■2020年6月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 聖めの追求 up 2020.6.28
「からだ」=人生そのもの 「生きた」=交わりを持つ 「供え物」=喜ばれるささげもの 「きよめられることを追い求める」をテーマとして半年が過ぎました。この間、皆さんがますます自分の罪深さを思い知らされるようでしたら、それは健全な状態と言えます。 その罪深い者を神様は赦してくださっておられます。その愛とあわれみを信じて、罪深い自分を自覚し砕かれる中で、自分の努力ではなく、聖霊なる神様が私たちをきよめてくださいます。 人生の日々の歩みの中で、様々な出来事の中で、内なる罪の性質と正しい良心との葛藤を通して、私たちのきよめは進められていくのです。 そのようなことを、これから少しづつ具体的に話をしていけたらと思っています。 まず、今年の主題聖句(へブル書12:14)をみてみましょう。 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ誰も主を見ることができません。」 私たちは、再臨の備えとして、「聖められることを追い求める」ことを今年のテーマといたしました。この聖句の中には「平和を追い求める」ことも記されてありますが、「平和」と「きよめられること」とは別々のことではありません。 平和を追い求めようとすると、どれだけ自分がきよい者でなければならないかがわかります。相手がきよくないものであっても、自分が「人の悪を思わない」という「きよめ」をもっていれば、相手は怒っていても、こちらは平安ですから争いになりません。 自分がきよくなくては平和は実現しません。きよめの進んだ人の人生には、平和の実が見られ、神に喜ばれる生活が出来てきていると言えます。平和を求めるなら、まず自分がきよめられることを追い求めることが一番の近道なのです。 今週のポイントは「聖めの追求」です。追求する、すなわち、単に手近なところで一つ手に入れて満足するのではなく、再臨の日まで、次から次にその向こうを追いかけるようにして、聖めを求めていきたいと思います。聖めの追求とは具体的にどういうことなのか、今日はそこから見ていきたいと思います。 今日の主題聖句(ローマ12:1)は、聖書の中心と言われるほど、大変重要なみことばです。 神様の私たちに対する新約の戒めは、(ヨハネ13:34)の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というイエス様のおことばですが、それは(ローマ12:1)と同じことを語っています。 「聖い生きた供え物」として自分を神様に捧げる「霊的礼拝」とは、「互いに愛し合いなさい」ということなのです。 「あなたがたのからだ」とは、あなたがたの地上の人生そのものです。「からだ」(人生)を、神様に喜ばれる「生きた供え物」としなさい。すなわち、あなたがたのからだ(人生)を、神様のために用いなさいと言われています。 旧約聖書では、いけにえの動物は殺してから神様に捧げます。それは私たちの罪のさばきの身代わりだからです。神の怒りをなだめるためです。 そのいけにえの捧げものはイエス様によって完全に成就されました。今では私たちは罪赦されて、聖い「生きた」供え物とされました。 「生きた」とは、交わり(コミュニケーション)を持つことです。すなわち、私たちの人生は、神様との交わり(コミュニケーション)のために、神様に喜ばれる捧げものとされているわけです。 罪赦された私たちが、次に神様に喜ばれるのは、神様との交わりです。神様がイエス・キリストの十字架を通して私たちを赦されたのは、私たちと神様が家族の交わりを持って生きるためです。交わりがあってこその家族です。神様がどんなに交わりを望んでおられるか、イエス様の犠牲の十字架を通して私たちはもっと悟る必要があります。 今日は、聖めをどのように追求するのかについて、からだ(人生そのもの)を神様に捧げることが、聖めの追求につながるということの意味を見ていきたいと思います。 1.「健康」を追求すること A)第1コリント6:19 からだは聖霊の宮であるから クリスチャンは聖めのために、健康を追求します。私たちのからだが、聖なる御霊様の住まいだからです。そのために、世に合わせた今の生活リズムを、神様のために少し変えていく必要があります。食事、睡眠、運動など自分にできる工夫をして、からだの健全さを維持して、神様に心地よく住んでいただきたいと思います。 B)出エジプト15:26 御声に聞き従うことによって 病気になってしまっても神様はいやしてくださる方ですが、病気にならないように健康を維持することも大事です。悲惨な目に会うまで頑固な罪の態度を改めないのではなく、自分から喜んで御声に聞き従っていれば、普通に生活できるような健康を神様は私たちに与えてくださるのです。 C)第1コリント11:29−30 キリストのからだとわきまえる 地方教会に、弱い人や病人や死ぬ者が多く現れるのは、教会がキリストのからだであることをわきまえないからであり、それはサタンに隙を与えることになると忠告されています。 教会はキリストのからだであり、互いに隣人を自分のように愛し、互いに尊重し合います。教会にこの愛の実があれば、罪の実である病気はそこに現れることはありません。 このように、聖霊の宮である自分のからだの自覚、神様との健全な関係、教会の兄弟姉妹との健全な関係が保たれていれば、からだの健康を保つことができ、更に霊的にも精神的にも健康を強められると言えると思います。 2.「美」を追求すること A)ルカ11:34−36 からだの美は、目の輝きにある 「輝く」「明るい」は、美しいことの別の表現です。神様が私たちに求めておられるのは人格的美しさです。 B)第1テモテ2:9−10 きよい手の祈りは、霊的な飾り 第1テモテ8節で男性に対して語られた後、女性に対して、「同じように」と9−10節が語られています。つまり男性の「怒ったり争ったりしないで、きよい手を上げて祈ること」と、女性の「つつましく控えめな慎み深い外観と良い行い」は、同じ意味で内面的な美しさの価値として勧められています。男性にとっても女性にとっても、神を敬い、裏表なく、他人のためによく祈る人は、霊的に美しく飾られた人であると言えます。 C)第1ペテロ3:3 霊的価値ある飾りは、人柄 女性は教会の型、男性はキリストの型です。教会の価値は立派な建物や絵画などの飾りにあるのではなく、そこに集う人々の人柄にあります。皆さんの人柄がその教会の霊的価値を生み出すのです。キリストの花嫁として集められた皆さんが、神の御前に価値ある美しい飾りなのです。 3.「幸い」を追求すること A)マタイ5:9 神の子と呼ばれることの幸せ 平和の使者として人々から尊敬されることは幸せなことです。いろんな人が赦し合い受け入れ合う、神の業としか思えないような平和を生み出せるのは、神の子と呼ばれる人たちだけです。それをイエス様が実現してくださいました。そのイエス様の御足のあとを従っている私たちも、争いのある所に平和をもたらす仲介者として喜ばれることは最高の幸せではないでしょうか。 B)ヨブ22:21 神との良い関係が幸いをもたらす 幸いの根本はまず神様との良い関係です。天地の主権者であられる神様を無視して得た幸せはいつか壊れます。神様との良い関係は幸せの土台です。 C)第1ペテロ3:10−11 悪を避け、善に親しむ平和 悪いことをして喜びを感じてそれが平和のように思うことがあっても、それは一時的なもので、それは「死」を前にすると、その全部が空しくなるということを、神を恐れる者たちは知っています。 自分の思い通りになる平和でなく、「善」という霊的価値を含む平和が、神の目に恒久的平和と見られるのです。 悪から遠ざかり、善に親しんで歩む平和な日々こそが、幸せな人生であることを覚えて求めていきましょう。 聖めを追求することは、健康、美、幸せを追求することです。それらは皆が日常的に求めているものですが、悪を行っては健康も美も幸せもありません。主を恐れる者にこそ、それらはすべて「きよめ」につながると言えるのではないでしょうか。 【デボーションポイント】 みこころにそった「求健美幸」であるように、チェックする。 「求健美幸」(きゅうけんびこう) 健康と美しさと幸いを求めること。(造語) 神の前に健康と美と幸いを求めていきましょう。 【俳句】 青田見る 農夫の願い 健美幸 青々と繁った田を見る農夫は、これが秋まで健康に育ち、美しい実を結んで、幸せな刈り取りとなって欲しいと願います。
■2020年6月21日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師) 通常の礼拝に備える・聖霊を受けることは約束 up 2020.6.21
【辻和希伝道師メッセージ】 「通常の礼拝に備える」 (ローマ12:11) 毎週の礼拝を守る姿勢とは、勤勉であると言えるでしょう。しかも怠らないということは、今も続けているということです。コロナ渦以前は、教会で礼拝が当たり前でしたが、その当たり前の状況を中断させられてしまいました。闇の力は、この機をチャンスと狙って、私たちに怠け心を植え付けていないか、セルフチェックすることが必要です。箴言には知恵者中の知恵者おして蟻が登場します。一般的にも「アリとキリギリス」から、勤勉な生き物として知られています。蟻は夏の間に食料を蓄えることが知恵者とされ、そこから勤勉さを見ることができるように、私たちも世界がどのような状況にあっても、神様を礼拝することに対しては、怠け心というスキを与えてはいけないのです。闇の力は私たちが神様を礼拝することをあらゆる手段で妨害してきますから、今一度備えないといけません。 教会での礼拝が復活すれば、私たちは二つのことを思い出すでしょう。一つは、霊に燃えることです。礼拝堂に満ちる聖霊様の臨在に触れたとき、私たちの霊は燃えますし、また兄弟姉妹との交わりを通しても、励ましや徳が高められ霊に燃えるのです。そしてもう一つは、主に仕えることの喜びです。主への仕え方は人それぞれですが、教会における主への仕え方は礼拝奉仕に限らずあらゆる場面にあります。会食、そうじ、送迎、あいさつ、必要への手助け、新来者を歓迎するなど、自然的なことから、集会や祈祷会に参加することも、主に仕える一つの姿勢なのです。 教会での礼拝は、私たちクリスチャンの成長には欠かせない成長の要素がたくさんあります。ローマ12:11を備えのみことばとして、来週も礼拝を楽しみにしてまいりましょう。
【横路伝道師メッセージ】 今日は聖霊様について考えてみました。聖霊を受けるということはクリスチャンにとって、とても大切なことです。 1.聖霊を受けることは約束 1)求める者に必ず聖霊を下さる約束 (ル力11:13) 「・・・とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 2)すべての人に注がれる約束 (ヨエル2:28) 「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」 3)イエス様が父なる神に願われた約束 (ヨハネ14:16a) 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」 2.聖霊を受けるよう主が命じられた (ヨハネ20:22) 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」 〜そして、ペンテコステの日に成就した〜 聖霊様を求めて生きることが私たちには必要です。 3.聖霊はどんなお方か (人格−神格を持っておられる助け主) 聖霊は、何か霊的な影響力というものではなく、人格を持っておられる神様です。 1)力と愛と慎みの霊 〜力の賜物、愛と慎みの実〜 (第2テモテ1:7) 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」 *(第2コリント10:4)要塞をも破るほどに力ある 2)教え、導いてくださるお方 (ヨハネ14:26) 「・・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 (ヨハネ16:13) 「・・・真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」 3)いつまでもともに私たちの内に住まれるお方 (ヨハネ14:16b) 「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」 4)私たちの内に住まれるお方 (ヨハネ14:17b) 「・・・この方はあなた方とともに住み、あなたがたの内におられるからです。」 5)私たちのためにとりなし祈ってくだきるお方 (ローマ8:26) 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 助け主であり、いつまでも共にいてくださる聖霊様は、私たちが痛み苦しみ、祈れないほど辛い時に、聖霊様が私たちの代わりに祈ってくださり、深いうめきによってとりなしてくださるのです。そのような聖霊様が私たちの内におられるということは、なんと幸いなことでしょうか。 ◎エペソ6:18a 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」 4.聖霊に対する私たちの態度 1)聖霊を消す (第1テサロニケ5:19) 「御霊を消してはなりません。」 消すということは、存在を無視することです。聖霊様が、みことばを通して御声をかけておられるのに、無視していることはないでしょうか。例えば、「みことばに従いなさい」「赦しなさい」「愛を示しなさい」「今証ししなさい」等、聖霊が今するようにと示された時に、応答しなかったり従わなかったり、恐れて自分の考えを優先し、その導きを無いものにし、もみ消すことがないでしょうか。それが、聖霊様を消していることになってしまいます。しかし、聖霊様は無理やりさせようとはされないで、無視されてもじっと忍耐して待っておられるお方です。 2)聖霊を悲しませる (エペソ4:29〜32) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 聖霊様を無視し続けると、私たちの内に住んでおられる聖霊様は居心地が悪いのではないでしょうか。聖霊様の存在を消し続けるなら、聖霊様は悲しまれます。昔、パリサイ人や祭司長たちは、イエス様の存在をねたんで無視しました。イエス様は悲しまれたと思います。 イスラエルの人たちも、荒野で神様に逆らいました。私たちも、自分の人生の中でどれだけ聖霊様に逆らって、悲しませてきたことでしょうか。聖霊様は、天国に行くための証印です。この方を消したり、逆らったり、無視するなら、悲しまれます。もしそのようなことをしていたら、悔い改めましょう。そうすれば、聖霊様はすぐに帰って来てくださいます。なぜなら、世の終わりまで共にいると約束してくださっているからです。 聖霊様を悲しませないようにしましょう。いつもとりなしてくださる聖霊様を愛し大切にして、いつも共に歩んでまいりましょう。
■2020年6月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 悪から離れる up 2020.6.14
自分を清くするには、まず、悪に近づかないこと。 今年の目標は「聖められることを追い求める」です。今は私たちの内にきよくないものがいろいろあっても、きよめられたいという気持ちを失わないで、一つでもきよくなることをあきらめないで、その姿勢を保ち続ける、これが私たちの神への信仰です。 イエス様は私たちをつくり変えて下さる、そういう信頼と希望を持って、一歩一歩みことばの実現にチャレンジしていくという、これが私たちの地上における人生です。 たとえ現実は程遠くても、私たちの向かうべき方向は「きよめられること」です。その方向を見失わないで一歩でも半歩でも前進するように努めていくという現在進行形の姿勢が、私たちの神への信仰の現われ、神を愛し信頼していることのしるしであると言えます。 私たちは自分できよくなることはできません。きよめは神なる聖霊様がなしてくださることです。神にできないことはありません。この期待をもちつつ、今週もきよめられることを追い求める一週間としたいと思います。 先週は自分をきよくするという動機付けについてお話をいたしました。今週は具体的に「悪から離れる」ということを考えていきたいと思います。主題聖句の(箴言3:7)では、知恵あるものと、主を恐れて悪を離れることとの関連性を見ることができます。 知恵ある者は、創造主なる神を信じ恐れ敬っているので、悪から離れることを心がけます。全ての悪を裁かれ、すべての善に報いてくださる創造主なる神がおられる、そこが賢さの基本です。 どんなに学力が高くても、その人の内に悪を離れる心がなければ、その賢さは神の前には愚か者で、何の役にも立ちません。なぜなら、神の御国に招き入れられることが私たちの創造された目的ですから、地上で身につけた能力や知恵や知識は、御国に入ってこそ役に立つわけです。御国に入れなかったら、その賢さは地上だけのものであり、死んだら終わりの非常にむなしいものになってしまいます。私たちは悪から離れて本当に人格者として賢い知恵あるものとして歩んでいくようにしましょう。 そこで、自分をきよく保つためには、悪を見分けて近づかないことが必要です。そのためには神を恐れ敬う正しい良心をまひさせないことが大事です。良心がまひした中で、単に地獄に行きたくないからというような自分本位な考え方では、神様の喜ばれる姿勢とは言えません。 私たちを愛し私たちを造り生んでくださった神様のお気持ち、お心、愛を考える時、私たちは神様のために、神様の似姿に造られた者としてふさわしい生き方、神様に喜ばれる生き方をしたいという動機が大事だと思います。 そこで今日はまず神様が聖書を通して忠告しておられることを、イエス様のおことばとパウロの手紙を通して、見ていきたいと思います。 1.忠告 (1)イエス様(ルカ12:15) 「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」 どんな貪欲にも注意警戒せよ ともすると私たちは物質的豊かさに満足してしまいやすいものです。イエス様は、どんな貪欲にも気を付けるように注意されました。 自分で返せないような借金をしてまで欲を満たしたいとか、健康を害してでも欲を満たしたいとか、限度を超えて求めてしまう欲望のことを貪欲といいます。どこまでが健全な欲で、どこからが貪欲なのか、その境目を見極められなくては、悪から離れられなくなってしまいます。 この境目を見分けるのは、神を恐れるところから生まれる正しい良心です。私たちはイエス様の血潮によって良心がきよめられて正しい判断が出来るようになります。 ヤコブ書に「怒っても罪を犯してはならない」というみことばがあります。外からの刺激に対して怒りという感情が起きることはあり得ることですが、その怒りにまかせて行動してはいけません。怒っても罪の結果を生み出していない限り、治めることができます。正しい良心の働きによってコントロールされることが必要です。
これに似たことが貪欲についても言えます。「これは貪欲の領域に入りつつあるな」と気付いたら、「ここは控えなくてはいけない」と思うことが大切です。これが「慎み深い」ということなのです。 (2)パウロ(第1テサロニケ5:22) 「悪はどんな悪でも避けなさい」 どんな悪でも避けなさい 悪だと気付かなければ避けることはできません。どんな悪でも受け入れたくないという気持ちが湧くような、きよめられた良心が私たちには必要です。 忠告しても聞かない人は、それが悪いという認識が弱いので、同じ失敗をしてしまいます。良心が鈍く、道徳性が低い、というような道徳的な力量は、一般的には神仏を畏れる心から生まれて来る良心の基準によります。 私たちも本当に神様を敬っているならば、神様の嫌う罪に対しては、私たちも同じように嫌うということが必要で、「だから罪に近づきたくない」という気持ちを持つことが大事です。 罪に対して皆さんはどんな感情をいだくでしょうか。世の中と同じように、「これくらいいいだろう」と思うことは、私たちを花嫁のように見ておられる神様に対し、ちょっと汚れた花嫁衣裳を着るようなものです。花嫁のように純粋な純真な心を準備して神様の前に出たいという、神を愛する心をもって悪を遠ざける心構え持ちたいものです。 2.罪を清める (1)第1ヨハネ1:7 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」 イエスの血に清める力がある もし私たちが罪を犯してしまったとき、その汚れを取り除くものは御子イエスの血であると語られています。それは、イエス様が私たちの罪をその身に負い、私たちの身代わりになって、さばきを受けてくださったからです。 さばきは終わったので、私たちを罪人として拘束する理由はありません。あらゆる罪の束縛から私たちを赦し解き放つための代価は、流されたイエス様の血潮によって支払い済みなのです。 サタンが私たちを「罪あり」と告発しても、イエス様は「この者の罪のさばきは私が代わりに十字架ですでに終えています」と確かな証拠をもって証言してくださいます。 イエス様はすでに私たちの罪の代価を支払っておられるのですから、他の誰も、あなた自身であっても、あなたを責めることはできません。私たちは、「同じ罪を繰り返し犯して、赦してくださった方に対して申し訳ない」という謙虚な気持ちからの自責の念を覚えることはあるでしょう。しかし、「神様に代金を支払っていただくなんて、とんでもございません。私は自分で自分の支払いを致します」というような気持ちは、間違いです。自分の罪の支払いが出来るような代価を私たちは持っていません。いのちをもって(死をもって)償うしかない、これが聖書の神様の教えです。私たちは素直にイエス様による赦しの恵みを、感謝を持っていただいていきましょう。 (2)第1ヨハネ1:9 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」 罪の告白で、清めてくださる キリストの血潮の力は、罪を認めて赦していただこうという人のための代価です。自分に罪はないと思う人は、赦して欲しいとも思いません。 私たちがするべきことは、罪を認めて告白し心へりくだらせること、そして神のなさることは、その告白と願いを聞いてその罪をきよめることです。この二つがあって、きよい状態への回復がおこなわれるのです。 これが心を伴わない機械的な手続きのようになってしまうことがあります。神様は、私たちが本当に罪を悲しんでいるのか、口先の告白だけで本当は罪を犯し続けたいのか、その心を見られるお方であることを覚えておきましょう。 罪の件に関しては、その人と神様との一対一の関係の中で取り扱われるべきことです。第三者がとやかく言えることではありません。神様しか、その人に罪の忠告や赦しや助けの出来る方はおられません。他人の罪に関わることのないように気をつけましょう。 【デボーションポイント】 第1コリント6章を読んで、「悪木盗泉」の生活をめざしましょう。 (あくぼくとうせん)の意味 どんなに苦しくても道(真理・道理・道徳)に背くようなことはしない、してはならないという教え。 中国の孔子が旅を続けるなかで、ある泉のそばを通りかかりました。のどが渇いていたのですが、泉の名前が「盗泉」であったので、「この名は悪い」といって水を飲まなかったという話です。 孔子は、泉に名付けられた「盗」という一文字にも敏感に反応しました。「これくらい、いいだろう」と安易に流れやすいこころを私たちは持っています。きよめられていくことを追い求めるならば、どんな小さな罪も敏感に感じ取っていく心が必要です。 「これはよくない」と、少しでも気付いたならばやめておくという「悪木盗泉」の姿勢で、善悪に対して敏感に感じ取っていくことを、第1コリント6章を読んで考えてみていただきたいと思います。そこには色々なヒントとなる動機や、それを行うに当たっての強い動機を起こさせてくださるみことばが書かれていますので、読んでみてください。 【俳句】 白バラを じっと見つめて 何思う 真っ赤なバラは、神様の情熱的な愛を表して美しいと思いますが、純白のバラを見つめていると、イエス様のきよらかな愛のすばらしさが思い浮かびます。皆さんは何を思われますか。
■2020年6月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) キリストのゆえに自分を清くする up 2020.6.7
キリストに対する望みという強い動機を持っているなら可能なことです 今年のモットーのみことばは「聖められることを追い求める」(へブル12:14)でした。 「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」 「追い求めよ、あきらめるな、続けて向かって進め。」このような神様の意思表示が、このみことばから感じられます。 私たちはまだ罪人としての性質が宿っているので、このみことばは大変ストレスの多い目標であるかもしれません。出来ていないからダメだと自分を裁いたり、ちょっとしたことですぐあきらめてしまいやすいものです。 聖められることを実現することが今年の目標なのではなく、追い求め続ける姿勢を保つことが目標です。再臨の日まであきらめないことです。「こんな自分だけれど、今からでも追い求めていこう」と、気持を肯定的に変えていただきたいのです。 そのための裏付けが、神のみことばの約束の中にあります。その中で今日は『キリストのゆえに自分を清くする』というテーマで、主題聖句(第1ヨハネ3:3)を考えてみたいと思います。 1.清い生活の動機となる望み(第1ヨハネ3:2) 「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが表れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」 キリストに似るという望み キリストに似たものになるという望みとはどういうものでしょうか。自分の今の姿や生活がいやになる、この世に生きる事も、この世で死ぬことも空しく、地上に希望を持つことのできない人々、心が根っこから変わることはできないと失望している人々、そういう人々がキリストを信じて救われ、一から生まれ変わって、新しい自分を生きることが出来る、そしてその新しい自分は造り主のかたちに造り変えられていくという、そこに望みがあるのです。 私たちは自己達成の人生を歩んでいるのではなく、神の御姿に似せて造られた者として、神の姿に到達することを本分としています。キリストは見えない神のかたちとしてこの地上に来られて、私たちの到達するべきその姿を、この歴史の中に現わしてくださいました。 あのようになれる、あれが神様が私たちを造られた存在の目的であり価値なのだと、イエス・キリストの歴史的存在と贖いの御業を通して、聖霊様に悟らされて目が開かれて、キリストに似るという望みを内側にいただいて生きていくのです。 「こんな自分で一生をこの地上で終わりたくない。キリストが再臨されるまでに少しでも変えられたい。少しでも罪に打ち勝つ者でありたい。少しでも清い自分でありたい。」この望みの動機が、この清い生活の一番大事な部分なのです。 清くない罪の生活はいやだという気持ちを強く持って、約束してくださった神様の清めのおことばを信じて、あきらめずに自分を清くするという生き方に歩んで行っていただきたい、これが今日の勧めの中心です。 ★この望みには信仰がともなっている。(へブル11:1) 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 どんなに願っていても、そうなるという信仰がなければ、単に憧れ、夢見るだけで、そこに向かっての一歩一歩を具体的に進めることはできません。(へブル11:1)には、手に入れていないものを、手にいれることができると確信するのが信仰であると語られています。 キリストに似るものになるという信仰を伴った望みを持つと、人は清い生活へと工夫し、困難も乗り越えて、苦労するたびにチャレンジする気持ちが湧いてきます。少しでも近づくように努力することが、信仰を持って歩むということなのです。この世界では完成しません。完成はキリストの再臨の時です。その時まで信仰を保ち続け、努力して歩み続けるのが清い生活です。 そのための動機はキリストに似た姿になりたいという望みです。神が約束してくださったのだから成るに違いないと信じて、主が来られるまでの日々、家庭や職場で仕事しながらストレスを感じながら、そのストレスを、キリストの再臨に向かって歩む望みの力と変えていって頂きたいと思います。 ★その信仰は神への愛による なぜ、神様の約束をそこまで信じることが出来るのでしょうか。それは約束してくださった方への愛と信頼があるからです。いつまでも残るのは、信仰、希望、愛、その中で最も優れているのは愛であると聖書に語られています。神への愛、キリストへの愛が動機となって、神の約束に対する信仰、確信がもたらされて、その確信が生きる望みとなるのです。 どんなに悩んでも、どんなに苦しくても、そこで倒れて駄目になってしまわないのは、まことの神、主が私たちを愛してくださっておられるという十字架の贖いの御業の歴史的事実があるからです。私たちは永遠に、ただ一つのその根拠を持って、主を愛し信じて行けるのです。 2.望みを抱く清い生活(テトス2:12−13) 「私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり、私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」 ★不敬虔とこの世の欲を捨てる ★慎み深く正しく敬虔な生活 ★主にお出会いするための準備 パウロはテモテに当てた手紙に、清い生活のための三つの勧めを書いています。まず、不敬虔とこの世の欲を捨てなさいとあります。神への欲は捨ててはいけません。神に関する霊的な良い欲求、正しい良い欲求は捨ててはいけません。 この世は不敬虔と欲とに満ちています。私たちは無意識の内に影響されてしまいます。だからといって、世捨て人のように、この世の欲を全部捨て切るようにとパウロは勧めているのではありません。慎み深くありなさいと語っています。限度を超えないように、自分の身分、力、生活の状況に適さないような欲望を求め過ぎるのでなく、この世の欲も正しく用い、謙虚に敬虔に神を恐れる心を持って限度をわきまえて暮らすことを勧めています。 またパウロは、清い生活は主にお出会いするための準備として必要であると語っています。(ピリピ3:13−15)において、クリスチャンの成人者は、キリストの再臨を目標(ゴール)として歩むべきというお話をいたしました。そこに望みを置いて清い生活をするのです。 不敬虔な人の多い社会ですから、私たちは不敬虔な人々とも接しなくてはいけませんが、そこは慎み深く正しく、不敬虔な人々に対応する知恵を、聖霊様によって教えられていただきたいと思います。 聖霊様の9つの賜物の中に知識と知恵の賜物があります。また、ヤコブ書の中に、知恵のない者は惜しみなく与えてくださる神に求めなさいとあります。知恵がないと思われる方はぜひ神様に祈り求めていただきたいと思います。 【デボーションポイント】 どのようにすれば『和敬静寂』になれるのかをチャレンジしましょう。 『和敬静寂』(わけいせいじゃく) 穏やかで、慎み深く、静かで落ち着いていること。 和敬静寂を保てないような状況になったとき、それでも穏やかで慎み深く静かに落ち着いた心を外に表すことができるでしょうか。これはセルフコントロールの訓練です。最初から成功出来る人はいません。感情の浮き沈みの激しい人ほど大変です。 しかし、そんな罪の性質、罪の力に打ち勝つことができるのは、ただ一つ、内なる聖霊様だけです。和敬静寂のチャレンジは、いかに聖霊様を意識し、聖霊様に満たされるかということです。その時、異言の賜物が大変役に立ちます。異言はその人の徳を高めます。穏やかで、慎み深く、静かで落ち着くという状況へ、異言の賜物が私たちの霊と心をコントロールしてくださいます。ぜひ皆さんもチャレンジしてみてください。 【俳句】 ゴキブリを 嫌悪するほど 罪嫌う ゴキブリには誰もが嫌悪感を感じてしまいます。それは私たちが罪に対して抱く嫌悪感に似ています。ゴキブリを見つけたら飛んで逃げたくなります。触りたくない、居てほしくない、離れたい、私たちは罪に対してもそのように思って、清い生活を目指していただきたいと思います。キリストに対する望みという強い動機を持っているなら可能なことです。
■2020年5月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 聖霊は必要ですか? それとも・・・ up 2020.5.31
「必要」であることはわかっている。しかし、「なくてはならない」と悟っているだろうか! 私たちは、悔い改めて神様と共に生きる人生を決心し、そのしるしとして水のバプテスマを受けますが、神様は、その喜びのお祝いとして私たちに、聖霊様を送ってくださいます。それが「賜物としての聖霊」の意味であることを、先々週お話し致しました。 また、聖霊が与えられることは、神の国を相続できる身分証明バッジを身につけるようなものであり、そのバッジには6つの特典が付与されていることなどを、先週お話いたしました。 今日のペンテコステ記念礼拝では、そのようにして与えられた聖霊様が私たちにとってどれほど重要であるのかについてお話したいと思います。 主題聖句(ルカ10:42)では、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」と、イエス様はおっしゃっておられます。私たちは聖霊様を「なくてはならない唯一つのもの」として受け止めているでしょうか。人の力や、この世の他のもので代用できると考えてはいないでしょうか。 イエス様が突然来られても、今日の午後来られても、私たちは内におられる聖霊様と共にイエス様をお迎えしなくてはなりません。聖霊なくしてイエス様をお迎えすることはできないのです。 今日は聖霊様の必要性と共に、重要性について皆さんにお伝えしたいと思います。
1.なくてならない「命」 A)マルコ8:36 「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」 それは空虚、むだになること この肉体の命でさえも、失えば得たもの全てが無駄になってしまいます。肉体のいのちでさえそのように重要であるのなら、まして永遠のいのちを失えばなおさらのこと、それまでやってきた地上でのすべての生活が無意味になってしまいます。永遠のいのちを与える聖霊様を持たないということは、キリストの再臨の時、すべての人生が無駄になるということなのです。 B)ヨハネ6:63 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」 まことのいのちは、聖霊によってもたらされる 御霊を持っていなければ、神の目にはいのちがないのと同じことです。まことのいのち(こころ、魂のいのち)を生かすのは神の霊、神のことばであると聖書は教えています。
2.なくてならない「息」 A)ヨハネ20:22 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」 アダムが神から息を吹きかけられ生きた魂となったように。 よみがえられたイエス様は、弟子たちにするべきことをお話される前に、まず息を吹きかけられて「聖霊を受けよ」とおっしゃいました。それは丁度、土のチリで造られたアダムが、神様に息を吹きかけられて生きた魂となったのと同じです。 私たちも新しいいのちを頂いたけれど、聖霊の息を持っていなかったら、それ以上生きることができない状態に等しく、「聖霊を受けよ」と神様に息を吹き込まれて初めて、生きて使命を遂げることもできるようになるのです。 B)エゼキエル37:9−10 「そのとき、主は仰せられた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。 」 枯れた骨が、息が吹きかけられて生き返った。 息は命の最初の行動です。命あるものは息をします。枯れた骨さえ息が入ると復活するという場面が描かれています。 もし霊的に心が枯れているようであっても、聖霊があなたに吹き込まれるなら、こころは生き返ります。 当たり前のようにクリスチャン生活をしているようでも、聖霊様が息のように私たちの内で働いてくださっておられるのです。 聖霊様の息の重要性を意識できないと、聖書の語る意味も理解できず、救いも赦しも悟れなくなり、メッセージもわからなくなります。命はあるけれど、息ができない仮死状態、聖霊の息を感じない、そのようなクリスチャン生活とならないように気を付けたいと思います。
3.なくてならない「水」 A)ヨハネ7:37−39 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。 」 魂の渇きを潤されるのは、聖霊である ジュース、炭酸飲料、飲み物にもいろいろありますが、体に本当に必要なのは自然水です。同様に、聖霊以外にも私たちを楽しませるものはたくさんありますが、本当に健全なこころを保つものは、神の愛の御霊であることに早く気付いて頂きたいと思います。 B)ヨハネ4:13−14 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」 いつまでも渇くことのない水は、聖霊である。 この世の楽しみと、聖霊の満たしの違いを早く知ることがクリスチャンには必要です。なくてはならない水(聖霊)以外のもので渇きを満たし続けていると、長い間には信仰を保つのが辛くなったりしますので気を付けましょう。
4.なくてならない「食」 A)マタイ4:4 「イエスは答えて言われた。『[人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる]と書いてある。』 」 人が日常生活を健康的に過ごすためには、みことばを食すことが必要です。 B)詩篇119:93 「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。 」 神の戒めのことばが、私たちを生かして下さる。 「戒め」とは神様のおことばです。神様の戒めは、人が霊、肉ともに健全な生活を歩むためのルールです。それを守れば健康に生きることができます。 C)ヨハネ6:63後半 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」 みことばは聖霊によって与えられる心の食物です。 以上の「命」「息」「水」「食事」は、私たちが普段、必要であることはよく知っていますが、あって当たり前のようにして行なっている営みです。私たちは聖霊様に対してもそのように当然と思っていないでしょうか。 無くなって初めてその重要さに気が付くものですが、私たちのクリスチャン生活の中で、聖霊様の働きが薄らいでいる、弱っている、無くなってしまっている、そうなった時に果たして聖霊様の重要度に気が付いているでしょうか。気付かずに霊的に餓死してしまっているクリスチャンがいるかもしれません。聖霊を賜物として受け止めることは、私たちにとって最も重要なことなのです。それに気づいて頂きたいというのが今日の勧めの中心であります。 イエス様が再び来られる前には色々な災難や問題がおきます。そういう状態が近づいています。どのような災難にあっても魂が平安でいれるのは聖霊様が内におられるからです。御霊のバッジをつけているから必ず魂は御国に入れる、と安心出来ているからです。 聖霊様が内におられることがどんなに大切なことかに目覚めていただきたいと思います。 疲れた時この世の気分転換もいいでしょう。しかし、それ以上に聖霊の水、聖霊による息、聖霊による食物、聖霊によるいのちの輝きを内側にもっと持つように求めていただきたいと願います。 【デボーションポイント】 聖霊を賜物として受け取ることは、実に『無用の用』であることを見出す。 『無用の用』(むようのよう) 一目見た時は役に立たないと思っていたものが、重要な働きをすること。 私たちは聖霊様の重要性に気付かず、どっちでもいいようなもののようにして、クリスチャン生活を過ごしてはいないでしょうか。もし、そうだとしたら、一体他の何で自分を満たしているのでしょうか。そのままで行くと最後はどうなるのでしょうか。 大事なものを当たり前のように頂いている無頓着さに気付いていただきたいと思います。 私たちは御祝儀として、神様から御自身の霊、こころそのものである聖霊様を送られているのです。それを信じて感謝して大事に受け止めて、賛美、異言、預言によって確信しつつ、再臨の時まで聖霊様と共に歩んで行っていただきたいと思います。 【俳句】 美しい だけが青葉の 訳じゃない 美しい青葉は目と心を和ませてくれますが、それだけでなく、私たちにとって重要な酸素を生み出してくれています。 そのように私たちが楽しんでいる色々なことは、聖霊様の陰の働きによって支えられていることに気付いていただきたいと思います。
■2020年5月24日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師) 聖霊による働きと成長・御霊の実を結ぶ up 2020.5.24
【辻和希伝道師メッセージ】 「聖霊による働きと成長」 5月の最後の日曜日はペンテコステ記念礼拝です。父なる神様がイエス様の代わりに助け主として私たちの内側に遣わしてくださったのが聖霊様です。聖書にもはっきりと記述が残っていますし、聖霊による働きは現代にも起こっていると信じている私たちの教会は、年に一度のペンテコステの日を聖霊様を意識する特別な日としています。 何もこの日だけを特別視する必要はなく、日ごろから聖霊様との交わりを持っていればよいことなのですが、あえて意識を向けなければ聖霊様の大切さを二の次にしてしまいがちなのが、現代に生きる私たちクリスチャンの弱点と言えるかもしれません ローマ8:5〜6
【横路伝道師メッセージ】 2.御霊の実を結ぶ (ガラテヤ5:16〜17) 「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」 (ガラテヤ5:22〜23) 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」 「御霊の9つの実」 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制 今日は、この9つの御霊の実の内の、初めの3つの実について話したいと思います。 ◎愛 この愛は肉の愛ではなく、神様の持たれるアガペーの愛であり、隣人を自分自身のように愛する愛の人となることができるのです。 ◎喜び いつも喜んでいる人は、周りの人を元気にします。感謝と喜びの人となることができるのです。 ◎平安 この平安は、完全に神様に信頼した人が得るものです。神様がどんなことも最終的に益と変えてくださるということを信じているので、平安があるのです。 この3つの実は、一生懸命求めて、このようになろうと思ってなれるのではなく、実が実るのです。そこで、ぶどうの木の例えを思い出します。 (ヨハネ15:4〜5) 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 1)「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっている」とは? *キリストのみ言葉に従う、御霊の人となっていること。 (つながって一つとなっていること) 2)「そういう人は多くの実を結びます。」 *自分の力によらない。自然に実が結ばれている。 (つながっているだけでいつの間にか御霊の実を結んでいる) ぶどうの枝は、実を実らそうとして必死にがんばる必要はないということです。ぶどうの木につながっていれば自然と実を結ぶことができるのです。御霊の実もそうです。私たちが神様につながっていれば、いつのまにか実が結ばれているというのです。そのためには、つながり続けること、とどまることが大切です。 3)とどまるため(つながっているため)には? (a)みことばと聖霊に渇き、主を求めること。 とどまっているとは、キリストのみことばに従う人になるということだと思います。主と同じ思いになることです。つながり続けることが大切です。栄養が来たり来なかったりするのでは、なかなか実を結びません。みことばの通りに生きようとすることが大切です。 (b)スイッチを入れること。 (毎日、時間を取り、祈り始めること) 電気は発電所で作られています。そこで、ちゃんと線をつないでスイッチを入れたらつくはずです。しかし、ちゃんとつながっていなければ、電気はつきません。また、ちゃんと電気の契約をしていなければ、電気は来ません。クリスチャンは、「私はイエス・キリストを信じます。」と、契約をしているのです。 大切なことは、とどまり続けること、つながり続けることです。スイッチを入れるということです。それは、毎朝、毎日、毎週神様に近づくことです。ペンテコステを前に、主を求めることから始めていきましょう。 それを妨げるものは何でしょうか。それは、飢え渇きや、主を求めることが弱っているということではないでしょうか。私たちは渇いてるだろうか、求めているだろうかということが、チェックするポイントです。水を飲みたくない馬に無理やり飲ませることはできません。飢え渇いていないのに、無理やり食べさせることはできません。神様は飢え渇きをもって求める者を求めておられます。そのような人はいくらでも吸収するからです。しかし、世の中のもので心が満たされているなら、私たちは飢え渇くことを忘れてしまいます。私たちは、素晴らしい御霊の実を求めて、飢え渇いていきたいと思います。マタイ5章にはあなたがたは世の光であると書いてあります。そして、世の中の人々はその光を見、その良い行いを見て、イエス様を信じることができるようになるのです。私たちは、飢え渇いて求めて、愛の人、喜びの人、平安の人になっていくことができます。そのような人は世の光となっていると言えるのではないでしょうか。 (マタイ5:14〜16) 「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
■2020年5月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 聖霊証印の特典 up 2020.5.17
エクレシアバッジでもある聖霊証印には、身分証明だけでなく、さまざまな特典が付帯している。 聖霊様が私たちに遣わされている一番の目的は「贖いの日のための証印」です。 私たちの霊はもう贖われています。魂も今きよめられ続けています。罪が宿っているこの肉体が最終的に贖われるのが「贖いの日」です。それは御霊のからだをいただく時であり、一瞬の内に主と同じ姿に変えられる再臨の時であると聖書の中にパウロは記しています。 先週は「エクレシアバッジ」ということで、自分が何者であるかという身分証明のしるしとして、聖霊が証印(バッジ)として私たちに与えられているというお話をいたしました。 今日は、証印(バッジ)が与えられたならば、そこにはいろんな「特典」があるということを、6つのみことばを通して紹介いたします。 私たちはこの「特典」を充分生かし切れていないかもしれません。また、身分証明である聖霊証印が与えられてこその特典ですから、特典だけに集中し過ぎたり、また軽んじたりすることがないように気を付けていきたいと思います。 1.専従の弁護士がつく(ヨハネ15:26) 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」 「助け主」というギリシャ語の中には「弁護する者」という意味があります。弁護士は法的な面での弁護をする人です。専従の弁護士は常に私たちの側にいて、法にのっとった知恵や指導、助言、そして慰めや励ましをも与えてくれます。聖霊様は神様の前における私たちの歩み方を弁護してくださる助け主なのです。 2.真理への指導を受ける(ヨハネ16:13) 「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」 私たちは神の国の真理について知らないこと、悟っていないことが多くあります。聖霊様は私たちが真理に入っていけるように、真理が身につくようにと指導してくださいます。 3.御霊の賜物を付与(第1コリント12:11) 「しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」 第1コリント12章に書かれてある9つの賜物は人間の能力の賜物ではなく、御霊が与えてくださる超自然的な力です。「おのおのに」「それぞれの」とありますから、どれか一つの賜物はみんなに与えておられるようです。どの賜物であるかは、「みこころのままに」ですから、私たちの側にその理由や資格があるのではありません。 9つの賜物以外の自然的な賜物、生まれつき与えておられる能力や力、身分、持ち物なども、クリスチャンは神の賜物として考えますが、ここに書かれてある9つの賜物は、神様の働きを証明するための超自然的な賜物のことを言います。 私たちペンテコステ教会では、預言、異言、異言の解き明かしを伝統的に集会の中で現わしています。そしてその中で「癒し」「悪霊の追い出し」などの奇跡が起こることもあります。これは牧師の仕事というのではなく、信徒の内にも分け与えられている聖霊様の証印に付随した賜物なのです。これが欲しいと自分が選ぶものではありませんが、パウロは「賜物を求めなさい」と言っています。特に、「人々と教会の徳を高めるために預言の賜物を求めなさい」と語っています。きよいから奇跡的な力を与えられてその働きが出来るのではありません。神のみこころ次第です。信仰による御霊を受けた者たちに与えられる賜物であるということが出来ます。 4.復活の力を行使できる(ローマ8:11) 「もし、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」 「死ぬべきからだをも生かしてくださる」というところに、復活の力を行使できる特典が与えられていることを知ることができます。病の癒しや死人のよみがえりもその中に含まれているでしょう。また、肉体的な問題だけでなく、否定的になり不信仰になっている私たちの精神的状態、霊的状態に対しても、御霊は私たちに復活の力を与えてくださいます。それによってもう一度立ち上がることが出来るように、死を打ち破るように、死を支配するように、そのような復活の力を与えられているというしるしにもなるのです。 バッジ(聖霊の証印)は私たちの身分証明であって、私たちが何者であるかという、神から与えられたしるしです。私たちに実力があるからではなく、神様が選んで、そのバッジを与えてくださったのです。ですから、私たちはそれを自覚して、どんな状況に落ち込んでも、イエス様が死からよみがえられたように、私たちもそこに復活の力を現わすことが出来るのです。聖霊様が私たちの内におられて、神の子としての身分証明があるから、死の力、闇をイエスの名によって退けることができるのです。 自分を見ないで、与えられている聖霊の証印バッジを信じて、復活の力を宣言していくということが大事なことです。それが、信仰による歩みです。現実は力がなく、神の子としてふさわしくないかもしれません。しかし、「神が与えてくださった聖霊様がともにおられるのなら」というところに信仰をもって、前向きな告白をするのが、私たちの信仰による歩みです。 前向き肯定的な発想と言動が出来る裏付けとなるのが聖霊の証印です。その聖霊の証印の特典の一つとして、異言を語り賛美し、預言を語る、そして癒しや奇跡、霊を見分け、悪霊を追い出すという力が与えられていますので、私たちはもっともっと使っていく必要があります。 最初は何も起きないように見えますが、未来に起きる約束を信じて、現実の見える状態が変えられていくことを信じて待つ、という信仰の試みを受けて、鍛えられて、復活の力を身につけていくことができるのです。 パウロは福音宣教に大きな困難と苦しみを伴いましたが、それは死の状態のところに彼が復活の力を現わして、神は生きておられ、神の言葉が事実であることを人々に証明するためでした。ですから、私たちも神の賜物を現わすという中で、試練や苦しみや困難が多くなるのは、復活の力が現わされるためと言えると思います。 5.親子になる(ガラテヤ4:6) 「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」 私たちは神様を「天のお父さま」と呼んでいます。「アバ」というのは、子が親を呼ぶときの親しい関係の言葉です。小さい子供が「パパ、ママ」と呼ぶあの関係、信頼と甘え、心のつながりのある関係です。愚痴や文句を言うこともあります。御霊が私たちの内に証印としておられる時、私たちは遠慮なく神様に親子のように甘えることができるのです。 実際の父親像が悪いと、天の父、神様に対しても距離を感じてしまうことがあります。しかし天の神様は私たちを全面的に受け入れてくださっておられますから、安心して甘えて近づいていきましょう。 6.騎士の称号を受ける(エペソ6:17) 「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」 (エペソ6:17)は、神の武具について記されてあるところの一節です。神の武具をすべて身につけて戦いに出ることはすばらしいことです。その時に騎士という称号をいただいている自覚は、大きな力となります。その人は、その称号のゆえに勇気を奮い立たせ、誇りを持って戦いに臨み、死を恐れることなく突き進むことができます。 また西欧では力強さや勇士の象徴として剣が与えられます。戦いに出たときは、その力強さのゆえにリーダーとして回りの兵士から尊敬を受け、皆がその指導に従ってきます。聖霊の証印を押されるとは、同時に神の国の騎士としての称号を与えられて、剣を持って闇の力と戦う勇士であることの証明になります。 私たちの戦いの武器は、「御霊の与える剣」、この剣一つです。帯、胸当て、靴、盾、かぶと、と神の武具はいろいろありますが、これらは防御のためのものです。闇に向かって切り込み戦い進むための武器は、御霊が与える剣です。私たちは闇に向かって戦い進んでいく騎士なのです。 皆さんは聖霊の証印を与えられ、身分証明証を与えられただけでなく、戦いのための騎士の称号を受けて、みことばの剣を与えられて勇敢に戦う主の勇士です。みことばを自由に使えるものになるように、生活の中で訓練していっていただきたいと思います。 【デボーションポイント】 聖霊様の特典をとおして、父なる神様の「情緒纏綿」(じょうしょてんめん)を知る。 「情緒纏綿(じょうしょてんめん)」の意味 情感の深いさま。情愛が深く細やかで離れにくいこと。 神様の証印の特典を見ると、「私たちから離れたくない、私たちを手放したくない」という神様の深く細やかな情愛、お気持ちが深く感じられる気がします。私たちも情緒纏綿を現し合う兄弟姉妹となりたいものです。それによって教会も霊的に成長し、キリストの再臨を迎えるにふさわしいものへと変えられていくのではないでしょうか。 【俳句】 薫風に メシヤの恩典 感じ入る 罪深い私たちはキリストを通してどれほど有難い処置、情け深いとりはからいをしていただいたことでしょう。それを忘れてはいけません。 今、山々の新緑の香りが風に運ばれてくる季節です。大自然の恵みを薫風の香りに乗せて味わうことのできる、なんと素晴らしい救いを私たちは与えられていることでしょうか。イエス様の救いの恵みを有難く感じ入るこの頃この季節です。
■2020年5月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 賜物としての聖霊 up 2020.5.10
ポイント 『賜物としての聖霊』 「賜物」(dorea ← doron) 「賜物」(dorea)というギリシャ語は、心付け、祝儀、引き出物、プレゼント、格別なもの、並外れているもの、という意味があります。 「心付け」というのは ぜひしてあげたいという湧き上がる気持ちから、お礼、感謝、お祝いの気持ちを表現するために贈り物をするときに用いる言葉です。「祝儀、引き出物、プレゼント」は、格別なもの、並外れているものという意味が含まれています。この人にはぜひこれを差し上げたいと、その人にふさわしいものを熟慮してプレゼントするという意味合いがあります。 ですから、「賜物としての聖霊」というのは、聖霊様を物扱いしているのではなく、神様が聖霊様(ご自分の霊、心)を格別な並外れた心付け、御祝儀として私たちにプレゼントしてくださった、神様の気持ちが込められている「賜物」という意味なのです。 1.主題聖句 内容観察 A)決別のための悔い改め ペテロが人々に応えて言った「悔い改めなさい」は、今までの不敬虔な、神を求めないわがままで自己中心な人生から決別する強い決心を促す言葉です。神を畏れる心が強く湧いてきて、過去を捨てて、キリストの救いを受け入れて、神と共に生きる人生を選ぶという悔い改めをペテロは勧めています。 気持を180度切り替えなさい。神がまことにおられる、生きておられる。全世界の罪をさばかれる神がおられて最後の審判がやってくる、その前に神は救い主イエス・キリストをお遣わしになって、私たちを約束の神の国へ導いてくださる、だからこの世と調子を合わせないように、その決心決意を強く持ちなさい、そういう「悔い改め」をペテロは私たちに語っております。 B)神に属する者のしるしとしての洗礼 霊の決別の決意を形にして意志表明するのが「洗礼」です。今まではこの世に属していたけれど、これからは神のチームに属するもの(ハギオス)である、その最初のしるしが「洗礼」です。 洗礼は、神様が私たちをご自分のチームの一員として認められる条件でもあり、洗礼を受けることによって自分自身も神に属するものとなる決意を確信することができます。洗礼を受けたという事実は一人一人の人生の歴史に刻まれて、自分が神のチームに属するものであることの自覚を思い起こすことのできる大事な体験となります。 C)神様の御祝儀である聖霊 神様のチームに入ったしるしとして、神様からいただく御祝儀が聖霊様です。聖なるものに属したことへの神様の祝いの志の表明、「おめでとう!私のもとによく帰って来たね。これから一緒に歩みましょう」というお気持ちが含まれているのが、「賜物として聖霊を受けるでしょう」です。これは信じた者すべてに与えられるしるしになると思います。 この三つの内容観察に当てはまるみことばがあります。たとえば、決別のための悔い改めとして(第2コリント5:17)「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というみことばです。 他にも色々ありますので皆さんにも捜していただき、そのみことばを自分や兄弟への励まし、導きとしていただきたいと思います。 2.エクレシアバッジ(エペソ4:30) 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」 A)悲しませる=バッジを外す 国会議員の記章(バッジ)は、国会議員であることの身分証明証ですから、たとえ選挙に当選しても、バッジがないと本会議場に入ることはできません。バッジを外すということは議員としての自覚をなくすことにつながります。 私たちはいつも聖霊によって聖なるものに属しているという自覚を身につけています。それが聖霊を受ける、聖霊を宿す、聖霊と共に歩むということで、聖霊のバッジを外すことは聖霊を悲しませることになります。 B)贖いの日=キリストの再臨 今、私たちの霊は贖われていますが、肉体はまだ罪を宿しています。この肉のからだが贖われるのは、キリストの再臨のときです。その贖いの日のために、私たちは聖霊によって証印を押されている、言うならば議員バッジをつけているわけです。 C)議員バッジに関する義務 国会議員が本会議所に入る際、議員バッジを着用しなければなりません。それは義務なのです。私たちも聖霊と共に歩む、聖霊によって歩むというクリスチャン生活は、議員バッジをつけているようなものです。常にこの闇の世にあって光の子として聖霊と共に歩むという自覚のために、内に宿ってくださっている聖霊様を意識していくことが大切です。 聖霊様はエクレシアバッジです。エクレシアとは、「ある目的のために集められた人々」という意味です。神が一人ひとりを呼び集めてくださってキリストのからだとしての集まりとされたのが教会です。 このように聖霊様は記章バッジ、エクレシアバッジのように、私たちがいつもそれを身につけている、そしてそれを通して自覚するという、そういう中に私たちは置かれているのです。 旧約聖書の例を紹介いたします。 ヨセフは奴隷として売られ、エジプトで仕え、濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられました。当時の牢屋は地下にあり、罪深いほど一番深いところに入れられます。誰とも会えず、一日一回の食事をもって来られるだけという毎日です。そして、ヨセフは夢の解き明かしをして献酌官長を助けたにもかかわらず、忘れ去られてしまい、地下牢で最悪の時期を長く過ごしていました。 そして何年もたったある日、パロの夢を解き明かすことが誰にもできなくて、献酌官長がヨセフを思い出して、やっと地上に出ることができました。 パロの夢を解き明かしたヨセフはパロに次ぐ地位に置かれ、エジプト全土を治めるものとされます。最低の状況から最高の地位につきました。ものすごい落差です。その時パロは、ヨセフを牢屋の中にいたと同じ服装で人々の前に立たせたのではありません。自分の指輪を手から外してそれをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛け、自分の第二の車に彼を乗せて、パロはエジプトを治める者としての「しるし」をヨセフに与えました。この「しるし」があったから、ヨセフが過去どこにいたか、誰であったかなどは全部払拭されたのです。 私たちが聖霊を賜物としていただいているというのはそういうことです。闇の力を制御するしるしとして私たちに聖霊様が与えられています。イエスの名を行使するためにはバッジ(聖霊様)が必要です。いくら御名を唱えても何も起こらないのは、ヨセフが囚人服を着て人々の前に立っているようなものです。 聖霊様が与えられているということは、私たちが聖なるものに属しているというしるしなのです。それを受ける身分も能力もないにもかかわらず、神が聖いものと認めてくださって、御祝儀として聖霊様を与えてくださったのです。 神様にしかできない御祝儀、それは神様の霊そのもの、心そのものを私たちの内に住まわせてくださること、罪人の私たちにとってこれほど最高の御祝儀はないのではありませんか。 いつもエクレシアバッジ、教会バッジ(聖霊)を人々の前で目につくように身につけましょう。目につくしるしは、いつも喜び、絶えず祈り、どんな時も感謝することです。 まずは聖霊による喜びが、バッジをつけて輝いているしるしです。聖霊が私たちの内に与えられていることの大きな喜びを味わっていただきたいと思います。 【デボーションポイント】 賜物としての聖霊は、いかに「君恩海壑」(くんおんかいがく)かを考えましょう。 「君恩海壑」の意味 君主から受けた恩は、海や谷のように深いこと。 十字架の贖いの御業のゆえに、計り知れない神のご恩、恵み、あわれみを私たちは受けています。赦されただけでなく聖霊(神様の愛そのもの)を、賜物として心付けとしてご祝儀として私たちに与えてくださっている、これは何とすばらしいことでしょうか。このことを思い見る一週間であっていただきたいと思います。 【短歌】 母の日に 想いめぐらす 在りし日を すべては神の 贈り物かな 母の存在そのものも神様の賜物でした。聖霊様が私たちに遣わされている、これも賜物、贈り物、すべては神様の私たちへの心の現われなのだと、母から受けた様々な愛を思い出しながら、感謝と喜びと感激を覚える今日です。
■2020年5月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 賢い選択 up 2020.5.3
人生は選択である。主イエスを信じる者は、賢く選択できる (詩篇25:12)では、主を恐れる人には選択のための導きを神がして下さると語られています。主を恐れる者は主のアドバイスに耳を傾けて、そちらを選んでいきます。しかし、神を信じない不敬虔な人は、わかっていても自分の願いを満たすために違う方を選んでいきます。 賢い選択とは主を恐れて選び取っていくことです。なぜなら、主が私たちを造られた創造主だからです。 今日は、「キリストにある幼子」と「信仰の成人者」という二つの立場からの「賢い選択」についてお話をさせていただきます。 1.キリストにある幼子へ(第1コリント3:1) ★幼子=肉に属する者 救われてはいるのだけれど、十分に成長していないクリスチャンのことを、キリストにある幼子(肉に属する人)とパウロは表現しています。幼子が親のこころを理解できないように、彼らはこの世のことは理解できるのだけれど、神様のお考えを深く察することができない霊的に幼いクリスチャンです。 人々の思いや考えを知る、共有するという心の働きの部分は「良心」です。 「良心」というギリシャ語は、もともとは「共に知る」という意味があります。「他の人と共に知る」「神と共に知る」「自己と共に知る」という三つの部分があることを以前お話しいたしました。 「良心」という言葉は当時あまり使われていなかったのですが、キリスト教のパウロが用い始めました。「良心」は、心の深い内面的な思いであり、「神と共に知る」ということに用いて、神が持っておられる知識を自分も共有して善と悪を判断していく、だから良心が神のみこころを知らなければ、善悪を正しく判断して選択していくことはできないというわけです。 今「キリストにある幼子」と言われる人々に、パウロの言葉を通して強くお勧め致します。信仰の成長、きよめの段階は、すべて良心に関わることです。 信仰の成長が思わしくないのは、良心のきよめがとどまっていると考えていただきたいと思います。
★「良心」が選択する 良心が、死んだ行い(悪)から離れ、生ける神に仕える(善を行なう)方を選ぶのは、キリストの血潮(神の愛)によってきよめられた結果起きる心の変化、すなわち新生体験によります。 新しく生まれ変わると、私たちの良心はきよめられ、悪から離れ善に親しみ、神を畏れるという基準を内側に持ち、神のみことばを全て信じ受け入れて歩みます。 良心はキリストの血潮(神の愛)によって、きよめられます。人間の愛でも、人の良心をある程度きよめます。愛にふれると、歪んだ悪い心の人が改心することもあります。そのように、良心は自分の力で変えることはできず、苦しみや愛によって変わっていくのです。 神様は愛によって私たちの良心を変えてくださるお方です。「ここに愛があります」と十字架を指してヨハネは言いました。 十字架を通して神の愛が個人的に私たちにどのように注がれ、どのような思いで神はキリストをこの世に遣わしてくださり、私たちの身代わりに十字架とゲヘナで苦しみを味わわせられたのか、その大きな犠牲を通して、神様の愛を私たちはしっかり深く思い見て、感じ取っていくことが必要です。 一日や二日、一年や十年で悟りきれるものではありません。永遠をかけて知り続けるほどに神の愛の大きさ深さはあるのです。キリストが来られるまで私たちは神の愛を知り続けていきたいと思います。 2.良心のきよめが出発点(箴言1:7) ★知識の初め 気づく、知っていくことの最初は主を畏れる事 神と共に知るという良心を自覚 次へ進むための主要なもの 何よりもまず初めに「主を畏れる」ことを知らなくてはなりません。その上に、神についての色々な気付きや知識が積み重ねられていくのですが、主を畏れる心が土台にあれば、その動機から情報やものごとが判断できます。神と共に知るという良心の働きです。 主を畏れることなしに知識や情報を得るとき、自分勝手な欲するままの判断をしたり、罪意識で歪んで判断したりします。 キリストにある幼子、自分の信仰がなかなか成長しないと思う人、人と比べて自分が役に立っていないクリスチャンだと自己卑下する人、そういう人の問題点は、主を畏れるという良心のきよめが不十分であることです。だから、幼子のように肉に属する考え方がクリスチャンになってからも無意識に働いてしまうのです。 聖霊様とみことばによって自分の心をよく吟味して、知識によって理解するのではなく、神様の愛によって理解するように自己訓練していただきたいと思います。 3.信仰の成人者(ピリピ3:10−15) 「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」 ★パウロが目指していること キリストの復活に達すること パウロは何をどのように目指したのでしょうか。 パウロの宣教活動には様々の戦いがありました。災難、自然災害、人間関係の葛藤、それはまさに死の状態でした。そこからパウロはいつもキリストを信じ聖霊様によって立ち上がって、宣教活動を推し進めていきました。 なぜパウロは苦しみに負けてしまわなかったのでしょうか。それは復活を目指していたからです。聖霊様により頼み、聖霊様に期待して、信仰によって一歩一歩前に、復活から復活へと、この罪の世界の中で一心に復活を目指して歩んでいたのです。 私たちはパウロのようには出来ないかもしれません。しかし、悩みの中にあって神様は私たちを練りきよめておられます。きよめられるということは復活です。キリストの完全なきよい姿に復活するまで、悩みの炉で私たちは練られるのです。 苦しくても復活の望みを失わないでください。神様は永遠の御国のご計画の中に私たちを導くために、純金純銀のように私たちをきよめてくださっているのです。きよめられた未来が待っているのです。この希望のゆえに私たちはどんなことがあっても信仰と希望と愛をしっかり握って生涯を完走していくのです。 ★信仰の成人者への教え 復活という神の栄冠を目標として一心に走ること 信仰の成人者である私たちの目標は、地上でのビジョン達成ではありません。私たちの目標は、キリストと同じ復活の姿に変えられるという信仰をもった希望です。 私たちが完全に復活に到達するのは、肉体がキリストと同じ姿に変えられる時です。それまではこの罪の支配の中にある肉体の中で魂がうめき苦しむのです。これが悩みの炉であり、良心がきよめられる大事なプロセスであることを先週お話いたしました。 復活を信じて、前を見て、やり直すのが私たちの信仰であり、私たちのクリスチャン生活です。そこに希望があるという、輝かしい希望と喜びに満ちた日々を人々の前に輝かす、それが「世の光」です。 死で終わると信じるこの世の人々の失望の中で、私たちが「世の光」として輝けるのは、永遠があるからです。復活の希望があるからです。「死んだら終わり」ではないからです。 皆さんは復活に対する信仰の戦いをしています。復活に対する希望を崩そうとするこの世の様々な出来事や人々との関係において、皆さんには落胆や失望があるでしょう。肉体は年とともに弱っていくし、そのような死の状態が迫る中で、なお復活の希望を持つということ、それは「不可能に対する信仰」です。これがゴールです。キリストの再臨の時に報われるのです。 イエス様は私たちの贖いのために十字架で死なれ、そして初穂としてよみがえられました。その姿を見ることができたのは、信仰の希望を持っているクリスチャンだけでした。 あなたが復活の希望を持つなら、キリストを見ることが出来ます。現実の御体を持たれた主は再臨の時にしか見えませんが、臨在の主を見ることはできます。 あなたがどんな絶望失望の中でも復活の希望を持ち続けるなら、そこに主が臨在されたときに、聖霊の喜びに満たされるのです。 復活を信じて希望を持つことは、クリスチャンとしてこの罪の世界の中での人生を全うするために、どれだけ大事な支えとなることか、信仰の成人者の皆さんに、悟っていただきたいと思います。 【デボーションポイント】 良心のきよめが、知識の始めと、どう関係しているか? また目標を目指すことが、どうして成人者の考え方なのかを考えてみましょう。 目標を持つと、そのために自由が制限されます。自ら自由を制限してでも目標を持つことができるのは成人者です。 今からが 八十八夜の わが人生 冬から目覚めた春が、活き活きと活動する夏に変わる、その節目を八十八夜と言います。 私たちの人生も、今この時この瞬間が八十八夜の節目となって、更に活発な復活のクリスチャン生活の始まりとなるように、と詠ってみました。 皆さんも、毎日が八十八夜のように復活の信仰を働かせた日々として、世の人々の中で輝いていただきたいと思います。 |