■2018年12月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

居愛待憐(きょあいたいれん)  up 2018.12.30


主題聖句(ユダ1:21)
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 

 

 

『居愛待憐』
きょあいたいれん

神の愛のうちに居り、あわれみを待ち望む(造語)

 12月最後の日曜日、この一年間の主題のみことば(ユダ1:21)を、もう一度しっかりと受け止めていきたいと思います。
 
 主の再臨を待ち望む準備を10年間で整えていきましょうということで、初めの一年を「キリストのあわれみを待ち望む」と致しました。
 神の憐れみなくして私たちは生きていくことはできないということを、少しでもわかっていただければと思います。
 
 あわれみを待ち望む一番の意味はイエス様の再臨です。信じていても多くの罪を犯し重ねる私たちです。悔い改めて神の愛の内に歩むということを通して、私たちの罪は赦され続けて神様との関係が維持されます。そして最後には、神様はあわれみをもって永遠の御国へと導いてくださいます。ですから再臨の時に救われる(天に引き上げられる)というあわれみを待ち望むのです。
 ポイントの「居愛待憐」は、神の愛のうちに居り、あわれみを待ち望む(ユダ1:21)のみことばを、そのまま4文字で表しました。

1.「居愛待憐」のこころがけ   
(ヤコブ4:15)
「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」
 
 心がけとは、いつも心にとどめて、そのような思いを保っている心の姿勢です。この(ヤコブ4:15)のみことばは、「居愛待憐」のための心がけと言えます。
 「主のみこころなら」は「神の愛のうちにとどまり続けるなら」と、意味をとらえることができます。私たちの地上での人生は、神様のあわれみのゆえに、あのこともこのこともすることがゆるされているということです。この心がけを更に深く考えてみましょう。

A)第1コリント6:20     
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
 
 「代価を払って買い取られた」とは、どういうことでしょうか。
 本来、もし罪のまま、闇の世界で生活するのであれば、私たちは「罪の支払う報酬は死である」という永遠の滅びに行ってしまいます。
 しかし、神様は代価を支払って、私たちの所有権を買い取ってくださり、永遠のいのちという報いを受ける神様のもとに、私たちを移し
てくださったのです。
 代価が支払われたので、私たちは闇の世界から完全に光の国のものとされ、絶対にうばわれることがない状況に置かれているのです。代価が支払われて、私たちは神様のものとなったのです。
 それにしては、私たちは結構自由に、好きにしていると思います。私たちは自由意思を尊重されています。神の愛の中で憐れまれている状態なのです。
 ですから、私たちは主のみこころなら、生きていて、あのことも、このこともしようという謙虚な気持ちを持つのです。

B)第1コリント12:27    
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 
 
 キリストを一人の人としてたとえるなら、キリストは頭、信じる私たちはからだ、ひとりひとりは器官であり、様々な働きをもっています。それぞれの働きの位置に置かれている私たちは、目ならば目、手ならば手として、神様のあわれみの中で赦しを受けながら、働かせていただこうという心がけを表した御言葉です。
 クリスチャンも比較社会の影響を受けて、あの人の信仰は素晴らしいとか、あの人はいい賜物を与えられているとか、つい自分と比べて自分より優れて良いものを周りが持っているということに対して、ちょっと傷つくことがあるかもしれません。しかし、神様は目も手も鼻も、能力や働きは違っても全部、同等にキリストのからだに必要なものとして同じ存在価値を与えられています。
 神様がそのように思っておられるのなら、私たちもそのような心がけを持って、神様の愛にとどまり、キリストのからだとして素直に、このいのちを生きていきましょう。

C)ガラテヤ2:20      
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
 
 罪が処分されるためにイエス・キリストは十字架で身代わりに裁きをお受けになりました。「身代わり」ですから、私も一緒に十字架で裁きを受けたということになっているのです。
 そして、キリストは三日目によみがえり、罪のない復活のいのちがそこに実現しました。
 イエス様を信じて水の洗礼を受けたとき、神様は私たちをキリストと一つに合わされました。キリストとともに十字架につくという意味で水の上に立ち、キリストと共に死んで葬られたという意味で水の中につけられ、キリストがよみがえられたように私たちも水の中から上がりました。
 この水のバプテスマの体験を通して、私たちはキリストと一つに合わされて、罪が処分され、神様の愛のうちに生きる新しいいのちの人生を、復活という形で始めることが出来たのです。
 ですから今、私の内にあるいのちは、復活のキリストのきよいいのちなのです。もはや私が生きているのではないのです。 
 私たちには、罪が処分されて新しくされたいのちを汚さないように、肉の欲望に従うことのないように、罪と戦う強さが与えられています。復活のいのちは、罪と向き合って罪に勝利することができる力を持っているからです。
 だから、自分の罪の性質、悪い性格に向きあって、それを打ち砕いていくようなチャレンジを日々受けているのです。その力は愛の動機からきています。
 神様がこんな私を愛し憐れんでくださったから、私たちはその愛の中で愛に生きることを目指して歩んでいます。
 
 このように、居愛待憐の信仰生活のためのこころがけを3つのみことばから深く見てまいりました。私たちはそれを心によく覚えて、それを土台として、2年目の「再臨を待ち望む」準備へと導かれていきたいと思います。

2.「居愛待憐」への助け      
(ヘブル4:16)
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
 
 神様の愛と憐れみによって、十字架の罪の贖いが実現しました。私たちは罪人の状態ではあるけれど、もう罪のないものとして神様は受け入れてくださっています。私たちは実際の様々な良いこと(恵み)を受けることができるようにされているのです。
 ですから、神に大胆に近づき、祈り求めて、おりにかなった助けを受けましょうと語られています。
 ここでのポイントは「おりにかなった助けを受ける」ということです。次の二つのみことばからみてみましょう。

A)伝道者の書3:11        
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
 
 「おりにかなった助け」とは、私たちの考えや計画で私たちの基準で助けが与えられる時、というのではありません。
 神様が、神様の目から見て、神様のあわれみを受けている者に、ちょうど良い時に、ちょうど良い程度に、神は助けをしてくださるという信頼をもって書かれた言葉です。
 苦難困難のただ中で、「これも神の御業なのだ、これも時にかなって美しいんだ」とは、その辛さのゆえに、なかなか思えないものです。
 聖書には「銀には、るつぼ。金には炉。人の心を試すのは主である。」とあります。私たちの苦難、労苦、辛い体験をする理由は、私たちがさらに良いものとなるための精錬、鍛錬です。
 苦しいけれど今の鍛錬によって、後の栄冠を得ることができるという意味からも、神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、後になってわかることが多いものです。
 そのように神様の愛とあわれみに信頼と期待をもって、いつも大胆に神の恵みの御座に近づきましょう。祈り求めていきましょう。
 神様がおりにかなった助けを与えてくださることは確かですから、覚えておいてください。
 皆さんが歩んでこられた人生はすべて「時にかなって美しい」と、イエス・キリストにあって受け止められているでしょうか。自分がいかに罪深いものであるかを自覚する時、神様の愛にとどまらないと生きていけないことを知ります。
 そのような中で神様の愛とあわれみを待ち望んで、これをしよう、あれもさせていただこうと謙虚な思いをもって、将来神の国に導かれるという約束を信じて、希望と平安のうちに歩む時、「すべて時にかなって美しい」と一つ一つを振り返り感じることができるのです。

B)ローマ8:26          
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 私たちには、助け主として神の御霊が送られています。神の御霊は、私たちの霊と共に、弱い私たちを助けてくださいます。
 私たちが祈りの言葉も出て来ないような、うめくしかないような苦しい時も、御霊ご自身が神様に私たちのこの思いを直接とりなしてくださるのです。
 神の御霊は、その思いを直接感じ取ることのできる存在です。神の御霊は私たちの霊と共に住み、私たちの霊に触れて、私たちの苦しみを感じ取って、それを私たちより更に深いうめきをもって、「この兄弟、この姉妹は、神よ、いまこのようなうめきをもって祈っています」と、神に直接とりなしてくださるのです。そういう助けを与えてくださるのです。
 皆さんのうちには御霊が宿っておられます。ですから、あなたは一人で祈っているのではありません。御霊があなたの祈りを神のもとに届けてくださっているということを信じましょう。
 それを信じることができるように、十字架の贖いの御業が歴史の中に刻まれているという証拠があります。心を注ぎだして御霊のとりなしの助けを受けながら、祈りが応えられる時を待ち望みましょう。

【デボーションポイント】  
◎神の敵であった罪深い私たちをあわれんでくださったキリストのあわれみを、どんなときでも思い出しましょう。

 自分の罪深さを自覚し、自分の弱さをいつも知っておくことは大切です。それは神様の愛のうちにとどまり、神様のあわれみを待ち望む心を生み出すものです。そうして私たちは憐れまれて、生かされて、必要を与えられているのです。すべてにおいて感謝するへりくだりの心もそこから生まれてくるのです。

【俳句】   

年深し  この世も深し  備えねば  

 
 年末を迎え、私たちは新年に備えて、大掃除など、けじめの作業をします。
 神様もこの罪の世界にけじめをつけて、新しい世界が始まることを約束されています。その始まりがキリストの再臨です。
 
 年末にあたって世の終わりも深まっていることを思いみながら、キリストの再臨への備えを来年も続けていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年12月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

熟慮断行(じゅくりょだんこう)  up 2018.12.23


主題聖句(ピリピ2:6〜7)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです 。

 

 

 

『熟慮断行』
(じゅくりょだんこう)
不足がないようにしっかりと考え抜いた上で、固い決意を持って行動すること。

 主題聖句の「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」という言い回しは、「相当熟慮された上での御決断」という風に受け取ることが出来るのではないでしょうか。
 
 神様は、人々が救われるための最善は何なのか、どうしたら自分の子どもたち(人間たち)の罪を処分できるのか、どうすればもう一度彼らが人生をやり直すことができるのかと、相当悩んで考え抜かれて、その結果、「私が行こう。神のかたちで行くのではなく、人となってこの地上に行って、人々を救おう」という御計画を立てられました。今日はそういう神様のご決断に至った理由を見てみたいと思います。

1.なぜ、キリストがこの世に来られたのですか?  
(ルカ19:10)
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

2.何から救われるためですか?     
(使徒2:40)
「ペテロは、このほかにも多くの言葉をもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。」
 
 「曲がった」という表現は、まっすぐでない、あるべき状態でない、道がそれている、歪んでいる、と色々想像できます。
 
 この時代は神様の目から見ると「曲がった」世の中です。だから私たちも曲がってしまう影響を受けます。「神なんかいない」というのが一番多いですね。「神はいるかもしれないけれど、人の心の思うまま、どんな宗教でもいいのではないか」とも言われます。

 しかし、「自分を育ててくれるのなら誰でもいい」という気持ちで子どもは割り切れるものでしょうか。親を知らない子どもは、自分は誰から生まれたのか、どんな親から生まれたのか、とても知りたいと思うものだそうです。

 以前、私たちの教会に何度かお呼びしたことのある上原令子さんは、お母さんは沖縄の人で、戦後やってきたアメリカ兵との間に生まれた子どもさんでした。その父親はアメリカに帰ってしまい、令子さんは、自分の父親は誰なんだろうという思いがずっと離れなかったそうです。

 育てのお父さんはとてもいい人でしたが、だから産みのお父さんのことは忘れようと割り切ることは出来ませんでした。どうしても誰が本当のお父さんかを知りたくて、大人になってからアメリカに行って調べたけれど、ついに分からなかったと証しされていました。

 人は真理を知りたいという思いが自然と心の中に出てくるもののようです。「なぜ神はいるのか」「なぜ神を求めようとするのか」と。
 私たちには、私たちを造ってくださり、生み出してくださった「誰か」がいる、ということなのです。
 
 そんなものいるものか、という曲がった時代から救われるためには、イエス・キリストの救いが必要であることに気付かねばなりません。
 曲がった時代から救われるには、曲がっていない神様によって救われることが大事なのです。

3.どうして人の姿で来られたのですか?
(へブル2:14−15)
「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
 
 キリストは神の姿ではなく、血と肉を持った人の姿をとってお生まれになりました。なぜでしょうか。
 罪の赦しは血を流さずしてはありえない、と聖書に書かれています。血を流すとは肉のいのちを犠牲にすることです。

 人々の罪が赦されるために、人々の代わりに罪のないご自身が血を流して死ぬ、その目的を持ってイエス・キリストは地上にお生まれになりました。キリストが私たちの罪のために血を流して死んでくださらないと、私たちに罪の赦しはなかったのです。そのために、どうしてもイエス・キリストは肉体を持って人として来られる必要があったのです。

 そして、神の姿ではなく人間の体という不自由な姿で、母の胎内にいる時から33年間の生涯までを歩み、私たちの悩み苦しみを共有共感できるような体験をして、私たちの救い主となられたということです。

4.どうしてキリストの死が救いをもたらすのですか?
A)へブル9:12
「また、山羊と子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

B)第1テモテ2:6     
「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
 
 山羊や子牛という動物たちの血は、人間の血ではないので何の力もありません。動物のいけにえは、まことの救い主がやがて来られるということを象徴しているのであって、救い主を期待して待ち望むようにと、ユダヤ人に定められた宗教的儀式です。本当のいけにえはイエス・キリストです。
 
 イエス・キリストは十字架で私たちの代わりに血を流して死んでくださいました。神様はその血を代価として、私たちを買い戻し、取り戻してくださり、永遠の贖いとしてくださいました。ですから、私たちは二度と罪に定められることはないのです。
 キリストを信じる者はその赦しのもとに、何回でも心を改めてやりなおそうという希望をもって日々を歩んでいくことができます。「赦されるのなら罪を犯してもいい」ではないのです。こんなに私のために愛して犠牲を払われたのだから、与えられたこのいのちをもっと大事に使おうと思う人々のための救いなのです。
 
 私たちが改めていくことを神様が受け止めることが出来るために、一回一回の罪が赦されていかなくてはなりません。私たちの過去の罪のみならず、今も、この先犯すであろう罪さえも、赦しのためにキリストの聖い血の代価が支払われているのです。

 そこまでしてくださっているならば、私は一回でも罪が減るように何とかその情け深い神様に応えていきたいと思うのが、人間の正直正しい曲がっていない心です。
 
 この曲がった世の影響を受けて心が曲がってしまうと、いくら悪いことをしても悔い改めたら赦してくれるのだから儲けものじゃないかという気持ちになります。
 
 そのような曲がった時代から救われるために、すなわち神様の愛に私たちが心をまっすぐにすることができるように、神様はイエスキリストの人生を通してご自分の愛をお示しくださいました。そのためにお生まれくださったキリストなのです。

5.なぜ、救いと解放が与えられたのですか?
(ガラテヤ5:13)
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」 
 
 私たちは自由に好きなように生きるために、十字架の贖い、赦しの御業がなされたのではありません。「愛をもって互いに仕える」ためです。それは、イエス様が新しい戒めとして与えてくださった「私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という意味です。互いに憐れみ合い、赦し合い、親切を行い合う、その愛の行為を互いに行なうために、私たちには「赦し」が与えられているのです。
 
 これがまっすぐに生きる生き方、その道を整えて下さったのがイエス様の十字架、その十字架を成し遂げるためにイエス様はお生まれくださいました。私たちクリスチャンはイエス様を信じて自由となりました。
 
 この自由を与えて下さった神様のお考えは、「愛をもって互いに仕え合う」ことです。ですから、私たちは出来る限り、互いに親切を施していくという愛の関係、もっとも徳の高い生き方、それを目指してクリスチャン生活を歩んでいくのです。
 
 クリスチャンになるということは、ゴールに達したことではなく、その目標に向かって歩み始めたということです。歩み始めて1年の人も、40年たっている人も、神様にとって大事なことは、今どんな結果を出しているかではなく、今、愛を持って互いに仕え合うという道の中を歩んでいるかどうかです。

 外れたならばまた元の道に戻り、離れたならばまた元の道に帰り、愛をもって互いに仕え合うという道にとどまりつづけようとしているかどうか、これを神様は見ておられます。40年歩んだのだからだいぶましになっただろうというような所を見ておられるのではありません。結果は最終的に総合的に神様が評価されます。
 
 私たちが心にとどめておかなくてはいけないことは「曲がってしまわないこと」です。世の曲がった状態に自分を合わせてしまわないことです。そのために兄弟姉妹は互いに励まし合います。説教から気づかされて戻るように心を動かしていきます。
 
 クリスチャンほど罪深い者はいません。神様のみことばの光のゆえに、自分の愚かさ罪深さが照らし出されて、自分が醜い人間であることを知らされます。真理を教えられながら実行できない罪深い者であることを知らされます。だからこそイエス様はその苦しみを十字架で身代わりに負ってくださったのです。そして、やりなおそう、出来なくてもその道を目指そう、という希望を与えてくださいました。
 
 そういう心を神様の愛によって取り戻して、その道に歩んでいくように、そのための始まりがイエス・キリストのご降誕であります。これがクリスマスです。
 
 あなたも信じれば救われます。この曲がった時代から救われます。どんなに世の中が曲がっていても、信じれば、あなたも愛をもって互いに仕え合う道を歩むことができるのです。

【俳句】
    クリスマス  柚湯に入り  何思う

 

 

 

 

 

■2018年12月16日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

実事求是(じつじきゅうぜ)  up 2018.12.16


主題聖句(詩篇42:2)
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。

 

 

 

【実事求是】
「実事」は本当のことや「事実」、「求是」は真実を求めるということから、事実の実証に基づいて物事の真理を追究すること。

【辻和希伝道師メッセージ】
1.義に飢え渇く者は幸い
 
 今日《12月16日(日))という日は、クリスマスの1週間前でもあり、一年が終わる2週間前でもあります。いろいろと忙しくしてしまう時期ではありますが、アドベント3週目を、イエス様のご降誕を深く考える一週間としていきたいです。
 今週は、詩篇42:2から「神を求めて渇く」というテーマになりますが、皆さんは、神様を求めて渇くという体験を一度はしているからこそ、教会に集っていると思います。
 渇くという状態は、自らの意思で起こせるものではなく、体内の水分が減って初めて起こります。ですから、神様に渇くというのは、無理やり起こせることではないし、「主に渇いて求めていきましょう。」と言って渇けるものでもありません。
 私は、クリスチャンはみな、すでにこの渇きは満たされていると思っています。イエス様の十字架による罪の赦しという“福音”と、人生の指標となる“みことば”の価値観に出会った私たちは、もはや暗闇の支配に囚われておらず、光の道を歩むことができています。ですから、自らを渇きに追い込む必要はなく、いつでも主の傍でお仕えすることのできる特権にあずかっているのです。なんと感謝なことでしょうか!

(マタイ5:6)
「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」
 
 イエス様のご降誕に立ち会うことができた幸いな羊飼いたちは、メシヤの誕生を待ち望んでいました。それは飢え渇くほどであったことでしょう。そんな彼らは、イエス様の誕生を目の当たりにすることで、満たされました。
 このように、世の中には真理を求め渇いている人々が多くいます。そのような人たちの渇きを満たすことができるのは、イエス様こそが救い主であるという福音だけです。
 年に一度のクリスマスこそ、教会が街のシンボルとして輝く日です。教会では、クリスマスを盛大にお祝いしますが、一つの行事として終わらせるのではなく、福音が輝くようにクリスマス会が用いられることを祈るとともに、主のご降誕を深くお祝いする日としていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.神に渇くためのクリスマス
(ルカ3:15〜17)
「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。』
 
  ここでは、バプテスマのヨハネという人が「悔い改めよ」と語り、多くの人が心刺されて悔い改めて洗礼を受けたとあります。人々はこの人が救い主ではないかと思ったので、ヨハネ自身が、「私ではありません。キリストは私の後に来られます。」と語り、二つのことを言っています。一つは、「聖霊と火とのバプテスマを授けるために来られる」もう一つは、「手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」この二つのことのために来られると説明をしました。

A) 救い主を待ち望んでいる民
 当時、救い主を真剣に求める民がいました。それは、イスラエルがローマの属国になっていたからです。彼らは二重の税金を取られて苦しんでいました。彼らには飢え渇きがありました。
 飢え渇きがないと、人々は救いを求めないので滅びてしまいます。イエス様は預言の通りに現れて、十字架のみわざを成し遂げられました。そして天に昇られ、私たちのために聖霊を遣してくださいました。

B) 聖霊と火とのバプテスマを授けるための降誕
 聖霊様が来られた時に、私たちは聖められます。福音を伝えるためにも、聖霊様が必要です。どんな時にも福音を宣べ伝えることが大切です。
 
 ある牧師先生の証を読みました。この先生は、毎日誰かに福音を伝えたいという思いがありました。
 ある日、飛行機に乗った時、一人の悲しそうな顔をした客室乗務員の女性を見つけました。この女性に話しかけるチャンスがやってきて、彼女に福音を伝えました。その女性は、イエス・キリストをその短い時間で信じる告白をし、涙を流してお祈りをして救われたそうです。そして、「先生、またお会い出来たらいいですね。もし会えなくても、天国でお会いしましょう。」と言って別れたそうです。
 この牧師先生が、次の朝新聞を見たら、なんとその飛行機が墜落して、その客室乗務員も亡くなっていたそうです。もし、あそこでイエス・キリストを救い主を受け入れなかったら、彼女は天国に行くことができなかったかもしれません。
 どんな時にも福音を伝えましょう。何が起こるかわかりません。いつでも福音を語る用意をしておかなくてはならないと思いました。

C) 消えない火で焼き尽くすための再臨
 イスラエルの民は、キリストの降誕を待ち望み、それは実現しました。そして現代の私たちは、もう一度必ず来ると言われたイエス様の再臨を待ち望んでいます。
 必要なのは飢え渇きです。イスラエルの人たちは、しいたげられ、魂が飢え渇いていました。私たちも、飢え渇きが必要です。
 日本は平和ですが、心の中の葛藤や、様々な社会問題や世界の状況を見る時に、神様の助けが早く来て欲しいと思います。イエス様の福音を聞かずに滅びてしまう人々がたくさんいます。世界には食べる物がなく毎日死んでいる子どもたちもたくさんいます。それがそのままでいいのでしょうか。私たちは、イエス様が再び来られて公平な裁きをしてくださるようにと、飢え渇く必要があります。
 もし眠っているなら目を覚まし、このクリスマスの時にもう一度イエス様の救いに飢え渇いていきたいと思います。救われていない人々が救われるように、飢え渇いて祈り、毎日を過ごしたいと思います。

【デボーションポイント】
◎ 飢え渇いて神を求めることを意識してクリスマスを迎える。
 イエス様は、預言通りお生まれになりました。ですから、預言通り再び来られます。それは近づいています。飢え渇いて求めていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年12月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

天佑神助(てんゆうしんじょ)  up 2018.12.9


主題聖句(詩篇40:17)
私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 

 

 

『天佑神助』
(てんゆうしんじょ)
天の助け、神のご加護。思いがけない偶然によって助かること。
 
 先週は、望みをもって主を待ち望むということをお話ししました。
私たちもイエス様の再臨を首を長くして待ち望んでいます。それはイエス様の約束だからです。天に住まいを用意したら迎えに来てくださるとイエス様は約束してくださいました。
 今日は、安心して余裕をもって待ち望むというのではなく、切羽詰まった中ですぐにでも来てほしいという思いで、待ち望む状況について学びたいと思います。
 「天佑神助」とは、天の助け、神のご加護。思いがけない偶然によって助かることを表します。
 偶然というか奇跡的な助けは、天の助けであると誰でも思います。これは人からもたらされたものではないからです。クリスチャンもこの助けを渇望する者です。

1.「悩む者、貧しい者」の意味(ダビデをとおして)
A)詩篇86:1
「主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。」
 
 聖書でいう悩む者、貧しい者という意味をダビデが記した詩篇を通して考えてみました。
 ダビデは英雄であり、勇者です。しかしこのダビデが自分のことを悩み貧しいと語っています。彼は比較的裕福な家庭に生まれ、羊の群れを琴を弾きながら番をしていました。おそらくこの頃のダビデは悩むことは余りなかったでしょう。
 しかし、サウル王に召し抱えられるようになってから、彼の悩みは深くなります。それは、彼の才能と働き、人気を妬んだ王から命を狙われるようになったからです。
 そして逃亡生活を強いられ、何も持たずに逃げざるをえず、まさに悩みと貧しさの中に追いやられました。しかし、悩みや貧しさとは目に見える状態だけではありません。イスラエルの最も権威者である王に狙われるということは最悪のことです。国の主権者に歯向かうことは不可能なことです。どれほどダビデに賛同する人々がたくさんそばに来てくれても、相手は国の主権者である王です。到底かなう相手ではありません。つまりダビデを助けられる人は誰もいないということです。悩み苦しんでいても何の手立ても見つからないという窮地にある状況です。
 そのダビデの心境がこの詩篇のことばに表わされています。そんな彼にとって目を向け助けを求められる方は唯一、神しかおられなかったのです。

B)詩篇68:5
「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。」

 神はみなしご、やもめの神です。力ある権力者は彼らを圧迫し軽んじます。その弱い立場の人々、誰も助けようとしない人々を神様は助けようとしてくださる方です。 
 神以外に助け手がいない人々を表すことばとして「悩む者、貧しい者」と表しています。誰一人助けられない人を神が憐れみ助けてくださるのです。
 今はイエス様が救いを成就してくださったゆえに、罪赦されて悩みから解放され、心貧しい者でしたが心豊かにされたことを感謝します。

2.「天佑神助」を受ける者(詩篇12:5)
「主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」

 悩む者が踏みにじられ、貧しい人が嘆くとはいじめの状態です。冷ややかにからかわれたり、いくら努力しても報われない状態です。いくら頑張っても罪から離れられない、どうして自分はこんなにだめなのだろうという悩みは貧しい人が嘆く状態と同じ状態です。
 そういう状況の時、神はその人のために立ち上がり、自ら救いに入れようと宣言しておられるのです。
 ですからアダムの子孫である人類のために、神はイエス・キリストを用意して救いに入れようとしてくださったのです。
 サタンと呼ばれるようになった天使ルシファーのためには、このような贖いの救いは用意されませんでした。彼は悩むことも貧しいこともないからです。
 しかし、人はちりから造られ、弱く悩み苦しむ存在です。天使のような能力も何もありません。しかし、この人を神はご自身の形に造ったと言われています。また、他の動物に比べて人は身体能力がかなり劣ります。人が他の動物より何が優れているかというと、ただ「考える」能力だけです。
 この考える創造する能力が神に似せて造られました。何もないところから、いろいろなものを考え出し造りあげます。
 しかしその悩み貧しい私たちに罪がプラスされて、神様に喜ばれないような者になってしまいました。こうなると神から見ても何一つ価値がないと思われるような存在です。ところが、そのような私たちに神が手を差し伸ばしてくださったのです。
 どうにもならないと心が砕かれへりくだる時こそ、神は立ち上がってくださるのです。
 このみことばを覚えて、深いへりくだりの祈りへと導かれましょう。
神はこのようなへりくだり、心砕かれた人を救ってくださいます。

3.主を待ち望むまことの敬虔な人(箴言14:31)
「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」

 見るからに貧しい格好をしている人に憐れみの心をもつことは簡単ですが、人格的に貧しい人に憐れみを示すのは難しいものです。なぜなら、人格的に貧しいとは、怒りっぽい人であったり、品性が劣る人であったりするからです。もし物理的な貧しさに憐れみを示せるなら、霊的人格的に貧しい人にも憐れみを示せるはずです。
 あなたを呪い罵倒するような人に対してどのように祈るのでしょうか。彼らはあなたよりも霊的に人格的に貧しいということを理解して祈るしかありません。
 良いことをしていても敵ができる時、嫉妬や妬みからとも言えますが、彼らはなぜ豊かな心を持ち、神を信じているあなたに敵対してくるのでしょうか。
 敵は豊かな国に攻め込んでくるものです。それは自分が貧しいので豊かになりたいからです。ですから、あなたの敵のために祈りなさいというのは、その相手の貧しい心が豊かになるように祝福しなさいということです。
 私たちは霊的に人格的に貧しい人々を邪険にするのではなく、相手がイエス様に出会って、心豊かな人に変えていただけるように祈るべきです。
 (ルカ18:9〜14)を参照してくださいということで、また後で読んでみてください。この箇所は自分を義人として、他の人を見下している人に対してそれは良くないと言われているだけではありません。
 取税人という心の貧しい人を、パリサイ人は憐れむよりも裁いてしまいました。取税人は不正なことをしたりあるいは無理やり税金を人々からむしり取るような、俗悪な人々を意味しています。どうしてこのような悪いことをする人を憐れむ必要があるのでしょうか。パリサイ人は彼は罰せられるべき罪人だと見ていました。
 しかし、神の目から見たらアダムの子孫はみんな罪人です。10点取る者も90点取る者も、100点の神様から見ればまだ不完全な者でしかありません。90点取る者が10点取る者を見下げて罵倒することを神は嫌われます。むしろ憐れみをもって、もっとこうすればいいと教え励ますべきであると神は願われています。
 90点を取って相手を見下げる者は罪人であり、神に助けを求める10点の人の方が義とされるのです。
 そして苦しみ誰にも打ち明けられない悩みを主に祈る人、どうにもならない悩みを味わった人、同じ苦しみにある人に共感できる人こそ、造り主に喜ばれる人です。0点を0点しか取れない私ですと言える人こそ、へりくだった人です。

4.「天佑神助」を待ち望む(第1ペテロ5:7)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

 このみことばを持って主の助けを待ち望んでください。私たちが神の助けを待ち望めるのは、イエス様の御降誕が成就したという事実があるからです。

【デボーションポイント】
◎ キリストの再臨を待ち望む者は、不敬虔なこの世において悩む者、貧しい者である。キリストのご降臨という神からの救いのしるしが成就したことによって、「天佑神助」を待ち望むことができる。
 

【俳句】

初雪に 天佑神助 祈りつつ
 
 急に寒くなり初雪になった今、災害を受け困難な中にあり、寒さの中で困っている人々が奇跡的に助けられるように祈ります。

 

 

 

 

 

■2018年12月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

鶴立企佇(かくりつきちょ)  up 2018.12.2


主題聖句(詩篇39:7)
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

 

 

 

『鶴立企佇』
(かくりつきちょ)
「心から待ち望むこと。鶴がつま先で立ち、首を伸ばして遠くを見る姿から。」
 
 「待ち望む」という心には、必ず約束は守られるという大きな期待と確信があります。私たちは、よみがえられたイエス様が私たちの目に見える姿で再び地上に来られることを待ち望んでいます。イエス様が再び来られるという約束が、私たちの地上での唯一の喜びであり楽しみであり望みであり、この地上で罪と戦い闇の力と戦い抜くための支えであるからです。
 「私の望み、それはあなたです。」この告白が今日のメッセージです。
ポイントは「鶴立企佇」。鶴がつま先で立ち首を伸ばして、まるで遠くを望み見るかのように、私たちも心から待ち望む気持ちを失わないようにして、4回のアドベントのお勧めをさせていただきたいと思います。
 今日はこの「待ち望む」という心に至るための最初のポイントを、「イスラエルへの神のあわれみ」というところからお話しさせていただきます。

1.イスラエルへの神のあわれみ(出エジプト2:23) 
「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。」
 
 創世記の最後にヨセフ物語として、アブラハムの孫であるヤコブ(イスラエル)の家族70人ほどが、カナンの地からエジプトに移り住むことになった経緯が書かれてあります。
 ヤコブの愛する子ヨセフは、色々あって先にエジプトで、パロに次ぐ地位の者になっていましたから、初めはイスラエル人も好意をもってエジプトに迎えられました。
 しかし、出エジプト記では、ヨセフも亡くなり、パロも亡くなって、時代が変わり、ヨセフの功績を知らない新しいパロは、増え広がったイスラエル民族に脅威を感じます。そしてその力を削ぐために、生涯を奴隷の身分として働かせました。それでも民族は弱る気配がなかったので、労役は過酷さを増していきました。
 そしてイスラエル人は「うめき、わめいた」とあります。彼らの心の状況は苦役と悲しみと失望でグチャグチャに砕かれていました。
 彼らの労役の叫びが神に届きます。神様は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束を思い起こし、モーセをお遣わしになり、彼らをエジプトから救い出されたのです。神様が心動かされた理由を、二つのみことばから見ることができます。 

★詩篇34:18   
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
★詩篇147:3
「主は心の打ち砕かれた者を癒し彼らの傷を包む。」 
 汝の敵を愛せよと言われた神様は、信仰熱心か不信仰か、神を賛美する人なのか神に不平不満ばかり言っている人なのか、そういうこととは関係なく、病んでいる人、苦しんでいる人を見捨てられない、あわれみ深い神様であります。
 エジプトで長く奴隷状態だったイスラエルは、一部を除いてほとんどが不信仰だったことでしょう。ただ彼らが悔いくずおれ、悲しみ苦しんでいるから、神は彼らを深くあわれまれたのです。
 アブラハムとの約束はもちろんありましたが、神様の動機は、彼らへの「深いあわれみ」です。
 神のあわれみによるイスラエルの救いの体験は、異邦人である私たちにも適用できます。

2.罪の奴隷への神のあわれみ    
A)罪の奴隷(ヨハネ8:34)
「イエスは彼らに応えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」

B)罪の奴隷から救い出された(ガラテヤ5:1)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

 イスラエルはエジプトでの奴隷状態から逃げられませんでした。能力はあっても利用されるだけで報いはありません。どんなに頑張っても奴隷以外のものにはなれませんでした。
 私たちも同じです。罪から逃れられず、罪の力に抵抗して正しいことをしようとしても長続きしません。所詮ムリ、こんなものとあきらめて流されて行くほかありません。
 しかし、私たちは真理を知りました。私たちは神のかたちにつくられたもので、罪の奴隷として創造されたのではありません。だから、元のあるべき姿に戻る希望をもってイエス・キリストを信じたのです。
 イスラエルがモーセによってエジプトから脱出し約束のカナンの地に向かったように、私たちもキリストを通して神の国の相続者として、あるべき道へと進んで行っている途上です。
 この時、私たちは、自分の罪を嘆き悲しみわめくということが大事です。イエス様に近づけば近づくほど沢山の罪が見えてくる、失望と絶望、迷いと不安に心の底からうめくのです。
 そういうところを通って、神の深いあわれみを体験して、「本当に神様はおられる、私たちは罪の奴隷状態から解放されているのだ、罪と向き合って戦うことができるんだ。」と知るのです。
 「自分にはサタン(罪)の鎖がついている。勝利するなんて、自制するなんて私にはできない。」などと思わないでください。それは、そう思わせているサタンの洗脳です。真理は違います。
 信じる者にはイエス様の代価の力が施行されます。神の奴隷としての権利が行使されます。信じないから行使できないのです。
 イエス様が、その尊い命の代価を払って私たちを買い取ってくださったのです。私たちの主人はイエス様なのです。信じ続けることが大事です。
 救われる資格も望みも何の良い所もないのに、神はただあわれみのゆえに恵みによって私たちの罪を贖ってくださいました。
 罪の奴隷であった私たちを、神様はご自分の義の奴隷へと買い取って、私たちに自由を与えてくださったのです。
 そのような体験をすると、私たちはもう、うめきわめかなくてもよくなるのです。

3.今、待ち望むことは?(テトス2:11−13)  
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

★「待ち望む」とは、一度あわれみを受けた者が神を信頼している心の現われのことである。
 ここでパウロは、キリスト・イエスの栄光ある現われを、うめきわめいて待て、とは書いていません。
 神は信じる者に無条件に救いを与えてくださったという、神の「あわれみ深さ」をあなたは知ったのだから、ただ信じて、待ち望むだけでいいんですよとパウロは教えています。
 聖書の教える「待ち望む」とは、神のあわれみを体験し、神を信頼する者に生まれる心の姿勢なのです。イスラエルは荒野の旅で何回もわめきました。
 神様は、民が水が苦いと言えば甘くし、水がないと言えば水を出し、パンが食べたいと言えば毎朝マナを降らせてくださいました。肉が食べたいといえば、ウズラが飛んで落ちてきました。
 何度もこの奇跡を体験しながら、それでもイスラエルはまだ、わめき続けて、「待ち望む」ことができなかったのです。なぜでしょうか。
それは、神様の深いあわれみを信じられなかったからです。信頼を持たなければ待ち望むことはできないのです。信じていないから、イライラするのです。
 十字架で罪の赦しを成し遂げて、「あわれみ深さ」を疑いなく信じることができるようにと歴史に神様が刻んでくださったのならば、私たちは待ち望むことができます。
 一度神様が約束を守られたなら、二度目の約束を守られないことがあるでしょうか。神様は100回約束されたなら100回必ず守られる方です。だから、キリストの再臨も、私たちはうめきわめかずに待ち望むことが出来るのです。そのような待ち望み方を、私たちはこれからしていくのです。
 ですからパウロは、救いのためにいけにえの肉体をもってこの地に来られたイエス様の初臨はすでに成就したのだから、次は二回目に来るという約束をしてくださったので、そのことを全ての教会に教えさとすのだと言ったのです。
 キリストの再臨を待ち望む方法は、「安心して」です。約束してくださった方は確かな方ですから、神様が約束してくださったのですから、「安心して」私たちは待ち望みます。
 たとえ私たちが生きている間に来られなくとも、キリストの再臨は必ずあるのです。地上で成就しなくても天で成就するのです。
 この世の時間だけに心を奪われず、永遠という時間を神の前に信じて待ち望むのです。
 私たちはイエス様が再びおいでになるのを期待して、みことばに励まされ、兄弟姉妹との交わりに励まされて、「あなたがたは、この世では苦しみがある。しかし勇敢でありなさい。私は世に勝ったのです」という力強い歩みを受けるために、教会に来ています。
 砕かれ救われた体験をした者は待ち望みます。「私が与える平安はこの世のものとは異なる」と言われたその平安を、神は体験させてくださったので今の自分がここにおり、キリストの再臨を待ち続けているわけです。
 「不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」とパウロが言うように、再臨の希望を持って、天国に続く道を外れずに歩んでいきましょう。
 キリスト・イエスの栄光の現われの時に、神は大いに報いてくださいます。「あきらめずに信じて待ち続けて良かったー!」と、必ずそう言える日が来るのです。

【俳句】

冬の朝 きょうから始まる アドベント

 私たちは主を待ち望むという喜びのゆえに、冬の朝の寒い中でも礼拝に行きます。主の到来を楽しみに、寒い冬でも心を奮い立たせて礼拝に行くという喜びの気持ちを詠んでみました。そういう期待感を持って、これからもご一緒に主の前に礼拝を捧げていきましょう。

 

 

 

 

 

■2018年11月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

豚魚之信(とんぎょのしん)  up 2018.11.25


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

すべての人に真面目で正直な心を行き渡らせることのできる、徳のある人のこと。または、そうした誠実な心のこと。
「豚魚」は豚と魚のことで、下賤な人のたとえ。
豚や魚にまで、真面目で正直な心を行き渡らせることが、信の心の究極であるとされている。

 私たちは尊敬すべき主なる神様に、喜んで自ら進んで従っていくものであります。そして愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさいということから、お手本であるイエス様から、主を敬い従う、その姿勢やお心を学ばせて頂いております。
 先週はイエス様の「白紙委任」という、父なる神様の愛を信じて全ておまかせするという完全な信頼の姿勢をポイントとして学びました。
 今日は(ルカ6:36)から、みならうべき二つ目のポイントを見ていきたいと思います。
 イエス様は父なる神様のあわれみ深さを見ならって、ご自分も地上において深いあわれみを現わされました。
 そういう点を私たちも見ならっていきましょうということで、ポイントは「豚魚の信」です。
 言うことをきかない愚かな豚や魚にまでも、真面目に正直に歩もうという気持ちを起こさせるような徳の高い人の心、「豚魚の信」、その真髄は「あわれみ深さ」であるということを、お伝え出来ればと願っています。

1.「あわれみ深い」の原語からの意味   
★ギリシャ語
 慈悲深い(情け)、あわれみ深いと訳される
 意味としては、「仲間」「友愛的な」「調和した」「ぴったりと合った」

 上から目線ではなく同等な心、争わず平和をもたらす優しい心、そしてピッタリとその思いによりそう心、と説明できると思います。

★友愛的慈悲深さのことで、兄弟への愛や友人に対する親愛の情をもっていつくしみ、あわれむ心をいう。 
 
 神は人となられて、この地上に救い主としてご自身を現わされて、その愛の深さ広さ高さをお示しくださり、いかに人をあわれんでくださっておられるかということを教え、証しされたのが、イエス・キリストです。
 ギリシャ語の意味も踏まえて、この「あわれみ」を私なりにまとめてみますと、「友愛的慈悲深さのことで、兄弟への愛や友人に対する親愛の情をもっていつくしみ、あわれむ心」と言えると思います。
 ただ、神様がここで語っておられる「あわれみ深さ」は、何も問題のない関係や状況の中で示される兄弟愛や友情とは少し違うようです。

2.「あわれみ深い」とは(ルカ6:35)    
「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」
(ルカ6:27−34を参照)
★自分の敵や恩知らずの悪人にも、あわれみ深い

★敵や恩知らずの悪人に対してでも有用で役に立つ存在としてあきらめずに兄弟愛や友愛的な心を示す

 (ルカ6:35)の更に前の27節から読んでみますと、イエス様は、「仲間同士で憐れみ合うことは何ら良い点も報いもありませんよ。あなたを嫌い、受け入れないような人に、兄弟や友人のように心を開いて接していき、そして助けを与えていくということがあってこそ本当のあわれみなのですよ。」と語られているようです。
 自分の敵や恩知らずの悪人にもあわれみ深いのが、神様のあわれみです。これは私たちには不可能に近いようなことですが、なぜ神様は私たちに勧めておられるのでしょうか。
 今は敵対しているような人も、将来は心開いて仲間になるかもしれません。彼らの将来が良いものに変わることを信じて期待する時、親切を施すことができると、イエス様は教えておられると思います。イエス様ご自身が、まず、そのようなご生涯を歩まれました。2000年前に十字架で身代わりの刑を受けて、罪の赦しを完成してくださいました。信じるか信じないかわからないのに、全世界の人々のために罰を受けて、永遠の滅びから永遠の御国を相続する神の子として救ってくださいました。信じない人もいるかもしれないのに、すべての人のためにそこまで犠牲を払われました。信じてくれると期待してあきらめずに、十字架でその苦しみを受け止められました。人々の心がよい方に変わってくれると、あきらめずにそういう心を持ち続けてくださる、神様の私たちへの「愛」。
 人々から嫌われている悪人のような人も、悔い改めて神を敬う者へと目が開かれることを、今も期待しておられる、神様の「あわれみ」。
 マタイの福音書には、神は善人にも悪人にも雨をふらせ、太陽を上らせ、どちらにも同じように恵みを与えてくださるお方だと表現されています。
 敵が味方に変わり、恩知らずの人も恩を感じ取って心に愛をあふれさせるようになり、悪人も善人に変わっていくように、そのことをあきらめずに、兄弟愛と友愛の心をもって接し親切をほどこしていく、これが神様のあわれみ深さであり、イエス様を通して私達に紹介してくださっているのです。
 今、私たちはその愛とあわれみを受けて、捨てられるべきところを拾い上げて頂き、今生かしていただいているクリスチャン生活です。では、あわれみ深い行動とは具体的にどんな行動かみてみましょう。

3.あわれみ深い行動(ルカ10:37)   
「彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」
(ルカ10:30−36も参照)
 「隣人を愛しなさい」と教えられたイエス様が、「隣人とは誰ですか。」という質問を受けて話された「良きサマリヤ人」のたとえ話です。
 強盗に襲われ半殺しにされて道端に倒れているユダヤ人のそばを通りかかったのが、ユダヤ人の模範ともなるべき祭司とレビ人でしたが、彼らは倒れている人を見て、反対側の道を通って去って行ってしまいました。
 次に旅の途中でそこに通りかかったのがサマリヤ人です。サマリヤ人は民族的な差別問題があり、ユダヤ人からは嫌われている人たちでした。しかし、嫌われているサマリヤ人は、嫌っているユダヤ人が倒れているのを見て深くあわれみ、近寄って傷に油を塗り、ロバに乗せて宿に運び、介抱し、次の朝宿泊代と食費の全費用を宿の主人に払って、不足分は帰りに寄って支払うからという約束までして、また旅に出て行きました。
 イエス様は「この3人の中で、誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と問われ、この37節に続くのです。「あわれみをかけた人が、隣人となった人です。」「あなたも行って同じようにしなさい。」と、イエス様はおっしゃいました。 祭司もレビ人も、サマリヤ人も、倒れている人を見たとき、あわれみの心と同時に、色々な複雑な他の感情が生じたことでしょう。様々な思いが湧く中で、祭司とレビ人は行動に移せませんでしたが、サマリヤ人は、あまりにもかわいそうという気持ちの方が強かったので、助けるという行動をとったのです。
 私たちも強いあわれみを感じたならば行動に移すことができます。相手の状態がいかに苦しく、死に直面した状態であるかということを感じたならば、敵も味方もなく助けたいと思うのが普通です。
 人の困難な状況を見て、あわれみの心を閉ざしてしまったなら、私たちの内に神の愛はないのです。

 もし、あなたに敵対する人がいたとしたら、どのようにして彼にあわれみを持つことが出来るでしょうか。敵であれ恩知らずであれ、あなたにとって害を与えるその人の心の内側や生きてきた過去に思いをはせてみましょう。敵ではないのに敵だと思い込むその人の心、恩を恩と感じられないその人の生まれ育った境遇、そこにあわれむべきものを見る時、仲間のように兄弟のように接して親切を施すことができるのではありませんか。その愛の心が人の歪んだ心を癒し、健全さに導くきっかけともなると思います。

★助けてやろうという深い思いやり、あわれみ、同情からの行動

★すべての人は神様からいのちを授かっているのだから、そのいのちを大切にあつかう行動をとること

★今は敵であり恩知らずの悪人であっても、将来は友人となり、善人となることを信じて親切をすること

 何度つっぱねられても親切を続けることを通して、信頼がそこに生まれてきます。あわれみをほどこしてくださる人の心を信じることができるように変えられていきます。そんな愛を注いでいくことがあわれみ深いことであると、聖書は教えていると思います。

【デボーションポイント】
祝福の言葉に祝福の行動が伴うなら、もっとあわれみの心は伝わりますね。祝福する行動としての親切を続けることが「豚魚の信」、あわれみ深さであることを覚えて一週間チャレンジしてみてください。
 
 ただし、祝福の行動(親切)を、行なわなければいけないと、義務感で受け止めないようにしましょう。愛が動機でない行いは実を結びません。
 天の父があわれみ深いように、私たちもあわれみ深くなることを願って、チャレンジして頂きたいと思います。

【俳句】

  巣の下を  毎日掃除す  去ぬツバメ 

 巣作りをし、卵を産み、子育てを終えて、そしてツバメは去っていきました。毎日巣を見上げ、ツバメの様子を見守りながら、巣の下を掃除していた私の思いが通じて、ツバメは来年もこの巣に帰ってきてくれるでしょうか・・・。
 
 動物にさえ誠実さが伝わるほどのあわれみ深さを身につけるように努めていただきたいという願いをもって詠んでみました。

 

 

 

 

 

■2018年11月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

白紙委任(はくしいにん)  up 2018.11.18


主題聖句(第1ペテロ2:23)
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 

 

 

『白紙委任』(はくしいにん)

 条件をつけず、すべてまかせること。

 前回お話いたしました「師資相承」は、「受け継ぐ」ということがポイントでした。神様に愛されている子どもらしく、神様のどういうところを見ならって受け継いでいきたいと思われたでしょうか。 
 
 今日、皆さんにお勧めしたいのは、主題聖句(第1ペテロ2:23)のみことばです。
 
 前半の「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」というのは、私たちにはかなり難しいことですね。私たちは反射的に、ののしり返したり、おどしたりしてしまうものですが、たとえそうであったとしても、「正しくさばかれる方におまかせになりました」というイエス様の心の姿勢、地上での歩み方、私たちはそれを見ならいたいと思うのです。

 今日のポイントは「白紙委任」です。「条件を付けず、すべてまかせる」ということを、私達は目指したいと思います。

 正しく裁かれる方に白紙委任することが、私たちの最善の方法であると、悟りを持っていただければ、人生がもっと思い煩いや悩みから解放されて、罪赦されている罪人としての幸せを、満喫することが出来ると思います。

1.白紙委任に至る(ヤコブ4:9−10)  
「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに代えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」

★主のみ前で「へりくだる」こと。
★ことわざ「まな板の鯉」となること       
 
 聖書の他の個所には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(第1テサロニケ5:16−18)とも書いてあります。
 この主題聖句(ヤコブ4:9)のみことばとずいぶん矛盾しているようですが、どういうことでしょうか。
 
 それは「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」という「深み」を悟るために、「苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。笑いを悲しみに、喜びを憂いに代えなさい。」と勧めておられるのです。
 「人が憂う」と書いて「優しい」と読みます。悲しみ、辛さを知っている人は優しいと、昔から言われてきた日本の社会道徳の良い教えが、今では真逆の価値になりました。
 苦しむことは損すること、悲しむことは不幸なこと、泣くことは惨めなこと。人生死んで終わりなんだから、楽しむだけ楽しんで、したいことを出来るだけして死んでいったらいいんじゃないかと言うのです。
 本当にそうなのでしょうか。そう言っている人が実際に死に直面したとき、死の恐怖は取り去られないという状況を見るのです。

 ホーリーバイブルチャーチの姉妹が先日、天に召されました。最後、緩和ケアの病棟に移られましたが、痛みを感じさせないモルヒネによって、ずっと意識がなく何の反応もないという状態でした。姉妹の生涯の最期、みもとに引き上げられることが神の御心であるならば、神の栄光を、そこにしるしを見させてくださいということで、私たちは、モルヒネの投与を止めていただきました。するとその日の晩から意識を回復されました。全く痛みはありません。そして最後の最後まで意識を持って家族や私たちと交わりをもって会話をし、天に送ることができました。
 神様は死の向こうに希望があるということを私たちに語ってくださっています。そのしるしとして、彼女は、死で終わる人生ではない永遠の希望をもって召されていったわけであります。
 心残りであった高齢のご両親のことは教会にゆだね、自分が死ぬか生きるかを神様の御手にゆだね、心を「まな板の鯉」のごとくに任せて、平安のうちに過ごされ、息を引き取られました。「白紙委任」されたのです。
 もがいても苦しんでも、どうにもならないことはいっぱいあります。もがき苦しんだ末に、「神に任せるしかない、神様に白紙委任することが一番幸せなのだ」ということを、私達は知るのです。悲しみ泣くことを通って初めて、神を信頼するに至るのです。

 自分が何者であるかという弱さを知った人は、このように神の前でへりくだることができるのです。
 あなたが悩み苦しみ悲しんで多くの涙を流した分、神様を信頼するという条件がそこに整って、すべて万物は神の御手の中にあって支えられ導かれているんだと、あなたが悟ること、それがへりくだりです。
 へりくだりとは人の前に謙遜であるというようなことではなく、万物の創始者であり完成者である神がおられることを認めることが本当のへりくだりなのです。
 このような神の前にへりくだった「白紙委任」という姿勢は、神への信仰を表しているのです。

2.神への信仰(ローマ12:19)    
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」
★最後には、神がすべてを正しくさばかれる(報いてくださる)という信頼を持つ。
 
 イエス様は何の罪も犯さなかったのに、罪人としてむちうたれ、唾を吐かれ、罵倒され、十字架で命を落とされました。そのとき何の言い訳もせず、正しく裁かれる方にご自分をお任せになったと記されています。
 一番正しいさばきは神にしかできないことを信じて、イエス様は罪人のために自分のいのちを代価として捧げるという、救世主としての任務を果たされました。
 神が永遠におけるただ一度の裁きをなされる、その永遠のさばきにゆだねられたのです。
 神様は一つずつの罪をその都度お裁きにならないで、なぜ、永遠の中でただ一度だけ裁かれるのでしょうか。
 一つは私たちにチャンスがあることです。心を入れ替える時間がある、あわれみを受けるという時間がそこに生れます。
 そして、もう一つは、一人の人生のすべてを総括的に見て公平にさばくことができるということです。
 「復讐する」という意味は、善を行なって苦しみを受ける人々のために、神が代わりに復讐(さばき)を行なわれるということです。
 なぜなら人が復讐すると、受けた傷より大きな傷を与えて、結局自分もその罪を裁かれるものになってしまいます。正しい復讐(さばき)は人間には絶対にできないのです。
 ですから私たちは自分で復讐(さばき)をせず、正しいさばきを行なわれる方がおられるという信仰をもって、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せする」のです。
 しんどいことです。そこに至る信仰のために、私たちは苦しみ悲しみ泣くのです。
 苦しんでも泣いてもどうにもならない時、人は神を恨むか、神を信じるか、傲慢か、へりくだりか、心の状態がそこに現れます。

3.信仰による白紙委任の態度     
A)第1ペテロ3:9
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

B)ローマ12:21
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」 では、神様のさばきを待つ間、私達はどのようにしてこの地上を過ごすのでしょうか?――「善をもって悪に打ち勝ちなさい」
 どうやってそんなことが出来るのですか?――「祝福を与えなさい」悪に唯一勝利できる方法は祝福をあたえることです。これ以上の勝利はありません。
 「祝福する」というのは、相手が将来良くなるように、未来に良い状況が起きるようにと祈り、良い方向に進むように助けを与えることです。その結果がどうであれ、悪をもって悪に報いないために、善(祝福)をもって悪に打ち勝つ、そのようにして私たちは神様のさばきを待ち望むのです。

 イエス様は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しく裁かれる方にお任せになり、十字架上で彼らのために祈り祝福されました。「父よ、彼らは何をしているのかわからずにいるのです。どうぞ、赦してあげてください。」
  最後のこの善なる言葉により、人生の最後まで罪を犯さなかったイエス様を、神は義人としてよみがえらされました。
 この復活によって、イエス様が私たちの罪を贖う「罪なき救い主」であることが証明されました。「私たちの義となられた」とも書いてあります。このように、最後には神様は私たちを祝福し引き上げて下さるのです。
 
 みなさん、創世記のヨセフの人生を読み直してみてください。兄弟に殺意を持たれ、売られていったエジプトでは冤罪で牢獄生活です。しかし恨みも復讐心も捨てて、正しく裁かれる神様に任せ、最後にはエジプトの王様に次ぐ地位にまで引き上げられました。
 ヨブの人生も同じです。力を尽くして正しく生きてきたのに、財産も家族も健康さえも一切合切を失った挙句に、残った妻からは「神を呪って死になさい」と言われる始末です。しかし、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言って、ヨブは罪を犯しませんでした。最後には、神への信仰が更にレベルアップされ、二倍の祝福を与えられました。
 
 私たちはいかがでしょうか。悪いことが起こると神様に対して不信仰を持ってしまいます。しかし、その時の不信仰の葛藤と悲しみ、辛さ、苦しみは、後の「白紙委任」という神への信仰に至る苦しみなのです。
 不信仰に陥るほどの辛い状況を受けとめる中で、「神は良き方、必ず正しく報いてくださるに違いない」と、最後に心に平安を持つのです。そして神を畏れて、「悪をもって悪に報いず、善(祝福)をもって悪に打ち勝ち続ける」ということに、私たちの歩みが向くようにと、神様は聖書を通して私たちに示しておられると思います。

【俳句】      
嫌われる  渋みが変わる  吊るし柿

 渋柿は渋味のゆえに嫌われますが、皮をむかれ、縄につるされ、寒さの中に放っておかれ、吊るされるままに身を任せていれば、いつしか天日が渋みを甘みへと変えてくれます。
 私たちの罪の性質も嫌われるものですが、神様に信頼してゆだねていると、神の子として良いものに神様が代えてくださいます。
 吊るし柿の中に、私たちの「白紙委任」の姿勢を見ることができますね。

 

 

 

 

 

■2018年11月11日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

師資相承(ししそうしょう)  up 2018.11.11


主題聖句(エペソ5:1)
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

 

 

 

【師資相承】
武芸や学問などの教えを師から弟子へと受け継ぐこと。または、受け継いでいくこと。

【辻 和希伝道師メッセージ】
1.第1コリント11:1
「わたしがキリストにならうように、あなた方もわたしにならうものになってください。」

 今週は、神にならう者として歩んでいくことがテーマとなります。神にならうとは、神様を模範とすることです。どのようなところを模範としていくのでしょうか。
・神様にどんなことをしてもらったかを考える
 エペソ5:1は、「ですから」と前節から続いています。前節のエペソ4:32にはこう書いてあります。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、〜」。私たちが神様にして頂いたことの中で、最も大きいものの一つに挙げられるのが、赦しです。
 赦しの神様にならうべき点は、私たちも隣人を赦すということです。赦しの他にも、愛してくださった、信じてくださった、忍耐してくださった、支えてくださった、といったことが挙げられるでしょう。
 私たちはこれだけ多くのことを神様から受けました。ですから、神様にならって、周りに同じようにしていきましょう。

・神様にどれだけ近いか者であるか
 エペソ5:1には、「愛されている子どもらしく」とあります。神様は私たちを愛する子として見てくださっています。子は親を真似ます。私も自分の子が自分のしぐさを真似たり、しゃべり方を真似たりしていることを見ます。なぜ真似るのでしょう。それは、距離的にも関係的に近い存在であるからです。親子という特別な関係だからこそ、自然と子は親を真似るのだと思います。私たちも、神の子として、父なる神様に似た存在となりたいですね。

・私たちにとって、神様はあこがれの存在であるか
 親子であっても、子が親に尊敬やあこがれがなければ、模範とすることはしないでしょう。私たちは神様をどのように描いているでしょうか。遠い存在でしょうか。恐い存在でしょうか。私たちの神様の描き方、捉え方が、神にならう者になっていくにあたって大きく左右します。

 私たちの信じる神様は、「あわれみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、咎とそむきと罪を赦す方であり、罰すべきことは罰す方」(出エジプト3:34)です。父なる神様にならう者となれるように、一歩踏み出す一週間としていきましょう。

【横路伝道師メッセージ】
2.第1ペテロ2:21
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」

 始めに、第1ペテロ2:19〜23までお読みしましょう。
(2:19)人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
(2:20)罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
(2:21)あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
(2:22)キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
(2:23)ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 ( 2:21)の前後のみことばの中で、キリストのどのような模範を見ならうべきかが書かれています。 
 まず、19〜20節では、不当な苦しみを受けながらも神の前における良心のゆえに耐え忍ぶとあります。イエス様は、正しいことをされたのに中傷され、最後には十字架にかけられました。不当な苦しみです。正しいことをしているのに、不当な苦しみにあった経験が皆さまもおありだと思います。その時の対応を、イエス様の模範に見習うようにここで勧められています。
 不当な苦しみを受けた時、私たちは、「自分は悪くない。相手が悪い。原因は人にある。」と思ってしまいます。不当な苦しみを受けてしまうと、傷ついてしまいます。しかし、傷ついたから赦せないとか、恨んだり憎んだりすることは自分に害を及ぼし、それが復讐心となるなら、相手にも害を及ぼす原因となってしまいます。しかし、すべてのことは神様がご計画されたうちに運ばれていることであって、それは最終的には益となるということを私たちは教えられています。今苦しいことも、悪く思えることも、最終的には益となるのです。そこに至るには、イエス様の模範があるからだと思います。
 イエス様は、父なる神様を深く信頼しておられました。父なる神様は、決して悪いようにはされません。これらの出来事は不当に見えるけれど、神様はこれをプラスに変えてくださる信じ、神様は公平な方であるので、もし本当に相手が悪いのであれば、相手をさばいてくださるのは神様であって、私がさばいてはいけないということを、私たちクリスチャンも心得ているべきです。これが、神の前における良心において苦しみを耐えるということではないかと思います。
 イエス様は殺されるという時にも、自分は悪くないと主張したり、逃げたりされることはありませんでした。しっかりと受け取られました。これは神様に対する信頼があったからです。それがあったからこそ、信じるすべての者がイエス・キリストの十字架によって救われるというすごいことが起こったのです。私たちも、不当な苦しみに耐えるなら、それによってすごいことが私たちの生涯の中で起こるかもしれません。
 では、どうしたら不当な苦しみに耐えることができるのでしょうか。まず、この出来事には、神様のご計画があるから神様にお任せするということが大切です。具体的には、それを信じて何をしたらいいのでしょうか。どうしても、辛い時、苦しい時に、怒りが引き出されてしまいます。その時に必要なのは、イエス様の模範にならうという決心です。
 今、「酢」が健康にいいと言われています。クリスチャンにとって、必要な「す」が二つあります。それは、「赦す」と「愛す」です。苦しみにあった時に、この二つを思い出してください。また、今、缶詰がはやっているそうです。クリスチャンに必要な缶詰は、「さばかん」です。また、食べ物ではありませんが、「つぶやかん」ということが大事です。また、冬になると中華まんが売り出されますね。クリスチャンには、「にくまん」が一番いいですね。私たちは、不当な苦しみを受けた時、イエス様の模範にならい、これらのことを具体的にしていきましょう。 
 「ののしられてもののりしかえさず、苦しめられてもおどすことをせず」というイエス様の姿勢は本当に素晴らしいです。私たちはどうしても、やられたらやり返したいと思ってしまいます。しかし、イエス様にならうものとなりましょう。イエス様は、ののしられても、ののしり返されませんでした。私たちもそのようにするようにと招いてくださっているのです。

● キリストは、私たちが見ならうことができるように模範を残された。
● 隣人のために苦しみを受けることを見ならう。 

 また、イエス様は神様に喜ばれることをされたのに苦しめられました。私たちも、誰かを助けたのにひどい目にあったりすることがあります。そのような時も、憎まない、恨まない、赦すということをしていきましょう。
 私たちが隣人にしてあげられる一番の愛の行いとは何でしょう。それは、福音を伝えることです。「イエス様があなたの救い主ですよ。」と伝えることが、どんな物をプレゼントするよりも素晴らしいことです。福音を伝えて迫害されても、それを耐え忍ぶなら神に喜ばれることであると聖書にあります。最近苦しみにあっていないなと思うなら、もしかしたら福音を伝えることをしていないのかもしれません。クリスマスが近づいています。この機会に人々を誘い、福音を伝えましょう。困難があっても、それはとても神様に喜ばれることだと思います。そのために苦しみを受けることを恐れずに、イエス様の模範にならって、神様に喜ばれる者となりましょう。

【デボーションポイント】
救われて神の国の相続者となった以上、「師資相承」は避けられない。

 

 

 

 

 

■2018年11月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

草偃風従(そうえんふうじゅう)  up 2018.11.4


主題聖句(第1ヨハネ2:6)
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 

 

 神の愛のうちに自分自身を保つということを、ここしばらく話してきています。
 今日の主題聖句には「歩まなければなりません。」という表現がされていますが、もちろん強制ではありません。人は強いられたように感じると、心が固くなってしまうものです。しかし、今日は「 草偃風従」から、この意味を正しく理解していただきたいと思います。

【草偃風従】(そうえんふうじゅう)
天子が有徳ならば、民は自然に教化を受けて、それに従うようになるということ。風が吹くと草がなびくように、君主が徳によって政治を行えば、民は自然とそちらのほうになびくという意味。
 
 イエス様はどのような高徳をもって治めてくださっているのでしょうか。それが分かると、自発的にイエス様に従いたい、喜んでいただきたいと願うようになるはずです。その気持は自分の本心から出るものであり、上からの押しつけでは決してないはずです。
 ヨハネは神の愛を知り、その愛に自ら応えたいと願い、その覚悟のほどを共感してもらえるはずとこの手紙に記しました。
 神を信じておりその愛を知っているなら、自分勝手な判断で歩むのではなく、キリストが歩まれたように歩むはずだとヨハネは言っています。その心構えで、今週歩んでいきましょう。

1.私たちは神の民(第1ペテロ2:10)
「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 天地を造られた神は、統治し治められる方です。それゆえ全宇宙は調和があり、人には考えられないような不思議な自然現象が見られます。
 例えば円周率は決して割り切れません。人には無限に割り切れないような数でもって神は創造の不思議さを示しておられます。このような無限に割り切れない数字を、なぜ神は出しておられるのでしょう。
 例えば、コンピューターで小数点以下二億ほどの数字を出したとします。それは宇宙の動きを測るのにそれぐらいの細かい単位を出すことで、それぞれの星の動きや位置を確認できるということです。割り切れる数字であったら他の天体との関係が正確には測れず、割り切れない数字ゆえに他の天体との位置関係が測れるという不思議な法則があるようです。
 このような自然界に表わされた偉大な神の知恵、統治と権威を考えると心が踊るような興奮を感じます。
 創造主である偉大な神が君主として、私たちを治めてくださっています。しかも、天地の創造主なる神の方から、私たちを選んでくださいました。私たちを治めてくださっている方は主イエス・キリストです。この方はどのような徳をもっておられるのでしょうか。 

2.最高の高徳を(ヨハネ15:13)
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
 最高のお方である神が「愛」なのですから、最も偉大なのは、「愛」です。そして友のためにいのちを捨てる「愛」が最も大きな「愛」です。
 自分のいのちをもって友を生かす自己犠牲ですが、このいのちを捨てるということが逆にいのちを得ることであると聖書は言っています。自分のいのちを友のために犠牲にすることが、最も輝いたいのちの現れであるということです。
 私たちも少しでも愛の犠牲を隣人のためにすることで、本当のいのちの輝きを表すことができます。一般でも、ボランティア活動などがあります。(ただ、余りに災害が頻繁なので、最近はボランティアの方々も疲れてきているようです。)
 友のためにいのちを捨てるという最高の愛を目指して、今私たちは歩んでいる途上にあります。このような最高の愛をイエス様は十字架で表してくださいました。

3.最高の愛を表わされた君主キリスト
A)友と呼んでくださる君主(ヨハネ15:15)
「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
 
 すべてのことを打ち明けるというのは本当に親しい人にしかしません。イエス様は父から聞いたことを、すべて語ってくださいました。 告白されるということは、働きの違いはあっても王は民を本当に信頼しており、友と呼ぶほどに親しい関係を心に描いておられるということです。
 今現在神は聖書を通し、父なる神の奥義というものを世界のすべての人々に啓示しておられます。この66巻の聖書の中に神の御心が示されているのです。
 あと、一割足らず翻訳されていない言語があるそうですが、ほとんどの国のことばで聖書は翻訳されています。
 そして数十年の間にすべての言語で聖書は翻訳される見通しです。
神はこのようにして、私たちをしもべとは呼ばず、友と呼ぶほどに親しい関係に見てくださっています。
 決して神は私たちを見下さず、平等に扱ってくださっているのです。目上のイエス様の方から親しく語りかけてくださいます。神は霊ですから、私たちも御霊によってイエス様のみことばを受け取ることができます。

B)君主が明らかにされた愛(ローマ5:8)
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」

 一番の大きな罪は神への背信であり、神に対して背を向けてしまうことです。神を認めずおろそかにすることです。
 しかし、神は罪人を友として、この神への背信の罪の贖いのために、イエス様は十字架にかかられ、ご自身のいのちの犠牲を通して私たちへの愛を表してくださいました。この十字架の死は歴史の上に表わされた史実であり、証明された事実です。
 友の罪を取り除くためにご自分のいのちを捨てられ、愛を明らかにしてくださいました。この大きな愛を私たちはどのように受け止めるのでしょうか。
 皆さんはこの愛を受け止めて、その愛に応えてここに集われています。まだ罪人であった時でさえ、このように愛を示してくださったのですから、信仰をもってからも何度もつまずいたり、不信仰に陥ってしまうことがあっても、どうして神の愛が私たちから離れ去ることがあるでしょうか。
 一時的な不信仰に陥ってしまう時でも、神はあなたを愛し続けてくださるのですから、しっかりと立ち返って、しもべとしてではなく友として、さらにイエス様を知ることができるように神に近づいて信頼していこうではありませんか。

【デボーションポイント】
 君主イエス様が、最も大切な戒めとされていることを守るようにつとめましょう。
 「わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい」が最も大切な戒めです。これも「草偃風従」です。
 友だからいのちを捨ててくださったという愛がはっきりとわかってくるほどに、私たちも友のために自分のいのちを捨ててイエス様に従いたいという気持ちが湧いてくるようになります。
 無理やり愛することはできません。愛は自然に湧き上がってくる自発的なものです。
 ただ普段感情で感じる愛は自分の主観的な判断によって生まれていることが多いものです。相手の外見によって惹かれたり…イエス様はそのような愛を求めてはおられません。私のためにいのちを捨ててくださった、この方についていこうという意志的な決意のある愛を求めておられます。
 結婚式で誓う愛と似ています。伴侶を一生愛し続けていこうという意志的に強い決心をする愛です。
 この愛をもってイエス様に従い、兄弟姉妹を心から受け入れ愛していきましょう。イエス様の愛がわかってくるほど 草偃風従になっていきます。
【俳句】
紅葉が 山のふもとに 秋深し

 寒さは山の上から始まります。上の方から紅葉がふもとまで降りてきます。ふもとにきてやっと秋の深まりを感じます。
 私たちもイエス様が愛してくださったので、兄弟姉妹を愛するようになってきます。