■2020年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

汚れたもので蒔かれ聖いものでよみがえる   up 2020.4.26


主題聖句(第1コリント15:42)
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ

 

 

 

ポイント

『汚れたもので蒔かれ、聖いものによみがえる』

(完全復活へのプロセスを経験する)

 日本赤十字社が「三つの感染に対する忠告」をネットで紹介しています。

 第一の感染は今回のコロナウイルスによる肉体の感染。

 それによってもたらされる第二の感染は、不安や恐れが広がっていく精神的感染。

 第三の感染は自己防衛のために人々を自分から遠ざけようとする嫌悪感、偏見、差別という社会的感染です。

 すでに不安からくる隣人への差別的扱いが現実に医療従事者たちや自宅待機者の上に起こっています。心痛いことです。

 未知の病への不安、いのちの不安、経済的不安、生活不安、将来への不安、様々ありますが、このような不安や恐れがなぜやって来るのでしょうか。それは人々が人生は死で終わるものと信じているからです。

 クリスチャンがどんなに逆境の中にあっても、不安や恐れで失望してしまわないのは、死で終わらない人生を歩んでいるからです。

 たとえ私たちは感染によって召されたとしても、死は永遠の未来における出発であるという希望を、イエス・キリストの復活を通して信じているので、不安から解放されるのです。

 私たちがそういう望みある生き方をすることが、今この世で感染による不安をもっている人々への証しとなるのではないでしょうか。

今日のポイントは『汚れたもので蒔かれ、聖いものによみがえる』(完全復活へのプロセスを経験する)です。

 私たちは死んで終わるために生まれたのではありません。死んで復活するというプロセス、きよめられていく、栄光から栄光へと変えられていく、このプロセスを経験するためにこの地上での人生が与えられており、そして肉体の死を通して永遠の未来への新しいからだを頂いた人生に入っていくという、これが今日のポイントです。

1.主題聖句の内容観察   

 ★朽ちるもの=汚れたもの=未完成、未熟、罪人

 ★朽ちないもの=聖いもの=完成、成熟、義人

 ★キリストと同じ聖さに到達するためには、死からの復活という経験を通ることが不可欠である

「朽ちる」とは、死の支配によって壊れ滅んでいく汚れた状態です。永遠に存続することはできません。朽ちるもの(汚れたもの)とは、未完成なもので未熟な状態で、罪人の状態です。罪人は、すべてを完全に行うことが出来ず、失敗して道から外れて、自分勝手なゴールに向かってしまいます。それは朽ちていく汚れた歩みです。

 反対に「朽ちないもの」とは、きよいもの、完成しており成熟していて、義人であると言えます。  

 人は神のかたちに似せて造られたので、人の完成は神のかたちの完成であり、きよい聖なるお方と同じきよさを持つということが、人間の目指すべきゴールと言えます。

 なぜ、はじめから「朽ちないもの」で蒔かれなかったのでしょうか。それは「朽ちるもの」から「朽ちないもの」に移る、変化する、成長する、進んでいく、そういう体験、プロセスを神様は重要なことと見ておられるからです。

 死という苦しみを通して復活を体験していくということが、私たちのこの世での目的なのです。

 それはどういう生き方でしょうか。イエス・キリストを通して、永遠の未来に対する復活の人生が約束され、私たちはそれを信じているので、地上での数十年の苦しい人生は永遠から考えると一時的なものだと耐え忍んで、主の再臨を、神の前に召されることを待ち望むことです。

 苦しみの多い人生は感謝です。苦しみから救われる、癒される、という復活の体験が、神を知るということにつながっていくからです。

「神を知ることが永遠のいのちである」とヨハネ伝に記録されている通りです。

 この地上の人生なくして私たちの完成はありえません。死から復活へと私たちを通らせるために、まだこの地上を滅ぼさず残しておられると考えることができると思います。

2.復活のプロセス(ヨハネ5:24)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるものは、永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

A)「移っている」とは、完全復活へのプロセスの中にあり、きよめの完成への途上にあること。

 私たちは、救われるためにきよめられるのではなく、救われてからきよめられていきます。

 カープ入団と選手の話を覚えておられますか。実力はともかく入団すれば皆カープの選手です。入団して後、練習して成長して1軍になるのを目指して練習します。

 私たちも、イエス・キリストを救い主として信じ、神の愛を信じた瞬間、死からいのちへ移されました。キリストによって救われたチームの一員となりました。私たちは不完全であっても一部復活しているのです。今は完全復活(キリストのきよさ)を目指してクリスチャン人生を進めている途上にあります。これが「移っているのです」という意味なのです。

B)「移っている」条件

(1)キリストのことばを聞き続ける事

 私たちは神の言葉を聞き続けなくてはなりません。聖い領域の中に「ハギオス(神に属するもの)」として留まり、「ハギオス」としてきよめを押し進めていくためです。

(2)キリストを通して父なる神を信じ続ける事 

 私たちはどんな時でもキリストを通して神を信じ続けることが必要です。私たちが神を信じることのできるゆるしと恵みを、救い主キリストが与えて下さっておられるから、キリストを通して私たちは神を信じることができています。ことあるごとに、祈り感謝して父なる神への信仰を表明しつづけることができます。

 週に一度みことばを聞く機会が与えられ、また自分の聖書個所を含めてみことばをデボーションし、霊の糧として受け止めていく、そうして神への信仰が鍛えられ、希望が増し加わっていくのです。

3.毎日が復活(第2コリント4:16)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 私たちは肉体の死の中にあって、神は私たちを神の子として毎日新しい人に生きることを日々与えてくださっておられます。

 天地創造の時、神様は一日一日新しい御業を終えられて六日間の御業を進めて来られました。私たちも毎日毎日、過ぎた一日一日は過ぎ去った死の日々として受け止め、新しい日を迎える時には、キリストと共に新しくよみがえった自分の新しい日として受け止めるという、信仰の理想を実践している途上です。これが私たちにとって大事な経験なのです。

A)「外なる人」とは

罪が宿っている肉体。肉体の衰えは死に支配されている証拠。

 神様は肉体が死と滅びから解放されることを望んでおられません。土に帰るものとして認証されています。ですから、肉体を鍛えて永遠に生きながらえようとすることは神のみこころに反することです。

 死の状態の中に私たちの魂は置かれているのです。だから毎日復活を体験することが出来るのです。この日々のクリスチャン生活が私たちにとってきよめを増し加えていくものとなるのです。

B)「内なる人」とは

新生の霊による正しい良心。死の支配にある肉体との摩擦を通して、良心がますますきよめられていく

 最初にキリストの血潮(神の愛)によってきよめられた良心は、神の存在を認め主を畏れます。そしてそこから、キリストのようなきよい姿にますます変えられていきます。この栄光から栄光へというプロセスを経験しなくてはキリストのきよさには到達できないのです。この道のりが、色々な体験が、きよめのために、神の国を相続する神の子として必要なのです。

どんなに苦しくとも、きよめが増し加わるという希望を持って、その辛さ苦しみを忍耐をもって信仰を働かせて過ごして頂きたいと思います。あなたの良心が、それでもキリストを信じ続けていく、あのヨブのようにそれでも神を信頼し続けるというその忍耐が、更に彼をきよめた証しとして、試みの前の2倍の祝福を彼は受けたと最後に記されています。

 このように、私たちは朽ちるものでまかれる(死という状態に置かれる)必要があったのです。死の状態から復活へのプロセスが、きよめのためには絶対必要な道のりなのです。それなくしてキリストの姿には到達しないのです。

すべてうまくいく人生だったら、それはきよめになりません。うまくいかなくて、苦しくて葛藤があって、心にストレスや摩擦がおこるからこそ、そのとき正しい良心を働かせてきよめられていくのです。

 苦しみは苦しみで終わらないということに希望を持って頂きたいと思います。

 なぜ自分はこんなに苦しいのかという疑問は、「復活がある」という信仰によってのみ解決します。それだけきよめが深まっていくのです。悩むことは感謝です。むしろ幸いなことです。

【デボーションポイント】

(イザヤ48:10)を読んでこの世でクリスチャンとして生きていることに対する神のみこころを考えてみましょう。

「見よ、わたしはあなたを練ったが、銀の場合と違う。私は悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ48:10)

悩みは私たちをきよめます。キリストは苦しみを通してよみがえり、神の右の座につかれました。私たちも復活によって神のきよさにあずかることのできる歩みをいま通っているのです。そのクリスチャンとしての悩みの人生があなたを信仰の純金純銀にする、そこに神のご計画があり、神のみこころがあるのです。

 あなたの人生はキリストを信じた以上、死の状態であっても希望があります。神はあなたをよみがえらせるからです。義人は7度倒れても立ち上がる、それは復活の意味です。イエス・キリストをよみがえらせた神の御霊が私たちの一人一人の内に住んでおられるので、私たちの死ぬべき体をも生かしてくださる、すなわち死に支配された肉体をも復活の力は及んで、その死ぬべきからだをも神のために生かすことが出来ると、そこまでおっしゃってくださっているのです。復活は大事なことです。復活に対してぜひ悟っていただきたいと思います。

【俳句】

     渡り来る  燕の定めに  なに思う

 燕は毎年、南方から3000キロを超えて日本まで時速4〜50キロで飛んでやってきます。なんとしんどい定めをツバメはいただいていることでしょう。

私たちもクリスチャンとしてこの罪の世界の中で悩み苦しむことを定めとして頂いております。それは私の歩む道、永遠の御国に到達するための私の道筋だと自己受容することが必要です。

 神は、私たちが罪を犯してもよみがえることが出来るように十字架の贖いの御業を完成させて下さいました。悔い改めは復活です。キリストがこられるまで、私たちは渡り鳥のように前に前に、毎回悔い改めを通して復活し、キリストのきよさへと進んでいくのです。

 自分のクリスチャン生活に希望が感じられないなら、それは復活のチャンスです。よみがえる時の苦しみ、葛藤、ストレスがあなたを本当にキリストのようなきよい良心へと磨いてきよめて下さるのです。

 悩みの時、それはあなたがキリストに一歩近づく時です。神はあなたを苦しみの炉を通して練っておられます。苦しみの時こそ喜ぶのです。神への信仰の証しである喜びが、さらにあなたをきよくしていきます。失望せずあきらめず、これからも復活を体験する日々を求めて進んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2020年4月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

主に心を向ける2〜礼拝〜・あなたはわたしを愛しますか   up 2020.4.19


 

 

 

【辻和希伝道師メッセージ】

1.主に心を向ける2 〜礼拝〜

 今現在もコロナウィルスの影響があらゆるところに出ておりますが、とうとう教会もインターネット礼拝に切り替えることになりました。
 インターネットが普及していない時代からすると、緊急事態においても、各家庭に礼拝の映像を届けることができることは、すごいことなのですが、一方で、集まることにおいては制限されていますから、普段の礼拝や教会での交わりがいかに恵みであったかを知る機会ともなっています。

使徒2:44〜47
「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

 初代教会の記事を見ると、信者となった者たちは一緒にいて、いっさいの物を共有していたとあります。
 共有していた物とは、持ち物もそうですが、時間を指していると思います。ここに集まることの大切さを学ぶことができます。私たちの集まりは単なる集まりではなく、喜びと時間を共有する交わり中心の集まりで、それが教会なのです。
 闇の働きは、クリスチャンの交わりを断ち、孤立化させようとします。この大変な時期、闇の働きに私たちの兄弟姉妹の繋がりを壊されることがないように、電話やメール、ラインなどで、横の繋がりをしっかり継続して持つことが大切です。

ヨハネ4:21〜24
「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 また、今まで当たり前の礼拝の環境が画面越しの礼拝となる中で、形式ではなく、心からの礼拝を捧げることができているかを見直す良い機会と言えるでしょう。父なる神様は霊とまことによって礼拝する真の礼拝者を求めておられるとあります。

 インターネットの礼拝は便利なのですが、それを見る環境は家庭がほとんどです。家庭は私たちの日常であり、教会と違って、私たちの意識をそむけるものがたくさんあります。そのような環境の中で、神様だけを霊とまことによって礼拝するためには、主に心を向けなければなりません。真の礼拝者として成長するために、私たちの主への愛と信仰が試されているのかもしれません。

 

【横路伝道師メッセージ】

2.あなたは私を愛しますか(ヨハネ21:15〜19)

  今日は、私たちと神様との個人的なつながり、イエス様に対する愛について見ていきたいと思います。

 先週は復活祭でした。5月の終わりがペンテコステで、イエス様が復活されてから50日目にあたります。イエス様が復活されて40日間は、復活された姿を弟子たちや多くの人々に現わされました。その40日間の歩みは聖書にたくさん記されていますが、大切なことをたくさん語られていました。その中で、弟子たちを個人的に取り扱われた箇所がこのヨハネの21章にあります。

 イエス様は弟子たちに、「ガリラヤ湖にまず行きなさい」と言われました。弟子たちはガリラヤ湖に行ったのですが、何日たってもイエス様が現れないので、彼らは元漁師だったので、ペテロと6人の弟子たちは漁に出かけました。そこは、イエス様に昔出会って、召されてついていった懐かしい場所でした。この7人はガリラヤ湖に夜中に網を下ろしました、ところが、魚は1匹も取れませんでした。朝になり、もうあきらめて岸辺に帰っていきました。すると、岸辺に着く100メートル位手前で、朝もやの中、岸辺から声がしました。「魚はとれましたか」「全然とれません」すると、「舟の右側に網をおろしなさい。」と言われます。そこで弟子たちはその通りにすると、おびただしい魚がとれ、網を引き上げることができませんでした。153匹の魚がとれたのです。

 この出来事は、昔ペテロがイエス様に出会った時に起こった出来事とそっくりでした。その時も昼間の魚のとれない時間帯に、イエス様が「網をおろしなさい」と言われてその通りにすると、大量の魚がとれました。ペテロはこんなことは漁師生活の中で初めてだったので、この人は神様だとわかり、恐れて「イエス様、私から離れてください。私は汚れた罪人ですから」と、イエス様から離れました。

 しかし、この時のペテロは違いました。ペテロは裸だったので上着をまとって、湖に飛び込んで泳いでイエス様の所に行きました。イエス様に少しでも早く会いたいという気持ちがあふれていました。

 岸辺に着くと、イエス様が魚とパンを用意してくださっていました。イエス様はまず食事を与えられて養われ、それからお話をされました。

(ヨハネ21:15〜19)
イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、私を愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに行った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼らに言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」

 ここでイエス様は、ペテロに3回も「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれました。これは確認をされたということだと思います。イエス様は個人的に聞かれます。「あなたはわたしを愛していますか」と、愛の告白を求められます。これは、信仰は個人的なものであり、イエス様と自分とのつながりであるということです。

 告白の重要性があります。信仰の告白や、結婚の告白など、何か告白するということは、とても大切なことです。

 このみことばに自分の名前を当てはめて告白してみるといいですね。例えば「横路満弘よ。あなたはわたしを愛しますか」と言われたとします。このように、ご自分の名前を入れて思い浮かべてみてください。皆さんだとどのような反応をされるでしょうか。

 ペテロは三年半の間、いつもイエス様と交わっていました。私たちも、イエス様と祈りの中で交わる時に、「イエス様、あなたが私を愛しておられるように、私もあなたを愛しています」と告白することが大切です。

 再確認することは、更に強い確信を生み、愛を生みます。夫婦や親子の関係でも、告白をしながら確認を続けることで、強い絆と愛と確信に導かれると思います。イエス様は三度も言われたので、ペテロは心を痛めたとありますが、イエス様が捕らえられた夜、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。しかし、この時にペテロの心は完全に癒されたのではないかと思います。

 イエス様は、愛しますかと言われた後に、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。

「わたしの」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様の所有であるという意味です。

 「羊」とは誰でしょうか。まず「家族」であると思います。家族は神様から与えられた大切な魂として、守り、養い育てることであると思います。また、隣人もそうです。本当に心にかけて関わりを持ち、何かをする必要のある人がおられます。霊的に食べるものを与え、敵から守ることが大切です。

 もう一つは、自分自身のことだと思いました。私たちは羊のように弱く愚かなものです。自分自身を養いなさいと言われていると思います。

 いつも思い出すのは、アメリカの先住民族のチェルキー族の老人が子どもに伝えた2匹の狼のお話です。あなたがたの心の中に、2匹の強い狼がいます。1匹は悪い狼で、1匹は良い狼です。「どちらが勝つの?」と子どもが聞くと、「あなたがたくさんえさをあげたほうだよ」と老人は答えました。

 私たちの心にも、聖霊に導かれている正しい良心と、肉の思いがあります。私たちが御霊に従って正しい良心を養っているか、それとも肉のままにしたい放題のことを優先しているか、そこはどちらにえさをあげて養っているのかということだと思います。

 イエス様は、小羊を養いなさい、飼いなさいと言われました。その前提に、「あなたはわたしを愛しますか」と言われました。主の愛による動機によって、愛を伝え、福音を伝え、イエス様の愛に満たされて、周りの人たちを養っていきたいと思います。羊飼いであるイエス様の使命を私たちもいただいていることを覚えて、これからも主を愛する愛の動機をもって、人々を愛していきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2020年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

復活とは何を意味するのか   up 2020.4.12


主題聖句(第1コリント15:14)
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 

 

 

【内容観察】
キリストの復活が虚偽であるなら、福音を伝えることも神への信仰も実質のないもの、すなわち、むなしいことである。それは、人類を含め万物の存在そのものがむなしいことになる。

 なぜ「復活」が重要なことなのか、それは「復活」が「未来」を保証しているからです。まず、未来という時間をどう考えるか、少し聖書の「時間」についての考え方を見ておきましょう。

 私たちは、地球の自転、公転によって一日あるいは一年と常に時間が流れているという感覚を持ちますが、聖書では時間の基準が違います。

 神様のご計画によるスタートからゴールまでが神様の時間であり、一つ一つの計画が着実に進められていくのが、神様の時間の流れです。そして、ご計画が次に進むことができなかったら、そこで神様の時間はストップするのです。

 神様のご計画は、創世記から黙示録までを見ると明らかです。天地創造の初め、神様は人をお造りになり祝福して、「すべての生き物を支配せよ(治めよ)」と宣言されました。 アダムとエバは、「地を治める」という神様のプランの中に生きていました。

 しかし、二人が誘惑を受け、神様のおことばに反して、食べてはならない木の実を食べた時、神様のプランはそこでストップしました。時間がストップしたのです。その時、神様は「この戒めを守らない時、あなたがたは死ぬ」と言われ、「死」という言葉を使われたのです。

 神様のご計画が止まることは時間が止まること、死を意味します。「生きる」というのはプランが前に進んでいるということです。

 この時間の流れの中で「復活」とはどういう意味をもっているのでしょうか。神の国の完成のプランを再び進めるためには、人が死という状態から、もう一度生きる(復活)という状態に戻らなくてはなりません。そこで「罪の贖い」という復活プランが必要になるのです。この復活プランが成就すれば、神様のご計画は再び完成に向かって進行することになります。復活とは、私たちが神のプランに立ち返って、神の時を前に進ませるということなのです。

あなたの人生は復活の人生でしょうか。死の人生でしょうか。まだ死の中にとどまっている人生でしょうか。今日はそのことを少し考えてみたいと思います。

1.「生きる」とは何を意味するのか(マタイ4:4)

「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

 

A)神のことばとは何ですか?

B)みことばによって生きるとは、どういうことですか?

C)どのような時に、人は「生きる」と認められるのでしょう

「生きる」とは、時間を過ごすことや存在していることではなく、神のご計画に沿って存在し時間を過ごすことである。

 クリスチャンが今の信仰のまま現状維持で満足すると、それは信仰の老化の始まりです。

 神のことばをまるで食物のように食べて吸収して霊的エネルギーとなっている人には、「希望」があります。「喜び」があります。「感謝」があります。

 「生きている」と認められるのは、神のことばを自分の私生活の中に吸収して、それを霊の力、心の力として自分の生活の中に現わしている、それが神のことばに生きているということです。

 メッセージを聞いてもみことばを読んでも、魂に吸収されていかなくては、食物を食べても栄養を吸収できないのと同じで、健康とは言えません。中途半端なクリスチャンとなってしまいます。

2.「死ぬ」とは何を意味するのか(伝道者3:19)

「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。」

A)人の子と獣の結末は何が同じなのですか?

B)死ぬことがどうしてむなしいと言えるのですか?

C)なぜ、人は獣に勝っていないと言えるのですか?

 「死ぬ」とは、最後まで行き着くことなく、壊れてしまうこと。

 伝道者の書は「人も獣もみな同じ、死んだら終わりだ」と言います。世の人々もそう言います。死んだ先には何もない、すべての努力がゼロになるということは空しいことです。生きる気力もわいてきません。前に進むことができない、霊的に死んだ状態です。

 クリスチャンが信仰生活において、「気力がわいてこない、このままでいい、熱心になるのはしんどい、疲れた」と言うなら、これは前進することをとどめている状態です。成長が止まっている状態、死んだ状態です。

 その時、私たちは霊的食物をいただいているだろうか、吸収してるだろうか、すなわち自分は神のみこころであるおことばの内に生きているか、そこから外れているのではないか、霊的食物を正しく吸収していないために、力が湧いてこないのではないか、ただ聞くだけで終わっているのではないかと、自分で自分を振り返ってみるべきです。

 神様は私たちの人生のゴールを計画しておられ、神の国に関する私たちの存在の意義、働きを聖書に記して下さっておられます。

それが途中で止められていることは「死」を意味します。存在しているけれど、神様のプランから外れているなら、死んだ状態なのです。

 クリスチャンはイエス様の贖いの御業のゆえに罪の赦しを与えられて、もう一度やり直せる救いを与えられています。その時に、いのちの回復(復活)を味わったにもかかわらず、再び自分の欲望願望中心のところに立ち返るなら、また霊的死の状態に陥るのです。

 娯楽を断ち切れという意味ではありません。神様は自由を与えてくださっておられます。大事なことは、「本分は何か」ということです。神のことばを食物のように食して心で吸収して生きる、ということが私たちのメインであって、娯楽がメインではないのです。

 仕事が苦しいならば、なおさらもっと神のことばを食して、神の国のための歩みを続けるためにはどうしたらいいんだろうかと、祈りつつ、みことばに目を向けることをすることが必要です。

 忙しいからできないのではありません。神のことばによって生きるということを悟れてないので、仕事は仕事、信仰は信仰と分けて生きているのです。神のみことばを魂の糧、エネルギーとして吸収するという考えがないので、それに時間を割くことができないのです。生活の中でみことばを体得することが不十分なのです。いかに神のみことばを吸収できる心を備えることができているかどうかです。

 せっかく神様は、キリストの死と葬りと復活によって、私たちが死んだ状態からもう一度やり直すことができるようにしてくださったのですから、もっと私たちはこの生活の中に霊的なことばを適用して生きるということをしていく必要があるのではないでしょうか。

3.「復活」とは何を意味するのか(ローマ6:4)

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」

A)キリストの死にあずかるとは、どういう意味ですか?

B)キリストとともに葬られたとは、どういう意味ですか?

C)新しい歩みとは、どういう意味ですか?

 キリストの死と葬りだけでなく、私たちはキリストの復活にも合わせられました。キリストは正しい人であったと認められ、神によってよみがえらされましたが、キリストの代価によって私たちもキリストと同じように罪なき者とみなされて、神様のご計画の中に立ち返らせていただいたのです。

 皆さんが霊も魂も健康であるためには、神様のご計画に沿ったみことばで心を強められなければなりません。それはキリストにあるあなたのビジョンです。神のみことばを通してあなたが生きるための道筋・目標です。

 王道は「互いに愛し合いなさい」というみことばです。すべてのクリスチャンの歩むべき王道です。それを実際に夫婦関係、家族、クリスチャン同士、という人間関係においてどのように実践できているでしょうか。

 あいさつは簡単な第一歩です。人間関係がどんどん進んでいくと、自分の思い通りにならないとか、自分の願いどおりに相手が応答しないとか、自分を中心に相手を見て不満が出てきます。その時こそ互いに愛し合いなさいというみことばの実践の時です。それは親切であったり寛容であったり、赦すことをチャレンジするときです。

 最初は葛藤があっても、段々と心が強められて寛容さが生れてきます。苦しいから、しんどいから、いやだから、とチャレンジをあきらめないことです。赦そうとチャレンジすることが神への信仰です。

 イエス様もそのようにして人生の苦しみを十字架に至るまで耐え忍んでくださいました。最期には「彼らを赦してください、何をしているか自分でわからないのです」と祈ってくださいました。イエス様は私たちのために復活を備えてくださったのです。私たちが互いに愛し合うという神の王道に歩むために、もう一度私たちをその道に戻してくださった、それが「復活」です。

 今皆さんは復活の中にいますか。神のご計画の中をこれからも歩んでいきましょう。失敗してもあきらめてはいけません。神様は一日に490回赦すとペテロに約束してくださいました。

 失敗が大きいと私たちは自分に失望し絶望します。それは心が砕かれ、へりくだっていくことです。最後には神様にゆだねる心にまでならせていただけるのです。神様にいのちを預け、人生を預けることができるようになると楽になります。イエス様は私たちを復活の道、神様のご計画の道へと置いてくださり、色々なみことばを示してくださることでしょう。

 みことばが吸収できるために必要な魂の栄養素は、「神の愛に目が開かれること」です。神様を敬い信頼する心が成長すると、みことばを吸収しやすくなります。

 愛を用いずに、神のみことばを実行しようとするのが律法です。神様は動機を大事にされます。愛の動機でみことばにチャレンジすることを神様は喜ばれます。結果は問われません。

 せっかく与えられた復活です。永遠の希望を与えられた復活です。どうぞ、みことばの吸収をすることを生活の中に適用してください。一歩一歩前に進んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2020年4月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

みことばが受けられた苦しみ   up 2020.4.5


主題聖句(詩篇12:6)
主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。

 

 

 

【内容観察】
ことばなる神キリストは、私たちのために苦しみを受けられました。それはいかに純化された贖い主であられるかを証明するものです。
 
 「純化された銀」とは、人間的なものが何もない、純粋な神からの贖いを象徴しています。人となられた「みことば」(イエス様)は、肉体の中で、この罪の世界の炉の中で試され続け、33年間のご生涯を通して罪に汚されず、最後まで純粋な神のことばとして生き抜いてくださいました。そして100%罪のないいのちとして、神の前に完全な贖いのいけにえとして受け入れられ、そして私たちは赦されたのです。
 
 今週は受難週です。イエス様はどんな苦しみを受け、それはどんな意味があるのかについて、今日は5つのポイントで皆さんにご紹介したいと思います。

1.従順を学ぶための苦しみ (へブル5:8〜10)
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
 
◎従順を全うされた結果、私たちにもたらされたものは?
 十字架の死に至るまで神様の愛とおことばに従い通し、自分の使命と働きを全うされたということを通して、私たちに何がもたらされたのでしょうか。(へブル5:8〜10)には、従順を学ばれた結果、完全な救い主となられ、大祭司ととなえられたと書かれてあります。
 
 祭司の主な働きは、人と神との間を執り成すことです。その祭司のリーダーが大祭司です。
 
 神と祭司の関係は、主人と執事の関係に似ています。執事は主人の代わりに主人的な働きをし、主人の命令を受けて主人の考えどおりに使用人を雇ったり、働かせたりします。
 
 私たちは「唯一まことの創造主なる神」と言われるお方を信じています。直接私たちはその主人から命令を受けることはなく、主人から命令を受けた執事からの命令を受けます。
 
 イエス・キリストは神が認めた唯一人の執事です。唯一の父なる神様に仕える私たちは、執事であるイエス様を通して、すべてのことを行動していくのです。「天地創造の神」という主人のもとに立てられた執事(イエス様)のもとで、私たちは御国に入って仕えていくという救いが与えられています。
 
 執事(イエス様)が主人(父なる神様)の手足のように完全に従い通すことができたからこそ、その忠実な関係によって、このような私たちでも神の国という大邸宅の中で働くことができ、御国の国民として永遠を約束されていることなど、色々と考えることができます。すべては、この執事(イエス・キリスト)の従順を学ぶ苦しみがあってのことなのです。

2.私たちが神の愛を知るため(第1ヨハネ3:16)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
 
◎神の愛を知ることができていますか?
「それによって、私たちに愛が分かった」と、ヨハネは語っています。私たちはイエス様の十字架の苦しみを通して、愛がわかったでしょうか。
 
 イエス様がいのちを捨てられた、という時に私たちは「十字架で苦しみを受けて死なれた」ということだけを考えますが、実はイエス様の苦しみは、乙女マリアに宿った時から、人としての不自由な肉体を持たれた時から始まっていたのです。
 
 私たちのためにいのちを捨てられたというのは、十字架でいのちを捨てられただけでなく、ある個所には「自分を喜ばすことをせず」とあるように、人生全てを捨てられたのです。
 
 そうして救い主として罪なき完全なものとして33年半生き抜かれ、最終的に十字架で命を捨てる時まで、神に従順であられ、生涯全ての苦しみを通られ従順を学ばれたお方であると考えていただきたいと思います。

 さて、それによって皆さんは神の愛をどのような愛として知ることができたでしょうか。願いが応えられたら愛されてると思う人が多いのです。しかしクリスチャンはいやなことも与えられるということを知っています。
 
 「愛はまるで鎮痛剤のようなものだ」と言った人がいます。「人生の苦しみの時に人から愛されているということに気が付くと、その人生の苦しみも痛みも治まる。時に、愛が苦しく痛みを伴うようなこともある。それでも愛する愛は消毒薬だ。痛みが強ければ強いほど傷口は早く治る。痛みを伴う愛の方が鎮痛剤の愛よりも、成長が早い。」
 
 クリスチャン生活にはそれぞれ色々な重荷がありますが、神様から与えられる重荷の苦しみは、私たちの罪の傷を治します。世から受けた霊的傷さえ治します。痛みが傷を治す力を生むからです。
 
 イエス様も痛みのある愛を33年半持ち続け味わい続けられました。私たちを愛する愛です。世間から反対され、ねたまれ、言いがかりをつけられ、良いことをしているのに苦しめられましたが、父なる神様からの使命と私たちへの愛のゆえに、痛みのある愛をもって私たちに接してくださり、その救いを与えてくださっていることを思うと、感謝ですね。
 私たちは神の愛を少しでも知ることができているか、確認してみてください。

3.神の愛がどこにあるのかを知らせるため(第1ヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

◎神の愛がわからなくなったとき、どうすれば良いですか?
 「ここに愛があります。」キリストのご生涯そのものが、神の愛そのものです。私たちが迷った時は、福音書を通して、その中に神の愛を見つけて頂きたいと思います。

4.私たちに模範を残すため(第1ペテロ2:20〜21)
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

◎その模範には、どのような意味があると思いますか?
 「その模範」とは善を行なっていて苦しみを受けることです。 
(第1ペテロ3:9)には、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とも書いてあります。
 
 相手が善人であれ悪人であれ、私たちのすることは、祝福することです。悪人を祝福するとは悪人が善人に変わるように祝福することです。敵を愛することは苦しく、感情が引き裂かれる痛みがあります。
 
 しかし、私たちは祝福を受け継ぐために救われました。そのように神様が見てくださり、わたしの将来を祝福された将来と決めてくださっていますから、祝福することは私たちの使命です。イエス様と同じです。復讐することが私たちの務めではありません。  
 
 そのことを私たちに教えるために、イエス様ご自身が善を行なって苦しみを受けることを通して、祝福を受け継ぐ私たちの生き方はこれだと、模範を残してくださったのです。
 
 復讐心は人の心の罪深いところの反応です。私たちはそれを癒していただいて、聖霊の力をいただいて、祝福し、勝利していきましょう。そのお手本を与えられたのがイエス様です。

5.私たちが「いやされる」ため (第1ペテロ2:24)
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

◎もっとも大切な「いやし」は何でしょう。
 イエス様ご自身や初代教会では、よく「いやし」が行われましたが、現代では、そのようないやしは、あまり見られなくなりました。
 
 ノンクリスチャンにとっては、しるしと奇跡、いやしが、信仰に導かれる証しとして必要であることが聖書に書かれてあります。
 
 信仰者にとって「いやし」は、きよめのために大切です。わたしたちがきよめられていくために、病気を通して魂が練りきよめられ、魂が悔いくずおれるということが目的としてなされることが多いと思いますが、もっと大切ないやしは何でしょう。
 
 一番大切ないやしは「魂のいやし」です。アダムの時から私たちは罪の病をもって生まれています。罪の病を取り除くのはイエス様の十字架の贖いしかありません。愛する兄弟姉妹、あなたは救われていますか。魂のいやし、霊のきよめを受けていますか。
 
 その証はイエス様に従い続けていることです。何が起きても神は良き神だと信じ続ける、その信仰があなたがいやされている証拠です。
今、病気になっている人、落胆してはいけません。あなたが救われているということを、もっと強く神の前に持つことができるための試みの時なのです。謙虚に神のことばに従っていこうと、みことばに心を向けていただきたいと思います。
 
 イエス様の十字架はまさにその苦しみによって、サタンの責めから私たちをかばってくださっていることを思うと、心からこの愛について行きたいと思います。
 
 みことばなるイエス・キリストは今も私たちのために愛の苦しみを受けておられると言えるかもしれません。

 

【俳句】
花大根  見たことはないが  咲いている

 私たちは大根の花を見ることはありませんが、だからといって花が咲いてないということはありません。

 大根は中東あたりが原産地です。その原産地から大根の種が世界に受け継がれて、弥生時代に日本に伝えられました。

 私たちがキリストを信じてここにいるということは、キリストが2千年前にユダヤ地方に生まれ、当時の世界を歩まれて、神の証しと教えをなされ、弟子たちや初代教会がその福音の種を世界に蒔いていったという事実があればこその証しです。

 あなたの信仰をたどっていけば、イエス・キリストに到達します。十字架で受けられた苦しみも、乙女マリヤに宿ったキリストの33年半の苦しみの人生も、すべてあなたの存在を通して事実であるということの証しとなっているのです。
 
 私たちはイエス・キリストを見たことはありませんが、その信仰は受け継がれて、今私たちの内に花を咲かせているのです。

 

 

 

 

 

■2020年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神のことばによるきよめ   up 2020.3.29


主題聖句(ヨハネ15:3)
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

 

 

 

【内容観察】
今日までわたしについて来たあなたがたは、わたしがあなたがたに語って来た「神のことば、教え、キリスト」によって、きよくされて来たのです。

 イエス様と生活を共にした弟子たちは、ずっと「神のことば、教え、キリスト(油注がれた救い主)」についてイエス様の語られることを聞いてきました。
 その弟子たちにイエス様は「ずっと聞いてきたあなたたちはきよくされてきました。一つ一つ汚れが取り除かれてきて、あなたがたはきよいのです」と言われました。
 今日は6つの質問を通して「神のことばによるきよめ」とはどういうことかをしっかり握っていただきたいと思います。

1.このことば(主題聖句)は、いつ、どのような状況で語られたものですか?(ヨハネ18章を参照)
 ヨハネ18章はゲッセマネの園でイエス様が捕えられて大祭司の所に連れて行かれるところが書かれています。 
 そして、13章から17章までは、イエス様が3年半の公生涯の最後に、神様のみこころを濃厚に語られたまとめの章、イエス様の遺言の章とも言われています。
 その中の(15章3節)は、「ぶどうの木とその枝」の話の中の1節で、十字架にかかられる日の前夜という状況で、イエス様が語られたおことばです。

2.「もうきよい」に当てはまる人々は、どういう人々ですか?
 内容観察にありますように、「今日までわたしについて来たあなたがた」、すなわちこの最後の夜に至るまで、ずっと生活を共にしてきた弟子たちに、イエス様は「もうきよい」とお話をされました。
 ヨハネ6章には、「イエス様の血を飲み、肉を食べる」という話につまづいて、多くの者が離れていったことが書かれてあります。
 イエス様の血を飲むとは神様の愛を信じる事、肉を食べるとは霊の糧として神のことばを霊的に食することです。しかし、目に見える血や肉のこととして聞いた人々や、それまで弟子としてついて来ていた人々さえも「ひどい言葉だ」と言って離れ去って行ったのです。
 しかし、12人の弟子たちは、わかってもわからなくても、疑いや失敗があっても、あきらめず最後のその時までイエス様について行きました。
 そういう人たちにふさわしいことばとしてイエス様は「わたしが話したことばによって、もうきよいのです。」「罪や汚れの一つ一つが洗い落されてきよくなっているのです。」と、ここでお語りになったと解釈できます。

3.3年半のあいだ弟子たちは、イエスと共にどのように過ごして来たかを福音書を参考に想像してみましょう
 イエス様はユダヤ人として普通の生活をされていたと思われます。特別なことと言えば、早朝また夜通し、よく祈られたということが記されています。
 弟子たちはどれほどイエス様に合わせることが出来ていたのでしょうか。出来ていないからと言って、イエス様が叱責や注意をされたという記事も見当たりません。
 大事なことは何でしょうか。失敗しても祈っていなくてもイエス様についていくこと、これが一番の基本です。従っていくことは信頼の実、証しです。
 この闇の世界、罪の世界の中で、光なることばによって歩むということは、私たちの学びであり訓練であり、成長していくためのテストです。弟子たちが3年半、どんな教えがあり、どんな迫害や反対があっても、最後までついて行ったように、私たちも天に召されるまで、しっかりとイエス様に従っていくということが大事です。
 イエス様が捕えられた時、弟子たちは皆逃げてしまったと書かれてありますが、それは預言の成就ですから、逃げることもみこころを行うことであり、みことばによって動かされたと言えるでしょう。
 イエス様と共に歩むとは、イエス様のお言葉に動かされるということです。イエス様の行く所について行ったというのは、みことばが語られる内容についていった、という意味にもなるのです。
 福音書の中に記された弟子たちとイエス様との過ごし方を参考にして、普通の生活の中で神のことばと共に過ごすとはどういうことか、皆さんも考えて悟らされていただきたいと思います。

4.もし、あなたが彼らの中にいたなら、どのように過ごしていたと思いますか?
 弟子たちも初めの頃は「イエス様の言ってることは、さっぱりわからない」という状態で、奇跡やしるしを見てついて行く気になったり、地位や名誉を求めていたかもしれません。人間的な肉的な弟子たちだったと思います。
 3年半をイエス様と共に過ごしてきて、弟子たちは十字架の前夜にはイエス様のおこころを少しでも感じ取ることが出来て、「あなた方はもうきよいのです」と言われるほどに心が変えられていました。
 イエス様に従ってきた、キリストに属してきた、これが「きよい」ことの最低限の条件です。

 私たちも大事なことは、「礼拝に行こう」という気持ちになることです。それが「あなたはもうきよい」といってくださるイエス様のお気持です。感謝ですね。
 ただ、それを当たり前のこととしていたのでは、イエス様の思いが無駄になってしまいます。こんな私をきよいと言ってくださる神様の寛容と柔和さを心から感謝して、至らない自分を受け止めながら、神様に従っていく心を持って、神のことばであるイエス様と共に過ごすチャレンジをされてみてはいかがでしょうか。

5.「ぶどうの木とその枝」の話と「きよめ」との関連性を考えてみましょう。(ヨハネ15:1〜5参照)
 3節の主題聖句は、1〜5節のぶどうの木とその枝のたとえ話の中間で語られたみことばで、話の流れからすると大変不自然です。このようなことがヨハネ伝には多いのですが、むしろ、そのような個所こそ神様のお気持ち、意図的なお考えが短いことばで語られていると見るべきで、それを聖霊によって理解し読み取ることが必要です。
 
 1〜5節をひも解くキーワードは「とどまる」です。皆さん、チャレンジしてみてください。

6.キリストと共に過ごすとは、みことばと共に過ごすことです。
(詩篇119:105)をヒントに、みことばと共に過ごすことを具体的に考えてみましょう。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩編119:105)

 私たちは暗闇の世界に歩んでいます。道を誤らないためには、今日の足元を照らすみことばと、将来の行くべき道を照らすみことばが必要です。
 あなたの生活の中で、みことばが足のともしびになっているでしょうか。将来を進んでいく光となっているでしょうか。
 みことばを持っていなければ足元も照らされず、行くべき道もわからない、暗闇を手探りで歩むようなクリスチャン生活になっていないでしょうか。
 具体的にどんなみことばがあなたの今日の歩みを照らし、つまずくことがないように歩めているでしょうか。
 自分の将来についての神様のご計画が、みことばを通して見えているでしょうか。
 あなたのクリスチャン人生の中で、少し先にある目的目標を語ってくださっているみことばを持っているでしょうか。
 そのように、みことば(光)と共にすごす生活とはどんな生活なのかを、自分の生活に合わせて考えてみてください。
  
【俳句】 
 春景色と  霊のきよめは  神のわざ

 満開の桜を見ると本当に美しくきよらかさを感じます。神のみわざです。同じように私たちのきよめも、神様のみわざです。

 

 

 

 

 

■2020年3月22日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘伝道師)

主を信頼する聖徒の守り   up 2020.3.22


主題聖句(詩篇62:1〜2)
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

 

 

 

 今日は、主を待ち望む者は決して揺るがされないということを、ダニエル書から見ていきたいと思います。

1.ダニエルの守り(ダニエル6:1〜10)

? 聖い神の霊が宿っていた人(1〜3節)  
 ダニエルは10代の時に、イスラエルからバビロンに連れてこられた捕囚の民の一人です。バビロンの王の宮廷に仕えるにふさわしい者として選ばれて、バビロンで更に養育され、バビロン、メディア、ペルシャの3代の王に仕える人となりました。

 彼は王族か貴族の出身で、容姿は美しく知恵と知識に富み、思慮深く、「優れた霊が宿っていた」とも書かれてあります。

 ダニエルは内側に聖霊を頂いておりました。聖霊の賜物(知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける力、預言の力、等)を充分に発揮し、聖霊の実も豊かな、謙遜、自制、愛の人でした。

◎私たちの内にある聖霊
 私たちにも聖霊の賜物、そして御霊の実が与えられています。それを用いて多くの人に愛を流し、多くの人に福音を知らせていくことが私たちの使命だと思います。

? 忠実な人のきよさ(4節)  
 ダリヨス王は全国に120人の太守を任命し、その上に3人の大臣を置いて統治しようとしました。その3人の内の一人にダニエルが選ばれました。

 ダリヨス王は、ダニエルがあまりに優れていたので、更に上の地位に置こうとしました。他の大臣はそれを妬んで、ダニエルの怠慢や欠点を見つけてそれを訴える口実にしようとしましたが、何もそれが見当たらないほど、ダニエルは忠実に完璧に職務を果たしていました。

◎私たちの忠実
 ダニエルのように完璧とは言えませんが、私たちも神様の前に忠実なクリスチャンとしてきよく生きていきたいと願い、そのような人生を目指して歩んでいます。

? 大臣たちの悪だくみと罠、王の第一の法令(5〜9節)
 そこで大臣たちは「ダリヨス王以外、30日間は人にも神にも祈願してはならない、この法を破るものは獅子の穴に投げ込まれる」という禁令の文書を作り、王から署名をとりつけます。このようにダニエルを宗教的なところから陥れる罠を仕掛けたのです。

 しかし、それを知ってもダニエルはあわてることなく、いつものように日に三度エルサレムに向かって祈りを捧げました。

◎私たちへの迫害と罠
 私たちも仕事を真面目にしていても、日本の社会では宗教的なことで差別や迫害を受けることがよくあります。そういう中にあっても私たちは神に忠実に仕えていきたいと思っています。

? 祈りの人、ダニエルのきよさ(10節)
 ダニエルは禁令が出たにもかかわらず、いつも通り日に3度の祈りを続けました。
 この夕、朝、真昼の3度の祈りについて、(詩篇55:16-17)にこのように書かれてあります。

「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」
 日に3度、エルサレムの方に窓を開けて、ダニエルは何を祈ったのでしょうか。

(T列王記8:48〜49)にヒントがあります。
「捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕らえていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。」(ソロモン王の祈り)
 
 ダニエルはイスラエルの民のための執り成しの祈りをしていたと思われます。

◎私たちの祈りの使命  
 私たちも世界の人々、同胞の人々、隣り人のために、囚われ滅びに向かう魂の救いのために必死で祈る必要があります。また、今はどこに向かって祈るかという問題は私たちにはありません。私たち自身が聖霊の宮ですから、どこにいても主に祈ることが出来ます。私たちにも執り成しの祈りの使命があるのです。

2.ダニエルの守り(ダニエル6:11〜22)
? 王の悩み(11〜14節)  
 王様は、自分が署名した禁令がダニエルを陥れるものであったことに気が付き、ダニエルを助けようと努力しました。しかし、決められた法律は変えられません。
 
 獅子の穴に投げ込まれ、大きな石が穴の口に置かれました。王はダニエルに話しかけて、「あなたがいつも仕えている神があなたをお救いになるように」と祈りました。イスラエルの神は人を救う力のある生ける神であることを王はダニエルから教えられていたと思われます。

? 信頼の人ダニエル、獅子の穴に投げ込まれる(15〜17節)
 ダニエルは死を目前にしてジタバタしませんでした。神様の前に静まるきよい信仰の持ち主でした。

(イザヤ30:15)「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

(イザヤ41:10)「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」

◎私たちの神への信頼  
 昔、士師の時代にギデオンは、集まった無数の敵ミデアン人アマレク人に対し、主に励まされ主を信じて300人の軍勢で戦いに出ました。角笛を吹き鳴らし「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫んだだけで、敵陣は皆走って逃げ出し恐れ混乱し、同士討ちが始まり、内側から総崩れとなりました。主がそのようにされたと書かれてあります。
 
 私たちは、たとえ千人が傍らに倒れ、万人が右手に倒れても、恐れず主を深く信頼し続けるものでありたいと思います。

? 王は断食し徹夜の一晩を過ごしたのか(18節) 
 王は一晩中断食して眠気も催さなかったとあります。ダニエルの無事を願う王様の真剣な必死の気持ちが伝わってくるようです。

◎私たちの真剣な祈り
 私たちも誰かを救いたい一心で、その魂の救いのために、断食して徹夜して祈ることがあるかもしれません。真剣な祈りが必要です。

? 王のダニエルへの叫び(19〜20節) 
 夜明けと同時に王は獅子の穴に急いで向かい、近づいて悲痛な声でダニエルに呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

? 獅子から救われた謙遜な人、ゆるしの人(21−22節)
 そこでダニエルが応えます。「王様。永遠に生きられますように。わたしの神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので獅子は私に何の害も加えませんでした。」この答えの中に、ダニエルの謙遜とゆるしを見ることができます。
 
 図らずも王様はダニエルを亡き者にしようとする悪い大臣たちの策略に荷担してしまいましたが、ダニエルは王様に仕える者としての謙遜な態度で、王様への祝福を一番に述べて責めることなく、他の大臣たちへの恨みごとすら口にしませんでした。ダニエルの謙遜とゆるしの心は素晴らしいと思います。

◎私たちの謙遜とゆるし
 私たちもクリスチャンであるということで迫害されたり、ひどい目にあったりすることがあるかもしれません。
 
 しかし私たちはダニエルにならって謙遜になり、裁きは神にゆだねて、かえって敵を祝福するクリスチャンでありたいものです。

3.ダニエルの守り(ダニエル6:23−28)

? 王の喜びと悪者への処罰(23〜24節)
 王様は非常に喜びました。ダニエルが無事だったことはもちろんのこと、奇跡を起こされたイスラエルの神が生ける神であることを知った感動のゆえに、王は非常に喜びました。自分も必死で祈ったからこそ与えられた喜びでした。そして、悪をたくらんだ大臣たちは処罰されました。

? 第二の命令とダニエルの繁栄(25−28節) 
 聖霊に満たされた聖徒ダニエルが、主を信頼し、獅子の穴から救われただけでなく、統治者であるダリヨス王からは、メディアとペルシャ全土に、次のような素晴らしい命令が出されました。

「あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。」  
 
 これは、キリストが墓からよみがえられて復活された「勝利」の型だと思います。

 悪い大臣が計略によってダニエルを捕えて合法的に穴に投げ込んだ時、彼らは「勝った」と思ったでしょう。しかし、ダニエルは穴から救い出されます。逆に自分たちが獅子に殺されてしまいました。大逆転が起きたのです。
 
 同じように、罪のないイエス様が十字架につけられ墓に葬られたのを見て、当時の祭司長やパリサイ人たちは、「勝った」と思ったでしょう。

 しかし、イエス様は死を打ち破り、よみの力に打ち勝ち、三日目に勝利をもって墓からよみがえられました。ハレルヤ!神様は逆転される方です。主を信頼し主に守られる聖徒たちには、神からこの逆転勝利が来るのです。
 
 どんな時にも私たちは神様を信じ、あわてず揺るがない信頼をもって、日々の働きをダニエルのように忠実に行い、イエス様に魂の救いを祈り求める務めを果たす中で、神様は私たちに勝利を与えられるのです。
 
 たとえ、この世で死んだとしても私たちは天国に凱旋するという勝利が与えられているのです。
 
 今、世はとても騒がしい時代です。しかし、祈りつつ静かに神様の助けを信頼して待つ必要があります。聖いダニエルの信仰にならっていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2020年3月15日 日曜礼拝メッセージより(辻 百合子牧師)

祈りは終末に臨む私たちの心を神に対して準備する   up 2020.3.15


主題聖句(第1ペテロ4:7)
万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

 

 

 

1.万物の終わりが近づいた。
(1)警告のサイレン
(2)聞く耳を持つ
 A)だれが発した言葉なのかを知る。 
 B)その方の権威を認める。
 C)その結果「主を恐れる心」「主の前にへりくだる」

(3)忠告に従順に従う者となる
 「今、津波が来ている」という緊急のサイレンが鳴れば、私たちはそれを聞いて信じて必死で高い所に走って逃げます。
 今日の主題聖句の冒頭、「万物の終わりが近づきました。」これは警告のサイレンが鳴っている状況です。
 私たちは、この警告が主のおことばであることを知って、主の権威を認め、主の前にへりくだり、主を恐れる心をもって、主のおことばに従順に従います。神のおことばが私たちに緊急に語られてきたら、私たちは聞く耳を持ち、聞く耳を養うことが大事です。 
 今、私たちは警告のサイレンを聞いています私たちが次にすることは何でしょうか。それは「祈ること」です。 

2.「祈る」
(1)神との親密な心の霊的交わりをもつこと。
 「祈る」とは神に心を向ける事、心を開くことです。
 旧約の昔、ナアマン将軍が皮膚病に犯された体を、治りたい一心で、プライドも頑なさも打ち捨てて、神のおことばに従って軍服を脱ぎ、裸になってヨルダン川に浸ったように、私たちもありのままの心をもって幼子のように神の前に出る、この姿勢が大切です。そこで私たちの祈りが形だけの祈りになっていないか振り返ってみましょう。また、聞かれるか聞かれないかという自分の願いや都合にばかり気を取られず、そのような親密な関係の中で、自分も心の内を知っていただき、神もそのお心を打ち明けてくださるという交わりを体験することが大事なことです。神が願っておられる祈りは、親密な愛の心で霊的交わりを持つということなのです。

(2)神との契約関係に入ること。  
 神との親密な交わりが持てた祈りは、私たちが聖い神との契約関係に入った印です。結婚すると夫と妻が結び合わされて一つとなっていくように、私たちも神との契約関係に入ったことで、私たちはイエス様にあって聖い神に属する者として神に受け入れられていると確信します。それゆえ私たちの祈る祈りを神は聞いてくださると知るのです。
 
(3)霊の呼吸である。
 「祈り」は呼吸に似ています。私たちは祈りの中で、神から聖い霊をいただき、また神の前に祈ることで、私たちの内から神の霊が流れ出ていきます。その霊的呼吸によって私たちの霊と心と体には、霊的ないのちがみなぎっていきます。祈りをやめてしまったら霊的生命も止まってしまうのだということを覚えておいてください。

(4)祈りの生活は、聖いキリストの姿へと変える。
 祈りとは、聖い神と霊的にお交わりすることです。神の聖い愛の霊に触れていくなら、私たちはいつのまにか、聖いキリストの姿へと変えられてきている自分に気が付くことでしょう。

3.具体的に祈るための大切な2つのポイント
(1)心を整える 
 旧約の祭司の仕事は、「モーセの幕屋」で神にお仕えすることです。そして毎日まず最初にすることが、聖所の中にある燭台の火を絶やすことなく灯し続けておくことでした。そのために灯心を整えることと、良質のオリーブ油を準備しておくことが定められていました。

A)燭台の火を絶えずともし続けるため、灯心を整える。
(参照レビ記24:3〜4 )
 当時、麻の布や撚糸を灯心にしていましたから、心切りバサミというもので常に灯心を切り揃えて整えることが必要でした。

【霊的真理】
 私たちクリスチャンは、御霊に仕える霊的祭司として生きるという使命が与えられています。聖霊様は、イエス様のお心を、私たちの心の中に伝えてくださいます。そして私たちは、心がいつも聖霊の火で燃えて主にお仕えできるように、毎朝祈り、デボーションをして、神に示されたなら悔い改めて、いつも神のお心を選んで生きていく、というクリスチャン生活を行なっています。
 一方で、私たちには世的なものを願って肉に生きようとする自分勝手な心も持っています。神とのお交わりを妨げる不必要な肉の心を、聖霊によって切り捨てていく(御霊により心に割礼を施される)ことが必要です。それが、心切りバサミで灯心を切り揃えるという表現で、そのように心を整えることを、神は祭司としての私たちに願っておられるのです。
 日々、古き肉に死んで新しき人として生きる、水のバプテスマの真理が私たちの人生に行なわれていくように、私たちも求め努めていきたいと思います。

B)灯火用の質の良い純粋なオリーブ油を準備(参照レビ記24:2 )
 旧約の時代、オリーブの実を砕きに砕いて粉々にし、石の圧縮機でひいて絞られて出来上がった油は、素晴らしくよく燃える上質のオリーブ油でした。

【霊的真理】
 私たちが祭司として聖い心で神にお仕えし、祈りの奉仕、神とのお交わりを続けるためには、聖い油注ぎが維持され準備されることが大切です。 
 私たちは、苦しみ、試練、人生の困難な出来事、痛み、悲しみ、そのようなところを通らされて、頑なな自分勝手な心が折られていきます。神はご自分の聖さに与からせるために私たちをオリーブの実のように砕かれます。砕かれれば砕かれるほど、私たちから質の良い純粋な油が流れ出るようになります。
 そうして私たちは、心燃やされて聖い油注ぎの中で奉仕を続けることが出来ますし、‌いのちの輝き、素晴らしい喜びに生かされるクリスチャン生活を送ることとなるのです。

C)注意点
◎ローマ13:14=肉の欲のために心を用いてはいけません
 肉の欲のために心を用い続けると、聖霊の油注ぎが減っていき、聖さが失われ、神の民のしるしが消えていき、肉的で、世と妥協し、塩気を無くした塩、形だけのクリスチャンになってしまいます。

D)ツァラアトのきよめ
◎レビ13:13〜14=ツァラアトのきよめ
 当時、ツァラアト(皮膚病)の状態が聖いか汚れているかは、生肉が患部に現われているかどうかで祭司が判断しました。生肉が現れている人は汚れているとされました。
 「生肉」は、霊的には汚れた罪人の心を現わしています。肉の欲、この世の価値観を神より優先させるなら、それは生肉が現れている状態で、神に受け入れられないささげものになります。ですから、肉の欲のために心を用いてはいけません、と警告しておられるのです。

E)サタンの策略
◎ローマ12:2=この世と調子を合わせてはいけません
 サタンは神の私たちへの永遠のご計画を台無しにしたいがゆえに、私たちをサタンにひれ伏させよう、支配しようと策略を用います。
 もし、「肉の欲望から離れたくない」という思いや状況がすでにあなたにあるなら、サタンの策略はかなり功を奏しています。
 キリストの血による贖いの御業のゆえに、「あなたは聖い」と宣言されているのです。あなたはその「聖さ」、その「救い」を、自分の意志で捨てることにならないよう注意してください。サタンはあなたをねらっています。この世と妥協したクリスチャンにならないようにと、神は願っておられます。

F)祈りによる戦い
◎出エジプト17:8〜16=アマレク人との戦い  
 私たちの救いを妨害しようとやってくる肉の誘惑の型が「アマレク人」です。このアマレク人との戦いにおいて、ヨシュアが最前線で戦っている間、丘の頂きではモーセが手を上げてずっと祈っていました。モーセが疲れて手を下ろすとアマレク人が優勢になるので、味方に両の手を支えられながら、日が沈むまで手を上げて祈り続けて、イスラエルはアマレクとの戦いに勝利しました。
 私たちも祈りなくして戦いに勝つことはできません。祈りによって御霊の力が強まり、肉の力が弱まり、そして勝利を得る、この祈りの戦いを最後までしていきたいと思います。
 それを妨害する感覚や感情・思いは、サタンがもたらす欺きです。それを振り切り踏みつけて、神のおことばに従っていくように、祈りの中で戦いをするならば、必ず勝利します。この勝利によって私たちはキリストの姿に変えられていくのです。
 サタンもこの終わりの時、私たちを滅びの中に連れて行こうと必死です。私たちは迷わされないように、騙されないように、燭台の光(御霊の啓示を受けた神のおことば)を消さないように、むしろ強められるように、デボーションと祈りを決して止めないようにしたいと思います。

G)霊的礼拝
◎ローマ12:1=心を完全にささげる
 賛美の中で深い神の臨在の中で神と交わることが出来るようになります。自分の肉や自分の考えで、心を燃やそう、神に仕えて敵にうち勝とうとしても、それは祭司ナダブとアビフが異火をささげて退けられたように、神には受け入れられません。
 御霊によって礼拝し、神だけに望みを置いて、完全に神に自分の心をささげてお任せする真の礼拝者を、神は求めておられます。
 神とのお交わりが深ければ深いほど、神に自分をささげて、聖いものになりたいと願うようになるのです。それによって神の前に聖い生きた供えものとなることが出来ます。

(2)身を慎む
A)身を慎む生活  
 身を慎むために、祈りにより心を静め自分の行動をよく見張り自分を制御すること、御霊により自制心を養うこと、そのような生き方です。
 終わりが来たと言って混乱した生活をしないことです。聖い神に属する民のアイデンティティーを失うことなく、キリストが来られるまで、落ち着いて自分のやるべきことをやりつつ、祈るための静かな時間をとっていただきたいと思います。そして、集会に集まることをやめたりしないで、神の民と共に祈り賛美し礼拝し、神を喜び互いを喜び、互いに励まし合うことも身を慎む生活の一部です。

B)栄光を神に帰す人生を歩む
 分を超えない、自分をわきまえた謙虚な心で全ての栄光を神に帰すことができる人生を歩んでほしいと望まれています。
 未信者の方に、ここには神の愛がある、神の聖さがある、神の喜びがあると思っていただけるような、私たちの生活にそれが現れるような歩みをしていきたいと思います。
 それは私たちの心に、燭台の光(聖霊の火)がともし続けられ、輝かせ続けられてこそ、神に栄光を帰す人生が送れるのです。

<まとめ>
●私たちは主の祭司として毎日のデボーションを通し御言葉と祈りによって心を聖く整えていきましょう。

●祈りは日々の霊的呼吸で聖い神との交わりに入っていく事です。

●私たちは新約の祭司として神に仕えるため聖い油注ぎが常にあり失われることがないよう、毎日目を覚まして祈っていきましょう。

●そのため、神が住まわれる私たちの心に、主の忌み嫌われるものを置く事のないよう、祈りの中でそれらの肉のものを切り捨て、取り除いていきましょう。

●万物の終わりが近づきました。今、御言葉を通し警告のサイレンが初めよりもっと大きく鳴り響いています。「祈る」という行動に移す時は「今」です。祈るのに心を整えるための御霊の心切りバサミで肉の心を切り捨てて心を聖くされ、御霊による心の割礼が完全に施されるよう求めていきましょう。試練や苦しみ、肉が嫌がる事を逃げず、主の前にへりくだり、悔い改め、心砕かれるよう、そして心の中にある聖霊の火がもっと輝くよう更に求めていきましょう。祈りは終末に臨む私たちの心を神に対して準備します。今が祈る時です。

 

 

 

 

 

■2020年3月8日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

目をさまし、主に心を向ける   up 2020.3.8


主題聖句(マタイ24:42)
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 

 

 

 今世間では、コロナウイルスの話題でいっぱいです。何が正しいのかもわからないくらいに情報が錯綜しています。日本だけでなく、世界が今混乱しています。このような状況下にあって、わたしはメッセージで何を語るべきかを主に問いました。答えは、このような状況だからこそ、「目を覚まし、主に心を向ける」ということでした。

 

〇この世の情勢と聖書の記述

 今は“終わりの時代”であるとよく耳にしますが、正直私はそれを受けいれたくありませんでした。のほほんと平和にクリスチャン生活を送りたいからです。しかし、今の情勢をきっかけに、聖書に書かれている世の終わりの前兆と照らし合わせると、ほとんど一致しているのです。

ルカ21:10〜11
それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。

 イエス様が弟子たちに世の終わりの前兆について語られた箇所です。天からのすさまじい前兆と書かれてある部分以外は、実際にこの世界に起こっています。疫病と表現されている部分が、まさに今のコロナが当てはまるでしょう。このように、聖書は絶対で普遍的かつ変わることのないものだと信じる我々にとって、今はもう世の終わりの前兆だと認め受け入れざるを得ないのです。

 

〇クリスチャンであることの素晴らしさ

 しかし一方でクリスチャンであることの素晴らしい面が浮き彫りになります。それは、聖書に書かれている前兆が何故起こるかを“知っている”ということです。そしてそれを起こそうとされているお方が、私たちを創造し、天地万物を創造された神であり、その神である方を主と告白し信じ、私たちに向けられた愛を知り、その愛に応答したのが、紛れもない私たちクリスチャンなのです。
 人の理解を超えたことが起こっても、全ては主の御手によるご采配であり、ゆるしの中で行われていることなのです。そのような考え方に立ち返ることができるのと、できないのでは、人の内に起こる平安は大きな違いがあるでしょう。

 
〇現代に生きるクリスチャンとしての心得

ルカ21:34〜36
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

 

イエス様は「いつも油断せずに祈っていなさい。」と言われました。私たちは主に祈りをささげます。主を心に留め祈ります。ですから、いつも祈るということは、いつも主に心を向けるということなのです。

終わりの時代に生きているという自覚と、それに備える覚悟を改めて持つことを主に求められているのだと思います。

 

 

 

 

 

■2020年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

二心のきよめ   up 2020.3.1


主題聖句(ヤコブ4:8)
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

 

 

 

 再臨の主にお出会いするために、今年は「きよめられることを追い求める」を表題とし、(へブル12:14)をモットーのみことばとして、学びを続けてきております。
 今日は「二心のきよめ」について(ヤコブ4:8)から見ていきたいと思います。

1.主題聖句内容観察(ヤコブ4:8)
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」
A)手を洗いきよめる(katharizo)
 「手」は行い、働きを意味する。外面的行為を意味する表現。
 
 実際に悪いわざを捨てて良いわざに励んでいくという意味にとらえることができます。

B)心を清くする(hagnizo)
「hagnizo」=hagiosと同じ「神聖」の意味。
 旧約の規定からくる祭司による聖めの祭儀や倫理的な聖さに使用されるギリシャ語。

  神様につく心とそうでない心がある時、心を清くするとは、神様に属する心ひとつにしなさいと解釈してよいと思われます。
 
C)二心の者
直訳は「二つの魂を持つ者」という意味。ヤコブ1:6〜8にも使用されているところから、疑う信仰や不安定な信仰を持つ者のこと。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ1:6〜8)

【内容観察】
的外れをしている人たち。悔い改めて神に近づく正しい生活をしなさい。そうすれば、神は喜んであなたがたに近づいてくださいます。ですから、正しい良心に基づいて善い行ないをするように励みなさい。また、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のような不安定な疑いのある信仰ではなく、神の愛への全き信仰を保ちなさい。
 
 私たちは神に近づくより世の中に近づいていないだろうか。神に近づき神を求めると言っていても、実際の生活はそれと反対の方向に進んでいるのかもしれない、そういうところを吟味するようにとヤコブは注意しています。
 イエス様が天に帰られてから、随分時間が過ぎました。世の大きな流れの中で、段々と人はイエス様の語られた正しい信仰を保つことができなくなっています。
 
 流れがゆるやかな時は、自分が流されていることに気づかず、方向転換の必要を感じません。また急流のときは気が付いても流れが激しくて方向転換できません。滝つぼに近づくほどに流れは速くなります。
 
 再臨が近いという状況の中で、日本では99%以上の人が神様から遠のく流れにあります。私たちはそういう中にいますから、自分は神に近づいているのだろうかと、よく吟味して世の流れに流されてしまわないように気を付けていただきたいと思います。
 
 御子を犠牲にしてまで示してくださった「神の愛」を疑う「不信仰」、何かが起きるたびに揺れ動く不信仰は、神様が悲しまれます。
 
 私たちは現実の流れの中で目に見えるものを通して判断するのではなく、イエス様の十字架の御業がなされた歴史的事実を通して「神の愛」を堅く信じていきたいと思います。
 
 では、疑うという二心をどのようにしてきよめることができるのかを次に見ていきましょう。

2.罪を言い表すことによるきよめ(第1ヨハネ1:9)
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ(katharizo)てくださいます。」

 罪を赦し、悪を善に変えてくださる神様の約束のことばです。ポイントは自分の罪を言い表すこと、悔い改める心です。

A)悔い改める心(ヘブル9:14)  
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 
 罪を意識する心がないと悔い改めることはできません。「これは神様への不信仰だな、神さまの愛を疑っている行動だな」と自分の罪に気付くためには、その善悪を測るための良心がきよくなくては正しく判断することはできません。

 罪を指摘し、罪の自覚を与え、咎めをもたせて、それから離れようという心を持たせ、離れる力を与えてくれる、これがきよめられた正しい良心の働きです。私たちの知情意を正しくコントロールしてくださいます。

 正しい良心には、イエスの血の力(神の愛)が注がれています。神様の愛の力によって、「死んだ行いから離れなければ!」という強い思いを、私たちの内に湧き立たせていただけるのです。
 
 自分の意志の力だけで罪から離れようと頑張ってみても、律法的になるだけで、益々罪は威力を増して私たちを支配してきます。しかし愛は、罪から離れたいという願いを起こさせます。「離れたい、離れよう、そうだ、離れさせてくださるんだ」と、神様の愛の励ましが、死んだ行いから離れるための力を与えてくださるのです。
 
 イエス様の血潮によってきよめられた良心があってこそ、自分の罪を言い表すという悔い改めの方向、死んだ行いから離れようとする方向が、心からの自分の願いとなって、神様の愛に支えられて動いていくことができるのです。
 
 「イエスの血」によって良心がきよめられた状態で悔い改めることが、神様の前に正しく悔いのない悔い改めに導かれる「コツ」と言えると思います。

B)罪を言い表す(エペソ5:11〜14)
「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」

【内容観察】
「自分の罪を認めようとしない人よ。神の愛に目を向けよ。罪を告白し悔い改めよ。そうすれば、神のことば(キリスト)が、いのちのことばをもってあなたに光を当てられる。」

 罪の思い、罪の行いを言い表さず一人で心に秘めているのは、誰も知らない押入れの中に隠してあるようなもの。そして押入れの中までもお客様に見せることが出来るなら、それは押入れの中が「明らかにされること」と言えます。
 
 ふすまは綺麗でも中はごちゃごちゃ、それが押入れであり、罪人の心です。しかし恥ずかしい押入れの中も、見られた人に「そんなものですよ、どこもみな同じですよ」と受け止めていただくとホッとします。また、ふすまの張替えのときなどは、ふすま屋さんには見られても仕方がないと開き直ったりします。
 
 そのように、中を見られてもいいと思える気持ちは、罪の責めや圧迫から解放されている状態です。罪は隠すよりは明るみに出した方が、スッキリと神様の前に正直になれて平安です。もともと私たちは罪人で、内には罪がいっぱいあるということは、神様はすでにご存知です。
 
 私たちが罪を明るみに出す時、神様は「罪の赦しのための贖いの御業は、イエス・キリストを通して成就しました」という神様の「いのちのことば」を、聖霊様によって示してくださり、私たちに平安と喜びを与えてくださいます。私たちは神様に赦され受け入れられているという安心感をもって新たな気持ちで、みことばによって示される不要なものを、一つ一つ捨てて片付けていく力が与えられます。
 
 そのようにして私たちを励まし変えていってくださる、これが「キリストがあなたを照らされる」ということです。
 
 神様がそのように導いてくださるのです。そして少しづつ楽になっていきます。それが、「罪を言い表す」というきよめです。
 
 告白して終わるのではありません。言い表すことによってキリストがあなたを照らされて、あなたの内側のごちゃごちゃしたところを照らされて、一つ一つ汚れが取り除かれていく(katharizo)が実現するのです。

 言い表すだけの人は、きよめをうけることができません。ふすまをはめて、また元通り全部押し込んでしまうようなものです。「どうぞ見てください」と言えるような、ふすまもいらないような押入れにしたいものです。そのためには中の荷物も相当捨てないといけないでしょう。罪として離れるべきか、神のために用いるべきか、判断できるように、みことばによって照らしていただきましょう。

【デボーションポイント】

◎罪を言い表してきよめられたのですから、「歓天喜地」(かんてんきち)の賛美を主にささげましょう。

★「歓天喜地」(かんてんきち)の意味
 非常に喜んでいる様子のこと。
 天を仰いで歓び、地にうつむいて喜ぶことから。
 
 罪を言い表せばきよめられるのです。きよめられたなら、赦されて新しくやり直せる喜びをもって、神の前に賛美いたしましょう。

【俳句】

COVID-19  再臨間近の  春一番
 
 まさにcovid-19は再臨前の混乱の始まり、春一番のようです。
私たちは益々きよめられることを追い求めていきましょう。