■2019年6月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
忍耐が生じる理由
up 2019.6.30
主題聖句(へブル11:6)
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
ヤコブ書1章3節では、信仰が試されると忍耐が「生じる」という言葉を使っています。
律法的に無理やり働かせる「忍耐」は、良心を歪めてしまいます。正しく物事を判断することが出来なくなるような、そんな忍耐になってはいけません。
「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」という忍耐の仕方は、雑草のように自然に生えてくるようなものです。
どうして自然に忍耐が生じてくるのか、今日は、そこのところ「忍耐が生じる理由」を見て、皆さんの忍耐が健全な忍耐となるようにと願っております。
1.信仰には愛が含まれている(ヤコブ2:23)
「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」
A)なによりも大事な存在(愛)と信じているから忍耐が生じる
★「神の友」=信頼し合う愛の関係、互いの存在を尊ぶ関係。
(ヤコブ2:23)のみことばから、信仰には愛が含まれていることがおわかりでしょうか。
愛している大事な存在の人のため、と思うと忍耐も自然と生じてきます。
アブラハムは「神の友」と呼ばれました。一番大事な信頼できる関係の人として優先的に信頼していく、そういう心をもって、神様は世界中の中からアブラハムを「友」として選ばれました。
神様が「友」という愛の関係を築かれた始まりは、「あなたを多くの国民の父とする。あなたの子孫を海辺の砂、空の星のようにする」という神様の約束を、アブラハム自身は高齢で、妻は不妊という、常識では不可能な現実があるにもかかわらず、「神様がそう仰るのなら、そのようになる」と信じたことでした。
その心を神様は喜ばれました。すなわち義と認められました。それが「友」として信頼したということなのです。
私たちもこんな罪人なのに神の国の相続人として選ばれました。キリストを信じることを通して罪が赦される、という信じがたい神様の約束を信じることによって、神様は私たちを義と認めてくださったのです。神は私たちを喜ばれて「友」と呼んでくださるのです。なんと嬉しいことでしょうか。
B)教会における友の関係(ローマ12:10)
「兄弟愛を持って心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」
★教会での人間関係はキリストを友とする友の関係である。
教会における人間関係は、神様が中心となった神様の友同士という関係です。キリストにあって私たちは信頼し合える友なのです。たとえどんなことがあってもキリストの友として信頼することが大事です。
そして接するときには、へりくだる心と態度が必要と、語られています。知らず知らずのうちに私たちは、上から目線になっているかもしれません。あなたの目に相手がどのように見えようとも、キリストが友とされた方ですから、キリストを信じる信仰は立派であると尊敬すべきです。
教会は神の国です。キリストにあって互いに尊敬しあう友の関係を築き上げていくよう努めていきましょう。そうすると、友のために私たちは忍耐も自然に生じてくるのです。
2.信仰には神への希望が含まれている(第1ペテロ2:6)
「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼するものは、決して失望させられることがない。』」
A)十字架の証しが神に希望を抱く源だから、忍耐が生じる
私たちが失望するのは自分の強い貪欲を実現しようとするからです。それが罪に至る的外れの欲望であることを神様はご存じなので、実現に至らないのであり、そうして自分の欲求が実現しないから失望するのです。そこには信仰が働いていません。
信仰を持った人は失望することはありません。なぜなら神は良き神であり、神は私に常に一番良いことをしてくださっているにちがいないという、神への期待・信頼をもって受け止めているからです。
願いが聞き届けられればラッキー!聞き届けられなくても、神はこのまま失望で終わらせる方ではないと、信頼し続けます。
一番良い時に成し遂げてくださるという神への希望があるので、自然に忍耐が湧いてきます。
神への希望・信頼を持ち続けられるのは、十字架で私たちのために、いのちを捨ててまで神の愛を示してくださったイエス様の十字架の証しがあるからです。
神様が私たちを愛しておられることを知って信じて、そしてそこから私たちの神様への愛が生まれてきたのです。そこからくる信頼と希望なのです。この真理を見失わないようにしましょう。
B)(箴言19:21)の意味を考える
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」
<内容観察>
人の心の願望には多くの企てがある。しかし、私たちを愛してくださっている主に希望を抱いているので、主の計画だけが成就するまで忍耐する。
私たちが計画を色々持つことを否定されているのではありません。持っていいのです。自由に考えていいのです。その中から、主の計画だけが成就するのです。多く考えれば、神様の御心に当たってるかもしれません。たとえば、たくさんくじを引けばどれか一つ当たるかもしれないようなものです。
主のためだと思って色々考えてみて、罪人ですから、みこころではない「外れ」もあったりしますが、聖霊様が働いてくださり、みこころにそった願いを起こしてくださって「当たり」が出る時もあるのです。
あれこれ色々考えても、何が神のみこころか分からない時、どれか必ず神のみこころにそったものがあるに違いないと希望を持って信じて忍耐する時、楽しみを持ちながら忍耐することができるのではないでしょうか。
一回くじを引いて外れたら、もうだめだとあきらめるのではなく、どれか当たる、いつかみこころに当たる、それが私たちの神への信頼です。信仰です。希望です。神様のためにいろいろ計画してください。
【デボーションポイント】
◎「苦節十年」(くせつじゅうねん)であっても忍耐をつづける動機を確認する。
★「苦節十年」の意味
長い間、物事がうまくいかなくても、成功を信じて努力を続けること。
私たちは早く叶えられたいと焦りを持ってしまいます。焦りがあることは信仰が働いていないということです。ゆったり構えてください。
物事がうまくいかなくても、忍耐し続ける動機は、信仰・希望・愛から出てきているものであることを確認して、主が計画されたことを成し遂げられるまで、忍耐強く待ち続け、あるいは努力していきましょう。
【短歌】
さくらんぼ 幾多の試練 のりこえて
収穫むかえ 報われるかな
品種改良を重ねて重ねて、本当に色つや良く、甘い、大粒のさくらんぼが市場に出ています。収穫を迎える人たちは誠に感無量でしょう。
教会も、イエス様の再臨までにもっと神様に喜ばれる教会として、お互いに友達関係を築いていくように励んでいきましょう。
■2019年6月23日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
試練に耐える人は幸いです
新しい人を着続ける忍耐
up 2019.6.23
主題聖句
(ヤコブ1:2〜18)
(コロサイ3:8〜10)
【辻 和希伝道師メッセージ】
「試練に耐える人は幸いです」
1.試練が試されると忍耐を生じる
「試練に耐える人は幸いです。(ヤコブ1:2−18)
今月から、私が語らせていただくときは、ヤコブの手紙を順番に見ていきたいと思います。と言うのは、当教会の年間聖句である、ヤコブ5:7−8をより深く悟っていくために、同じ書簡を順番に見ていくことが、より助けになるからです。今年残り7ヵ月の、7回にわたってヤコブの手紙を見てまいりましょう。
1.信仰が試されると忍耐が生じる(ヤコブ1:2−4)
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。 」
手紙の冒頭で、早速、「試練」「忍耐」という言葉が出てきます。しかも試練を喜びなさいと勧めています。私たちは試練のイメージを辛いものと思うことが多いと思います。ですから、試練を喜ぶという感覚はなかなか共感しづらいものです。ヤコブがこのように言っているのには、理由があります。それは、試練が私たちを成長させるために必要なプロセスだからです。ここで書かれている成長のプロセスはこうです。
「信仰」⇒「試練」⇒「忍耐」⇒「成長を遂げた完全な者」
神様は私たちをおとしめようと試練をお与えになるお方ではありません。私たちの成長のために、試練をお与えになるのです。そのことに“喜びましょう”と聖書は励ましているのです。そして、試練に会うことで確認できることがあります。それは、“信仰が働いている”という確認です。それは、信仰者として正しい歩みをしているということです。ですから、試練に会ったとき、それは正しい方向へ進んでいると確信し、喜びをもって耐えていこうではありませんか。
2.少しも疑わずに信じて願う(ヤコブ1:6−8)
「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。 」
実際の具体的な信仰生活の中で、祈りは代表的なものです。特に神様に何かを求める祈りは、信仰を働かせます。その願いに信仰を働かせるときに、その信仰は試され、すぐに応えられない間、忍耐を働かせるといった経験は誰しもおありだと思います。ここで聖書は、「少しも疑わずに、信じて願いないさい。」と勧めています。日本は恵まれていますから、神様に頼らなくても、なんとかできるという風潮があります。多くの病には薬が開発されています。その薬も手軽に手に入れることができます。また、遊牧民のように、天候によって収穫が左右されることはなく、どこかの企業もしくは働きに属しているなら、毎月決まった収入が入ってきます。全ての人がそうではありませんが、それでも本当に日本は恵まれている環境です。そんな環境の中で、神様以外に何一つ頼ることなく、神様への信仰一本で何かを願うという経験が、クリスチャンに少ないかもしれません。
5節では、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と書かれています。神様との個人的な関係の中で、与えられるという実体験が多いほど、感謝の気持ちも湧き出てきますが、実体験が少ないと、感謝も形式的なものになってしまいます。
体験の伴う信仰生活は、まず「願う」から始まります。そして、それが神様から「応えられ」、私たちは神様に「感謝」するのです。これが神様とともに歩む信仰生活となっていくのです。
8節に、「二心は、その歩む道のすべてに安定を欠く」とあります。それはすべてが中途半端になるという意味です。神様一筋の信仰を磨いていきましょう。
3.だまされないようにしなさい(ヤコブ1:13−15)
「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
それでも、闇の力は私たちの目を曇らせにやってきます。私たちはだまされないようにしなければなりません。神様は良いお方です。罪を引き出させようと誘惑されるようなことは決してないと、聖書ではっきりと言っています。誘惑は、自分の欲から出るものであり、最終的には死を生みます。「試練」と「誘惑」をすり替えられることがないように、だまされないように、心を見張りましょう。
【横路伝道師メッセージ】
1.新しい人を着続ける忍耐1
(第2コリント5:17)
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(コロサイ3:8〜9)
「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。 」
私たちはイエス様を信じて洗礼を受けて、新しく生まれ変わりました。しかし、その新しくされたことが過去のことのように思っていないでしょうか。
新しい人とは、このみことばにあるように、怒らない、憤らないと言えると思います。古い人が憤って怒っていると考えてください。。私たちは新しい人に変えられているはずなのです。
クリスチャンの素晴らしさは、イエス・キリストを着ていると表現されています。
(コロサイ3:10)
「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
私たちはますます新しくされ、キリストの姿に似せられていくのです。今はまだ途中段階なのです。洗礼を受けた時から、身体の方は年月と共に衰えていきます。それと同じように、私たちの信仰も、洗礼を受けた時から、年月と共に下がっていくように思ってしまいます。しかしそれは違います。子どもは、大人に向けてどんどん成長していきます。それと同じように、私たちの内なる人は、キリストの似姿になるまで、完成に向けてますます新しくなっていくのです。
真の知識に至るとは何でしょうか。それは、私たちがキリストの姿に変えられること、個人だけではなく教会としてキリストの花嫁となり、キリストと一つとなることです。
2.新しい人を着続ける忍耐2
(コロサイ3:12)
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」
私たちは、神に選ばれた特別な者なのです。そして、私たちは毎日新しくされ、イエス様の血潮によって聖められています。何よりも私たちは神様に愛されているのです。誰も自分に関心を持っていないと思っている人にも、神様は愛しているよと語っておられます。
「深い同情心」とは、配慮のあるあわれみ深い心のことです。
「慈愛」とは、まわりの人の素晴らしい所を見て、うらやましいと嫉妬するのではなく、自分のことのように思えることだそうです。親は子どもがほめられるとうれしいですね。それをまわりの人に対しても同じように持つことです。
「謙遜」とは、人間的な謙遜ではなく、神様から来る謙遜です。神様が私たちに一方的に赦しを与えてくださいました。私たちが何か良いことをしたから救われたのではありません。私たちは、何も要求する権利は持たない者なのです。これが本当の謙遜であると言われています。
「柔和」「寛容」とは、周りの人たちの弱さや愚かな行動や、無知であることを見たときに、それを批判しないということだそうです。自分と比べて、他の人を裁いたりしないことです。
(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
身近な人に対して、互いに忍び合い、赦し合うことはなかなか難しいですね。人からばかにされたり、悪い態度をされた時に試されます。 その時に、恨まず怒らず、忍耐することを勧められています。一番忍耐しておられる方は神様です。神様はどれだけ私たちの罪や不信仰や悪い思い、態度を忍耐してくださっていることでしょうか。そのことに気づく人は幸いです。他の人のことを忍耐することができます。
古い人は赦せず、忍耐ができない人です。しかし新しい人は、忍耐ができる人です。古いものをもう一度着ようとしていないでしょうか。古い考え方はもう捨てなさいと言われています。私たちは、毎日古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着るのです。そして、キリストの姿まで変えられていくという希望があります。また、主がまず私たちを赦してくださったように、私たちも赦し合いなさいと言われています。
(コロサイ3:14)
「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」
どんなに素晴らしい信仰を持っていても、自分の財産や命をささげたとしても、もし愛がなければむなしいと聖書にあります。自分のプライドのために、自分が良いものであると見られるためにそれをするなら、それはむなしいのです。愛の動機が大切であるということです。
「愛は結びの帯として」とあります。それぞれの人が賜物をいただいています。しかしそれがばらばらであってはいけません。愛によって結び合わされて、一つとなることが大切なのです。もし、私たちが欲によって、利用する気持ちで結びついていては、傷つけ合ってしまう関係になってしまいます。愛によって結び合わされましょう。
愛が試されています。新しい人を着続けて、成長していくことが必要です。新しい人を着続ける忍耐をしていきましょう。
■2019年6月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
みことばの実を結ぶ
up 2019.6.16
主題聖句(ルカ8:15)
しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
みことば(聖書全体)が私たちの生活の中になんらかの形で実現するという時、大きく2種類の実の実現があります。祝福の実と呪いの実です。
キリストを信じて神の愛の中を歩み、みことばを尊んで、喜んでみことばに従っていく人は、みことばの祝福が実っていきます。一番の実は、天国に行くことです。そして、癒し、みことばが悟らされることなどがあります。
逆に、その愛にしばられたくなくて、みことばを軽視する人は、的外れ(罪)の歩みの結果、死と滅びに至り、さばきのみことばが実現します。
今日は、(ルカ8:15)から、みなさんが祝福の実を結ぶためのお話をさせていただこうと思います。
1.みことば実現の条件
みことばが実現するための条件を、主題聖句(ルカ8:15)から2つ見ていきましょう。
A)正しい、良い心でみことばを聞く(使徒24:15−16)
「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」
★正しい良心、きよい良心でみことばを聞くこと。
(使徒24:15−16)は、当時の宗教的リーダーたちの前で、パウロが弁明している部分です。
ユダヤ教では、人はみな、必ず最後のさばきを受けるために復活し、神を信じる者は永遠のいのちに、神を否定する者は永遠の滅びに行くと信じています。
そしてクリスチャンであるパウロも、神は最後に善と悪を正しくさばいて公平に報われる方であることを信じて、永遠のいのちの望みを抱いています。
それゆえに神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つようにと最善を尽くしているのだと言っています。
パウロは、神の前にも人の前にも責められるところのない「良心」によって人生を歩もうとしてきました。それは、神を畏れ人を尊ぶ、すなわち、「神を愛しなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」というモーセの律法にあらわされた神様のおことば(真理)が土台となっています。パウロは神様を第一とした正しい良心を保つようにと最善を尽くして生きようとしていたのです。
私たちも善悪を判断するときに自分の考え方をもっています。それは一人一人違ってみなバラバラなのではありません。クリスチャンは、神様が一番正しいという聖書の基準を認めることにおいて、皆一致しています。
神様は私たちが経験などにより作られていく私たちの見方考え方を否定されません。しかし神様は、神を畏れるという正しい良心が影響して私たちの見方考え方が出来ているかどうかを見られています。
私たち自身は神様の前に完璧な良心でありたいと思いがちですが、パウロは「最善を尽くしています」と言っています。
前に向かって、今まで出来なかったことを出来るようになるよう、努力していく気持ちを残して、今自分の最善を尽くそうということです。そういう心が「良い地」、みことばの種が育ちやすい心なのです。
そのためには聖霊の雨を受けることが必要です。秋の雨、春の雨を十分に受けたというしるしは、心が変えられる、耕しやすい心になっている、みことばを受け入れる心になっている、それが聖霊を受けたことの大きな証です。異言を語る以上に大事なことです。聖霊に触れられて異言が語れるようになっても、心がかたくなで、みことばを受け入れられないようなら、その異言が何の益になるでしょうか。
ですから、あなたの良心が、神を畏れて神を第一にして物事を判断し決断していくように変えられていくことが、聖霊の雨を受けていることの証であると、おすすめ致します。
もし、まだ自分の心にかたくななところがあると思うなら、そこを聖霊様に柔らかくしていただいてください。神様を第一にする心が強くなればなるほど、きよい良心が育ち強められていきますから、人を見たり自分を見たりするのでなく、神様に願い求めていきましょう。
B)それをしっかりと守り、よく耐える(ヨハネ14:21)
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は私の父に愛され、わたしもその人を愛し、私自身を彼に現します。」
★神とその愛を信じ続けること。
ここでイエス様が勧められていることを、(ルカ8:15)と重ねて考えてみますと、「良い地」「良い心」というのはイエス様の戒めを守る人で、イエス様を愛する人です。
愛するというのは、愛する人を尊敬して、その言葉を守り行うということです。
「私自身を彼に現わす」という意味は、目の前に人の形で現れるということではありません。イエス様は神のことばである霊なるお方です。私たちの外側ではなく内側に現われてくださり、私たちの良心をさらにきよくつくり変え、そうして、私たちの心と人生にみことばが実現するということです。みことばの実が実ったら、それがイエス様です。
内側に宿られたみことばは、いつまでも住み続けてくださり、そして実を結び続けてくださるのです。
黙示録に、新しい天と地には、毎月実を結ぶいのちの木が植わっていると書かれてあります。いのちの木の実は、みことばの実現です。
神の国はみことばが実現して、実がいっぱいの緑豊かなところ、とヨハネは象徴的に見せられています。
みことばが一つも実っていないところは神の国にはどこもありません。すべてがみことばによって成り立っている世界が神の国、新しい天と地です。次々と神のことばが現われてくる、それが新しい天と地、神の国、天国です。それがキリストの現われだ、とイエス様は教えてくださっておられます。ですから、イエス様がその人に現れるというのは、イエス様を愛してそのおことばを守る人に、みことばが実現するという意味であることを、(ヨハネ14:21)の解釈として、皆さんにお勧めさせていただきます。
2.よく耐えて実を結んだヨセフ(詩編105:17−19)
「主は一人の人を彼らにさきがけて送られた。ヨセフが奴隷に売られたのだ。彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、ヨセフは鉄のかせの中にはいった。彼のことばがその通りになるときまで、主のことばは彼をためした。」
A)アブラハムへの約束成就のために、ヨセフが選ばれた。
B)ヨセフは、一族の救いと繁栄のために、神に訓練された。
(詩篇105:17−19)は、神様のご計画の中で、ある目的のために神様が選び用いられたヨセフの人生を、この3節にまとめてあります。
奴隷として売られ、無実の罪を着せられ、良いことをしたのに忘れ去られてしまうという苦しい所を通らされて、ヨセフに対する神様のお取り扱いが完了した時、ヨセフが見た夢(家族が皆集まって、自分にひれふすという夢)、すなわち神様からのメッセージも実現しました。
ヨセフは、エジプトの王に次ぐ力ある大臣として、70人の家族をエジプトで養うことができ、結果ユダヤ人は何百万と言う民にふえひろがることができました。そして、後の出エジプトにつながっていくのです。
しかし、そうなるまでに、わがままな甘えん坊のヨセフは神様にどれほど訓練されたことでしょう。すべてヨセフのわがままと甘えが砕かれるためです。
そうまでして神様がヨセフを選ばれたのは、彼が神の見せられた夢、神のことば、神ご自身を、大事に信じ喜び続けることができる人であったからです。
神に対して素直であれば、わがままな性格などは神の訓練によっていくらでも矯正されることができます。そして神によってつくり変えられたものは、神様のために大きく働くものとなるのです。
【デボーションポイント】
◎みことばの実は「事上磨錬」(じじょうまれん)をとおして結ばれる。
★「事上磨錬」の意味
実際に行動や実践をとおして、知識や精神を磨き修養すること
みことばは聞くだけのものではなく、実際に行動し、失敗や成功を重ねる中で精神を働かせ忍耐を働かせて養われ成長していくものです。生活の中で失敗を恐れずに実行実践してみるとき、みことばは実を結んでいきます。
【短歌】
川鵜でも 訓練重ね 人のため
役立つならば 我も主のために
知恵のない鵜でも、反抗せず素直に訓練されれば、人に役立つ働きをするようになるように、罪深い私たちも、ヨセフのように訓練されて、神様の役に立つ喜ばれるものになるのです。
■2019年6月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖霊の雨を求める忍耐
up 2019.6.9
主題聖句(ゼカリヤ10:1)
後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。
今日はペンテコステ記念礼拝です。聖霊に満たされることを忍耐して待ち望むことについて語っていきます。
ゼカリヤ書では後の雨について語っています。後の雨とは熟成の雨とも言われ、実が熟成するため、完成の最後のプロセスとして必要な雨です。始めの雨に続いて後の雨が降ることによって、実が熟成し刈り取ることができるようになります。
1.完成のための後の雨(ガラテヤ3:3)
「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
A)収穫する前に降る熟成の雨
私たちの救いは自分の努力や人間的な働きによるのではありません。ただ神様のあわれみによって聖霊の働きが私たちにもたらされて救いへと導かれたのです。
イエス様は「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選んだのです。」と言われました。私たちは自分でイエス様のもとに来たように自分中心に考えますが、実は神様が私たちの心に働きかけてくださり、いろいろな取り扱いをしてくださって、キリストに出会うようにと、様々な場面や人々を通して導かれてきたのです。
すべて神様の導きの中で行われていますが、その場面でどう応答するかで、永遠の命に至るか永遠の滅びに至るかふたつの道に別れていきます。
救いも御霊の働きで始まりました。これも個人的なものとして考えるなら、聖霊の前の雨の働きであり、かたくなな罪の心を柔らげるために豊かに働いてくださいました。これが、「御霊で始まった」という部分です。
種を蒔く前に、乾季で固まった畑を耕すために前の雨である秋の雨が降るわけです。これは先週お話ししたように、私たちの罪深い心が、神様の永遠の命に至る種を受け入れるために、かたくなでない柔らかな心になるように、まず聖霊の働きかけがあって福音の種を受け入れられるようになるのです。
すべて聖霊の働きかけによって今の私たちの救いがなされています。しかし受け入れて終わったわけではありません。完成されるというゴールがあるのです。ゴールに向けて始めの雨が降り注がれ、ゴールの手前で実が熟成するために後の雨が必要なのです。
そして収穫というゴールに至ります。その収穫の前に後の雨が降らないと駄目なのです。二度聖霊の雨を受けることが大切です。
B)神の最後の審判の前に、人々が救われるための聖霊の雨
今まで人々が犯してきた罪、特に裁かれないで隠されていた罪に関して神の前に一人一人が出て裁きを受けることが定まっていると聖書にあります。
それはこの世の終わりの時であり、完成の時、ゴールの時です。このゴールは、すべての人が救われてほしいという神様の願いから一方的に地上に降り注ぐ大雨の時でもあります。
すべての田畑を同じように潤すには雨以外にはありえません。神の御業としか言えません。一人でも多くの人が救われるようにと後の雨が全地に降り注がれ、そしてキリストの再臨があって、最後の審判があります。
私たちの地上のゴールは神の裁きです。すべてを清算される時です。
それから新しい天と地が始まり、新しい歴史が始まります。
C)キリストの再臨の前に、教会が完成するための聖霊の雨
今私たちが受けようとしているのは、最後の審判の前に注がれ、世界中の人々が救われるための聖霊の大雨です。これは局地的な雨ではなく世界中に注がれる雨であり、世界中の人々がキリストを信じるためにやってくるリバイバルの雨の時です。
二十世紀になってから今まで、聖霊の雨がいろいろな国で降り注がれてきましたが、世界的なものではありませんでした。局地的な雨でした。しかし、大雨と書いてあるので、世界的な神の働きを見る時が来ているということです。
季節の雨が遅れているような時でも人々は必死で雨を求めますが、そういう期間的なものでなく、雨の重要さに目を向けさせるために「後の雨の時に、主に雨を求めよ。」と聖書は語っています。
現代の人々は雨が降ると面倒くさいので雨を嫌う人もいますが、農家の人々にとっては雨は非常に重要です。最近は雨が少なくて、ダムの底の村が見えてきたり困った状況が起きてきています。
すべての水の元は雨です。クリスチャンも水には乾いていても雨の大切さに気づいていない人が多いように思えます。自分の個人的な水の必要にしか目が行かず、全体の乾きに気づかず、雨の必要性に気づかずにいるのです。
雨が降らなければいずれ水の供給もストップしてしまいます。雨が降らなくても、すぐに困ることはありません。しかし雨が全く降らなくなったら、気づいたときにはどうしようもないのです。
クリスチャンも一時的な渇きの水だけを求めていたら、だんだん水がなくなってきて、手元の水もなくなってしまってからでは、求めてももう雨を待つだけの余裕も既になくなっていて遅すぎるいうことになります。
つまり一時しのぎに求めるだけの生活を続けているなら、いずれ手に負えない大きな問題がやってきてどうしようもなくなるのです。そういう状況すら考えないで生活していないでしょうか。
これは神様から私たちへの忠告です。今は足りていても、今から考えて、ちゃんと季節ごとに神様に恵んでいただくために、へりくだって神様の前に敬虔な思いを持って聖霊の雨を求めることが大切です。
後の雨の大切さに今から気づいてください。今日はペンテコステの日だからというのではなく、季節として、今は後の雨が降る時期であるということをわきまえて、今から日々しっかりと求めていく必要があります。
自分という自我を砕いて、ゴールに至るための聖霊の雨をしっかりと求めていくことと、もうひとつは、キリストの再臨の前に教会が完成されるために、しっかりと求めることが重要です。
後の前を受けなければ完成されません。個人的にも成長し教会が完成されるために後の雨をしっかりと求めましょう。
2・主に雨を求めよ(ルカ11:13)
「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」
聖書では、「求める」ということがいかに重要であるかを言っています。求め続け、渇く心、求道心が大切です。人は求道心の強さによって、それが自分にとっていかに大事なものであるかが分かります。聖霊に触れられ、心が作り変えられていくということにどれだけ関心を持っているでしょうか。
色々な葛藤が内にあっても、聖霊に触れられるならば、聖霊が造り変えてくださいます。心配事がなくなっていきます。聖霊に満たされるならば神様の愛とあわれみが豊かに注がれ、心が豊かに潤されて人徳が高められていきます。
もっと良い人になりたい、もっと神様の前に喜ばれる者でありたい、善に親しむ者でありたい、もっと誘惑に対して強くなりたい、そういう自分の内に善なるものを求めることに、どれだけ私たちは関心を持ち、価値を見出しているでしょうか。その関心と価値は、永遠の滅びに至るか永遠の命に至るかというところから教えられていくのです。
今の世界は目先の楽しみだけで十分であり、死後なんてどうでもいいと思わせています。しかしクリスチャンは真理を聖書から教えられていて、キリストが歴史上現実におられた方であり、それを信じていますから、実現すると分かっています。それは恐ろしいことです。素晴らしいことも実現しますが、逆もあるのです。
罪に対する裁きと神様のあわれみにより信仰をもって救われるという最後の審判を知っているのですから、もっと真剣に生きることが求められています。
熟成の雨である聖霊の雨を求めていきましょう。最初の雨からもう2千年が過ぎています。この期間は異邦人に与えられた救いの期間です。最後の雨のときは異邦人もユダヤ人も収穫されます。
B)聖霊の雨を求める忍耐
諦めてしまわない信仰をしっかりと保ち続けることです。なぜなら後の雨が降る時期が今来ているのですから、必ず後の雨が降るということをしっかりと信じて求める時期であるということです。
そして、それを待つ忍耐が必要です。諦めるわけにはいきません。不信仰にならないために忍耐を働かせましょう。そして信仰を働かせましょう。
雨の季節が来ているのですから、今求めたら必ず聖霊をいただくことができます。個人的に、教会という群れに、そして全世界的に、3つの対象者を神様はあげておられます。
最初の雨を受け、これは内側を耕し作り変えられていくための雨で、この前の雨を受けていない人はみことばをなかなか悟れません。理屈でわかっても悟りとして自分の内側に入ってきません。みことばがどんどん自分の中で開かれていくという体験は最初の雨によらなければできません。そして、二度目の雨によってキリストのように変えられて、いつ再臨がきても大丈夫と完成されていきます。
教会全体が、初代教会のように同時に人々が聖霊の雨を受け満たされるということを、わたしは必死で求めています。その聖霊の雨が来なかったら、自我が砕かれ、変えられていないためにせっかく新しい方が来られてもつまずかせてしまいかねません。
自分の努力で自分は変えられません。聖霊によらなければ変わることはできません。しっかりと後の雨を求めていきましょう。雨は神の一方的な恵みです。人間的な努力や方法によって降るものではありません。私たちはただ忍耐し信じて雨を待ち続けましょう。
■2019年6月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖霊の雨を待つ忍耐
up 2019.6.2
主題聖句(ヤコブ5:7〜8)
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
1.ヤコブ5:7−8の内容観察
金持ちたちへのきびしいさばきがくだされるのですから、敬虔な兄弟たち。すべてを公正にさばくために再び地上に主が来られるそのときまで耐え忍びなさい。
農夫が貴重な大地の実りを、秋の雨や春の雨が降るのを耐え忍んで待っているように、あなたがたも聖霊の雨が降るのを忍耐強く待ち望みなさい。主が来られるのが近いからです。
時代はローマ帝国の全盛期から衰退期へと向かう頃、社会的には不道徳、堕落がはびこるようになりました。そんな中でクリスチャンたちは、キリストを信じて、悪を離れ善に親しむ敬虔な人生を歩もうとしておりました。
ローマ帝国の人々は、クリスチャンたちが自分たちと同じようなことをしないで「罪から離れよ」と指摘するため、敵対心を持つようになり、嫉妬、ねたみ、迫害が起こりました。
ヤコブ書5章1〜6節では、特に「金持ちたちよ」と呼びかけています。そういう悪の世界の中では、まともな形で富み栄えることはできません。あらゆるところで悪の業がなされて富を得ている「金持ちたち」に、またクリスチャンの中にもいた「金持ちたち」に対して、ヤコブは忠告と指摘を行なっております。そして、神を敬って真面目に生きる人々が社会的に経済的に犠牲となる理不尽な状況をふまえて、この(ヤコブ5:7−8)が続いて語られています。
A)聖霊の雨を待つ忍耐とは?
★「悪」による矛盾や理不尽なことが放置されていることに対する忍耐。
それは、神が必ず裁かれるのだから、自分たちで裁かないで神の裁きの時を待つという忍耐です。裁きの時がやってくるときには、秋の雨、春の雨という霊的な雨が注がれるということが約束されています。
苦しみながら忍耐しなくてはならない人々は、神はなぜ早く裁きを行なわれないのですか?という気持になりやすいものです。しかし、神様は、人間の歴史が始まって以来の全部の時代の全部の世界におけるすべての罪を、最後の一度の裁きの時に、すべて正しく公平に裁かれるお方ですから、その裁きの時を忍耐して待ちなさいと語られているのです。
B)季節の雨の大切さ
★秋の雨は、10月後半から12月はじめに降る雨のことで、夏の干ば つで堅くなった土地を柔らかくするために降る雨。
春の雨は、3月から4月に降る雨で、収穫の前に降る大切な雨の事。
夏の日照りで畑が固くなったところに、いくらくわを振るっても時間がかかって、深く掘り起こすことはできません。しかし雨が降ると、土も柔らかくなり、掘り起こしやすく、早く耕せて、種蒔きにふさわしい畑の状態となります。ですから、秋の雨は「初めの雨」とも言われます。
春の雨は、実が熟するために必要な「後の雨」と言われます。これらの雨が不足すると良い作物が育たず、この二つの雨は農夫には絶対に欠かせない実りのための大事な雨となります。
ヤコブはこの雨という自然現象と信仰面とを重ね合わせて、私たちの罪の心を耕して、たましいの実、心の実である聖霊の実を豊かに実らせるためには、秋の雨と春の雨という聖霊の雨に心が潤されることが必要であると語っています。
また聖霊の雨は、神様の最後の裁きの時に季節が近づいているというしるしとして、全世界における聖霊様の働きということも表していますが、今日は私たち個人個人に対しての「聖霊の雨」を考えてみましょう。
2.聖霊の雨(イザヤ44:3)
「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」
A)潤いのない地、乾いた地とは?
イエス様が種蒔きのたとえで語られたように、道端のような固い地、表面的には柔らかそうでも下には固い岩がぎっちり詰まっているような地、みことば以上に雑草が生い茂る地、これらの地は、みことばの種が蒔かれても実を結ぶことのない地でした。みことばが実を結ぶ一番良い地は、よく耕された柔らかい地です。それは良い心の状態のことを言っています。
★「地」は罪人の「心」のこと。
★潤いのない心=愛とあわれみのない心
★かわいた心=かたくなでがんこな利己的な心
実を結ぶことができなかった悪い地(=潤いのない乾いた心、=愛とあわれみのない、かたくなでがんこな利己的な心)を、人間的に開拓する(自分の性格、欠点や短所をつくり変える)ことは非常に難しいものです。時間も労力もかかります。直ったと思っても後からまた出てきたりします。こういう心は、部分的に潤ったり柔らかくなったりすることは、人生の中で起こりうることです。何かの出来事で失敗したり悔い改めたり、性格が精錬されていくことはあるでしょう。しかし、それは一部分であって、やはり雨が降らなければ、心全体を潤し、心全体に豊かな流れをもたらすことは出来ません。クリスチャンがイエス様の御姿に近づくということにおいて、程遠いなあ、と実感する人が多いのではないでしょうか。その理由は、何でしょう。
(イザヤ44:3)に、「注ぐ」とあるように、神様の御霊の雨が一人一人の心に注がれて、私たちの潤いのない心が、愛とあわれみの心に造り変えられ、かわいた心が、隣人を愛するという寛容な優しい柔和な心に造り変えられていきます。そのような聖霊様の働きを、知識では気付いているのですが、それをなかなか体験できないのは、なぜでしょうか。
「忍耐しなさい」と語られているように、秋の雨、春の雨が降るのを耐え忍ぶ、雨を待つという姿勢が足らないのです。「待つ」ということをしないで、他のもので一時しのぎをするのです。神様の恵みで心を変えられたと思ってもすぐ元に戻ってしまう、地の中まで雨が浸透しないで不十分に終わる、人間的な方法でやってしまって表面的な潤いで終わり、根本的に神様の御霊の働きによって造り変えられるということができていない可能性があります。
「なんで自分はクリスチャンなのにまだこんな状況なんだろう。」と悩んでおられる方、聖霊様の雨が注がれているのが不十分なのです。
ある程度パラパラっと降ったことはあるかもしれません。礼拝に来たときとか、何か悪い出来事があって一生懸命祈って応えられたとか、パラパラパラッと雨が降るのだけれど、私たちの性格を変えるほどの雨ではありません。
聖霊様の働きを体験していないのは、あなたが不信仰だからではありません。私たちは罪人ですから、不信仰であるのは当たり前であり、心がかたくななのも当然のことなのです。
それを変えることが出来るのは私たちの努力ではなくて、天からの雨が地を潤すように、聖霊様の働きが天から私たちの心に下ってきて働きかけてくださるという神様の御業によらないでは解決しないことなのです。
失望し落胆している人がいるなら、忍耐を働かせるということに心を向けてください。「信じて待つ!雨は必ず降る!私にも必ず神様の御霊の働きがもたらされる!心の底から新しく造り変えられるような聖霊様の愛の潤い、恵みの豊かな流れを私たちの魂、霊に注いでくださる時が必ずやってくる!」と、待ち続ける忍耐が必要なのです。
神に対する信頼による忍耐が、私たちの心が造り変えられていくための助けとなっていくと思います。
B)地に水を注ぎ、豊かな流れを注ぐとは?
★注ぐ⇒上から水が与えられる⇒雨のこと
★聖霊と祝福が雨のように心に降り注がれる
私たちはつい、「どうしたらいいのですか?どうしたら雨を受けれるのですか?」と思ってしまいます。方法はありません。降るのを待つだけです。神のみこころ次第です。私たちは自分の計画に合わせようとしてしまうので忍耐が働かないのです。神様は忍耐を働かせることが唯一の手段であると言われているのですから、信じて忍耐して待つだけです。
人によって聖霊に満たされる時期や働きかけられ方が違います。人と比べて、早く自分が聖霊の雨を受けて、早く神様のために働く人生へと導かれたいとか、自分の計画を持ってしまいます。こうしてくれたらいい、こうなったらいいのに、というその考え方が忍耐を失ってしまう原因だということです。
神を信じているのなら待とうではありませんか。神が季節ごとに雨を降らせてくださることはわかっているのですから、あなたにとって秋の雨、春の雨がいつなのかは、神様が一番よくご存じで一番良いタイミングで雨を降らせてくださる、と信じて待つことではないでしょうか。聖霊に満たされてないと卑下する必要はありません。これから満たされる日が来ると楽しみに待つのが、神を信頼している者の待ち方です。
いつも喜び、期待しながら待つ。絶えず希望を持ちながら祈って待ち、雨が降らなくても降る時のことを思って感謝して待つ。このような忍耐の心に聖霊様は雨のごとく潤してくださいます。それが唯一の方法です。ぜひ、あきらめないで信じて待ち望み、期待していきたいと思います。
来週はペンテコステの日です。個人的な秋の雨、春の雨を受ける時として、一緒に祈りの時を持ちたいと考えています。
あなたにとって聖霊様の雨は、かたくなな心、潤いのない心を柔らかくし、造り変えてくださる、その雨を受けることです。その雨なくして、収穫はありえません。
聖霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が豊かに実るために、もう一度聖霊の雨を体験しなければなりません。
少なくとも2回、聖霊の大きな働きかけ、満たしの経験が必要です。造り変えられても二度目の雨を体験しなくては実が実ってこないのです。
信じた時に一度だけ聖霊に満たされて安心していてはいけません。もう一度成熟のための聖霊の雨を受けたいと、そのように期待し願って来週その時間を持ちたいと思います。
【デボーションポイント】
◎「十風五雨」(じゅうふうごう)の心は、聖霊の雨と風が必要であることに目を向ける。
★「十風五雨」の意味
十日ごとに風が吹き、五日ごとに雨が降る、農耕に適した天候のこと。または、世の中が平和で穏やかなこと。
信仰者にとって、10日ごとに聖霊の風が吹き5日ごとに聖霊の雨が降るとは、まさしく毎週の礼拝を守ることにより、聖霊の風と聖霊の雨に私たちの心が触れられ潤されて、どんなに世が乱れても平穏平安な生活を過ごすことが出来ることを表わしているように思います。
【俳句】
絶え間なく 雨を求める ひきがえる
まるで雨を求めているかのように絶え間なくないているヒキガエルのように、私たちも聖霊の雨をいつも求めていきたいものです。どうしたらいいのか、と方法を考えないでください。ただただ信じて待ち続けるのです。そうすればいつか必ず神の御霊は私たちのところに雨のごとくやってきて、私たちを心の底から造り変えてくださるという、そういう雨の時がやってきますから、楽しみに待っていてください。
■2019年5月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
よみせられる忍耐
up 2019.5.26
主題聖句(第1ペテロ2:20)
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
※「よみせられる」=目上の方から良しとしてほめられる。
「喜ばれる」とは、誉れと関連のあることばです。「よみせられる」の意味は目上の方から良しとして誉められることですが、神に喜ばれることが私たちにとってなぜ喜びなのでしょうか。
罪を犯したために受ける苦しみは当たり前です、しかし善を行っているのに苦しみを受けるというのは不当な苦しみです。その苦しみは肉体的なものよりも、迫害など精神的なもので、むしろ悲しみとも言えるでしょう。心が傷つく悲しみです。
しかし、それを耐え忍ぶとしたら、「神に喜ばれることです」とあります。なかなかできないことですが、神はそれを私たちに求めておられます。それは私たちが神の子である証しになるからです。
1.神からの誉れ(第1ペテロ2:19)
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」
A)悲しみ=精神的苦痛
本来不当な苦しみを受けてもそのままにしていたら、私たちの心に不健康をもたらします。復讐心や悔しさなど、色々なマイナスの考えが心に起こるからです。ですからこの世は裁判などを通して、この不当な苦しみから正当な方法で解放されることを願います。けれども裁判所でも証拠不十分という判断でその不当性が認められず、絶望の底に陥る人もいるはずです。
しかし私たちには神がおられます。この世では解決できなかった問題に対して神はすべてを正しく見抜いて、裁いてくださる御方です。
ですから、神を信じている私たちは、神の御前における良心のゆえに悲しみをこらえることができます。
地上では苦しみが多くても、神は必ず正しく報いてくださり、悲しみを喜びに変えてくださると信頼してこらえるのです。そう信じて敬虔に歩む私たちを神は喜んでくださり、神からの誉れを受けることができるようにしてくださいます。
また、精神的苦痛は肉体的な苦痛とは違います。肉体的な苦痛はある程度は治癒力によって治っていきますが、精神的苦痛は長く続くことが多いのです。中には一生引きずる方もおられるくらい大変辛いものです。その苦しみの中で、神を信頼し、神を畏れる心で歩んでいる人たちのために、神は必ず良き裁きを行ってくださいます。
ねたみや嫉妬による危害はいじめに見られます。特に何の被害も受けていないのに、ただ相手をねたみ、相手に苦痛を与えてその苦しむ状態を見て喜ぶのですからひどいものです。最近こうしたいじめが増えています。
このねたみや嫉妬という精神状態は、自分の存在価値を認められたいという思いから、自分より優れている相手を抹殺したい傷つけたいという怒りによって出てくることがあります。例えば正当な意見を会社で言っても、上司がそれを認めなかったり、かえって否定されたり、あるいは、あなたの言ったことを誤解して受け取り不当な罰を与えたりということもありうるでしょう。
無実の罪に陥れられることもあるでしょう。この世は罪の影響が大きく、光の中に歩む私たちにとっては悲しむことが多いのですが、裁き主である神に信頼して歩み続けるなら、さらに神はあなたを喜び、誉れを与えてくださいます。
B)「誉れを受ける」「喜ばれる」「よみせられる」
★すぐれているとして認められた価値。
存在価値が認められるということです。人徳的に魂としていのちがさらに価値付けられるということです。
いのちはその使いようによっては、さらに優れた価値あるものと神に認められます。キリストによって贖われたいのちを善を行うことに用い、例えそのために不当な苦しみを受けても忍耐して忍び通し、悪に対して悪を報いず、ひたすら善を行い続けるなら、そのようないのちは神に必ずよみせられ価値あるものとされるのです。それを目標にクリスチャン生活を諦めずに一歩一歩進んでいきましょう。
C)神によみせられるとは?
★神との関係において重要視されるもの
神との関係において重要視されるということです。しかし神との関係が深くない人は、神に喜ばれるということに余り関心を持てないでしょう。誉められても、相手との関係が正しい良い関係でなかったら、あまりうれしくないかもしれません。どういう相手から誉められたら一番うれしいでしょうか。関係が深い者同士ほど誉められたら嬉しいと感じるはずです。
神に誉められてうれしいと感じる人はどういう人でしょうか。神を敬い、自分のためにどれだけ愛を注いでくださっているかを知っている人です。そこに目が開かれ気づいた人は、さらに神との関係を深め、神に誉められることの喜びを経験していきます。
世の中の人は神を知らないので、神に喜ばれることに関心がなくても仕方ありません。しかし私たちは違います。神に喜ばれているかどうかは本当に重要なことであるはずです。自分を喜ばせることだけに関心をもっているクリスチャン生活は虚しいものです。私たちクリスチャンは神と父と子という関係であると聖書は教えています。
聖書の有名な話である「放蕩息子」の弟息子は、父親がいかに優しくて大きな心をもった愛のある人であるかを知っていたので、罪を認めてへりくだって父の元に帰る決心をしました。
私たちも父なる神の御前に罪を認めてへりくだるには、神がどのように愛なる御方であり、私たちをどれほど愛してくださっているかを感じ、敬う心がないと難しいのです。あなたと神の関係はどうでしょうか。父と子、主人としもべ、夫と妻、そして友、聖書では神と私たちの関係をこのようにいろいろな形で表しています。これらの関係はすべて愛の関係で表されています。ご利益だけで神とつながるのではなく、愛の関係でつながりましょう。
2.よみせられた女(マルコ7:25−30)
「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。 するとイエスは言われた。『まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。』 しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。』そこでイエスは言われた。『そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。」
イエス様は命令もしませんでしたが、母親の行動によって悪霊が娘から出ていきました。律法的に言えば異邦人とユダヤ人は交わりをもたない状況でした。しかし、女はそれを知った上で、しかし、イエスさま以外には娘を助けられないという切迫した中で、断られるのも承知で来ていたことが伺えます。もともと断られる自分であると自覚しつつも覚悟をもって来ていたのです。
イエス様の心が娘の解放へと動かされたのは、女の「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」ということばからでした。パンくずでもいい、また自分は小犬にすぎないというそれらのさげすみのことばをも受け入れ、悲しみを感じ痛い思いを感じながらも、なお娘の救いのためにすがりついていく忍耐がイエスの心を動かしました。イエス様はマタイ伝では「あなたの信仰は立派です。」と女をほめています。彼女が本当に神を畏れているかを見られたのかもしれません。
不当な苦しみを受けながらも愛ゆえに耐え忍ぶ姿勢が信仰です。神への信仰があれば人種的な違いはありません。信仰が試みられて忍耐ができるかどうかが試されることによって、単なるご利益だけでない、真に神を畏れる信仰であると認められるのです。
イエス様は彼女の信仰を喜ばれました。それゆえ悪霊に命じなくても悪霊は娘から出ていったのです。神の臨在が娘の上に下ってきて、悪霊は出て行かざるをえなかったと言えます。
もし私たちが信仰を働かせてこのようなしるしを表していただきたいと願うなら、信仰は試されないとなりません。忍耐を生じさせるために、むしろ強い抵抗力、圧迫を感じるでしょう。その忍耐があなたを何ひとつ欠けたもののない完全なものとするのです。忍耐を働かせなければ結果は表されません。
聖書にある全ての人たちは必ず信仰が試される忍耐のときを過ごしました。この試みから逃げてしまったらしるしは表されません。安易な考えでいたら信仰の実は結びません。私たちが何一つ欠けたところのない神の子となるために神は信仰を働かせ忍耐を働かせる試みを与え、地上の歩みを導かれておられるのです。ですから忍耐を働かせることは神によみせられることです。これからもしっかりと、逃げることなく忍耐を働かせていきましょう。
【デボーションポイント】
◎ 「悲喜交交」(ひきこもごも)の心境を支える、神に喜ばれる忍耐。
★ 「悲喜交交」の意味
悲しみと喜びの感情がまざり合うこと。または、それを交互に味わうこと。
【俳句】
満開の 葉桜のもと 胸冷める
■2019年5月19日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
愛するための忍耐
up 2019.5.19
主題聖句(第1コリント13:7)
(愛は)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は忍耐によって測ることができる。そして、忍耐は愛によって強くなる。
【辻 和希伝道師メッセージ】
1.愛しているから、すべてを信じ、すべてを忍耐する
「ヤコブをとおして」(創世記29:18〜30)
(創世記29:18)
「ヤコブはラケルを愛していた。それで、『私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。』と言った。」
先日1組のカップルが婚約をされました。お二人がこれから結婚に向けて準備をされますが、その準備期間はあっという間に過ぎてしまうでしょう。聖書の中にも結婚までの歳月を要したカップルが出てきます。ヤコブとラケルです。ヤコブは故郷を離れ、親類の暮らす地に住み着き、そこでラケルという女性に出会いました。そして叔父であるラバンに「7年間あなたのもとで働く代わりに、娘であるラケルを妻にください」と頼みました。
7年間というと途方もなく長く思えますが、ヤコブにとっては数日のように過ぎていったと聖書にあります。それほどにヤコブのラケルへの愛が強かったのです。
愛が人と人を強く結びつけることができます。ヤコブとラケルの場合は、感情が伴った愛、つまり恋愛ですが、恋愛は聖書が言う愛の一部分です。聖書の愛は、第1コリント13章に書かれおり、私たちが目指す愛です。
「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第1コリント13:13)
愛が一番すぐれているのは、神と人をつなぐ唯一のものだからです。信仰と希望は、人が神に抱くものです。しかし愛は、神から始まり、私たちもその愛を受け愛を表現するものとなりました。
この地上で、愛の模範とするお方はイエス・キリストお一人です。主題聖句(第1コリント13:7)は、まさにイエス様のこの地上での歩みを表現しています。人々の救いのために良き知らせをもって父なる神様の御心に沿ってこの地上を歩まれているにも関わらず、それを受け入れられず、侮辱を受けても「すべてをがまん」されました。そしてイエス様は全ての人の罪を負って十字架にかかられましたが、イエス様を救い主と認めず、さげすむ不遜な人が多くいる中でも、いつか父の身元に帰ってくる、と「すべてを信じ」てくださいました。イエス様を救い主として信じても、成熟したクリスチャンになるためには時間がかかります。それまでの長い年月をも、イエス様は「耐え忍んで」待ってくださるのです。
イエス様を模範とし、どこで愛を働かせ、忍耐を働かせていけばよいのでしょうか。聖書は、大切な戒めとして、神を愛することと、隣人を愛することを言っています。この隣人を愛するときにこそ、イエス様のように愛を働かせ、忍耐を働かせるのです。互いに愛し合うということは、互いに忍耐し合うということなのです。
夫婦になっても、いつまでも恋愛感情は続きません。恋愛は一時的なものだからです。しかし、いつまでも残るのが本当の「愛」なのです。愛なくして、忍耐することはできません。イエス様の愛を模範とし、私たちの隣人を信じ忍耐し受け入れ合うことを目指していきましょう。
【横路伝道師メッセージ】
2.愛しているから、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ
「ルツをとおして」(ルツ記1:16〜18)
(ルツ記1:16)
「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。』」
ベツレヘム出身のエリメレクとナオミという夫婦がいました。ベツレヘムにききんがあった時に、二人の息子を連れてモアブの地に行きます。その後、エリメレクが亡くなり、やもめとなりました。
二人の息子はお嫁さんを迎えますが、この二人の息子も亡くなります。そこでナオミは、ききんから回復したベツレヘムに帰ることにしました。一人のお嫁さんは、ナオミの勧めで実家に帰りましたが、もう一人のお嫁さんのルツは、どうしてもナオミと一緒に行きますと言ってききませんでした。その時の言葉がこのみことばです。ナオミとルツは、ベツレヘムに帰り、ルツは、親戚のボアズの畑で落穂拾いをします。その後ルツとボアズは結婚し、オベデを産みます。そのオベデは後に、あのダビデ王の祖父となるのです。
まず、ルツの忍耐を見てみましょう。
(1)夫の死による忍耐…夫を失ったやもめは忍耐が必要です。
(2)ナオミに帰れと言われても、共に労苦をすることを選んだ忍耐。
…帰れと言われることの方が辛くて、1:16の言葉を言ったのだと思います。
(3)異邦人の地にナオミと一緒に行った忍耐。…ナオミと共にベツレヘムに行き、落穂拾いで労苦しながら姑のナオミを養いました。
ルツは、どうして忍耐できたのでしょうか。
(1)姑のナオミが嫁のルツを、娘のように心から愛していたから。
…ルツはナオミから愛を受け、ルツもナオミを愛し、忍耐ができたのだと思います。
(2)ルツの心は、ナオミと一つ心になっていたから。
…まるでダビデとヨナタンのように、ルツとナオミは一つ心になってから、忍耐できたのです。
(3)ルツの心に真の神を信じる深い信仰があったから。
…元々は別の神を拝んでいたと思いますが、結婚してからナオミと同じ信仰をルツはしっかりと持っていました。
では、私たちはこのルツ記からどのような忍耐を学ぶことができるでしょうか。
(1)ルツがナオミから深く愛されたように、私たちも神様から深く愛されていることを知ること。…神様に愛されていることを知ることによって、忍耐ができるのです。
(2)ルツとナオミの心が一つとなっていたように、一つ心となること。 …兄弟姉妹と一つになることが必要です。赦し合い愛し合い、一つ心になることによって、忍耐ができます。
(3)永遠のいのちの希望をしっかりとつかむこと。
…私たちには永遠という将来と希望があります。神への期待があります。だからこの世の辛いことを忍耐することができます。神様は憐み深く、赦しに富んだお方です。また、たくさんの約束を与えてくださっています。神様の約束をしっかり握りましょう。私たちは天に希望を持つことができます。しかし、まだ天にたどり着いていないので、今は忍耐が必要です。
ある人が劇場に行きました。そこで、第4幕までの芝居がありましたが、第2幕で帰った人がいました。それは、それまでの物語が辛すぎて見るに耐えなくなり、帰ってしまったというのです。後で、最後まで見た友だちに会いました。「なぜ、途中で帰ったのですか。最後は素晴らしいハッピーエンドになったのですよ。」と言ったそうです。 私たちも、まだ人生の途中です。今が苦しくて辛いところを通っていても、最後まであきらめないでください。最後には、永遠の天の御国に住まうというハッピーエンドが待っているのです。
また、私たちの人生は、潜水のような人生ではありません。がんばってがまんをして下に向かって潜り、海底にたどり着いて息絶えるような人生ではなく、忍耐しながら上に向かって浮上し、海面に出て呼吸するように、永遠のいのちに至る忍耐をしています。苦しくて終わるのではなく、希望により忍耐して歩む、上にあがっていくような人生なのです。
【デボーションポイント】
◎ イエス様は、私たちを愛してくだっているので、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待して、すべてを耐え忍ばれた。
イエス様が私たちの身代わりに死んでくださったので、私たちは天に行くことができるのです。私たちも、イエス様と一つ心となり、互いに愛し合い、天に至る希望を持って忍耐して歩んでいきましょう。
■2019年5月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
到達を待つ忍耐
up 2019.5.12
主題聖句(第2ペテロ3:15a)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
その人が目標に至るのを待ち続ける忍耐。
たとえ時間が過ぎても完成するまで待ち続けてくださる神は、
私たちにとって救いである。
神様は、時間を守ることも大切だけれど、たとえ時間までに到達しなかったとしても、時間を超えてでもゴールインすることを喜ばれています。神様が私たちのことをそのように思ってくださっているのなら、私たちもお互いに、時間を守ることよりも大事なことがある、と気付く一週間でありたいと思います。
1.時はすでに過ぎている(ルカ13 :6 −9 )
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」 ルカ13章の前節のところでは、災難、事故、病気、自然死、なんであれ、人がもし悔い改めないまま、即ち神様の前に不敬虔を捨てて立ち返ることをしないまま死んでしまうなら、どんな死に方をした者であっても、みな同じように滅びてしまいます、ということが語られていました。このいちじくの木と番人のたとえ話はその続きです。
★いちじくの実⇒悔い改めて、神のもとに立ち返るたましい。
「実」というときに、地上での業績や能力による成果なども要求されますが、神様は出来の良し悪しではなく、その人が神様を畏れる心を持つことを優先的に見られます。悔い改める心が残されている、そういう魂を神様は見捨てたくないのです。
罪が裁かれることは決まっていますが、その裁きがくだるまでに心改めて神のもとに立ち返り、神の存在を認め、神が主権者であることを尊んで敬虔な歩みをする、そういう可能性が少しでもあるならば、神様はその人を生かして、悔い改めの機会を与えてくださっている、というたとえ話であります。
私たちはいちじくの実を実らせているでしょうか。一回きりでなく、毎年季節が来れば実がなるように、信仰生活の中で悔い改めるべきことがいろいろ出てきているはずです。悔い改めた敬虔な心を保つために、更にいつも心を見張って、神様の存在を尊んでいく姿勢を失わないように、イエス様に喜んでいただける実を結んでいきましょう。
時はすでに過ぎています。悔い改めることができていることにおいて猶予があると勘違いしてはいけません。いつ刑が執行されても当然の時期に来ていることをわきまえていきましょう。
★ぶどう園の番人⇒救い主イエス・キリスト
罪を裁かれるのは神様のなさることです。しかし、裁きをくだされる前に愛とあわれみを神はお示しになりました。それが救い主イエス・キリストです。
★番人の忍耐は、あわれみによるもの
番人(イエス・キリスト)は、いちじくの木のために主人に「もう一年待ってください。」と執り成しをしています。切り倒すのはかわいそうと、あわれまれたのです。
どんな木も、実も、それぞれ成長には差があります。皆同じ、ではありません。私たちも一人一人みな違います。
時期は決まっているけれど、その時期までに悔い改めることが出来なかった人たちが残されている、というところに神のあわれみが向けられて、その人たちが悔い改めに進むことを、忍耐強く待ってくださっていることを覚えておきましょう。
自分もすでに三年もたっているイチジクの木であるにも関わらず、まだ悔い改めの実をしっかり実らせていない者であり、救い主イエス様は今も天で「切り倒すのを、もう少し待ってください」と神様に執り成してくださっていることを覚えていただきたいと思います。
2.主は何を待っておられるのか(第2ペテロ3 :9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
★「おそいと思う」⇒神の存在を否定する不敬虔につながる。
私たちは自分の問題になると、つい「神様、遅い」「あの人、遅い」と、さばいてしまいます。それは神様を疑い否定する不敬虔につながります。神様は絶対のお方、完璧で失敗のないお方、すべてご計画の中にあって、ことを進めていく深い悟りをもった知者であられます。
自分中心の時間感覚で、神様のなされることに対して「遅い」と不信感を持たないように気をつけましょう。そのように感じるときは、「これが神様の予定通りなんだ」と受け止めることが信仰ではないかと思います。
★「忍耐深い」⇒すべての人への深いあわれみ
世界の70数億人の内の一人くらい見逃して滅んでしまってもいいか、というような人間的な考えではなく、神様は一人でも滅びることを願っておられません。
聖書の預言のみことばがまだ成就していないと思われるときには、世界のどこかの誰かこれから悔い改める一人の人のために、神様は忍耐深く裁きの時を遅らせておられるのだと受け止めていきましょう。
今までの10年で私たちはどれだけ整えられたでしょうか。それを思うと、これからの10年は決して長くはありません。皆さんもスピードをアップして、主の再臨のための備えを心掛けていただきたいと思います。
★「滅びることを望まず」⇒滅ぼすことが目的ではない
私たちはこの世に生まれた時から「死」に向かっているようなものですが、聖書には私たちは生きるために生まれたと書いてあります。本来は「死」と無縁でありましたが、アダムとエバの罪により「死」が入ってきました。
しかし、神様はもっと素晴らしいことを考えておられました。罪を犯したということを通して、神のあわれみ深さ、神のきよさ、神の力強さ、神様の存在そのものをすべて現わすことができる状態になったということです。人は死ぬためではなく、神と共に生き続けるために造られました。神様は、信仰によって義人は生きるということを前面に打ち出して、すべての人が救われて永遠のいのちに至る道をイエス・キリストを通して完成してくださったのです。
★「悔い改めに進む」⇒人々の不敬虔の心が変わること
不敬虔の心が変わっていく進み具合は人により違います。少しづつ変っていくという人もいれば、ガラッと大きく変わる人もいます。人それぞれです。誰もがまだ完成してはいないのですから、その違いを互いに裁かないようにしましょう。
互いに憐れみ合って、自分も神様が悔い改めに進む機会を今も与えてくださっている身であると、謙虚に受け止めましょう。
悔い改めが早い遅い、小さい大きいなどと人を評価しないでください。神様は一歩でも半歩でも悔い改めに進んで滅びることのないように、永遠の命に向かって日々神と共に歩む人生を怠らないようにと願っておられます。
また、自分で自分の信仰を見て色々と思うことがあるにせよ、神様の心は、一人も滅んで欲しくない、忍耐深く悔い改めに進んで欲しいと、忍耐して待っておられるのだということを覚えておいていただきたいと思います。
【デボーションポイント】
◎隣人への「寛仁大度」(かんじんたいど)は、その人が救われるためである。
★「寛仁大度」の意味
心が広くて、度量が大きく、慈悲深いこと。
隣人に対して私たちが心広くして度量を大きくして慈悲深くするのは、その人が滅びないで救われてほしいからです。なぜなら私たちも神様から寛仁大度の姿勢で今も憐れんでいただき、チャンスを与えていただいている者だからです。
「あと一年猶予をください」と番人が言ったように、イエス様は今も私たちのために、少しでもキリストの姿に近づくことができるように、時間を与えてくださいと執り成してくださっています。
特に今週は、「この機会、この時間が与えられているんだ」と感謝して、悔い改めるべきところを悔い改め、自分の内側が変えられていくように毎日を敬虔に過ごしていきたいと願います。
【俳句】
思い出す 口癖のことば 母の日に
「車の運転だけは気を付けてね」これは口癖のように言って心配してくれていた亡き母の忠告のことばでした。
同じように神様も親心として私たちの幸せを願って「互いに愛し合いなさい。互いに赦し合いなさい」と口癖のように私たちのきよい良心にいつも語ってくださっておられることを重ね合わせてみました。
母の日でも母はいません。あの言葉も聞けなくなりました。しかし、それを聞ける日として母の日を迎えることによって、しみじみと母の言葉を思い起こし、親の愛を一段と深く実感する、そんな気持ちを詠んでみました。
■2019年5月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神のさばきを待つ忍耐
up 2019.5.5
主題聖句(ローマ12:19)
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
主の再臨に備える10年をスタートしております。再臨を迎えるにあたって忍耐が必要であるということから、今年一年は特に集中して「忍耐」について学んでいるところです。
今日は、今週の主題聖句(ローマ12:19)から、「神のさばきを待つ忍耐」について、ダビデの逃亡生活の中での忍耐を実例として学んでいきたいと思います。
1.サウル王から逃れて洞窟にいたダビデ
神様から次の王様としての油注ぎをいただいたダビデは、国のため家族のため王様のために戦って目覚ましい活躍をした結果、サウル王様からねたまれ憎まれ命を狙われて、逃げ回るはめとなりました。
サウル王様から戦いを仕掛けられたダビデは、次期王として正当な理由で、サウル王様と戦いを交えることはできましたが、そうはしませんでした。サウル王様は神様が立てられた器であるというところに敬意を払い、二度倒せるチャンスがあっても手出しをせず、神様にさばきをお任せしたのです。そのためには忍耐が必要でした。
ダビデはこの逃亡生活にあって、どのようにして忍耐したのでしょうか。
A)自分の立場(詩篇57:1)
「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。」
★あわれみを受ける立場であって、さばく立場ではない。
サウル王様もダビデも共に神のしもべです。同じしもべ仲間をさばくことは出過ぎたことです。さばくことの出来るお方は主人である神様だけ、それをしっかり心に刻むために、「私をあわれんでください。私をあわれんでください。」と二回も重ねて神様に訴えています。
神様が選び、任命し、用いられたその器に対して、ダビデは応援する気持ちを起こしたい、高慢になってはいけない、と神の前にいつも心を低くし続けたのです。
洞窟の中で孤立していたダビデですが、神様と共にいることをいつも意識していたと言えます。
クリスチャンも日本の社会の中では孤立した少数派です。しかし孤立することは惨めなことではありません。ダビデのように、孤立すればするほど、もっと神様に心を向けるチャンスが与えられるということを覚えておいていただきたいと思います。
そして、クリスチャン同士でさばいたり、非難したりする心が起きたときには、「私たちは同じしもべ仲間、どうこう出来るのは主人である神様だけである。」ということを思い起こしてくだい。私たちは同じしもべ仲間として、主人から懲らしめられないように気をつけて欲しいと願い合い、祈り合うお互いなのです。
B)神様の立場(詩篇57:2)
「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」
★支配者、統治者としてすべてをさばくお方。
しもべ、あるいは奴隷は、主人に言われるまでは何も自由にはできません。主人のおかげで食事も家も家族も、全てを与えられた自分は主人のものである、という観点がダビデにはありました。
「私は神のしもべ」と心を低くし、神を高く上げることが大切です。
神様は私のためにすべてを成し遂げて下さるさばき主、支配者、統治者です。
ダビデは、自分にさばく思いがやって来たとしても、それは自分のすることではない、すべてをご存じの神様が、時が来たら必ず決着をつけてくださると自分に言い聞かせて、神様の立場を尊重していたと思われます。
C)賛美をもって忍耐する(詩篇57:7−11)
「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」
★神への信仰がゆるがないように、喜びと感謝をささげる。
「私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。」と2回も繰り返し告白しているところに、実はダビデの揺れる心が見えるようです。
そんな中で神様に目を向けるためにダビデは、ほめ歌を歌います。魂に目を覚ませと呼びかけます。主の恵みとまことの大きさを高らかに賛美し、主の栄光をあがめたたえます。孤独な逃亡生活にあって、何と大きな喜びと感謝と賛美でしょうか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」まさに、これがダビデの忍耐の仕方でした。
2.納得できるさばきのために(ローマ12:20)
「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」
★神の正しいさばきが敵に厳しくくだるために、親切をする。
被害者と加害者が白黒はっきりしていると、そのさばきはどちらもがすっきり納得できるものになりますが、被害者がやりかえしたり攻撃したりして、加害者も傷を負ったりすると、喧嘩両成敗ということになり、そのさばきに納得がいかず不満の残る者も出たりします。
納得できるさばきのために、(ローマ12:20)のみことばをぜひ覚えておいてください。
悪いことをあなたにした相手に対して親切を返しなさい、と言われています。普通は無理な話です。しかし、さばき主が神であるという前提のゆえに、このみことばは素晴らしいおことばです。
相手の悪に対して、正しい姿勢で相手に善(親切)を行ない続け、それでも相手が悔い改めないで害を与え続けるなら、その人には頭に炭火を積むような厳しい神様のさばきがくだされます。
逆に、悪を行なったその人を赦せないで復讐や攻撃に出るなら、あわれみ深い神様は、悪を行なった相手に憐れみの心を起こされることがあると聖書にも書かれてあります。
さばき主は神様です。あなたが、悪を行なう敵に対し善(親切)を行なうことで、神様は悪に対する完全なさばきを行なわれます。このことをあなたが心に留めるなら、あなたは納得できます。自分で復讐したいという心を持っている人は、分を超えています。
あなたはしもべであって主人ではありません。このことを正しく理解しておかないと、(ローマ12:20)のみことばは、納得できる神様の正しいさばきとして受け止めることはできません。神様はあわれみ深く情け深いお方なのです。
ダビデは、あわれみを受ける立場の者として、いつも神の前に自分を低くしました。サウル王様を非難することは一度もなく、サウル王様が戦死したときには、イスラエルの英雄として称えるという素晴らしい「親切」を行なうことさえしたのです。
神のさばきを待つ忍耐のために、納得できる神のさばきとして受け止めるためには、この(ローマ12:20)が一つの皆さんへのヒントとなるのではないかと思います。
【デボーションポイント】
◎「イエス様を信じている者は、『仁者楽山』(じんしゃらくざん)の心を備えている。
★「仁者楽山」の意味
人徳の備わった人は、欲に動かされず心が穏やかでゆったりとしているので、おのずから安定したどっしりとした山を愛するものであるということ。
心の豊かさの土台は、神の存在を認め、敬い畏れる平安な心から生れます。私たちクリスチャンは「仁者楽山」の心が備えられているのです。それに気が付かないで、こまごまとしたことで人をさばいたり、ゆとりのない生活をしていませんか。
どうぞ、神様の大きさに包まれ支えられて、大自然の素晴らしさ、美しい夜の星空を見て、その大きさを感じることができるような心の平安が与えられているんだなぁと、感心していただきたいと思います。
【短歌】
主を畏れ 人徳宿す 神の子は
若葉に満ちる 山を好む
若葉に囲まれた美しい山々が、新しい新鮮な命に満ち溢れている姿は、神様のいのちがあふれでて、いのちの輝きが山々に反映しているようです。神を信頼している者が山を見上げるたびに神を思い起こす、そんな状況を詠んでみました。 |