■2020年2月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

内面のきよめ   up 2020.2.23


主題聖句(ルカ11:41)
とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。

 

 

 

 先週は「良心のきよめ」について、良心の汚れはイエスの血(神の愛)によってきよめられるというお話をいたしました。
 今週は「内面のきよめ」と題してお話しいたします。今日の主題聖句(ルカ11:41)を読みますと、私たちが「うちのもの(こころ)」を施しに用いると、「私たちが、きよくなる」とは書かれず、「いっさいがきよくなる」と書かれてあります。
 私たちはすでにきよいからこそ、私たちがきよめられていくという途上にあって私たちを含めていっさいがきよいものになる、という意味合いで、まずは見ていきたいと思います。

1.ルカ11:37〜41より
「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」

A)きよめの洗い(baptizo)
衛生とは関係なく、儀式的なきよさを守るために設けられた規則。 
正直なユダヤ人は、罪深い世界と接触したために付着した汚れを取り除くために、手に水を注いだ。
 38節の「きよめの洗い」は、水のバプテスマという言葉の基になったギリシャ語(baptizo)からきています。浸す、浸けるという意味があり、儀式的なきよめの洗いという意味でよく使われています。
 食事前に手をすすぐことは、衛生的な意味より、宗教的儀式的意味で、普段はイエス様もしておられたと思いますが、この場面ではあえて行わないでパリサイ人の注意を引いてみられたようです。
 それでパリサイ人は「驚いた」と記されています。ユダヤ人なら至極当然のことをしないとは、驚くほどの重大事件だったようです。

B)外側をきよめる(katharizo)が、内側は汚れている。
 食器の汚れを洗い取ることをとおして、きよめることを教えられた。
 お皿の内側が汚れていては、そこに盛られたお料理も汚れている気がします。同じように神様のきよいおことばも、それを入れる人の内側(こころ)が汚れていたのでは、みことばも汚されてしまいます。
 外側(体)は洗えばいいけれど、内側(こころ)をきれいにするにはどうすればいいのか、の答えがこの主題聖句のおことばです。
 イエス様は、外側のきよめについてとやかく言わないで、とにかく内のもの(こころ)を「施し」に用いなさいと言われました。
 このみことばは色々解釈できるところですが、ここでは「施し」は自分の個人的なきよめにとどまらず、周りの人々をも巻き込んで、自分にかかわる他の人たちまでもきよくする力があるのです、というふうに捉えて話を進めていきたいと思います。
C)「施し」が汚れを取り除く
 「施し」=思いやり(ギリシャ語)
 思いやりとは、隣人への愛とあわれみ。
 「うちのものを用いる」とは、心を生かすことであり、それは、愛を注ぐことである。
 人は思いやりを心に持ちますけれど、それを注ぎだす(用いる)ことをしないことが多いようです。人目を気にしたり色々考えすぎたりして、行動に表すことができません。
 イエス様は「とにかく心を思いやりに用いなさい、自分のことよりも周りの人のことを考えて心を用いなさい、そうすれば、いっさいがあなたがたにとってきよいものとなります。」と言われます。
 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。これは思いやりの心です。自分の損得を考えず、隣人の徳が高められ助けになることに思いを向けて、それを行動に表していくと、あなたの愛の心によって、それを受け取る人までもきよくなります。
 注ぐ心とそれを素直に受け取る心によって、互いの間に神様の聖い愛が存在するので、「あなたがたにとっていっさいがきよいものとなる」とイエス様は表現されたと思います。
 素直に受け止めてもらえないことがあっても、注ぐことを止めたりしないで思いやりの心を積極的にあらわしていきましょう。
 損してでも相手の益を考えて行動できる、イエス様がそのような方でした。神様の愛とあわれみに見習っていきたいものです。
 この思いやり、施しが実際にきよめを実現します。あなたのこころの汚れを取り除く力があるのです。
 私たちは神様から永遠の思いやりを与えていただいた者ですから、同じように他の人に思いやりを示すことができるのではないでしょうか。
 次にその思いやりによって「内なるものがきよい」と神様に認められた二人の人物を見てみたいと思います。

2.施しによるきよめの例
A)女性の弟子タビタ(使徒9:36−40)
「ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、『すぐに来てください。』と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、『タビタ。起きなさい。』と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。」
 タビタのよみがえりが実現したのは、タビタが「多くの良い業と施し」(愛のきよめ)を行っていたという「しるし」だと思われます。
 神様はあわれみ深い方です。キリストを信じたタビタもあわれみ深い生き方をしていました。神様は、きよい施しが人々の心をきよくしていたタビタの働きを認めて、汚れの最大の力である死の力をも取り除かれたと言えるのではないでしょうか。
 それほどに思いやりのこころは、神様に喜ばれ、内なる状況をきよめる力をもっているということです。クリスチャンにとって思いやりは大事な動機です。

B)百人隊長コルネリオ(使徒10:2〜3)
「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、『コルネリオ。』と呼んだ。」
 これはまさに「きよくなければ誰も主をみることはできない」(へブル12:14)というみことばが実現した場面であると言えるでしょう。
 神様は天使を遣わして御自身を現わされます。神の使いを見たということは神を見た事と同じです。ユダヤ人への彼の多くの施しが神様の御前にどれほど喜ばれるきよいものであったかという証しです。
 私たちも精神的な内面的な自分だけのきよめでなく、自分も含め自分と関わる人たちもきよい人となって救われていく、ということを願っているならば、その思いやりの心で福音を宣べ伝え、施しをしていくとき、神様は奇跡をあらわしてくださるのではないでしょうか。
 神は人をあわれんで、癒されます。あわれみ深さや思いやりは奇跡をもたらす一つの要因です。
 私たちの教会も、思いやり、施しが多くなされていけば、自然と神様が御業をあらわしてくださるものと信じています。
 あわれみを受けたことのない人は、人をあわれむことが難しいものです。あわれみを受けるほどに心砕かれたものは、人にあわれみを注ぐことができます。
 イエス様もドン底まで落ちて、弱さを経験してくださいました。だからこそ私たちをあわれむことがお出来になるのです。悩み、苦しみ、痛み、傷を多く経験した人は幸いです。神にあわれまれ、人を心からあわれむことが出来ますから幸いです。
【デボーションノート】
◎キリストの福音を「汎愛博施」(はんあいはくし)することによって、うちがわをきよくしていきましょう。

★「汎愛博施」(はんあいはくし)の意味
 たくさんの人たちを公平に愛して、広く恩恵を行き渡らせること。
 福音の恩恵、神様の愛とあわれみの恩恵を受けて、多くの人たちに思いやりを流し出して、神様の愛の福音を行き渡らせて行く歩みをめざしましょう。
 たとえ、その思いやりに応えてもらえなかったとしても、その心の痛みはイエス様の十字架の痛みであり、よみに下られたイエス様の苦しみであると思えば、主と一つこころにされるのも感謝ですね。
【俳句】
小柄でも  梅咲く姿  美の施し
 梅の花は、さくらの花に比べて地味で小さく華やかさがありません。しかし、神様はそんな梅の花の美しさを通して、「もうすぐ、春がくるよ」と私たちに語りかけ、思いやりの施しをしてくださっておられます。

 

 

 

 

 

■2020年2月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

良心のきよめ   up 2020.2.16


主題聖句(ヘブル9:14)
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

 

 

 「良心」は、「悪」(死んだ行い)と「善」(神に仕える)を判断し、知性と感情と意志をコントロールするものである。
 「きよめ」にはギリシャ語で「ハギオス」と「katharizo」の二つの意味があることを前々回学びました。「ハギオス」とは、きよめられていくグループへの所属を意味し、「katharizo」とは、実際に汚れているものを取り去って、きれいにしていくという意味でした。
 主題聖句の「良心をきよめて」というのは、良心の汚れている部分の汚れを実際に取り除いてきれいにすること(katharizo)です。
 そしてそれは「イエスの血」の力によるのだと、(へブル9:14)では語られています。
 今日のポイントは「良心のきよめ」(katharizo)、実際に良心がきよくされるということについて見ていきたいと思います。
 主題聖句にある「死んだ行い」と「神に仕える」は、「悪」(死んだ行い)と「善」(神に仕える)として捉えることが出来ます。
 聖書の神様を基準として善悪を判断し、知情意をコントロールするという、心に大きな影響を与える良心の働きは、私たち人格者(人間)にとって大切な精神的な部分であると言えると思います。

1.良心のきよめが大切
A)第1テモテ1:19   
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
【内容観察】
「ある人たちは、イエスの血によってきよくされた正しい良心をないがしろにしたため、死んだ行いの生活へ戻ってしまい、神と共に歩む永遠のいのちへの人生が壊れ、破壊されてしまいました。」
 正しい良心は、神に仕えるという志を保つためのクリスチャン生活のハンドルとしての働きをしています。
 その良心が正しくなくなって、この世の死んだ行いの方に知識や価値観を増やしていけば、私たちは神様と共に歩むという道から反れて行ってしまいます。クリスチャン生活の破壊です。キリストを信じていると自分では思っていても、神の目からは役に立たない信仰になります。
 ですからきよめられた正しい良心を保ってクリスチャン生活を続けるためには、週に一度であっても礼拝において神様のことばを聞くという機会はとても大事なものです。
 神様のみことばを聞くと、みことばなる神様の聖さに触れて良心がきよめられます。そして新しい一週間を、この汚れた世界の中で神様の望まれる歩みを進めていくことが出来るようになるのです。
 良心のきよめはお掃除のようなもので、その都度汚れを取り去るのは簡単ですが、汚れを長く放っておくと取り除くのに苦労します。
 その意味でも、礼拝ならびに聖餐式は週に一度の大切な時として大事に守っていただきたいと思います。

B)第1テモテ3:9     
「きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。」
【内容観察】
「執事の働きをする人とは、神の愛の象徴であるイエスの血によってきよくされた良心の中に、信仰の奥義であるキリストを保持している人でなければなりません。」
 私たちの内にいつも信仰の奥義であるキリスト(聖霊様)が生きておられて、私たちの言動行動すべてを見ておられ、私たちに教えさとしてくださるという意識が自然に生活の中に根付いていると、クリスチャン生活は一番安全です。 
 しかし正しい良心がまだ力不足な時は、世の中の様々な人や情報にふれて過ごすうちに、どうしても良心が汚れていってしまいます。
 キリストが内に臨在しておられることをいつも意識しながら、妥協することを極力避けて、世の汚れを少しでも受けないように守り、そして汚れた良心は「イエスの血」によってしっかりときよめていただくようにして、いつもきよい良心を保ち続けることが大事です。

2.良心をきよめる「イエスの血」とは?
A)罪を贖うための代価 (第1テモテ2:6)  
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
 人類が神様に対して犯した罪は、お金やもので贖えるものではありません。キリストの罪の無い尊い命が「代価」として支払われなければ、消えることがないほどの罪であります。
 父なる神様にとってイエス・キリストは「ひとり子」、失えば子孫が絶たれるという大事な存在です。未来を保証する証拠です。その大事な跡継ぎである御子キリストを、私たちの罪の赦しの代価として差し出されたということは、神様はご自身の未来を託すものとし、て私たちを選んでくださったということになります。
 なんとすごいことではありませんか。ひとり子を犠牲にしてまで私たちを御自分の未来の希望として取り戻したいと思われた神様の強い思いが、「キリストの血潮の代価」の中には含まれているのです。私たちはそれを深く深く思いみる必要があるのではないでしょうか。

B)血によるきよめと罪の赦しの実現 (ヘブル9:22)
「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
 罪の処理についての神様のルールは、罪のない血を流すことで赦しを宣言し、きよいと宣言されるというものです。
 ですから、御子キリストは神の姿であられたけれど、それを捨てることが出来ないとは考えないで、私たちを救うためにその地位を捨てて、肉体をもって私たちと同じ姿で地上に来られ、罪がないことを証明するための33年間のご生涯を過ごされて、私たちの罪の贖いの血を持ってくださいました。
 イエス様の血だけが罪のない血であり、私たちの罪の赦しと良心のきよめをもたらす力のあるものである、と神様は認められたのです。

C)代価に込められた神の愛 (第1ヨハネ4:9)
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
 このようにA)とB)を通して、神様が私たちの罪を赦して、罪を取り除くために、どんなに大切なものを犠牲にして、罪なき血を準備され、贖いの御業を成し遂げられたのかが分かると思います。そのように大きな犠牲を決断できるのは、「愛」だけです。
 私たちも自分から生まれ出た子に対する親の愛を思いみれば、その「愛」が理屈抜きでわかるのではないでしょうか。子の良し悪しではありません。我が子を愛するのに理由はありません。自分の子どもだということのゆえに愛があふれてくる、そういう愛を神様は私たちに向けてくださったのです。私たちはそのような神様の「愛」を深く悟る必要があるのではないでしょうか。

【まとめ】
良心をきよめるイエスの血とは、私たちへの神の深い愛のことです。
神の愛が良心を浄化する力を持っているのです。
 友情、夫婦愛、親子愛、色々な愛がこの世にもありますが、どんなに愛を注がれていても気づかなかったら心は変わりません。
 また、どんな悪い人でも自分が愛されているという愛に気が付くと、心は自然と変わるものです。愛には、憎しみをも浄化する力があります。憎しみより強い神様の愛によって、赦せないものを赦せるようになる、そんな良心のきよめをもたらす力が「イエスの血」に現わされた神様の愛なのです。
 この朝もイエス様の十字架の象徴である聖餐式に預かりますが、杯はイエス様の血を象徴するものです。それをいただくときは、「これは神様の愛なのだ、神様はひとり子イエス様をささげるほどに私たちを愛して、イエス様を身代わりにするほどに、私たちを御自身の未来の希望として選んでくださったんだ」と心に覚えて、私たちに注がれる神様の絶対の愛に、感謝と信頼を深めていただきたいと思います。

【デボーションポイント】   
◎「感慨無量」(かんがいむりょう)になるほどに、神の愛とあわれみを悟れるように。
★「感慨無量」(かんがいむりょう)の意味
 計り知れないほど心に深く感じて、胸がつまること。
 クリスチャンであっても、その人の内に神様の愛に対する悟りがなかったら、良いと思われる決心や行動も、死んだ行いの価値観からくる判断決断になってしまいます。
 人々の救いのためにと考えるイベントも、世に妥協したものにならないように気を付けないといけません。神様の愛を悟った者として、神さまの愛に触れていただきたいという動機からのイベントを通しクリスチャンを通して、人々に不思議な力と愛を感じていただければ最高ではないでしょうか。それを目指して私たちも少しでも神様の愛を悟っていくよう努めてまいりましょう。
【俳句】
殺風景  ものの芽により  きよめらる
 これからすべての草木の新芽(ものの芽)が芽吹きはじめる季節に向かいます。何もない枯れた冬の景色が、ものの芽によって息づいて来ます。殺風景が消えていきます。
 それはまるでキリストの愛によって変えられていく私たちの心の風景のようです。

 

 

 

 

 

■2020年2月9日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

使命を果たす教会
神の国は幼子のような者たちのもの  
up 2020.2.9


 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.理想の教会を目指しませんか2
(マルコ16:15〜16)
「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」

 今年私が語らせていただくテーマである「理想の教会を目指しませんか」の第二回目になります。
 
 理想の教会、それは“使命を果たす教会”です。教会の代表的な使命と言えば福音宣教です。有名な大宣教命令の箇所であるマルコ16:15–16で、イエス様が直接命じておられますから、イエス様を信じる私たちは、この箇所を無視することはできません。信仰生活を長くしていると、内面の取り扱いに意識が偏りがちですが、年に数回はこの大宣教命令を意識することは大切なことだと思います。
 
 もう一ヵ所有名なイエス様のおことばがマタイの福音書にあります。
(マタイ28:18〜20)
「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」
 
 マルコの福音書の「全世界に出て行き」と同じように、ここでもイエス様は「行って、あらゆる国の人々を・・・」と、外に向かう表現をしています。教会は、集まるクリスチャンのことだけでなく、外にも視野を広げておくことが大切なのです。教会が聖さを追い求めるのは、個人の信仰の完成のためだけではなく、福音を宣べ伝えるときに、キリストの香りを放つためでもあるのです。
 
  私も、2020年は福音宣教を意識していこうと思っています。数少ないノンクリスチャンの友人・知人にどうアプローチしていこうかと、タイミングを計っています。神様が最善のときに、伝える機会を与えてくださると信じ、そのときに、キリストの香りを放つことができるよう聖さを追い求めていきます。

【横路伝道師メッセージ】
2.神の国は幼子のような者たちのもの
(ルカ18:15〜18)
「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』」
 
 聖くなるということは、幼子のようになることだと思います。考え方においては大人にならないといけませんが、神様や人々を愛する心においては幼子のようにならないといけないと思いました。

◎「はじめてのおつかい」から学ぶ
 「はじめてのおつかい」という番組があります。
 3〜4才の幼子に、お母さんがおつかいを頼みます。子どもは、たった一人で行かなければいけないことに葛藤しますが、お母さんが大好きでとても信頼しているので、お母さんの「大丈夫、行けるよ」という言葉に、幼いながらに「はい、行きます」と、一大決心をするのです。

 そして、幼子が出かけて行きます。途中で車にはねられたり、誘拐されたらいけないので見守りが必要なのですが、テレビ局のカメラマンが、地域のお百姓さんや作業員の格好をして、こっそり沿道にいて、カメラで撮影しながら守っているのです。

 子どもにとっては多くの困難がやってきます。大きな重いキャベツや大根などを引きずりながら買って帰るのです。

 家では、お母さんがはらはらどきどきしながら待っています。そして、無事にお使いをして帰って来ると、お母さんは子どもを抱きかかえて、「よくやったね!えらかったね!」と大喜びします。お母さんは子どもの成長を感じるのです。視聴者も大きな感動を覚えます。

◎私たちの使命(ミッション)は何か?
 私たちが神様から与えられている使命とは、失われている罪人の救いのために、福音を伝えるということです。幼子に買い物を頼んだお母さんが、それをやり遂げて成長した姿を見て喜んだように、私たちがもしこの使命をやり遂げたときに、神様はどんなに喜んでくださることかと思います。
 
 私たちは、イエス様が私たちをとても愛してくださっていることを知っています。ですから私たちもイエス様を愛し、イエス様がして欲しいと願っておられるこの使命を、幼子のように「はい、やります!」とチャレンジしていくのです。
 
 なかには、この使命は私には難しいと、なかなかできなかったり、使命を達成しようとすると、色々と危険や困難もあるでしょう。家族、親族の中でクリスチャンが自分だけという方もおられますし、会社の中や地域の中で一人だけであるという方も多いと思います。そのような戦いがありますが、私たちには助けがあります。
 
 クリスチャンは、みことばの灯、光によって道が照らされています。そして、聖霊様がいつも私たちと共にいて守ってくださっています。危険な時には天使が来て、危険から遠ざけてくれています。私たちは気付かないうちに、多くの守りと導きを受けながら毎日を過ごしているのです。

 私たちの最大の使命は、人々に愛を伝えるということです。しかし、そこまでなかなかできないという方においても、できることがたくさんあると思います。

 その一つは、自分の人生を生き抜くということです。色んな困難や、苦しみ、痛みがありますが、その中で生き抜いて、最後まで人生を全うするということを、神様はとてもお喜びになられます。

 私たちの命は神様が与えられているのですから、それを勝手に途中で人生をやめてしまおうとしたりすることは、神様がとても悲しまれることです。どんな辛い困難な人生であっても、その人生を生き抜くということは、神様の使命を全うすることになるのです。

 また、神様のおこころを行うことが使命です。それは、隣人と愛し合い、支え合い、赦し合うことです。葛藤や困難があるかもしれませんが、それを乗り越え、次の段階へ成長するということは、神様がとても喜ばれることだと思います。

 私たちが人生のゴールを迎えて神様の元に行った時、神様は、「よくやったね。大変だったね。よくがんばったね。わたしはとてもうれしいよ!」と声をかけ、迎え入れてくださると思います。

 それぞれの人生の中で、大変なことがありますが、人生を生き抜く使命、キリストの愛を伝える使命を私たちができる範囲でしていきたいと思います。

【参考聖句】
(第2コリント7:1)
「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

 

 

 

 

 

■2020年2月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖めときよめ  up 2020.2.2


主題聖句(第2コリント7:1)
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

 

 

 

 再臨を待ち望む私たちには、ハギオス=他の人とは違う生き方をする人生が求められています。

1.「聖め」(hagios)ハギオス
★ 聖なる、聖化、神聖、聖別
★ 「他のものとは異なる」という意味から、「所属」の意味も含まれている。
 
 今日強調したいのは、他のものと異なるものに所属の意味も含まれているということです。ハギオスが分類の意味を持つことから派生しています。
 神に所属しているからきよい、という考え方です。実際にはきよくなくても、きよい方である神様に所属することによってきよいと認識されます。
 
 たとえば野球チームの広島カープに所属した人は、それがどんなに下手であっても、ユニフォームを着られる立場である以上、カープの選手ですね。
 
 同じように、どんなに罪深くても、神様のチームに所属する限り、きよいのです。

A)使徒26:18
「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」

【内容観察】
「それは・・・わたし(キリスト・イエス)を信じる敬虔な信心によって、イスラエルの民と異邦人に罪の赦しを得させ、神に属する神聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」
 
 私たちは間違いなく、御国を受け継ぐチームのメンバーではあります。ただし、誰がレギュラーなのか、一軍二軍なのかは、監督であられる神様だけご存知です。裁量権のない私たちは、誰をも裁いてはいけません。 
 
 このようにたくさんのメンバーがチームにいますが、ともに勝利を目指しているという意識があれば、どの選手も上にあがろうと研鑽するはずです。監督に認められるきよめを求めるのです。
 
 反対に、今の地位に甘んじて努力を怠り、チームにとって有用でないと判断されたなら、契約解除となります。
 
 これは信仰による義の部分で、チームのために努力し戦っている限り、結果がどうであろうと神様という監督はその選手をお捨てになりません。

B)第1テモテ4:5
「神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」
 この節は偶像にささげられた食べ物がそれとわからず流通している状態において、どうしたらよいかをテモテに指導しています。
 
 日本も仏教と神道の国なので、祭りや儀式に関わった食べ物を厳密に調べ上げたら、食べられるものはなくなってしまうかもしれませんね。
 
 だから私たちは、食前の祈りをとおして、自分たちの食べ物をハギオスするのです。キリストの御名によって、あらゆるものが聖なるものとされます。
 
 どんな物が供されているか食卓からはわかりにくい現代、事ある毎に祈ることを意識づけましょう。

【内容観察】
神のことばであられるキリストによる贖いと神への敬虔な祈りとによって、この世に属するものではなく、神に属するものとされるからです。

 神のことばとはキリスト。神のことばなるキリストは油注がれた方、救世主です。このキリストの十字架による贖いによって、私たちの祈りは聞き届けられるのです。
 
 みことばの基本はキリストの贖いを指しています。私たちはキリストを通して神への信仰を抱きました。神のことばによって私たちはきよくなったわけです。その、きよめられた私たちが祈った物質はきよくなるのです。

2.「きよめ」(katharizo)カザリゾ
★ 聖潔、浄化、きれいである、不純物などを取り除く。
★ 「不純物などを取り除く」という意味から、もともと綺麗であったもの に不純物が混じったり、汚れが付いたりしたので、それを取り除くこと。
 
 ハギオスは所属の変更ですが、カザリゾは実際的なきよめをさしています。しかし私たちは自分できよくなることはできません。ですから神様にきよくしていただくことを追い求めるのです。

A)マタイ8:2
「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』」
 
 ユダヤ教の教えからすればツァラアトは罪のしるしであり、普通の生活からは切り離され、病のまま死ねば滅びて地獄行きといわれていました。
 
 イエス様に助けを求めた人は、まさに人生の危機であり、永遠のいのちの危機にあったのです。
 
 ひれ伏すとは「五体投地」であり、最高の方に対する礼拝です。イエス様が主なる神と信じるからこその行為であり、イエス様もそれを受け入れてくださいました。
 
 そして「お心ひとつで」は、この人の謙虚でへりくだった心を表しています。この人の霊はハギオスされていることが見てとれます。
 
 しかしこの人はさらなるきよめ、現実的に病がいやされるカザリゾを求めていました。
 
 病がきよめられることと罪が赦されることは、聖書ではよく並べて取り扱われています。
 
 神様は私たちの病を私たちから取りはがして、十字架につけて処分してくださるのです。
 
 いやだったものが自分から引きはがされたなら、どんなにスッキリと良い気分になることでしょう。神様はそれをしてくださいました。

【内容観察】
「すると、ツァラアトによって人生の危機にある人がみもとに来て、イエスを礼拝して言った。「主よ。少しのあわれみでもいただければ、私に危機をもたらしているツァラアトを私から取り除いていただくことができます。」

B)テトス2:14
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
 
【内容観察】
キリストが・・・ご自分のからだとするために、それに混じっている不純物を取り除くためでした。
 
 そしてハギオスされた中からさらに熱心にカザリゾを慕い求める民に対して、御自分のために願いを聞き届けられます。
 
 神様は人の体でいうと頭の部分で、当然完全な方です。神様のからだも完全でないと変ですね。
 
 ですから、からだに混じっている不純物を取り除かれます。今はからだをカザリゾする働きをされているのです。
 
 人が体を洗う時、頭が指令を出すと、たとえば右手が左手をこすり始めます。指令は頭から来るのですが、こするのは体の器官同士なので、痛いと不平不満が出ます。
 
 しかし、左手は右手の行為を受け入れ、赦さなければ、あかは取れません。赦すためのかっとうがカザリゾにつながるのです。
 
 教会内で自分とそりが合わないと思う人は、自分と所属する器官が違うのです。私たちは頭の命令によって互いにきよめ合う存在です。
きよめられることは必ずしも気持ちのいいものではありません。
 
 今私たちは、ハギオスというグループの中でカザリゾというきよめの働きを受けています。
 
 ですから、実際に汚れを取り除くため試練を受けたり、いろんな問題を体験したりすることを避けたり嫌がったりしていると、きよめられないままの人になってしまいます。それは王子の婚礼に礼服を着ずに入ってきた人と同じ結末をたどることになります。
 
 せっかく招いてくださった王への敬意と祝福を表す礼服をあえて着なかったのは、嫌がらせか悪意か敵意か、悪いものがあるとしか思えないでしょう。婚礼の服を着てこないのは、不敬虔で無礼で不遜なことです。

 せっかくハギオスのチームにいても、カザリゾを望まないならば、婚宴の前にそこから追い出されてしまいます。
 
 私たちから神様への思いは、「友は友でも本当に心から尊敬し敬うべき方」なのです。イエス様はとても高い存在でありながら、私たち人間の立場までご自分を低くして来てくださいました。
 
 でも私たちの心から「神様が人として来てくださった」という尊敬の心が失われてはないのではないでしょうか。尊敬のない信仰は自己中心であり、御利益宗教です。
 
 「わたしの名によって祈れば、何でも与えられる」を自分中心に考えると、「与えてもらえない」と怒り始めますが、神様のお気持ちを考えながら求めるとしたら、求める内容も考え方もまるで違うはずです。救われていることへの感謝がまずあるのです。

 私たちはハギオスの中に入れられ、カザリゾされていきます。きよめられていくことをひとつひとつ自覚して、汚れを取っていただくという覚悟を持ちましょう。

★ 「見性自覚」(けんしょうじかく)の意味
自身の生まれつき持っている性質を悟ること。
「見性」は、自身の本質を見極めること。
 
 私たちは神の本質に似せて作られたものです。目的は、神の本質と同じ本当になることです。
 
 きよさに憧れ、きよさを求めるのは私たちの本質に基づくことです。愛を求め、愛に渇くのもまた同じ理由です。
 
 聖霊様が私たちの内に宿っておられます。肉の性質は悪いものであっても、霊の本質はきよいものなのです。この真実に希望と勇気をいただいてください。

【俳句】
神のもの 富士山の白さ きよらかや

 富士山は神様が造られました。雪に包まれた時の富士山は、神々しさが増す気がしますね。
 
 神様の作品として捉えるとき、それは私たちと同じように考えられます。神のものすなわちハギオス。そして富士山の白さは雪に覆われた状態ですが、それをカザリゾされた私たちに例えてみました。

 

 

 

 

 

■2020年1月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖徒(ハギオス)として召された2  up 2020.1.26


主題聖句(ローマ1:7)
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

 

 

 「聖められることを追い求める」という今年一年のテーマを基に、今週は前々回のポイント「聖徒(ハギオス)として召された」の第2回目をお話させていただきます。

 先々週は「召された人」について、神に愛されている、神にご計画がある、キリストのために守られているという3つの点で、他の人とは異なるものであること、そしてそのように神様が見てくださっているように、私たちも自分自身を見ていくことが大切だということをお話しました。

 また「婚礼のたとえ話」から、主催者への尊敬とお祝いの気持を込めた礼服を着ていなくては、王子の祝宴(イエス様の再臨)から追い出されてしまうこと、つまり聖なるものを霊的に身につけた者たちだけが、イエス様を迎えることができるということなので(へブル12:14)にあるように、「聖くなければ誰も主を見ることはできません。再臨の主とお出会いするために聖められることを追い求めていきましょう。」と、お話させていただきました。
 
 今週は聖徒(ハギオス)はどのように他のものと異なっているのかについて、6つのみことばから見ていきます。皆さんには聖書の他の箇所からも、キリストを信じる者と信じない者との違いを見つけていただいて、自分も聖徒(ハギオス)なのだという自覚を強めていただければと思います。

1.世界観が異なる(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 私たちはこの世の多数決、流行、人の言葉に流されないようにしないといけません。私たちは様々なことを判断するときの基準となる価値観が、この世の人々とは違うのです。私たちは神様に属する聖なる考え方を持っていることを忘れないようにしましょう。もし世の影響を受けて流されていることに気付いたら、速やかに聖徒(ハギオス)としての自分に立ち返りましょう。

2.霊の国籍が異なる(ピリピ3:20)
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」 
 
 「国籍」は自分のアイデンティティー(自分が何者であるか)の土台です。私たちの肉体は地上に住んでおりますが、私たちの霊の国籍は神の国ですから、私たちは天国人であります。この確信をしっかり持っていきましょう。

3.この世での在り方が異なる(第1ペテロ2:11)
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」 
 
 天に国籍があり天に永遠に属するものであるならば、今地上にいるこの時間は一時的な、期間限定の関わりの時であるべきです。本命は永遠の神の国です。この世に留まろうとする生き方と異なるのは当然と言えるでしょう。無駄なことも含めて短期間でもそこで生きるに必要な事と、本命を生きる自覚とのバランスを取りながら、賢く知恵をもって歩んでいっていただきたいと思います。

4.存在目的が異なる(第1コリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 
 神は私たちをキリストのからだとして見てくださっています。一人一人は各器官として異なった働きをしていますが、同じ一人のキリストのからだを形成し、神の栄光を現すという同じ目的を持った働きにあずかっています。神様はキリストのからだとして地上で私たちを用いてくださるという私たちの存在目的があることを覚えておきましょう。

5.出生が異なる(ヨハネ1:12〜13)
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
 
 私たちには肉の出生だけでなく、霊の出生があります。神によって生まれたいう素晴らしい特別な出生がありますから、卑下することなく前向き肯定的に生きていっていただきたいと思います。

6.「友」が異なる(ヤコブ4:4)
「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
 
 神様の敵は唯一、神に反抗する者サタンです。この世はサタンの支配の中にあります。この世を友としたいと思う者は、神の敵となってしまいます。知らず知らずのうちに罪の誘惑に引き込まれてしまうものですから、友とはしないように、この世との付き合い方には充分気をつけましょう。

 私たちの友は神様であることを忘れてはいけません。イエス・キリストこそ私たちの最高の友であります。

【デボーションポイント】
◎「同床異夢」(どうしょういむ)であることをさらに聖書から見いだしましょう。

★「同床異夢」(どうしょういむ)の意味
立場や仕事が同じでも、考え方や目的が違うこと。同じ寝室に寝ていても、見る夢の内容はそれぞれ違うという意味から。
 
 私たちは不敬虔な人々と一緒に住み、仕事をしています。だからと言って彼らに合わす必要はありません。考え方も目的も違います。私たちは聖徒(ハギオス)です。神様に属する生き方を選んだのです。
 
 選んだからすぐにそのように歩めるわけでもありません。一から順に習って熟練者へと成長していきます。遅いと落胆する必要はありません。一つ、また一つと身につけて行けばよいのです。
 
 そのためには独学ではなくキリストのからだに属して学び、教えられ、評価、助言を受けることによって、実際の聖さに進んでいくことができます。
 今私たちは聖徒(ハギオス)としてゼロから始めた者です。半歩でも一歩でも聖さを身につけることに努力を惜しまないで頂きたいと思います。
 
 ハギオスという言葉には聖いものに属するという意味と、実際に汚れを落とすという意味があります。両方必要です。

 私たちは実が熟して刈り取られる日まで、聖い神のチームに属して一から学んで熟達していき、そして実際に汚れを取り除いていく、罪から離れ善に親しむという生活に進んでいくこと、双方を心掛けていきたいと思います。

【俳句】
 水仙に  だれが付けたか  花言葉

(水仙の花言葉=自己愛、神秘。黄色の水仙=私のもとへ帰って。
白の水仙=神秘。ラッパ水仙=尊敬)

 水仙にもこれほど多くの花言葉があり、誰がいつどのように意味付けたかわからないのが花言葉です。
 
 そのように、人の人生や存在についても、色んな人が哲学的に宗教的にいろいろと意味付けを行います。

 しかし、私たちには、「神の子」「聖徒」と名付けてくださり、そのように受け入れてくださった唯一の創造主なる神、私たちを造り愛し導いてくださる神がおられます。その神様こそ、人生の意味を正しく私たちに悟らせて、啓示されていく意味あるクリスチャン生活として私たちを導いてくださるお方です。

 

 

 

 

 

■2020年1月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

ビジョンのある教会・聖さを追い求める  up 2020.1.19

 

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.理想の教会を目指しませんか?@
 「ビジョンのある教会」
 2020年の教会のモットーである“聖められることを追い求める”とは、私たちの教会にとってはとても重要なテーマです。ぜなら、“聖め”は当教会が最も大切にしてきてるテーマであり、DNAだからです。 そんな2020年も、月一回メッセージを語らせていただくわけですが、本テーマの“聖め”を軸としつつも、私は12回に分けて「理想の教会を目指しませんか?」というテーマで語らせていただこうと思っています。
 聖さを追い求めることは、すなわち理想の教会を目指すことと同義だからです。一言で理想の教会と言っても、具体的にはどのような教会を目指していくのか、12の理想像を順番に見ていこうと思っています。第一回目は、「ビジョンのある教会」です。
 神様は、各教会にビジョンをお与えになります。この教会も大きなビジョンをいただいております。(詳しくは、信徒総会の資料に目をお通しください。)
 ビジョンとは、進むべき道標となり、希望をもたらします。箴言29章18節にも、“幻がなければ、民はほしいままにふるまう。”とあるように、教会が足並みをそろえるためには欠かせないわけです。
 ビジョンと聞くと、何か大きなことのように聞こえますが、実は私たちが普段していることが、ビジョン達成のために大きく役立ちます。それは、私たち個人個人が目標を立て、それを達成していくことです。 ピリピ2章13節には、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」とあります。自分自身で目標を立てるようでも、神様のみこころが私たちのうちに働いているのです。
 教会の年間目標である「聖められることを追い求める」ことを、より具体的に個人の目標にし、それを達成すれば教会の成長につながるのです。なぜなら個人の成長は教会の成長だからです。
目標を立てる際のポイントを3つ挙げておきます。

1)達成できる目標。
 目標は達成するために立てるものです。難しすぎず、簡単すぎず、自分が達成できるラインを定めることをおすすめします。

2)数字を入れる。
 例えば、毎日〇分、月〇回などの数字を入れるとより具体化され、また振り返るときに、達成できたかの判定がしやすいのでおすすめです。

3)教会の目標に合わせる。
 せっかく教会の年間目標があるので、個人の目標も教会目標に沿ったものであることをおすすめします。
 2020年も良い一年としていくために、ビジョン達成に向けても、個人の目標をしっかり立てて、達成していきましょう!

 

【横路伝道師メッセージ】
2.聖さを追い求める
1)ヘブル9:14
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
 今年の目標聖句に「聖められることを追い求めなさい。」とあります。イエス・キリストの血が私たちの良心をきよめてくださるとあります。

◎ 箴言20:9
「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。」
 色々な修行をしたりして、自分で自分を聖めようとする宗教がありますが、外側をきよめても、内側を聖めることはできません。私たちは、そのようなことをするのではなく、イエス様の十字架の血潮により聖めてくださる方法を提供してくださいました。

◎ 聖さをさまたげているものは?
A)世の中の常識
 人間だからしょうがないとあきらめて罪を容認してしまうことは、世の影響を受けてしまっていると思います。

B)偶像礼拝
 聖書には一貫して偶像礼拝は汚れたものだと書いてあります。神以外のものを大切にするということは神様に対して失礼なことです。

C)罪 
 私たちは肉体を持っていますから、罪があります。むさぼりが偶像礼拝であると聖書に書いてあります。そのことに支配されているなら、奴隷の状態です。
 聖さを求める時に、この3つを注意しないといけないと思います。

◎ テトス2:14
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
 この「良いわざ」とは、愛を動機に生きることだと思います。具体的には福音を伝えたり、自分のできる範囲で手を差し伸べるということだと思います。このような良いわざに熱心な民を、ご自分のためにきよめるために、キリストはご自身をささげられたとあります。私たちが、神の聖さにふさわしいものとして聖め分かたれるために、十字架をくださいました。
 パウロは、自分自身の肉の力と必死で戦いました。自分のからだの中には罪の法則があり、自分はなんとみじめな人間だろうとローマ書7章で告白しています。しかしその後、ほむべきかな、イエス・キリストの救いのゆえにただ神に感謝します、と言っています。そのようなできない自分に、イエス様は十字架を通して赦しと解放と勝利をくださったと語っています。神様は私たちを聖めたいと願われ、その熱心がイエス様の十字架を実現されたのです。

(参考聖句)第2コリント7:1
「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」

2)詩篇32:5
「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」

◎なぜ聖さを求めないのか
*危機感が薄く、渇き願わず、追い求めていない。
 聖さを求めることはわかるけど、そこまで危機感を感じていないので、一生懸命になれない自分がいることを感じます。追い求めるとは積極性です。パウロは賞を得るために目標を目指して一心に走っていると語っています。私たちにもそのような心が必要です。

*偽られている。
 これくらいは大丈夫、と、世の基準に合わせている。
 私たちは、世の民と区別された聖い者であるとしっかりと自覚しなくてはなりません。色々な世の中の考えに惑わされ、いつの間にか妥協が入って来ていないでしょうか。罪の力を過少評価したり、自分の力を過大評価してしまい、いつの間にかだまされて、聖さを求めることを失っていないでしょうか。

*世の楽しみから離れたくない邪悪な良心が隠れている。
 聖さを追い求める者は、世と世の罪から離れたいと願います。しかし、それをさまたげているのは、罪の楽しみを捨てたくないという邪悪な良心が隠れていて、聖められることに対していつの間にか消極的になっているためでしょうか。邪悪な良心とは動機が悪いということです。良いことをしたいと思っても、自分のために良いことをしたいという、自己達成が動機となっていないでしょうか。

*罪のとがめを持ちながらも諦めている。
 何度も失敗したとしても、やめてしまったら、聖さを追い求めることをあきらめてしまうことになります。自分の無力さを感じて失望している人は、聖い人だからです。聖くない人は何も感じません。もし悔い改めるなら、神様は赦してくださり、更新されて、聖いものとされるということを忘れてはならないと思います。

(参考聖句)使徒10:15
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
 イエス様は私たちを聖くするために、血潮を流してくださいました。このことを信じる私たちは聖いものとされました。もし、罪を犯して汚れたと思うなら、すぐに悔い改めると赦してくださり、もう一度聖めてくださいます。私たちは聖さを追い求めている者です。キリストの姿に変えられるまで、あきらめずに追い求めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2020年1月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖徒(ハギオス)として召された  up 2020.1.12


主題聖句(第1コリント1:2)
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

 

 

 

 今年の元旦に(へブル12:14)の「聖められることを追い求める」ということから、聖めに対して正しく捉えるというお話をしました。 そして先週は、聖められるということは神様の前に出ること、再臨のイエス様に出会うことができるように、御前に出られるように励むということを語りました。
 今日は、(第1コリント1:2)の「聖徒として召され」という言葉からお話させていただきます。
 「聖徒」とは、聖めと同じ「ハギオス」というギリシャ語です。ハギオスとは、「他のものとは異なっているもの」という意味です。私たちクリスチャンは、神と共に歩む人生という、他の人とは違う人生を歩んでいる者です。クリスチャンと呼ばれる前は、「ハギオス」と呼ばれていました。私たちは、ハギオスとして召され、聖別され、他の者とは違う者として召された者なのです。
 私たちは聖くなっているから選ばれたのではなく、聖徒として、他の人々とは異なる者として召してくださったのです。。アダムの子孫は、本来全員招待されているのですが、その招待に応答したのが私たちなのです。周りの人たちからは、「変わった人たちだ。おかしい人たちだ。」と言われるかもしれませんが、そのように言われてこそ、聖徒(ハギオス)だと見られているということです。最初は辛いかも知れませんが、神様と共に歩む敬虔な姿勢が、批判から、徐々に認めてもらえるようになっていくのです。

1.召された人々とは?
A)ローマ1:7
「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
 神様が愛されているから、あなたを招待されたのです。愛とは「大事にする」という意味があります。神様に愛されてるということは、私たちの存在が神様に大事に思われているということです。たとえ人々があなたを見捨てても、神様はあなたを見捨てられることはありません。神様の目には高価で尊いとあなたは映っているのです。

B)ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 私たちが召されたのは、計画的な招待です。「召す」とは、「呼び出される」という意味があります。神様のご計画があって、そのご計画のためにあなたは声をかけられ、今ここにいるのです。あなたは無意味な存在ではなく、大事な役割があるのです。あなたの神様からの召しは、あなたでなければならない神様の計画の一部を持っているのです。その計画のために、あなたを呼び出されたのです。

C)ユダ1:1
「イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」
 召された人たちは、イエス様のための存在として、守られている存在です。ひとり子イエス・キリストのために、あなたの存在はあるのです。神様のお役に立つための存在としてぜひ来てくださいと招待されたのです。
 失敗するけれど、だめになってしまわないように、キリストのためにあなたは保護され、守られているのです。世の中と対比して、自分はだめな人間だと卑下する人がいますが、神様の目には、失いたくない、保護して守りたい存在なのです。あなたがなくては、キリストの存在が成り立たないのです。自分で自分を評価しないようにしてください。「神様は私をキリストのために守ってくださっているほどの、大事な存在なのだ。」と思ってください。
 クリスチャンとして歩むことは大変なことがあるかもしれませんが、あなたにではなく、神様があなたを大事にしてくださっているということに対して自信を持ってください。あなたは「ハギオス」という存在なのです。聖徒として召されたということは、行いや結果によらず、最初からあなたを特別な者として召してくださったのです。

2.招待を受けた者の準備
マタイ22:8〜14
(8節)そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
(9節) だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
(10節)それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
(11節)ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
(12節)そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

(13節)そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
(14節)招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
 このポイントは、長年クリスチャン生活を送っている人に対しての忠告として語らせていただきます。慣れてくると、初心を忘れてしまい、いつのまにか怠慢になってきてしまいます。そこで引き締めるためにもこのみことばをお話しさせていただきます。

◎ 王子の結婚披露宴のたとえ
★ 3節から7節は、神の選民であるイスラエルのこと
 ここの部分は、選民イスラエルに対してのたとえ話です。私たち異邦人にとって大事な所は8節からのみことばです。

★ 8節「宴会の用意はできている」=贖いは完成している
 宴会の用意はできているが、招待されている人々はふさわしくなかったということです。3節には「行きたくなかった」とあります。 神様に選ばれたイスラエルの民は、神様の国へのお祝いに行きたくなく、せっかく神様からいただいた幸せの律法であるモーセの十戒を守らず、何回も呼びかけたのですが、王である神様に応えようとせず、最終的にはイスラエルの国は滅びてしまいます。

★ 9節から13節は、イスラエル人以外の異邦人のこと
 「大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」と王様が言ったので、しもべたちは通りに出て行き、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたとあります。これは、イスラエル人以外の異邦人を意味しています。キリストの福音は、人種的な差別、すなわち良い人、悪い人という評価に関わらず、出会った人には声をかけ、それに応答した人は全員宴会場に行くことができたということです。世の中的な区別や差別は一切関係なく、世界中の人々に分け隔てなく福音を伝え、それに応えた人たちが宴会場であるキリストの再臨に備えて集まり、宴会場で待っているところです。

★ 婚礼の礼服を着ていない=正装していない=聖め
 そこで、一人礼服を着ていない人がいました。王子の結婚式ですから、ほとんどの人が礼服で集っていました。喜びのお祝いの時にそれにふさわしい服装をすることは、招いてくださった方への敬意を表す意味もあります。礼服とは、聖いという意味です。聖書の聖いとは、他の者とは違う特別な者だという意味です。
 神様の目からあなたは特別なものとして見られ、招待状をあなたに送り、それに応えて今ここにいるということです。良い人か悪い人かは関係ありません。
 招かれた時には、それに応えて礼服を来て出席します。礼服を着て来るとは、特別な婚礼のための準備をしてきた人という意味です。
 しかし、礼服を来て来なかった人は、結婚披露宴の主催者である王様に対して、あまり敬意を持っていなかったということになります。健全な秩序とは、互いの間に尊敬を持っているかどうかです。
 
 私たちは、キリストの再臨の時である王子の結婚披露宴に備えて、礼服を準備することが必要です。特別な日のために、それも裁きの時に、普段着で行ってしまうなら、そこにふさわしくないと、永遠の裁きを受けることになってしまいます。
 
 今年は「聖さを追い求める」という礼服の準備をし、特別な披露宴が始まるまでにその準備を整えることが必要な時です。
 1年目は、キリストの再臨に関心を持つようにとお話しをし、昨年はそのためには忍耐を持ってそれを続け、あきらめずに再臨を待ち望むように話をしました。
 そして今年は、いよいよイエス様にお出会いするために大事な聖めについて、特別な日のために特別に準備をしていくという話をしています。あなたは聖徒(ハギオス)なのです。
 世の中の人々は再臨のために何も準備していません。しかし、私たちはキリストの再臨という約束を信じて毎週教会で聖書の話を聞き、特別な日のために準備してみことばを学んでいこうとしています。皆さんは準備を続けているのです。
 準備を続けているなら、突如再臨が来たとしても、準備をしているという意味で、宴会場から追い出されることはありません。
 しかし、準備を怠って、あきらめてしまったら、普段の服装になってしまうので、追い出されてしまうということになります。特別な再臨という日のためにあなたは準備をしているでしょうか。悪に染まらないように、不信仰になって神様に愚痴不平を言わないようにと気を付けながら、完璧ではないけれども、キリストの救いの中にとどまり続ける努力をしていれば、礼服の準備をしているということになり、神様はあなたを喜ばれます。

★ 14節の内容観察
「多くの人が披露宴に出席するが、披露宴にふさわしい服装という準備をしている者が少ない。」
 選びという言葉はギリシャ語で「特別な」という意味があります。特別とは普段と違うという意味ですから、言い換えるとハギオスと同じ意味を持ちます。
 特別なことを、披露宴のために準備している人が少ないということです。福音を聞いてイエス様を信じ、クリスチャン生活を始めるけれど、再臨まで長く年月が経つと、再臨に対する疲れが出てきます。礼服を準備することを途中であきらめているかもしれません。招待されたのですが、まだ再臨が来ないので待ちくたびれてしまうことがあります。
 再臨は油断している人にとっては盗人のように突如来ます。しかし、準備している人にはいつ来ても大丈夫なのです。
 いつ再臨が来てもいいように、この再臨を特別な日として準備していきましょう。日曜日を聖なる特別な日として、皆さんが毎週教会に集うことによって、礼服を準備しているのだということを覚えてください。

【デボーションポイント】
◎ 招待してくださったのはどなたなのか、また、何のために招待してく ださったのかを思いみて「感奮興起」しましょう。
★「感奮興起」(かんぷんこうき)の意味
心に深く感じて奮い立つこと。「感奮」は心を揺り動かされて奮い立つこと。「興起」は奮いおこること。

 イエス様の再臨を迎えるにあたって特別な準備をしていくには、心に深く感じる動機付けがなければできません。
 強いられてではなく自発的な思いで、「キリストが十字架で命を捨ててくださるほどに私のことを愛して、私たちを迎えに来てくださる再臨があるのだ。」ということを深く心に感じて「聖くなることを追い求めていこう!」と感奮興起していきましょう。

 【俳句】

雪恋し  実際に降れば  愚痴積もる

 昨年から今年にかけて雪がまだ降っていません。冬らしい雪が欲しいなと思う時期なのですが、実際に降れば色々な支障が起こり、愚痴が積もるものです。

 私たちも、イエス様の再臨は恋しいですが、実際に再臨に備えるとなると、神様の戒めが心を責めて、聖めを負担に感じてしまうことがあるかもしれませんので、気をつけていきましょう。

 

 

 

 

 

■2020年1月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御前に出られるように励む  up 2020.1.5


主題聖句(第2ペテロ3:14)
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

 

 

 

 元旦礼拝でも語りましたが、今年の目標は「聖められることを追い求める」ということです。余りに難しいから自分には無理だと諦めてしまう人もいるかもしれませんが、本来の元々の意味は「他のものと異なる」ということです。私たちは世の中の不敬虔な生き方をする人々とは、立場が違うという意味です。行いができているかどうかではなく、元々私たちは神に似せて造られた者なのだから、敬虔に生きるのが普通であり、特別なことを求めているのではなく、あるべき当然のことをするのだということです。不可能ではないという気持ちを持ってください。
  今週は(第2ペテロ3:14)です。
「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
 聖められていくために、「私たちは神様の前に出られるように励んでいくのだ」という動機づけから、励ましを受けていただくように語っていきたいと思います。 
1.再臨を迎えるための準備
 第2ペテロ3:9〜14を読んでみましょう。(9〜13)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
 御前に待ち望むと語ったペテロは、その理由として、天地がくずれ去るという神の審判の時が近づいているから、その焼けくずれてしまうものと共に滅びることがないようにという思いで語りました。
 御前に出られるように励むとは、神の御前に出る時にもっとこうしておけば良かったと悔いることがないように、今を生かして励んでいくようにという勧めです。他の人々とは違った生き方をしているからこそ聖なる者と言えるのです。良い結果を出しているかどうかが重要なのではなく、励んでいること、続けていることが大事です。

A)約束=キリストの再臨=神による最後の審判
 一番の私たちの希望はイエス・キリストが再び来てくださるという約束です。ペテロがこの手紙を書いてから、なんと2千年も経ってしまいました。しかし、それはひとりでも滅びないで悔い改めて新しい天と地に入れるようになって欲しいという神様の願いがあるからです。
B)その時は「盗人のようにやって来る」
 これは不注意な人々、油断して準備をしていない人、疑いを持っている人にとってです。いつも警戒しているなら対処できます。キリストの再臨はもう来ないと備えをしていない人々にとっては、イエス様はまるで「盗人のようにやって来る」のです。しかし私たちは再臨の準備のため、毎年一年の目標をもって励んでいます。私たちにとっては待ち望み続けたイエス様にお会いできるという素晴らしい瞬間になるのです。

C)すべては焼きくずれ去る
 神の最後の審判では、ひとつも裁かれないで残る罪はありません。今は神はすぐには裁かれません。しかし罪を犯し続けていくなら、その罪が満ちた時懲らしめられるのです。すべてが焼きくずれ去るとは、もうこのまま罪を見過ごすことはできない、すべての罪を裁こうという神の決断の時です。ですから再臨を待ち望みつつ準備をするということは、このすべてが焼きくずれ去るという神の裁きから救われるという意味もあります。

D)どれほど敬虔な聖い生き方の人でなければならないのか
 これは本当にプレッシャーを感じる表現です。確かに私たちの目標はイエス様のようになるということですが、この「どれほど」ということばには中途半端な態度ではなく態度をはっきりさせてキリストの再臨を目指す、強い決心をもつようにという意味が込められています。まだまだ先であるという安易な気持ちや決心ではなく、いつ来られるかわからないという主の再臨にしっかりと備える決断をして諦めずに励む必要があります。

E)すべての人が悔い改めに進むことが神の願い
 神が時を延ばしておられる御心を察して、聖められているという実が現れてくるよう励みましょう。不敬虔な生き方をやめて、神を敬い神を中心とした生き方をすべての人がすることを、神は願っておられます。
 その動機づけとして歴史の中にイエス様の十字架が現され、愛を示されました。すべての人が悔い改めて敬虔な生き方をするようになることを神は待っておられます。悔い改めず不敬虔な生き方を続けるなら、その人たちは万物が焼きくずれ去る時に一緒に滅ぼされてしまいます。今、その神の審判の時が近いと聖書から私たちは学ぶことができるのです。ですからこの十年をかけて聖い生き方をする敬虔な人になるようにと、私たちは学んでいく予定です。今あきらめかけている人、もうだめだと思っている人を特別に神は憐れんでくださっています。もう一度立ち直ってほしいと願ってくださっているのです。それを忘れないでください。

2.神のみこころである聖め(第1テサロニケ4:3a)
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」
 これが的を射た生き方です。今日もみなさんが礼拝に出席されているということは、ハギオスという生き方、この世の人々とは違う生き方をしているということです。礼拝でメッセージを聞き、そのように一週間を聖く生きようと毎週されているということは、聖い生き方をしているということです。それはこの世の生き方とは異なる敬虔な生き方です。

3.聖められるために
A)ハギオス(他のものと異なる)の生き方を受け入れる
(第1コリント1:9)
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」
 否定的な気持ちを持ちながら表面的に聖められようと頑張っても限界がきます。まずは否定的な思いを一つづつ捨てていきましょう。聖くない自分を見ても、キリストが十字架の上で自分の罪を負ってくださったこと、今は赦してくださり、罪なき者、聖い者と見てくださっているということを受け入れ信じましょう。この救いはハギオスの生き方ができるようにしてくださるためでした。この信仰からあらゆる不信仰を打ち捨てていきましょう。
 主イエス・キリストとの交わりとは聖い交わりです。もう私たちはその聖い交わりの中に入れられているのですから、聖くない生き方を一つづつ捨てていきましょう。

B)真理であられる神を中心とした世界観を身につける
(第1ペテロ1:15)
「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。」
 「聖なる方にならって」です。聖霊さまと交わる時間のなんと少ない私たちでしょう。
 一日の10分の1の約2時間を主と交わることに捧げておられる牧師さんもおられます。聖書を読んだり祈ったり、一日の内これだけ時間をかけるというのは難しいことです。2時間とは言いませんが、少しでも主との時間を増やしていくなら、本当に良い影響を主から受けることができます。
 私たちは神と交わって聖い影響を受け、私たちの主観、考え方に良い影響を受けることが大事です。神と共有できる考え方を増やすことで、聖められていきます。

【共生新年】

 これは造語です。共生とは片方がいなくなると、もう片方の生存が危うくなる状態の関係です。なくてはならない関係です。
「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(第1ヨハネ1:3b)
 神と交わり、いい影響を受けて、互いに交わり、共に聖められていきましょう。

 【俳句】 
本来の 正月迎うは 主の再臨

 昔から正月とは年神様を迎えると言われてきました。しかし、本当の正月は主の再臨の時です。新しい天と地を受け継ぐという心で正月を迎えましょう。