■2019年12月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

主を待ち望む忍耐  up 2019.12.29


主題聖句(詩篇31:23〜24)
すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。
雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。

 

 

 

 今年最後の「忍耐」のメッセージとなりました。今日は再臨のための忍耐というより、再臨までの日常生活に具体的に関わるところの忍耐のお話をしたいと思います。
 
 高ぶる者(神を認めない、認めていても敬わない、敬虔な心を持たない者)には厳しい報いがあります。私たちは神様をコントロールするのではなく、神様に導かれコントロールされて、神のかたちに似せて造られた私たちの達する領域を目ざして進んでおります。
 毎年、新年がやってくるわけですが、どうして私たちのクリスチャン生活の改善が思わしく進まないのだろうかと、壁に突き当たっている方もおられるのではないでしょうか。
 そこで、少しでもキリストの姿に近づきたい、もっと前進したいという方々のために、本論に入る前に、参考にしていただきたいことがあります。次のことをポイントとして反省しながら新年を迎えていただければと思います。

1)計画を立てたかどうか  
 計画を立てなくては進みようがありません。計画がなくては、今年の初めと比べて前進したのか後退したのか、信仰が弱ったのか、世と妥協したのか、測りようがありません。
 
 神の子として成長するために、次の一年、「聖め」という目標を立てていますが、具体的にどういう計画を立てるか、それは礼拝ごとのデボーションノートを参考にして、その計画を1週間ごとに進めていただければ良いと思いますが、まずは計画を持つことが大事です。

2)実行する
 計画を立てたなら実行することが大切です。

3)反省、振り返り
 実行したあとチェックします。出来なかったのはなぜなのか、出来たのはどうしてか、どうしてこれだけしかできなかったのか、なぜできないで留まり続けているのだろうか、と振り返って反省します。

4)改善する
 反省したことを改善してまたプランを立てて実行します。

 この4つを繰り返すことによって現状を前向きに進歩させていくことができます。P(プラン)D(ドゥー)C(チェック)A(アクション)と一般社会では言われています。
 
 この点、クリスチャンは特に計画に具体性がないためにチェックのしようがなく、それで成長しきれていないように見受けられます。
 具体的に計画を立てれば立てるほど、実行したときにどんな問題が自分の生活や心の中に出てくるのかがわかります。それで次の更に工夫した計画へと進むことができます。この改善が次のサイクルのプランにつながって少しづつ成長していくわけです。
 
 今年は「忍耐」について学びました。忍耐が強いとか弱いとか、一年を振り返ってみて、それで自分の心の成長がどうであったかを測ることができて、効果がわかります。
 「効果が現れていないとしたら、なぜか?忍耐のための計画が具体的であったかどうか?今年は具体性がなかったのなら、来年は「聖め」のテーマで今度は具体的にみことばにチャレンジしてみよう!」と思うのです。
 
 また、「聞いたみことばをなぜ実行できないのか」と振り返ってみます。一番多い原因が「忙しい」「時間がないから」です。それなら、自分の時間の使い方に目を留めてみて、「自分はどれだけ神様に思いを潜めて黙想したり祈る時間を持ったりしたろうか?では、どこで時間がとれるだろうか?」という風に改善点を見出していきます。
 
 すぐに上手にはできませんから失敗を通して成功の道を見出していくのです。何度でも計画を練り直し、あきらめないで続けていけば、必ずイエス様の姿に近づくことができると、心を強くし、チャレンジを止めないで進めていただきたいと思います。

1.主を待ち望む者への約束
 主を待ち望む者にはどんな良い約束があるのか、聖書から見ていきましょう。

A)箴言20:22   
「『悪に報いてやろう。』と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。」
 私たちは悪を受けたとき、仕返しをしたくなるものです。しかし、もし仕返しをしてしまったら、あなたも加害者となって神に裁かれる者となってしまいます。自分が悪を受けたと思った時、「報いてやろう」と自分で裁かず、神の裁きに委ねましょう。主を待ち望む者を主は救って、必ず良い状態にしてくださいます。

B)イザヤ30:18   
「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」
 あなたが「報いてやろう」と言わずに忍耐している姿を見て、正義の神は必ず立ち上がって、恵みとあわれみをもってあなたに幸いを与えてくださいます。

C)哀歌3:25〜26    
「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。」
 主は慈しみ深く、私たちをはぐくみ育て、成長するよう、前進するようにと守り助けてくださるお方です。ですから心配しないで、愚痴不平を言ったりせずに、今の現状を安心して過ごしているのが良いのです。

D)詩篇33:18    
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」
 主は特に主を畏れる者、主の恵みを求めている者に、いつくしみの目を注いでおられるので、いざという時には必ず必要な助け、励ましを与えてくださいます。

E)詩篇147:11    
「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」
 素直に安心して神様の愛と恵みの中にとどまっていましょう。神さまはひとり子イエス様を犠牲にするほどの強い愛で、私たちを御国まで導こうとしておられる方です。

F)詩篇37:34       
「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。」
 神が完全な裁きを行なわれるのをあなたは見るのですから、先走って自分で裁いてはいけません。主を信じて、あなたはただ善をもって悪に打ち勝ちなさい。主を待ち望む者に与えられる主の約束は新しい天と新しい地です。
 
 6つの神様の約束を学びました。今年のテーマ「主を待ち望む忍耐」のまとめとして、これらの主の約束を待ち望んで、行き過ぎた行動に出ないように、またするべきことをしないでとどまっていることのないように、忍耐をもって気を付けていただきたいと思います。

2.どのように主を待ち望むのか
A)詩篇130:6    
「私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」
 主を待つ気持ちとは、この夜の間に悪いことが起きないように、早く夜が明けて欲しいという気持ち、今か今かと主を待つ気持ちです。

B)詩篇88:9     
「私の目は悩みによって衰えています。主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています。」 
 両手を上に差し伸ばすと、体も心も前向きに肯定的になります。身近なものとして主を待ち望む素晴らしい待ち望み方です。

C)詩篇119:81   
「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。」
 みことばを待ち望むというのは、声をかけていただくということです。私たちの「慕う」という心は、神様が声をかけやすい関係を生み出します。私たちが心開いて、「もっとお側に」という気持ちを持って神様からのおことばを待ち望むことが大切です。
 
 この場合に、思いや考えの中にいろんな言葉が浮かんでくる人がいるでしょう。これは忠告ですが、安全な神のことばを待ち望む方法は、聖書のみことばを思いの中に与えられる、もしくは聖書を通読する中で、あなたの正しい良心が励まされたり何か感じるものがあったら、それが神様からの語りかけなのだと基本的に受け取ってください。
 
 それ以外のものでいろんな思いが心にやって来ることがありますが、声を聴くという時に、昔の預言者のように正しい良心で神の声を聞くことの完全にできる人は今は少ないのです。むしろ自己中心的な動機から神のことばを待つ人が多いのです。自分の都合のいいことにしか耳を傾けないという心が隠れているので気を付けましょう。
 
 聖書を読んでいる中でみことばが与えられるのが一番安全ですので、まずそこから始めていただきたいと思います。
 神様のおことばとして、心に語りかけられるのを待つこと、これがみことばの待ち望み方です。

【デボーションポイント】
◎主イエスの再臨を待ち望む忍耐を保ち続けるために「歳月不待」(さいげつふたい)を忘れない。

★「歳月不待」の意味
年月はあっという間に過ぎて行き、人の都合などでは待ってくれないので、時を大切にせよという戒めの語。

(ホセア12:6)
「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。 」
 私たちはこの世にあってどうしても仕事に集中しなくてはなりません。しかし、その忙しさの中にあって、主を待ち望む気持ちが消えてしまわないために、時あるごとに「主よ」と祈って、「神に心を立ち返らせる」ことが必要かと思われます。
 
 ちょっと空いた時間にも「神に立ち返り」、聖書を読む、聖句を暗唱するなど心がけてみましょう。みことばは生きて働きますから、適切な時に行動に移すための手助けをしてくれますし、大事な時に思い出させて良心を守ってくれます。
 
 時あるごとに「神に立ち返る」、心を主に向ける、これが主を待ち望む忍耐につながっていくのです。

 

【俳句】  

年深し  主の日も深し  希望あり

 今年も年末が近くなりました。来年を展望しても否定的な観測の多いこの世の中です。世は暗いニュースで満ちています。
 
 しかし、クリスチャンは希望があります。イエス様の再臨も一年近くなったと、私たちは希望をもって新年を迎えることができます。

 

 

 

 

 

■2019年12月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

クリスマス記念礼拝  up 2019.12.22

 

 

 

 クリスマスプレゼントを互いに交換し合う習慣は西洋から始まりました。神様が私たちにかけがえのないプレゼントを与えてくださったというところから始まったものです。
 今日は皆さんに「大事なプレゼント」に気付いていただきたいと願っております。

ビデオ「ハリネズミ君のクリスマスストーリー」より
 とある学校に転校してきたハリネズミ君、背中には無数の針があります。他の動物たちとは違う姿に、みんなから変な目で見られ避けられてしまいます。
 ハリネズミ君がサッカーをやろうとしても背中の針がボールをパンクさせてしまいます。ブランコに乗っても友だちに背中を押してもらえません。いつもひとりぼっちのハリネズミ君を気遣ってくれるリスちゃんをも傷つけてしまうのです。
 「悲しい・・」そういうつもりはないのに皆を傷付けてしまうハリネズミ君は、ふさぎこんでしまいました。
 そして迎えたクリスマスの日、ひとりぼっちのメリークリスマス状態です。
 しかし、そんなハリネズミ君のところにクラス仲間がやってきます。リスちゃんの手にはクリスマスプレゼントが!
 ハリネズミ君が箱を受け取り、中を開けてみると、なんと中は梱包材のスポンジだけ。プレゼントがありません。
 「これはもしや悪質ないじめ?」そう思っていると、リスちゃんたちクラスメートはその緩衝材スポンジを一つづつ手に取り、ハリネズミ君の背中の針に次々と刺していきます。すべての針にスポンジを刺し終わると・・・・なんと!ハリネズミ君をみんながギュッと抱きしめたではありませんか!ハリネズミ君には忘れられないクリスマスになりました。
 緩衝材がプレゼントだったという、心温まるクリスマスストーリーでした。  
 
 ハリネズミには針があります。それがハリネズミのありのままの姿で、針をとってしまうと、ハリネズミではなくなります。
 私たちも自分という変えることの出来ないものをもっています。それがぶつかりあうことで相手を傷つけたり、仲直りできなかったり、平和を保つことができなかったりします。
 あのリスちゃんも、やさしくしてあげたいけれど近寄れば針でさされてしまう。ハリネズミ君に悪気はありません。どちらも友だちになりたいと思っているのに、それを妨げる針があります。「どうすればいいの?」リスちゃんは何が必要なのか考えました。
 針があっても大丈夫、友だちになれる、一緒に遊べるという愛のプレゼント、それがあの梱包材でした。ハリネズミ君が一番欲しかった愛のプレゼントでした。
 
 私たちの人間社会でも、「この人とは無理だ!あの人は難しい!」と、みんな大なり小なり罪人の悪い性格という針をもっています。怒りっぽいとか、口が悪いとか、いろんな針をもっています。
 それは取り除けませんが、それがあっても大丈夫だよという気持ち、あきらめないで友だちになりたいという気持ちを持ち続けること、それが愛のプレゼントにつながるのではないでしょうか。
 
 人が一番求めているのは心と心の温かいふれあいです。家族においても社会においても、一番人が願っているのは、何よりも心通じ合える関係だと、誰もが皆分かっています。わかっているんだけど、相手が自分の思い通りになってくれない、動いてくれない、その針なんとかしてよと相手に要求してしまうことが多いものです。
 私たちの方でなんとかしてあげようという心が、相手を思う愛の心ではないでしょうか。そのように互いに思い合う心があると、その隔てとなる悪い部分に触れなくてもいいようにお付き合いができるようになるのではないでしょうか。
 神様は私たちに「赦し」という梱包材を与えてくださいました。どんなにいやなものがあっても、友だちになりたいという愛の気持ちが、赦すという心を増してくれることができます。
 神様は私たち人間との間に罪があることをご存知で、それでも神様は私たちの所へ近づいてくださいました。そのためにイエス様は人となってこの地上に来られ、痛み苦しみ悲しみ喜び、私たちと同じものを体験してくださったのです。
 神様の願いは、私たち人間と友だちになりたい、神様への心遣い、思いやり、神様ってどんな方だろうかと求める気持ちを持って欲しいということでした。
 そして、人も神も傷付ける罪という針を梱包材で防ぐということのしるしとして、イエス様は私たちの罪を赦して受け入れるという赦しの愛を、十字架で示してくださいました。
 聖書では「互いに愛し合いなさい」という愛の一番大きな実際的な表現は「赦す」であることを示しています。
 「神があなたがたをキリストにあって赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。」これが全世界の人々に備われば、争いも戦争も利害関係で傷つけあうこともなくなっていくことでしょう。
 「放蕩息子とクリスマスプレゼント」
 放蕩息子は聖書の中で有名なお話です。放蕩息子とクリスマスプレゼント、どういう関連があるでしょうか?
 弟息子は独立自立を目ざしてお父さんの家から出て行ってしまいました。
 お父さんの悲しみは、この世の名声名誉富に心奪われて、息子の心が一時的でも父から離れてしまったこと、絆が切れたことでした。その時、お父さんは息子を失ったのです。
 お父さんは家族と家族の絆が大事です。ですから息子が全財産を無くしても、その時父のことを思い出して父のもとに帰ってきてくれたそのことを喜びました。これは神様からのプレゼントです。
 失ったものを神様はもう一度返してくださいました。しかも息子は失敗を通して以前よりも更に家族の愛と絆の大切さに気付いて戻ってきました。
 
 この人生においては、「これは神様の祝福じゃない、呪いだ、神様なんて信じられない」と思うような悪い出来事がおこります。ものごとがマイナスにマイナスにと進んでいくことが多いように見えます。しかし、そんな悪い状態が、最後には良いものとして手元に戻ってくる、失ったものが更に素晴らしくなって戻ってくる、神様は私たちの人生の中で、そんなプレゼントを与えてくださるお方なのです。
 今この世の中は、お金のために人々の心の目がふさがれて闇になっています。キリストはその闇の心に、いのちのことばをもって、私たちにいのちのプレゼントを与えるためにやって来られました。
 皆さんのお手元に『永遠の希望の光』というメッセージのあらすじが記されてありますのでご覧ください。
 このキリストは「消されることのない光」として聖書には紹介されています。

(1)「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
 (ヨハネ福音書1:5)

 ことばなる神が私たちの暗闇の心に、人のまことの光としてことばを与えると、闇(不幸や色んな問題)は取り去られていきます。

(2)「暗闇の中に座っていた民は『偉大な光』を見、死の地と死の陰に座っていた人々に、光が上った。」(マタイ4:16)
 救い主キリストの誕生については、「偉大な光」としてその600年以上前から聖書に預言者を通して語られていました。
 そして、今から約2000年前に、キリストは預言通りにお生まれになって、生涯を通して光なる神のことばであることを証明なさいました。

(3)「闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」
 (ヨハネ12:35)
 自分は何者か、なぜ生まれ、何のために生きて、死んだらどうなるのか、すべて暗闇におおい隠され、人はわからない状態でいました。

(4)「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)

 救い主がこの地に来られたのは、永遠のいのちを持つための答えを私たちに与えてくださり、そのように生きる力と助けをも与えてくださるためでした。

 このように、あなたにとって神様がどういう方なのかを聖書から知ることが出来ます。また毎週日曜日にはメッセージを語らせて頂いておりますので参考にしていただければ、それによって自分の生きざま、いのちの大切さ、生きるってどういうことなのか、少しでも皆様のお役にたつことができれば感謝です。

 

 

 

 

 

■2019年12月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

ことばなる神に出会う   up 2019.12.15


主題聖句(ヨハネ1:1〜4、14)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

 

 

 今週はアドベント第三週にあたります。キリストのご降誕のおかげで、今私たちはこうしてキリストを信じ、すばらしい神様の愛と恵みを受けて新しい人生を歩むことができています。
 今日は前々回と同じ主題聖句(ヨハネ1:1〜4,14)ですが、「ことばなる神に出会う」というポイントを見ていきます。
 私たちはノンクリスチャンの方から「神がおられるなら目の前に現れてみよ、神を見せてみよ」と言われたりすると、どう答えたらよいものか戸惑ってしまいます。
 今日は、その答えに関係してこのポイントを知っていただきたいのと同時に、クリスチャンもそのことを通してしっかり自覚を持って頂きたいと思います。

1.イエスに宿られたことばなる神 (コロサイ2:9)
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」
 ことばなる神イエス・キリストは、私たちと同じ肉体を持って生まれ33年の生涯を歩まれましたが、「神の満ち満ちたご性質」が宿っていたので、すること為すこと全部に神のご性質をあらわすことが出来ました。
 ここでわかることは、「ことばなる神」(神のことば)が肉体の中に宿られると、神のご性質が肉体を通して外にあらわれるということです。これは、神が見えるかたちとして、私たちが今も神にお出会いすることができるための大事なポイントとなります。
 多くのクリスチャンは100%何もかもイエス様のような姿として人々の前に現わすことができなくて消極的になり、つまずきを与えてしまうので遠慮してしまうようなところがあります。
 しかしイエス様は確信に満ちて神様のご性質をそのまま現わされました。ですからイエス様の肉体の中から出てくる神のご性質というものが福音書には生き生きと描かれています。
 4つの福音書は少しづつ違って全方向から描かれていますから、ことばなる神の姿であるイエス様が立体的に見えてきますので、ぜひ4つの福音書を読んで悟っていただけたらと思います。

2.神の本質の完全な現れがイエス(ヘブル1:3)
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
 御子イエス様には、神の本質(根本的なご性質)である「愛」が完全に現れています。「十字架の言葉は滅びにいたるものにとっては愚かであっても、信じる私たちには神の力です」(第1コリント1:18)と言われるように、キリストの十字架にはもっとも本質的な神の愛があらわされており、それを信じる者には力となります。
 不変の愛を信じている者たちは、失望絶望を感じてもまた立ち上がることができます。神の愛がその人を支え、励まし、力づけ、希望を持たせ、未来を備えてくれるからです。
 その神の愛の本質が完全な形で現れたのがイエス・キリストです。
神のことば(ことばである神)が私たちの内に宿られるなら、私たちも神の本質をあらわすことができます。 
 私たちがこれほど高度な肉体を備えられているのは、まさに神の栄光をあらわし、神の本質を完全にあらわすことができるためと言っても過言ではありません。まだ使っていない部分が沢山あります。聖霊様の助けによって内側からそれを輝かすことが出来る、そのような歩みを備えられているということは、なんと素晴らしい希望でしょうか。
 神の本質の完全な現われであるイエス様に似たものに私たちは変えられていくという希望が与えられていることを感謝します。

3.ことばが人となられた姿とは(イザヤ53:2〜3)
「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
 イザヤ書はイエス様がお生まれになる数百年前に書かれた預言書です。ここでは、ダビデの家系に生まれたイエス様が、全く普通の人間と同じであったことが強調されています。
 生まれた時からヘロデ王に命を狙われるような逆境の中に生まれ育ち、見てくれがかっこいいわけでもなく、群衆にまぎれると誰も気付かないような極く普通の容姿で、人目に好かれる外観でもなかったようです。成人してからも見下され、無視され、学歴もなく、社会的には除け者にされるような低階層の出で、心に悲しみも傷つきも感じることのできる人だったとあります。そんなイエス様に人々がついていく魅力は何だったのでしょう。
 それは神の本質であるご性質が内側から出てきて輝くところ、そこに人々は惹かれていったのです。
 自分はこの世的には無きに等しい者だと思われる方、あなたも神の栄光が輝くにふさわしく用いられる、神の目に尊い器なのです。

4.人に住まわれることばなる神(コロサイ3:16)
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」
 イエス様が肉体をもってこの地上にお生まれになったもう一つの大事な役割は、ことばなる神が肉体に宿ることが出来る、ということを証明されたことです。
 私たちは罪を宿していること以外はイエス様と同じ肉体をもっています。もし私たち個人個人から罪が取り除かれさえしたら、神のことばは私たちの体の内にも宿ることができるということです。
 (コロサイ3:16)でパウロは「キリストのことばをあなた方の内に豊かに住まわせなさい」と勧めています。
 十字架のあがないの御業によって私たちの罪は取り除かれて、罪の無いもののように神様は見なして下さっています。ですから、みことばなる神が私たちの内に宿ることが出来る条件は備わったのです。あなたの内に、ことばなる神がことばとして住まわれることが可能になったのです。 
 その証拠としてことばなる神イエス様はこの世に肉体を持ってこられ、ことばなる神のご性質がぎっしり詰まって、その生涯を送られました。同じようなことが私たちにも可能だという証をたててくださったのです。
 みことばを宿すなんて私には無理、と思っていませんか。キリストの十字架のあがないにより罪は赦され、神様から罪はないとみなされ、御霊様はことばとして宿って下さり、その御霊とみことばが力をあらわしてくださり、いままで罪に対して弱かったものを勝利させてくださり、日々新しくつくり変えられてくださって、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えていってくださいます。
 それが神様のご計画であり、その救いのためのすべての御業は主が成し遂げてくださったのです。
 あとは私たちがそれを信じてチャレンジするだけです。私たちは神のかたちにつくられたものですから、私たちの本来の姿はイエス様のように感じ考え生きることなのです。
 しかし、この地上に望みを置くクリスチャンは見えるものに希望を持ちますから、見えないイエス様のすがたに変えられていくというようなことは、ピンと来ないかも知れません。それよりこの世の見えるものの栄光をもって神のすがたを現そうと思うかもしれません。
 神様がもっとも望んでおられるのは、神の本質である愛をあらわすことです。それを目指していきましょう。

5.ことばなる神に出会える(ヨハネ14:9)
「イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」
 イエス様はことばなる神様のかたちです。神のご性質が満ち満ちて宿っているお方です。イエス様は、内におられる神様のみおしえをそのまま語り、そのままみわざを行っておられたので、それを見たなら、それは父を見たのと同じです、とピリポにおっしゃったのです。
 今、私たちは肉体のイエス様も、よみがえられたイエス様も見ることはできません。しかし、ことばなる神を宿した人を、見ることはできます。ことばなる神を宿したクリスチャンを見たら、それはキリストを見たのと同じことになるのです。
 しかし、「神を見せて」と言われて「私を見てください。私を見た者はキリストを見たのです」とはなかなか言えません。ここで勘違いしてはいけません。イエス様は満ち満ちたお方でした。私たちは満ち満ちておりません。たまにイエス様が見える程度です。
 クリスチャンの内に多くのみことばが宿って、みことばによって日常生活を送っている人は、なんとなくイエス様のようだなあと周りが見てくれる、その可能性を私たちは秘めているということなのです。
一つでもみことばが宿って一つでもキリストを現わせたら感謝です。 私たち一人一人はキリストのからだの一器官一肢体です。一人で完全にキリストを現すというのでなく、教会全体でキリストを人々に見ていただくことができるのです。
 自分には足らなくても他の兄弟にあり、また逆もあり、そうして皆が集まってキリストのからだをあらわすことができる、これが神様のお考えです。
 一人ですべてを完全にあらわせなくてもいいのです。クリスチャンが互いに愛によって結び合わされていけば、お互いの持っている一つのキリストが合わさってキリストの全体が見えてくるのです。教会とはそいうところです。キリストの姿もあり、人間の姿もあり、良いところも悪い所もある中で、「ここにはことばなる神様キリストが宿っている」と、人々に見ていただけるようであれば、それは私たちの喜びでありますし、神様も喜んでくださるのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
◎人々は、私たちを通してことばなる神に出会っている。
★参考のみことば(コロサイ3:9〜10)
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
 人は老いてますます古くなっていきますが、クリスチャンは造り主のかたちに似せられてますます新しくされていくという霊的法則があることを覚えておいてください。これが真理です。

  【俳句】    
 枯れ草に  見栄えなくとも  いのち宿す   

 私たちの体は枯草のように見栄えのないものですが、ことばなる神を内に宿して輝くものであります。

 

 

 

 

 

■2019年12月8日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

心を強くしなさい・主が来られるまで耐え忍びなさい   up 2019.12.8


主題聖句(ヤコブ5:7〜8)
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.心を強くしなさい
(ヤコブ5:8)
「あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。」

 今年もいよいよ最後の月となりました。ヤコブの手紙5章をもって、年間聖句を深めるシリーズを締めくくりたいと思います。
 改めて年間聖句を見てみると、5章8節に「耐え忍びなさい。心を強くしなさい。」とあります。信仰生活で一番大変なのは、信仰を維持することです。前進しようとするなら、なおさら力がいります。主が来られるまで耐え忍ぶことも、簡単なことではありません。だから、ヤコブは“心を強くしなさい”と言っています。心の強さが重要になってきます。

 心の強さについて確認しておきましょう。この世で成功者と呼ばれる人たちは、大抵心の強い人でしょう。物事を前向きに捉え、積極性があり、困難な状況にも心を強く持ち続けることができるでしょう。“心を強くしなさい”と聖書が言っているのは、この世の成功者になるために言っているのではなく、信仰を維持するために、耐え忍ぶために、勧めているのです。聖書全体を見るときに、成功者や力を持っている者のためよりも、むしろ弱い者への励ましとして書かれています。その証拠に、金持ちに対する警告が度々出てきています。
 ヤコブ5章も、金持ちへの警告から始まっています。お金自体は悪いものではありません。それを使う動機、心構えを聖書は警告しています。この“金持ち”を更に広い意味で、“神をおそれない権力”と捉えてみました。

 イエス様の福音の対象を振り返ってみましょう。マタイ9:2で「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と言われています。病人すなわち弱者です。それは、身体的な弱い者に限らず、経済的困窮さにある人、立場の違いによる弱い人、また現代においては、正しいことをする者もこの世の価値観においては弱者の部類に感じます。イエス様は、このような人たちに福音を届けていきました。
 イエス様が地上に来られた時代は、イスラエルはローマの支配下にありました。それ以前にも、バビロン、ペルシャ、ギリシャと常に大国の支配下にあったイスラエルの人たちは苦しい状況にあり、また、同じ民族の中の、パリサイ派と呼ばれる人たちによる、聖書の知識を独占と、独自の律法の細分化で、民を支配していたので、特に弱い立場にある人たちは、旧約聖書で預言されているメシヤ、救世主を待ち望んでいました。
 そんな時代背景のもと、イエス様は馬小屋でひっそりとお生まれになり、それを迎えたのは、当時一番弱い立場にあった羊飼いでした。イエス様が言われた「医者を必要とするのは病人」という言葉は、誕生のときから表されていたのです。同じく救い主の誕生を望んでいるパリサイ派の人たちは、イエス様が自分たちの描く救い主像と違ったので、イエス様を信じることができませんでした。

 弱い者であるからこそ、心を強く持とうとすることには、プレッシャーに感じるかもしれません。しかし、まずはこのことを強く心に持ちましょう。“イエス様は、わたしの救い主としてこの地に来てくださった!” この時期だからこそ、この想いは必ず私たちの信仰を維持することに役立つはずです。そのような想いでクリスマスを迎えていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.主が来られるまで耐え忍びなさい
1)ヤコブ5:7a
「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。」
◎ イエス様の母マリヤは、時が満ちてイエス様がお生まれになるまで耐え忍んで待っていた。(ルカ2:25〜35)
 マリヤは、まだ結婚していない時に天使から受胎告知を受け、「主のおことば通りこの身になりますように」と、葛藤はあったと思いますが信じて受け止めました。そして、出産する時まで忍耐をしました。 人々から批判されたりしたでしょう。特にいいなずけであったヨセフは、離縁した方がいいのではないかと悩みましたが、天使が現れて結婚しなさいと語られて、イエス様がお生まれになるまで忍耐しました。出産の時には長い旅をして、宿屋が空いていなかったので馬小屋でお生まれになりました。イエス様の誕生を一番喜んだのは忍耐したマリヤだったと思います。

◎ 聖霊に満たされた敬虔なシメオンとアンナは8日目に神殿で幼子イエス様を見るまで、長い間耐え忍んで、救い主の誕生を待っていた。
(ルカ2:25〜35)
 イエス様がお生まれになって8日目に神殿に行かれた時、二人の人物が、この幼な子が救い主であること示されて大胆に預言をしました。シメオンという人は、聖霊に満たされた敬虔な人でした。救い主を見るまでは死なないと聖霊によって語られていました。また、女預言者アンナという人も、救い主を待ち望んで断食と祈りをし、神殿に毎日通って、救い主を忍耐して待ち望んでいました。

◎ 弟子たち120人は、ペンテコステの日にエルサレムの二階の部屋で、熱心に祈りつつ聖霊の降臨を待っていた。(使徒2:1)
 イエス様が天に昇られた後、120人の弟子たちが、聖霊を忍耐して待ち望みました。

2)ヤコブ5:7b
「見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。」
*クリスチャンたちは、キリストを再臨の時まで耐え忍んで待っている。
 終わりの時代、大リバイバルが起こります。クリスチャンはその時を耐え忍んで待っています。その忍耐は希望のある忍耐です。

◎ 待ち望む=備える
 信じる者は準備をする
 今は、再臨の時を心を一つにして待ち望む時です。待ち望むとは、備えをすることです。信じているなら準備をします。
 例えば、雨ごいをした後、傘を持って出かける人は信じている人です。雨ごいをしたのに傘を持たずに出かける人は、信じていない人です。今、南海トラフの地震が起こると言われています。終わりの時に災害は起こります。そのために、私たちはどのくらい備えをしているでしょうか。防災のための準備をしているでしょうか。準備をしていないということは、信じていないことからです。再臨は、必ず来ます。永遠のいのちのために準備をしましょう。
◎ 花嫁は挙式前に、花婿のために準備をする
 私たちはキリストの花嫁として何を準備すれば良いのか
 花嫁になるために、たくさんの準備をしなければなりません。その準備はとても大切です。何のために準備するのでしょうか。花婿のために準備をするのです。私たちがキリストの花嫁として迎えられるにふさわしい準備が必要なのです。そのために毎週メッセージがされています。「あわれみ深い人になりなさい。主と同じ心を持つ人になりなさい。敬虔な人になりなさい。従順な人になりなさい。謙遜な人になりなさい。」これは、すべて花婿なる主のためです。素晴らしい花嫁となるために、これらのものを身に付けて、花婿にふさわしい者となるためです。
 しかし、一番大切な準備は、花婿を心から愛することです。愛する花婿イエス様の喜ばれることをしていきたい、イエス様が目を背けられることはやめていきたいと願うのが、花嫁である私たちの願いです。愛するイエス様と永遠に一緒に過ごしたいという強い願いがないと、再臨に対する備えができません。

 以前、ある一人暮らしの年配のクリスチャンの女性と話しをした時、「どんな時が一番幸せなときですか。」と質問しました。彼女は、周りのことが落ち着いて、座布団を出してテーブルの前に座り、目を閉じてそっと祈る時ですと答えました。「イエス様、私はあなたを愛しています。あなたが私を愛してくださるからです。今日も生かされ、主と交われることを感謝します。」と祈るそうです。そうすると、心がほっこりして、イエス様と一緒に生きているということを感謝できるそうです。
 このような祈りなら、いつでもどこでもできます。「イエス様、あなたを愛しています。」と祈りながら、忍耐をして再臨を待ち望んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年12月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

人となられたことばなる神   up 2019.12.1


主題聖句(ヨハネ1:1〜4、14)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

 

 

 神は霊であられるので、目に見える姿というものがありません。神様は一つのかたちに固定されない方、万物に満ちておられる方です。
 
 今日の主題聖句には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。

 人のからだという姿で地上に来られ、33年の人生を過ごされた「ことばなる神様イエス・キリスト」のその肉体は、私たちの持っている肉体と同じです。これが今日のポイントです。
 
 神が人となられて地上で歩まれたということは、この地上で肉体をもって神(イエス・キリスト)のように生きることができるのは人間だ、ということを皆さんに気付いていただきたいと思います。

1.肉体は神のかたち(創世記1:26ー27)  
「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

A)肉体をかたち造る(ヨブ31:15)    
「私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。私たちを母の胎内に形造られた方は、ただひとりではないか。」
 
 初めの人間アダムは、神様ご自身の御手により「われわれ(神)に似るように、われわれ(神)のかたちに」造られましたが、その後の人間はすべて母の胎内で形造られています。
 
 一つの細胞が胎内で自然に分裂して自然に人のかたちになったように見えますが、(ヨブ31:15)には、胎内であっても神が造られたと記されています。天地万物が神のことばによって創造されたように、胎内でも人の肉体は神のことばによってかたち造られているということを知っていただきたいと思います。
 
 肉体はDNA情報によって形造られ、遺伝子にコピーされて受け継がれていっています。
 DNAは、生命体のすべての情報を文字としてもっている設計図のようなものです。その情報量は、朝刊新聞の約25年分もの文字量だそうです。
 成人者の肉体は、約37兆個の細胞によって形成されていますが、その初めはただ一個の細胞です。そして一個の細胞から270種類もの異なる細胞が生み出されて、人の体を形成していくのです。

 その過程のすべてがDNA情報によって管理され推進されて、一人の完成された生命体になるということが、すでに科学的に立証されております。
 
 人間の体はDNAによって造られています。「われわれ(神)に似るように、われわれ(神)のかたちに造ろう」という神のことばが、DNAの情報(設計図)として記録され、その通りに人間は造られ、存在しているのです。
 
 しかし、現実には人間の脳は10%しか使われていないと言われています。DNA情報の中にはまだ実現していない神のかたちがあるのです。

 人は神のかたちとして造られているので、霊的存在者である神様の働きをするためには、残りの90%の超自然的な能力を働かせる霊的働きの部分が必要なのです。 
 
 聖書の中にそれは「知恵、知識、霊を見分ける力、信仰、癒し、奇跡、預言、異言、異言を解く力」という9つの聖霊の賜物として記されています。

 それは今の私たちには超自然的力に見えますが、聖霊によって脳のDNAが100%目覚めたら、それは当たり前のようなものになる、そのような力として既にDNAの設計図の中に書き込まれ、秘められているのです。そして、この残りの90%の領域は神様とのつながりの中で目覚めていくものなのです。
B)神であり人でもあるお方(ピリピ2:6ー8)
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
 イエス様は処女マリヤの胎内で、私たちと同じように一つの細胞から肉体が形成されて普通に人としてお生まれになりました。そして30歳まで大工として生活されました。
 
 聖霊がくだったときに、DNAが100%目覚めて救世主としての働きを始められます。神のかたちを現わすにふさわしい体となって3年半のあいだ、救い主としてのしるしと奇跡、知恵と力をお示しになったのです。

 これは私たちにも出来るということを意味しています。なぜなら同じDNAを持っている神のかたちとしての私たちだからです。

 では、何がこのDNAを目覚めさせて、神のかたちを呼び起こすのでしょうか。

2.神のかたちを呼び起こす    
A)ことばなる神への信仰(マルコ5:34)    
「そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
 長血の女の癒しの場面です。彼女は病気でした。病気とはDNA情報の働きが正しく伝達されないために肉体に病としてあらわれている状態です。

 健全なDNAの情報が正確に伝達されて、その欠点が消えて健全な状態にもどる、これが癒しです。
 ことばなる神、救世主であるイエス・キリストの存在を信じて、イエス様のもとに行けば癒されると近づいて行ったその信仰が、彼女の内の健全なDNAの働きにスイッチオンするきっかけとなりました。 
 そして衣に触った時にイエス様から聖霊の力が流れ出て、彼女の信仰とが合わさって、癒しが実現したと言えるでしょう。

B)ことばなる神の御名を信じる信仰(使徒3:16)
「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」
 美しの門にすわっていた足萎えの男の癒しの記事です。父なる神様はイエス・キリストに一切の権威と力をお与えになりました。足萎えの男はその名を信じたから、その名が持っている力と権威によってDNAを目覚めさせることができたと言えると思います。

C)ことばなる神の御霊(ローマ8:11)  
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 
 罪により死が入ったために、いずれ死滅するという性質を体は持っています。その空しく滅んでいく肉体さえも、聖霊様は眠っていたDNAをスイッチオンにして、神のかたちをも現わすことが出来るように用いてくださるということです。
 
 自分は病気であっても、自分の中で眠っている超自然的なDNAの働きが聖霊によって目覚めたら、他の人にそのような力(御霊の賜物)をもって神のすがたを現すこともできるのです。

D)神のことば(マタイ4:4)   
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
 
 「生きる」という時に、霊的なものを私たちは考えますが、死ぬべき体をも生かしてくださるというところから考えると、神の一つ一つのことばによって肉体が「本当に生きる」という状態にされる、すなわち肉体の中にあるDNAを目覚めさせて、神の姿を引き出すことができるということです。進化ではありません。今の人間の中に眠っている超自然的力、超能力とも言われている力が現れるのです。
 
 全能の神のかたちとして私たちの肉体は造られたのですから、神のような超自然的な働きが出来るようにも、この体は造られている、備えられているというふうに受け止めるのが自然だと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。   
 
 イエス・キリストが地上に来られたということは、私たちの肉体は本来はイエス様がこの地上で歩まれたように生かすことができるということの見本です。
 
 DNA の残り98%が目覚めれば、イエス様のように生きることができます。聖霊と信仰とみことばによってDNAが目覚めてスイッチオンになれば、そういう力が聖霊の9つの賜物として現れてくるのです。
 
 ことばなる神のかたちとして、私たちの体が造られているのなら、神の能力をあらわすことができるようにとあらゆるものが備わっているに違いないと考えるのが普通だと思います。あなたにもその可能性があるのです。
 
 イエス様がお生まれになったことによって、私たちがそこに望みを持つことが出来るようにしてくださいました。それは私たちが世界を支配して思い通りにするためではありません。隣人を愛するために用いる力です。
 
 肉体を持った神の現われがイエス・キリストです。そしてアダムは神のかたちに造られたと書かれてあります。つまり、イエス様のからだと私たちのからだは本質的には同じDNA情報を持っている神のかたちの人間であると言えます。

 神が人となってお生まれになったイエス様のご降誕は、私たちの滅びるからだが、もう一度生かすことのできる状態に救われたということの証しであり、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくとは、神のかたちのDNAが目覚めていって、イエス様と同じ働きができるようになるという意味です。
 
 この罪の宿った肉体を持っていても、罪が宿っていない体とみなしてくだり、聖霊様が罪という死の力を制御して神のかたちをあらわすことができる、そういう状態にもっていってくださるのです。

 【俳句】  
 十二月  一日からの  アドベント 

 

 

 

 

 

■2019年11月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

春の雨、後の雨   up 2019.11.24


主題聖句(ゼカリヤ10:1)
後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。

 

 

 

 イスラエルの季節は、雨季と乾季に分かれています。10月終わりころ、秋の雨(初めの雨)と呼ばれる大雨と共に雨季が始まります。農夫は土を耕し種を蒔き始めます。その後も、随時雨が降りながら、翌年3月にはまた激しく雨が降り(春の雨、後の雨)、雨季が終わって作物は収穫を迎えます。

 今年の主題聖句(ヤコブ5:7−8)に、「秋の雨や春の雨が降るまで耐え忍びなさい、主の来られるのが近いから」と言われているのは「聖霊の雨の季節」を意味しています。聖霊の雨が降り始めたら魂の収穫が近い、主が再び来られるから、ということで初代教会の人たちは、雨を求める農夫のように、聖霊の雨の降り注ぎを、待ち望みました。
 先週は秋の雨(初めの雨)についてお話しいたしました。ペンテコステの祭りの日に、初代教会の人々の上に聖霊(神の霊)が注がれて、ヨエル書に預言されていたように、すべての人に聖霊が注がれるという霊的雨季が始まりました。
 今、私たちも、その聖霊の雨の季節の中におります。秋の雨(初めの雨)は、私たちの魂をきよめ、私たちの心を砕き、神のみことばが蒔かれて、それが育って実が実るということの準備のための雨でした。
 今日は「春の雨、後の雨」について、お話いたします。

1.収穫への段階(マルコ4:26〜29)  
「また言われた。『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』」

秋の雨、初めの雨が降る(雨季の始まり)  
 第一段階)種が蒔かれる
 第二段階)芽が出る
 第三段階)苗へと成長
 第四段階)穂がつく
 第五段階)穂の中に実が入る

春の雨、後の雨が降る(雨季が終わる)   
 第六段階)実が熟する
 第七段階)かまを入れる
 
 イエス様は収穫に至るまでの種の変化についてお話しされました。
「地は人手によらず」と記されているのは、天からの雨により土が十分水を含んで潤っていることを意味しています。ですから、種が蒔かれる前に、季節が乾季から雨季へと移行して、まず秋の雨(初めの雨)が降って土が柔らかくなっていることが前提となっています。
 また、雨は初めと終わりだけでなく、雨季の5か月の間にも適度に降って土を潤し続けます。
 そうして種は芽、苗、穂、穂の中に実、そして実が熟する、というふうに姿を変えて成長します。収穫の鎌を入れる前に、「実が熟する」という段階がありますが、それが春の雨(後の雨)の時期です。
 
 このように種が植えられ育ち実が入り実が熟するというこの期間は、初代教会からキリストの再臨までの教会の成長の期間を表しています。それはまた、私たちの個人的な体験でもあります。
 神様の霊(聖霊)に初めて触れられて、そこから新しい人生が始まります。神様に向かって心を開き、そこに聖霊の雨を注いでいただき、心きよめられ、くだかれて、へりくだって敬虔な心が整えられ、そこにみことばの種がまかれて成長し、収穫の時を待つという流れです。
 
 私たちの魂の救い、収穫のためには、最初の雨の体験と終わりの雨の体験という二つの聖霊体験が必要なのですが、その間にあっても繰り返し何度も何度も聖霊に触れられ満たされ成長していく過程が大切であることが、種の成長の様子から見てわかります。
 
 何度も聖霊の雨を受けることが必要なのです。その経験をするたびに、私たちは新しい変化を自分の内に感じて更にキリストの姿に変えられていきます。内側にそれを実感しながら、キリストの再臨を待つことが出来るようになるのです。
 
 内なる変化が十分に実感できないクリスチャンがいるならば、この雨季の間に聖霊の雨を受けていない状況があるかもしれません。芽のまま、苗のまま、穂のままで留まっているのではないかと振り返ってみる必要があります。クリスチャン生活の形はできたけれど、内なる人徳的なところでの聖霊の実が見られない、ノンクリスチャンの時とさほど変わらないとしたら、それは聖霊の雨を受けることが少なすぎるということです。
 種(信仰)の成長のどの段階にあっても、聖霊の雨の注ぎを充分にいただく体験を求めていきましょう。

2.これから起こる春の雨、後の雨(ローマ11:25〜27)
「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。』」

 (ローマ11:25〜27)には,これから起こる神様のご計画が書かれてあります。
 2千年前にイエス・キリストを拒んで今に至るまで、一部の改心者を除いて、イスラエルはかたくなにユダヤ教に留まっています。
 イエス・キリストを受け入れた異邦人教会は、キリストの花嫁としてきよく成長し、成熟して、栄光の教会として天に迎え入れられます。
 そして救われるべき異邦人がすべて救われた後、イスラエルはイエス・キリストを信じて罪赦され、信仰による義をいただいて、皆救われます。これがアブラハムに与えられた神の約束の成就であり、それが春の雨(後の雨)が降ったことのしるしです。 
 
 イスラエルはまだイエスをキリストとは認めていません。ですから春の雨(後の雨)はまだ降っていません。
 イスラエルが民族的に国家的に聖霊に触れられて、「イエスはキリストだ」と目が開かれて、イスラエルが皆救われる、という出来事が、これから歴史の上に目に見える形でおこりますので、私たちはイスラエルによく目を向けておく必要があります。
 色々な預言書において、キリストを信じる教会が携挙され、イスラエルは地上において皆救われて、残された全世界の人々にキリストの福音を宣べ伝えるということが語られています。壮大な神様のご計画を語り尽くすことはできませんが、大事な今日のポイントは、

A)春の雨(後の雨)の降ったしるしは、教会が完成しキリストのもとに引き上げられる携挙であること。
 
 私たちはこれに預かりたいと願う者です。神様の霊、おこころである聖霊様が触れてくださり、一つとなってくださるような体験、御霊に歩む日々を求めていきましょう。

B)春の雨(後の雨)が降ったもう一つのしるしは、イスラエルが、「イエスはキリスト」と国家的に宣言する時です。
 
 神の選民であるイスラエルが、キリストを信じ受け入れるという民族の救いが実現することが大きなしるしです。目で見ることのできる歴史的瞬間です。
 彼らイスラエルが信じる前に、聖霊体験を通して世界的なリバイバルが起きて、世界中の教会が初代教会のように主の再臨を待ち望む時が来ますから、私たちはもっともっと聖霊様を体験することを求めていきましょう。

3.春の雨、後の雨の個人的体験の証し  
 春の雨(後の雨)の個人的体験とはどういうものでしょうか。私たちはまだ誰も体験していませんので、聖書の中からその証を見てみましょう。

A)イエス様(ヨハネ14:10)
「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」
 イエス様は、父なる神様と、思いも言葉も行いも100%一体です。
これが成熟したクリスチャンの姿であると言えるでしょう。

B)エノク(創世記5:22〜24)      
「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
 
 エノクの「後の雨」の個人的体験の証しは、生きたまま天に携え挙げられるという「携挙」の出来事です。後の雨の予表としてあらわされています。そして「神と共に歩んだ」ということが、最後の聖霊体験である「携挙」に至るための条件ということができます。
 
 私たちは携挙されることを望んでいます。この地上にやってくる大患難、神の裁きの様々の災難に合う前に、神のあわれみによって引き上げられるという携挙を信じています。
 ですから、今の信仰の戦い、試練の苦しみは、それを十分に体験して信仰が成熟して、携挙にあずかれるようにという、クリスチャンへの神様のお取り扱いだと言えるでしょう。
 その苦しみの中で、聖霊を求めて、触れられて、きよめられて、イエス様のもとに引き上げられる準備がなされるのです。
 今どんなに苦しくても信仰の戦いを避けないように、真正面から進んでいきましょう。苦しみの中でこそ神を求める飢え渇きの心が湧きあがるのです。
 
 今日の主題聖句に「後の雨のときに、主の雨を求めよ」とあります。今後クリスチャンがこの地上を歩むにあたって、生きにくい社会状況に変わっていきます。それが後の雨の時期です。いまこの日本においては、信仰という言葉、宗教的言葉には一切耳を貸さないという状況があります。本当に真実に生きたいと思っているけれど、宗教は信じられない、という空気があります。
 この壁を打ち破るには、神の前における正しい良心によって生きるという姿勢を通して、本物はここだということを証ししていく、今はそういう時期にきています。
 そのためには多少の苦しみを通らなければならないことを覚悟してください。その苦しみは雨を求めるための飢え渇きにつながるのです。

【デボーションポイント】          
◎今は後の雨の時期です。豊富な聖霊体験によって「老成円熟」(ろうせいえんじゅく)を目指しましょう。

★「老成円熟」の意味
豊富な経験に裏打ちされて、人格・知識・技能・教養などが十分に熟達していること。「老成」は経験を十分に積んで物事にたけていること。「円熟」は人格や技量などが十分に発達していて、豊かな内容をもつこと。

【俳句】
落葉は  熟した柿の  しるしかな

 店で売られている柿は、まだ青い頃に取られて色づいたものですが、落葉が始まるころまで枝につながった柿は、本当に熟して美味しいものです。私たちも熟したクリスチャンを目指して歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年11月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

秋の雨、初めの雨   up 2019.11.17


主題聖句(詩篇84:6)
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

 

 

 

 今週と来週の二回で「雨」について語ろうと思います。これは今年の主題聖句の(ヤコブ5:7−8)にあります。
「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 」
 農業を経験していない人には、農夫が実りのために雨を待つということは実感としては分かりにくいかもしれませんが、人を待つとか、何かの約束の時を待つという体験はあるはずです。 
 我慢と忍耐の大きな違いは、その時の痛みや苦しみを受け止めて、じっと耐えるのが我慢で、聖書の言う忍耐は必ず実現することを実現するまで待つということです。
 秋の雨と春の雨は必ず降ります。何年何月何日とは分かりませんが、必ず降るのです。農夫は降らない雨を待ってはいません。降る雨を期待して楽しみに待っています。
 神のみことばは必ず成就すると私たちは信じています。神が語られたことは必ず見える形で実現するのです。このことは歴史の中で振り返ることができます。まだ起こっていないこと、個人的にまだ体験していないことがあります。
 個人的にまだ体験していないことは、他の兄弟姉妹に起きたのであれば、自分にも必ず起きると期待して耐え忍んでください。これは、農夫が秋の雨や春の雨を待ち望むことと同じです。そこには信仰が働いています。信仰とは必ず起こる出来事を待つという気持ちです。
 皆さんもそのように、みことばの実現を、自分の身に自分の人生にそしてこの広島に日本に世界に実現するということを楽しみに待つという気持ちをぜひ持ちましょう。

1.主題聖句の内容観察
(詩篇84:6)
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」
 詩篇は大変解釈しにくいところです。残念ながら私たちにはヘブル文化は全く分かりません。従ってこの6節だけでは、全く意味が分からないでしょう。今日は私なりに「初めの雨」に注目して解釈していきたいと思います。

「彼ら」=5節にある「心の中にシオンへの大路のある人」
 心の中とは内側の願い、動機であり、シオンとは神殿がある場所で、それは神の臨在の象徴です。シオンへというのは神の臨在のある所に行きたいふれたいという気持ちです。また、大路とは、自分の人生の大義名分であり、自分の人生の中心、歩むべき道を指します。ですから心の中に神の臨在を求めることを中心として歩んでいる人、つまり神を熱心に求める人のことです。

「涙の谷」=人生の苦しみ悲しみ、乾いた心、逆境
 平坦な広い所は平和であり安住する場所ですが、谷は日差しが短いとか、平地より気温が低いとか、あるいは土砂崩れや水害の危険もある所です。

「泉のわく所」=豊かな潤いがあり、実りが期待できる
 泉のある所には村や町ができます。エルサレムの周りは荒れ地で砂漠なので木がありませんが、エルサレムは泉が湧いています。その泉は水の音からギホンと名付けられています。この途切れなくあふれる泉のおかげで多くの人々が住むことができるのです。

「初めの雨」=救いの聖霊の雨
 これは霊的な意味です。

 <イスラエルの季節>
 3月頃から乾季が始まり、10月頃まで続く
 10月なかば頃に雨季が始まり、3月まで続く
 この雨季の始まりのしるしが秋の雨、初めの雨と呼ぶ
 秋の大雨は、乾季の塵を洗い流し、乾燥しきった土地を柔らかくし、
 種蒔きの環境をもたらす。
 
 この雨が降らないと何もできない程、重要な雨です。乾季ではほとんど一滴も雨が降らないほどですが、動物たちも泉のおかげで生きることができます。
 また昼と夜の温度差が激しいために露がおります。その露が農作物の資源となり土に浸透して地下水へと続きます。カチカチに固くなった畑を耕すのはほとんど不可能です。ですから農夫は雨を待つのです。乾季が終わって雨季が始まるしるしがこの初めの雨です。
 また雨は乾季の時の埃を洗い流してくれます。これは霊的な意味では、きよめと救いです。雨季の初めの雨が秋の雨であり、終わりの雨が春の雨です。
 イスラエルでは秋と春はなく、ただ雨季と乾季の間の短い時期をそう呼んでいます。
『神の臨在である聖所を慕い求める人にとって、どのような逆境のときでも豊かな潤いがある所となる。なぜなら、神は時にかなって秋の雨である聖霊をくだし、救いと聖めを与え祝福してくださるからです。』
 この秋の雨の成就が使徒行伝にあるペンテコステの聖霊が注がれた日です。なんと3千人が一日で救われました。これが秋の雨のしるしです。それからが霊的な雨季が始まりました。後の雨はまだ成就していません。これから起こると信じられています。 
 ポイントとしては初めの雨である聖霊の雨は、私たちの不信仰な頑なな心を耕し、みことばの種を受けるために必要であるということです。この雨を受けることが後の雨を待ち望むのに必要なことです。

2.初めの聖霊の雨を受けた証し
A)ガラテヤ2:20
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 パウロはキリストが生きておられるという圧倒的な体験を、聖霊にふれられて実感しました。余りにもキリストの生命の力が大きいので、自分の存在が小さくなり見えなくなるほどだという実感をしたのです。
 異言を語ることは大切ですが、語れたからといって初めの雨を体験したとは言い切れません。キリストが私の内に生きておられるという、キリストの圧倒的な存在感を感じる経験こそが初めの雨の体験と言えます。

B)第2.コリント5:17
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」
 この新しい自分というものを実感することが大事です。イスラエルでは乾季が終わって雨季になる時期、9月が新しい年の始まりです。私たちもキリストの救いを受けて雨季に入り、聖霊のバプテスマを受けて新しい自分を感じるはずです。

C)テトス3:5
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。 」
 聖霊による新生と更新とあります。聖霊が私たちを新しくしてくださり、きよめ、成長の歩みをゴールまでさせてくださるのです。雨の時期は10月から3月までですから、秋の雨の後、雨が何度も降るように、最後の雨が降るまで、所々で雨が降るように、私たちは何度も聖霊体験をして、さらに新しくされ、さらにキリストに近づいていくようにクリスチャン生活を更新され続けていくのです。
 更新の洗いの働きを受けて行くことが大切です。聖霊が内側に動機を与え、さらに新しくなることに対する飢え渇きをもたらせ、神を求めるという心をもたらせてくださいます。
 ただそういう心を持たせてくださっても、仕事や色々なことに時間を奪われてしまい、雨を求める時間がないと言い訳していないでしょうか。
 農夫にとって、そういう言い訳は通じません。今は雨の季節ですから、いつ雨が降ってきてもそれを受け入れる心構えでいましょう。
 礼拝も聖霊の更新の洗いの時です。また新しい一週間を過ごそうという新しい心を頂き、新しい信仰をもって歩みだそうという動機を頂きましょう。

D)ガラテヤ5:22−23
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」  
 雨が降って聖霊の働きにより心が耕され、みことばの種が蒔かれ、内なる実、徳が高められる実が実ってきます。蒔かれてすぐにポンと実がなるわけではありません。実るまで時間がかかるのです。愛が心に形造られても、すぐに完成するわけではありません、時間をかけて成長していくという段階が必要なのです。諦めないで期待をもって、さらに聖霊にふれられていく体験をしていきましょう。

E)ローマ5:5
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
 聖霊の初めの雨を受けているなら、神に愛されているという実感が湧いてきます。愛されているという実感は聖霊によらないと湧きません。知識だけでは、理解はしても魂や霊、感情にまではいかないのです。
 神様に愛されいると感じると胸がつまって涙が出て言葉にならなくなるという人もいます。周りを恐れてそういう感情を抑え込まないで、どんどん実感していきましょう。

F)ヨエル2:28
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」
 イエス様を信じてから、何か神様の啓示のような夢を見たり、幻としてビジョンが与えられるということがあります。若い人は誰もが目標をもって進むべきです。どこに向かって歩むのか、聖霊によってビジョンが与えられる必要があります。
 
 以上6つ初めの雨、聖霊の雨を受けた証しをあげました。これはだんだんはっきりと自覚できていくものです。異言を語ることだけにこだわらないでください。それ以上に御霊の9つの実を実らせることに心を向けましょう。
 異言の賜物とは私たちの頑なな心を耕す道具のようなものです。祈りにくい時、意気消沈している時、不信仰の時、異言で祈り始めると前向き肯定的信仰的な心に変えられます。内にキリストがもっておられる徳の高さの実を実らせるという体験、さらに成長していくというプロセスを通りますから、今はまだ途上であっても、確実に進んでいると信じてください。
 まだ聖霊にふれられるということについての知識が不十分なために、実感が湧いてこなくても、ここで聖霊にふれられ、成長していくという体験をし続けていきましょう。
【デボーションポイント】
聖霊による「慈雨之化」を求めましょう。

「慈雨之化」は適切な時に適度に降る雨のこと。
適度な雨は草木の育成を良くすることから、君主の善政や聖人の教化が、人々を感化すること。
 
 私たちは聖霊の雨により聖霊によって感化され、キリストのように変えられていきます。最初は0%でも最後は100%になります。聖霊の導きを止めないように積極的にチャレンジしていきましょう。

【俳句】
初冬でも カナンの地では 秋の雨

 日本はまだでも、もうじき春の雨がきます。それまでに聖霊体験を多くして最後には完成されて、再臨のイエス様を迎えましょう。
 聖霊体験を多くすることが大切です。そうでないと実が繁っていないために枯れてしまったいちじくのようになってしまうかもしれません。目的は実です。出来る限り御霊にふれていただきましょう。
 まだ自分に実がないと思える方、だからこそ雨を求めましょう。神様は必ず雨を降らせてくださいますから、耐え忍んで雨を待ちましょう。世界的なリバイバルが起こるまでに、もっと聖霊にふれられていきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年11月10日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

神に従いなさい・ダビデの祈り   up 2019.11.10


主題聖句(ヤコブ4:7〜10、詩篇51:1〜17)

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1 .神に従いなさい
(ヤコブ4:7〜10)
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」
 
 今回のテーマは「神に従いなさい」です。聖書は、従うことをお勧めしているのではなく、はっきりと命令形で「従いなさい」と教えています。神様に従う生き方を決意し、信仰を持ったのが私たちクリスチャンです。そのことを今一度思い出し、再決意する一週間としていきましょう。
 神に従うとは、どういうことでしょうか。上記のみ言葉には、悪魔に立ち向かうこと、神に近づくこと、手を洗いきよめること、二心をきよくすることと書いています。
 悪魔に立ち向かうとは、悪魔に喧嘩を売ることではなく、悪魔の誘惑に抵抗することです。悪魔と言っても、テレビや漫画に出てくるような異形の姿で目の前に現れることはありません。
 人を通して、世の物を通して、私たちクリスチャンを誘惑してきます。それは、悪魔は、私たち人が神に近づくことをねたんでいるからです。
 神に近づくとは、心の距離を縮めること、すなわち、心の中心に神を置くことです。神様を意識しているから、みことばを通して悔い改めに導かれるのです。神様を意識しているから、神様を悲しませるようなことをしないように努力するのです。それは、神に近い証です。神を意識しない者は、放縦に生きます。
 しかし、神を意識していても、罪を犯してしまいます。その度に私たちは手を洗いきよめるのです。すなわち、悔い改めです。
 誰に対して悔い改めるのでしょうか。もちろん、全能の父なる神に対して悔い改めます。
 私たちの主人は神のみです。神の他に主人がいてはなりません。むしろ、聖書は「二人の主人に仕えることは出来ない」と言っています。
 この世の風潮に、“欲しいものを少しずつ”というのがあるように感じます。また、それが叶う時代でもあります。信仰にも自由があり、
 あらゆる宗教の良い部分だけを信じることもできるでしょう。しかし、聖書はクリスチャンにいつも迫ります。神に従うか、世に従うか。
 選民であるイスラエルの民も神に従うことをしない場面が多く旧約聖書に出てきます。彼らでもそうなのですから、私たち現代に生きるクリスチャンは、よっぽどの強い芯がなければ、神に従う信仰が、いつの間にか世を友とすることにすり替えられてしまうのです。
 今日も自身に問い確認しましょう。神に従うか。世に従うか。

【横路伝道師メッセージ】
2.ダビデの祈り
1)詩篇51:1〜9
「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」

 これはダビデが大きな罪を犯した後、悔い改めて一週間食事をせず、地べたにひれ伏して祈った時の詩です。
 
 ダビデはすごく神様に愛されて、あらゆる戦いに勝利して王様になり、神様と共に歩みました。しかし、やがて国がある程度おさまり、ほっとしている時に、大きな罪を犯しました。それは、姦淫と殺人の罪でした。 預言者ナタンがダビデの前に現れて、罪をはっきりと指摘しました。その時ダビデは、自分は罪を犯しましたと正直に悔い改めたのです。その生まれた子どもが死ぬという時に、一週間何も食べずにひれ伏して悔い改めの祈りをしたのです。これが、神に近づく祈りでした。

◎神に近づく祈り、神に届く祈り。
 ダビデは罪を示された時、「もうだめだ、神様から捨てられる」と思ったでしょう。ですから彼は必死に祈ったのです。
 悔い改めというのは、神様に対してするのです。誰かに対して悪いことをしたら、その人に謝りますが、私たちの悔い改めとは、神様に対してするのです。なぜなら、神様が私たちを裁く力と赦す力をお持ちだからです。私たちは問題が起きた時、苦しみの時に一生懸命に祈ります。この一生懸命さが神様に近づくことではないでしょうか。
 一生懸命すると、知恵が出てきます。相手に伝わります。結果が出ます。しかし、中途半端であれば、愚痴が出てきます。いいかげんにやっていると、言い訳が出てきます。
 一生懸命さが悔い改めの祈りにおいては特に必要です。悔い改めはとても大切です。自分の罪をそのままにしておけば決して幸せになりません。

◎赦されることで終わらない、行動が変わる悔い改め
 悔い改めて、赦されたと感謝します。しかし、そこで終わってしまうとまた同じ罪を犯してしまいます。悔い改めても同じことをするのは、悔い改めの「改め」が弱いからです。具体的には、生活の習慣を変える必要があります。生活が変わるほどの決心が必要です。行動を変えなくてはいけません。具体的な決心が必要なのです。
 例えば、「罪の誘惑のある場所には行かない!」と決心をすることです。決心をして行動していかないといけません。行動が変わる悔い改めをしていきましょう。

2)詩篇51:10〜17
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたま「しい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

◎聖霊が取り去られないように願う
 これは本当に大切な祈りです。聖霊様によって私たちは神様を信じることができました。聖霊様は日々私たちを助け、導き、慰め、うめきの祈りをもってとりなしてくださる方です。
 また、力強く、敵を打ち破る力を持っておられます。罪を犯したままなら、この聖霊様を取り去られるので、ダビデは取り去らないでくださいと切実に祈りました。
 ダビデの前の王様のサウル王は、聖霊が取り去られ悪霊が入って来て、大変な最期を遂げました。私たちも、聖霊様によって今支えられていますが、聖霊様から離れてしまうと大変なことになる恐れがあります。神様は聖霊様によって私たちを守っておられます。この聖霊様が取り去られないようにダビデは祈っています。
 そしてダビデは「血の罪から私を救い出してください。」と祈っています。新約聖書では、人を憎んだなら殺人の罪を犯したと同じであるとあります。私たちもこの祈りをする必要があるかもしれません。

◎神様が喜ばれるささげもの
 神様に喜ばれるささげものとは何でしょうか。賛美と感謝をささげることもできます。また、奉仕もささげることができます。
 しかし、最も神様に喜ばれるささげものは、私たちの砕かれた心です。ダビデのように、心を込めて自分の罪を悔い改めて、やり直そうとするなら、その砕かれた心が一番喜ばれるいけにえだと言われています。心から悔い改める時に神様はその砕かれた心を喜んで赦してくださるお方です。神様は私たちを愛しておられます。何もできなくても、心から神様に近づくことができます。
 また、賛美は信仰の告白なので、上手、下手にかかわらず心から賛美することを喜んでくださいます。神様に愛されているのですから、私たちも神様を愛して、近づいていきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年11月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖潔を得させるための救い   up 2019.11.3


主題聖句(第1テサロニケ4:7)
神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

 

 

 

 私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって、罪赦され永遠の滅びの恐怖から解放されました。それは、救われた私たちが聖潔を得るようになるためです。

 この目的に向かって歩んで行かなかったら、的をはずしたクリスチャン生活になってしまいます。的をはずしたクリスチャン生活とは罪の生活ということになります。

 神様が私たちを召されたのは聖潔を得させるためであり、そのための救いなのです。ここが今週学ぶ重要な点であり、地上の人生での歩むべき方向であり、目指すべきゴールです。
 こういうメッセージを聞くと、自分は無理と諦めてしまう人がいます。しかし、「聖潔を得たい、聖くなりたい」という動機づけをもってください。これが今日の重要なポイントです。この願いをまずは強くもってください。

 自らが聖くなりたい、聖さの素晴らしさをもっと知りたいという願いを持っていなかったら、「聖潔を得させたい」という神様の考えがあなたに成就することはありません。強く願うことが大切なのです。

 以前から語っていますが、「聖い」とは「美しい」ということです。美しさということで聖さをイメージしてください。誰でも美しくありたいと願うものです。男性だったら「カッコよさ」でしょうか。歳をとっていくと若い頃のような美しくありたいという気持ちはあまり持てなくなってしまうかもしれません。それは表面的な美しさに過ぎません。

 しかし誰でも願えるのは「心の美しさ」です。心の美しい人には誰でも惹かれるものです。その美しさを求めない人は色々な体験で受けた心の傷が原因です。子どもでも美しさには惹かれるものです。

1.主題聖句の内容観察
 聖化とはキリスト教用語ですが、聖く変えられていくということです。イエス様の血潮で聖められたのですから、その聖さを保ち、更に磨いていってほしいと神様は願っておられます。それは強い願いです。
ひとり子イエス・キリストを私たちのために身代わりとして犠牲にするほどに、私たちが聖潔を得るようにと強く願っておられるのです。
一番大切なものを代価とするほどに、強い願いをもって救いを実現してくださったのですから、その神様の願い「内側の美しさ」を目指して行こうではありませんか。

 神様はイエス様を介してペテロに言われました。「一日に7を70倍にするほどに赦してやりなさい」と。
 つまり、それほどに悔い改めてやり直そうとする人を、神様は赦してくださり、受け入れてくださるのです。
 もう出来ない、ダメだとあなたは思うかもしれませんが、それでも向きを変えて聖潔を得たいと悔い改めることを、神様は強く願ってくださっています。

2.聖めに対する神への信仰(第1テサロニケ5:23−24)
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。 」
 
 ここで大切なことは、「神は真実な方ですから、必ずあなたが聖潔を得られるように導いてくださいます。」ということです。あなたにはできる力はなくても、神様にはできる力があるので、決して諦めないようにしましょう。

 イエス様の生涯の記録は4つの福音書に表されています。この福音書のイエス様の生涯を通して、人としての聖さをお手本として学ぶことができます。それが私たちのゴールです。神があなたをキリストが地上で歩まれたように、聖潔に歩めるようにと計画してくださっているのです。あなたにはできなくても、神様にはできるのです。神様に期待して教会に来ましょう。

 一週間のうち教会に来たときだけ聖くなったように感じるけれど、家に帰ると元の木阿弥に感じるかもしれません。しかし、一週間に一度だけ家の掃除をすることに例えてみましょう。
 掃除したらすぐに子どもたちが汚してしまうのでもう嫌だと掃除しなかったらどうなるでしょうか。さらに一週間分の汚れが溜まっていきます。掃除しなかった週の汚れがより落ちにくくなって溜まってしまうのです。三週間四週間と溜まったら、もう大変なことになります。ですから、一週間に一回礼拝に来ることで、聖めていただきすっきりすることは必要なことなのです。すっきりするとは、魂と霊が聖められた証拠です。すっきりしないと感じる人は心を開かず、頑なに閉ざしているからです。このメッセージが心に堪える人は是非神様の招きに答えてください。聖めに対する神様への信仰をぜひ持ってください。

 神様はあなたを聖めてくださいます。早く神様を受け入れて掃除してもらいましょう。あなたにできなくても、聖霊様がしてくださいます。
 また、他の人の心の掃除はあなたにはできません。できるのは神様だけです。他の人から罪をやめなさいとか、ここを直しなさいと言われてもできません。教えて気づかせてあげることはできても、実際に掃除して聖めてくださる方は神様だけです。批判的な人に手を出すと逆に怒られ傷つけられるでしょう。

3.聖めを求め続ける(ヘブル12:14)
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。 」
 
 再臨に向け、諦めずに忍耐強く、聖められることを追い求めることが信仰です。
 一時的な思いではなく継続する信仰とは、毎日神様が掃除してくださることを信頼して、毎日神様の前に自分の内側の汚れをとっていただけるように掃除しやすいように、自分の心を開いていくことです。そして礼拝でまたすっきり聖めていただきます。そのような一週間のサイクルを続けていくうちに再臨の日を迎えることができるのです。霊、たましい、からだが完全なものとして神様はあなたを仕上げてくださいます。そういう毎週の礼拝であれば感謝ですね。

【デボーションポイント】
◎ 「聖人君子」(せいじんくんし)は決して不可能ではない。
 あきらめないでチャレンジしていく。
 

★ 「聖人君子」の意味
 立派な人徳や優れた知識・教養を身につけた理想的な人物。

 「聖人君子」は決して不可能ではありません。私たちはいかにも「聖人君子」だと見せかけているのではありません。ただ、そうなりたいと願って進み続けているのです。今はなっていないし程遠いかもしれませんが、神様がそのようにしたいと願ってくださるのですから、あきらめないでチャレンジしていきましょう。

 「聖人君子」とは、立派な人徳や優れた知識・教養を身につけた理想的な人物であり、歴史の中でただひとりイエス・キリストです。
 このイエス・キリストの姿へと日々私たちは創り変えていただくのです。人ではなく、御霊があなたを聖くしてくださいます。
 究極の理想郷である神の国に入ることができるように神様は私たちを導いてくださいます。

【短歌】
店頭に 並べたる柿 いく種類 
精錬されし 高貴な姿

 家の庭の柿の姿と店頭の柿の姿は、あまりに違います。同じような形の大きさが並んでいたり、四角い柿が並んでいたり、人は柿を商売として売り物として工夫して商品化してきました。自然の柿にはない姿の柿が、人の手が加わることで出来上がってきます。

 クリスチャンも神様の手が加わることで美しく創り変えられていくのです。