で、実を結んでいくものなのです。 今すぐその結果が出なくても、願い求め続けてください。聖められることは、私たちが元の姿に変えられる普通のことであると受け止めていただきたいと思います。
■2020年8月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 赦しときよめ up 2020.8.9
神の赦しは、罪人がきよめられること。 今日のお話は、イエス様が私たちに、罪深さと、そして神様の赦し、愛、あわれみの大きさを示そうとするために語られることです。私たちはそれをどのように捉え、神様の前にどのように心を改めて進んでいくのか、どういう心をお持ちで神の聖さの中に留まることが必要なのか、それを一人一人が個人的に考えていただきたいという思いで、話を進めさせていただきます。 テーマは「赦しときよめ」です。今週の主題聖句(マタイ6:14−15)は、罪の赦しについてのおことばですが、人が人を赦すことと、神様が人を赦すこととが書かれてあります。 「神様が人を赦す」という意味は、罪人がきよめられること、すなわち罪があっても罪のない者、きよい者と、神はみなしてくださる、ということです。 以前に、ユダヤ教文化では、障害や病気は罪の結果として捉えられているというお話をいたしました。ですから、罪の結果である病気や障害が癒され取り除かれた時は、「神はその人をきよめてくださった」とも考えられ、人々は祭司の所にささげものを持って行って、「きよい」と宣言してもらいました。 そのように、病が治る(癒し)ということは、神がきよめてくださったという意味に受け取ってよいと思います。これはクリスチャンの場合とノンクリスチャンの場合とでは、また少し意味が分かれます。 「救いのための罪の赦し」という意味で、福音書では、病の癒しは、神の前に罪赦されて救われた「しるし」として、多く書かれてあります。 しかし、クリスチャンの場合、罪の赦しを受けて後、生活していく間に再び病気や災いにあったりするとき、必ずしも病が罪の結果というわけではなく、更にその人がきよめられるための試練とされることもあります。神様のきよめのお取り扱いは一人一人違います。それは個人的に神様の前に祈り、教えていただき、また悔い改めていくことであります。決して人がそれを詮索したり罪定めしたりするようなことはあってはなりません。 今日は、「神の赦しは、きよめのしるしである」ということをお話させていただきます。そしてそこから、人が人の罪を赦すことについて、なぜ人が人の罪を赦せるのかについても気付いていただければと思います。 ◎きよめられたことの実(マタイ18:32−33) 「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」 多額な借金を赦された者が、同じしもべ仲間の借金を赦さなかったことによって『悪いやつだ』と断定されたのは何故ですか? 何が悪かったのでしょう?18章23節からのあらすじを見てみましょう。 しもべが主人から一万タラント(例えて言えば何千億円)という借金をしています。清算の時が来ましたが返せません。「少し待ってください、必ず返しますから」と、しもべがひれ伏して頼み込むのを見て可哀そうに思った主人は、しもべが一からやり直せるように、借金を全額免除してやります。 ところが、このしもべは、同じしもべ仲間に100デナリ(たとえて言えば百万円)の貸しがあるのを思い出して早速取り立てます。「待ってくれ、必ず返すから」とひれ伏し頼む仲間を赦さず、借金を返すまで牢に入れてしまいます。 それを知った主人が、そのしもべに言ったことばが、18章32−33節です。そしてその主人は、そのしもべが全額返済するまで牢に入れてしまうのです。 『悪いやつだ』と断定されたのはなぜでしょう。わかりやすくするために、現代風に例えてみましょう。 一年間家賃を滞納していた男が、家主から一年分を請求されますが、払えません。行く所もないし、「必ず払うから待ってほしい」と頼み込む男を家主は可哀そうに思い、「これからは月々ちゃんと払うように」と言って、滞納分を全額免除して、健全な状態で新たに生活することができるように計らってやりました。 そしてある日、その男の庭に柿の木があり、隣の子どもがその柿を幾つか取って食べてしまいました。それを見た男は、隣の家に怒鳴り込んでいきます。そして子どもを盗人呼ばわりし、その親を滅茶苦茶に叱責罵倒しました。 自分の土地でもなく自分が植えたのでもない借家の庭の柿のことで、お隣さんをそこまで攻撃する男のことを、近所の人が家主に知らせます。 そこで家主は男に言います。「あなたは一年分の家賃を免除されたにもかかわらず、自分のものでもない柿を数個盗られたと言って怒鳴り込むのは、やり過ぎではないか。注意するくらいならまだしも、あなたの仕打ちはひどすぎる。あなたが隣の人たちを赦さないのなら私もあなたを赦さないから、あなたは家賃を一年分全額返払いなさい」 このたとえ話が腑に落ちないという方もおられるでしょう。 男の家賃未払い事件と、お隣さんとの柿トラブルとは、互いに独立した事件であり、それはそれ、これはこれで、別々の問題として対応すべきではないか、別件によって以前の決定済みの問題がくつがえされるのは変ではないか、とか色々あるかもしれません。しかし、社会ルールである法律や常識など以上に大事な、従うべき心のルールというものがあります。 神様は、自分の利益を守ることと、自分が損をしてでも赦すことと、どちらがきよいか、ということを私たちに問われています。そして、多額の借金を赦していただいたにもかかわらず、しもべ仲間のわずかな借金を赦さなかったしもべは「悪いやつだ」と断定されています。 このしもべはどこでどう間違ったのでしょう。このしもべは、自分が主人に与えた損失とその痛みの大きさに、大変無頓着です。私たちもこのしもべと同じような反応をしているかもしれません。ここで神様は私たちに罪の大きさを教えておられます。そこが、神様の愛とあわれみの深さが分かっているかどうかの分かれ目です。 一万タラントに例えられた私たちの返しきれない神様への借金(罪)を、ひとり子イエス・キリストの犠牲によって赦してくださった、それほどの神様の損失・痛み、それを上回るほどの私たちへのあわれみの深さが、どれほど私たちの心に感じられているでしょうか。 もし、このしもべが、赦していただいた自分の借金の大きさ、返しきれない一万タラントの大きさ(自分の罪深さ)をわかっていたなら、赦してくださった主人の損失の大きさ、その痛みもわかるでしょう。そして、それを赦してくださった主人の憐れみの大きさがわかるのです。自分がどんなに深く憐れまれたのかを知るのです。赦された喜びを知るのです。 そして自分が被る他人からの損失(罪)を小さなものとして赦すことのできる心に変えられるのです。赦しときよめの関係がここにあります。 本当に赦された者とは、きよめられた人です。赦され、きよめられた人の心は、憐みのわかった人の心です。あなたに赦された喜びがあるなら、他人の罪をも赦すことが出来るはずです。もし、救われた喜びの実感が薄い人は、人を赦すこともできなくなります。赦されたことの大きさを忘れてしまっているからです。 あなたは「きよめられたことの実」としての「赦しの心」(憐れみの心)が残っているでしょうか。他人を赦せないと思う人、そして自分で自分を赦せないという人もおられるでしょう。神のひとり子イエス・キリストの十字架の犠牲と神様の愛に、深く心を向けましょう。 イエス様は、私たちが地獄に行かないために、私たちの大きな借金を全部肩代わりして、私たちの代わりに十字架で苦しんでくださったのです。その痛み、その苦しみはどれほどだったことでしょう。そのすべてを負うてくださるほどに、私たちを大事に思ってくださったのです。何と大きな赦しでしょうか。 赦されたこと、大事に思われていること、それが感謝と喜びに変わっていくこと、そして人をも自分をも大切に思えること、これが、きよめられていることの証しになると思います。 みことばを通して、真理への正しい心の持ち方を与えられ、進んでいただきたいと思います。 【デボーションポイント】 罪の赦しを受け、きよくされた者には、どのような変化が表れるでしょう。 最初からすべての人、すべてのことを赦せるわけではありませんが、少しづつ赦せるように変えられていきます。あなたの赦しの心の変化で、あなたのきよめの段階がわかると思います。 【課題】 『主の祈り』を暗唱する。 教会では一緒に祈るために、聖歌にある文語体で覚えましょう。そして、心を込めて祈りましょう。 【短歌】 夏の果て 拭い取る汗 きりないが ほっとけないのは 罪の汚れも 拭いても拭いても出てくる汗ですが、どうしても拭かずにはいられません。罪の汚れも次から次に現れますが、放っておいてはいけません。イエス様の血潮によって、いつもきよめていただきましょう。
■2020年8月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 洗い取るきよめ up 2020.8.2
きよめられるというメッセージに対して、できない、無理という気持ちが強く頑なになり、きよめに対して抵抗してしまう人もおられるかもしれません。しかし、汚れを洗うことは毎日している普通のことであることに気づいて、難しいという気持ちをなくしていただけたらと思います。 当時パレスチナ地方は埃っぽく、外から帰るとまず足を洗わないと家に入れない状況でした。ですから、足を洗うという風習は普通のことでした。これをイエス様はひとつのきよめの象徴として、互いに足を洗い合うことを語られました。 きよめられていくクリスチャン生活とは、ごく普通に私たちが自然にやっていることなのです。足を洗わないで家に入るということは不潔なことで、ありえないことだったように、日本では土足で家の中に入ることはありえません。外出して足は日本では洗いませんが、毎日洗うものと言えば食器です。食器を洗うことからきよめについて考えてみましょう。 1.食器を洗うように (マタイ23:25〜26) 「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」 食器は毎日洗うものです。次の日まで置いておくと汚れがこびりついて大変なことになります。日本は衛生面は非常に気をつけています。こういう衛生的な環境に慣れているので、汚れに敏感になっています。 ただこういう衛生面には神経質すぎるくらいなのに、罪、汚れに対しては鈍感になっていないでしょうか。永遠の命に関わる罪に対して、もっと敏感になる必要があります。難しいと諦めて洗わない状態にならないでください。 食器を毎日洗うことは、それほど難しいとは思わないはずです。そのように罪やけがれも毎日洗う必要があります。 A) 汚れている食器は使わない 洗うときに気をつけるべきは、内側をまずはしっかりと洗うことです。外側がいくらきれいでも、内側が汚れているような食器は使いたくありません。それなら私たちも心の内側が汚れた(けがれた)ままでは嫌だと思うべきです。放っておくべきではありません。いつも内側のけがれをきれいにしていくことを心がけていけば、それほど大変なことではありません。神様に用いられる器になりたいものです。 B) 外側よりも内側をしっかり洗う どんなにボロボロな器でも内側はきれいにして使います、逆にどんなに高級な器でも内側がきたなければ食物を入れたくありません。 C) 内側を洗った食器は、きよくなった食器である 私たちの外側の肉には罪があります。しかし、内側の心が神を敬う信仰を持っていたら、神様は使える器と見てくださいます。私たちの清潔感を内側の心のけがれに対しても、もっと持ってください。罪、けがれに対してもっと敏感になりましょう。いつも毎日洗っていけばきれいになっていきます。ためてしようとすると、時間も体力も余計にかかるようになります。 2.食器の内外を洗う (ル力11:39〜41) 「すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」 ルカの福音書ではうちのものを施しに用いなさいと言っています。それがきよくなる秘訣です。 A)汚れのひどいのは内側 人は外側の汚れよりも、内側の汚れのほうがひどいとイエス様は言われました。貪欲という汚れはなかなか簡単に取れるものではありません。一気にとろうと思ってもなかなかできません。しかし時間をかけてやればだんだんきれいになっていきます。毎日の積み重ねが大切です。 B)心を施しに用いて洗浄する イエス様のきよめの血潮は神様の愛と思いやりです。施しのギリシャ語訳は 慈悲、恩恵を注ぐことを意味します。それは特に、貧しい人々への思いやりに表されます。 これくらいの汚れは何ともないと妥協せず、イエス様のきよさに近づくことを目標にして日々努力していきましょう。 主題聖句の洗足式に重ね合わせると、互いに足を洗い合うというのは、互いに認め合い、相手の汚れを見ても、すぐに裁かず猶予を与えるということです。これが恩恵を与えるということです。 まだ悔い改めるチャンスを神は与えてくださっています。私たちは神様から赦されている、見逃していただいているというのは大きな恩恵です。 貧しさとは、心や霊的なことも含みます。心の狭い人、感情的でセルフコントロールの難しい人は貧しい状態です。そういう人に対し忍耐して、互いに思いやりをもち、情けを掛け合うことが心をきよめるということです。ルカは医者としてこういう面をさらに深く理解していたかもしれません。 【デボーションポイント】 ◎斎戒沐浴(さいかいもくよく)を意識して、その日を始めましょう。 これは主を畏れるということを意味しています。 ★「斎戒沐浴」(さいかいもくよく)の意味 神仏へのお祈りや神聖な儀式の前に飲食や行動を慎み、水で髪や体を洗い心身を清めること つまり心を律するということです。私たちの日々の生活は、イエス様の証人としての歩みです。神の前における生活であり、努めです。毎日朝デボーションをする時、斎戒沐浴を心がけて一日を始めましょう。 【俳句】 香水で 内なる汚れ ごまかすな 8月の季語は香水です。施し、すなわち互いに憐れみ合い、助け合いながら心の内側をきよめていきましょう。
■2020年7月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 罪の感染対策 up 2020.7.26
今や世界は、コロナウイルス感染対策に躍起になっている状況です。この時期に、私たちクリスチャンは、さらに霊的なウイルス、罪に対しての感染対策を学ぶ必要があります。 病原体が体内に侵入することを感染と言いますが、比喩的には ある物事の影響を受け、それに染まることを言います。 もともと私たちは罪人であり、病原体である罪を持っています。しかし、完全に罪に覆われてしまい悪魔のようになっている人は少なく、ほとんどの人は良いものと悪いものの両方を持っています。 その中でも、どうしてクリスチャンは内に感染している罪が増殖せず、中には無症状に見える人もいるのでしょうか。 感染とはある物事の影響を受け、それに染まることでもあります。罪の影響を受けて罪に染まってしまうことが感染であり、内にもっていても染まらなければ感染しているとは言えません。ですから、罪の影響に染まってしまわないように対策を取る必要があります。 クリスチャンは信仰という免疫力を持っているおかげで、罪の影響を最小限に抑えることができます。そしてこれこそが健康なクリスチャンと言えます。 感染に対して敏感になり、罪を増殖させないように意識していくことが、健康を維持するために必要です。健康とはひとつのきよさであり、健康に気をつけるということは生活をきよく保つことで、罪の増殖を防ぐように努めていくことでもあります。
1.罪とウイルスの類似点 A)ウイルス ウイルスは自家増殖できないので、他者の増殖システムを利用して増殖することしかできません。他の生物に入ってその生物の細胞の中の増殖システムを利用して、自分をコピーして増やすしかできません。ですから単体で存在することはできず、消えるしかないのです。 それならウイルスを体内に侵入させなければいいのですが、完全に防ぐことはほぼ不可能です。 B)罪(ヤコブ1:14、15) 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」 これは罪の増殖の原則です。欲に罪が寄生して、新しい罪を生み出し、どんどん増殖して、最後には死に至らせるのです。 罪とは欲望の増大力を利用して、律法をきっかけに増殖していきます。欲望の強さを利用して増え広がりますから、欲望が強いほど罪も増えていくのです。しかもそのきっかけは戒めによります。 例えば、食べることは必要ですが、一日の摂取量には限界があり、健康を維持していくには一定の摂取量の基準があります。しかしその基準を超えて、どんどん食べ続けていくとついには身体を壊し病気になってしまいます。 欲求が強い中で罪はその基準というルールを利用して、「食べたい!」という貪欲を引き出していくのです。これ以上食べたら駄目ですという律法がセーブすることにならず、人によってはむしろ食べたいという執着に変わってしまい、その結果食べすぎてしまうという結果になってしまうのです。これが健全な欲望が戒めによって貪欲に変わってしまう瞬間です。 健全な生活のためにはルールが必要です。そのルールが聖書によってもたらされるのですが、そのルールによって、従えないという罪の自覚がもたらされます。ルールができたことによって、罪が自覚されます。その罪に気づくように神様は人に律法を与えられたのです。そしてその罪に気づき、罪から解放される救いを与えてくださいました。 新約の教えも律法として捉えてしまうと、「赦しなさい」と言われると「赦せない、赦したくない」という強い気持ちが湧いてきます。その内側の罪に気づいたとき、私たちはいかに罪深いかがわかるのです。 ただ違反をしないでいることを意識するのではなく、自分の願いはごはん一杯で充分ですという気持ちになれば、何の葛藤も起きません。これで充分ですという気持ちが持てるか持てないかで大きな差がでてきます。人と比べて自分は不幸だという気持ちになるのは、これで充分であるという気持ちが持てないからです。 貪欲との葛藤に勝利するには「これで充分である」という満ち足りる気持ちが秘訣になります。お金や暮らし向きも人と比べるのではなく、満足していたら幸せになることができます。どんなにお金を持っていても充分だと満足していなければ不幸せなのです。 欲望があっても、これで充分ですという気持ちをもてば、罪の増殖を抑えることができます。罪があっても罪は働かなくなります。
2.罪感染の種類 A)空気感染(ローマ12:2) 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 空気感染は「この世と調子を合わせる」ことです。五感から侵入する貪欲への誘惑です。流行に流されてしまうことです。ギリシャ語では「この世と調子を合わせる」とは、何らかの影響を受けて自分を作り上げてしまうという意味です。聖霊様は本来のあなたらしさを引き出し、その人らしい神の子として完成してくださいますが、この世の罪はあなたらしさを潰し、この世の流行に仕立て上げてしまいます。 B)飛沫感染(第1コリント15:33) 「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」 ウイルスがただ空中を漂っている空気感染と違い、ウイルスの比較的大きな固まりが飛沫感染です。人がしゃべる時大きな固まりが飛びます。ですから人と距離をとる必要があります。これは霊的には「良い習慣がそこなわれる」交わりをしないようにということです。 空気感染がこの世との交わりなのに対して、飛沫感染はクリスチャンといっても悪いクリスチャンとの交わりを意味します。 相手がクリスチャンだということで心を開いて交わってしまうと感染力が高くなります。きよさの劣っている汚れが多いクリスチャンに心をゆるして交わっていると強い影響を受けてしまいます。交わりに気をつけましょう。今、多くの異端の団体が日本で活動しているという情報も入っています。 今きよめについて学び、再臨に備えた信仰生活を私たちの教会では重視して歩んでいます。しかしこの教えと違ったことを学んでいる他教会の方との交わりで、せっかく学んでいる真理から外されていくことがないように気をつけてください。 C)接触感染(ヤコブ4:4) 「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」 この世を愛して濃厚接触をすることです。神の教えはただの参考であって、この世を優先し、その交わりの方を優先しているなら、完全に感染してしまいます。
3.罪感染防止対策 A)手指衛生(Tヨハネ1:7) 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 手で色々なものを触ります。その手で顔を触ったら鼻や目からウイルスが入ってしまいます。スーパーでは必ず手指を除菌しないと危険です。 霊的には、イエス様の血潮によって、きよい交わりを維持することができます。手のわざとは、生活であり、人との交わり全般でもあります。誰とも関わらないで生活することはできません。いつもイエス様の血潮によってきよめていただきましょう。イエス様の血潮はすべての汚れからきよめてくださいます。交わりは互いに様々な影響を受けたり与えたりしてしまうものです。ですからいつもイエス様の血潮を仰ぎましょう。 B)マスク着用(正しい良心の着用) 一つの実験を紹介します。マスクの効果をハムスターで実験したものです。 感染したハムスターと正常なハムスターを、マスクなしで同じケースに入れると66.7%の確率で感染しました。マスクのない感染ハムスターとマスクをした正常ハムスターでは33%感染しました。 マスクをした感染ハムスターとマスクなしの正常ハムスターでは16.7%の感染だったそうです。この実験から感染した方がマスクをすることの重要性がわかります。 つまり無感染の人がマスクをしていても、感染者がマスクをしていなかったら感染リスクが高いと言えます。感染しているかどうかは見えないのですから、みんながマスクをするべきでしょう。 また、アメリカではある美容院で二人の美容師が陽性だったことがわかりましたが、美容師も客も両方マスクをして、美容している間一言も喋らなかったので140名のお客さんは誰も陽性にならなかったそうです。 マスクの重要性がわかる出来事です。 それでは良いマスクである正しい良心の着用をみことばから見ていきましょう。 (1)(第2テモテ2:8) 「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」 「イエスをいつも思う」ということが、正しい良心を意識し罪に対して敏感になり罪を増殖させない秘訣です。 (2)(箴言3:6) 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 人生においてどういう計画をしても何をしても、そのすべてに主の存在と主の働きと主の介入を認め受け入れよということであり、それは、主を畏れるということです。主を畏れることが新約では正しい良心です。 マスクをつけるように、正しい良心というフィルターをいつも通すことで、罪の感染を極力抑えることができます。そして多少の罪の影響は信仰という免疫力で消滅させることができます。 自分の信仰の強さでしか免疫力はもてません。イエス様は完全な信仰をもっておられたので、なんら罪の影響も受けられませんでした。しかし私たちは正しい良心をしっかりと持って、罪を受け入れないフィルターとしてしっかりと着用しましょう。 ●デボーションポイント 手洗いや消毒、マスク着用を軽んじる人の問題点は? 同じように、罪に対する防止策を軽んじる人の問題点は? 感染するわけないと無防備にしていると、必ずいつかどこかで感染してしまいます。罪に対しても、赦されているのだからと平気で罪を増やすような状況を受け入れていると必ず罪が増殖し、滅びに向かうことになります。 感染しないとか、大丈夫とか言って対策しないというのは傲慢な態度であり、謙虚さがないということです。横柄さから来る大丈夫は信仰から来るものと違います。単に自分の経験やフィーリングによるものです。それは正しい良心からは来ていません。 〈川柳〉 イエスの血 罪の感染 とどめたり イエス様の血潮は罪に染まった状態をきよめ、改善してくださいます。心が咎めるということは良心が正しく働いているからです。
■2020年7月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) へりくだりと聖め up 2020.7.19
「へりくだり」は聖められる過程の一つである 「聖められる」という受け身の表現は、自分で聖まろうと努力していくものではなく、神様のお取り扱いを受け止めていくという姿勢を表しています。私たちに起こるどのようなことも、それは神様が私たちを聖めてくださるための一つ一つの出来事だと思えば、すべてに感謝できるのではないでしょうか。 今週の主題は「へりくだりと聖め」です。中心のみことばは、ヨハネ伝9章41節です。ここに、「へりくだりと聖め」が隠されています。 「へりくだり」は聖められる過程の一つです。聖められていけば、おのずと謙遜が身に付き、また謙遜な人は聖められてきていると言うことが出来ます。これが今日の結論です。 「へりくだり」は、自ら意識して気を付けて保つことが出来る場合と、何かのきっかけ、アクシデントを通して自然に身につける場合もあります。特に、人生における神様のお取り扱いの中で、いろいろな出来事の中で、私たちは「へりくだり」(謙遜)を身に付けていくことが出来てきていると思います。 ヨハネ9章の流れをお話し致しますと、まず生まれつき目の見えない人についての弟子たちの質問にイエス様がお答えになり、そしてその人の目を癒されます。 一方、常々、安息日に癒しの仕事をするのはルール違反だと、イエス様を快く思っていなかったパリサイ人たちは、今回もイエス様の癒しの御業に承服できません。盲人だった男の説明も意見も聞き入れることが出来ず追い出してしまいます。 そこでイエス様が語られたのが、39節〜41節のみことばでした。
1.罪汚れへの考え A)旧約社会(ヨハネ9:2,34) (2節)「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。 『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」 (34節)「彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして彼を外に追い出した。」 身に欠陥のある者は、罪人であり汚れている。 当時のユダヤ人社会では、病気や障害は、罪を犯した結果生じたものだと考えられていました。 当時のユダヤ人社会の宗教儀式であるいけにえ制度の中で、神にいけにえ(動物)を捧げる場合、その動物は傷一つない完全なものでなくてはならないという掟がありました。ですから、ユダヤ人社会には、動物であれ人であれ、傷や欠陥のあるものは神様の前に出ることのできない汚れたもの、罪ある者という認識が生まれました。 そこで、弟子たちもそのユダヤ人社会に生きていますから、「では、生まれつきの病気や障害は、一体誰が罪を犯したせいですか」とイエス様に質問したわけです。 B)キリストの考え(ヨハネ9:3) 「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです。』」 欠陥(障害や病気)のある者(罪人)は、神のわざが現れるために生まれた。イエス様のお答えは、障害者、病人、健常者にかかわらず、すべての人は、「神のわざ」が現されるために生まれたのだということでした。 神様が現わされる「わざ」とは何でしょうか。最高権威者であり主権者であられる神様にしかできない「わざ」、それは罪を贖う、赦す、きよめる、すなわち罪を取り除くというわざです。それはイエス様の十字架です。 あなたが神の前に罪を赦されている者として、今日、神の臨在の中に出席することが出来ているということは、「神の御業」があなたの人生に、あなた自身に現わされているということの証拠なのです。罪赦されているということの何と大きな恵みであることかを、ぜひ実感していただきたいと思います。
2.聖い「へりくだり」 A)ヨハネ9:39−41 「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いてイエスに言った。『私たちも盲目なのですか。』イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」 見える=罪人ではないという高慢 見えないのに見えると言う、罪があるのに罪はない、自分は正しいと言い張る、それは高慢の罪です。 高慢とは、人を見下す姿勢です。自分と盲人を比べて、自分は律法を守って正しくやっているから、自分の方が優れていると思う、その高慢な心、「見える」と言い張るところに、「あなたがたの罪は残るのです」とイエス様は言われました。 見えない=罪人を自覚、自己受容 「見えない」と言う人は、罪を自覚している人です。罪人の自分を自己受容出来ている人です。自己受容出来ていない人は、自分の失敗を受け入れられません。罪人である自分を赦せません。そして他人からの罪の指摘も認めることができません。 自分は「見えない者、罪人です」と素直に受け入れ、神の前に認めるなら、その人に罪はないとイエス様は言われます。 罪とはなんでしょうか。罪とは、誰より何より自分を正しいと思うプライド、優れていると思う優越感、自尊心です。そこが傷つくと、人は挫折感や怒りで過剰に反応します。 目が見えない盲人は、当然見えないことを知っていますから、他人に「あなたは見えてない」と言われても「その通りです」と聞き入れます。 罪人であることを自覚し、それを受容出来ている人は、他人から「罪人だ、間違っている」と指摘されても、その指摘を受け入れることができます。そこに争いは起きません。心は平安です。 このように、罪の自覚を持つか持たないかは、「聖いへりくだり」に大いに関係します。よく自分自身を吟味していただきたいと思います。私たちもどこかに、他人からさげすまれ、卑しめられて心に傷を受けて、自尊心が痛んで、非難されたり指摘されても素直に受け入れることが出来ないでいるかもしれません。 自分が生まれつき目の見えない罪人であることを、神様の前に自覚して、そういう自分を認め受容するとき、私たちの心は楽になります。そして、神様から言われることも、人から指摘されることも、自然に受け入れることのできる「聖いへりくだり」を持てるようになるのです。この「聖いへりくだり」を持っている人の証しが、次の(ピリピ2:3)のみことばです。 B)ピリピ2:3 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。」 自己中心や虚栄=高ぶり、高慢 互いに人を自分よりもすぐれた者と思う=聖いへりくだり 自分が高ぶるのではなく、他人を自分より優れたものと思いなさいと言われています。他者の存在を尊重するという意味です。自己暗示ではありません。一生懸命自分に言い聞かせて、他人の方が自分より優れていると無理やり自分に思わせるのではなく、自然に他者を尊べるようになるのが「聖いへりくだり」です。 では、相手がどんな人でもどんな罪人でも、自分よりすぐれた人だと思うためには、何が必要でしょうか。それは、すべての人が神に愛されているということです。この罪びとも、この世に生きている限りは神に愛されている人、だから、尊ぶのです。 私も罪人だけれど神様から同じように愛されている、それが人を尊ぶ基本です。あなたが腹立ちを感じる人、赦せない気持を持っている人がいたとしても、その人がまだ地上に生きている限り、神はその人にも悔い改めのチャンス、イエス・キリストを受け入れるチャンスを与えておられるのです。それは、その人を神様が愛し憐れまれている証拠なのですから、大事に思ってください。 あなたも罪赦されて、イエス様を信じてここに礼拝することが出来ているのです。その人も罪赦されて、聖い礼拝者になるとしたら、そして、その人も聖めを受けて、更に幸せになるとしたら、何と喜ばしいことではありませんか。喜ぶものとともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。身を低くしなさい。時が来たら、神はあなたを高く引き上げてくださいます。 聖いへりくだりを得るために、神様の聖めをしっかりと受け止めていきましょう。そのために、あなたの前には、腹立たしい人やねたみを起こさせる人やイライラさせられる人が現れます。その人を通してあなたは聖いへりくだりを身につけていくことができるのです。周りの人々を通して、神は私たちをきよめてくださるのです。 【デボーションポイント】 (第1テモテ1:15)から、パウロのへりくだった心について考えてみましょう。 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」 パウロはパリサイ人中のパリサイ人と言うほどの才能豊かな律法学者で、生まれも育ちも優秀でした。そのパウロが自分を「罪人のかしら」と呼ぶのはなぜでしょうか。 【俳句】 泣きやまぬ 雨蛙のよう 主を求め 雨蛙は泣き疲れても泣くのをやめることはしません。私たちも神に近づくことをあきらめず、神様の約束を信じて、自我を砕かれつつ、祈り求め続けていきましょう。
■2020年7月12日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師) 恵みに立ち返る・聖められるための出会い up 2020.7.12
【辻和希伝道師メッセージ】 「恵みに立ち返る」 私たちはあらゆる恵みを主からいただいています。世界は相変わらずのコロナ渦にありますが、それでも主からの恵みは変わらず注がれているのですから、私たちは主への感謝を忘れてはいけないと思います。 箴言8:32〜36 私たちは、何かを与えられて恵みと感じると思うのですが、では与えられなかったら恵みがなかったということなのでしょうか。 もしそう考えてしまうなら、結果の大小で恵みを測ってしまうことになります。これは世の中の考え方で、たとえ結果がなくても、神様の恵みは常にあるという信仰が、経済社会に生きる私たちの健全なあり方を守るのだと思うのです。 上記の箴言では、幸いなことは、主から恵みをいただくことだとあります。主からの恵みは、私たちの上に注がれており、そこにとどまり続けることで、結果として、物が与えられ、能力が与えられ、財が与えられ、環境が与えられるのです。私たちが持っているもの全ては主からなのです。 私たちが幸いなのは、持ち物によるのではなく、能力ではなく、ただ主の恵みがあるということなのです。持ち物や能力は恵みの結果であって、持ち物が豊かだから主の恵み、感謝!と、順序を間違えないように見直しましょう。 申命記8:17〜18 繰り返しになりますが、与えられているものすべては大小関係なく主からの恵みなのです。 この世の基準で周りと比較すれば恵みがわからなくなってしまいます。 ますます世の中は愛が冷め、終わりに向かっていきます。現時点でもコロナや災害が私たちの生活を襲い、物質主義や能力主義の世の中です。 そんな中でクリスチャンとしての正しい姿勢を崩されることのないように、全ては主からの恵みであり、自分の力によるのではないという謙虚な姿勢で神様に向きましょう。
【横路伝道師メッセージ】 1.聖められるための出会い(サマリヤの女)ヨハネ4章から1 「聖められることを追い求めなさい」が今年のテーマですが、礼拝の中で私たちはイエス様と出会い、聖霊様に触れられて聖められます。触れる人の影響は大きいですね。誰と交わっているかが人生を変えると思います。今日はヨハネの福音書からイエス様に出会った人の話を見ていきたいと思います。 A)イエス・キリストと出会ったサマリヤの女 (ヨハネ4:3〜9) 「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである―― 〇皆に会いたくなかった女 弟子たちは町に食料を買いに出かけていて、イエス様はお一人で井戸のかたわらに腰をおろしておられました。そこに、サマリア人の女が水をくみに来ました。普通はこのような真昼の暑い時に水をくみに来る人はいませんでした。また、女性達は同じ時間に水を汲みに行って、楽しくお話をして帰るのが普通でしたが、それを避けて一人で来たということは訳ありの女性であり、皆に会いたくなかったようです。 〇女に声をかけられたイエス様 その彼女にイエス様は「わたしに水を飲ませてください」と声をかけられました。それは当時の状況からすればあり得ないことでした。ユダヤとサマリヤは喧嘩状態でした。また、男性が女性に対して屋外で話しかけるということはありませんでした。先生と呼ばれる立場の人は特にそうでした。しかしイエス様はあえてへりくだって飲ませてくださいと言われました。女性はこの言葉を聞いて非常に驚き、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と言いました。普通同じ器で飲むので、見ず知らずの男性が、しかも付き合いないユダヤ人がなぜ私にそのようなことを言うのかと思ったのです。 B)イエス様が与えてくださる、生ける永遠のいのちへの泉 (ヨハネ4:10〜15) 「『イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」 このようにイエス様は答えられました。この女性はなおこの言葉にひっかかりました。 「彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』」 このように、イエス様に対して彼女はつっかかりました。しかし、イエス様はとても上手に対応をされます。 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」 イエス様は、内側からいのちの水が湧き出るような素晴らしい水を与えると言われました。彼女はそんな水があれば、もう水をくみに来なくてもいいと思い、逆に水を求めます。 「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」 しかし、ここでイエス様が語られた水とは、女が望んだ飲み水ではなく、聖霊のことであり、アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人の失った霊的いのちのことで、イエス様の十字架の救いによって霊が生き返り、いのちに満ちた人生、永遠の御国に至るいのちの「水」のことでした。 C)イエス様の意外な質問に心を探られる女 イエス様は、この時突然、この女の人生に触れることを言われました。 (ヨハネ4:16〜18) 「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」 女性は誰にも言いたくない、誰からも触れられたくないことをズバリと言われ、とても驚きました。そして、誰にもわからないはずの自分の秘密を見通し、言い当てたイエス様に対する見方が変わりました。預言者であるに違いないと思ったのです。 2.聖められるための出会い(サマリヤの女)ヨハネ4章から2 A)礼拝場所の質問とまことの礼拝の教え (ヨハネ4:19〜24) 「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」 イエス様は、この女性の人生を責められずに受け止められました。そして、彼女の質問に対して答えられました。 礼拝は「ここでもない、あそこでもないという時が来ます」と言われました。今、世界中でどこでも礼拝ができます。家庭でもインターネットで礼拝できます。礼拝は場所や形式が問題ではなく、霊とまことをもって神様をあがめることが礼拝なのですよと言われました。 エルサレムでは、ユダヤ人は素晴らしい神殿を建てて、厳かなとても立派に見える礼拝をささげていました。しかし、いつの間にか形式にとらわれて、心から神様を礼拝することから離れていました。 一方サマリヤ人は、ユダヤ人に対抗して山の上に別の神殿を作りました。エルサレムの神殿の壮麗さには及びませんでしたが、神様を熱心に求める礼拝をしていました。しかし、モーセ五書のみを聖典としていたため、救いと真の礼拝についてよくわかっていなかったようです。そのため、「あなたがたは知らないで礼拝しています。」とイエス様は言われました。そして、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。」と言われました。新共同訳聖書では「霊と真理をもって礼拝する」と書いてあります。 B)イエス様のメシヤ宣言と女の驚き (ヨハネ4:25〜26) 「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』 イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」 彼女はこれを聞いてどんなに驚いたことでしょう。普通の教師でないとは感じていましたが、まさかキリストであるとはわからなかったのですから。 C)イエス様にお会いした後の、聖められた女の変化 (ヨハネ4:28〜31) 「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。そのころ、弟子たちはイエスに、『生。召し上がってください』とお願いした。 彼女はイエス様に出会って感動し、町に出て行って多くの人に伝道しました。これは、救われた私たちの姿でもあります。 多くのサマリヤ人が彼女の話を聞いてイエス様に会いに行きました。そして2日間引き留めて話を聞きました。多くの人々が救われて、サマリヤ伝道の先駆けとなったのです。そして二千年たった今でも彼女のことは聖書を通して伝えられています。 今週もイエス様に触れ続けて、永遠のいのちの水、聖霊によって生かされてまいりましょう。
■2020年7月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) きよい手を上げて祈る up 2020.7.5
良いわざを飾りとするように、きよい手をあげ祈る 今年の主題聖句(へブル12:14)から、きよくなければ再臨の主とお出会いすることができないということで、再臨に備えた聖めを追い求めること、その習慣を身につけることを目標としてお話をしてきております。 先週は、誰もが求めている健康と美と幸福という三つの観点から、これは聖めを求めることにつながるというお話を致しました。多くの人々の体験を見ても、その三つのものを実現し保つには、そこに品格、きよさ、自制心、分別などが必要です。好きなことばかりをして得られるものではありません。 クリスチャンが健康、美、幸福を求める時、メッセージで「あれをしてはいけない、これをしないといけない」と言われて、それが面倒なことに思えるとしたら、その問題点は、健康、美、幸福のためにという目標が、違う方向に目がそれている可能性があります。 私たちの本当の健康、美、幸福は、神様あってこそのものです。なぜなら、神様は私たちをお造りになった方ですから、このお方の勧めを聞くことを通して健康と美と幸福はもたらされるということを、みことばから得ることが出来ました。 神様を信じない人々は、この世でどんなに健康と美と幸福を得たとしても最後は死ぬのです。すべては無に帰するのです。 私たちは永遠の神の御国に向けて、健康と美と幸福を目指しているので、たとえ地上で自分に何がどのように起ころうとも、肉体の死で人生が終わるのではないという望みをイエス・キリストを通していただいています。私たちには希望があるのです。 この希望を持って、この地上の人生を一歩一歩きよめられていく人生として、健康と美と幸福を追求していくならば、更に熱心に神様に近づこうという気持ちが湧いてきて、悪から遠ざかることも自然に出来るようになるに違いありません。 今週は、先週のお話の中の「美の追求」から、「きよい手を上げて祈る」を主題といたしました。主題聖句(第1テモテ2:8−10)には、男性にはきよい手を上げて祈り、女性には良い行いをするようにと書かれてありますが、これは別々のこととして語られたのではなく、同じ意味をあらわしています。 力や飾りで他人と勝負して自分が優れていることを求めるのでなく、神の前に、良い行いを飾りとし、きよい手を上げて祈ることをパウロは勧めています。 1.私たちは神の作品(エペソ2:10) 「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」 神様は天地を造られた全知全能のお方です。私たちがそういうお方の手による作品であるということは、私たちはこれ以上はないというほどの最高傑作の存在ということです。それほど価値のあるものを、無価値なものに引き下げようとするのが罪の働きです。神様が造られた無限の価値あるものに自分を保つこと、それがきよさを保つこと、きよめられることを願うことです。自分の価値を見失ってはいけません。「私は神の作品。こんな素晴らしいものとして神はお造りくださったのだから、罪で汚してはいけない、遠ざかろう。」という気持ちを意識していただきたいのです。 A)神がデザインされた(第2コリント5:17) 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 神様以上のデザイナーはいません。肉体構造も精神構造も霊的にも、卓越した人格者として高められることのできる存在として、神様は人間をデザインされました。そのように神のかたちにデザインされたアダムとエバですが、神様に与えられた自由意志をもって誘惑に落ち、罪を犯し、自らを汚してしまいました。 しかし、神様はもう一度人間が神の作品として回復されるために、イエス・キリストを通して人を造り直すようにされました。私たちはキリストにあって神の作品として今ここに存在しているのです。 (第2コリント5:17)には、「すべてが新しくなりました」と信仰的表現がされています。すべてが新しくは、まだなっていないのですけれど、神様はアダムをデザインされたときより更に優れたデザインを施して、私たちを新しく造り直してくださいました。それが「キリストにある者は皆新しい」という約束のみことばです。 福音書に現わされているイエス・キリストの姿が、神の作品としての私たちの完成の姿であり、私たちは今そこに近づいている途上にあります。これも神様がデザインされているものなので、それに反するような自分の考えや好みに合わせた姿にしないようにしてください。自分の人生ではないのです。作品は作者の思いを込めた作品に仕上がるべきものです。ああしてほしい、こうしてほしいという態度は的外れ、罪につながりますので気をつけましょう。 B)目的をもってつくられた(マタイ5:16) 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 作品のすばらしさは、作品だけでなく作者も「すごい!」と言ってほめられます。私たちの造られた目的は、良い行いをする私たち(作品)を通して、そのように私たちをお造りになった神様があがめられることだと書かれてあります。作品の目的は作者の栄光につながります。あなたを通して神があがめられるように、神様はあなたにいのちを与えこの人生をあたえられました。 自分の栄光を求める人生は、その良さに限界があります。無限の能力を持ったお方の作品は、底知れぬ深みと素晴らしさと感動を与えるものです。 2.愛の善行への促し(へブル10:24) 「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」 私たちの人生は自分のものではなく、神の作品です。創造主の存在を認めるということは、私たちの所有権は神にあることを認めることです。イエス様を信じて罪赦されて自由になって自分の好きなことができると勘違いしてはいけません。それは幸せではありません。 神の作品としてふさわしく保存され、維持され、展示されるルールがあります。それに従う神のみことばを通して、私たちはキリストに似たものとして作品が完成されるまで、自分を大事に扱います。そのためにお互いに励まし合うことが大切です。 A)言葉を選んで語る(エペソ4:29) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」 「悪い言葉をいっさい口から出さない」とは、とても不可能なことのように思えますが、いま出来ていないからこそ、その部分を目指して私たちは語るべきことばを選んでいくことが必要です。そしてそれを心がけ、互いに勧め合っていくことが大切です。 B)隣人の建徳を考える(ローマ15;2) 「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」 良い行いをするとは、隣人の益となることをすることで、それはその隣人の徳を高めることであると書かれています。あなた自身は、あなたらしく神様の作品として汚されないように色あせないように自分を保っていくということが大事です。そのためには隣人の徳を高めること、益となることを考えて歩んでいけば、おのずと自分もきよまり、キリストの姿に変えられていくことにつながるのです。 まずは、言葉と、近くの人々に対しての考え方、態度から良い行いを考えてみられてはいかがでしょうか。これは縛りではありません。あなたが神の聖なる作品として、それにふさわしい自分としての歩みを保ち完成されていくということを考えるならば、まずは言葉と隣人への態度を考えてみられることをお勧めいたします。 あなたは神の作品です。見る人が見れば、値のつけられないような、ダイヤ以上の価値を見いだされます。それを一番よく知っておられるのは、父なる神様であり、イエス様なのです。
【俳句】 教会は 天香国色 善行で 天香国色:非常に美しい人を現わすことば 天香:天の香りかと思うような素晴らしい香り 国色:国中でこれほど美しい色彩はないというような一番美しい色 教会は良い行いで天香国色となれるのです。 |