■2020年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 汚れたもので蒔かれ聖いものでよみがえる up 2020.4.26
ポイント 『汚れたもので蒔かれ、聖いものによみがえる』 (完全復活へのプロセスを経験する) 日本赤十字社が「三つの感染に対する忠告」をネットで紹介しています。 第一の感染は今回のコロナウイルスによる肉体の感染。 それによってもたらされる第二の感染は、不安や恐れが広がっていく精神的感染。 第三の感染は自己防衛のために人々を自分から遠ざけようとする嫌悪感、偏見、差別という社会的感染です。 すでに不安からくる隣人への差別的扱いが現実に医療従事者たちや自宅待機者の上に起こっています。心痛いことです。 未知の病への不安、いのちの不安、経済的不安、生活不安、将来への不安、様々ありますが、このような不安や恐れがなぜやって来るのでしょうか。それは人々が人生は死で終わるものと信じているからです。 クリスチャンがどんなに逆境の中にあっても、不安や恐れで失望してしまわないのは、死で終わらない人生を歩んでいるからです。 たとえ私たちは感染によって召されたとしても、死は永遠の未来における出発であるという希望を、イエス・キリストの復活を通して信じているので、不安から解放されるのです。 私たちがそういう望みある生き方をすることが、今この世で感染による不安をもっている人々への証しとなるのではないでしょうか。 今日のポイントは『汚れたもので蒔かれ、聖いものによみがえる』(完全復活へのプロセスを経験する)です。 私たちは死んで終わるために生まれたのではありません。死んで復活するというプロセス、きよめられていく、栄光から栄光へと変えられていく、このプロセスを経験するためにこの地上での人生が与えられており、そして肉体の死を通して永遠の未来への新しいからだを頂いた人生に入っていくという、これが今日のポイントです。 1.主題聖句の内容観察 ★朽ちるもの=汚れたもの=未完成、未熟、罪人 ★朽ちないもの=聖いもの=完成、成熟、義人 ★キリストと同じ聖さに到達するためには、死からの復活という経験を通ることが不可欠である 「朽ちる」とは、死の支配によって壊れ滅んでいく汚れた状態です。永遠に存続することはできません。朽ちるもの(汚れたもの)とは、未完成なもので未熟な状態で、罪人の状態です。罪人は、すべてを完全に行うことが出来ず、失敗して道から外れて、自分勝手なゴールに向かってしまいます。それは朽ちていく汚れた歩みです。 反対に「朽ちないもの」とは、きよいもの、完成しており成熟していて、義人であると言えます。 人は神のかたちに似せて造られたので、人の完成は神のかたちの完成であり、きよい聖なるお方と同じきよさを持つということが、人間の目指すべきゴールと言えます。 なぜ、はじめから「朽ちないもの」で蒔かれなかったのでしょうか。それは「朽ちるもの」から「朽ちないもの」に移る、変化する、成長する、進んでいく、そういう体験、プロセスを神様は重要なことと見ておられるからです。 死という苦しみを通して復活を体験していくということが、私たちのこの世での目的なのです。 それはどういう生き方でしょうか。イエス・キリストを通して、永遠の未来に対する復活の人生が約束され、私たちはそれを信じているので、地上での数十年の苦しい人生は永遠から考えると一時的なものだと耐え忍んで、主の再臨を、神の前に召されることを待ち望むことです。 苦しみの多い人生は感謝です。苦しみから救われる、癒される、という復活の体験が、神を知るということにつながっていくからです。 「神を知ることが永遠のいのちである」とヨハネ伝に記録されている通りです。 この地上の人生なくして私たちの完成はありえません。死から復活へと私たちを通らせるために、まだこの地上を滅ぼさず残しておられると考えることができると思います。 2.復活のプロセス(ヨハネ5:24) 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」 A)「移っている」とは、完全復活へのプロセスの中にあり、きよめの完成への途上にあること。 私たちは、救われるためにきよめられるのではなく、救われてからきよめられていきます。 カープ入団と選手の話を覚えておられますか。実力はともかく入団すれば皆カープの選手です。入団して後、練習して成長して1軍になるのを目指して練習します。 私たちも、イエス・キリストを救い主として信じ、神の愛を信じた瞬間、死からいのちへ移されました。キリストによって救われたチームの一員となりました。私たちは不完全であっても一部復活しているのです。今は完全復活(キリストのきよさ)を目指してクリスチャン人生を進めている途上にあります。これが「移っているのです」という意味なのです。 B)「移っている」条件 (1)キリストのことばを聞き続ける事 私たちは神の言葉を聞き続けなくてはなりません。聖い領域の中に「ハギオス(神に属するもの)」として留まり、「ハギオス」としてきよめを押し進めていくためです。 (2)キリストを通して父なる神を信じ続ける事 私たちはどんな時でもキリストを通して神を信じ続けることが必要です。私たちが神を信じることのできるゆるしと恵みを、救い主キリストが与えて下さっておられるから、キリストを通して私たちは神を信じることができています。ことあるごとに、祈り感謝して父なる神への信仰を表明しつづけることができます。 週に一度みことばを聞く機会が与えられ、また自分の聖書個所を含めてみことばをデボーションし、霊の糧として受け止めていく、そうして神への信仰が鍛えられ、希望が増し加わっていくのです。 3.毎日が復活(第2コリント4:16) 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」 私たちは肉体の死の中にあって、神は私たちを神の子として毎日新しい人に生きることを日々与えてくださっておられます。 天地創造の時、神様は一日一日新しい御業を終えられて六日間の御業を進めて来られました。私たちも毎日毎日、過ぎた一日一日は過ぎ去った死の日々として受け止め、新しい日を迎える時には、キリストと共に新しくよみがえった自分の新しい日として受け止めるという、信仰の理想を実践している途上です。これが私たちにとって大事な経験なのです。 A)「外なる人」とは 罪が宿っている肉体。肉体の衰えは死に支配されている証拠。 神様は肉体が死と滅びから解放されることを望んでおられません。土に帰るものとして認証されています。ですから、肉体を鍛えて永遠に生きながらえようとすることは神のみこころに反することです。 死の状態の中に私たちの魂は置かれているのです。だから毎日復活を体験することが出来るのです。この日々のクリスチャン生活が私たちにとってきよめを増し加えていくものとなるのです。 B)「内なる人」とは 新生の霊による正しい良心。死の支配にある肉体との摩擦を通して、良心がますますきよめられていく 最初にキリストの血潮(神の愛)によってきよめられた良心は、神の存在を認め主を畏れます。そしてそこから、キリストのようなきよい姿にますます変えられていきます。この栄光から栄光へというプロセスを経験しなくてはキリストのきよさには到達できないのです。この道のりが、色々な体験が、きよめのために、神の国を相続する神の子として必要なのです。 どんなに苦しくとも、きよめが増し加わるという希望を持って、その辛さ苦しみを忍耐をもって信仰を働かせて過ごして頂きたいと思います。あなたの良心が、それでもキリストを信じ続けていく、あのヨブのようにそれでも神を信頼し続けるというその忍耐が、更に彼をきよめた証しとして、試みの前の2倍の祝福を彼は受けたと最後に記されています。 このように、私たちは朽ちるものでまかれる(死という状態に置かれる)必要があったのです。死の状態から復活へのプロセスが、きよめのためには絶対必要な道のりなのです。それなくしてキリストの姿には到達しないのです。 すべてうまくいく人生だったら、それはきよめになりません。うまくいかなくて、苦しくて葛藤があって、心にストレスや摩擦がおこるからこそ、そのとき正しい良心を働かせてきよめられていくのです。 苦しみは苦しみで終わらないということに希望を持って頂きたいと思います。 なぜ自分はこんなに苦しいのかという疑問は、「復活がある」という信仰によってのみ解決します。それだけきよめが深まっていくのです。悩むことは感謝です。むしろ幸いなことです。 【デボーションポイント】 (イザヤ48:10)を読んでこの世でクリスチャンとして生きていることに対する神のみこころを考えてみましょう。 「見よ、わたしはあなたを練ったが、銀の場合と違う。私は悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ48:10) 悩みは私たちをきよめます。キリストは苦しみを通してよみがえり、神の右の座につかれました。私たちも復活によって神のきよさにあずかることのできる歩みをいま通っているのです。そのクリスチャンとしての悩みの人生があなたを信仰の純金純銀にする、そこに神のご計画があり、神のみこころがあるのです。 あなたの人生はキリストを信じた以上、死の状態であっても希望があります。神はあなたをよみがえらせるからです。義人は7度倒れても立ち上がる、それは復活の意味です。イエス・キリストをよみがえらせた神の御霊が私たちの一人一人の内に住んでおられるので、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださる、すなわち死に支配された肉体をも復活の力は及んで、その死ぬべきからだをも神のために生かすことが出来ると、そこまでおっしゃってくださっているのです。復活は大事なことです。復活に対してぜひ悟っていただきたいと思います。 【俳句】 渡り来る 燕の定めに なに思う 燕は毎年、南方から3000キロを超えて日本まで時速4〜50キロで飛んでやってきます。なんとしんどい定めをツバメはいただいていることでしょう。 私たちもクリスチャンとしてこの罪の世界の中で悩み苦しむことを定めとして頂いております。それは私の歩む道、永遠の御国に到達するための私の道筋だと自己受容することが必要です。 神は、私たちが罪を犯してもよみがえることが出来るように十字架の贖いの御業を完成させて下さいました。悔い改めは復活です。キリストがこられるまで、私たちは渡り鳥のように前に前に、毎回悔い改めを通して復活し、キリストのきよさへと進んでいくのです。 自分のクリスチャン生活に希望が感じられないなら、それは復活のチャンスです。よみがえる時の苦しみ、葛藤、ストレスがあなたを本当にキリストのようなきよい良心へと磨いてきよめて下さるのです。 悩みの時、それはあなたがキリストに一歩近づく時です。神はあなたを苦しみの炉を通して練っておられます。苦しみの時こそ喜ぶのです。神への信仰の証しである喜びが、さらにあなたをきよくしていきます。失望せずあきらめず、これからも復活を体験する日々を求めて進んでいきましょう。
■2020年4月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師) 主に心を向ける2〜礼拝〜・あなたはわたしを愛しますか up 2020.4.19
【辻和希伝道師メッセージ】 1.主に心を向ける2 〜礼拝〜 今現在もコロナウィルスの影響があらゆるところに出ておりますが、とうとう教会もインターネット礼拝に切り替えることになりました。 使徒2:44〜47 初代教会の記事を見ると、信者となった者たちは一緒にいて、いっさいの物を共有していたとあります。 ヨハネ4:21〜24 また、今まで当たり前の礼拝の環境が画面越しの礼拝となる中で、形式ではなく、心からの礼拝を捧げることができているかを見直す良い機会と言えるでしょう。父なる神様は霊とまことによって礼拝する真の礼拝者を求めておられるとあります。 インターネットの礼拝は便利なのですが、それを見る環境は家庭がほとんどです。家庭は私たちの日常であり、教会と違って、私たちの意識をそむけるものがたくさんあります。そのような環境の中で、神様だけを霊とまことによって礼拝するためには、主に心を向けなければなりません。真の礼拝者として成長するために、私たちの主への愛と信仰が試されているのかもしれません。
【横路伝道師メッセージ】 2.あなたは私を愛しますか(ヨハネ21:15〜19) 今日は、私たちと神様との個人的なつながり、イエス様に対する愛について見ていきたいと思います。 先週は復活祭でした。5月の終わりがペンテコステで、イエス様が復活されてから50日目にあたります。イエス様が復活されて40日間は、復活された姿を弟子たちや多くの人々に現わされました。その40日間の歩みは聖書にたくさん記されていますが、大切なことをたくさん語られていました。その中で、弟子たちを個人的に取り扱われた箇所がこのヨハネの21章にあります。 イエス様は弟子たちに、「ガリラヤ湖にまず行きなさい」と言われました。弟子たちはガリラヤ湖に行ったのですが、何日たってもイエス様が現れないので、彼らは元漁師だったので、ペテロと6人の弟子たちは漁に出かけました。そこは、イエス様に昔出会って、召されてついていった懐かしい場所でした。この7人はガリラヤ湖に夜中に網を下ろしました、ところが、魚は1匹も取れませんでした。朝になり、もうあきらめて岸辺に帰っていきました。すると、岸辺に着く100メートル位手前で、朝もやの中、岸辺から声がしました。「魚はとれましたか」「全然とれません」すると、「舟の右側に網をおろしなさい。」と言われます。そこで弟子たちはその通りにすると、おびただしい魚がとれ、網を引き上げることができませんでした。153匹の魚がとれたのです。 この出来事は、昔ペテロがイエス様に出会った時に起こった出来事とそっくりでした。その時も昼間の魚のとれない時間帯に、イエス様が「網をおろしなさい」と言われてその通りにすると、大量の魚がとれました。ペテロはこんなことは漁師生活の中で初めてだったので、この人は神様だとわかり、恐れて「イエス様、私から離れてください。私は汚れた罪人ですから」と、イエス様から離れました。 しかし、この時のペテロは違いました。ペテロは裸だったので上着をまとって、湖に飛び込んで泳いでイエス様の所に行きました。イエス様に少しでも早く会いたいという気持ちがあふれていました。 岸辺に着くと、イエス様が魚とパンを用意してくださっていました。イエス様はまず食事を与えられて養われ、それからお話をされました。 (ヨハネ21:15〜19) ここでイエス様は、ペテロに3回も「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれました。これは確認をされたということだと思います。イエス様は個人的に聞かれます。「あなたはわたしを愛していますか」と、愛の告白を求められます。これは、信仰は個人的なものであり、イエス様と自分とのつながりであるということです。 告白の重要性があります。信仰の告白や、結婚の告白など、何か告白するということは、とても大切なことです。 このみことばに自分の名前を当てはめて告白してみるといいですね。例えば「横路満弘よ。あなたはわたしを愛しますか」と言われたとします。このように、ご自分の名前を入れて思い浮かべてみてください。皆さんだとどのような反応をされるでしょうか。 ペテロは三年半の間、いつもイエス様と交わっていました。私たちも、イエス様と祈りの中で交わる時に、「イエス様、あなたが私を愛しておられるように、私もあなたを愛しています」と告白することが大切です。 再確認することは、更に強い確信を生み、愛を生みます。夫婦や親子の関係でも、告白をしながら確認を続けることで、強い絆と愛と確信に導かれると思います。イエス様は三度も言われたので、ペテロは心を痛めたとありますが、イエス様が捕らえられた夜、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。しかし、この時にペテロの心は完全に癒されたのではないかと思います。 イエス様は、愛しますかと言われた後に、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。 「わたしの」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様の所有であるという意味です。 「羊」とは誰でしょうか。まず「家族」であると思います。家族は神様から与えられた大切な魂として、守り、養い育てることであると思います。また、隣人もそうです。本当に心にかけて関わりを持ち、何かをする必要のある人がおられます。霊的に食べるものを与え、敵から守ることが大切です。 もう一つは、自分自身のことだと思いました。私たちは羊のように弱く愚かなものです。自分自身を養いなさいと言われていると思います。 いつも思い出すのは、アメリカの先住民族のチェルキー族の老人が子どもに伝えた2匹の狼のお話です。あなたがたの心の中に、2匹の強い狼がいます。1匹は悪い狼で、1匹は良い狼です。「どちらが勝つの?」と子どもが聞くと、「あなたがたくさんえさをあげたほうだよ」と老人は答えました。 私たちの心にも、聖霊に導かれている正しい良心と、肉の思いがあります。私たちが御霊に従って正しい良心を養っているか、それとも肉のままにしたい放題のことを優先しているか、そこはどちらにえさをあげて養っているのかということだと思います。 イエス様は、小羊を養いなさい、飼いなさいと言われました。その前提に、「あなたはわたしを愛しますか」と言われました。主の愛による動機によって、愛を伝え、福音を伝え、イエス様の愛に満たされて、周りの人たちを養っていきたいと思います。羊飼いであるイエス様の使命を私たちもいただいていることを覚えて、これからも主を愛する愛の動機をもって、人々を愛していきたいと思います。
■2020年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 復活とは何を意味するのか up 2020.4.12
【内容観察】 なぜ「復活」が重要なことなのか、それは「復活」が「未来」を保証しているからです。まず、未来という時間をどう考えるか、少し聖書の「時間」についての考え方を見ておきましょう。 私たちは、地球の自転、公転によって一日あるいは一年と常に時間が流れているという感覚を持ちますが、聖書では時間の基準が違います。 神様のご計画によるスタートからゴールまでが神様の時間であり、一つ一つの計画が着実に進められていくのが、神様の時間の流れです。そして、ご計画が次に進むことができなかったら、そこで神様の時間はストップするのです。 神様のご計画は、創世記から黙示録までを見ると明らかです。天地創造の初め、神様は人をお造りになり祝福して、「すべての生き物を支配せよ(治めよ)」と宣言されました。 アダムとエバは、「地を治める」という神様のプランの中に生きていました。 しかし、二人が誘惑を受け、神様のおことばに反して、食べてはならない木の実を食べた時、神様のプランはそこでストップしました。時間がストップしたのです。その時、神様は「この戒めを守らない時、あなたがたは死ぬ」と言われ、「死」という言葉を使われたのです。 神様のご計画が止まることは時間が止まること、死を意味します。「生きる」というのはプランが前に進んでいるということです。 この時間の流れの中で「復活」とはどういう意味をもっているのでしょうか。神の国の完成のプランを再び進めるためには、人が死という状態から、もう一度生きる(復活)という状態に戻らなくてはなりません。そこで「罪の贖い」という復活プランが必要になるのです。この復活プランが成就すれば、神様のご計画は再び完成に向かって進行することになります。復活とは、私たちが神のプランに立ち返って、神の時を前に進ませるということなのです。 あなたの人生は復活の人生でしょうか。死の人生でしょうか。まだ死の中にとどまっている人生でしょうか。今日はそのことを少し考えてみたいと思います。 1.「生きる」とは何を意味するのか(マタイ4:4) 「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
A)神のことばとは何ですか? B)みことばによって生きるとは、どういうことですか? C)どのような時に、人は「生きる」と認められるのでしょう 「生きる」とは、時間を過ごすことや存在していることではなく、神のご計画に沿って存在し時間を過ごすことである。 クリスチャンが今の信仰のまま現状維持で満足すると、それは信仰の老化の始まりです。 神のことばをまるで食物のように食べて吸収して霊的エネルギーとなっている人には、「希望」があります。「喜び」があります。「感謝」があります。 「生きている」と認められるのは、神のことばを自分の私生活の中に吸収して、それを霊の力、心の力として自分の生活の中に現わしている、それが神のことばに生きているということです。 メッセージを聞いてもみことばを読んでも、魂に吸収されていかなくては、食物を食べても栄養を吸収できないのと同じで、健康とは言えません。中途半端なクリスチャンとなってしまいます。 2.「死ぬ」とは何を意味するのか(伝道者3:19) 「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。」 A)人の子と獣の結末は何が同じなのですか? B)死ぬことがどうしてむなしいと言えるのですか? C)なぜ、人は獣に勝っていないと言えるのですか? 「死ぬ」とは、最後まで行き着くことなく、壊れてしまうこと。 伝道者の書は「人も獣もみな同じ、死んだら終わりだ」と言います。世の人々もそう言います。死んだ先には何もない、すべての努力がゼロになるということは空しいことです。生きる気力もわいてきません。前に進むことができない、霊的に死んだ状態です。 クリスチャンが信仰生活において、「気力がわいてこない、このままでいい、熱心になるのはしんどい、疲れた」と言うなら、これは前進することをとどめている状態です。成長が止まっている状態、死んだ状態です。 その時、私たちは霊的食物をいただいているだろうか、吸収してるだろうか、すなわち自分は神のみこころであるおことばの内に生きているか、そこから外れているのではないか、霊的食物を正しく吸収していないために、力が湧いてこないのではないか、ただ聞くだけで終わっているのではないかと、自分で自分を振り返ってみるべきです。 神様は私たちの人生のゴールを計画しておられ、神の国に関する私たちの存在の意義、働きを聖書に記して下さっておられます。 それが途中で止められていることは「死」を意味します。存在しているけれど、神様のプランから外れているなら、死んだ状態なのです。 クリスチャンはイエス様の贖いの御業のゆえに罪の赦しを与えられて、もう一度やり直せる救いを与えられています。その時に、いのちの回復(復活)を味わったにもかかわらず、再び自分の欲望願望中心のところに立ち返るなら、また霊的死の状態に陥るのです。 娯楽を断ち切れという意味ではありません。神様は自由を与えてくださっておられます。大事なことは、「本分は何か」ということです。神のことばを食物のように食して心で吸収して生きる、ということが私たちのメインであって、娯楽がメインではないのです。 仕事が苦しいならば、なおさらもっと神のことばを食して、神の国のための歩みを続けるためにはどうしたらいいんだろうかと、祈りつつ、みことばに目を向けることをすることが必要です。 忙しいからできないのではありません。神のことばによって生きるということを悟れてないので、仕事は仕事、信仰は信仰と分けて生きているのです。神のみことばを魂の糧、エネルギーとして吸収するという考えがないので、それに時間を割くことができないのです。生活の中でみことばを体得することが不十分なのです。いかに神のみことばを吸収できる心を備えることができているかどうかです。 せっかく神様は、キリストの死と葬りと復活によって、私たちが死んだ状態からもう一度やり直すことができるようにしてくださったのですから、もっと私たちはこの生活の中に霊的なことばを適用して生きるということをしていく必要があるのではないでしょうか。 3.「復活」とは何を意味するのか(ローマ6:4) 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」 A)キリストの死にあずかるとは、どういう意味ですか? B)キリストとともに葬られたとは、どういう意味ですか? C)新しい歩みとは、どういう意味ですか? キリストの死と葬りだけでなく、私たちはキリストの復活にも合わせられました。キリストは正しい人であったと認められ、神によってよみがえらされましたが、キリストの代価によって私たちもキリストと同じように罪なき者とみなされて、神様のご計画の中に立ち返らせていただいたのです。 皆さんが霊も魂も健康であるためには、神様のご計画に沿ったみことばで心を強められなければなりません。それはキリストにあるあなたのビジョンです。神のみことばを通してあなたが生きるための道筋・目標です。 王道は「互いに愛し合いなさい」というみことばです。すべてのクリスチャンの歩むべき王道です。それを実際に夫婦関係、家族、クリスチャン同士、という人間関係においてどのように実践できているでしょうか。 あいさつは簡単な第一歩です。人間関係がどんどん進んでいくと、自分の思い通りにならないとか、自分の願いどおりに相手が応答しないとか、自分を中心に相手を見て不満が出てきます。その時こそ互いに愛し合いなさいというみことばの実践の時です。それは親切であったり寛容であったり、赦すことをチャレンジするときです。 最初は葛藤があっても、段々と心が強められて寛容さが生れてきます。苦しいから、しんどいから、いやだから、とチャレンジをあきらめないことです。赦そうとチャレンジすることが神への信仰です。 イエス様もそのようにして人生の苦しみを十字架に至るまで耐え忍んでくださいました。最期には「彼らを赦してください、何をしているか自分でわからないのです」と祈ってくださいました。イエス様は私たちのために復活を備えてくださったのです。私たちが互いに愛し合うという神の王道に歩むために、もう一度私たちをその道に戻してくださった、それが「復活」です。 今皆さんは復活の中にいますか。神のご計画の中をこれからも歩んでいきましょう。失敗してもあきらめてはいけません。神様は一日に490回赦すとペテロに約束してくださいました。 失敗が大きいと私たちは自分に失望し絶望します。それは心が砕かれ、へりくだっていくことです。最後には神様にゆだねる心にまでならせていただけるのです。神様にいのちを預け、人生を預けることができるようになると楽になります。イエス様は私たちを復活の道、神様のご計画の道へと置いてくださり、色々なみことばを示してくださることでしょう。 みことばが吸収できるために必要な魂の栄養素は、「神の愛に目が開かれること」です。神様を敬い信頼する心が成長すると、みことばを吸収しやすくなります。 愛を用いずに、神のみことばを実行しようとするのが律法です。神様は動機を大事にされます。愛の動機でみことばにチャレンジすることを神様は喜ばれます。結果は問われません。 せっかく与えられた復活です。永遠の希望を与えられた復活です。どうぞ、みことばの吸収をすることを生活の中に適用してください。一歩一歩前に進んでいきましょう。
■2020年4月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) みことばが受けられた苦しみ up 2020.4.5
【内容観察】 1.従順を学ぶための苦しみ (へブル5:8〜10) 2.私たちが神の愛を知るため(第1ヨハネ3:16) さて、それによって皆さんは神の愛をどのような愛として知ることができたでしょうか。願いが応えられたら愛されてると思う人が多いのです。しかしクリスチャンはいやなことも与えられるということを知っています。 3.神の愛がどこにあるのかを知らせるため(第1ヨハネ4:10) ◎神の愛がわからなくなったとき、どうすれば良いですか? 4.私たちに模範を残すため(第1ペテロ2:20〜21) ◎その模範には、どのような意味があると思いますか? 5.私たちが「いやされる」ため (第1ペテロ2:24) ◎もっとも大切な「いやし」は何でしょう。
【俳句】 私たちは大根の花を見ることはありませんが、だからといって花が咲いてないということはありません。 大根は中東あたりが原産地です。その原産地から大根の種が世界に受け継がれて、弥生時代に日本に伝えられました。 私たちがキリストを信じてここにいるということは、キリストが2千年前にユダヤ地方に生まれ、当時の世界を歩まれて、神の証しと教えをなされ、弟子たちや初代教会がその福音の種を世界に蒔いていったという事実があればこその証しです。 あなたの信仰をたどっていけば、イエス・キリストに到達します。十字架で受けられた苦しみも、乙女マリヤに宿ったキリストの33年半の苦しみの人生も、すべてあなたの存在を通して事実であるということの証しとなっているのです。
■2020年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 神のことばによるきよめ up 2020.3.29
【内容観察】 イエス様と生活を共にした弟子たちは、ずっと「神のことば、教え、キリスト(油注がれた救い主)」についてイエス様の語られることを聞いてきました。 1.このことば(主題聖句)は、いつ、どのような状況で語られたものですか?(ヨハネ18章を参照) 2.「もうきよい」に当てはまる人々は、どういう人々ですか? 3.3年半のあいだ弟子たちは、イエスと共にどのように過ごして来たかを福音書を参考に想像してみましょう 4.もし、あなたが彼らの中にいたなら、どのように過ごしていたと思いますか? 私たちも大事なことは、「礼拝に行こう」という気持ちになることです。それが「あなたはもうきよい」といってくださるイエス様のお気持です。感謝ですね。 5.「ぶどうの木とその枝」の話と「きよめ」との関連性を考えてみましょう。(ヨハネ15:1〜5参照) 6.キリストと共に過ごすとは、みことばと共に過ごすことです。 私たちは暗闇の世界に歩んでいます。道を誤らないためには、今日の足元を照らすみことばと、将来の行くべき道を照らすみことばが必要です。 満開の桜を見ると本当に美しくきよらかさを感じます。神のみわざです。同じように私たちのきよめも、神様のみわざです。
■2020年3月22日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師) 主を信頼する聖徒の守り up 2020.3.22
今日は、主を待ち望む者は決して揺るがされないということを、ダニエル書から見ていきたいと思います。 1.ダニエルの守り(ダニエル6:1〜10) ? 聖い神の霊が宿っていた人(1〜3節) 彼は王族か貴族の出身で、容姿は美しく知恵と知識に富み、思慮深く、「優れた霊が宿っていた」とも書かれてあります。 ダニエルは内側に聖霊を頂いておりました。聖霊の賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける力、預言の力、等)を充分に発揮し、聖霊の実も豊かな、謙遜、自制、愛の人でした。 ◎私たちの内にある聖霊 ? 忠実な人のきよさ(4節) ダリヨス王は、ダニエルがあまりに優れていたので、更に上の地位に置こうとしました。他の大臣はそれを妬んで、ダニエルの怠慢や欠点を見つけてそれを訴える口実にしようとしましたが、何もそれが見当たらないほど、ダニエルは忠実に完璧に職務を果たしていました。 ◎私たちの忠実 ? 大臣たちの悪だくみと罠、王の第一の法令(5〜9節) しかし、それを知ってもダニエルはあわてることなく、いつものように日に三度エルサレムに向かって祈りを捧げました。 ◎私たちへの迫害と罠 ? 祈りの人、ダニエルのきよさ(10節) 「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」 (T列王記8:48〜49)にヒントがあります。 ◎私たちの祈りの使命 2.ダニエルの守り(ダニエル6:11〜22) ? 信頼の人ダニエル、獅子の穴に投げ込まれる(15〜17節) (イザヤ30:15)「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 (イザヤ41:10)「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」 ◎私たちの神への信頼 ? 王は断食し徹夜の一晩を過ごしたのか(18節) ◎私たちの真剣な祈り ? 王のダニエルへの叫び(19〜20節) ? 獅子から救われた謙遜な人、ゆるしの人(21−22節) ◎私たちの謙遜とゆるし 3.ダニエルの守り(ダニエル6:23−28) ? 王の喜びと悪者への処罰(23〜24節) ? 第二の命令とダニエルの繁栄(25−28節) 「あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。」 悪い大臣が計略によってダニエルを捕えて合法的に穴に投げ込んだ時、彼らは「勝った」と思ったでしょう。しかし、ダニエルは穴から救い出されます。逆に自分たちが獅子に殺されてしまいました。大逆転が起きたのです。 しかし、イエス様は死を打ち破り、よみの力に打ち勝ち、三日目に勝利をもって墓からよみがえられました。ハレルヤ!神様は逆転される方です。主を信頼し主に守られる聖徒たちには、神からこの逆転勝利が来るのです。
■2020年3月15日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子牧師) 祈りは終末に臨む私たちの心を神に対して準備する up 2020.3.15
1.万物の終わりが近づいた。 (3)忠告に従順に従う者となる 2.「祈る」 (2)神との契約関係に入ること。 (4)祈りの生活は、聖いキリストの姿へと変える。 3.具体的に祈るための大切な2つのポイント A)燭台の火を絶えずともし続けるため、灯心を整える。 【霊的真理】 B)灯火用の質の良い純粋なオリーブ油を準備(参照レビ記24:2 ) 【霊的真理】 C)注意点 D)ツァラアトのきよめ E)サタンの策略 F)祈りによる戦い G)霊的礼拝 (2)身を慎む B)栄光を神に帰す人生を歩む <まとめ> ●祈りは日々の霊的呼吸で聖い神との交わりに入っていく事です。 ●私たちは新約の祭司として神に仕えるため聖い油注ぎが常にあり失われることがないよう、毎日目を覚まして祈っていきましょう。 ●そのため、神が住まわれる私たちの心に、主の忌み嫌われるものを置く事のないよう、祈りの中でそれらの肉のものを切り捨て、取り除いていきましょう。 ●万物の終わりが近づきました。今、御言葉を通し警告のサイレンが初めよりもっと大きく鳴り響いています。「祈る」という行動に移す時は「今」です。祈るのに心を整えるための御霊の心切りバサミで肉の心を切り捨てて心を聖くされ、御霊による心の割礼が完全に施されるよう求めていきましょう。試練や苦しみ、肉が嫌がる事を逃げず、主の前にへりくだり、悔い改め、心砕かれるよう、そして心の中にある聖霊の火がもっと輝くよう更に求めていきましょう。祈りは終末に臨む私たちの心を神に対して準備します。今が祈る時です。
■2020年3月8日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師) 目をさまし、主に心を向ける up 2020.3.8
今世間では、コロナウイルスの話題でいっぱいです。何が正しいのかもわからないくらいに情報が錯綜しています。日本だけでなく、世界が今混乱しています。このような状況下にあって、わたしはメッセージで何を語るべきかを主に問いました。答えは、このような状況だからこそ、「目を覚まし、主に心を向ける」ということでした。
〇この世の情勢と聖書の記述 今は“終わりの時代”であるとよく耳にしますが、正直私はそれを受けいれたくありませんでした。のほほんと平和にクリスチャン生活を送りたいからです。しかし、今の情勢をきっかけに、聖書に書かれている世の終わりの前兆と照らし合わせると、ほとんど一致しているのです。 ルカ21:10〜11 イエス様が弟子たちに世の終わりの前兆について語られた箇所です。天からのすさまじい前兆と書かれてある部分以外は、実際にこの世界に起こっています。疫病と表現されている部分が、まさに今のコロナが当てはまるでしょう。このように、聖書は絶対で普遍的かつ変わることのないものだと信じる我々にとって、今はもう世の終わりの前兆だと認め受け入れざるを得ないのです。
〇クリスチャンであることの素晴らしさ しかし一方でクリスチャンであることの素晴らしい面が浮き彫りになります。それは、聖書に書かれている前兆が何故起こるかを“知っている”ということです。そしてそれを起こそうとされているお方が、私たちを創造し、天地万物を創造された神であり、その神である方を主と告白し信じ、私たちに向けられた愛を知り、その愛に応答したのが、紛れもない私たちクリスチャンなのです。 ルカ21:34〜36
イエス様は「いつも油断せずに祈っていなさい。」と言われました。私たちは主に祈りをささげます。主を心に留め祈ります。ですから、いつも祈るということは、いつも主に心を向けるということなのです。 終わりの時代に生きているという自覚と、それに備える覚悟を改めて持つことを主に求められているのだと思います。
■2020年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師) 二心のきよめ up 2020.3.1
再臨の主にお出会いするために、今年は「きよめられることを追い求める」を表題とし、(へブル12:14)をモットーのみことばとして、学びを続けてきております。 1.主題聖句内容観察(ヤコブ4:8) B)心を清くする(hagnizo) 神様につく心とそうでない心がある時、心を清くするとは、神様に属する心ひとつにしなさいと解釈してよいと思われます。 「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:6〜8) 【内容観察】 2.罪を言い表すことによるきよめ(第1ヨハネ1:9) 罪を赦し、悪を善に変えてくださる神様の約束のことばです。ポイントは自分の罪を言い表すこと、悔い改める心です。 A)悔い改める心(ヘブル9:14) 罪を指摘し、罪の自覚を与え、咎めをもたせて、それから離れようという心を持たせ、離れる力を与えてくれる、これがきよめられた正しい良心の働きです。私たちの知情意を正しくコントロールしてくださいます。 正しい良心には、イエスの血の力(神の愛)が注がれています。神様の愛の力によって、「死んだ行いから離れなければ!」という強い思いを、私たちの内に湧き立たせていただけるのです。 B)罪を言い表す(エペソ5:11〜14) 【内容観察】 罪の思い、罪の行いを言い表さず一人で心に秘めているのは、誰も知らない押入れの中に隠してあるようなもの。そして押入れの中までもお客様に見せることが出来るなら、それは押入れの中が「明らかにされること」と言えます。 言い表すだけの人は、きよめをうけることができません。ふすまをはめて、また元通り全部押し込んでしまうようなものです。「どうぞ見てください」と言えるような、ふすまもいらないような押入れにしたいものです。そのためには中の荷物も相当捨てないといけないでしょう。罪として離れるべきか、神のために用いるべきか、判断できるように、みことばによって照らしていただきましょう。 【デボーションポイント】 ◎罪を言い表してきよめられたのですから、「歓天喜地」(かんてんきち)の賛美を主にささげましょう。 ★「歓天喜地」(かんてんきち)の意味 【俳句】 COVID-19 再臨間近の 春一番 |