■2019年2月24日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

一心一向2(いっしんいっこう2)  up 2019.2.24


主題聖句(ローマ12:12)
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 

 

 

【一心一向】
他のことに気を散らさず、一つの事に集中する事。
「一心」は一つの事に集中する事。
「一向」は一つの方向を目指す事。

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.患難と祈り
◎父の御名をほめたたえる祈り
(マタイ6:9)
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」
 今週は「絶えず祈りに励む」一週間を目指してまいりたいと思います。普段私は祈る時に心掛けていることがあります。それは(マタイ6:9)の「主の祈り」にあるように、父の御名をあがめる言葉を祈りの最初に入れていることです。自分の願いよりも最初に父なる神を
ほめたたえることを大切にしています。そうすることで、私自身が、神様の存在を自動販売機のような存在にすることがないのです。困ったときだけ神様に頼るのは、ご利益宗教の神様にしてしまうので、私はいつも心掛けています。
 
◎患難のときにこそ祈る…神様とモーセの関係
 しかし、私たちが祈る場面、特に真剣に祈る場面というのは、大抵が困ったとき、つまり患難にある時が多いのです。聖書に登場する人物と神様とのやり取りの中で、患難の時に祈る場面はたくさんあります。むしろそちらの方が多く描かれているかもしれません。モーセは、私たちと同じ人であるのに、比べられないほどの濃い人生を送った人です。モーセは、イスラエルの民からだけでなく、実の姉兄からも嫉妬を受けました。そんな時でもモーセは謙遜でありました。(民数記12:3)「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」
 人にだけでなく、神様の前にいつも謙遜だったのです。それは、普段から神様と密な関係にあり、患難な時であってもそうでなくても、神様に祈りを捧げていたのでしょう。だからこそ、患難に合った時には、神様はモーセの祈りに応えてくださったのだと思います。
 私は、自分の問題を素直に神様に祈ることをあまりしていませんでした。自分で解決しようとするからです。
 神様は私たちの抱える問題はご存知なのですが、それをあえて私たちから打ち明けて欲しいのです。モーセのように。
 患難に合うことは、決して嬉しいことではありませんが、患難の時こそ、私たちは真剣に祈るチャンスとなり、神様に心を向けさせるのです。普段の祈りの土台の上になされる、私たちの正直な問題解決を依り頼む祈りを、父なる神様は応えてくださらないはずはありません。アーメン。

【横路伝道師メッセージ】
2.絶えず祈りなさい
(第1テサロニケ5:16〜18)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
 祈りについて、質問形式で考えていきたいと思います。

◎なぜ祈るのか
*神様があわれみと恵みに満ちた愛の神だから
(詩篇119:68)
「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。」

(詩篇86:15)
「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。」
私たちはなぜ祈るのでしょうか。それは、神様が私たちに対して、あわれみと恵みに満ちた素晴らしい父親であるという理解から始まります。この素晴らしい神様が私たちに良いものをくださらないはずがありません。神様は私たちに良いものを与えたいと願っておられると信じることが大切です。神様を知らない人は、期待が持てないので祈りません。しかし私たちは神様に期待して祈ります。

*求めなさい、と祈りを待っておられる父だから
(マタイ7:7)
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」
「求めなさい」とは「祈りなさい」ということです。私たちは、主が求めておられるから祈るのです。祈りを待っておられるのです。神様は生きておられ、私たちに歩み寄ってくださり、側に来てくださる神様です。私たちの内に入ってきてくださる神様です。この神様が、聖霊や祝福をあげたいと願っておられるのに、なぜ求めないのかと言われているのです。私たちの天の神様は、祝福したいと思っておられる神様だから、祈るのです。

◎何を祈るのか
*神様の御心に沿った祈り…主の祈り
(マタイ6:9〜13)
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」
イエス様は、主の祈りを祈ることを教えられました。まず、神様の御名を賛美します。そして、天国が地上に来るようにと祈ります。それから、日々の必要を祈ります。その次が大切です。赦しを祈ります。自分も、他の人の罪を赦します。だから赦してくださいと祈ります。最後に、試練と悪から私たちを救ってくださいと祈ります。このような神様のみこころに沿った祈りをしたいと思います。

◎どのように祈るのか
*奥まった部屋、隠れたところで、包み隠さず祈る
(マタイ6:6)
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
ただ、どこか誰もいない所で祈るという意味だけではなく、私たちの心の中の秘密の部屋、隠れた部分で祈るという意味であると、先週辻先生が教えてくださいました。

*同じ言葉で数多く祈らない。
(マタイ6:7〜8)
「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」
 他の宗教のように、単純に同じことばを繰り返すだけの祈りではなく、神様はすでにあなたの願いや思いを知っておられるのだから、自分のことばで心を開いて正直に祈ることが大切です。

◎いつ祈るのか
*絶えず祈りなさい
・ダニエルは、一日に3度祈った
(ダニエル6:10)
「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」
 絶えず祈るのは、可能でしょうか。一つは、絶えずとはあきらめず、祈りをやめないということだと思います。また、心の中で祈りつつ歩む生活のことを思います。

・ある国王と、ある修道士の祈り
 中世のカトリックの国に、とても徳の高い王様がいました。敬虔なクリスチャンでした。ある時家来が王様に、「王様、あなたは一日何回お祈りしておられるのですか。」王様は少し考えて、「一日に一回です。」と言いました。家来がびっくりしました。王様は「朝起きて、神様の前にひざまずいて祈り、それから夜寝る前に祈る時まで、私はずっと祈っています。」と答えたそうです。国王は絶えず心の中で祈っていたのです。
 また、ある修道士の祈りとは、ブラザーローレンスという修道士のことです。彼は下働きの修道士でした。台所の仕事が専門でしたが、彼はいつも賛美し祈りつつ、その仕事をこなしていました。彼が亡くなった後に手紙が世に出て、彼が絶えず祈っていた人であることがわかったのです。彼は、「神様を礼拝するためにひざまづいて祈る時にも、台所でお皿洗いをする時も、同じです。」と言いました。

・私たちは聖霊の宮
(第1コリント6:19)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
 このように聖霊様が私たちの内におられるなら、いつも祈ることができるのです。神様との会話ができるのです。

◎いつまで祈るのか
*みこころを受け取るまで(確信するまで)
(マルコ11:24)
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
 私たちは必死で祈りますが、自分の願いがかなうように祈っていることが多いと思います。しかし、実際は神様のみこころは、そこにはないことがあります。自分の思い通りにしてくださいと祈る時、違う方法で答えられる場合、すぐには答えられないことがあります。
 また、神様はみことばでたくさんの約束をしておられます。それは私たちや周りの人たちを生かし、神様が栄光を受けるための方法があるのです。それから外れたことはなされません。
 祈って、そのことが成ると確信した時に、もう祈る必要がなくなるのです。イエス様はゲッセマネの園で苦しんで祈られました。しかし最後は、「わたしの願いではなく、父のみこころが成りますように」と祈られました。「神様のみこころが成りますように」と祈って、その通りになるという確信が来たら、祈りは終わります。自分の願いに固執しないで、神様が自分に一番良いことをご計画してくださると信じて、みこころが成りますようにと祈っていきましょう。

【デボーションポイント】
◎絶えず祈ることへのチャレンジ

 

 

 

 

 

■2019年2月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

一心一向(いっしんいっこう)  up 2019.2.17


主題聖句(ローマ12:12)
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 

 

 

 小栗伝道師が亡くなられて、今日で一年になります。彼女は本当によく祈っておられた器でした。数え切れないほどの兄弟姉妹のために祈り続けた方で、自分のことよりも何よりも隣人を愛し、隣人のために祈るという姿勢を一貫しておられました。その祈りの努めを終えて、走るべき行程を走り終えたと言っても過言ではありません。教会の奉仕、賛美、そして祈りにおいては彼女の右に出る人はいないと思えるほどの素晴らしい器でした。
 
 子どもを愛する親のように祈ってくださった彼女が召され、今度は私たち自身が祈っていくべき時がきました。彼女の姿勢を思い出しながら、絶えず祈るということを身に着けていただきたいと願っています。
 
 それで「一心一向」というポイントを挙げました。他のことに気を散らさず、一つの事に集中する事を意味します。
 
 祈りとなるとそれにのめり込んでいく、そのような祈り方を、彼女は朝早くから、また夜中でも必要があれば祈り込んでいました。
 
 この一心一向という祈りに励むために環境を整えることが必要になります。今日は2つ挙げます。ただ2つとも同じ意味になります。

1.隠れたところで祈る(マタイ6:6)
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
 
 神様は肉眼では見られないので、隠れたところでという表現で神様はどこにおられるかを示しておられるように思います。

A)どのような神に向かって祈るのですか?
 超越した存在、人間の存在をはるかに超えた方に祈ります。祈りはそういう超越した存在への語りかけです。そして聖書では、祈る時にはあなたの父に対するように祈りなさいとあります。私たちの神様は父親のような方です。

 しかし、残念ながら日本人の多くは父親像があまり良くなく、大変頑固だったり身勝手だったりします。それで父なる神として祈ることが難しい方もおられるかもしれません。でも、親であるということを覚えてください。私たちを生み育ててくださっている神様です。不完全な肉の親とは全く違う「完全」な親です。
 
 私たちを決して見放さず親としてとことん世話をし、ある時は厳しくある時は優しく、将来の子どもたちのことを思ってあらゆる犠牲をしてゆく親の愛を完全に持ち表した御方が私たちの信じる神様です。
 
 あなたの罪、借金を許すためにひとり子イエス・キリストという最も神様にとって価値ある存在を犠牲にしてまで罪人である私たちを救ってくださり、また同じ罪を何回も犯しているにも関わらず、悔い改め立ち返るなら何度でも赦してくださいます。私たちはいくら失敗しても神様の子どもらしく素直に悔い改めて、やり直すという心を持つならば、いつでも神様は赦してくださいます。

 しかし、悔い改めないならば赦されることはなく裁かれてしまい、未来はありません。あなたの未来のためにイエス・キリストは愛を持って身代わりとなり苦しみを受けてくださったのです。その犠牲を無駄にしないでください。

B)その方はどこにおられるのですか?
 隠れた所という意味は、人の目につかない所、被われていて中が全くわからない光のない暗い部分ということで、私たち本人でも気づかない心の部分、霊的な部分です。

 この世の人々は五感の中で感情や意思など心の部分はわかりますが、霊の部分はなかなか感じ取れません。肉の人にはほとんど気づかないような見えない闇の部分です。「神は霊である」と聖書にあります。
 
 あなたは自分の霊をはっきりと自覚することができるでしょうか。霊と心の境目はわからないものです。しかしその境目をはっきりとさせるのがみことばです。(ヘブル4:12)
 
 みことばを聞くことを通して霊と心の感情とを切り離すことができるのです。これは肉の思いだ、私の自己中心の部分だ、これは的外れの思いだと気づくのです。

 みことばを知らない時には自己義があり自分中心だったので、自分の思いや考え方が一番正しいと思い議論したりけんかになったでしょう。しかしみことばに触れ知識が増えてくると、客観的に自分の立場を肉の欲求なのか自己中心なのか神様を愛する心から出ている考えなのかを見分けることが出来るようになっているはずです。
 
 そして見分けがつくようになると悩みます。ある人は正直過ぎてうつになってしまいます。自分はなんと醜いのか、こんな自分は救われないと責めてしまうのです。神様はあなたを赦していると宣言されているのに、神は赦しても私は赦せないと葛藤してしまい混乱してしまうのです。しかしそうならないために私たちはみことばを信頼し、みことばが私自身であるというふうにぜひ受け止めてください。

 あなたの本当の姿はみことばです。なぜでしょうか。神の形として私たちは造られたからです。

C)「隠れた所」とは?
 霊です。私たちの霊とともに神はおられて、霊の部分から私たちを見ておられるのです。ですから24時間四六時中私たちを見ることのできる所に神はおられるということなのです。
 
 あなたの霊そのもののうめきを側で感じ取って「そこまであなたはうめき苦しみ神に近づくことを求めているのだな」と報いてくださるのです。ご利益宗教ではなく、私たちを訓練してくださっているのです。
 
 まだ幼い赤ちゃんにはすぐに応答されます。しかし成長してきたらだんだんと忍耐を教えられます。しつけの中で大事なのは「待つ」という忍耐です。(犬の調教で一番先に教えるのは「待て」です)その隠れた所、霊の部分を意識して祈りましょう。
 
 ですからいつでも祈れるはずです。しかし、私たちはすぐ側で見ておられる神様をなかなか意識できないで生活してしまいがちです。

2.祈りの家で祈る(ルカ19:46)
こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
 イエス様が宮で両替人や生贄用の動物を売る商売をしている人々に言われたことばです。
 彼らも最初は遠方から来る人々のために、便利なようにと普通に売っていたはずです。しかし「強盗の巣」とは堂々と強引に盗んでいくという意味であり、彼らが遠方から来た人々の弱みにつけこんで、不当に高額で生贄用の動物を売っていたことを暴いています。

 強盗のような商売をしている人はたくさんいます。正当な利益ではなく、それ以上のむしり取るような不当な利益をふっかけるような商売は強盗と一緒だとイエス様は言われたのです。

A)神殿は「祈りの家」

B)神殿とは?(ヨハネ2:19ー21)
「イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」
 
 神殿とは人のからだ肉体のことです。神殿は本当の神殿の予表であり、当の神殿とは私たちの身体のことです。そこが「祈りの家と呼ばれる」と書いてあるのです。あなたの身体の中で神の前に祈るとは、隠れた所におられるあなたの霊があるところに神の霊、聖霊が住んでおられてそこで祈りを聞かれるということです。
 
 「天のお父様」と視線を上に向けることがありますが、私たちが意識すべき所は内側です。

C)神殿としての「からだ」とは?(第1コリント6:19)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
 
 聖霊の宮、聖霊が住んでおられる所が神殿としての私たちの身体のことです。祈る時には内におられる神様を意識することが必要です。

 どうして祈る時自然に目をつぶるのでしょうか。一心一向です。内に向けて語ることばが祈りなのです。ですから集中して祈るために環境を整えることが必要になります。
 
 文明の発展とともに、五感に働きかけてくる様々な欲求を促す誘惑が多くなっています。祈りの時間も短くなりがちです。テレビの気になる番組が祈りの時間を変更させてしまったり、どちらを優先してしまっているのでしょう。そのような祈り方をしていては一心一向の祈りにはなりません。テレビが気になり心が離れている祈りになってしまいます。祈りに集中できず、祈りの答えも味わうことができません。そして、こんなに祈っているのに答えられないと諦めてしまったりします。
 
 答えが来るまであなたはどのくらい忍耐して待てるでしょうか。ただし余り祈ったことがない人が何時間か祈ったら、これで神様は祈りに答えてくださるだろうと思うとしたら、それは間違いです。

 祈りは取引ではありません。こうしたらこうしてもらえるというような考え方は的外れです。祈りとはそういうものではありません。そのような考え方は神様に失礼です。

 もう一度祈りについて考えてみてください。祈ろうと思えば、すぐに祈れる神殿を私たちは与えられているのです。これは本当にすごいことです。

 あなたの生活の中で、すぐに一心一向で祈れるように集中できる環境をつくってください。2千年前の文明文化が発展していない中でも、イエス様は祈りのために寂しい所に行って祈られました。それは誰にも邪魔されず集中して祈られるためでした。この21世紀私たちは工夫して祈る必要があります。

【俳句】
主を求め 聞こゆる御声 春の水

 季語は「春の水」です。春の訪れを感じるような暖かさをイメージさせる流れです。主を求め絶えず祈る時、祈りの中で神様のみことばが静かに与えられ、そこに父なる神様の暖かさを感じられます。そのような祈りを絶えずしていきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年2月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

誠歓誠喜(せいかんせいき)  up 2019.2.10


主題聖句(ピリピ4:4)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 

 

 

『誠歓誠喜』(せいかんせいき)
この上なく喜ばしいという意味。臣下が天子に書を奉るときに用いる言葉で、「歓喜」に「誠」を重ねて至上の喜びを表現した言葉。

 聖書の言う「忍耐」は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することであり、この3つをもってキリストの再臨を待ち望み、いろいろな信仰の試練を耐え忍んでいくということをお話ししてきました。今日は喜びについての2回目、「誠歓誠喜」がポイントです。
 
 「誠歓誠喜」は天子の存在そのものを尊敬し喜ぶ表現であり、誰でも彼でもに対する言葉ではありません。私たちが、天の神、主の主、王の王であるお方を喜ぶ時、「誠歓誠喜」と言うことができます。
 私たちを造り、いのちを与え、罪を贖ってくださったお方に、心からの愛と尊敬と信頼をもってあがめ、お従いする、そのような神様の存在そのものを喜んでいる心を表現する「誠歓誠喜」であります。

5.恵みによる救いの喜び        
A)(詩篇13:5)
「私はあなたの恵みにより頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。」

B)(詩篇31:7)
「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」
 「恵みに依り頼む」という状況は、恵みを施されることなしには生きていけない、言わば「もの乞い」の状態です。ただ、「恵みに依り頼む」というのは、こちらに目を向けてくださり、関心を持ってくださり、あわれんでくださり、恵みを施してくださる方がおられる、ということを喜ぶのであり、何をどれだけもらった、もらわなかったと喜ぶのではありません。
 私たちは誰からそのような施しを受けたのでしょうか。また、私たちは施しを受けるしかない無きに等しい罪人であるということに気付いているでしょうか。
 天地の主なる神が、最後は焼却されるだけのゴミための中から、キリスト(神の愛)を信じたというだけで救い上げてくださった「ゴミ」、私たちはまるでそのようなものです。自分の罪深さを自覚しているならば、小さな恵みであっても神様に覚えていただいていることを喜び感謝できるのです。
 この恵みは、神様がたくさん持っているから少し出して与えたというようなものではありません。ご自分の未来そのものであり、全財産そのものである方、最も尊い、最も愛するひとり子イエス・キリストのいのちを、贖いの代価として差し出してくださった、それほどの犠牲を払われて与えられた恵みなのです。
 ゴミのような小さな存在に過ぎない私たちですが、神様は、私たちのその悩みをご覧になり、私たちのたましいの苦しみを知って、あわれんでくださったのです。この恵みによる救いの喜びを私たちは忘れてはなりません。何をもらった、どれだけもらったというような話ではないのです。
 私たちはつい他人と比較してしまいます。「あの人はあんなに…、私はこれだけ…不公平だ」と、神様に対して思ってしまいます。与えられないはずのものを与えていただいた、それが「恵み」です。恵みは他人と比べるものではないのです。比べてはいけないのです。
 まして救いの恵みは、災いが毎日起ころうが、幸いが毎日続こうが、誰に対しても救いは同等に与えられています。「こんな罪深い自分が…」と思えば思うほど、神様が罪の赦しを与えてくださった恵みは、もっと大きく喜べるのではないでしょうか。
 もし、クリスチャンとしての喜びが少ないと思われるならば、「恵んでくださっている」ということを、軽んじているかもしれません。
 罪赦されて天国に行くために私たちに出来ることは、神様の愛をいただいていることを信頼すること、ほかに出来ることは何もありません。
 罪ある者が何をしても、罪は残り続けて、裁かれなくてはなりません。赦されているということは恵みなのです。その幸せを実感してください。

6.みことばによる喜び 
A)(詩篇119:162)
「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」
 聖書を読んでも何も感じない、何もわからない、だから読まないという人がいます。みことばは、「大きな獲物」をみつけるようなものです。漁をしても狩猟をしても、いつも大きな獲物を得るということはありません。しかし、やめてしまっては自分も家族も飢え死にです。
 私たちのたましいの糧である聖書を、分からないからと言って読むのをやめてしまっては、あなたの霊は死んでしまいます。「おー!これは私への神のみことばだ!今日大きな獲物を見つけた!」と感動する、そういう聖書のみことばに出会うために、あきらめず読み続けましょう。そうすれば、小さな糧もありがたいと、小さな獲物も喜べるようになります。収穫を得るか逃すか、皆さんのとらえ方次第です。

B)(詩篇119:143)         
「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかし、あなたの仰せは、私の喜びです。」

C)(詩篇119:47)            
「私はあなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。」
 窮地に陥っている時に助けのことばをいただくと、萎えた気持も奮い立ちます。そのように不幸が、不信仰が、悪霊が、病気が、襲いかかっている時に、神様のおことばをいただくことは大きな喜びです。
 「何も奇跡はおこらないし、みことばもわからないし」と言って、クリスチャン生活をあきらめていませんか。それは、せっかく神様を信じたのに、そのいのちの輝きが奪われるような状況になっているのです。
 「神のことばは生きていて力があります。」(へブル4:12)神のことばに信仰を持たないといけません。みことば自体が人格をもってあなたの人生、あなたの心に関わってくださるのです。それを不信仰で拒んでしまい、単なる言葉だと思ってはなりません。神は、ことばなるお方です。神のことばは永遠のいのちを持っています。あなたの苦難と窮乏の状況を乗り越えさせてくださる、力あるおことばなのです。
 このようなみことばの喜びの体験が、みことばを愛する喜びへと変わっていくのです。

7.聖霊による喜び    
A)(ローマ14:17)
「なぜなら、神の国は飲み食いの事ではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」

B)(第1テサロニケ1:6)
「あなたがたも、多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者とになりました。」
  聖霊による喜びとは、人格をお持ちの神様のおこころにふれる体験であり、言葉では説明しにくいものです。
 皆さん自身が、神様に近づいて、神様を求めて、神様と交わり、よく祈ることです。その中で神様と問答します。心がいろいろ探られます。それが交わりにつながります。それを進めていくと、神様の御霊があなたの魂に触れてくださいます。
 そして、無条件に真の友人を信頼しつづけるという心境になります。それによって神様のおこころが伝わってくる喜び、愛の心に触れられる喜び、「聖霊による喜び」を体験します。
 しかし、そこまで深めないうちに私たちは、スポーツだ旅行だと気分転換をしてしまうことが多いのです。人によって体験の差があるでしょうが、皆さんも続けて主を求めていっていただきたいと思います。
 
 「恵みとみことばと聖霊による喜び」についての私(辻師)の体験を証しさせていただきます。
(ローマ8:31−39)
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちはほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私達を愛してくださった方によってこれらすべてのとの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
 これは「大きな獲物」を得た喜びとなる私のみことばでした。信仰生活を送る中で、「愛されていなのではないか」とか、「私は神様を愛しているのかな」とか、色々な疑いや不信仰な思いが出てきます。肉の自己中心な心との葛藤、きよい良心がいつも咎めを持つ、弱いクリスチャンでした。「私たちはほふられた羊とみなされた」とあるように、右にも左にも行けない、ほふられる道だけが前にあってそこに追いやられる羊のようでした。
 まるで負け組の人生のように見える、そんな状態であろうとも、パウロは言います。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません」
 あなたがどう思おうとも、あなたを愛する神の愛から、あなたを遠ざけるものは一つもないのです。勝手にあなたがいろいろと否定的に考えて不信仰になって遠ざかっているだけなのです。これは素晴らしいみことばです。
 どんなクリスチャン生活の問題がおころうと、私たちの主イエス・キリストの愛から、私たちを引き離すことはできないのです。「引き離せない」と言われているのなら、その愛にゆだねてしまえばいいのではないでしょうか。
 こうして私は、みことばの獲物を得ました。ハレルヤ!神の恵みです。そしてこのみことばは聖霊様の働きとして、私の心に大きな励ましと希望と力を湧き上がらせてくださったのです。
 
 喜びはあなたの内に潜んでいます。後はそれを引き出すきっかけです。あなたが神に目を向け続けることをあきらめなければ、必ず今日の三つの喜びを内側に持ち続け、この地上を去るまで喜びの忍耐をもって過ごすことができるのです。辛いこと、困難なこと、苦しいことがあるかもしれないけれど、喜びがあるから耐え忍ぶことができるのです。

【デボーションポイント】      
◎私たちの喜びは、目先を見ての喜びではなく、永遠を見ての喜びである。
 目の前に起こっている出来事によって喜ぶか喜ばないかではなく、永遠を見て、もっと先を見て、キリストの再臨というゴールを見て喜ぶのです。

【俳句】 
みことばの  約束信じ  春を待つ

 2月のこの時期は、もう春が目の前まで来ているようです。
 みことばの約束であるキリストの再臨ももう間近、今はそういう神様の季節なのです。春を待つように、キリストの再臨がくるまで耐え忍んで待ちましょう。

 

 

 

 

 

■2019年2月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

歓喜抃舞(かんきべんぶ)  up 2019.2.3


主題聖句(ピリピ4:4)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 

 

 

『歓喜抃舞』(かんきべんぶ)
喜びのあまり手を打って舞うの意。大喜びする事。
 
 神が喜んでくださる私たちの信仰の歩み方として、先週は(第1テサロニケ5:16〜17)のみことばをご紹介いたしました。
 今年は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する、そのことをもって忍耐し、神への信仰を保ち続けることに専心していきたいと思います。
 
 今日はその中の一つ目「喜び」について、今日と来週の2回に分けて、皆さんと一緒にチャレンジしていきたいと思います。
 
 主題聖句にあります「もう一度言います。喜びなさい」と言われる「喜び」とは、どういう喜びでしょうか。
 それは「歓喜抃舞」(かんきべんぶ)、喜びのあまり手を打って舞うほどに、大喜びするような喜びです。
 
 私たちは歓喜抃舞する状況に置かれてるのに、辛いことや不信仰なことに目を向けて問題にばかり気をとられて、喜べないでいるのではないでしょうか。
 
 そこで今日は喜びについて6つのポイントから4つを見ていきたいと思います。

1.(ルカ10:20)         
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

◎天に名前が書き記されていることが「歓喜抃舞」
 私たちは大事なことを喜ばないで、悪霊を追い出した、病気がなおった、というようなDoing の結果を真っ先に見て喜びます。
 
 (ルカ10:20)は、Doing の成功した例ですが、否定的な例で表現しますと、「信仰が働かないで落胆ばかりしているけれど、あなたがたは天に名が書き記されていることにどうして心を向けずに、不信仰で悲しんでいるのですか」という意味合いを持った言葉であると言えます。Doing にとらわれると、神様がしてくださったことに目が向きません。
 
 この世の生活の中では喜べないような沢山の出来事が起こります。特にクリスチャンには、神の前で誠実に熱心に歩んでいこうと思えば思うほど、住み辛い世界です。だから苦しい所ばかり見て喜べないのです。
 
 大事なことは「あなたの名が天国に書き記されていること」です。あなたは選ばれたのです。キリスト・イエスを信じるということだけで、天国を相続するにふさわしいものだと神様が決断し、選んでくださったのです。
 
 私たちは、Doing (行い)で人を測りますが、神は心を見られます。誠実な心でキリストを信じているというその心、それが天に名前が記されるただ一つの条件です。自分は記されているのかな…いないのかな…と迷う時、それは自分のDoing (行い)で、自分を測っているからではないでしょうか。
 
 自分の行いはどうであっても、救い主イエス様が私の罪のために十字架にかかって苦しみを受けられ、命を捨てられ、三日の後によみがえられた、そのことを信じる決意・覚悟を持っていることだけが、天国に入るために必要なことなのです。  
 
 私たちはキリストを信じました。その決心のしるしとして、正しい良心の神への誓いとして、洗礼を受けました。迷ったときは洗礼を受けたことを思い出して、あなたの決心の支えとしてください。
 ただ、クリスチャンとしてさらに成長するために「行い」も必要になります。しかし神様は、みことばを実行したけれどみことば通りにならないという結果を見て、あなたを失格だとは思われません。
 
 ただ、「みことばを実行する人になりなさい。いろんな結果が出るでしょうが、ともかく信じているのなら、やってみなさい。」と言われているのです。 
 
 迷う心があったとしても、自分は信じて洗礼を受けたのだと思い起こして、「だから私は信じるほうの決断をしていこう」と、決心を揺るがされないようにしましょう。天にはあなたの名が記されているのです。これは喜ぶべきことです。自信がない、自分はダメだ、失敗したと、自分からあきらめてしまわないようにしましょう。神様は、あなたが自分の行いではなく、イエス様の行なってくださったことを信じるというクリスチャン生活を、導いてくださっています。前進的な信仰の決心の強さを、神様はあなたに訓練として与えてくださいます。そこに忍耐が必要となるのです。
 
 喜ぶということは一つの忍耐の表現です。不信仰な思いや感情と戦うときの忍耐として、「喜び」で戦うのです。
 私はイエス様を信じている!だから天に私の名前が記されている!ハレルヤ!!と、(ルカ10:20)のみことばをもって歓喜抃舞してください。

2.(ピリピ3:1)          
「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。」

◎主にあっての「歓喜抃舞」とは、もっとも安全な神の愛の中に留まっている事である
 私たちが、安定した神への信仰を保つことができる最も安全な方法は、主にあって喜ぶことです。この「喜び」が、神の愛の中に守られるという働きをするのです。
 
 主にあって喜ぶことの少ない人は、神の愛の中に留まっているようでいて、ちょっと外に出ているみたいな状況になってしまいますから、よけい信仰がふらついたり誘惑にあったりします。
 
 しんどいクリスチャン生活をしている人、不信仰に負けそうな人、主にあって喜びましょう。それがあなたがたの安全のためになるのです。ガタガタ道でなく平らな道になるのです。

3.(第1ペテロ1:8〜9)    
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」

◎「歓喜抃舞」は、キリストを信じて救われていることのしるし
 イエス様を信じて、心も行動もそれについていくようになりますと、「栄えに満ちた喜び」が湧き上がってきます。私たちの信仰生活の弱点は、信じているけれどみことばを行なうことが少ないことです。
 
 経験や理屈は横に置き、「イエス様が言われるのならやってみましょう」と、実行してみたペテロのように、とにかくやってみることが大事です。その結果、イエス様の大漁の奇跡を見せていただき、ペテロは安心して信頼してイエス様についていくことが出来ました。私たちも神様からのみことばに対するしるしをいただくと、さらに信仰が強くなります。
 
 イエス様のお言葉に従うこと、それが行いを伴った信仰です。これが神への私たちの信じている証しです。
 
 恐れないで、結果は神様にお任せして、みことばをとにかく行なってみて、結果は色々でしょうが、みことば通りの結果が出たら、喜びましょう。その体験を重ねていくことが、喜びがさらに満ち溢れていく大事なポイントです。「栄えに満ちた喜び」は、「信仰の結果」なのです。

4.(ピリピ4:4〜5)      
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」

◎再臨の近い今こそ「歓喜抃舞」するときである。
 また、寛容さの源は、再臨に対する「歓喜抃舞」にある、喜ぶと共に、寛容さも人々に知らせなさいと言われます。主の再臨が近いからです。寛容さの源、大きな心の源は再臨を歓喜抃舞する心です。主が来られることに大きな喜びと期待をもっている人は、心が大きくなり寛容になります。小さなことにクヨクヨしません。イライラしません。 
 寛容な心を持つためには、自分の利害とは関係なく、神様がこのような予定をしてくださっているということの「喜び」を持ち続ける、これが秘訣です。

【デボーションポイント】    
◎手を打って舞うような喜びを、主にささげましょう。

 次週の礼拝賛美の時には、歓喜抃舞の喜びを全身で表現できるようになりたいものです。

【俳句】  
みことばの  豆撒きこそが  福招く

 みことばの種を蒔く、すなわち、みことばを告白すると、聖霊様が働いてくださり、幸せがやって来てみことばの実がみのります。

 「多く蒔くものは多くを刈り取る」とありますから、みことばを多く告白していきましょう。

 

 

 

 

 

■2019年1月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

信忍仰耐(しんにんぎょうたい)  up 2019.1.27


主題聖句(ヤコブ1:2〜3)
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

 

 

 

【信忍仰耐】(しんにんぎょうたい)

愛の神を信じて忍び、約束してくださった神を仰ぎ見て耐えること。
「信じて忍び、仰いで耐える」(造語)

 聖書に書かれてあるように空中で再臨の主とお会いするか、肉体を離れて天に引き上げられて主とお会いするか、いずれにしても主とお会いするのですから、準備をしていこうということで、今年は「忍耐」をテーマに進んできております。
 1月の初めの3回は、忍耐の利点として6つのポイントをお話し致しました。「忍耐」は「耐え忍ぶ」という苦しいイメージではなく、それに勝る良いものがもたらされるということを見てきました。
 そして、今日の主題聖句(ヤコブ1:2−3)では、そういう良いものがもたらされる「忍耐」は、信仰が試されるような試練の時に生じるものなので、試練に会うときは喜びなさいと、勧められています。
 そこで今日のポイントとして「信忍仰耐」(しんにんぎょうたい)という4文字熟語を考えてみました。
 愛の神を信じて忍び、約束してくださった神を仰ぎ見て耐えるという「信仰と忍耐」を見ていきたいと思います。

1.神への信仰(へブル11:6)    
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

◎忍耐を生じさせ、神に受け入れられる信仰について 
 子どもは両親と共に育っていく中で、親を信じ敬い親の近くにいたいという気持ちと共に、親に要求することは何でも与えられるという思いが自然と生まれてきます。赤ちゃんの時から、泣いてお乳を求め、要求すれば与えられるという関係が無意識のうちに築かれているのです。
 神様は父なる方で、私たちはその娘、息子です。「求めること」は親子の関係において大事なしるしです。
 あきらめずに泣き続けてお乳を求める赤ちゃんを見ていると、私たちは神様に求めることをあきらめるのが、少し早いように思えます。それは、神様に求めなくても他に方法があると思うからです。しかし、本当にほかに頼るところがどこにもない状況の時は、やはりあきらめずに神に求め続けます。
 私たちはそのように親には最後まで求め続けるという関係が出来て育ってきています。
 それを私たちは「信仰」という言葉に代えて、「神への信仰を持っている」と言います。
 クリスチャンの神への信仰は、親子の信頼関係、愛の関係です。
 そのような神への信仰による、「忍耐を生じさせ、神に受け入れられる(喜ばれる)信仰」について、(へブル11:6)から具体的に3つのポイントをあげてみました。

A)神に近づく信仰
 都合のいい時だけ神様に近づくのではなく、いつも神様を意識し、神を信じる敬虔な心をもって、神に近づく信仰を、神は喜ばれます。

B)神がおられるという信仰
 人間が作った偶像の神ではなく、今この世界に存在する万物を創造された、唯一の真の神を信じる信仰を、神は喜ばれます。 

C)神を求める者には報いて下さるという信仰   
 神を求める真実な心を見抜いて、その心に必ず応えてくださるに違いないと信じる信仰を、神は喜ばれます。
 私(辻師)が未信者であったころの神概念は、すべてを超越した完全で唯一の最高の存在でありました。そして、「なぜ自分はここにいるのか?」「人生とは何か?」という自分の存在への問いかけを通して、いつも心が神に向いていました。
 そして神が真実で正しくきよい方であるなら、このような小さな者の祈りにも必ず耳を傾けてくださるはずと信じていました。
 よく考えるとノンクリスチャンの時にすでにこの3つの事が心に自然とあったことに気付きます。そのことにより神はクリスチャンを遣わして、私を信仰へと導いてくださったと、今になって思うのです。
 私たちは教会に来ているから神に喜ばれているのではありません。どんな信仰、どんな神への信仰を持っているのかが大事です。
 少なくともこの3つのポイントがあなたの心のうちにあるならば、今どんなに行いが出来ていなくても、今どんなに弱く心がフラフラしていても、神はあなたを喜ばれるのです。
 どんなに能力があっても、人間の考えや知恵で神を測ろうとするような、神を下に見るような傲慢な姿勢があると喜ばれません。
 神は想像以上の方であるという認識をもって、神を信頼していきましょう。
 そのような神に喜ばれる信仰から、神に喜ばれる忍耐が生じるということを次に見ていきます。

2.神に喜ばれる忍耐(第1テサロニケ5:16−18) 
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

◎どのようなときでも、神への信仰を保ち続ける忍耐  
A)いつも喜んでいる忍耐
B)絶えず祈り続ける忍耐
C)すべての事について感謝する忍耐
 (第1テサロニケ5:16−18)には、私たちにいつもこうであってほしいと望んでおられる神様の期待が述べられています。
 神様が喜んでくださる私たちの態度、姿勢は、信仰が試されている時も試されていない時も、いつも絶えず全てについて、喜び祈り感謝することです。
 ですから、信仰が試されて忍耐が生じた時も、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝するという、これが神に喜ばれる忍耐の表現です。
 「苦しいなあ・・。でも嬉しい!」「辛いなあ・・。でも神様はこういうところを通らせて私を磨いてくださって感謝です!」「もうあきらめて逃げたいなあ・・。こんな窮地に追い込まれて、そこまでして神様は私をきよめてくださって感謝します!」
 その逆境、苦悩を喜び、それをもって神に語りかけ、そのこと自体を感謝します。この3つが、神様が私たちに望んでおられる忍耐の仕方です。
 神が望んでおられる忍耐は、いつも喜んでいること。
 神が望んでおられる忍耐は、絶えず祈ること。
 神が望んでおられる忍耐は、すべての事について感謝すること。
 信仰が試されて生じる忍耐とは、このように前向きで明るく楽しい忍耐です。
 神を求める者には報いてくださる方であるという神への信仰をもとに、神に喜ばれる信仰は、喜びと祈りと感謝という3つの忍耐を生み出すのです。
 今日の主題聖句はこのことを語っております。

【デボーションポイント】   
◎神に受け入れられ、喜ばれる忍耐について考えてみよう。

【俳句】     
なにゆえに 花を咲かせる 寒牡丹   

 初夏に咲く牡丹を、人の手によって寒い冬に咲かせたものを寒牡丹といいます。寒くわびしい冬景色の中に大輪の牡丹を咲かせたら、どんなに心が温まるだろうと、誰かが思ったのでしょう。

 神様は、この世の人々が楽しんでいる時に、同じように私たちを華やかに咲かせるのではなく、その時は、私たちが神を信じて忍耐して待ち望み、世の中が冬の暗闇のようになった時にこそ、まるで灯台のように光り輝いて私たちが花を咲かせる歩みを、世の人々に見せたいと思われているのです。
 
 私たちは寒牡丹として、環境ではなく神様の愛によって花を咲かせる人生を歩むようにと、この終わりの時代に置かれているのだと思います。

 

 

 

 

 

■2019年1月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

忍辱負重(にんじょくふじゅう)  up 2019.1.20


主題聖句(ヤコブ5:7〜8)
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 

 

 

【忍辱負重】(にんじょくふじゅう)
  辱めを受けても耐え続け、重い責任を背負いながらも全うすること。

 今年3週目の日曜日です。主が来られる時まで忍耐することの良い点を挙げてきております。先々週2つ、先週2つ、今日も2つ紹介致しますが、この6つで代表されるのではないかと思います。
 忍耐は決して損することではなく、私たちにとって大きな益をもたらすものです。この世の人々の考えに影響されず、主が来られるまで忍耐強く神を信頼して歩むということに心を向けていきたいと思います。
 今日のポイントは、「忍辱負重」(にんじょくふじゅう)です。私たちは何らかの責任を負ってそれを全うするときに、周囲から反対されたり見下げられたり、心ない態度に気をくじかれて、そこまでして責任を果たさなければいけないのかと思うことがあります。
 しかし、主題聖句にあるように農夫も誰に何を言われようとも耐え忍んで、労苦を惜しまず農作業を続けます。自分のためだけでなく、人々の食のためという責任があるからです。
 クリスチャンも、救われた状況でこの罪の世界に生かされている責任があります。それは神の愛、キリストを証しすることです。
 唯一の愛なる神様が生きておられて私たちを愛しておられる、その愛を証しする責任が私たちのこの人生に与えられているのです。その証しをしなければ人々は滅んでいくのです。それほど大きな責任を負っているのです。
 クリスチャン生活を歩む中で受ける無理解や辱め、心ない仕打ちも、それを耐え忍んでこそ人々への証しのきっかけともなるでしょう。
 一人一人がそれぞれの力量に応じて、神様に愛されていることをしっかり証していく日々を目指していきたいと思います。

5.忍耐は訓練となる (ヘブル12:7)
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」

◎父が子を懲らしめるのはなぜ?
◎訓練を受ける目的を考える
 
 愛しているから父は子を懲らしめます。的外れ、自己中心を子が続けている時、その思いを打ち砕いてへりくだらせて、賢く判断していくということを教えるために父は子を懲らしめます。その愛の中には、立派な品性と人格、徳の高さを身につけてほしいという思いも含まれています。
 愛は今のありのままの状態を受け入れますが、同時に愛は成長と成熟を願います。いのちあるものは前に向かって進むものだからです。 今のまま現状維持というのは、生きているようでいて実は半分死んだようなものです。 
 私たちの教会も人数の規模で言いますとあまり変わっていませんが、その資産や活動の豊かさを見る時、以前から比べて前進していることがわかります。
 また信仰面で、霊的なきよめの点からも成長を見ることができます。メッセージを通しみことばを通し、生活の中で自分が罪深く未熟でいたらないものであるということを、年数を重ねるごとに気づいていくというのは、きよさに対して心を向けているからです。皆さんがへりくだることができているということです。
 神様は高ぶる者を退け、へりくだる者を高くしてくださるお方です。神様は傲慢で罪深い私たちをも愛してあきらめず、私たちを懲らしめてくださっているわけです。それが訓練なのです。
 成長するために訓練は欠かせないものです。わたしたちは忍耐して訓練を受けて熟練者となっていくのです。

◎訓練の実          
(ヘブル12:11)
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

★平安な義の実とは?
 「平安」とは動揺しないこと、確信にみちていること、「義」とは的外れをしていないこと、「実」とは行動・結果を出すことができることです。
 訓練を受けてきた人は、どのような状況が起ころうと、どのような環境におかれようと、冷静着実に対応できる心をもって、訓練してきたことを十分に発揮して結果を出すことができると解釈いたしますが、皆さんはいかがでしょうか。
 神様の訓練という意味で、皆さんが忍耐してこられた信仰生活は、いま神の前にどのような信仰として保たれているでしょうか。
 どのような状況にあっても神様を信頼して、未来に良いものを用意してくださっていると信じ続けて来れたのは、今までの信仰生活の訓練のおかげです。
 不信仰になったり、離れたくなったり、自分を偽っているのではないかという迷いを持つ時もあるでしょう。
 それでも神様は私たちを愛してくださっているという十字架を見上げて、耐え忍んで神の前に礼拝を守り続け、やがて平安のうちに、「信仰を捨てないでよかった・・」と思う日がくるのです。 
 そのような経験を通し、今後救われてくる方々の励ましになるように、皆さんが通ってきた「神様の訓練」「忍耐を働かせること」を、人々に励みとして証して頂けるようになっていただきたいと思います。

6.忍耐は神からの栄誉をもたらす  
(第1ペテロ2:20)
「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

◎誉れを受けるような忍耐
 神からの栄誉とは、「神に喜ばれる」ということです。身分の高い方が関心を持って私たちのことを見つめてくださり、私たちの忍耐を喜んでくださり、「よく耐えた」とお褒めの言葉をくださる、これが「栄誉」です。
 かつてカープは常に逆転負けするような万年下位球団でした。それが今では逆転勝ちのカープと言われています。苦しい状況を耐え忍ぶことのできた精神力の勝利です。
 カープはどこの企業にも身売りしない弱小市民球団です。負けても負けてもじっと耐え忍び、あきらめず応援する市民と、それに応えようとして頑張る若い選手たち。その健気さに心惹かれて、貧しく弱いチームだから応援しよう、共に戦おうというファンが増え、東京にまでカープ女子という女性ファンが生れ、リーグ優勝3連覇を果たしました。
 底辺の中で、いつか必ず花を咲かせるんだと耐え忍んできた結果としての今日のカープの「実」であると言えます。
 私たちも、今は芽が出たばかりかもしれません。しかし、いのちのみことばを心に頂いている者として、みことばは必ず私たちの人生の中で大きく育って実を結ぶと信じて、私たちの信仰に対する批判や見下しにも負けないで耐え忍んでいく時、そんなあなたを見て「私もキリストのもとに連れていってほしい」と、真理を求める人々が目覚め起こされてくるのです。
 世の終わりの時代、完全ではありませんが充分といっていいほどに神のみことばの福音が蒔かれてきました。
 今はそれを収穫するキリストの再臨の前です。ですから私たちは収穫する者として自分を整えていきます。
 キリストの再臨に備えるとは、救われてくる多くの魂たちの思いに対して、つまづきを与えないように私たちも整えていくことです。
 そのためには忍耐を完全に働かせることを通して、キリストのような徳の高い品性をもつことが出来ることを先週も学びました。
 自分のためだけでなく、真理を求め唯一の愛なる神様を求めている人々のために、私たちは耐え忍びながらしっかりと神を見上げて歩む歩み方を進めていきましょう。
 そんな私たちを見て神様は喜んでくださり、栄誉あるおことばをかけてくださるのです。

◎信仰の試練を耐え忍ぶ  
(第1ペテロ1:7)
「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」 
 スポーツやコンクールなど、栄冠を目指して訓練や練習をしていくものがあるように、信仰も試練を通して最後には称賛と光栄と栄誉を受けることができるものであると教えられています。それは目的ではありません。試練を通り抜けた結果として、人々がそれを評価してくださるのです。神様までも栄誉を与えてくださいます。
 忍耐と訓練を通り抜けてきたことを通して、誰の目にもあなたの内なるものが尊敬されるものに仕上がっているように見えるのです。
 忍耐も試練も楽しくはありません。しかし、測りがたい価値をもたらすための期間であるといえます。実際は苦しいけれど、それは喜びであると受け止め、それを通り抜けるようにこころがけましょう。

【デボーションポイント】   
◎この世界に対するクリスチャンの責任について。
 あなただけの人生ではありません。キリストをこれから信じてくる方々の信仰の歩みにも影響を与えるあなたの存在であります。
 神様から訓練を受けて、人々から称賛されるような忍耐の時期を通り抜けた結果として、「あなたの信じているイエス様に私もぜひお会いしたい」と言う人々が出てくるのです。
 この世界の人々は真実を求めています。きよい愛を期待しているのです。それは神様から出てくるものです。神様のおことばをきいている私たちが、そのきよい愛を持つための訓練を受け、その試練を通り抜けることを通して、「キリストを信じている人の心は違うなあ、愛は強いなあ」と人々が思ってくだされば感謝です。
 私たちは地上にいる限り、訓練を受けるチャンスが与えられています。そして訓練を耐え忍ぶことを通して神からの栄誉を受けるチャンスも与えられているのです。
 この地上に生かされている時間を、忍耐をもって歩み通していきましょう。自分のいのちだけでなく、この世界の他の人々の永遠に至るいのちの責任をも負っているということにも目を留めていただければ感謝です。
【俳句】     
  大寒に  賛美ささげる  心意気

 世の中は霊的には寒い真冬の状態ですが、その寒さにめげず、さあ!賛美しよう!!と、寒さを跳ね返す、そんな姿勢をもって私たちも訓練・試練を受け止めながら、前に進んでいきたいものです。

 

 

 

 

 

■2019年1月13日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

堅忍不抜(けんにんふばつ)  up 2019.1.13


主題聖句(ヤコブ5:7〜8)
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 

 

 

【堅忍不抜】
辛く苦しいことがあっても我慢し、ひたすら意志を貫くこと。

【辻和希伝道師メッセージ】
3.約束のものを受け取る(ヘブル10:36)
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」
◎ 忍耐すれば必ず約束のものを受けることができる。
 今年の当教会のモットーは、「主が来られるまで耐え忍ぶ」というものです。主の再臨を待ち望む間、私たちはあらゆる忍耐する場面がやってくるでしょう。それを我慢と捉えると、とてもしんどいクリスチャン生活になってしまいます。
 実は、クリスチャンは、主を信じ、信仰生活をスタートさせたときから、大なり小なり忍耐について理解しチャレンジしようとします。もし、ノンクリスチャンの友人や知人が、「忍耐ほど無駄なことはない。」とはっきり言ってこられたら、心の中で“そんなことはない”と思わないでしょうか。イエス様を信じ、聖書の価値観にのっとってこの世を歩む私たちクリスチャンは、実はこの世とは逆流しているのです。ですから、私はあえて、「忍耐しましょう!」とは言いません。出来ているか出来ていないかではなく、忍耐について聖書の価値観を知ることができたクリスチャンであることに、まず感謝したいと思います。
 私は常日頃、教会生活がさらに充実したものになることを願っています。もっと地域に認知してもらい、子どもたちが自由に出入りし、若者から年配の方まで、いつも賑やかな教会でありたいなと思います。そのためには、イエス様の素晴らしさを伝えていかないといけません。また、教会としても、人々を惹きつけるプログラムや設備の充実さも必要でしょう。しかし、それを実現するためには、時間がかかるのです。ここがまさに忍耐の働かせ所です。
 イエス様がもう一度来られるために、キリストの花嫁として教会はますます成長していくことは、神様のみこころです。その実現のために、結果がすぐに出なくても、福音伝道と教会形成は継続していかなければなりません。それを止めてしまうと、それ以上の成長はありません。私は、忍耐強く教会の成長のために自分ができることをしていきたいと決意します。みなさんと共に、神の魅力あふれる教会を目指していきたいと心から願います。

【横路伝道師メッセージ】
4.成熟した者となる(ヤコブ1:4)
「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
◎ 忍耐を働かせ続けることが、成長を遂げた完全なものである。
 今日はヨセフの生涯から忍耐を学んでいきたいと思います。前半は、親に溺愛されたヨセフの話です。ヨセフは、父ヤコブが年をとってからできた子どもで、父にものすごく愛されました。そのために自由奔放で、お兄さんたちの告げ口をしたり、自分の見た夢を自慢して、お兄さんたちの恨みを買って、ある時ついに外国に奴隷として売られてしまいました。
 ヨセフが奴隷として売られた先は、エジプトの王様の侍従長ポティファルの家でした。神様の不思議なご計画がそこにありました。ヨセフは神様と共に歩んだので、彼のすること全てが祝福され、ポティファルの家が栄えました。それを見てヨセフはポティファルの全部の財産を任せられました。
 その後、試練がやってきます。ポティファルの奥さんに誘惑され、それを断ると今度は濡れ衣を着せられ、監獄に入れられてしまいます。溺愛された環境から奴隷となり、さらに囚人になってしまうのです。しかし、神様と共に歩む彼は、監獄の中でも囚人たちを管理するリーダーとなっていきます。彼は10年位そこで忍耐をしました。
 そして、王様の献酌長官の夢を解き明かし、その夢が実現したら、王様に自分のことを伝えてくださいとお願いをします。しかし、その献酌長官はそのことをすっかり忘れてしまいます。その2年後、王様が夢を見ます。誰もその夢を解き明かすことができない時に、その献酌長官はヨセフのことを思い出します。王様はヨセフを監獄から呼び出し、王様の前に行きます。そして王様の夢の解き明かしをし、良い提案をします。王様はその提案を気に入り、ヨセフをその国の王様の次の位に着けて、全てのことを任せました。
 このヨセフは、イエス様の型と言われています。イエス様は天におられ、神様の一人子であったのに地に下られ、ののしられて最後は十字架の上で罪を背負って殺されました。しかし、三日目に蘇られ、天に昇られました。ヨセフの生涯とよく似ています。

◎忍耐を完全に働かせたヨセフ(創世記37〜40章)
 ここから二つのことを学びたいと思います。忍耐のない、わがままで高慢な少年時代のヨセフでしたが、その後、奴隷や囚人となり、苦しみの中で忍耐しながら、品性が練られていきます。良い管理者となり、将来エジプトの総理大臣となれるような知識や能力を身に付けます。その中で、彼は自分をこんな目に合わせたお兄さんたちやポティファルの妻を、恨んだり憎んだり呪ったりしていませんでした。忍耐とは、ただの我慢ではなく、必ずその後に良いものが来るという期待を持つ、積極的なものであるということができます。「いつまで忍耐すればいいのか」という気持ちをよく持ちます。様々な忍耐しないといけないことがあります。健康や経済、人間関係、心の葛藤など、クリスチャンとしての忍耐もあります。
 しかしそのような時、私たちはヨセフのように、その辛さを我慢するのではなく前向きに、将来の希望に向けての忍耐であると捉えていくことが大切です。ヨセフは、将来お父さんやお兄さんがひざまづいてお辞儀をするという夢を見ました。彼は、神様がそのようにされるということを信じて、今のひどい現状に目を留めるのではなく、神様の約束に希望を持ってそこに目を留めていました。だから忍耐ができたのです。
 私たちは「いつまででしょうか。」と思いますが、期限については神様が最善の時、最も素晴らしい時にそれをかなえられるということを私たちは知っています。(第2コリント6:2)に、「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」とあります。神様が用意される時は、一番良い時です。
 ヨセフは、献酌長官に2年間忘れられていました。しかし、もしすぐに思い出されていたら、パロの夢を解き明かすことはなかったかもしれません。実に絶妙なタイミングで彼はヨセフを思い出したのです。 そして、ヨセフが監獄から出た時に、元々美男子で体格が良かったと書いてありますが、13年間忍耐をし続けた彼からは、素晴らしい神様からのオーラが流れていたのだと思います。ですから、彼を総理大臣にするというときに誰も反対しなかったのです。神様が彼と共におられることを皆が認めたのです。その時まで、彼は13年間忍耐する必要があったのです。

◎成長を遂げた完全な者となったヨセフ(創世記41〜47章)
 その後ヨセフに、自分を奴隷として売ったお兄さんたちを赦すチャンスがやってきました。大きな飢饉が来た時に、お兄さんたちがやってきたのです。ヨセフは神様からの知恵と忍耐を使ってお兄さんたちの本心を探り、彼らを心から赦しました。彼はそれほどに完成された人物になっていたのではないかと思います。彼は苦しみの中でも、お兄さんたちを恨んだり、神様を呪うようなことはしませんでした。彼は過去を赦し、忘れることにしました。赦すことは忘れることです。
 あるアメリカの人のお話を聞きました。彼は100人位の会社の経営者でした。非常に順調だったのですが、ある人の保証人となり、その人が失敗したので借金を肩代わりすることになってしまいました。全部を売り払ってもまだ足りませんでした。最後に彼はどうしようもなくなり、夜逃げをします。そこでとても辛い時を過ごしました。
 しかし、彼は希望を捨てませんでした。彼は約2年間、ガスや電気、水道を止められました。彼は2年間ろうそくで生活し、水は公園に行って飲んだそうです。彼は神様の前に正しい心を持っていたのでしょう。必ずチャンスはやってくると信じていました。忍耐の中で人格も磨かれたのです。そして、また大きな会社の経営者に戻ったそうです。彼は希望を捨てないで忍耐をし、その結果回復したのです。

◎ 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなた方は知っているからです。(ヤコブ1:3)
 試されないと、人格は成長しません。完全な者となりません。試されないとごう慢なままで過ごすかもしれません。しかし、信仰が試され、良心が試され、希望が試され、その中で保った人は、忍耐力がつきます。

◎ 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい。(ヤコブ1:2)
 試練を喜ぶことなんてなかなかできませんが、試練の先に忍耐があり、忍耐の先に希望があります。希望をしっかりつかまえている人は、忍耐ができて、この試練があるからこそ素晴らしいものを必ず得るのだという喜びさえも得ることができます。イエス様は、迫害されたら「喜び踊りなさい。天の御国はあなたのものだからです。」と言われました。苦しいとき、試練にあう時、弱り果てないでください。いつまででしょうか。それは神様の最善の時までです。必ずそれはやってきます。私たちは今再臨を待ち望んでいます。必ず再びイエス様は来られます。聖書にはたくさんの約束で満ちています。それを握ってください。今日、私たちは忍耐して待ちましょう。

【デボーションポイント】
◎信仰と耐え忍ぶこと、または、忍耐との関連。

 

 

 

 

 

■2019年1月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

忍之一字(にんのいちじ)  up 2019.1.6


主題聖句(ヤコブ5:7〜8)
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 

 

 

 【忍之一字】(にんのいちじ)
 何かをやり遂げるために、最も大切なことは、耐え忍ぶこと。

 今日は今年のモットーとみことば(上記)を語らせていただきます。
このみことばから「主が来られる時まで耐え忍ぶ」ということについて、この一年をかけて学んでいこうと思います。
 主が来られる再臨を待ち望み準備をしておくために、今年は「忍耐」を学びます。
 そして、今週のポイントとして、「忍之一字」をあげました。何かをやり遂げるために、最も大切なこととして、この四文字熟語を心に刻みましょう。さらに今週だけでなく数週間をかけて、忍耐のもつ利点を6つから8つ学んでいく予定です。

1.忍耐はいのちを勝ち取る(ルカ21:19)
「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」
 私たちはいのちを持っていますが、そのいのちを誰かに利用されたり振り回されたりすることが多い世の中です。
 しかし忍耐することによって、このいのちを最後は大事に保つことができ、勝ち取ることができるのです。どういう忍耐を通して勝ち取れるのでしょうか。

A)マタイ24:12−13
「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
 「不法がはびこる」ということと「愛が冷たくなる」という二つが忍耐するポイントです。
 余りにも不法がはびこり、例え裁判しても、道徳的にはいくら正しくてもこの世の法律では証拠不十分で相手が無罪になってしまったり、何かスッキリとしないモヤモヤが残ることが多いのです。それは神様の完全な裁きと違ってこの世の法は不完全だからです。そういう人では調べきれないことで無罪となってしまい、証拠隠滅がまかり通るのです。
 しかし神様は全知全能であり、全宇宙の法律です。神様の目から見て不法であれば裁かれます。
 この世の法律では正しく裁ききれないということが多々あります。そのような中で神は最後には正しく裁いてくださるということを信じて、私たちは耐え忍ぶのです。
 キリストの再臨の時に最後の審判が行われ、神は全てのことを正しく公平に裁いてくださいます。ですから例え今悪者どもが栄えているように見えても、それを妬んだり失望する必要はないのです。
 もう一つの点は愛が冷たくなるということです。今の経済社会の問題は、お金で愛がコントロールされ支配されてしまうことです。愛よりもお金の方が価値があるという考え方が蔓延してしまい、利益のために愛がおろそかになってしまうのです。
 夫婦でも互いの利益が優先され、自分にとって不利益だと思える離婚も以前よりは簡単な選択肢となりました。結婚式でも愛がいかに大切かと強調しても冷めた空気がかえってきたりします。
 しかし私たちはお金よりも愛が大切であると信じていますね。愛こそが私たちの存在価値であり、最も大切なものであると、神から教わっているからです。なぜなら神は愛だからです。
 私たちは神からいただいた愛を大切に生きています。しかしこの世界では愛がだんだん冷えていっています。相手を信じることで裏切られてしまい、傷ついてしまう、そういう時代です。だからといって神がおられないのではありません。キリストが再臨されないのではありません。ですから愛が冷えていっても私たちは耐え忍ぶのです。

B)へブル6:11
「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」
 「同じ熱心さ」がポイントです。指導者も信徒も同じ熱心さを持つことが大切です。神を思い愛する熱心さは、指導者も信徒も同じであるべきです。環境的には厳しくて信仰から離れてしまう信徒もいたかもしれないような状況の中で、パウロはイエス様の再臨まで同じ熱心さを示し続けてほしいと「切望」しています。切望とは本当に強く望んでいるということです。
 私たちの希望とは何でしょうか。キリストが再び来られてこの世の罪が一掃されることです。報われなかったことが報われ、隠された罪がはっきりとされる、それを私たちは待ち望んでいます。だから真面目に神の前に正しく生きようとしています。間違いを犯したなら悔い改めて、何とかしてキリストの聖さと愛に近づきたいと願って日々歩んでいるのです。
 ですからクリスチャンがこの地上で歩む希望はキリストの再臨にかかっているのです。
 キリストは預言通り、この地上に肉体をもって来られたという歴史上確かな証拠があるのですから、再臨も必ずあると信じることができます。キリストのご降誕が世界中で祝われているのですから、私たちは再臨の希望をしっかりと持つことができるのです。

2.品性を精錬する忍耐(ローマ5:4)
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 」
 忍耐と品性と希望はつながっています。忍耐すると品性が練られるのです。
 米から出来た自然の糊は、練り方ひとつで強さが変わってきます。練れば練るほど粘りが強くなります。忍耐はこの練る作業です。しっかりと練ることで品性が生み出されていき、練られた品性を持つと、決して希望を失うことがないのです。
 あなたの品性が出来上がってきている証拠は、失望で終わらない心ができてきていることで示されます。駄目だと思うような状況が起きても、必ずそこに希望を持てるようになる人は品性が生み出されいる人です。希望に至れないのは、まだ十分に練られていないからです。忍耐の時こそ練られている時なのです。良い品性のためにも忍耐しましょう。忍耐していくなら希望が出てきます。

A)箴言17:3
「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。」
 金を混じり気のない純金とするためにるつぼがあります。神は私たちを混じり気のない神の子とするために試されます。そこで忍耐し練られるのです。

B)箴言27:21
「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。 」
 人から褒められると、どうしても高ぶりが出てきます。謙遜しながらも誇る気持ちが出てきます。高ぶると周りが見えなくなってしまいます。ですから、あまり褒められたくありませんね。褒められても高慢にならないのは神様だけです。
 どんなにいい結果が出たとしても、すべてを与えてくださっているのは神様です。そのことに思いを向けると高慢にはなれません。そのように高慢にならないように自分の心をへりくだらせるのが忍耐です。そして自分の心をへりくだらせるために起こってくる様々な葛藤を経験しながら、品性が生み出されてきます。そしてイエス様のような姿に変えられていくのです。
 今、忍耐が必要な時と所におられるなら、純金のようにきよめられているのだと感謝しましょう。

【デボーションポイント】
◎耐え忍ぶことの大切さを悟る
 知識として学ぶだけではなく、体験として悟っていただけたらと思います。

【俳句】

上がれない 双六遊び 耐え忍ぶ

 最近の双六は複雑で、一コマづつ条件がついていて、なかなかゴールできません。子供は必死になり勝敗にイライラします。
 しかし人生も思い通りにコマを進めることはできません。このとき働かせる忍耐は、ただゴールのためという訳ではなく、実は忍耐を働かせるというプロセスを経験することこそ大切なのです。ひとつひとつの苦労を通し、忍耐して練られていくのです。
 忍耐こそ人生にとって大切なものであると学んでいきましょう。