■2019年8月25日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

えこひいきのない神・良きサマリヤ人   up 2019.8.25


主題聖句(ヤコブ2:1〜13、ルカ10:30〜37)

 

 

 
【辻 和希伝道師メッセージ】
1.えこひいきのない神(ヤコブ2:1〜13)
 私が語らせていただく週は、ヤコブの手紙を順番に見ております。今週は、2章1節から13節から、“えこひいきのない神”というポイントで学んでいきましょう。

(ヤコブ2:1〜4)
「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」
 
 まず、聖書は、キリストを信じる信仰者はえこひいきをしてはいけないことを教えています。その例えとして、りっぱな服装と貧しい人への会堂での対応の違いが描かれています。この例えのように露骨にえこひいきすることはクリスチャンならありえないと思いますが、現実に貧富の差というのは存在します。

 聖書でも、しばしば貧富の差による場面や例え話が登場します。貧富の差を見るときに、神様に対して「なぜ、この状況をおゆるしになられているのか?」という疑問が出てきます。この“差”について、私たちは正しく受け止めなければなりません。みことばにこのようにあります。

(第1コリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 
 つまり、金持ちとそうでない人にそれぞれ役割があるということです。貧富の差を問題視してしまうのは、多くの金持ちがその役割を正しく行使していないからです。なので、貧しい人は金持ちに対して嫌な感情を抱きます。

 聖書で用いられた人物の中には、多くの財を築いた人たちが出てきます。アブラハムは族長でした。ヨセフは総理大臣、ダビデやソロモンは王様でした。彼らは皆神様の前に正しい者で用いられた人です。
自分たちの間で差別を設けているのは、私たち人間であって、神様ではないのです。神様の目にはすべての人はみな平等なのです。

(イザヤ43:4)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

(ヤコブ2:5〜7)
「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」
 
 聖書において、真に価値ある富は、御国の相続権です。それは、この世の貧しい者でも、信仰に富む者としてくださった、神様の最大の恵みです。このように私たちは信仰に富む者とされているのですから、この世の自分勝手な富んだ人のように、貧しい人を軽蔑したり、しいたげたりすることのないようにしましょう。

(ヤコブ2:12〜13)
「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」
 
 私たちがこの地上であわれみを示さなかったなら、私たちへの最後の審判のときにも、あわれみのないさばきが待っています。なぜなら、神様はえこひいきのないお方だからです。

 イエス様を信じたときから、私たちの罪は赦されていますが、だからといって罪の犯し放題が赦されるということではないことは、健全なクリスチャンなら理解できることです。クリスチャンであっても、神の前に正しく歩む者とそうでない者にはそれぞれの報いがあるのは、えこひいきのない神様だからなのです。

(ローマ2:11)
「神にはえこひいきなどはないからです。」

 

【横路伝道師メッセージ】
2.良きサマリヤ人
1) ルカ10:30〜32
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 」
 
 有名な良きサマリヤ人のお話しです。この前の節では、律法の専門家がイエス様を試そうと質問をしました。「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」それに対してイエス様は、「律法には何と書いてありますか。」と質問され、彼は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と答えます。そして、さらに、「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と質問をしました。それに対して、イエス様がこの良きサマリヤ人のたとえ話をされました。 
 
 このサマリヤ人とは、当時のユダヤの人々から見ると、宗教的に対立していて仲が悪く、交際をしなかった隣の民族でした。
 
 まず、ユダヤ人の祭司とレビ人が通りかかりました。彼らは神殿に仕える身でしたから、死人に触れてはいけないという律法があったので、死んでいるかもしれない人に触れて、汚れるわけにはいかなかったのです。また、自分も襲われるかもしれないという危険を感じたのかもしれません。
 
 もう一つは、祭司やレビ人は、1〜2週間神殿で勤めをして、その後休暇をもらってエルサレムから家族のいるエリコに帰り、休暇が済むとまたエルサレムに行って神殿で奉仕をするので、もしかしたら早く家に帰りたかったのかもしれません。
 私たちも、同じ状況に置かれたらどうするでしょうか。かわいそうだけど、関わりたくないとか、自分も被害にあうかもしれないと思って、同じようにしてしまうかもしれません。祭司やレビ人の気持ちもわかる気もします。

2)ルカ10:33〜37
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
 
 ここで、サマリヤ人は彼を見てかわいそうに思ったとあります。それは、祭司やレビ人になかった、愛と憐みの心です。神様の心です。 彼は旅慣れていて、いざというときのための救急箱を持っていたようです。そして応急手当をしてあげ、自分のロバに乗せて、自分は歩いて宿屋に連れて行き、宿屋で一晩彼を介抱しました。まるで自分の家族のように、大切に介抱してあげたのです。これが隣人の姿だと思います。

 また、デナリ二つというのは、当時の宿代の20倍以上の額だそうですが、それを宿屋の主人に払って、「介抱してあげてください。もっとかかったら帰りに払います。」と、全責任を背負って、仕事に行ったのです。なかなかできないことです。この3人の中でだれが隣人になったかと聞かれたら、彼は「あわれみをかけてやった人です。」と答えました。
 
 イエス様は決して通り過ぎていったレビ人や祭司たちを咎めませんでした。しかし、真のあわれみは愛の行動に変わって、隣人は敵対する人にまでも広がっていくことを神様は願っておられます。あまり律法主義になると、いざ助けようとしても、律法がじゃまして助けられないということも起こるのです。例えば、イエス様が安息日に病人を癒されて、多くの人がつまずきました。あまり律法主義になってしまうと人を裁いてしまいます。イエス様さえも裁いてしまったのです。
 
 愛と憐みを考える時に、どうしてそれは必要なのか、どこから来るのかと考えると、お互いの関係性だと思います。家族なら放っておけません。なんとかしないといけない、このままだと尊いいのちが失われてしまうという時、憐みを持って助けるのです。イエス様は、この世の弱い人、貧しい人にしたのは、わたしにしたのであると言われました。
 
 この良きサマリヤ人はイエス様の姿として例えられます。イエス様は私たちが滅びてしまうのを見過ごすことをされず、あわれみにより十字架にかかってくださいました。罪によって永遠の滅びに行くことを放っておけずに、この世に飛び込んで来られ十字架に身代わりにかかってくださったのです。それほど神様が私たちを深く、家族のように愛しておられるのです。だから何とかして永遠のいのちを与えようと天の栄光を捨ててこの地上に来てくださったのです。

 2001年の1月26日に、JR新大久保駅で、酔った人が駅のホームから線路に転落しました。それを目撃した日本人のカメラマンと、韓国人留学生のイ・スヒョンさん(当時26歳)が線路に飛び込んで助けようとしました。しかし間に合わずに、進入してきた電車にひかれ、三人とも亡くなってしまいました。
 
 この時、彼らはなぜ助けようと思ったのでしょうか。彼らはその人を放っておけなかったのです。彼らは亡くなってしまいましたが、その憐みの行為は素晴らしいものとしてたたえられました。18年たった今年も、このイ・スヒョンさんのお母さんが日本に来られ、追悼式があったそうです。
 イエス様もそのようにされました。イエス様は差別やえこひいきなく、全ての人に対して憐み深くあります。一人ひとりが大切ないのちです。自己責任だと言って責めることは簡単です。しかし神様は必死で、何とか私たちを助けようとしてくださいました。

 私たちも同じように、身内だけをかわいがるのではなく、すべての人に対してこの良きサマリヤ人にように、憐みの目を持って、助けの手を伸ばしていこうとすることが、神様に喜ばれることです。そのような憐み深い人を神様は永遠のいのちに導いてくださるのです。

 イエス様は、どうしようもない滅びゆく罪人の私たちを隣人としてくださり、放っておけないと思って救いのために地上にまで来てくださり、十字架にまでかかってくださいました。私たちも見習って、すべての助けの必要な人のために、放っておけないという憐みの心を失わないようにしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

■2019年8月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神に任せる   up 2019.8.18


主題聖句(第1ペテロ2:22〜23)
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 

 

 

 神様に全てを委ねて、その結果を任せるということは、神への信仰による忍耐と言えます。先週は、神様の沈黙という中でも信仰が試され、神様を信じる心の底に隠れているものがないかどうかを引き出されるという話をしました。
 今週は、「任せる、委ねる」ということを学びたいと思います。それには、自制と神への信仰を持って忍耐するということが含まれていると思います。イエス様は、正しく裁かれる方にお任せになりました。私たちも、周りの人々の言葉や見える状況によって、神様のなされていることに疑いを持つのではなく、結果的に神様は必ず正しく全てのことを推し進められ、結果を出されるという信頼を持って、人生の結末を委ねていくということをお勧めしたいと思います。

1.争いをとどめるために(ユダ1:9)
「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。」

◎正論が通じない相手への対応として、神に任せる。
 どちらが正しいかと言い争うのではなく、神様に任せることが大切です。正論が通じない相手には、万物の主権者であり支配者である神様に委ね、任せていくことが、それ以上自分も争ったことによる罪を犯さないためにも、賢い決断だと思います。
「任せる」
 ギリシャ語 ⇒ 降伏する、譲歩する、運に任せてやってみる
 ヘブル語 ⇒ 転がす、委ねる、任せる、委託する
 委ねるという時に、自分の思い通りの結果が出ることを期待して「神様に委ねます」と言うことがありますが、自分の願い通りにならなかった時に、神様への信仰が弱くなる状態になってしまうことがあります。それは、隠れた自分中心の信仰であるということが明らかにされたことになります。
 もし任せるというのなら、その結果がどう出ようと、それを受け入れるということも含まれています。神様に委ね任せるのであれば、どんな状況が目の前に現れようと、神様の答えとして感謝して受け止めていこうという姿勢が、神への信仰として必要だと思います。そのような意味で、箴言には面白い表現があります。
(箴言18:18)
「くじは争いをやめさせ、強い者の間を解決する。」
 委ねるということにおいて、結論が出なかったり、話がまとまらない時には、自分たちよりもはるかに力のある超自然的なものへの信頼を持ってくじを引くということが、この当時様々な所で用いられていました。
 このくじとは、神に委ねるという意味が含まれたもので、人間には解決できないことを、神様に任せるという方法です。くじによって争いをやめさせ結論を生み出すということが、旧約聖書にも記されています。

2.くじを引くようなもの(箴言16:33)
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」

◎約束の地の分割はくじによって決められた(ヨシュア18:10)
「ヨシュアはシロで主の前に、彼らのため、くじを引いた。こうしてヨシュアは、その地をイスラエル人に、その割り当て地によって分割した。 」
 イスラエルの民はエジプトを出て、40年間の荒野の生活を通して神への信仰を学び、乳と蜜の流れる地にようやくたどり着きました。 そこで、12部族が土地の分割で互いに争うことのないように、すべての決定は主から来るというしるしとして、くじを引くことにしました。
 昔は、くじを引くというのは人間の意思をはるかに超えた、決定権のある方法として重んじられていました。けりがつかない時、結果を出しにくいという時に、公平に人々が受け入れる手段として、くじを引きました。どの土地が割り当てられるか、自分の好みでなく、運を天に任せて、人々が同意してくじを引きました。

◎12使徒ユダの後継者はくじによって決められた(使徒1:26)
「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」
 12使徒の一人のユダがいなくなり、一人欠けたので後継者をくじで決めました。二人の候補者が選ばれ、甲乙つけがたいという時に、祈って最終的にくじで決定しました。これは、神様に任せるとう意味でのくじ引きです。しょっちゅうくじを引くのではなく、最終的に神様のみこころにお委ねするという時に、神様への信仰を働かせてくじを引くのです。宝くじは信仰の働くくじではないと思いますので、やめておいた方がいいと思いますね。
 人生は、神様に信頼して歩むことです。それはまるでくじ引きのような歩みであると言えるのではないでしょうか。

【デボーションポイント】
◎「運否天賦」(うんぷてんぷ)は父なる神の御手にある。
 今、何をするべきかをわきまえよう。

★ 「運否天賦」の意味
運が良いのも悪いのも天のみぞ知るものであることから、運を天に任せるという意味。
 全ての結果、成り行きは、父なる神様の御手にあるという信仰を持って、この地上で果たすべき責任を果たしていきましょう。任せるという決断をするにあたり、自分の心を自制をして神様に任せるというときに、忍耐を働かせることが大切です。よく祈って、神様に委ね、任せる時に、信仰が確立するための最終的手段として、神様にすべての結果を任せるということをしていきたいと思います。
 
 イスラエルの国は、いくら注意しても一向に姿勢を正そうとしなかったので、アッシリア帝国とバビロン帝国によって国として滅ぼされてしまいました。しかし、堕落したユダ王国に神様は、「捕囚としてバビロンに連れて行かれる者をわたしは祝福する。」と言われました。
 その中で、バビロン捕囚に行かないでエジプトに逃れようとする集団がいました。この時代はエレミヤという有名な預言者がいました。彼らは神様の確認が欲しくてエレミヤの所に行って祈ってもらったのですが、その答えは「エジプトに上って行ってはならない。わたしは剣と疫病を持ってエジプトに逃れる者たちを懲らしめ裁く。バビロンの捕囚としてバビロンに行きなさい。」というものでした。
 しかし、彼らはそれを受け入れられず、エジプトに上って行きました。何のためにエレミヤに祈っていただいたのでしょうか。それは、自分たちの願いの保証として神様の言葉が欲しかったのです。自分たちの願いはエジプトに行って助かりたいというものでしたが、不安があるので、この願いが神様のみこころなのだということを確認したくてエレミヤの所に行ったのに、願いと真逆のことが語られたので、エレミヤに正しい預言をしていないと反発したのです。
 
 私たちも、神様に結果を任せて祈る時、自分の本音を隠したまま、自分の願いを神様のみこころとする保証として神様に問い正すことは神様を利用することになります。
 決定権は、主権者である神様にあるのに、自分の願いが正当的なものである保証として神様の答えが欲しいというのは、神様を利用することであり、ごう慢が隠れているのです。
 また、「たとえ願ったとしても、結局は神様の思いの通りになるのだから、もう何もしないで神様に任せよう。」という開き直りは、信仰のない態度であり、ごう慢です。自分の願いが通らないということだけを考えて、神様が主権者であるということを無視してしまうことになります。 
 自分の願いがあるかもしれませんが、本当に良いか悪いかは神様が出してくださるという信頼があるならば、人の目に悪く見えるような結果になったとしても、任せた以上は受け入れることが、へりくだった姿勢であり、永遠のいのちを受け継ぐ者としてふさわしい、神を敬う者であるということです。
 願いを持ってはいけないのではなく、持ってもいいのですが、自分で結論が出せないような大事な面に対し、神様に委ねるという心を持って祈るのなら、その結果がどうであれ、それを受け入れることが神様の前における正しい信仰です。神様を畏れ、敬虔な歩みを続けてまいりましょう。

【俳句】
 桃 三つ  選ぶ順番  くじを引く

 三つある桃を誰が先に選ぶかという時に、やはりじゃんけんやくじ引きなどで決めないと、争いごとになります。しかし、くじを引いて決まって一番始めに取った人が、食べてみて中が悪かったとしても、あきらめがつきます。
 私たちも神様に任せるという信仰を持っているならば、あなたの目の前に現れてくるすべての状況を、神を信じた結果として受け止めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2019年8月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の沈黙   up 2019.8.11


主題聖句(イザヤ57:11)
あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。

 

 

 

 「耐え忍ぶ」ということにおいて私たちが一つ、心騒ぐことは、神が沈黙を保たれるという状況があることです。
 
 神様が預言者を通したり、幻や夢を通して何も語られなくなってしまうと、人の心に色々な思いが出てきます。 
 
 平穏無事でいると、あまり神様の声を聴くことは少ないのですが、どんな状況であっても、神様の沈黙が長く続くと、私たちは神様から良い影響を受けることを好まないで、周りのものからの影響を受けてしまうことがあります。
 それでも沈黙されていると、「黙認されている」と勘違いしたりします。黙っておられるから認められている、とは限りません。神様の沈黙にはどんな意味があるのでしょうか。
 
 「祈っても応えられない。」「信仰を働かせているのだけれど、信仰の実が実現しない。」「神様に祈り求めているのに何も声として応答がない。」等、神が沈黙される時、何を考えておられ、何をしようとしておられるのか、今日は聖書の二人の人物から、それを学びたいと思います。

1.ヒゼキヤ王に対する沈黙(第2歴代32 :31 )   
「バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、その地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」

●心にあることをことごとく知るために沈黙される
 「捨て置かれた」というのは「沈黙された」ということです。神様は心にあることをことごとく知るために、沈黙されます。
 
  私たちの心の奥底には、自分でもわからないような隠れた暗闇の部分があります。また、以前は良い心であったのに、今はそうではないことを神様が明らかにするため、ということもあります。ヒゼキヤ王の場合は後者であったかもしれません。 

 ヒゼキヤ王は、ダビデ王から数えて12代目のユダ王国の王様です。ダビデ王と同じように、神様を敬う善い王様でした。
 
 アッシリアの脅威の前に絶体絶命の時、またそのあと不治の病に侵されて死に瀕した時も、彼は心注いで主の前に祈り、大声で泣いて神に助けを願い求めました。それで神様は、奇跡的な助けをヒゼキヤ王に与えてくださいました。アッシリアとは戦わずして勝利し、病もいやされるという人目にも知られる奇跡を起こしてくださいました。
 その結果、イスラエルの神は、周囲の異邦人の国からも恐れられ、王国は栄え、王も尊敬を集めるほどになりました。そして(U歴32:31)にあるように、バビロンの使いの者が、貢ぎ物をもってやってきたのです。

 神様はその時ヒゼキヤ王を「試みられた」とあります。箴言の中に「銀にはるつぼ、金には炉、人を試すのは主である。」また、「人は称賛によって試される。」とも書いてあります。 

 心の中に湧いてくる良くないものを神様は見ておられて、それを明らかにするために、神様はヒゼキヤ王の行動を黙って見ておられたのです。

 ヒゼキヤ王は、将来は敵となるバビロンに、宝物倉から食糧庫、武器庫まで、得意げに何もかも見せてしまうという、傲慢高慢が招いた大失敗をしてしまいました。

 絶体絶命の時にはへりくだって主の前に助けを乞うたヒゼキヤ王でしたが、助かった後、順風満帆になると、おごり高ぶりが出てきて、神様への敬虔な気持ちがなくなってしまうということがあらわにされたのです。   

 ヒゼキヤ王に対する神様の「沈黙」は、私たちにも度々なされることがあります。祈っても応えられない、聖書を読んでも何も教えられない、説教を聞いても心にピンと響かない、私たちもそんな状況が襲ってくることがあります。たいていの場合、私たちの心に不純なものが出て来ているしるしとして、神様が沈黙を守られることがあるのです。

 神様の恵みの中にずっと暮らしていると、私たちはいつのまにか神様の奇跡的な恵みに慣れて、横柄に、また傲慢になります。繁栄と豊かさというのは信仰を堕落させる大きな要因です。信仰を働かせなくても必要なものが手に入る環境であるために、形だけの神への信仰となってしまって、神様のみことばよりも、世間の目や世間のことばに耳を傾けてしまうことが多くなります。

 主題聖句に「あなたは、だれにおじけ、だれを畏れて、まやかしを言うのか。」とあるように、人を恐れ、世の中を恐れ、人の意見や多数決を重んじるようになり、そして人に褒められることで傲慢になります。神様が一番お嫌いなのは傲慢です。自分の心に、傲慢、高ぶり、不敬虔が出来てきてないか、私たちも吟味することが必要です。

 そのためにも毎週の聖餐式は大事です。いつも十字架を思い起こしながら、神様あっての幸せ、繁栄であることを覚えて、いつも心をへりくだらせましょう。

 痛み苦しみのある時ほど、人はよくへりくだることができて、それは「恵み」でありますが、痛みがあってもなくても、願いが聞かれようが聞かれまいが変わりなく、主の前にへりくだりを保つことを心がけることが、ヒゼキヤ王を通して私たちが教えられるところではないでしょうか。

2.ヨブに対する沈黙(ヨブ34 :36 ) 
「どうか、ヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。」

●諭しを与えるための沈黙 
 ヨブは財産を奪われ、家族を奪われても、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と神への信仰を失いませんでした。

 そして更に自分の健康を奪われ、3人の友人たちから「なにか罪を犯したのだろう」と責められたとき、ヨブの隠されていた本音が引き出されます。

 「私はちゃんとやってきた。落ち度はない。どうしてこうなったのか神様に問いただしたい。神様は私の言い分を無視されている。私の義は踏みにじられた」と、ヨブは友人たちに言い返します。

 そして4人目の友人エリフが言ったことばは、「どうか、ヨブが最後までためされるように。」(ヨブ記34:36)でした。

 最後まで神様は沈黙を保って、ヨブがこの苦しみと葛藤の中でどのように悟りを持つのか、じっと見ておられるという状況でした。

 神様のこのお取り扱いに対してヨブはじっと忍耐して、神への信仰を失うことなく、神様の御声を待ち続けました。

 友人たちとの討論では悟りきることの出来なかったヨブでしたが、最後に神様が現れてくださり、ヨブに語りかけてくださった時、ヨブは自分の未熟さ、自分が被造物にすぎないこと、創造主である神様の存在の大きな違いに触れて、自分はなんと愚かなことを神様の前にしていたのだろうかと悟るのです。

 私たちも、神様が何もされないでいる時は 何か自分に悟るべきことがある、ということに心を向けていただきたいと思います。

 主人の方からこうしなさい、ああしなさいとハッキリわかることをするというのは奴隷と主人の関係です。

 神様はそれだけでなく、夫と妻の関係も私たちに求めておられます。主人に何かを言われる前に主人の心を悟って事を行なうように、主人の心を心とするように、それを悟るようにと、神様は沈黙を長く保たれる事があるのです。最初に神様はするべきことを私たちに教えられます。

 神様からの御声や応答がなかったとしても、みこころをあらわされた聖書を読めば、神様が沈黙を守られても何の問題もありません。
 神様の御声を聞けない人でも、神のみこころを行なうことが出来るようにと、聖書が与えられているのです。

 御声、幻、天使、そのようなものにばかり気を取られて大事なことを忘れてはいけません。神様があなたの心や思いや耳に何か語られるのを待っていたら、それはひょっとして神様の言葉ではないかもしれません。

 沈黙はかえって聖書に示された動かざる永遠の神のみこころに心を留めるチャンスです。聖書こそ変更されることのない神のことばが記されたものです。

 現象、奇跡、超自然なことにばかりに目をむけるのでなく、神様が私たちを愛して私たちのために、するべきことや、してはいけないことを記してくださった聖書の言葉を忠実に守る、ということが大事なのではないでしょうか。

 神様のあわれみと慈しみを通して与えられていたヨブの繁栄でしたが、自分の義を主張したところにヨブの問題がありました。

 皆さんもヨブ記を読んでいただいて、特に32章のエリフの登場から読んでいただいて、ヨブの問題点はどこか、そのことを通して皆さんも自分の気付かないでいる罪を神様の前に見いだしていただければと思います。

  へりくだった心を持って、神様が沈黙されている理由を見つけることも大事であると思います。

【デボーションポイント】   
神が沈黙される中でも「方正謹厳」(ほうせいきんげん:行いが正しくまじめで、慎み深いようす)である。

(マタイ23:23)
「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要な者、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」

 「誠実」という言葉は、「信仰」「忠実」「信頼」という意味を含む言葉です。表面的な神への信仰ではなく、心からの誠実をもって方正謹厳に神に仕える、その姿勢が大事です。

【短歌】 
蟻を見て  神の沈黙   続く中
最初の定め  忠実に守る
 
 蟻はいじめられてもいじめられても、列を作り直し列に加わり直して餌をとりにいきます。蟻は、最初の定め(習性)を神に与えられてから今日に至るまで、神の沈黙は続いていますが、怒ることなく飽きることなく、神の最初の言葉、掟、習性を忠実に守り続けています。
 
 それを見る時、「神の沈黙」というのは、私たちに心からの忠実さ、誠実さを試しておられるのではないかと教えられます。 いくら待っても逆境、環境が変わらない、その時に私たちの心は神への誠実さを捨ててしまうような心の状況が起こるのではないでしょうか。罪が働きかけてきて、いくら祈っても神様は答えてくれないと、忠実さを失わせるような心の葛藤が出てくるかもしれません。

 しかし、二千年前に私たちの罪のために十字架で御子イエス・キリストが血潮を流された、この出来事一つをもってしても、これ以上神様から何を応えていただきたいことがあるでしょうか。それだけで十分、という神様の贖いの御業を見て、最後まで神を敬う敬虔な歩みを続けていく、そういうことを神様は見ておられると思います。

 

 

 

 

 

■2019年8月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

耐え忍んで主を待つ   up 2019.8.4


主題聖句(詩篇37:7)
主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

 

 

 

 矛盾の多いこの地上の生活、この天と地、クリスチャンでさえも、神様がおられるなら、「なぜ?」と思うような出来事や、そういう悪がはびこっているのを見聞きし体験もします。その時に、不満愚痴不平がつのって不信仰に取りつかれることがないように、今日はその点を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
 
 今日の主題聖句(詩篇37:7)にある「耐え忍んで主を待て」は、これまで語ってきた「忍耐」と少し違う意味合いが感じられます。主の何を待つのか、ということを今日は見ていきたいと思います。

1.「耐え忍んで主を待て」の意味   
(詩篇37:9)
「悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」

A)「悪を行なうものは断ち切られる」
(詩篇37:20)
「しかし、悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消え失せる。煙となって消え失せる。」

★罪が確定し、さばきが執行されることを意味する。
 (詩篇37:20)では、雑草のように元気にはびこる青草もいつか消え失せる、悪者の結末は結局空しいものになってしまう、と語られています。
 
 死刑囚は刑が確定しても、すぐに刑が執行されるということはありません。しかし死刑から逃れることもできません。刑の時を待つだけです。
 
 この世において、法の目をくぐって密かに悪を行なって益を得ている人々もいます。まるで悪人がはびこり生かされているように見えますが、それは死刑が確定した囚人のように、刑の執行を待っているのと同じです。それが「耐え忍んで主を待て」と言われる私たちの、悪に対する忍耐強さです。
 
 最近起こったアメリカの銃乱射事件や、日本でも京アニ放火事件に見るように、社会の矛盾に対する不満憎悪報復の心から、自らも反社会的行動に出るというようなことがよくおこります。初めはちょっとした不満であったものが、結果はあのような大きな犯罪をおかすことになります。

 悪者が栄えることに対して正しく理解をしておかないと、自分もその仲間入りをする可能性があるのです。
 クリスチャンの場合は、不平不満から不信仰に陥って、神を信じることが出来なくなり、永遠のいのちを失うことにもなりますから、そういう所から逃れ救われるために、私たちもきちんと理解しておく必要があります。

B)どのようなさばきが執行されるのか
(黙示録20:12−15)
「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」          
 
 黙示録によりますと、悪者は最後には、そこにあっても邪魔なだけのゴミのように、永遠の火の池に投げ込まれます。刑が執行されるのです。ですから、いま悪者が栄えているように見えても腹を立てたりせず、神様の前に冷静さを保ちましょう、と今日の主題聖句は私たちに勧めておられます。 
 
 なぜ、悪をすぐにでも裁かれないのでしょうか。神様は裁きの日を延ばしてでも、悪人が心を入れ替えることを期待しておられます。悔い改めて生きるチャンスを与えておられるのです。
 
 私たちもかつては死刑が確定していた罪人であります。イエス様の福音を聞いて心を入れ替えたから、悔い改めたから、死刑を執行されずに赦されたのです。
 
 代わりにイエス様が死刑になってくださいました。それゆえに私たちは赦されて、今ここにこうして生かされているのです。
 
 私たちへの神様の希望は、「心を入れ替える」というその一点に絞られていると言っても過言ではありません。能力でも品性でもなく、今まで悪人だったけれど、これからは善人としてやり直そう、という気持ちを持つことを神様は期待して、今も、あなたを含め、地上のすべての罪人に対して、刑の執行の日を延ばしておられると考えることができます。

C)いまの天と地は一新される
(黙示録21:1)   
「また私は、あたらしい天と地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」
 
 神様は私たちに、裁きの日があるだけでなく、天と地が一新されるということも教えておられます。
 
 今私たちが生きているこの天と地には神様は希望も期待も持っておられません。処分することを決めておられます。ただ、その中にいる人間には期待しておられます。心を入れ替えることの出来る人たちがいるから、この天地と共に処分されることのないように、救いを用意してくださいました。イエス・キリストをこの地上に送ってくださって、イエス・キリストを信じる信仰によって神を敬っているかどうかの確認をされます。そしてキリストを信じる敬虔な者たちのために、新しい天と地を用意されるというのが神様のご計画です。
 
 私たちが住んでいるこの世界は良くなることはありません。システムや法制度などを変えて世を改善しようとしても、効果は一時的です。罪人である人間自身が、一人一人が変わらなければ、社会は必ず堕落するのが歴史の常です。

 完全な律法を与えられても、それを守る力のなかった旧約聖書のイスラエルの歴史を通して、神様は既にそのことを教えてくださっておられます。

2.神の前に静まり、待つ     
(詩篇37:8)
「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」

A)神のさばきへの信頼
(ローマ12:19)  
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」

★神はさばき主、私たちは律法を守る者。
 怒り、憤り、腹立ちは避けられませんが、それを持ち続けることは悪への道につながります。クリスチャンも神から離れてしまいます。
 
 神様のさばきは完全ですから、不完全な人間にはできない正しさをもって、私たちの納得できる復讐をしてくださいます。自分でさばくのではなく、神の前に静まり、さばきは神にゆだねる完全な信頼を持ちましょう。

B)職責を全うする
(第1テモテ4:2)   
「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

★今の天と地は滅びることが決まっている。だから、人々が救われるために、みことばを伝える。
 
 私たちが「待つ」という時、何もしないでただジーッとして神のさばきを待つのではありません。神の前に静まり、神のさばきを待ちつつ、自分の職責を全うします。 
 
 私たちのすべきことは、みことばを、福音を、神の救いを、神様の愛とあわれみを、正しいさばきをなされる神を、創造主なる神を宣べ伝えることです。 
 
 たとえ復讐心を持ちたいほどのことが私たちにおきても、その裁きは完全なる神様が行って下さいますから、私たちのすべきことは、復讐ではなく、人々が救われるために、みことばを宣べ伝えることです。
 
 神様はあなたがみことばを語る時、みことばを通して心が入れ替わる人がいることを期待して待っておられます。
 
 みことばを聞いて、イエス様を信じ、神を敬う敬虔なこころを持つなら、その人は罪に定められず、新しい天と地に入る資格を頂きます。
 
 しかし、神のことばを受け入れられない人、神のことばによってつくり変えられない人は、神を拒む者、神に敵する者であり、悪者です。彼らがこの世でどんなに栄えるように見えても、それはさばきの日までのことであり、この天地が滅びる時に、彼らも天地と共に滅ぼされるのです。皆さんも神を敬う敬虔な心を奪われないように、どうぞ気を付けてください。
 
 神様は、この世を救うのではなく、この世にいる罪人を救いたいと願っておられるのです。

【デボーションポイント】      
みことばを宣べ伝え、ひとりひとりを「回心転意」(かいしんてんい)へ導くことが社会をよくすることにつながる。

「回心転意」の意味
 思いなおして態度を改める事。改心する。考え直し決意を変えること。

 世の中には不満があるけれど、ぜひ、あなたの近くにいる人には回心転意するようにと、みことばを伝えていくことにチャレンジをしていただきたいと思います。
 あなたの神を敬う生活を通して、「神はいない」と思っていた周りの人たちが「神はいるのかもしれない」と変っていくことを期待して、キリストの証しをしていきましょう。それがみことばを伝える事です。
あなたがみことばそのものなのです。
 
 神のことばがかたちとなって宿っているのがイエス様です。私たちも神のことばを宿していれば、神のことばがかたちとなって人々の前に現れます。
 
 みことばを宣べ伝えるとは、単に言葉を伝えることではなく、勝利、証しをするという意味を含んでいます。正しい証言があってこそ、伝えたことばが信じられるものとなるのです。
 その証言とはあなたの生き様です。神に対する姿勢なのです。

【俳句】  
八・六が  回心転意  人々に

 原爆ドームや記念館は原爆の被害の大きさや恐ろしさを伝えるのが最終目的ではありません。人々が回心転意するのを願って展示されております。戦争のむごさを知って、争うのはやめよう、愛し合おう、赦し合っていこうと、心を入れ替えてほしいという願いが込められた8月6日のセレモニーであります。

 

 

 

 

 

■2019年7月28日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

みことばを実行する人になりなさい
自分を変える忍耐・互いに赦し合う忍耐  
up 2019.7.28


主題聖句(ローマ12:2)
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
『みことばを実行する人になりなさい』
(ヤコブ1:19〜27)
 年間聖句をより深く悟るための、ヤコブの手紙シリーズの第2回目となります。今回は、ヤコブ1章19節から27節を見てまいりましょう。 
※19)私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。(※19節のみ新改訳2017)
20)人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
21)ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 私たちは、生活の中で様々な情報を見聞きします。その情報を元に、社会の中で成功を求め、失敗しないように無意識のうちに生きています。なので、いつの間にか聖書のみことばを、この世の価値観でとらえてしまうことがあると思います。聖書では、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、みことばを素直に受け入れなさい。」と書かれています。あらゆる情報の中で、みことばを素直に受け入れることが大切なのです。みことばをもってこの世の情報を判断することが、聖書の正しい理解なのです。騙されないようにしないといけませんね。

22)また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
23)みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
24)自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
25)ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 聖書に書かれている、神様からの私たちへの福音を受け入れ、その証明として洗礼を受けました。しかし、聖書は受け入れるだけでなく、聖書のみことばを実行する人になることを勧めています。福音を受け入れただけでは何が足りないのでしょうか。24節は、鏡で自分の顔を見てもすぐに忘れるという例えを通して説明しています。そうです、私たちはすぐに忘れてしまう弱さがあります。聞くだけでは不十分なので、聞いたみことばを生活の中で実践し、実感し、体験していくことで、聞いたみことばが真に生きていくのです。では、みことばを実行するとはどういうことでしょうか。それは、神様のみこころが何かを意識し、神様に喜ばれることを行動するということです。神様のみこころは、聖書に書かれています。クリスチャンの人生の目的を知るとき、聞くだけでは足りないということがわかってくるものです。

26)自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
27)父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 気を付けなければならないのは、行動が動機の間違ったものにならないようにしないといけません。26節の宗教に熱心というのを、礼拝に出席することに熱心と置き換えてみるとわかりやすいと思います。礼拝出席を守ることが、皆勤賞のようになったり、また出席できない兄弟姉妹を裁いたりしてしまうようでは、その礼拝出席は何のための礼拝でしょうか、ということです。27節では、私たちの熱心の向かう先は、困っている人への世話と、自分をきよく守るということを言っています。周りへのみことばの実践だけでなく、自身の聖めと、成長のためにみことばを実践することも聖書が求めていることがポイントですね。両方大切なことです。まずは、下記のみことばを参考に、みことばの実践が伴う一週間を送ってまいりましょう。
「マタイ25:40」「マルコ12:31」「ヤコブ1:19」「ローマ12:2」

【横路伝道師メッセージ】
『自分を変える忍耐』
(ローマ12:2)「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

◎ 私たちは神の子
 私たちは、神様に愛され選ばれて、天の国籍をいただいているものというのが前提です。このように日曜日に集まって礼拝を捧げるということは私たちの喜びであり楽しみです。
(ローマ12:1)「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
 私たちが日曜日ごとに礼拝に来ていることが形式的なものであるなら、それはむなしいものであり、生きた聖い礼拝をささげなさいとあります。そのためにこの世と調子を合わせてはいけないと言われています。この世は罪と悪の世界であり、私たちもその影響を受けてしまいます。だから、いつも悔い改め、罪赦されて生きている者なのです。
*神に受け入れられる完全な良いこと
 イスラエルの民は、自分の罪の代わりに動物をいけにえとしてささげて、神様に赦しをいただいていました。その時の動物は、聖いものでなくてはならなかったのです。傷があったり、病気のものや死んでしまったものではなく、最も良いものをささげなければならなかったのです。神様に喜ばれる礼拝とは、生き生きとして喜んで礼拝をささげることであり、罪があっても悔い改めて赦していただき、毎日更新されて新しい恵みの中に生かされて礼拝に出るということが、聖い生きた供え物であるということです。

◎ 心の一新
 そのために、心の一新によって心を変えなさいとあります。
*変わること、変えられること、変えること
 「変わること」とは、あきらめずにいること、変わりたいと期待することです。「変えられること」とは、あきらめずにいるなら主が変えてくださるのです。「変えること」とは、自分の意思で、「変えたい」という気持ちがあるだろうか、ということです。自分から求めて変えようという気持ちを持ちなさいということだと思います。

◎ 私が問題です
 イギリスのロンドンタイムスの編集長が、「この世の問題点は何か」というコラムを集めようと思い、ある方にお願いをしました。すると短い投稿が来ました。「私が問題でした。」というものでした。この考え方は聖書に基づいた答えでした。その方は、社会では様々な問題があるが、その解決策は一つしかないということに気づいたということです。それは、まず私が変わらないといけないということでした。自分を変えずにいる「私自身が問題です。」
『互いに赦し合う忍耐』(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

◎ 不満を抱くのはどんな時か
*自分の思いと都合に合わない時
*自己義と相手を直そうとする心がある時
*好き嫌い、先入観、決めつけがある時
◎ 赦せない感情(赦そうとしない恨みと復讐心)
◎ 陰口を言う罪
 赦せないということは、赦そうとしない決心をしているからです。だから恨みと復讐心が消えず、過去の自分の傷を見ているから赦せないのです。これらは、「赦していこう」という決心があれば変わっていきます。私たちはいつも自分の傷や相手の悪い所を見て「赦せない」と思い告白するから、その通りになるのです。しかし、私たちは神様が、どんなに赦して愛してくださっているのかを思い、もし傷を見るなら自分の傷ではなく、イエス様の傷あとを見ないといけないのです。私たちはいつもイエス様の十字架を見上げて、赦されていることを思い出すことが必要です。

◎ 私たちは1万タラント赦された者
 ものすごく大きな負債を赦されていた人がいました。しかし、その人はわずかな借金の人を赦さずに牢屋に入れてしまいました。すると、その人は結局牢獄に入ることになりました。
 私たちも、多くの罪によって滅ぼされて地獄に行く予定が、イエス・キリストの十字架によって赦されて、天国に行くことになったものです。それは大きな大きな犠牲のもとに赦された者なのです。そのような者なのに、他の人のことを指摘し、さばいて不平不満を持つことは違うのではないかとみことばは教えています。主が赦してくださったように、あなたがたも赦しなさいと言われています。

◎ 私たちは一日に490回も赦されている者
 ペテロが一日に何回赦せばいいですか、7回までですかとイエス様に聞きました。すると、イエス様は7の70倍まで赦しなさいと言われました。赦し続けなさいということです。
 私たちは弱く、罪を犯してしまうものですが、神様はすべて毎日赦してくださっています。そのように、あなたも他の人を赦して欲しいと願っておられるのです。みことばを実行していくことができる一週間を歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年7月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

善を続ける忍耐   up 2019.7.21


主題聖句(ガラテヤ6:9)
善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

 

 

 

 当時ローマ帝国の厳しい迫害の中、ガラテヤの教会のクリスチャンたちが、善を行い続け失望せずにいることは並大抵のことではありませんでした。
 しかしそのような中でも、パウロは蒔いたものは必ず刈り取るのだからと、善を行い続けることを励ましています。失望してしまえばせっかく実っても刈り取らずにいることになり、無駄になってしまいます。
 また多く蒔くものは多く刈り取るという原則があります。中東では狭い日本と違い、蒔いた麦の中には道端に落ちたりと無駄になっている種もあり、多く蒔かないと刈り取れないというのは特に実感される原則でしょう。
どちらにしても、善を行い続けることに難しさを感じる社会になってきています。
 しかし私たちは神の前にふさわしい歩み方、善を行い続ける歩みをしていきましょう。

1.「善」の意味
A)日本語の意味
 日本語では2つの漢字で表されています。
 「良」=他より優れている
 「善」=道徳的に正しい

B)ギリシャ語の意味
 ギリシャ語ではひとつの意味になります。
 きちんとした、美しい 
 (おもに比喩的に)良い、(文字通りまたは道徳的に)
 すなわち、価値があるまたは美徳
 きちんとしたとは、あるべき所にあるべきものがちゃんとあるということです。それを美しいという意味合いにも取ります。そこから日本語の2つの意味にも用いられるようになりました。
 日本語の聖書で「良い」と表している所は、他より優れているという意味合いになり、「善」が使ってある所は道徳的面で正しいということになります。しかしどちらもギリシャ語では同じことばになります。
 罪とはギリシャ語では的外れという意味です。ですから的を射たことをするのが善いことをするということです。
 つまりあるべき正しい場所に間違いを正すこと、元通りに直していくということが善になります。

2.善を行うことは努め(第1テサロニケ5:15)
「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」

A)「務め」とは「任務」であり「義務」である
★「任務」とは、自分の責任として課せられた働きを全うすること。
 自分に負わされた、引き受けた働きであり、一旦任された以上それ
をやり遂げるという意味を含んでいます。

★「義務」とは、自己の立場に応じてしなければならないことと、してはならないこと。
 今インスタグラムが流行っていますが、最近変わったものを見ました。警察官の前で警察官を挑発するようなダンスとかをする動画です。本来は公務執行妨害で逮捕されそうなものですが、それがだんだんエスカレートしていっています。若い人はそれを喜んで見ているようですが、これは公務についている警察官から、警察官らしからぬ態度を引き出してやろうとする悪意です。そのときに挑発されて警察官が感情を引き出され相手を捕まえてしまうと、それはそれでやりすぎだと非難されたり様々な世論の的になってしまいかねません。私たちも警察官は犯罪者を捕まえる人であり、犯罪を犯してはならないと思っています。そういう任務と義務を彼らはわきまえていて、少なくても制服を着ている時は法定速度も守って、警察官という職務をこなしています。
 私たちクリスチャンも同様に、善を行うことは任務であり義務なのです。まるで警察官のように善を行うことを務めとして行うことがクリスチャンであるとパウロは言っています。
 完全に守り切ることは難しいとしても、それを言い訳にしてしまってはいけません。善を行うことは任務であると心を引き締める必要があります。イエス様もそのように務められました。
 善とは元のあるべき正しいところに戻すという観点からすると、私たちも身の回りの乱れていることから、まずは正していくように務めていけばよいのです。掃除するというのも善行です。そう考えれば、掃除も自分でしようという気持ちが湧いてくるはずですね。

B)「務め」とする理由(創世記1:26)
 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

★創造の目的または存在目的であるから。
 神は、間違っていることを正し、乱れているものをきちんと元に戻される方です。そしてすべてのもの(海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのもの)を秩序正しく治めるように、人に命じられました。
 それが、神が私たちに賜った務めである善を行うことであり、善とは元のあるべき所にあるように治めることを意味しています。時間が経てば秩序が乱れてくることがあります。いろいろな問題が起こるでしょう。それを元のあるべき姿に戻していくというのが支配するということです。
 ですから、主人が家庭を治める者であるならば、主人が家庭を治める者としてありとあらゆるところに気を配って、家庭が平安に保たれるように率先して行動していくことを意味します。主人が主人としての行動を果たすことが、善を行うことです。この務めは課せられた働きなので、あなたがやり遂げるべき責任であり、それをしないことは的外れであり、罪なのです。
 善を行うとは、間違っていることを正し元に戻すことなので、自分がそれを元に戻すべき立場にあるのか、それとも他の人がすべきことなのかは判断しなければなりません。そういうわきまえを身につけるために神の前における正しい良心をもって、自分の立場をわきまえる必要があります。
地上をあるべき状態に保つという務めを私たちは与えられています。善を行うことは私たちの務めです。

3.神に喜ばれる捧げもの(ヘブル13:16)
「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」
 善を行い続けることは、私たち罪人には「犠牲」的な行動であり、損得を考えてしまい葛藤になるものです。また「いけにえ」でもあります。いけにえとは神の御心を喜ばせなだめるものです。私たち罪人への裁きを鎮めるためにイエス様は十字架で私たちの身代わりに罪を背負ってくださいました。
 つまりいけにえとは、それによって神の御心を変えることができるということを示します。そのいけにえの内容によって神は裁きの思いを変えられることがあるのです。
 イエス様の十字架のいけにえによって、神は裁きを変えられました。ひとり子なるイエス様を信じる者は罪が赦されるという条件つきの変更を与えられたのです。
 神はすべてを私たちの思いとは関係なく遂行されていくだけだと、運命論的に受け取ってしまっていませんか?
 神は私たちの払ういけにえによって、その内容によっては御心を変えてくださる方なのです。そのいけにえが何のためになされたかによって、条件付きで変えてくださいます。
 そのいけにえとは、善を行なうことと、持ち物を人に分けることです。もしかしたらあなたへの神様のご計画がさらに善いものへと発展していくかもしれません。

【デボーションポイント】
「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会」という理念を基に、「不撓不屈」(ふとうふくつ)の神への信仰をもって善を続ける。

 失敗しても諦めないでもう一度やり直そうと、神を信じて善を行ない続けていく人を、神は義人と見てくださいます。行いによっては私たちは義とされません。ただ諦めないで善を行ない続ける人が義人なのです。
 世の中の人は善を行う人を中傷したり、偽善だと非難するかもしれません。私たちも以前はそのような者であり、善を続けても意味がないと諦めてしまっていましたが、イエス・キリストを通して善を行うことが私たちのあるべき姿であり、必ず刈り取れるようになると教えていただきました。
 キリストを信じ続けることを通して、確かに苦しいこともありますが、今のあなたに成長してここに集うことができていると言えます。
善を行なう神の子として成長している自分を認めましょう。

【短歌】
激しさが 増す雷雨でも 礼拝へ
   善を続ける 兄弟愛

 神を信じる兄弟姉妹が互いに集うことで、互いが必要な存在であると認め合い、励まし合えます。そのような交わりのためにも、どんなに激しい雨の中でも互いに礼拝に来るのです。それは神が言われる善を行なうことです。
 そのような心でひとりひとりが礼拝を守ることで務めを果たすことができます。
 神の愛を知っていくほど、善を行なう務めがいかに尊いことかわかり、感謝できるようになります。
 みなさんが置かれている地域や会社、家庭にあって、善を行ない続けましょう。神はそのように善を行ない続けるあなたに、必ず豊かに報いてくださいます。

 

 

 

 

 

■2019年7月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あわれみ深くある   up 2019.7.14


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

 神の国を目ざすために私たちに与えられた理念、私たちのクリスチャン像は「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会(私たち一人一人)」です。
 
 前回は「神の前における良心」についてお話させていただきました。
 良心が鈍ったりマヒしたりすると人生が狂ってしまうほどに、良心は大切なものであることをお気づきになられたと思います。 
 
 また、聖会セミナーにおいては、私たちのクリスチャン生活の具体的なさまざまな質問に対し、正しい良心の上に立ったものごとの考え方を回答の基本としてお話しさせていただきました。   
 今日は「あわれみ深くある」という、教会理念の二つ目のポイントについてお話をさせていただきます。
 
 主題聖句(ルカ6:36)を見ますと、天の神様が私たちの父親であり、私たちは父のものを継承する子ですから、私たちが父のようにあわれみ深くあるのは当然のことで、それは強制ではなく、父から受け継いだ本性として自然と湧き上がるものです。 

 しかし、罪の力、欲望によってそれが歪んでしまう現状があるので、それを癒し取り除くために、イエス様の救いがもたらされて、実現しているのだということができます。

1.「人」は神のかたち(創世記1:26)
「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」

●ヘブル語の「かたち」という言葉の意味  
 幻像、幻影、錯覚、外見上、外見だけで実体がないもの。

●「人」とは、神のかたち、すなわち、外見上のものであって、実体のないものであるが、神に似るようにしようと、神は人を創造された。
 
 外側は同じようでも中身は実体がない、本物と間違うような外見がある、という意味が含まれています。本物は神様で、人はその影のようなもの、外見を写していても中身の本質、本性についてはまだ空っぽである、そのようなものとして初めにアダムとエバは造られました。
「まず外側を造ろう、次に時間をかけて中身を入れていこう、われわれに似せて。」という意味が感じられます。
 
 中身は、外側を土のちりで造るように、そう簡単には造れません。なぜなら神様の本性は霊ですから、霊は造るものではなく、分け与えるものだからです。いのちの源は神様です。いのちは霊です。すべていのちあるものは、神様から分け与えられたものなのです。

2.神の本質
A)第1ヨハネ4:8    
「愛(あわれみ)のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛(あわれみ深い)だからです。」

★(内容観察)あわれみのない者に、唯一まことの神を見分けることができません。なぜなら神はあわれみ深い愛の方だからです。

 神々は世界中にありますが、本物の神様、聖書の神様を見分けるためには、「あわれみ深さ」が必要です。 
 
 キリストが十字架で、私たちをどのようにあわれんでくださったでしょうか。私たちの罪をご自身の身に受けて罰を受け、わたしたちが罪によって滅びることがないようにと、身代わりにご自分のいのちを差し出されるほどに、私たちを愛しあわれんでくださいました。この十字架のキリストに私たちは神のあわれみ深さを知るのです。

B)出エジプト34:6−7   
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

★(内容観察)
「天と地を創造された唯一の神、主は、あわれみ深く、情け深い神である。つまり、忍耐強く。いつくしみ深さと恵みとまことに富み、恵みを千代に及ぶほどに守り、咎とそむきの罪を赦す者である。罪を罰することにおいては、放置することなく、たとえ子孫が四代に至ったとしても必ず罰し、悪に報いる方である。」
 神様はどんな小さな罪も決して見過ごすことをされない厳格な正義のお方です。ですから私たちは、小さな罪も神様の前に認めて、神様のあわれみにすがります。しかし、神様は人情的に罪をうやむやにされるのではありません。悪は必ず処分されます。ですから私たちの代わりにイエス様が罰を受けてくださり、私たちは赦されたのです。

 裁き主なる神さまご自身が人となって、赦す者のために身代わりとなって、ご自分を罪とし、罪の苦しみを自分に受け止めて、そこまでして罪と咎の中にある人を救いたい、というほどのあわれみをもってくださっておられるのです。
 そういうところに目をとめて、神の本性「あわれみ深さ」を悟っていただきたいと思います。この本性が中身です。

 楽器には楽器の形をしたケース(入れもの)があるように、神様は、中味(神の本性あわれみ)を入れるにふさわしいケース(からだ)をまず造られました。そして「われわれに似るように」、即ち私たちの中身も神様と同じようなものになるように、人を創造されました。
 
 しかし、アダムから現代にいたるまで、かたちは神のかたちでも中身が違うという人が多くいます。利己的な欲望がぎっしり詰まっている、これが罪人の姿です。
 
 神様はケース(体)も中身も滅びることがないように、イエス・キリストを信じる者、愛する者、信頼するものは、欲望などの中身をごっそり取り出して、そこにあわれみ深さを与えて、入れ替えて、新しく造り変えてくださるという約束を与えられています。
 
 クリスチャンは、イエス・キリストを信じてから時間をかけて愛(あわれみ)が増し加わっていくのだと自覚されれば、中身が貪欲の代わりに神様のご性質であるあわれみ深さが増えて来ていると、自分の成長に気付くのではないでしょうか。

3.実体が備わった「神のかたち」(ヨハネ14:9−10)
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

★イエス様は、神と共にすべてを共有する正しい良心を備えられた、あわれみ深い方(人)です。
 「父が私の内におられる」とあるように、イエス様はご自分の心の中の領域を父なる神様と共有し、神様の影響を受けて、考えや価値観までも神様と一つ同じものとなった良心を持っておられます。
 
 そして、神様のお考えどおりに、「あわれみ深い」という神のご性質をもって福音を語っておられますから、イエス様は神の前に正しい良心を備えた、神のようにあわれみ深いお方である、完成された人であると、受け止めることができます。
 
 私たちに目指すようにと与えられた教会の理念は、イエス・キリストご自身なのです。神様とすべてを共有する良心を備えた、神様の本性であるあわれみ深さを内側に満たしていく、そういう人になるように私たちは目指しているのです。

4.「人」の中身(実体)  
A)マタイ18:33
「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」

B)ルカ6:36    
「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
「私はお前をあわれんだ。おまえは私のあわれみを受け止めた。ならば、心の内に宿っているそのあわれみをもって、赦してやるべきではなかったのか。」これが(マタイ18:33)の主人の真意です。
 
 あわれみは誰かから注がれてこそ、そのあわれみを誰かに施すことができます。しかし、それができなかったこのしもべは結果的に主人の心を憐みとしてでなく、得した、ラッキー、もうけもの、と受け止めたことになります。彼はあわれみを注がれたにもかかわらず、心を入れ替えることが出来ませんでした。

★神のあわれみ(愛)を受け止めるにふさわしい「かたち」である人に、十字架によって人類に注がれた神の愛。

 創造の初めから、「あわれみ深い」という実体を持つことは、神様の私たちへの目的です。
 
 私たちアダムの子孫は、イエス様の十字架によって罪の赦しを受けるための神様からのあわれみを注がれております。今も、救い主イエス・キリストを信じる者は罪が赦され、私たちの中身(実体)である「神様のあわれみ」を注がれて、私たちは寛容な者、赦すことのできる者にされていくのです。
 
 時には、裁きたい気持ちが出るでしょう。善悪を裁くこともあるでしょう。しかし、それが私たちの本分ではないのです。それは正しく裁かれる神様におまかせして、あなたがあなた本来の中身(実体)として、神に似るように一番最初に身につけるべきは、「あわれみ深く情け深い神」です。それが私たちの実体となるべきなのです。

●神の国を目指すために与えられた理念、クリスチャン像

「神の前における正しい良心を備えた
あわれみ豊かな教会」

 そういうわけで、私たちのめざしているものは「神の前における正しい良心を備えたあわれみ豊かな教会(私たち一人一人)」です。

 「造った」ではなく「造ろう」、「完成まで造り続ける」と、神様はおっしゃってくださいます。
 
 今も、神様はあなたの人生の様々な出来事を通して、あなたがあわれみ豊かな者になれるように導いてくださっています。
 
 良い人間関係が築かれるまでは、あわれみが試されるような苦しい状況も起こります。お互いに罪の世界で学んできた主観と価値観がありますから、問題は色々出てくるでしょう。 
 
 まずは神様からのあわれみを知ることです。内側が聖霊に満たされることです。
 
 あなたが善をもって苦しむことにおいて、神は、正しい良心のゆえに苦しむあなたを価値ある者として喜ばれます。あなたが受けた苦しみは神が必ず報いてくださいます。
 
 喜んで迎えてくださる時を用意しておられますから、それまで忍耐強く信頼して、人を赦しあわれみ続けてください。

【俳句】
やさしさを  はこんでくれる  蛍かな

 蛍が光って飛んでいる様を見ると、誰でも優しい気持ちになりますね。聖霊様は私たちにあわれみ深さを内側に運んでくださるお方だというようにも考えていただいたらいかがでしょう。

 

 

 

 

 

■2019年7月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神の前における良心   up 2019.7.7


主題聖句(第1ペテロ2:19)
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。

 

 

 

1.「良心」とは何か?  
●東北学院大学 石川康文教授著「良心論」より

ヨーロッパ語族の原語のラテン語・ギリシャ語から推定して
(1)「世間と共に知る」
(2)「神と共に知る」
(3)「自己自身と共に知る」
が、この言葉(「良心」)の根底にある。

(1)(2)は、自分の行為を自分以外の他者と照らし合わせるという意味において「他律的良心」「神律的良心」と呼ぶことができる。
 そして、(3)については良心を自己自身の営みとしてとらえているという意味において「自律的良心」と呼ぶことが出来る。
 誰と共に知識を共有し価値観、主観を形成していくか、というところから3つの良心について紹介しています。
 
 世の中と共に共有する判断決断のための良心、神の教え神のことばを受け止めて神と共に共有する良心、自分が主となって悟りのように練り上げていく自己中心の良心、この三つの意味合いの中でヨーロッパ社会を中心に広まったのは「神と共に」という良心でしたが、現代では罪、咎め、善、悪などは宗教用語になり、「良心」という言葉もあまり使われなくなっています。

●神の前における良心とは?    
 「神と共に知る」⇒神のことばと共にある
 私と神とのつながりが確かなものとして保証する言葉。
 意識としては自分の声であるが、神の声でもあるとする。
 
 ここに一つの危険性があります。私たちは考えたり迷ったりするとき、心の中で問答します。いろいろと言葉をやりとりします。それはいずれも自分の心の声として行なわれますが、それを神からの声としても聴きとることができるということなのです。
 
 「精神病理学」で言う「幻聴」は、そういう心の中の会話において、自分とは別の人格からの声として受け止め、それがどの声よりも強い支配力をもって語り始めます。自己欲か悪霊か病気か、その解明は心理学的見地からも精神病理学の見地からも色々試されていますが、大変難しく、はっきりしていません。 

 ただ、宗教的な面にだけ関係した「良心」の使い方について言うならば、神のおことばである聖書が私たちの心の中に浮かんできたり、聖書のおことばが心の声として聞こえてきたりする時、それが神からのメッセージであると受け止めることが多いようです。
 
 聖書に出てくる「神の声」のように、自分の心の声ではなく、耳に聞こえるようなはっきりとした、自分とは違う声が聞こえるというような時、それは「神の声」であると言えます。旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちが生きていた預言者の時代にはよくありました。ただし、それは聖書の中でも稀な出来事です。一定の務めと責任を神様から与えられた人に起こることです。それ以外に直接語られることはありません。

 最近でもクリスチャンが「神の声を聴きました」「神様がこうおっしゃいました」という言い方をされる時があります。それは自分の心の声であるのだけれど、それが神様のおことばを語ったから、「神が語られた」とそのような言い方をされたのだと理解できます。
 
 神様のおことばは、基本的に聖書の中に書いてあります。何でもかんでも神の声とする危険性には気を付けましょう。
 
 では、神様からのおことばが私のうちに語られていると受け止めることのできる、きよい良心、正しい良心となるためには、どんなことがなされるのでしょうか。それによって本当に神様から来たおことばとしての良心の言葉なのか、そうでないのかを見極めることができます。

2.きよい良心、正しい良心にするには? 
A)へブル9:14
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

★きよい良心は、死んだ行いから離れさせ、神に仕えるという生活をもたらす。
 
 私たちの良心をきよめるものは、十字架で流されたキリストの血潮だけです。「神と共に知る」という良心は、キリストの血潮以外にありえません。
 
 キリストの血、それは神の愛を象徴しています。私たちの罪の贖いのために、イエス様は十字架で血を流され死なれました。神様のあわれみから出た贖いの御業です。神が罪人をどれだけ愛しておられるか、その十字架に現わされた神の愛に触れられて、私たちの良心はきよめられます。
 
 良心がきよめられたしるしは、死んだ行いから離れさせ、神に仕えるという生活をもたらす、と(へブル9:14)は語っています。
 
 愛に満たされたと思っても、実際の生活が死んだ行いから離れられない、すなわち、罪の咎めを持たない生活をしているのなら、キリストの血潮、神の愛に触れられていないのです。
 
 良心がきよめられると、罪に対する咎めは強くなります。悪から離れ善に親しむことを願うように神の知識を共有しているのです。
 
 皆さんが、神様に喜ばれない悪や悪習慣から離れることが出来てきているならば、良心のきよめが少し出来ていることがわかります。  
 イエス様を信じて聖霊によって新しく生まれ変わった体験をした人は、小さな罪に対しても敏感になります。それは良心がキリストの十字架の血潮、神の愛にきよめられた証になります。 
 
 ところが、信じて年数を経ると、良心が鈍り、マヒしてきます。次にそれを見てみましょう。

B)へブル10:22 
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

★良心には「邪悪な良心」もあることを無視できない。
 「良心」とは、あなたの人生のかじ取りをする価値観、主観です。
 クリスチャンとして一度良心がきよめられても、長い間には良心に邪悪さ、歪みが出てくる可能性があります。
 
 クリスチャンは長い年数を経ると、自分の経験と悟りによるクリスチャンとしての自分の価値観や主観を持ちます。それが邪悪なものになるということです。
 
 石川教授の「良心論」にあるところの、自分の悟りによって歩む「自分自身と共に知る」というところに移っていき、「神と共に知る」というところから外れてしまうことがあるのです。神のおことばよりも自分の経験、体験、悟りを優先します。聖書にはこう書いてあるけれど、世の中の現実はそうじゃない、という邪悪さを持ちます。自分の霊的状態をこれでいいんだと肯定します。邪悪さは深まります。
 
 この邪悪さはどのようにしてきよめることができるのでしょうか。きよめる方法は一つだけです。(へブル9:14)しかありません。イエス様の血潮が私たちの良心をきよめるのです。

【デボーションポイント】   
◎「怠慢忘身」(たいまんぼうしん)のために「良心」のメンテナンスを 怠らない。

「怠慢忘身」の意味
 やるべきことをやらずに、自身を磨くことを忘れ、災いが降りかかるということを戒めた言葉。
 
 年数を経たクリスチャンの重要なポイントです。あなたが素直さ、きよさを保つには、良心がきよめられるというメンテナンスが必要です。車のオイル交換のように、オイルを定期的に交換しないと、エンジンはいつか壊れます。きれいなオイルを出来るだけ早く効率よく換えて、エンジンの寿命を長持ちさせなくてはなりません。
 
 私たちも神様の愛で良心をきよめていかないと、毎日の罪の世界での活動の中で汚れていくのです。
 
 日曜礼拝は神の愛に触れる時でもあります。神様の臨在の中で愛に触れて、良心がきよめられ、新鮮な気持ちで前向きに変えられいくのです。みことばと賛美を通してイエス様の血潮に触れるひと時です。
 
 もし、集会の中でその体験をせずに帰っていくと、オイル交換せずに走り続ける車と同じです。壊れずに走っているようですが、機能は下がる一方です。

 年数を重ねたクリスチャンのモチベーション、神様のためにという気持ちが低下するのは、良心が鈍ってきているのです。

 「良心を捨てたために信仰の破船に会った人がいます。」とパウロはテモテにあてて手紙を書いています。
 
 良心を働かせないと、神様との関係が切れてしまいます。いったん救われた状況にあるのに、良心を持たなくなってしまったために、また永遠の滅びの中に戻ってしまったというのです。

 メンテナンスは必要です。良心の管理をしっかりしてください。いつも神様の愛に新鮮さを感じるにはどうしたらよいかというクリスチャン生活を考えていただきたいと思います。

★神の国を目指すために与えられた理念   
「神の前における正しい良心を備えた
あわれみ豊かな教会」
 これは、神様がジーザスフェローシップ広島に与えられたクリスチャン像です。信徒総会の資料の中に毎年掲載されている教会ビジョンですが、通して読まれているでしょうか。オイル交換はされたでしょうか。教わった、1度読んだ、知っている、でもやらない、そこが問題です。
 
 今日は、聖会のための第一ポイントとして「神の前における良心を備えること」をメッセージいたしました。来週は「あわれみ」についてです。

 私たちの教会に神様が願っておられる理念は、「神様と共に歩むという良心を備えた、愛の深いあわれみ深い一人一人になるように」ということで、それを土台に、神様のご計画、ビジョンがあるのです。
 
 神様は結果ではなく、動機(理念)を見られています。動機・理念が正しければ、完成していなくても正しい領域の中に立ち続けているということになるのです。ゴール出来ていなくても、動機のスタートが間違っていなければ、未完成の状況でも、正しい状況に歩み続けている途上である、と神様は認めてくださるのです。信仰による義です。
神の前に良心を持つというのは永遠の命に関わる問題です。

 神様との関係における動機付けが間違っていたら、どんなに御霊の賜物を用いて結果を出したとしても、主は最後の審判の時に「あなたがたを知らない」と言われるのです。

【短歌】 
十字架が  いのちの泉  あふれさせ
 神に仕える  至福の歩み
 
 十字架で流されたイエス様の血潮が、私たちの良心をきよめて、いのちの泉をあふれさせ、神様にお仕えしたいという愛の気持にあふれた至福の歩みとなる、このようなクリスチャン生活を目指していただきたいと思います。