■2019年10月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

人を生かすもの   up 2019.10.28


主題聖句(詩篇119:93)
私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

 

 

 

 人生には色々な出来事があります。その中で勝利者はごく一部です。ほとんどの人は人生の意味をあまり考えることなく、ただ何となく生きています。本当に人として生きているのかどうかという答えを持たずに、また答えを求めることもなく、多くの人は普段の営みを続けています。そして自然の中の一部として生きているように思われがちです。
 しかし聖書では、人は自然の上に立てられ地を治めそれらを管理するようにという役割を与えられ、神の形に似せて造られたものであると教えています。
 そのみことばをしっかりと捉えて、地を治める者として、その働きを充分にすることができるように神の戒めが導いてくださいます。そしてその戒めによって人はしっかりと、人として生かされてきます。

1.ミナのたとえ話し(ルカ19:11ー23)
 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。
 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。
 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』
 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。
 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』
 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』
 
 このたとえ話はイエス・キリストの再臨を予表したものです。ある身分の高い人とはイエス・キリストで、遠い国とは神の国、天の御国のことです。
 キリストは再びこの地上に戻って来られます。それは地を治める王としてです。天に帰られている間、しもべたち(十とは全員という意味)に使命を与え、それを全うするために均等にひとり一ミナを与えられました。
 キリストのしもべとは、キリストを信頼してキリストのみおしえの中を歩んでいく人々のことを言います。国民たちはイスラエルの人々も含んでいますが、彼らは救世主であるイエス・キリストを退けてしまい、国として復興する1945年までは全世界に散らされていました。
 こういった歴史的な意味も含んだ例え話ですが、問題点は、ひとり一ミナづつ預かったという点です。結果的に同じ一ミナでも十ミナ、五ミナに増やした人と、放っておいて減りも増えもしなかったという三人の人が出てきます。この一ミナとは何を意味しているのでしょう。

A)一人一ミナづつ預けられた
 神から等しく預けられているものは、「救いのいのち」です。最初にアダムを通して与えられたいのちは、アダムが罪を犯したために永遠の裁きを受けなければならない滅びという状態になってしまいました。
 しかし、キリストを通して、その滅びから救われ生きる道が与えられたのです。滅びていく運命にあったいのちが、キリストのあがないによって救われたいのちとして再び与えられるようになったのです。
 このいのちはイスラエル人だけでなく全世界の人々に与えられました。神は全ての人を救いたいと願って、キリストのあがないによるいのちをお与えになりました。それは個々人の能力によるのではなく、全ての人にミナとして等しく与えられているのです。私たちはそのことを感謝する必要があります。
 タラントの例え話は、与えられたタラントに差がありました。能力によって違ったのです。しかし、救いには差はありません。どんな人にも平等に与えられるのです。この世では何の価値もないと思えるような人であっても、イエス・キリストにより、同じ価値が与えられるのです。 
 自分は優れていると思う人は、なぜ他の人と同じなのかと疑問に思うかもしれません。しかしそれには理由があります。
 同じ救いのいのち一ミナから、十ミナと五ミナを新たに儲けるというのが能力の違いになります。与えられたタラントの違いが表れてきます。そこで悟らなければならないのは良いしもべと悪いしもべの違いです。

B)良いしもべと悪いしもべ
 同じ救いのいのちを用いる才能に違いはありますが、十ミナも五ミナもどちらも良いしもべと神様から喜ばれているのです。これは大事なことです。
 違いがあるということ、器の大きさや力量の違いは造ってくださった神様次第です。神様は大きい器も小さい器もそれぞれ使う用途に合わせて造られています。どちらも役に立つ器として造ってくださったのです。器を生かすのは持ち主である主人です。
 しかし悪いしもべは能力が与えられていたにも関わらず、主人を信頼せず何もしなかったのです。与えられた救いのいのちを主人のために何にも用いなかった、これが悪いしもべです。

C)まとめ
 神を認めない不敬の罪による永遠のさばきから救うためキリストによって預けられた救いのいのちを生かそうと、主人である神の命令を実行する者が「良いしもべ」である。
 主人の言われたことに従うしもべと、主人の願いを無視して自分の考えを優先していくしもべとでは、明らかに後者が悪いしもべです。 神様は何のために救いのいのちを与えてくださったのでしょう。このいのちを用いて何倍にも増やすことができるのです。この使い方によっていのちの価値は差が出てきます。人殺しや悪いことに使えば当然価値は下がり、人のために愛をもって使っていけば価値は上がります。
 同じ一ミナの人生をどう用いるかによって違いが出てくるのです。 良いしもべとなるために主人の願われた商売をしていきましょう。商売とは、利益を上げていくことです。つまり主人の教え(みことば)や訓練によって得た良いことをどんどんしていくなら、このいのちを二倍にも三倍にもどんどん増やしていけるのです。主人の教え、命令とは何でしょうか。

(第1ヨハネ3:23)
「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。 」

 救い主を信じることによって良心がきよめられ新しい心が与えられます。キリストを信じるために忍耐を持って互いに愛し合うことがミナを増やしていくことです。
 
 今来られているグレース・オーさんは、全盲でありながら世界で初めてピアノで博士号を取られた方です。博士号という学位を取るのは並大抵のことではありません。ピアノの演奏のみならず音楽の学問的なことからすべてを網羅して取得されたということです。
 奇跡的とも言えます。その始まりは、信仰深い祖母の「あなたは必ずピアニストとして用いられる」という予言的な信仰の言葉からでした。アメリカの白人社会の中で、アジア系であり、しかも全盲ということでいじめも受けました。周りは見える人ばかりの音楽大学でレッスンの時間が予約できないように意地悪されても、その時は頭の中で弾くようにしたり、いろいろな逆境がかえって彼女の力となり能力となり身についていったのです。
 その原動力はやはり祖母の信仰からでた愛のことばであり、彼女自身がそのことばを信じ諦めずに挑戦していったことによります。
彼女に与えられた救いの一ミナが今日のようなたくさんのミナに増えていき、こうして生かされているのです。
 皆さんそれぞれに力量があります。十ミナであろうが五ミナであろうが、プラスアルファの儲けを出した人は全て良いしもべなのです。
あなたの隣人を愛するという小さな親切でも、それは充分いのちを生かせていることになります。
 結果の量によって優劣を考えることは神の国にはありません。そういう比較は地上だけです。優劣を決めて兄弟姉妹を裁いてしまうのは地上的な考え方にすぎません。天国では結果の多さによって特別扱いされることは決してありません。
 
 あなたらしくそれぞれが置かれた場所で、この救いのいのちを愛を持って生かしていきましょう。

【デボーションポイント】
◎ 「千差万別」(せんさばんべつ)を認め合って、互いに生かし合うことを求めましょう。

★ 「千差万別」の意味
物事の種類や様子にさまざまな差異があること

(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

 神のおことばこそが人を生かすいのちであり霊です。私たちはそれぞれ差があるからこそ愛し合うという行動が生まれてきます。

【俳句】 
食のころ 店を飾るは 栗ばかり

 栗も様々な調理法があり、今は美味しいケーキにも変身しています。私たちも与えられたいのちを様々な場所でさらに生かしていきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年10月20日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

舌を制御することの重要さ
私たちは何を語っているのか
up 2019.10.20


主題聖句(ヤコブ3:9〜10、ルカ6:45)

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1. 舌を制御することの重要さ
(ヤコブ3:9−10)
「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 今月、私が語らせていただく箇所はヤコブの手紙の3章です。この章では、舌を制御することについて書かれています。
 
 人は多くの点で失敗しますが、その中でも舌から発せられる言葉による失敗が多いのではないでしょうか。
 
 この舌を制御することは、馬をくつわで御することや、船を舵で操ることと同じように、からだ全体をりっぱに制御することにつながります。
 
 一方で、舌は小さな器官ではありますが、大きなことを言うこともできます。聖書は、舌は火であり、不義の世界、少しもじっとしていない悪と表現しています。
 
 政治家や芸能人が失言することで、その職を失うことを私たちは見てきているので、この聖書の表現は意外に理解できると思います。
 
 このように、本来は神様を賛美するためであろうその役割とは別に、暴走してしまうと、人生をも悪い方へ変えてしまいかねない、舌という器官を、私たちは果たして制御することができるのでしょうか。

 ヤコブは、舌を制御することは、だれにもできないと言っています。残念ながらこの肉体に罪がある以上そうなのです。

 では、制御することを全くしないで良いのでしょうか。そんなことはありません。神様は、賛美とのろい、どちらを舌で発するかを、私たちに委ねられています。

 のろいを発しないように人を創造することだってできたでしょう。しかし神様はそうはなさいませんでした。

 私たちが、自分の意思で賛美を選択することを望んでおられるからです。舌を100%制御できないにしても、なるべく賛美を、良いことばを発することを私たちは努力することは大切なことなのです。それが、主が来られるまで耐え忍ぶことなのです。

 今週は、一言でも多くの賛美と良いことばを意識していく週としていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.私たちは何を語っているのか
1)ルカ6:45
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」
 心の中に良いものがあるならば、良い言葉が出ます。しかし、心の中が苦々しいもので満ちているなら、悪い言葉が出ます。私たちは良い心から良い言葉を出していきたいと思います。

◎心の中に満ちているものは何か
a)自己中心と、この世のどん底
 私たちは、自己中心で生きていることが多いです。自分を大事にすることは大切ですが、大事にし過ぎることは問題です。
 また、どん欲とは、神様以外のものに依存してしまうことです。どん欲は偶像礼拝です。欲しがり過ぎることに気をつけないといけません。

b)愛とあわれみの心
 私たちは、キリストの十字架の血潮によって日々聖められ、変えられています。私たちの心の倉の中に、神様の愛とみことばと聖霊様がいつもあるならば、良いことばが出て来るのです。

◎どちらを語っているか
a)後ろ向き・否定的な言葉
 私たちは、よく否定的な言葉を語ってしまうことがあります。自分に対して自己卑下したり、過少評価をしてしまうことがあります。また、人に対しても、見下げた言葉を言ったり、裁く言葉を語ることがあります。相手を罪に定めてしまうこともあります。また、神様に対しても、疑ってしまったりすることがあるかもしれません。

b)前向き・肯定的な言葉
 自分に対して、「私は愛されている」「私の罪は赦されている」「私には希望がある」「私は祝福されている」と、神様の約束を握って告白することが大切です。その人の語った通りになります。

2)マルコ11:22〜24
(マルコ11:22-23)
「イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
 信じて疑わなかったら、その通りになるのです。何を信じて語っているかが大切です。 

*アリソン夫人のこと
 アリソン夫人は喘息持ちの方でした。息ができないというのはとても苦しいことです。彼女はクリスチャンでしたが、なかなか喘息が癒されなかったそうです。
 
 彼女は牧師先生に泣いて訴えました。「先生、私はなぜ癒されないのでしょうか。ある人は癒されるのに私は癒されません。自分は癒しを受け取れないと思ってしまいます。何度も祈ってもらいましたが、私は癒されません。仕事もできません。祈ったり断食しましたが、どうしても癒されません。」
 
 牧師先生は、彼女の話を聞いてこう答えました。「あなたの本当の病気は、私は癒されませんと告白する病気です。その告白がその通りにあなたに起こっています。」そこで、彼女は泣いて悔い改め、「私は癒されます。十字架の打ち傷によって私は癒されました。」と告白することを始めて、後に完全に癒されたそうです。

(マルコ11:24)
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
*オースチン牧師のこと
 オースチン牧師は、狭心症や心筋梗塞を何度もし、ついに脳に出血し、かなり重症で、周りの人は助からないのではないかと思っていました。
 
 しかし、彼は必ず神様が癒されると信じて疑いませんでした。何回もそのようなことがあっても、「いや、神様が癒されると言われているのだから、必ず癒される!」と信じて告白し続けました。

 その後、彼は完全に癒されたそうです。心臓外科や脳外科でみてもらうと、痕跡がなく、「あなたは健康です。」と言われたそうです。神様は、信じて告白したら、その通りのことをされるということです。

 ですから、語る言葉に気を付けましょう。言葉に出してしまうと、その言葉は実現するということです。否定的な言葉を語るとその通りになり、前向き肯定的な言葉を使うと、その通りになります。闇の力は、悪い言葉を引き出そうとしてきます。私たちが語る前向き肯定的な言葉は、聖書に書いてあることを根拠にしています。聖書の言葉を告白しましょう。そうすれば、その通りになります。神様は良いお方です。信じて告白していきましょう。

*参考聖句
(箴言21:23)
「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。」

 

 

 

 

 

■2019年10月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

長寿を全うする   up 2019.10.13


主題聖句(創世記25:8)
アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。

 

 

 

 長寿を全うするとはどういうことでしょうか。近年長生きすることが悪いかのように捉えられがちです。2025年問題というのがあります。2022年には、75歳以上の高齢者が全人口の2割近くまでになり、日本の経済状況が変化し始め、2025年には国家予算が大変な時代になってきます。日本はまさに超高齢化、少子化国家なのです。

 ゴールドマン・サックスという金融調査機関のある偉い人が「今後日本は明治維新の時の何倍も何十倍もの大きな困難に直面するだろう。なぜならこれほどの高齢化と少子化、そして人口減少が進んだ国は歴史的に見てもほどんどない」と言っています。つまりこれから日本が直面する問題に対しては、従来の常識では答えを出すことができないということです。

 そのような否定的な現実の未来の中で、高齢者の方々は長生きするのが辛いというイメージを持ってしまいがちです。

 しかし、今日はそういう否定的な社会の中で「長寿を全うする」ということはどういうことなのかを、聖書から皆さんにお話ししたいと思います。

 高齢者は邪魔者なのではなく、高齢者も自分の分を果たす役割を持っているということを語っていきます。

1.人生の走るべき行程を走り尽くす
長寿を全うするとは、人生を走り尽くし、人生をやり抜くことです。

A)使徒20:24
「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」

B)第2テモテ4:6−7
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」

 彼(パウロ)はクリスチャンの模範的な人生を歩んだひとりです。 彼は走るべき行程が何であるのかを知っていました。

 何のために生きているのか、自分の人生の目的が分からない、生活を維持するための仕事をし、少しでもいい環境の生活をするということで終止符を打つという考え方が多いのですが、やはり人の一番の幸せはやりがいのある人生を全うすることではないかと思います。

 単に長く生きることが幸せではありません。聖書で、長寿の祝福の意味するところは「人生を走り切ること」で、ひとつのことに心を向けて最後までやり切ることです。それが長寿を全うするということです。
 
 聖書に私たちの信仰の父と呼ばれるアブラハムという人が出てきますが、彼は75歳になってから神から声をいただき、新しい国民、イスラエル人の元祖となりました。それから彼は百年生きて175歳で召されました。今の私たちには信じられないような年齢です。

 もうひとり有名な人物としてダビデ王が出てきます。彼も「長寿を全うして死んだ」と聖書で表現されていますが、彼は70歳で亡くなりました。このふたりから考えて、年齢ではなく自分の人生をやり抜くことこそが「長寿を全うする」ということであり、祝福された人生であると言えると思います。

 現代の多くの人々は、年をとってからは自分の願いや願望を少しでも満たすことが幸せのように思っていますが、もっと本当に願わなければいけないことは、自分の人生を通して、その歩み方、生き方で、死ぬ直前までできるのは何であるかを考えてみることではないでしょうか。

C)神の愛の道を走り尽くす(第1ヨハネ4:10−11)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」

 私たちが信じている創造主である神様は愛なる神であると言われています。この愛なる神様は私たちにどんな愛を示してくださったのでしょう。
 
 私たちを子として扱い、私たちの失敗としての罪によって私たち子どもが滅びることがないように、神ご自身が人となり、キリストとしてこの地上に来られ、ご自分の命の代償をもって私たちの罪をあがなってくださったのです。
 
 子どもの借金を親が肩代わりする、これは親の愛です。他人も少しは肩代わりしてくれるかもしれませんが、最後まで何回も何回も肩代わりすることのできる心を持ってくれるのは親しかありません。

 父なる神様の気持ちはそういう親心です。何度もつまずき失敗を繰り返しても、きっと立ち直ってくれると期待して、その罪を赦すための十字架での身代わりの苦しみを代償として受けてくださったのです。

 これは神が親として私たちを愛してくださっているという証しであり、歴史に刻まれた事実です。それを信じ受け入れるかどうかはみなさん次第です。

 親の愛を受け続け、何度も借金しても更生しなかったら、いずれは社会的に制裁され不幸な目にあうでしょう。人々の親切や愛、特に神様の愛を無視し続けて終わる人生は本当に虚しいものです。

 私たちが死ぬ間際までできることは、人を愛し続けることです。例え意識がなくなっても、魂は愛する家族を思いつつ息を引き取っていくことがでるのです。神の子として最後まで愛の道を走り続けることが、最後までできることではないでしょうか。

 A、Bの手紙を書いたパウロは、この愛を伝えるために異国にまで行って語り続けた人です。そして今日本にもこの神のおことばである福音(良いおとずれ)が伝わっているのです。

 そして教会の人々はその愛を全うするために、互いに受け入れ合い赦し合い、互いに学びつつ、日々歩んでいます。
 祝福された高齢者の皆さんにも、愛の道を突き進み、それを全うすることができるということを信じてください。

2.目指すべき終活
A)第2テモテ4:8
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 世間では、死ぬまでにできることとして「終活」があげられますが、私がお伝えする終活は、死んだ後のためにこの人生の終わりの終活をすることが必要ですよという意味で「終活」という言葉を使います。

 最後まで愛の内を歩むというのは、人としてのあるべき道であり義の道です。そしてその道を最後まで突き進むことが誉れを受ける道です。神からの誉れを受けることこそ至上の喜びです。

B)第2コリント5:1
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」

 死んだらおしまいではありません。この身体は死んでも魂は別の世界があるということを、イエス・キリストは教えてくださいました。 
 地上の人生はこの肉体があるために多くの苦しみや辛さがあります。しかし天の世界、永遠の家では、食べても食べなくても生き続けられるのです。新しい永遠の身体は生きるためではなく、楽しむために味わうことができるのです。

C)神からの報いを受ける(コロサイ3:24)
「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」
 
 天国に行って楽をするのではなく、天国を相続するのです。最後まで諦めずに愛を大切にして生き抜いた人々のために、報いとして天国の相続者とされるとあります。

 地上で苦しみ忍耐し続けて、それで終わるのではありません。報いがあるのです。 次の世界があるからこそ、今できる限り愛の道を歩み、例えこの地上で裏切られ損をしても希望をもって忍耐することができます。

 地上では何の報いもなく、不幸な人生を送った人ほど、天の御国ではその何倍もの報いを受け取ることができます。その報いを神様はイエス・キリストの罪のあがないを通して用意してくださっています。

 私たちは報われるのにふさわしくないと感じることがあっても、神は救いの道という選択を与えてくださったのです。罪のために滅びるのではなく、赦される憐れみの道を選び取ってください。この福音は信じる者にとって素晴らしい祝福です。

 神様は我が子として皆さんがイエス・キリストのあがないを通して父なる神を信じることを願っておられます。

【デボーションポイント】
 年老いてもわきまえを捨てず、神のことばを基に「仁義道徳」を貫く。

★ 「仁義道徳」の意味
 人として守るべき正しい道。またその道にかなう生き方をすること。
 
 年老いて子どものようにわがままになるのではなく、最後までわきまえを捨てず、子孫への心の財産として愛を伝えていくようにしましょう。

【俳句】
とぎれなく いつまで続く 虫の声

 虫の声が途切れるのは死ぬときです。私たちも命尽きるまで神の愛の道を全うしましょう。

 

 

 

 

 

■2019年10月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

すぐに来られる   up 2019.10.6


主題聖句(黙示録3:11)
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

 

 

 

 今日の主題聖句は、イエス様が7つの教会に宛てて書き送るように言われた中の、フィラデルフィアの教会への手紙で語られたみことばの一節です。

 「私はすぐに来る。」とイエス様が言われてから、1900年近くが過ぎました。こんなに時間がたっているのに、どうして「すぐ」と言われたのでしょうか。
 
 私たちも手が離せない時などに、よく子どもたちに「ちょっと待って、おやつ、すぐあげるから」というような言い方をします。すぐあげたい、早くあげたいという気持ちはある、しかし同時に、しなければならないこともあるから、「ちょっと待ってて、すぐあげるから」と言います。
 
 子どもは待ってもなかなかもらえないと、その言葉は嘘ではないかと疑ったりします。
 
 イエス様は、すぐにでも迎えに行ける準備はしているけれど、遅れることがあるかもしれないから、あなたのいのちの冠を誰にも奪われないように、あなたの持っている神への信仰、神を愛する心、あなたの持っているものをしっかり持っていなさいと、励ましと忠告を与えてくださっておられるのです。
 
 どんなに遅れても必ず行くから、約束は必ず守るから、信じて疑わず心して待っていて欲しい、というイエス様のお心が感じられます。
 
 ヨハネ14章では、イエス様は「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。」と仰っておられます。
 
 今、イエス様は私たちの場所を天国に備える準備をしてくださっておられます。遅いと思うことがあっても、イエス様は必ず約束を守られるお方ですから、信じ続けていきましょう。

1.忠実さが試される(マタイ24:45〜51)   
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

◎主人が留守の間に何をしていたか。
 主人は帰る時間を知らせていません。しもべたちは留守を任されています。悪いしもべは、まだまだ主人は帰らないだろうと、油断します。
 
 再臨はまだまだ先だと思ってクリスチャンも油断します。油断は仕事に対する忠実さを失わせます。「仲間を打ちたたき、」即ち、クリスチャン同士で自己主張をしたり、自己中心な利己的な態度で相手を傷つけるようなことをします。そして「酒飲みたちと飲んだり食べたり」つまり、世の楽しみに浸っている時に、そのしもべの主人が思いがけず突然帰ってきます。 
 
 忠実なしもべは、主人がいようがいまいが、任せられた仕事をきちんとします。それが普通のことで楽しみでもあるので、主人が帰る日も普通に仕事をしています。
 
 私たちは主の再臨に向けて10年計画と言って心を奮い立たせていますが、10年と聞いて、まだ先だと油断してはいませんか。イエス様は来年来られるかもしれません。
 
 準備を完全に終わらせるということは私たちには不可能です。一年一年準備をし続けて、準備が進んでいるというところにイエス様がおいでになって、私たちはこの忠実なしもべのようにみなして頂けるのです。
 
 この一年「忍耐」について学んでいますが、どれだけ忍耐が身に着いたかというよりも、初めの頃より忍耐することに意識を向けるようになってきたなあ、でもまだまだだなあと感じる、それが大事です。
「忠実さ」が試されています。

2.信頼が試される(マタイ25:14〜27)   
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」

◎タラントの違いで、主人に不信をいだいてしまう。
 マタイ24章25章は世の終わりについてのイエス様の教えが記されています。そのたとえ話はすべて再臨に備えるための教えであることを覚えておいてください。(マタイ25:14−27)のたとえ話は、タラントの違いで主人に不信を抱いたしもべの話です。
 
 5タラントや2タラント預けられたしもべは、与えられた賜物を素直に用いて忠実に主人のために仕事をしました。
 
 その忠実さが生み出す結果と評価を、もう5タラントあるいは、もう2タラント儲けた、というふうに象徴されています。
 
 1タラントの賜物を頂いたしもべは、なぜ素直にそれを用いて主人のために仕事をしなかったのでしょうか。
 
 彼は、他のしもべと比べ、こんなに少ないタラントでは、うまく仕事できないとか、失敗して失ってしまったら怒られるとか、色々思ったようです。主人に対する不信の始まりです。
 
 私たちにも、運動能力のいい人、背の高い人低い人、神様はいろんなものを預けてくださいました。その働きや能力には差があります。私たちは、できることなら人から褒められるようなことをしたいという隠れた心(下心)があって、他人の頂き物は素晴らしく、自分の頂き物は小さく低く価値がない、人と比べて差がある、と感じてしまいます。
 
 1タラントか5タラントかという量ではなく、大事なことはそれを用いて主人のために仕事をするという「忠実さ」です。
 
 私たちの人生を通して、このいのちをどう生かすか、それが私たちの地上での一つの働き、生きがいでもありますが、皆さんは隣と比較するというこの世の習慣に影響されて、無意識の内にクリスチャン同士で比較してはいませんか。
 
 私たちにとって恵みは十分与えられています。与えられたものには責任がともないます。与えられたものを、みことばに従って隣人のために用いていくことです。能力、才能、記憶力、運動神経、感性など、それをあなたが神をたたえ、神があがめられるようになるように、キリストの証人として用いていくのです。

 神様は、5タラントの人にも2タラントの人にも「少しのものに忠実だった」「多くをまかせよう」と言ってくださるのです。天国で多くのものを任されるとき、能力ではなく、忠実さが責任を全うする条件なのです。
 
 神様は言われたことは必ず守られる方です。イエス様が再び来られるまでに、忠実さ、信頼を奪われないように。今は忠実さと信頼が試されて、本当に神を信頼するということを私たちは学んでいる最中です。再臨、完全な救いと癒し、永遠のいのち、神様が約束されたことは必ず実現いたします。まだ来ない、遅い、と思って不信仰にならないように気を付けましょう。

【デボーションポイント】     
◎再臨への「確固不抜」(かっこふばつ)の信仰を保つ。

★「確固不抜」の意味
 意志や精神などがしっかりとしていて動じないさま。
 また、固く定まって変えることができないさま。
 
 私たちの信仰は見えるものに惑わされてフラフラしますが、イエス様の再臨だけはしっかり信じていきましょう。

【俳句】 
 万年青(おもと)の実 眺めて念う 「来たりませ」

 万年青(おもと)は、いつも葉が青々とした日本古来の観葉植物で、花や実をならせます。赤い実はお祝い事に使われたりもします。「念う(おもう)」は、一つのことにおもいを集中させることです。
 万年青がいつも青々としているように、私たちの主の再臨を待ち望む心も変わりなく、いつも念(おも)っているようでありたいものです。

 

 

 

 

 

■2019年9月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

委ねられた選択   up 2019.9.29


主題聖句(黙示録22:10〜12)
また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

 

 

 

 先週は「二人の息子のたとえ」から、口先だけで行いのない信仰、神様との関係が第一でない信仰は「死んだもの」であることを学びました。
 また、そのような自分に気が付いて御前に悔い改めてやり直す、みことばの実現に向かって再び前に進む、それは「生きた信仰」であり、その行いは信仰の証しとなることも教えられました。
 実の現われない信仰、行いのない信仰、言い訳する信仰、死んだ信仰、怖いことです。試されます。
 今は私たちはゴールに向かう途上です。見えるところは至らないところがあっても、責めることなく隠すことなく、素直に悔い改め、互いに励まし合って、皆でゴールに向かうことが大事です。そういう「生きた信仰」を神様は願っておられます。
 今日は、生きた信仰あってのポイント「委ねられた選択」というお話をさせて頂きます。
 クリスチャン生活はいつも二者択一(二つのもののいずれか一方だけを選ぶこと)、私たちは今そういう大事な時期を生きているのだと気付いていただきたいと思います。

1.以前は選べなかった(ローマ3:23−24)  
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉をうけることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」

●すべての人は、神の御前にさばかれることが確定していた。
●赦しと救いは、「神の恵み」である。
 私たちは、神に対して罪を犯した者として、さばかれることが確定していました。私たち人間がどんなに一生懸命祈っても、どんなに一生懸命良いことをしても、私たちに罪が無いという事実は見つかりません。ですから、さばきを受ける身であることは、くつがえりません。
 私たちに選択の余地はありませんでした。確定した罪のさばきから私たちが救われるためには、権威ある者(神)からの「恵み」としての「罪の赦し」を頂く以外に、道はありません。

2.選択が可能になった(ヨハネ19:30)    
「イエスは、酸い葡萄酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」

●罪人のために与えられた希望
 人々を救うためのすべての御業が十字架の上で「完了しました。」キリストの十字架による贖いの御業が実現したことにより、「神の恵みによって救われる」という、もう一つの選択肢が与えられました。 信じるだけで罪が赦されて、それだけでなく神の子とされて、そのうえ天国を相続することができる、こんな素晴らしい恵みが私たち罪人のために用意されたのです。
 それにもかかわらず、「そんなものはいらない」「そんなものは信じられない」という人たちは、赦しの恵みを拒んで何を選ぶのでしょうか。

3.何が選ばれるのか(ヨハネ3:18)     
「御子を信じるものはさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

●キリストを信じるか信じないか?
 キリストを信じない者は「すでにさばかれている」とは、死刑という罪が確定しているという意味です。
 私たちには死と滅びの道しかありませんでした。しかし、神様はあわれみと恵みにより、イエス・キリストによる救い、永遠のいのちへの道を開いてくださいました。私たちに選択肢があたえられたのです。選択権のなかったものに、選択権が与えられたのです。キリストを通して信じて救われるか、信じないで滅ぶか、どちらかを「選べる」という特権が与えられたのです。 
 どちらを選ぶべきかは明らかです。しかし多くの人々は、神もキリストも信じません。神の存在を認めず、罪のさばきも信じません。今日の主題聖句(黙示録22:11)にある通りです。
「不正を行うものはますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
 私たちの救いのための神様の御業はキリストによって完了しました。あとは、私たちの選択にかかっています。
 正しい者として正しいことを選び続けることも出来ますし、不正を行なう者として不正を選んで不正を行い続けることもできます。どちらを選ぶかは私たち次第です。選ぶのはあなたです。
 クリスチャンも同じです。キリストの再臨を信じているのなら、少しでも罪から離れ、少しでも正しいことを行なっている状態でイエス様とお出会いしたい、と思うのが自然ではありませんか。
 その気持ちが生きた信仰となるために、みことばの握っている良いものに向けて自分の生活を整えていくこと、失敗することがあっても、それを続けること、それがゴールに向かっている証しです。

4.いよいよ正しいことを行なう 
 みことばを三つ紹介いたします。これらを基準に皆さんも考えて行動していただきたいと思います。

A)ピリピ4:8 
「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

 この世の快楽、罪の誘惑など、色々なものに心が向いてしまいますが、(ピリピ4:8)に書いてあるような事柄に、心を留めましょう。意識してそちらに目を向けましょう。誘惑があっても、信仰の目は「こちらを選びます」と、意志的に決断するのです。
 クリスチャンは、世の中にいた時より悩みます。内面的に悩みます。矛盾に葛藤します。心の中の葛藤を神の前に表しましょう。葛藤があることは、生きた信仰の証しです。

B)へブル12:14  
「すべての人との平和を追い求め、また、きよめられることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」
 聖くなければ誰も主(再臨の主)を見ることはできません。聖めを意識し、聖めに向かって歩みましょう。
 自分がいかに罪深いか弱い者であるか感じながら、それでもイエス様は私を救ってくださる、ゴールに向けて私の歩むべき道を示してくださった、それを意志的に見ていくのです。
C)第1ペテロ3:10−12    
「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」
 幸いな日々を過ごしたい、究極の理想郷を目指したいと思う人に、ペテロはこのように旧約聖書から引用して励ましを与えています。
 皆さん、私たちは共に不正を行なう者ではなく、共に正しいことをもっと求めていきたいと思う人種なのです。
 集会出席、祈り、聖書を読む・・・等々、やりやすいことからチャレンジしてみましょう。
 罪に気付き、罪を認めるのは難しいことです。しかし示されたらチャンスです。素直に悔い改めましょう。それが、正しい者はいよいよ正しいことを行なうことになるのです。

 グレタ・トゥーンベリさんをご存知ですか。スエーデンの16歳の少女です。
 彼女は8歳の時に、初めて気候変動のことを聞き、なぜ対策が行われないのか理解できず、悩み続けて3年後、すっかり落ち込んで無気力となり、会話も食事もできなくなり、最終的に「アスペルガー症候群」「強迫性障害」「選択的無言症」と診断されました。
 その後、彼女は振り返って「それらの病気は自分に制限を与えるものでしたが、今は、特にアスペルガー症候群は、病気とは思わなくなった、むしろ自分にとってスーパーパワーとなった。」と告白されています。
 マイナスがプラスになった、そのきっかけは、正しいことは正しいこととして推し進めるという気持ちにありました。
 今では国連に招かれて、各国首脳の前で演説されるほどになられました。
 国連での演説の一部を紹介します。
「こんなことは完全に間違いだ。私はここに立っているべきではない。私は海の反対側で学校に戻っているべきだ。それなのに、あなたたちは、私たち若者のところに希望を求めてやって来る。そんなことがよくもできるものだ。あなたたちは空っぽの言葉で私の夢と子ども時代を奪い去った。でも、私は運がいい方だ。人々は苦しみ死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている。私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたちが話すことは金のことと永遠の経済成長というおとぎ話だけ、なんということだ。」
 
 正しいことは正しいこととして主張していくべきだ、推し進めていくべきだという彼女の考え方が、病状を逆に自分の力としました。
 多くの大人たちの反対意見がありましたが、それを振り切って、同年代の若者たちの支えによって、彼女はその代表としてそこで語っているという姿勢でした。
 クリスチャンはこうあるべきだと思います。多数決で物事を決められることを恐れてはいけません。
 神がおられることは真理であって、神がおられないならこの世は存在しないのだと、私たちは信じた通りの行動をとるべきです。神がおられるのなら、おられるような生活をすべきです。神はおられる、キリストがその証拠だという生き方、その真理を曲げずに進んでいく、それを選ぶべき民族、私たちは天国人です。これが神に似せて造られた私たちの本性です。
 正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖められた者はますます聖められていく、これが私たちの歩む道なのです。お互いに励まし合いながら進んでいこうではありませんか。小さな群れですが、真理は真理ですと、はっきり言えるクリスチャン生活に変えられていきましょう。
 神はあなたに選択をゆだねられました。「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ない、正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」あなたの選ぶべき道はここに記されています。
 神のなさることは完了しました。残されていることは、私たちがどう選んでいくかです。キリストの再臨を確信して共に歩んでいきましょう。
【デボーションポイント】   
「二者択一」のクリスチャン生活。

★ 「二者択一」(にしゃたくいつ)の意味
二つのもののいずれか一方だけを選ぶこと。

【俳句】
服選び  刈安色に  目がとまる

 

 

 

 

 

■2019年9月22日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

生きた信仰・ふたりの息子   up 2019.9.22


主題聖句(ヤコブ2:14〜26、マタイ21:28〜31)


 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.生きた信仰(ヤコブ2:14−26)

 本日の箇所は、私たちのクリスチャンとしての信仰生活を点検させられる箇所であるように思います。
 
 見ていくヤコブ2章14節から26節は、一つの流れになっているので、例えば24節の「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」だけを読んでしまうと、ここで言わんとしていることが正しく理解できないので、全体を読まれることをおすすめします。

14)私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
15)もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
16)あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
17)それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 口だけの信仰に気を付けることを聖書は教えています。その信仰は死んだもの、すなわち無きに等しい、無意味であるということです。

18)さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
19)あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
20)ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。

 信仰と行いはセットであり、切り離せないものです。目に見えない信仰をどうやって測ることができるでしょう。それはその信仰から出る行いによってしかありません。

 例えば、唯一の神であるという私たちクリスチャンの信仰がありますが、実は悪霊も神が唯一であることを知っており、行いの伴わない信仰は、悪霊の信仰と変わらないと聖書は教えています。

 では、信仰と行いがどのようにセットで働くかを、旧約聖書の2人の人物から見ていきましょう。
21)私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。
22)あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、
23)そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 アブラハムが信仰を働かせた場面は創世記15:6に書かれています。「あなたの子孫は星の数ほどになる。」という神の約束を信じました。その信仰を神様は義と認められています。アブラハムの信仰が口だけではないことが、創世記22章に書かれているイサクを捧げた出来事でわかります。アブラハムは主の約束を信じていることを、行いをもって示したのです。

24)人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
25)同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。ヨシュア記2章
26)たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

 また、ヨシュア記2章に登場するラハブという女性は、イスラエルがエリコの街を偵察に二人遣わしたときに、追ってからかくまいました。異邦人であったラハブが二人の使者を招き入れたのは、イスラエルの民が紅海を渡ってエジプトからやって来ていることを風の噂で知っていました。そして、その民を導いている神である主の存在を信じ、畏れていました。その主が、エリコがあるカナンの地をイスラエルに与えていることを信じていました。ここに彼女の信仰が働いています。

 その信仰が本当であることは、エリコの追手から二人の使者をかくまい、別の道から送り出したことで証明されました。
24)人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 パウロの言っている行いは、律法主義や救われるための努力であり、ヤコブがここで教えているのは、信仰の表れによる行いです。行いが義と認められる信仰が本物であるかを証明することができるので、行いの無い信仰は無意味だということなのです。生きた信仰は行いによって証明されます。イエス様もこのように言われています。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)

 逆に言うと、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかります。主の再臨を待つ姿勢は行いでわかります。
 
 年間目標の「主が来られるまで耐え忍ぶ」という信仰は何をもって証明することができるでしょうか。まずは、主の再臨を信じること、そして、迎える準備をすることです。準備とは、人々に伝えること(宣教)、自分を磨くこと(信仰の成熟)ではないでしょうか。結論はいつも同じですが、結局私たちクリスチャンの使命はここにあり、そのために人生を全うすることが、私たちの抱く信仰が本物であるということを証明する唯一の方法になるのです。

 心を探り、改め、信仰を証明するために、行いをもって表現してまいりましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.ふたりの息子
1) マタイ21:28〜30
「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。」
 
 これは、イエス様が祭司長たち、当時の宗教家たちと議論した時に話された例え話です。この兄は宗教の専門家、弟は、彼らが見下していた罪人と言われている人たちのことを指して言われました。

 兄は、すぐに「行きます。」と言いました。当時の宗教家たちは、自分たちは神様をうやうやしく拝み、断食をし、お祈りをし、あらゆることをしているという自負がありました。しかし、兄は行かなかったとあります。これは、口先だけで行いのない宗教であったということをあらわしています。

 良いことはしたいとわかってはいるが、なかなかできないという矛盾もあると思います。行わないことに対する言い訳もするでしょう。「行きたいのだけど、こちらを優先してしまいました。」と言うかもしれません。お父さんよりも優先することがあったということですから、お父さんにとってはとても悲しいことです。

 ぶどう園とは何でしょうか。色々考えられると思いますが、教会のことかもしれません。神様は、教会に来て礼拝して欲しい、共に交わって欲しい、神の国に入って欲しいと願っておられます。でも、色々都合があって行けないことはあると思います。

 しかし、「行きます、行きます」と言いながらもし行かないなら、それは偽善者となってしまいます。本当に愛しているなら、愛している神様の所へ、また兄弟姉妹のいる所へ行きたいはずです。私たちも、同じように言い訳をして、神様の御心に反することをしていることもあるでしょう。これは兄の姿です。

 しかし、弟に同じことをお父さんが言った時に、弟ははっきりと「行きたくありません。」と言いました。

 正直であるということは大切なことです。しかし、弟は嫌だけれど、後で悔い改めて行ったのです。本当にお父さんを愛していたのは弟の方だったのです。

 このことを考える時、私たちは心が探られます。「あなたは兄のようですか、弟のようですか。」と問われた時、心では思っていても、実際にはできないという言い訳をするわけです。

 表面を取り繕って行かなかった兄、正直に答えたけど、後で悪かったと思って行った弟、この両方の姿が実は私たちクリスチャンの内にあります。

 この中で教えられることは、悔い改めが必要だということです。お兄さんも、その日は行かなかったけど、次の日には悔い改めて行ったかもしれませんね。

2) マタイ21:31
「『ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。』彼らは言った。『あとの者です。』イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。』」

 ここでは、父の願いということを見ていきたいと思います。神様は私たちと一緒にいたいのです。愛しているから一緒に時を過ごしたいのです。私たちと一つであることを願っておられます。

 取税人の祈りという話があります。宮で祈っていたある人は、「私はちゃんと律法を守ってお祈りもし、断食もし、献金もし、特にこの後ろにいる取税人のようではないことを感謝します。」と祈りました。 しかし、取税人は、後ろの方で顔を天に向けることもせずに、「罪人の私をお赦しください。」と祈りました。この二人の中で受け入れられたのは、取税人の祈りだったということです。
 
 取税人や遊女は、律法的には罪人として明らかであって、宗教家たちが見下している人々でした。しかし、そのような人の方が先に神の国に入ると言われた時に、宗教家たちはむかっとしたと思います。

 しかし、決して宗教家たちが神の国に入れないとは言っておられません。後から入れるというチャンスを与えられています。悔い改めれば、誰であってもどのような罪人であっても必ず神の国に入れるのです。

 父の願った通りにしたのは弟でした。つまり、悔い改めた人でした。私たちも、行いのない口先だけの信仰ではなく、悔い改めて、愛の行いを実際に行うこと、これが神様の願いにかなうことだと思います。

 

 

 

 

 

■2019年9月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

究極の理想郷を待ち望む   up 2019.9.15


主題聖句(ローマ8:25)
もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。


 

 

 

 私たちは見たものを欲しいと思うことはできますが、まだ見ていないものを熱心に望み続けることはできるでしょうか。よほどの願望が内に描かれていないと、熱心に待ち望む忍耐は生まれてきません。

 そこで、見ていないものを望むとは何なのか、ということから、今日の主題を「究極の理想郷を待ち望む」と致しました。 
 
 人は無意識の内に、理想郷を心に描くものです。現実の世界が悩ましいものであるとき、争うことも傷つくこともない平和で幸せな理想郷(ユートピア)を求めます。それは個人個人が思い描く世界であり、結局は実現しないと思いながらも夢見るものです。

 クリスチャンは違います。「究極の理想郷」それは、聖書が語っている「神の国」です。それは実在し、実現するという神への信仰を私たちは持っています。
 
 今日は、聖書が語る「究極の理想郷」について、人間が本質的に持っている理想的な社会、理想的な状況を三つ、そしてそれを信じる根拠を四つ目のポイントとしてお話ししていきたいと思います。

1.罪や悪が完全にさばかれる(第2ペテロ3:4−7)  
「次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

●罪や汚れ、あらゆる悪が罰せられ、新しい秩序がもたらされる  
 私たちの社会から、すべての罪、悪、汚れが取り除かれることこそ、一つの理想郷の姿と言えるのではないでしょうか。
 さばかれるべき罪や悪がはびこっており、善より悪が繁栄する、そういう社会に人は失望し空しさを覚え、また、それなら自分も都合良く悪いことをしてもいいか、と思うようにもなります。
 
 なぜ、クリスチャンは罪から離れようとするのでしょうか。神様は御国(理想郷)を実現するために、私たちに罪から離れ、善に親しむようにと私たちを励ましてくださいます。すべての悪と罪は必ずさばかれ取り除かれます。それと一緒にクリスチャンたちも共に滅びることがないようにと、神様は私たちに忠告し、聖書を通し、聖霊様を通して教え導いてくださっているのです。

 そのことを信じて確信しているから、私たちは希望を持って、キリストの再臨を待ち、神の国の実現のために祈ります。まさに忍耐を持って熱心に待ち望むのは、実現することを信じているからです。
 
 皆さんは確信を持って信じていますか。あきらめていませんか。理想郷は必ず実現する、私たちは必ず導き入れられる、と信じているなら、熱心に待ち望む心を大事にしていきたいと思います。
  
 火はすべての悪を焼き尽くし、あらゆる不純物は取り除かれて、永遠に残るものだけが残されるという神の約束は、私たちの慰めであり、善を行なうことに疲れ果てることのないための希望の約束です。

2.新創造される天と地(第2ペテロ3:10−13)       
「しかし、主の日は、盗人のようにやってきます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、崩れ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日のくるのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

●正義に満ちている新しい天と地。       
 罪と悪があるから不幸があります。新しい天と地は正義が満ちているところ、だからこそ幸せがある、これこそ理想郷ではないでしょうか。この言葉があるから、私たちはキリストを信じ続けて今も神の国を待ち望んでいます。
 
 私たちの状況がノンクリスチャンと比べて貧しく不幸に見えたとしても、私たちが住むべき本当の世界は、正義が住む新しい天と新しい地であるというところに希望を持って、キリストの証人としての歩みを最後まで全うしていきましょう。

3.キリストに似る者となる(第1ヨハネ3:2)  
「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者になることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」

●神が人となられた姿がイエス・キリストである。   
 現在の私たちの罪ある姿のままで、理想郷(神の国)に入ってしまったら、またこの世と同じ罪と悪がはびこってしまいます。環境だけでなく私たち自身も理想的なものとなる必要があります。それが「キリストに似たものになる」ということです。
 
 私たちは人間的な努力でキリストの姿に近づくのではありません。私たちのなすべきことは、キリストを信じる信仰を保ち続けることです。
 再臨の日まで信仰を保ち続けるならば、イエス様を見たその瞬間に、キリストに似たものに変えられるという神様の働きがなされるのです。それは信仰を保ち続けた結果、神が報いてくださる神の奇跡的な御業です。
 
 見えない神が、見えるかたちでこの地上に現れたのがイエス・キリストですから、キリストに似たものになるとは、神に似たものになるということです。神になるのではありません。私たちは被造物です。被造物として限りなく神に近いもの、キリストに似た者となる、それは神のかたちに似せて造られた神の子としての人間の究極の姿です。これを実現してくださったのがイエス・キリストの救いです。
 
 失望するような自分の姿があっても、神はキリストの再臨の時にこれを変えて下さるという約束がありますから、それを信じているから今はどういう姿であっても、再臨を待ち望むという信仰を失わずに保っていられるのです。

4.理想郷を信じる根拠(第2テモテ1:9−10)   
「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいまさいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」

●史実としてのキリストこそ信じるに値する証拠である。 
 「天地の基が置かれる前から、我々はキリストにあって選ばれていた」と、私たちの召しの選びについては、エペソ書にも書かれてあります。(第2テモテ1:9−10)では、それがキリスト・イエスの現われによって明らかになったと書かれています。

 実際にキリスト(神)が歴史の中に人として現われ、確かに救いの御業を成し遂げられました。そして神によって予知され選ばれていたキリストを信じる人々が、予定通り続々と集まってきました。
 キリストが現れたので、私たちの信仰も現れたのです。これが理想郷(神の国)を信じる根拠です。キリストが神の御計画通り世に現れた、これが理想郷(神の国)が実現する根拠です。
 
 キリストが神の国のための人々の罪を贖う御業を実現されたのなら、その実現は、神の国の完成に向かって、神が御計画を進めておられるということを信じる根拠になります。キリストの十字架への信仰は、私たちの永遠の希望の基なのです。究極の理想郷(神の国)は、神を信じない人々には絶対実現しない夢のまた夢です。
 
 しかし、私たちはキリストが歴史に現れた事実によって、聖書にある究極の理想郷、天国、神の国、パラダイスは必ず実現する、必ず存在すると信じ切ることができます。だから忍耐をもって今も熱心に待ち望んでいるのです。賛美も熱心に待ち望んでいる姿です。
 
 ノアの時代にも人々は、山の上に船を造っているノアたちを笑いました。しかし、ノアたちは信じていたのです。必ず神の語られたことは実現する、大洪水は起こる、だから造り続けるのだと。もしノアが途中でやめたなら、神はノアに対する約束を守れなくなります。人々は神の話は嘘だったと思うでしょう。

 私たちも同様です。キリストの再臨は箱舟の完成の時です。今、私たちが怠けてしまったら船は完成しません。船が完成しなければ再臨の日もきません。.私たちの冷えた信仰は世の無神論の人々の証明となってしまうのです。

 「なぜそこまで熱心になるのか。それはキリストが本当に来られるからなんだ」と語り続けることが、世の人々の不信仰な言葉が偽りであることの証明になるのです。

 ノアは世の罪が裁かれる大洪水の時が来る、と熱心に船を造りました。皆さんはノアといっしょに船を造る人々でしょうか。それともノアとこの世の中との中間にいて、ちょっと距離をおいて様子見している人々でしょうか。そういうなまぬるい人たちをイエス様は「吐き出す」(黙示録)とおっしゃいました。

 私たちの熱心さがキリストの再臨の証拠である、それこそ私たちがキリストの証人として証しすべき点ではないかと思います。

 理想郷を語る宗教は色々あるでしょう。しかし、実現する力を持っているのはキリストだけです。実現は間近です。主が再び来られる条件は整っています。
 
 まだ見ていない究極の理想郷である神の国を、忍耐をもって熱心に待ち望んでいきましょう。

【デボーションポイント】              
「別有天地」(べつゆうてんち)である神の国が存在することを確信する。

「別有天地」の意味
人が暮らしている世界とは違う、他の世界があるということ。人が足を踏み入れたことのない大自然の美しい景色や、理想郷などのことをいう言葉。

 確信は私たちに熱意を与えます。私たちが熱心になれないわけは、確信が弱いのかもしれません。
 必ず神の国は存在します。なぜならイエス・キリストがこの地上に来られたからです。この確信と確証のゆえに、これからも一緒にキリストの再臨を迎えるために歩んでいきたいと思います。

【俳句】 
 新月を  見上げて憶う  神の国

 夜空に浮かぶ満月の光はとても神秘的です。そして、新月は私たちの目には見えないのですが、確かに空に存在している月のかたちです。
 空を見上げて、見えない新月に、満月を思い見るかのように、私たちは、まだ見ていないけれど確かに存在する究極の理想郷である神の国を心に深く憶いつつ、忍耐をもって待ち望みます。

 

 

 

 

 

■2019年9月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

忍耐される神   up 2019.9.8


主題聖句(ローマ15:5)
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

 

 

 

 忍耐についての教えがずっと続いています。皆さんの中には耐え忍ぶことの苦痛が少なからず溜まってきている頃ではないでしょうか。

 この心の内を神様はどこまで察してくださっているのだろうかと被害者意識も出てきたりしていませんか。
 
 そこで今日は主題聖句の中の「忍耐と励ましの神」という言葉に注目したいと思います。私たちだけが忍耐して苦しんでいるのではありません。私たち以上に神様も忍耐して共に重荷を感じておられるのです。
 「神の忍耐」が、どれほどのものであるかを考えて、神様がそれほどに忍耐されておられるのなら私たちも忍耐していこう、という励ましにつなげて頂きたいと思います。

1.滅ぼされるべき器への忍耐(ローマ3:25) 
「神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃してこられたからです。」

●(内容観察)
キリストによる罪の贖いのいけにえを史実として公に示されたのは、神の義である「あわれみ」を現わすためです。あわれみという神の義は、人々が犯して来た罪を神が忍耐をもって見逃してこられたことによってあきらかにされています。

 神が忍耐しておられるのは、キリストの十字架という救いの御業が現わされて、人々がその救い主を信じる信仰に至るために、人々の罪の歴史を忍耐をもって見逃してこられたということです。
 
 かつて一度、神様はこの地上を大洪水によって滅ぼされましたが、ノアとその家族だけが救われて、それ以降、人類の歴史における罪は罰せられていません。キリストの救いの御業を通して罪人が救われるために、人々の悪を耐えて、ずっと見逃してこられたのです。
 
 神様は人を滅ぼすために造られたのではありません。人を生かして永遠の御国の相続人とするために人をお造りになりました。
 
 ですから、罪人を裁いて刑罰を与えて滅ぼすということは、人間の存在の目的からは外れるのです。ご自分のかたちに似せて人を造られた意味がありません。
 
 人を裁いて罰する正義よりも、人を生かす正義の方がまさっています。それが「あわれみ」です。
 罰するべき人の罪を見逃して、救い主を通して本来の目的である御国の相続人という元の状態に戻す、このことが実現するためには、罪人に対する「あわれみ」がなければできないことです。
 
 神は罪を裁く裁き主でありますが、更に優先されるご性質は、「あわれみ深く情け深い神」(出エジプト34)であられます。
 
 人を生かすゆえに、裁きよりあわれみを優先されます。「あわれみは、裁きに向かって勝ち誇るのです」(ヤコブ2:12)と書いてある通りです。
 
 罪を見逃すことのできないご性質のお方が、キリストの十字架が実現するまでじっと耐えて、世の罪と悪を見逃して長い時を過ごしてこられたその忍耐はどれほどであったことでしょう。

 私(辻牧師)が表具師の仕事をしていた頃、初心者に技術を教える時、成長するためには見逃さないといけない失敗というものがありました。「これは今は言うまい、見逃そう、でもこれだけは言わねば・・」というように、目をつけるところにも優先順位がありました。
 
 初心者が出来ないことや失敗したことを、何でもかんでも事細かに全部注意したり叱責したりしていたのでは、人はやる気を失って離れてしまいます。それを身につけるまでは、相手の未熟さを忍耐するということは、とても大切で必要なことです。
 
 そういう見逃す忍耐というものを神様は今もしておられます。私たちはイエス様を信じたからといって、すぐにイエス様のようになれるわけではありません。

 それなのに神様から、あれやこれや何やといつもいつも言われ続けたら、ついていく気持ちもなくなってしまうでしょう。私たちの成長のためには、相当見逃さないといけない私たちの失敗と神様の忍耐があるということです。
 私たちは信じてすぐにやめれる罪もあれば、誘惑に弱くすぐにはやめれない罪も持っています。難しいことです。その罪を見逃してくださっている、それはイエス様の十字架の贖いの御業があるから、私たちは罰せられないで済んでいるのです。ありがたいことです。
 
 その代わりに、父なる神様はどれほど耐えがたきを耐えてくださっておられることでしょうか。神様にも感情があられるのです。そのお心の内を感じてみてください。

 神様は本当に私たちを愛して信頼してくださっていますから、見逃してくださいます。前向きにとらえてくださるのです。いつかその罪から離れてくれる時が来ると、信じて待っていてくださる、その忍耐を神様はしておられるということです。これが神様の忍耐の一つ目です。

*不敬虔な罪の世界が今も存続しているのは、「あわれみ」という神の義があらわされ続けていることの証拠である。
 
 再臨がやって来ないというのは、神のあわれみが今もあって、見逃してくださっているという状態です。その分、神様は忍耐しておられるということを忘れてはいけません。

 私たちのことが無関心でどうでもいいから見逃しておられるのではなく、一人一人に関心を持っておられて、それでも毎回赦してくださっているのですから大変な忍耐がいります。

*だから、今は「恵みの時、救いの日」である(第2コリント6:2)
「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」

 神様の忍耐の二つ目として「悔い改めを待っておられる」ということを次に見てみましょう。

2.悔い改めを待っておられる(第2ペテロ3:9))  
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

●(内容観察)
神の最後の審判やキリストの再臨がないのではないかと不信仰になってしまわないように気をつけなさい。むしろ、私たちに対して忍耐深くあられるのです。それは一人も永遠の滅びに至ること無く、すべての人が悔い改めて神に立ち返ることを待ち望んでおられるのです。

*悔い改めるのを待つ忍耐には、豊かなあわれみがある。
 
 罪を見逃す忍耐と共に、悔い改めの方向に自分から進んでいくのを待つ忍耐、この二つの忍耐を神様はずっと、そして今もしておられます。
 私たちは子どもに説教したり、部下に忠告したりするときに、責めて叱って存在そのものを傷つけるような怒りをぶつけてしまうことがあります。
 
 神様はそのように無理やり悔い改めさせるようには導かれません。自分の罪に気付いて、これでは神様の愛に申し訳ない、悔い改めようという気持ちが起こるのを待っておられる寛容な気長なお方なのです。
 クリスチャンに対してだけではありません。全世界のまだ神を知らない人々に対しても、いつかは神の存在の大切さに気付いて、救われるようにと待っておられます。大きな忍耐が必要です。 
 
 アダムが罪を犯してから今日にいたるまで、そしてキリストの再臨、最後の審判まで、何と長い間、神様は忍耐し続けておられることでしょうか。何と深い大きな私たちへのあわれみであることでしょうか。
 
 あなただけが苦労しているのではありません。神様もあなたのために忍耐して苦労しておられるのです。

【デボーションポイント】   
キリストの再臨の時に、「今是昨非」(こんぜさくひ:過去のあやまちを今はじめて悟ること。今になって過去の誤りに気付いて後悔すること。)とならないように、神が忍耐してくださっていることを心にとめる。

 キリストが再臨されてから後悔しても遅いのです。それまでに自分の罪に気付いて改めていこうと思わないと、キリストの救いに完全にあずかることはできません。神様は私たちが気づくのを忍耐して待っておられます。  
 
 私だけが苦しいのではない、神様も耐え忍んで待っておられるのだと、励まされていきましょう。

【俳句】 
 唐辛子  調子にのって  口にする

 自分は辛さに強いんだと調子にのって、後で後悔する人がたまにいますね。

 そのように私たちも神様の恵みの中で調子にのって、「いいわ、いいわ、ゆるされているんだから」と安易な気持ちでいると、唐辛子をほおばって口の中がカーッとなるようなことになりますから、気を付けましょう。

 

 

 

 

 

■2019年9月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

聖書が与える忍耐と励まし   up 2019.9.1


主題聖句(ローマ15:4)
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

 

 

 

 私たちは希望があるから健全な心で忍耐して待つことができます。この希望を生み出す忍耐と励ましが、聖書を通して与えられるといことが、今日の主題聖句(ローマ15:4)に示されています。

 旧約聖書にはイエス様が来られるまでのイスラエルの歴史が書かれてあり、新約聖書にはイエス様の生涯、その弟子たちの福音宣教の働き、そしてキリストを迎えるにあたって教会がキリストのからだとして、どのようにすごしていくべきか、最後には、神様の未来に対するご計画の成就を待ち望むための、‐希望の預言書である黙示録が記されています。
 私たちは聖書を読むことを通して、たくさんの良いものを得ることができます。そして忍耐を働かせ励ましを得て、再臨まで希望をもって歩むことができます。
 
 今日はそのような読み方、そのような心構えをもって聖書を読むということを、ご一緒に学んでいきたいと思います。

1.忍耐と励ましは目的達成のため(ピリピ3:13−14)
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

●「上に召して下さる神の栄冠」という目標、それは神の国の相続人となることです。
 神は私たちをご自分のかたちに似せて、ご自分の子として、ご自分の国を相続する子孫として、私たちを造られました。私たちは神様のものを継承するものとして、そのために存在しています。そのことを目的とし目標として、神様は人類の歴史を導いておられます。
 
 目標があれば、その目標達成のために人は一心に歩みます。私たちの信仰生活が熱心である訳は、目標に向かってそこに到達するためです。そのために造られ、生まれ、生きているのですから、それは当然のことであります。
 
 造られた目的はそうであっても、それを捨てて自分勝手な道に生きるという自由も私たちには与えられています。しかし、本来の目的から外れた人生は、ただ空しく終わるだけなのです。
 
 私たちは人間の存在目的を聖書を通してしっかり受け止めて、光の世界を受け継ぐ神の子として、今磨かれ、成長させられ、訓練されているのだ、という思いを持って歩んでいきましょう。
 
 そして神のことばと聖霊様によって励まされ、そこに希望が生み出され、あきらめないでキリストの再臨を待ち望むという姿勢を保っていきましょう。

 忍耐と励ましは人々からも得ることができますが、教訓としての聖書、知恵の書物である聖書から、きちんと味わっていくことが大事ではないでしょうか。
 
 歴史の中には、聖書を読んで人生に大きな影響を受けた方がたくさんおられます。

 ガンジー
「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。」
 彼は、聖書を通して与えられる神の知恵、あわれみ、きよさ、正義というものに理想を持ってインドで活動し、偉業を達成いたしました。彼の人生、価値観、主観にもっとも影響を与えたのは聖書でした。

 ニュートン
「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理がある。」
 聖書から受けた影響によって、科学者ニュートンは自然科学の中での、神の造られた法則を発見していきます。

 ナポレオン
「聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生きものである。」
 彼は世界を征服しようとしましたが、聖書の神、聖書の教えが彼の心さえも征服するという体験をして、このように彼は語っています。

 ヘレン・ケラー
「私が毎日もっとも愛読する書物、それは聖書です。」「私の辞書に悲惨という文字はありません。聖書はダイナミックな力であり、変ることのない理想を示すものです。」
 見えない、聞こえない、言葉も話せなかったという彼女が、聖書(点訳)を毎日読むようになりました。
 
 聖書に示されている理想は、夢で終わるものではなく、実現可能な理想として受け止められているからこそ、人々は聖書に親しみ、影響を受けて、その人生が変えられていったのです。

 三笠宮崇仁
「私は戦時中に敵を知ろうとキリスト教を調べ、聖書にぶつかった。初めは、文明を誇る白人が、なぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史的事実と知った時、聖書から離れられなくなった。」
 昭和天皇の弟であった彼は、古代オリエント史を専門とし、同時に軍人でもありました。聖書を調べれば調べるほど、それが歴史的事実であることを知って、聖書から離れられないほどに、歴史を証明する書物としての聖書の偉大さを実感されたようです。

 他にもたくさんの歴史的に著名な人々が、聖書をこのように肯定的に評価しております。クリスチャンも自分の人生にとって聖書(神のことば)は、どのようなものなのかを実感していくことが必要なのではないでしょうか。
 
 一例として、次のヤコブの半生から、忍耐と励ましを得るということをみてみましょう。

2.ヤコブの半生より(創世記27章ー35章) 

●ヤコブの不運
*同じ日に生まれたのに、長子の特権が与えられない。
*兄のエサウから恨まれる
*叔父の家に逃れなければならなくなった。
*叔父の利得のために利用される
*エサウとの和解がないまま故郷に帰らなければならない。
*もものつがいをはずされる。

●預言(目的)の成就=長子の特権を受ける
 ヤコブたちが生れる前から、兄のエサウではなく双子の弟のヤコブが長子の特権を受け継ぐ、という神様の預言があったにもかかわらず、ヤコブの半生は上記のように順風満帆とは言えず、むしろ不運の連続でした。

 しかし、最終的には預言(目的)が成就します。イスラエルの神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼ばれるように、ヤコブが長子の特権を得たというしるしとして、その名が挙げられています。

 ヤコブは不運続きの人生を通して忍耐を学び、忍耐の中にあっても神様からの色々なしるしや奇跡によって励まされ、それでも状況はそれほど好転するわけではなく、そういうところを通して最終的に長子の特権を受けるにふさわしい者へとヤコブが変えられていくという、そんな姿を私たちはヤコブの半生から知ることが出来るのではないでしょうか。

 私たちも、辛いことや苦しいことがありますが、御国の相続人として、今神様がヤコブのように私たちを導き、私たちが目標に到達するように導いてくださっているのだ、と私たちは受け止めることができます。

 聖書に出てくる聖人たちを通して励みと忍耐とを得て、そこに希望を持ちながら歩んでいくようにと、心から願っております。

3.創世記1:1の与える忍耐と励ましによる希望  
「初めに神は天と地を創造した。」

 私(辻牧師)が初めて聖書を読んだとき、この最初のことば、「神が創造した」というところに大変なショックを受けました。

 当時、私は人生に迷いを覚え、何のために生れ、何のために生きるのか、人はどこからきてどこへ行くのか、人間の不可解な存在についての悩みがありました。

 一般に社会に広まっている進化論では到底答えきれない空しさがありました。すべてが偶然の産物で意味も目的もないのなら、善悪関係なく一人一人が意味や価値を見つけて楽しく勝手に生きて、最後はどうなろうが死んで終わりです。

 ところが聖書は明確に、「神が創造した」と書いてあるのです。「神が、天地を造られた。」そこには、神の「意志」があり、神の「目的」があるということです。

 「ああ、私は目的をもって造られてここにいるんだ。目的があって、いのち、人生を与えられているのだ。」という解答を得た時に、自分のあらゆる疑問に対して、この聖書から学んでみたいという思いが生れ、この分厚い聖書を読み通してみたわけです。結果、神の存在を信じるに至り、こうして今日まで来ております。

 皆さんはいかがでしょうか。聖書を読んで、あなたの人生は希望が与えられたでしょうか。

 もし聖書を読んでも希望が与えられないなら、それは聖書の読み方が間違っているのかもしれません。

 神様のおことばから忍耐と励まし、希望を与えられて、興味深く聖書を読んでいただきたいと思います。

【デボーションポイント】             
◎ 聖書を読み、御国に向けて「奮励努力」(ふんれいどりょく)しましょう。

 聖書を読んで励まされ、希望と忍耐をもって、御国という目標に向かって、「奮励努力」(ふんれいどりょく)していきましょう。
★ 「奮励努力」の意味
目的達成に向けて気を奮い起こし、つとめ励むこと。目標に向かってひたむきに努力する。
【俳句】  
みことばを  霊で食すと  レモンのよう

 普通に食べると、酸っぱくてとても食べれないレモンですが、運動して汗をかいてクタクタに疲れた時に、かじったレモンは、キューっと、全身に力が蘇るような美味しさを感じるものです。

 そのように、みことばを知識ではなく、魂、霊で食しますと、このレモンのように、「そうか!そうなんだ!」と、目が覚めるような活力の回復を体験されるのではないでしょうか。