■2019年5月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
到達を待つ忍耐
up 2019.5.12
主題聖句(第2ペテロ3:15a)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
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■2019年5月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神のさばきを待つ忍耐
up 2019.5.5
主題聖句(ローマ12:19)
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
主の再臨に備える10年をスタートしております。再臨を迎えるにあたって忍耐が必要であるということから、今年一年は特に集中して「忍耐」について学んでいるところです。
今日は、今週の主題聖句(ローマ12:19)から、「神のさばきを待つ忍耐」について、ダビデの逃亡生活の中での忍耐を実例として学んでいきたいと思います。
1.サウル王から逃れて洞窟にいたダビデ
神様から次の王様としての油注ぎをいただいたダビデは、国のため家族のため王様のために戦って目覚ましい活躍をした結果、サウル王様からねたまれ憎まれ命を狙われて、逃げ回るはめとなりました。
サウル王様から戦いを仕掛けられたダビデは、次期王として正当な理由で、サウル王様と戦いを交えることはできましたが、そうはしませんでした。サウル王様は神様が立てられた器であるというところに敬意を払い、二度倒せるチャンスがあっても手出しをせず、神様にさばきをお任せしたのです。そのためには忍耐が必要でした。
ダビデはこの逃亡生活にあって、どのようにして忍耐したのでしょうか。
A)自分の立場(詩篇57:1)
「神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。」
★あわれみを受ける立場であって、さばく立場ではない。
サウル王様もダビデも共に神のしもべです。同じしもべ仲間をさばくことは出過ぎたことです。さばくことの出来るお方は主人である神様だけ、それをしっかり心に刻むために、「私をあわれんでください。私をあわれんでください。」と二回も重ねて神様に訴えています。
神様が選び、任命し、用いられたその器に対して、ダビデは応援する気持ちを起こしたい、高慢になってはいけない、と神の前にいつも心を低くし続けたのです。
洞窟の中で孤立していたダビデですが、神様と共にいることをいつも意識していたと言えます。
クリスチャンも日本の社会の中では孤立した少数派です。しかし孤立することは惨めなことではありません。ダビデのように、孤立すればするほど、もっと神様に心を向けるチャンスが与えられるということを覚えておいていただきたいと思います。
そして、クリスチャン同士でさばいたり、非難したりする心が起きたときには、「私たちは同じしもべ仲間、どうこう出来るのは主人である神様だけである。」ということを思い起こしてくだい。私たちは同じしもべ仲間として、主人から懲らしめられないように気をつけて欲しいと願い合い、祈り合うお互いなのです。
B)神様の立場(詩篇57:2)
「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。」
★支配者、統治者としてすべてをさばくお方。
しもべ、あるいは奴隷は、主人に言われるまでは何も自由にはできません。主人のおかげで食事も家も家族も、全てを与えられた自分は主人のものである、という観点がダビデにはありました。
「私は神のしもべ」と心を低くし、神を高く上げることが大切です。
神様は私のためにすべてを成し遂げて下さるさばき主、支配者、統治者です。
ダビデは、自分にさばく思いがやって来たとしても、それは自分のすることではない、すべてをご存じの神様が、時が来たら必ず決着をつけてくださると自分に言い聞かせて、神様の立場を尊重していたと思われます。
C)賛美をもって忍耐する(詩篇57:7−11)
「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」
★神への信仰がゆるがないように、喜びと感謝をささげる。
「私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。」と2回も繰り返し告白しているところに、実はダビデの揺れる心が見えるようです。
そんな中で神様に目を向けるためにダビデは、ほめ歌を歌います。魂に目を覚ませと呼びかけます。主の恵みとまことの大きさを高らかに賛美し、主の栄光をあがめたたえます。孤独な逃亡生活にあって、何と大きな喜びと感謝と賛美でしょうか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」まさに、これがダビデの忍耐の仕方でした。
2.納得できるさばきのために(ローマ12:20)
「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」
★神の正しいさばきが敵に厳しくくだるために、親切をする。
被害者と加害者が白黒はっきりしていると、そのさばきはどちらもがすっきり納得できるものになりますが、被害者がやりかえしたり攻撃したりして、加害者も傷を負ったりすると、喧嘩両成敗ということになり、そのさばきに納得がいかず不満の残る者も出たりします。
納得できるさばきのために、(ローマ12:20)のみことばをぜひ覚えておいてください。
悪いことをあなたにした相手に対して親切を返しなさい、と言われています。普通は無理な話です。しかし、さばき主が神であるという前提のゆえに、このみことばは素晴らしいおことばです。
相手の悪に対して、正しい姿勢で相手に善(親切)を行ない続け、それでも相手が悔い改めないで害を与え続けるなら、その人には頭に炭火を積むような厳しい神様のさばきがくだされます。
逆に、悪を行なったその人を赦せないで復讐や攻撃に出るなら、あわれみ深い神様は、悪を行なった相手に憐れみの心を起こされることがあると聖書にも書かれてあります。
さばき主は神様です。あなたが、悪を行なう敵に対し善(親切)を行なうことで、神様は悪に対する完全なさばきを行なわれます。このことをあなたが心に留めるなら、あなたは納得できます。自分で復讐したいという心を持っている人は、分を超えています。
あなたはしもべであって主人ではありません。このことを正しく理解しておかないと、(ローマ12:20)のみことばは、納得できる神様の正しいさばきとして受け止めることはできません。神様はあわれみ深く情け深いお方なのです。
ダビデは、あわれみを受ける立場の者として、いつも神の前に自分を低くしました。サウル王様を非難することは一度もなく、サウル王様が戦死したときには、イスラエルの英雄として称えるという素晴らしい「親切」を行なうことさえしたのです。
神のさばきを待つ忍耐のために、納得できる神のさばきとして受け止めるためには、この(ローマ12:20)が一つの皆さんへのヒントとなるのではないかと思います。
【デボーションポイント】
◎「イエス様を信じている者は、『仁者楽山』(じんしゃらくざん)の心を備えている。
★「仁者楽山」の意味
人徳の備わった人は、欲に動かされず心が穏やかでゆったりとしているので、おのずから安定したどっしりとした山を愛するものであるということ。
心の豊かさの土台は、神の存在を認め、敬い畏れる平安な心から生れます。私たちクリスチャンは「仁者楽山」の心が備えられているのです。それに気が付かないで、こまごまとしたことで人をさばいたり、ゆとりのない生活をしていませんか。
どうぞ、神様の大きさに包まれ支えられて、大自然の素晴らしさ、美しい夜の星空を見て、その大きさを感じることができるような心の平安が与えられているんだなぁと、感心していただきたいと思います。
【短歌】
主を畏れ 人徳宿す 神の子は
若葉に満ちる 山を好む
若葉に囲まれた美しい山々が、新しい新鮮な命に満ち溢れている姿は、神様のいのちがあふれでて、いのちの輝きが山々に反映しているようです。神を信頼している者が山を見上げるたびに神を思い起こす、そんな状況を詠んでみました。
■2019年4月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
自我を砕く忍耐
up 2019.4.28
主題聖句(詩篇119:147)
私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。
切羽詰まった状況の中、眠気も起きないほどに苦しみ激しく求めるも、すぐには応えられず、ただ主の約束を待ち望むという忍耐が描かれています。この忍耐は自我を砕く忍耐です。
正しく忍耐を働かせことによって自我が砕かれ、へりくだりを身に着けることができます。この忍耐を今日はカナン人の女性の話から考えていきたいと思います。
1.カナン人の女の切願(マタイ15:22〜28)
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
カナン人はユダヤ人がエジプトから出て来てそこを占領するまで住んでいた人々です。神はユダヤ人がカナン人に代わってそこに住むように導かれました。その理由は、カナン人とその他の6つの民は神の前に余りにも罪深くて、その罪が満ちてしまったために神がイスラエルに聖絶を命じられ、代わりに占領するように命じられたのですが、イスラエルの民も罪を犯し、結果少数のカナン人が残されることになりました。そしてイスラエルの人々の奴隷とされていました。
そのカナン人の女性がイエス様のもとに来て、なりふり構わず願い出たのです。これは母親の神への切願が娘の解放につながったという出来事です。
このようなイエス様の様々な態度に対しても、なおも求め続け最後は願い通りになりました。彼女の叫び求め続ける姿勢が、ひどい悪霊に憑かれて家に残っている娘の癒やしと解放につながったのです。
イスラエル人ではなく異邦人でありながらも、母親の叫び求める姿勢が神様の御心を動かして、遠く離れている娘の癒やしという奇跡を起こしたのです。
なぜイエス様が直接娘に会ってことばをかけられたり手を置かなくても奇跡が起きたのでしょうか。その大事なポイントが「自我が砕かれる」ということです。
A)現状での忍耐
★ ひどく悪霊に取りつかれている娘と生活をしている苦しみに耐える。
ひどく悪霊に取りつかれているという娘との生活は、色々な近所迷惑をかけたりして社会的にも批判されるし、仕事もできず想像を絶する大変な生活だったと思われます。そのような困難な生活の中で、イエスの話を聞き、イエスに助けを求めに行くと決心するのは、彼女にとって実はどれほど大変なことだったでしょうか。彼女はカナン人でありイスラエルの人々からは異邦人として差別されていたからです。そういう差別され蔑視される中で、彼女は叫び声をあげたのです。
B)無視されたことに対する忍耐
★ 関わりを持つことを避けられる苦しみに耐える。
その彼女にイエスは一言もお答えにならなかったのです。それは本当に辛いことであり傷つくことです。イエス様は関わりを持つことを避けられました。
C)該当者でないことへの忍耐
★ 間違っている立場にあることへの苦しみに耐える。
イエス様は意識的に無視されているということが彼女にはわかりました。それゆえに彼女はさらに声を張り上げました。とうとう弟子たちが閉口して彼女の願いに答えてあげてほしいと言い出す始末でした。
しかし、イエス様は彼女にも聞こえるように「私はイスラエルの家以外には遣わされれていない。」と言われました。それゆえ余計なことはしない、あなたは該当しないと言われたのです。該当者でない資格がない自分を彼女は認めなければならなかったのです。
しかし、それでも彼女はひれ伏して願いました。それは、ただ娘のためにという強い思いがあったからです。
D)差別と侮辱への忍耐
★ イスラエル人を子どもとし、カナン人を小犬とするイスラエル社会の差別や侮辱の苦しみに耐える。
さらに彼女を傷つけるようなことばをイエス様は言われました。
自分の存在に対する侮辱です。イスラエル人は子どもで、あなたは小犬であるとされたのです。イスラエル人は選民であるという誇りが他の民族を卑下していました。
しかし、それでも娘のために自分自身の誇りをも砕いて、彼女は「自分は小犬ですが」と、そのことばを受け入れ、さらに「小犬でも食卓からこぼれるパンくずはいただけます。」と、切り返したのです。くずでもいいからくださいというへりくだりとともに、例えくずのようなこぼれたおことばであっても、神のことばには奇跡を起こす力があると信じている強い信仰がそこに表れたのです。
それは自分自身を完全に砕いた結果与えられた知恵あることばです。少しでも高慢な心があれば決して浮かんでこないことばです。
母親として娘が解放されるためにという願いの強さがここまで自分自身を砕きました。娘への愛が自分を砕いたのです。愛がないと忍耐は弱くなります。愛が弱くなると忍耐ではなく我慢になり心が歪んでしまいます。
人は自分のためというよりも愛する人のためであるなら強い忍耐ができ、自分の心を砕くことができます。愛の力はそれほど強いのです。
どういう愛のゆえにその忍耐を働かせているのかを考えてみてください。ただ欲望のために忍耐しているのなら歪んでしまい、人を信じられなくなり社会が信じられなくなり、誰も信じられなくなり、もう生きているのも嫌だという風になっていきます。私たちの人格を健全に保つためには愛が必要です。愛が無くなると、ただ欲望のために生きる獣のようになってしまいます。
E)「粉骨砕身」(ふんこつさいしん)の忍耐
※ 「粉骨砕身」とは、力の限りを尽くして努力したり、働いたりすること。
彼女が忍耐して自我が砕かれた結果「粉骨砕身」という自分自身の自我が砕かれた状態が出来上がって、イエス様を感動させるような知恵あることばが出てきたと考えることができます。
イエス様は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。」と感嘆されたのです。このような砕かれた魂に至るように神は彼女を導かれました。
2.自我が砕かれる目的(1テサロニケ4:3a、7)
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。 」
★ここまで自我が砕かれるための忍耐ができたのは、母親の娘への愛である。
★ここまで彼女が試されたのは、イエス様(神)が母と娘を愛されていたからである。
愛しているから、神は私たちを聖めたいと働きかけられるのです。忍耐しつづけた結果、神の御国に入っていけるのです。好きなようにわがままに生きた結果、御国に入れないよりは、今はなぜこんなに苦しいのだろうと思っても、忍耐し、イエス様について行った結果、御国に入れるなら、どんな苦しみも辛さも一瞬で報われたと知るのです。
苦しみ労苦の報いは必ずあります。試みは神が私たちを愛してくださっているからです。天国に持ち込めないような悪いものを取り去るために、試みを与え、忍耐することを励まされるのです。その忍耐が自我を砕くという働きをします。本当に痛く辛いですが、神は良い方であり、愛なる方であると信じてついて行くときに報われます。自分で自我を砕いていく人は幸いです。
【デボーションポイント】
◎人の思いは、求めたことがかなえられること。
神のみこころは、私たちが聖くなること。
願ってはいけないというわけではありません。強く願い求めることは貪欲であると勘違いしてはいけません。その強い願いが支えとなって、「神のみこころは、私たちが聖くなること」を成就させるのです。 この女性は強く願いました。どんな目にあっても娘のためにという強い願いがありました。この強い願いを用いて神は彼女に聖さを与えられたのです。永遠の命に導く聖さです。
皆さんもあきらめが早い人は求める力が弱いのです。しかし、これだけは叶えて欲しいという願いがあれば、忍耐し聖められます。
彼女は聖められるまでは本当に辛い忍耐をしましたが、娘が癒やされたことによって、すべての忍耐の苦しみを忘れるほどの喜びが与えられました。
すべての労苦が忘れられるほどの喜びが最後は与えられます。その喜びを信じて忍耐を働かせて前進していきましょう。
【俳句】
花びらが 風に飛ばされ 花の塵
桜の花びらはいずれ散ります。散るのも美しいものです。しかし最後は地面に落ちて汚くなって塵のようになってしまいます。
人も褒められたら傲慢になりやすいものです、しかし散るというときもやってきます。傲慢が砕かれるときもやってくるということを覚えましょう。
■2019年4月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
キリストの忍耐
up 2019.4.21
主題聖句(ヘブル12:2)
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
今日早朝のニュースですが、中国では共産党による宗教管理が強まり、特にキリスト教への弾圧迫害が激しく、公認教会も閉鎖されているようです。理由はクリスチャンの数が党員数を上回ったからです。
教会は迫害されると、不思議と増えていく歴史があります。神様の愛を信じて忍耐して歩む信仰は、迫害を通して試され強くなります。
日本にクリスチャンが少ないのは迫害がないからとも考えられます。しかし、日本は富と誘惑に堕落させられる社会ですから、私たちは誘惑との葛藤を多く受けます。迫害であれ誘惑であれ、それは私たちを死に向かわせる闇の力です。神様は闇の力を通して、光の子である私たちを鍛えておられます。
迫害されている教会のために祈り、誘惑の多い日本の人々の魂のために、悲しみをもって執り成していくことが必要です。
真理から目がそらされている日本の社会の中では、イエスキリストの復活を信じることは非常に難しい環境があります。皆さんがこのようにイエス・キリストを信じていることは奇跡です。「奇跡」、これは絶対に起こらなければならない奇跡なのです。そのことを今日は少しお話ししていきます。
今日の主題聖句(へブル12:2)のポイントは「キリストの忍耐」です。復活という素晴らしい栄光を受ける前に、耐え忍ぶところを通られたイエス様の人生から、三つのポイントを見てみましょう。
1.「ご自分の前に置かれた喜び」(ローマ8:17)
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
◎キリストの喜びは、神を愛する人々が罪赦され、御自分とともに神の相続人となることである。
(へブル12:2)に「神の御座の右に着座されました」とありますが、イエス様は、神の右に座る権威を求めて、その地位名誉名声を喜びとして、地上に来られて忍耐されたのではありません。
御子イエス様が来られた一番の目的は、ご自分のいのちを通して、神を愛する罪人たちが罪赦されることです。それだけでなく、赦された私たちが神の国の相続人となり、イエス様と一緒に永遠の人生を歩み始めるということを、イエス様は喜びとしておられました。
聖書にはキリストと教会を、夫と妻に例えて、その堅固な関係を紹介しています。キリストは私たちを、愛する妻として、神の国における共同相続人として、いっしょに御国の新しい人生を始めたいという願いをもって、この地上に来られたのです。そういう喜びをもって、様々な苦しみを耐え忍んで行かれたのです。
2.「十字架を忍び」(ピリピ2:6−8)
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
A)肩書を捨てる
肩書は権限、能力、力を表しますが、その働きや立場、自分の存在の価値、自尊心、それら肩書と共にある一切を、もっと大事なことのために捨てるという意味で、「肩書を捨てる」と表現してみました。
それが「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という部分です。
B)人間と同じようになられた
神のご性質と、人間の性質とでは天地の差があります。人の性質、特に体を持つということは不便なものです。体があるために、食べたり飲んだり体を養うための苦労と時間は計り知れません。イエス様はその不便さ悩ましさも経験され耐え忍ばれました。私たちが肉体を持つ大変さをイエス様も味わわれたのです。
そして、肉体は欲求を持っていますから、罪の誘惑も受けられたでしょう。私たちと同じように、感情や思いにおいて罪の働きかけを受けながら、一切罪を犯さない歩みを忍耐されたということは、本当にどんなに大変な苦労であったことでしょう。十字架の死に至るまでの間に、イエス様は忍耐をもってそこを通り抜けられたのです。
C)十字架の死にまでも従われた
神様は不死の方であり、死ぬはずのない、死んではならないお方であるにもかかわらず、私たちの贖いのために、死をも受け入れ従うことができたのは、どうしてでしょうか。
D)愛ゆえに耐え忍ばれた(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 」
一番大きな愛によって、神の姿も捨てることが出来、人としての性質を耐え忍び、受けるべきでない死さえも受け入れられたというその愛は、私たちを友として愛してくださった愛であります。
私たちへのその愛があったからこそ、三つの困難も耐え忍び、私たちの罪が赦されるための代価として、十字架でその命をお捧げになり、私たちの罪を背負って黄泉にも下り、そこでも三日三晩私たちの罪の報いの苦しみを、代わりに受けてくださったのです。
3.「神の右の座に着座する」復活(ローマ4:25)
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
◎キリストの復活は、罪を贖うことができるにふさわしい代価、いけにえであったことを証明するものである。
イエス様が死なれて、三日三晩ハデスに下って苦しみを受けられたのは、ご自身の罪ではなく、私たちの罪の報いの身代わりでした。
しかし、もしイエス様が復活されず、そのままずっとハデスにとどまっておられたら、それはイエス様ご自身の罪の報いであったとみなされて、私たちの罪の身代わりにはなりません。十字架での罪の贖いが完成するためには、イエス・キリストは神の聖者として罪のない方であったことの証明として、必ずよみがえらなければならなかったのです。ですから、イエス様はハデスに行かれたけれど、罪のない者だったので、神はイエス様をよみがえらせて、イエス様が罪のない血を流されたことを証明されました、そして、この救い主キリストを信じる者はみな救われるという、信仰による救いのルールを神様はつくられたのです。
イエス様のよみがえりは、義人が死に支配されないことの証明ですから、私たちもキリストを信じて義と認められたなら、罪人であっても義人としてよみがえるのです。キリストを信じるということは、こんなに大事なことなのです。
キリストは神の愛そのものですから、神様の愛を望みとし、その愛を尊んで、悪から離れ、善に親しむ生活を努めていくように、あきらめず続けることが大事です。
私たちは罪を犯し続けるまだまだ未熟なものですが、耐え忍んで何度でもやり直します。「キリストを信じたら救われる」ということを信じて、どんなに失敗しても、やり直しを願っておられる、あわれみ深い神様の愛を信じて、再臨の日まで、もしくは召される日まで、やり直し続けます。そこにイエス様の救いのすばらしさがあるのです。
一日に7を70倍するまで人を赦しなさいと、人間に命じられた神様であれば、神ご自身が一日に490回、いいえ、それ以上果てしなく、赦されないはずがありません。神様はあなたにあきらめて欲しくないと思われているのです。
イエス様はあなたがたを友と呼び、友であるあなたのために、十字架による苦しみと、身代わりのさばきとを受けてくださいました。イエス様こそ、あきらめたくないと思われているのです。そこまで耐え忍んで、私たちの救いのための御業を完成されたのです。そんな尊いことをしてくださり、何百回でも何千回でも赦すといってくださっているのに、私たちは一回や二回であきらめて、もうやり直さないなんて、ありえません。イエス様は、何度でも赦し、何度でも慰め、何度でも励まし続けると言ってくださっておられます。皆さん、自分で自分を測らないでください。「私はもうダメ人間」なんて、勝手に思わないでください。キリストはあなたをあきらめておられません。
(使徒13:35−37)
「ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。 」
神の友といわれるダビデでさえも、罪を持っていたので死んで朽ち果てました。しかし、イエス様は死なれたけれども、よみがえられました。「あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない」という神様の義がそこに働いたということです。
復活があるから罪の赦しが完成したという復活の大切さに心励まされて、あきらめないで神様の愛の中を励み歩むことをチャレンジし続けてください。
【デボーションポイント】
◎愛は「堅苦卓絶」(けんくたくぜつ)の源である。
愛してくださっている方のために忍耐を働かせる。
*「堅苦卓絶」とは、苦しみに耐え抜く根性がある、また、人並み以上に抜きん出て忍耐心に富んでいること。
「忍耐を働かせれば、その人は何一つ欠けた所のない完全な者となる」と聖書にありますが、完全な者となるのは結果であり、忍耐を働かせる理由はただ一つ、これほどに愛してくださっている方の愛を無駄にしたくないというキリストへの愛ゆえであります。
私たちは一度に「堅苦卓絶」というところまでは行きません。だから、日々の歩みの中で、神を愛する心、信仰が試されるのです。
そして少しづつ忍耐を働かせて忍耐を強めていって、その忍耐が神様の愛のうちに留まる力となっていくのです。
鉄が何度も繰り返し打ち叩かれて、強い日本刀になるように、打たれれば打たれるほど神の子の性質が生み出されていくのだと、与えられた試練を前向きに耐えていきましょう。
【俳句】
精一杯 枝に残りし 落ち椿
椿の花は、最期は花首ごとポトッと地に落ちるのですが、花が枝に残っている姿は、落ちるまで精一杯、枝につかまっているようです。
あなたはあなたの精一杯で良いのです。隣の人の忍耐と比べるのではなく、あなたの精一杯を繰り返していって強められていきます。落ちる椿はいさぎよく、また翌年は花を咲かせます。
私たちも失敗しても失敗してもあきらめず、失敗を重ねて、忍耐を働かせて、そうして強くしていただきましょう。
■2019年4月14日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
信仰を精錬する忍耐
up 2019.4.14
主題聖句(第1ペテロ1:7)
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。
(ヨセフの生涯から)
【辻 和希伝道師メッセージ】
主題聖句の第1ペテロにある、「あなたがたの信仰」とは、神への信仰であり、私たちが一番初めに持つ信仰です。それは、イエス様が救い主であり、私たちの罪を全て身代わりとなって処分してくださり、更には、死を打ち破り蘇ってくださったことで、私たちに新しい生ける希望を与えてくださったという福音を信じる信仰です。
信仰は目に見えませんので、私たちの信仰を測るためには、試練を通して試されなければなりません。一度告白したからといっても、その信仰が本当に生きて働いているのかは、試さないとわからないからです。私たちの信仰を確認するという意味でも、大なり小なりの試練は誰にでも訪れます。その試練をクリアすることで、私たちの信仰は純度の高い信仰へと成長していくのです。
1.妬みと嫉妬による精錬
(創世記37:18〜20)
「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。彼らは互いに言った。「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
(詩篇9:13)「主よ。私をあわれんでください。私を憎む者から来る私の悩みを見てください。主は死の門から私を引き上げてくださる。」
ヨセフはまさに大きな試練を通った人物の一人であります。ヨセフは、ヤコブの11番目の息子です。年老いたときに産まれたことと、最も愛したラケルとの間に産まれた最初の子どもということで、他の息子よりも父ヤコブから特に愛されました。また、ヨセフは特別な夢を見る能力があり、見た夢の内容を言ったことで、お兄さんたちから妬みと嫉妬を買うことになります。
同様に、私たちは父なる神様から特別に愛されています。ですから、クリスチャンはいつも闇の支配者サタンから妬みと嫉妬の対象なのです。敵は私たちの信仰を揺るがそうとあらゆる方法で攻撃してきます。そして、もう一度罪の奴隷にしようと働きかけてきます。そのような働きかけがあったときこそ、信仰を精錬するために忍耐を働かせることが重要です。
また、私たちは、隣人を妬み嫉妬するという罪性をも持っていることを忘れてはいけません。いいなぁ〜、と人のものを欲しがるのは、人間誰しにもあります。ヨセフを妬んだお兄さんの気持ちが理解できるのです。相手に対して、妬み嫉妬の一線を越えると、ヨセフにしたような仕打ちをしてしまいますが、そうならないように私たちの心を見張りましょう。
2.奴隷という身分による精錬(創世記39:1〜4)
「ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。」
(詩篇119:25)
「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。」
ヨセフはお兄さんたちに奴隷として売られてしまいます。これまで族長の息子という立場から、奴隷という使用人の立場になってしまいました。ほとんどの人が、環境がマイナスに変えられるとストレスをかかえると思います。その環境や立場を受け入れることもまた、信仰が精錬されるための試練となります。それが自分にとって好ましくない状況であればあるほどです。
ヨセフは、その奴隷という状況がいつまで続くのか全く予想できなかったことでしょう。ヨセフのストーリーを知っている私たちは、ヨセフには最後に神様によって大逆転が待っていることを知っていますが、当の本人はエジプトの総理大臣になることなんて想像もできないことです。そうなのです。私たちが試練に会っているときは、苦しさ故に、それがなぜ起こっているのかがわかりませんし、神様のご采配であるという信仰を持つことは容易いことではありません。しかし、1ペテロ1:7には、「イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」と書いてあります。聖書は、信仰の試練は必ず称賛と光栄と栄誉になるということを約束しているのです。ヨセフもそうでした。ですから、今訪れている試練がなぜ起こっているのか受け入れがたい状況があったとしても、神様は必ず報いてくださるという信仰を持ち続けていきましょう!
【横路伝道師メッセージ】
3.信頼を失うことによる精錬(創世記39:19〜20)
「主人は妻が、『あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。』と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。」
ヨセフは、ポティファルの家で財産をすべて任せられるほどの奴隷になっていました。神様が共におられたからです。しかし、ポティファルの妻が彼を誘惑してきました。ヨセフはそれをちゃんと断ります。エデンの園でもエバが誘惑されました。エバは蛇の誘惑に同意してしまいました。しかし、ヨセフは同意しませんでした。イエス様も、サタンの誘惑に同意されませんでした。ヨセフは神様にしっかりとつながっていました。
ヨセフは、ポティファルの妻の誘惑に立ち向かいました。しかし、財産まで任せてくれていた主人ポティファルの信頼を失ってしまいました。それは、誤解でしたが、とても心が痛んだと思います。
(詩篇27:9)
「どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」
ヨセフは、愛されていた息子の立場から、ねたまれて奴隷となり、更に陥れられて監獄に入れられました。そこでも彼は約10年近く忍耐しました。そこでも彼は祝福されて、監獄全体の支配を任される立場になりました。暗いじめじめした監獄で、ヨセフは忍耐をしました。忠実になすべきことを続けたヨセフに神様は祝福を与えられました。私たちも、辛い時に不平不満を言うのではなく、そこでなすべきことを忠実にしていくなら、神様に祝福されるのです。
4.応答がないことによる精錬(創世記40:20〜23)
「三日目はパロの誕生日であった。それで彼は、自分のすべての家臣たちのために祝宴を張り、献酌官長と調理官長とをその家臣たちの中に呼び出した。そうして、献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手にささげた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」
ヨセフが監獄で、献酌官長と調理官長の夢を解き明かして、その通りになりました。そして、パロに伝えてくださいと頼んでいたのに、すっかり忘れられてしまいました。
しかし、その後パロが夢を見て、誰も解き明かせずに困っている時に、献酌官長がヨセフのことを思い出したのです。そして、ヨセフはパロの夢を解き明かし、その対策まで示したので、パロはヨセフを全ての権限を持った総理大臣に任命しました。そしてエジプトはききんを乗り切ることができ、ヨセフの一族も助かったのです。
ヨセフが献酌官長に忘れられていた2年間は、(詩篇42:5)のような心境だったと思います。
(詩篇42:5)
「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
待つには忍耐がいります。ヨセフは苦しい所を通りましたが、すべての試練は最後に益と変えられました。彼の従順さ、知恵、柔和さ、管理をする力、賢さ、これらは主が彼と共におられたとはいえ、すべて長い苦しみの経過の中でつちかわれたのです。
時を忍耐して待つということが必要です。神様からの答えがない時に、「まだですか。いつまでですか。」と私たちは思います。しかし、神様は、最もタイムリーな時に答えられます。ヨセフが答えられたのは、パロが夢を見た時でした。その時に献酌官長がヨセフのことを思い出されなければ、タイミングを逃したかもしれません。最高の舞台まで、神様はヨセフを監獄にとどめられたのです。「神のなさることは時にかなって美しい。」(伝道者の書3:11)とあるように、神様は一番良い時に応えてくださるのです。
私たちの多くの願いはまだかなっていません。再臨もまだ来ていません。しかし、今日は再臨に一番近い日です。まだ応えられていない私たちの祈りがあります。しかし、その祈りに応えられるのに今日が一番近い日です。だから、忍耐をしましょう。イエス様が十字架で忍耐されたように、私たちも忍耐して主を待ち望みしょう。
■2019年4月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
希望を生み出す忍耐
up 2019.4.7
主題聖句(ローマ5:4)
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
健全な忍耐は、希望を生み出し、心をゆがめてしまうことはない。
「主が来られるまで耐え忍ぶ」というテーマのもと、三ヶ月が過ぎました。今年の主題聖句(ヤコブ5:7−8)のみことばを見ますと、「収穫を待つ」とは言わないで「雨を待つ」と表現されています。
秋の雨や春の雨が降らないと、収穫の時期になっても麦の穂の中に実が入りません。実りある収穫のための準備として、秋の雨、春の雨は必要なプロセスなのです。そう考えると、私たちが耐え忍ぶのは、そのプロセスを一つ一つ進めてキリストの再臨の時に備えていくというふうに考えてもよいと思います。
今年は、耐え忍ぶことをもって、ゴールであるイエス様が来られるのを待ち望んでいこうという一年です。
一般的にも、忍耐強い人は、品性が練られ、立派な人格を備え、否定的でなく前向き肯定的な希望の歩み方をしていると考えられています。
皆さんはいかがでしょうか。今週の主題聖句(ローマ5:4)のみことばにあるような忍耐を経験してこられたでしょうか。もしくは、そのような経験をしてこられた人々を、知っておられるでしょうか。
今日のみことばからのポイントは、「希望を生み出す忍耐」です。
私たちはじっと我慢して耐え忍ぶ時、心や性格、考え方が歪んでしまうことがありますが、それは本当の忍耐ではありません。健全な忍耐は、品性と希望を生み出します。
今日はこの「希望を生み出す忍耐」を、ヨハネ9章の「生まれつきの盲人の話」から見ていきたいと思います。
1.自己受容の忍耐(ヨハネ9:1−3)
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問していった。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」
A)「生まれつき〜」という現実をどう受け入れるか?
「生まれつき〜」という時、人種、性別、持って生まれた容姿容貌など、自分の努力ではどうにもならないことが私たちにはあります。それが良いか悪いかは、回りとの比較によることが多いと思います。皆さんは、生まれつきのものを、どのように受け止めておられるでしょうか。
受け止めがたい自分自身があると、葛藤が起こります。心に起こる葛藤を耐え忍んで、否定的、悲観的にならないで、前向きに「これでいいんだ」と思えるなら良いのですが、逆に、いじめなどがあって、希望のない未来を悩んで、鬱になる、自死を選ぶという悲しい出来事が起こることもあります。
否定的な心との葛藤を通して、それに勝利して「いや、希望がある。私には明日がある。人はどうこう言おうと、私は私だ」と受け止めて、耐え忍んでいけることが「自己受容の忍耐」です。
B)原因や理由がわかっても解決できないことがある。
(ヨハネ9:1−3)で、弟子たちは、この人が盲目に生まれついたのは誰のせいですか?と、イエス様に尋ねています。
人は問題があると原因や理由を追求しようとします。しかし、原因がわかったから安心するとは限りません。なんで?と反発したり、解決できないまま悩み続けたりします。
C)すべての人の存在目的は「神のわざがあらわれる」ため。
イエス様は、原因や理由は大切なことではなく、神のわざがこの人に現れることが大切と語っておられます。
神の存在があってこそ、自分は欠点があっても、人と違ったとしても、他の人よりも足らないことが多くあったとしても、神のわざが現れるためだと思えば、希望を持つことができます。神様の存在があってこそ、自己受容も出来るようになるのです。そこからがスタートなのです。
最近ネットに取り上げられた記事ですが、クローン病という難病のため、人工肛門をつけておられるイギリスのエイミー・ルースキーさんといわれる19歳の女性の方が、ご自身のフェイスブックに投稿しておられました。投稿した理由は、「自分と同じような状況の人が、勇気をもって前向きに生きて欲しいから」ということでした。そして、「自分はこういう状況になっているけれど、その病気を恥ずかしいとか、後ろめたく思ったりすることは全くありません。」と言われます。その理由を彼女は次のように書かれていました。
「病気の人にわかってもらいたいのは、病気でもあなたのことを愛してくれる人がいるし、すばらしい人だと思ってくれる人がいるのです。結局大切なのはその人の個性ですから。」
このように自己受容できるまでには彼女も悩んだことでしょう。そして悩んでも解決がないなら、むしろ未来に向かって進んでいこうという答えを出されました。それは「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出した」と言えるのではないでしょうか。
彼女の場合は良かったと言える例ですが、忍耐が曲がってしまうと、生きる希望がなく悲しい結末に追い込まれる、ということになる人もおられるかもしれません。病気であってもなくても、何かのことで悲観して、引きこもりや鬱になる方がおられます。
ここで彼女が大事なこととして言っていることは、「あなたのことを愛してくれる人がいること、すばらしい人だと思ってくれる人がいるはずだ」ということです。そこに気がつかない忍耐は、希望のない忍耐になってしまいます。
私たちは、天地を造られた神様(イエス様)が私たちを愛してくださっていることを知っています。十字架の歴史的事実を通して、たとえ全世界があなたの敵となっても神様はあなたの味方となり、あなたを愛して、あなたのことをすばらしいと言ってくださいます。罪人だけれど、あなたは私の目に高価で尊いと、神様は見てくださっているのです。「だから、これでいいんだ、このまま明日に向かって生きていっていいんだ」と希望が湧いてくるのです。
健全な自己受容をして生きていくためには、神様の大きな支えの存在、もしくは大きな愛に支えられるということが大事なことです。
皆さんもぜひ否定的になったり悲観的になった時は、神様の愛があなたを包み、神様の心があなたに注がれて、あなたを通して神のわざが現れるためなんだと、神様が期待しておられることを思い出していただきたいと思います。
2.希望は愛を信じ続ける忍耐から生じる(ヨハネ9:6−7)
「イエスはこう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」
A)イエス様の行為に対して、どう思っただろうか?
「何か」を目に塗られたとき、否定的な人だったら、「何するの!ちょっと、やめて」と、ひいたかもしれません。盲目の彼は自己受容出来ていて前向きな人だったので「何?何か薬でも?」と前向きに受け止めました。
B)イエス様が命じられたことばに、何を思っただろうか?
盲目に生れついたことを受け入れることができず否定的になっている人だったら「シロアムに一人で行けだって?連れて行ってくれるの?なんだ、この人は、バカにして」と思うかもしれません。
自己受容出来ていた彼は「目に塗ったあれは、きっと何かの治療にちがいない。洗ったら見えるようになるのかもしれない」と思ったでしょう。そして、見えないことにはもう慣れていたけれど、見えるようになるかもしれない、見えるようになりたい、そんな一筋の望みを心に描くことができました。
私たちも神様から聖書のことばが示されたときに、またメッセージで聖書のことばが語られている時も、いろいろに心は反応します。
自己受容出来ている人は、神様にあって、そのことばを前向きに捉えていくことが出来ます。私たちは、罪を犯さないでは生きることの出来ない生まれながらの罪人であることを受け入れ認め、そんな私を愛してくださっている神様がおられるのだと、そこに期待をもって、未来に希望を抱いていきます。
自己受容できてない人は、自分に対して否定的、悲観的な考え方を持っていますから、どんな励ましも慰めも受け入れることができません。自己受容出来ないことが、希望を持てない原因となっているのです。皆さんは自分の人生に対して、色んな希望や期待があるでしょう。しかし、その前に今の自分自身を受容できているでしょうか。
ユダヤの社会では障害を持って生まれると、そこに何かの重い罪が働いているからだと思われていましたから、この盲目の人も色々言われて辛い思いをしてきたことでしょう。そんな中で誰かが、目に何か塗ってくださり、シロアムの池に行って洗いなさいと言ってくださったのです。自分に目を留め、助けようとしてくださった親切な人がいるんだ、と期待と希望を持つことができました
私たちもこんな罪人ですが、神の国の子、相続人としてくださるという約束を、神様はキリストを通して与えてくださいました。それを信じて今、天国に向かって希望を持って毎日を過ごしています。
人からどのように評価されようと、そんな人の言葉にめげずに「私は私、神様が愛してくださっているんだ」ということに、ぜひ自信をもって頂きたいと思います。
C)シロアムの池にたどり着き、洗うまでの心の動きは?
つまづいたり、転んだり、シロアムの池まで時間がかかったことでしょう。しかし、あきらめずシロアムの池に向かって歩み続けます。自分のことを気にかけてくださった誰か親切な方がいる、その親切を信じて、親切な言葉を聞いて、見えるようになると期待して、何度倒れても立ち上がり、シロアムの池に向かって行きました。
私たちのクリスチャン生活も色んな事にぶち当たります。いいことはないし、教会に行くのをやめようかなと思ったり、色々な疑問も出てくるかもしれません。しかし、イエス様は、最後まで(再臨の日まで)耐え忍ぶ者は幸いであると言われました。
私たちも、シロアムの池に行って目を洗うことを最後まで求めていく者は幸いであると受け止めます。
奇跡の一つ一つを通してキリストの再臨が間近であることを信じて今もあきらめずシロアムの池であるキリストの再臨を待ち望むために、まっすぐ一歩一歩近づいていくクリスチャン生活としていきましょう。
【デボーションポイント】
◎毎日が「黄道吉日」であると、キリストにあって受け止める。
「黄道吉日」何をするにも良い日。日柄の良い日。
縁起の良い日、悪い日と日本ではよく言いますが、私たちにとっては毎日が未来に希望のある日ですから、そういう日を過ごしていけるようにチャレンジしていきましょう。
【短歌】
春の花 一つ一つの 美しさ
見つける喜び 満ちる幸せ
桜の花一つ一つ、チューリップの花一本一本が、神様の造られた美しさを現わしています。
私たちも一人一人違った個性があり、一人一人に神様の造られた良いところがあります。
悪い所を見つけるのでなく、良い所を見つけるようにすると、「ああ、こういうところに神様のわざが現れてるなあ」と、心に幸せな気持ちが満ちてきます。
私たちに与えられている生まれつきの力が引き出されるような人生をチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
■2019年3月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
忠実な神への信仰と忍耐
up 2019.3.31
主題聖句(箴言25:13)
忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。
ポイント
『忠実な神への信仰と忍耐』
神への信頼と希望を持つ者は、神の約束を信じて命じられたことを忠実に守り行い続ける忍耐がある。
「忠実」は信仰の一つの行動の表れです。忠実さも続けなければ実を結びません。忍耐強くその働きをしていく、命令を守り続けていく、ということが必要です。皆さんはどのように、その忠実さを表しているでしょうか。
今日はノアのお話から「忠実な信仰」について、みていきたいと思います。
1.堕落した世界でのノアの忠実な信仰(創世記7:1)
「主はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。』」
A)敬虔な人はノアただ一人(創世記6:9−11)
「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤぺテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。」
ノアは、神に認められるほどに敬虔で、神と共に歩む正しい人でした。ノアの生きていた時代は、敬虔な人がノアただ一人、というような堕落した暴虐に満ちていた時代です。
創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」とも、述べられています。
アダムの罪以来、罪の性質が子孫に受け継がれていって、すべての人が正しい良心を失い、欲望の奴隷となって悪いことだけに心が向いていく、そんな時代になっていました。そこにノアと、息子たちセム、ハム、ヤぺテは生きていました。
私たちの今の時代の社会情勢もノアの時代に似ています。日本では数少ないクリスチャンです。教会を出るとクリスチャンはただ一人という状況も多くあります。そんな中で周りに影響されず敬虔な心を保って礼拝に来られた皆さんは、ノアのように「全き人」「神と共に歩む人」と言えると思います。
聖書で「全き人」と言うのは、行いが完璧な人という意味ではなく、神への敬虔な姿勢が完全であるということです。心が迷って不信仰になることがあっても、必ず神のもとに思いを向け直すことができる、これが全き心です。神を畏れるその心を神様は全き心として喜ばれているのです。
ノアも罪を持ったアダムの子孫ですから、堕落と暴虐の世界の中で影響を受けやすい状況だったと思われます。しかし、最後には心を神に向けて悔い改め、神に対する信頼と愛を失わないように自分の心を守り続けていく、この忠実なノアの信仰を、私たちも受け継いでいるのです。
不信仰な思いを持ってしまったから自分はもうダメだと、律法的な信仰を持つのでなく、立ち返ろうという信頼の心を持ち続けることが、信仰による義である、ということをもう一度心に思い起こしていただきたいと思います。
B)ノアに従う家族も恩恵を受けた(創世記7:7)
「ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。」
これは、使徒行伝の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という言葉に重ね合わすことが出来るのではないでしょうか。
獄中のパウロに起こった奇跡とパウロの言動を見て、良心が目覚め、敬虔な心が生じた獄吏は、悔い改めてイエス・キリストを救い主として受け入れました。その獄吏の家族は、主人(獄吏)のような体験をしたわけではないのですが、主人の言うことを信じ従って心開き、皆でイエスを信じたのです。
同様に、「箱舟を造って入りなさい」という神様の言葉を聞いたのはノアだけですが、そのノアの言葉を信じて、妻も息子たちも、息子の妻たちも一緒に箱舟を造って入った結果、みんな大水から救われて、新しい天地に入ることが出来ました。ノアに与えられた神様の約束と祝福を、家族も共に受け継ぐものとなれたのです。これはどういう意味でしょうか。
不十分な私たちであっても、指導者のみことばに対する信仰と神様からの導きを信じて、神が立てられた器として、その神様のおことばに従っていくならば、私たちも同じ恵み、恩恵を受けることができるということです。
預言者を預言者ということで受け入れる者は、預言者の祝福を同じように受けることができると、イエス様は言われました。
私たちが行いにおいて少々出来ていなくても、指導者を、神の立てられた大牧者イエス様を、信じて従うならば、私たちは不完全であっても、イエス様の相続される神の子、相続人としての地位、名誉、権威、すべての祝福を、イエス様と共に受け継ぐことができる、完全な救いを受けることができるということなのです。これは凄い恵みです。
一人の人(アダム)によって罪がこの世に入り、すべての人が罪を犯したという状況に置かれたけれど、逆に一人の人(イエス・キリスト)の義が、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての罪人は義とされると、パウロは教えています。
皆さんも自分の今の現状が少々足らなくても、大分足らなくても、ともかくイエス様のおことばですからと言って、ペテロのように信じて行なうことによって、イエス様を通して与えられた約束が私たちの上に成就するということなのです。
2. 忠実に箱舟を作り続ける忍耐
(創世記6:14−16、19−22)
「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを造りなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。」
ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。
A)箱舟の大きさは、全長135m、幅22.5m、高さ13.5m
B)家族8人で箱舟を作った。
C)作業の場所は、海辺ではなかった。
山の中に、家族8人で、手作業で木を切り出し、組み立て、数十年かけて、巨大な船を造る、動物を入れる…これは、尋常なことではありません。世間の物笑いともなったことでしょう。無理解、蔑み、迫害、失望、落胆、疲労いろいろあったと想像します。そんな中で、命じられたとおりに造り続けることは、どれほどの忍耐であったことでしょう。しかし、彼は神に忠実な心をもっていましたから、「造りなさい」というおことばを守り続けました。神様のおことばだからと信じることが、忠実な信仰です。忠実な信仰を守り通すのが、箱舟を造り続ける忍耐です。
私たちも、回りから色々言われながらも思われながらも、イエス様が再臨されるための準備をします。信仰の箱舟を完成させていきます。そんな神への忠実な心を忍耐強く保ち続けるということを、このノアの信仰と忍耐から学ぶことが出来ると思います。
私たちには、すでにキリストの十字架の預言の成就がなされておりますから、ノアの時よりもっと確かな証拠をもってキリストの再臨を待ち続ける、箱舟を造り上げ続けるということが出来るはずです。
私たちは一人ではありません。あきらめず、お互いに励まし合いながら歩んでいきましょう。
【デボーションポイント】
◎十字架の贖いこそ「忠魂義胆」の源である。
*「忠魂義胆」とは、忠義と正義を尊重する精神のこと。
神の存在を信じているからこそ、忠義と正義を尊重できます。
皆さんの忠実な信仰はどのようなところに表れているでしょうか。
礼拝に出席する、聖書を読む、祈るなど、それぞれあると思います。
続けることをやめさせる試みも来るでしょうが、そこで信仰と忍耐を働かせ、やめないで続け直して、あきらめず歩んでいきましょう。
【短歌】
春の虹 すぐ消えゆけど 数千年
神のあわれみ 消えることなし
春の虹は淡く、夢、幻のようにはかなく消えていきますが、虹の契約に込められた神様のあわれみは、消えることなく今も私たちの心に注がれ続けています。
■2019年3月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
忍耐を働かせる
up 2019.3.24
主題聖句(ヤコブ1:3)
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
信じているみことばを実現に至らせるのは、忍耐を働かせることである。
「信仰がためされる」という部分を「信じているみことば」と捉えて考えました。それは、そのみことば通りに自分の生活に実現して欲しいと信じていて、その信じているみことばが実現するまでは忍耐を働かせることが大事であるということです。
また言い換えるなら、信仰と忍耐は一対です。信仰があるところに忍耐があり、忍耐があるところに信仰があると言ってもいいくらいに信仰と忍耐は非常に関連が深いものです。
以前も忍耐については学びましたが、今日はさらに深く学んでいきたいと思います。長血の女を例に4つのポイントから見ていきましょう。この女性の記事は4つの福音書のうち3つに出てきます。それは、それだけ大事な教訓であるということを示しています。
1.長血の女(マルコ5:25ー34)
「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
この女性は婦人病ですが、12年も患うというのは大変なことです。
この記事は癒やしだけを言っているのではありません。今日は信仰と忍耐から見ていきたいと思います。
彼女の神への信仰は、イエス・キリストなら癒やしてくださるという信仰に表されています。まず、どうしてそのように信じるに至ったのかを見てみましょう。
A)福音を信じ受け入れる状況(25節から26節)
「医者からひどいめに会わされて」というところから、医者がヤブ医者であったということではなく、元々治せないということを知りながら、その女性のお金目当てに高い薬を売りつけたり、意味のない治療をしていたということがわかります。彼女の真剣に生きたいという願いにつけこみ、だまし続けてお金がなくなるまで利用したのです。本当に彼女は惨めな状況にありました。
そして、ついには彼女の周りには、お金も人も頼れるものは何一つないという状況になってしまったのです。
私たちは神様に癒やされなかったら次の方法があるというふうに考えてしまいがちです。
彼女は神様に頼る前に人間的な拠り所はすべて試みましたが、すべて悪い結果に終わってしまいました。そして財産もすべて失い、もう人は誰も信じられないという心境になっていたのではないでしょうか。失望しきっていたはずです。
B)忍耐を働かせる状況(27節から28節)
そのような失望の中で、彼女はイエスのことを耳にします。当時ユダヤ中にイエスのことが広まっていました。この方がメシアではないかと噂され、様々な癒やしや奇跡のことも聞いたことでしょう。人間を超えた御方であるということを彼女は知り、もうこの方に望みをかけるしかないという切羽詰まった思いから、イエス様だけにすがりたいという信仰を持って、群衆の中に紛れ込んだのです。
痛みがあるにも関わらず血を流しながらもイエス様の元に行くには、群衆という大きな妨げがありました。人間不信もあったでしょう。しかし、彼女はイエス様こそが救い主に違いないという確信をもって近づいて行ったのです。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからとありますが、もうその信仰だけをもって、命がけでイエス様に近づいて行ったのです。そして着物にさわるという一点に集中していたのです。
彼女はイエス様が来られたと聞いて、イエス様の元に行くために群衆を押し分け、持病の痛みをこらえながらもひたすら希望をもってイエス様のところに行きました。これこそが「忍耐を働かせる状況」なのです。信じていることを実行することが忍耐です。
ゴールインするまでは走り続けるというように、忍耐するとは行動し続けることなのです。信じていることを行動することが忍耐です。
行動しなかったら忍耐になりません。ただの我慢になります。
もし彼女が行動しなかったら「誰かイエス様をここに連れてきてよ。」と愚痴不平を言うだけで終わったことでしょう。
しかし誰も助け手がないという状況ですから、彼女は自分で動くしかないという中で、ただひたすらイエス様の元にたどり着くまで忍耐し続けたのです。立ちふさがる群衆を見て不信仰になりつぶやいたり怒ったりせず、ただ一心にイエス様の元に近づいていくというのが忍耐です。
フルマラソンで走り続けるのに、必ず苦しい時と楽になる時が交互にきます。苦しい時にひたすら我慢して走り続けると身体が慣れてきて楽になりますが、もし苦しい時に諦めてしまいやめてしまったら失格です。しかし、走れなくなっても歩いてでもゴールにたどり着ければ失格にはなりません。走り続けるのは我慢ではなくやり続けるという忍耐です。
これが神様の教えてくださる忍耐です。彼女は諦めませんでした。諦めないとは行動をとめないことです。ここに神の力を自分の内に受ける生きた信仰があります。
以前のペンテコステはとにかく告白を重視し「癒やされる。癒やされる。」と告白しなさいと言われました。しかし、言えば言うほど不信仰も湧いてきます。神様は不信仰をもったらいけないとは言われません。不信仰をもつのは罪人である私たちの当たり前の反応です。しかし、不信仰をもちながらも、この女性のように希望をいだきながら希望の行動を取り続けていくことが神様が望んでおられる神への信仰です。忍耐を働かせるというのは行動することです。イエス様が約束を果たしてくださるのならば、自分は何をしていこうかと考え行動していくことです。
イエス様が再臨されると信じているなら、そのように自分の生活も変えていくというのが信仰です。信仰は行動で表現されるのです。そのためには忍耐が必要です。
忍耐がもたないと思えるような時こそ、行動に表しましょう。いつも喜びという行動、絶えず祈りという行動、すべてのことに感謝するという行動です。
感謝の究極は賛美です。「感謝します。ありがとうございます。」と言うだけでは足りない時があります。例えば命を助けてもらうとか、そういう時は相手を褒め讃えるでしょう。その相手の人格や性質や、やり遂げてくれたことなど思いつく限りの称賛をもって褒め讃えるはずです。これが賛美です。
この日曜日に賛美を捧げるのは、神様への感謝の最高の表れです。
感謝できない時はイエス様の十字架を思って感謝を捧げましょう。私たちは救われているのです。いつでも天国に行けるのです。この世で楽をすることはできません。この世は訓練の場です。
神は私たちをキリストのように素晴らしい者にしようと練り清めてくださっています。私たちはこの人生において、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝せよ」というみことばを実践し続けましょう。これが忍耐です。
C)みことば(イエス様)の力を受けた状況(29節〜33節)
イエス様が意思的に力を流されなくても、忍耐を働かせて信仰をもってあなたの方から行動すれば、神の力が流れてくるという状況です。
D)なぜ癒やされたのかを説明(34節)
「あなたの信仰があなたを癒やしたのです。」とイエス様は言われました。この信仰は行動が伴っていました。どんな困難が肉体的に精神的に環境的に立ちはだかっていても、彼女はイエス様しか望みをもてないという状況の中で不信仰と戦いながら、お着物にさわれば癒やされるという一点しか考えずただ行動しました。これが彼女の忍耐を伴った行動であり信仰であったのです。この信仰があなたを直したのですとイエス様は言われました。イエス様が自ら憐れんで力を注がれたのではなく、みことばへの信仰が働き、その信仰により神様の力が彼女に流れ込んできたのです。
流れ出たことはイエス様にわかりました。着物にさわっただけで何故わかったのでしょう。イエス様の内なる力が着物を媒体として流れ出たのです。
つまりイエス様が意思的に癒やすと考えられていない時でも、忍耐を働かせて信仰をもってあなたの方から行動すれば、神の力が流れてくるという信仰の秘訣なのです。
信仰の行動をとることが忍耐を働かせるということです。信じ続けるとは忍耐を働かせるということが伴っています。そのために「失望落胆」が出発点になります。
【デボーションポイント】
◎「失望落胆」のときこそ、忍耐を働かせる好機である。
癒やしの約束のみことばを信じ、その癒やしを受取るためにあなたはどのような忍耐をし続けますか?どのように癒やしを待ち望む準備をしますか?
何回も挫折を経験するかもしれません。しかし挫折しても起き上がるのです。「義人は七度倒れても、また起き上がる」とあります。どんなに失敗が多くても、何度でも神様に信頼して立ち直ってやり直すという人が神様の前における義人なのです。
そして何度でも立ち直り忍耐を働かせ続けるときに、神様から力が流れてくるのです。
この長血の女の忍耐と信仰の原則に思いを巡らせ、信仰の行動である「いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝する」ことを続けていきましょう。
【短歌】
むなしさを しだれ桜に 励まされ
なえた心に 咲く花を見る
信仰の行き詰まりの中で、しだれた枝だけなら何の見映えもしないのに、花が咲くとこれほどきれいなのかと思い、自分のなえた心にも「神様を信じ続ける」という花を咲かせれば人々を喜ばせるきれいな花が咲くようになると信じて希望を持ち忍耐し続けましょう。
■2019年3月17日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)
喜び祈り感謝の忍耐
up 2019.3.17
主題聖句(第1テサロニケ1:3)
絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
【辻和希伝道師メッセージ】
1.たましいの救いを得ている喜び
(第1ペテロ1:8〜9)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
今年に入ってからのメッセージを振り返る中で、もう一度“喜び”について考えてみたいと思います。忍耐を喜ぶのではなく、喜びがあるから忍耐できるのだと思うからです。
私たちの喜びの原点は、救いにあります。イエス様の十字架の御業によって、罪人であった私たちの罪がゆるされ、天の書物に名が記されたことは、とてもすごいことです。聖書ではこの状態を「たましいが救われている」と表現しています。例え感情が喜んでいなくても、たましいが救われているので、たましいは喜んでいるのです。例え意思を働かせなくても、たましいが救われているので、たましいは喜んでいるのです。いつも喜んでいなさいとありますが、それは不可能だと思うかもしれません。しかし、たましいが救われているなら、いつも喜んでいることになるのです。たましいの喜びに、感情や意思が伴うなら、なお素晴らしいクリスチャンライフを送ることができるでしょう。
一人ひとりが救いの喜びをいつも体現できるなら、今度は自然と教会全体が喜びに溢れてきます。そうなれば、きっと地域にも喜びの余波が流れていき、ますます教会の素晴らしさを証できるのではと私は期待します。更には、教会にビジョンがあるならば、なお素晴らしいことでしょう。当教会には、神の魅力あふれる教会という一つのビジョンの柱があります。私はこのような教会を本気で目指したいと思うのです。一人ひとりが喜びに溢れ、教会が喜びに溢れ、ビジョンのある教会。そのような教会が地域の祝福となり、終末の時代に必要とされている教会であると思います。
【横路伝道師メッセージ】
2.なぜ喜び、祈り、感謝、忍耐するのか
(第1テサロニケ5:16〜18)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
◎なぜいつも喜ぶのか
1)キリストに私たちが救われたという事実があるから喜ぶ
例えば、死刑が確定している人がいたとします。その人が特別な恩赦によって赦され、自由にされたなら、その人は大喜びすると思います。そのぐらいのことが、私たちの人生に起こっているのです。
私たちはイエス・キリストを信じる前は滅びに行くものでした。しかし、主はそこから私たちを救ってくださり、永遠のいのちを約束してくださいました。天のいのちの書に私たちの名前が書かれています。十字架によって、すべての人に罪の赦しが与えられました。しかし、それを信じ受け取る者が救われるのです。私たちはその歴史上にあらわされた十字架の救いにより、喜びます。みことばの約束のゆえに喜びます。
2)愛されているから喜ぶ
私たちは、天と地を造られた神様が私たちを愛しておられるということを、聖書を通して知っています。私たちはとても愛されているのです。愛しているから、あなたのために死んでくださった方がおられるのです。それはイエス・キリストです。私たちはすごく愛されているから、喜ぶことができるのです。誰からも愛されていないと思っている多くの人々がこの世におられます。その人たちにも、この愛を知って欲しいと思います。
◎なぜ絶えず祈るのか
祈りは、常にすることができます。私たちの内にキリストが住んでおられるので、どこにいても、いつでも祈ることができ、交わりができるのです。このような神様は他にはおられません。
どのような祈りをしたらいいでしょうか。一つは「どうしたらいいのでしょうか。」と、主の御心を求める祈りをすることです。
もう一つは、御心を示された時に、それを行うことができるようにと祈る祈りです。「聖くありなさい。人を赦しなさい。互いに愛し合いなさい。」という神様の御心を示された時、したいけれど、できないとう葛藤が生まれます。そのような時、「どうぞ私の心を見てください。御心を行いたいけれど、できないのです。どうか助けてください。あなたと共にチャレンジしていきます。」と祈り、私たちは前進していくことができるのです。
◎なぜすべてのことについて感謝するのか
すべてを感謝するとは、悪いことをも感謝することができるということです。どのようなことが起こったとしても、感謝することはクリスチャンには可能なのです。なぜなら、神様は全てのことを益と変えてくださることができるのです。その時はわからなくても、後に「あのことは良かったのだ」と、プラスに変わった結果を見ることができます。全てのことは神様の愛の手の中にあるので、必ず最善をされる神様がおられるので、私たちはどのようなことが起きたとしても、感謝することができるのです。
*主イエス・キリストへの望みの忍耐
私たちには、未来への約束が確かにあります。しかし、そこにたどり着くまでは忍耐が必要です。まだ肉体があるので、「死んだらよっぽど楽なのに」と思ううちは、まだ今は忍耐をしなさいということだと思います。今日いのちを与えられているので、今日を生きなさいと言われているのです。種を植えたら、必ず収穫の時が来ます。私たちも、成長させてくださるのは神様です。あせらないことです。時が来ないと、その答えは来ません。私たちの時ではなく神様の時です。それまで忍耐が必要です。忍耐は、私たちを聖めます。かなかすを取り除いて聖められるまで、神様も私たちを忍耐して待っておられるのです。
私たちは再臨を待ち望んでいます。再臨の日に一番近いのは今日です。私たちは希望をもって忍耐することができるように備えられていることを感謝します。いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝して、忍耐の限りを尽くして待ち望みましょう。
■2019年3月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恐悦至極(きょうえつしごく)
up 2019.3.10
主題聖句(エペソ5:20)
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
『恐悦至極』(きょうえつしごく)
相手の厚意に大変喜び感謝すること。
喜びや感謝の気持ちを伝えたり、身が縮み上がるほど恐れ多い気持ちを表したい際に用いる謙譲語。
先週に続いて(エペソ5:20)から、感謝について見ていきたいと思います。神様は罪人の私たちのために、赦しを与え、永遠のいのちをくださり、ご自分の子とするために、御子イエス・キリストを遣わして、贖いの代価として差し出してくださいました。私たちは「恐悦至極」と言うほか無いような、神様からのご厚意をいただいております。この「恐悦至極」の感謝を、今日は、二つのみことばから見ていきたいと思います。
1.信仰を堅くして感謝する(コロサイ2:7)
「キリストの中に根差し、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
A)内容観察
救い主の愛をしっかりつかんで離さず、また注がれている神の愛を吸収して成長し、そして、キリストの福音への知識を増し加えることによって神への信仰を揺るぎないものとしなさい。私たち罪人へのはかり知れないご厚意に、恐縮するとともに、この上もない感謝をささげなさい。
信仰が堅く揺るがないものになっていく中で、強められることに比例して、自然と感謝も大きくなっていくものです。
感謝ができない時というのは、神様への信仰、信頼が不十分で、見えるものにいつも左右されている、すなわち信仰が堅くされていないという問題点があるかもしれません。どうすれば信仰を堅く出来るのか、見ていきましょう。
B)「教えられたとおり」とは?
(エペソ4:22−24)
「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
「古い人」を脱ぎ捨てて、「新しい人」を着なさいと言われています。私たちはこの意味がなかなか実感できなくて、実生活に適用しにくい悩ましいクリスチャン生活を送っていると言えるかもしれません。
「教えられる」とは、今出来ていないことが出来るようになるために、また、今悟っていないことを悟れるようになるために、教えを受けることです。望んでいることが実現すると信じて進んでいくことが「信仰」ですから、私たちは教えを受ける時、無意識に信仰を働かせていると言えます。
問題は望んでいるかどうかです。新しい人生をやり直したい、今の自分であり続けるのはいやだ、もっと変わりたい、という望みを持っているでしょうか。自己否定感の強い人は、努力しても自分は望むようにはなれない、良くなれないという思いをもって悩みます。しかし本音は、肯定的な自分になりたいという願いを強くもっているからこそ、そうなれないことを悩むのです。否定的な人ほど無意識に肯定的になりたいと願っているのです。
イエス・キリストはそういう自己否定のところから私たちを救い出して「あなたも出来る」と励ましてくださいます。過去が、今が、どうであれ、造り変えてくださるのは神様です。自分を変えようと自分で努力する人は難しいのですが、「自分にはできません。しかし神様、あなたにはできますから、私はあなたについて行きます」という心が神への信仰、信頼です。
私たちがあふれる感謝が湧いてこないのは、神への信仰が弱っていて、神様に期待が持てなくなっているのかもしれません。
(エペソ4:22−24)の「その教え」とは、「古い人」すなわち、神を認めない不敬虔な自己中心な、自分の思いや感覚で生きていこうとする生き方を脱ぎ捨てて、神に似せて造られた神の子としての「新しい人」を着ることです。どうして、そんなことができるのでしょうか。人間にはできませんが、神にはできるのです。罪に縛られていた私たちは、キリストの十字架の御業によって、罪から解放されて、神様と共に歩む新しい人生を、神様はすでに与えてくださっておられます。ですから、私たちは「新しい自分」に生きていこうと出発することが大事なのです。
信じて新しく生まれ変わっても、すぐにパッと成熟したクリスチャン生活を送れるということはありません。成長するには時間がかかります。その中で信仰が試されることによって忍耐が生じます。忍耐を働かせることによって信仰がさらに成長、成熟していくのです。
「古い人」を捨てて「新しい人」を着なさいと、神様が言われているのですから、そのようにしましょう。「古い自分」が出てきても、みことばを信じて、キリストとともに歩む「新しい人」を意識して歩むのです。その心の姿勢を保つには忍耐が必要です。なぜなら、古い人と新しい人が、私たちの心の中でせめぎあうからです。そこで信仰が試されます。そこで完全になっていない自分に落胆し失望してしまわないように忍耐を働かせる必要があるのです。「神様は今、新しい人を着ることを教えてくださっているのだ。」と忍耐を働かせて感謝しましょう。信仰は、現実を見ながら進むことではなく、未来を見ながら進むことです。
皆さんはどんな未来を期待して、今日、イエス様と共に歩む人生を選んでいるでしょうか。そこがはっきりしてくると、信仰を堅くして、あふれる感謝が生れてくると思います。
2.あらゆる場合に感謝の祈りをささげる(ピリピ4:6)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」
A)内容観察
すべてのことを働かせて益と変えることのできる方を信じ、あらゆる思い煩いを感謝のいけにえとしてささげましょう。そうすることによって、あなたがたが、どれほど神を愛し、信頼して願い事をしているかを知っていただくことができるのです。
神様は私たちがどれほど神を愛し信頼しているか、私たちの動機・本心を見られるお方です。
何か事があると、私たちはあれこれ思い煩ったり心配したりするのですが、(ピリピ4:6)では、思い煩わないで、それを感謝のいけにえとしてささげなさい、思い煩いを感謝の言葉で表現しなさい、と言われます。
「今、私はこのように思い煩ったり心配したりしています。しかし、この苦しいところを通った先には、必ずこの経験が将来の私の益となっているように神様は導いてくださるに違いありませんから、どのような結果も、今の状況も感謝して受け止めます。」このように、思い煩いを感謝に変えるのです。思い煩いを否定的に受け止めず、神を信頼して前向きに感謝して、時を待ちます。忍耐が必要です。
どんな試練も感謝して忍耐を働かせると、私たちは霊的にも精神的にも練りきよめられ、強くなり、何一つ欠けた所のない完全なものになっていきます。神様はそういう良い目的をもって、私たちの人生に起こる苦難や困難、問題を見ておられます。
ですから、私たちが感謝のいけにえをささげるとき、その忍耐は苦しい忍耐ではなく、喜びを伴う忍耐となるのです。
B)感謝をもってささげる祈り」とは?(へブル13:15)
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」
喜びがあり、感謝があふれてくると、それは神様をほめたたえる賛美となります。皆で共に賛美することによって、私たちの思い煩いや否定的な考えが、救われている喜びと愛されている感謝に変わっていき、神様をほめたたえる信頼の心へと強められていきます。
最初から賛美できない人は、イエス様の十字架の御業による罪の赦しと神の愛を感謝する祈りをささげましょう。そして神様は良き神様であるということを心に信じて、一つ一つの出来事に対して、あれも神様の恵みだった、これも神様の導きだったと、神様の愛と恵みを思い起こしながら、否定的思い、古き人の思いを変えていくことを通して、賛美が心のうちに湧き上がってきます。そして、まだ現実に実現していないことでも、必ず良くしてくださるにちがいないという喜びと希望が湧いてきます。これが神様が願っておられる「すべてのことについて感謝しなさい」という励ましの言葉と言えると思います。感謝することは神様への信仰の表れです。
神様にどういう信頼をもっているか、暗闇の中に光をもたらす神様であるという信頼をもっているかどうか、私たちは試されます。試されているそのときこそ、私たちは忍耐を働かせて、この試練と忍耐が私をどれほどキリストの姿に近づけてくれることかと、神様に期待して感謝しましょう。
【デボーションポイント】
◎「恐悦至極」の心を込めた祈りをささげる。
【短歌】
紅梅を 床に飾りて 見つめれば
イエスの御名に 恐悦至極
床の間にいけてある紅梅を拝見するとき、イエス様の尊い血潮を拝するようでありがたく、かしこみ喜び、慎んで恐悦至極に存じますと、主の御名をたたえて感謝します。
■2019年3月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
大義名分(たいぎめいぶん)
up 2019.3.3
主題聖句(エペソ5:20)
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
【大義名分】(たいぎめいぶん)
「ある行為をするための正当な理由や道理のこと。
また、人として守るべき道理や本文。」
神様の喜ばれる忍耐のあり方について、(第1テサロニケ5:16〜18)を基として、お話をしてきました。
「いつも喜びながら忍耐する。」「絶えず祈りながら忍耐する。」今日は、「すべての事について感謝して忍耐する。」という所に入っていきます。ポイントは「大義名分」です。
私たちには、父なる神に感謝する「大義名分」があります。私たちの個人的な感覚や意見や価値観によって、するか、しないかを決めるのではありません。大義名分があるから、今自分の気持がどうであれ、しなくてはいけないことなのです。
「神の子」「神の国の相続人」という身分を与えられた者が、必ず守るべき本分として、私たちは、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝するのです。
では、どんな「大義」の内容があるのか、みていきましょう。
1.主の御名によってすべてを父なる神に感謝する
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって感謝しなさい。」
A)「主イエス・キリストの名によって」
「主イエス・キリストの名」の中に、いつでも、すべてのことについて感謝するための原因や理由、大義名分があります。
B)「主イエス・キリストの名」という「大義」とは何でしょう?
(ピリピ2:6〜11)
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
私たちの罪が赦されるために、キリストは、神の身分を捨てて、人間と同じようになられました。私たちの代わりに裁きを受けて、ご自分の罪のない血を流すために、人となってくださったのです。どれほど私たちは神様に愛され、心配されていることでしょう。
そして、私たちのために、神の目から見ても、罪を一つも犯さなかった33年半の人生を歩んでくださいました。一つでも罪を犯すなら、その血は聖さを失うので、私たちの罪を贖うことはできません。また、ご自身がよみがえらされることもありませんでした。復活は義人であったことの証明だからです。
また、キリストが単に正しい人間であったというだけなら、誰か一人の人間の身代わりにはなれたかもしれませんが、全人類、全世界の贖いにはなりません。
神が人となられて流された神ご自身の血であるからこそ、人間のみならず、天地万物世界を贖うことのできる価値ある血潮となるのです。
私たちは、誰も払うことができないほどの最高額の代価(御子キリストの血)が支払われて、神様に買い取っていただいた者です。
それは御子イエス・キリストだけが成し遂げることのできた犠牲、聖い血潮のささげものであるがゆえに、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。これが、「主イエス・キリスト」です。
「主イエス・キリストの名」には、これらのこと全部が込められています。そういう理由・原因、大義名分があって、すべてのことについて神に感謝しなさい、と勧めておられるのです。
神があなたを愛して、罪の赦しを実現して、神の子、神の国の相続人としてくださっている、この真理(大義)があるので、嬉しくない時でも、私たちは喜び、祈って神様とコミュニケーションを持ち、どんなことでも神に感謝するのです。神をほめたたえるのです。
2 .主題聖句の内容観察(エペソ5:20)
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」
「時間や状況にかかわらず、物事のすべてに対して、私たちの罪を贖い神の右の座に着かれた王の王・主の主となられた方のお名前を「大義名分」として父なる神に感謝しなさい。主イエス・キリストの御名には、すべてを感謝に変える事ができる力と権威があるからです。」
イエス・キリストだけが、事を成し遂げ、十字架という結果を出されたので、その御名には力と権威があります。
全人類の罪を贖うための価値ある血潮は、聖霊によって身ごもった処女マリアから生まれたイエス様、ただお一人の血潮です。それは神の血、神のいのちです。
私たちの罪の赦しのために、神ご自身が流された血潮を、私たちは無視してよいものでしょうか。
私たち人間の行いによる罪は、イエス・キリストの十字架によって、すべて赦されています。しかし、十字架の尊い犠牲の御業を無視するものは、そのことのゆえに、さばきを受けます。
神様の成し遂げてくださった尊い御業に、少しでも応えていこうというのが私たちのクリスチャン生活です。
(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
良いことも悪いこともアクシデントも順調な結果も、神様がすべてのことを働かせて益とされるのは、キリストの十字架があったからです。
イエス・キリストを愛する人々、すなわち神を愛し、神の愛を信じる人々のためには、神は、イエス・キリストという大義名分をもって、すべてのマイナスもプラスに変えて下さいます。
たとえ地上ではマイナス100%であっても、死後においても神様の御業は続いて、永遠の世界では100%プラスとなるのです。
イサクの双子の息子、兄エサウと弟ヤコブの話が、創世記に描かれています。空腹を満たすため、目の前の豆の煮物が欲しくて、神様からいただく長子の特権を軽んじて、将来の祝福の権利をヤコブにやってしまったエサウは、後で泣いて後悔しましたが、叶いませんでした。 未来の祝福より今の食欲が大事だったエサウの子孫は、嫌われる民族となってしまいました。
私たちの未来は今日にかかっています。私たちの永遠は、地上での生き方、神の前にどのように歩むかにかかっています。
失敗の多い未熟な弱い私たちですが、神を愛して悪から離れたいと願う者のために、その失敗をもプラスに生かしてあげようと、神様は働いてくださるのです。なんと素晴らしいことでしょうか。ハレルヤ!感謝します!!
【デボーションポイント】
◎「主イエス・キリスト」という名にある「大義名分」について考えてみましょう。
【俳句】
ありがたさ 思い出させる 忘れ雪
3月、もう雪はふらないと思っていたのに、ちらほら雪が降ったりしますと、「忘れてた、まだ冬は残ってたんだ」と、気付かされます。
不満や否定的な思いが数々出てきたときには、思い出してください。私たちには神様に感謝すべき素晴らしい大義名分があることを。
感情的には喜べないことが周りに色々あっても、私たちの大義は、十字架という歴史的事実が示す「救い」と「神の愛」です。だから、どんなときでも、何があっても、すべての事に感謝できるのです。 |